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ドクショカイ(仮)

 ( 哲学掲示板 )
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死体の蠅 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

まず読む本を決めて、その本をみんなで一緒に読み進めながら、その本への理解を深めるスレです。

読む本は、各自が勝手に決めてください。

◯ルール
テーマとして定めた本を読んだうえで、文章を投稿すること。
これが最低限のルールです。

ただし、
むかし読んだ記憶だけで投稿するのは、遠慮してください。
また、その本をすべて読み切っていなければならない、というわけではありません。
むしろ、はじめて読む本でも、それをこれから読んでいくならば、全然OKです。

また、スレ内で同時並行的に、複数の本がテーマとなっていても、問題はありません。
Aのドクショカイには参加して、Bには参加しないというのもありです。
AもBもどちらにも顔を出す、というのもありです。
>>0 といったメンションを活用すれば、自分の参加しているドクショカイの投稿文を見つけやすいでしょう。)

◯使用方法
テーマとして定めた本の名前を、メモのところに書いてください。
それだけでなく、メモは、誰が使ってもいいので、大いに活用してください。

◯使用例

@ハード
例えば、まず一週間でどれだけ読むか範囲を定めておく。(期間と読む箇所を定める。)
発表者が、その範囲の文章を要約し、その箇所における議題や問題、不明点を述べる。
次の一週間では、その担当者の述べた要約や不明点について検討してみる。
さらにその次の週は、別な担当者が、要約やその箇所で問題となっていること、読んだときの不明点をまとめてくる。

Aフリー
期限も読む箇所も定めず、とりあえず読む本だけを決めて、それぞれ気になった箇所について文章を発表する。

Bバトル
特定の期間に、それぞれが本の同一の箇所を読み、その同じ箇所についてそれぞれの参加者がそれぞれ解釈を発表する。
そして、それぞれの解釈の相違を検討する。
どの解釈が正しいか、面白いか、生産的か。あるいは、どうしてこれほど解釈に違いが出るのかなどを考えてみる。

※使用例はあくまでも例であり、こういう形にしなければならないというわけではありません。

2年前 No.0
メモ2019/06/27 10:37 : てじ @flyonbody★ZkiDndseok_Ew9

【いま読んでいる本】


MARTIN HEIDEGGERのWAS IST METAPHYSIK?(VITTORIO KLOSTERMANN FRANKFURT A. M.)

翻訳としてはハイデッガー選集1巻、ハイデッガー全集9巻などがあります。

ページ: 1 2 3 4 5 6

 
 
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てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>380,381,382,386,388,400

☆『省察』第一省察第五段落要約(pp. 36-37)

・俺は夢のなかで現実の状況とは違う状況に自分が置かれていると信じる。
・眠っているとき、事実としては、俺はベッドに寝ている。
・しかし夢において、俺は、椅子に座って文章を書いている(と思っている)。
・俺はいま明らかに意識がはっきりしている。
・だが夢のなかでも、俺は、自分の覚醒度について疑わない。
・となると、いま起きているとき、俺が本当は寝ているという可能性を疑える。
・覚醒と夢とを区別するための標識はない。
・したがって、自分の個々の身体動作の信念や自身の個々の状況認識も疑うことができる。

☆コメント

夢の構造をみてみよう。そこには時と場所と意味と、それらが統一された状況があり、その状況には必ず俺が出て来て様々な事物も出てくる。ただし、俺の年齢や性別は時に自分のそれとは異なることがある。また、俺には身体がない場合もある。例えば、漫画のコマ割りだけで構成された夢、文章だけの夢。こういう無身体の夢においても視界はある。俺は視界としてあり、事物は画像や文字としてある。このような二次元的な夢において、時は読む行為の進行、場所はページ、意味は読解内容である。

夢の大雑把な構造:《視界(時・場・意)⇔俺・対象⇔行為・意志・感情》

現実はこの構造を共有している。構造上、現実と夢とのあいだに違いはない。経験したことが夢だと分かるのは、目覚めた後だ。そのとき、自分が《これは夢なのかも》と疑うことすらしなかった経験が《すべて夢だった》と分かる。これは《真だと思っていたことが実は偽だったと判明した》ことに似ている。《「現実」から目覚めた後》といったものがなければ、「現実」が夢だったと判明することはない。しかし、この現実から今から目覚めることは、この現実においては、起こり得ない。しかし、《目覚めた後》を先んじて想定することで、今のこの現実を《後から夢だったと判明しうる》と見ることはできる。ところで、夢と判明するかどうかは本質的なことではない。本質的な点は《同じ構造を有する状況全体》が変更されることだ。《自分が置かれているところ》が全体的に変更される可能性を先んじて考えることによって、《自分がいましている動作》が《将来目覚めた後》においては《別な動作であった》と判明する可能性がある。読むという行為で考えるならば、自分がいまこういう意味だと思って読んでいる文章が、実は違う意味だったと判明することがある。しかし、いまの時間においては、どうしても自分が読み取ってしまう意味でしか文章を読めない。しかしながら、自分にとって自然に聞こえる文章の意味が、実は間違った解釈にもとづいており、この自然な読み取りのあり方が間違っているかもしれないと、疑うことはできる。

すなわち、自分にとって自然にそう聞こえるということは、それが正しい解釈だということを、別に保証しない。

ただし、自分の解釈が誤っていたと気づくことを経て、《なぜ自分が自然にそのように文章を読んでいたか》の理由も同時に判明することがある。すなわち、間違った解釈にも理由があったんだ。理由があったんだから、間違ってもしょうがなかった。しかし同時に、間違いに理由があるからこそ、その解釈は絶対ではない。なぜなら、その解釈の基礎となる理由があるのだから、解釈それ自体は基礎そのものではないはずだからだ。

話がそれたが…

「眠っているとき、事実としては、ベッドに横になっている」のだが、目覚めたあとに《さっきのこと》を思い出して、「あれは夢だったか。俺は夢のなかで、自分は云々していると信じ切っていたけど、実は、ただベッドで横になっていただけだった」と思い返すことができる。この回想を、現在において疑似回想的に行うならば「もしも今の現実が夢であるならば、俺はいま、自分は云々していると信じ切っているけれど、実はただベッドに横になっているだけなのかもしれない」と思うことができる。《過去の意味の判明》を《現在の意味の予感》としている。懐疑というのは、いま起こっていることは俺がただ《それがいま起こっている》と思っているだけであって、そういう思いの裏では、本当はなにか別なことが起こっているのかもしれないという、別な可能性の予感だ。すなわち、真だと思っているが実は偽だと後から判明するかもしれないということだ。それが後から偽だと判明するのだとしたら、それは今から偽であるだろう。しかし、偽であるとまるで判明していない命題等が偽でありうるものとして目に映るのは、それが偽であると判明する未来を想定することによってである。信じられていることは《ただ単に偽でありうる》のではない。《後から偽だと判明しうる》のだ。

う〜ん、いまいち要点をつかみきれない。

6ヶ月前 No.402

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

夢か現実かは一番わかりやすいのは・・

夢はワープ出来・・時間と空間と滅茶苦茶で・・意味がちぐはぐなのです・・

6ヶ月前 No.403

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>380,381,382,386,388,400,402

☆おさらい

・疑わしいのは、後から偽だったと分かるかもしれない今は真だと思われてる意見。
・遠くに見えるものについての個々の判断は疑わしいとされた。感覚にだまされるから。
・自分についての個々の判断は疑わしいとされた。夢かもしれないから。

☆『省察』第一省察第六〜八段落要約(pp. 37-38)

・個々のもの、個々の状況は、真ではないかもしれない。
・夢のなかで見えているものは、とにかく見えてはいる。
・そこから「一般的なもの」は真なるものとして存在すると推論される。
・例えば個々の足が俺にそなわっているかは疑えるが、それが《足であること》は疑えない。
・しかし《足であること》は、元々あるものでなく、虚構された虚偽のものかもしれない。
・しかしそのイメージにおける色は、真なる色だろう。
・ここから類推されること。俺のもつイメージは「単純で普遍的なもの」から形成されている。
・それらは、延長・形・量・場所・時間などである。
・経験科学は疑わしいが、これら一般者を扱う学問たる数学は疑えない真理を含んでいる。
・夢だろうが現実だろうが《2+3=5》が真なのは変わらない。

☆コメント

あらためて確認する。ここで疑われているのは「真でないかもしれない」ということだ。「存在しないかもしれない」ということではない。しかしまた、この《真であること》と《存在すること》は互いに密着している。ただ、疑わしさには《真であること》がかかわる。「それが存在する」という判断も、それが真であるかどうかが疑われるのだ。

夢かもしれないと疑えるのは、夢と現実が構造を共有しているからだ。夢で起こることが現実なのか夢なのか、はっきり区別する指標はない。なので、今起こっていることは現実のことだという判断はすべて疑える。したがって、「俺が今パソコンの前に座っていることは真だ」という判断は疑いうる。しかし、こう判断するとき、とにかく座っていると思っていることは確かだ。夢であろうが現実であろうが《座っている》という意見があるのは変わらない。そうであれば、「この座っているという信念は現実のものだ」と主張しないならば、俺は夢にあざむかれることがないだろう。このようなときフッサールは「現象学的な判断停止」と言うかもしれない(cf. 『デカルト的省察』p. 48)。しかし、そこまでのことは言われていない。デカルトがここで言いたいのは、個別のものの真は疑えても、一般的なものの真は疑えないのではないかということだ。

デカルトはイメージの例を出す。目の前にあると俺が思っている手が本当は無いのだとしても、手のようなものを俺がイメージしているのは確かだろう。もしそうであるならば、そのイメージのモデルとなる《手という一般者》は真に存在するだろう。これは《一般的なものの直観》ではないだろう。推論だ。その推論の前提は《個々のイメージは一般者の似姿だ》というものである。似姿があるならば、それのモデルがなければならない。だからモデルは存在する。空想みたいな話だ。

しかし、デカルトがより疑いにくいと考えるものは、俺たちが目の前に見るもの。色。空想などではない。あらゆるイメージが空想でも、そのイメージは着色されている。そして、この箇所では、色はイメージよりも普遍的なものとして考えられている。たしかに、どんなイメージにも有色性は共通している。それを更に一般化してみよう。すると、後世の言葉でいうところの「クオリア」が得られるだろう。すなわち、いま見えている全てが現実なのか夢なのか決定できないが、とにかくクオリアがある…ということ。

デカルトは、個物に対する抽象観念みたいなものが、個物よりも疑わしくないと言っているのではない。
ありありと見え・聞こえ・嗅がれ・味わわれ・触れられているクオリアは、個物よりも疑わしくないと言っている。
しかし、デカルトは「クオリア」とは言わない。普遍的なものとしては諸カテゴリーが挙げられる。一般者を扱う学問として、数学の話へと移っていく。すなわち、俺の読解は誤読だ。

個々の感覚が疑われ、それについての現実判断が疑われ、そうしていま、それらの判断を構成する要素(カテゴリー)が疑われようとしている。話の流れとしては、懐疑はだんだんと判断の地盤へと掘り進んでいっている。末端から根源へと進んでいる。

数学の例。夢か現実か決定できないのが問題なら、《どっちであるのかを決定しなくても真であるような判断》に目を向ければいい。

5ヶ月前 No.404

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

今日朝方の夢でずっと手紙を書いていて特に最後に大きな字でこれでいいですか? と書いた途端目が覚めました・・

そして右手が字を書きすぎて使ったかのように痛いのです・・

5ヶ月前 No.405

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>392
私は“頽落”をこう理解してます。

“世間”の“ひと”として生きることはそのまま何ら倫理的に責められるべきことではない、というのは、そのままその通りの意味じゃないかと。

ただ、一旦本来的自己に目覚めてしまうと、それまでの日常の自己が非本来的、頽落した自己としか捉えられなくなる、ということでは。
たとえばゴータマ・ブッダの出家による家出とか。
倫理的に言えば、出家のほうがだめかも。って感じ?責任放棄とも言えるからね。

芸術家でもそんな人いるでしょ。それまでのすべての生活(人間としてきわめてまっとうな生き方)を捨てて、芸術一筋に生きる生を選んでしまう人。
尾崎放哉とかね。

5ヶ月前 No.406

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

別スレでカントによるデカルト批判が言及されました。参照URL: http://mb2.jp/_tetsugaku/1103.html-4,18#a

どういう批判したのかなと『純粋理性批判』を探しました。

それらしき箇所を見つけたので、訳してみました。

議論の土台として、ここに置いておきます。



☆Meiner版Kritik der reinen Vernunft, S. 462の試訳:

《俺は考える》は、すでに言われたように、経験的命題です。この命題には《俺は存在する》という命題が含まれています。しかし、《考えるものはすべて存在する》とは言えません。もしそうなると、思考という性質をもっている存在者はすべて必然的に存在することになってしまうでしょう。だから、俺が存在するということは、《俺は考える》という命題から推論されたのだと(デカルトはそうみなしましたが)みなすことはできません。(なぜなら、《考えるものはすべて存在する》という大前提が立てられなければならないからです。)俺が存在するということは、《俺は考える》という命題と同一です。この命題は、或る漠然とした経験的直観すなわち知覚を表わしています、(したがって、この存在命題の根底には、感覚があります。この感覚は、これはこれで感性に属するものです。)ところが、この命題は、経験(Erfahrung)に先立ちます。経験というのは、知覚対象をカテゴリーによって時間的に規定するものです。存在はここではまだカテゴリーではありません。カテゴリーというのは、漠然と与えられた対象には関わらないものです。カテゴリーは、ひとがそれについて何らかの概念を有しており、それがこの概念のそとに置かれているのかそうでないのかを知ろうとするようなものにしか関わらない。或る漠然とした知覚は、ここでは、なにか実在的なもの(etwas Reales)しか意味しません。これは与えられたものですが、しかもそれは思考一般にしか与えられない。したがってそれは、現象として与えられたのでもない、物自体(ヌーメノン)として与えられたのでもない。《俺は考える》という命題においてそのようなものとして特徴づけられる実際に存在している《なにかEtwas》です。どういうことでしょうか。俺は《俺は考える》という命題を経験的命題だといいました。しかし、これは、この命題における《俺》は経験的表象である…という意味ではありません。むしろ、それは純粋に知性的です。なぜならそれは思考一般に属しているのですから。しかし、思考に素材を提供するなんらか経験的表象がなければ、《俺は考える》という作用はなされない。そして経験的なものは、純粋な知性的能力の適用ないし使用のただの条件です。


☆コメント

・この文章の後半を理解するためには『純粋理性批判』を読まなければなりません。
・デカルトへの批判:cogito, ergo sumは疑似推論だ。
・cogitoは現象としても物自体としても与えられないが、しかし、与えられるものである。
・《俺は考える、俺は存在する》は、推論ではなく、トートロジーである。(A版355を参照)
・『省察』の分析の道をたどったあとで、カントのこの箇所を読むと、カント読解の助けになります。

5ヶ月前 No.407

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

自我は死や無意識の中では消滅する・・

自我とは分離したり分裂したり消滅したりする・・

真に生命が死無くしても絶対化できるとしたら?

真の自我を獲得することができるとしたら?

神の領域と意識が一致する領域だとしたら?

宇宙の初めの存在は心霊であるとしたら?

5ヶ月前 No.408

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>406

頽落(Verfall)とは何なんでしょうか。

この訳語は「頽廃」っていう言葉と「落ちる」っていう言葉とを合体させたものだと思います。

Verfallenは建物の老朽化・荒廃を意味して、転じて、体力の衰弱のことであり、転じて、道徳が文化が衰退して退廃的になること。
それとは別に、例えば、「眠りに落ちること」などともいう。
あるいは、「酒に溺れること」とか「誘惑に負けること」という用例もある。

これらに共通すること。《張り切ったのがゆるむ感じ》だ。抵抗しきれず、自分を保てず、乱れてしまりがなくなる感じがある。
逆に考えると、非頽落っていうのは、抵抗の姿勢を守りながら・安易な方へと流されず・自分を保ち・秩序をもち・頑として立つという、そんな感じになるかな。

 落ちるというのは、崩れ落ちる・頽れるということだろう。倒れる(ruere・fallen)ということだ。俺たちはふだん踏ん張って立っていたり、姿勢を保っているのだが、疲労などにより踏ん張りがきかなくなり、姿勢が崩れ、倒れる。頽れるというのは、このような《力ない》ありかただ。
 眠りに落ちるというのは、意に反して睡眠状態に突入してしまうことだ。酒に溺れる・誘惑に負けるというのは、行為自体が意に反しているかどうかは分からないが、どこか《ダメだと分かっているのに》というニュアンスがある。抵抗すべき・自分を保つべき・踏ん張るべきなのだが、ついつい、引かれるがままになってしまうことが、こういう例におけるverfallenだろう。

 誘惑に負けること。これの反対が、自分を保ちながら踏みとどまることであるというのは、容易にイメージできる。だが、どこに踏みとどまるのか?
 まあ『存在と時間』には「無規定のまま確実な死へ先駆しつつ、現存在は、おのれの現そのものから発してくるたえまのない脅威にむかって、おのれを開く。《終末へ臨む存在》は、この脅威のなかにふみとどまらなくてはならない。」といった文言はある。(ちくま下p. 90)
 また、こうした非頽落のありかたが《力強い》ありかたであるのを示すために、引用をつづけよう。「覚悟性のもつくるいのない自信は、ただ決断することのみにかかわるのである。」(ちくま下p. 159)「先駆しつつおのれのうちに死の威力をたかめるとき、現存在は死にむかって打ちひらかれて自由になり、その有限的自由にこもるおのれの超力において自己を了解する。」(ちくま下p. 325)
 どこに踏みとどまるのかといえば、《有限な自由》にとどまる。とどまるとは、忘れないということだ。「私たちは、それを記憶からのがれるにまかせないとき、それを保持する。」(Was heisst Denken? Iより)だから、とどまる(Sistenz)というあり方は、非忘却である。逆に、とどまることの反対は、忘却である。頽落は忘却である。

単なるイメージのレベルにおいて、非頽落は《力強い》という予想ができた。このイメージを確認する作業は、まだしていない。

しかし、「むしろ、非本来性は、多忙や活気や興味や享楽などのきわめて充実した具体相においても、現存在を規定していることがある」といわれている(ちくま上pp. 110-111)。活溌であるならば、それは元気で明るいということで、すなわち「力強い」のではないだろうか?俺は「頽落」が《力ない》ものだというイメージを持ったが、こうした衰弱のイメージと、非本来性の活溌なあり方とは、矛盾しているようだ。

 ここで「頽廃」とはなにか、廃れるとはなにかを、考えてみる。これは形骸化であり、当初はその意味がしかと理解されその力強さが認識されていた事も、語り継がれたり伝承されたりするなかで、その本来の奥義が薄められたり忘れられたりして、その事柄の《よく分からない威力》だけが引き継がれた状態である。それは当初たしかに有力なものだと認められた。しかし、それが有力であるのには理由があり、そして人々はその理由を知っていた。しかし後世、そういった理由が理解されないままに、ただ力だけが利用されるようになった。事は形骸化したが、その形骸が形骸だけで、それがそれであるというだけで、よく分からない無際限な力が承認される。これが頽廃であるだろう。
 廃れるとは「通用しなくなる」ことである。すなわち、力を失うことだ。失効である。これは、直近俺が言ったことと矛盾する。俺は、よく分からないけど伝統だからとかいう理由だけで、言説が支配力を発揮するようなことを、頽廃と言ったのだった。しかし頽廃とは、こういった無限的力の支配ではなく、むしろ力の失効ではないか?しかし、「世間は心境を処方し、「ものの見方」を規制している」(上362)のであり、たしかに世間(das Man)は《支配力》をはたらかせている。

 この矛盾は、有限と無限とを対立させることで、一応形のうえでは解消できる。失効しているのは有限な力であり、《無限な力》はのさばっている。力が有限であるのは、その力が《云々の限りにおいて》有効である場合だろう。すなわち、力に理由があるとき、力に根拠があるときだろう。そして本来、言葉はその根拠から力を得て、人々は根拠からして自信を持ちそこに語られる事の力を信じた。しかし、「世間話こそは、わざわざ事象を領得することなしにすべてを了解することができる機会である。」「読者の平均的理解は、なにが根源から汲みあげられ、苦闘のうちにたたかいとられたもので、なにがたんなる受け売りであるかを、決して判定することができないであろう。」(上360)根拠にさかのぼらずとも、(例えば)常識は《力》を持っており、私たちはこういった常識の意味をみんな理解しているのだから、わざわざこれから根拠にさかのぼるなんて、無駄でしょうに!(こういったことは「閉鎖」といわれている。)

 ふくろうさんの例を見て、俺は、《これまでの常識に則った生き方を捨てて、裸一貫勝負する》みたいなイメージを持った。これは「芸術一筋」などとも表現されている。
 一筋というのは情熱的なありかただ。「先駆は…自己自身として存在することの可能性へ臨ませるが、その自己とは、世間のもろもろの幻想から解かれた、情熱的な、事実的な、おのれ自身を確承せる、不安にさらされている《死へ臨む自由》における自己なのである。」(下92)ハイデガーは『ニーチェ』で情熱を分析している:「情熱には遠くまで及ぶ力、自分を打ち開く力が宿っている。…ところで、このように情熱に具わっている遠望は、われわれを越えて単純に拉し去るものではなく、むしろわれわれの本質存在をそれの本来の根拠へ集中し、実はこの集中においてはじめてこの根拠を打開するのである。」(平凡Ipp. 71-72)そしてこれを「覚悟」と関係づけている。覚悟は、決断と関わる。一筋とは《これと決める》ことだ。《俺はこれだ》と自分の可能性を狭め、他にもできる色んなことを捨てること。脱ニート的なありかただ。
 芸術一筋のひと、クレイジーな人は、この《捨てる》という動向が、過度となることがある。自分が基準となり、他者への配慮が欠けたりする。或いは、他者への配慮が、世間並みのものとは桁違いに洗練される。すなわち、世間が配慮に対してかけるブレーキを壊す・捨てるという風にして、ケチなところがまるでなくなることもある。
 こういった決断は、偏見に満ち、それゆえそのひとの振る舞いは個性爆発といったものとなる。しかしその振る舞いは、自信に満ちており、そのひとは冷静である。

 ここでの「捨てる」というのは、自分が得た有限な基準からしてみれば無価値と映ずるようになったものを素直に無価値として扱うということだろう。常識が「それには価値がある」と言ったとしても、そういった常識の言葉を否定するに足る自信を、得ている。否定の自信。全面に良い顔をしようとしたら、こういった否定はできない。しかし、情熱的な者は、ある者を否定することによって、その者の敵対者に良い顔をしようとしているのではない。ただその人は情熱的な面構えとなるだけだ。その人は、誰かにとって都合のよい存在となろうという意図は持たない。もちろん、その人が他の者にとって都合のいい存在になることはある。

5ヶ月前 No.409

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>407

>俺が存在するということは、《俺は考える》という命題と同一です。

>… meine Existenz … ist mit ihm 〔mit dem Satze, Ich denke〕 identisch. (S. 461)


>…誤って推論とみなされたデカルトの「cogito, ergo sum」は実際にはトートロジーである…

>…der vermeintliche cartesianische Schluss, cogito, ergo sum, in der Tat tautologisch ist(S. 474)


…もっとも『省察』では、俺が邦訳を見た限りでは「我思う故に我あり」とは言われていない。

>それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する」Ego sum, ego existoという命題は、私がそれを言い表わすたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である。(p. 45)


ここでは、「我思う」というところから「我あり」が演繹されているのではないようにみえる。しかしデカルトは『哲学原理』においては「…このようなことを考えているわれわれが無であると想定することはできないのである。なぜなら、考えるものが、考えているまさにそのときに存在しない、と解するのは矛盾しているからである」と述べているらしい。これは推論であり、《私の存在》は「われわれはいかなるはたらきをも、それの基体なしには概念しえない」という前提から導かれている。そしてデカルト自身「第三答弁」においてこの解釈を認めているらしい。(p. 172註解)これについてデカルトは、いわゆる省察においてはcogito, ergo sumという「私のうちに経験されるもの」にしか注意しておらず、「考えるものはすべて存在する」という一般的なことにはさほど注意を向けていないと言ったという。(p. 173註解)すなわち、推論を通してはじめて結論を導出したのではないということ。まずcogito, ergo sumという「直観があり、事後の分析によって大前提からの推論が可能になるということだろう」。
 すなわち、結論の発見が、その結論を導出する推論を可能化し、大前提をも可能化した…というのは言い過ぎかな。すなわち、cogito=sumの経験によって「考えるものはすべて存在する」という前提が基礎づけられ、そしてさらに「はたらきは基体なしには考えられない」という前提も基礎づけられた。こうした前提は、常識だし、普通に通用している。ところで、なぜこれらが前提として通用しているのか?それは、根底にcogito=sumの経験があるからだ。すなわち、「作用はその作用を支える基体を要する」という一般的発想は、「考えるものはすべて存在する」というその発想の原型からとられており、この原型はこの原型で、cogito=sumという経験のひとつの表現である…ということだ。このようにして基礎づけの系列がある。この基礎づけの系列の最初に《cogito, ergo sum》がある。だから「『私は考える、ゆえに私はある』ego cogito, ergo sumという認識は、あらゆる認識のうち、順序正しく哲学するものが出会うところの、最初の最も確実な認識である」(pp. 171-172)と言われる。すなわち、特別順序に注意がなされたときに、順番的に最初に来る認識は《cogito, ergo sum》である。「思考するものはすべて存在する」ではない。

 『省察』においては、「私は在る」という命題は、俺がこの命題を言うごとに必然的に真だと言われている。すなわち永遠に必然的に真なのではない。「私は在る、私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か?すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。」(p. 47)「逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、私が存在したと信じるいかなる理由も無くなる。」(岩波文庫『方法序説』p. 47)このようにコギトを時間的なものとする解釈は「思考するものはすべて存在する」という前提をも時間的なものとするだろう。この前提は《思考可能性を有するものはその可能性がある限りにおいて存在する》という意味ではありえない。思考可能性を持っているだけでは存在にいたらない。実際に思考しなければ、そして思考している間しか、思考するものはその存在について確信されない。このような意味しか持てない前提は、普遍妥当的なものと見なすことはできないと思われるのだが、どう思いますか?つまりは、この前提は無時間的前提ではなく、コギト経験に基礎づけられる限りでのみ有効な有限な前提であると思うのです。

 カントも「cogito」が経験的直観を表現するものだと指摘していますが、デカルト自身もそれが経験であることは自覚していたと思います。上述原理の引用参照。ただ、デカルトの表現方法は独特だと思います。「私は注意し、考えに考えを重ねるが、何も浮かんでこない。同じことを無益に繰り返して疲れるばかりである」(p. 47)という風に《頑張ったんだけど何も思い浮かばなかった》ということを根拠としたりしている。《やってもやっても疲れるだけだった》と言っているけれど、《やり方が悪いんじゃないか?》と思う。
 ところで、こういったことが根拠となりうるのは、デカルトが自分の意識にのぼった認識を頼りにしている、ということを示しているだろう。これが明証というやつかな…?どうして明証といったものを頼るのかというと、これもまたコギトに基礎づけられた発想であるからだ。明証というのは、コギトについての、また別な表現である。コギトの確信は「明証」と名づけられた。コギト経験は明証の原原型である。その経験を基にしてはじめて真に明証というものが考えられる。しかし、だからといって、《まだ意識にのぼっていないだけ》のものを《存在しない》と見なすのは、せっかちではないかと思う。



蛇足だが、個人的には、ハイデガーの「Der Mensch allein existiert」を思い出した。(Was ist Metaphysik? VK. S. 17)特に、『純粋理性批判』でcogitoという直観が「我思うという命題においてそのようなものとして特徴づけられる実際に存在している《なにかEtwas》です」と言われているのを読んで、特にそれを思い出した。いうなれば、Das Wesen des Ichs ist das Denken. Das Ich ist, sofern es denkt. Das Ich allein denkt. それは独特な存在(Wesung)を意味している。しかし、こんなことを言ってもなににもならない。

5ヶ月前 No.410

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

自我は死や無意識の中では消滅する・・

超自我が無意識に作用する・・

どの我? 我とは分裂したり統合したり・・

5ヶ月前 No.411

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>380,381,382,386,388,400,402,404,407,409

ルネ・デカルト『省察』第一・第二省察あたり

俺が皆さんに提示しておきたい着眼点。それは

『省察』をつうじて「確信」が変異しているということです。まず第一に、確信されている内容に変化がある。最初に信じられていたのは、例えば私には身体があることとか、2+3=5であることとかでした。しかし、懐疑をつうじて得られた確信において、信じられているのは、「私は存在する」ということです。確信される対象に変化がある。ところが、内容のみに変化があるのではない。確信の種類も変わったのです。いうなれば「素朴な受容」から「明証」へと変わったのです。

ここで注意を向けておきたい箇所があります。『省察』第二省察で訳書では48ページの冒頭:

>…私とはただ考えるものres cogitansでしかない。言いかえれば精神、すなわち魂、すなわち知性、すなわち理性である。これらの言葉の意味は、以前には私に知られていなかった。しかし私は真なるものであり、真に存在するものである。しかし、それはどういうものであるか?私は言った、考えるものであると。


ここでデカルトは「精神・魂・知性・理性」という言葉の意味を以前は知らなかった(しかし、いまやそれを知るにいたった)と言っている。もちろん、デカルトはこれらの《意味》を知る以前にも、これらの言葉を使用していただろう。言葉を使っていたならば、それらの言葉の意味も分かっていただろう。しかし、あえてデカルトはここで、それまでこの言葉の意味を知らなかったと言っている。すなわち、以前までの自分の知は、真の知ではなかったと言っている。そして、いまや真の知を得たと言っている。それらの言葉の根拠を得たのだ。その根拠というのが《考えるものである私》です。俺たち私たちが言葉の意味を知るのは、それらの言葉が何の事について言われているのかを知るときです。デカルトは懐疑をとおして、知の働き一般の語彙が何について言われているか、その論の根拠となる事象、すなわち《考えるもの》を発見したというわけです。

この確実性は、素朴ではない。この確実性は操作によって得られた。これ以上は疑いえないところまで疑い切ったうえで、それ以上のものを見いだし、「それ以上」は「疑いえない」ので、疑いえない確実さが得られた…というふうになっている。すなわち、疑わしいものの全体(最高度の懐疑)を提示し、この全体の《外》を提示している。そしてこの《外》は疑いえない。なぜなら、すでに疑わしいものの全体が提示されたのだが、それはそれらの外であるのだから。このようにして、この疑いえないものの疑えなさは、輪郭を有している。それは、疑わしいものの全体のうちに属する意見のうちの、ひとつのものの《疑わしさ》が払拭否定されて得られた、《疑わしくなさ》を有しているのではない。このように得られた疑わしくなさは、元々の素朴な信用への逆戻りだ。こういった逆戻りは、デカルトが第一省察の末尾で警戒していたものである。
 疑わしい意見全体が突破されている。なので、絶対に確実な知は、唐突に現われなければならなかった。デカルトが行った操作は、まず全体を作成すること、そしてその全体の外側(超越)を示すこと、だ。そういう筋道になっている。最初の確信は、いずれ疑わしいと判明する意見全体を対象としていた。超越により得られた確信は、それら意見全体を対象にしない。それは別種の確信である。それはいわば超越的確信、あるいは世界外的な確信であるでしょう。

ただ、このようにして経験された確実さ。それが確実であることの根拠が求められます。

>私は、私が考えるものであることを確信している。それならば私はあることを確信するためには何が要求されるかをも知っているのではないか?


これは第三省察の冒頭(訳書59ページ)です。ここでは、確信のための条件が話題となっています。ここから「神の証明という裏口」が要請されます。

5ヶ月前 No.412

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>412

>…純然たる疑うことの道程は、なるほど表象することの多種多様な仕方を問題にするが、それはただ、それ自身全く疑いをさしはさまれることのない疑うことを学ぶために、考察がそこから発進した、出撃基地の内部に留まるためにすぎないのである。疑いの道程は、疑うことが自らをすでに安全な場所に移しており、この安全な場所が〈fundamentum absolutum〔絶対的ナ基礎〕〉と見なされているということを、判明にするにすぎない。しかしこの絶対的なものの絶対性は、疑いをさしはさまれもせず、尋問されもせず、絶対性の本質の点で名指しで呼ばれることすらもないのである。


マルティン・ハイデガー「ヘーゲルの経験概念」『杣道』173ページより。

>無条件的な自知は、主体の主体性として、絶対的なものの絶対性である。


同書155ページより。



ここにおいて《無条件性》があらわれ、これが『存在と時間』における《有限性》と対立する。

世界の外へといたった我は、世界内存在のなかに投げもどされる。

ただ、それによって《問題》が解決されたのかどうかは分からない。

5ヶ月前 No.413

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

懐疑のための懐疑でなく

何が真実かを洗い出す方法的懐疑と言うことについてはどうされますか?

5ヶ月前 No.414

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

河本英夫『哲学、脳を揺さぶる』要約(pp. 1~7)

 序言はランニングの話から始まる。
 彼はランニングには数々の発見があると言う。
 後走りやカニ走りなど走り方を変えることで、気づくことがある。
 後向きに走ると、最初は《違和感が強く》て数メートルしか走れない。そこでまた普通通り走ってから、また後向きに走ってみると、今度は《慣れた感じ》でもう少し長く走ることができるようになっている。
 身体には《身体図式》がある。「普段の動作には意識しなくともおのずと手足、体幹が動いてくれるような身体の枠のようなものができ上がっている。」
 《違和感》はこういう運動フレームとしての《身体図式》を変えるような動作を行ったとき、感じられるものだ。

 そして、河本先生は、この本に何が書かれているかについて述べる:
 この本には、変わった走り方でのランニングなどのような「身体行為を含めたイメージの活用法」が記されており、その目的は、「イメージを通じて経験の動きに自在さを獲得すること」だ。《経験を動かす》ということが、本書で繰り返し語られることになる。

 ちまたには脳トレの本があふれているけれど、そういった本は自分が持っている知識をより有効に使うためのコツを教えてくれる。それを読み、視点や観点の選択肢を増やすことは、ひとつの《学習》の成果だ。しかしこれは、「能力そのものの形成」ではない。
 そういった学習による《認知能力》の向上は、ほとんど大脳皮質の働きにのみかかわる。しかし認知能力単体で形成される回路は狭い。
 より広い、《行為》にも関わる領域がある。
 この本は《学習》の範囲にとどまらず《発達》の範囲にまで及ぼうとしている。
 先生は「本来、課題になっているのは、能力を形成することであり、発達を再度リセットすることである」と述べている。この「発達のリセット」が今後の眼目となってくる。
 能力の形成(発達のリセット)にまで及ぶためには、認知能力のみならず《行為》にまで働きかけなければならない。
 発達は生物学的に決定されていると、想像されがちだと思う。
 しかし、脳神経システムや身体システムの可塑性の度合は大きい。やり直せる可能性はある。
 個々人の肺も、酸素吸着能力はトレーニングによって7倍もの開きが出てくる。
 このように身体ないし脳神経の機能には可能性が開かれている。この可能性の現実化が《発達のリセット》である。
 頭蓋骨の中にある脳そのものに働きかけて脳を改善することは望めない。
 手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器であると先生は述べられる。
 こうした外にある脳に働きかけるエクササイズが、発達のリセットには必要だ。
 しかし、知能(インテリジェンス)や言語的思考回路にのみ働きかけても、経験の形成の半分にしか働きかけたことにならない。
 こうした働きによって、視界が広がり・新しい考えを得られても、それらはたかだか、《自分で理解しながら実行できる範囲》にすぎない。この範囲は狭い。
 鉄棒の逆上がりができるようになったとき、はじめて自転車に乗れるようになったとき、何が起こったのか自分では分からない。分からないけどできるようになっている。
 《発達のリセット》は、《分かる》とは別な仕方で《できるようになる》という経験変化にまで及ぶ。
 そして、こうした領域においては《イメージ》が重要な役割をもつ。

 《イメージ》は、感覚・知覚によって得られる情報にすぎないものではない。
 それは、現実の行為の重要な手がかりである。
 身体動作にも、運動イメージや姿勢イメージがかかわっている。

 《能力の形成》をシステム内に組み込まれているものの代表例は「オートポイエーシス」だ。
 これには、動き続けるための仕組みが組み込まれている。
 なのでオートポイエーシスなら、自動的にシステムは回復し、自動生成してゆくのだから、放っておいても大丈夫と思われがちだ。
 すなわち、エクササイズや外側からのメンテナンスは不要に思われる。
 しかし、こういうものでも、停滞することもあれば、構造的欠陥を抱えて自在な動きを妨げられることもある。
 あるいは、作品を制作したあと、自分の作り出した《壁》にぶちあたり、それを突破できずじまいのこともある。
 こうしたとき「新たな変数を獲得するように経験の動きの局面を変えることが必要となる」。
 そこで、《発達のリセット》が課題となってくる。

 この本のベースは「認知運動療法」と「イメージについての先生自身の講義」である。
 前者は、片麻痺・失行・失認・脳性麻痺のような脳の障害へのアプローチ。イタリアの神経内科医カルロ・ペルフェッティにより開発された。
 認知運動療法は、身体運動と認知能力の再生に向けて、科学的に吟味可能な方法を設定したところが良い。
 自閉症や認知症、心の再生(精神病治療?)にも応用可能である。
 また、後者は、制作技法についての講義ではない。
 それはむしろ、科学技術や芸術作品についての、発想・アイデア・イメージの提示の試みであった。

 先生自身はこの本を「創造性の科学哲学」とカテゴライズされている。
 ここには人文社会科学・哲学・認知科学・科学技術・教育学の知見が素材とされている。

5ヶ月前 No.415

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>415

 そしてひとっとびに「あとがき」(pp. 302~303)を読む。

>日常の経験のなかで、行き詰まったり、壁に当たったりすることは、誰にでもある。


 すなわち、この本は、そういう経験をする全ての人に向けられている。

>そのとき、あえてそれを気にかけないで忘れようと努めたり、慌ててその場しのぎの対応をとることも、同様に誰にでも起こり得る。だが、行き詰まることや、壁に当たることは、むしろ、好機であり、転機である。そうしたとき、経験の仕方を変え、経験の幅を変えていくようなエクササイズがあれば、この好機を現実の可能性に転換していけると思う。


 この本は、壁に当たる経験をする万人に向けられている。
 何が差し向けられているか?エクササイズが提示されている。
 壁に当たることは、転機だ。
 スムーズに事が進むよりも転機を得たほうが良いということでもないだろう。しかし、スムーズに事が進むことよりも、壁に当たる方が不幸だというわけでもない。壁にぶつかること、矛盾に気づくこと、内に潜む問題が見えはじめること、限界にいたること、こうしたことは、変革の兆しであり、従来通りに行けば絶望の谷に落ちていく道から脱出するための可能性でもある。
 こういう転機(可能性)を現実化するために、エクササイズが提示されている。

>心の働きとして、この本ではイメージを前面に出している。

>イメージは…投げかけてみて、それを用いながら、経験を新たに組織化するための手がかりである。


 イメージという言葉がこの本には頻出する。
 イメージは、現実の行為のための手がかりである。
 イメージは、投げかけるものだ。投企される意味に近い。投げかけた意味からして、経験を新たに組織する。再構成する。その再構成のための手がかりがイメージだ。

>イメージとは、経験が進むたびにかたちを変えていく問いに近いものなのである。


 ヘーゲルを思い出す。そしてヘーゲルはこの本の傍注でも紹介されている。
 イメージは、感覚や虚構というより、むしろ《問い》に近いものだ。
 この本でも何度も、問いが投げかけられる。
 問いを投げかけられることで、ものの見方が変わる。しかし、この本は《ものの見方を変える》にとどまらず《能力の形成》を目指している。更にメタ次元に及ぼうとしている。
 問いが、論理的・言語的なものではなく、イメージであることによって、経験の領域が特定の領域(知性の領域)に限定されていない。
 この本のタイトルは『哲学、脳を揺さぶる』だが、「哲学」という言葉の世界を超えようとしている。
 すなわち揺さぶられるのは「脳」であり身体である。しかしまた同様に言葉の世界も揺さぶられるだろう。

 俺は河本さんの問いの投げかけかたに魅力を感じた。
 こういう問いの立て方をしたいなと思ったものだった。

 真の動機が不純であれ、俺はこの遅読を自分の生活に組み込もうと思ったのだった。

5ヶ月前 No.416

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

てじさん

物理法則もすべてに通用する法則が見つかりません・・例えばニュートン力学と相対性理論とみたいな使い分け・・

認知症の第一人者の学者さんが認知症になられたそうです・・

学説は狭くすべてを凌駕できません・・

ぴたりと言い当てるのはひとつの的がある時だけ・・すべての的には当たらない・・

5ヶ月前 No.417

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>415,416

ちなみに、講談社学術文庫から出ている『哲学の練習問題』は『哲学、脳を揺さぶる』と同じ内容です。文庫版となり手に取りやすくなったといったところでしょうか。

5ヶ月前 No.418

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>416  てじさん

>>416
>「哲学」という言葉の世界を超えようとしている。

これは、【 http://mb2.jp/_tetsugaku/1113.html 】にも記述したことですが、「無限小」、「無」や「非存在」という言葉こそ、哲学問題を産み出しているのです。本来、語り得ないものを無理やり「無限小」、「無」や「非存在」という言葉に仕立て上げ、それを追及した結果、答えにたどり着けないがために哲学問題になるのです。まさに、哲学とは、言葉の綾(複数対立的な意味の付与)なのです。バークレィは言います。「私たちはまず埃を立てておいて、それから見えないと不平を言うのである。」

5ヶ月前 No.419

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

MARTIN HEIDEGGER
WAS IST METAPHYSIK?
VITTORIO KLOSTERMANN FRANKFURT A. M.


※翻訳パート開始

「形而上学とは何か?」
 この問いかけをみますと、形而上学について論じられるのだろうと、予想されるでしょうけど…それは断念いたしましょう。その代わり、ひとつの特定の形而上学的問題について論じることにいたしましょう。そうすることによって、形而上学に直接到達するように思われます。そのようにしてのみ、形而上学が本当に私たちに姿を見せることができるようになります。
 段取りとしては、まず、ひとつの形而上学的問題を展開し、次に、その問題の詳細を究め、最後に、その問いに答えます。

※翻訳パート終了


「形而上学とは何か?」は、ハイデガーのフライブルク大学教授就任講演(1929年)のタイトルです。
このタイトルを見ると、形而上学とは何であるかが論じられるのだろうと、思うでしょう。
そうとなると、ハイデガー教授は「形而上学とは◯◯である」という風な語り方をして、
形而上学の本質はこれだと、明白に提示してくださるでしょう。

しかし、そんな“大それた”ことは諦めましょうと、ハイデガーは話を始めます。
ハイデガーは、形而上学について直接その本質を語ることを、断念します。

その代わり、どうするか。

形而上学の方が、形而上学それ自身を示すようなところまで、一緒に行こう!
そう言うのです。

どうやってその場所まで行くのかというと、特定の問題を究明してゆくことによってだそうです。
特殊な問題に取り組むことによって、全体(本質)にいたり、本質の方から語らせる。
これはハイデガーがオススメする方法論です。

>>223 もそうです。これは『人間的自由の本質について』という講義ですが、これも人間の自由問題という特殊問題から、存在全体に至ります。

この方法論が『存在と時間』(1927年)では「現象学」と呼ばれます。

>現象学とは、…じぶんを示すものを、それがじぶんをじぶん自身の側から示すとおりに、じぶん自身の側から見えるようにさせること(岩波熊野1,201)

22日前 No.420

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

てじさん

自己の現象が目的止まりですか?


哲学の道程

@哲学することの本質的意味は現存在の「存在の探求」

A科学的思惟と対比させられる真正な哲学的思惟は、対象性を思念しながらこれを超えて「非対象的」な存在へと侵入する超越的働き



世界の次元を超えて実存の自己意識や神性信仰に顕現している超越の働きを心に生起する哲学は本質において形而上学です。

21日前 No.421

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

う〜ん

キルケゴールの『現代の批判』が俺がいつも読んでいる本だ

100年前に書かれたにもかかわらずまさに現代のことが書かれている

21日前 No.422

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙さん

その本には何が(内容)書かれていますか?

21日前 No.423

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

哲学者の本当の事実です

実際、キルケゴールhがお金に困っていました

21日前 No.424

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙さん

哲学の内容は?

21日前 No.425

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

哲学の内容は問題ではありません

カントが述べたように『哲学する』ことを学ぶのです

21日前 No.426

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙さん

哲学する形の仕方でなく意識の中味です・・

哲学のための哲学では無く・・魂の中味の内容です・・

21日前 No.427

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>420 の続き

MARTIN HEIDEGGER
WAS IST METAPHYSIK?
VITTORIO KLOSTERMANN FRANKFURT A. M.


※翻訳パート開始


     ひとつの形而上学的問題の展開


 哲学は――世間的に見れば――ヘーゲルいわく「逆しまの世界」です。だから、私たちの着手の仕方は奇妙なものです。あらかじめそれがどんな特徴を持つかはっきりさせておく必要があります。この特徴というのは、形而上学的に問うことの、二重な性格に由来します。
 まず、どの形而上学的な問題をとってみても、そこには形而上学で問題になることの全体が入っています。それはいつも全体それ自体です。そして、どんな形而上学的な問題も、問う者が――問うものとして――問いにおいて共にそこにある、すなわち問いに付されている、という風にしてのみ問われます。ここから、形而上学的に問うならば、全体において、問いながらそこにあるという本質的な位置から問わねばならない、という指示が読み取れます。私たちが、今ここ〔フライブルク大学の大講堂〕で、自分たちのために問うのです。学者・教師・学生の共同体として、私たちはここにいます。学問というものによって、それと定められながら。学問が私たちの情熱になったならば、こうしてここに有ることの根本において、私たちにどんな本質的なことが起こるでしょうか。


※翻訳パート終了



 この本は、序言・講演・跋文から構成されています。いま俺は講演の文章を冒頭から訳しています。この講演は、ハイデガーがフライブルク大学になった1929年の教授就任講演であり、これを聴いていたのは大学関係者達でした。
 リュディガー・ザフランスキー著『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』p. 263〜270あたりで、この講演について書かれています。
 ハイデガーが、「形而上学自体の方が私たちに語りかけるようにしなければならない」とか「私たち自身の存在が問われる」とか言っていたことに、改めて注目してみます。ハイデガーの語り方は、聴く者が共に道を歩くよう強制するようなところがあります。

>ハイデガーは聴衆に一瞬「世界の根底を」覗き見ることを強制しようとする。(前掲書 p. 266)


 俺自身も、ハイデガーの講義録・講演録を読むことをとおして、生々しい衝撃を受けました。しかし、この現実は、ハイデガーの言葉を通って経験されるものなので、この現実をこの現実に即して語ろうとするときに、結局ハイデガーの語彙に頼ることになり、そして結局ハイデガーの言葉を繰り返すことになります。まあ、それはそれでよいと思います。
 こうした衝撃を得ておくと、「事象自体が自らを示してくる」とか「自分自身の存在が共に問われる」とかいうことが、「ああ、あのことか」と分かった気になります。これは、新興宗教の洗脳のようなものです。神秘を共同経験した者同士では、その共有されたものを理解のための媒介に出来るので、ワカルワカルとなるものですが、それを外から見た者にとっては、異様な集団にみえます。
 そして、その衝撃が強すぎるので、なんでもかんでもその衝撃についてのものだと見てしまいます。すなわち、それが「全体」だと思ってしまうのです。
 例えば「絶対」という言葉も、それなりの歴史・経緯を持った言葉なのですが、俺はそれをひとつの経験にまとめてしまいます。
 そういったやり方で行くと、「全体」とは、あの経験された無にほかならない。それを表わすレトリックにすぎない。
 それをもとに、件のハイデガーの文章を解釈すると:ひとつひとつの形而上学的問題どれに取り組んでも、それをやり抜くと「世界の根底」に行き着き、その根底はありとあらゆるものの解釈に大いに役立つ、ということになるでしょう。
 このとき、単に形而上学がどうだとかいう話でなく、「俺たちの解釈に役立つ」といった要素が必然的に入り込んでくる…という事情があります。こういう事情が、俺たちが問いにおいて共に「そこにいる da sein」というところと繋がってきます。経験される全体は、「経験される」のでなければならないので、私たちも問いのなかに有らねばならないのです。そして、そういうあり方を、ハイデガーは「現存在 Dasein」といいます。

 ハイデガーはここで自分たち(新任教授として語る自分、聴く学生教師連中)の現実に――学問に携わる者であることに――触れます。これはすなわち、今から言うことは現実のことです、空想的な思弁的なことではありません、ということでしょう。
 そして話は学問の話になっていきます。学問というものにあっても、形而上学的問いをとおって至る全体が支配しているということを、示そうとするでしょう。

20日前 No.428

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>428 の補足。

>われわれは純粋な思想のレベルで全体という一つの上位概念、集合概念を作りはする。しかし、このように理解された全体には体験された現実がなく、それは内容のない概念にすぎない。こうした全体など重要なものではないという不安な感情が起こるときに初めて、それが体験された現実になる。つまりそれはわれわれのところに向かって来るのではなく、われわれから離れ去って行く現実である。

>生のただ中でわれわれは空無に取り囲まれている。われわれと世界の間に広がっているこうした空虚な活動領域の超越の中で、われわれは「無の中へ投げ込まれて保たれていること…を体験する。すべてのなぜという問いは、あの最後の問い、何ものかがあって、むしろ無がないのはなぜかという問い、によって成り立っている。自分自身ないし世界を無視することができる者、否と言うことのできる者は無化するという次元で行動している。彼は、それが、つまり無が、あることを証明する。

(リュディガー・ザフランスキー『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』p. 268)


「現実は思い通りにならない」( http://mb2.jp/_tetsugaku/1139.html-148#a

 ここでの「思い通り」は、願う通りぐらいの意味です。現実は、自分の欲に従うものではない。
 もっと詳しく言うと、現実は、自分の欲に直ちに従うものではない。
 すなわち、欲と現実の変容の間には、隔たりがあります。このように隔たりがあることが、現実です。たしかに、俺の指は自分の思った通りに動くようにみえます。しかし、すこし考えてみるならば、その動作は骨や関節など身体によって制限されています。無理をすると指の骨が折れるでしょう。身体が有るということは、俺の欲にとって、障壁です。しかし、身体が無ければ、動くことはできません。
 現実は、たしかに、俺の欲に従わず、俺の邪魔をするものですが、それがなければ俺は動けません。すなわち、俺の欲に従わないもの、逆にまず俺がそれに従わねばならないものによって、俺は生き、動き、存在しています。俺の存在の可能性を保証しているのは、俺の思い通りにならないもの、俺がその采配に働きかけることの出来ない現実です。

 俺の欲に左右されないものが、俺の欲望の実現可能性を左右しています。
 自分の欲に左右されないものの代表が、自然・社会・身体・他者でしょう。
 特に他者は、それが自分の思い通りにならないことが、自分にとって問題として浮上しやすいものではないでしょうか。
 軍隊では、人が人の思い通り(指示通り)に動かなければ困ることが多々あるでしょう。そこで、訓練がなされます。
 しかし、人が自分の思い通りに動かないというのが、デフォルトであると、俺は思います。
 それを無理矢理、自分の思い通りにしようとすること、これが暴力と呼ばれるものでしょう。
 大きな力は、ものを動かすのに役立ちます。消えろと願っても消えない者を、大きな力は消すことができます。「消えろと願っても消えない」のが現実です。しかし、「大きな力を使って相手を消す」のが非現実的行為だということにはなりません。「限りなく大きな力を保有していたころで、相手を確実に消すことができるとは限らない」のが現実です。現実とは、不可能性であり、ネガティブな可能性だといえそうです。
 暴力を使えば、現実は思い通りになる。これは誤りです。しかし、限られた目的の実現に役立つことは確かでしょう。

 自分の欲望を実現するためには、暴力もひとつの手ですが、この手段は殆ど確実に、実現可能な目的の幅を狭めます。すなわち、自分の可能性を狭めます。
 欲望を実現したいなら、事柄に精通するのがいいでしょう。言うまでもない、当り前のことです。

 と、俺が現実の否定性を考えていくと、この結論にいたります。
 道に通じよ。道理を得よ。
 考えながら現実に触れていく。これは、現実の否定性(思い通りにならなさ)を保持せんとしながら、現実を思い通りに変える可能性を模索することです。すなわち、暴力を用いないで、可能性を狭めないで、目的を実現するための手段を身につけていくことです。そのためには、現実がこちらを否定してくる余地を残す工夫や努力を、こちら側からする必要があるでしょう。現実がこちらを否定してくる余地がなければ、俺たちは容易に、自分に都合のいいように考えて、結果、自分の欲望を狭めてしまいます。
 それではつまらない。つまらないことはやめよう。単純な話です。

 この俺の結論が、ハイデガーのこの講演においてはどのパートに該当するのか。そのパートがあるとしたら、その前後のパートはどうなっているのか。もしもその前後のパートが見つかり、それらのパートの連関が分かったならば、この講演録は俺の人生に役立つでしょう。

20日前 No.429

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>420,428 の続き(補足 >>429

※翻訳パート開始


 学科は互いに離れ離れになっています。対象の取扱い方はそれぞれ根本的に異なっています。分断された専門分野は、今日ではもはや、大学や学部を技術的に組織することによってのみ纏まりをもちます。諸分野に実用的目的を設定することによってのみひとつの意義を保ちます。それに対して、諸学問がその本質的土壌に根ざす根は死滅している。


※翻訳パート終了



 情熱的に学問をするならば、諸学問が根底から何らかの本質的統一を持たなければならないと思わなければならないかのように聞こえてくる箇所です。

 ハイデガーは、学科がそれぞれ分断されている状態は、悪い状態だとみなしているようです。それはzerfallenという形容詞から察せられます。
 こうした「多様性」は、人為的に組織化・目的設定されることで、後づけの統一性を得ています。
 「それに対して」後づけでなく、根本からの天然の一体感はなくなっています。

17日前 No.430

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>420,428,430 の続き(補足 >>429

翻訳を続けます。



とはいえ、どんな学問でも、それが自身の本来の目的に従うならば、存在者それ自体に関わっています。学問的に見れば、或る専門分野が他の専門分野よりも優れているといったことはありません。自然〔という対象分野〕は歴史〔という対象分野〕より優れているわけではありませんし、逆もまた然りです。どちらかの対象の取扱い方のほうが優れているといったことはありません。数学的認識が文献学的・歴史学的認識よりも厳密なのだといったことはありません。数学的認識は「精確さ」という性格を有しているに過ぎず、これだけが「厳密さ」なのではありません。歴史学に精確さを求めるなど、精神科学的な厳密さの理念に違反しろと言うようなものです。全ての学問は、それが学問である限りにおいて、世界との関わりに支配されています。この関わりが、学問が存在者それ自体を探求することを可能にしています。そうして学問は、存在者それ自体を、そのつどその内実やあり方に応じて、研究の――すなわち基礎づけながら規定してゆく仕事の――対象となすことができるのです。学問では――理念どおりなら――全ての物の本質的なところへの接近がなされている〔はずです〕。





コメント:

「歴史」という言葉について…
 ハイデガーの著作を読んでいると「自然」と「歴史」とがよく対比されます。これらは扱われる対象の領野の名称です。
 ウィンデルバント(1848-1915)という新カント派の哲学者は、経験科学を分類しました。《反復できる一般的な法則をたてる自然科学》と《反復できない一回的・個性的なものを記述する歴史科学》とです。
 ハイデガー(1889-1976)がここで言っている「歴史」は、現代日本の私たちがイメージする「歴史」「歴史学」の対象よりも広いか

あいだに挿入されている、自然と歴史、精確さ(die Exaktheit)と厳密さ(die Strenge)の話について。
 これは、主には、精神科学・人文科学の弁護となっています。歴史学に数学的厳密さ(ここで謂う精確さ)を求めてもダメだ。したがって「数学が誇るような精確さが無いから歴史学なんて信用ならない」なんて批判は当たっていないんだと、遠回しに言っています。大雑把に言えば、自然学には自然学のやり方があり、歴史学には歴史学のやり方がある、ということです。

 その上で、どちらの学問も、存在するものに関わっていると、言います。
 ただ、――俺は強めに「学問である限りにおける学問」と意訳していますが――「alle Wissenschaften als solche」と言われたり、「der Idee nach」とも言われています。すなわち、「他ならぬ学問としての全ての学問」とか「学問という理念に従うならば」とか言われています。つまりは、真正な・真剣な学問であれば、と言っているのであって、不真面目な「学問」はその限りではないと、当てこすっているんだとおもいます。
 裏を返せば、根底に「世界との関わり」がない学問は、学問とは呼べない、ってことだおもいます。

 ここでいきなり「世界」って言葉が出て来て、あと「接近」って言葉が出て来ますが、これは『存在と時間』の「世界内存在」を思い出すタイミングを告げています。

 前提として:存在者は、存在者として対象であるのではない、というのがハイデガーの考えです。ここの否定辞は強いでしょう。ハイデガーは「存在者 das Seiende」とだけ言わず「存在者それ自体 das Seiende selbst」と言っています。存在者=対象としかみない見方を、ハイデガーは所々で批判しています。
 存在者は、存在者として、存在する。そしてここでの二番目の「存在者」は、対象とイコールではない。

 最後の一文ですが:俺は、現実に触れている、というのが内実だと思います。それが「ein In-die-Naehe-kommen zum Wesentlichen aller Dinge」と表現されている。これは「世界との関わり」の言い換えでもあるでしょう。すなわち「世界内存在」のことです。

11日前 No.431

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

補足です。

形而上学(die Metaphysik)について:

 ハイデガーは「形而上学」を「存在歴史的思索」と対比させています。
 形而上学は、存在者の存在者性を問題にします。これは「Leitfrage」と呼ばれます。存在するものを、存在するものとして考えて、存在するものの全体を問います。例えば、存在は原子だとか、存在は精神だとか、存在は観念だとか、存在は世界霊だとか、存在は同一のものの永劫回帰であるだとか、…ありとあらゆるものの本質は何か?水か?火か?空気か?
 一方で、存在歴史的思索は、存在それ自体を問います。これは「Grundfrage」と呼ばれます。
 形而上学は、存在するものをそれで全て説明できるというような、説明原理は何なのかと、探求します。存在するものを全て原子とすれば色々な事の説明がつく。存在するものが観念だとすれば、色々な事の説明がつく。
 しかし、存在それ自体を問うということは、説明できない全体にぶつかることです。

 形而上学が、「全体を説明できるんだ!」という喜びだとすると、思索とは、「説明は万能ではないのか!」という驚きです。

>なぜ、そもそも、存在するものが存在するのであって、むしろ、無ではないのか?

 これは、この講演の最後の一文です。
 この最後の一文が冒頭に来る講義録が『形而上学入門』です。
 この問いは、「基礎づけながら規定してゆく仕事」( >>431 )では答えることのできない問いです。結果から原因へ、ものが存在する原因を遡っていっても、なぜそうした全体がそうした全体として存在するのかは分からない。なぜそうなのか分かることは永遠に無いが、それでも世界は存在している。説明不可能なものが有る。
 こうして、存在するもの(原因によって説明可能なもの)とは別な、存在者の存在が仄めかされます。

>全ての学問は、それが学問である限りにおいて、世界との関わりに支配されています。この関わりが、学問が存在者それ自体を探求することを可能にしています。そうして学問は、存在者それ自体を、そのつどその内実やあり方に応じて、研究の――すなわち基礎づけながら規定してゆく仕事の――対象となすことができるのです。( >>431


 学問は、自然や歴史を対象としなければ、学問ではないでしょう。学問が学問であるためには、対象化が必要です。この対象化を可能にしているのが、「世界との関わり」です。この「世界との関わり」は、「現存在」の「存在の仕方・存在の構造」です。

10日前 No.432

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

一般に自由は自らにおける可能な自己充足の止揚(弁証法)が時間的現存在における最終の満足です・・

発生しかつ消え行くに過ぎない認識の有限性や現存在・・

しかし実存は無限な本質に従い有限性は掴めない・・時間を止揚し超越者の導きを・・

5日前 No.433

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

http://mb2.jp/_tetsugaku/1151.html-2#aの続きです。
少し思い直して、こちらのスレに投稿することにします。

――想定読者は、『純粋理性批判』をこれから読解してゆきたい人、です。

>それだからすべての理性的な(ア・プリオリな)学のうちで、数学だけが学習せられ得る。これに反して哲学は、(それが歴史的認識でない限り)決して学習せられ得るものでない。哲学においては、理性に関する事柄をせいぜい哲学的に思索する(philosophielen)ことが学ばれ得るだけである。

(カント著『純粋理性批判(下)』篠田英雄訳、岩波文庫p. 127)

この文章の意味を明瞭にするための作業を行います。
?この明瞭化作業の目的は?
――哲学的に思索すること(Philosophieren)の内実を自他に仄めかすことが目的です。
?その注意喚起の目的は?
――ひとつの予感を確認するためです。哲学というのは、学習される教科でなく、むしろ態度なのではないかという予感です。
?その予感が合っていると確認できて、何になるのですか?
――少なくとも、批判の準備ができます。

?さて、まず、数学ならば学習できる、ということはどういうことか?

?その前に、カントが「学習し得る」という言葉で何を意味しているのか?
――客観的な意味での理性認識が、主観的な意味でも理性認識であるとき、その人はそれを学習したといえる。(同上p. 126参照)

※カントはヴォルフ哲学を学んだ者を例に出します。

>例えばヴォルフ哲学の体系を学んだ人は、その一切の法則、説明、証明および全体の区分をそらんじ、これらのものを一から十まで数え上げることができたとしても、それは所詮ヴォルフ哲学に関する歴史的知識にすぎない。要するにその人は、はたから与えられただけのことを知り、またそれだけを判断するにとどまるから、もし彼に対して一つの定義を否定すれば、彼は別の定義をどこに求めてよいのやら途方に暮れざるを得ないのである。(同上p. 126、なお最初に出る「学んだ」に傍点あり。)


カントはこれを、客観的な意味では理性認識だと、言っています。しかし、主観的な意味ではそうではない。

?どうすれば、主観的にも理性認識だと言えるのか?
――その認識が、「理性に存する普遍的源泉即ち原理から汲みとられた」とき。
カントは、批判も否定も、この原理からのみ生ずるといいます。

かなり卑俗な言い方をすれば、つっこまれて対応できないようでは身に付いていない、ってことでしょうね。もっと言うと、つっこみをするためには、なにかしらの原理に触れている必要がある、でしょう。「平和っていうのは、暴力が無い状態のはずなのに、その平和が暴力的武器によって保たれているっていう現状は、はたして平和と言えるのか?」というつっこみは、平和の理念に基づいています。

理念。

カントは、哲学は理念だといいます。

>しかしこのような意味での哲学は、可能的な学という単なる理念にすぎないのであって、具体的には決して存在するものではない。(同上p. 128)


それに対して、数学は具体的です。

>…哲学的考察は一般的概念だけに頼るが、数学的考察は単なる概念だけによるのでは何も得るところがないので、すぐさま直観に援助を求め、概念を直観によって具体的に考察する…(同上p. 18)


図を書いたり、数式を書いたり。

図示したり計算したりすると、間違いは、目に見えます。直観的に、具体的に、間違いはすぐにあぶり出されて、図によって計算式によってそれは否定されてきます。もちろん、間違えて書いた数式が自動的に消滅するという意味ではありません。
?じゃあ、どういうことなのか?
――理性で分かる。

>これに反して哲学は、かかる利点をもつわけにいかない、普遍は常に抽象的に(概念によって)考察されねばならないからである。ところが数学は普遍を具体的に(個々の直観において)、しかもア・プリオリな純粋表象によって考察し得る、そしてかかる場合には、およそ誤謬は直ちに露呈されるのである。(同上p. 35)


でも哲学は出来ない。

哲学的認識は、いわば、原理から汲みとられて直観化されることがない。

けど、原理に対する姿勢は学ぶことができるんじゃないですか?

>我々は、感性という雑草に蔽われている唯一の真正な小径が発見され、これまでも何度となく試みてはその度毎に失敗した模型を、人間に許され得る限り原型に等しくすることに成功するまでは、さまざまな道を経てかかる哲学に近づこうとひたすら努めるのである。(同上p. 128)


言ってしまえば、永遠に終わらない検討作業が続く。

この検討と努力姿勢は学ぶことができるが、
哲学自体は得られません。
(これを批判したのがヘーゲルだというのが、教科書的な説明だと思います。)

4日前 No.434

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

てじさん

カントさんは理性の限界を示しただけで・・その限界を理性の補完を持って超越する方法を示していないのではありませんか?

3日前 No.435

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

宿題さん、こんにちは !

先日、電子辞書をいただいて、さわってたら、

ブリタニカ国際大百科事典が入ってて、
『純粋理性批判』の項目に、
『(略)
かくて霊魂、世界、神の存在論的証明は不可能とされた。
したがって理論理性による形而上学的認識は不可能となり、実践理性の補完を待つこととなる。』
とありました。

実践理性批判、まだ読んだことないけど、補完されるようなこと、何か書かれてあるんですかね(ワクワク)

カントさん、神様を信じちゃだめ、とは多分言ってないかんじがしてます(ワクワク)

信じて行動するのは、、、否定してないんじゃないかなー
どうかなー

、、、いつか、実践理性批判を読めたらいいな(予定、は、未定 □rz)

3日前 No.436

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

pipitさん

こんにちは・・

カントさんと言うことは・・哲学系は初心者さんですか?

3日前 No.437

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>437

宿題さん、こんにちは(^o^)

はい、哲学系は約3年前から興味持ち始めた初心者です。(2年前と思ってたら3年くらい経つようです)

はじめて買った西洋哲学系の本は、
『NHK100分de名著』の『カント 永遠平和のために』と『ルソー エミール』です。
本未満の雑誌ですね(^^;;

難しすぎてわからないことだらけなのですが、
カントの考え方が大好き、な、印象があって、

でも、ちゃんとカントの考えたこと、知りたいな、と、カント関連の本を読んだりしています。

いろいろ失礼なことを発言していたらすみませんm(_ _)m

3日前 No.438

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>437

仏教には前から興味あって、

仏教哲学系は10年くらい前から好きでしたけど、

大乗仏教の難しい哲学論理は全然不勉強です。
初期の仏教が好きで、悟り開けるものなら悟りたいと思いますが、可能なら、ってかんじで、思い詰めてるわけではないです。

3日前 No.439

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

カント色の色眼鏡で世界を見たいんじゃない。

自分に内在する(それは外在と同義なこともありえるかもだけど、今のわたしにはわからない)
原理から、
わたし自身がきちんと汲み取って、


さまざまな成り立ちを 知りたい 。な。

無理かな。

3日前 No.440

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

pipitさん

カントさんは最後は認知症になったのです・・

形而上学を避けて通ったからです・・

3日前 No.441

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>441

宿題さん、
個人的嗜好の問題なのですが、
私にはパーフェクトに思えるのです。

生じたものは滅する。

あのカントの抜群の知識さえ、最後は壊れる。

私には(あくまで個人的ですが)パーフェクトな先生として、映ってしまうのです。

ですが、この幾分過剰的な感情は、
きっと、私のカント理解を歪めているのでしょう。

わたしはおろかものでそこつものです。

3日前 No.442

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

wikiより、カントの最期についての記述を引用します。

『(略)
カントは晩年、身体衰弱に加えて思考力の衰えを感じつつも、自然科学の形而上学的原理から物理学への移行という課題に取り組みつづけた。この課題は完成されなかったが、一連の草稿は『オプス・ポストゥムム』として知られている。今で言う老年性認知症が進行する中、1804年2月12日にカントは逝去した。最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに発したという「これでよい(Es ist gut)」であったと伝えられている。2月28日、大学墓地に埋葬される。カントは簡素な葬儀を望んだが、葬儀は二週間以上にわたって続き、多くの参列者が死を悼んだ。』

3日前 No.443

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

pipitさん

pipitさんは最期に認知症になられたカントさんがパーフェクトなのですか?

最期の言葉・・

これでよい(Es ist gut)」であったと伝えられている。

英語で表現すれば「It is good」。これは最後にぶどう酒をスプーンで飲ませてもらって言った言葉。「美味い」

二通りの解釈・・

未だに一流の哲学者でカント哲学は解釈が分かれていて統一できていないそうです・・

2日前 No.444

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>444

宿題さん、こんばんは(^ ^)

先生として、パーフェクトに勝手に感じてるみたいです。

見解に対する執着、ってすごいものありません?

でも、その見解も壊れてしまうかもしれない。

見解が道具で、心が変わるとしたら ?
見解そのものへの納得と行為化で、優しい心をつくることも、
見解に対する『執着』で、鬼の心をつくることもあり得る。

私は未熟者で、自己の見解への『執着』はまだまだ激しいですが、それでも、見解が(自己内で)壊れる姿をカントは見せてくれている。

私もまったく同じように、(他人から見て)老いて死ぬのだ、と、カントを見て、現実を教わる気持ちになります。


また、『呆けたカントに「理性」はあるか』(大井玄・著・新潮新書)という本にのってたのですけど、

『認知症では、易怒性つまり怒りっぽくなり介護者を困られるのが普通にみられますが、カントにはそれがありません。』p180
『認知症高齢者によくみられる被害妄想などの周辺症状がまったくない。』p181
『カントが終末期に示した礼儀正しさは、彼の義務論的倫理観から発するものかもしれません。しかしその心遣いに現れた人格的暖かさには、まぎれもなく他者に対する「社会的情動」が働いていました。』p181
という姿も、

自己の哲学に誠実であろうとするカントの意志が深く心に届いてた姿を見せてくれてる気がして(勘違いきもしれませんけどね)
いろいろな知識を学ぶことで、私の心も、少しでもいい方向へ進めたらいいな、と、思わせてくれます。

いろいろ書いたけど、全部私の思い込みの可能性だってありますよね。
勘違いしてたらすみません。

ところで、宿題さんは、超越する存在がいると思われてるのですか?
どんなふうに世界をとらえられているのかお聞きしてもいいですか?

2日前 No.445

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>445

あ、
『呆けたカントに「理性」はあるか』の著者であり医者である大井玄先生は、
カントが終末期まで穏やかでいられたのは
『おそらく、周りの人たちが偉大な哲学者に示す絶大な敬意と、優しい介護により、その誇りが傷つけられることがなかったのでしょう』同本p181
と見てられますけどね。

わたしは勝手に、
カントの哲学が、カント自身の心の穏やかさに寄与してたら素敵やな、と、思ってる感じです。

2日前 No.446

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

pipitさん

カントはルソーに関し、『美と崇高の感情に関する観察』への『覚書』にて

「わたしの誤りをルソーが正してくれた。目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」と述べている・・

カントさんはカントさんを導いてくれる友人に恵まれていたようです・・

2日前 No.447

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

宿題さん

哲学初心者の私は『哲学用語図鑑』プレジデント社のヤスパースさんの『限界状況』のページを読んでみました。

【 君が君でないと 僕は僕自身になりえない by ヤスパース 】

とありました。

すごく心のやさしい方だったのかな、という印象を受けました。

またよかったら、ヤスパースさんや宿題さんのこと、教えてくださいね

ありがとうございます
おやすみなさい ☆彡

2日前 No.448

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

pipitさん

ヤスパースさんは人格者です・・ナチスに殺される所をアメリカ軍に助けられたのです・・

1日前 No.449

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>449

宿題さん、了解です (^ ^)

スレッドのテーマにそわない書き込みを、私がたくさんしてしまって、すみませんでした。m(_ _)m

今回の流れの返信はここで終わりにしますね。

宿題さん、ありがとうございます 、また 、どこかで !(^O^)/

1日前 No.450

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

pipitさん

守備範囲が広い ・ 何でもござれの ・ ストライクゾーンが広い ・ ストライクゾーンの広い ・・哲学を目指します・・

僭越ながら・・哲学板で又お話ができたらいいですね・・

1日前 No.451
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