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世界平和は実現するか。 Part2

 ( 哲学掲示板 )
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ペガサス ★wX4sgLA167_TZg

「世界平和は実現するか。」というトッピクスを立ち上げたのは、ゆにこ氏でしたが、ご本人が登場しないので、私がトピックス主として、新しいトピックスを立ち上げたいと思います。

歴史上、一度も人類に在り得なかった、世界の恒久平和の実現には、何が必要な条件なのか、真剣な議論を深めて頂けると幸いです。

2年前 No.0
メモ2018/03/31 17:36 : Mobius☆iuWFdm42ChI @mobius★iPad-XaDQxMu5Oy
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ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_5qC

マー坊さんへ

以前、お見かけしたことがあります。お久しぶりです。

またご縁がありましたこと、嬉しく思います。

>>1606 についてもお読みいただいてご意見をいただけるとありがたいです。

2ヶ月前 No.1637

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★QaT2tJX4Q0_gaI

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2ヶ月前 No.1638

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★QaT2tJX4Q0_gaI

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2ヶ月前 No.1639

マー坊 ★18NbNZF3b4_o1k

ゆみさんへ

>またご縁がありましたこと、嬉しく思います。

こういう会話が出来ることが嬉しいです。


>>1606 についてもお読みいただいてご意見をいただけるとありがたいです。


「世界平和」の話と「平和」の話では話の内容が変わってくると思います。
世界平和は世界中の国や民族間の平和を考えますが
平和は一個人のレベルで平和を考えるような気がします。
この掲示板では世界平和に焦点を当てて考えたいと思います。
そこで


>ちなみに「世界平和は実現するか?」の私の意見ですが、しないと思います。
【世界の恒久平和の実現には、何が必要な条件なの?】
・自分を赦し相手を赦すこと
・尊重すること
・間違いを深く追求しないこと
・常識や正義という名の刃で相手を追い詰めないこと
・自分も相手も責めないこと
・自分も相手も苦しめないこと
・自分にとっての真実が必ずしも他者にとっての真実になりうると思ってそれを押し付けたりしないこと
・否定と肯定しかない世界観から一度抜け出てみること
…だと思うのですが、これが実現したら政治が動かなくなります。
政治は、上下関係や対立要素をある程度先読みして、手を打っていき、自国をどこまで優位に持っていけるかというのが本質だからです。
平和になったら政治は不要になります。


これに対して僕の意見ですが。
ここに書かれている世界平和の必要条件はすべて可能であると思っています。
その方法は「世界平和提案書」にも書きましたが「国際支援団」の活動がそれらを解決してくれます。
「国際支援団(ISG)」とは
国連にある支援団体を始めとして
日本のODAやPKOなど世界中が総力を挙げて
助け合いや支援をする常時活動する団体です。
設立の目的は
世界の貧困や格差を無くすことです。
世界のあらゆる地域が独自の文化が守られ
安心して生活できるお手伝いをすることです。
世界中の技術と資源を無駄なく分かち合うのです。


そして
政治は不要とありますが。
政治は必要だと思います。
ただ「・・・自国をどこまで優位に持っていけるかというのが本質だから」というようなことはなくなります。
集団が平和に暮らせるためにはすべてをまとめるための「約束事」言い換えれば「法律」が要ると思っています。
すべての人が健康で自分らしく生きていける環境を作るための政(まつりごと)、生産や物流を滞りなくやること。

2ヶ月前 No.1640

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

ペガサスさん

猿世界と人間世界と、どちらに生まれたいですか?

2ヶ月前 No.1641

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

ゆみさん

>>1606

>何が言いたいのかわかりません。読めません。


 今年の元旦以来、世界平和について考えてきました。断続的にダラダラと投稿してきましたので、何が言いたいのかわかりにくいと思います。また、まだ途中で、現在進行形です。

 これまでの経緯を簡単に説明させていただくと、私の現状認識については、 >>1097 で簡単に書いています。

 どんな状況を目指すのかについては、 >>1189,1570 で述べています。

 戦争と平和に関わる近代の歴史については、 >>1190>>1220 で辿りました。

 現在の投稿趣旨については、 >>1221>>1568,1569,1570 をご覧ください。特に世界平和を語る動機については、 >>1568 で、世界平和の実現可能性についての私見は、 >>1569 で述べています。

 そのあと、世界平和についての自分の考察を投稿していますが、 >>1575-1598 で、国家間での集団的自衛権や個別的自衛権の行使(いわゆる国家間の戦争)を扱いました。この部分の主な参考文献としては、 >>1576 をご覧ください。

 そして、 >>1599 以降では、国内の紛争を扱っており、いまその途中で、もうすぐ終わる予定です。

 今後、世界的貧困に関する考察に移ろうと思っています。

 もし気が向いたら、過去の投稿を斜め読みして見てください。

2ヶ月前 No.1642

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_5qC

マー坊さんへ

読んでくれてありがとうございます。

2ヶ月前 No.1643

マー坊 ★18NbNZF3b4_o1k

ゆみさんへ


考えるきっかけをもらってありがとうございます。

2ヶ月前 No.1644

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★QaT2tJX4Q0_gaI

生きる力が漲ることは、自分は他者の生命、生活を脅かし、自分の生命、生活を守るために闘争的になることと変貌はない。自己の加害性が止まらないことと、生き抜く力とは変わらないことだと思います。

人間は自分の生活・生命を守るためには、他者の生存すら、脅かせずにはいられない、殺人犯と変わらないのである。

2ヶ月前 No.1645

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★QaT2tJX4Q0_gaI

競争社会とは、他者を傷つけ、傷つける他者の気持ちを汲み取ることなく、鈍感さを備えた自分は、鋭利な刃物で他者に攻撃し、攻撃する我は、まるで、勝者になったかのように傲慢さを露わにし、鋭敏さは、生き抜く力にはならないことである。鈍感さは牙を見せつけ、鋭敏さは自らの罪に苛まさせる。自分とは勝ちを得ない限り、躯になるのである。

2ヶ月前 No.1646

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1605 のつづき

【人道的介入に関するルール化】
 しかし、国連に代わる上位の権威がない中、介入国の良心の正しさと行いの真正さをだれが判定できるのか。

 90年代のコソボでは、軍事介入の是非や誤爆が問題になった。
 結果として、コソボに関する独立国際委員会は、このNATOの軍事介入は、「違法だが正当」との結論を下した。
 このように、人道的介入に関する国際法は確立していない。事例に応じて、試行錯誤が続いている状況だ。

 自分が人権侵害を受けている当事者として考えた場合に、どうしてほしいのかを考えることは重要である。ロールズの無知のベールにより、最も悲惨な状況にある人の立場で考え、行動することを共通の価値して諸国が受け入れるよう、カント道徳論の応用として、それを国際的な道徳として普遍化し、国際法として確立していく道を探る必要がある。

 そして、人間性の尊重をはじめとする人類共通の価値を共有し、確認する取組、共有する国を増やす取組が不断の努力として国際社会で行われなければならない。

2ヶ月前 No.1647

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★QaT2tJX4Q0_gaI

他者の生命・生活を脅かし、自分の生命が危なくなるのかもしれないという恐怖心は、社会を成している人間を闘争的にし、闘争している自分に気づかないのが、人間というものである。自分が生き残るためには他者の生存を脅かせずには、自分の生活保障・生命を維持できなくなることを更に、大衆に鞭うち、鞭振るわれた人間は恐怖心で、他者の人生を砕いてゆく。

それを是としているのが、資本主義社会なのだ。

2ヶ月前 No.1648

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1647 のつづき

★世界平和実現の条件に関する所見4
 国際社会は、国連憲章前文で、「すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した」としているのであるから、加盟国が国連の理念に逆行するような状況に陥っている場合、恣意性を排除した、しかるべき対応をとることのルールづくりをもっと進める必要がある。

 また、 >>1598 の最後で指摘したように、大国が自らの利害から紛争を起こしたり、加害側を支援したりしていることもあり、道徳法則を国際法として生成していくには、大国の参加がないと有名無実化してしまう。
 むしろ、もっと国際社会における人道的介入の是非や手法に関するルールづくりの議論を、大国が主導していくべきだと思う。ここでも大国の民主化が大きく貢献する。

2ヶ月前 No.1649

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1649 のつづき

 これまで述べたように、帰結主義的立場に立つしかないと思うが、その限りにおいて、介入の正当性は事後にしか判明しない。
 介入を決断するときは、するべき行いになるかどうかは誰にもいえない。
 被介入国の同意が得られないことも、当然想定すべきである。
 ソマリアに対する国連PKOは、当事国の承認はなかった。旧ユーゴ内戦に対するNATOの介入についても、当事国の承認はなく、安保理決議もできなかった。(ロシア、中国の反対)
 それでも、国際社会で共有されるべきルールに従い、正しい意図を持って介入に踏み切るべき時があると思う。100%正しいという決断は無理であることを認めた上で、それを100%に近づける努力がなされなければならない。

★所見5
 介入には、事後の検証に耐えうる行動を促すとともに、その記録とより適切な介入のしかたを追求することが重要である。

2ヶ月前 No.1650

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1650 のつづき

 これまで書いたように、他国に軍事介入するのは、難しい決断だ。相手国の承認・要請もなく、国連安保理の決議も得られない場合もあったし、これからもあるだろう。
 コソボに関する独立国際委員会によるNATOの軍事介入は、「違法だが正当」との結論は重い。

 何もしないことが、悪の場合もあるというのが、これまで考えた結果の感想だ。
 下は、紛争当時のユーゴ国内各州の民族比である。
 誰が正義なのか、誰に権利があるのか日本の感覚ではとられきれない現実がある。

 スロベニア     クロアチア 78 セルビア 12 ムスリム 0 アルバニア 0
 ボスニア・ヘルツェゴビナ   クロアチア 17 セルビア 31 ムスリム 44 アルバニア 0
 コソボ       クロアチア 0 セルビア 10 ムスリム 0 アルバニア 90

2ヶ月前 No.1651

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1651 のつづき

 これまで述べてきた「戦争」と「国内紛争」に対する世界平和実現の条件に関する所見をあらためてあげておく。

★所見1
 国家が自衛のための戦争や武力を行使することは、その使命として行う限り、やむを得ないという立場をとろうと思う。ただし、国際人道法に則った理性的な行動( >>1195 )が求められる。

★所見2
 戦争をより確実に防止するためには、民主主義的統治の拡大が極めて重要と考えられる。

★所見3
 介入する能力があって、人道的危機が急迫し、当事者が自力で対処できない状況にあるなら、帰結主義的な思考で、介入すべきではないだろうか。もちろん、介入による双方の人命喪失の可能性や内政干渉の問題を十分考慮に入れるべきだ。

★所見4
 国際社会は、国連憲章前文で、「すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した」としているのであるから、加盟国が国連の理念に逆行するような状況に陥っている場合、恣意性を排除した、しかるべき対応をとることのルールづくりをもっと進める必要がある。

★所見5
 介入には、事後の検証に耐えうる行動を促すとともに、その記録とより適切な介入のしかたを追求することが重要である。

2ヶ月前 No.1652

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1652 のつづき

 カントは、「永遠平和のために」の中で、次のように述べている。

 人間は、自発的に国家をつくったのではなく、敵対的な状況下で、自己の生活が侵害されることにより、集団として防衛をするという自己利益的観点から、法的状態に入り、国家をつくった。
 人間は、邪悪であるがゆえに、戦争が生じ、それを回避しようと平和を作り出そうとする。道徳や理性の導きだけでは、平和はつくられない。何らかの人間の本性に裏打ちされていなければ、平和は達成されない。むしろ、人間の本性が邪悪だから、理性によってその傾向を活用すれば、平和は導かれる。

 国際的な平和連合であって、世界国家であってはならない。地域や少数民族の権利や文化が引き継がれない。積極的な理念である世界国家は、目的が手段を正当化し、独立運動が起こった場合、暴力的にとどまらせる必要が生じ、内戦が起こる懸念がある。
 国際的な枠組みに、当事国が関与するようにすることで、実効性を持たせる。国家間の経済的交流は、貿易による相互利益の喪失を回避するため、戦争を抑止する。

 悪魔でも、知性があれば、法律を作り、平和をつくることができる。利己心を認めたうえで、公平になる方法を考える。
 世界平和は、利己心や欲望を抑えて達成するような努力目標ではなく、欲望や利己心を活用する方法を考えて実現しようという努力目標である。人間が利己心に満ちて活動している中にも、平和に向かっていく要素が隠れている。

 そして、すべての人のまなざしに堪えうるよう行動する必要がある。

 カントの理念と理想は、まだ輝きを失っていないように思える。

2ヶ月前 No.1653

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1653 のつづき

  >>1596 で、エール大のブルース・ラセット教授とアラバマ大のジョン・オニール教授は、「民主主義国家どうしは、まれにしか戦争をしない」という理論は、「あまねく認められているわけではないにしても、一般的には承認されている」ということを実証的に示したと述べた。以下は、参考である。

 元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一氏の投稿記事によると、両教授が発表した『Triangulating Peace』(2001)において、1886年から1992年までの戦争データについて実証分析がなされており、それによると、戦争のリスクは、
(1)きちんとした同盟関係を結ぶことで40%、
(2)相対的な軍事力が一定割合(標準偏差分、以下同じ)増すことで36%、
(3)民主主義の程度が一定割合増すことで33%、
(4)経済的依存関係が一定割合増加することで43%、
(5)国際的組織加入が一定割合増加することで24%、
 それぞれ減少するという。

 まず、戦争の原因を取り除くべきで、それから民主化が侵略や開戦のハードルを高くするのである。

2ヶ月前 No.1654

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1654 のつづき

 先走って、仮に世界平和が達成されたらどうだろうと考える。世界平和の次に何が起こるかは予想できない。
 民主制から独裁制が生れるメカニズムを封じる社会文化の形成と政治的なシステムが必要になってくるだろう。
 民主化後、武装・暴力集団の出現や個人による国家を揺るがすような犯罪行為をどう予見し、防いでいくのか。まだ心配は早いか……。

 この次は、貧困と不平等について、考えていきたい。

2ヶ月前 No.1655

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1655 のつづき

 人は、この地球上で、今この瞬間、同じ時を生きる他者の生命を脅かす貧困について、何をなすべきなのか。

 心ある人、志のある人だけが自らの意思で関わるべき問題なのか。

 貧困に苦しむ人々を救い出し、人生を歩む手助けをいったい誰がすべきなのか。

 それらは、そうすべき理由をいかに説得的に語れるのかにかかっている。
 「貧困の倫理学」(馬渕浩二 平凡社新書)には、6つの理論が紹介されているので、それらを参考にしながら、自分としてどれが一番しっくりくるか批判的に吟味してみたい。

1ヶ月前 No.1656

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1656 のつづき

シンガー:功利主義的援助論

 シンガーの主張は、「貧困が原因で苦しんだり、亡くなったりすることは、悪いことである(功利主義の原理)から、この悪(苦)を防ぐことができ、同じぐらい重要な何か(快)を犠牲にすることなくそうすることができるのであれば、そうしないことはまちがっている。援助は義務であり、先進国の人は援助団体に寄付すべきである」というものである。(ただし、寄付以外の貢献を認めているかどうかは不明。)

 シンガーは、防ごうとしている苦と同程度の苦または快の減少が援助者に発生しない限り(限界効用を超えない限り)、援助の義務を負うと考える。したがって、援助者はライフスタイルの変更−自らの生活水準の低下を迫られ、重い負担を負うことになる。
 そして、援助者と被援助者の地理的距離は関係なく、貧困者を救いうる者が複数いても一人一人の義務は減じないと考える。
 これに対して、地理的距離に関係なく、義務がある理由が明示されていないことや、重い負担を負うべき必然性や根拠が述べられていないとの批判がある。

1ヶ月前 No.1657

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1657 のつづき

シンガー:功利主義的援助論に対する私見

 シンガーは、豊かな国の人に生活スタイルを変えるほどの負担を要求するが、義務の必然性がもっと明確でないなら、その履行を求めることは現実的ではないだろう。シンガーの主張は、原理的には、悪(苦=貧困)が存在する限り、援助が必要になることから、豊かな国の人々は豊かさを享受することが大きく妨げられ、所得を増やす努力をする人が少なくなり、投資に向けられる財も当然減少するので、イノベーションや社会の活力そのものが消失に向かうかもしれない。そうなれば、援助する人自体(=豊かな人々)が減ってしまい、援助が縮小あるいは貧困がむしろ拡大するかもしれない。

 また、援助者一人一人に、公平性の原則から、すべての人を救う義務が課されるとすると、それは、ビルゲイツなどを除き、ほとんどの人には実行不可能なことになろう。
 個人対個人ではなく、集団対集団の視点も必要ではないだろうか。功利主義に、一定の利害を共にする集団内の倫理基準という考え方はないのだろうか。たとえば、国家といった一定の集団を構成していることに合意のある集団外への適用についてはどうなのだろうか。

1ヶ月前 No.1658

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1658 のつづき

シンガー:功利主義的援助論に対する私見(2)

 見知らぬ国の見知らぬ人々も含めた対象への援助の義務を求める功利主義はコスモポリタン的思考を持つ個人にしか受け入れられないように思う。近いところへの援助の優先を認めないのであれば、これも義務を受け入れがたいものとする一つの要因となるだろう。

 そのほか、シンガー原則に対しては、功利主義そのものに向けられた批判として、援助の在り方が視野に入らない、帰結の測り方が困難で、短期・長期で評価が変わる、帰結の完全予測は無理、早い援助がより大きな飢餓を生み出すこともある、何が利益かニュートラルに決定できるか、援助者の独断に陥らないかといったことにも答えなければならない。

 したがって、国民の幸福追求といった異論のない義務を負った国家の立法上の指針としては、機能しても、国家間や個人間の義務を根拠づけるには難しいと言えよう。

1ヶ月前 No.1659

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1659 のつづき

オニール:カント義務論

 オニールは、権利はそれを支える義務がないと空虚であるとして、義務論であるべきと主張する。
 貧困者への援助は、カントの定言命法の定式により、道徳的義務の確認を行い、普遍化可能性であれば、義務になると考える。
 カント的に正しい世界は、その経済的・社会的・政治的構造が普遍化可能な原則に依拠しているような世界だという。具体的には、非強制の義務(殺人・傷害・窃盗・脅し・暴行などの禁止)を普遍化可能としている。

 オニールは、そもそも人間は、身体的存在であり、脆弱で傷つきやすい本性を持っており、他者による支えが必要な存在であると捉える。
 したがって、身体的ニーズを持たない者は他者に依存する必要がないが、通常人間は、自らのうちに自足できず、他者に助力を求めることが運命づけられているとする。

 そして、現実の世界は、当然、最低限の物質的ニーズが満たされた世界ではない。よって、物質的ニーズが満たされていないのであれば、人格として尊重されるようになるまで、境遇を高める義務がある。

 そのように目的の定式は、異国で貧困に苦しむ者たちが私たちと同様、理性的な行為主体でありうることを保障しうるよう要請する。

 このことから、シンガーのように結果がよければ(被援助者の利益が向上するなら)、何でもよいのではなく、紐付き援助の是非など援助行為のあり方として、相手の存在を目的として尊重しているかが問われることになる。

1ヶ月前 No.1660

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1660 のつづき

ポッゲ:加害としての貧困(1)

 ポッゲは、異国の他者を貧困状態に置くことは、一個の加害行為で消極的義務に反すると主張する。

 ここで、消極的義務とは、他者に危害を加えないよう命じることであり、積極的義務とは、他者のための貢献を求めることを意味する。この場合、義務の強さの程度からいうと、積極的義務より消極的義務の方が強いことになる。

 ポッゲは、消極的義務(危害を加えないこと)は、超教派的であるという。とくにリバタリアンのような自由を最大限追求し、徹底した自己責任を受け入れる主張をする者にも、同意しうるということを意味する。

 世界的に生じている貧困という基本的人権の侵害は、加害行為が存している状況である。そして、それを放置することは悪であり、その悪を為している加害行為を差し控えなければならないのである。

1ヶ月前 No.1661

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1660 のつづき

  >>1661 の「ポッゲ:加害としての貧困(1)」の前に以下を投稿するのを忘れていました。

オニール:カント義務論に対する私見

 人間が、脆弱で傷つきやすく、他者による支えが必要な存在であるとすることは、説得力があるように思う。
 これをカントの定言命法により、普遍化可能な義務とできるかがポイントであろう。

 たとえば、健康保険や年金は、それをいま必要としない人も含めて、必要になったときのために制度をつくり、自分にも他者にも加入する義務を負わせる普遍化が行われていると考えれば、どんな人も、貧困に陥ったとき、社会的に支援が行われるべきだと普遍化して支援を義務化できるようにも見える。いずれも脆弱で傷つきやすく、他者による支えが必要な存在であるという前提から考えると、必要な支えへの負担は受け入れられるのではないだろうか。

 ただし、セーフティネットとしての社会保障制度や生活保護制度を構築することにおいては、国民国家内では、自然な発想ではなるが、見知らぬ国の見知らぬ人々となると、すこし事情が異なってくる。もともと、殺人や窃盗の禁止ほど強い義務ではないところ、国外の領域への拡大により、さらにその拘束力は弱いものとなる。また、目的の定式で、人間の尊厳の保障についても同様であろう。

 シンガーにも言えることだが、なぜ、そのような義務を負う豊かな国やその国に住む豊かな国民が他にもいるのに、自分がその義務を率先して負わなければならないかという疑念を打ち砕く、理路が不足しているように思える。

1ヶ月前 No.1662

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1662 のつづき

ポッゲ:加害としての貧困(2)

 このとき、貧困の原因に加担している者に強い義務(消極的義務)が課される。権利侵害的な不正な制度や状況のもとに生きながら、その制度を変更しないなら、この消極的義務に反するのである。この場合、加害に加担した程度に応じて貧困問題の解決義務が割り振られるべきこととなる。

 たとえば、次のようなことが加害的であるとされる。
@WTOのようなグローバルな制度自体
Aグローバル資本による資源の所有
B過去の征服や植民地支配下での不利な状況

 このポッゲの主張に対する批判として、
@特定の個人や集団(先進国の)が危害が与えているとはいえない。
Aグローバル化以外の理由(病気・災害)で生じた貧困には適用できない。
Bグローバルな制度がどこまで貧困の原因となっているかは一概に言えない。
などが提起されている。

1ヶ月前 No.1663

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1663 のつづき

ポッゲ:加害としての貧困に対する私見

 不正の制度の下に生きることは、その不正を被っている人々への一種の加害に加担しているといえなくないが、大多数の先進国に住む人々は、制度の検討や創設に直接関わっていないし、制度の恩恵を受けている人もそうでない人もいる。

 グローバル資本による資源の所有においても、ほとんどの個人は影響を与えることなく、無力であろう。(特定企業の商品に対する不買運動に訴えることはできるかもしれない。)

 過去の植民地支配に乗じてもうけた人や失敗した人はいても、政府の行為を止め得た個人はまずいない。そして、日本を例にいうと、世代が違うので、直接的に関わった人はもうほとんどいない。

 よって、この意味で、加害を問題にする場合に、個人を相手にすることはかなり無理がある。それに、制度を変更しないことが咎められるなら、援助ではなく、制度を変えるよう努力するのが筋であろう。したがって、この議論は、個人より国家に対しての方がより妥当性があると言える。個人はその政治過程にコミットしていく図式ならあり得る。

1ヶ月前 No.1664

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1664 のつづき

ロールズ:正義論(1)

 どのような取り方なら均衡が実現するのかの基準を決定し、その基準に従って、各人に持ち分を与えるという配分的正義というのがある。

 ロールズは、この配分的正義として、次の原理を主張した。

 第一原理 万人に平等に自由を承認するよう命じる
 第二原理 社会的・経済的不平等が許容できる条件は次の2つ
     1 不平等が最も不遇な人々の期待便益を最大限にしなければならない。
     2 公正な機会の均等という条件のもとで全員に開かれている職務や地位に付随するものだけに不平等を認める。

 第一原理からは、不平等の発生は避けがたい。そうして発生した不平等のうち、許容可能なものとそうでないものの線引きを第二原理で行う。

 ロールズが提案する思考実験として、「無知のヴェール」というものがある。自分の境遇や能力などについての情報を遮断した場合(無知のヴェールをかぶった場合)、人は、どのような原理を正義として選ぶかを考えるものである。

 人は「無知のヴェール」のもとでは、上記の第一原理・第二原理を正義の諸原則として選択するだろうと、ロールズはいう。

 しかし、格差原理の国際的な適用については、ロールズは消極的である。それに対し、批判が向けられている。

1ヶ月前 No.1665

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1665 のつづき

ロールズ:正義論(2)

 ロールズによれば、社会とは、「参加者の利益を増進することを狙った共同のシステム」であり、「相互の相対的利益を目指す協同的企て」であって、自足した社会内部の協同によってのみ成立するような閉じられた空間として存在するものである。

 よって、自然資源の配分の合意として、国を超えた再配分などについて、国家間の平等は確保されるが、社会の基本構造を律する格差原理は、社会内部に限定されると考える。

 また、ロールズの格差原理には、基底線を示していないとの批判が投げかけられている。基底線とは、もうそれ以上下回ると許容できない不平等となり、正義に反するという水準をいうが、ある実験では、被験者は、格差原理より最低保証原理(基底線)の方が多く選択されたようだ。

1ヶ月前 No.1666

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1666 のつづき

ロールズ:正義論に対する私見

 正議論は、国家など、閉じられた空間の権力に対する要請であり、社会制度の正当性を導くための主張であると思う。世界政府のない国際社会に同じ要請ができるとは思わない。それは、ロールズの社会についての理解からして、そう考えるべきだ。

 仮に国境を越えて、世界中の人々が自由を享受することを制度的に保障し、侵害に対処し、格差原理に基づく不平等の是正を行う機関―世界政府―があるとしたら、ロールズの正議論はその有効性を発揮するだろう。逆に言うと、今の国際社会には、ロールズの社会の要件を満たしていないということである。

 また、基底線が提示されるべきであるとしても、それはテクニカルな要請であって、それが明示されていないことで、ロールズの格差原理の妥当性が損なわれているわけではない。実務的に合意を形成し、基底線を示せばよいのだと思う。それはおそらく可変的なものになるだろう。実際には、「もっとも不遇な人々」の定義が必要になるはずだ。

1ヶ月前 No.1667

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1667 のつづき

シュー:生存権(1)

 シューは、権利から出発して、貧困の解決を目指す。
 つまり、ある状況が権利を侵害しているなら、その状況は正されなければならならのであって、世界的貧困状況は貧困に苦しむ人の権利を侵害しているのであれば、世界的な貧困は解決されなければならないと主張する。

 歴史的に、権利は、経済活動や言論についての自由などの自由権(第一世代)、教育、基礎的医療、雇用などの社会権(第二世代)があるが、この二つの間には、緊張関係が存在する。それは、ある者の社会権の行使により、他の者の自由権が制限されるべきではないとする考え方がある(自由権の優越)。

 シューは、ある権利を支える義務を相関的義務と呼ぶ。
 自由権に関する相関的義務はその自由権の行使を妨げないといった消極的なもので、それに伴う負担は比較的軽い。一方、社会権は、教育、医療、雇用の提供といった積極的なもので、大きな負担(財産権の制約)が伴う。

1ヶ月前 No.1668

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1668 のつづき

シュー:生存権(2)

 これに対し、シューは、この二分法を乗り越え、新たな二分法を提示する。
 シューは、身体的安全権(殺人・拷問・暴行を受けない権利)や生存権(最低限の衣食住や基礎的医療等を受ける権利)を基本権という概念で捉える。

 基本権は、それが侵害されると他の権利が保障されなくなってしまう性質を持つ。例えば、自由権としての財産権の行使も、基本権たる生存権が保障されていないと実現できない。「自由権の優越」とは逆に、基本権は、最低限の要求として優先されねばならない。

 この場合、誰かが権利を持っているとすると、その権利の行使が妨げられず、実現しうるように、社会的に保障されていなければならない。このようにある権利は、その実現を支える相関的義務を生み出し、その義務に支えられることで実質化する。

1ヶ月前 No.1669

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1669 のつづき

シュー:生存権(3)

 権利を実現する義務には、1 自由を剥奪しない義務、2 剥奪から保護する義務、3 剥奪された者を援助する義務 があり、それらは、社会的・制度的なものでなければならない。シューにおいては、権利と義務が一対一対応しているのではなく、義務が多層的である。

 国民が異国の貧困者の生存権を保障する義務を持つとすれば、公正に負担するため、フリーライダーを少なくし、国民の義務が国家によって、代行されなければならないと考える。

 また、各人がバラバラにやるのではなく、効率的な方法で行う必要があるため、課税制度を通じて義務が履行されるべきであるとする。

 なお、国家以外の手法の検討はされておらず、生存権を棄損したものほど保障の義務が大きいとい視点がないといった批判がある。

25日前 No.1670

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1670 のつづき

シュー:生存権に対する私見

 シューが基本権という概念を用いることで、生存権を自由権に優先させたことは的を得ていると思う。

 ブルジョワ革命によって、王権からの侵害を防ぐ自由権が最初に獲得されたことは、歴史的事実だが、その後の大衆民主主義の登場によって、国民全員に基本的人権を保障する見地からは、社会−経済権の今日的意義は大きい。

 ただ、権利の実現を保証するのはやはり義務であり、生存権を普遍的なものと見なせば、オニールの義務論に骨格が似てくる。
 そして、シューの基本権たる生存権の保障の主張は、オニールの脆弱な存在としての人間に手をさしのべる義務と、全く別の物であるようには思えない。

 効率性や公平性の問題から、国家による援助や課税を実現手段としてあげていることも、現実的で受け入れやすい。ただし、非政府組織や個人の活動を否定するものではなく、それらが併存し、補完関係にある状態でよいと思う。

24日前 No.1671

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1671 のつづき

セン、ヌスバウム ケイパビリティ・アプローチ(1)

 ケイパビリティとは、個人に備わる可能性の幅を意味する。つまり各人がなしうること、各人がなりうることの幅が広くなるなら、それに応じて自らの人生を自らの選択によって、かたちづくるチャンスが、より多く与えられることを意味する。

 ケイパビリティ・アプローチは、国連の人間開発報告書において、世界各国の開発状況を分析し、人間開発を促すための枠組みとして採用されており、センは、ケイパビリティを開発援助の基本に据える。

 したがって、開発の目的は、経済発展ではなく、自らの生を自らの意思により決定する可能性を拡大させることである。そこでは、貧困は低所得と同一視されていない。所得も含めた各人が持つ財とケイパビリティ、それによって実現されること(機能)は、個人の身体・能力・状況により差異があるものの、生の三肢構造(財→ケイパビリティ→機能)を構成する。

23日前 No.1672

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1672 のつづき

セン、ヌスバウム ケイパビリティ・アプローチ(2)

 センにおいては、ケイパビリティ・アプローチは人間開発の達成度を示す尺度であり、ヌスバウムにおいては、最低限のケイパビリティを正義の必要条件として提示するものと捉える。

 ヌスバウムは、ケイパビリティのそれぞれは、国家や文化の差異を超えて各人にとって重要とされる普遍性を有しており、人間一人一人の生が尊重され、それぞれ目的として扱われなければならないと主張する。

 最低限のケイパビリティへの権限をすべての個人に承認し、地球規模で実現するその義務が人類全体に課される。

 しかし、各人の生活状況に応じて軽重があり、豊かな国のGDPの2%を供することを求める。

18日前 No.1673

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1673 のつづき

セン、ヌスバウム ケイパビリティ・アプローチに対する私見

 ケイパビリティ・アプローチの意義は、一見それなりの生活水準が確保されていても、その中に自由が大規模に剥奪された世界が視野に入ってくることだ。所得が増えても子供や女性の人権が尊重されていない状況では、真の意味で目的として扱われることが達成できていない。

 また、開発援助のあり方に踏み込むには有用だ。同時に尺度としても有効だが、技術的困難がつきまとうだろう。

 このケイパビリティを保障することで、各人の努力と選択によってそれぞれの人生という結果が生じるという意味では、機会の平等を確保した上での自由主義的な主張ととらえることができ、ロールズの正義論に近いものがある。そして、ケイパビリティ・アプローチは、功利主義の結果主義、カント義務論につぐ、第三の概念ともいえる。

 しかし、ケイパビリティ・アプローチによって、義務を負わせられるかについては有効な理路が示されていないように思う。

16日前 No.1674

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_9Xi

えぴめてうすさん

いくらトピ主さんが「いいよ」と言ってくれたとしても

ここはメモを書く場所じゃないんです。

人々が交流する場なんです。


独り言を書くのはやめてくださいよ。

13日前 No.1675

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★QaT2tJX4Q0_sxd

ゆみさん

真摯な生きざまとは、一庶民として此の世に生を受け、一庶民として、最期を迎える。庶民の総意が民主主義を支え、平和を享受するのです。ゆみさんのご年齢は分かりません。未だ、お若い方かもしれません。私は既に、五十一歳、白髪だらけの髪に、髭も白髪だらけです。若い方々のように、社会の方からも、そう多くは求められません。


ゆみさん。


私くらいの年になると、一庶民として生を受け、平和を享受しながら、最期を迎えるというのは、実に難しい話になるんですよ。

13日前 No.1676

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_9Xi

ペガサスさん

何がおっしゃりたいのでしょうか。

13日前 No.1677

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★QaT2tJX4Q0_sxd

平和を享受可能だという証左は、世界のパワーバランスに異変が起きれば、あっという間に有事(戦争)になってしまうということです。史家は忠告します。興亡を繰り返さなかった国家は、史上、ひとつもない、と。

13日前 No.1678

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_9Xi

ペガサスさんへ

とりあえず私の意見はえぴめてうすさんに言いました。

13日前 No.1679

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★QaT2tJX4Q0_sxd

ゆみさんのご不満はわかりますが、議論参加は本人の自由意志が尊重されます。

13日前 No.1680

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

ゆみさん

>>独り言を書くのはやめてくださいよ。


 私の投稿の趣旨は、 >>1642 で述べさせていただいたとおりです。

  >>0 「歴史上、一度も人類に在り得なかった、世界の恒久平和の実現には、何が必要な条件なのか、真剣な議論を深め」たいという想いです。

 そのために、ゆみさんも「世界の恒久平和の実現」についてのご意見を投稿いただければと思います。別に私の投稿のどの部分にご意見をいただいても、私の投稿と関係なくても、もちろん構いませんので、よろしくお願いします。

11日前 No.1681

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1674 のつづき

次に、現状において、どのような動機で援助が行われるのか、可能性も含めて、類型化して考えてみたい。

(国家による援助)
1 何らかの事情により、ある国家が他国や自国民以外の人々を援助する必然性があり、国家が主体的に援助を行う。(例:過去の不当な加害、伝染病の拡大防止、難民化回避などの自国防衛)
2 短期的あるいは長期的視点から、特定の国や困っている人々を助けることが、自国の利益にもなると考えて、国家が援助を行う。
3 人権や人間の尊厳を尊重すべきであるとの理念や国際的な合意に従って、人道的な援助を行う。

(国際的・地域的援助)
4 国家による援助をより効果的・強力に行う手段として、地理的に近い国々や国連といった国際組織が共同して援助する。

(個人による援助)
5 個人の特別な事情で援助をする。(例:被援助国が祖国だったり、その国で恩を感じる体験をしたり、親族・知り合いや友人がいたり、将来の経済的利益を期待する場合など)
6 何らかの個人的な信念で、貧困をなくすことを正義と考えて自ら行動する。

10日前 No.1682

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1682 のつづき

 では、そのような5や6の動機のない個人を援助に向かわせるには、どうすればよいのか。

 要は、5や6といった動機のある個人の援助を除く部分で、個人や国家の義務を議論し、最適な理路を選択し、それに基づいて義務の履行が図られるよう促すべきなのである。国家による説得か、理念を訴えかけ、賛同者を増やすのか。
 そしてその際、これまで見てきたどの理論が最も説得的か。

 私は、貧困をなくす取組に、統一的な理論や合意を目指す必要はないと思う。むしろ、援助の目的は多様であってよい。NPOなどが援助する場面では、それぞれの援助主体の目的や自由意思が尊重されるべきで、多様な主義主張が併存していてよい。(ただし、組織間や政府機関との積極的な連携や調整は必要であり、その議論は避けて通るべきでない重要な論点である。)

 それと同じで、援助に同意し、行動を起こす個人の動機や考え方の多様性をそのまま受け入れることを基本姿勢にすべきだと思う。

9日前 No.1683

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1683 のつづき

 そういう意味では、功利主義が主張するように、どのような動機であっても、貧困削減の結果が得られれば、それでよいことになる。(ただし、多様性を認めることによって、功利主義に向けられる批判がなくなるわけではないので、アプローチのしかた、プロセス、動機、短期・長期の評価といった課題は、依然として残っており、それはそれで対処されなければならない。)

 また、義務と超義務の境は、個々人にとっては、ある程度、明確なものだと思う。つまり、義務として行うときと、超義務として行うときとでは、人の意識や行為に対する評価が異なるだろうから。

 とはいえ、その境が、人類共通かというと、おそらくそうではなく、時代・文化・宗教・思想・信条によって流動的であり、明確な線を引くことは難しいだろう。

4日前 No.1684

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1684 のつづき

 ここまでの議論を踏まえて、自分として一番、しっくりくる答えを考えてみる。

 まず、何らかの動機がない人に対して、援助すべきことを、義務として課すことはできないだろう。それは、6つの理論をレビューした率直な感想であり、結局のところ、様々な背景や価値観の違う人たちみんなを説得できる理路は見いだせなかった。

 それぞれの個人が自分に合う理論に出会うことを期待し、世の中で実践される援助とその結果が広く共有されるような状況を目指すことが大事だ。

 豊富な情報の発信と受信がなされれば、理解と共感が生まれ、追随しようとする人や協力者が増えると思う。

3日前 No.1685

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>1685 のつづき

 また、批判や共通認識も重要で、何が一致でき、何が一致できないのかがわかることで、連携・協働の輪も広がるように思う。

 これは、超義務の世界だと思うが、唯一、個人に義務を課す形で援助が行われることになるのは、紹介したいくつかの理論でも述べられていた国家による課税とそれを財源とした援助である。

 国家による援助にも、カテゴリーの違う動機があるが、貧困については、人道的見地から行動する環境を作っていくべきだろう。その環境づくりこそ、国連その他の国際機関が中心となるべきであり、大国の利害とは別の倫理的側面を重視した取組が進められるべきだ。たとえば、諸々の援助ルールづくりや、目標設定と参加国間の合意形成などである。

 今後、世界が破壊に向かうにとも、平和が達成されることも選択肢として残されており、どちらをつかみ取るかは、我々にかかっている。

2日前 No.1686
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