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世界平和は実現するか。 Part2

 ( 哲学掲示板 )
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ペガサス ★wX4sgLA167_TZg

「世界平和は実現するか。」というトッピクスを立ち上げたのは、ゆにこ氏でしたが、ご本人が登場しないので、私がトピックス主として、新しいトピックスを立ち上げたいと思います。

歴史上、一度も人類に在り得なかった、世界の恒久平和の実現には、何が必要な条件なのか、真剣な議論を深めて頂けると幸いです。

1年前 No.0
メモ2018/03/31 17:36 : Mobius☆iuWFdm42ChI @mobius★iPad-XaDQxMu5Oy
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★JnbOLtjbqq_XGK

>>1421

>これには2つの事があるように思います。


ここの2つ違いをもう少し掘り下げて考察してみましょう。

1つ目は、思わぬところで石に蹴躓いて転んでしまった場合等。その個人の意思(心で思い描いている世界)とは無関係に事(それが具現化する外の世界)が起こる場合です。

2つ目は、自身の自由意志での選択行為以外の選択肢しか得られない場合です。例えばの、交通事故や自爆テロに巻き込まれてしまった場合等です。この場合には、その個人の自由意思による選択行為とは無関係の結果が眼前に広がりますね。

一見すると、1も2もその個人が心で思い描いている世界とは無関係に、突如として異質な世界がその外の世界に現れるという事です。どちらにしてもその瞬間には、その個人の意思ではどうする事もできないという事が共通項ですね。では何が違うのでしょうか?

1の場合、例えば、雨上がりのデートの日の朝、玄関を出たところで蹴躓いてドレスが水たまりの水で濡れてしまい、気分が台無しになるというような事です。この場合には大抵「次は、気を付けよう」という事で、自らの自己責任的に日々処理されているように思われます。

そして、テーブルの角で足の小指を打ち付けてしまった場合等がこれにあたりますね。

2の場合は、例えば、デパートで母親が子供の手を離して買い物に夢中になっている時に子供がどこかに行ってしまい、迷子案内をしてもらうというのがこれにあたるように思います。このような時には大抵子供は叱られますね?(笑)「離れずに、じっとしていなさい」と。分けの分からないような事を言われたりしています。しかし、まぁ、これくらいならば普段の生活の中で気が付かなような小さな事ですが、これが大きくなると、交通事故や自爆テロ等に巻き込まれるという事にあたります。

1と2の違いは、事後にその不安や怒りに変化した感情をぶつける事ができる対象が、外の世界にあるのか?ないのか?でしょう。

1の場合には、水たまりにあたっても仕方がありませんので、大抵の場合には、自己責任として思い込めますね。しかし2の場合には、デパートの件では母親は子供にあたり、交通事故ならば相手の運転者にあたり、言うまでもなく自爆テロには、その国民や宗教や民族等にあたる事をします。これらの中間が、テーブルの角に足の小指をぶつけた場合です。

1の場合は、自己責任として水たまりには、その怒りや不快感をぶつけない。
2の場合は、他者の責任として、その対象にその不安や怒りをぶつけるという行為に至る。
その中間では、テーブルにその怒りを再度ぶつけて、もう一度痛い思いをする。(笑)

もしも怒りや不安等を、自身の心の中で制御、制止できたとすると・・

1では、子供が見つかった喜びしか残りません。(子供も不条理な怒りをぶつけられません)
2では、その国民や宗教に対しての差別的言動がなくなります。
3は、どうでもよいです。(笑)強いて言うのであれば、2度目の痛い思いは避けられますね。

ですので怒りや不安等を、自身の心の中で制御、制止できたとすると・・

>>1421
> 周りで起こる事全てを受け入れるという事です。もしもこれができれば、その個人の心の平穏、平和は獲得できるでしょう。


と書きましたが、これも簡単なようで、結構難しいのかもしれません。以上です。

9日前 No.1423

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_zRF

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9日前 No.1424

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>1421  時さん

>私なりに「平和・平穏」を言い換えると、「心で思い描いている世界」と「具現化する外の世界」の一致です。

>ではどのようになれば「平穏、平和」が実現するのでしょうか?

>これを文字でつづることは至極簡単です。「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとするのではなくて、「心で思い描いている世界」を「具現化する外の世界」に一致させてやればよいのですね。(笑)

>これを言い換えると、周りで起こること全てを受け入れるという事です。

>もしもこれができれば、その個人の心の平穏、平和は獲得できるでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お見事です。

>>1421 で述べられていることは、かなりの点で私の考えとも一致しているのですが、次のように言われていることには少し驚きました。
>>1423
>> 周りで起こる事全てを受け入れるという事です。もしもこれができれば、その個人の心の平穏、平和は獲得できるでしょう。

>と書きましたが、これも簡単なようで、結構難しいのかもしれません。


特に「簡単なようで」とお書きになるところが「さすが」だと思いました(笑)
これは時さんだから言えることで、私なんかとても言えません。
簡単どころか、人生最大の課題・難題であり、言い過ぎ覚悟で言えば、実存思想も宗教の存在意義もある意味全部ここにあるとさえ思うからです。
私としては、簡単だったら、人間そもそもこんな苦労というかジタバタなんてしないと思うんですけど(笑)

私はあなたのおっしゃる「平和、平穏」すなわち「心の平和」を、スレタイが問題にしている現実世界の平和とは完全に区別して考え、「心の平和」を「幸福」と考えています。
これは言葉の違いにすぎませんが、もう少し実質的違いもあります。
それはSumioBabaさんの考えの評価に関するもので、私見では、利己的遺伝子の論理の通俗解釈的流用と思いますし、このあなたの言う「(心の)平和」の問題を、Babaさんの枠組みで解決することは無理だと思っています。というのも、

>上記での「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事とを一般には「自己中」と表現されているのでしょう。実際にはこのような事は不可能な事なのですが、それでも多くの人は、これに飽きずにチャレンジしていますね。


という文の中の「自己中」とは、Babaさんの言う「利己的」ということにほかならないと考えるからです。

たいしたことは言ってないですが(笑)、とりあえずここまでにしておきます。失礼しました。

8日前 No.1425

★QN2Z8QHYcd_XGK

>>1425  ザビビのふくろうさんへ

> お見事です。


拙い駄文に対して過分なお言葉を頂戴し、大変恐縮です。m(__)m(笑)

> 特に「簡単なようで」とお書きになるところが「さすが」だと思いました(笑)

> これは時さんだから言えることで、私なんかとても言えません。

> 簡単どころか、人生最大の課題・難題であり、言い過ぎ覚悟で言えば、実存思想も宗教の存在意義もある意味全部ここにあるとさえ思うからです。

> 私としては、簡単だったら、人間そもそもこんな苦労というかジタバタなんてしないと思うんですけど(笑)


ほめ殺しの言葉だと理解しつつも、調子に乗って少し書いてみます。(笑)

最終的に私自身の死、愛する者たちの不条理な死、その死に至る過程で沸き起こるであろう色々な事柄を含めた心情を、周りの人々を観つつ今まで嫌というほど思考しました。それを最短の言葉で綴ってみました。全てを受け入れる。。極論ですが、死さえ受け入れてしまえれば、何も怖いものはありませんし、最終的には人は死を嫌でも受け入れざるを得ませんしね。(笑)

> 私はあなたのおっしゃる「平和、平穏」すなわち「心の平和」を、スレタイが問題にしている現実世界の平和とは完全に区別して考え、「心の平和」を「幸福」と考えています。

> これは言葉の違いにすぎませんが、もう少し実質的違いもあります。


世界平和の「世界」をどのように様々な感性の持ち主であろう読者が捉えるのかを考えたとき、現実(普通)の世界と、観念的な独我論的世界観の両方を兼ねられる表現はできるかな?という事で書いてみました。勿論、ザビビのふくろうさんのように「心の平和」=「幸福」と捉えられてもOKですね。

> それはSumioBabaさんの考えの評価に関するもので、私見では、利己的遺伝子の論理の通俗解釈的流用と思いますし、このあなたの言う「(心の)平和」の問題を、Babaさんの枠組みで解決することは無理だと思っています。というのも、


> >上記での「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事とを一般には「自己中」と表現されているのでしょう。実際にはこのような事は不可能な事なのですが、それでも多くの人は、これに飽きずにチャレンジしていますね。


> という文の中の「自己中」とは、Babaさんの言う「利己的」ということにほかならないと考えるからです。


ザビビのふくろうさんのご認識は、了解しました。ですが、多分、違うように思いますよ。

釈迦に説法だと思いますが、私が書きましたのは一般的な自己中(利己的)の事で、これに対する表現として利他的がありますね。利己的と利他的のこの相対的概念をメタな視点捉えると、その利他的と表現されているものも、実はその人物が意識無意識無関係に望んでいることを行っているのだから→「自分の利益を最大にする行為を選択する」(利己的)だという風に表現されているのだろうなと理解しています。

それと、馬場さんの件に関しては、あちらでの議論を楽しく拝見しておりましたが、利他的行為を数学的な概念や利益と言う表現を用いて説明をされたことと、最終的にそれを「自分の利益を最大にする行為を選択する」(利己的)という結論に導かれたことで、まずは一般的には賛同は得られにくいだろうな・・とは感じつつも、馬場さんの仰りたい内容は理解していたつもりです。勿論、ザビビのふくろうさんも理解していると仰っていましたね。

以前にも少しお話したことがあったかと思いますが、私がお話しする場合には、お相手の世界観を理解するだけです。(笑)それで私は良いと考えていますので、参加のスタイルが哲学的ではないかもしれませんね。

> たいしたことは言ってないですが(笑)、とりあえずここまでにしておきます。失礼しました。


いえいえ、このまま私の駄文は、スルーの運命だと思っておりました。(笑)
お気遣いの返信をありがとうございました。

8日前 No.1426

★QN2Z8QHYcd_XGK

>>1426  補足です。

> 釈迦に説法だと思いますが、私が書きましたのは一般的な自己中(利己的)の事で、これに対する表現として利他的がありますね。利己的と利他的のこの相対的概念をメタな視点で捉えると、その利他的と表現されているものも、実はその人物が意識無意識無関係に望んでいることを行っているのだから→「自分の利益を最大にする行為を選択する」(利己的)だという風に表現されているのだろうなと理解しています。


現実のこの世界では、一般的に「利己的」と「利他的」という相対的な概念で表現されますね。

利己的は、自己中なんてあまり良くないイメージがあり、利他的は、他人の為の行為という風な良いイメージだと思います。

多分ですが、馬場さんが表現されたものは、この「利己的」と「利他的」という相対的な概念をメタな視点で捉えた場合に、利己的は利己的のままの意味合いで、単純に自身の思った通りにしたいという意味合いで使われたのだろうと思います。

一方、一般的な「利他的」は、これをメタな視点で捉えると、これも自身の思った通りにしたいという事で・・・その内容として、その人が「他人の為にしたい」という解釈になるかと思います。

この一般世界での利己的は「自身の思った通りにしたい」で、メタな視点での利他的は「他人の為に私が〜をしたい」=「自身の思った通りにしたい」という事で、同じものになりますね。

つまり、例えばの、バスの座席を人に譲る行為は、この一般の世界では「利他的」ですが、これをメタな視点で捉えると、これも「私は、他人に席を譲ってあげたい」という思いがその人の心に沸き起こりますので →その表現として「自身が思った通りの行為を行う」(利己的)ですという事だろうと思います。

ですので、この一般世界で相対する表現として「利己的・利他的」の2つしかありませんので、お話がややこしいだけのような気がします。(笑)そして、この一般世界では、利己的に相対する利他的という表現がありますが、メタな視点での利己的に相対する表現は、馬場さんの世界観の中では存在しないのではないでしょうか。

ですので、しつこいようですが・・

一般の世界観での表現では、

私は、バスで席を譲りません。 →  自身が思った通りの行為を行う(利己的)
私は、バスで席を譲ります。  →  他人の為の行為を行います  (利他的)

ですが、上記の「利己的、利他的」行為をメタな視点で捉えた場合には、

私は、バスで席を譲りません。 →  自身が思った通りの行為を行う(利己的)
私は、バスで席を譲ります。  →  自身が思った通りの行為を行う(利己的)

結果、どちらも「自身が持った行為をしている」となり、「利己的=自分の利益を最大にする行為を選択する」と表現されたのではないでしょうかね。もしかすると違うのかもしれませんが、私の捉えた馬場さんが表現された世界観は、このような感じのものだろうと思っています。

8日前 No.1427

★QN2Z8QHYcd_XGK

>>1427  失礼しました。訂正です。

> 結果、どちらも「自身が★持った行為をしている」となり、「利己的=自分の利益を最大にする行為を選択する」と表現されたのではないでしょうかね。もしかすると違うのかもしれませんが、私の捉えた馬場さんが表現された世界観は、このような感じのものだろうと思っています。




結果、どちらも「自身が★思った行為をしている」となり、「利己的=自分の利益を最大にする行為を選択する」と表現されたのではないでしょうかね。もしかすると違うのかもしれませんが、私の捉えた馬場さんが表現された世界観は、このような感じのものだろうと思っています。

8日前 No.1428

★lON1lKVb0e_XGK

>>1425  ザビビのふくろうさんへ

> このあなたの言う「(心の)平和」の問題を、Babaさんの枠組みで解決することは無理だと思っています。


ここでも私の自己責任という事で、少し書いてみたいと思います。

「(心の)平和」の問題解決を馬場さんの枠組みでは、一応可能です。そう思います。

勿論、私(時)とは違った視点でのルートを辿っての事のようですが。

ザビビのふくろうさんもご記憶にあるかもしれませんが、SB量子神学というものの中で「つまりは、色即是空・空即是色です。」という事を書かれていた事がありましたね。つまりは、大乗仏教で言うところの「空の世界観」です。

話は戻って・・・

現実世界での「利己的、利他的」行為は、両者ともに、メタ視点での「利己的」行為になるのだというのが、今回ご提案の行動原理の基礎部分だと思います。(私の理解が間違いでないのならですが)

この現実世界では、一般的表現としての「利己的、利他的」が、メタ視点世界では「利己的」のみになってしまいますね。

空とは、別名「無自性空」と表現しますが、これは、何物もそれ単独では存在しえないという概念的表現です。

ですので、上記、メタ視点での「利己的」もこの相対世界で表現はできこそすれ単独では存在し得ないのですね。存在するためには、必ず「利己的」に相対する「利他的」が必要になります。

そして、この空の世界観は、非想非非想処(別名 有頂天です)という処だろうと思いますので、一応この処の理解、体現者は、その静かなる(心の問題がない)処に存在できることになります。これは、「心の平和の問題を馬場さんの枠組みで解決できている」という事を意味しているように思います。

ですので、おそらく馬場さんは、その処を感覚的にでもご存じだろうと思いますし、心の平穏の問題は解決されていると私は思っています。

つまりは、「(心の)平和」の問題を、Babaさんの枠組みで解決することは可能だという事です。

後は私にお構いなく、あちらでの議論をお続けください。

レスをありがとうございました。

7日前 No.1429

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

プロタゴラスは古代ギリシアの哲学者、ソフィストの一人である。

「人間は万物の尺度である」という言葉で知られ、相対主義を唱えた人物の一人として有名である。

人間それぞれが尺度であるから、相反する言論が成り立つのである。

こうした主張からソフィストは詭弁を用いて黒を白と言いくるめる、とみなされるようになった。

一方で、ルネサンスが人間を尺度とする復興であったことから、

尺度の基準は人間であると主張したギリシア哲学・西洋哲学におけるソフィストの存在を軽視してはならないことが分かる。


英文wikipediaからの補足:

【人は万物の尺度】である。このアイデアは非常に時間のための革新的な、宇宙は人間の影響の外に、何かの目的に基づいていたと主張し、

他の哲学的教義とは対照的であった。

提唱者:プロタゴラスですが、真意は更に深い調査をしないと分かりません。

7日前 No.1430

★eCwDKZvEcU_XGK

「喜び」と「平穏」の考察です。

小学生の時、算数で九九を学んだと思います。これを習う前は、勿論それを知りませんので、簡単も難しいも何もありません。

次に、習い始めのころ皆が一同横並びで授業を受けてそれを学び始めますが、ここでそれを覚え始めます。この時に生徒によって「興味」が自然と沸いてくる場合と、沸いてこない場合がありますね。

興味が沸いてきた場合には、次々とそれを記憶でき、記憶でき始めるとそれに比例した喜びが湧き起こります。この喜びの頂点は、何といっても時に行われる「小テスト」の時間でしょう。クラスでもヒーロー、ヒロインになれるチャンスです。(笑)

ですがこの時には、全ての小テストが100点満点という分けにはいきません。時には80点、65点、90点と様々です。要は、九九を覚えきれていない状態です。そして覚えれば覚えるほど点数は上がっていき、やがては常に100点満点を連続でとれるようになっていきます。もう九九の概念は、記憶、理解しました。もういつテストが行われても簡単にその答えを出す事ができます。彼の努力の賜物ですね。

片や、興味が沸いてこない場合もあります。彼の場合には、「小テスト」の時間が苦しみ屈辱の頂点を迎えます。なかなか記憶できません。

上記から言える事は、興味が沸いた場合には、その時間が楽しくなり、喜びに変化します。興味が沸いてこない場合には、その時間が楽しくなく、苦しみに変化します。

この「興味が沸く、沸かない」という事が自由意志なのかは、今は横に置いておきます。(笑)

しかし小学生の一時、その喜びや苦しみを味わった子供たちはやがては大人になり、一ケタの九九は、通常は皆さんできると思います。誰も3×9=27の計算ができる事で喜びが溢れるという事はないでしょう。なぜならば、それが当たり前に簡単にできるようになっているからであり、誰に自慢することなく、それ自体は喜びでも苦しみでもありません。つまりその状態が当たり前の状態で、平穏という事だろうと思います。

ここから言える事は、何も知らない状態から何かを知りはじめ、興味が沸いた時には次々と興味の連続的な発生が起き、当然その習得度合いも上がっていきます。この時に喜びが生まれます。つまり、喜びが湧き起こる場面では、その事柄自体をまだ遍く知ってはいないという事です。

そしてその事柄自体を遍く知ってしまった時、その喜びの状態を通り越します。ここが心の平穏な状態です。なぜならば、知っている状態が「当たり前」だからです。

違う例では、プール等の水中に長くいると息が続きません。この時には苦しい状態ですが、不意に水面上に顔を出して呼吸をした瞬間に安堵とともに喜びが湧き起こり、暫くの後、その喜びは消え去りますね。なぜならば、呼吸できる状態が当たり前になったからです。

知るという思考の世界でも、呼吸するという肉体の世界でも同じことのようですね。

若干、トピズレの風を感じつつ。

7日前 No.1431

哲人たちの代弁者 ★SEexJXP8NF_8gk

世界平和は実現するか。 Part2

は、哲学やめて四方山話懇談会に成り下がりけり。

6日前 No.1432

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>時さん


取り急ぎすみません。
私、SumioBabaさんの説に対するあなたの理解自体に、特に異論はないんですよ。
その上で質問します。
>>1427
>私は、バスで席を譲りません。 →  自身が思った通りの行為を行う(利己的)

私は、バスで席を譲ります。  →  自身が思った通りの行為を行う(利己的)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この
「自身が思った通りの行為を行う(利己的)」
ということは、
「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事」( >>1421 )
なのですか、それともそうではないのですか?

6日前 No.1433

★DrqGjfyNtc_A7b

>>1433  ザビビのふくろうさんへ

> この

> 「自身が思った通りの行為を行う(利己的)」

> ということは、

> 「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事」( >>1421 )

> なのですか、それともそうではないのですか?


現在の私の認識では、違いますね。(そうではないの方です)

>私は、バスで席を譲ります。  →  他人の為の行為を行います  (利他的)


そもそも《人間の行動原理》は、「自分の利益を最大にする行為を選択する」です。これに反するものは考えられません。と書かれていますので、「利他的」という事は、見かけ上はあるように見えますが、本来はそもそもあり得ないのだというご主張ではないでしょうか。

最終結論に至るまでの途中段階での説明になりますが・・「人間の行動原理」の大元は、その意思とは無関係に事が起こっているのではないでしょうかという事だと思います。つまりは、利己的、利他的、と見かけ上見えるような動き(外で具現化した現象)が起きているだけだという認識です。

つまり、ここで一般(外の)世界に対して「自らの意思で事を起こしているのだ。」というような思いで物事を判断、行為をすると「利己的だ、利他的だ」というように外で具現化した周りの身近な現象が見えます。

ですので「この時、自由意思での選択行為が機能しているとすればというのが、条件です。」( >>1421 )という一文が入ります。

でも実際には、人間の意思や思いとは無関係に全ての具現化した外の世界の事が起こっているのではないでしょうかという事なのです。つまり、思い(心)という世界の中で、全ての様々な思いが湧き起こり、外だと思っている現象が湧き起こっているだけです。ただそれだけの事ですね。

そして自由意志が普通に当たり前にあると思い込んでいる人たちに説明しようとした時、自由意志で利己的だ利他的だとその行動を分別した(自由意志での選択行為があると仮定した)その相対世界の言葉で説明すると「全ての人の行動は、利己的なのですよ」となるように思います。

>>1421
> まとめると、人が自ら能動的に行動する場合には、自身の利を求めた行為をする。(自由意志での選択行為が可能だとした場合)


実際には、利己的も利他的もありません。

6日前 No.1434

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

時さん

>実際には、利己的も利他的もありません。

時さんとは思えない発言ですけど・・


時さんの好きな仏教の本質は「慈悲」ですのに・・

【慈悲】
1.情け。あわれみ。

2.仏教

仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)をあわれみ、苦を除き、楽を与えようとする心。

6日前 No.1435

★48ZOprgWMa_A7b

>>1435  宿題さんへ

それは、大乗ですよ。

大乗に仏陀の教えの本質はありません。どちらでも構いませんが、私はそう思っています。問題ありませんね?(笑)

6日前 No.1436

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

時さん

何故仏陀は出家をされたと思いますか?

6日前 No.1437

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>1434  時さん
「現在の」とはどういうことでしょうか?
>>1421 の時と捉え方が変化したということですか?
このように質問するのは、変化したように思われるからです。
>>1429 の説明とも変わっているのではありませんか?
結局、メタ視点からの結論はどういうものなのですか?

6日前 No.1438

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

申し訳ありません・・時さんが二人以上いらっしゃるのでは?

以下は時さんの発言です・・

>上記、メタ視点での「利己的」もこの相対世界で表現はできこそすれ単独では存在し得ないのですね。


存在するためには、必ず「利己的」に相対する「利他的」が必要になります。


>実際には、利己的も利他的もありません。

6日前 No.1439

★48ZOprgWMa_A7b

>>1438  ザビビのふくろうさんへ

> 「現在の」とはどういうことでしょうか?


2つの意味を込めました。このお話の原点が馬場さんの「人間の行動原理」だという事で、馬場さんが今後どのような結論に至るのかが、現在ではまだ不明でありますので、現時点での「時」の解釈としてと言う意味での「現在の」です。

もう一つは、「時」自身の認識も変化する可能性がありますので、その意味においての「現在の」です。(どちらも相対世界での説明です)

> >>1421 の時と捉え方が変化したということですか?


いいえ、捉え方は現時点で変化していませんが、その世界観の説明は変化させています。

> このように質問するのは、変化したように思われるからです。


了解しました。

> >>1429 の説明とも変わっているのではありませんか?


表現は変えていますが、その本質部分は変わっていませんよ。

> 結局、メタ視点からの結論はどういうものなのですか?


実際には、利己的も利他的もありません。( >>1434 )ので、「何も問題はありません」です。

つまりは「全てを受け入れる」という事で、すべての問題が消滅するという事です。

6日前 No.1440

★48ZOprgWMa_A7b

>>1439  宿題さんへ

> 申し訳ありません・・時さんが二人以上いらっしゃるのでは?


私(時)が二人いるように見えますか?(笑)

私は実学として「神」「私」「生活上での諸問題」「自由意志」等々を哲学し、他にも色々と学んできました。その結果として「全てに対して、何も問題ありません」が、その総括としての現時点での答えです。

> >上記、メタ視点での「利己的」もこの相対世界で表現はできこそすれ単独では存在し得ないのですね。存在するためには、必ず「利己的」に相対する「利他的」が必要になります。


上記は、一元の世界から見た二元の世界への見え方です。

> >実際には、利己的も利他的もありません。


上記は、一元の世界での二元世界への答えです。

矛盾だ、無矛盾だと他スレで議論していたと思いますが、通常の個人の世界観は無矛盾であり、相対するものが現れた瞬間に矛盾という概念がうまれます。そこで悩みや苦しみが生まれます。

そこを飛び越えて、相対世界で表現するところの矛盾の世界にまで達すると、そこは無矛盾の世界です。つまりはここが一元の世界です。しかし、この世界観を二元の相対世界で表現すると、この無矛盾の世界観を相対世界の人は、矛盾だと認識してしまいます。

冒頭の時が二人に見えると仰るのは、まさにこれにあたります。

私は争いは好みません。論争になるようでしたら、終了とします。

6日前 No.1441

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

時さん

仏陀さんが出家された理由に本質があります。

全仏教はその本質が根っこにあります・・

哲学もソクラテスさんやプラトンさんアリストテレスさん近代哲学の父なるカントさんをないがしろに出来ない人類の歴史性を生きています・・

6日前 No.1442

★48ZOprgWMa_A7b

>>1422  宿題さんへ

はい。問題ありませんよ。(笑)

お好きな哲学、おすすめください。では、ごきげんよう。

6日前 No.1443

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

時さん

たまにいるんですよ・・からかっているだけの人・・時さんみたいな人・・

その人たちの一人ひとりにも哲学は魂を見せます・・

6日前 No.1444

★48ZOprgWMa_A7b

>>1443  失礼しました。アンカーの訂正です。

>>1422

>>1442

6日前 No.1445

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

専門哲学者が一番燃えるのはソフィスト相手です・・(ソクラテス流)

私は哲学愛好家ですからそこまではいきません・・

6日前 No.1446

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

時さん

何故仏陀さんは出家されたのかに答えられないのなら時さんは誠意が足りません・・〇りかけています。

6日前 No.1447

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>1447


これこれ、宿題さん。
悔しいからといって、そんな失礼なこと言っちゃだめだよ、あなた。

あなた全然ここでの議論を理解してないじゃないの。
前提となるSumioBabaさんの思想だって理解していないでしょうが。
あなたみたいにつまみ食いしようとしても、わかるわけないのよ。

おとなしくロムだけしときないさい。困ったもんだ。

6日前 No.1448

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>1440  時さん
レスをありがとうございます。

>>1429

>現実世界での「利己的、利他的」行為は、両者ともに、メタ視点での「利己的」行為になるのだというのが、今回ご提案の行動原理の基礎部分だと思います。


ここでは、メタ視点では「利己的」一元になり、それがBabaさんの原理の基礎だとおっしゃっています。
そうすると、今回の結論「利己も利他もない」というのは、メタメタ視点ですか?
Babaさんはそのようなことはこれまでおっしゃっていませんが。
ひょっとすると、Baba説を否定されているのでしょうか?(笑)

それと、話は前後しますが、やはり捉え方に変化がないと言われることには納得しがたいので、もう少し言わせてください。

>>1421 で、あなたは次のように述べています。
>人間の行動原理は、自己満足での行為です。というのは、自己満足の部分が心で思い描いている世界で、行為は具現化する外の世界です。この時勿論、自由意思での選択行為が機能しているとすればというのが、条件です。

>馬場さんも仰っているように、全ての人間の行動原理はこの中に含まれていると私も思います。では、もしも自己満足得られるような行為を全ての人が行っているのだとしたら、なぜに心の平穏を得られないのでしょうか?

>それは、自身の自由意志での選択行為が及ばない場合があるからです。つまりは、思ってもみないことが起きるという事です。


他の部分もそうですが、この論旨は明確だと思います。
人間の行動原理は自己満足の行為であると。
つまり、人間の行動は、自分の思い描く世界に、具現化する世界を一致させようとする行為であると。
もしこの原理のとおり、誰もが自己満足を得られる行為を行っていたとしたらみんな心の平穏を得られているはずなのに、実際はそうではない。それはなぜか?
>私なりに「平和・平穏」を言い換えると、「心で思い描いている世界」と「具現化する外の世界」の一致です。

つまり、心の平穏が得られないのは、要するに「心で思い描いている世界」と「具現化する外の世界」の一致が得られないということだと。
それがなぜ得られないかというと、自己満足の行為が実際に行えるのは、自由意思での選択行為が機能していればの話であり、ところが現実は自由意思が機能せず、心が思い描いた通りに行為を自由に選択できないものであるから満足、すなわち心の平穏を得られないのだと。

で、この「自己満足の行為」というものを、 >>1427
>自身が思った通りの行為を行う(利己的)

と表現されたわけです。
ですから、 >>1421 から時さんの人間の行動原理に対する捉え方が変化していないとすれば、明らかに
「自身が思った通りの行為を行う(利己的)」ということは、 「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事
であるはずなのです。そうでないと、これまで明確であった論旨が意味不明になります。
にもかかわらず、 >>1433 の私の質問に対する答え、
>> 「自身が思った通りの行為を行う(利己的)」

> ということは、

> 「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事」( >>1421 )

> なのですか、それともそうではないのですか?

に対して次のように答えられました。
>現在の私の認識では、違いますね。(そうではないの方です)


ということは、不整合であると思います。
あなたは、捉え方は変化せず表現のみ変化したとおっしゃっていますが、捉え方そのものが変わっていない限り、 >>1421 をきちんと理解することは無理です。はっきり言って、意味不明になります。
いや、変化していない、と言われるのであれば、「自己満足の行為」を「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事ではないとして、 >>1421 の論旨を再度明確に説明していただきたく思います。まあ、無理にとは言いませんが。

ちなみに、Babaさんの人間の行動原理は、明らかに
人間の行動は、「自身が思った通りの行為を行う(利己的)」ということであり、それはすなわち、 「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事
であると思います。
「思ったとおり」とは「心で思い描いた世界に一致するように」ということであり、そのように行為を行うということは、「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事にほかないからです。
そして「思ったとおり」とは「自分の利益が最大になるよう」ということです。

6日前 No.1449

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>時さん


あなたは論争を好まれないとおっしゃっていますし、現在の成り行きは、あまり望まれない状況ではないかと危惧します。
ましてや、SumioBabaさんの思想についてのことですので、なお一層そう思われているのではないかと思います。
それで、次に >>1433 の前に準備していた文章を投稿することにしました。
これは >>1433 以前に書いたものですので、それ以降のやり取りで知りえたことは反映していませんし、重複も多いですがが、私の言いたいことはほぼ述べたつもりです。
長くなりますが、それを投稿することにしました。
ですから、読まれようと読まれなかろうと自由、レスは、「了解しました。それで問題ありませんね」で結構です(笑)


>>1426  時さん
>ほめ殺しの言葉だと理解しつつも、調子に乗って少し書いてみます。


いえ、お世辞抜きで、先にも引用した以下の認識は、大変優れた、そして深い洞察であると思っていますよ^^

>私なりに「平和・平穏」を言い換えると、「心で思い描いている世界」と「具現化する外の世界」の一致です。

>ではどのようになれば「平穏、平和」が実現するのでしょうか?

>これを文字でつづることは至極簡単です。

>「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとするのではなくて、「心で思い描いている世界」を「具現化する外の世界」に一致させてやればよいのですね。(笑)

>これを言い換えると、周りで起こること全てを受け入れるという事です。もしもこれができれば、その個人の心の平穏、平和は獲得できるでしょう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ですから、今回次のように言われたことも、そのままそうなのだろうなと思います。
>最終的に私自身の死、愛する者たちの不条理な死、その死に至る過程で沸き起こるであろう色々な事柄を含めた心情を、周りの人々を観つつ今まで嫌というほど思考しました。


前のレスでも触れましたが、例えば実存思想家であるカミュやサルトルが論じた不条理や自由の問題もこのことに関わっていますし、ウィトゲンシュタインも同様なことを述べており、また、私の解釈ではV.E.フランクルの思想もこのことに関わっています。
それと、これはそれこそ釈迦に説法だと思いますが、宗教哲学において「神を信じる」とはどういうことかが論じられる場合、必ずと言っていいほど取り上げられるヨブ記のいわゆる「義人の苦難」や、創世記の「イサクの燔祭」の問題、これらはキルケゴールも論じていたはずですが、これらもこの問題に関係していますよね。
あなたがどのような思考過程を経てそういう結論に至ったかというのはわかりませんが、少なくとも、多くの思想家が重要な問題と捉えていた問題を自分なりに深く受けとめ、考え、だされた結論であろうと思います。そして、それはけして簡単なことでないと思います。
時さんは仏教について深い理解をお持ちなので、それが影響しているのかもしれませんね。
ただ、逆に言うと、ひょっとすると、その点の理解の仕方が私(理屈のゴリ押し(笑))と異なるため、この問題におけるSumioBabaさんの思想の評価の違いにつながっているのかもしれません。
別スレでのSumioBabaさんとの議論は、ほぼ二人だけでやっているために、とりあえず出尽くした感もありますし、忍耐強いBabaさんも、さすがに嫌気がさしておられるんじゃないでしょうか(笑)
なので、むこうでの議論はそろそろ潮時かなと思ってるんですが、さて、どうしたものでしょうね(笑)

いずれにしても、こちらで幸い時さんがいいレスをくださったので、せっかくだし、ここで少し異なる角度から、この「心の平和」「幸福」問題と絡めて論じてみたいと思います。
私の結論というか、スタンスを先に言っておくと、現実世界の政治的平和の問題とは異なり、この心の平和問題について論じる方法論として、SumioBabaさんの人間行動の原理を用いることは不適切である、というものです。

>>上記での「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事とを一般には「自己中」と表現されているのでしょう。実際にはこのような事は不可能な事なのですが、それでも多くの人は、これに飽きずにチャレンジしていますね。


という文の中の「自己中」について、私は
>Babaさんの言う「利己的」ということにほかならないと考える

と述べました。
これはもちろんあなたが「自己中」を一般的な意味を意図しておられることをわかった上で、あえて述べたものです。
あなたが一見「簡単なようで」と言われたことと、これはひょっとして関係しているのかもしれませんが、
「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事
は、その意味での自己中を治せば済むような、そんな簡単な問題ではないと私は考えています。
あるいは、いわゆる自己チュー(普通の意味の利己的)人間にのみ当てはまるような、そういう性向ではないと思います。
より深く、つまり、Babaさんがおっしゃるぐらいには人間の本性に根差しているもので、人間が「欲望充足を求める動物」である限り有している必然的傾向であると考えています。

ところで、以下の議論のために、少し言葉を定義しておきます。
「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させることによって得られる心の平和を、「相対的幸福」と呼びます。
というのも、この意味の幸福は、世界が思い通りにならない限り得られないもので、世界がどうなるかに依存してきまる、すなわち世界の在り方に相対的にしか得られない幸福であるからです。
それに対して、
「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとするのではなくて、「心で思い描いている世界」を「具現化する外の世界」に一致させることによって得る心の平和を、「絶対的幸福」と呼びます。
これは、すなわち
「周りで起こること全てを受け入れるという事」
であるから、世界がどうなるかに全く依存しない、すなわち世界の在り方に相対的ではなく得ることが可能な幸福であるからです。

さて、私は >>1425 において、次のように述べました。
>このあなたの言う「(心の)平和」の問題を、Babaさんの枠組みで解決することは無理だと思っています。


これを上の定義で導入した概念を使って言い換えますと、
人間の本性がBaBaさんの言う通りのものであるなら、人間は絶対的幸福を得ることは不可能である
ということになる、ということです。
根拠は以下の通りです。

まず、前提として、私は時さんが次のように、SumioBabaさんの思想について説明されたことに異論はありません。
>一般の世界観での表現では、


私は、バスで席を譲りません。 →  自身が思った通りの行為を行う(利己的)
私は、バスで席を譲ります。  →  他人の為の行為を行います  (利他的)

ですが、上記の「利己的、利他的」行為をメタな視点で捉えた場合には、

私は、バスで席を譲りません。 →  自身が思った通りの行為を行う(利己的)
私は、バスで席を譲ります。  →  自身が思った通りの行為を行う(利己的)

結果、どちらも「自身が思った行為をしている」となり、「利己的=自分の利益を最大にする行為を選択する」と表現されたのではないでしょうかね。もしかすると違うのかもしれませんが、私の捉えた馬場さんが表現された世界観は、このような感じのものだろうと思っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この説明を前提して述べます。

上で時さんが
「利己的、利他的」行為をメタな視点で捉えた場合」とおっしゃっていますが、私は、この捉え方はメタ的にとらえられておらず、単に還元主義的にとらえられているにすぎない、と考えます。
なぜかと言うと、ポイントは次にあります。

自身が思った通りの行為を行う=自身の行為を自分の思い描くものに一致させる
ということ、すなわち
自身が思った通りの行為を行う
とは、
行為(世界)を自分の心で思い描くものと一致させる
ことにほかならないからです。
よろしいでしょうか?
自分の行為であっても、他の世界の事柄と全く同じく、自分の思い通りにはなかなかならないものでしょう。(あなたはいつも思い通りのレスを書けていますか?けがをすれば、腕を思うまま挙げることさえできませんね。)
つまり、本質的には自分の行為とて世界の中の一事象に過ぎず、したがってまた、自身が思った通りの行為を行うということは、すなわち、世界を自らの思い描く世界に一致(意思に行為を一致)させようとすることにほかならないのです。

それゆえ、SumioBabaさんが人間の行動の本質をすべて「自身が思った通りの行為を行う(利己的)」こととして捉えることからは、必然的に人間は、その本性として相対的幸福しか得られない、望みえないということが帰結するのです。
そして、だからこそ、あなたが書かれた文章の「自己中」は、Babaさんの言う「利己的」だとも主張しているわけです。

>>1421 で、あなたは慎重に、次のような留保をつけていますね。
>この時、自由意思での選択行為が機能しているとすればというのが、条件です。


このようにおっしゃっていることが、関わっていますよね。
おそらく、ある意味、気づいてはおられるのだと思います。
これは、安易に前提できない本質的に重要なポイントなのです。
つまり、問題は「自由意思での選択行為が機能している」ということが、いったいどういうことなのか?ということです。
私が採っている立場は、自由意志はある、しかし、意志は世界がどうなるか(自分の行為を含む)に決定力・支配力を持たない(必然化できない)、ということです。
さらに言い換えれば、意思に世界の在り方を従わせることはできない、ウィトゲンシュタインの言い方では「意志は世界の出来事に対して無力である」ということ。
そして、あなたはこのことをわかっておられます。
したがって、人間の意志行為が本質的に自分の思い描くものに世界を一致させることであるとするSumioBabaさんの説は、本来挫折する運命にある、とするのが整合的なのです。


少し角度を変えて言いましょう。
SumioBabaさんの立場は、そもそも人間の行為を計算可能な利益によって説明可能とするものであり、本質的に合理主義です。
科学はいいのです、そういうものなのですから。
しかし、先に述べた実存思想家が問題にした不条理や、聖書の問題は、そもそも合理主義的に理解不可能だからこそ不条理なのです。
だから当然この領域の問題を合理主義的に解決することは不可能なのです。
あなたが絶対的幸福という概念に自分で到達されたということは、この不条理性をよく理解しておられるはず、いうことです。
にもかかわらず、SumioBabaさんの説を支持するというのは、少なくとも哲学的には背理であるということです。すなわち、理屈に合わないですよと(笑)。

6日前 No.1450

★JPz9on5JzD_A7b

>>1450  ザビビのふくろうさんへ

長文のレスをありがとうございます。ただ、疎い私の頭で理解できるでしょうか(笑)とりあえず、書けるところだけ書いてみますね。

> あなたは論争を好まれないとおっしゃっていますし、現在の成り行きは、あまり望まれない状況ではないかと危惧します。


はい。もともと私は争い事(論争)は好みませんので、ザビビのふくろうさんの仰る哲学の姿勢とはかけ離れた参加の仕方だと思います。

> ましてや、SumioBabaさんの思想についてのことですので、なお一層そう思われているのではないかと思います。


なぜか、私(時)は、馬場さんの仰っている世界観を正しいか間違いかではなくて、理解できているように思います。その結果、支持をする事が多いのだと思います。

> いえ、お世辞抜きで、先にも引用した以下の認識は、大変優れた、そして深い洞察であると思っていますよ^^


ありがとうございます。率直に嬉しいです。ただ、「ほめ殺し」という言葉を選んだことを直後から少し後悔していました。まぁ、この言葉がお相手の心にどのように影響するのかを十分に考えられないままでの投稿だったという事です。軽く冗談を入れての表現でしたが、嫌みではなく受け取ってもらえたようで、よかったです。それと、私は、哲学の知識や経験を多くおもちであろう方も尊敬しています。勿論、ザビビのふくろうさんもその中のお一人ですが、そのような方に、深い洞察だと思うと表現していただけで十分です。

> あなたがどのような思考過程を経てそういう結論に至ったかというのはわかりませんが、少なくとも、多くの思想家が重要な問題と捉えていた問題を自分なりに深く受けとめ、考え、だされた結論であろうと思います。そして、それはけして簡単なことでないと思います。


はい。これが以前にザビビのふくろうさんに教えて頂いた哲学での「実学」と表現されるものだろうと思っています。外していませんよね?(笑)

> 時さんは仏教について深い理解をお持ちなので、それが影響しているのかもしれませんね。

> ただ、逆に言うと、ひょっとすると、その点の理解の仕方が私(理屈のゴリ押し(笑))と異なるため、この問題におけるSumioBabaさんの思想の評価の違いにつながっているのかもしれません。


多分そうだろうと私も推測しています。空と表現されても普通は理解していないでしょうし、私が理解している内容が正しい理解だとも限りませんから。そして、私は仏陀の教えとしての仏教を知っており、それは大乗の空の概念とは別の世界であり、馬場さんの場合には、仏教ではなくて、科学の世界観の住人のようで、しかし空の概念を取り入れた思想の持ち主で、そこに哲学の世界観のザビビのふくろうさんが絡んでこられての三つ巴のややこしさでした。通常は、理解しあえなくて当然の組み合わせでしょう。(笑)

私のこちらでのスタンスは「理解の限界まで、静かに理解する」でしょうか。

> あなたが一見「簡単なようで」と言われたことと、これはひょっとして関係しているのかもしれませんが、

> 「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事

> は、その意味での自己中を治せば済むような、そんな簡単な問題ではないと私は考えています。


はい。そんな簡単なお話ではありませんね。

> あるいは、いわゆる自己チュー(普通の意味の利己的)人間にのみ当てはまるような、そういう性向ではないと思います。

> より深く、つまり、Babaさんがおっしゃるぐらいには人間の本性に根差しているもので、人間が「欲望充足を求める動物」である限り有している必然的傾向であると考えています。


はい。そうですね。

> ところで、以下の議論のために、少し言葉を定義しておきます。

> 「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させることによって得られる心の平和を、「相対的幸福」と呼びます。

> というのも、この意味の幸福は、世界が思い通りにならない限り得られないもので、世界がどうなるかに依存してきまる、すなわち世界の在り方に相対的にしか得られない幸福であるからです。

> それに対して、「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとするのではなくて、「心で思い描いている世界」を「具現化する外の世界」に一致させることによって得る心の平和を、「絶対的幸福」と呼びます。

> これは、すなわち「周りで起こること全てを受け入れるという事」であるから、世界がどうなるかに全く依存しない、すなわち世界の在り方に相対的ではなく得ることが可能な幸福であるからです。


各定義、了解しました。と言いましても・・もう終わっているように思いますが。(笑)

> つまり、本質的には自分の行為とて世界の中の一事象に過ぎず、したがってまた、自身が思った通りの行為を行うということは、すなわち、世界を自らの思い描く世界に一致(意思に行為を一致)させようとすることにほかならないのです。


そうですね。

> >>1421 で、あなたは慎重に、次のような留保をつけていますね。

> >この時、自由意思での選択行為が機能しているとすればというのが、条件です。

> このようにおっしゃっていることが、関わっていますよね。

> おそらく、ある意味、気づいてはおられるのだと思います。


はい。気づいています。

> これは、安易に前提できない本質的に重要なポイントなのです。

> つまり、問題は「自由意思での選択行為が機能している」ということが、いったいどういうことなのか?ということです。

> 私が採っている立場は、自由意志はある、しかし、意志は世界がどうなるか(自分の行為を含む)に決定力・支配力を持たない(必然化できない)、ということです。


ちなみにですが、私の結論は、人間の思考の世界では、自由意志はあるように思える。(あるようにしか思えない)しかしそれは現実には、無力な幻想です。です。

> さらに言い換えれば、意思に世界の在り方を従わせることはできない、ウィトゲンシュタインの言い方では「意志は世界の出来事に対して無力である」ということ。

> そして、あなたはこのことをわかっておられます。


ウィトゲンシュタインは学んではいませんが、「意志は世界の出来事に対して無力である」から推測しますと、多分同じような感覚ではあるのだろうと思います。

> にもかかわらず、SumioBabaさんの説を支持するというのは、少なくとも哲学的には背理であるということです。すなわち、理屈に合わないですよと(笑)。


まぁ、私の馬場さんに対する思い方は、遊んで(楽しんで)おられるのだろうなというものです。ですので、問題ではないのですよ(笑)ただし、仰るように理屈には合わない解釈でもありますね。了解しました。

すみません。仰る事は一応理解できたつもりですが、理屈のごり押しの世界にはどうも私は染まり切れないようです。

最後に、絶対的幸福を得る方法はどのようにすれば可能なのか?について、ザビビのふくろうさんは、どのように考察されるでしょうか?勿論、スルーでも構いませんが、お時間があります時にでもお書きいただければと思います。

6日前 No.1451

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

天草の観光で教会を見た時

神はαでありオメガであると書いてありました。

神様=α+β+γ+・・・・オメガ・・らしいですよ・・

これってBaBaさんのこと?

5日前 No.1452

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>ザビビのふくろうさんへ

>>時さんへ


 お二人の議論、論点が少しズレているだけで、どちらも正しいように見えるのですけど? 敢えて引用はせず、SumioBabaの言葉で書いてみます。誤解が有ったら指摘して下さい。

 ザビビのふくろうさんは、こんな感じでしょう?→SumioBabaは、《人間の行動原理》=「人間がどういう行為をするか自由意志で選ぼうとするとき、自分の利益を最大にする行為を選択する」を主張している。つまり、人間は、「現実の世界」の方を変えて自分の「理想の世界」に近づけようとする訳だが、これは成功して「幸福」になれる時も有れば、失敗して「不幸」になる場合も有る。つまり、成功した場合にだけなれるという条件付きの幸福だから、「絶対的幸福」とは呼べず、たかだか「相対的幸福」に過ぎない。

 時さんの仰りたい事はこういう感じでしょう?→「SB量子神学」では「人間視点」と「神視点」とを使い分ける。「人間視点」だと自由意志により、何とか「不幸」を避け「幸福」を得ようとするが、それは成功する場合も有れば失敗する場合も有り、確かに「相対的幸福」であって、「絶対的幸福」ではない。そこで「神視点」に立つ。真の自分は全知全能の「神」なのであり、「幸福」な心も「不幸」な心も、すべてを作り出して自ら体験し、楽しんでいるに過ぎない。どんな「現実の世界」も、「神」自身が体験してみたいと望んで体験しているのだから、幸福な世界なら幸福を、不幸な世界なら不幸を、有りの儘に受け入れて楽しめば、それがそのまま「理想の世界」になる。そして、「相対的幸福」と「相対的不幸」のすべてをコレクションにしている「神」こそが、「絶対的幸福」(合)=「相対的幸福」(正)+「相対的不幸」(反)である。

 どちらも正しいと思いますが?

5日前 No.1453

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

Babaさん

多分私の発言は見えないと思いますが

神は始めであり終わりであると言う昔からの言葉と同じではありませんか?

5日前 No.1454

★pZTje83M1I_A7b

>>1453  馬場さんへ

> 時さんの仰りたい事はこういう感じでしょう?


今回このスレで私の言いたかった事は、世界平和の「世界」の解釈と、個人の「平和(平穏)」の心の状態の考察でした。

その最初の投稿の切っ掛けとしたのが、馬場さんの「人間の行動原理」です。( >>1421  時)

最初のその「人間の行動原理」の内容に私が賛意を示しつつ、いつものようにぽそぽそと私自身の「世界」と「平和」の考察を書き始めましたが、その投稿に対してザビビのふくろうさんから思わぬ返信を頂きました。その中で私の感じた「人間の行動原理」の認識を支持しつつも、私が書きました私自身の投稿内容との哲学的な整合性のなさをご指摘いただいたのではなかったでしょうか。

にもかかわらず、SumioBabaさんの説を支持するというのは、少なくとも哲学的には背理であるということです。すなわち、理屈に合わないですよと(笑)。( >>1450  ザビビのふくろうさん)

とにかく、ややこしかったの一言です。(笑)

5日前 No.1455

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>1455  時さん

>とにかく、ややこしかったの一言です。(笑)


ややこしくてすみませんね(笑)
哲学脳はややこしいんですよ。
科学脳のSumioBabaさんや、仏脳(?)(笑)の時さんに比べたらね.
業です(ToT)

>>1453 SumioBabaさん
むこうをほっぽって、こっちで勝手に批判的なこと言っててすみません。

>お二人に


むこうのコンテクストではなく、以下、こちらの話に合わせて話します。
人間視点で捉える現実世界及び相対的幸福については、私と時さんの捉え方はほぼ同じだと思います。
絶対的幸福については後で簡単に述べますが、少し違いがあると思うものの、基本的に近いものだと思います。
違うのは、SumioBabaさんの思想の解釈・評価であると思います。
あくまで私視点ですが、時さんはBabaさんが自分と同じ視点で世界を捉えている方だと思っていらっしゃるので、そしてそれはそうなんでしょうけど、評価が甘くなっていると(笑)
しかも、そもそも時さんは私みたいに理屈ごり押しで理解する必要が本来ない…なぜかというともうメタ視点から世界を眺めているから…ので、本来哲学的に譲れないところでも、あんまり理屈で突き詰める気がないんじゃないかと(笑)
正直言って時さんが「問題ありませんね」とおっしゃるところ、哲学脳の私には「いやいやいや、問題大ありなんです」と言いたいわけですよ(笑)
でもまあ、これはしゃあないと私もあきらめてるわけです。

>>1451
>最後に、絶対的幸福を得る方法はどのようにすれば可能なのか?について、ザビビのふくろうさんは、どのように考察されるでしょうか?


という質問にも絡めて少し、絶対的幸福についてなるべくシンプルに述べます。

人間視点の現実世界、これをメタ視点で眺めること、これは宿題さんの好きな言い方で言えば「超越すること」になろうかと思います。
そして、この超越が可能であることの根拠、それが「意志の自由」だと考えます。
つまり、このこと、すなわち人間が超越可能であることが、人間がSumioBabaさんの言う「人間行動の原理」を超える存在であることを示しているということです。
また、「意志の自由」とは、世界を思い通りにすることではなく、超越可能性の根拠である、というのが私の考えです。
換言すれば、意志の自由がなければ、超越は不可能であり、人間はSumioBabaさんのおっしゃるとおりの人間行動の原理を本性とする存在(に留まる)ということになるでしょう。

私が理解できている限り、あなたがたのメタ視点=神の視点からの世界の眺めでは、超越することによって、井戸の中の人間の視点を絶対化して見るからこそ存在する生の諸問題が相対化され、いわば滅却されるということなのかと思います。そしてその境地を楽しむと。
そしてその境地に至る方法、今の私の言い方では超越の方法、それがお二方にとってどういうものなかはわかりません。
また、したがって、お二方のおっしゃるその境地が、私の考える絶対的幸福と同じかどうかもわかりません(今のところ異なると考えていますが)。
なので、時さんの質問に応える形で、少しだけ、私の考える絶対幸福への方法について述べます。
私はSumioBabaさんの人間行動の原理に従う人間を「欲望充足を求める動物」( >>1450 )と言いました。これは一面の真理であると思います。
しかし、人間はそこにとどまらず、超越することが可能な存在であり、その根拠が人間の自由意志にあるとしました。
これを敷衍して述べますと、人間の行動原理に従っている人間というのは、
自由意志で、欲望に従っている
ということです。
たぶん、ある意味わかりやすいと思うので、これをキリスト者的に言いますと、
「自らの意志で、悪魔にしたがっている」
と言えるかもしれません。
ここからわかるように、では、超越するにはどうしたらよいか?キリスト者的言い方では、
自らの意志で、神の意志に従うことによって
と言えます(例えば、『イサクの燔祭』)。これを、少し脱宗教化した言い方で述べると、
自由意志で、良心に従うことによって
となります。

まあ、一切哲学的議論を省略して述べていますし、普通これだけ述べてもよくわからないと思いますが(笑)、そして時さんへの返答になったかどうかはわかりませんが、これを一応の私の回答とさせていただき、このへんにしておきます。

5日前 No.1456

★Gz9rQnQn5L_A7b

>>1456  ザビビのふくろうさんへ

> 業です(ToT)


その業、一度、滅尽してみますか?(笑)
冗談はさておき・・

> 人間視点で捉える現実世界及び相対的幸福については、私と時さんの捉え方はほぼ同じだと思います。

> 絶対的幸福については後で簡単に述べますが、少し違いがあると思うものの、基本的に近いものだと思います。


その少しの違いは、心の平和を言い換えた場合ですね。ザビビのふくろうさんは、それを「幸福」、私(時)は、それを「平穏」だという事で微妙に違いますが、共通認識として、それを「絶対的幸福」としたのでした。

> 評価が甘くなっていると(笑)


まぁ、私はどなたに対しても甘いようですので。

> 正直言って時さんが「問題ありませんね」とおっしゃるところ、哲学脳の私には「いやいやいや、問題大ありなんです」と言いたいわけですよ(笑)

> でもまあ、これはしゃあないと私もあきらめてるわけです。


そうです、諦めが肝心ですね。仰る事、その自由意志は、決定力・支配力を持たないですから。(笑)

> 人間視点の現実世界、これをメタ視点で眺めること、これは宿題さんの好きな言い方で言えば「超越すること」になろうかと思います。

> そして、この超越が可能であることの根拠、それが「意志の自由」だと考えます。

> つまり、このこと、すなわち人間が超越可能であることが、人間がSumioBabaさんの言う「人間行動の原理」を超える存在であることを示しているということです。

> また、「意志の自由」とは、世界を思い通りにすることではなく、超越可能性の根拠である、というのが私の考えです。

> 換言すれば、意志の自由がなければ、超越は不可能であり、人間はSumioBabaさんのおっしゃるとおりの人間行動の原理を本性とする存在(に留まる)ということになるでしょう。


なるほど、ご認識は了解しました。

ちなみに、私の「自由意志は幻想」からの視点では、その超越が可能に見えるのは、神の御業、神が超越者を選択しているという強引なものです。勿論、擬人的に神の概念を表現していますし、実際に指をさしているというわけではありませんが。(笑)

言い換えると、それが自由意志の存在認識も含めた、個々人のそれぞれの運命という事になろうかと思います。例えばこれは、慎重に車を運転していても事故が起こる時には起こる、テロに巻き込まれる、雨の日に転んでしまう等と同じく、一般に考えられているであろう自由意志の範疇を超えた現象が日々起こっているという事実がその根拠です。

ですが、まぁ、一般には、それは個々人という存在の個々の運命なのだから、努力しようがしまいが、なるようになるのですよ。と言うよりも、野球のイチローみたいな存在になりたいのならば努力しなさい。きっと夢はいつか叶いますよと言った方が、世間的には何かとトラブらなくてよいですね。(笑)

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花の事は 夢のまた夢。

> 私が理解できている限り、あなたがたのメタ視点=神の視点からの世界の眺めでは、超越することによって、井戸の中の人間の視点を絶対化して見るからこそ存在する生の諸問題が相対化され、いわば滅却されるということなのかと思います。そしてその境地を楽しむと。

> そしてその境地に至る方法、今の私の言い方では超越の方法、それがお二方にとってどういうものなかはわかりません。

> また、したがって、お二方のおっしゃるその境地が、私の考える絶対的幸福と同じかどうかもわかりません(今のところ異なると考えていますが)。


現段階では問題ありませんが、仮にもう少しお話しが進むようであれば、平穏と幸福の分岐点が現れるのかもしれませんが、とりあえず今はこれでよいと思いますね。

> なので、時さんの質問に応える形で、少しだけ、私の考える絶対幸福への方法について述べます。

> 私はSumioBabaさんの人間行動の原理に従う人間を「欲望充足を求める動物」( >>1450 )と言いました。これは一面の真理であると思います。

> しかし、人間はそこにとどまらず、超越することが可能な存在であり、その根拠が人間の自由意志にあるとしました。

> これを敷衍して述べますと、人間の行動原理に従っている人間というのは、

> 自由意志で、欲望に従っているということです。

> たぶん、ある意味わかりやすいと思うので、これをキリスト者的に言いますと、

> 「自らの意志で、悪魔にしたがっている」と言えるかもしれません。

> ここからわかるように、では、超越するにはどうしたらよいか?キリスト者的言い方では、自らの意志で、神の意志に従うことによってと言えます(例えば、『イサクの燔祭』)。これを、少し脱宗教化した言い方で述べると、自由意志で、良心に従うことによって

> となります。


ご認識は、了解しました。

>>1420 (時)
> この世界において自身の外にあると思い込んでいる悪を退治し、正義をなすといった、ウルトラマンや北斗の拳等のヒーローものの手法では平穏(平和)は永久に訪れません。しかしそうではなくて、自らの内面の悪を退治できれば、それに相対する外面に現れる世界では、平穏(平和)が訪れるという事です。

> これは、自らの視点においての外世界の中の善悪の善を選択するのではなくて、自らの内面においての善悪の善を選択するという事です。

> ですので、それぞれ個々人の意思、選択で、平穏(平和)は訪れるという事です。


と、ほぼ同じ事でしょう。相対的な外にある善に従い、悪を退治するのではなくて、自身の内面の善にとことん従っていく生き方ができれば、嫌でも超越できる・・かもですね。(笑)

つまりは、心の内面での聖戦で勝利するという事でしょう。

しかし、果たして超越を望むすべての人々が、ザビビのふくろうさんの仰るその自由意志をもってこれができるのか?です。チャレンジしてみればよいですね。神はその存在に微笑みを投げかけるかも・・です。(笑)

> まあ、一切哲学的議論を省略して述べていますし、普通これだけ述べてもよくわからないと思いますが(笑)、そして時さんへの返答になったかどうかはわかりませんが、これを一応の私の回答とさせていただき、このへんにしておきます。


大変、勉強になりました。(笑) 返信をありがとうございました。

5日前 No.1457

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>1457  時さん

>しかし、果たして超越を望むすべての人々が、ザビビのふくろうさんの仰るその自由意志をもってこれができるのか?です。チャレンジしてみればよいですね。神はその存在に微笑みを投げかけるかも・・です。


いや、超越は、そもそも望む=願望=欲望の対象ではないと思いますね。
例えば、他スレですが、Mobiusさんはこんなふうに述べていますが、ある意味当然だと思います。

http://mb2.jp/_tetsugaku/1035.html-33#a

ちなみに、これはあくまで私の理解であって信頼性は薄いですが、
私が述べた「超越する主体」をキルケゴールは「単独者」と言い、
ヤスパースは「実存」と呼んだのだと思います。参考まで。

このへんを宿題さんがコメントすれば仲間に入れてあげるのに、こういう肝心なときには何も言わないんだよね。

5日前 No.1458

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

ふくろうさん

私よりおよぐちゃんでもかまってやって頑張ってもらえませんか?

私は現象学には目もくれないので・・

5日前 No.1459

★hlri4M2Fql_A7b

>>1458  ザビビのふくろうさんへ

> いや、超越は、そもそも望む=願望=欲望の対象ではないと思いますね。

> 例えば、他スレですが、Mobiusさんはこんなふうに述べていますが、ある意味当然だと思います。


うーん。よく分かりませんが、人間味がないというか、一般からはあまり理解されないような存在のようですね。

まぁ、一応、苦しみと言う問題がなくなりましたので、それと引き換えという事で良しとしましょう。(笑)

レスをありがとうございました。

5日前 No.1460

★hlri4M2Fql_A7b

>>1460  追記です。

大きな苦しみや絶望の経験。自身では凝り越えられない壁(限界状況)の存在。いつしか乗り越えてしまっている事実。時間の解決。超越者(実存、単独者)との出会い。超越者からの暗号解読。理解。真実の私(実存)としての眼ざめ。孤独な実存。

この超越者の事を各宗教で、神やヤハウェ、仏なんて呼ぶのでしょう。

> いや、超越は、そもそも望む=願望=欲望の対象ではないと思いますね。


これならば、通常は願望の対象ではありませんね。概略のみの理解ですが。

5日前 No.1461

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>1461 時さん

あなたの受け止め方、理解自体はあなたのものとしてここでは何も言いませんが、
ただ、少し言葉遣いについて、私がミスリードしていてはいけませんので、少し。

「超越者」は普通「神」の意味で用いるのでよいんですが、
私の言った
「超越する主体(実存・単独者)」
というのは、人間のことであって、
「超越者」ではありません。

>超越者(実存、単独者)との出会い


という表現が気になったもので、一応コメントしておきますね。

それと、「実学としての哲学」についてですがどうでしょう?(笑)
私、ミスリードしてませんかね?

いわば純粋哲学に対する応用哲学として、実学としての哲学を説明したと思うんですが。
具体的には哲学カウンセリングが代表ですが、心理カウンセリングに代わるような、具体的人生問題を解決する手段として、
哲学の知見を用いることです。
その場合、極端に言えば「哲学名言集」でも何でも役立てられるもんは使ってもかまわないわけです。
でも、さすがに純粋哲学は「哲学名言集」だけではできないわけです。

時さんの西洋哲学に対する姿勢というものが、そこで問題になっている問題…しばしばそれは抽象的かつ何の役に立つかもよくわからないもの…を
自らの問題として理詰めで解こうというものではなく、
ご自分が持っている思想を表現する上で西洋哲学的語彙・概念を手段として用いよう、というのであれば、それはどちらかと言うと実学的であると言えるのではないでしょうか?

確かに私から見ると、あんまり理詰めに突き詰めるって感じでもありませんが、
ただ、時さんは本来形而上学的問題そのものについて思索してこられているわけですし、西洋哲学に対する姿勢も、あくまで実学としての哲学をやっている、って言いきるのもどうか?って気がします。
曖昧ですみませんm(__)m

4日前 No.1462

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>1456  ザビビのふくろうさんへ

>つまり、このこと、すなわち人間が超越可能であることが、人間がSumioBabaさんの言う「人間行動の原理」を超える存在であることを示しているということです。


 「人間がSumioBabaさんの言う「人間行動の原理」を超える存在であることを示しているということです」と書いてありますが、なぜそんなことが言えるのでしょう? 「「狭義の利益」計算だと、《人間の行動原理》は認識できない」なら正しいと思いますが、「広義の利益」計算であれば、誰一人例外なく《人間の行動原理》に縛られているはずです。「狭義の利益」計算をしていると《人間の行動原理》を認識できないことが、《人間の行動原理》を超越したことになるのでしょうか?

 「振り子」の例え話です。SumioBabaは「位置エネルギーと運動エネルギーの和を考えるので、エネルギー保存則が成立している」と言います。Sさんは「位置エネルギーだけしか考えないので、エネルギー保存則は認識できない」と言います。Bさんは「運動エネルギーだけしか考えないので、エネルギー保存則は認識できない」と言います。ここまでなら、3人の主張はみな正しいし、どの視点を選ぶかは個人の自由です。しかし、もしSさんとBさんが「位置エネルギーと運動エネルギーの和を考えても、エネルギー保存則は成立していないと思う」と言ったら、これははっきり間違いになります。視野が狭いためにエネルギー保存則を認識できないからといって、エネルギー保存則を超越したことにはならないでしょう。こういう間違いをしないために、視野を広め、法則の存在を認識することが重要なのではないでしょうか?

4日前 No.1463

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_APy

世界平和とはどういう状態か?
 ・世界規模(例えば国家間)での争いが生じない状態が不可逆的に続くこと。

世界規模での紛争の種は何か?
 ・領土(領海)問題
 ・貿易問題
 ・安全保障問題
 ・内政干渉問題 等々

紛争の根本原因は何か?
 ・利害の衝突
 ・価値観の衝突
 ・嫌悪感情

根本原因の蕩尽は可能か?
 ・むずかしいと思う。

では どうすれば良いか?
 ・蕩尽できなくても、制御することができるなら そうすれば良いと思う。

制御することは可能か?
 ・制御できる立場の者が居れば可能だと思う。

それはどういう立場の者か?
 ・世界規模での権力を集中させた者。

そういう者を半永久的に継続させることは可能か?
 ・制度として構築し 継承可能な形にしておけば、可能。

現実的に可能か?
 ・それは わからない。
  ただ、制度を強固なものにしておけば、ある程度の期間は可能だろうと思う。

そうすべきか?
 ・わからない。

なぜわからないのか?世界平和は希求されるべきではないのか?
 ・世界平和が実現できても、そのために人々が不幸になるのでは意味がないから。

世界平和が実現できたとして、それで なぜ人々が不幸になると思うのか?
 ・世界平和とは秩序の維持である。秩序の維持は“息苦しさ”を生む。例えば、「価値観の固定化,一様化」「イノベーションの衰退(∵新しい価値観が生まれることが拒まれるから)」「世界経済の衰退(∵イノベーションが不活性化するから)」等をもたらす可能性がある。

では、世界平和は実現しない方が良いのか?
 ・そうは言っていない。

では、あなたの意見は何なんだ?
 ・中庸がいい。

4日前 No.1464

★LlDKezHF3h_A7b

>>1462  ザビビのふくろうさんへ

> 「超越者」は普通「神」の意味で用いるのでよいんですが、

> 私の言った

> 「超越する主体(実存・単独者)」というのは、人間のことであって、「超越者」ではありません。


有神論の実存主義者の中で、ニーチェ、キルコゲール、ヤスパース等がいて、それぞれの表現が違うという事ですね?勉強不足ですいません。

超越者は、神でよいとして、実存はヤスパースで単独者がキルコゲールの表現した、真の自分に目覚めた人(人間)の事ですね?

> >超越者(実存、単独者)との出会い

> という表現が気になったもので、一応コメントしておきますね。


ご親切にありがとうございます。m(__)m

> それと、「実学としての哲学」についてですがどうでしょう?(笑)

> 私、ミスリードしてませんかね?


今気が付きました。私自身がごっそりと勘違いしていたのかもしれませんが・・

> いわば純粋哲学に対する応用哲学として、実学としての哲学を説明したと思うんですが。

> 具体的には哲学カウンセリングが代表ですが、心理カウンセリングに代わるような、具体的人生問題を解決する手段として、哲学の知見を用いることです。

> その場合、極端に言えば「哲学名言集」でも何でも役立てられるもんは使ってもかまわないわけです。

> でも、さすがに純粋哲学は「哲学名言集」だけではできないわけです。


> 時さんの西洋哲学に対する姿勢というものが、そこで問題になっている問題…しばしばそれは抽象的かつ何の役に立つかもよくわからないもの…を自らの問題として理詰めで解こうというものではなく、ご自分が持っている思想を表現する上で西洋哲学的語彙・概念を手段として用いよう、というのであれば、それはどちらかと言うと実学的であると言えるのではないでしょうか?


哲学の世界も、複雑に入り組んでいるように感じます。ですので、私に明確には分類できません。

ここで書き綴っている事は、私の思想と言うほど大げさなものではないと思いますが、もともと生活する上で発生する多くの問題の解決のために、思考でも実体験でも試行錯誤して得てきた知見です。その知見を得る過程で行ってきた試行錯誤を私は哲学と表現しています。これもちょっと違うように感じますが、人生哲学というのでしょうか。

> 確かに私から見ると、あんまり理詰めに突き詰めるって感じでもありませんが、

> ただ、時さんは本来形而上学的問題そのものについて思索してこられているわけですし、西洋哲学に対する姿勢も、あくまで実学としての哲学をやっている、って言いきるのもどうか?って気がします。


うーん。実学でもなさそうですので、人生哲学としてみますね。これならば大丈夫でしょう。

それと、私は、若い頃にいつも理詰めで物事を考えていたように思います。〜だから〜だ。だから〜だ。間違っていないでしょ?と言った具合です。これで人間関係は、わりと壊れますね(笑)

そして次にチャレンジしたのが、なぜ人間関係は壊れるのか?・・人はどのような時にどのような行動を起こし、どのような結果になれば嘘をつくのか?人はその時、なぜ、自らを恥じないのか?その時に張った見栄の事を、なぜに人は、プライドというのか?等々、延々と続きます。先日書きました「心の平和」についてもそうなんですが。

振り返った今、私は哲学だと思いますが、こんなのは哲学とは言えませんかね?(笑)

以前にも書いたと思いますが、専門的に哲学という学問を学んだわけではありませんし、ちらっと垣間見ただけでもそれは仏典の解読よりも複雑なようで、あまりその専門的な世界には踏み込まないようにしています。学問として行う気力がもうないのも理由の一つではありますが。

インド哲学のブラフマンやアートマン思想の続きで、仏教哲学からの私の人生哲学の完成で、私は良いと思っているのですが。

> 曖昧ですみませんm(__)m


いえいえ、今回も私の勘違いに気づかせていただき、大変ありがとうございます。m(__)m

これを機に、お聞きしたい事がありましたので、お尋ねします。それは、前回、書かれた「超越した」という事が、ザビビのふくろうさんのご認識の中で何を意味するものなのか?という事です。

本来ならば多くの書籍を読んでからのお話かと思いますが、先日より少し気になっています。気になっているからとて、どうする事もできないのは分かっているのですが、教えて頂ければと思います。哲学で表現される「超越した」というのは、単独者という事で、自身だけでは解決できないような大きな苦しみの限界状況を、結果として乗り越えられて、そこで超越者(神)という存在を確信した人というような意味合いの事でしょうか?或いは、社会集団からのはみ出し者?自己の確立した人?完成された人?単に神を信じる人?・・・とまぁ、いろいろと想像しています。(笑)超越した人(単独者)というのは、ザビビのふくろうさんの周りには実際には割と多くおられるものでしょうか?

ヤスパースの言う実存は、ヤスパース自身が自らの事を言っているのでしょうか?それとも思考内での哲学の世界だけの事なのでしょうか?

お時間のある時にでも教えて頂ければと思います。

4日前 No.1465

地下水 ★otncK03kC4_BXv

現実を一つ解析しましょう。
北の水爆実験と、日本や南に向いている多くのミサイルです。日本には二百基以上向いているといわれています。
南や米国が対話モードですが、日本に向いているミサイルは当面取り除かれそうにありません。
米朝対話も、北が文句を言い出したようです。米国のボルトンさんがリビア方式の様なものを導入して、北が核を放棄し終わるのを確認するまで、経済制裁を続けるからです。その結果カダフィー独裁政権は滅びましたが、北もそれと同様なことになる可能性を憂いているわけです。独裁体制も崩壊すると。将軍様はその結果亡くなると。
そうなれば日本へのミサイルも廃棄される可能性が初めて生じます。将軍様が残れば、もしも核を放棄する様な事があっても、ミサイルを放棄しないでしょう。核が無くても、ミサイルだけでもある程度の脅威は残ります。日本の原子炉や東京や名古屋や大阪が攻撃されれば、被害が甚大だからです。原子炉事故の被害は福島で非常に大きく長引くものである事は明らかになりました。

従って、日本が安全になる為には、ボルトンさんのリビア方式しかない。
日本が安全にならなければ、完全な世界平和とは言えない。
しかしそれが実現する保証もまだない。

現実問題としてそれまでには時間がかかるから、比較的安価で連続発射に制限の無い、対ミサイル迎撃システム、イージスアショアを早期に配備して、安全を確保しておく必要がある。

結論として、専守防衛システムを、できるだけ沢山配備して、安全を保障する事が肝要である。
そうすれば先制攻撃の為の軍備を拡張することなく、安全を高める事ができる。
世界中にこの、盾を増やして、矛を放棄する方式を導入すれば、世界の安全性は高まる。
軍縮と専守防衛システムの拡張である。

4日前 No.1466

地下水 ★otncK03kC4_BXv

現在、北も含めて、ほとんど全ての国が国連に加盟しています。
そして国連加盟国間の戦争を禁止しています。
また国連は平和維持軍や平和維持活動を、国連加盟国に要請して、構成し発行する事ができます。

国連を脱退すれば、平和維持軍がその国を攻撃する事も可能になりますから、国連を脱退できない。
国連に加盟していれば、国連決議による経済制裁を免れません。
軍事的圧力と経済的制裁から、暴発する事もできずに、独裁者は大量破壊兵器を放棄して、独裁政権を放棄し、自由になった国民に処刑される。これがリビアなどで実現した、リビア方式です。

4日前 No.1467

★nkN5ETHEj6_A7b

>>1450  ザビビのふくろうさんへ

> 自分の行為であっても、他の世界の事柄と全く同じく、自分の思い通りにはなかなかならないものでしょう。(あなたはいつも思い通りのレスを書けていますか?けがをすれば、腕を思うまま挙げることさえできませんね。)

> つまり、本質的には自分の行為とて世界の中の一事象に過ぎず、したがってまた、自身が思った通りの行為を行うということは、すなわち、世界を自らの思い描く世界に一致(意思に行為を一致)させようとすることにほかならないのです。


そうですよね。 自分の行為であっても、他の世界の事柄と全く同じく、自分の思い通りにはならないものであり、本質的にそれらの全ての自他ともの行為は、見かけ上のこの世界の中の一事象に過ぎないですよね。

少し気になったのが「なかなか」という表現ですが、自由意志と呼ばれる思い自体はその思考内に沸き起こり、通常はどうしてもあるように思われます(あるようにしか思えません)が、本質的には、自由意志は存在しないという事ですよね。つまりは、それは思いの中だけに沸き起こる幻想です。同時にこの「幻想」という心に沸き起こった思いも幻想です。(笑)ですのでこの最終理解で全ての問題が消滅し、心の平穏の獲得が可能となります。まぁ、これも幻想ですが。(笑)

> 私が採っている立場は、自由意志はある、しかし、意志は世界がどうなるか(自分の行為を含む)に決定力・支配力を持たない(必然化できない)、ということです。


上記の「自由意志はある」の「ある」とは、脳内、あるいは、心の中に思いとしてだけ「ある」という解釈でよろしいでしょうか。

つまり、自由意志は心の中にだけある思いであり、それは、本質的には外の世界に対して何も決定力・支配力をもたない無力な思い込みという幻想です。という事でよろしいでしょうか。

> 人間はそこにとどまらず、超越することが可能な存在であり、その根拠が人間の自由意志にあるとしました。


この超越可能な根拠が「決定力・支配力を持たない」とは、言い換えると「決定力・支配力を持たない人間の自由意志を根拠として、超越が可能となる。」という事だと思いますが、これは何をご説明頂いているのでしょうか?

> これを敷衍して述べますと、人間の行動原理に従っている人間というのは、自由意志で、欲望に従っているということです。


ここ以下でも同様で、仰っている世界観は理解できているつもりです。が、これも言い換えますと「人間の行動原理に従っている人間というのは、外の世界に何の決定力・支配力を持たない自由意志という幻想で、その自らの欲望に従っているということです。」と仰っているのでしょうか。ここも本質的に何をご説明頂いているのでしょうか?

私の理解が間違っているのであれば、ご指摘いただければと思います。

>>1456
> 人間視点の現実世界、これをメタ視点で眺めること、これは宿題さんの好きな言い方で言えば「超越すること」になろうかと思います。

> そして、この超越が可能であることの根拠、それが「意志の自由」だと考えます。


ここは、自由意志ではなくて、意志の自由ですね。

ここで、一旦、ギブアップします。

3日前 No.1468

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

個人の

@形式的自由は知と恣意(勝手気まま)

A先験的な自由は証明できる法則に服従する自覚

B理念としての自由は一個の全体者のうちで生きる

C実存的自由は決断の歴史的根源の自覚(自由意識の充足)

しかし自由は認識されない・・どんな仕方をしても客観では思惟されない・・らしい・・

3日前 No.1469

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_BXv

世界平和など興味はありませんが、そんなことは善の定義で考えれば答えは出てきます。種族保存は絶対善であり、種族滅亡は絶対悪である。つまり他民族を侵略したり、シナのように他民族を滅亡させるのは絶対悪だということを世界に広めればいいのです。

また平和であるとは絶対善である「社会の秩序」が保たれているということです。社会の秩序が保たれるためには人格の向上、つまり思いやりのある人々を作ればいいのです。まず、日本人並みの思いやりの心を世界に広げていくしかありません。

結局、世界が平和になるには思いやりのある世界を作るしかないのです。つまり善の定義を世界に広めるということでしょう、皆さん頑張りましょうw

3日前 No.1470

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>1463 SumioBabaさん
>>1465,1468  時さん

さすがにスレ違いなので、「哲学談話室」にレスをします。

スレ主さん、すみませんでした。

3日前 No.1471

マー坊 ★18NbNZF3b4_yO9

>>1470

shinwoodさん


>日本人並みの思いやりの心を世界に広げていくしかありません。

「世界平和は実現するか」の解決策が導きされました。
一歩先に進んで
「世界が平和になるには思いやりのある世界を作るしかないのです」
を実現する方法に進んでみませんか?

3日前 No.1472
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