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ドクショカイ(仮)

 ( 哲学掲示板 )
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死体の蠅 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

まず読む本を決めて、その本をみんなで一緒に読み進めながら、その本への理解を深めるスレです。

読む本は、各自が勝手に決めてください。

◯ルール
テーマとして定めた本を読んだうえで、文章を投稿すること。
これが最低限のルールです。

ただし、
むかし読んだ記憶だけで投稿するのは、遠慮してください。
また、その本をすべて読み切っていなければならない、というわけではありません。
むしろ、はじめて読む本でも、それをこれから読んでいくならば、全然OKです。

また、スレ内で同時並行的に、複数の本がテーマとなっていても、問題はありません。
Aのドクショカイには参加して、Bには参加しないというのもありです。
AもBもどちらにも顔を出す、というのもありです。
>>0 といったメンションを活用すれば、自分の参加しているドクショカイの投稿文を見つけやすいでしょう。)

◯使用方法
テーマとして定めた本の名前を、メモのところに書いてください。
それだけでなく、メモは、誰が使ってもいいので、大いに活用してください。

◯使用例

@ハード
例えば、まず一週間でどれだけ読むか範囲を定めておく。(期間と読む箇所を定める。)
発表者が、その範囲の文章を要約し、その箇所における議題や問題、不明点を述べる。
次の一週間では、その担当者の述べた要約や不明点について検討してみる。
さらにその次の週は、別な担当者が、要約やその箇所で問題となっていること、読んだときの不明点をまとめてくる。

Aフリー
期限も読む箇所も定めず、とりあえず読む本だけを決めて、それぞれ気になった箇所について文章を発表する。

Bバトル
特定の期間に、それぞれが本の同一の箇所を読み、その同じ箇所についてそれぞれの参加者がそれぞれ解釈を発表する。
そして、それぞれの解釈の相違を検討する。
どの解釈が正しいか、面白いか、生産的か。あるいは、どうしてこれほど解釈に違いが出るのかなどを考えてみる。

※使用例はあくまでも例であり、こういう形にしなければならないというわけではありません。

1年前 No.0
メモ2017/07/19 19:12 : てじ @flyonbody★ZkiDndseok_Ew9

【いま読んでいる本】


・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」(河出文庫)『自由な死について』

・ハイデッガー『人間的自由の本質について』(創文社 ハイデッガー全集第31巻)

・ハイデガー『同一性と差異』(Klett-Cotta)「同一律」

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百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

ニュアンスと言うものは・・経験だと思いますが・・

ドイツ語の授業で先生が子供はコカ・コーラを飲んだ時このコカ・コーラが男性名詞か女性名詞か勘で解りますかと質問があったそうです。

存在と実在の違いは私は嫌と言うほどわかります。実存主義を学ぶまではそれほど実感しませんでした。

ある経験をして実感する言葉のニュアンスと言うものは・・ある言葉の使い方の経験があって実感するものではありませんか?

例えば・・存在と実在の違いは実存主義を経験しなければそれほど実感しません。

4ヶ月前 No.244

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

言葉には裏と表があります。

おめでとう・・表(素晴らしい) 裏(可哀想)

朝型人間と夜型人間は感じ方体温視覚すべて違います。

神性は自然ではなく意識である。実体でなく人格であるように・・自由は実存であるが人間は自由ではない。

昼と夜の二律背反。朝方の人は夜仕事をしてはいけないのです。

4ヶ月前 No.245

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243

§3(25ページ)

ハイデガーは何を「keineswegs」と強く否定したのだったか?――自由の実践的概念が消極的概念であるということを否定しました。

こう強く否定した上で、以下のように譲歩がなされます:たしかにカントは自由を「感性的強制からの独立」と定義しています。ただしこれは人間の理論的能力がテーマになっている『純粋理性批判』のなかで追究されている定義です。この譲歩は、自由が非依存性だと定義されることは認めるにしても、自由は非依存性に尽きるものではない、ということを言っています。更に言うと、自由が非依存性だという定義は「実践」がテーマになっていない所での定義であって、「実践」がテーマになっているところでの実践的自由の定義ではありません。

そこで、自由を独立と定義してしまう前に、人間の理論的能力ではなく実践的能力がテーマになっている『実践理性批判』における自由の定義を見ておかなければならないでしょう。仮に自由を「感性からの独立」と定義するにしても、その前に、実践的自由が実践的に取扱われている本書を見ておく必要があります。

そこからハイデガーは、この道徳がカントにとって形而上学的問題になるのは『道徳の形而上学の基礎づけ』においてであると、主張します。

カントはこの本の中で:

・『意志』は理性的生物の原因性である。
・『自由』がこの原因性の特性である。
・この特性は、理性なき存在者の原因性の特性が『自然必然性』であるのと同じである。
・どういう点において同じかというと、その原因性が、それ自身を限定する他の原因から独立して作用するからである。

といったことを述べている。

ここでも自由は「独立=非依存性」と言われています。

しかしカントはこの後で明白に「こういった自由についての説明は消極的なので、自由の本質を考えるときには使えない」とはっきり言っています。

そして、「この説明から積極的概念が出て来る」と言っています。

すなわち、自由の宇宙論的概念は、自由の本質を考えるにあたっては、消極的概念にとどまるということです。だとすれば自由の実践的概念が、自由の本質を考えるにあたって重要だということになります。

4ヶ月前 No.246

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243

§3(25ページ)

そしてカントは:

意志の自由は、自律である。

と言います。

自律(Autonomie)とは、意志の特性であり、自分自身に対して法則である…という特性です。

「自分自身に対して法則である」は「sich selbst ein Gesetz zu sein」の訳です。

自由の積極的概念とは何かと言うと、自己立法(Selbstgesetzgebung)だということになります。



この「立法」というのは、『道徳の形而上学の基礎づけ』の核となる概念です。

4ヶ月前 No.247

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

coffee break

サルトルさんにとって・・人間の存在と人間が自由であることに差異が無い。

人間存在は自己自身のうちに無をたずさえている存在として、世界を無化することによって世界から距離を取り自己を無化することによって

自己自身から脱出する脱目的存在・・

自由は状況によってのみ存在し、状況は自由によってのみ存在する?

4ヶ月前 No.248

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

獲得した自由と、逃避して得た自由

自由の裏表・・

4ヶ月前 No.249

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>247

補足

>>238 の中で、自由は「……によって自己自身を限定せしめること」だと言われていました。

こうした自由概念は、例えば『真理の本質について』における自由論にもみられます。

その自由は、この講義録の中では、「言葉と物との一致」という伝統的な真理概念を可能にする根拠として導入されています。

言葉と物との一致が起こるのは、発言する者がその物を前にして、そのように前にされたものについて語ることによってです。

この「前にする」ということ自体が掘り下げられることになります。

或る物を前にして、その物がどのように有るかを見て、それが有る通りに語ろうとすることが、それを前にして発言すること(die vorstellende Aussage)です。このとき「前にする」とは何かというと、物が「自分に対して有るようにさせること」(das Entgegenstehenlassen)です。このようにして物は、発言する際の対象(Gegenstand)となります。そしてこのとき、対象は「向かい」(Entgegen)という方向を持ちます。物について語るとき、物は対象としてそのような方向をつうじて前にされる。「前にする」ということは、そのような、対象との関係を可能にする開けた方向を前提にしている。

言葉が物と一致するように語るということは、正しく語るということです。正しいはドイツ語で「richtig」ですが、ハイデガーはこの言葉を「sich richten」と関連づけます。「sich nach …… richten」で、「…に合わせて自分自身を調整する」という意味になります。この自己調整を可能にする「……に合わせて」が可能になるためには、対象との関係を可能にする開けた方向が必要になる。そこで、正しいという意味での真理は、開けた領域への関わりを自らの根拠にしているということになります。

この時点で、「……によって自己自身を限定せしめること」という事態がみられます。

例えば「開けに立つ態度がそれ自身で〔前にしつつ一致させるための正しさの〕基準が指図して来るようにさせなければならない。」と言われます。
(Das offenstaendige Verhalten selbst muss dieses Mass sich anweisen lassen. )
「こうしたことは:正しさの基準という条件を、『前にすること』のために、引き受けなければならない…ということを意味します。」

「自己自身を限定せしめる」ということはここでは「指示してくるようにさせること」であり「そういうものが指示してくることを容認すること」を意味します。

このように、物に合わせて(物が指示してくる通りに)正しく語るためには、自分自身が自分自身を、その物からの指図を受けとれる状態にしておかなければなりません。

「〔何かについて語る際に自分自身が〕条件を与えるということは、すでに、或る開けたところへと自分を自由にしておいているということであり、すなわち、そのつどの前にすることを拘束してくる、この開けたところから支配してくる開けの中にある物に対して自分自身を自由にしておいているということであるということ…」
(…dass dieses Vorgeben schon freigegeben hat in ein Offenes fuer ein aus diesem waltendes Offenbares, das jegliches Vorstellen bindet)

ここでの自由は明らかに「開け」と関係しています。

この「開け」は『存在と時間』の中の「開示態」(Erschlossenheit)にかかわってくるし、これ自身また「覚悟性」(Entschlossenheit)にかかわってきます。

カントの「自己立法」は、自分自身も他人もその法則に従うべきであるような客観的実践法則を自他に課すことです。自己立法は、「俺様がルールだ」というような主体性の暴走ではなくて、その法則の下に服することを自分自身で自分自身に定めるということです。すなわち自律なわけです。

この自律の恐ろしいところは、実はあらゆる行為においてこの自己立法が働いているということです。…すなわち、究極的には誰かの所為に出来なくなってくるのです。誰かの所為に出来ないということは、誰かの意志によって動かされているのではないという意味で、自由です。この自由は同時に、究極的な行動の根拠は自分自身にあるということをも意味します。もちろんこれは、自分勝手に好き勝手なルールを設定できるという意味ではありません。さしあたりは、自分が知らないうちに従っている道徳法則であっても、実は自分で自分自身に立てた法則であったのだ…という気付きのみがあります。すなわち、これから法則を立てるという話ではなく、すでに有るとみなされていた法則の効力が実は自分自身の意志に由来するものであった…という気付きのみがあります。

「覚悟性」という意味での「意志の自由」は、この自己立法の「責任」を正面から引き受けることを意味します。

もはや誰のせいにも何のせいにも出来ないところ。しかしだからといって自分勝手になっていいのだということでもないようなところ(すなわち、この好き勝手にやってはならないという法則もまた自分で自分に事実として課している法則であるのだから、「ぜんぶ自己責任なんだから何してもいいんじゃん」という発言をするということは、自己立法やこの種の意味での自由が何であるか全く分かっていない証拠です。理屈が先なのではなく、「事実」が先。)

4ヶ月前 No.250

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

カントさんをヤスパースさんが述べています・・

我々の認識するもの、因果律的に認識するものは、われわれの現象世界における対象であって、その世界で我々は自由として現れることはない。

とカントさんが言っているらしい・・

4ヶ月前 No.251

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250

§3(26ページ)

ハイデガーはここで自由の概念を図示しています。

超越論的自由は、実践的自由と超越論的自由に分かれ、実践的自由はそれ自身の内で消極的と積極的とに分かれます。消極的実践的自由は感性(傾向性)からの独立を意味し、積極的実践的自由は自己立法を意味します。

では >>242 で言われた絶対的自発性の意味での自由(超越論的自由)はどうなるのでしょうか。

自律(立法)は意志が自分自身に法則を与えることですが、絶対的自発性というのは、或る状態を自ら始めることです。そして自律というのは、実践という狭い領野において「或る状態を自ら始めること」です。そうだとすれば、自由が絶対的自発性であるからこそ、自律が人間の行為(実践)という分野において自由の名を得るのだということになりそうです。

これが本書におけるひとつの道となります。

ここから得られる展望は、宇宙論的パースペクティヴと呼ばれるもので、原因性(Kausalitaet)としての自由を探求する道です。

ちなみに、ハイデガーは原因性から自由を捉えるカントの方向ではなく、自由の方から原因性を捉える方向の可能性を示唆します。§14のタイトルは「問のパースペクティヴの転換…」という言葉で始っています。

4ヶ月前 No.252

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

月で自由に動いていたものは、地球で自由に動けない・・

自由と言うものは、そういうものだ・・

4ヶ月前 No.253

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

時間と空間に関係ない実存の自由は、私が「意志すると言うことを意志する」という意志の自覚が自由です。

4ヶ月前 No.254

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252

§4(27〜29ページ)

これまでの話をおさらいすると…ハイデガー教授は「哲学入門」と題して「人間的自由の問題」を取扱うつもりです。自由問題が、存在者全体に関わるものであると共に、私たち自身の根本に迫るものである、ということが示唆されました。

ハイデガーはここで自由問題の「攻撃的性格」という話を急にしだします。これの原語は「Angriffscharakter」ですが、この語は、この言葉のうちの「An-」という分離前つづりを共有している「Angehen」という言葉を思い出させます。これは「襲う」「関わる」という意味の動詞です。おそらく「攻撃的性格」というのは、自由問題が私たちの根本(足もと)に関わってくるという意味だと思われます。すなわち、他人事ではないということであり、少し違いますが「明日は我が身」と言うときに表現されている攻撃してくるものが言われているのだと思われます。ハイデガーは、自由は人間の自由であって、自由問題が自由の帰属先である人間に関わるのは当り前だ…という意見を不適切だとして切り捨てます。ハイデガーがよくやる手口ですが、「この意見は正しい。正しすぎるがゆえに不適切だ」という風にして切り捨てます。自由が人間のものであるから当然自由問題は人間に関わってくるという話ではなく、自由がそれ自体で「攻撃的性格」を持つということを、ハイデガーは言いたいようです。

今の時点で私がこうかなと思う解釈:彼の言わんとすることは、自由問題は他人事でない事実として存在する問題だ…ということでしょう。

以上のことから、自由問題が最終的に「自らの根本に迫る」ものであると分かる経緯が辿られる必要があると分かります。

そこでハイデガーは、積極的自由を考えることによって自由問題が広がってゆくかどうかという問題を立てます。そして重ねて、広がるとしたらどのような方向へと展開されるかという問題を立てます。そして、問題が拡大することでどのようにして「存在者全体に関わること」が「自らの根本に迫ること」でありうるのかが問われます。つまり、実践的自由(自律)が問題を深めるのに何か役割を果たすかどうか、役割を果たすとしたら、問題はどういう方向に転がってゆくか、そして問題がそういう方向に行ったら、このことが哲学入門にどのように関わってくるか…と問うのです。

そして実際、実践的自由(自律)を可能にするものとして超越論的自由(絶対的自発性)が措定されました。カントの区分における積極的自由としての自律(自己立法)は、意志が自ら自らを規定することですが、この「自己から」というのは絶対的自発性に基づいていると言われます。この「自分から始める」というのは、自己の後に諸々の出来事を後続させるということです。すなわち、自分が発端となって他のものを生じさせることです。つまり、これは「原因である」ということです。

自由問題は、「原因であること」へと繋がっています。すなわち原因性(Kausalitaet)の方向へと展開されるのです。

なぜ展開されうるのかというと、カントが自由を因果性(原因性)の方から考えているからだ…というのが全集31巻の解説で言われそうなことです。概説的な文章が言いそうなことは、しかしハイデガーは自由の方から原因性を解釈しようとする…といったことです。この概説的説明は、全集31巻の最も粗雑なあらすじだと言えるでしょう。

3ヶ月前 No.255

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

存在の仕方の多様性・・

世界内存在とか・・現存在・・こういう言葉があると言うことは・・それ以外の存在を示唆している・・

3ヶ月前 No.256

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

『存在と時間』§9

>この存在者の「本質」は、それが存在しなければならないということのうちにある。(岩波文庫 熊野純彦訳224頁)

>この存在者の「本質」は、それの関わり合う存在にある。(ちくま学芸文庫 108頁)

>この存在者の「本質」は、この存在者が存在しなければならないというあり方をすることのうちにひそんでいる。(中公クラシックス 105頁)

>Das 》Wesen《 dieses Seienden liegt in seinem Zu-sein. (Max Niemeyer S. 42)


この箇所にはハイデガー自身による書き込みが加えられている。

>dass es zu seyn 〉hat〈; Bestimmung!

>この存在者が存在「しなければならない」ということ、つまり使命…!(岩波訳)

>この存在者が存在し〈なければならない〉ということ、なのである。つまり、それがこの存在者の規定〔ないし使命〕なのだ!


ちなみにおそらく、細谷貞雄先生は翻訳の際この欄外書き込みを参照されていない。そのため彼は「Zu-sein」を「関わり合う存在」と訳されている。Walter Biemelの仏訳は「devoir-etre」になっていると触れた上で、誤訳であろうと述べている。熊野先生は上の書き込みに言及して「したがって、Zu-seinは、ここでは、「かかわる存在」等とは訳さない。」とおっしゃっている。J. Macquarrie仏訳やF. Vezin仏訳では「(avoir-)a-etre」などと訳されているらしい。つまりここでも「存在しなければならない」と訳されているのであって、「関わり合う存在」とは訳されていない。

細谷先生が「関わり合う存在」と意訳したのは、次の段落の第一文で「Das 》Wesen《 des Daseins liegt in seiner Existenz. 」と言われているからだと思われる。

中公クラシックス版の注ではこの「Zu-sein」を「現事実性」や「情態性」と関わらせている。

ところで、なぜハイデガーの書き込みの「hat」には括弧がついているのか?なぜ「sein」ではなく「seyn」なのか?おそらく「Zu-sein」は実は「Zu-sein-hat」であるということを強調しているのだろう。だからこそ「Bestimmung」すなわち「使命」ということが言われているのである。つまり、「存在しなければならない」というのは「存在することが現存在の使命である」ということなのだ。使命であるからには存在しなければならない…という解釈である。

それとも「haben」という動詞が強調されているのだろうか。「zu seyn haben」は「存在することを持つこと」として「Bestimmung」であるのだろうか。

ここでの「存在」というのは、「石や動物は存在してもしなくてもいいのだが、人間は存在しなければならない」という意味での「存在する」ではない。すなわち、分かり切ったものとしての「存在」ではない。ここでの「存在」というのは、驚くべきものとしての存在である。なぜ「sein」でなく「seyn」となっているのかというと、この「存在」が普通のありふれた「存在」のことではないからだろう…私の勘では。

もちろん、「zu sein haben」と言われているからには、「存在しなければならない」という文法に忠実な意味を軽視することはできない。そしてまた細谷先生の解釈におけるように、この「Zu-sein」が明らかに「実存」と連関しているということも見逃せない。しかし、この「実存」が「関わる存在」という意味しかないのかどうかは分からない。むしろ「Zu-sein」というのは文字通り「存在すること」だと思われる。ただしそれは「sein Zu-sein」であり、その存在者がその存在者であることそのこと自体のことだと思われる。例えば物体は、それが物体であるというところに物質の本質があるわけではない。物体の本質はそれが延長を持つところにある。物体は延長を持つからこそ物体である。一方で現存在は、それがそれ自身であるが故に、それがそれ自身であるということが、すなわち「本質」である。物体はその本質性格故に物体であるのだが、現存在は実存する故に本質する(wesen)。ハイデガーは後年この「Wesen」に括弧が付いているということに注意を促している。いわゆるverbalなWesen(Wesung)である。

したがって、この文章は、「Wesen」としての「Existenz」の特異性それ自体を話題にしている。すなわち「Wesen」の動詞性(verbalな性格)を話題にしており、「Wesen」が存在者に属する特性のようなものではないという否定をも含んでいる。

この文章は、驚くべき存在を話題にすることで、タウマゼインを示唆し、動詞としての本質を話題にすることで、「Existenz」という術語の特異性を際立たせている。

ここでの「存在しなければならない」というのは、もちろん、存在しないと世界がダメになるとか必然的に(他の条件がどうであれ)存在するという意味ではない。ここでの必然性というのは、むしろ存在の異常さ・存在に対する驚愕を示唆している。存在は何がどうあれ押しつけられてしまう強制的条件ではなく「使命」である。なぜ使命であるかというと、現存在にしか存在が与えられないからだ。この「…にしか」ということへの驚きが語られている。「sein Zu-sein」は現存在の天職である。現存在にしか出来ないから使命(Bestimmung)である。また、現存在にしか出来ないということは、逆に、そのことが現存在を現存在たらしめるということでもある。それが現存在にしかできないものであるからこそ、それが現存在の現存在性を規定する。だから「sein Zu-sein」は現存在の規定(Bestimmung)である。

以上の私の解釈は、存在者が存在するという不思議中の不思議がハイデガーの念頭にあるということを全面に押し出した上でのものである。
ここではthaumazein(Schreck)がひそかな話題となっている。

この箇所でも、存在が問題としては忘れられているという冒頭で語られた意識が貫いている。
存在が問題であり、驚くべきものであるという意識だからこそ、この文章はこうなっている。

3ヶ月前 No.257

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

Haben+zu不定詞

もしくは

Sein+zu不定詞

意味は「・・・ねばならない」「・・・されうる」「されねばならない」

これが英語のhave to 〜

ザイン【(ドイツ)Sein】 の意味
出典:デジタル大辞泉
実在。存在。⇔ゾレン。

存在とは所有haveへと連なる・・

3ヶ月前 No.258

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255

§4(29〜30ページ)

以下でハイデガーは、カントが絶対的自発性を特殊な際立った原因性と見なしていると述べています。

自然(Natur)の領域においては、或る原因が他のものの原因であるということもまた、他の原因によって規定されています。

しかし絶対的自発性とは、まったく自分から始めることです。

こういった因果性(原因性)は、「自然の経験」においてはお目にかかることがありません。

こういった原因性としての絶対的自発性は、私たちの経験の手が届かないところにある。

すなわち私たちの経験を超えている。

だから絶対的自発性は「超越論的自由」と呼ばれるのだ…とハイデガーは言います。



…ここでなされているのは、カントが紹介している「超越論的」の定義を引用してくることとは違うことです。むしろ、原因性の「経験」から実際に「超越論的」という言葉を規定しようとしています。たとえその規定が結果的にカントの言っていることに重なるにしても、ハイデガーはもう一度事象を経由して、「だから云々なんだ」と再説明しているのです。このように、読むにあたって一度事象を経由してみるというのは、読んだ内容を記憶するというのが目的だとしても、役立つことです。

自分が何をしたのかを覚えているというのは、自分が或ることに際したならば何をするはずであるかを、はっきり分かっていることに似ています。数字の羅列(円周率など)を暗唱するのとは違うような、事象をその事象としてしっかり出来事として捉えることによって記憶するという術があります。起こっていることに対して「何々が起こった」とそのイベントに名前をつけることによって、そのイベントは記憶されます。ここでの「記憶される」というのは、その起こった事を想起して、そこからその事に即して起こるはずのことを再構成できるということです。

「事象」というのは、いまの場合だと、自然的因果性とは異なるものとしての、自由的因果性のことです。

自由的因果性が理論のなかでのお話ではなく、事実なんだということは、カントかハイデガーを読めば分かってきます。そしてその事実として経験されたものからして、今度は著作のなかでの用語について、例えば「超越論的自由」という用語が説明されるのです。

分かりますか?高校生諸君。説明が下手ですみません。

3ヶ月前 No.259

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

自由は理念の中にあります。しょせん理念です。

自由だと言えば因果があるだろうとか責任が付くだろうとか・・とにかく自由は否定されます。

3ヶ月前 No.260

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

〈予告〉

主題を「身体性」として

◇メルロー=ポンティ『行動の構造』『知覚の現象学』他

◇ジェームズ・ギブソン『生態学的視覚論』

◇河本英夫『オートポイエーシスの拡張』他

読みます。

時期未定(数ヶ月後?)

投稿内容は要旨紹介(&愚痴)となる予定。

3ヶ月前 No.261

エコノミー @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

日本国憲法がどういう文章で始まるか知ってますか?

「朕は…」で始ります。

朕っていうのは、帝王の一人称です。

>朕は…よろこび、…裁可し、ここにこれを公布せしめる。


今の日本国憲法は帝王が「これでいいよ」と言って施行されたという建前になっている。帝王が自分の権限で、自分には主権が無いという憲法を公布させた。時間的には、憲法の効力は帝王の許可に存するかにみえる。あくまで時間的には。承認したあと帝王からは主権がなくなるのだけど、じゃあその承認って今でも意味あるのか?無いと思う。憲法の効力は、ひとえに国民にかかっている。

>朕は、日本国民の総意に基いて…


でもこの時点で「日本国民の総意」に何の権限があるの?
法的には無いと思う。
この「日本国民の総意」は、法を超えたレベルでのものだろう。

でもこの「日本国民の総意」って何なの?
本当に「日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つた」のか?

この「日本国民の総意」は第一条にも出て来る。

>天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


天皇が象徴であるってどういう意味?
文面から分かるのは、それがひとつの「地位」であるということだ。
「象徴」って「地位」なの?日本語おかしくないか?
2012年の自民党の日本国憲法改正草案では「天皇は日本国の元首であり」と明記されており、元首っていうのは地位なのだから、理解できる。

象徴って地位じゃないよなあ。

>この地位は、主権の存する国民の総意に基く。


すなわち、天皇が日本国の象徴であるということは、絶対的なことではなくて、「国民の総意」に基づくものだということ。ということは、国民の総意によって左右されるものだということだろう。

ところでやっぱり「国民の総意」って何なの?
「左翼の一部って天皇制を否定してるけど、この時点でもう国民の総意じゃないのでは?」と左翼の一部は云う。

しかし、国民の総意というものがそれ自体で存在すると考えること自体がナンセンスなのかもしれない。

むしろ「国民の総意に基く」という出来事が実際に存在していると考えた方がいいかもしれない。

天皇が天皇であるということは、それ自体で絶対的にそうであるのではなく、個々の国民の意志に基づいている。天皇はその存在自体で象徴であるのではなくて、天皇が象徴であるということは国民が決めたことであり、現に今もそう決めていることである…ということだ。天皇はそれ自体によって日本国の象徴という地位にあるのではなく、国民というそれ自身とは別なものによってそれ自身の在り方を保たれている。これは現実に近い話だ。

これは、憲法も守られなければ無力(無効)だという話に繋がってくる。
天皇と同じく憲法それ自体も国民の総意に基づいている。施行の時点で、国民の総意という法のレベルを超えたもの(約束事ではなく現実のもの)に基礎があるということが云われていた。憲法がそれ自体で(あたかも自然法のごとくに)国の行為を規制するわけではない。憲法を守るという人間の行為があってこそ、憲法はそれ自身の効力を発揮する見かけを得る。

3ヶ月前 No.262

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>261

インプットしたものをアウトプットし、アウトプットされたものの内容を検討するという形で『オートポイエーシスの拡張』という本を読み始めてみたいと思います。



その方法は「複雑な処理の単純化」です。

複数のもの(ここでは言葉)を単純化して、思考における単位を徐々に減らしてゆきます。

例えば10の文節の集まりから成る文章を読むとき、10の文節の相互の関係をひとつの関係として捉えようとしてみます。

そのようにして、10の文節を1つの文として扱えるように情報処理の仕方を変えてゆきます。

さて、そういった文が10集まって1つの段落を成しているとしましょう。

まず、それぞれの文に含まれる文節を文単位で処理できるようにして、情報の量を100から10へと単純化します。
そして、10の文を1つの段落へと単純化するのです。
そうすれば、その段落を読むときには、10の情報を同時に処理する情報処理ではなく、1の情報処理をするだけで済みます。

つまり、『単位を減らしてゆく』のです。

しかし、10の文節を1つの文に単純化するといっても、やはり語と語の間には分節がありますし、それぞれの文節はそれぞれ独立していますね?
これらの語をすべて1つのスペースに押し込んでグチャっとした黒丸を作ってもどうしようもありません。

じゃあどうやって単純化するか?

その10の構成単位が、1つの事についての10であるという風に、文の『意味』によって10の文節を単純化するのです。
比喩的に云うならば、1つの『意味の箱』に10の文節を一緒に入れるのです。
そうすれば、その1つの箱を運ぶだけで、同時に10のものを運ぶことができます。

文章の前後関係を把握するとか、文脈を読むとかいうのは、このような『情報圧縮』に関わっています。
前後関係や文脈というのは、複数の文節や文を相互に結びつけるための媒介となります。

インプットというのは、このような情報圧縮であり、複数の文を一緒に入れておくための箱を用意することです。

ところで、このインプットはアウトプットと同時に行われます。

アウトプットを説明するためには、箱の比喩は不適切になります。

アウトプットというのは、ここでは、圧縮された情報の再展開を意味します。

複数の文は、意味というものによってまとめられました。

この意味に集中して、この意味について語るという仕方で、意味という単純なものを今度は複雑化させていきます。

比喩的には、複数の感覚神経から得た複数の情報を脳へと集約させて1つにした後に、その情報処理の結果を、再び複数の運動神経へと分散させてゆくようなものです。


図示すると:

《 複雑 》→《 単純 》→《 複雑 》

となります。


10の文節を1の文へと単純化処理する場合には、例えば:

《 10文節 》→《 1文の意味 》→《 7文節 》

となったりするでしょう。

再複雑化としてのアウトプットで、文節が3つ減っているのに気づきます。

どういうことかというと、ひとつの同じ1つの意味を別な仕方で語り直した・・・ということです。

ところで、さきほどインプットとアウトプットは同時に行われると言いました。

10文節を読むということは、これ自体、単純化でありつつ複雑化でもあります。
すなわち、10文節を10の要素から成るものだと見なすこと自体が、一種の複雑化なのです。
そして、7文節へと要約するということは、再複雑化ですが、これもまたひとつの単純化であるのです。
同じ意味のことを別な風に言い換えるといっても、言い換えによって少し文の意味がズレるのです。

例えばソムリエが何語も使って表現するワインの味を「うまい」の一言で言い換えたとき、2つの表現の意味が同じだとは言えません。

つまりは、1つの意味が複数の表現素材と独立にどこかに存在しているわけではない・・・ということですね。
ワインの例で言うと、同一の美味さというものがワインにそれ自体で眠っているのではない・・・ということです。



以上を一言でまとめると・・・『本の内容を要約する』・・・となります。

この9字を単純化した後に、再複雑化すると、上のような『複数の情報の単純化』の説明になるのです。
「同じ1つの意味を別様に言い換えた」と言いましたが、実は全然「同じ」じゃないと分かるでしょう。



>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259 でも以上の『要約』を試みたのですが、失敗に終ったと思ってます。

正直今回もどうなるか分かりません。本当にやるのかどうかも分かりません。

2ヶ月前 No.263

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>263

例えば、デッサン。

練習していけば、向こうから歩いてくる人を書こうと思ったら、向こうから歩いてくる色々なパターンを描くことができるようになる。

しかし絵のセンスを獲得していない人からしたら、まず手や足や胴体や頭をバランスよく配置して書くこと自体が難しい。
というか、手においても、それぞれの指および手のひらとかに統一感を持たせることが難しい。
というか、指のそれぞれの関節を1つにまとめてそれを1本の指にすることからして難しい。

絵が下手であればあるほど、自由に描ける単位は小規模である。
今の場合、指の骨(せいぜい長四角の形)ぐらいが自由にできる単位である。

絵が上手い人は、『悲しんでる人』などという主題を出されてもスラスラ全身像を描ける。
これはすなわち、1人の人間というものを自由に描ける単位としているということであり、比較的大規模な単位をマスターしているということだ。
もっと上手くなると、『悲しみの情景』をスラスラ描けるだろう。



しかし、実際の学習を見てみると、小さな単位からはじめて行ってそれを連結させて大きな単位にしてゆくとは限らない。
むしろ、大雑把な全体像をより精緻に分節してゆくという仕方でなされる学習がほぼ全てだろう。
というかそうでなければ、新しい運動を獲得するということは不可能だろう。
自転車は何回も転んで覚える。転ぶということは不適切な(粗雑な・噛み合ない)運動をしているということだが、この大雑把な運動をしっくり来るまで続けることによって身体運動を精緻化・分節化するのです。



したがって私はまずインプットした後に『大雑把なアウトプット』をして、それを検討することで精緻化するという方法をとります。


図示すると:

《複雑な文章》→《単純な意味》→《大雑把な文章》→《精緻な文章》

とでもなるでしょうか。

2ヶ月前 No.264

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

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2ヶ月前 No.265

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

数学で習う黄金比率とは人間が美しいと感じる感覚の割合・・

どんなに美人でも短足胴長で髪の○が坊主では美人とは呼ばれない・・

美とはしょせん空間の割合だ・・

芸術で・・美を超えるには思想を持つ・・

2ヶ月前 No.266

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259

§4(30〜32ページ)

カントにとって自由問題は、

それを考えてゆくと因果性の問題にぶつかる・・・という様なものでした。

では、因果性の本質を考えてゆくと、今度はどのような問題圏に行きつくのでしょうか?

広義における運動という問題圏に到達します。

どうして因果性を考えてゆくと運動の観念に達するのか?

原因は結果を左右します。
左右するというのは、動かすということ。
左右するという意味での「動かす」ということの内に、「動き」があり、それが「運動」と呼ばれています。

ここでハイデガーが注目するのは、動きの多様性です。

分子が力学的に動くのと、事態がイベント的に動くのと、人間が色々な場面で動くのと・・・これらは三者三様でそれぞれに異なります。
腕で押して動かすこと、説得して他人の行動を左右すること、事態が急変すること・・・これらはみな「動き」ですが、ひとつの動きは別の動きとはまるで異なる動きです。

腕で押してものを動かすためには、そのものの粘度が影響してきます。粘度は物体の移動を左右する。例えば水のようにさらさらなものは、押しても移動しません。もちろん、水は押されてかき混ぜられます。しかし、積木を押すと積木が動くようには水は動きません。ものの粘り気や固さが運動を左右するとき、その左右する性質は、質料因です。質料因は、動かします。しかし、腕の運動が物体を動かすのとは全く別なしかたで『動かす』のです。

2ヶ月前 No.267

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259,267

§4(32ページ)

自由問題を考えれば、因果性の問題に行きつく。
因果性の問題を考えれば、運動の問題に行きつく。
では、運動とは何かと考えてみれば、どういった問題に行きつくか?

存在者の問題圏に行きつく・・・とハイデガーは言います。

なぜなら、運動・静止は、存在するものの特定の在り方だからです。

動きが多様なのは、動く存在者が、そのときそのときのそれ自身の存在によって異なる在り方をするからです。

ここにおいて、自由問題は次の問いに到達したことになります。



「あるものは何であるか?」
(ti to on;)



ハイデガーはこれを「哲学の主導的問い」と呼びます。

2ヶ月前 No.268

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

本来の自我は・・自己を対象と出来ない

意識する自我と対象になるモノの分離をどうやってしているのでしょう?

2ヶ月前 No.269

死体の蠅 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

これまで( >>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259,267,268 )のおさらい。

ハイデッガー全集第31巻『人間的自由の本質について』を§4まで読みました。

タイトルからして、テーマは「人間の自由」だと想像がつきます。なお、正式タイトルは『Vom Wesen der menschlichen Freiheit / Einleitung in die Philosophie(人間の自由の本質について/哲学への手引き)』となっています。

ハイデガーはまず、「人間の自由」という特殊なテーマと「哲学への手引き」という一般的な標題が並べられているというところから話を始めました( >>221,223,225,226,228,230,231,232,233 等)。話は、人間の自由を考えていけば自ずと存在者全体の話に通じてゆくということを示しつつ進められました。まず、自由の消極的概念を考えれば、その自由がどこからの自由であるかという観点からして、世界と神とを無視できない( >>230 )。すなわち、自由というのは「世界からの自由」「神からの自由」であり、被創造者全体(世界)と創造者(神)で存在者全体なのですから、自由を考えれば存在者一般という一般的なものも併せて考えられるのだというのです。

ところでこういう意味での自由は「自由の消極的概念」であって、これで自由の概念が尽きるのではありません。「消極的」という表現は「積極的」が今後出て来るだろうと予想させます。実際、 >>238 で「積極的自由」が形式的に示されることになります。消極的自由が「〜からの自由」であるのに対して、積極的自由は「〜への自由」だと言ってもいいでしょう。積極的自由の一例は、ハイデガーの表現でいうと「〜のために自らを開けておくこと」です。「〜のために自らを開けておくこと」は言い換えられて「〜によって自己自身を限定せしめること」となり、「〜へと向けて自己自身を規定すること」となります。これがカントの自由規定である自律へと繋がってくるのです。

ただしカントにおいても自由概念はいくつかあります。宇宙論的自由と実践的自由です( >>242 )。宇宙論的自由は、絶対的自発性とも呼ばれ、或る状態を自ら始めることです( >>252 )。この「自ら始める」というのは、自己の後に諸々の出来事を後続させるということです。すなわち、「原因で有る」ということです。宇宙論的自由を考えてゆくと、原因性(Kausalitaet)の問題圏に行きつきます。そして、宇宙論的な視点で自由を見てみると、実践的自由もこの宇宙論的な自発性に支えられているのだと見えてきます。実践的自由は自律(Autonomie)のことです。これは、実践(Praxis)という狭い領野において「或る状態を自ら始めること」です。自由が「絶対的自発性」であるからこそ、「自律」が人間の実践(行為)という分野において自由の名を得るのだということになりそうです( >>252 )。

さて、ここで主題となったのが因果性です。実践的自由は宇宙論的自由に支えられ、宇宙論的自由を考えるには因果性を考えねばならない。では因果性を考えるためには、どういった《領域》を考察しなければならないか。それは運動という領域です。或ることが機縁となって別な或ることが開始されるというのは、何らかの運動を起こすことです。この運動は、それが力学的なものであるか、或いは成り行きとか出来事に関わるものであるかによって、その意味を変えます。収縮や膨張等の運動を、歴史の進行等に適用することはできません。運動という領域においては、それが何の運動であるかによって、運動と運動が互いに存在的に異なるものになってきます。そして、このようにして「存在」が導入され、運動を考えるためには「存在者」を考えなければならないという風に、話は進みます( >>268 )。

2ヶ月前 No.270

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

対立のない自由は空虚である。

無知なものは自由ではない。未知の世界が対立するから。

意志の理性が現実性を獲得すると言う自由にさえ制限される対立と矛盾が出て来る。

ヘーゲルの絶対的自由は、宗教と哲学の内に実現される真理の中にのみ在る。

2ヶ月前 No.271

死体の蠅 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259,267,268,270

§5(32ページ)

>>235,237 で言われた「哲学とは私たちの根基に迫るものだ」という点が、再び取り上げられます。

人間的自由の本質を問うならば、自ずと、存在者とは何であるかという問いを問わねばならない。すなわち、自由問題は存在問題の中に組み込まれている。このような意味での自由の問題が哲学であるのだとしたら、それは私たちの根幹に迫ってゆくようなものであるはずだ。それはどういう経緯でそうなのでしょうか。

安直に考えられるのは、存在者全体には人間も含まれているので、私たち自身がそれである人間も問われることになり、そうして私たち自身が問いつめられることになる…という論理です。しかし単にそれだけの理由で私たち自身が問われるのだとしたら、なぜ殊更に人間がピックアップされるのかを説明しなければなりません。 >>221 でも言われましたが、人間は世界の色々な他の存在者と並ぶひとつの存在者に過ぎません。

また、そもそも「存在者とは何であるか」という問いは、「存在者としての存在者は何であるか」という問いです。

ハイデガーはこの箇所で、彼自身が多用する「als solches」という表現について説明しています。これはラテン語の「ut tale」や「qua tale」の翻訳であり、「その様なものである限りの」という意味です。「机としての机」は、「把握や意見や評価や操作やの対象ではなくて、机が机として、つまり机が机である限り、机が机であることに関して受取られるべきであることを意味する」(34頁)。すなわち、机が何であるか(机の本質)が問題になります。

「存在者としての存在者」というのは、人間としての存在者とか植物としての存在者を問題にするものではなく、存在するものである限りでの存在者を問題にするのです。したがって、「存在者全体には人間も含まれている…云々」と言って、自由問題が私たち自身の根幹に迫るものだと主張することは、できないのです。というのも、話題になっているのは、存在者は存在者として何であるかという問題の中に組み込まれている限りでの人間の自由の問題が、話題になっているのだからです。

このようにして、存在者とは何であるかという問いは特別に特定の存在者に関わるものではありえないということが分かってきます。すなわち、その問いは私たち自身がそれであるところの人間という特定の存在者に特に関わるものではないのです。

では、存在者とは何かを問う場合、この問いは私たちに全く関わって来ないということになるのでしょうか。

ハイデガーが >>255 の所で唐突に持ち出してきた「攻撃的性格」を、哲学の主導的問いである「存在者とは何か」は持たないのでしょうか。

もしそうだとすると、本当にハイデガーは唐突に勝手に「全体の内へ問うことが根基へ迫って行くことである」というテーゼ(>235,237)を主張したのだということになります。こういうところが、ハイデガーの「暴力的なところ」です。 http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-1241#ahttp://mb2.jp/_tetsugaku/971.html-212#aでも少し触れましたが、ハイデガーはこの暴力性を肯定しています。ハイデガーが「哲学には『攻撃的性格』がなければならない」という口ぶりでいるのもそれ故でしょう。

ハイデガーには脅迫的なところがあり、この押しつけるような性質が一部の読者からの反感を買っているのだろうと、高田珠樹先生は言っています:

>単純化して言うと、ハイデガーのやってみせる分析を一緒に行なう者、あるいはその賛同者だけが、本来的に実存する者だ、ということになりかねない。(高田珠樹『ハイデガー』pp. 124-125)


こういった脅迫的性格は、なにも本来性/非本来性の議論に限らないと私は思っています。ハイデガーの「賭け」に乗るか乗らないか、そういった賭けの性格がハイデガー読書にはあります。そしてハイデガー自身も賭けており…賭けることの必然性を自覚しているのだと、私は見ています。なぜ賭けなければならないか。そこには、人間は本質的に歴史的であるという洞察が関わってきます。

>生の真に根源的な様相は、歴史的に形成された各種の意味連関の堆積層の彼方にあり、けっしてその根源的な姿のままで自らを現わすことがない、その本来の様相を隠蔽するところにこそ、それが根源的たる所以である、といった洞察(同上、p. 133)


すなわち、哲学的発想・日常的常識にはその成立経緯があるのだが、この歴史は必然的に隠されるのであり、これを暴くためには、今示されているものを順々に追って行くのではダメであり、大胆に賭けなければならないのです。というのも、今示されているものというのは、どんなものであれ、隠されている歴史ではないからです。それを順番通りに追っていっても、隠された根源には到達しません。むしろ、その順番通りに追うということ自体を成立させている可能性の根拠こそが、求められているものなのです。

ハイデガーは全集31巻の35〜36ページで

>我々が西洋哲学の歴史を概観するとき、明らかになるのは、この問がその問うこと即ち哲学をばそれ自身において根基-へ-迫り行くこととして――即ち問うている人自身に関わることとして――捉える処まで決して且つどこにおいても突き進まなかったことである。


と批判的に述べています。

これはどういうことか。

「哲学は問うている人自身に関わるものでなくてはならない」という高レベルな目標を設定し、それを全哲学者に強いたうえで、これまでの哲学者は皆そのレベルには達しなかったと言っているのです。自分で標準を設定した上で、哲学が攻撃的性格とは無縁な「純粋観想」や「思弁的認識」であったという所を批判する。設定することで、それらは批判され得るものとして解釈し直されるようになるのです。これは正体を暴くというよりは、正体を解釈学的に創造するといった方がいいかもしれません。それが捏造であるか革新的解釈の方向を打ち出すことであるか…そういう賭けです。

ハイデガー自身、こういう論理構造に自己言及するときがあります。例えば

>ニーチェに対してどれだけ問いを投げかけてみても、どんな方向から問うてみても、ニーチェの思索が存在を、そこのうちでは存在が変貌し、それによって存在は自らの名を失うというような、存在の真理を、存在それ自身の本質するところ(Wesende)として考えているというようなことも認められない。…いまなされた省察は、私たちがニーチェの思索に対して、「ニーチェの思索は、根底から存在それ自体を考えねばならないはずなのに、それを怠っており、したがって不十分だ」と無理難題を不当に押しつけているのではないか…という疑いをいたるところで引き起こす。(『ニーチェ』)


そして、実際、ハイデガーがこういうことをしていると見られても仕方がないと思います。

独断的に主張しつつ、その主張を根拠づけるという視点でテクストや現実を見る。この験証を欠くかぎり、独断は独断のままです。そして験証がある限り、その主張は無条件的な覇権を失い、有限的な条件づけられた解釈に留まります。…

2ヶ月前 No.272

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

理念や概念の魂は、現実に即した途端にゆがめられる・・

2ヶ月前 No.273

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

百理さんのレベルが上がってきたように感じます。勉強しておられるのですね?

私なんか哲学の基礎という本をいまだに理解できないというのに。

2ヶ月前 No.274

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

うさぎさん

少し生意気かもしれませんが・・私を見ないで私の見ているものを見てもらえたらと思います・・

2ヶ月前 No.275

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

ハイデガー『同一性と差異』には2つの講演が収められています。「同一律」と「形而上学の存在-神-論的な構造」です。

>「同一律」は、ブライスガウのフライブルク大学創立500年式典のうちの1957年6月27日の大会の日に読み上げられた講演原稿をそのまま含むものです。


ハイデガーはよく「同じもの」というdas Selbeという言葉を用いる。例えば、

>哲学的思惟においてはできる限りの強い拘束が支配しているので、すべての偉大な哲人はみな同じことを思惟する。


ここでの「同じこと」の原語は「dasselbe」ですが、直後に「dieses Selbe」と言い換えられていることからして「das Selbe」と同じだと見なします。

私はこの文章がよほど好きらしく、 http://mb2.jp/_tetsugaku/962.html-758#aで引用し、 http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-829#aでも引用している。 http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-435,740#a>>25 でもこの文章を念頭に置いて語っているようです。

私が目下読み返している高田珠樹先生の『ハイデガー』では、ハイデガーの教授資格論文『ドンス・スコトゥスの範疇論と意味論』の「序論」のなかで書かれた、ハイデガーの哲学と歴史の関係について取り上げた箇所を紹介している。

>哲学の問題は、歴史的に上昇・発展してゆくものではなく、むしろ人間の本性が恒常的である以上、基本的に同じ問題群がより豊かに展開されるだけである。哲学精神が不変の同一性を守る以上、それに対応するような哲学史観が求められる……。


ここにおいて「同じもの」という言葉を、歴史性に関係づけて解釈するという方向が開ける。特にハイデガー独自の思考が「存在歴史的思考」と自称されるところからしても、歴史という観点は重要であろうと予感される。

差異の哲学、同一の哲学、という風に分けるならば、存在者の存在と言ってそれぞれの存在者に特有な在り方を考え、存在と存在者の存在論的差異について考えたハイデガーは、にもかかわらず、やはり『同一的哲学者』だろうと、私は思う。私が「ハイデガーはドイツ観念論的だ」と言うときには、こういうことを念頭に置いている。ただし、この2分法はほとんど無意味であり、この段落はレトリックに過ぎない。

以上の前置きと、以下の拙訳は、あんまり繋がらないかもしれない。まあいいやとにかくGO!

2ヶ月前 No.276

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>276

ハイデガーの講演「同一律」を訳してみる。

ちなみに「同一律」というのは伝統的にそう訳されてきた訳です。ドイツ語では「Der Satz der Identitaet」となっています。「der Satz」は文章とか命題とかも意味しますが、法則とも訳されます。ほか「der Satz des Pythagoras」で「ピタゴラスの定理」です。で、「der Satz vom Widerspruch」が「矛盾律」と訳されてきた。ほかには「矛盾原理」などとも訳される。これに習えば「同一律」を「同一原理」と訳してもよさそうです。しかし「排中律」の場合、なんとなく、「排中原理」という言葉よりもなじんでいる気がします。このあとすぐ言葉として「思考法則」っていうのが出て来ます。一般に、同一律・矛盾律・排中律・充足理由律です。同一律は頭に来るので、「最上の」と言われたりしています。A=Aという同一律は、ドイツ観念論でもフィヒテが取り上げていますが、詳しくないので何も語りません。

哲学を少しかじった人なら、「同一律」と聞けば、「A=A」とか残り3つの思考法則とかも思い浮かぶはずです。
哲学小テストで出題されてもいいような、基本知識です。

ハイデガーは他の著作で矛盾律や充足理由律についても論じています。私が知る限り(すなわち大変狭い素人の経験上の範囲内…しかし逆に他の素人にも近づきやすい範囲)では、まず『根拠律』という単行本が出ています。ハイデガー全集だと10巻だわ。法政大学出版局から出ている『ハイデガー読本』によると「未邦訳」とのことです。(♯ん?『読本』の解説を見ると、この講義録でも「存在と根拠が同じもの(das Selbe)である」ことが語られているらしい。)ただしドイツ語版全集は1万円以上します。全然近寄れない…某通販サイトを見るかぎりでは、来年3月にKlett-Cottaからペーパーバックが出るみたいです。

もうちょっと近づきやすいのは全集9巻の『道標(ドウヒョウ)』に入っている「根拠の本質について」という論文。この論文は論文なので難しいのですが、同じような内容で、論文形式よりは読みやすいかなというものに全集26巻『論理学の形而上学的な始元諸根拠 ライプニッツから出発して』があります。

以上は充足理由律について語ったものです。ライプニッツが鍵になりそうです。ちなみにライプニッツを手頃に読みたい場合、中公クラシックスの『ライプニッツ』とか岩波文庫の『単子論』が便利です。『単子論』は解説が詳しくて驚きですが、訳語が古めです(漢字が旧字だったり…)。しかし所謂『新説』とか『理性に基づく自然及び恩寵の原理』も入っているのですよ〜!

矛盾律については…私は http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-865#aで何やらぐちゃぐちゃ言っているが、これはハイデガー『ニーチェ』の「認識としての力への意志」のなかの「存在の原理としての矛盾律」を念頭に置いている。私は >>145 でその箇所について解釈めいたことを述べている。(♯私は老人のように同じことを何度も何度も言っている。あ〜その記憶が結晶化されたのねぇ、てじおじいちゃんと…温かい目でお見守りください。)

さっさと訳せ〜!(♯或る人に言われましたが、ちょっと躁鬱傾向があるかもしれませんね。)

>「同一律は普通A=Aという定式で述べられます。同一律は最上の思考法則とみなされています。しばらくの間、この同一律について考えてみましょう。この同一律をつうじて、同一性が何であるかを経験したいと思うのです。

>或る事柄に要求されて、その事柄を追いかけながら思考するときには、その思考が途上で惑うことが起こりえます。そのため、この講演では、過程のほうに注意するのが賢明であり、内容のほうにはそれほど注意しなくてもいいでしょう。この講演は、内容の正しさにこだわらず進めていくということをあらかじめ断っておきます 。

>ふつう同一律はA=Aという定式で表記されますが、このA=Aは何を言っているのでしょうか。この定式は、AとAとの同等性 を意味しています。方程式 には少なくともふたつが必要です。ひとつのAがもうひとつのAと同等なのです。同一律はそのようなことを表現しようとしているのでしょうか。明らかに違います。同一的なもの(ラテン語でいうところのidem)は、ギリシャ語でいうとτο αυτοです。το αυτοを再びドイツ語に翻訳したならば、das Selbe(同じもの)となります。或る人がただただ同じことを言うとき、例えば「植物は植物である」と言うとき、その人はトートロジー(Tautologie)で語っています。何かが同じものであるためには、ひとつで十分です。トートロジーには、同等性の場合とは違って、ふたつは必要ありません。


♯ギリシャ語の「ταυτο」というのが「同じ」という意味で、これが「το αυτο」の縮約形なのだそうです。
♯この「αυτο」ってギリシャ語の代名詞ですが、冠詞の位置によって「同じ」を意味したり「…自身」を意味したりします。この後の「…自身」というのは、意味としては、要はその語の強調であり、「私が(!)行きます」というのが「私は行きます」というのより強調されている的なニュアンスです。「ルールのどこがおかしいって言うかさあ、そのルール自体がおかしい」とか言うときには、ルールの中の何らかの条項がおかしいのではなく、ルールこそがおかしいという意味です。こういう強調としての「…自体」というのが、ドイツ語では「selbst」です。ハイデガーはたしかこの言葉を「selb(同じ)」と関連づけます。たしかに見た感じでも、かなり似てます。
♯ちなみにハイデガーが上の文章で「ラテン度ではidem」と言っているのは、私が「同一性」と訳したドイツ語がIdentitaetであるからでしょう。この言葉はラテン語のidentitasに由来しています。この言葉がラテン語由来であり、「das Selbe」というのがギリシャ語の「το αυτο」の直訳であるというところには、少し注目してみてもいいでしょう。ハイデガーはしばしば、ギリシャ語がラテン語に翻訳されたことによって失われたものの大きさについて語るからです。…ハイデガーの批判する「主観性」もSubjektivitaetで、ラテン語由来。しかしこのラテン語由来への着目という発想は私由来ではない…誰由来だったかな?Twitter上の大本薫さんの「ハイデガーは、カントの綜合(対象を与える直観の形式)は、分析(概念分析=言葉遊び)の、いわば外だから可能なのだ、という本来的形而上学と看取するのに、アングロサクソンは、なぜかすぐに経験の形式という非本来的形而上学に囚われてしまう。ものすごく抑圧されている。」というような発言に関連していた記憶があるが…引用できない…

2ヶ月前 No.277

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

ハイデッカーさんの形而上学は存在論。

ヤスパースさんの形而上学は存在論では無いのです・・

2ヶ月前 No.278

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>276,277

拙訳

>「同一律は普通A=Aという定式で述べられます。同一律は最上の思考法則とみなされています。しばらくの間、この同一律について考えてみましょう。この同一律をつうじて、同一性が何であるかを経験したいと思うのです。

>或る事柄に要求されて、その事柄を追いかけながら思考するときには、その思考が途上で惑うことが起こりえます。そのため、この講演では、過程のほうに注意するのが賢明であり、内容のほうにはそれほど注意しなくてもいいでしょう。この講演は、内容の正しさにこだわらず進めていくということをあらかじめ断っておきます 。

>ふつう同一律はA=Aという定式で表記されますが、このA=Aは何を言っているのでしょうか。この定式は、AとAとの同等性 を意味しています。方程式 には少なくともふたつが必要です。ひとつのAがもうひとつのAと同等なのです。同一律はそのようなことを表現しようとしているのでしょうか。明らかに違います。同一的なもの(ラテン語でいうところのidem)は、ギリシャ語でいうとτο αυτοです。το αυτοを再びドイツ語に翻訳したならば、das Selbe(同じもの)となります。或る人がただただ同じことを言うとき、例えば「植物は植物である」と言うとき、その人はトートロジー(Tautologie)で語っています。何かが同じものであるためには、ひとつで十分です。トートロジーには、同等性の場合とは違って、ふたつは必要ありません。

>A=Aという定式は同等性について語っています。それは、同じもの としてのAについては語っていません。そのため、同一律を表すために通常用いられているこの定式は、同一律が言いたいことを覆い隠してしまっています。同一律が言いたいことは、AはAであるということ、すなわちどんなAであってもそれ自らで同じもの である、ということです。

>同一的なものについてこのようなことを話していると、プラトンが言った或る古い言葉が思い出されます。彼はその言葉によって同一的なものを分かりやすくしました。その言葉は、さらに古い言葉に遡るよう指示するものでもあります。プラトンは、対話篇『ソフィスト』の254dでστασιsとκινησιsについて、すなわち静止と激変 とについて語っています。プラトンはこの箇所で異邦人に次のように言わせています:ουκουν αυτων εκαστον τοιν μεν δυοιν ετερον εστιν, αυτο δ’εαυτω ταυτον. (Now, each of the two, let us be sure, is another, while each is with respect to itself the same. さて、ふたつのものはそれぞれ異なるものであるが、それぞれはそれ自身に関しては同じものである。)
>「さて、しかし、それらに関しては両者どちらも別なものであるが、それらは、それ自らでそれ自身に対して同じものである 。」プラトンはεκαστον αυτο ταυτον(どちらもそれ自らで同じものである )と言っているだけではありません。εκαστον δ’εαυτω ταυτον(どちらもそれ自らでそれ自身に対して同じものである )と言っています。


・一般的な思考法則としてのA=A(同一律)
・プラトンの言葉の中の、各々のものが自ら自身と同じであるという主旨。

プラトンに遡ることは、A=Aの単なる同等性が、自己自身との関係をも含む同一性へと深められる機縁になっていると思われます。

2ヶ月前 No.279

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

A+B=AB

A+B=C

主観と客観の組み合わせも単一な場合でさえ二通り

ならば二通りの立場以上があればケースバイケースの多様により定義が多義になるしかないではありませんか?

2ヶ月前 No.280

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259,267,268,270,272

§5(36ページ〜39ページ)

哲学は人間の行動に影響を与えるべきだという観念がある。

ハイデガーが >>255 のところで急に持ち込んできた「攻撃的性格」というのは、この観念に関わると思われます。このことは次の文から知られます:

>哲学のもつ攻撃的性格に関するテーゼの究明は我々を次のような不思議な分裂的状況に連れこむ、即ち一方では我々のテーゼは、哲学についての全く当然の意見に一致するのであり、その意見によれば哲学は人間自身と関わり合い人間の行動に影響を与えるべきである、ということになる。…


勿論、こういった哲学観がそのまま哲学の攻撃的性格だ、ということではないでしょう。

しかし、だからといって、ハイデガーがこういった哲学イメージを完全放棄するということでもありません。

巷で語られるこういった哲学の性格の根源的実質に注目するのです。本当のところそれは何なのかということに注目する。すなわちその本質に注目する。

…そして、 >>272 でも少し触れたように、哲学の主導的問というものは、私たち自身に全く関わって来ない様なものにみえます。

>哲学についてのありふれた確信か、或いは哲学の主導的問題とそれのこれまでの取扱いとの大きな伝統か、のうちどちらの法廷に我々はより一層の信頼を寄せるべきであるのか。


これが先に述べられた「分裂的状況」です。

ハイデガーは一般人が抱く哲学イメージに迎合することも、伝統的問いを盲目的に受け入れることも拒否します。

一見ここでは伝統が拒否されている。

伝統が拒否されるからといって、哲学するからには全くオリジナルなところから始めなければならないんだということでもない。
じゃあ、どうして哲学の伝統的問いが拒否されるのだろうか。この問い(あるものはあるものとして何であるか)は間違っているのだろうか。

ハイデガーの批判は「この問いはかつて一度も立てられなかった」というものです。

これを言った直後、ハイデガーは、これは一見前代未聞の思い上がった主張だと、すぐ付け加えます。 >>272 で触れたニーチェに対する不当な要求が思い出されます。このように思い切ったことを断言し、この断言に基づいて哲学を(或る意味で不当に)批判してゆくということを、しています。

私はこれを「暴力」と呼びます。

ハイデガーの批判は、一見不当に高いとみえる要求をつきつけることによって、見えなかった欠点を見えるようにするという風にしてなされます。相手の在り方を無視するようにして、「なぜお前はこの標準に達していないんだ」とする。ハイデガーの場合、哲学者に対するこの批判は、「もっと根源的であれるだろう」という風にしてなされると思われます。ただしハイデガーの「批判」は自分で伝統的問題を反復する(wiederholen)ということによってなされる。私から見ればこれは「私の方があなた達よりも根源的に思考しています」というアピールに見える。

この「widerholen」は「反復」と訳されますが、「取り返す」「奪還」という風に訳してもよいのではないかと思います。しかし、取り返すといってもどこに返すというのか?それが元々あったところ、それの本質する(west)ところ、それが真の意味を発揮するところへと、返すこと。力の源のところへ返す。

こういった「反復」は次のような文で述べられる:

>プラトンとアリストテレス、簡潔に云えば西洋哲学、によって問われた問を再び問うことは別のことを意味する。それは前者〔プラトンとアリストテレス〕よりも一層根源的に問う、ということを意味するのである。


♯この文のうち「よりも一層根源的に問う」ということが強調されています。

プラトンとアリストテレスの思想を受け入れていればそれで十分だということではありません。むしろそういった無批判的な受容は、彼らの本来の価値に対する盲目をも意味します。しかし、本来の価値を見ることによって彼らの限界等も気づかれることになります。なぜならそれは本来のものだからです。すなわち、どこか地に足が着いたものであって、無条件的な崇拝等とは真逆なものであるからです。

>子孫が祖先の殺害者とならなければならず且つ自分が必然的な殺害の運命の下に立つということ、このことは――全ての本質的なものの歴史においては――全ての後裔の特権であるが、同時にしかし、その責任でもあるのだ。その場合にのみ我々は、前者〔プラトンとアリストテレス〕がその中で直接に実存していたが、しかし正にその故に、最後的な透徹さにおいて仕上げ得なかったところの問題提起を手に入れることになるのである。


さて、「殺害」は暴力的なものであるというのは間違いありません。それを「特権」であり「責任」ですらあると言うのです。師は弟子に超えられることが本望といった話が思い出されます。人間的な感情を超えた話です(人間的な感情からすれば、師は、弟子に超えられると屈辱で嫉妬の感情にかられます)。

ただ、どこか人為的な、無理をしているような印象も受けます。強迫観念のようなものを感じます(先祖殺しは責任ですらある、というのですから)

…が、こういう基本スタンスが、事象の中に突き進んで行くモチベーションになると私は思います。

もうひとつ、ここにはハイデガーが『存在と時間』でまず日常的な在り方をしている現存在の分析から取りかかったというのと、似た構造があると思います。先達は、直接にそこで生きていた(実存していた)からこそ、逆に、「最後的な透徹さ」は得られなかった。そこに生きてしまっているがゆえの(その充足による)透徹さへの意志の不足とでもいいますか。こういったところへの反省が、ハイデガーの歴史的な思考に反映されていると思います。私たちが常識だと思っている事にも、それが常識にまで結晶化されるに至った経緯・歴史がある。哲学者の思想にも、先んじた思索者からの経緯がある。私たちが普通だと思っている事でも、実は全然普通じゃない、驚くべきことなのだ…という発想。この発想を哲学者にも適用すると、上のようなことを言えるだろうと思います。

・・・こうした基本スタンスを踏まえた上で・・・

次のセクションからは、「有るものは有るものとして何で有るか」という問題が実際に追究されてゆきます。

第一ブロックが「序章」だとすると、次からは「アリストテレスの章」とでも言うべきブロックです。

2ヶ月前 No.281

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

バートランド・ラッセルの哲学入門を本棚で見つけて見ました・・

宇宙はヘーゲルが信じるような単一な調和的体系を作ってはいない・・

新鮮な見解が目の前に開けます。

カントの無限集合の不可能性の世界を数学的に否定して形而上学的構築に光を当てています。

2ヶ月前 No.282

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>276,277,279

拙訳

>与格のεαυτω(エアウトイ)が意味しているのは・・・どんなものもそれ自らでそれ自身へと返されており 、どんなものもそれ自らで同じものである――すなわち、それ自身に対してそれ自身と同じものである、ということです 。ここでドイツ語の場合には、ギリシャ語と同じ利点があります。同一的なものを同じ言葉で明らかにする、しかもこれを、その言葉の様々な形態のつなぎ目において明らかにするという利点です。


ここで言われている「その言葉の様々な形態のつなぎ目」の「利点」というのは、ドイツ語の中に「selber」や「selbst」や「dasselbe」といった似た言葉達が存在しているということでしょう。 >>279 で訳した「εκαστον δ’εαυτω ταυτον(どちらもそれ自らでそれ自身に対して同じものである ) 」という箇所は、ドイツ語では「jedes selber ihm selbst dasselbe」となっており、上に言った3つの似た言葉が全て出揃っています。

てじが「つなぎ目」と拙訳したドイツ語は「Fuge」です。他の本では「接ぎ目」などとも訳されますが、「つなぎ目」でも同じでしょう。

ひとつの拙解釈では、Fugeというのは「selb-er」「selb-st」「das-selb-e」と表記した際の「-」(Bindestrich)を指します。言語学では「Beim Wort ,,Liebesbrief“ steht ein s in der Fuge. 」と言うそうです。「Liebe」(恋)と「Brief」(文)の間の「接ぎ目」のところには「s」が入ります。2つの言葉は「s」で結合(Binden)されます。或いは、2つの言葉のつなぎ目が「s」であるような単語として「Liebesbrief」(恋文)があります。

が、こう解釈しても何にもならないので、この解釈を採用する意味がありません。

ただ私の予感としては『存在と時間』における「Artikulation」や「Gliederung」がこの「Fuge」ないし「Gefuge」と《同じ》なのではないか…という気がします。分節(Artikulation, Gliederung)は『存在と時間』の中では言葉論の中で出て来た用語ですので、もしも私の予感が当たっていれば、「Fuge」や「Gefuge」も言葉論に関わってきます。とりあえず表面的なものを挙げますと、上の文での「つなぎ目」というのは私の拙訳解釈によれば「言葉(Wort)の様々な形態の…つなぎ目」です。

もうひとつ、 >>276 で引用する文並みに私が好んで引用する文章:

>存在」の思考において、人間が来歴に基づいて実存へと解放される事ははじめて、或る思いの「表明」ではないような言葉…いつでももう存在者全体の真理がよく保護されている組立て(Gefuege)であるような言葉(Wort)になる。


…においても、間接的に、「fug」と「言葉」との繋がりが暗示されています。

私はハイデゲリアンの門前を門に入れないままおろおろしているのですが、私が「fug-語群」と呼ぶ語群の中の「Fuge」は丸で謎なのです。

「Fuge」を「接ぎ目」と訳したなら、この「接ぎ」というのは「継ぐ」という歴史性を示唆します。たしかに私が好んで『真理の本質について』から引用する文にも「来歴に基づいて」すなわち「geschichtegruendend」という表現が見られます。

ですが、むしろ「接ぎ」というのは「次」(next)かもしれないのです。ネクストというのは元々「niehst」でありこれは「近く」を意味する「neah」の最上級です。ドイツ語では未だに「nah」(近い)の最上級は「naechst」(ネヘスト)です。「次」と「接ぎ目」との関連性を暗示する文もないではありません:

>太古的思索の最も近いもの(Naechste)であるのは:存在の真理の接ぎ目(die Fuge)としての現(Da)を(問い出すなかで)開きながら、それ自体特有化(Er-eignis)として太古の太古化(die Anfaengnis des Anfangs)である存在の、ねじり上げ(Verwindung des Seyns)の経験へと基づけること。


…分かります。「太古」とか「ねじり上げ」という異様な言葉…私が異様な仕方で拙訳してもいる言葉…これが気になりますよね。しかし目をつぶりましょう。

ただ一言、まず「Verwindung」(克服)を「ねじり上げ」と訳していることについて。

おそらく『形而上学の克服』(Ueberwindung der Metaphysik)などを思い出されたでしょう。しかし「存在の克服」と訳すとして、じゃあこれって何なのでしょうか。この疑問が浮かんだら「形而上学の克服」というタイトルにも疑問が浮かぶようになるでしょう。

この「Verwindung」がfug-語群と関わっていることを暗示する文もあります(訳さずそのまま引用します):

>IV. DIE VERWINDUNG


>Die Fuegung der Fuge

>des Fugs im Anfang


私が「fug-語群」と言うのもお分かりだと思います。2文目には「Fuegung」「Fuge」「Fug」という3つの異なる「fug-」という頭を持った語が出て来ています。

これは「第四部 ねじり上げ」という標題ページのサブ文章なのですが、更に下にサブ文章が続いています。そこでは「特有化の環」(das Gewinde des Ereignisses)という表現が出て来ており、その後説明として、これは花環などの「環」のことであって「ネジ」のことではないという断りが書かれています。というのも「Gewinde」というドイツ語は「環」も意味しますが「ねじ」も意味するからです。その後で「Gewind: zum Ring gewunden」とあり、環にされるべく巻きつけられるという意味だと思います。私はここからねじねじと花の環をつくるイメージを得たので、「ねじり上げ」と訳しました。

ですが、ハイデガーのこの解説は何を言いたいのでしょうか。後期ハイデガーでは「環」(Ring)がしばしば言われます。数年前の翻訳ノートから無批判的に引用してみます:

>世界の鏡の戯れは性起させることの輪舞(Ringen)である。したがって輪舞はやはりあの四つ(天空・大地・神的なもの・死すべき者)をはじめてあとから輪(Reif)のように包みこむのではない。輪舞は鏡映しにすることとして戯れることによって巻く(ringen)巻きつき(Ring)である。それは性起させることによってあの四つをそれのひと重ねの輝きへと明るくする。巻きつきは輝き出しながらあの四つをそれらの本質の謎のいたるところへと開けて譲歩する。このように巻いている世界の鏡の戯れの集められた本質は少(Gering)である。鏡映しにしながら戯れながらの巻きつきの少の中であの四つがそれの、統一されてはいるがいつでも特有な本質へとまといつく。そのようにしなやかに、それらは従順に(fuegsam)世界しながら世界を仕組む(fuegen)。

>しなやかな・鍛えうる・柔軟な・従順な(fuegsam)・軽いというのは、古ドイツ語の言葉では「ring」や「gering」という。世界している世界の鏡の戯れは巻きつき(Ring)の軽さ(Gering)として、あの統一された四つを、特有な従順さ(Fuegsame)へと奪い出す(entringen)…それらの本質の軽やかなところ(das Ringe)へと。


私は数年前…阿さんがハイデガーの「Ereignis」を「ignis」(ラテン語:火)に絡めて考えようとしているのを見て、「そんなバカな」と思いましたが、…たしかにハイデガーは「時において底なしのあの基づける者は保護されたものの火のうちで焦げ尽くされねばならない。人間に現存在が可能になって、そうして有るもののまっただなかでの存続が救護されるように。大地と世界とのあいだでの争いの開けたところにおける有るものも返還を経験するように。」と言っている。またデリダの『精神について』で紹介されている「火」を思い出されるかもしれない。そしていま、私は「Verwingung」を「Wind」(風)と関係づけようとしている。軽やかな風。

「Gering」から「Armut」への発想移行もありうるので、事態は更に錯綜します。むろん、「lichten」(明かす)には「leichten」(軽くする)という意味もあるということから「Lichtung」(空開処)も関わってくるでしょう。

ハイデゲリアンの門に入るためには、これらの様々な要素が連関的に結びつく地点にまで自分で歩いて行かなければなりません。ただし歩みを導くのは道です。

その道(Bahn)を敷いている(bahnen)のがハイデガーです。

2ヶ月前 No.283

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

真理は時間と空間の限定を受けない・・

形などがあれば段階などがあればすぐにでも表現できる。

表現できない形を超えた飛躍があるのでは・・

2ヶ月前 No.284

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉284、百理sama,

最近何を「読んで」るの?

2ヶ月前 No.285

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

悪魔ちゃん

放送コードに引っかからないから悪魔ちゃんじゃないわ・・疑似悪魔ちゃん・・

私はヤスパースさん以外では・・最近ラッセルさんの哲学入門を読んでいます。

2ヶ月前 No.286

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

おばちゃま、ラッセルさんの、お願いしますね。

2ヶ月前 No.287

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259,267,268,270,272,281

§6(41ページ〜)

引続き創文社から出ているハイデッガー全集第31巻『人間的自由の本質について』を読んでいきます。

>「有るものは有るものとして何で有るか」という問題が実際に追究されてゆきます。( >>281


まずハイデガーは「この問題を実際に問うとはどういうことか」というところから始めます。

ハイデガーは普通に答えて:

こう問う中で疑わしいものとして挙げられるものを出してゆくことだと言います。これは疑わしい、これは疑わしい、これは疑わしいと、怪しいところ、不審なところ、問うべきところ、問うに値する(frag-wuerdig)ところを指摘してゆくことです。

哲学の主導的問い「有るものとしての有るものは何であるか」において疑われているのは、有るものとしての有るもの(存在するものとしての存在者)です。このとき存在者は、それが存在するものであるというところからいます。したがって、ここで問うに値するとみなされているのは存在ないし有だということになります。

有るものとしての有るものは何であるかという問題で疑わしいとされているのは、存在(有る事)です。

次に、「実際に問うというのは、その問いに答えようとすることだ」と、これまた普通のことを言います。
これを言い換えると、「どのようにすればその問いに答えることが可能になるか」を問題にするということです。

これまた普通の答えですが、「…とは何であるか」と問われているのですから、答えは問われているものの本質(Wesen)であるはずです。

人間とは何か?――理性的動物である。
人間は動物という種のうち、理性という特性を持っているものだということです。
人間とは何かという問いにこのように答える時には、その動物は理性というものの方から、理性によって規定されています。すなわち、理性が「人間が何であるか」について決定的なものだということです。

存在を問う問いが存在の本質規定という答えを求めている時、どうすれば答えが可能になるか?

存在がどの方向から、どの領域から、何によって規定されているかが分からなければなりません。

それを見出すためにどこを探るか?

実際に存在がどのように理解されているか、そしてその理解は何に基づいているか、この現場を探るべきでしょう。

では、私たちはいつ存在を理解しているか?

つねに、すでに、知らないうちに、私たちは存在を――「ある」ということを――理解している。

存在了解です。

『存在と時間』の序論冒頭でも出て来る言葉です。

>存在了解はこれ自体で現存在の存在規定である。現存在という存在者はそれが存在論的に存在するという点で他から際立っている。(Sein und Zeit, S. 12、ちくま学芸文庫なら48頁)


この文に続けてハイデガーは「存在論的に存在する」と言っても、これはまだ存在論を形成するという意味ではないので、「存在論」という名称をそれのために取っておくとしたら、さきほどいった存在規定は「前-存在論的」と呼ぶべきだと、言っている。

次セクションは、その内部で4つ(a〜d)に分かれているが、それらのうち最初のタイトルは

>a) 概念的把握以前の有の理解の諸性格と有の忘却


です。

前存在論的な存在了解(有の理解)が少し詳しく述べられることになります。

コツとしては、ここでハイデガーのいう存在を通俗的に掴み、そこでハイデガーの問いを現実的なもの(我がごと)にする準備をすればいいと思います。

♯『形而上学入門』の「存在の本質についての問い」や『カントと形而上学の問題』第41節等も参照。

1ヶ月前 No.288

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

悟性として自由・・理念として自由。これを超越する実存の自由はその上で不可思惟性で挫折しながら付加思惟性を超越する暗号を探す・・

1ヶ月前 No.289

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>276,277,279,283

続き。拙訳です:

>したがって、「AはAである」という同一律をより適切に定式化しようとしたら、「どんなAもそれ自らで同じものである」というのでは足りず、むしろ「どんなAも、それ自身と、それ自らで、同じものである 」とまで言うでしょう。自同性(Selbigkeit)のうちには、「と」という関係が含まれています。したがってそこには、調停というものがあり、結合というものがあり、綜合というものがあります 。つまり、ひとつに統一する…という要素があります。それゆえに、同一性が西洋的思考の歴史を通じて統一性(Einheit)というかたちで現われてくる、ということにもなるのです。ところで、この統一性は無味乾燥な空虚ではありません。この統一性は、それ自身のうちに何の関係も含まないまま 、静止しつつ単調なまま不変であるような空無ではありません。さて、同一性のうちで支配している、早くからすでに鳴り響いていた 、同じもののそれ自身との関係がこの調停であると判決されて、そのような調停という型押しをされて出現するまで、西洋的思考は2000年以上を要しました。そのように同一性の内部の調停が輝き出るための停泊場所が見つけられるまで、2000年以上かかったのです。というのも、ライプニッツとカントによって用意され、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルを通してようやく、思弁的観念論哲学が、ひとつの停泊場所を、同一性のそれ自身において綜合的な本質のために設立した のですから。この停泊場所をここで示すことはできません。ただ、ひとつのことだけは心に留めておきましょう。思弁的観念論の時代以来、同一性の統一性を単なる単調さとしてイメージすること、統一性のうちで支配している調停というものを度外視すること、これらは思考に禁じられしまった、ということです。その禁を破ってそうした場合には、同一性は抽象的にしかイメージされていないことになるのです。


この箇所はヘーゲル(フィヒテ・シェリング)を読んでいなければ理解できません。「調停」乃至「宥和」とか「停泊場所」とかは、ヘーゲルの言葉です。私はヘーゲルをあまり読んでいないので、この箇所はあまり理解できません。

ドイツ観念論に一切触れた事のない人でも、次のことには注意してください。ここでは「いち」「1」「一」が改めて問題とされている、ということです。

統一性が「静止しつつ単調なまま不変」などと言われているのを見て、パルメニデスを思い出してください。

>すなわち、あるものは不生にして不滅であること。なぜなら、それは(ひとつの)総体としてあり、不動で終わりなきものであるから。それはあったことなく、あるだろうこともない、それは全体としてあるもの、一つのもの、連続するものとして今あるのだから。


>さらにまた、あるものは分割されない、すべてが一様であるから。あるものは、ここではより多くあるということもない、その事態はあるものが、たがいに結び合うのを妨げることになる。


>まことにあるもの以外には、何ものも(今)あることはないし、(この先)あることもないだろう。運命が、あるものを縛めて一つの総体とし、不動のものとしているのだから。




パルメニデスは何かについて語っている。その何かというのは、「あるもの」と訳されている、「エイナイ」ないし「エオンタ」です。ハイデガーは前者を「das Sein」と訳し後者を「das Seiend」と訳す。

ハイデガーが問題にしているのは、この存在というものが、統一(総体、全体、一なるものに統一されていること)として考えられているという発想それ自体であるように思われます。

私たちは「同一性」と言って、言葉の上でも、「同じ」ということと同時に「一である」という要素を述べています。同というものと一というものとの結びつきが必然的なものに思えるような、そういう発想の地平に、私たちは乗せられています。



調停というのは、食い違う複数のものに落としどころをつけて、「これにて一件落着」させることです。異なる複数のものを、ひとつの事であるとすること。そのひとつの結論に異なる複数のものを位置づけること。異なる複数のものが、どこにおいて一致をみるかを探ること。調停における一致は、一様で没関係な単調さではなく、内に弁証法的なものを秘めているのです。弁証法:ディアレクティケー…すなわち対話的な…論争的な

この箇所は弁証法のことを話しているのだと、私はそう思っています。

1ヶ月前 No.290

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

人間の真理を真理とせしめているものは理性しかない・・

1ヶ月前 No.291

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>219,221,223,225,226,228,230,231,232,233,235,237,238,240,242,243,247,250,252,255,259,267,268,270,272,281,288

§7(42〜47ページ)

私たちは「ある」ということを常に理解している。

日本語で「青い」とか「素晴らしい」とかいうところでも、ドイツ語では「blau ist」とか「wunderbar ist」とかいう。この「ist」という動詞の不定法が「sein」であり、この動詞が名詞になった動名詞が「das Sein」であり、これが「存在」と訳されている。この講義のテーマは人間の自由で「ある」と言うときにも、ドイツ語では「ist」が言われている。そしてドイツ人はこの「ist」が何を意味しているのかを理解しています。そしてこの「ist」で理解されているものは、石とか自由とか人間ではなく、「ist」です。

では、ドイツ人が常に「ist」と発言するから、私たちは「ある」ということを常に理解していると言えるのでしょうか。ハイデガーはそれを否定して、「ある」と言わないところでもやはり私たちは「ある」ということを理解しているのだと言います。ここで日本人にも接近路が見えてきます。「はあ、疲れた」と思うとき、これを「はあ、私は疲れてある」と思っているのだと、思えば理解しやすくなります。ただ日本人がそれを「ある」と呼ぶのはあまりにも不自然で、ましてやそれを「存在」と呼んだ日には、何が何だか分からなくなるでしょう。むろんハイデガーを読むに慣れれば、変な話、「存在」という言葉を読んで、これが「存在」を意味するとは思わなくなります。それは矛盾ではないか?ちがいます。「存在」という日本語の周辺事情ないし布置(constellation)が変化したのです。

私が十分にそれに注意を向けられたとは思えませんが、それ、それは「存在了解」と呼ばれます。繰り返しますが、「存在了解」とは「存在」を「了解すること」ではありません。すなわち、生存確認のようなものではありません。それは私たち自身の在り方に付けられた名前です。ハイデガーは私たちの在り方を「存在了解」と呼ぶのです。 >>288 で述べた通り、『人間はどのような仕方で存在しているのか?』という問いへの答えは『存在を了解している』というものになるでしょう。なので『存在と時間』でも「存在了解はこれ自体で現存在の存在規定である」と言われるのです。

しかし、「はあ〜疲れたあ〜」と思っている時に自分が存在了解という在り方をしていると言われても、「え?」と意味が分からないでしょう。

>我々の関わり合いはこの…有の理解によって担われ且つ完全に支配されている。我々はこれによって甚だ完全に支配され且つ殆ど有の理解として我々の注意を惹かないので、我々はことさらこの有の理解に全然気をとめることがないのであり、又我々はこの我々にとって自明的なものをいよいよ以てわざわざ思い起さなければならないのである。我々は有の理解を忘れてしまったのである。


私たちが存在了解という在り方をしていると言われても「え?」となるのは、私たちが存在を忘却しているからだ…という論理です。

「私たちを完全に支配しているもの」は「有の理解として我々の注意を惹かない」すなわち、私たちはそれをことさら「存在の理解」だとは思いも寄りません。「eigens kehren」しないと言っており、そうするためには「eigens erinnern」しなければならないと言います。ドイツ語で「Einkehr」は「立ち寄り・訪問」を意味します。「ein」は「内へ」を意味し、「inner」は「内面」を意味します。私たちは存在了解にすっぽりと入り込んでしまっているのですが、その内面性に改めて思い寄る。

ハイデガーは何度か、自分が今まで暮らしてきた地面へとジャンプするという言い方をします。(『思惟とは何の謂いか』および『同一性と差異』所収「同一律」等を参照。)ふつうジャンプというのは、高い所への飛躍(飛び出し)か或いは奈落の底へのダイブ(飛び込み)です。ハイデガーはパラドキシカルに、自分がずっとそこに身を置いてきたところにジャンプするという言い方をします。今の話で言うと「自分がずっと身を置いてきたところ」というのは「存在了解」です。或いはまた、『同一性と差異』では「das Gehoeren zum Sein」すなわち「存在への帰属」という言い方をしています。

「存在了解」はドイツ語で「Seinsverstaendnis」ですが、これのもとになった動詞「verstehen」は「はっきり聞き取ること」「(言ってることが)分かること」を意味します。フランス語で言うところの「entendre」です。ハイデガーは『形而上学入門』の「IV 存在の限定」において「Vernehmen」について述べています。この「Vernehmen」という動名詞が「Verstehen」という動名詞と近いというのは、理性(Vernunft)と悟性(Verstand)という言葉からも分かるでしょう。またこの「Vernehmen」が「存在への帰属」と言い換えられているということにも注目です。「Vernehmen」は第一には「引き受けること」「自分の方に来させること」を意味し、第二に「証人の供述を聴き取ること、証人を呼び出して事情を聴き取り、事件の配置と成り立ちとがどうなっているのかを確立すること」を意味します。

ハイデガーは、近すぎて聞こえない音を聞こうとしているかのようです。あたかも、耳の真横を流れる血液渓流の轟を聞こうとするかのようです。おそらく、耳の真横を走る血流の音が私たちに聞こえることはないでしょう。しかし、耳の最も近いところに実は轟音があるのだが、当り前すぎてもはやそれを聞き取ることができなくなっていると言うことはできます。これはレトリックです。実際の話をしましょう。そしてその実際の話が、存在了解すなわち存在忘却です。

以上は >>288 で言われた「私たちはいつ存在を理解しているか?」という問いへの答えを詳しく展開したものだと言える。

私たちはあらゆる場面で存在を理解しており、そしてたいてい、自分のあり方が存在了解であるということを忘れている。

さて上の問いは「存在を問う問いが存在の本質規定という答えを求めている時、どうすれば答えが可能になるか?」という問題から出て来たものだった。
この存在論的問題で問われているのは、存在がどこから規定されるか、存在が何を意味するかについての答えをどこから汲み取るかということだった。

例えば三角形は、平面であり、すなわち空間的なものである。三角形は空間というところからして、それが何であるか理解される。

では「存在するものとしての存在者」については?

それが哲学の主導的問いの内容だった。( >>281,288

そしてこれについて私たちはお手上げになってしまうとハイデガーは言う。プラトン『ソピステス』におけるエレアの客人のように。

私たちは誰もが常に存在了解という在り方をしているのに、私たちは存在を把握していない。

これをハイデガーは「概念把握以前的な有の理解」と呼ぶ。『存在と時間』で言うところの「前存在論的存在了解」のことです。

この存在了解は、哲学以前のものでもあります。逆に言うと、哲学において言葉になる存在論は、哲学以前からあった存在了解に端を発するものです。すなわち、哲学が存在了解を形成してようやく存在了解が誕生するのではなく、…存在了解の自覚が哲学の誕生なのです。

>有の理解に目覚めること、つまり有の理解そのものに代わってこれを目前に見ることは、人間における現有からの哲学の誕生である。


「有の理解」は「人間が全ての成文化された哲学以前に既にそれであったところのもの」です。自分が今までずっとそれであってきたものに目覚めるというのは奇妙な表現です。それは(夢からではなく)現実から現実へ覚めるというに等しいからです。

「有の理解そのものに代わってこれを目前に見ること」は誤訳の臭いがします。原文は「das Vorfinden fuer es selbst」です。まず、原文には「これを」がありません。「これを」というのは何でしょうか?「有の理解」か「有」です。まず穏当な解釈で行けば、『今まで漫然とやってきた存在了解を自覚的にやり直すこと』というのがその内容ではないかという気がします。いわゆる初心に返るということです。このとき「Vor-finden」の「Vor-」というのは、有の理解の「前」でしょう。私たちは常に「存在了解」の中であれこれしている。存在了解が私たちの言動の根底にあるが、それを忘れている、ということですね。しかし、この「有の理解」へと目覚めるということは、どこか有の理解の手前からそこへと目覚めてゆくということになりそうです。存在了解を、存在了解の根源というより根源的なフィールドにおいて、すなわちより以前的なところにおいて、見つけるということ。すでにそこで動いている存在了解を見つけるということが起りうるような、より根源的場所を想定するということ。だとすると、ここでの「fuer」というのは、「…へと向かって」という意味でしょう。すなわち英語で言うところの「for」の意味でしょう。「for」は「fore」であり、「前」を意味します。もしそうなら、ここでは「Vor-… fuer」という風に、「前」のだめ押しがなされていることになります。

存在了解が自分の前にあるという状況は、この存在了解が歴史的に形成されてきたものだという含意があります。或いは、存在了解が特定の方向へと整理されて、その整理された存在論が、その後の存在論を形成したと言った方がいいかもしれません。

存在了解において、存在はどのような言葉になったか?

ousia(ウーシア)

この§7を含む講義の第2章は、主な話題をこの「ウーシア」としています。訳本では「実有」と訳されていますが、なぜこう訳したのか(今の所)不明です。

1ヶ月前 No.292

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

ヤスパースさんも「存在論」のことはハイデッカーさんに聞いてとのこと・・

あくまでも存在論においてです・・

1ヶ月前 No.293
ページ: 1 2 3 4

 
 
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