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ドクショカイ(仮)

 ( 哲学掲示板 )
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死体の蠅 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

まず読む本を決めて、その本をみんなで一緒に読み進めながら、その本への理解を深めるスレです。

読む本は、各自が勝手に決めてください。

◯ルール
テーマとして定めた本を読んだうえで、文章を投稿すること。
これが最低限のルールです。

ただし、
むかし読んだ記憶だけで投稿するのは、遠慮してください。
また、その本をすべて読み切っていなければならない、というわけではありません。
むしろ、はじめて読む本でも、それをこれから読んでいくならば、全然OKです。

また、スレ内で同時並行的に、複数の本がテーマとなっていても、問題はありません。
Aのドクショカイには参加して、Bには参加しないというのもありです。
AもBもどちらにも顔を出す、というのもありです。
>>0 といったメンションを活用すれば、自分の参加しているドクショカイの投稿文を見つけやすいでしょう。)

◯使用方法
テーマとして定めた本の名前を、メモのところに書いてください。
それだけでなく、メモは、誰が使ってもいいので、大いに活用してください。

◯使用例

@ハード
例えば、まず一週間でどれだけ読むか範囲を定めておく。(期間と読む箇所を定める。)
発表者が、その範囲の文章を要約し、その箇所における議題や問題、不明点を述べる。
次の一週間では、その担当者の述べた要約や不明点について検討してみる。
さらにその次の週は、別な担当者が、要約やその箇所で問題となっていること、読んだときの不明点をまとめてくる。

Aフリー
期限も読む箇所も定めず、とりあえず読む本だけを決めて、それぞれ気になった箇所について文章を発表する。

Bバトル
特定の期間に、それぞれが本の同一の箇所を読み、その同じ箇所についてそれぞれの参加者がそれぞれ解釈を発表する。
そして、それぞれの解釈の相違を検討する。
どの解釈が正しいか、面白いか、生産的か。あるいは、どうしてこれほど解釈に違いが出るのかなどを考えてみる。

※使用例はあくまでも例であり、こういう形にしなければならないというわけではありません。

2年前 No.0
メモ2018/12/03 00:25 : 久住哲(てじ) @flyonbody★ZkiDndseok_Ew9

【いま読んでいる本】


・存在と時間

・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」(河出文庫)『自由な死について』

ページ: 1 2 3 4

 
 
↑前のページ (291件) | 最新ページ

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259,267,268,270,272,281,288

§7(42〜47ページ)

私たちは「ある」ということを常に理解している。

日本語で「青い」とか「素晴らしい」とかいうところでも、ドイツ語では「blau ist」とか「wunderbar ist」とかいう。この「ist」という動詞の不定法が「sein」であり、この動詞が名詞になった動名詞が「das Sein」であり、これが「存在」と訳されている。この講義のテーマは人間の自由で「ある」と言うときにも、ドイツ語では「ist」が言われている。そしてドイツ人はこの「ist」が何を意味しているのかを理解しています。そしてこの「ist」で理解されているものは、石とか自由とか人間ではなく、「ist」です。

では、ドイツ人が常に「ist」と発言するから、私たちは「ある」ということを常に理解していると言えるのでしょうか。ハイデガーはそれを否定して、「ある」と言わないところでもやはり私たちは「ある」ということを理解しているのだと言います。ここで日本人にも接近路が見えてきます。「はあ、疲れた」と思うとき、これを「はあ、私は疲れてある」と思っているのだと、思えば理解しやすくなります。ただ日本人がそれを「ある」と呼ぶのはあまりにも不自然で、ましてやそれを「存在」と呼んだ日には、何が何だか分からなくなるでしょう。むろんハイデガーを読むに慣れれば、変な話、「存在」という言葉を読んで、これが「存在」を意味するとは思わなくなります。それは矛盾ではないか?ちがいます。「存在」という日本語の周辺事情ないし布置(constellation)が変化したのです。

私が十分にそれに注意を向けられたとは思えませんが、それ、それは「存在了解」と呼ばれます。繰り返しますが、「存在了解」とは「存在」を「了解すること」ではありません。すなわち、生存確認のようなものではありません。それは私たち自身の在り方に付けられた名前です。ハイデガーは私たちの在り方を「存在了解」と呼ぶのです。 >>288 で述べた通り、『人間はどのような仕方で存在しているのか?』という問いへの答えは『存在を了解している』というものになるでしょう。なので『存在と時間』でも「存在了解はこれ自体で現存在の存在規定である」と言われるのです。

しかし、「はあ〜疲れたあ〜」と思っている時に自分が存在了解という在り方をしていると言われても、「え?」と意味が分からないでしょう。

>我々の関わり合いはこの…有の理解によって担われ且つ完全に支配されている。我々はこれによって甚だ完全に支配され且つ殆ど有の理解として我々の注意を惹かないので、我々はことさらこの有の理解に全然気をとめることがないのであり、又我々はこの我々にとって自明的なものをいよいよ以てわざわざ思い起さなければならないのである。我々は有の理解を忘れてしまったのである。


私たちが存在了解という在り方をしていると言われても「え?」となるのは、私たちが存在を忘却しているからだ…という論理です。

「私たちを完全に支配しているもの」は「有の理解として我々の注意を惹かない」すなわち、私たちはそれをことさら「存在の理解」だとは思いも寄りません。「eigens kehren」しないと言っており、そうするためには「eigens erinnern」しなければならないと言います。ドイツ語で「Einkehr」は「立ち寄り・訪問」を意味します。「ein」は「内へ」を意味し、「inner」は「内面」を意味します。私たちは存在了解にすっぽりと入り込んでしまっているのですが、その内面性に改めて思い寄る。

ハイデガーは何度か、自分が今まで暮らしてきた地面へとジャンプするという言い方をします。(『思惟とは何の謂いか』および『同一性と差異』所収「同一律」等を参照。)ふつうジャンプというのは、高い所への飛躍(飛び出し)か或いは奈落の底へのダイブ(飛び込み)です。ハイデガーはパラドキシカルに、自分がずっとそこに身を置いてきたところにジャンプするという言い方をします。今の話で言うと「自分がずっと身を置いてきたところ」というのは「存在了解」です。或いはまた、『同一性と差異』では「das Gehoeren zum Sein」すなわち「存在への帰属」という言い方をしています。

「存在了解」はドイツ語で「Seinsverstaendnis」ですが、これのもとになった動詞「verstehen」は「はっきり聞き取ること」「(言ってることが)分かること」を意味します。フランス語で言うところの「entendre」です。ハイデガーは『形而上学入門』の「IV 存在の限定」において「Vernehmen」について述べています。この「Vernehmen」という動名詞が「Verstehen」という動名詞と近いというのは、理性(Vernunft)と悟性(Verstand)という言葉からも分かるでしょう。またこの「Vernehmen」が「存在への帰属」と言い換えられているということにも注目です。「Vernehmen」は第一には「引き受けること」「自分の方に来させること」を意味し、第二に「証人の供述を聴き取ること、証人を呼び出して事情を聴き取り、事件の配置と成り立ちとがどうなっているのかを確立すること」を意味します。

ハイデガーは、近すぎて聞こえない音を聞こうとしているかのようです。あたかも、耳の真横を流れる血液渓流の轟を聞こうとするかのようです。おそらく、耳の真横を走る血流の音が私たちに聞こえることはないでしょう。しかし、耳の最も近いところに実は轟音があるのだが、当り前すぎてもはやそれを聞き取ることができなくなっていると言うことはできます。これはレトリックです。実際の話をしましょう。そしてその実際の話が、存在了解すなわち存在忘却です。

以上は >>288 で言われた「私たちはいつ存在を理解しているか?」という問いへの答えを詳しく展開したものだと言える。

私たちはあらゆる場面で存在を理解しており、そしてたいてい、自分のあり方が存在了解であるということを忘れている。

さて上の問いは「存在を問う問いが存在の本質規定という答えを求めている時、どうすれば答えが可能になるか?」という問題から出て来たものだった。
この存在論的問題で問われているのは、存在がどこから規定されるか、存在が何を意味するかについての答えをどこから汲み取るかということだった。

例えば三角形は、平面であり、すなわち空間的なものである。三角形は空間というところからして、それが何であるか理解される。

では「存在するものとしての存在者」については?

それが哲学の主導的問いの内容だった。( >>281,288

そしてこれについて私たちはお手上げになってしまうとハイデガーは言う。プラトン『ソピステス』におけるエレアの客人のように。

私たちは誰もが常に存在了解という在り方をしているのに、私たちは存在を把握していない。

これをハイデガーは「概念把握以前的な有の理解」と呼ぶ。『存在と時間』で言うところの「前存在論的存在了解」のことです。

この存在了解は、哲学以前のものでもあります。逆に言うと、哲学において言葉になる存在論は、哲学以前からあった存在了解に端を発するものです。すなわち、哲学が存在了解を形成してようやく存在了解が誕生するのではなく、…存在了解の自覚が哲学の誕生なのです。

>有の理解に目覚めること、つまり有の理解そのものに代わってこれを目前に見ることは、人間における現有からの哲学の誕生である。


「有の理解」は「人間が全ての成文化された哲学以前に既にそれであったところのもの」です。自分が今までずっとそれであってきたものに目覚めるというのは奇妙な表現です。それは(夢からではなく)現実から現実へ覚めるというに等しいからです。

「有の理解そのものに代わってこれを目前に見ること」は誤訳の臭いがします。原文は「das Vorfinden fuer es selbst」です。まず、原文には「これを」がありません。「これを」というのは何でしょうか?「有の理解」か「有」です。まず穏当な解釈で行けば、『今まで漫然とやってきた存在了解を自覚的にやり直すこと』というのがその内容ではないかという気がします。いわゆる初心に返るということです。このとき「Vor-finden」の「Vor-」というのは、有の理解の「前」でしょう。私たちは常に「存在了解」の中であれこれしている。存在了解が私たちの言動の根底にあるが、それを忘れている、ということですね。しかし、この「有の理解」へと目覚めるということは、どこか有の理解の手前からそこへと目覚めてゆくということになりそうです。存在了解を、存在了解の根源というより根源的なフィールドにおいて、すなわちより以前的なところにおいて、見つけるということ。すでにそこで動いている存在了解を見つけるということが起りうるような、より根源的場所を想定するということ。だとすると、ここでの「fuer」というのは、「…へと向かって」という意味でしょう。すなわち英語で言うところの「for」の意味でしょう。「for」は「fore」であり、「前」を意味します。もしそうなら、ここでは「Vor-… fuer」という風に、「前」のだめ押しがなされていることになります。

存在了解が自分の前にあるという状況は、この存在了解が歴史的に形成されてきたものだという含意があります。或いは、存在了解が特定の方向へと整理されて、その整理された存在論が、その後の存在論を形成したと言った方がいいかもしれません。

存在了解において、存在はどのような言葉になったか?

ousia(ウーシア)

この§7を含む講義の第2章は、主な話題をこの「ウーシア」としています。訳本では「実有」と訳されていますが、なぜこう訳したのか(今の所)不明です。

1年前 No.292

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

ヤスパースさんも「存在論」のことはハイデッカーさんに聞いてとのこと・・

あくまでも存在論においてです・・

1年前 No.293

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか」

 この言葉は、二十世紀のユダヤ人思想家レヴィナス、第一の主著『全体性と無限』の冒頭を飾る一文である。
 私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。この問いを問うとき、私たちは道徳の外へと連れ出される。しかしそれは、非道徳的になることではない。この問いを問うとき、私たちは道徳的とか、非道徳的などと分別をつける、その外側に連れ出されるのだ。
 道徳は欺くことを良しとしない。それは非道徳的なことである。しかし、その道徳そのものが、私たちを欺いているとしたら……。自分が今まで道徳的と信じてきたことが、じつは問題外のことかもしれない。自らの潔癖さが、知らないところで人を、血まみれに汚しているかもしれない。そう信じたくはない。しかし、自らの道徳性を疑わないかぎり、それが問題外の外道として人を傷つけているという事実に気づくことさえできない。
 私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。このように問うこと以外に、本当の意味で道徳的であることなどできるのだろうか。

 そう考えると、今の私たちが道徳的だと信じていることは、いったいどうなるのだろう。それは本当は非道徳的なのか、問題外なのか。それを知るすべはあるのだろうか。

・・・

出典:E・レヴィナス『全体性と無限(上)』、岩波書店、2005年、p.13

1年前 No.294

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

出典の訂正。

(旧)出典:E・レヴィナス『全体性と無限(上)』、岩波書店、2005年、p.13
(訂)出典:E・レヴィナス『全体性と無限(上)』(熊野純彦訳)、岩波書店、2005年、p.13

1年前 No.295

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

レヴィナスの著書『全体性と無限』(上巻、岩波書店、2005年)は、その冒頭を、次のように飾っている。

>「ほんとうの生活が欠けている」。それなのに私たちは世界内に存在している。形而上学が生まれ育まれるのは、このような不在を証明するものとしてである。だから形而上学は、「べつのところ」「べつのしかた」「他なるもの」へと向かっていることになる(p.38)

「ほんとうの生活が欠けている」という箇所はランボーの詩における一節らしい。また、「不在を証明するもの」という箇所は、仏語で「alibi」となり、俗に言うアリバイのことである。

自分がそこにいなかったことを証立てるものが、形而上学と呼ばれ、それは、世界内に存在する私とは「他なるもの」へと向かっていることになる。

ちなみに「形而上学」とは、以下の事柄を指す。

>形而上学(けいじじょうがく、希: μεταφυσικ?、羅: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: metaphysique、独: Metaphysik)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。(Wikipedelia「形而上学」より)

たしかに、感覚や経験を越え出ていくことは、ある意味では、自分とは異なるもの、つまり「他なるもの」へと向かうことである。

しかし、それがなぜ「アリバイ」と呼ばれるのか。なぜ、自分が世界にいるにもかかわらず、「ほんとうの生活が欠けている」その仕方を証明するものとして、形而上学が位置づけられるのか。ここにはすでに、レヴィナス独特の「形而上学」が芽をのぞかせている。

1ヶ月前 No.296

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』(河出書房、p.121)より

>死ぬべきときに死ね

1ヶ月前 No.297

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

>>297

私はこの言葉に共感を覚えます。

1ヶ月前 No.298

宿題 ★eM1n2yJmTo_iGf

すめんさん

哲学の結果は確かに存在しているという確信です。

1ヶ月前 No.299

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

>>299

宿題さん

そうですね。ぼくもそう思います。

1ヶ月前 No.300

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>296  すめんさん
あなたの引用だけをもとに言いますが、
そんな大層なというか、ややこしいことを言ってるんでしょうか?

こういうことじゃないんでしょうか?
世界の中に真の生が欠けている、不在だからこそ、世界の外にそれを求める、それが形而上学であると。
世界の中に真の生があるのなら、形而上学は存在する必要がないから、存在しないはずだ。
にもかかわらず形而上学が事実存在することは、すなわち世界の中に真の生が不在であることの証明である。
と、要はこういうことなんじゃないでしょうか?

そして、真の生が世界の中、ここにないということは、
「ここではないところ」=「べつのところ」
「このしかたではないしかた」=「べつのしかた」
「これではないもの」=「他なるもの」
の生を求めるのが形而上学であることになる。
要は、そういうことではないのでしょうか?

http://mb2.jp/_tetsugaku/1016.html-92#a

やはり、前に書いたこのへんの問題だと思うんですけどね。

1ヶ月前 No.301

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

>>301

単純に、好きな哲学者について話せて嬉しいです。

ご指摘いただいた点は、まったくその通りだと思います。ありがとうございます。

1ヶ月前 No.302

宿題 ★eM1n2yJmTo_iGf

すめんさん

道徳とは、理性の通る道であって目的地ではないと思いませんか?

1ヶ月前 No.303

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

たしかに、目的地にこだわると、
意固地になって、かえって道を見失いかねません。
理性の通る道という表現は適切かと思います。

ただこの場合の理性というのは、人間の本性としての理性ではないでしょうか。

だから「人間とは理性的動物である」というより、
「人間とは理性である」のほうが、ぼくにはしっくりきます。

というのも「理性的動物」という表現には、
やや野生の動物をさげすみ、人間を優位に置くような響きを感じてしまうからです。
(あくまでもぼくの個人的なイメージですが)

たしかに人間はある卓越性を有していますが、
あくまでもそれは野生の鳥が飛ぶことを本性に含むように、
人間が理性を本性とする点で卓越しているという意味です。

微妙なニュアンスの差異かもしれませんが、
ようするに理性を有していることを根拠に
野生の動物への支配を正当化するのではなく、
あくまでも理性の流れに従って、
野生の動物より卓越性を有しているのではないか、
という考えを持っています。

1ヶ月前 No.304

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

>>304

訂正)

野生の動物より卓越性を有している



野生の動物と同様に卓越性を有している

1ヶ月前 No.305

宿題 ★eM1n2yJmTo_iGf

すめんさん

すめんさんも、ヤスパースさんと考えが似てきました・・

1ヶ月前 No.306

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

『存在と時間』でも読みましょうか。

ちなみに、この哲学掲示板には

「存在と時間スレ http://mb2.jp/_tetsugaku/749.html 」があります。

――――――――――――――――――――

さて

当面の目標は、存在と時間スレのすめんさんの投稿( http://mb2.jp/_tetsugaku/749.html-290-292#a)を批判することです。

しかし、

もう『存在と時間』の内容を忘れてしまいました。

そこで、

存在と時間スレに投稿された過去のレスをひろいあげたりしながら、

内容を思い出していきたいです。がんばるぞ〜

Lass uns gehen!

17日前 No.307

宿題 ★eM1n2yJmTo_pcO

Zeit und Raum 「時間と空間」の対比は普通なのですが

『存在と時間』はひねくれているような気がしませんか?

16日前 No.308

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>307

過去の自分の投稿を見直していたら、こんなひどい発言を見つけた( http://mb2.jp/_tetsugaku/1005.html-34,35#a)。

俺は、何を思ってこんなことを言ったんだろう。

どこが怠惰だと思ったんだろう。

はたして怠惰というのは何のことを言っているんだ?

すめんさんには悪いことをした。

しかし、俺はふたたび、彼への批判というかたちで、『存在と時間』を読もうとした。( >>307

なぜ俺は彼に狙いをさだめたか?

それは、彼がハイデガーについて語っており、そしてその解釈が間違っているように思えたからだ。

しかし、
怠惰の話はまた別。

彼の言葉はこういうものだった:

>だからぼくの思想に価値はない。

>ただそれは生きられるだけ。

>それでいいと思う。


俺はこう言った:

>自分を甘やかしてるだけの怠惰。


甘やかすというのは、好き勝手にふるまう者を、そのまま好き勝手にさせること。「好きにしな」と放任すること。欲望をあらわにする者の欲望を許し、うけいれ、願いをかなえること。すなわち、なにか特定の様式やマナーに押し込めることなく、相手をそのままにすること。そのままというのは、行儀よく加工された状態ではなく、生のままむき出しであるということ。

生のまま、特定の方向に差し向けられないまま、自分の欲望のままにふるまうことを「なまく」といい、これがすなわち「なまける」です(嘘)。

したがって、甘やかすとは、生のままにすること、なまけさせること。なので、「自分を甘やかす」は「なまける」とつながる。

怠けるとは、仕事をサボるということ。仕事は、他のものに仕える事であり、従事であり、自分の欲望を抑制し、他のものの意向に従うという特徴があります。怠けるとは、そのような他の者の意向に従わず、自分の欲望に従い、好きにして、自分のままでいること。

この従来の自己の保存は、更に上の段階があるという観点からすると、低級なままでいつづけることだ。この場合、怠けるとは、向上のための鍛錬を怠ることだ。低級なものは、ばかであり、痴(おこ)である。おこたること、痴でありつづけること、これが「おこたる」です(嘘)。

俺は
>だからぼくの思想に価値はない。

→価値がない→低級
>ただそれは生きられるだけ。

→評価されるべく加工されない、生のまま。
>それでいいと思う。

→そのまま、生のままでいいと放置。

と連想し「怠惰」と述べたわけだ。

これが俺の言い訳です。


ーーーーーーーーーーーーーーー


『存在と時間』の第1節は、存在忘却の指摘からはじまる。

プラトンやアリストテレスが最高度の努力によって現象から勝ちとったものが、瑣末なことと見なされるようになった。

というか、この存在のギリシャ的捉え方が、存在の意味を問うのを怠ることの、根源になっている。

ここにあるのは、努力と怠惰とのコントラストです。

原文にある「努力」はドイツ語では「Anstrengung」です。「怠惰」は「Versaeumnis」です。

ここで注目すべきは「An-strengung」に含まれる「Streng」という部分です。これは「厳密」などと訳されますが、ハイデガーは科学などの「精密」な学問と、自分の「厳密」な思考を対比させます。

ではいったいこの厳密って何なのか。それは後ほど。

あと、「怠惰」についてですが、ハイデガーは存在が問われなくなっている原因は、人間の側の怠慢などという一過性のものではないと、繰り返す。そうではなくて、むしろ存在の側が人間から離れ去っているという言い方をする。

ましてや、「自分を甘やかす」などということではない。

このことと、本文の「存在を解釈するさいのギリシア的な着手点を地盤として、一箇のドグマがかたちづくられた。そのドグマは存在の意味の問いをよけいなものと宣言するばかりではない。そのうえ、問いを怠ることを是認しているのである。」という文章は、関係あるんじゃないかなと思います。

ちなみにこの引用は、岩波文庫の熊野純彦先生訳の『存在と時間(一)』72ページからです。

とりあえず、邦訳はこの岩波文庫の熊野先生訳のものを使おうかなと思います。

ドイツ語はMax Niemeyerのもの。


ーーーーーーーーーーーーーーー


>>308
昔もこの話、しましたね。( http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-483,484,489,490#a

このタイトルについては、今でもよく分かりません。

『存在と時間』の「と」については、『思索の事柄へ』という論集に入っている「時間と存在」という講演が参考になるらしいですが、俺は今のところ読む予定はありません。

あと『カントと形而上学の問題』の第44節で、この「と」への言及があります。

>また現存在の形而上学の問題性が「存在と時間」の問題性と呼ばれるならば、いまや基礎存在論の理念の解明から明らかにされえたことは、この表題における「と」が中心的問題を内蔵しているということである。「存在」も「時間」も従来の意味を放棄する必要はないが、しかし恐らく一層根源的な解釈によってそれらの権能と限界とが根拠づけられなければならないであろう。


これを見ると、宿題さんがこの二つの並列を奇妙に感じるのは正しい反応におもえてきます。というのも、この二つを明示的に並列させることが忘却されてきたと、ハイデガーは言いたいでしょうからね。

まさか『存在と時間』の「と」にまで意味があるとは、びっくりですね。

15日前 No.309

宿題 ★eM1n2yJmTo_TJc

久住哲さん

「時間の存在」とかなら筋が通ると思います・・

14日前 No.310

メドベ ★xTH3fd6SGT_Ew9

「存在と時間」は、存在論を時間の概念(時間性、テンポラリテート)で分析し、存在一般の意味の究明を目指した本ですよね。未完らしいけど。だから「存在と時間」という題名は別におかしくないように思う。というか、本の題名が内容を表さなきゃ駄目なんて道理はないでしょうし。
「時間の存在」というのは、意味はわかるけど、「存在と時間」の内容とはかけ離れるから却下で。

14日前 No.311

宿題 ★eM1n2yJmTo_TJc

メドべさん

存在と時間は同位概念ではないでしょう?


同位概念とは・・
論理学で、同一の類概念に属する多くの種概念相互のこと。例えば、生物という類概念に属する動物と植物。等位概念。等級概念。

14日前 No.312

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>308,309,310,311,312

>>311

>「存在と時間」は、存在論を時間の概念(時間性、テンポラリテート)で分析し、存在一般の意味の究明を目指した本ですよね


この要約文章の是非について、今後考えることになるでしょう。

検討すべき点は

・「存在と時間」は「本」にすぎないか。
・『存在と時間』は「存在論を時間の概念…で分析」したのか。
・「時間性、テンポラリテート」は「時間の概念」であるか。すなわち、概念であるのか。
・「存在一般」とはなにか。

などでしょうか。

検討する時が来るのが楽しみです。


ーーーーーーーーーーーーーーー


>本の題名が内容を表さなきゃ駄目なんて道理はないでしょうし


そうですよね。

ハイデガー自身、この表題について色々と語っているようですが、いまは、そのうちのひとつを紹介するにとどめます:

>表題は、次のような課題を明確に知ることから設定されている。すなわち、もはや有るものや有るもの性ではなくて、有だということ、もはや「思惟する」のではなくて「時」だということ、もはや思惟を最初となすのではなくて、有〔を最初となす〕ということである。「時」は有の「真理」を名づけるものである。そしてこれらすべては課題であり、「途上」である。…


すこし補足説明:

・上の引用は『哲学への寄与論稿』91節から。
・「有」と訳されてるが、現在では「存在」と訳されることが多い。
・「有るもの性」は、ドイツ語では「Seiendheit」だが、ふつうのドイツ語には無い。ちなみに、俺の記憶では、『存在と時間』の本文にこの語は出てこない。今風に訳すなら「存在者性」かな。
・「思惟」というのは…んー、大雑把に言えない。また今度。ただ、たとえば『形而上学入門』のIVでは「存在と生成」「存在と仮象」「存在と思考」「存在と当為」という哲学ではおなじみの対比が見出しになっているが、そのなかに「存在と思惟」がある。そういう、なじみの“対比”ではなくて、「存在と時間」だ!ということでもあるだろう。
・時は有の「真理」だと言われている。以下のようなハイデガーによる言葉がある:

>「存在の意味」と「存在の真理」は同じもののことを言っている。(『形而上学とは何か?序言』より)


ハイデガーは『存在と時間』刊行より後になると、「存在の意味」ではなく「存在の真理」という言葉を多用する。その事情については、今後。

ちなみにこの引用文中の「同じもの」と「言っている」は、どちらもハイデガーの重要用語、das Selbeとsagenです。油断はできない。


ーーーーーーーーーーーーーーー


ちなみのちなみに、怠は「注意を怠る」ということで、油断をも意味する。ちなみにこの注意(Anmerksamkeit)だが、やはりハイデガーの重要用語である。

怠惰。( >>309

怠惰という字には「惰」という字が入っているが、この惰という字は、これから先に出てくる「頽落」という発想をよくあらわす。

怠惰の逆ってなにかと考えると、それは「真剣に使命にあたること」だと思うんだけど、この「真剣」とかも、またハイデガーの重要用語。俺はこの日本語を「Instaendigkeit」の訳語に使っている。

怠惰は、俺のあり方でもある。

怠惰をひとつの導きの糸にしたい。

14日前 No.313

宿題 ★eM1n2yJmTo_TJc

久住哲さん

かつては世に出るには早過ぎたと言われるハイデッカーさんも今では古典のような・・

脳科学が現象学の頃とは比べ物にならないくらい恐ろしく進歩していると思いませんか?

13日前 No.314

メドベ ★K07gtJj5Ry_Ew9

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13日前 No.315

メドベ ★XWBzAEEifv_Ew9

これでどや?

>>312
「存在と時間」という題名より内容のほうに注目しましょうよ。
ただ「形而上学入門(まるてぃんハイデガー著)」を題名だけ見て入門書気分で購入した人には同情もうし上げます。
では「存在と時間」に勝手に副題つけあいっこしようぜ。

「存在と時間:存在一般の意味の究明」
これが本命。つまらない。

「存在と時間:けっこう急いで書きました」
上司に急かされて書いたという事情をストレートに副題にしてみた。

「存在と時間:頽落してる君たちへ」
「頽落」とは、読んで字の如く<禿げ><落ちる>ということであり、「存在と時間」とはすなわちウスゲに悩む者達への、頽落者から頽落者への啓発の書であると言えるかもしれません。

>>313
じゃあ先に検討しちゃうぜ。
問1:「存在と時間」は「本」にすぎないか?
答え:「存在と時間」は「本」にすぎないのではないだろうか?

問2:「存在と時間」は「存在論を時間の〜で分析」したのか?
答え:「存在と時間」では分析できてない。未完部分で分析するはずだったらしいがさて...。

問3:「時間性、テンポラリテート」は「時間の概念」であるか? すなわち、概念であるのか?
答え:これは難しいなあ。何とでも言えそうだし。久しぶりに「概念」を辞書で引いた。

問4:「存在一般」とはなにか?
答え:これも難しいなあ、…...というのは、《存在する》という言葉を使うときに、自分でいったい何を言おうとしているのかを、君たちならばずっと前からよく知っているにちがいないのだが、われわれの方では、ひところでこそそれがわかっているつもりだったのに、いまでは途方にくれているありさまなのだから…...。


ところで先週末お墓の下見に行ってきたんだけど、己の墓碑銘を夢想せし瞬間にこそ我先駆的覚悟性を見出したり!(てきとう

13日前 No.316

宿題 ★sicIy89Ne4_TJc

メドベさん

同じ実存主義でもヤスパースさんの存在の仕方は時間を超越しているので時間なんて何の関係もないのです・・

12日前 No.317

メドベ ★jkHaJSuck4_Ew9

>>317
ハイデガーは「存在と時間」が実存について書かれたという見方をたびたび否定していたらしいです。というのも「存在と時間」は、刊行された「人間存在の分析」に続いて、存在についての歴史的考察が書かれる予定だったらしく、「存在と時間」でハイデガーが目指したのは、あくまでも「存在一般の意味の究明」であると考えていたからのようです。
〈超越〉という言葉はハイデガーも使ってますが、現存在の固有特性みたいなもんだから、ヤスパースのいう《超越》とはだいぶ違うもののようですね。とはいえハイデガーとヤスパースはお互いに読み合いっこしたりしたお友達だったようなので、考え方には何かしら通底するものがあるのかもしれませんね。しらんけど

12日前 No.318

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>307,308,309,311,312,313,315

まず、メドベさんの >>311 の発言について俺が >>313 であげた検討事項のひとつを修正します。

4つめの

>「存在一般」とはなにか。


という検討事項ですが、

これだけでは誤解を生んでしまいました。

俺が検討したかったのは、「一般」という表現についてです。

要するに:「存在」は「一般」であるか?
ハイデガーがそれの意味を分析しようとしていた存在は一般であるか?

「一般」という些細な表現上のことが、俺は気になっているんです。

この「一般」すなわち「general」が気になる。

「存在一般」ときくと、俺は:
いくつかの存在があるけど、それら種々の存在ではなく、存在全体、すなわち存在一般だ…と思ってしまいます。
すなわち、それは厳密には「存在」ではなく「存在者」だろう、あるいはたかだか「存在者の存在」だろう…と。

しかし、「存在者の存在」と「存在の意味」というのは別です。

>>313 ですこしふれておいた「存在者性」にも関わってくることです。

というのも、これから読む『存在と時間』第一節の、文庫本でいうと75頁の、鉤括弧で囲まれた「存在」には次のような原註があるからです:

>das Seiend, die Seiendheit


ここの「存在」に括弧がついてるのは:これが「存在それ自体das Sein selbst」ではなくて「存在者性die Seiendheit」ということですよ!…という注意ですね。

すなわち、
>「存在」は「最も一般的な」概念である。

という先入観でいわれている「存在」は、「存在の意味」ではなく、「存在それ自体」でもなく「存在者性」であるということ。

まずここが複雑です。

――――――――――――――――――――


『存在と時間』第一節では

>存在を解釈するさいのギリシア的な着手点を地盤として、一箇のドグマがかたちづくられた。

>そのドグマは存在の意味の問いをよけいなものと宣言するばかりではない。

>そのうえ、問いを怠ることを是認しているのである。


と言われていました。

この「ギリシア的な着手点」ってなんだろー?と、読者は思うでしょう。

まず、このドグマというのは、

>「存在」はもっとも普遍的(allgemeinste)でもっとも空虚な概念である。


というものです。

この「allgemein」を独独辞典で引くと「generell」と出てきます。
すなわち、「もっとも普遍的」というのは「もっとも一般的」ということですね。

「一般」ですね。( >>311,313
そして「概念」ですね。( >>311,312,313,315

しかし、

「存在の普遍性は類の普遍性ではない」と言われます。
類の普遍性というのは、たとえば、犬という種よりも哺乳類という類のほうが普遍的であると言われるときの、普遍度のことです。すなわち、より多くの外延を包摂するとか、そういう意味ですね。存在はそういう普遍的なもののうちで最も普遍的だ…ということじゃないんだよ!…というのが今の話です。

そしてハイデガーはこういうギリシア語を紹介します。これは『存在と時間(一)』の表紙にもかざられている言葉です。

ουτε το ον γενοσ

この「γενοσ」が「genos」で「類」です。

たしかに、一般度・普遍度が高まるにつれて、個々のものや種差は捨象されていって、その"観念"はどんどん空虚になっていきます。
存在者であるということは、すべての存在するものに当てはまる(同語反復)ので、逆にどうでもいいというか、それを問題にしてもしょうがないことになりますよね。

このドグマの根源は、「ギリシア的な着手点」だと言われていましたね。

種明かしすると、この着手点というのは「存在者の存在をιδεαとして把握すること」です。

たとえば、別な本ではこうあります:

>〔イデアιδεαは〕真理αληθειαについての解釈であり、この解釈を通して、有るもの性を対象性とみなす後世のあの規定が準備され、真理αληθειαそのものへの問いが、西洋哲学の歴史全体にとって必然的に抑止される。(『哲学への寄与論稿』第109節)


「真理」というのは、 >>313 で示唆したように、「存在の意味」と無関係ではありません。

イデアという発想がもとになって、真理(あるいは存在の意味)への問いを抑制している。

ハイデガーにはこういう発想がある。

こうした彼の発想は「存在史的 seinsgeschichtlich」などと言われる。

>「存在と時間」は、刊行された「人間存在の分析」に続いて、存在についての歴史的考察が書かれる予定だった

のですが( >>318 )、たぶんこういうことは刊行されなかった第二部の3あたりで語られる予定だったのではないでしょうかね。

ちなみに木田元先生が岩波現代文庫から出している『ハイデガー『存在と時間』の構築』では、この第二部の再構築が試みられています。別にオススメはしません。
また、ハイデガーがカントの『純粋理性批判』を解釈している『カントと形而上学の問題』は、カントを読むうえでも助けになりますし、なにより面白いです。

ここでいったん休憩。


――――――――――――――――――――

>>318

「超越」については、ハイデガーは常に、『道標』に入っている『根拠の本質について』を参照するようにと言う。

ざっくばらんにいうと、超越というのは、実存(Existenz)の別名みたいなもの。

なんで「超越」という言葉をこういう風に使うのかな〜と、俺は理解に苦しむ。
理解の一助となるのは、前述の『カントと形而上学の問題』だ。
この本でハイデガーは「超越」という言葉を「コペルニクス的転回」と絡めている。
コペルニクス的転回の内容が分かっていれば、そこから彼の「超越」という言葉も解釈しやすくなる。

詳細は今後。

ちなみに、先延ばしにすることをドイツ語でSaeumen(ぐずぐずする)といい、ここからVersaeumnis(怠惰)という言葉も出てくる。

怠惰。

12日前 No.319

宿題 ★eM1n2yJmTo_TJc

久住哲さん

哲学が道を反れていたり邪道がはびこり哲学の襟を正したいと書いたのがヤスパースさんの哲学書です・・

11日前 No.320

メドベ ★sP0Kgnzxtl_Ew9

>>319
「存在と時間」における「存在一般」というのは、「存在者」や「存在了解」や「存在」のことじゃないかな。というのも、例えば「存在全般」という表現なら、いかにも沢山ある存在の全部という印象ですから「存在者の全て」と読めるかもしれませんが、「存在一般(「一般存在」ではない)」という表現ならば、それは存在と表記されているものや、「時間性」などの存在に関する概念なども含んで、つまり存在というものの理解に関わるあらゆるものを指すという印象をボクは抱くからです。
「存在というものの理解に関わるあらゆるもの」ということは、つまりは哲学史の解明ということをもハイデガーの視野には入っているのですから、「存在と時間」はずいぶんと野心的な読み物なのだなあ。
「存在者性」というのが何を指すのか、それが「存在一般」でどのような位置を占めるのか、ボクにはよくわかりませんので、久住哲さんの今後の解説を待ちたいと存じます。「存在」の「存」が入っている「存じます」はどうやら存在とは関係なさそうだ。(「思う」の謙譲語「存じる」+「ます」)

ちなみに「存在一般」というのは「序に代えて」に次のように出てきます。
「こうして、すべての存在論の根本問題、すなわち存在一般の意味への問いに答えが得られるならば、それにもとづいて、古代からヘーゲルにいたる学的哲学の動機や傾向も、いっそう根底的に理解できるはずである。p20」

「超越」という言葉の多義性には辟易する。おまえら統一しろよ。

そうだここは「ドクショカイ」で「存在と時間」を読むということですので宣言が必要かな。
私が読んでるのは「存在と時間:細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫」である。日本語しかわからないので不明な点はスルーするぞ!

ところで参加者が少ないね。すめんさんいずこ?

11日前 No.321

宿題 ★sicIy89Ne4_TJc

メドベさん

弁証法も超越の一種だと思われますか?

11日前 No.322

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>309,313,319

>>321
ん〜、じゃあ主に細谷先生訳(ちくま学芸文庫版)を使いましょうか。
そして「ん?この翻訳よく分からないな」となったら、原文にあたります。

まず、問題は、どうやって読み進めていくか…ですな。

過去に俺がこころみたのはひたすら要約するスタイル。
>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259,267,268,270,272
別スレッドもそう。
http://mb2.jp/_tetsugaku/936.html-1,3,7,11,13,14,16,24,26,37,42#RES
http://mb2.jp/_tetsugaku/906.html-2,4,5,6,7,8,9,11,13,15,16,17,19,22,24,27,29,30,32,34,58,62,63,64,65,67,69,70,71,72#a

言ってしまえば、このスタイルは、どちらかというと思考放棄スタイル。
やった感は出るけど、処理してゆく感(捨ててゆく感)も大きい。

集中して単純な概念に到達し、その根源から言葉を展開してゆくという「組成の根源としての知的構造の統一への帰行」( http://mb2.jp/_tetsugaku/1007.html )というスタイルが俺の理想だけど、このスレが1レスで力尽きているのをみて分かるように、苦労が予測されてしまって、課題を放棄してしまうんだよな。

とりあえず俺は >>321

>「存在者性」というのが何を指すのか


を説明するために、少し調べつつ、『存在と時間』を再読。

それとも、一気に「超越」をテーマにしちゃって、「超越」について話し合うか〜?

11日前 No.323

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>307,309,313,319,323

どう投稿するか迷うということは、自分の投稿目的が分からないからだ。

投稿目的がはっきりしていれば、その目的の方から、どのように投稿すべきかの指示を受けとることができる。

俺が『存在と時間』を選んだのは、
メジャーな本を選ぶことでみなさんと交流したかったのと、

>存在と時間スレのすめんさんの投稿( http://mb2.jp/_tetsugaku/749.html-290-292#a)を批判

したかったからだ。

批判とは、
【主張のちからが限定されることを、示すことだ。主張がどこまで正当かという権限・権能を、示すことだ。同時に越権を指摘して主張の不正当なところを、示すことだ。批判される言動は、ある範囲まではその正当性を認められ、ある範囲からはその不正をとがめられる。こうした判別のためには、主張の根拠が提出される必要がある。その根拠がどのようにして当該主張を可能にしているか(不可能にしているか)が、示されなければならない。批判は、根拠の取扱いについての注意、言葉の取扱いについての注意を含む。】

例えば、 >>321
>「存在と時間」における「存在一般」というのは、「存在者」や「存在了解」や「存在」のことじゃないかな。

に対して批判するとすれば:

【存在一般に「存在了解」と「存在者」を含めてはならない。たしかに、存在了解によって概念以前のレベルにおいて知られている存在が本のなかで問題にされている。しかし、「存在了解」は「人間の存在」のひとつの契機だ。「存在一般」に含まれるのは、「概念化されないまま理解されている存在」や「人間の存在」のほうであり、この「人間の存在」に含まれている「存在了解」というあり方は、こんな言い方をしてよければ、より下位の概念である。次に「存在者」というのは、「存在」ではない。たしかに普通の日本語では、例えば「無力な存在」は、特定の人間(すなわち存在者)を指示しうる。なので存在者も「存在」という言葉で指示される。しかし、ハイデガーにあっては、「存在」と「存在者」は区別されている(例えばちくま上31頁にて)。「存在一般」に含まれるのは、むしろ「存在者の存在」であって「存在者」ではない。】

…という風になる。

「たしかに…」
というふうにして、メドベさんがその言葉を持ち出してきたのにはたしかに理由があるだろうと認める。そのうえで
「しかし…」と、その持ち出し方に不備があると責める。
そしてさらに、
「もしメドベさんがそういった理由でその言葉を持ち出してきたのだとしたら、むしろ〜の方が適正ではないだろうか」と代替案を提出する。


――――――――――――――――――――

だが、それ以前の問題がある。

俺が >>313,319 で検討事項としてあげた「一般」という言葉への注意喚起が、すでに誤りであったということだ。
この自己批判は、その根拠が『存在と時間』に存するものではない。
俺が「いまやっていること」に照らすと、俺のやったことは、間違っていたということ。すなわち、批判根拠は、「いまこの哲学掲示板で俺がやっていること」に存する。
え?じゃあ、「俺がいまやっていること」って何?
この問いは、「俺の投稿目的って何?」と言い換えられる。
俺は、この投稿目的を批判の根拠にして、自分の行為を批判した。
ということは、俺は冒頭で「自分の投稿目的が分からない」と言ったけれど、けど実は、概念化される以前のレベルにおいては、知っていたのだ。
俺の投稿目的は、「批判」だった。
俺はいま批判をしたいのだが、この目的に照らすと、「一般」という言葉への注意喚起は間違っていた。
なぜ?
これに答えるためには、「なぜ俺は批判したいのか?」という問いに答えればよいだろう。
俺は他人の投稿を読んで「いや、違うくない?」と思い、正そうと思って『存在と時間』という典拠にあたろうとした。
すなわち、俺は、正しく読んでほしい。
しかし、「一般」という言葉への注意喚起は、ミスリーディング(誤りを誘う)ものだった。
俺は「正しく読んでほしい」のに俺の行為は「誤りへと誘う」ものだった。
なので俺の行為は間違っていた。


――――――――――――――――――――

『存在と時間』を正しく読むために、このスレをどのように活用できるか?

ひとつにはやはり、自分の要約を発表し、その要約の正当性を批判にさらす機会をえることだ。

いきなり飛んで、『存在と時間』第69節の要約をこころみます。

おそらく、この要約はすぐさま、前の節へと戻り、結局のところ前半部からやり直すことになるだろうけれども。

10日前 No.324

宿題 ★sicIy89Ne4_TJc

>>323

久住哲さん

やすぱーすさんによれば

飛躍的超越は・・自我と世界との中で超越者が一体化しその中のいずれもが他無くしては存在しない・・

これって三位一体?

10日前 No.325

メドベ ★9Pzy3Ba10A_Ew9

>>322
宿題さんは難しい質問をしますね。
ボクは超越という言葉に辟易してるのでご自身でご検討のほどよろしくお願いしますm(_ _)m

>>323
「組成の根源としての知的構造の統一への帰行」いいじゃないですか。
思考放棄のほうが徒労感が残りそう。
先に言っておきますが、ボクは基本コピペしか出来ません!
ハイデガーについて何かを語れるほど深くは知らないんですよね。
だからボクが書くのはボクの考えではなく誰かのコピペなんです。(デリダ的な意味ではなく)
ですからすめんさんや久住哲さんが「存在と時間」から何かを読み解こうとする試みは面白いと思います。
ボクはわかる範囲で軽口をたたくスタイルでいきますので、久住哲さんにおかれましては何でも好きなスタイルで書けばよろしいかと。

>>324
とか言ったけどやりたいことが「批判」て!?w

「存在」は「存在者」を抜きに考えることができるか。断じて否である。というのも、何かを考えるという行為にはすでに存在者が内包されているからである。つまり思考とは、無自覚的にせよ、存在者を操作する心的行為に他ならない。(何かを考えるさいに表象する「もの」が全てが存在者だよって意味)

「「存在」は存在者のようなものではない、p31」という規定からして、存在者を対比させずに語るのは不可能である。

またこのようにも言われている。

>問われているものが「存在」であり、そして存在とは存在者の存在のことであるとすれば、存在への問いにおいて問いかけられるものは、当然、存在者そのものということになる。p37

>存在の意味をたずねるあからさまな透明な問題設定は、こうして、ある存在者(すなわち現存在)をそれの存在についてまず適切に解明しておくことを要求するわけである。p39


「要求」というのは、問われるもの、つまり「存在への問い」からの要求である。「存在への問い」は、存在者(現存在)の適切な解明を指向していることになる。

「存在了解」も同様に、それ抜きに「存在」を考えることはできない。

このように読むなら、「存在一般」に「存在了解」や「存在者(現存在)」を含めないという解釈は、「存在一般の意味の究明」を目的とする「存在と時間」にはなじまないように思う。
あれなんか論点先取りになったような気がするがまあいいか...。


…ところで、「正しく読む」とはいったいどういうことだろう。
書物を正しく読むということでまず思い浮かべるのは、書物を論理的に理解するということだ。この発想には、論理的なものへの無批判な信頼が潜んでおり、この信頼は我々の社会を根底で支えている前提条件でもある。つまり「論理的なもの了解」である。(この造語は対比が適切じゃないがニュアンスは伝わるかな)ボクはどうもこの論理的なもの信仰が嫌いなんだなあ。論理信仰者は教義の絶対性を信じて疑わず、他者に信仰への帰依を迫るわけだが、その眼の血走り具合が、他の狂信者同様きもちがわるい。この気持ち悪さの正体は、自由を剥奪されることへの嫌悪であり、他者を機械と見る短絡的な視点の拒絶である。世の中を機械的に見ることによって、我々の社会は成立しており、その視野には、無批判に、そして無自覚的に、己を含んだ人間も視認されている。
「正しく読む」という表現にも論理信仰の影が見える。「正しい」の反対には「正しくない」が相対しているが、そこには一つだけの正解が想定され、他者の自由を剥奪する形での自己実現を目指すしたたかな戦略が見え隠れする。

ボクはコピペ(論理信仰)しか出来ない。
コピペを脱して自分で自由に思考を構築することが出来ないのだ。(デリダ的なあれじゃなくて)
ただ「今は」出来ないということであって、いつかはボクも独り立ちする気概は持ってるよ。
どうぞ先にいってくれたまえ。

10日前 No.326

久住哲(てじ) @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>326

>「正しく読む」という表現にも論理信仰の影が見える。…他者の自由を剥奪する形での自己実現を目指すしたたかな戦略が見え隠れする。


謎掛けします:

「正しく読む」とかけまして「自由」とときます。
そのこころは?

※―――――――――――――――――――――
>【こころ】Aア物事の本質をなす意味。「演技の―を会得する」


意味!

一見つながりの見えない2つのものの間のつながりを、見えるようにするもの、それが「こころ」です。

「こころ」は「意味」である。

>意味とは、あるものの了解可能性がそのなかに身をおいているところのことである。(ちくま上327頁)

>Sinn ist das, worin sich Verstaendlichkeit von etwas haelt. (MN151頁※)

意味(Sinn)とは場所(das, worin…)である、何かについての分かり(Verstaendlichkeit von etwas)が保たれる(sich haelten)。
意味とは場所(範囲)である。意味とは、何かについての分かりがそこでなら保たれるような、そんなところ(場所)である。

「分かり」とは「あーそれなら理解できるわ」ということだ。分かりみがあるということ。すなわち「了解了解」である。
「分かりが…保たれる」ということは、逆に言うと、いったんその意味(ところ=こころ)を出てしまったら、分かりみが無くなるということだ。
ということは、はじめからその意味(ところ=こころ)から閉め出されている状態では、了解不可能であるということだ。

例えば、「正しく読むとかけまして、自由ととく」と言われたとき、「そのこころ」が思いついていない状態では、「正しい読み」と「自由」とがなぜ繋がるのかが了解不可能である。

正しく読むとは、こころえること。
こころを得ること。
そしてこれが自由…?
※―――――――――――――――――――――



さて、本題。

遠回りなしかたで応答します。
(一点一点丁寧に対応しないことを許してくれ!)
一見反論にみえないかもしれませんが、俺なりに「正しい」反論を模索してます。

>存在への問いとは、現存在自身にそなわっている本質的な存在傾向、すなわち前=存在論的な存在了解の根源的開発にほかならないわけである。(ちくま上53頁)

とある。

「存在への問い」がなんで、現存在のなかの、存在了解というひとつの存在傾向の、分析論なのでしょうか?

「存在一般の意味の究明」が、なんで、あまたの存在者のうちのひとつである人間の、存在傾向のひとつである存在了解の、分析論なんでしょうか?

※―――――――――――――――――――――
ちなみに、根源的開発というのは、分析と同じです。
>「分析論」とはこの場合、有限な純粋理性を要素に分解し破砕することを意味するのではなく、むしろ逆に存在論の萌芽を解き弛めつつ開発するという仕方で「分解する」ことを意味する。…分析論はこのようにして有限な純粋理性の本質が、この理性自身の基礎から発生するのを見せることとなる。(選集版『カントと形而上学の問題』56頁)


「分析論」とかけまして「脱構築」とときます。そのこころは?
※―――――――――――――――――――――

それは、俺たちがなんとなく「存在」という言葉の意味を知っているということ、この知られた「存在の意味」というのは、“本当のこと”だからです。
「本当のこと」っていうか、リアルっていうか、生々しいっていうか。
存在了解は、生々しい。実存的。
最初から存在論ってないんだから、最初の哲学者は、この自分にとってリアルなところから言葉を紡いだはずなんだ。
これを、改めてきちんと概念的に言語化しよう、というのが、『存在と時間』の目標じゃなかろうかな。

分析論というのは、過去の哲学者とかが「存在論の萌芽を解き弛めつつ開発した」結果、いまこの世に出回っている常識を、いまいちど生々しい本当のところに戻して、それをそこからもう一回発生させ直すような、「反復」だ。

ちなみに『存在と時間』第一節の見出しは
>存在への問いをあからさまに反復する必然性(ちくま上27)

である。
――――――――――――――――――――

>久住哲さんにおかれましては何でも好きなスタイルで書けばよろしいかと。

お言葉に甘えて、「自由」にさせていただきます。
>コピペを脱して自分で自由に思考を構築することが出来ない。

「自由」に思考を構築⇔コピペ(論理信仰)
「コピペ」を「論理信仰」ととく、そのこころは、どちらも「リアルなところへの遡行を怠っている」でしょう。
しかし、コピペだって何らかの認識に導かれている。
コピペされた文章は、書きたいこと(生々しいもの)のために、集められた(思い出された)ものだ。
むしろ問題はコピペ自体ではなく、コピペするための文章をどのように検索したか、かもしれないなあ。
索引を引いて、そこに出て来たページを開いて、目についた文章を引用したとしよう。
このとき、書きたいこと(生々しいもの)に照らして、そのまっさきに目についた文章は最も適当な文章だろうか…という、検討について怠惰がある。
巧みにコピペする能力、それが、研究の知識量かもしれないですね。
すなわち、最も適当なコピペを思い出す能力。

俺は最近、パソコンの周りにハイデガーの著作やハイデガー読書関係のノートを散乱させています。
「あのことは、たしかあの本の、あの箇所にあったはずだー」と、ページをめくるのは楽しいですね。
――――――――――――――――――――

>これに対してもうひとつの待遇の様態は、相手に代わって飛び入りをするというよりも、むしろその実存的な可能性において相手に率先するものである。それも、相手の「苦労」を取り除いてやるためではなくて、むしろそれを本当の意味で「配慮」すべきこととしてあらためて彼に返還してやるためである。この待遇は、本質上、相手の本来的な関心事、すなわち彼の実存にかかわるものであって、相手が配慮するものごとにかかわるのではないから、彼がその関心において透視的になり、それへ向かって自由になるのを助ける。(ちくま上268頁)

・実存的な可能性 → 生々しい こころ(ところ)
・「苦労」と取り除いてやるのではない → 面倒な課題に直面させる
・本当の意味で「配慮」すべきこと → 目標
・返還してやる → 「反復」をすすめる
・自由 → 「正しく読む」
・そこへ向かって自由 → 生々しい こころ へ向かって

「正しく読む」とは「こころを読む」ことだ。

10日前 No.327

宿題 ★eM1n2yJmTo_TJc

本当に昔のてじさんでしょうか?

似ていないので・・

所で・・

存在の始まりと終わりがあると思いますか?

9日前 No.328

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>327

>「コピペ」を「論理信仰」ととく、そのこころは、どちらも「リアルなところへの遡行を怠っている」でしょう。


何だと?
「怠っている」のではなく、論理を導きの糸にして、リアルを超越するのだ。
論理は、リアルが成立する条件であり、したがってその意味で論理学は“リアル以前”に遡行するための方法なんだぞ?
形而上学を論じるためにもっとも適している方法を提供するのが“論理の学”かもしれないんだぞ。
そして、そのことを通してのみ見えてくる、新たなリアルの姿があるのだ!

と信仰して何が悪い?(笑)

9日前 No.329

メドベ ★SXQnDXbZ11_Ew9

>>327
時間がないので短文で失礼します。

本題の部分については自分の中でもっと検討したい。検討するには読むしかないんだけど…。

>存在論的に(on-tologishc)問うことは、実証科学のように存在的に(ontishc)問うことにくらべればいっそう根源的な問い方であるけれども、それが特定の存在者の存在を問いながら存在一般の意味を究明せずにいるならば、やはりそれ自体も、素朴さと不透明さを脱しないのである。p45〜p46


あれ? だが自分の中ではもそっと検討を要する。

しっかりした内容にするには再読するしかない。再読しつつノートとるしかない。ノートとって本の意味の究明に臨むしかない。...あぁ時間が。


「11.12.13.14.冷房つよすぎる!」 M1優勝者の最後のツッコミ、あぁ時間が...。

9日前 No.330

久住哲(てじ) @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-1060#aから引用します:

>可能世界意味論とか様相実在論が語るのは、このまさにウィトゲンシュタインが語りえぬものといった領域、論理実証主義者がそれを語るのは無意味と言った領域だ。

>今、論理的にクリアな言語を得ることができたおかげで、オブスキュランティズムに陥ることなく、こういった領域について語ることができるようになった。

>しかも、それはウィトゲンシュタインが『論考』において哲学的問題は解消されるべきものであるとした思想をまさに実行するかのように、形式言語を用いて論理的に解消するきわめて一般的方法を提供する。


>かつて、非古典論理の言語がない時代には、このウィトゲンシュタインの言う語りえぬ領域、いわゆる形而上学的領域を語るには、日常の我々の言葉には、ハイデガーが言ったんだっけか、いわば「文法が欠けている」わけだ。

>だから、そういった領域について語ろうとするとき、深い思想家たちはそれぞれの「語法」を用いることになる。


>形而上学的主題について語ろうとするとき、こういった語法を用いることは、それがあらかじめ共有された文法規則とは異なるがゆえに、一見その思索は詩作に近づくように見えるし、深遠さも醸し出す。

>その思索者が深ければ深いほど一種神秘的なその魅力は増し、それにやられたエピゴーネンを生み出し、オブスキュランティズムという弊害もしばしば生じる。


>しかし、こういった弊害が起きるのは、思想家本人やエピゴーネンが原因ということもあるけど、根本的にはもともと語りえぬ領域のことを語るので、どうしても比喩を多用したり、独特の語法が必要だったりで、そういった秘教的教義かのようになってしまいがちということがある。

>非古典論理の新しい形式言語は、そういった領域を語るのに一切の秘教性をはぎとり、だれでも一定の勉強さえすれば自由に、同じ立場に立って語ることを可能にした。


引用おしまい\(^o^)/


ーーーーーーーーーーーーーーー
>>329

>論理を導きの糸にして、リアルを超越する


の意味を上の引用などから察するに:

リアル(フュジ-ク)を超越した(メタ)形而上学(メタフュジ-ク)の領域を語るのに非古典論理が適切だ、ということだ。

>形而上学を論じるためにもっとも適している方法を提供するのが“論理の学”かもしれない


というのはなぜかというと、

非古典論理のクリアな言語が、自己満足的なオブスキュランティズムに陥らず形而上学的問題を解消するのに、適当であるからだ。

と解釈します。


ーーーーーーーーーーーーーーー


ハイデガーの言葉は、おかしい。

そんなハイデガーは、プラトンの語法はおかしいという。

真の存在をあらわす言葉がιδεαだと?
なんでやねん!

そして、たぶん、彼は、なんでプラトンがそんなおかしい言葉の使い方をしたのか、その原理をみつけた。

そして彼はそれを真似した。

真似して、おかしくなった。

なぜ真似をしたのか?

たぶん、気持ちよかったからだろう。

論理的に語る者も同じだと思う。

美しいから、気持ちいい。

おお!これで問題解けるやんけ!
これが気持ちいい。

ハイデガーが『純粋理性批判』を人間の有限性から解釈したとき、「これで色々意味が分かる!」と気持ちよくなったと思う。その他、色んな哲学者の言ってること(謎)が、特定の「投企」によって解明されるのが、気持ちよかったことだろう。

この気持ちよさと、日常言語とは異なる独特な語法とのあいだには、なにか関係あるかな?

んー、あるとすれば…

んー、意外なもの同士が繋がったら、「えー!そことそこが繋がる?マジで?」とテンション上がる。

意外なもの同士は、それらが一緒に考えられるのは奇妙だからこそ、意外なんだろう。

奇妙な語り口というのは、奇妙な「観念連合」がもとになっているのではないか?

で、なんで奇妙かというと、そういった結合に慣れてないから。

新しい言葉と言葉との結合だから。

なんでそんな新しい言葉の結合が出来る?

(哲学者が)言葉のコツをつかんだからかな?

そして言葉(論)のコツ(理)というのが、「論理」であってだな…そして、

>論理は、リアルが成立する条件


に繋がる。

では、これにもとづけば、

「リアル」って何か?

それは、既存の言葉と言葉との組み合わせ一覧、みたいなものだろうな。

でも、この説明は、ふつうの「リアル」の意味とはだいぶ違うなあ。

そこで謎が出来る。

論理がそれの成立条件となるようなリアルと、ふつうに理解されているリアルと、これらが同じものだとしたら、リアルとは何であるか?

8日前 No.331

久住哲(てじ) @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>327

>正しく読むとは、こころを読むことだ。


は?なにそれ?◯◯じゃないの?


ーーーーーーーーーーーーーーー


俺の読みが正しいか間違っているか、これは精査できる、自分でも他人でも。

その判定基準として使いやすい着眼点は:矛盾があるかどうか、である。

「そう読むと別な箇所と矛盾を生じるよ」ってなったら、その読みは間違いだということになるって感じ。

俺の見立てでは:
>>326>>330 のメドベさんの投稿では『存在と時間』からの引用がなされているが、これは、久住さんの言ってることと『存在と時間』本文中の言葉や事実とが矛盾しまっせ、ほんであなたの主張と矛盾するのはこの引用した箇所でっせ、という意味。

例えば俺が「存在一般」に「存在者」を含めないと主張した( >>324 )のに対し、メドベさん( >>326 )は、いや存在者も欠かせないものとして取り扱われてますやんと、
>存在の意味をたずねるあからさまな透明な問題設定は、こうして、ある存在者(すなわち現存在)をそれの存在についてまず適切に解明しておくことを要求するわけである。

を引用した。

ただ、「別な箇所と折り合いがつかなくなるぜ」というツッコミが有効なものであるためには、例えば俺の主張と、メドベさんの引用してきた箇所が、同じ事についての言葉でなければならない。というのも、矛盾というのは、同じものについて生じるからだ。俺が「りんご好き」と言ってメドベさんが「りんご嫌い」と言っても、これは矛盾ではない。1人の人間について、彼はりんごが好きだけど、りんごが嫌いだと言うと、これは矛盾してる。(が、正しい読みに関する矛盾は、こんな単純な話ではない。すなわち、主語が何だとかかんだとか、そういう主述レベルの問題ではない。)

「矛盾してるよ、ほら」と言う側は、俺が何のことについて話しているのかを、あらかじめ見越している。そのように見当をつけたうえで、その見当をつけたところ(Daraufhin)からは発現しえないようなことを俺が言葉にしているようであれば、そこには必ず矛盾が見つかるはずだし、まだ見つからなくても、いずれ必ずボロを出すはずだ。

なぜ時にコピペが批判に脆いか。
その理由は:コピペされた文章は何らかの事象について語られた結果残されたものなのだが、あとからコピペする者はその事象について考えなくてもその文章を記すことができ、そしてそのコピペ文章と矛盾しない文章をそのコピペ文章に更に連ねたいと思ったら、一度そのコピペ文章がそれについて語られたところの事象へとたち戻ってそこから語り直さなければならないんだけれど、最初に語った者とはちがって同じ事象に遡行できる保証はないから、まったく見当違いなコピペを更に連ねてしまって、そこを知者から「なぜそれを当初の文に繋げた?」とツッコまれ、その連繋の根拠となる事象を即座に提示できずに困ってしまうからだ。

矛盾せず(正しく)語るためには、同じ事象のことを考えつづけながら、同じ事象によって自らの語りに規制を受けつづけながら、その事象自体による制限に導かれながら語ればよい。そして話のあいだずっと同じく考えられているものを、俺は(その話の)こころと呼んだ。

読むものは、語る者の「こころ」を読むとき、正しく読むことができる。そして正しく読むならば、語り手と矛盾しない仕方で、当初の語り手の言葉に新たに言葉を継ぐことができる。

このように言葉を接合しようとしたとき、設計図(Entwurf)となるのが、意味(Sinn)である。

『存在と時間』では
>Sinn ist das, worin sich Verstaendlichkeit von etwas haelt. (MN151頁※)

とあり、ちくま学芸文庫上巻327頁では
>意味とは、あるものの了解可能性がそのなかに身をおいているところのことである。

と訳されているが、
この訳では失われている「haelt」に注目してみよう。(※原文では「ae」はア-ウムラウト。)

正しく語るとは、意味が分かるように語る(ちゃんと理解できるように語る)ということで、正しく読むとは、意味が通るように読むことだ。すなわち、正しく読むならば、そこでは「了解可能性」が保たれている。そして了解可能性が保たれる(sich haelten)ためには、一連の言葉が同じ「意味」に帰属していなければならない。

俺たちは、語られている話が、同じ「意味」に属しているだろうと予期しているからこそ、矛盾に気づく。

そして、俺たちはたいていの場合は、語られた言葉から意味を推測する。当てをつけるんだ。

そうしてつけられた見当、そこで矛盾するような表現があらたに出てきたとき、「あれ?」と思う。そして、たいていは「あ、丸丸の話だと思ったけど、本当は三角三角の話だったか」と思い直す。思い直す(思念する意味が変わる)ことによって、最初は矛盾してると思っていた複数のことが、実は矛盾しないんじゃんと分かる。

矛盾が解消されるっていうか、どっちかってと、勘違いに気づくってこと。誤解に気づく。正しい読みに直る。

ちなみに、ここで思い直さず、「おい、さっきのことと矛盾してんぞ」と言うこともできる。そう言われたら、イライラせず、「三角三角の話だと思って聞いてみてください。そうしたら矛盾がないように思えますよ」と言ってみよう。そうしたらたぶん、「は?なんで三角三角の話だと思わなきゃダメなわけ?最初に云々って言ってたから、丸丸の話に決まってんだろーが」と言われるだろうけど。

会話(論)における正しさは、話されている事柄と合っているかが基準になる。矛盾してないか、ちゃんと話と話題が適合しているか。

よって、真理(正しさ)というのは、言葉と表象との合致である。語られた言葉とその言葉によって意味されている観念が、一致しているならば、その言葉は正しいことになり、その言葉に真理があることになる。

…あれ、ここで少し、話がズレたなー?

8日前 No.332

メドベ ★Nn5DAUZAFV_Ew9

>>332
探しあぐねている事態の記述(なぜ時にコピペが批判に脆いか)は間違いない。だから「「存在一般」が何をさすのか」の正誤が判断出来ない。
「面倒な課題に直面させる >>327 」←これだよこれ
もうこうなったら時間はかかるけどしっかり読んでやる。
再読して思ったのは、相当いい加減に読んでいたんだなということ。まったく違う意味で読んでる箇所がすでに数カ所ある。我ながら話にならんわ。
ということは... やっぱりどうぞ先にいってくれたまえ ( ̄∇ ̄=ノ

8日前 No.333

メドベ ★1dJNTvZr18_Ew9

<読書会らしい質問>

>この歴史性が現存在に隠れているならば、そしてそれが隠れたままでいる間は、歴史を歴史学的に問題にし発見するという可能性も、現存在に開かれずにいるのである。ある時代に歴史認識が存しないということは、現存在の歴史性に対する反証ではなくて、この存在構成の欠如的様態として、かえってそのことの証例なのである。p65.1行目〜


ここがよくわかんない。

「ある時代に歴史認識が存しない」のは「歴史性が現存在に隠れている(開かれずにいる)」からですよね。
歴史認識のない「ある時代」というのは、何を想定してるのだろう?
そんな時代あるか?
それがわからないから次の、

>その時代が非歴史学的でありうるのは、その時代が「歴史的」であるからにほかならない。


というのはさらにまったくわからない。
たぶん大事な箇所じゃないんだろうけど、わからないのは気持ち悪い。

久住哲さん時間ある時に教えてください。おたのみもうす m(_ _)m

6日前 No.334

久住哲(てじ) @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>334

しっかりした応答には時間がかかると思われるので、とりいそぎ、1925年の『カッセル講演』からの引用を紹介するだけにします。ちなみに『存在と時間』刊行は1927年です。

平凡社ライブラリーの『ハイデガー カッセル講演』の115頁からの引用です:

>どの現代においても、歴史にたいする展望をさえぎり、歴史を発見せず、歴史に近づけなくしてしまう危険がひそんでいます。ですから、そうしたさまざまな先入見から解き放つという、そして、過去の把握を可能にする諸条件をあらためて省察するという批判的な課題が生じます。哲学的研究は現代や現在にたいする批判という性格をもたなくてはなりません。根源的に開示されると、過去はもはやたんに〔現在に〕先行した〔かつての〕現在ではなくなり、過去を自由に…する可能性が生まれます。その結果明らかになるように、過去とは、私たちが自分たちの実存のさまざまな本来の根を見出す場所であり、生命力にあふれたものとして自分自身の現在のうちに取り込むものなのです。歴史学的意識は過去を将来のために解放しますから、過去は推進力を獲得し、創造的になります。そして、現存在がそれ自身において歴史的であり、自分固有の過去をもつことができるがゆえにのみ、非歴史学的な時代もまた存在することができます。過去を過去として見ることなく、現在と現代に埋没するのは、歴史的に存在し時間的に存在する仕方の特定の様相にすぎません。






以下に着目点を箇条書きします。

・先入見が歴史への通路を塞ぐ。→『存在と時間』p.66の13行目で言われてることと同じ。
・そういう邪魔物は破壊しなきゃな、という話につながる。→p.68の10行目とかの。
・哲学の批判は現代・現在に向けられる。
・すなわち問題は現代にある。
・過去を解明することで、過去から活力を得られる。→下巻の第74節のp.325とかp.327とかにつながる。
・「歴史認識が存しない」というのは、たぶん、「現在・現代への埋没」と同じ意味。
・埋没(忘却)は頽落の特徴でもある。
・忘却は過去(既往性)のひとつの様態だったよね。→下巻p.245の14行目。





以上からして、

>歴史認識のない「ある時代」というのは、何を想定してるのだろう?


への俺なりの答えは、

現代こそそういう時代だ

というもの。

そういう現代をハイデガーは批判したいんじゃないかなーと思う。歴史性をしっかり自覚的に把握してない時代を。

冒頭の冒頭(上巻p.27)でハイデガーは、現代は「存在の意味への問い」が忘れさられていると言ったけど、

これと同じトーンで、歴史性についても、その忘却を指摘し、もう一度しっかり歴史性というものに向き直ろうよ!…と言いたいのではなかろうかな。

6日前 No.335

メドベ ★dc1VBkCj2w_Ew9

>>335
久住哲さん、早速丁寧な返信ありがとうございます。
というか早速すぎる!w
ハイデガー語録をデータベース化してて検索したら書物名と記載ページが出てくるとかそういうことだなたぶん。
ハイデガーの著作を深く読み込んでいるのだけはよくわかります。
「ハイデガーおたく」「ハイデガー7段」「二足歩行型ハイデガー全集」
久住哲は称号を三つ獲得した。おめでとうございます (* ̄▽ ̄)ノ♪

>>335 で、不明な点が立体的になりました。
非常にしっかりした応答ですから、これで充分です。本当にありがとうございました。
また不明な点があれば質問させていただきたく思いますので、時間のある時にでも回答いただければ幸いです。

ハイデガーやっぱむずいわ(グチ

5日前 No.336

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>336

わーい、新たな称号ゲットヾ(●⌒∇⌒●)ノ

「ハイデガーステマ野郎」という古い称号は捨てます。

――――――――――――――――――――


>>307,308,309,310,311,312,313,315,317,318,319,321,323,324,326,327,329,330,331,332,333,334,335,336


「超越」の語義について
>>318,319,321,323,327

――――――――――――――――――――


「超越」についての昔の投稿をあさっていたのだけど、
情報がまとまっていなくて、頭ぱっぱらぱーになりそう。

むかし『純粋理性批判』の読書感想文として「カント的発想」という一連の文章を投稿したんだけど、
そのなか( http://mb2.jp/_tetsugaku/906.html-32#a)で、『存在と時間』の「超越」についての箇所を読みかえしたいと、述べていた。

その後、 >>193 で「超越」についてなにか言っているようだが、なにを言ってるんだか分からない。

超越については、
http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-475#aでも語ろうとしているが、比喩の域をでない。

「超越」がピックアップされるきっかけになるような経験については
http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-773,820#aでも語ろうとしているが、やはり比喩だ。

――――――――――――――――――――――


このスレの >>23,25,28,30,36 あたりで「実存」の話をしているが、
そのうちの >>25 あたりは参考になりそうだ。

ちくま学芸文庫の『「ヒューマニズム」について』47頁の

>存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方とは、内容的には、存在の真理のうちへと、身を開き-そこへと出で立つことである。


という箇所。

これと同じ箇所を俺は2年前は

>実存は、内容的には、存在の真理のうちへと出で立つことを意味している。


と訳している。

「出で立つ」というのはドイツ語原文では「Hin-aus-stehen」であり、「hin」というのは「her」の逆で、「ここから離れて向こう側へ」みたいなニュアンス。逆に「her」というのは「向こうからこっち側に近づいてきて」みたいなニュアンス。

この「hin」で思い出すのが、『存在と時間』ちくま上327-328ページの文章

>意味とはすなわち、あるものがそこからしてしかじかのものとして了解可能になるところ、すなわち投企において見越されていたものの、先持と先視と先取によって構造された目あてのことである。


という文章。

この文章のうちの「あるものがそこからしてしかじかのものとして了解可能になるところ、すなわち投企において見越されていたもの、すなわち投企において見越されていたもの」というのは、ドイツ語原文では

>Woraufhin des Entwurfs, aus dem her etwas als etwas verstaendlich wird


である。

文法の話になってしまうのだけど、この文中の「dem」は関係代名詞で、「Woraufhin」を指示する。

【「auf」というのは「上面での接触」みたいなニュアンス。たとえば、「机のうえのパソコン」みたいな感じなのだが、このときパソコンは、上面に開かれたところに置かれてある。顔文字の\(^o^)/みたいな感じ。しかし、「机のうえのパソコン」も上方向に開かれているとはいえ、厳密には空間は天井によって閉ざされている。仮にパソコンが野外にあっても、そのパソコンはぐーんと上を向いたら、青天井によって包まれている。このようにして、なんらかの開かれた空間のなかにあることも「auf」であらわされる。例えば、開催されたパーティーや、開かれた舞踏会も、そういうパーティー空間のなかにあることも、「auf」で表現できる。さらに抽象的になると、探求の途上にあることも「auf」で表現できる。】

なんで、すごく短縮すると、「意味」とはすなわち、

>Wo-auf-hin, aus dem her


である。

構造的には「aus Wo-auf-hin her」って感じ。

(ちなみに「Wo」は「どこで」って意味。英語の「where」。)

【ここで「hin」と「her」が重なっているのだが、これはどうでもいい形式的なことではなくて、ハイデガーは『真理の本質について』という1930年くらいからやっていた講演において「eine eigentuemliche Wende des Hin und Her im Dasein」という言葉を使っている(VK24)。「Wende」というのは「転換」という意味で、英語でいう「turn」かなあ。この「Wende」は後年「Kehre」となる。これは「転回」と訳されたりしている。この転回というのは、「存在の忘却」にかかわり、そういう意味では『存在と時間』の冒頭にもかかわる。ぐるぐる。】

最初の箇所に関連させるとだな…

「実存」というのは「Aus-woraufHin-her-stehen」である、
…人間は存在了解というあり方で存在している、そして実存というのは「人間の存在」のことだからね。

実存とは、意味を予感し、意味から戻ってきて解釈しなおし、有意味な状況におかれている、ということだ。

ここで「auf」のニュアンスを強く読むと、実存というのは、なんらかの「途上・途中」にあり、たとえば開かれたパーティーとか式典に出席している。

もっとこれを日常の場面にうつすと:

実存というのは、学校の授業とか、職場の仕事とか、界隈の出来事とか、そういった「空間」におかれている。そのようにして、なんらかの場面に身を置きながら、その場にそくしながら、その場に出てくるあれやこれやを処理している。その場へと(hin)身を置き、その場から(aus…her)して「存在する」その場に出てくるあれやこれやの「存在者」を取扱っている。俺は仕事場になじんでいるからこそ、「その場に出てくるあれやこれや」がどういうものなのか理解する。俺の乱雑な机のうえのあれやこれやは、俺にとっては、すべて、それが「何のためにあるか」把握されている。俺の職場にあなたが来て、俺の机をみても、そこに細かな「分節」をみることはできないだろう。「書類があるなー」と思うだろう。ただし、俺と同じような仕事をしている人間なら、少々事情を察するかもしれないけど。

これは『存在と時間』第12節あたりからはじまる「世界内存在」の話だ。

なので、実存するとは、超越することであり、世界内存在することである。

点と点が線になった…!

分かるとは、点と点が線になり、線と線が面になり、面と面が立体的になり( >>336 )、立体と立体が場面を構成し、場面と場面が人生のドラマをつむぐ…そしてドラマとは、時間である。

――――――――――――――――――――


「超越」が見出しとなっているのは『存在と時間』第69節だが、

ここを正しく読むためには、とりあえず、

「適所性」「保有」という言葉の意味が分からねばならず、

そのためには第15節あたりから読みかえす必要がある。

世界内存在の箇所ですね。

いま絶賛再読中です。

――――――――――――――――――――


とにかく、
『存在と時間』を読むならば、まず、ハイデガーの「意味」という言葉に着目するべきだと思う。
主に第32〜34節あたりに詳しい。
「意味」については >>327,332 も参照。

なんで「意味」という言葉の理解がハイデガー読書に役立つかというと…

読書って「何が書いてあるんだ」という関心のもとでおこなわれると思うんだけど、
要するにこれは「意味を読み解くこと」だろうと思うんです。
自分のいましている「読書」という行為をもとにして、「意味」という言葉の意味を考えることができるので、
あーこの読書中のいまも実存(超越)なんだなと、“実感”しやすいと思うのです。
(読書については >>20 も参照ください。)

そうすると、さしあたり、自分自身は「知」というあり方をしているなと分かるんだけど、
これが「存在」と関わってくるというのが、…俺にはまだいまいちピンと来ない。

俺の予感では、ピンと来るためには、「存在の歴史」という発想をつきつめるべきだと思う。

4日前 No.337

メドベ ★aVz2IoDpt8_Ew9

〈超越〉とは〈世界内存在〉のことである。←昔に書いたノートのコピペ

コピペにはその《出自》が隠されている。このコピペの出自は明らかであるのだが、この出自に記された内容の、その《出自》が隠されている。 >>332

明るみに出るまではコピペしか出来ない。闇雲に何発撃っても命中しそうにない。ヤスパースはうまいこと言っている。 >>20


「不明な点」とは、何かが「ある」ことが了解されつつも、その何かが「世界」にどう関わるかが隠れている、ある存在者の一様態のことである。「不明な点」は、線や立体への可能性に開かれた存在ではあるのだが、「不明な点」が指示する内容に確信が得られ、その点が空間的な広がりをみせたとしても、依然として「不明な立体」の「世界」への関わりは隠れたままなのである。
「時間」は、空間的な広がりを横断している。空間的な広がりは、それは一つの「場面」でしかなく、それがどれほど鮮やかなものであっても、全体を覆う霧は払拭されない。
「飛ばない豚はただの豚だ」というシーンは、その場面だけからでは、そのかっこよさは決して受けとることはできない。なんせ豚がしゃべってるだけなんだから。それまでのシーン(場面)における豚のクールな言動があってはじめて、あのセリフはかっこいい印象をまとうことができるし、全てのシーンを見終わってはじめて、あのセリフのかっこよさは鮮烈な印象を帯び、空間的な広がりを横断する。
「時間」は、空間的な広がり(場面)を横断している。…そして時間とは、ドラマである。 >>337

…切り貼りコピペ流用文章完成!
「時間」をぞんざい(sya)に扱った気がする反省。
反省が出来るということは、その物事についてよりいっそう立体的に把握できている証拠なわけだから、悦ばしいことではあるのだが...。

書いてて思ったこと。「不明な点」というのはよく出来た表現だ。「不明な線」というなら、それはすでに「線」の区分にカテゴライズがされており、「点」に比べれば不明瞭さが弱まる表現であるし、「不明な立体」なんて表現に関しては聞いたことさえないセンスの欠けたひどい表現だ。よって、わからない「もの」への表現として、「不明な点」というのは秀逸ではあるが、それでもなおここにおいてもカテゴライズがすでになされている「点」には注意が必要だ。
「点」の秀逸さについてのどうでも良さげな論究。

コピペしか出来ないのは、自分の言葉や文法で表現することが出来ないからですね。「世界」への関わりがまだ隠れている。
まずは「存在と時間」をしっかり読もうと思います。

3日前 No.338

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

諸々の補足および情報整理(?)



>>338

「点」については http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-1123#aも参照。
「不明な点」はドラマや物語の「伏線」ととらえられるかもしれない。
そういう観点からすれば http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-1171,1174,1175#aも参照。

どうでもいい情報@
ハイデガーがライプニッツ論のなかで「点」について論じているのは全集26巻『論理学の形而上学的な始元諸根拠』の101ページから。
どうでもいい情報A
「点」とは「point de vue」のことだとかなんとか、ニーチェの「価値」の話で、あった気がするが、箇所が見つけられなかった。

※メドベさんに対して言っているというより…俺自身の情報整理目的がある。
――――――――――――――――――――

>>327 の補足

>「存在の問い」とは、普通一般の解釈では存在者そのものについて問うこと(形而上学)を意味している。しかし『存在と時間』の立場から考えると、「存在の問い」とは存在そのものについて問うことをいう。(平凡社ライブラリー『形而上学入門』p. 39)


――――――――――――――――――――

>>313,319

怠惰にかんして補足

>問うとは知ることを-志すことである。志す人、彼の現存在の全体を一つの意志の中へと置く人、そういう人は決意してある。決意はぐずぐず延ばしたり、こそこそ逃げたりしないで、その瞬間からして、しかも絶え間なく行動する。

>知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである。(『形而上学入門』p. 43)


「耐える」は「Ausstehen」かな。( >>337 の「Hin-aus-stehen」を参照。)

――――――――――――――――――――

見返すと『論理学の形而上学的な始元諸根拠』も『形而上学入門』も『ニーチェ』も『真理の本質について』も『ヒューマニズムについて』も『転回』も面白そう〜だが、まさにこれって「好奇心」だよな。

好奇心については『存在と時間』第36節で主題として論じられるが、ここに
>好奇心はいたるところに居るが、実はどこにも居ない。(ちくま上p. 367)

という文章がある。これはたぶん、ヘラクレイトスの箴言34番のパロディ表現だ。
>(真実を)聞いた後もなお会得できない者どもは、聾のようなもの。「いるのにいない」という言葉は、このものどものための証言である。

廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫版)237ページより。

このことは今のコピペの話( >>326,327,328 )にも通じるかもしれません。

こういう好奇心のありかたと逆のありかたが、待つことなのだが、読書においても、とどまること・待つことは、ひとつのテーマ。
これについては http://mb2.jp/_esy/1650.html-284#aを参照。

同じことについて語りつづけるってある種の芸だよね。「ループ芸」( http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-1125#aを参照。)



以上

3日前 No.339

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

『存在と時間』ちくま上巻161-162ページにあたる部分を訳してみた。
岩波文庫熊野訳では一巻の332-333ページにあたる。
ちなみに中公クラシックスだとI巻の177-178ページ。
俺が持ってるのはこの3種類(とドイツ語原文)です。
その他、高田珠樹先生の1冊のやつとか、辻村先生の全集版とか、光文社古典新訳文庫版とか岩波文庫桑木先生訳もあるよ〜。
ありすぎ!

なぜここを訳したかというと、
>>324,337 の流れで第15節を読みかえしてて、
この段落をしっかり押さえておいたほうがいいかな〜と思ったからだ。

翻訳:

厳密にいうならば、ひとつの用具が「ある」ことはない。用具があるということは、その用具がその用具であるための、完全な用具一式がなければならない。用具は「〜用のもの」である。役立つとか、便利だとか、扱いやすいだとかそういった「有用」のいくつかの種類が、完全な用具一式といったものの構成にかかわっている。「有用」という構造は、あるものからあるものへの指示といったものを含んでいる。この言葉であらわされる現象の存在論的な由来は、このあとの分析によって、はじめて見て取れるものとなるだろう。とりあえず、指示の多層さを見ておく必要がある。用具は、その用具その用具で、なにか別な用具と相互補完することによって、ある。文房具、ペン、インク、紙、下敷き、机、ランプ、家具、窓、ドア、部屋は相互補完している。これらの「諸事物」がまずそれぞれ自分の存在をアピールしていてそういう諸実在の総和が部屋を満たす…なんてことはない。主題的には把捉されていないが、まず目に入るのは部屋。これはこれで幾何学的空間的な意味での「四つの壁に囲まれてる間」ではなく、住むための用具である。そこから「備え付きのもの」がみえてきて、そこに「個々の」用具がみえてくる。〔すなわち〕個々の用具の前にいつだって完全な用具一式といったものは発見されているのだ。



翻訳作業が(面倒だけど)けっこうためになる。

・最初の文と最後の文は、同じことを言っている、と気付く。
・「Zeugganzes」を俺は「完全な用具一式」と訳してるけど、ダメな訳だな。これは「Zugehoerigkeit」を「相互補完」と訳しちゃってるからなんだけど。まあ、「相互補完」ってのもおかしいんだけど。細谷先生・熊野先生は「相属」と訳されているけど、なんだよ「相属」って。そんな日本語あるのかな。これは俺が昔 >>20 で書いた「交互」の話にもかかわる。この「相属」というのは、俺の勘では、例えば、同じクラスにいる学生とか。この学生同士はたぶん相属している。つまり、同じクラスに属しているということ、属する先を共有しているということ、お互いがクラスを構成する構成員であること、ってことじゃないかな〜と。ただ、こういう「帰属先の共有」という事自体が、よく分からないことではあるんだけど。
・「Um-zu」を「有用」と訳しちゃってるけど、「有用のいくつかの種類」って表現とか意味不明。
・「Verweisungsmannigfaltigkeit」を細谷先生は「多様な指示関係」と訳され、熊野先生は「指示の多様なありかた」と訳され、原先生らは「指示の多様性」と訳されているが、俺は「faltig」とみると「重なり」をイメージする。「Falte」って「折り目」とか「ひだ」のことらしいし。ちなみに、ハイデガーの重要語で「Zwiefalt」って「二重襞」ってある(そして俺はこれまったく訳わからん)。そして実際、「部屋」「備え付けのもの」「個々の用具」という風に、段階ってか、ズームインっていうか、そういうことが話されているから、単に「多様」ってことじゃなく、「多層性」というか、「指示が他層に及んでいる」ってことだと、俺は思った。つまり、用具は目的へと指示し、目的は用具へと指示する、って感じ。もちろん、ペンはインクを指示したり紙を指示したりするんだろうけど、ここでは「〜のため」とか「〜用の」ってのが話題なんだから、やはり「多層」ではないかな…と。

3日前 No.340

つおるあ ★WzLrQ9uMd3_yoD

日本の哲学書を最近読んでます。
誰か、一緒に語りませんか。

哲学を語るなら、誰でも気軽るにお願いします。

読了済み哲学書
・中江兆民「三酔人経論問答」
・西田幾多郎「善の研究」、「西田幾多郎哲学論集」全三巻、「絶対矛盾的自己同一」を含む。
・田辺元「種の論理」
・渋澤龍彦「快楽主義の哲学」
・廣松渉「世界の共同主観構造」
・柄谷行人「探究」(全2巻)
・中島義道「働くのがイヤな人のための本」
・南直哉「善の根拠」
・山内志朗「目的なき人生を生きる」

これから読みたい本。
・「大西祝選集」全三巻。
・波多野精一「宗教哲学序論」、「時と永遠 他八篇」

今読んでるのは、大西祝「大西祝選集・哲学篇」です。

・日本に哲学者はいたのか?
・日本の哲学者は、江戸時代まで魂を前提としていたのか?
・日本の哲学者は、儒教、仏教、キリスト教、イスラム教をどう受容したか?
・日本の哲学に独創性はあるのか?

11時間前 No.341
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