Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(917) >>

善の定義

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(4228) - いいね!(0)

shinwood ★mjl0ItnnrE_1zu

善の定義を考えてみた。
善の定義が難しいなら悪とは何か、悪、悪人は人殺し、盗人、詐欺師などなど。これらに共通するのは自分さえ良ければ他人はどうでもいいということ。それでは善は悪の反対であるから善の定義は自分のことより公のことを優先することになる。
マザーテレサのように自分を捨て他人、公のために尽くすのを善人という。私たち一般人というのは善と悪の中間でうろちょろしている存在である。
これらから正しい行為、善というのは常に自分より公を優先する行為であるという結論になった、これで間違いないであろうか。

1年前 No.0
メモ2017/06/15 06:52 : shinwood @shinwood★mjl0ItnnrE_VuR

善の定義をしてみた。


「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗人、詐欺などなどである。これらに共通するのは、他人(公)のことより自分のことを優先しているということである。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は自分(私)のことよりも公のことを優先する行為である、ということになる、略して“公の為”である。公を優先する行為は時代を超え、民族を超え世界に共通するものである、つまり普遍的なものであろうから、これを絶対善とした」


最近ではマザーテレサの評判は悪いようだが、分かり易い例えとして言えば、マザーテレサのように自分の私欲を捨て他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろう。言うならば、この考えは世界共通善ともいえる。

また別の考え方では

「我々日本人にとって最も大切なものは国民の命であろう。この最も大切なものを守ることは絶対的に正しいことである。つまり最も大切な国民の命を守ることは絶対的に正しい事である。逆に言えば、絶対的に正しい事、絶対善は国民の命を守ることである。つまりそれは種族(民族)保存のことである、これは世界の各民族にも共通するから普遍性もある」

その民族にとって最も大切で、最も正しい行為というのはその民族の命、財産を守ることである。これも時代を超え、国を超えて共通する考えである。これも世界共通善ともいえるだろう。

これら二つの考えから“絶対善、つまり絶対的に正しいことは種族保存であり、公の為である”となった。

ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

 
 
↑前のページ (867件) | 最新ページ

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>864

>なぜ私の持っているコンテクストを共有しない人が、私の文章を読み解けるのだろう。不思議だ。


非常に良い問題設定ですね。

>ヒコ太郎氏とてじ氏は、私が持っていないコンテクストを共有しているが故に、互いの文章を読み解ける(意味が通じる、意思疎通ができる)のかもしれないけど、


いや、私の >>862 をヒコ太郎さんが読んだらたぶん「全然そんなこと言ってねえし!」と思うと思いますよ。
ヒコ太郎さんの一連の投稿を理解できるようになるためにはどう考えてゆけばいいか…自分なりの整理を述べただけです。



>「(根本的)誤解」の意味がわからない。


ソクラテスの話を知っていますか?
デルフォイの神殿で「ソクラテスより賢い者はいない」という神託が言われた。
ソクラテスは思った:「え、僕は全然賢くないけどな。でも神が嘘を吐くはずないし…」

私は敢えて逆説を発表しました。

『自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは、根本的誤解だ。』

>コンテクストを共有しない人とコミュニケーションするにはどうしたらよいのか?


ソクラテスの話をもう一度思い出してください。

神は、人間とはまるで異質なコンテクストにもとづいて神託を送る。
その神託の真意をソクラテスはどうして理解できたのか?

「自分は何も知らない」という事の意味が変わることによって。
ソクラテスは「え?神は何を言っているんだ?」と思いながらも、神の言葉を試みてみた。いったん信じてみたわけです。すなわち、意味不明なまま、自分には見えて来ないコンテクストに乗っかってみた。

(Mobiusさんが「無知の知」と言っていたので、この戦略が通じるかもしれないと思ったのです。)

>コンテクストを共有しない人とコミュニケーションするにはどうしたらよいのか?


Mobiusさんの答えは「より平易でプリミティブな共有コンテクストを探して、それを足掛かりに平易な言葉を交わし合うしかない」ですよね。

そもそもコンテクストを共有しないってどういう事態か?

例えばヒコ太郎さんは「カール・ポパー」の名前を出した。私はポパーなんて知りません。正確に言うと「なんか反証可能性とか言った科学哲学の人?」ぐらいの知識です。で、ヒコ太郎さんはポパーを知っている。どうコミュニケーションすればいいか?…ポパーを知らない人がポパーについて調べるか、ポパーを知っている人がポパーを紹介すればいいのです。自分の語彙に、ポパー的用語、ポパー的語用法を取り入れて、自分のコンテクストを拡張すればいいのです。

Mobiusさんの答えは、お互いが共有しているコンテクスト内で語り合おうということだと思います。ポパーが何か言ったのかもしれないが、それをポパーの用語ではなくて、誰にでも分かるような言葉で言い換えればいいではないか、という感じだと思います。

私の答えは、自分のコンテクストを増やすことでコンテクストの共通点を増やそう、というものです。つまり、自分にとってまだ異質なポパーの発想や用語が、自分にとって自然になるまでこの身になじませようって感じです。

Mobiusさんの答えは、自分でも照合できるような文章を『相手が』書いてもらうことによって成り立つ。
私の答えは、相手の意味不明な文章を理解するために照合する必要があるコンテクストを『自分で』探すことによって成り立つ。

どっちも必要ですよね。
でも、他人って自分の思い通りにならない。「もっと丁寧に書いて」と言っても書かないし「もっと簡潔に書いて」と言われましても私は困ります。だから自分が時間をかけたり努力したりした方が早い。

どうかな…ソクラテスのエピソードという共通のコンテクストで、伝わりやすくなればいいが。たぶん伝わらない。相手が理解できない事を相手に理解させようとするなんて、一見、矛盾した挑戦ですからね。「哲学は教えることができるのか( http://mb2.jp/_tetsugaku/747.html )」って問題ともカブります。これもソクラテス。

結局、私の試みも(おそらくヒコ太郎さんの試みも?)相手の態度変更を目指すものです。
態度変更というと大袈裟ですが、もっと具体的に言うと、相手の誤解を解くのを目指している。

私の答えも、逆から言えば、自分が有しているコンテクストに至るまでコンテクストを『相手が』拡張するように強いるものです。
Mobiusさんの答えも、同様に、『自分が』相手の有しているコンテクストの中で説明できるように工夫しようとするものです。

どっちがどっちと言えない。相互的です。これを解消するひとつの手段は「上下をはっきりさせること」です。私の目から見たら、ヒコ太郎さんの方がMobiusさんより格上に見えます。すなわち、Mobiusさんにとってヒコ太郎さんはコンテクスト拡張のチャンスだが、ヒコ太郎さんにとってはチャンスではない。ヒコ太郎さんは「教える立場」だからです…私の目から見たら。

しかし全てにおいてヒコ太郎さんが格上であるわけではありません。しかし少なくとも分析哲学という分野については、彼はMobiusさんや私より格上です。なのでその点については、私たちが努力する側です。ヒコ太郎さんは「特に目的はないです。気分を害してしまったようで、すみませんでした。」と言って退きましたが、自分が或る点については相手よりも格上だという自覚が足りない。あるいは、その自覚に対して素直じゃない。ヒコ太郎さんの方が目上なのに、Mobiusさんの気分を気にしている(フリをしている)。平等主義の弊害ですね。

知性というのは上下があります。もしなかったら絶望的でしょう。ソクラテスの神託エピソードにおいて密かに重要なのは、神があらゆる人間よりも「上」の存在であるという点です。「人間の最も賢いものでも、神とくらべれば猿にみえるだろう、智においても、美においても、その他のどの点においても。」(ヘラクレイトス断片83)

え〜本当に?仮に本当じゃないとしても、ソクラテスのエピソードの中で神が神であることによってどのような役割を果たしているかという問題を提起することで、ソクラテスのエピソードはより考えられたものとして見返されるきっかけになるでしょう。何でもないような箇所が、重要に思えてくる。こういうことは「感謝」でも起こりますね。

5ヶ月前 No.868

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>868
ありがとうございます。

(とりあえず今日は、既読表明のみにて失礼します。)

5ヶ月前 No.869

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>868

「賢者は愚者に学び、愚者か賢者に学ばず」

もし、私の発言の一連を読んで、私が抱えているコンテクストの底(深さ)を伺い知れるほどの知恵をお持ちなら、私に対する方便(多少正確でなくても 私にニュアンスを伝えるための言葉を選ぶこと(てじさんが以前に言っていた「幼児に話しかけるように話す」など))を使えるだろう。

一方 私は、ヒコ太郎氏の投稿から「分析哲学」というワードが全く連想されない。(分析哲学という分野があること自体 初耳だし)

私が 分析哲学の分野のコンテクストを得たい と思っているのなら、ヒコ太郎氏に食らいついていくことは有効だと思うが、お互いにそういう関係ではない。
私に分析哲学の片鱗を教えようという意志がヒコ太郎氏にあるのかどうか不明だし、私はヒコ太郎氏の投稿目的すらわからない状態だ。

もし分析哲学周りの話をしたいのなら、ヒコ太郎氏の方から降りてくるしかない。

(これはこれで置いておいて、別の話をしたいと思うが、今はここまで。)

5ヶ月前 No.870

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>863

>「理性の作用」と「理性」は同じものではありません。

(中略)
>理性の作用がなければ理性とは言えないし、理性がなければ理性の作用もないにもかかわらず、

>これらは異なるものです。


理性の作用とは理性によるアウトプットのことで、理性とは理性そのもののことだから、「理性」と「理性の作用」が異なるのは理解できる。それ故、次の一文

>理性とはこのように複雑怪奇なものなので、


に繋がらない。

だから、私の理解は間違っているのだろう。(私は、単純な理解をしているので。)


>首尾一貫させるのは理性の作用ですが、それは目的がなくても可能です。


この一文が唐突。目的という言葉はここにしか出て来ない。これが「理性」「理性の作用」の説明と どう絡んでくるのか?

5ヶ月前 No.871

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>868

>ソクラテスの話を知っていますか?

>デルフォイの神殿で「ソクラテスより賢い者はいない」という神託が言われた。

>ソクラテスは思った:「え、僕は全然賢くないけどな。でも神が嘘を吐くはずないし…」


>私は敢えて逆説を発表しました。

>『自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは、根本的誤解だ。』



ここだけ切り取って、私がソクラテスをなぞると こうなる。

「自分が書き記した言葉について、いろいろな人に聞いてみよう。」
「あぁ、この人もわかっていない。」
「あぁ、あの人もわかっていない。」
「色々な人に聞いたけど、結局誰も解っていない。」
「それはそうだろうなぁ。だって、この言葉は 私が発明した『Mobius語』だもんw」

『自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは、根本的誤解だ。』という逆説は間違いだった。


まぁ、『Mobius語』というのは大げさだけど、言外にどんな意味を込めているかは、他の人には見えないから、わからないよね。

もちろん、人生の達人は いろいろな人のことを見聞きして知っているから、私の反応が「典型的な○○パターンの人」というふうに類型できて、その人が「△△」と言うとき、言外に「□□」という意味を込めている と類推できるということはあるかもしれない。(でも、私は演技しているかもしれないw)

5ヶ月前 No.872

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>868

> >コンテクストを共有しない人とコミュニケーションするにはどうしたらよいのか?


>ソクラテスの話をもう一度思い出してください。

>神は、人間とはまるで異質なコンテクストにもとづいて神託を送る。

>その神託の真意をソクラテスはどうして理解できたのか?

>「自分は何も知らない」という事の意味が変わることによって。

>ソクラテスは「え?神は何を言っているんだ?」と思いながらも、神の言葉を試みてみた。いったん信じてみたわけです。すなわち、意味不明なまま、自分には見えて来ないコンテクストに乗っかってみた。



では仮に、『自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは、根本的誤解だ。』が真だとした場合、どういう見方をすれば、それが真と言えるかについて考えてみればよい。

例えば、自分の言語化能力が低い場合とか。

A「うんぬんかんぬん、あーだこーだ、くどくど … …」
B「結局それって、○○じゃネ?」
A「そうそう、それそれ!!」


あるいは、発言者の意図は関係ないとする場合とか。(これは無いかな w)

5ヶ月前 No.873

百理 ★5z6bVAmgS3_P5K

判断と言うのはその時の状況次第のケースバイケースではないのでしょうか?

5ヶ月前 No.874

てじ @flyonbody ★iPhone=AuL4PyZ7fL

>>872

>だって、この言葉は私が発明した『Mobius語』だもんw」

>言外にどんな意味を込めているかは、他の人には見えないから、わからないよね。


へえ、ここで『私的言語』の話題を出しますか。Mobiusさんはご存知ないかもしれないが、ウィトゲンシュタインという哲学者が、それを私的言語と名付けました。

それは置いといて…

>自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは根本的誤解だ。


これを言い換えると

>言葉の意味は発言者の意図である…これは根本的誤解だ。


となります。

なぜなら、言葉がどういう意味であるかはコンテクストに依存しますが、発言者の意図はコンテクストに依存せずそれ自体で存在するからです。

???

うん…私には手が付けられない問題なのです。

まず私たちは「言外に意味を込める」など不可能だと承認しなければなりません。あ…はい分かってます…そんなことは承認できませんよね。では私一人で考えてみます。「言外に意味を込める」の可能性が否定されることによって、何の可能性が否定されているのか?言葉という器に意味という中身を注ぐことの可能性が否定されている。「言葉にどんな意味を注いだかは他の誰にも見えない」ということは、いわば、外から中身が見えない器に意味という液体を注ぎ込んで、その器を見ても中の液体が何であるか分からないということです。注いだ本人だけはそれが分かる。しかし、そもそも言葉は器ではないし、意味は液体ではないのです。注がれる液体は器とは独立に存在します。言葉はむしろ、或る器に注がれれば別なものになり、別な器に注がれれば別なものになるようなものです。しかし、やはりコンテクストは器ではなく、言葉は液体ではなく、その液体の状態は意味ではありません。

しかし、こういう事実があります。相手が何の話をしているか分からないということがある…これは事実です。この事実は何を意味するか?その話が不透明な器のようなものであり、この器に入れられた意味が見えないということを意味するのではない。そして「話が見えてくる」というのは、その器が徐々に透明になってきてその中身が見えてくるという意味ではない。

しかし、確かに、話が見えてこないとは、相手が何を考えているか分からないということです。つまり、相手の意図が分からないということではないですか。しかしやはり、この相手の意図というものは存在するものではないのです。ましてや、言葉に込められたり、言葉の背景にあるものではないのです。相手の意図が分からないとは、相手が何のことを話しているか分からないということです。

相手が何のことを話しているか分からない場合のひとつのケース、それは相手が異国語を話す場合です。この場合、その異国語を習得すれば相手が何を話しているか分かるようになります。では、Mobius語というものが仮に存在するとして、それも習得すれば分かるようになるものでしょうか?いや、Mobius語が他人には分からないのは、誰もそれをまだ習得していないからではありません。Mobius語話者に、「あなたは〜ということを言っているのですよね?」と言ったところで「その〜はMobius語ではないので、私の言っていることを正確に表現したものではありません」と言える余地が常に残ること、これがMobius語が他人には分からないということです。仮にMobius語話者が語った通り、一言一句違わずにおうむ返ししたとしても、やはりそうです。「おうむ返しにそのように言った場合には、その言葉は同じ意味を持たないというのが、Mobius語です」と言える余地があるからです。

これは、言葉の意味は言葉やコンテクストと独立に存在しうるということと、同じです。Mobius語は、そのMobius語で使われる語彙やMobius語の文法などと独立して存在しうるのです。

では、そういうものとしてMobius語というものが存在しうるのか?否、Mobius語が存在するのではなく、「それはMobius語ではない」というような言葉の使い方があるのです。この言葉の意味は十分に理解しえます。しかしこれは、Mobius語という新言語を理解しえるということではありません。Mobius語という日本語を日本語の中に組み込みうる、ということです。

言葉には使い方があります。使い方があるということは、いかに言葉に意味を込めようとするにしても、その意味の込め方は限定されるということです。そして、そのやり方が限定された意味込めは、もはや、言葉やコンテクストから独立した心理的意図(魂)を直接言葉に込めることではありえません。言葉は、それ自体のうちに配列や順番等を含み、それ自体もまた何らかの話の中に配列されるものです。この配列の外に意味があるのではありません。すなわち、その配列は、その配列とは別な何か観念を表現するものではないのです。

しかし、話は何かについての話であり、その「何か」というのは表現される話題のことではないか?だが今や常に、その話題とその話題の提示の仕方は不可分だということを念頭に置かねばなりません。

ですがこれは、言葉は文字通りの意味しか持たず言外の意味を持たないということではないのです。しかしまた、言外の意味は言葉と独立に存在するわけでもないのです。言外の意味も、また言語の中に位置しなければ、意味を持ちえません。言語の意味とは、言おうとしたけど口には出さなかった本音などではありません。「言おうとしたけど口に出さなかった本音」など存在しません。

私たちは、自分の言い間違いを思い出すことができません。「5」と言うはずが「10」と言っていた場合、「10って言ってたよね?」という指摘を受けても、「5を言う」ということをしていた私は自分が「10」と言っていたシーンを回想的に再現できません。記憶は、過去にあったことを心に焼き付けて、その焼き付いたものを後から戻って見返すようなものではありません。むしろ自分が何を言ったか思い出すとは、その過去の状況を認識した上で、その状況において自分なら何と言うかをその時に考え出すということに近いのです。「5」と言うはずのシチュエーションを指摘されて「あなたは10と言っていた」と言われても、そのシチュエーションを考える私がそこでは「5」というよりほかないとしか思えないときには、「10」と言っていたことが信じられない。なぜなら記憶にないからです。このときには、全くの記憶喪失のなかで、他人の指摘を信じるしかありません。

思い出される記憶は、何らかの解釈装置を介した結果としてのみ、蘇ります。思い出すというのは、過去の印象が現代にそのままの形で(ただし少しぼやけて)置き直されるということではないのです。それは、過去の特定の状況の認識に基づいた解釈そのものです。記憶もまた、意味と同様に、解釈とは独立に存在する精神的存在ではないわけです。なので記憶は変わります。しかしそれは、解釈と独立に存在する記憶が、別な内容を持つようになるということではありません。意識にのぼる記憶はどんなものでも解釈済みのものだということです。解釈抜きに記憶の同一性や差異性について言うことはできないのです。記憶は常に再度読み込まれる。読み込まれるものとしてのみ記憶は意識にのぼる。その読み込み方が固定されるので、繰り返し思い出される記憶というものがあるように思えてくる。つまり、記憶がそれ自体で自己同一性を保って脳内かどこかに存在するかのように思えてくる。しかし、同一なのは記憶ではなく、記憶の思い出し方なのです。例えば、思い出す名前が一緒だということに過ぎないのであって、そういう名前だったと思い出すという仕方が、名前という点について同一なだけです。しかしやはり、同じ名前で常に別な対象が思い出されるということでもない。すなわち、思い出し方と記憶は不可分であり、それを切り離すことはできません。

分かりますか?

…分からない?ふむ、どうして「口に出さなかった本音」が存在しないのか分からない。ふむ、なぜ突然後半記憶の話になったのか分からない。そうですよね。いや、あなたが悪いのではなく、私の能力不足です。私たちは常に解釈の回転運動を続けていると言ったところで、これは単なる物語。私はやはり、私が問題にしたのと同じことをより綿密に展開したヘーゲルを読まなければならないのでしょうね。

…或いは感覚の違い?そう、私は自分が何を言いたいか分からないけど、しかし何を言ってやりたいのかを知っている…けど何を言いたいか分かるということは、それについて言う言葉を組み立てられるということそれ自体だ。すなわち、私は自分の書いていることの意味が分かっていない。私が書こうとしている事柄に私よりも精通した人が、私の書いていることを私よりも知っている。その人はおそらく「こいつの言おうとしてることは分かるが、なぜこいつはこんなに不十分な仕方で、しかもその事柄の冒頭部分だけをイタズラに長く語っているんだ?はやく本題のアノコトに立ち入れよ」と思うことでしょう。そして焦ったくなり、「つまりこいつの言いたいことはこうだ」と私の話を継ぐでしょう。そう、ここで私とMobiusさん(が想定したひとつの解決法)は一致します。ただその内実を、私は難しく考え過ぎているわけです。

5ヶ月前 No.875

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_FWA

>>875


>私たちは、自分の言い間違いを思い出すことができません。「5」と言うはずが「10」と言っていた場合、「10って言ってたよね?」という指摘を受けても、「5を言う」ということをしていた私は自分が「10」と言っていたシーンを回想的に再現できません。記憶は、過去にあったことを心に焼き付けて、その焼き付いたものを後から戻って見返すようなものではありません。むしろ自分が何を言ったか思い出すとは、その過去の状況を認識した上で、その状況において自分なら何と言うかをその時に考え出すということに近いのです。「5」と言うはずのシチュエーションを指摘されて「あなたは10と言っていた」と言われても、そのシチュエーションを考える私がそこでは「5」というよりほかないとしか思えないときには、「10」と言っていたことが信じられない。なぜなら記憶にないからです。このときには、全くの記憶喪失のなかで、他人の指摘を信じるしかありません。


〜CASE 彦太郎〜

Aさん「10って言ってたよね?」
彦太郎さん「ん?何だって?」
Aさん「いや、きみ今10って言っただろ?」
彦太郎さん「10なんて言うわけがない、文脈上5だろ、つまらない揚げ足取りするなよ」

結論:彦太郎さんは他人の指摘を信じなかった・・・!
   それに飽き足らず、彦太郎さんは続けてこのような発言をする。

彦太郎さん「意味というのは、言葉にあるものではないんだよ。言葉が何かを表すということはない。
      意味があるのは、言葉ではないもの・・・つまり、言外の意味だけだ。
      例えば、個人主義という言葉を考えて欲しい。
      その究極的な姿は、個人という言葉の意味すらあいまいで、結局その状態が個人主義であるとはいえなくなってしまうだろう。
      だから規則という無意味なものを作ってしまったんだ。
      みなよ、規則を守れと主張する人は鬱陶しいが、規則を破る人もまた鬱陶しい。
      この矛盾はまるで、規則自体に規則がないみたいじゃないか。
      それは、言葉に意味がないということだよ」
Aさん「話が長いよ。それに、それはきみが10って言ったことと何か関係があるのか?」
彦太郎さん「お前は彦太郎語を知らないのか?無知だな・・・フッ」

5ヶ月前 No.876

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>875

うわぁ、てじ語だ(笑)。
頑張って、読んでみますね。読んでみて、私が思ったことを書いてみます。


>へえ、ここで『私的言語』の話題を出しますか。

「私的言語」で検索してみましたが、私のいう『Mobius語』は、ウィトゲンシュタインの言う『私的言語』とはちょっと違うと思う。私は >>875 を読んで「うわぁ、てじ語だ(笑)」と言いましたが、ヘーゲルを知っている人なら普通に意味が汲み取れるのかもしれない。私にはヘーゲルについての知識がないので、てじ氏の発言の意味が汲み取れない。ここでいう「てじ語」は、完全なる『私的言語』というわけではなくて、「ヘーゲルに関する知識(コンテクスト)を持たない人には読み解けない言葉」という程度の意味です。 >>872 で書いている『Mobius語』についても ほぼ同様です。違うとすると「てじ語」には「ヘーゲル」というキーワードが付いているので、それを頼りに読み解くための知識をかき集めることができますが、『Mobius語』にはそのようなキーワードが付いていないので、読み解くためのキーワードは私の発言から集めるしかないわけです。

#ただ、私が「生贄と自然災害の関係性」について発言したことに対しては、“生贄”が“自然災害を鎮めるための儀式”であることくらいは「書かなくてもわかるだろう」という気持ちはあります。

5ヶ月前 No.877

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

私は、善と云うのは、感性的な不快、言い換えれば醜や真理軸に於ける偽、言い換えれば嘘、こうしたモノによってうわべを繕われた関係性だと、思います。

醜、関係性を守る為に我慢する醜い感情ですね。
嘘、関係性の破綻を守る為に、虚偽の物語を作る訳です。

この善を行動に活かしたのが礼ではないでしょうか。

例えば、孔子は、ある子供がいて、その父親が罪を犯した時、その父親を訴え出でました。
王様は、法を守るその子供を称えましたが、孔子は親を訴え出た子を良しとしませんでした。

孔子は法より親子の関係性の方を重視しました。

5ヶ月前 No.878

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_xmq

は〜い、正月早々、善の定義が帰ってまいりました。
善の説明疲れや眼球の疲れもあり、長らく投稿は控えてきました。勿論私のブログもずいぶんお休みしていたわけですが、またすこしだけ書きましたので、良ければブログを覗いてみてください、善の定義にも関係していますので。ブログ https://ameblo.jp/shinwood/

さて、時々哲学掲示板はロムしていたのですが、そこで気が付いたことは、やはり皆さんは博学であるということです。皆さん長年哲学をやってこられたのであるから、哲学のド素人の私が及ばないような、それ相応の深い知識をもっておられるということです。そのことについては私も畏敬の念をもって対峙しなければならないと感じた次第でございます。これからは皆さんには深い知識があるのだと心して、分からないところがあれば、素直に皆さんに質問して教えてもらえばいいではないかということです。但し人格はそう簡単に変えることはできませんので、残念ながら私自身は今までとあまり変わらないとは思いますが・・・。

そういうわけで、私と皆さんとの討論において、皆さんの投稿には何か深い意味や得るところがあるのでは?と思い、「信じることは命を賭けることである」「善の定義」「行き詰まった問題を皆さんに聞くスレッド」などをはじめから読み返してみました。確かに深く考え直してみるところもありましたが、残念ながら私の浅い知識では皆さんの深い意味をあまり見出すことはできませんでした。逆に気づいた点が多々見つかりましたので、それらを随時投稿していきたいと思います。まあ、三つのスレッドをすべて復活させるのもなんなのですけれども、説明するにはどうしてもリンクが必要でありますので、三つとも一時的に復活させてもらいます。


まず、私が自分の都合で善の定義を離れたので、まだ答えていない質問があります。初めはそれに返信したいと思います。

>>840   SumioBabaさん
 >「まず自分が幸福になる」という部分が「私的善」です。そしてその後、「他人をも幸福にする」が「公的善」になります。「善」とは、必ずしも「私的善」を犠牲にしてまで「公的善」を優先すべきものではなく、まず「私的善」を実現して自分が幸福になり、その上で「公的善」を行い、他人をも幸福にしてあげるのが正しい順序ではないでしょうか。<

このSumioBabaさんの考えで電車で席を譲るという小さな善について考えてみましょう。
「SumioBabaさんは仕事で疲れていたので、座席に座ったが、自分の前にお腹の大きい妊婦さんがやってきた。この時SumioBabaさんは「俺は疲れているんだ、まず自分の疲れをとって、そのあと妊婦さんと変わることにしよう、妊婦さん、2〜30分待ってくれ、俺の疲れが取れたら、あなたに席を変わってあげるから、私的善の後で公的善をやればいい、それが私の信念なのだ」

さて、周りの乗客はSumioBabaさんのこの態度を見てどう思うだろうか?きっとほかの乗客が見かねて「妊婦さん、こっちに座りなさい」と席を譲ってくれるでしょうね。そしてSumioBabaさんには軽蔑のまなざしが注がれることになるでしょう。
残念ながらSumioBabaさんの考えは善には不適格です。


また正しい行為、つまり善とは「私より公を優先する行為である」についても「とてもとても私にはできない」と考えがちですが、私たちが日ごろ行っている小さな善も実は「私より公を優先する行為」なのです。私たちは日ごろから何気なく「私より公を優先する行為」を行っているのです。勿論私たち凡人には大きな善などとてもできません。大きな善を考えるから「私より公を優先する行為」などとてもできないと考えてしまうのです。ですからあまり大げさに考えないで私たち凡人は小さな親切をやればいいのです。

SumioBabaさんの他のスレッドを見ていて、多世界解釈などにより相対的な世界が絶対であるというような考えですので、私的善などがどうしても出てきます、もうSumioBabaさんには善の定義を説いても無駄なような気がします。それに善を利益で考えている限り正しい善は分かりません。席を譲ってあげるのは利益を考えてのことですか?SumioBabaさんの思う善と私の考える善は全く別物です。


次です  >>878  つみれさん
>例えば、孔子の時代、ある子供は父親が罪を犯した時、その父親を訴え出でました。王様は、法を守るその子供を称えましたが、孔子は親を訴え出た子を良しとしませんでした。孔子は法より親子の関係性の方を重視しました。<

この問題における正しい行為とは何であろうか?
このような問題は公の為で考えてもなかなか難しい問題です。例えば自分の父親が本屋で万引きをしているのを見たとする。自分はどうするのが正しい行為なのか、警察に通報するのか、父親に直接言うのがいいのか。
やはり自分で判断できない時には母親や家族などほかの人に相談するのが一番正しい行為でしょう。そして家族みんなで私欲を抑え父親の為そして家族の為にはどうしたら一番よいのかを話し合うのが正しい行為になります。但し自分の父親が人を殺しているのを見たら、これはもう公は世間となりますので、公の為に即警察に通報しなければなりません。
哲学のベテランの皆さんは、つみれさんの問題にどう答えますか?


また私のスレッドには >>867 のように「事務所から」と書き込まれることが良くあるが、これはすべて尊師さん(雑記さん)ではないのですか?雑記さんの日ごろの文体とは違うので本当のところが分かりかねているのです。もしも雑記さんであれば、こんなことはもうやめてくださいね、迷惑ですから。もし違っていたなら謝ります。

9日前 No.879

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>879  shinwoodさんへ

 これはこれは「親友」のshinwoodさんではありませんか。お久しぶりです。遅ればせながら、あけましておめでとうございます。また議論できて大変嬉しいです。

>>「まず自分が幸福になる」という部分が「私的善」です。そしてその後、「他人をも幸福にする」が「公的善」になります。「善」とは、必ずしも「私的善」を犠牲にしてまで「公的善」を優先すべきものではなく、まず「私的善」を実現して自分が幸福になり、その上で「公的善」を行い、他人をも幸福にしてあげるのが正しい順序ではないでしょうか。

>このSumioBabaさんの考えで電車で席を譲るという小さな善について考えてみましょう。

>「SumioBabaさんは仕事で疲れていたので、座席に座ったが、自分の前にお腹の大きい妊婦さんがやってきた。この時SumioBabaさんは「俺は疲れているんだ、まず自分の疲れをとって、そのあと妊婦さんと変わることにしよう、妊婦さん、2〜30分待ってくれ、俺の疲れが取れたら、あなたに席を変わってあげるから、私的善の後で公的善をやればいい、それが私の信念なのだ」


 何事も大切なのはバランスです。100%利己的でもうまくいかないし、100%利他的でもうまくいきません。妊婦さんに席を譲るべきかどうかも、時と場合により判断は様々です。自分が元気でぴんぴんしていて、妊婦さんがふらふら倒れそうで見ていられない状況だったら、SumioBabaもすぐ席を譲ると思います。逆に、自分がインフルエンザで40度の熱が出て病院に行く途中であり、妊婦の方がプロレスラーのように元気だったら、SumioBabaは席を譲らないでしょう。

>さて、周りの乗客はSumioBabaさんのこの態度を見てどう思うだろうか?きっとほかの乗客が見かねて「妊婦さん、こっちに座りなさい」と席を譲ってくれるでしょうね。そしてSumioBabaさんには軽蔑のまなざしが注がれることになるでしょう。残念ながらSumioBabaさんの考えは善には不適格です。


 SumioBabaは徹底的に相対主義の立場を採るので、基本的な考え方は「人それぞれいろんな考えが有って良い」です。だから、妊婦さんに進んで席を譲ろうとする人も居て良いし、なかなか譲らない人も居て良い、です。席を譲ろうとしない人が居ても、軽蔑のまなざしで見ることは有りません。人それぞれ考え方も違うし、状況も違うし、体調も違うし、席を譲ろうと思う余裕の有る人が譲れば良いだけです。

 shinwoodさんにもshinwoodさんの考えが有るでしょうから、SumioBabaはそれも特に否定するつもりは有りません。ただ、shinwoodさんは、自分の「善」観こそが唯一絶対に正しいと思い込み、他人の「善」観を全否定し、他人にまで自分の「善」観を押し付けていませんか?

>もうSumioBabaさんには善の定義を説いても無駄なような気がします。


 SumioBabaは「shinwood教」の信者にはなれないようです。

>それに善を利益で考えている限り正しい善は分かりません。席を譲ってあげるのは利益を考えてのことですか?


 shinwoodさんは、「自分は利益を考えて席を譲るのではない。」「利害を超えた善で席を譲るのだ」と言いたいのでしょうか。でも、本当はすべて自分の利益のためにしているのです。shinwoodさんが、一見、自己を犠牲にして他人の為・公の為になるような行為をされたように見える場合も、そう「する」のと「しない」のとで、「する」の方がより大きな満足感を得られるから、shinwoodさんは「する」を選んだのです。自分がより満足できる「する」の方を選んだ、つまり、自分の利益を考えて「する」の方を選んだのです。

>SumioBabaさんの思う善と私の考える善は全く別物です。


 そう、それで良いじゃないですか。でも、自分の考えを主張し合うことで、お互いにいろいろ学ぶものも有ると思います。だから自分は、いろんな人と議論するのが好きです。今年もよろしく。

8日前 No.880

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

shinwoodさん

善とサービスの違いは何ですか?

需要と供給がピッタリと合えばいいだけの話だと思いますか?

8日前 No.881

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_xmq

>>880   SumioBabaさん

素直に「そうですね、私的善を実現して後、公的善をやるというのは、やはり善にはそぐわないですね」と言えばいいものを「妊婦さんがプロレスラーのように元気なら」って、ありえない設定で言い訳をするのは、あなたの悪い癖です。
また善、道徳とは社会的なものであり私的善という言葉はその言葉自体矛盾なのです。あなたの嫌いな矛盾なのです。もういい加減、私的善を使うのはやめなさい。

>本当はすべて自分の利益のためにしているのです。shinwoodさんが、一見、自己を犠牲にして他人の為・公の為になるような行為をされたように見える場合も、そう「する」のと「しない」のとで、「する」の方がより大きな満足感を得られるから、shinwoodさんは「する」を選んだのです。自分がより満足できる「する」の方を選んだ、つまり、自分の利益を考えて「する」の方を選んだのです。<

自衛隊員が津波で被災した人々の救援活動で自分たちは缶詰や乾パンなど冷えたものを食べ、被災者には温かいものを食べてもらいたいと炊き出しをやる。ボランティアや自衛隊は自分たちの満足の為やっているのではありませんよ。そのような考えは彼らを侮辱する考えです。善は自己満足が動機ではありません、良心から出てくる思いやりが動機です。あなたの善は自己満足善で、真の善ではありません。あなたには正しい善の定義はできません。
私の善の定義は内包的定義より導かれたもので語る価値がありますが、あなたの言う善はただの思い付きであり、論理的でなく語る価値などありません。

>>881 宿題さん

>善とサービスの違いは何ですか?<

あなたの言うサービスの定義は何ですか、教えてください。

8日前 No.882

★Android=6HT2fyI8qs

shinwoodさん まあ生物学的にはBabaさんの考えが
主流なのですよね。利己的な遺伝子というか社会というものも自分達の利益のために作られたシステムというのが今の科学的な考えです

7日前 No.883

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

みなさんが書かれた内容をまったく確認せず書き込むのもどうかと思ったのですが、長文を読むことに慣れないもので、私なりに善ってどんな感じかなということを発言してみたいと思います。


まず善を定義するなら、個人個人の内側から発する道徳心を善とするのか、それとももっと大きな視点で、社会的判断や法律的な基準を善とするのか、どちらかはっきりしていただきたく存じます。

もし前者なら、道徳心とは?とかそもそも心って何?とかそういう話が論じられて良いはずですし、
もし後者なら、今の法律のどこがおかしいとか、何が間違っているとかそういうことが論じられるのではないでしょうか。

私の善の理想論は、個人の内側から発した善が誰かへと影響し、その善を受け取った人間はまたさらに別の人間に善をなす。
そしてこの世の中全体が善行で埋め尽くされるような世界を理想とします。
蝶々が羽ばたけば竜巻が起こるぐらいの勢いで、善がこの世に埋め尽くされることを祈っています。


ところで善とは何なのか。私は個人個人の道徳心を善とすることだとし、2つ思いました。
1つ目は、極力相手の視点に立って、その相手のために良いと思われることをすること。
2つ目は、相手の視点に立つのではなく、自分を捨てて相手の存在そのものに踏み込んで良いと思われることをすること。

1つ目のイメージをもう少し具体的に話すと、今にも崩れそうな崖から落ちそうな人がいたとして、それを自分も相手も両者が助かる方法で救うような行いを善とします。

2つ目のイメージは、自分は崖から落ちて死んでしまっても構わないから相手が助かる方法で救うというような行為を善とします。

みなさんは、2つ目のイメージの方を、より尊ぶし、素晴らしい行いだと感じるのではないでしょうか。

なぜ2つ目の方に、より素晴らしさを感じるのでしょうか、それは自分を捨てているからです。
それが常人にはできないことだからです。

人によっては「いや、どっちも助かるべきだ」とか言う人もいるでしょうが、また別の話になるので割愛します。

以前、JR新大久保駅で酔った人が駅のホームから転落しました。それを韓国人の青年が助けましたが、助けた青年は電車に跳ねられ死亡しました。
これは素晴らしい善行として、彼を称える碑のようなものが駅に掲げられています。

私は、青年はまさか自分が死ぬと思って飛び込んだ訳じゃないのだろうと思います。
目の前にいる相手を救うのに必死だった。そして相手を助けた後、自分も助かるためにホームをよじのぼったが間に合わなかった。
というのが現実だと思います。

映画の世界を持ち出して申し訳ないのですが「タイタニック」という映画。
愛し合う恋人同士が助かるために必死で海の上につかまっていられる浮遊物を探すのですが、それは一人が助かる分しかなく、
男性は女性にその浮遊物を差し出します。そして自分は死んで行き、愛する人を助けるお話です。

私は恥ずかしながらこのお話しに感動しました。
やはり自分を捨てて愛する人を守るという行為が私に涙させたのだと思います。

自分を捨ててまでも人を救うことが真の善行だとするなら、普段の私達はそんなことできないですよね。

杉原千畝さんは、自分の外交官としての地位を落としてしまっても、6000人のユダヤ人を救うことをした人ですが、この行為も尊いです。
ただ、やはり思うのは「地位や名誉」より「命の重さ」です。

誰だって自分の命が大事に決まってる。それを差し出すことができて初めて真の善行と言えるのではないでしょうか。
内臓のどこかが不完全に生まれてしまった自分の子供に自分の臓器を差し出し自分は死ぬという決意をした親御さんがもしいるとしたら、
これこそ真の善行だと思います。

「自分を捨てて相手のためになることをする。」
これを善の定義と私はしたいと思います。

しかしながら、この定義には困った所があります。「自分の命をも捨てると人口が減ってしまう」という部分です。
世界の人口問題をこの、「個人個人の道徳心の在り様」にあてはめることはまったくもって間違っている発想ですが、
色んな視点から私の草案を指摘してくださって構いません。

また、人の長文をよく読まず自分は長文を書いてしまい大変申し訳ありません。
以降よく読むように努めます。よろしくお願いします。

7日前 No.884

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

>>884 補足

私の善の理想論は、個人の内側から発した善が誰かへと影響し、その善を受け取った人間はまたさらに別の人間に善をなす。
そしてこの世の中全体が善行で埋め尽くされるような世界を理想とします。
蝶々が羽ばたけば竜巻が起こるぐらいの勢いで、善がこの世に埋め尽くされることを祈っています。

これは私がした善の定義がこの世に巻き起こって欲しいと願っているのではなく、自分も相手も助かるような善がこの世に巻き起こって欲しいと願っているのであります。言葉足らずで申し訳ありません。

7日前 No.885

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

>>882

サービスとは奉仕です。身を捧げることです。施しとどう違いますか?

ちなみに

『良』と『善』の区別

『良』は質がよいこと
『善』は行為がよいこと

らしいです・・

7日前 No.886

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    功利主義的「善」概念の必要性

 SumioBabaは基本的に相対主義を採るので、「善」をどう考えどう定義するかは、人それぞれいろんな考えが有って良いと思います。ただしSumioBaba個人としては、できるだけ一般化した広義の定義をしたいと思います。すると「善」とは、自分や他人や社会にとって「利益」となるものすべてを指すことになります。精神的なものも、物質的なものも、金銭的なものも、すべて含まれます。逆に「損害」を与えるものが「悪」となります。なぜこう考えるのかというと、人間として生きていると必ず、「善」も「悪」も数値化して評価することで、自分の行動を決めねばならないからです。

 例えば、困っている友人を助ける行為を考えます。助けられる友人にとってそれは「利益」になりますから、「善」と見なすでしょう。しかし、自分が友人を助けようとすると、いろんな要素が絡んできます。友人が喜んでくれるのは自分も嬉しいので、この部分は「善」です。しかし、他の友人にはそれがマイナスとなり、デメリットが有るかもしれません。友人を助けたばかりに、自分が怪我をしたり最悪の場合命を落とすかもしれないというデメリットも有り得ます。さらに、お金もいくらかかかります。果たして自分は、友人を助ける行為を「する」方が良いか?、「しない」方が良いか? こう考えるとき、様々なメリットとデメリットを数値化して合計し、「する」場合と「しない」場合とにおいてどちらが高得点かで判断せねばならないのです。

 「善はお金では測れない」といくら綺麗事を言っても、「する」と「しない」のどちらかを選ぶとき、お金のメリット・デメリットと同列に並べて数値化し、比較する必要が有るのです。大きな1つの「善」を行おうとすると、3つの小さな「悪」も避けられないとしましょう。メリットとデメリットの合計がプラスなら「する」方が賢明だし、マイナスなら「しない」方が賢明です。しかもこの計算において、それぞれのメリット・デメリットは、自分にとっての評価値になります。助けられた友人にとってメリットが+100でも、助けた自分はそれを+80としか感じないかもしれないし、+150と評価するかもしれません。結局、友人を助ける行為を「する」か「しない」かを考えるとき、自分にとってのメリット・デメリットをすべて数値化して合計し、どちらが大きな値になるかで判断するしか方法が無いのです。

 貧しい国の人々を助けるため、100万円を寄付した人、あるいは給料100万円に相当するボランティア活動をした人がいたとします。一見するとこの人は、他者を幸福にするため、自分にとって利益−100万円の行為をしたかのように見えます。しかし、よく考えると決してそうではありません。もしかしたらこの人は偽善者で、自分を立派な人間に見られたいという欲望が有り、それを満たすことに+300万円くらいの精神的利益が有ったのかもしれません。だとしたらこの人にとって利益の計算は、+300万円−100万円=+200万円であり、合計はやはり利益がプラスだからこそ、この行為をしたのです。あるいはこの人は偽善者ではないけれど、自分は他人の為・公の為に役立つ人間になりたいという気持ちを人一倍強く持っており、自分の理想とする人間に自分が近付けることに、+200万円くらいの精神的利益を感じていたのかもしれません。この場合も利益の計算は、+200万円−100万円=+100万円であり、合計はやはり利益がプラスだからこそこの行為をしたのです。

 かつて自分は、キリスト教信者になりかけたことが有ります。その時、自分に伝道してくれた人がいつも言っていました。「他人のために自分を犠牲にできる人、そういう人が天国に入れるのですよ」。当時は素朴にそれを信じていましたが、進化論などを学び、人間もまた生物として生きていく利己的な存在だと理解した時、大きく考えが変わりました。この教えは、利己的な生物である人間が仲良く平和に生きていく為に考え出された「必要嘘」ではないのでしょうか? 例えば「良い子にしているとサンタクロースがプレゼントをくれますよ」のような、キリスト教独特の「洗脳」ではないのでしょうか? 確かに世の中、利己的な人が多いので、たまに利他的な人を見るとすがすがしい気持ちにはなります。しかし、利益の合計がマイナスだったら、絶対に人間は、その行為はしないはずです。一見、他人を助けるために、自分の利益が−100万円になるのを惜しまない人が居るように見えても、よく考えると別の利益が絡んでいて、利益の合計は必ずプラスになっているはずです。

7日前 No.887

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_ly4

>>883   塵さん

利己的な遺伝子がいまは主流なのですか?良ければもう少し分かりやすくお願いします。

>>884  ゆみさん

>「自分を捨てて相手のためになることをする」これを善の定義と私はしたいと思います。<
では特攻隊は善行為でいいのでしょうか。オーム真理教信者がオーム真理教の為に命を捨てるのは善行為でしょうか?

>JR新大久保駅で酔った人が駅のホームから転落しました。それを韓国人の青年が助けました<

あの事故では人を助けてはいませんよ。酔っぱらって線路に落ちた人を日本人と韓国人が助けようとして、残念ながら三人ともなくなっています。マスコミでは日本人のことは無視して韓国人だけが助けようとしたと報道されました。あなたもそれに騙されたのですね。
そしてこの事件は後に「あなたを忘れない」という映画になりました。その映画では韓国人はヒーローで日本人は悪い奴らという設定の映画になっていました。
あなたは死んだ彼らの行動は善行為だと思いますか?

>杉原千畝さんは、自分の外交官としての地位を落としてしまっても、6000人のユダヤ人を救うことをした人ですが、この行為も尊いです。<

世間では国に逆らって杉原千畝さんはユダヤ人を救ったとなっていますが、そんなのは嘘です。日本軍の協力なしにユダヤ人は救えませんでした。東条英機もユダヤ人にとって恩人なのです。日本軍を悪にしておきたいアメリカやマスコミの捏造です。千畝さんが公務員をやめなければならなくなったのは、GHQが戦争に協力した国家公務員を追放したため職を失ったのです。あなたもマスコミに騙されないように少し勉強してください。

>>886  宿題さん

>サービスとは奉仕です。身を捧げることです。施しとどう違いますか?<

なるほど、奉仕であれば、善に近いでしょうね。滅私奉公が善ですから。施しとはちょっと違うでしょう。

>>887  SumioBabaさん

>しかし、利益の合計がマイナスだったら、絶対に人間は、その行為はしないはずです。一見、他人を助けるために、自分の利益が−100万円になるのを惜しまない人が居るように見えても、よく考えると別の利益が絡んでいて、利益の合計は必ずプラスになっているはずです。<

さすがに頭のいい理論派のSumioBabaさんらしい考えですね。利益の意味を儲け、利潤ではなく、得になる、益すると考えても、とても善の定義にはならないような気がします。

私は進化論や利己的遺伝子などあまり関係なく、公(仲間の群れ)の為に、種族を存続させるために善は自然に作られたと考えます。善は本能なのです。私のブログにも書きましたが、生まれて数か月の赤ちゃんでも善悪を判断できるのです。ふくろうさんもあなたもそこのところを考えなければ善は分かりませんよ。

7日前 No.888

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_ly4

「善の定義」を読み返してみて感じた事。その1

>>510  ザビビのふくろうさん

>本能(遺伝子)で人類同士が殺し合わないようにプログラムされているのなら、道徳は必要ない。人に道徳規範が必要なのは、それがなくては人同士、(場合によっては歯止めなく)殺し合うし、「道徳的観点」から観たら「悪いこと」とされることを行うからである。
すなわち、人間は本能が壊れた動物であると言われることもあるように、道徳は人間社会存立が本能だけで片付かない、不十分だからこそ存在する。
よって、道徳を本能や遺伝子で基礎づけようとするのは本末転倒というか、最初から無理だとわかりきっていることだ。猛獣であろうが何であろうが、動物の行為は本能に基づく行為であって、殺すのも殺さないのも、善悪判断に従って行う行為、すなわち道徳的行為ではないのである。<

群れで生きる動物はお互い喧嘩しても、相手が負けのポーズをとれば、脳内ホルモンが出て怒りがスーッと消えて殺すまでには至らないのです。そうやって群れの秩序を維持しているのです。人間も同じで本能がしっかりとしていれば喉を締めて殺そうとしても、相手が苦しい声を出せば、ハッと我に返り手を緩めてしまうのです。しかし現在の本能がしっかりしてない人間たちは悪い理性が強くでて罪悪感もなく殺してしまうのです。
我々人間の道徳観も秩序を守ろうとする本能から来ているのだと考えています。私のブログの最新の投稿にも書いていますが、生まれて数か月の赤ちゃんでも本能的に善悪は分かっていると実験で確かめられています。善悪は本能から来るのです。その本能の善悪に理性でいろいろと肉付けをしているのが私たちの道徳だと思うのです。
ふくろうさんも「道徳を本能や遺伝子で基礎づけようとするのは本末転倒というか、最初から無理だとわかりきっていることだ」という考えを改めない限り本当のところは分かりませんよ。

>>782  ヒコ太郎さん
>shinくんは他の人が思いつかないような事を思いつくという意味でセンスがあると思う。
対偶の使い方とかも普通の人はそういううまい使い方はできない。
もっと哲学を勉強して説得力を身につけたほうがよい。
そうでなければ、内容がよくても残念な結果になってしまう。
種族保存は絶対善、いいじゃないか<

いや〜ヒコ太郎さんだけですよ、少しでも私を認めてくれたのは。心強かったのですよ、この言葉は(内緒ですけどねww)
しかし残念なことに、その後ではまたまた私のことをボロクソに言っていますけどねww

7日前 No.889

かすみ ★E1U0YeJ73I_Wps

赤ちゃんの生前的な善悪感が健全だと云うのは、そういう傾向の設定が基本的に大多数を占めると云う事で、データ数を増やせば一定数凶悪な設定の赤ちゃんもいる筈です。

また、誕生後の経験によって、善悪の基本設定も色々と変化していくものと、考えられます。

私は基本的にキリスト教を好みませんが、毎週1回、道徳的な人々の集まりに参加して、清廉な心を養い合う事は、習慣によって善良な心を維持し続けるには好い方法だと、思いますね。

7日前 No.890

宿題 ★5z6bVAmgS3_ly4

かすみさん

私も中学時代トルストイ全集を読破しなければ清貧の思想には成らなかったと思います。

トルストイズムの人道主義はトルストイ集を読まなければ根付かないと思います。

ちなみに亀井勝一郎さんの本で今の若者はトルストイ全集さえ読破できる根性が無いと書いてあったので読破しました・・

私はトルストイさんによってしかキリスト教を理解していませんが・・トルストイズムは光の面だと思います。

6日前 No.891

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_ly4

>>890  かすみさん

>赤ちゃんの生前的な善悪感が健全だと云うのは、そういう傾向の設定が基本的に大多数を占めると云う事で、データ数を増やせば一定数凶悪な設定の赤ちゃんもいる筈です。<

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html  赤ちゃんにも善悪がわかる!?を読んでみてくださいね。

>また、誕生後の経験によって、善悪の基本設定も色々と変化していくものと、考えられます。<

そうだと思います。赤ちゃんの善悪は動物的本能の善悪ですから、教育で人間の道徳になっていくのだと思います。そのためにはやはり「本能から善悪は来る」を基礎にしていなければならないのです。これを忘れているのが西洋哲学です。

6日前 No.892

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

shinwoodさん

>そのためにはやはり「本能から善悪は来る」を基礎にしていなければならないのです。これを忘れているのが西洋哲学です。


植物を育てるのに種から始まり水分・日光・肥料・気象の変動などさまざまな要因があります。

人の心を育てるのに日光は種を忘れていると言うようなことを平気で言っていると思います・・

そもそも哲学は理性で考えることを問題にしたもので教育原理ではありません・・

5日前 No.893

ソフィー @yuniko99 ★ru9hDPoFte_D9v

善悪は本能から来る。

それもありますが人間の場合でも善悪は環境からも来ますし教育からも来ます。

少年兵が相手を撃つのも環境や教育から来ます。殺そうという本能もあるかもですが

悪いことでもしないと生きていけないと思ったら悪いことでもします。

5日前 No.894

ゆみ @yumicoco ★lztcptIjir_7FY

shinwoodさんへ

>>888 にて、ツッコミありがとうございました。確かに勉強不足でした。

さて、やはり頑張って善の定義をしてみます。

今日出た答えは「善とは人様の命を大事にすること」なのだと思います。
また、その人の人生をより良くしてあげること、楽しませることも善なのだと思います。

お医者様は間違いなく、直接的に命を救っている
だから善。

お花屋さんは、その彩りで人を喜ばせている
だから善。

バーは、お酒を提供して、お酒が好きな人を楽しませている
だから善。



世の中は善でできていて、そこに対価を支払うことで成り立っているのでしょう。

ただ、なんでもやり過ぎは良くないもので、お酒を提供する場合はほどほどにしなければならないでしょう。

3日前 No.895

宿題 ★5z6bVAmgS3_ly4

ゆみさん

ある人の命を大切にするとある人の命が犠牲になる。

何故みんな全員が幸せになれないと思いますか?

3日前 No.896

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

宿題さんへ

 >ある人の命を大切にするとある人の命が犠牲になる。
これはどのような場合を想定していらっしゃいますか?

3日前 No.897

宿題 ★5z6bVAmgS3_ly4

ゆみさん

医者や介護者が助ける人が多すぎて過労死すること・・

戦争で家族を守るために出兵すること・・

などなど他にも・・

3日前 No.898

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

宿題さんへ

 なるほどですね。ただ、ここは善を定義する場所だと思いますので、別の話は別のところで話そうと思うのですが、それでもここで話すことを主  さんに許していただけるなら、「なぜみんなが幸せになれないか」について考えてから発言させていただきたいと思います。

3日前 No.899

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

ゆみさん

みんなの命を大事にする=最善 だと思いますか?

3日前 No.900

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

みんなの命を大事にするんだから、それはとても善いことだと思いますけど。

3日前 No.901

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

ゆみさん

地球上のみんなの命が大事にされることがありましたか?

3日前 No.902

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

宿題さん

 どういう意味ですかそれは。

3日前 No.903

宿題 ★5z6bVAmgS3_ly4

ゆみさん

今まで一度も全世界の命全てが大事にされたことが実現できていないのです。

善には必ず悪と言う影があるのです・・

3日前 No.904

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

そうでしょうね。

3日前 No.905

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_ly4

>>899  ゆみさん
 >なるほどですね。ただ、ここは善を定義する場所だと思いますので、別の話は別のところで話そうと思うのですが、それでもここで話すことをスレ主さんに許していただけるなら、「なぜみんなが幸せになれないか」について考えてから発言させていただきたいと思います。<

幸せになれないのは正しいことが何か分からないからではないでしょうか。ですから善の定義と関係します。どうぞこのスレで「なぜみんなが幸せになれないか」について語ってください。

>「自分を捨てて相手のためになることをする。」これを善の定義と私はしたいと思います。<

善の定義としてはいいと思うのですけれども、なんだか深みが足りないように思うのです。その為には特攻隊の行為は善か、オーム真理教信者がオーム真理教の為に命を捨てるのは善か?酔っぱらって線路に落ちた人を救おうとして死んだのは善なのか?などを深く考える事が必要だと思うのです。



宿題さん このスレを存在主義スレ化しないでください。このスレは雑記帳ではありません。

3日前 No.906

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

shinwoodさんへ

>>906

 >幸せになれないのは正しいことが何か分からないからではないでしょうか。
 >ですから善の定義と関係します。どうぞこのスレで「なぜみんなが幸せになれないか」について語ってください。

 了解しました。ではもう少し宿題さんに突っこんで質問してみたいと思います。私は >>895 にて、
 >今日出た答えは「善とは人様の命を大事にすること」なのだと思います。
 >また、その人の人生をより良くしてあげること、楽しませることも善なのだと思います。
 と答えました。

 そこで宿題さんから、なぜみんなが幸せになれないかという質問がきました。
 私はシンプルな回答ですが、みんなが幸せになることは可能だと思っています。
 みんながっていっても人類全員がみたいな壮大な話じゃなく友だち同士とか恋人同士などで集まって幸せになることは可能じゃないでしょうか。

 宿題さんは、そうではないケースをたまたま引用されただけに過ぎないでしょう。

3日前 No.907

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

哲学用語辞典で善≒幸せらしいです。

全体が幸福にならないと個人の幸福はあり得ない・・という宮沢賢治さん

自分だけが幸せって・・善(幸せ)ではないでしょう・・

2日前 No.908

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

宿題さんへ

 そもそも私は自身の考える善の定義について申し上げただけであり、善=幸せなどとも一言も言っておりません。

1日前 No.909

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

ゆみさん

ゆみさんの善の定義は・・辞書と違います・・

辞書の解釈はもっと広範囲で歴史もあります‥ゆみさんの解釈はきわめて狭い解釈ですね・・

18時間前 No.910

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

辞書と違うことを話すのがここなんじゃないんですか?(笑)
辞書と同じことを話すならみんなが辞書引いて終わりですよね。

18時間前 No.911

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

ゆみさん

ゆみさんは、違うことを話していると私の話と違うと言っているだけです・・

そもそも違うと話しているのですよ・・

17時間前 No.912

ゆみ @yumicoco ★rdsPzrQVhs_qTF

ならなぜ辞書を引きあいに出されたんですか?

違う意見があって当たり前。
違う意見ならどう違うのか、どういう意見を持っているのかを話すべきじゃないですか?

17時間前 No.913

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

ゆみさん

ゆみさんの定義は、多くの人が納得できるほどの万全の定義ではありません・・一部は認められることです・・

善は幸せともいえると言う定義があるのです・・それを違う話と思うのでしょう?

10時間前 No.914

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_ly4

>>914   宿題さん
もうこの辺で、ゆみさんへのカラミも終わりにしましょう。

私から質問です。宿題さんはどこかのスレで一生をかけて「真理」を追究すると言われていましたね。私には哲学でいうところの真理というものがよくわかりません。宿題さんにとって真理とはどのようなものなのですか。勿論、真理とは時を超え民族を超え人類に普遍的なものだということは分かりますが、宿題さんが考える哲学的真理とはどんなものなのですか?禅でいう悟りのようなものですか?

6時間前 No.915

宿題 ★5z6bVAmgS3_ly4

>>915

真理とはいついかなるときも、病める時も健やかなる時もどんな場所でもどんな時間でも持ち続ける教えや法則です・・

6時間前 No.916

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_ly4

「善の定義」を読み返してみて感じた事。その2

私は >>817  において内包によって善の定義をしました。しかし普通は○○とは何か(本質)が分からなければ、何が○○か(事象)は分からないはずです。例えば昔は日本には象はいませんでしたので、象とは何か(本質)が分かりません。それゆえ日本人はあれがインド象だ、あれは小象だ(事象)とは絶対にいえないはずです。しかし正しいことについては正しいとは何か(本質)が分からないのに正しい事、正しい行為(事象)は多く挙げることができます。これはなぜなのか?どこかが間違っているのか、それとも私たちは頭の奥では、すでに正しいとは何か(本質)を理解しているのだろうか?
この疑問に誰か答えられる人はいませんか?


また >>817 で内包による善の定義を行いました。そこにおいて
>もし私の善の定義を否定しようとするならば、正しい行為と思われるもので、公の為が含まれていないというものを示せばいいわけです。誰でもいいですから、正しい行為と思われるもので、公の為が含まれていないというものを示してください、そうしたら私の善の定義は間違いであったと認めますから。<
と皆さんに問うたわけです。

つまり私の善の定義が間違いであるというならば、正しい行為(何らかの感動があるもの)と思われるもので、公の為が含まれていないものを示せばいいわけです。
これに対してSumioBabaさんやMobiusさんが「自愛する、自重する」などは公の為が含まれていないのではないかと具体例を示してきました。
しかし「自愛する」に正しい行為を感じますか、何か感動を感じますか、正しい行為には必ず何らかの感動があるのです。
例えば次のような話の自愛ならば感動があります「私には障害を持った子供がいるのよ、だから病気にだけはならないように気を付けているの。私はお酒や甘いものが大好きだけれども、これらを控えて自愛しています」と聞けば「へ〜、偉いですね」と小さい感動があります。しかしこれには子供の為つまり公の為が含まれているのです。

しかし次のような話の自愛には感動はありません「私は結婚詐欺が仕事なの、お酒が大好きだけども、酔っぱらうとペラペラしゃべって詐欺師だとばれるからお酒は飲まないことにしているの、それに甘いものも大好きだけれど、食べ過ぎると太って女の魅力がなくなるし、少し糖尿気味だから甘いものも控えて仕事の為に自愛しているのよ」この話の自愛には正しいは感じないし、感動もありません。

さて皆さん、ここから本題です。私の善の定義が間違っているというなら、だれでもいいですから、正しい行為(何らかの感動があるもの)と思われるもので、公の為が含まれていないものを示してください。日本中の誰に聞いても、どんな偉い先生に聞いてもかまいませんからね、皆さん、待っていますよ。これは西洋哲学を長年やってこられた貴方たちへの挑戦ですよ。
もし示すことができないなら、とりあえず私の善の定義は正しいとみて今後、疑義をはさむことはできませんからね。

6時間前 No.917
ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる