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ドクショカイ(仮)

 ( 哲学掲示板 )
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死体の蠅 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

まず読む本を決めて、その本をみんなで一緒に読み進めながら、その本への理解を深めるスレです。

読む本は、各自が勝手に決めてください。

◯ルール
テーマとして定めた本を読んだうえで、文章を投稿すること。
これが最低限のルールです。

ただし、
むかし読んだ記憶だけで投稿するのは、遠慮してください。
また、その本をすべて読み切っていなければならない、というわけではありません。
むしろ、はじめて読む本でも、それをこれから読んでいくならば、全然OKです。

また、スレ内で同時並行的に、複数の本がテーマとなっていても、問題はありません。
Aのドクショカイには参加して、Bには参加しないというのもありです。
AもBもどちらにも顔を出す、というのもありです。
>>0 といったメンションを活用すれば、自分の参加しているドクショカイの投稿文を見つけやすいでしょう。)

◯使用方法
テーマとして定めた本の名前を、メモのところに書いてください。
それだけでなく、メモは、誰が使ってもいいので、大いに活用してください。

◯使用例

@ハード
例えば、まず一週間でどれだけ読むか範囲を定めておく。(期間と読む箇所を定める。)
発表者が、その範囲の文章を要約し、その箇所における議題や問題、不明点を述べる。
次の一週間では、その担当者の述べた要約や不明点について検討してみる。
さらにその次の週は、別な担当者が、要約やその箇所で問題となっていること、読んだときの不明点をまとめてくる。

Aフリー
期限も読む箇所も定めず、とりあえず読む本だけを決めて、それぞれ気になった箇所について文章を発表する。

Bバトル
特定の期間に、それぞれが本の同一の箇所を読み、その同じ箇所についてそれぞれの参加者がそれぞれ解釈を発表する。
そして、それぞれの解釈の相違を検討する。
どの解釈が正しいか、面白いか、生産的か。あるいは、どうしてこれほど解釈に違いが出るのかなどを考えてみる。

※使用例はあくまでも例であり、こういう形にしなければならないというわけではありません。

2年前 No.0
メモ2019/01/06 18:50 : てじ @flyonbody★iPhone-EWKnAVh1q8

【いま読んでいる本】


・ハイデガー『存在と時間』『ニーチェ』

・デカルト『省察』

ページ: 1 2 3 4 5

 
 
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久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>346,347,348,349,353,354,356,357,358,361,362 のつづき

先日( >>360,361 )ベルクソンが話題となりましたが、彼は芸術家を「放心した者」と呼びました。
哲学者もある意味放心した者であり、目を、役立つものから役立たぬものへと向ける者です。

ところで、例の文章の最後の部分は

>…人間は存在そのものへ思いを致して存在忘却を克服することができるようになる

というものでした。

ここにも視向転換があります。



【ハイデガーの言葉で「転回」というのが有名ですが、これは「存在忘却から存在守護への転回」だという話があります。(『転回』を参照。)『存在と時間』でも忘却はたびたび言及されますが、重要なのは次の箇所でしょうか:
>…非本来的投企においては、現存在はおのれが配慮しているものごとを現持していて、そこから汲みとってきた可能性へむかっておのれを投企する。このような投企が可能であるのは、現存在がひとごとでないおのれ自身の被投的な存在可能におけるおのれを忘却していることによるのである。(ちくま下p. 238)

忘却は「非本来的既往性」だといわれます。忘却は「自己の既往性からの脱却」であり、「この脱却はおのれがそこから脱却するところを脱自的に蔽塞し…おのれ自身をも閉塞してしまう」といわれます。「おのれが配慮しているものごとを現持し」というのは、ベルクソンの文脈をここに引き入れるとしたら、生活に役立つものに気をかけている状態を指すでしょう。亦これをプラトンにつぎはぎするなら、人間は自分が不死なる魂だということを忘れている、ということになるでしょう。それと同時に、人間は自分の《故郷》も忘れていることでしょう。
忘却についてさらにいうと:そもそも >>309 でも書いておいたとおり、『存在と時間』は冒頭から忘却の話から始まっている。非常に重要な言葉だと思います。
そしてこの忘却という発想は、プラトンが『パイドロス』で描いた物語、魂がイデアを見たのに肉体に落ちたときにそれを忘却してしまい、地上的なものを見たおりにそれを想起するというところが源泉では…?とも予想できます。】



さて、『パイドロス』の4(a)の狂気の話に移ってみます。
というのも、放心した人・現実から遊離した人というのは、どこかおかしいでしょうからね。
それは、岩波文庫でいうならp. 62以降の箇所です。
ここでは

☆狂気は、予言と関連づけられています。

とりあえず、以上。

次に4(e)に飛んでみます。
p. 80では「ひとり知を愛し求める哲人の精神のみが翼をもつ」といわれ、「そのような人は、ひとの世のあくせくとしたいとなみをはなれ、その心は神の世界の事物とともにあるから、多くの人たちから狂える者よと思われて非難される」といわれています。すなわち、世俗的weltlichな生活の関心から遊離し、神々の世界に思いをはせた者は、世人たちからは「狂っている」とみなされる。
ここには、「下界のこと」を見下げることと、天上のものを見上げることが、ある。



【ここで、プラトンの『パイドン』の「死は魂の肉体からの離脱である」をもう一度思い出しておきます。また、阿さんの謎めいた言葉( http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-445#a)も思い出しておこう。ここらへんの、忘却=肉体からの離脱=脱却=狂気=存在への視向というプラトン的事情が、『存在と時間』読解にどう活かせるかというのは、俺のむかしからの関心ではあります。】



また、この狂気は、世俗的なものを見下げてそこから離れることであるので、「規則にはまった慣習的な事柄をすっかり変えてしまう」(pp. 131-132)という特性があります。(これについては鬼スレ http://mb2.jp/_tetsugaku/951.html も参照ください。)



☆この世俗からの脱離としての狂気と、予言的な狂気とを、どう結びつけるかは、俺個人的な課題です。

さて、しかし、んー、ここで「翼」とは何であるかが説明されなければ、話が分からなくなるでしょう。

そこで4(c、d)に戻る必要があります。
p. 69以降のところで、魂は、「翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者」に喩えられます。

「翼」というのは、ここで言われているもので、これは、重いものを神々の領域の高みまで引き上げてゆくものです。
それらは、神的なものなので、同じく神的な「美・智・善」によってはぐくまれるといわれます。

魂は、喩え話のなかで(喩え話ですよ?)主神ゼウスに率いられてパレードを行うとされます。「魂は全体として、魂なきものの全体を配慮し、時によりところによって姿を変えながら、宇宙をくまなくめぐり歩く」ものです。ここで >>353 の俺の解釈を思い出しておきます。定式「魂は常に動く」というのは、「見回りながら立ち回ること」でした。魂が「配慮」を行うのは、あらゆるものを秩序づけるという主神の意向をかなえるためでしょう。

そうして魂は世界をめぐっているのですが、「聖餐」の時が来ると、最上の高みへむかって険しい行路を行きます。

【もう一度いいますが、これは喩え話です。しかも、プラトンがソクラテスに語らせている喩え話です。そしてソクラテスは『パイドロス』後半で何度かいわれるように、書かれた言葉は「慰み」だとして、それをその場で話される言葉よりも劣ったものとみなしているようです。これにより三重の断りがあるといえるでしょう。(1)プラトン自身が語っていない。(2)語っているソクラテスは、喩え話をしている。(3)プラトンは書かれた言葉にたいして慎重である。こういったことを留意せず、自分の口で、真剣な気持ちで、魂は不死だという人がいて、しかもそれを事実として話しているとしたら、俺はその人から離れるでしょう。しかしだからといって、こんな神話にかかわっていられないという人に近づいてゆくわけでもないですが。】

それを語るとき、ソクラテスはまず神々の魂について語るところからはじめます。

こういう魂は、天球の果ての外へ出て、「天の外の世界を観照する」といわれます。(しつこいですが、もう一度いいますが、俺はイデア界というものが存在すると現代において語る全てのひとから距離を置きます。プラトンが慎重に慎重を重ねたことを尊重したいと思うからです。ただし、プラトンが慎重に慎重を重ねたというのは、解釈です。)



【つづく】

1ヶ月前 No.370

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>370

俺たちにとって天は遠くのものですが、それよりさらに外の領域についてのお話ですと、語られます。

この領域には

>真の意味においてあるところの存在――色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの《実有》


が位置を占めているといわれます。



これらは「いまわれわれがふつうあると呼んでいる事物」と対比されます。



俺の目の前にはノートパソコンがある。これはソクラテスによると「いま俺があると呼んでいる事物」にぞくするだろう。これと対比されて《実有》すなわちイデアがある。しかし、このことから、「天の外の領域にはノートパソコンのイデアがある」と言うのは、バカげていると思う。しかし、こう言いたい人はけっこういるかもしれない。そして、新しい発明品が発明されるたびに、その領域に同時にその発明品のイデアも出現するのか、それともその領域にははじめからその発明品のイデアがあったのかどうかという、疑似問題がうまれる。



ソクラテスが、その領域にあると言うのは

>《正義》そのものであり、《節制》であり、《知識》である(p. 74)

そして《美》である。(pp. 82-83)

この4つのものに《ノートパソコン》を加えてもいいと思うだろうか?
そもそも、こういった領域は俺たちの根源(故郷)なのだから、俺たちの想像で語られるものではない。もしもこれを想像で語るとしたら、俺たちは「本当にはあるのでないもの」をもとに「本当にあるもの」のことを語っていることになるだろう。



それを判断できるようになるためには、プラトンがここで何を言いたいのかを察知する必要があるでしょう。



ひとつの観点は
この領域の「牧場からは、魂の最もすぐれた部分が本来糧とすべき牧草がとれる」「魂を軽快にする翼の原質は、この牧草によって養われる」(p. 76)ということ。

ひとつの観点は
>人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものに則して行なわれなければならない、すなわち、雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きによって総括された単一なるものへと進み行くことによって、行なわれなければならない

そしてこのことがイデアを「想起することにほかならない」(p. 80)ということ。

魂が軽やかになるというのは、地上にしばりつけられる重さから逃れるようになるということでしょう。
このことが、雑多な感覚からはなれて、単一なものを掴むことと同じことだとすれば、
俺たちはふつうは色々と雑多なものによって重くなってしまっているという現状があることでしょう。

こういう状況というのは、慣習的規則にとらわれて身動きがとれなくなっている状態でしょうか。

慣習的規則にとらわれて行動を控える様子は、一見、自分の分をわきまえた大人しい態度にみえます。こうした態度がよしとされるからこそ、狂気は非難される。常軌を逸した振る舞いは、非難の対象になる。それは場を乱し、従来の状況の支配を揺るがす。ただ、ソクラテスは、狂気を善きものだと語ります。ただし、神から授けられた狂気にかんしてであり…病等による狂気なども含めて善とみなしているわけではありません。(p. 131)

さて、狂気によってこうした重い状態を逃れ軽やかになるために、実有の想起がやくだつ。



人間の知の働きにおいて、複数から単一へ、単一から複数へという、ディアレクティケーがあることに注目します。
実有(イデア)というのは、ここでいう「単一」のものに当たります。
そして前( >>353,354 )に書いたような、持続する場が、この単一なものだろうと予想しています。

イデアは点のようなものでしょうか。
それとも、インスタレーションのようなものでしょうか。
俺は後者だと思うのです。
それは一種の光景であり、場面であり、映画であり、世界であるのではないかと思います。
しかし今の時点ではこれはただの「言葉遊び以下のもの」にすぎません。



ここらへんで、狂気の術が「予言術」であるということを考えてみたいです。(pp. 62-66)



【つづく】

1ヶ月前 No.371

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

イデアの話になっているので、以下の文章を挿入しておきます。

この投稿文は、これまでのいくつかの系列(『存在と時間』冒頭系列、超越系列、『ニーチェ』「パイドロス」系列)と並んで、観念論系列とでもいうべき別な系列の端緒です。この投稿文は、その幹が『哲学への寄与』110節の試訳でありますが、できれば和訳で15ページにわたる110節は全訳してみたい。

―――――――――――――――――――――

>>309,313,319

>>361,368 で宣言していた『存在と時間(一)』72頁の「存在を解釈するさいのギリシア的な着手点」の詳細としての『哲学への寄与』第109、110節の拙訳の試み。

第109節は「イデア」と題される。試訳すると:

>イデアはアレーテイアの解釈。アレーテイアがイデアとして解釈されるというこのことが、存在性は対象性である:という定義の前身となる。西洋哲学全史において、アレーテイアとしてのアレーテイアが問われなかったことの理由は、この〔プラトンの〕解釈に存する。

>有る(と有の現有への関わり)をあらためて原初において問うことで、はじめて、当初原初において思考されアレーテイアと名づけられたものを、問うことが出来る。


第110節は「イデア、プラトニズム、観念論」と題されるが、これは109節の第一段落の詳細にあたる。試訳すると:

>1.イデア(エイドス)の概念、これはものの外見のこと。ものは、自分が何であるかをそういう外見でもってアピールしてくる。そう提示された外見におかれて、有るものは、(そのように)有るものである。イデアという語がイデイン(ノエイン)と関係しているからといって、この言葉は表象作用によって表象されたものを意味するわけではなくて、反対に、外見が〔表象作用にたいして〕現われるということを意味している。この外見というものは、〔人間の〕見るという行為にたいして、光景を提供するものだ。この言葉は、近代風に考えられているように、「主観」への関係を知らせてくれるものではなくて、外見において光景が現われること・しかも現前しながら(anwesend)同時に存立(Bestand)をもたらすようなもの・現前すること(Anwesung)といったものを知らせてくれる。ここでは、τι εστιν(essentia、quidditas)とοτι(existentia)とへの分別の根源が、イデアの時間性において、ある。有るものは、存立的な現前性・イデアにおいて、有るものであり、見られること(αληθεια)における見られているものである。


まず、見過ごしがちなところを、箇条書きして、注意を留めやすくしておきます。

・イデアはAussehenだ。
・存在者は自分を示してくる。
・示された現れにおいて存在者は存在者である。
・イデアはまだVorstellenの対象(Vor-gestellte)ではない。
・存在者が存在者の方から現われてくる。
・この現示は、現前と存続。ありありと、ありつづけている。
・現前と存続が、イデアの時間的性格(Zeitlichkeit)。
・「何であるか」と「あるということの」との区別の根源が、イデアにある。
・この区別の根源に、時間性がある。
・見られること(Gesichtetheit)はαληθεια。
・存在者は、見られているもの。
・そしてこれはアレーテイアの解釈。

一番の関心は、イデアの時間性が「本質」と「実存」とに分かれる、その次第です。それについてはいずれ。

>2.イデア。いまだに移り変わるものや複数的なものがそこへと置き戻されるところ。統一する一者。したがってον、存在しているということは=統一しているということ。その結果、イデアは、それの複数的なもの(ヘカスタ)への関わりとともにコイノン(共通するところ)であることになる。そして、奇妙なことに、イデアを後から存在性として・コイノンとして見定めることは存在性の(有の)最初で最後の定義になってしまう。それが「最も一般的なもの」である!


途中だけどコメント:この最も一般的なものというのは、『存在と時間』の冒頭で触れられたものです。『存在と時間』ドクショカイの最初( >>319 )でも触れられました。

>しかし、これは奇妙でなく必然的なこと。なぜなら、初めから有は存在性として「存在者」のほうからのみ、まあ存在しているといえるものからのみ、すなわち複数的なものからのみ、すなわちそこへとたち戻って、そしてそのようにしてのみ、経験され考えられているからだ。


ここでの「初めから」というのは、アレーテイアがイデアと解釈された時点だろうか、それとも、イデア(一)が多とのかかわりで共通点とみなされた時点だろうか。後者である。イデアは、複数的なものへと投企されることによって、コイノンとなる。これがすなわち、「多なるもののほうから」経験されるということだ。

このように考えると、たとえば多様なパソコン全てに共通するパソコンのイデア( >>371 )などという冗談が生ずる余地がうまれます。

共通するところというのは、共通点のようなものであり、複数的なもののどれをとっても、それが共通に持っている性質のようなものとして考えられます。これが、「存在性 Seiendheit」です。存在者の存在は、存在者の共通性質のようなものと見なされます。たとえば、「全ての存在者は現象である」といえば、この現象性が、存在者の存在性である。

1.の時点でのイデア経験は、まだ複数的なものとの関連が本質的なものではありませんが、2.の時点でイデアが複数的なものとの関わりで語られるようになると、複数的なものとの関連はもう本質的なものとなります。そして、現代においてイデアは、ほとんど2.のようなものとしか考えられません。

そして、プラトンが例えば『パイドロス』の物語でソクラテスに語らせている時点において、実有(イデア)は複数的なものとの比較や、ディアレクティケーにおける一と多との運動において語られている。しかし、俺がみるかぎりではこの時点では、イデアは多のものに共通するものではない。それは、複数的なものを「知る」ときに想起されるものにすぎない。それは、まとまりをもたらすもの、同一のものの持続を可能にするもの、ある話と別な話とが同じ話であるための、共通する《ところ》だ。

ハイデガーが「存在性」と対比させるのは「存在の真理」であり、これは共通性質のようなものと対比される、場(時空、空き地)だとおもう。

ここでの1.というのが「最初の原初」だとおもう。


―――――――――――――――――――――

『存在と時間』『ニーチェ』『パイドロス』『哲学への寄与』そしてベルクソンと西田。

いまは「存在による連帯」( http://mb2.jp/_tetsugaku/971.html-155#RES)の実演を演出。

1ヶ月前 No.372

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>370
また、部分的な反応で悪いんですけどね、

>亦これをプラトンにつぎはぎするなら、人間は自分が不死なる魂だということを忘れている、ということになるでしょう。


っていうのは、むしろ逆なんじゃないかと私は思うんですよ。
つまり、ハイデガー的には、「忘却」は、「死に望む存在」であることを忘却しているのであって、したがって、「有限なる存在」であることの忘却ではないんでしょうか。
それが非本来的な在り方、頽落した生の在り方なんじゃないのでしょうか?

プラトンとの対比の意図をきちんと理解しないまま述べているので的外れなら申し訳ないんだけど、
プラトンの「忘却」とハイデガー的な「忘却」は、むしろ逆で、ストレートな対応付けは無理があるというか、混乱のもとになる気がするんですが。

1ヶ月前 No.373

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>373

その通りだと思います。



プラトンの忘却というのは、邦訳原文にならうならば、

>…ひとたび魂が、神に随行することができなくなって、真実在を観そこなったならば、そして、何らかの不幸のため、忘却と悪徳とにみたされて重圧を負い、この重さによって翼を損失し、地上に堕ちた場合…(p. 77)


>ある魂たちは、かの世界の存在を見たときに、それをわずかの間しか目にしなかったし、またある魂たちは、この世に堕ちてから、悪しき運命にめぐり合わせたために、ある種の交わりによって、道をふみ外して正しからざることへむかい、むかし見たもろもろの聖なるものを忘れてしまうからである。(p. 82)


というものです。



久住哲の間違いの第一のものは、プラトンがソクラテスに語らせているのは「人間は自分が不死なる魂だということを忘れている」ということではなくて「魂はかつて観た真実在を忘れている」ということだという事情を無視していることです。忘れられているのは、観られたイデアであって、魂の本来のあり方ではないのです。

予想として、「大多数の魂は、真実在を忘れているとともに、自分は真実在を見たことのある者だという、自分のむかしのあり方も忘れているだろう」と予想はできますが、プラトンはこれを明言していない。

したがって、 >>370 で指摘を受けた箇所は、特に『パイドロス』を読んでいない人にとって、ミスリーディングとなります。



そして、もっと根本的なところを批判するならば:
忘却についてハイデガーとプラトンとの共通点を指摘したところで、それが何になるのか?
いたずらに混乱を招くだけではないか?

これに対して俺が反論しうるとしたら、その反論のための準備として
(1)プラトン『パイドロス』における忘却を解明しておく
(2)ハイデガー『存在と時間』における忘却を解明しておく
(3)『存在と時間』以降の「存在忘却」を解明しておく
といったことがなされたらよいでしょう。

さて、その前に、俺がなぜああいったミスリーディングな発言を隅付き括弧【】で囲んだ文章に混ぜ込んだか?
俺自身にもまだはっきりしてないとある予感ないし予想のようなものがあるからです。
>プラトンとの対比の意図をきちんと理解しないまま述べている

のは、語っている俺自身にも当てはまるでしょう。

『パイドロス』を読むと気づきますが、
魂にも色々なものがあって、ある魂は神々に追いついて多くのイデアを見るのですが、ある魂は時々は見て時々は(自分の一部である馬に邪魔されて)見ない、そしてその他多くの魂は、ほとんどイデアを見ることができず、なかには全然見ることのないものもあるでしょう(p. 75)。「…魂がかつて一度も真実在を見なかったならば、そのような魂は、われわれ人間のこの姿の中にはけっしてやって来ないであろう」(p. 79)と言われていることからして、自分の歴史においてイデアを目にしたことのない魂もあるでしょう。(蛇足ですが、ということは、魂であるためには、イデアを見ておく必要はない。ただし、p. 79で言われておりハイデガーも『ニーチェ』で注意を促しているように、人間の魂は、全てイデアを見たことがあるでしょう。)

すなわち、全ての魂が等しく同じ記憶をもっているという想定ではない。それぞれの魂にそれぞれの「既往」があり歴史がある。
苦しいですが、こういった点から:
人間の魂は全て《等しく無限》の真実在の知識をもっているのでなく、それぞれ《異なる有限》な経験をもっていると言えそうです。

>>353 で触れた話からして、魂が不死であるのは、それが常に動いているから、です。
俺は「人間は自分が不死なる魂だということを忘れている」という言い方をしましたが、
ふくろうさんのお陰で、これは考えの浅い発言だったと判明しました。
まず述べたとおり、プラトンが明言しているのは「イデアの忘却」であり、
また、そこから予想されるのは、「天外の領域における各々の観照経験の忘却」であって、
不死であるという全魂に等しく共通の性質の忘却では、全然ないのです。

そしてプラトンは、魂が特に「その魂に特有の既往」を忘れているなどという言い方はしていないのだから、
俺は「人間は自分が不死なる魂だということを忘れている」をプラトンに関係づけてはならなかった。

よって、発言を撤回します。

言うまでもないですが俺は完璧に語っておらず考えの浅い発言も多い。
指摘の意図を完全に汲むことは難しいですが、できるかぎりで、指摘の意味を解釈したい次第です。



途中、忘却の(1)〜(3)の解明という課題が出ましたが、投稿が進んだとき、しかるべき時が来るでしょう。

―――――――――――――――――――――

指摘を受けて『パイドロス』を読み返していて、
魂の歴史がそれぞれ違うということに注目しつつ読み返していて、

>…結局、その記憶をじゅうぶんにもっている魂はといえば、ほんの少数しか残らない。(p. 82)


という文章が気になりました。

そこでハイデガー『哲学への寄与』の第5節の題が「少数の者たちのために ― 稀なる者たちのために」だったことを思いだし、その節では「慎み」や「畏れ」が語られていたということもぼんやりと思い出しました。

『パイドロス』p. 84以降のあたりで、地上において美しい人をみた魂の「畏怖」(p. 85)や「はじらいと驚き」(p. 94)や「慎み」(p. 96)が言われます。

あらためて『哲学への寄与』を見返してみると、とある三つの気分が「予感」という言葉で中括弧{で列挙されています。
>驚愕

>慎ましさ

>畏れ(die Scheu)


もしかしたら、『哲学への寄与』のこの箇所は『パイドロス』と関係があるかもしれません。

しかし、仮にその関係を確かめるにしても、慎重にみていくべきでしょう。

1ヶ月前 No.374

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

最近の一連のレス( >>348,349,353,354,356,357,358,361,362,370,371,374 )でプラトンの『パイドロス』の要約を試みましたが、うまくできませんでした。俺個人としては、よき再読の機会となりました。勝手ながら予告していた「狂気と予言との関係」について何かを述べることは断念し、ふたたび『ニーチェ』に戻ることとします。というのも、予言について語ることができないと思ったからです。

『ニーチェ』「プラトンのパイドロス篇」の系列は「少って顔に見えね?思索スレだよ!」( http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-1465,1466,1469#a)での俺の軽はずみな引用に端を発し、このスレで少しレス( >>155,342,346,347,348,349,353,354,356,357,358,361,362,370,371,374 )がなされました。その建前上の目的は、ちょっとさんとメドベさんの誤解(と俺が思っているなにか)を解くことですが、本当の目的は、俺の読書のモチベーションをつくることです。

『存在と時間』のドクショカイをするといって、このスレにて一連のレス( >>307,308,309,311,313,315,319,321,323,324,326,327,332,334,335,337,338,339,340,350,353,354,355,366,367,368,369,372,373,374 )を投稿しましたが、(俺は)なにも分かりませんでした。

このスレは

一番はじめはバークリ『人知原理論』の要約( >>1,3,4,7,104 )からはじまりました。

No27〜60あたり( >>27,29,48,49,50,51,53,54,55,56,60 )で、ちょっとの間だけジェイムズの『プラグマティズム』についてぞうさんと要約しあいました。

ハイデガーの『ニーチェ』については全体を通すとこのぐらい( >>106,111,115,116,117,119,120,132,143,144,149,152,155,165,167,168,170,196,211,213,215,216,217,342,346,347,348,349,353,354,356,357,358,361,362,370,371,374 )投稿がありました。中の人さんに『ニーチェ』を買わせることに成功しました。

それからハイデガーの『人間的自由の本質について』という講義録をひたすら最初から要約するという苦行( >>209,212,219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,246,247,250,252,255,259,267,268,270,272,281,288,292 )がなされましたが、このときの記憶はほとんどありません。

ほか、西田幾多郎読書の愚痴( >>173,175,179,181 )や、宿題さんをヤスパースでやっつける作戦( >>13,18,20,214 )など、いろいろありました。



明日死ぬかもしれない。それなのに、こんな文章を投稿してていいんですか?
いいんです。
「朝に道聞かば夕べに死すとも可なり」って言葉を知らないんですか?
そしてハイデガーは自分の全集編集上の留意のところで、この著作集は「道であって、著作集ではない」と言っている。
すなわち
「朝にハイデガー全集を読めば、夕べに死すとも可なり」
ってことだとおもいます。うん

1ヶ月前 No.375

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>…非本来的投企においては、現存在はおのれが配慮しているものごとを現持していて、そこから汲みとってきた可能性へむかっておのれを投企する。このような投企が可能であるのは、現存在がひとごとでないおのれ自身の被投的な存在可能におけるおのれを忘却していることによるのである。


っていう>370でてじさんが引用してるハイデガーの文章なんだけどね、多分、頽落とかいう奴を記述してると思うんだけど、なんか、本来的という言葉と非本来的という言葉が倒錯しているように感じるんだよね。大体、「ひとごとでないおのれ自身の被投的な存在可能におけるおのれ」ってどんなものかって本来的に知りえないでしょ。だから、そのようなおのれを忘却することは、そもそも不可能なことなんだ。この文脈からすると「非本来的投企」ってのは頽落した状態のことで、自分の持ってるものとか人間関係とかを考慮して、そのような限定的な可能性の中で生き方を決めてることで、そうじゃないそのようなものを抜け出たものが本来的投企(分かりやすく書けば、「本当の生き方」)なんだってことだと思うんだけど、可能なものの範囲をくみ取ろうとするのが、むしろ本来的(あるいは普通)なのであって、本来的投企に被投するなんて、「本当の自分」探しをしているような非本来的な(自分を見失った)迷妄状態だ。つまり、本来的と非本来的が倒錯している。もっと書くと、人間的な本来的生き方を頽落という言葉で貶め、非本来的な迷妄状態を本来的とすることで、マットウな人間を非マットウ状態に導いている。こういうとこは、悲惨な結末となったあの時代の例の主義との結合を感じさせる。

1ヶ月前 No.376

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

「存在への視向において存在による連帯を授かるやいなや、人間は自分を超えて立ち出で、いわば自分と存在との間に展開され、こうして脱自的に存在するようになる。このように自分を超え出て高められ、存在そのものへ惹きつけられることが、すなわちερωs(エロス)なのである。存在が人間への関わりにおいて《エロス的》な威力を揮う力をそなえているかぎりでのみ、人間は存在そのものへ思いを致して存在忘却を克服することができるようになる。 」

この文章はマルティン・ハイデガーの『ニーチェ I 美と永遠回帰』(平凡社ライブラリー)268ページにある。

愛を手がかりにハイデガーを読みたい俺としては、存在とのエロス的関係について書かれた上記の文章は、深く読み込みたい箇所だ。

もう少しこの文章をちゃんと読むために、少し前の265ページあたりからゆっくり読んでいく。

ハイデガーはプラトン『パイドロス』から一節を引用する。その内容は、自らの生涯において聖餐のとき「真実在τα οντα」を一度も見たことがない魂はヒトという動物のなかに入ってこなかっただろう、というものだ。ハイデガーはこの一節を解釈して、人間が人間であるためには存在者の存在に関わりをもっていなくてはならない、と読む。すなわち、真実在を観る経験は、人間が人間であるための条件である。そして、人間が人間であるとは、人間が存在者としての存在者に関わることであるのだと、ハイデガーは述べる。「これは特に述べられていないが、暗黙のうちに前提されている」のだという。(いったいどこで前提されているというのか?)いったん彼の主張を受け入れよう。もしそうなら、真実在を観る経験は、人間が存在者そのものに関わるための条件であるだろう。すなわち、真実在をかつて観たことがあるということが、存在者との関わりを可能にしている。「存在が――存在への超望的な関わりが――、存在者との関係を人間に授けるのである。」(265)

俺はいったんハイデガーの主張を受けとめた。しかし、プラトンはどこで、人間の本質は存在者としての存在者に関わることだということを、暗黙のうちに前提していたのか?それらしい箇所は:「人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものに則して行われなければならない」というところだ(79)。プラトンが「知」を重視したのは言うまでもないことだ。たぶん「魂の最もすぐれた部分」(76)というのは、知性のことだろう。これは、イデアの領域の牧草によって養われるのだという(76)。他の箇所では「自己に本来適したものを摂取しようと心がけるかぎりのすべての魂」は「けがれなき智とけがれなき知識とによってはぐくまれる」といわれている(74)。このことからして、人間の本質は知性だということができそうだ。人間が人間であるための最も重要な部分というのは、知である、という意味だ。もしもこの知というものが、存在者への関わりであるとしたら、ハイデガーの読解はただしいだろう。

そうだとしたら、問題は、知とは何であるかである。それと同時に、「存在者としての存在者に関わること」とは何であるか、これも問題だ。この二つが重なるならば、ハイデガーの読解はただしいだろう。はたして重なるのか?

プラトンのいう知とハイデガーのいう存在者への関わりが重なるかどうかを知るために、俺はいまこれら2つを問題にしている。この目的が果たされるのは、プラトンとハイデガーの見識がどういう点においてどういう意味で重なりうるかが分かるということだ。すなわち、「この2つが重なる」という言葉の意味が分かったとき、この2つが重なるかどうかを俺は知る。知るとは、意味が分かることだといえる。これを再び「意味を知ること」と言い換えるとしたら、知という働きの対象は意味だということが示唆されてくる。知は何かという漠然とした問いは、意味を知るとは何かというふうに、すこしだけ詳しい問いになった。

意味を知るとは、言動がなされたり出来事が起こった事情を察することだ。なぜその言葉が言われたか、なぜそういった行為がなされたか、なぜそういうことが起こったのか、そういうことが判明したとき、意味が分かる。意味を知ることと、理由の判明は、同じことだ。原因が判明すると、互いに結びつきようがなかったものたちが繋がる。この繋がりの可能性がひらめくことによって、結びつきうるものがあらためて発見されたりもする。「ここの故障が水漏れの原因であるとしたら、別のあの箇所にも異常が出ているにちがいない」という風に、当初問題になっていた部分の異常の原因の判明は、別なまだ問題視されていない箇所の異常の発見に繋がることがある。理由の判明は、繋がりの可能性に思いいたることだ。そして「だとすれば、あそこも」というふうに、別なところに気がつく。意味を知るとは、「何々だとすれば」という想定のもとで行為することにひとしい。つまり、知るとは、状況の想定だ。この「何々であるとしてみる」という想定は、状況が何であるかを見越すことである。このように「何々だとしてみる」ことによって、別な箇所(これまで注意を向けようとも思わなかった箇所)が、注目すべきところとして、考えのなかに入ってくる。想定することによって、あるものがあるものとして、俺の状況認識に現れてくる。このようにして俺は、特に注意しながら、あるものをあるものとしてその意味を知りながら、それに対してしっかりと対応することができる。

「存在者としての存在者に関わること」は原文では「sicu zum Seienden als solchem verhaelt」である。「sich verhalten」は「〜に対して態度・行動をとる」とか「〜であるように振る舞う」とかを意味する。また、「〜のような状況である」ということも意味する。「態度をとる」とは、相手や対象にたいしてどういう行動をするか決めるということだ。これを決めるためには、相手が何であるか認識しなければならないだろう。あるいは、相手を何と見なすか想定してしまわなければならないだろう。「振る舞う」ときにも、自分が何々であるかのように振る舞うとか、状況が何々であるかのように振る舞うというふうに、何であるかについての想定がなされる。「sich zum Seienden als solchem verhaelt」とは、《あるものをあるものとして、想定しながら、想定のうちで、動く》ということだ。

以上のように、俺は《知》と《存在者との関わり》とを、状況想定によって綜合する。

ハイデガーは「秩序とは何であり法則とは何であるか、節度とは何であり組織とは何であるかを心得ていないとしたら、われわれは何事をも結合して樹立することができず、何ものも整えて保つことができないであろう」(266)といって、《何であるか》という存在の理解が存在者の扱いに欠かせないといい、「真実在を観る経験は、人間が存在者そのものに関わるための条件である」という自己の主張を補強している。ただ、この文章がすこし変というか、意味がわかりにくい。「秩序」「法則」「節度」「組織」というワードがなぜチョイスされたのか謎だ。そしてそこから「結合」「樹立」「整える」「保つ」といった行為が出てくるのも謎だ。
一応、節度の原文は「Fug」であり「結合」の原文は「fuegen」であり、繋がりが目に見える。次の組織というのは「Gefuege」であり、これは「Fug」や「fuegen」と形のうえで似ている。それにしても意味が分からない。一応、秩序は「Ordnung」でありこれは順番を意味し、順番に繋げてゆくということでいえば「結合」に通じる。法則は「Gesetz」だが、この「setzen」は「築くこと」を意味し、「樹立」は「erbauen」でありこれは「建てること」を意味する。しかしふつう「Gesetz」は「法律」とか「法則」を意味する。それは「たてられた掟」である。たてるとは、ものを直立させて目立たせることであり、その目立ったものを目印にすることであり、そうした目処(めど)にしたがって自分の行動を調整すること(目的をたてること)であり、転じて自己を律すること(誓いをたてること)である。人々を律するべく立てられたものが掟だろう。掟は掟つという動詞に由来し、掟つとは、計画すること・計画的にとりおこなうこと・命令すること(計画を提示すること)を意味する。それは人々が互いにそれに従って自分たちの行為をひとつのものに向けるようにするような、計画をたてることだ。
この計画に添うこと、その計画実現のための営為の一部にはまり込むこと、そこに自己を結合させること、それが「sich fuegen」だ。「節度」と訳される「Fug」は、権利・権限を意味し、役割において許されている振る舞い、持ち場における行為可能性を意味するだろう。各々が持ち場を守り、自分の可能性に気遣うなかで、秩序が生まれる。そのように節度をもち秩序を保ちながら互いがひとつの計画に結びついてゆくことによって、建築が可能になる。
と、このようにストーリーをつくれば、上記の謎チョイスワードも、少しだけ意味が分かる。しかし、このように想定すると、「存在」とか「存在者」とかは、どこかへ消えてしまう。そこには視向のようなものはあるが、「存在」はない。ということは、俺の読みは間違っているのだろうか。

存在って何なの?



※上記は >>342,346,347,348,349,353,354,356,357,358,361,362,370,371,374 のつづきである。

1ヶ月前 No.377

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

懸命になって読んでみましたが、「存在とは何か」は分かりませんでした。仕方がないので、「存在、存在者、ハイデガー」で検索して、解説を色々読んでみる。やっぱりよく分からんかったが、心眼(カン)で眺めると、どうやら「存在」とは「存在者を存在者となしているところの働き」のことらしい。そう思えば、プラトンのイデアが概念の暗喩として出てくるのは納得できるところではある。

1ヶ月前 No.378

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

例の主義へのハイデガーの関与や彼の反ユダヤ的発言について調べるにつれて、ハイデガーを読む気がなくなってきた。

俺はかなりハイデガーに偏って読書してきた。俺にとって読書は、イコール、ハイデガー読書だった。それはそれで良かったと思う。

しかし、その余り、俺はプラトンの「魂は常に動くものである」というのを、内存在的に解釈したりした。この自分の解釈に、俺は違和感を覚えた。(※ほんとうは、違和感を覚えてなどいないが、いま、違和感を覚えたということにした。)

俺にはハイデガー読書が染みついている。俺の肉体にも染みついていると言っていい。俺の実存にハイデガー読書は食い込んでいる。一時期はそれだけが生きている楽しみだった。

すこしこのシミを漂白しようかなと思う。





ところで、最近本屋行かないから気づかなかったんだけどさ…

ちくま学芸文庫から!
先月!
ヘーゲルの!
『精神現象学』の翻訳出てるじゃないか!

なんで誰も教えてくれないの?



[壁に向かって]さ、お菓子を食べたりコーヒーを飲んだりしながら、哲学書を囲んでお喋りしよう。[本棚を眺めながら]そうだなあ…一番先に目についた本でも読もうか。これにしよう!えーと、『省察』か。

そうだね、どうしてもデカルト論破スレが気になってるんだね。もう我慢できなくて最近立った我思うスレとは別の我思うスレ( http://mb2.jp/_tetsugaku/861.html-59,60#a)にひそかに投稿していたもんね。

しかし、上記リンク先の読解は、ハイデガー読書に侵されているままだ。(※それが悪いことだなんて言わないよ。)漂白を意識して、読解文を構築しなおしてみようかな。少しずつハイデガー読書を身体から抜いていこう。でも安心して!もはやハイデガー読書は、俺の内臓のひとつ。それは、一時期ついた傷のようなものでもなく、いっとき飲み込んでいる消化の悪い食べ物でもなく、義肢でもない、血肉という移り変わるものでもなく、俺の身体全体において居場所をもち、役割を果たしている、器官なのだから。漂白したところで、ずっと残るから、せっかく積み上げて(?)きたそれが消えてしまうのではという不安は、抱かなくてもいい。

さあ、君はまた一番最初にここに来たころ( http://mb2.jp/_tetsugaku/720.html-966#a)の君に戻るんだよ。再び迷いの道へ。そして、また元の名前に戻るがいい。

1ヶ月前 No.379

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

☆前回のあらすじ

使用するのはルネ・デカルト『省察』山田弘明訳(ちくま学芸文庫)です。

デカルトは序言で自分に対しての反論を2つ紹介してる。

>人間精神は自分自身に向き直ると、自分を考えるものであるとしか認識しないということから、その本性あるいは「本質」はただ考えることだけに存するということは帰結しない(この「ただ」という語が、やはり精神の本性に属するとおそらく言われうる他のすべてのものを排除するから)(p. 22)


ひとが例の方法論的懐疑で自分自身について考えたときに、「自分とは考えるものだ」としか認識しないとしても、だからといって、その他の性質が精神から除外されるわけではない、ということかな。すなわち、人間精神の自己反省はそれ自体で自己自身の本質の完全な洞察であるとはかぎらない、ということかな。ということは、反論の主旨は、自己反省には完全な洞察力がないのに、あたかも完全な洞察力があるかのように、デカルト氏は見せかけている、というような批判であるということかな。

これに対するデカルトの応答は、相手の「自己反省の洞察力を過大評価してるのでは?」という批判点に答えている。

デカルトはこう答えている:

>私もそこでそれらを排除しようと欲したのは、事物の真理そのものの秩序においてではなく(あのとき私はそれを問題としたのではなかった)、単に私の認識の秩序においてであるにすぎない。したがってその意味は、私の本質に属していると私が知るものとしては、考えるものあるいは自ら考える能力をもつものということだけしか私は明らかに認識しない、ということであった。(p. 22)


ここで「私も」と言うことで、デカルトは、「私も自己反省にそれほどの能力を認めてはいない」と言っている。すなわち、「事物の真理そのものの秩序」における精神の有り様を見抜くような力を、自己反省に認めているのではないと言っている。そうしてその力を「私の認識の秩序」という範囲に抑えている。

上記反論が前提しているのは、認識される本性よりも、より存在的なものとして、“形相的”なすなわち“実在的”な本性がある、といったものだろう。たしかに、「自分は考えるものだ」という認識はあるだろうし、もしかしあたらそういった認識しか得られないかもしれない。しかし認識されてはいないが実は精神に属している本性といったものがあるかもしれない。認識される本性がひとつだからといって、実際の有り様もひとつに限定されるだろうか?いや、認識されるのはひとつ(思惟のみ)だとしても、実際に人間精神に属しているものがひとつだとは限らないだろう・・・と反論者は言いたいだろう・・・と、俺は思う。

デカルトはまず、「いや、自己反省が人間精神の実在的本性を見抜くなんて言ってません。私ははじめから、認識する限りで、という限定つきでしか、話してませんよ、すなわち、私が『私の本質は考えるということだけである』と言ったのは、『私の自己反省には私の実在的形相的本性をすべて見抜く力があるのだが、この全てを見通す洞察によると、私の本性は思考に尽きる。ところで、洞察は本性を残らず見抜くものなんであるが、私は思考以外を私の本性にみなかった。ゆえに、私の本質には思考しか属さないと分かった。これは洞察が保証するところのものだ』という意味 で は な い んです」と言います。

そして、さきほど引用したデカルトの応答は、以下のようにつづきます:

>しかし以下において私は、他のいかなるものも私の本性には属さないと私が認識することから、どうして、実際にまた他のいかなるものも、私の本性に属さないことが帰結するのかを説明するであろう(p. 22)


すなわち、デカルトは、私の本質には思考しか属さない(そしてこれは実際のことだ)という結論を、取り下げない。
反論者に「私も…」と譲歩したけど、結論部分を撤回することはない。

デカルトは「たしかに、私の洞察には、『事物の真理そのものの秩序』を透視する能力はない。これはあなたが指摘したとおりだ。しかし、もしそうだとしても、私の推論は揺るがない、なぜなら…」というしかたで、反論しようとしている。その「なぜなら…」のつづきが気になるところ。

このデカルトによる反論の本旨は、「あなたの指摘は、指摘それ自体は間違っていないが、的はずれです。私の意図はそこにはありません」といった反論でしょう。デカルトがこのあとでどういう発想を提示してくるか。俺には予想がつく。観念論(Idealism)を提示するにちがいない。

すなわち、デカルトは逆転を行うにちがいない。

まず事象の本性があり、それを私が洞察するのではない。こと「私自身」というものについて語るときには、事象の本性が実在的に隠されており、認識者がそれを洞察するわけではない。したがって、認識者の能力や認識それ自体の能力によって、事象の本性が部分的にしか明らかにならなかったり、極めて優れた認識には全部分明らかになったりとか、そういったことは起こらない。私によって洞察されるかぎりにおいて、私自身の本性が決まるのだ。

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのだ」的な発想。
この観念論的発想が提示されるにちがいない。

なお反論を受けているデカルトの発言は『方法序説』にあります。岩波文庫の谷川多佳子訳から引用すると:

>それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。(46-47)


ここで言われているのは、端的に言うと、「私が存在する」ということは、他のもろもろの事物が存在するということとは、わけが違うということです。
言い換えると、私は物質ではないということ。私は物質とは別な実体であるということ。

私が考えるためには、物質(身体)が要るかのように思えます。なぜなら、私が身体なしで思考したことはいまだかつて無いからです。しかし、このことから、身体がなければ思考できないということは帰結されません。というのも、「身体なしで思考した経験が俺にはない」というのは経験的な理由でしかない。少なくともこの理由では、身体は思考に不可欠だとまでは言えない。なので、身体がなければ思考できないという推論は、正しいとはかぎらない。

しかし、たしかに、身体がなければ思考はできないでしょう。しかし、それでも、身体が思考する実体(魂)の存在を支えているわけではない。物質的なものが原因となって、思考が結果として生じているのではない。これらのあいだには因果関係があるのではない。魂が存在するというのと、身体が存在するというのと、このふたつの「存在する」の意味はまったく違う…ということです。



[以上は、俺が別スレッドに投稿した『省察』序言の解釈です。すこし整理すると、ここでは「事物の真理そのものの秩序」と「私の認識の秩序」という2つが対比されていたり、「物質が存在する」と「私が存在する」という2つが対比されていたりする。この2つの対比は、2つ違う種類の対比です。俺が批判を行うとしたら、物体と精神という2つの実体にたいして、同じ「存在する」という言葉を使うから変になるのではないかな?と言うだろう。しかし、批判するまえに、デカルトが何を言っているかみておこう。デカルトは序言の末尾で、この本を全部読んでからこの本について判断してくださいねと言っている。『省察』を批判するのは、この本を通読してからにしよう。]

1ヶ月前 No.380

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>380

☆『省察』第一省察第一段落要約(pp. 34-35)

・現在の私の知識は、これまで私が認識してきたものによって構成されている。
・これまで正しいと思ってきたことが実は間違いだったと気づくことが多かった。
・現在の私の知識は、後から「実は間違っていた」と気づくかもしれない、疑わしい認識によって構成されている。
・学問において確固として持続するものを樹立しようと思うなら、これではいけない。
・後から間違いだったと気づくことのないような知識を構築したい。
・そのためには、これまで積み上げてきたものは無視して、最初からやり直さないといけないだろう。
・まず今の自分の意見を取り壊すことにしよう。



☆コメント

永井均先生は『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』p. 26で、不可疑というものを次のように整理している:

直接的に経験される事実が「もしかしたら偽なのでは」という風に疑えないのは、主観と客観との区別がないからだ。偽であるとは、主観的にはそう思えるが客観的にはそうではないという意味だ。が、そもそも主観客観の区別がないなら、偽の可能性がそもそもない。だから、主客未分の直接経験の事実は不可疑。永井先生は主観を信念と言いかえ、客観を事実と言いかえ、話を分かりやすくしている。偽とは、そう信じられているが事実はそうではない、という意味だ。しかし、信念と事実が区別されない直接経験においては、信念=事実が食い違うことがありえない。

デカルトが『省察』第一省察第一段落で、偽なるものを真なるものと認めていた認識のうえに築いた信念は疑わしいと言った。なぜ疑わしいのかというと、そう信じていたのに事実はそうでなかった(偽であった)ということがありえるということが、疑わしいということの意味だからだ。

一度、《正しいと確信していた認識が実は偽だったと知った》という衝撃的な経験をすると、《まだ偽だったと判明していないだけで、正しいと今でも確信している残りの認識も、実はすべて偽なのではないか》という疑いが生まれるだろう。だって、衝撃的に偽だと判明するまでは、俺はそういう認識を確信していただろうから。確信していたけど、偽だと判明した。もしそうなら、今自分がとある認識を確信しているという単なる事実が、なにになろう。それは何の保証にもならない。根拠のない自信でしかないじゃないか。それがいつ崩れるか分からない。そんな不安定な状態で、確固としたものを樹立できるか?いや、怪しいものだ…

このことから予想される展開:要するに、将来偽だと判明することのない認識を得ればいいんだろうな。けど、「お、これこそ永遠に正しいぞ」という認識を発見しても、それは何の保証にもならない。だって、俺はそういった認識が偽だと覆る経験を繰り返してきたんだから。そうなると、《将来偽だと判明することがない》ってどういうことなんだっていう考察が始まるはずだ。西田幾多郎さんなら《将来偽だと判明することがない》とは「未だ主もなく客もない」ということだと言うかもしれないな。《いつか2つのものが食い違うかも》というのは《2つのものが分かれている以後》のことだ。《まだ2つのものが分かれていない》時点に立つなら、食い違う可能性の外にある。このことはさっきも言った。
この論理が成り立つのは、永井均先生の分析《偽とは、信念ではそうだが事実はそうではない》を前提しているからだ。偽であるとは何かについて、永井先生の分析を鵜呑みにしてもいいのかという疑念はある。しかし明らかに《偽である》とは《事実と違う》という意味だ。そして何が《事実と違う》のかというと、言われたことや書かれていること、あるいは思い込まれていることだろう。ところで、「自分は正しいのか、間違っているんじゃないか」という問いで疑われている《間違い》は、信念と事実との食い違いではない。自分はあるべき姿から外れているのではないか、という疑いだ。偽というのは、《間違っている》ことの一種だが、《間違っている》は偽に尽きない。とりあえずこの点にだけ注意しておこう。

1ヶ月前 No.381

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>381

☆『省察』第一省察第二・三段落要約(p. 35)

・偽だと分かるまでひとつひとつの意見に付き合わなくてもいい。
・偽だとの判明を待たず、確実かどうか微妙なら、偽扱いしてしまおう。
・じゃあ、全ての意見にあたって、それが確実か微妙かを判定しなきゃだめ?
・いや、基礎をくずせば、そのうえにたてられたものは崩壊する。
・意見の原理だけ検討すればいい。
・私の意見は感覚由来だ。感覚が原理だ。
・感覚はときに人を欺く。なので感覚由来の意見はすべて偽だとしよう。



☆反復
意見を全部壊すよ!え?じゃあ今の意見が全部偽だと証明しなきゃだめ?いや、意見をみて、それが疑わしければ、偽だと証明されたのと同じくらいの強度でその意見を放棄しちゃえばいい。え?じゃあ意見が疑わしいかどうか、結局全部の意見を見なきゃだめ?いや、色んな意見を俺は持ってるけど、それらを支える基礎があるはず。その基礎が少しでも疑わしければ、その基礎にもとづく全ての意見を放棄しちゃっていいってことにしよう。その基礎ってなに?感覚さ。だって俺たちは「感覚から」ものの色とか形とかを認識するし「感覚を通して」先生とか両親とかの話を聞いて意見を形成するものだからね。〔p. 162〕ところで、「イギリス」のことを終始「イリギス」と言う人がいる。彼はイリギスという国があると思っているし、イギリスと聞くと必ずそう聞き間違える。こういうことはある。だから最大限に疑うなら、「俺はいままで自分の名前を『てじ』と発音すると思っていた。だって両親が『てじ』と呼ぶもんだから。でも実は、俺の耳がおかしくて俺の名前の発音は実は『ペイジ』なのに毎回聞き間違えているのかもしれない」という次第で、俺は自分の名前が「てじ」であるのかどうかも、疑わしいと思っていいだろう。



☆コメント
ここでは「感覚由来の全ての判断は偽である」と主張されているわけではない。「いまは、意見のなかにわずかでも疑いうるところがあったら、その意見全体が偽であると証明されたときと同じくらいの《信用強度》でもって、その意見を扱おう」といわれている。そう言ったうえで、「《信用強度》が最高でないものは、すべて《信用強度》ゼロとして扱おう」といっている。いいかえると「ある意見がどの程度信じられるか、という常識的な視点を捨てて、真か偽かという過激な裁定をしよう」といっている。俺はまわりくどい言い方をした。けど、「意見というのはふつう、それがどの程度信用に値するかによって、採用されたり放棄されたりする」という常識からスタートしたデカルトってなんて丁寧なんだろうと、俺はあらためて驚いた。
この《信用強度》という観点は、その後の考察でも大きな役割を果たしているというのが、俺の読書感想である。

ゆみさんは別スレでの投稿( ttp://mb2.jp/_tetsugaku/1101.html-78#a)で「デカルトの悪霊の話は、そもそもデカルトが『これ以上疑う余地なく疑ったこと』を証明するために持ち出してきた物なんじゃないか」と感想をもらしている。
この悪霊は、例えば『省察』第一省察第十二段落(pp. 41-42)で登場する。この悪霊は神に匹敵する力能でもってデカルト自身を欺こうとしていると、想定されている。これは、疑わしいものへの同意を控えることを徹底させるための装置として導入された。
疑わしいと想定された意見は、「ある意味では疑わしいが、しかしそれでもきわめて確からしく、否定するよりも信用する方がはるかに理にかなっている」と想定される可能性がある。もしそうなると、《信用強度》が最高でないがほとんど最高であるものは、ほぼ信用できるので、信用することにしよう、というふうにこれまでの常識に流されてしまいそうになるかもしれない。「うん、そう思うわ。実際はそう思う。でも、いま、自分を騙そう。自分に嘘をつこう。信用できると思ったとしても、信用できないと思ったことにしよう」というふうに、自分に嘘をつくこと(自己欺瞞)をデカルトは自分に許す。
自分で自分に嘘をつく(本当は正しいと確信してるけど、正しいと確信してないってことにする)ということから、《欺かれる自己》が導入され、これの欺き手として悪霊が導入される。これによって、《信用強度》最高のものを《信用強度》ゼロとして扱う理由ができる。全力で騙そうとする悪霊に騙されないために同意を控えるということは、自分が正しいと最高度の《信用強度》で確信している意見も疑わしいと見なすことであり、最高度の懐疑である。だからゆみさんは《悪霊は最高度の懐疑の証明のために持ち出された》という感想をもつにいたったのだと、俺は解釈する。

解釈:悪霊は《自分に嘘をつく》という行為を客観化するために要請された。これによってデカルトは《信用強度》というものを完全に破壊した。この程度問題の破壊によって《質的に異なる確実性》の出現が予告されているといえる。そういう筋書きだ。《信用強度が破壊されたうえでの確実性とは何か?》という裏問題が出現したのだ。

ところで、ゆみさんは自分の意見についての是非を識者ザビビのふくろうさんにたずね、彼はNo84にて「非」と判定した。俺は、ゆみさんが件の感想をもらすにいたった経緯を上記のように解釈したが、しかし、ザビビのふくろうさんが「いや、違うよ」と答えるにいたる経緯もあると解釈する。すなわち、ゆみさんも正しいし、ふくろうさんも正しいというのが、俺の解釈だ。ゆみさんはふくろうさんの助言をうけて別サイトにあたり、「『私』の存在を悪霊が欺こうとしていた場合、悪霊の欺くという作用が向かうところは当然『私』であり、『私』が存在しないと欺くことはできなくなるのだから、『私』は存在していると言える」と述べた。これは第二省察第三段落(pp. 44-45)の内容だ。俺の解釈では、ふくろうさんが「合っていない」と言ったのは、《悪霊の議論の要点は、懐疑の強度の最高性の証明ではない》からだ。そこで止まっては意味がないということだろう。

《信用強度》が破壊され、確実さの度合いといったものが度外視されたことにより、《最高度の確実性》は《最も強度の高い確実性》という意味を失う。それは《絶対確実》という意味を得る。この絶対確実は、全ての信用強度の無効化の反対側に置かれるものだ。そしてこの《全ての信用強度の無効化》というのが《最高度の懐疑》であり、この《全強度をカバーする懐疑》を導入する装置が悪霊である。この悪霊の原型は《自分に嘘をつく》という自己欺瞞である。自己欺瞞とは「本当はその意見確実に正しいと思っているんだけど、確実に正しいと思ってないことにして、確実に正しいと思っていないから疑いえるってことにして、疑いえるんだから偽だと判明したのと同じように、その意見を全く信用しない」といったことだ。つまりは「全信念の無効化」である。
ここから形式的図式的な話だけすると:信用強度という枠組そのものが破壊されることで全信用強度が無効化され最高度の懐疑が出来上がる。最高度の懐疑とは、自己欺瞞を原型とする悪霊の全力の欺瞞だ。この欺瞞のなかで確実なものが見つかる。ところで、すでにありとあらゆる信用強度の意見・あらゆる確実性は無効化されている。ということは、いまあらたに見つかった確実なものは、信用強度と無関係な確実性をもっているだろう。

その、強度なき確実性、それが「私は存在する」ということだ・・・というのが話の流れ。こう、話の展開を予想しておく。予想だけしておこう。

第一省察第二段落の要約へと話を戻す。ここでも、信用強度低いものは信用強度ゼロ扱いしてしまえ、ということが言われている。第一省察は終始その話であり、信用強度ゼロ扱いされるものがどんどん増えてゆく展開が予想される。俺はとりあえずの今の解釈として:『省察』議論における懐疑の役割は信用強度の破壊、確実性の度合いの破壊である、と述べておく。この解釈はこれだけでは無意味だ。破壊された度合いが「思う我」の性質に関わってくると解釈できてはじめて、この解釈は活きてくる。この解釈が活きるかどうかは、まだ分からない。核心部分をまだ読解していないからだ。

1ヶ月前 No.382

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

あれ、そっちいきますか。分析したい気もするが、やめておこう。そういや、むか〜し、記号論理学のセンコーが、授業の最中に「僕の手はあるけど僕はいない、僕の顔はあるが僕はいない、ボクはいったいどこにいるんだ」とかワケの分らんことを言っていたな。(これは、以前どっかに書いた。)俺たちは、内心「お前はそこにいるだろ」と毒づきながら、「言葉が計算できる」という演算にだけ興味があるアンポン〇ンだったんだ。

1ヶ月前 No.383

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

いや、できれば私も『存在と時間』をやってほしいのですが(笑)

どれだけ参加できるかは確たることが全く言えないんだけど。

>>383
言葉が計算できるなんてすごいじゃないの?
人類史上初めてその着想をえたのはたぶんライプニッツだと思うな
ホント天才
まあ、その先生はわかんないけど(笑)

1ヶ月前 No.384

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

ふん、記号論理なんてたいして役に立たなかったな。該当の講義の試験にすらね。普通、記号論理学なんだから、その手の問題がでると思うだろ。ところが、ところが、試験問題ときたら、松果腺だか松果体だかについて論ぜよだったか、説明せよだったか、そんなんだよ。そんなの、記号演算の説明の合間に、前の方でなんかフガフガ言ってた奴じゃないか。聞いてるわけないじゃん。仕方がないので、思いつくまま長々書いたら、単位だけはくれたよ。ま、パンキョーだしな。以上、デカルトつながりということで。

1ヶ月前 No.385

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>分析したい気もするが、やめておこう。


>デカルトによれば、哲学の証明(記述)には総合と分析との二つの仕方がある。総合の道は幾何学の秩序であり、定義や定理などによって結論を論証する。だが分析の道は発見の結果でなく「事物が見つけ出されたその仕方を示す」(「第二答弁」)。それこそが形而上学にふさわしく、『省察』は分析にのみしたがっている。(山田弘明「解説」p. 241)


解説のこの箇所がよく分からなかった。

分析は《事物の発見の結果》ではなく《事物の発見の方法》を示すということだろうか。『省察』でいえば、ego sumが発見された結果が提示されているのでなく、ego sumを発見する方法が提示されているのだ、ということだろうか。発見のための方法は、発見に先立つ。先立つものが提示され、それを「分析」することで、発見が起こり、発見されたものにいたる。ということは、分析というのは、《事物を見つけ出す仕方の実践》であるだろう。なので「要するに省察という形式の下に書いたのは、読者が『私と共に事物を注意深く考察し、かつ省察してくれること』を期すからであるという」と言われている。したがって「分析」といっても、これは《事物の分析》ではないだろう。事物の分析であれば、それは、事物を先立つものとみなすということだ。しかし、先立つものは方法である。なので無理矢理日本語を作るとなると、『省察』というのは《方法の分析》であるだろう。しかし、そうなるとまたおかしくなる。別に『省察』は、例えば《懐疑という方法》を与えられた対象としてそれを分析している本ではないからだ。そういうわけで、俺は「分析」という言葉に違和感を覚えるのだ。

分析というのはふつう、複雑な現象等を単純な要素へと分けていって、当の現象の構造等を明らかにすることだ。先立つものは《複雑なもの》であり、この構造物がばらばらに分解されることが、分析であるようにおもわれる。しかし、逆に、一般的な意味における分析の分解とは、《複雑なもの》に先立つ《単純なもの》に注意を向けることであるだろう。すなわち、複雑なものは《構成されたもの》であり、単純な要素は《構成するもの》である。構成されたものを分解して構成するものへと注意を向けかえることによって、その構成要素がどのように組み合って構成されたものを構成しているのかをみるのである。もしそうであれば、分解の本質は再構成だということになるだろう。すなわち、分解とは、その根本的な意義からすれば、複数のものへと分けることであるというよりは、複数的なもの(構造物)へと要素をひとつへ構築することである。

俺たちは様々な意見を持っている。これを《複雑な現象》だとしてみよう。デカルトは『省察』で、もろもろの意見を支える原理として「感覚」や「範疇」を析出する。この析出は分析だろう。さて、もし分析の本質が再構成であるとしたら、いまのばあいの分析はどういう意味で再構成でありうるか?それは例えば、すべての意見は感覚と範疇とが組み合わされたものだということだ。意見がある。これだけではよく分からない。意見は、感覚と範疇とが組み合わされて、ある。こうなると、意見の構造がみえてくる。構造とは、ここでは単純に、感覚と範疇とが組み合うことだとしよう。意見というものは、それに先立つ感覚と範疇とが組み合うことで、はじめて、そのようなものとしてある。《先立つもの》としての感覚と範疇を組み立てることにより、《意見という完成品》を再構成している。そういう意味で再構成である。

分析は「事物が見つけ出されたその仕方を示す」と言われた。しかし、これは別に《方法の分析》ではない。方法の再構成ではない。それは、発見の構造をみえるようにすること、である。「仕方を示す」というのは、方法を示すということ・方途を示すということ・道筋を示すということであり、この《道筋を示すこと》が、いわば、どのように組み合わさって構築物がそのようなものとしてあるかを示すことに類する。そして分析の本質は、ばらばらにすることではなく、再構成であり、《最初にあるもの》を終着点に設定することであった。というのも、構成されたものが最初にあるのだが、それを《再び構成する》ということは、最初にゴールが与えられた状態で、そのゴールへと向かうようなものだからだ。すなわち、ここでの《再び》というのは、《最初を最後にすること》である。このようにして、最初のもの(まだ構造がみえていないもの)が分析され、それを構成するものが分析され、それらが最初のものを構成する仕方が示されることによって最初のものは再構成され再び完成し終わりのものとなり、最初のものの構造がみえるようになる。

最初のものは、最初のもののままだが、その構造が見えない状態から、その構造が見える状態へと変わっている。《対象の構造を可視化することで対象を理解する》という方法が分析である。そしてこの可視化は《再構成の仕方を示す》ことによってなされる。可視化によって見えるようになるもの、目につくようになるものは、《構成要素が互いにどのように結合しあうかという、その具合》である。いわば、部品の突起やくぼみが見えるようになること。《構造がまだ見えるようになっておらず接ぎ目もみえずまるで単純なもの》と思われていた時期には見えなかった突起やくぼみが、再構成を通じて得た記憶によって、『実は裏にそれがあり、それにより互いに組み合って構成物が構成されている』と分かるようになるということ。ここでの可視化とは、裏を知ることだ。

あらためて依頼品をみてみよう。『省察』は分析だという。分析は、その本質は、再構成であり、この再構成の本質は、ものの裏の構造を知ることだ。デカルトは『省察』第一省察冒頭でこう言っている:

>子供のころから私は、いかに多くの偽なるものを真なるものと認めてきたことか、そして、その後その上に築いてきたものが、どれもこれもいかに疑わしいことか。(p. 34)


すなわち、《私の知》は築かれたものであり、構成物であり、それには構造があるだろう。デカルトは同じ箇所で、この構成物を「根底からくつがえし、最初の基礎から新たに始めなければならない」と言っている。デカルトのもつ意図は、再構成の意図である。だから、『省察』は分析である。しかし、これは《形式だけの話》だ。

読解的問題は《発見された基礎ego sumは、おそらく構成要素であろうが、どういうふうに見たらそれが構成要素にみえるようになるか》である。



が、以下再開する『省察』要約では、この読解的問題をテーマとせず、まず書かれていることを読むことに専念します。



>>383
いつかウィトゲンシュタインの『確実性の問題』を読みます。

>>384
『存在と時間』も読みましょう。 >>373>>376 にまだしっかり応対していないですし。

>>382
・「反復」の《感覚が欺く》の例が不適切。
・信用強度なんて言葉は無い。
・確実性の度合いは注目すべき観点か?過度な注目では?
・自己欺瞞と悪霊との関係の証示が疎か。

1ヶ月前 No.386

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>あらためて依頼品をみてみよう。


アナタ、鑑定団を見てますね。

1ヶ月前 No.387

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>382

☆『省察』第一省察第四段落要約(pp. 35-36)

・感覚由来のものでも疑えなそうなものがある。
・それは、例えば、俺がいまパソコンのキーボードに指を置いていることとか、ヨガマットのうえに座っていることとかだ。
・この身体が俺のものであることは疑えなそうだ。
・そういうことを否認するのは狂人ぐらいだ。

☆コメント

感覚由来の意見は疑わしい。なぜなら、時として感覚は俺を欺いてきたからだ。視界のはっきりしないとき階段がもう一段あると思ってたら実はなくて足が空を踏みしめようとして身体のバランスを崩したことなどが俺にはある。わざと階段を踏み間違えるふりをするときと、本気で階段を踏み間違えるときは、身体の感じが違う。本気で間違うときは、脚の安全への気遣いがまるでないので、グキッと行く場合もある。こういうとき、俺は本気で感覚を信用していながら、感覚に裏切られている。暗い場所では、明るい場所でよりも、視覚は信用ならない。なので暗い場所では、足どりはより慎重により用心深くなる。例えば、階段がもう一段あるように見えても、《階段がもう一段ある》という意見を採用しないでおいて、階段の有無を探るように足を空にさまよわせることがある。このとき俺は、感覚を疑い、それに同意を差し控え、その感覚が正しいかどうか確認している。このような疑いを明るいところでももつとどうなるか。俺の右前方にはコップがあるけど、実はコップがないかもしれない。そうなると《右前方にコップがある》という意見を採用しないでおいて、コップがあるようにみえるところを手で探るだろう。
しかし、デカルトが言っているのは、こういうことでない気がする。目の前のコップの存在を疑うならば、その存在があるかどうかを探る行為を懐疑者は行うだろう…というところまで考えていないようにおもえる。とにかく、例えば暗い場所では視覚の信用度は下がる。この信用度は、部屋が明るくなるにつれて上がってゆくかもしれない。では、十分に部屋を明るくしたとき、この信用度は完全なものとなるのだろうか?いや、ごくわずかに、信用できないところが、疑わしいところが残るかもしれない。もしそうなら、暗い場所で視覚を疑うように、明るい場所でも視覚を疑おう。そういう類いのことは言っているかもしれない。

しかし、俺はいま服を着ている。これは確かだ。なぜこれが、暗い場所における《階段がもう一段ある》という意見よりも、より確実であるのか。仮に、この部屋を真っ暗にしても、俺が服を着ていることの確実さは減らないだろう。あるいは、この部屋をとても寒くして、皮膚の感覚をすこし麻痺させても、確実さは減らないだろう。どういう意味でデカルトは、感覚由来のものでも「私がここにいること」「暖炉のそばに座っていること」「冬着を身につけていること」などが疑えない意見だと言ったのだろう。これらの意見と対比された狂人の意見というのは、貧乏なのに《自分は王様だ》と思うこと、自分の身体が《ガラスで出来ている》と思うこと。そういったことだ。これらは、《自分がいま置かれている状況についての意見》であるだろう。
しかしデカルトは《自分がいま置かれている状況》などという言葉は言っていない。そのかわり「この手そのもの、そしてこの身体全体が私のものであること」を否定する理由はないだろうと言っている。デカルトがここに導入した要素は《身体》である。そこで《頭が粘土製だ》とか《全身が水瓶である》とかの《身体についての狂った意見》が例として出されている。では「私がここにいること」なども、身体の話なのだろうか。そうも言えるだろう。しかし、この場合の身体って何なのか。それは、自分に関わることだ。ここでいう《頭が粘土製》だとかいうのは、他人の頭が粘土でできてるということでなく、ほかならぬ自分の頭が粘土だという話だろう。そしてデカルトは、「身体」とも言ったが、「私のものである」とも言ったのだ。ここでは諸々の意見が検討されており、いまは感覚由来の意見が検討されている。最初に疑わしいとされたのは外に見えるもの、たとえば「小さなものや、かなり遠いもの」の疑わしさである。俺の例で言うと、《暗くてよく見えないもの》の疑わしさ。そして次に検討されるのは、自分・自分の体・自分の状況だ。
なぜ狂人が話に持ち出されてきたか?それは、《自分の置かれている状況について誤るなんて起こりっこない》という意見への反例としてである。すなわち、《狂人であれば、最も熟知されているはずの自分のことについても間違える》のであって、自分についての意見を間違えることなどない、なんてことは全くないのではないのだ。でも、彼らは狂人だからそうなんだよ?(笑)デカルトさん、もしあなたが、「彼らの主張するような意味で私は『私はヨガマットの上に座っている』と主張しているんだ」なんて言うとしたらだよ、それは、あなたも彼らと劣らず頭がおかしいってことになるでしょうね。と、このようにして、《自分についての意見も偽でありうる》→《ただし狂人の場合に限る》→《俺は狂人じゃない》→《じゃあ、やっぱり、自分についての意見は偽でありえないだろう》と、結局狂人の例は俺の信用度を下げるまでにいかない。

※誰かフーコーかデリダに詳しい人がいたら、この箇所についての彼らの議論を紹介していただきたい。

ここで導入された話題:自分・自分の身体・自分が置かれている状況。ここで特に、自己と身体が、他の感覚由来のものとは区別されているということ。これにはどういう意味があるか。ひとつ意味があるとすれば、ここで自分と身体を、感覚されるもののなかで特別扱いすることによって、感覚されるもの全体のうちに差別がうまれる。そこで、いまの話に立体感がうまれる。この立体感というか次元性みたいなものを引きずったまま、次段落では《夢の話》がなされることになる。

そしてまた、これは分析( >>386 )であるのだが、分析のこの段階で、話は「我思う」へと近づいている。すなわち、《なぜ外物についての意見よりも、自分の身体ないし自分の置かれている状況についての意見のほうが、確実性が高いのか》を説明する原理へと、近づいている。(実際に、この確実性の差の理由が説明されているか否かは、しらないが。)

1ヶ月前 No.388

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

『存在と時間』における「忘却」

『存在と時間』のなかで、忘却という言葉が、他の言葉とどのように結びつくか。この言葉はどのような論のなかに組み込まれているか。それを調べてみたい。あたかも、からくりを分解して、その部品を取り出し、その部品を単体で観察し、色んな角度から見回してその形状および特徴に気を留めて「ここの突起はどのくぼみに嵌まるか」とか「この形であれば、別なあの部品とうまく噛み合う」だとか考えながら、からくりを再構成しようとするときのように、「忘却」という言葉の《形状や特徴》に気を留めながら、この言葉の《突起》が他の言葉の《くぼみ》に嵌まるかどうかとか、それがどの構造に噛み合って連動を引き起こすかなどを調べてみたい。

『存在と時間』第68節(b)で「忘却」という言葉が出てくる。(この書においてこの箇所ではじめてこの言葉が出てくるということではない。)ちくま学芸文庫でいえば下巻の244ページのところだ。岩波文庫の熊野先生訳であれば四巻の88ページのところ。以下めちゃくちゃ意訳する。例えば「In-der-Welt-sein」を「あたりを見回し」としか訳していない。「被投性」「存在可能」「現持」「配視」などの術語は消されている。必ず既存邦訳も確認してもらいたい。これを翻訳とみなしてもらっては困るほどだ。

>恐れて心配することは《我が身を》案じて恐れること。〜を怖がることは、いつだって、〜を心配することだ。恐れという気分ないし情動はこのような性格をもっている。そして、こうしてここにいるこの俺のあり方を時間というものから分析すると、恐れというのは実は《我を忘れること》なのだと分かる。追いつめられたときひとは、気が動転し、自分自身が事実どのようであるかといったことが頭からぽんと抜けてしまい、あたりを見回し手近なもののことを気にかけてしまう。アリストテレスは恐怖をリュペー(押しこまれる感じ)あるいはタラケー(狼狽)としたが、これは正しいだろう。自分の置かれている現状に無理矢理押しもどされるのだが、その現状は閉ざされる。狼狽ももとをたどると忘却だ。自分が事実どんな状況にあるのか忘れ、それが頭から抜けると、周りにある、まえまえからすでに見つけられていた逃げ道に頼ろうとする。あわあわといろいろ気にして、思いつくままに突拍子なく行為する。なぜなら、我を忘れて、行為をそれと定め状況をおさえることがないからだ。いろんな可能性が浮かんでは消える。ありえない可能性までもその身を襲うだろう。恐れにかられるとひとは、あたふたと落ち着かない。《周りの状況》は消え去るわけではないのだが、もはや訳が分からないものになっている。恐れをいだきながら我を忘れるということは、慌てふためきながら手当り次第に事に当たることでもあるのだ。


この具体例として、火事にあった人が、取り乱して、本当に大事なものでなくとにかく目についたものから避難させてゆくという例が示される。



【つづく】

1ヶ月前 No.389

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

我を正しく導くものがありますか?

無限小・・永遠

無限大・・永遠

魂は輪廻転生・・

1ヶ月前 No.390

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>389 の補足

『存在と時間』における「忘却」はだいたい《自己忘却》のことだ。

〔こう言うとてじは、ちくま学芸文庫の『存在と時間』上巻のページをめくり、「第三八節 頽落と被投性」と書かれたページを開き、「われを忘れている」と書かれているのを再確認し、この箇所を紹介して「例えば、ここでも忘れられているのは自己である」というふうにして、自分の主張に説得力をもたせようとする。そのページの該当箇所でいわれているのは:「頽落」とはいっても、それはネガティブな評価を含意していない、それを「現存在がさしあたってたいていは、配慮された『世界』のもとにたずさわっているということ」だと思ってほしい・・・といったこと。そしてそれに続いて「このように……にたずさわってそれに融けこんでいることは、たいていは、世間の公開性のなかでわれを忘れているという性格をもっている。」という文章が続く。この文中の「われを忘れている」を紹介して、てじはこう言おうとする:ほら、ここにも「我を忘れる」と書いている。このように忘却というのは自己忘却のことが多い。そして「頽落」というのは、こういった忘却のことである。だから、ふくろうさんは >>373 で忘却と頽落を関連づけている。そして忘れられているのは自己である。ところで、ふくろうさんは「ハイデガー的には、『忘却』は、『死に望む存在』であることを忘却しているのであって、したがって、『有限なる存在』であることの忘却ではないんでしょうか」と指摘された。そうだと思います。そしてここでの「有限」というのは、 >>389 の意訳箇所でいえば「いろんな可能性が浮かんでは消える。ありえない可能性までもその身を襲うだろう」ということの、反対であるだろう。要するに、無限の可能性の反対としての、有限の可能性。ところで、こういった「有限なる存在」は「死に望む存在」と言い換えられている。云々・・・と言おうとする。しかし、その前に、原文も確認しておこうと思い、調べてみると、「われを忘れている」と訳されているドイツ語は「Verlorensein」だった。たしかにこの語は「忘我」と訳される。しかし、もしそれを言うなら「die Ekstase」だって「忘我」と訳しうるだろう。そこでてじは、この箇所を紹介するのをやめた。〕

この「自己」とは、意訳文中でいうと
・自分自身が事実どのようであるかといったこと(dem eigenen faktischen Seinkoennen)
・自分の置かれている現状(seine 〔Daseins〕 Geworfenheit)
・自分が事実どんな状況にあるのか(einem faktischen, entschlossenen Seinkoennen)
であると俺は思うし、だからこそ意訳文中で「自分」という言葉を付け足した。
しかし、ドイツ語原文においては「自己」という言葉は見られない。
・・・となると、「自己忘却」と言うのはミスリーディングかもしれない。

意訳した箇所を見るかぎり、忘却されているのは「事実性」と「存在可能」だ。これらはそれぞれ過去と未来に該当する。これらが忘却されるということからして、現在に該当する頽落と、忘却とが、結びつくのだろう。(俺は「該当する」といったが、これはどういう意味か?このような曖昧な言い方は、俺が『存在と時間』をよく読んでいないことの証拠となる。)しかし、これは形式だけの話だ。内容としてはどうなのか?

俺の意訳では、「存在可能」は「自分はどのようであるか」とか「自分がどんな(状況に)あるのか」と訳されている。

状況(Situation)・・・この言葉は『存在と時間』のなかでは術語だ。第60節で登場する。

>決断は、《現実》から身を引くものではなく、むしろわれわれは、覚悟性の決断によってはじめて事実的に可能なものごとを発見し、しかもこれを世間におけるひとごとでない存在可能として可能であるような形で、掌握するのである。そのつど可能なる覚悟せる現存在の実存論的性格のなかには、われわれが状況(Situation)となづける――これまで素通りしてきた――実存論的現象の構成的諸契機が含まれている。(ちくま下161)


意訳文中で俺は「状況」という言葉を使っているけど《これは『存在と時間』のなかでは専門用語だ》ということを気にせず使っている。とはいえ、術語としての「状況」も、俺が何気なく使っている「状況」も、どちらも今の話に関わるものであると思う。



〔俺はいま何をしているんだろうか。

最終的には >>376
>なんか、本来的という言葉と非本来的という言葉が倒錯しているように感じる

という感想を分析したい。

しかし、その分析をするには俺の『存在と時間』理解が足りない。

だから進捗が悪くても自分で情報を整理してゆく必要がある。

とりあえず、「忘却」はひとところに落ち着かないのだということ、「覚悟性」は掌握だということ、ここらへんを整理しないとダメだろうなあ。〕



【つづく】

1ヶ月前 No.391

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>389,391

☆読書感想文

「頽落」とはいってもマイナス評価は含んでいないんだとハイデガーは繰り返すけど、嘘だと思う。というか、ハイデガーがどれだけそのただし書きを入れても、読み手はそう読むだろう。だが、なぜ彼がそれを繰り返したか、それには理由があるだろう。まず、頽落というのは評価ではないんだと、彼は言う。「君のそのあり方は頽落だ。そしてそれはダメなあり方だ。だからそれを直すよう努力しなさい」という話ではない。ぼーっと生きてんじゃねーよ、という話ではない。そうではなくて、頽落は人間精神の構造にふくまれている、という話だ。なので、努力によって直したり消したりできないものだ。しかし、マイナスであるのに変わりはないだろう。しかし、それをマイナスと見なすことで彼は何がしたいのか。彼は道徳的攻撃がしたいのだろうか。彼は道徳的非難をしたいのでないと予防線を張っている。一種のダブルバインドのようなものだろう。俺はそういう怨恨に巻き込まれたくはない。ハイデガーに学べること、それはビジネスマンや科学者を見下げるような姿勢ではない。

1ヶ月前 No.392

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

てじさん

@原理から結果を洞察する正確な精神

A多数の原理を混同すること無く理解する精神

精神の力と正しさ

精神の広さ

どちらを選ばれますか?

1ヶ月前 No.393

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

おばあ

Aです。

1ヶ月前 No.394

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

てじさん

良き哲学者になられましょう・・

真の雄弁は雄弁を超え

真の道徳は道徳を超え

真の哲学は理論を超えます・・

1ヶ月前 No.395

メドベ @medobe ★ixqKIcNWQL_Ew9

 「頽落」という言葉が何かの価値評価であると見なされがちな理由は、単純に、その字面にあるんじゃないでしょうか。たぶん日本語の「禿げ落ちる」に負けず劣らず、ドイツ語の「verfallen」においてもマイナスの語感が強いんでしょう。堕落?
では頽落とは何かと問われると、それはやはり一つの価値評価であろうと思います。でもここで注意しなきゃいけないのは、ここで問題になる価値とは、真正な存在を問うことにおける価値だということ。つまり、頽落してる人は、存在についての真正な問いを立てることが出来ない。
本来的、非本来的という表現も同様で、非本来的な人は、存在についての真正な問いを立てることが出来ない。
ではなぜ本来的な人は、存在についての真正な問いを立てることが出来るのか。「本来」ということは、「もともとそうであった」ということだが、たとえばボクらが生まれた時には、もともとそうであった、というようなことではない。ボクらは非本来的しか知らない。本来的は、はるか昔に忘れ去られてしまっている!

つまりボクらは哲学しか知らないということだ。
あけましておめでとう

1ヶ月前 No.396

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

〔綜合前・・・ばらばらの言葉〕

忘却がこのようなものである次第を、忘却という現象を分析することによって、理解しやすくしたい。

さて辞書に頼ろう。
※トリビア:ハイデガーは辞書を「納骨所」に喩えた。(全集38巻参照)

「忘れる」とは、俺のデジタル大辞泉によると
@覚えていたことが思い出せなくなる。記憶がなくなる。
A何かに熱中してうっかり気がつかずにいる。
Bうっかりして物を置いてくる。
C意識的に思い出さないようにする。
Dすべきことをしないでいる。
E対象が記憶から消える。

@例えば、なにか司会などやっていて、次の台詞を忘れたとき、台詞は止まってしまう。しかし、進行を押さえており、かつ、いま一体何が行われているのかを踏まえていれば、自ずと次に言うべきことは分かるだろう。もしも司会者が、進行を押さえておらず、ただ台本を丸暗記しただけであれば、おそらく彼はど忘れしたとき、自分がその直前に何を話していたのかをも忘れているだろう。丸暗記した台詞を言うことは、ひとつの連続した行為だ。その台詞全体の連続性を保つことに彼は気を配るだろう。したがって、なにか起こる予定でなかったことが起こったら、できるだけその出来事に関わらないようにして、その次の台詞を引き出すことになっているその直前の台詞を心のなかで唱えつづけるかもしれない。

A時が経つのを忘れる。時間を気にしながら行わなければならなかったのに、一定時間ごとに時間を確認ことを忘れる。時間を確認するというのは、当の行為とは別な行為であり、当の行為のなかに組み込まれていない行為である。ひとつの行為のなかで別な行為をするのを忘れる。ひとつの行為に没入していて、いろいろなことが自動的に進行するなかで、その進行において自動的には現われない行為もある。時間を気にするという行為もそれに類するだろう。

Bうっかりとは、注意が行き届かないことであるが、ここで注意を向けられるべきだったものとは、もうひとつの関心事だ。うっかり秘密を喋ってしまうことがある。このとき、喋るという行為と隠すという行為を同時に行うべきなのだが、喋ることに夢中になってしまって、隠すという気を配るべきところがないがしろにされてしまった。自分の所有物をたずさえてゆくというのは基本的な行為の関心事だが、ほかの行為に夢中になると、その他の行為には自分の所持品を確認するという過程が自動的には現われないものだから、そのまま物を置いていってしまうということが起こる。

Cこのような、気を配るべき関心からあえて注意を逸らすために、敢えてほかのことにふけりそれを忘れようとすることもある。酒に溺れたり、ドラマを見たり。

Dそこから転じて、本来すべきことをしないでいること、という意味も。この本来すべきことは、たいてい、特定の機会にすべきことというより、恒常的にすべきこと。ずっと気を配っているべきことが、ある時に特定の行為にのめりこむことでないがしろにされる、という構図。

@EとABCDに分けられる。@は端的に言うと《思い出せないこと》だ。行為の連続性が損なわれる。これはひとつの行為のなかのひとつの手順が滞るということ。この思い出せないという意味での忘れることが、ABCDからの派生物なのか、それともそれらが《思い出せないこと》の派生物なのか。あるいは、@とABCDは別な由来をもっているのか。

ABCDには、《長い時間の関心》と《一時の関心》がある。そして前者のほうが《大切》だ。一時のことに気を奪われて、常に気にかけるべきことをないがしろにすることが、A〜Dの意味での《忘れること》である。そしてこの意味での忘却が、頽落と結びつく。頽落とは、気を奪われること・夢中になること・物事にたずさわっていること。俺たちは集中して話したり行為したりしていると時を忘れる。集中して文章を書いていると、脚の感覚がなくなったり、寒い部屋のなか身体がものすごく冷えているときがある。

大切なことを忘れていたら、「あ!忘れてた!」と驚く。なぜなら、それを思い出すまでは、自分が何か大切なことを忘れているだなんて思ってもみないことだったから。そして、この「思ってもみない」というのが忘れているということなのだけれど。もしそうだとしたら、忘れていたことに気づいた今でもまだ、もっと大切なことを忘れている最中かもしれない。あたかも、現実だと思っていたのに目が覚めて夢だと気づいたあと、今のこの現実も夢なのかもしれないと思うかのように。

忘れられていた大切なことは、一時の作業にのめりこんでいるあいだも、そのあとも、《より長く》気を配るべきこと。一時の作業は、それ自体それなりの気を配るべきポイントがあるが、《より長い時間の関心事》は、そういった一時の作業をしているあいだも、常に同時に気にされるべきこと。すなわち、より大切な関心は、一時の関心よりも長く持続しており、2つの関心は並行する。並行するのだが、一時の関心に気を奪われて、より長い関心から注意が逸れたとき、長い関心は忘れられる。

『存在と時間』との関連。《最も長い関心》は「死への存在」か?《長い関心》は「自らに先立つ」か?
他著作との関連。Wesenはwaehrenであり持続を意味する。schaetzenとも言われる。これは《大切にすること》。そしてWahrnisは《守ること》。

では、ど忘れは、どうなる?ひとつには、一連の話(長い時間)のなかで物の名前(一時のこと)に意識が集中し、話全体が滞る・忘れられるという見方。これは無理矢理すぎる。もうひとつは、《思い出せない》ということにフォーカス。忘れていたと気づくと、すこし前の時間は《思い出せていなかった時間》となる。ど忘れは、現在が《思い出せていない時間》となること。これも無理矢理か。思いもよらなかった→もしも過去において思い出そうとしても思い出さなかっただろう→しかし、過去において思い出そうとしているということは、忘れていることに《思いがよっている》のだ。

忘れているということにも気づかない。何かを忘れているということには気づいている。何かを忘れているのかもしれないと想定する。これらの違い。

頽落は、落ち着かないこと。これと決めない。その逆は、覚悟性。「そんなことしてなにになるの?」という問いに「それをしたらこうなるだろう」と答える覚悟。手当たり次第に目の前のものに手を付けて「それをして何になるの?」と言われても、答えられる。しかし、行為が先にあり、その行為から当然考えられる目的だけが答えられるだろう。ある意味答えは決まりきっている→決断の必要がない。一方、行為に先立って「その行為をしたらこうなるだろう。だからその行為をする」というような企てがあるとき、決断がある。そして「本来」ならば、行為に先立って目的があるだろう。まず行為をして、あとづけで、《この行為といったら、その目的はもう決まっている。云々だ》と言わないこと。それが「先駆」か?しかし、俺たちは「先駆的覚悟」のまえにかならず、そういった決断(目的設定)の後ではない、なんらかの行為にすでにたずさわってしまっている。これが「被投性」か?

例えば、会社に入ったら、「目的」にもとづいてその会社の既存物をすべて作り直すか?まさか。すでに因習になったもの、固定されたもの、そういったものにまずとにかく携わるのでは?携わるなかで、当初本来の目的にたちかえって、改善することはあるだろう。こういった改善は、決断だろう。そういったことをしなくても、とにかく仕事はできる。何のためにするのか分からない作業でも、とにかくそれをしていれば、仕事をしていることになるということがある。しかし、それは「本来」か?

因習なども、当初の目的を保存している。この目的に立ちもどらなくても、因習は機能する。根源に立ちもどらないことが忘却だ。

混乱している。やはり『存在と時間』は分からない。

明日からまたデカルトに戻る。

1ヶ月前 No.397

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

あけましておめでとう。

1ヶ月前 No.398

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

てじさん

明けましておめでとうございます・・

現代哲学者より・・パスカルさんデカルトさんの方が霊性・精神的には先頭集団にいるらしいです・・

1ヶ月前 No.399

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>380,381,382,386,388


☆要点箇条書き

・我の存在は思考に尽きるという事態は「事物の真理そのものの秩序においてではなく…単に私の認識の秩序においてであるにすぎない。」
・偽であるとは《主観的にはそう思えるが客観的にはそうではない》という意味だ。
・疑わしいとは《真だと思っていたが実は偽だったと判明する可能性がある》という意味だ。
・『省察』では、少しでも疑わしい意見は当てにされない。
・悪霊は最高度の懐疑をあらわしており、これを想定するかぎり最高度の用心が保証される。
・『省察』は分析であり、分析とは再構成であり、再構成とは《裏の構造の可視化》である。
・自分ではないものよりも、自分についてのことのほうが、確実だという、意見がある。


☆コメント

雑感1

デカルトは《何が本当に存在するか》を問題にしたのではなく、《何が疑いえないか》を問題にしている。彼は確固とした学問の構築を目指す。そんななかで、《後から偽だと判明しえない永遠に確実な原理》のうえに学問を築いていきたいとかんがえる。

疑いうるとは、後から偽だと判明しうるということだ。あらゆる意見が疑いうるならば不可疑のものはない。不可疑のものがないならば、疑いの可能性は永遠に残る。この事態が《後から違うと判明する》といったことがない。

仮に、実は不可疑のものがあったと後から判明しうるしよう。しかしいま新たに判明した《実は不可疑のものがある》という確信はやはり疑いうるだろう。

仮に、本当は不可疑のものがあると設定しよう。これは定義上疑いえないとしてみよう。そして、俺がその設定された状況と合致する意見をもつとしよう。だがこのとき、俺がそうした意見を本当にもっているのかどうかは、疑わしい。なぜなら、自己欺瞞というものがありえるのであって、本当はしたいのにしたくないと思い込むとか、本当は正しいと思っているのに間違っていると思うといったことがあるからだ。したがって、仮に不可疑のものの存在が設定され、それが定義上疑いえないと設定されたとしても、俺がそれの存在について肯定判断をしているという俺の判断は疑いうる。言い換えると、《外部》から自らの存在を保証された《不可疑のもの》という客観的事実と合致する意見(不可疑のものが存在するという意見)を俺はもっていると、俺が思っていたとしても、《俺はそう思っている》という自分自身についての判断は疑いうる。言い換えると、定義上で俺が本当は正しいことを言っているという真相が定められていても、俺は自分の意見を疑いうるという《疑い可能性の持続》はびくともしない。

俺が自分のもっている意見を常に疑いうるとしても、事実はびくともしない。事実がどうであろうとも、俺は自分の意見を常に疑いうるということは、びくともしない。これが、《精神という実体がある、物体という実体がある》ということの意味である。なぜなら、実体というのは、自らの存在を他の存在に左右されないものであるからだ。

雑感2

常に自分自身の意見を疑いうるならば、この意見さえ持っていれば自分の確実性が客観的に保証されるというような《特別な意見》といったものはないだろう。言い換えると、特定の意見が、自己の客観的確実性を保証することはない。したがって、自己の確実性というのは、客観的性質のものではない。

ひこ太さんが別スレで引用したラッセルの言葉:「哲学のどんな定義でも議論の的となるし、それらの哲学の定義自体が何らかの哲学的立場を表現している。哲学とは何か知る唯一の方法は哲学することである」は、今の話にかかわってくる。・・・どのようにして?・・・《哲学とは云々だ》という定義ないし意見は、どういうものであれ、それが《哲学というもの》という客観的な理念に合致しているかどうかは分からない。だから「哲学のどんな定義でも議論の的となる」すなわち、議論の余地がある。ということは、哲学のどんな定義も《これが出れば万事解決、後は議論しないでいい》というものでない。・・・では、哲学の定義について議論するのは無駄なんですか?もしも《哲学とは何であるか》の議論に終りがないのだとしたら、哲学の定義が決定することがないってことになりますよね?ということは、哲学とは何であるかについて、私たちは永遠に知りえないってことになるんですか?・・・いや「それらの哲学の定義自体が何らかの哲学的立場を表現している。哲学とは何か知る唯一の方法は哲学することである」のだ。哲学することによってその本質が知られるものが哲学である。これも定義である。彼らは実際自分がしたことを「哲学」と定義づけた。それを「哲学」と呼ぶことにするというのは、それぞれの哲学者による決定である。「哲学の定義が決定される」ことはある。だから、哲学の定義を見ても、哲学が何であるかは分からない。そこに表現されているのはその哲学者の立場であるからだ。《それを哲学と呼ぶことにした》というのは分かる。しかし、「哲学」と呼ばれたそれが何であるかは、定義を見ただけでは分からない。すなわち、哲学が何であるかは分からない。・・・それではやはり哲学が何であるかは知りえないんですか?・・・「哲学とは何か知る唯一の方法は哲学することである」(引用元URL http://mb2.jp/_tetsugaku/1025.html-60#a

・・・で、その話が今の話にどのようにかかわってくるんですか?

雑感3

書いているうちに、《観念論の予感》みたいな何かがあるのだが、整理して展開できずにいる。《この予感めいたもの》の《整理された展開》を当てにして、後の哲学を読むという手もある。すなわち、後の哲学に、俺が抱いている予感めいたものの展開を探すということだ。

1ヶ月前 No.400

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

てじさん

世の中は移り変わり真実が無いと思うのは存在を物質と思っているからではありませんか?

1ヶ月前 No.401

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>380,381,382,386,388,400

☆『省察』第一省察第五段落要約(pp. 36-37)

・俺は夢のなかで現実の状況とは違う状況に自分が置かれていると信じる。
・眠っているとき、事実としては、俺はベッドに寝ている。
・しかし夢において、俺は、椅子に座って文章を書いている(と思っている)。
・俺はいま明らかに意識がはっきりしている。
・だが夢のなかでも、俺は、自分の覚醒度について疑わない。
・となると、いま起きているとき、俺が本当は寝ているという可能性を疑える。
・覚醒と夢とを区別するための標識はない。
・したがって、自分の個々の身体動作の信念や自身の個々の状況認識も疑うことができる。

☆コメント

夢の構造をみてみよう。そこには時と場所と意味と、それらが統一された状況があり、その状況には必ず俺が出て来て様々な事物も出てくる。ただし、俺の年齢や性別は時に自分のそれとは異なることがある。また、俺には身体がない場合もある。例えば、漫画のコマ割りだけで構成された夢、文章だけの夢。こういう無身体の夢においても視界はある。俺は視界としてあり、事物は画像や文字としてある。このような二次元的な夢において、時は読む行為の進行、場所はページ、意味は読解内容である。

夢の大雑把な構造:《視界(時・場・意)⇔俺・対象⇔行為・意志・感情》

現実はこの構造を共有している。構造上、現実と夢とのあいだに違いはない。経験したことが夢だと分かるのは、目覚めた後だ。そのとき、自分が《これは夢なのかも》と疑うことすらしなかった経験が《すべて夢だった》と分かる。これは《真だと思っていたことが実は偽だったと判明した》ことに似ている。《「現実」から目覚めた後》といったものがなければ、「現実」が夢だったと判明することはない。しかし、この現実から今から目覚めることは、この現実においては、起こり得ない。しかし、《目覚めた後》を先んじて想定することで、今のこの現実を《後から夢だったと判明しうる》と見ることはできる。ところで、夢と判明するかどうかは本質的なことではない。本質的な点は《同じ構造を有する状況全体》が変更されることだ。《自分が置かれているところ》が全体的に変更される可能性を先んじて考えることによって、《自分がいましている動作》が《将来目覚めた後》においては《別な動作であった》と判明する可能性がある。読むという行為で考えるならば、自分がいまこういう意味だと思って読んでいる文章が、実は違う意味だったと判明することがある。しかし、いまの時間においては、どうしても自分が読み取ってしまう意味でしか文章を読めない。しかしながら、自分にとって自然に聞こえる文章の意味が、実は間違った解釈にもとづいており、この自然な読み取りのあり方が間違っているかもしれないと、疑うことはできる。

すなわち、自分にとって自然にそう聞こえるということは、それが正しい解釈だということを、別に保証しない。

ただし、自分の解釈が誤っていたと気づくことを経て、《なぜ自分が自然にそのように文章を読んでいたか》の理由も同時に判明することがある。すなわち、間違った解釈にも理由があったんだ。理由があったんだから、間違ってもしょうがなかった。しかし同時に、間違いに理由があるからこそ、その解釈は絶対ではない。なぜなら、その解釈の基礎となる理由があるのだから、解釈それ自体は基礎そのものではないはずだからだ。

話がそれたが…

「眠っているとき、事実としては、ベッドに横になっている」のだが、目覚めたあとに《さっきのこと》を思い出して、「あれは夢だったか。俺は夢のなかで、自分は云々していると信じ切っていたけど、実は、ただベッドで横になっていただけだった」と思い返すことができる。この回想を、現在において疑似回想的に行うならば「もしも今の現実が夢であるならば、俺はいま、自分は云々していると信じ切っているけれど、実はただベッドに横になっているだけなのかもしれない」と思うことができる。《過去の意味の判明》を《現在の意味の予感》としている。懐疑というのは、いま起こっていることは俺がただ《それがいま起こっている》と思っているだけであって、そういう思いの裏では、本当はなにか別なことが起こっているのかもしれないという、別な可能性の予感だ。すなわち、真だと思っているが実は偽だと後から判明するかもしれないということだ。それが後から偽だと判明するのだとしたら、それは今から偽であるだろう。しかし、偽であるとまるで判明していない命題等が偽でありうるものとして目に映るのは、それが偽であると判明する未来を想定することによってである。信じられていることは《ただ単に偽でありうる》のではない。《後から偽だと判明しうる》のだ。

う〜ん、いまいち要点をつかみきれない。

1ヶ月前 No.402

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

夢か現実かは一番わかりやすいのは・・

夢はワープ出来・・時間と空間と滅茶苦茶で・・意味がちぐはぐなのです・・

1ヶ月前 No.403

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>380,381,382,386,388,400,402

☆おさらい

・疑わしいのは、後から偽だったと分かるかもしれない今は真だと思われてる意見。
・遠くに見えるものについての個々の判断は疑わしいとされた。感覚にだまされるから。
・自分についての個々の判断は疑わしいとされた。夢かもしれないから。

☆『省察』第一省察第六〜八段落要約(pp. 37-38)

・個々のもの、個々の状況は、真ではないかもしれない。
・夢のなかで見えているものは、とにかく見えてはいる。
・そこから「一般的なもの」は真なるものとして存在すると推論される。
・例えば個々の足が俺にそなわっているかは疑えるが、それが《足であること》は疑えない。
・しかし《足であること》は、元々あるものでなく、虚構された虚偽のものかもしれない。
・しかしそのイメージにおける色は、真なる色だろう。
・ここから類推されること。俺のもつイメージは「単純で普遍的なもの」から形成されている。
・それらは、延長・形・量・場所・時間などである。
・経験科学は疑わしいが、これら一般者を扱う学問たる数学は疑えない真理を含んでいる。
・夢だろうが現実だろうが《2+3=5》が真なのは変わらない。

☆コメント

あらためて確認する。ここで疑われているのは「真でないかもしれない」ということだ。「存在しないかもしれない」ということではない。しかしまた、この《真であること》と《存在すること》は互いに密着している。ただ、疑わしさには《真であること》がかかわる。「それが存在する」という判断も、それが真であるかどうかが疑われるのだ。

夢かもしれないと疑えるのは、夢と現実が構造を共有しているからだ。夢で起こることが現実なのか夢なのか、はっきり区別する指標はない。なので、今起こっていることは現実のことだという判断はすべて疑える。したがって、「俺が今パソコンの前に座っていることは真だ」という判断は疑いうる。しかし、こう判断するとき、とにかく座っていると思っていることは確かだ。夢であろうが現実であろうが《座っている》という意見があるのは変わらない。そうであれば、「この座っているという信念は現実のものだ」と主張しないならば、俺は夢にあざむかれることがないだろう。このようなときフッサールは「現象学的な判断停止」と言うかもしれない(cf. 『デカルト的省察』p. 48)。しかし、そこまでのことは言われていない。デカルトがここで言いたいのは、個別のものの真は疑えても、一般的なものの真は疑えないのではないかということだ。

デカルトはイメージの例を出す。目の前にあると俺が思っている手が本当は無いのだとしても、手のようなものを俺がイメージしているのは確かだろう。もしそうであるならば、そのイメージのモデルとなる《手という一般者》は真に存在するだろう。これは《一般的なものの直観》ではないだろう。推論だ。その推論の前提は《個々のイメージは一般者の似姿だ》というものである。似姿があるならば、それのモデルがなければならない。だからモデルは存在する。空想みたいな話だ。

しかし、デカルトがより疑いにくいと考えるものは、俺たちが目の前に見るもの。色。空想などではない。あらゆるイメージが空想でも、そのイメージは着色されている。そして、この箇所では、色はイメージよりも普遍的なものとして考えられている。たしかに、どんなイメージにも有色性は共通している。それを更に一般化してみよう。すると、後世の言葉でいうところの「クオリア」が得られるだろう。すなわち、いま見えている全てが現実なのか夢なのか決定できないが、とにかくクオリアがある…ということ。

デカルトは、個物に対する抽象観念みたいなものが、個物よりも疑わしくないと言っているのではない。
ありありと見え・聞こえ・嗅がれ・味わわれ・触れられているクオリアは、個物よりも疑わしくないと言っている。
しかし、デカルトは「クオリア」とは言わない。普遍的なものとしては諸カテゴリーが挙げられる。一般者を扱う学問として、数学の話へと移っていく。すなわち、俺の読解は誤読だ。

個々の感覚が疑われ、それについての現実判断が疑われ、そうしていま、それらの判断を構成する要素(カテゴリー)が疑われようとしている。話の流れとしては、懐疑はだんだんと判断の地盤へと掘り進んでいっている。末端から根源へと進んでいる。

数学の例。夢か現実か決定できないのが問題なら、《どっちであるのかを決定しなくても真であるような判断》に目を向ければいい。

1ヶ月前 No.404

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

今日朝方の夢でずっと手紙を書いていて特に最後に大きな字でこれでいいですか? と書いた途端目が覚めました・・

そして右手が字を書きすぎて使ったかのように痛いのです・・

1ヶ月前 No.405

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>392
私は“頽落”をこう理解してます。

“世間”の“ひと”として生きることはそのまま何ら倫理的に責められるべきことではない、というのは、そのままその通りの意味じゃないかと。

ただ、一旦本来的自己に目覚めてしまうと、それまでの日常の自己が非本来的、頽落した自己としか捉えられなくなる、ということでは。
たとえばゴータマ・ブッダの出家による家出とか。
倫理的に言えば、出家のほうがだめかも。って感じ?責任放棄とも言えるからね。

芸術家でもそんな人いるでしょ。それまでのすべての生活(人間としてきわめてまっとうな生き方)を捨てて、芸術一筋に生きる生を選んでしまう人。
尾崎放哉とかね。

1ヶ月前 No.406

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

別スレでカントによるデカルト批判が言及されました。参照URL: http://mb2.jp/_tetsugaku/1103.html-4,18#a

どういう批判したのかなと『純粋理性批判』を探しました。

それらしき箇所を見つけたので、訳してみました。

議論の土台として、ここに置いておきます。



☆Meiner版Kritik der reinen Vernunft, S. 462の試訳:

《俺は考える》は、すでに言われたように、経験的命題です。この命題には《俺は存在する》という命題が含まれています。しかし、《考えるものはすべて存在する》とは言えません。もしそうなると、思考という性質をもっている存在者はすべて必然的に存在することになってしまうでしょう。だから、俺が存在するということは、《俺は考える》という命題から推論されたのだと(デカルトはそうみなしましたが)みなすことはできません。(なぜなら、《考えるものはすべて存在する》という大前提が立てられなければならないからです。)俺が存在するということは、《俺は考える》という命題と同一です。この命題は、或る漠然とした経験的直観すなわち知覚を表わしています、(したがって、この存在命題の根底には、感覚があります。この感覚は、これはこれで感性に属するものです。)ところが、この命題は、経験(Erfahrung)に先立ちます。経験というのは、知覚対象をカテゴリーによって時間的に規定するものです。存在はここではまだカテゴリーではありません。カテゴリーというのは、漠然と与えられた対象には関わらないものです。カテゴリーは、ひとがそれについて何らかの概念を有しており、それがこの概念のそとに置かれているのかそうでないのかを知ろうとするようなものにしか関わらない。或る漠然とした知覚は、ここでは、なにか実在的なもの(etwas Reales)しか意味しません。これは与えられたものですが、しかもそれは思考一般にしか与えられない。したがってそれは、現象として与えられたのでもない、物自体(ヌーメノン)として与えられたのでもない。《俺は考える》という命題においてそのようなものとして特徴づけられる実際に存在している《なにかEtwas》です。どういうことでしょうか。俺は《俺は考える》という命題を経験的命題だといいました。しかし、これは、この命題における《俺》は経験的表象である…という意味ではありません。むしろ、それは純粋に知性的です。なぜならそれは思考一般に属しているのですから。しかし、思考に素材を提供するなんらか経験的表象がなければ、《俺は考える》という作用はなされない。そして経験的なものは、純粋な知性的能力の適用ないし使用のただの条件です。


☆コメント

・この文章の後半を理解するためには『純粋理性批判』を読まなければなりません。
・デカルトへの批判:cogito, ergo sumは疑似推論だ。
・cogitoは現象としても物自体としても与えられないが、しかし、与えられるものである。
・《俺は考える、俺は存在する》は、推論ではなく、トートロジーである。(A版355を参照)
・『省察』の分析の道をたどったあとで、カントのこの箇所を読むと、カント読解の助けになります。

1ヶ月前 No.407

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

自我は死や無意識の中では消滅する・・

自我とは分離したり分裂したり消滅したりする・・

真に生命が死無くしても絶対化できるとしたら?

真の自我を獲得することができるとしたら?

神の領域と意識が一致する領域だとしたら?

宇宙の初めの存在は心霊であるとしたら?

1ヶ月前 No.408

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>406

頽落(Verfall)とは何なんでしょうか。

この訳語は「頽廃」っていう言葉と「落ちる」っていう言葉とを合体させたものだと思います。

Verfallenは建物の老朽化・荒廃を意味して、転じて、体力の衰弱のことであり、転じて、道徳が文化が衰退して退廃的になること。
それとは別に、例えば、「眠りに落ちること」などともいう。
あるいは、「酒に溺れること」とか「誘惑に負けること」という用例もある。

これらに共通すること。《張り切ったのがゆるむ感じ》だ。抵抗しきれず、自分を保てず、乱れてしまりがなくなる感じがある。
逆に考えると、非頽落っていうのは、抵抗の姿勢を守りながら・安易な方へと流されず・自分を保ち・秩序をもち・頑として立つという、そんな感じになるかな。

 落ちるというのは、崩れ落ちる・頽れるということだろう。倒れる(ruere・fallen)ということだ。俺たちはふだん踏ん張って立っていたり、姿勢を保っているのだが、疲労などにより踏ん張りがきかなくなり、姿勢が崩れ、倒れる。頽れるというのは、このような《力ない》ありかただ。
 眠りに落ちるというのは、意に反して睡眠状態に突入してしまうことだ。酒に溺れる・誘惑に負けるというのは、行為自体が意に反しているかどうかは分からないが、どこか《ダメだと分かっているのに》というニュアンスがある。抵抗すべき・自分を保つべき・踏ん張るべきなのだが、ついつい、引かれるがままになってしまうことが、こういう例におけるverfallenだろう。

 誘惑に負けること。これの反対が、自分を保ちながら踏みとどまることであるというのは、容易にイメージできる。だが、どこに踏みとどまるのか?
 まあ『存在と時間』には「無規定のまま確実な死へ先駆しつつ、現存在は、おのれの現そのものから発してくるたえまのない脅威にむかって、おのれを開く。《終末へ臨む存在》は、この脅威のなかにふみとどまらなくてはならない。」といった文言はある。(ちくま下p. 90)
 また、こうした非頽落のありかたが《力強い》ありかたであるのを示すために、引用をつづけよう。「覚悟性のもつくるいのない自信は、ただ決断することのみにかかわるのである。」(ちくま下p. 159)「先駆しつつおのれのうちに死の威力をたかめるとき、現存在は死にむかって打ちひらかれて自由になり、その有限的自由にこもるおのれの超力において自己を了解する。」(ちくま下p. 325)
 どこに踏みとどまるのかといえば、《有限な自由》にとどまる。とどまるとは、忘れないということだ。「私たちは、それを記憶からのがれるにまかせないとき、それを保持する。」(Was heisst Denken? Iより)だから、とどまる(Sistenz)というあり方は、非忘却である。逆に、とどまることの反対は、忘却である。頽落は忘却である。

単なるイメージのレベルにおいて、非頽落は《力強い》という予想ができた。このイメージを確認する作業は、まだしていない。

しかし、「むしろ、非本来性は、多忙や活気や興味や享楽などのきわめて充実した具体相においても、現存在を規定していることがある」といわれている(ちくま上pp. 110-111)。活溌であるならば、それは元気で明るいということで、すなわち「力強い」のではないだろうか?俺は「頽落」が《力ない》ものだというイメージを持ったが、こうした衰弱のイメージと、非本来性の活溌なあり方とは、矛盾しているようだ。

 ここで「頽廃」とはなにか、廃れるとはなにかを、考えてみる。これは形骸化であり、当初はその意味がしかと理解されその力強さが認識されていた事も、語り継がれたり伝承されたりするなかで、その本来の奥義が薄められたり忘れられたりして、その事柄の《よく分からない威力》だけが引き継がれた状態である。それは当初たしかに有力なものだと認められた。しかし、それが有力であるのには理由があり、そして人々はその理由を知っていた。しかし後世、そういった理由が理解されないままに、ただ力だけが利用されるようになった。事は形骸化したが、その形骸が形骸だけで、それがそれであるというだけで、よく分からない無際限な力が承認される。これが頽廃であるだろう。
 廃れるとは「通用しなくなる」ことである。すなわち、力を失うことだ。失効である。これは、直近俺が言ったことと矛盾する。俺は、よく分からないけど伝統だからとかいう理由だけで、言説が支配力を発揮するようなことを、頽廃と言ったのだった。しかし頽廃とは、こういった無限的力の支配ではなく、むしろ力の失効ではないか?しかし、「世間は心境を処方し、「ものの見方」を規制している」(上362)のであり、たしかに世間(das Man)は《支配力》をはたらかせている。

 この矛盾は、有限と無限とを対立させることで、一応形のうえでは解消できる。失効しているのは有限な力であり、《無限な力》はのさばっている。力が有限であるのは、その力が《云々の限りにおいて》有効である場合だろう。すなわち、力に理由があるとき、力に根拠があるときだろう。そして本来、言葉はその根拠から力を得て、人々は根拠からして自信を持ちそこに語られる事の力を信じた。しかし、「世間話こそは、わざわざ事象を領得することなしにすべてを了解することができる機会である。」「読者の平均的理解は、なにが根源から汲みあげられ、苦闘のうちにたたかいとられたもので、なにがたんなる受け売りであるかを、決して判定することができないであろう。」(上360)根拠にさかのぼらずとも、(例えば)常識は《力》を持っており、私たちはこういった常識の意味をみんな理解しているのだから、わざわざこれから根拠にさかのぼるなんて、無駄でしょうに!(こういったことは「閉鎖」といわれている。)

 ふくろうさんの例を見て、俺は、《これまでの常識に則った生き方を捨てて、裸一貫勝負する》みたいなイメージを持った。これは「芸術一筋」などとも表現されている。
 一筋というのは情熱的なありかただ。「先駆は…自己自身として存在することの可能性へ臨ませるが、その自己とは、世間のもろもろの幻想から解かれた、情熱的な、事実的な、おのれ自身を確承せる、不安にさらされている《死へ臨む自由》における自己なのである。」(下92)ハイデガーは『ニーチェ』で情熱を分析している:「情熱には遠くまで及ぶ力、自分を打ち開く力が宿っている。…ところで、このように情熱に具わっている遠望は、われわれを越えて単純に拉し去るものではなく、むしろわれわれの本質存在をそれの本来の根拠へ集中し、実はこの集中においてはじめてこの根拠を打開するのである。」(平凡Ipp. 71-72)そしてこれを「覚悟」と関係づけている。覚悟は、決断と関わる。一筋とは《これと決める》ことだ。《俺はこれだ》と自分の可能性を狭め、他にもできる色んなことを捨てること。脱ニート的なありかただ。
 芸術一筋のひと、クレイジーな人は、この《捨てる》という動向が、過度となることがある。自分が基準となり、他者への配慮が欠けたりする。或いは、他者への配慮が、世間並みのものとは桁違いに洗練される。すなわち、世間が配慮に対してかけるブレーキを壊す・捨てるという風にして、ケチなところがまるでなくなることもある。
 こういった決断は、偏見に満ち、それゆえそのひとの振る舞いは個性爆発といったものとなる。しかしその振る舞いは、自信に満ちており、そのひとは冷静である。

 ここでの「捨てる」というのは、自分が得た有限な基準からしてみれば無価値と映ずるようになったものを素直に無価値として扱うということだろう。常識が「それには価値がある」と言ったとしても、そういった常識の言葉を否定するに足る自信を、得ている。否定の自信。全面に良い顔をしようとしたら、こういった否定はできない。しかし、情熱的な者は、ある者を否定することによって、その者の敵対者に良い顔をしようとしているのではない。ただその人は情熱的な面構えとなるだけだ。その人は、誰かにとって都合のよい存在となろうという意図は持たない。もちろん、その人が他の者にとって都合のいい存在になることはある。

1ヶ月前 No.409

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>407

>俺が存在するということは、《俺は考える》という命題と同一です。

>… meine Existenz … ist mit ihm 〔mit dem Satze, Ich denke〕 identisch. (S. 461)


>…誤って推論とみなされたデカルトの「cogito, ergo sum」は実際にはトートロジーである…

>…der vermeintliche cartesianische Schluss, cogito, ergo sum, in der Tat tautologisch ist(S. 474)


…もっとも『省察』では、俺が邦訳を見た限りでは「我思う故に我あり」とは言われていない。

>それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する」Ego sum, ego existoという命題は、私がそれを言い表わすたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である。(p. 45)


ここでは、「我思う」というところから「我あり」が演繹されているのではないようにみえる。しかしデカルトは『哲学原理』においては「…このようなことを考えているわれわれが無であると想定することはできないのである。なぜなら、考えるものが、考えているまさにそのときに存在しない、と解するのは矛盾しているからである」と述べているらしい。これは推論であり、《私の存在》は「われわれはいかなるはたらきをも、それの基体なしには概念しえない」という前提から導かれている。そしてデカルト自身「第三答弁」においてこの解釈を認めているらしい。(p. 172註解)これについてデカルトは、いわゆる省察においてはcogito, ergo sumという「私のうちに経験されるもの」にしか注意しておらず、「考えるものはすべて存在する」という一般的なことにはさほど注意を向けていないと言ったという。(p. 173註解)すなわち、推論を通してはじめて結論を導出したのではないということ。まずcogito, ergo sumという「直観があり、事後の分析によって大前提からの推論が可能になるということだろう」。
 すなわち、結論の発見が、その結論を導出する推論を可能化し、大前提をも可能化した…というのは言い過ぎかな。すなわち、cogito=sumの経験によって「考えるものはすべて存在する」という前提が基礎づけられ、そしてさらに「はたらきは基体なしには考えられない」という前提も基礎づけられた。こうした前提は、常識だし、普通に通用している。ところで、なぜこれらが前提として通用しているのか?それは、根底にcogito=sumの経験があるからだ。すなわち、「作用はその作用を支える基体を要する」という一般的発想は、「考えるものはすべて存在する」というその発想の原型からとられており、この原型はこの原型で、cogito=sumという経験のひとつの表現である…ということだ。このようにして基礎づけの系列がある。この基礎づけの系列の最初に《cogito, ergo sum》がある。だから「『私は考える、ゆえに私はある』ego cogito, ergo sumという認識は、あらゆる認識のうち、順序正しく哲学するものが出会うところの、最初の最も確実な認識である」(pp. 171-172)と言われる。すなわち、特別順序に注意がなされたときに、順番的に最初に来る認識は《cogito, ergo sum》である。「思考するものはすべて存在する」ではない。

 『省察』においては、「私は在る」という命題は、俺がこの命題を言うごとに必然的に真だと言われている。すなわち永遠に必然的に真なのではない。「私は在る、私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か?すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。」(p. 47)「逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、私が存在したと信じるいかなる理由も無くなる。」(岩波文庫『方法序説』p. 47)このようにコギトを時間的なものとする解釈は「思考するものはすべて存在する」という前提をも時間的なものとするだろう。この前提は《思考可能性を有するものはその可能性がある限りにおいて存在する》という意味ではありえない。思考可能性を持っているだけでは存在にいたらない。実際に思考しなければ、そして思考している間しか、思考するものはその存在について確信されない。このような意味しか持てない前提は、普遍妥当的なものと見なすことはできないと思われるのだが、どう思いますか?つまりは、この前提は無時間的前提ではなく、コギト経験に基礎づけられる限りでのみ有効な有限な前提であると思うのです。

 カントも「cogito」が経験的直観を表現するものだと指摘していますが、デカルト自身もそれが経験であることは自覚していたと思います。上述原理の引用参照。ただ、デカルトの表現方法は独特だと思います。「私は注意し、考えに考えを重ねるが、何も浮かんでこない。同じことを無益に繰り返して疲れるばかりである」(p. 47)という風に《頑張ったんだけど何も思い浮かばなかった》ということを根拠としたりしている。《やってもやっても疲れるだけだった》と言っているけれど、《やり方が悪いんじゃないか?》と思う。
 ところで、こういったことが根拠となりうるのは、デカルトが自分の意識にのぼった認識を頼りにしている、ということを示しているだろう。これが明証というやつかな…?どうして明証といったものを頼るのかというと、これもまたコギトに基礎づけられた発想であるからだ。明証というのは、コギトについての、また別な表現である。コギトの確信は「明証」と名づけられた。コギト経験は明証の原原型である。その経験を基にしてはじめて真に明証というものが考えられる。しかし、だからといって、《まだ意識にのぼっていないだけ》のものを《存在しない》と見なすのは、せっかちではないかと思う。



蛇足だが、個人的には、ハイデガーの「Der Mensch allein existiert」を思い出した。(Was ist Metaphysik? VK. S. 17)特に、『純粋理性批判』でcogitoという直観が「我思うという命題においてそのようなものとして特徴づけられる実際に存在している《なにかEtwas》です」と言われているのを読んで、特にそれを思い出した。いうなれば、Das Wesen des Ichs ist das Denken. Das Ich ist, sofern es denkt. Das Ich allein denkt. それは独特な存在(Wesung)を意味している。しかし、こんなことを言ってもなににもならない。

1ヶ月前 No.410

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

自我は死や無意識の中では消滅する・・

超自我が無意識に作用する・・

どの我? 我とは分裂したり統合したり・・

1ヶ月前 No.411

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>380,381,382,386,388,400,402,404,407,409

ルネ・デカルト『省察』第一・第二省察あたり

俺が皆さんに提示しておきたい着眼点。それは

『省察』をつうじて「確信」が変異しているということです。まず第一に、確信されている内容に変化がある。最初に信じられていたのは、例えば私には身体があることとか、2+3=5であることとかでした。しかし、懐疑をつうじて得られた確信において、信じられているのは、「私は存在する」ということです。確信される対象に変化がある。ところが、内容のみに変化があるのではない。確信の種類も変わったのです。いうなれば「素朴な受容」から「明証」へと変わったのです。

ここで注意を向けておきたい箇所があります。『省察』第二省察で訳書では48ページの冒頭:

>…私とはただ考えるものres cogitansでしかない。言いかえれば精神、すなわち魂、すなわち知性、すなわち理性である。これらの言葉の意味は、以前には私に知られていなかった。しかし私は真なるものであり、真に存在するものである。しかし、それはどういうものであるか?私は言った、考えるものであると。


ここでデカルトは「精神・魂・知性・理性」という言葉の意味を以前は知らなかった(しかし、いまやそれを知るにいたった)と言っている。もちろん、デカルトはこれらの《意味》を知る以前にも、これらの言葉を使用していただろう。言葉を使っていたならば、それらの言葉の意味も分かっていただろう。しかし、あえてデカルトはここで、それまでこの言葉の意味を知らなかったと言っている。すなわち、以前までの自分の知は、真の知ではなかったと言っている。そして、いまや真の知を得たと言っている。それらの言葉の根拠を得たのだ。その根拠というのが《考えるものである私》です。俺たち私たちが言葉の意味を知るのは、それらの言葉が何の事について言われているのかを知るときです。デカルトは懐疑をとおして、知の働き一般の語彙が何について言われているか、その論の根拠となる事象、すなわち《考えるもの》を発見したというわけです。

この確実性は、素朴ではない。この確実性は操作によって得られた。これ以上は疑いえないところまで疑い切ったうえで、それ以上のものを見いだし、「それ以上」は「疑いえない」ので、疑いえない確実さが得られた…というふうになっている。すなわち、疑わしいものの全体(最高度の懐疑)を提示し、この全体の《外》を提示している。そしてこの《外》は疑いえない。なぜなら、すでに疑わしいものの全体が提示されたのだが、それはそれらの外であるのだから。このようにして、この疑いえないものの疑えなさは、輪郭を有している。それは、疑わしいものの全体のうちに属する意見のうちの、ひとつのものの《疑わしさ》が払拭否定されて得られた、《疑わしくなさ》を有しているのではない。このように得られた疑わしくなさは、元々の素朴な信用への逆戻りだ。こういった逆戻りは、デカルトが第一省察の末尾で警戒していたものである。
 疑わしい意見全体が突破されている。なので、絶対に確実な知は、唐突に現われなければならなかった。デカルトが行った操作は、まず全体を作成すること、そしてその全体の外側(超越)を示すこと、だ。そういう筋道になっている。最初の確信は、いずれ疑わしいと判明する意見全体を対象としていた。超越により得られた確信は、それら意見全体を対象にしない。それは別種の確信である。それはいわば超越的確信、あるいは世界外的な確信であるでしょう。

ただ、このようにして経験された確実さ。それが確実であることの根拠が求められます。

>私は、私が考えるものであることを確信している。それならば私はあることを確信するためには何が要求されるかをも知っているのではないか?


これは第三省察の冒頭(訳書59ページ)です。ここでは、確信のための条件が話題となっています。ここから「神の証明という裏口」が要請されます。

23日前 No.412

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>412

>…純然たる疑うことの道程は、なるほど表象することの多種多様な仕方を問題にするが、それはただ、それ自身全く疑いをさしはさまれることのない疑うことを学ぶために、考察がそこから発進した、出撃基地の内部に留まるためにすぎないのである。疑いの道程は、疑うことが自らをすでに安全な場所に移しており、この安全な場所が〈fundamentum absolutum〔絶対的ナ基礎〕〉と見なされているということを、判明にするにすぎない。しかしこの絶対的なものの絶対性は、疑いをさしはさまれもせず、尋問されもせず、絶対性の本質の点で名指しで呼ばれることすらもないのである。


マルティン・ハイデガー「ヘーゲルの経験概念」『杣道』173ページより。

>無条件的な自知は、主体の主体性として、絶対的なものの絶対性である。


同書155ページより。



ここにおいて《無条件性》があらわれ、これが『存在と時間』における《有限性》と対立する。

世界の外へといたった我は、世界内存在のなかに投げもどされる。

ただ、それによって《問題》が解決されたのかどうかは分からない。

23日前 No.413

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

懐疑のための懐疑でなく

何が真実かを洗い出す方法的懐疑と言うことについてはどうされますか?

22日前 No.414

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

河本英夫『哲学、脳を揺さぶる』要約(pp. 1~7)

 序言はランニングの話から始まる。
 彼はランニングには数々の発見があると言う。
 後走りやカニ走りなど走り方を変えることで、気づくことがある。
 後向きに走ると、最初は《違和感が強く》て数メートルしか走れない。そこでまた普通通り走ってから、また後向きに走ってみると、今度は《慣れた感じ》でもう少し長く走ることができるようになっている。
 身体には《身体図式》がある。「普段の動作には意識しなくともおのずと手足、体幹が動いてくれるような身体の枠のようなものができ上がっている。」
 《違和感》はこういう運動フレームとしての《身体図式》を変えるような動作を行ったとき、感じられるものだ。

 そして、河本先生は、この本に何が書かれているかについて述べる:
 この本には、変わった走り方でのランニングなどのような「身体行為を含めたイメージの活用法」が記されており、その目的は、「イメージを通じて経験の動きに自在さを獲得すること」だ。《経験を動かす》ということが、本書で繰り返し語られることになる。

 ちまたには脳トレの本があふれているけれど、そういった本は自分が持っている知識をより有効に使うためのコツを教えてくれる。それを読み、視点や観点の選択肢を増やすことは、ひとつの《学習》の成果だ。しかしこれは、「能力そのものの形成」ではない。
 そういった学習による《認知能力》の向上は、ほとんど大脳皮質の働きにのみかかわる。しかし認知能力単体で形成される回路は狭い。
 より広い、《行為》にも関わる領域がある。
 この本は《学習》の範囲にとどまらず《発達》の範囲にまで及ぼうとしている。
 先生は「本来、課題になっているのは、能力を形成することであり、発達を再度リセットすることである」と述べている。この「発達のリセット」が今後の眼目となってくる。
 能力の形成(発達のリセット)にまで及ぶためには、認知能力のみならず《行為》にまで働きかけなければならない。
 発達は生物学的に決定されていると、想像されがちだと思う。
 しかし、脳神経システムや身体システムの可塑性の度合は大きい。やり直せる可能性はある。
 個々人の肺も、酸素吸着能力はトレーニングによって7倍もの開きが出てくる。
 このように身体ないし脳神経の機能には可能性が開かれている。この可能性の現実化が《発達のリセット》である。
 頭蓋骨の中にある脳そのものに働きかけて脳を改善することは望めない。
 手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器であると先生は述べられる。
 こうした外にある脳に働きかけるエクササイズが、発達のリセットには必要だ。
 しかし、知能(インテリジェンス)や言語的思考回路にのみ働きかけても、経験の形成の半分にしか働きかけたことにならない。
 こうした働きによって、視界が広がり・新しい考えを得られても、それらはたかだか、《自分で理解しながら実行できる範囲》にすぎない。この範囲は狭い。
 鉄棒の逆上がりができるようになったとき、はじめて自転車に乗れるようになったとき、何が起こったのか自分では分からない。分からないけどできるようになっている。
 《発達のリセット》は、《分かる》とは別な仕方で《できるようになる》という経験変化にまで及ぶ。
 そして、こうした領域においては《イメージ》が重要な役割をもつ。

 《イメージ》は、感覚・知覚によって得られる情報にすぎないものではない。
 それは、現実の行為の重要な手がかりである。
 身体動作にも、運動イメージや姿勢イメージがかかわっている。

 《能力の形成》をシステム内に組み込まれているものの代表例は「オートポイエーシス」だ。
 これには、動き続けるための仕組みが組み込まれている。
 なのでオートポイエーシスなら、自動的にシステムは回復し、自動生成してゆくのだから、放っておいても大丈夫と思われがちだ。
 すなわち、エクササイズや外側からのメンテナンスは不要に思われる。
 しかし、こういうものでも、停滞することもあれば、構造的欠陥を抱えて自在な動きを妨げられることもある。
 あるいは、作品を制作したあと、自分の作り出した《壁》にぶちあたり、それを突破できずじまいのこともある。
 こうしたとき「新たな変数を獲得するように経験の動きの局面を変えることが必要となる」。
 そこで、《発達のリセット》が課題となってくる。

 この本のベースは「認知運動療法」と「イメージについての先生自身の講義」である。
 前者は、片麻痺・失行・失認・脳性麻痺のような脳の障害へのアプローチ。イタリアの神経内科医カルロ・ペルフェッティにより開発された。
 認知運動療法は、身体運動と認知能力の再生に向けて、科学的に吟味可能な方法を設定したところが良い。
 自閉症や認知症、心の再生(精神病治療?)にも応用可能である。
 また、後者は、制作技法についての講義ではない。
 それはむしろ、科学技術や芸術作品についての、発想・アイデア・イメージの提示の試みであった。

 先生自身はこの本を「創造性の科学哲学」とカテゴライズされている。
 ここには人文社会科学・哲学・認知科学・科学技術・教育学の知見が素材とされている。

16日前 No.415

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>415

 そしてひとっとびに「あとがき」(pp. 302~303)を読む。

>日常の経験のなかで、行き詰まったり、壁に当たったりすることは、誰にでもある。


 すなわち、この本は、そういう経験をする全ての人に向けられている。

>そのとき、あえてそれを気にかけないで忘れようと努めたり、慌ててその場しのぎの対応をとることも、同様に誰にでも起こり得る。だが、行き詰まることや、壁に当たることは、むしろ、好機であり、転機である。そうしたとき、経験の仕方を変え、経験の幅を変えていくようなエクササイズがあれば、この好機を現実の可能性に転換していけると思う。


 この本は、壁に当たる経験をする万人に向けられている。
 何が差し向けられているか?エクササイズが提示されている。
 壁に当たることは、転機だ。
 スムーズに事が進むよりも転機を得たほうが良いということでもないだろう。しかし、スムーズに事が進むことよりも、壁に当たる方が不幸だというわけでもない。壁にぶつかること、矛盾に気づくこと、内に潜む問題が見えはじめること、限界にいたること、こうしたことは、変革の兆しであり、従来通りに行けば絶望の谷に落ちていく道から脱出するための可能性でもある。
 こういう転機(可能性)を現実化するために、エクササイズが提示されている。

>心の働きとして、この本ではイメージを前面に出している。

>イメージは…投げかけてみて、それを用いながら、経験を新たに組織化するための手がかりである。


 イメージという言葉がこの本には頻出する。
 イメージは、現実の行為のための手がかりである。
 イメージは、投げかけるものだ。投企される意味に近い。投げかけた意味からして、経験を新たに組織する。再構成する。その再構成のための手がかりがイメージだ。

>イメージとは、経験が進むたびにかたちを変えていく問いに近いものなのである。


 ヘーゲルを思い出す。そしてヘーゲルはこの本の傍注でも紹介されている。
 イメージは、感覚や虚構というより、むしろ《問い》に近いものだ。
 この本でも何度も、問いが投げかけられる。
 問いを投げかけられることで、ものの見方が変わる。しかし、この本は《ものの見方を変える》にとどまらず《能力の形成》を目指している。更にメタ次元に及ぼうとしている。
 問いが、論理的・言語的なものではなく、イメージであることによって、経験の領域が特定の領域(知性の領域)に限定されていない。
 この本のタイトルは『哲学、脳を揺さぶる』だが、「哲学」という言葉の世界を超えようとしている。
 すなわち揺さぶられるのは「脳」であり身体である。しかしまた同様に言葉の世界も揺さぶられるだろう。

 俺は河本さんの問いの投げかけかたに魅力を感じた。
 こういう問いの立て方をしたいなと思ったものだった。

 真の動機が不純であれ、俺はこの遅読を自分の生活に組み込もうと思ったのだった。

16日前 No.416

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

てじさん

物理法則もすべてに通用する法則が見つかりません・・例えばニュートン力学と相対性理論とみたいな使い分け・・

認知症の第一人者の学者さんが認知症になられたそうです・・

学説は狭くすべてを凌駕できません・・

ぴたりと言い当てるのはひとつの的がある時だけ・・すべての的には当たらない・・

15日前 No.417

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>415,416

ちなみに、講談社学術文庫から出ている『哲学の練習問題』は『哲学、脳を揺さぶる』と同じ内容です。文庫版となり手に取りやすくなったといったところでしょうか。

15日前 No.418

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>416  てじさん

>>416
>「哲学」という言葉の世界を超えようとしている。

これは、【 http://mb2.jp/_tetsugaku/1113.html 】にも記述したことですが、「無限小」、「無」や「非存在」という言葉こそ、哲学問題を産み出しているのです。本来、語り得ないものを無理やり「無限小」、「無」や「非存在」という言葉に仕立て上げ、それを追及した結果、答えにたどり着けないがために哲学問題になるのです。まさに、哲学とは、言葉の綾(複数対立的な意味の付与)なのです。バークレィは言います。「私たちはまず埃を立てておいて、それから見えないと不平を言うのである。」

15日前 No.419
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