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思考の最適度

 ( 哲学掲示板 )
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マジカルモンキー ★Pq6LyZ6qjC_KMC

人は考える生き物です。

思ったり、考えたりするにもいろいろ『 仕方 』がある。

世の中、広く浅く考える人もいれば、狭く深く考える人もいる。

また、自分に興味のある場所、自分に全く興味のない場所を考える人もいる。

では、思い方や考え方の理想型はどのようなものなのか?

ちなみに俺は、この答えを出していない。

さらに、この瞬間、このスレッド、狭く深く考えている事をお忘れなく。



予備知識ね。

自分はIQテストを受けたから、答えられるが、

まず、世界の平均値はIQ100です。

日本人の平均値はIQ110です。

そして、このテストは悪人に通用しないと思われる。

言語テスト(耳・聴覚)と絵柄テスト(目・視覚)、心と脳の基本的な構造を調べられる。

ちなみに私は健常者とアスペの間ぐらいの結果で、社会人をやっているので、健常者と言える結果です。

3年前 No.0
メモ2017/03/19 18:19 : マジカルモンキー★SxKM1tJ4Xs_mwG


≫0はもう無視してくれ。


『 考える人間 』『 考えない人間 』がテーマ


なお、【 下らない思考 】をしても良い。

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ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_bQp

空の光さん

自分は官能も、官能的な生き方も否定しません。
「倫理に背かなければ官能的な生き方は出来ない」という思い込みが「官能的な生き方しか出来ない絶望」、
「官能に背かなければ倫理的な生き方は出来ない」という思い込みが「倫理的な生き方しか出来ない絶望」と言えます。
つまり絶望とは、「どちらかを諦めなければどちらかを得ることが出来ない」という思い込みなのです。
なんでも決めつけないことが大切ということです。

人間が悪を行う時、その根底にあるのは絶望、つまり思い込みです。
キェルケゴールはその絶望を「病」と呼びました。
キェルケゴールに言わせれば、絶望に基づいてその悪を行う者は「悪人」なのではなく「病人」なのですね。
病人に必要なのは、非難ではなく労わりです。

官能的な生き方と倫理的な生き方、その両立を可能とする、官能と倫理の矛盾を超越した生き方、
その救済的な生き方が「信仰的な生き方」と言えます。
ジンテーゼとしての生き方とも言えます。


多かれ少なかれ、自分たちは絶望を、つまり病を抱えていると言えます。
同じ病人なら、労わり会いたいものですね。


空の光さんは直感と感性から答えを導き出しているだと思いますが、
自分は直感と理性から答えを導き出しているのですね。

理性が作り出したもの、つまり人工の芸術は神が人の手を通して生み出したもの…
確かにそうだと思います。
自分の理想は、自然物と人工物の調和にあります。
青空や夕焼け空に映える鉄塔を思い浮かべてもらうとわかりやすいかもしれません。


「自分だけが感じている」という孤独もあれば、「自分だけが考えている」という孤独もあります。
どちらも孤独なのは一緒ですね。
それなら、その孤独を埋め合うことも出来るのではないかと思います。


「自分には出来そうにない…」
そんなことは言わないで欲しいです。
哲学は、とても楽しいものです。その楽しさを分かち合えたらと思います。

2ヶ月前 No.245

空の光 ★ACLOxX4HYZ_m9i

ライチさん

>キェルケゴールに言わせれば、絶望に基づいてその悪を行う者は「悪人」な
>のではなく「病人」なのですね。

罪は霊の曇りを呼び曇りは血液の濁りを呼ぶ。血液の濁りは病気かな?

官能的な生き方、倫理的な生き方・・・その救済的な生き方=信仰的な生き方。信仰的な生き方は、理性的な生き方と経験的な生き方からもあり?
色んな生き方を総合したもの。それが信仰的な生き方。
それは、人が神を語る最初で最後な生き方かな?

>青空や夕焼け空に映える鉄塔を思い浮かべてもらうとわかりやすいかもしれ
>ません。

そうですね。例えば自然の中に一軒家がある。そんな風景もあるかな。
自然の中の俗っぽさ。そこも何か自然の清浄さを読み取れるかな?

> 「自分には出来そうにない…」
>そんなことは言わないで欲しいです。
>哲学は、とても楽しいものです。その楽しさを分かち合えたらと思います。

うんうん、楽しむのは良いんだけど。いざ、生活の中に生かすと言われると。まだまだ、「ソフィーの世界」を読み足りないかな。

2ヶ月前 No.246

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_bQp

空の光さん

背反、対立するあらゆるものと調和する生き方、それが信仰的な生き方だと思います。
卑俗なものと高尚なもの、親しみやすいものと親しみにくいもの…
調和によって、卑俗なものの中に親しみやすさを、親しみにくさの中に高尚さを見出すことが出来るのだと思います。
あるいは、それを見出すことが調和へと繋がるとも言えますね。
信仰的な生き方は、否定や排斥を生むものではないですから。

自然の中にある一軒家…
自分はセザンヌの絵が好きでした。彼の絵からは温かみを感じます。


「ソフィーの世界」は良い本だと思います。
いまちょっと前書きを読み直してみたのですが、そこにも重要なことが書かれていました。


『「世界とは何か?」「人間とは何か?」「私は何者か?」「行きていくうえでもっとも重要で価値あるものは何か?」
このような問いに対して、ただひとりで考えこんでいるべきではありません。
周囲の多くの人々と話し合うことが大事です。
いつもどおりの生活をただ、淡々と送るべきではないのです。』

『悲観しすぎるのも、何も考えない楽観主義も世界を前進させることはありません。
けれども、悲観と楽観のあいだにはいつも三番目の範疇があります。
それは「希望」です。
希望はよりよい方向に進むための行動と努力を生み出すのです。』

悲観(諦観)と楽観のあいだにあるもの、それは直観です。
希望、それは究極的には神と言えるのだと思います。
直観は、直接神を見ることかもしれませんね。

2ヶ月前 No.247

空の光 ★ACLOxX4HYZ_m9i

ライチさん

『「世界とは何か?」「人間とは何か?」「私は何者か?」「行きていくうえでもっとも重要で価値あるものは何か?」
このような問いに対して、ただひとりで考えこんでいるべきではありません。
周囲の多くの人々と話し合うことが大事です。
いつもどおりの生活をただ、淡々と送るべきではないのです。』

んんーここでも話し合いが出来たらなって事ですね?
本の前書きは「自分で見て終わり」な事は多かった。

【あなたはだれ?】
「自分は自分だよね」
【あの世では神の子】
「神の付けて下さった名前は何だろう?」
「【メシア】は人と神の間に立ったのだろうか?」


【世界はどこからきた?】
「世界は自分の中の中心から」
「その中心はあの世の中心から来てる」
【つまり世界は,目に見えない世界に合る】


直感の位置づけですか・・・考えた事なかったな。
直感は神を直接見るですか?
神は存在の後を残す。しかも、あちこちに。でも人は気付けない。
これが足跡だよって聞いた事がないから。
自分は聞いた事がある。そして実際に見た。

2ヶ月前 No.248

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_bQp

空の光さん

>んんーここでも話し合いが出来たらなって事ですね?

そうですね。色んな方の考えを知りたいですし、自分も自分の考えを示したいです。

>「自分は自分だよね」

まさにそうだと思います。自信を回復させる言葉ですね。
人は時に、自分を見失ってしまいがちなものです。
それは自信を失っている状態とも言えそうです。
自信を持つことは、それが慢心に繋がらない限り善いことだと思います。


神と人の橋渡しをする存在、キリスト教的には仲介者や使者と呼ばれるものですね。

「自分は神につかわされた人間だと言い切るのには、
非常に勇気がいる。
知っているだろうが、
世界はほかのことなら何でも受け入れても、
神につかわされた人間は受け入れたがらない。」


人間の心が何処に繋がっているか…これは非常に重要なテーマだと思います。
それは「あの世」なのか、それは神なのか、それは意志なのか、それは集合的無意識なのか…


直感と直観の違いを説明しておくと、
直感はインスピレーションのことで、
直観、楽観、諦観は物事の見方のことです。


神の足跡を見たというお話は興味深いです。
それはどういったものなのでしょうか。

2ヶ月前 No.249

空の光 ★ACLOxX4HYZ_m9i

ライチさん

人は何とつながっているか?
魂レベルでは・・・
自分を守る神、祖霊と繋がってる・・・かな?
なぜか心に起きる負の思い。。。それは悪とも繋がってるかな。
なぜ悪が・・・欲が絡んでいるのかも知れない?
欲がなければ進歩もない。でも、最後の思いは善が勝つ。

霊のレベルのつながりは?
夫婦、親子、兄弟、叔父叔母、甥姪、いとこ、友人、知己
社会では、社長、市区町村の長、都道府県の長、
国では、総理大臣、大統領、国王。手脳
学校では,先生、クラスメイト、先輩。後輩、教頭、校長。。。など。

神の足跡・・・とは何か?それは神が祖霊を通して。人を使われる。
絵描きなら。描く時の直感。ミュージシャンなら,作詩、作曲の直感。
俳人、詩人、歌人ならテーマに沿った言葉選びの直感。
生活の中での料理の直感。掃除の直感、会話の直感、勉学の直感。
自分は俳句や川柳、詩などを残してます。

神の足跡・・・奇跡とも言うものですね。
例えば手をかざす事・・・浄霊。魂を無色透明化する。
その足跡として。幸福が一歩ずつ近づいてくる事。
幸福とは真善美の世界。
病気、貧乏、争いの世界から、健康、富、和みの世界へかな。

実際に見たのは,手をケガして,血が流れだした。
それを手をかざすと見る間に止まったところかな。
見る間にかさぶたと化してた。
手をかざした方も受けた方もびっくり。

2ヶ月前 No.250

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_bQp

空の光さん

負の感情がなぜ湧くのかというのも興味深いテーマです。
人間の価値観がそこには大きく関わっていると思います。
その人の価値観が正義を作り、悪を作りますから。
自分の価値観が絶対だと思うと、相手の価値観を尊重するのはなかなか難しいものです。


神が祖霊を通して人を動かす、ですか。
「神から直接」ではないのは、人が神とあまりにも遠いからでしょうか。

魂を綺麗にする…
美しい景色を見たり美しい音楽を聞いたりすると心が洗われる心地がしますが、
手かざしにもそういった感覚があるのでしょうか。

手かざしによる治療…
そうしたものが実際にあるのならそれは奇跡という他ないですが…

2ヶ月前 No.251

空の光 ★8kN79oT90P_m9i

ライチさん

>負の感情がなぜ湧くのか・・・
人は生まれる前、霊界で神の世にいた時、神の善と悪を感じ取ってきた?
だから、その時と同じとうに善悪を感じ取るようになったかな。
でも、神じゃないから真の正義を思い出せない。
そこで、宗教を神の御手によって作られた。正義を生み出すために・・・
でも、人は自分の正義を作ってきたので,神の正義を受け取れなかった?
だから、まちまちの善悪が出来てしまった。

先祖と子孫は共に御用をする。という盟約があるらしいです。

魂を綺麗にする
確かに手をかざす事も魂が綺麗になる事です。
病、ケガ、貧乏、争いが手をかざす事で、健康、綺麗な身体、富、和みになっていく。
簡単に言えば不幸が幸福になる。

手をかざすのは、治療するものと思われやすい。
でも、それは不幸が幸福になる過程で現れる現象で目的ではない。
魂の曇りがなくなる。それが目に見える形になると言う事。
不幸が幸福になるのも一つの現象である。

2ヶ月前 No.252

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

この議論のテーマはまとめれば「完全な(理想的な)思考(の仕方)とは何か?になると思います。当然、「思考」の定義が必要です。それはそれで難しいでしょう。岩波の哲学小辞典では「広い意味では人間の知的作用を総括していう語であるが、通常は感性の作用と区別され、概念、判断、推理の作用をいう。」(89ページ)です。カントの認識論では悟性と理性は区別され、前者は判断の能力、後者は推論の能力としています。思考と認識は区別されます。認識には感性的素材が必要で、その所与にカントなら悟性でカテゴリー(範疇)、概念を適用して思考し、初めて認識が成立します。いかがですか?

2ヶ月前 No.253

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

空の光さん

すべての心が繋がっているならば、心を綺麗にすることは、血液の通りを良くすることに似ている気がします。
血液の循環が滞ると体調が悪くなるように、気持ちの循環が滞ると心の健康も失われていくように思います。
全てと心を通じ合わせること、それは神と心を通じ合わせるということと言えるかもしれません。
もしそれが出来たら、それはとても素晴らしいことだと思います。


安齋昌宏さん

>この議論のテーマはまとめれば「完全な(理想的な)思考(の仕方)とは何か?になると思います。

そうですね。
理想的な思考、つまり「理想的な考え方」がこのスレッドのテーマですが、
どんな考え方であってもなんらかの「考え」を土台としていますので、
「考え方」だけでなく土台としての「考え」も議論の対象になってくるかと思います。
というのも、土台となる考え、つまり前提が間違っているのならば、それを土台とする考え方によって導かれる結果も
おのずと間違ったものになってしまいますから。

カントは人間の目指すものとして「道徳的自由」、つまり無限の善の追求を掲げましたが、
「実践理性の要請」という形でその土台を定義しています。

前提=考え方の土台となる考え
思考=前提に沿った考え方、道筋
ですね

カントの主張としては「人間の認識には限界があり、それはカテゴリーに従う」というのがありますが、
そのカントのカテゴリーに関しては綿密な研究をしていないので自分はなんとも言えないです。

カントやヘーゲルの哲学を使って思考について議論するのも楽しいかもしれませんね。


余談
カントの言葉を借りれば、「神」という概念は総合的判断の極致のものであるという気がします。
ヘーゲルの言葉で言うなら、弁証法的昇華の極致と言えますね。
その極致の概念は、「全て」ということになります。

神=全て
とするならば
一人が神のためにすること=一人が全てのためにすること
神が一人のためにすること=全てが一人のためにすること
と言い換えることが出来ます。
ONE FOR ALL , ALL FOR ONE ですね。

2ヶ月前 No.254

地下水 ★KATHFaYqOw_n3h

 今日は久しぶりに御聖堂へ行って聖歌を歌ってきました。主よ憐み給え。神の子羊。主に任せよ汝が身を。世を去る友をば省み給え、死こそは神への門出なりせば。
 最後のは悲しくて、ところどころで詰まりましたね。今から思うと、主よ御もとに近づかん、を謳った方が悲しくならなくて良かった様です。

2ヶ月前 No.255

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

ライチさん。余談についてはともかく、他の部分は私もそう思います。あなたは「思考」の完全性の基準は何だと思いますか?

2ヶ月前 No.256

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

地下水さん
賛美歌というと「天使にラブソングを」という映画を思い出します。
そうした祈りの場には、神が住まうと聞きます。
それでなくとも、教会音楽には心が洗われますね。

安齋昌宏さん
思考の完全性の基準は、自分は喜び、幸福だと思います。
そう考えることによって、喜びや幸福が生まれるのであれば、それは良い考え方であると思います。
ですので、完全な思考というのは、全面的な喜び、幸福を生む考え方であると言えますね。

人は多くの部分で、自分を苦しめ、不幸にするような考えに囚われているような気がします。
そうすることによって、まるで自分が罪人でもあるかのように、自分自身を罰しているのです。
それはとても苦しくて、それでも自分で自分を許すことができないから、誰かの許しを、神の許しを乞うのですね。

完全な許しは完全な自由を生みます。完全な自由は喜びです。
完全な許しを与えてくれる存在を信じること、これが完全な考え方の土台となる考えであると思います。

2ヶ月前 No.257

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

思考の完全性の基準は「喜び、幸福」だということですね。残念ですが、不完全な思考でも「喜び、幸福」を生むことはありえませんか?

2ヶ月前 No.258

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

安齋昌宏さん
自分が言いたいのは、その考え方によって生まれる喜びや幸福が大きくなればなるほど、完全な思考に近くなるということですね。
逆に言えば、完全な思考に近づけば近づくほど、それによって生まれる喜びや幸福も大きくなるということです。
その意味で、思考の完全性の基準は「喜び、幸福」ということです。

おそらく、神にでもならない限り、本当に完全な思考というものは手に入らないと思います。
ただ、それに近づくことは出来ると思っていますし、それが人間の成長であると思います。

2ヶ月前 No.259

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

それならばわかります。ただ思考に関しては「真偽」が普通問題になります。真なる思考の基準です。例えば矛盾がないとか。真なる思考の追求から「論理学」が生まれたのだと思います。思考はロゴスの働きでしょう。ロゴスは多義的な言葉ですが、最大公約数的には「区別する。分かつ。」でしょう。カテゴリーも根本的に分類するものですね。悟性はカテゴリーを用いて判断します。判断はドイツ語で「Urteil」ですから、まさに「根源分割」です。
 理性も「原理の能力」として「原理」に従って、推論をしていく能力です。原理によって区別します。そうなると完全な思考とは何を意味することになるでしょうか?この観点からはどうですか?

2ヶ月前 No.260

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

安齋昌宏さん

それでしたらまず真偽の基準を定義しましょう。
真偽というものには、「論理的に真である」というものと、「経験的に真である」というものがあると考えます。


論理的な推論自体に間違いがなくても、前提が間違っていれば結果もまた間違ったものとなります。
例えば、
【大前提】:全ての人間は死なない。
【小前提】:ソクラテスは人間である。
【結論】:ゆえにソクラテスは死なない。

これは論理的には真ですが、そもそも前提が経験に反しているので結果も間違ったものになっています。
それは完全な思考とは到底言い難いものであることは明らかですね。
ですので、完全な思考は前提の真偽と、推論の真偽が問われることになります。

経験を無視した前提の定義は断言論に陥ります。
また、推論自体が論理に反していればそれは矛盾に陥ります。


そのため、完全な思考のためには次のことが問題となります。
1. 前提が自身の経験に反しないこと。
2. 推論(過程)が論理に反しないこと。

完全な思考は、経験的観点と論理的観点、つまり前提が真であることと推論が真であること、
この二つの条件を満たす必要があると考えます。

2ヶ月前 No.261

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

私もそう思います。賛成します。

2ヶ月前 No.262

空の光 ★xwYjME1Ktg_m9i

ライチさん

そうですね。神様の心(霊)と心が循環して心は綺麗(純粋)さ持てる。
ライチさんの心も神様とつながりを得た。
だからこんな答えが出せたのかもしれませんね。
学びを得た気がします。ありがとうございます。

2ヶ月前 No.263

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

空の光さん

自分はそんなに立派な人間ではないです。
正直、驚かされたのは自分の方でした。
というのも、こんなに信仰が深くて、真理を直感的に把握できる人がいるとは思っていなかったからです。
真実に対する感性といえばいいのでしょうか。真実を求める気持ちが強いのですね。
話を聞けば聞くほど、いよいよそれがはっきりとわかります。

空の光さんがひたむきに心の綺麗さを求めるのは、きっと一番大事なものを知っているからだと思います。
自分もまた、純粋さというものを見失わずにいたいですね。

2ヶ月前 No.264

空の光 ★xwYjME1Ktg_m9i

ライチさん

自分も立派じゃないですよ。
信仰はどこまでも奥があります。
その奥座敷には・・・まだまだ・・・かな。
座敷はいくつもあるらしいです。
奥座敷であればあるほど、直感の世界になる感じ?

直感は俳句をしてても作詩をしてても出てきます。
たまには浮かばない時もありしますけどね。

ライチさんも、澄みきった心を得ると直感(神仏、先祖)が・・・
自分はそのために綺麗にして生きたいと思います。

純粋さは大切、自分の中にある・・・
つまり、人間の心の奥(魂)にあるんだと思います。
それを覆う物がある。それを澄み切った魂になるように磨く。

例えば手をかざすことなどによって。。。
もしくは、芸術度の高い本を読むのも良いですね。
自分の感性のままに。。。浄まった魂はより浄まろうとする。

2ヶ月前 No.265

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

空の光さん

おそらくですが、心を綺麗にする道は、感性を磨く道と、理性を磨く道があるように思います。
芸術は前者で、哲学は後者ですね。
芸術は純粋な感覚を追求し、哲学は純粋な理を追求します。

カントは次のように言いました。
『「純粋理性」に宿る「善なる意志」は、われわれの理性のなかにある最高級の能力である。』
カントは純粋な考え方の追求によって、純粋な心を見いだすことが出来ると言ったのですね。



>純粋さは大切、自分の中にある・・・

>つまり、人間の心の奥(魂)にあるんだと思います。

>それを覆う物がある。それを澄み切った魂になるように磨く。


全くその通りだと思います。
「超訳 カント」という本でもこう語られています。
『カントは時折、人間の怠慢さや愚かさや悪徳について皮肉交じりに語ることもあるけれど、
人は生まれながらに「善」であるという「性善説」の立場をとった。
「善の心」が大きく育つと「善なる意志」へと成長する。
それが人間が持っているものの中で一番尊いものだと彼は考える。』

人間の本来的な善性を見ること、その本来的な善性を見失わないこと、これが大切ですね。

2ヶ月前 No.266

空の光 ★xwYjME1Ktg_m9i

ライチさん

感性を磨く方法と理性を磨く方法・・・芸術と哲学。
いい方法、いい良い考えだと思います。
ただ、芸術にしても、哲学にしても作者の思いがある。
だから、芸術も哲学も選ばなければならない。

自然は神の思いで作られたものだから選ばなくても良いかな。
でも、花が好きな人。枝振りが好きな人。紅葉の好きな人。
海が好きな人、青空が好きな人、夜空が好きな人。月。星が好きな人。
いろいろな物が好きな人が居る。
自然を選ぶのは、神の思いが伝わるから,どれでもいいかな。

それら善悪に傾いた時、意欲が働くかな・・・

2ヶ月前 No.267

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

空の光さん

言い換えるなら、芸術は神の思いに、哲学は神の理に近づくためのものだと思っています。
無神論的な立場も踏まえた言い方なら、真の思い、真の理ですね。
人の作り出したものでも、美を見いだせるなら自分は良いと思っています。

たしかに人間の作り出したものには、人間のエゴが混じるかもしれません。
しかし人間の心の奥底に神がいるなら、美しい芸術や哲学はその発露と見ることも出来ます。

もっと広げていうなら、人間の奥底だけでなく自然の奥底に神がある、物質の奥底に神がある、世界の奥底に神がある。
それはカントの言う物自体かもしれません。

人を、そして人の作り出したものを否定してしまえば、
それは自分を、そして自分の作り出したものも否定せざるを得なくなると思います。
というのも、自分もまた人ですから。

2ヶ月前 No.268

空の光 ★xwYjME1Ktg_m9i

ライチさん

神の思いと神の理に近づく・・・
神の持つ二面性、いや多面的の中から・・・かな。選ばれたもの?
じゃあ、他にどんな多面性があるかな?
ライチさんの言われたように、人間への自然への物質への世界への。
これらへの多面性があるのかもしれません。

人は神から生まれた時に分けられた思い、理を自分のものとした。
自分のものとした神の思いと理、いずれは返さなきゃ?
それまでの間、神の意図のままに動いてるかな。
だから、芸術家も存在するのだろう。いずれは世界も芸術化する?
それは世界中の人が,芸術家になると言うことかな。
芸術化される宗教、道徳、哲学、科学。
そしてそれに携わる人達の芸術人化・・・

でも、芸術化ってどんな事だろう?
生命の生きてる証かな、人工の美は模倣・・・プラス人の思い。
もちろん、人の中にある神性も表現の一部となるのだろう。

霊界に旅立つ時、神の思い、神の理を神に返すのかな。
じゃ、残るものは?この世で生まれた時から死するまでに得たもの。
それは、魂の成長した分が、得たものだろうと思われる。
堕落したら、やはりそれが自分と呼べるだろう。
それを持って霊界へ旅立つと思われる・・・

2ヶ月前 No.269

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

空の光さん

人間は「神の模倣品に過ぎない」のでしょうか?
また人間は、「神の作品の模倣品に過ぎないもの」しか創れないのでしょうか?
人間が「神の模倣品に過ぎない」のであれば、また「神の作品の模倣品に過ぎないものしか創れない存在」なのであれば、
それは素晴らしいものとは言えませんね。
しかし、果たして神はそんな素晴らしくないものを創り上げるでしょうか?


芸術化…言い換えるなら美的観点ですね。
どんなものであっても、それが美しく見える角度、すなわち観点があると思うのです。
神は常に、そういう観点で物事を見ているように思います。
ましてや人間を、人間の作品を不完全なものとして見下しているとは思えません。

美的観点とはつまり、その対象から完璧さを見いだすことなのだと思います。
美的観点から見出したその美を論理的に表現するのが哲学なら、感情的に表現するのが芸術と言えるかと思います。
どんな対象であれ、美的観点というものが存在するのだと思います。
イデアを見る視点とも言えますね。

以前twitterで見かけたのですが、スズメバチをペットとして飼い、心を通わせている女性がいて驚きました。
愛というのは偉大ですね。


死後のことは皆目見当がつきませんが、「どう死ぬか」というのも人間にとって大きなテーマですね。
「どんな風に死にたいか」、それがわかっている人というのは、おそらく自分で自分の幸福がわかっている人なのだと思います。
自分で自分の幸福がわかっている、そういう人こそ幸せですね。


哲学というのは、どうしても理屈っぽくなってしまいます。
理屈を押し付けたいわけではないのですが、自分の考えを表明するとどうしてもそんな感じが出てしまいます。
でも本当に大事なのは、理屈ではないですね。

2ヶ月前 No.270

空の光 ★xwYjME1Ktg_m9i

ライチさん

人が神の模造品かどうか?「模造」という言葉で表せないと思います。
自分たちで芸術品を創り出す。それは、模造されたものに出来るか?
100%完全体を創ったかどうか。

いや、神を目指す自由と獣に堕する自由を持たせた。
つまり芸術品を創る事も出来る。まねごとでなく。
神からのインスピレーションを受けて創り出す事が可能。
そんな人もいる、それは神に一歩でも近づいた人という証だろう。

入魂という言葉もある。それは神からの魂を受ける。
そんな事も出来る人なら。もう神に限りなく近いのだろう。

死後のこと・・・知りたくても知り得ない。
それでも死に方を選べる。そんなふうに作られた人間。
死後の道を知るのに宗教という道がある。
どんな生き方があるかも教えてくれる。
生きる道を学ぶのが死期が近づかないと出来ない。
それも一つの道だから・・・道を知らずに生きるよりはいいかな。

2ヶ月前 No.271

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

空の光さん

>神を目指す自由と獣に堕する自由を持たせた。

神は獣に堕する自由を持たない存在なのでしょうか?
それもまたおかしいものですね。

>神からのインスピレーションを受けて創り出す事が可能。

ラファエロの絵画で、「聖セシリア」という絵画があります。(The Ecstasy of St. Cecilia)
演奏家が楽器を足元に捨て、天が奏でる音楽に耳をかたむけている絵なのですが、
この絵は「芸術(宗教音楽)の道を通って、神との一体感を得る」ということを表現しているのだそうです。
(In this painting she personifies religious music as a route to union with God) wikipediaより


先日、自然は美しさについて考えていたら、まるでそれに応えるかのように、
自然は優しく、美しい夕焼けを見せてくれました。
自然が最高の芸術だということには、自分も異論はありません。


言ってしまえば、芸術も人工のものであれば宗教というのも人工のものですから、
宗教を持つならばそれも選ばなければいけないわけですね。

なんにせよ、最高の考え、最高の言葉、最高の体験を選択したいものです。
それが本当の信仰の道である気がします。

2ヶ月前 No.272

空の光 ★tPCeOWvH6K_m9i

ライチさん


>神を目指す自由と獣に堕する自由を持たせた。
>神は獣に堕する自由を持たない存在なのでしょうか?
>それもまたおかしいものですね。

神が堕したら・・・人を救うものがなくなってしまうのでは?

>>神からのインスピレーションを受けて創り出す事が可能。
>ラファエロの絵画で、「聖セシリア」という絵画があります。(The Ecstasy of St. Cecilia)
>演奏家が楽器を足元に捨て、天が奏でる音楽に耳をかたむけている絵なのですが、
>この絵は「芸術(宗教音楽)の道を通って、神との一体感を得る」ということを表現しているのだそうです。
>(In this painting she personifies religious music as a route to union with God) wikipediaより

楽器を足元に置くと神の曲を体現できなくなるのでは?と思います。


>先日、自然は美しさについて考えていたら、まるでそれに応えるかのように、
>自然は優しく、美しい夕焼けを見せてくれました。
>自然が最高の芸術だということには、自分も異論はありません。

神の創作されたもので・・・人に感受性を与えたのも神ですから。


>言ってしまえば、芸術も人工のものであれば宗教というのも人工のものですから、
>宗教を持つならばそれも選ばなければいけないわけですね。

>なんにせよ、最高の考え、最高の言葉、最高の体験を選択したいものです。
>それが本当の信仰の道である気がします。

そうですね。その人の最高と感じ取ったもの。
それが本有の信仰なのでしょう。

2ヶ月前 No.273

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_tWd

空の光さん

空の光さんが獣というものをどう定義しているのかはわかりませんが、
ただ、神の持つ多面性の中には獣もまた含まれると思います。
獣にもまた、多面性があるとも思っています。
しかし、人間が選択の自由を持っているということについては自分もそう思います。


>楽器を足元に置くと神の曲を体現できなくなるのでは?と思います。

足元の楽器は、地上の喜びの放棄を表現しているという意見もあるみたいです。
その辺はとてもキリスト教的ですね。


芸術においても哲学においても、17世紀から18世紀のドイツのそれは目を見張るものがあります。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒというドイツロマン主義の画家がいるのですが、
彼は「自然は、神性の表出である」という考えを持っていて、
彼の描く絵にもそれがよく表現されています。
とてもいい絵ばかりなので、是非一度見ていただけたらと思います。

2ヶ月前 No.274

空の光 ★tPCeOWvH6K_m9i

ライチさん

確かに獣に堕した神もいるかもしれません。
神は八百万いるといいますから。
だけど一般的に神と言うのは、不動のものだとかんがえられてる。。。

>足元の楽器は、地上の喜びの放棄を表現しているという意見もあるみたいです。
その辺はとてもキリスト教的ですね。

地上の喜び卯。。。相ですか。そんな表現もあるんですね。
つい自分の観念で考えてしまいます。

>カスパー・ダーヴィト・フリードリヒというドイツロマン主義の画家
インターネットで見れるなら見てみます。ありがとう。

2ヶ月前 No.275

空の光 ★tPCeOWvH6K_m9i

ラオチさん

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ

見てみました。ちょっと寂しげな絵を描く人ですね。
自然に対する思い。どうとらえていたのだろう。

神を表現したのなら、神は人に悲しげなものを持ってると考えた?
科学に傾きかけた人に神が自然がこっちも見てと。。。考えすぎかな?

2ヶ月前 No.276

空の光 ★tPCeOWvH6K_m9i

ごめんなさい。名前・・・タイプミスです。急いじゃったので。。。

2ヶ月前 No.277

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★Qnj6tiOo1O_zpU

空の光さん

構いませんよ。急がなくても大丈夫です。

人が罪に堕ちれば獣になってしまう…山月記や美女と野獣などがそうですね。
他者を鑑みない身勝手な存在、それは確かに悪であり獣なのかもしれません。
そうは言ってもハンバーガーはやはりおいしいですから、菜食主義者にもなれないんですよね。


>見てみました。ちょっと寂しげな絵を描く人ですね。

ありがとうございます。
彼の絵に寂しさがあるのは、フリードリヒが早くから母と姉を、そして弟を亡くしていることも無関係ではないと思います。
きっと彼を慰めてくれるのは、自然だけだったのでしょうね。

ドイツロマン主義は、スピノザの「神即自然」という考え方がその源流にあるのだそうです。
芸術と哲学、自然と宗教が相互に影響を及ぼし合い、それらが一段と高められるのを見るのは面白いですね。

2ヶ月前 No.278

空の光 ★tPCeOWvH6K_m9i

ライチさんさん


>人が罪に堕ちれば獣になってしまう…山月記や美女と野獣などがそうですね。


架空の話でなく、心が心の奥が獣となる。
人に戻るには苦労するかもしれません、


>そうは言ってもハンバーガーはやはりおいしいですから、菜食主義者にもなれないんですよね。


普通人であれば、菜食主義でなくても良いと思いますよ?


>>見てみました。ちょっと寂しげな絵を描く人ですね。
>彼の絵に寂しさがあるのは、フリードリヒが早くから母と姉を、
>そして弟を亡くしていることも無関係ではないと思います。
>きっと彼を慰めてくれるのは、自然だけだったのでしょうね。


そうですか・・・自然の中に家族を見出したのかもしれませんね。


>ドイツロマン主義は、スピノザの「神即自然」という考え方がその源流にあるのだそうです。

>芸術と哲学、自然と宗教が相互に影響を及ぼし合い、それらが一段と高められるのを見るのは面白いですね。



スピノザの「神即自然」ですか、見てみますね。ありがとう。

2ヶ月前 No.279

空の光 ★C0RcD6Cmxl_m9i

ライチさん

「ソフィーの世界」のスピノザ読んでみました。
汎神論ということかな?とある。
自然が神そのもの・・・人も自然の中に生きる限りは神の一部?

神の法則には従わざるを得ない。
でも、神は自由という感覚を人に与えた。
全ては自分でやっているんだという感覚。
内なる神。。。神が内にいる限りは全てを自由と思える。
神との共同とも言えるかな?
ただ人の形だから出来る事も限られる。
自分を越えたいと思う人にとっては不自由かな。

神を外にとらえると自由はなくなるかな?
外からだから強制になるかも?
自分の思いとは違った存在ととらえる。
それは神の思いと離れてしまう。

神の思いを知るにはどうすればいいか。
いや、神の思いを知る必要があるのか?
何のために人を生み出したのか。
それを知れば随分楽になるかな。
自分で自分のあり方を決める。
つまり自分が責任を取る。

でも、奥には神の思いがあるんだ。
そう思えば大きな思いに抱きとめられる。
汎神論は人間の周りの何もかもが、自分を持つ存在のためにある。
なぜか?神の代行者としての人だから。
何の代行か?周りをよく見れば分かるかな。
空を見る,海を見る,山を見る,湖を見る、大地を見る。
その自然から何を受けとめるか・・・美だろう。真善美のなかの美。
つまり、神は美を創りたがってる。地上のパラダイス。地上天国。
自由に神の代行を選び取れる。人の住む所に美を作り出していく。
自然だけでなく人工の美も。
人工の美、つまり自然の中の美を感じたままに創り上げる。
人が最高傑作と言われる事の証かな。

1ヶ月前 No.280

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★gEEgZJx4G9_h1g

空の光さん

とても詩的な表現だと感じました。そして、かなり真理を突いていると思います。
素晴らしいと言う他ないですね。

神は自分自身を体験するために人間を作ったという話があります。
体験を選ぶこと、作り出すこと、それが創造なのでしょうね。

汎神論とはつまり、世界の全ては神の現れということですね。
空の透き通った感じも、子供のあどけない笑い声も、全ては神の一面ということです。
もちろん、人間もまた自然の、神の一部ではあります。
ただ、自然と調和する振る舞いをすることもあれば、自然に反した振る舞いもしますね。


「救済とは
相手の行動のなかにではなく、
あなた自身の反応のなかにある。」

全てに完璧さを見ることができたなら、
たぶんもうその人は聖人と言っても過言ではないでしょうね。

本当は、全ては完璧なのだそうです。
なかなかそうは思えませんし、それを見ることは難しいですが…
全ては、完璧なプロセスの一部なのだそうです。
それは全てに、神の意図があると言い換えることが出来そうです。
だとしたら僕らは、全てに感謝した方が良いのかもしれませんね。

20日前 No.281

空の光 ★Z3jE2OPDrN_m9i

ライチさん

自分への返事・・・詩的かどうか自分では分からないです。真理に近いかどうかも。。。

>神は自分自身を体験するために人間を作ったという話しがあります。
>体験を選ぶ事、作り出すこと、それが創造なのでしょうね。

神は自分自身を体験する為に人を生みだし、人に宿ったということでしょうか?
そして、今は人を通して創造を経綸をされてる?

>もちろん、人間もまた自然の、神の一部ではあります。
>ただ、自然と調和する振る舞いをすることもあれば、
>自然に反した振る舞いもしますね、

そでうですね。自分の考えが入ると、歩む道が違ってしまうのかもしれませんね。

>本当は、全ては完璧なのだそうです。
>それは全てに、神の意図があると言い換える事が出来そうです。
>だとしたら僕らは、全てに感謝した方がよいのかもしれませんね。

自然の中に「完璧さ=神様の思い」を見出すかどうか。ですよね。やっぱり・・・
ライチさんの言うとおり、全ての中の神様に「ありがとうございます」と感謝ですね。

18日前 No.282

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★gEEgZJx4G9_h1g

空の光さん

「あなたはそのままで素晴らしい」
きっとこれが、神様の言葉なのだと思います。


目的地に着く喜びというのもありますが、
目指す場所に向かってひたむきに走る姿にも美しさはありますし、感銘を受けたりもします。
やはりそれはそれで、完璧なのかもしれません。

最近は、物を語るにしても、詩を書くにしても、
何か自分に嘘が混じっているような気がして、自分のその言葉も詩も好きになることが出来ません。

虚と実によって、つまり嘘と本当によって創造は行われるのだとは思いますが、
今の自分は嘘を好きになれないでいます。
嘘を恐れているというか…その背後にある死を恐れているのかもしれません。


「全てのことに感謝し、全てを祝福する」
それが出来たら素晴らしく、立派であることは言うまでもありませんが、
そこにはもう人間性はなく、ただ神性があるのみですね。
そしてやっぱり自分はまだ、人間です。
曇りがあり、無知があるということです。
その無知ゆえに屈しそうになることもあります。それは象徴的には「転ぶ」とか「つまづく」と言われます。
転んでも転んでも、それでもやっぱり歩き続けたいとどこかで思っている…
そしてそれは、誰でもそうである気がします。

先日、パッションという映画を再度見ました。
その映画のなかでキリストが転ぶシーンがあるのですが、
そこは何度見ても感動的です。
キリストが転ぶ時、聖母マリアが駆け寄り、「わたしがそばにいる」と彼に語るのです。
そしてキリストは、再度立ち上がり、歩き出すのです。


永遠に純粋で綺麗なもの、決して汚れることのないもの、
それは聖なるものと呼んで差し支えないと思いますが、
それを祝福することによって、人は死の恐怖を克服できるような、そんな気がします。
その聖性は誰にでも備わっており、神は人に備わるそれを見失うことなく見続けているのかもしれません。

その聖性を自分にも他人にも認めることが出来、
そしてもしそれを祝福し合うことが出来たなら、
そんなに素晴らしいことはないと思います。

雑に要約するなら、「かわいいは正義」ということですね。

16日前 No.283

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

ライチさん

>「あなたはそのままで素晴らしい」
>きっとこれが、神様の言葉なのだと思います。

そう言われれば、そうなのかもしれない。今まで考えた事なかったです。


>目的地に着く喜びというのもありますが・・・<以下略>、

ある和歌に
ある願い事があって、やっと叶った時、嬉しい思いと同時にさみしさが沸く。
努力する所にやりがいのあるんだなと。
と言う思いが書かれてました。


>最近は、物を語るにしても、詩を書くにしても・・・<以下略>

嘘・・・ですか。想像、空想、希望、などは今は出来てない。それらを叶えてもらいたい。そのような意味だったら、それは、嘘とは言いませんよね。
理想、空想、希望それらがあって子土、前へ進む努力も出来るかなと・・・
そして、もちろん創造も・・・そこから生まれてくるかな。


>「全てのことに感謝し、全てを祝福する」
>それが出来たら素晴らしく、立派であることは言うまでもありませんが<以下略>

そうですね。それが人の目指す道なのかも知れませんね。神に近づく。
なろうとする。その思いが近づく一歩なのかもですね。
人である。これを保つのもすごい事なのかも知れません。
人の姿をした獣の心にならないように・・・


>先日、パッションという映画を再度見ました。<以下略>

イエスでさえ。転ぶ事があるんですね。、そして助けの声がかけられる。
自分達にもきっと声が・・・それは神か人を通してかな?


>永遠に純粋で綺麗なもの、決して汚れることのないもの<以下略>

聖なる存在・・・神をたたえ、人を神への元へと導く存在でもあるかな?
祝福されるべきなのは神でしょう。たぶん・・・
イエスも自分を祝福しろとは言われなかった。
死の恐怖を超えるのは神を信じれるかどうか。
天の父であるから子である存在を赦し救う。


>その聖性を自分にも他人にも認めることが出来<以下略>

人の中にイエスを見たと言うところでしょうか。いや神でしょうか?
それは、自分の魂がそばに近づく事が出来た。
天国へ昇る資格を得たということかもしれませんね。

14日前 No.284

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★gEEgZJx4G9_h1g

「あなたは私から愛されるために、これこれこうしなければならない」
もし神がそう言うのであれば、それは無償の愛とは言えないはずです。


>ある願い事があって、やっと叶った時、嬉しい思いと同時にさみしさが沸く。

>努力する所にやりがいのあるんだなと。

テレビゲームをする人でも、同じ感情を持つ人が多いようです。
そのゲームが大好きだったのに、最後のボスの直前でやめてしまうのだとか。
というのも、そのボスを倒してしまえばゲームが終わってしまい、それが寂しいからなのだそうです。
それはたぶん、情熱を持ち続けたいという人間の思いなのだと思います。
子供が大きく育った、仕事を定年まで務めた、
そんな人が無気力に陥ってしまうのも、それと本質的には同じと言えそうです。


>それらを叶えてもらいたい。そのような意味だったら、それは、嘘とは言いませんよね。

確かに、その願いは本当ですね。
もしかしたら、願いそのもの、祈りそのものになりたいのだと、人はみな思っているのかもしれません。
そして、その祈りを内に秘めているのかもしれません。そしてその体現者なのかも…
自由への願いというか、神への祈りというか…
まあしかし、こういうことを言うのは恥ずかしいですね。
うまく説明できているかもわかりません。
ただ、聖性は純粋な祈りとも言い換えられるかもしれません。


>人の姿をした獣の心にならないように・・・

もしかしたら僕も、人の姿をした獣かもしれませんね。


>イエスでさえ。転ぶ事があるんですね。

イエスは死の直前に「神よ、何故私を見捨てたのですか」と言ったそうです。
そこには人間味を感じますし、だからこそ真実味が生まれているような気もします。


>自分達にもきっと声が・・・

声をかけられるかもしれませんし、声をかける側にもなるかもしれませんね。
そうしたことは、日常の中にも結構見られます。それは、とても素敵なことだと思います。
最近読んだドフトエフスキーの「貧しい人々」もそうしたものを描いた小説なのですが、
それはとても美しく、ドフトエフスキーの人間の描写力を強く感じさせられる作品でした。


>イエスも自分を祝福しろとは言われなかった。

僕らも神の一部であるなら、祝福の対象になるかと思います。
神と人間は、たぶん別々の存在ではないと思います。
僕らと神が一つでないなら、神が自分自身を祝福しない理由があるでしょうか?

繰り返しになりますが、神から祝福されるために「これこれこうしなければならない」なら、
それは無償の愛ではないのです。
イエスは多分、自分が神から無償の愛を、無条件的な祝福を受けていたことを知っていたのではないかと思います。


>天国へ昇る資格を得たということかもしれませんね。

もしかしたら人はすでに天国にいて、でも目をつぶっているから、あるいは目が曇っているからそれが見えないだけなのかもしれません。
イエスと共に十字架にかけらた二人の罪人の話はとても象徴的だと思います。
一人はキリストを見て、一人はキリストを見なかった。


なんだかこう言ってるとキリスト教を布教しているように聞こえるかもしれませんが、
そんなつもりはありませんし自分もキリスト教ではありません。
ただ新約聖書には確かに、ところどころ真実を感じさせるものがあります。


人間、同じ光を一緒に見ることができたなら、それ以上の幸福はないように思います。
もしかしたら昔から変わらず、ずっと同じ光を見ているのかもしれない。
それに気づけないことこそ孤独で、それこそが人間が最も恐れるものかもしれません。


だいぶ理屈っぽくなってしまった上に長くなってしまいましたが、
生命の本質は美しいということ、それだけ信じ続けることが出来れば
なんでもなんとかなるのではないかと思っています。
一つ一つの生命、一人一人の人間、
祈りの形は違えども、その一つ一つは美しいのだと。

13日前 No.285

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

ライチさん

>「あなたは私から愛されるために、これこれこうしなければならない」
>もし神がそう言うのであれば、それは無償の愛とは言えないはずです。

そうですね。神には許す神とさばく神とあるようです。


>そのゲームが大好きだったのに、最後のボスの直前でやめてしまうのだとか<以下略>

そうですね。自分もここでの会話で、返事を書いて済むとそんな感じかな。


>そして、その祈りを内に秘めているのかもしれません。そしてその体現者なのかも…

体現者ですか・・・祈りを叶えてもらえたモノという事でしょうか?


>もしかしたら僕も、人の姿をした獣かもしれませんね。

みんな獣の部分と神の部分をもっているのかもしれません。。。自分も。


>イエスは死の直前に「神よ、何故私を見捨てたのですか」と言ったそうです<以下略>

イエスはキリストにはなり得なかったのでしょうか・・・許す側でなく、許される側?


>声をかけられるかもしれませんし、声をかける側にもなるかもしれませんね。
>そうしたことは、日常の中にも結構見られます。それは、とても素敵なことだと思います。
>それはとても美しく、ドフトエフスキーの人間の描写力を強く感じさせられる作品でした。

美の世界を表現された?美は描く時の心も大事ですから心が美しかったのでしょうか。


>僕らも神の一部であるなら、祝福の対象になるかと思います<以下略>

そうですね。神は人にも宿られてる。だから、神を信じたい気持ちも持ってる。それが強く表れるか。弱くて神の思いに触れられないか・・・


>繰り返しになりますが、神から祝福されるために「これこれこうしなければならない」>なら。それは無償の愛ではないのです。
>イエスは多分、自分が神から無償の愛を、無条件的な祝福を受けていたことを知ってい>たのではないかと思います。

人類のために、罪を背負って神に許しを願った。つまり、人類の代表として・・・


>もしかしたら人はすでに天国にいて、でも目をつぶっているから、あるいは目が曇っているからそれが見えないだけなのかもしれません。

そうですね。まわりは天国(昼の世界)なのに気付かない人類・・・
赦しを願わなければ、罪を背負ったままではいつまでもいられないかもしれない。


>イエスと共に十字架にかけらた二人の罪人の話はとても象徴的だと思います。
>一人はキリストを見て、一人はキリストを見なかった。

よく分かりません。天に恥じないモノを持っているかどうか?


>生命の本質は美しいということ、それだけ信じ続けることが出来れば
>なんでもなんとかなるのではないかと思っています。
>一つ一つの生命、一人一人の人間、
>祈りの形は違えども、その一つ一つは美しいのだと。

美の存在ですか・・・真善美という言葉がありますよね。
真理、善行、美術の心言行これらがそろえば、天国に住めるかな?]]]]]]]]]]]]]]]

12日前 No.286

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★gEEgZJx4G9_h1g

空の光さん

>神には許す神とさばく神とあるようです。

それは、実際の神と人間の考える神と言えるかもしれません。
自分は、神の裁きが存在するとは信じていません。
ただ、原因と結果だけがあるのだと思っています。


>自分もここでの会話で、返事を書いて済むとそんな感じかな。

とても嬉しいことを言ってくれるのですね。
少しは自分のレスも役に立ててるのでしょうか。


>体現者ですか・・・祈りを叶えてもらえたモノという事でしょうか?

自由でありたいと言う自らの願いを、自由であろうとする自らの意志によって自ら実現する者という意味ですね。
神は自由であることを助けてくれる存在ではあると思いますが、自由を選択するかどうかは人間に委ねられているのだと思います。
自らの考える正しさのために、意地を張って「自分は自由なんて望んでない!救われたいなんて思っていない!」と言う自由もあるわけですね。
天空の城ラピュタでは、一度はパズーの助けを拒否するシータと、シータを救うことを断念しかけるパズーによって、
それが上手く描写されていると思います。


>みんな獣の部分と神の部分をもっているのかもしれません。。。自分も。

人はみな誰でもそうだと思います。人だけでなく、あらゆる生物が持っているものでもあると思います。
それらは時に獰猛さや闘争を見せることもありますが、それでも慈しむ心や信じる気持ちを持ち合わせているのですね。
エヴァンゲリオンというアニメにも、獣と人と神というテーマがありますね。結構おもしろいです。


>イエスはキリストにはなり得なかったのでしょうか・・・許す側でなく、許される側?

イエスは、神を信じることで人々を許すことが出来ていましたが、
あまりの苦しみのために、その信念が折れかけたのですね。
しかしその後イエスは死の直前に、「父よ、私の霊をあなたの手に委ねます」と言っています。
最後には神を信じることを選択したのだと思います。


>美の世界を表現された?美は描く時の心も大事ですから心が美しかったのでしょうか。

ドフトエフスキーの人間の観察力は飛び抜けていると思いますね。
人間をありのままに見ていた、つまりそこにバイアス(つまり偏見ですが)がほとんどなかったように思います。
だからこそ人間の弱さも強さを、そのままに描くことが出来たのだと思います。


>人類のために、罪を背負って神に許しを願った。つまり、人類の代表として・・・

キリストは人類を罪から解放したというより、罪の意識から解放したのかもしれません。
この二つは似ているようで、「罪というものが客観的に実在するかどうか」という点で異なっています。
罪というのは、人間の意識の上にだけ存在しているのではないかと思います。
神の意識が許しの意識だとするなら、キリストは人間をそこまで高めようとしたのだとも考えられます。
許しの意識の発見、愛の意識の発見、それは神の発見とも言えるかもしれません。


>よく分かりません。天に恥じないモノを持っているかどうか?

自らの罪の意識と向き合ったかどうかですね。
一人は向き合ったために、許しを発見した。一人は向き合わなかったために、許しを見つけられなかったということですね。


>真理、善行、美術の心言行これらがそろえば、天国に住めるかな?

天国は人間の心に、つまり意識の中にあるのだと思います。
そういった意味で言えば、空の光さんは天国を持っていると思いますし、また他の人も同様です。
でも心の中にある天国(それは平和とも言えますね)に気づいていない人も、結構多いわけです。
天国のような、そんな平和な意識を自分の中に作りたいですし、また広めていきたいですね。
現実が意識を作るのではなく、意識が現実を作るのであるなら。

12日前 No.287

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

ライチさん

>ただ、原因と結果だけがあるのだと思っています。

確かに原因には結果がありますね。
結果に伴って、つまり心のありようにそって行く?
自分の心が常に天国ならそのようになる?


>自由でありたいと言う自らの願いを、自由であろうとする自らの意志によって自ら実現する者という意味ですね。
>自らの考える正しさのために、意地を張って「自分は自由なんて望んでない!救われたいなんて思っていない!」と言う自由もあるわけですね。

神が手を差し伸べようとする。それを受けるかどうか。確かに自由。


>天空の城ラピュタでは、一度はパズーの助けを拒否するシータと、シータを救うことを断念しかけるパズーによって、
>それが上手く描写されていると思います。

そうですね。人は一度は自分でしようとしてみえう。でも、助けの必要なことを知る場合もある。
二度目の助けを受けれる人は幸せ・・・


>エヴァンゲリオンというアニメにも、獣と人と神というテーマがありますね。結構おもしろいです。

主題歌からして凄いですよね。自分は二次小説にはまってしまいました。
純真な思いと心を閉ざしているチルドレン達。その心を解きほぐしていく

>イエスは、神を信じることで人々を許すことが出来ていましたが、
>あまりの苦しみのために、その信念が折れかけたのですね。
>しかしその後イエスは死の直前に、「父よ、私の霊をあなたの手に委ねます」と言っています。
>最後には神を信じることを選択したのだと思います。

人も神の思いをしらすに挫折してしまう。
でも、イエスのように立ち直れるかどうか・・・神はどこまでも見ていらっしゃる。
きっと手は差し伸べられる。それを受け取れるかどうか。
自分だったらどうするか。底を見られる神は既に自分の思いを受けとめているのかも知れない?
そんな神の前でだだをこねても神は失笑する?


>キリストは人類を罪から解放したというより、罪の意識から解放したのかもしれません。
>この二つは似ているようで、「罪というものが客観的に実在するかどうか」という点で異なっています。
>罪というのは、人間の意識の上にだけ存在しているのではないかと思います。


罪の解放・・・罪が許されるときに解放されると思ってました。
罪の意識の解放・・・罪の意識が解放されないと罪からも解放されない?

>神の意識が許しの意識だとするなら、キリストは人間をそこまで高めようとしたのだとも考えられます。
>許しの意識の発見、愛の意識の発見、それは神の発見とも言えるかもしれません。

だから、人を裁いたりするのは神の権限を侵した事になるのかな?


>自らの罪の意識と向き合ったかどうかですね。
>一人は向き合ったために、許しを発見した。一人は向き合わなかったために、
>許しを見つけられなかったということですね。


>>真理、善行、美術の心言行これらがそろえば、天国に住めるかな?
>天国は人間の心に、つまり意識の中にあるのだと思います。
>そういった意味で言えば、空の光さんは天国を持っていると思いますし、
>また他の人も同様です。

心にある天国、それが神が天国にいるすると神は人と共にいらっしゃる?
そして、天国にふさわしい人になれるよう養って下さってる?


>でも心の中にある天国(それは平和とも言えますね)に気づいていない>人も、結構多いわけです。

気付いてても、気付いて無くても天国は心の中にある?
気付くのに遅くても気付いたときからが始まり。遅くない?
気付けたときに自由意識に委ねる?いや、心の奥にある存在に委ねる?
心の奥はきっと天国を肯定する・・・かな。


>天国のような、そんな平和な意識を自分の中に作りたいですし、また広めていきたいですね。
>現実が意識を作るのではなく、意識が現実を作るのであるなら。

そうですね。意識が現実を作る。。。心言行の順序で。

12日前 No.288

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★gEEgZJx4G9_h1g

空の光さん

自分が幸福になる資格や自分が天国に行く資格…
先の「貧しい人々」の中においてもそうですが、
「そんな資格は自分にはない」という考えを持った女性が自ら不幸へと足を踏み出していくというのは、
悲劇の一つの代表的なモチーフにもなっているものです。
心のどこかに、「自分には罪がある」という思い、つまり罪の意識というものがあるのですね。


ジッドの「狭き門」の中でも、信心深いヒロインは自身の罪の意識が強いために、自らが幸福になることを拒否してしまいます。
「まず神の国と神の義とを求めよ」
「人間が近づいていってまちがいのないのは、ただ主のほうだけですの」
「わたしたちは、幸福になるために生まれてきたのではないんですわ」
そう日記に書き綴り、彼女は自身の贖罪の道として一人で生きていくことを決心します。

これを悲しい考えから生まれた悲劇と捉えるか、高潔で美しい精神を持った女性の物語と捉えるかは、評価が分かれます。


しかしまた、そうした罪の意識に対する、許しの意識というのも存在するわけです。
以下はゲーテの作品である「親和力」から抜粋したものです。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

やがて霊感を受けたように跳ね起きると 、彼女は神聖な悦びを込めて叫んだ。
「そうです。この方はわたくしを許してくださいました。
どんな人間も、わたし自身でさえも許すわけに行かなかったことを、
神様はこの方の眼差しを、この方の仕草を、この方の口を通して、わたくしに許してくださいました。
今この方は、またこんなに静かに安らかに休んでいらっしゃいます。
でも、皆さんごらんになったでしょう…この方が身を起こして、両手を広げて、わたくしを祝福なさった様子をね。
わたくしをやさしく見つめてくださった様子をね。
『お前の罪は許されたよ。』とわたくしにおっしゃったのを、皆さん、一人残らずお聞きになったわね。皆さんが証人ですわね…
わたくしはもう、皆さんの中にいる人殺し女ではありません。
この方に許していただいたのですし、神様に許していただいたのですもの。
だからもう誰だって、わたくしをどうすることもできはしませんわ。」

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

許しの意識によって、罪の意識に囚われていた心が解放されること…自由へと向かう物語ですね。
親和力の大筋は確かに悲劇的でありますが、それでも感動的な場面も含んでいます。


悲劇は同情を、感動劇は祝福を誘うものです。
ショーペンハウアーは悲劇に対する同情が大事であると説きました。
一方でニーチェは、幸福に対する祝福こそが大事であると説きました。
悲劇への同情、幸福への祝福、この二つが人間にとって大事なのだと自分は思っています。

「ドラえもん のび太の結婚前夜」の中で、静香ちゃんのパパは静香ちゃんにこう言います。
「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。
あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。
それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」

11日前 No.289

空の光 ★vfw03rSMy9_m9i

ライチさん

天国に帰れる資格は別にして・・・罪の意識を持ち続ける。
自分で自分を苦しめる。それも一つの罪かな?

裁かれるのは神の権威。なぜなら人には真の善悪は計り得ない。
だからイエスも(神に)「許し給え」と言われた。
いつか、これを許すという存在が出てくるかな。
それは、赦しも救いも持った存在。

人の子でなく神の子として人類を許される存在。
そんな存在が出てくる事をイエスも釈迦も知っていたかも?

罪を犯したとき・・・なぜか罪を犯した事を後悔する。
それは魂が神に叱責されたのだそうです。
そして、その後は許された道を歩みゆく。
つまり、罪は許されるんです。
後悔し謝罪する・・・神は謝罪するのを待っている。

でも、強制はしない。神の子たる人の自主性を重んじる。
そうでないと、人は誰かにすがらないと生きられなくなる。
それは神も望まない。人でも頼って良い時とそうでない時かある。
その代わり神は神の子の全てを受け取る。良い事も悪い事も・・・
そうじゃないと、神の子たる人を許すか褒めるか判断しがたい。

のび太君も青年になれた。
人の幸せを願い、人の不幸を悲しむ。
信仰をしてる人も同じかな。ただ願う先に神がいるかどうか・・・
人の不幸を見て神に祈る。答えがあるかどうか?
それは神に信頼されてるかどうか・・・かな

10日前 No.290

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★gEEgZJx4G9_h1g

空の光さん

まあ神についての考え方は人それぞれ、自由でいいと思いますが…

自分が祝福に値するかどうか…これは確かに、切実な問題だと思います。
僕もいつも心の何処かに、「自分は招かれざる客なのだ」という思いがあります。
どうせ考えるなら、心の広い神様について考えたいですね。
天国の門は本当に狭き門なのか…それが広いことを自分は願います。

信仰を持つ人は、どうしても「自分の考える神様が正しい神様だ」と考えがちになってしまいます。
これは誰にでも、自分にも言えることだと思います。
神についての考え、それが世界観を、信仰の形を、生活や生き方、自分のあり方を決定しますが、
神について自由に考える自由、まさにそこにこそ、あらゆる自由の大元となる自由というものがあるのかもしれませんね。
真剣さを失わないことは素敵なことだと思います。ただあまり深刻にならないことも大切ですね。

自分は笑って過ごしたいですし、空の光さんにも笑って過ごしてもらいたいです。
誰に対してもそれは変わりません。
人々の笑顔のために道化を演じられる人、その人は立派な人だと思います。
実際僕は、お笑い芸人の方々に敬服しているのです。
見栄やエゴを捨て、祝福すべき人々の笑顔のために自ら道化へと下っていく彼らは、
本当に、確かに素晴らしい人たちだと思っています。
笑いの力は生きる力となりますし、やっぱり彼らは日本を明るくすることに貢献しているのです。

明るい笑顔…それは確かに救済的です。
そのために祈ること、それは全く苦であるどころか、自分の心が救われるような心持ちになります。

9日前 No.291

空の光 ★vfw03rSMy9_m9i

ライチさん

>>まあ神についての考え方は人それぞれ、自由でいいと思いますが…

信教の自由ですね?神が本当に存在するなら・・・
気をつけないとニセの神も信教の自由になってしまうかな。。。
本当に神がいるかどうか。。。そこから学ばないと。
教えてくれるのは誰?
自然が教えてくれるのだろうか。存在を認めるのは人の自由だけ。
神はなぜ存在するか?そこから学ばなければ。
故人の詠んだ本、美術品、芸術文、それらは今も残ってる。
そこから魂を磨くか。古来貧なのに今なお、さんとしてる、

古人の方が美意識が高かったのか。今じゃ作れないと言う人もいる.
生活の忙しさが美意識を養う暇も無いのか。
確かに絵描き俳人、書道家などもいらっしゃる、それらの美はどこへ消えたか。

自然の中から何を学んだか。育て方だけでなく。
目一杯に咲く強さ。優しさ、美しさ、それも一つの学びかな。

8日前 No.292

ライチ @litchi☆EGaxVq85lII ★gEEgZJx4G9_h1g

空の光さん

自分の心に響くもの、自分に実感を与えてくれるもの、
そういったものを見つけたり、思い出したりすればいいのだと思います。

小さな考えで自分を丸め込むより、大きな考えで自分自身を広げていきたいと自分は思います。
自分で自分にしっくりくる考えってありますからね。
今の考えに閉塞感や違和感を感じるなら、ただ考えを変えればいいわけです。
自由に呼吸が出来るような考え、自由に動き回れるような考えを見つけたいですね。

空の光さんになら、それが出来ると思います。
美しいものを見ることが出来ますから。
そしてまた、それを表現しようとしている。

「うつくしいものを美しいと思える
あなたのこころがうつくしい」
相田みつをさんの言葉です。
その心を持っているということ、それが一番の幸福だと思います。

8日前 No.293

空の光 ★vfw03rSMy9_m9i

ライチさん

>自分の心に響くもの、自分に実感を与えてくれるも<以下略>、

自分に響くもの・・・空であったり、花であったり、詠んだ句だったり、綺麗な言葉だったり・・・かな。
たまに、過ぎた悲しみを思い出しますけどね。

小さな囲みより広い心・・・そうですね、広い心を持つ。
そんなとき涙ぐむかな。広い心には神も大きく包んでくれるかも。

自由になれる考えと心・・・考えは限度がありかも?心はどうかな?
思いと言う心の流れ。どこまでも流れるモノを自由にすれば・・・
新しく流れてくるモノもあるかな。
流れたモノが再び出てくる事もあるかな?
いや、流れるその瞬間が直感なのかな。流れるモノをつかむ。
直感は流れていくから、二度目はないかもしれない?

瞬間をつなぎ止めるか言葉に表して、それをどんな形で表すか?
こんな文章にするか詩にするか、心の俳句にするか。
美しいモノを美しいと感じ表現する。
ありがとうです、その思いを忘れないよう書き留めたい。
いつか花開くときのために。

8日前 No.294
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