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善の定義

 ( 哲学掲示板 )
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shinwood ★mjl0ItnnrE_1zu

善の定義を考えてみた。
善の定義が難しいなら悪とは何か、悪、悪人は人殺し、盗人、詐欺師などなど。これらに共通するのは自分さえ良ければ他人はどうでもいいということ。それでは善は悪の反対であるから善の定義は自分のことより公のことを優先することになる。
マザーテレサのように自分を捨て他人、公のために尽くすのを善人という。私たち一般人というのは善と悪の中間でうろちょろしている存在である。
これらから正しい行為、善というのは常に自分より公を優先する行為であるという結論になった、これで間違いないであろうか。

1年前 No.0
メモ2017/06/15 06:52 : shinwood @shinwood★mjl0ItnnrE_VuR

善の定義をしてみた。


「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗人、詐欺などなどである。これらに共通するのは、他人(公)のことより自分のことを優先しているということである。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は自分(私)のことよりも公のことを優先する行為である、ということになる、略して“公の為”である。公を優先する行為は時代を超え、民族を超え世界に共通するものである、つまり普遍的なものであろうから、これを絶対善とした」


最近ではマザーテレサの評判は悪いようだが、分かり易い例えとして言えば、マザーテレサのように自分の私欲を捨て他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろう。言うならば、この考えは世界共通善ともいえる。

また別の考え方では

「我々日本人にとって最も大切なものは国民の命であろう。この最も大切なものを守ることは絶対的に正しいことである。つまり最も大切な国民の命を守ることは絶対的に正しい事である。逆に言えば、絶対的に正しい事、絶対善は国民の命を守ることである。つまりそれは種族(民族)保存のことである、これは世界の各民族にも共通するから普遍性もある」

その民族にとって最も大切で、最も正しい行為というのはその民族の命、財産を守ることである。これも時代を超え、国を超えて共通する考えである。これも世界共通善ともいえるだろう。

これら二つの考えから“絶対善、つまり絶対的に正しいことは種族保存であり、公の為である”となった。

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shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Vx8

>>828   SumioBabaさん

>しかし上の説明では、「公より私を優先しても良いですよ、それはやがて公のためにもなるでしょう」といった内容であり、「私よりも公を優先せねばならない」という説明にはなっていませんね。<

「私より公を優先する」なんてことは我々凡人にはなかなかできないものです。善にもレベルがあります。マザーテレサのクラスには我々はなかなかなれません。
>>0 でも書いてあるように「私たち一般人というのは善と悪の中間でうろちょろしている存在である」なのです。いわば私=公、または善がプラスになったりマイナスになっているのが現状です。それでもできるだけ私欲を抑えて、少しでも私より公の方を優先しようとするのが我々凡人の善なのです。

「自愛する、自重する」に善を感じますか?無理に善を感じるとしたら、不健康にならないように頑張っている、公の為なんて考えてはいないが結果として公の為になっているので善にしようということです。みんなが自愛すれば、みんながそれだけ健康になって結局公の為にもなるのです。
「勉強する」に善を感じますか?「お父さんみたいに官僚になって何回も天下りをして老後は優雅に暮らしたい、だから僕は一所懸命勉強するんだ」に善を感じますか?
「僕はお医者さんに命を救ってもらった、だから僕も立派な医者になって多くの人を助けたい、そのために一所懸命勉強をしています」ならば「おお〜えらいな〜」と善を感じます。まあ、公の為にと考えていなくても、みんなが真面目に勉強すれば社会の進歩に繋がりますから、勉強することは善と言えるでしょうね。
私たちは常に「公の為に」なら善を感じますが「自分の為だけに」には善は感じません。


>「公の為」という言葉を使って自分の好きな方を主張できるということは、shinwoodさんの理論ではどちらが正しいのかを確定できないということであり、本当は何も主張できていないただの詭弁になります。<

いいですか、ユダヤ人虐殺はドイツ人だけの問題ではありません。あなたのようにドイツを公にしたら、他国もドイツと同じことをやっていいことになる。ユダヤ人虐殺は世界の問題です。ですからドイツを公にしてはなりません。これは世界の問題なのですから世界の為にと考えなければならない問題です。
「捕鯨問題は日本の問題なのだから、どんどん捕鯨する」なんて言ったら、世界中から袋叩きに会いますよ。捕鯨は世界の問題です。日本を公にはできません。これと同じです、わかった? まあ、あなたには何度言っても理解できないでしょうが・・・。

3ヶ月前 No.829

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

過去も現在も未来も「人類」が公じゃないのですか?   人類の為に・・・違いますか?

3ヶ月前 No.830

てじ @flyonbody ★iPhone=AuL4PyZ7fL

>>824

正しさの本質としての等しさとは何か?

それは「再現性」である。先の例で言えば、学生は同じ問題を解いて全員同じ回答を記した。全員の出した結果が同じであるということが、その回答の正しさを暗示したのだった。

方法を何回も試みて、その結果を見ることは、実験(エクスペリメント)と呼ばれる。或いは、特定の方法がどのような結果を出すかを見ることは、試験(テスト)と呼ばれる。

学生が回答を出していたのも、テストである。先生は設問に対しての結果(回答)を見ていた。もしも先生が考えて問題を出していたならば、どの問題を間違えたのかを見ることによって、どの生徒がどういった点を分かっていないのかを知るだろう。

ところで、先生はどのようにして生徒の理解度を知り得るのだろうか?

その前に実験一般について見てみよう。

実験の中で試験される方法に少し変化を加える時、実験者が見ているのは『その変化が結果にどのような影響を及ぼしたか』である。

私たちは日常の経験において、何をすればどんな結果を得られるか、つまり、どういう事をすれば狙った常に同じ結果を得られるかを、大雑把に知っている。しかし、同じ結果を狙った行為の中の部分のうち、同じ結果を得るために不要な部分と、それを得るために不可欠な部分があるはずだ。それを知るためには、同じ結果をもたらすと知っている行為から要素を引き抜いてゆき、何を引いた時にはやはり変わらず同じ結果となり、何を引いた時には結果が変わってくるかを見なければならない。(反対に要素を足してゆき、どうした要素が同じ結果を得るのを妨げるかを見てもよい)

こういった実験は自分の身体で試みることができる。例えば腕を振るという動作が可能となるために欠かせない要素を知るために、人間の身体の筋を切ってゆくという実験が考えうる。意外な筋が腕を振るという動作が可能になるための条件であると分かるかもしれない。

私は今「条件」と言った。

テストの場合に先生が見るのは、どういう場合に正答が出るか、どういう場合に誤答が出るか、である。先生は、何が正答を妨げているかを調べるだろう。正答を導くための条件のうち、生徒達に欠けているものを探すのだ。

条件には、本質的なものと、本質的でないものがある。本質的な条件を欠くと、結果は全く違ってしまう。狙った結果は得られない。一方、本質的ではない条件を欠いたとしても、結果は変わらない。或いは、結果の同一性を損なうほどの影響を及ぼさない。

或るものからそれが抜けたときに、そのものがそのものでなくなるような要素を、本質という。そして、それが抜けたからといってそのものがそのものでなくなるまでは行かないような要素は、偶有性と呼ばれる。実験は、試験される方法のうちの何が本質的で何が偶有的であるかを調べることである。

或るものの本質は、そのものがそのもの自身のあり方をすることを保持し、そのものが同じくそのままであることを保つ。

本質を損なうと別な結果を生み、本質を離さなければ同じ結果を保つ。実験はある出来事について何が本質であるかを調べることによって、その出来事が本当のところは何であるのかを見極める。

腕を振る際に本質的な筋肉・筋・骨・関節を知ることで、腕を振ることは身体の構造の方から見られる。どの筋が伸び、どの筋が緩んでいるか。肩は、脇腹は、首は、腕を振るという行為においてどのような役割を果たしているか。そうして調べてゆくことで、腕を振るという動作が単に腕だけでなされる動作でないという事があらためて分かってくるだろう。

極端なことを言うと、腕を振るとは、腕という身体部位に対して振るという動作をする事ではないということが分かる。その動作には身体の他の部位も連動していると分かるだろう。すなわち、本当に起こっている事は、全身的な連動運動だと分かるだろう。

本質を知るという事は、本当のところ何なのかを知る事だ。

或る結果が再現されるということは、同じ条件が揃った方法を実行したということだ。少し方法を変えてもやはり結果が再現された時には、その少し変更が加えられた方法も、同じ方法と見なされうる。この同じというのは、その方法ないし結果が、何であるかという事について同じだということだ。

したがって、どんなに外観が違っていても結局のところ同じ穴のムジナということがありえる。そしてこの同一性は、そのものを何と見るかによる。というのも、外観を主眼としたならば、どうしてもその同じ穴のムジナでも別なものに違いないからだ。

再現においても、何が再現されるかが注目されなければ、その同等性について云々することもできない。

諸々の方法の正しさは、何が再現されるかについて、同じ結果が得られることによって確認される。

そしてこの同じ結果をもたらす正しい方法は、本質的な条件の組み合わせである。

その正しさは、うまく組み合っているということでもある。結果の同一性は、組み合いのうまさの結果だとも言えるだろう。

組み合いのうまさというのは、複数的なものの統一性のことである。ここで再び正しさは同一性へと戻ってくる。ただしここでは、「同」要素よりも「一」要素が強くなっている。よく組み合っているという事は、組み合って一体になっていること、バラバラにならず一貫していること、このようにひとつのものと見なされることで、そのものがそのもの自身と同じであると文句なしに見られる事だ。

この単位性が、別々な複数のものをを同一視するための条件である。この単体性は、複雑な組み合わせが根底において実は何であるか、ということだ。別々なものの同一性を支えているのは、単体のその単体自体との同一性である。

行き過ぎたので、おそらく次には、少し前に戻るだろうと予想される。

3ヶ月前 No.831

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>826 「これ(再現性)は主に物理法則の正しさで使う概念だが、道徳的な正しさにも応用可能だと思う。」

>>827 「これって、哲学的に、逆じゃん。応用可能になるのは物理法則の方なのよ。」

「逆」という指摘に対して、素直に逆にしてみる。

「これ(再現性)は主に道徳的な正しさで使う概念だが、物理法則の正しさにも応用可能だと思う。」

「道徳的な正しさ」というのは、エラー(例外:当てはまらないケース)が多い。

再現性によって“真”判定するのは、物理法則のような自然科学の法則の常套手段。

「逆」という指摘は、いまいちピンと来ない。

より再現性が高い方が、より“正しい”に近い。

3ヶ月前 No.832

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>832

そういうことじゃ、ないんですよね〜

3ヶ月前 No.833

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>831

同一性と同等性は、同一ではないんですよね〜

3ヶ月前 No.834

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

「同じ穴のムジナ」で例えると、
同一=穴
同等=ムジナ

このくらいはわかってほしいなあ〜

3ヶ月前 No.835

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

悪魔ちゃんの >>827 で唯一違和感を覚えるのは、
「哲学的には」という部分。
「哲学って、そこまでいってないような・・・」という意味でひっかかる。
それをMobiusさんに求めるのは、酷ってもんでしょうに。
この、悪魔っ!

3ヶ月前 No.836

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>833
「そういうことじゃない」という指摘を戴いたので、考え直してみる。


私は、「「“再現性”という性質」と「物理法則」がある。道徳法則に対しても「“再現性”という性質」による正しさの説明に応用できる」という意図で文章を書いているつもりだが、

道徳法則に応用可能なのは、「“再現性”という性質」の方ではなくて、「物理法則」の方だ、という指摘だろうか?
でも、この解釈だと、「“再現性”という性質」→「物理法則」→「道徳法則」となるので、「“再現性”という性質」→「道徳法則」という流れは逆ではない。
だから、こういう指摘ではないのだろう。

「逆」というからには、
 「“再現性”という性質」→「物理法則」ではなくて、「物理法則」→「“再現性”という性質」ではないか?
という指摘であろうか?

3ヶ月前 No.837

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

「物理法則」や「道徳法則」から「物理」や「道徳」という修辞(figure of speech)を取り払ったときに、
「再現性」の本質が見えてくる。
つまり、「法則」があるから「再現性」があるのであって、逆ではない。
という指摘だろう。
修辞(figure of speech)の追求としての現代文学・・・いや、現代哲学は、それを指摘するには至らないのではないか?

3ヶ月前 No.838

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

まあ、Mobiusさんはそういう難しいことを考えずに、
「帰納と演繹」でぐぐるといいよ。

3ヶ月前 No.839

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>0  shinwoodさんへ

>善の定義を考えてみた。

>善の定義が難しいなら悪とは何か、悪、悪人は人殺し、盗人、詐欺師などなど。これらに共通するのは自分さえ良ければ他人はどうでもいいということ。それでは善は悪の反対であるから善の定義は自分のことより公のことを優先することになる。


 この推論が論理的ではないように感じます。「自分さえ良ければ他人はどうでもいい」を「悪」と見なし、これを否定したものを「善」と見なす訳ですね。すると、例えば、「まず自分が幸福になった上で、他人はどうでもいいなどとは考えず、他人をも幸福にすること」も「善」に含まれるはずです。つまり「善」は、必ずしも「自分のことより公のことを優先すること」にはなりません。自分を最優先して幸福になった上で、それを他人に分け与えることも「善」なのです。この時点でshinwoodさんの論法は、論理的に間違っているように感じます。
 「まず自分が幸福になる」という部分が「私的善」です。そしてその後、「他人をも幸福にする」が「公的善」になります。「善」とは、必ずしも「私的善」を犠牲にしてまで「公的善」を優先すべきものではなく、まず「私的善」を実現して自分が幸福になり、その上で「公的善」を行い、他人をも幸福にしてあげるのが正しい順序ではないでしょうか。

3ヶ月前 No.840

てじ @flyonbody ★iPhone=AuL4PyZ7fL

>>831

正しさの本質は等しさであると言われた。そこで、何との等しさであるかが問題となった。任意のものでなく、参考になるものとの等しさが、正しさである。参考にするということは、元のものと派生したものとを見比べることだ。

派生するものの等しさ、同じ元のものから、常に同じ結果が出ること、これは再現性と呼ばれる。だがこのとき、同じ元のものの同一性が再び問題になり、結果の同一性も問題になる。つまり、どういう条件があればいくつかの元のものが同じ元のものなのかが問題になる。ここで本質的条件と偶有的条件が区別された。また条件は単体で同一性を規定するのではなく、その組み合わせが同一性を規定するとされた。

ところで、同じ「同」ということでも、いくつかの異なる「同」があるということが、これまでの記述からでも分かる。

目立つのは、同一性と同等性の違いである。同一性は「Selbigkeit」だが同等性は「Gleichheit」である。「同じ穴のムジナ」という表現でいえば、同一なのは「穴」であり同等なのは「ムジナ」である。

例えば合理主義と非合理主義は同じ穴の狢だと言われる。明らかに合理主義と非合理主義は同一ではなく、むしろ反対である。しかし両者は結局のところ同じという意味で、同じである。所詮同じという事。つまり、どちらも自分の意を通すために相手に基準を押しつけるという所で一致する。本当のところ、そこで起こっていることは、相手を自分の土俵に押し込めることであり、この「本当のところ」は同じである。

同穴の狢という表現の「の」に注目してほしい。ムジナは互いに異なるし、たいていムジナとムジナは正反対のものと見られる。だから、それらが同穴の狢と呼ばれることには逆説的な響きが生まれる。この「の」は、ムジナ達がどこに属しているか、その所属先を示す。ムジナは別々な穴ではなく、同じ穴に住む。同じところに住まい、なじみ、同じところから滋養を得て、同じところに安らっている。

所属先は、「本当のところ」とか「結局のところ」と呼ばれた場所である。(むろん、ここでの「ところ」は場所を意味しないとおっしゃるだろう。)

結局のところ同じ複数のもの(同穴狢)は、互いに同等という関係にある。同一であるのは、穴という場所である。この同一である事は、何か別な穴との“同一性”ではない。ムジナとムジナが属するところが同じであるという意味だ。ではやはり、ムジナ達が同じであって、場所が同じであるのではないのか?すなわち、やはり同一性はムジナに属するのであって、穴に属するのではないのではないか?そう、確かに穴は別な穴と同等であるわけではない。またここでの同一性は、その穴とその穴自身との同一性でもない。同一性が穴やムジナに属しているのではなくて、同じ穴にムジナが属している。すなわちここでの同一性は、同じ穴に共に属しているという事であり、共属性である。

別々なものを一緒に考え合わせることを綜合と言う。様々に異なるもの、互いに対立すらしているものを「同じだ」と見なすためには、それらが共属しているところを見定めなければならない。見かけにだまされていては、同穴のムジナだとは言えない。ムジナの巣に至るまで追跡することで、同穴のムジナ
だと言うことができるようになる。これは、同じ結果を得るためにはどういう条件の組み合わせが必要かを実験するのと同じである。元のものは穴であり、派生したものはムジナである。もちろん、穴がムジナを生み出したわけではない。そして、結局のところは君も同じ穴の狢だという発言が正しいのは、その人間がその穴にどれほど属しているかによる。それの試験のために、その人間の言動は、その穴という場所を基準に再評価されてゆくことになる。

※警告に同意して書きこまれました (マナー/リアクション)
3ヶ月前 No.841

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

自分さえよければ・・・という自己中が悪なら、自分とは(国家)(民族)であるというのなら、悪になる

のでは?

3ヶ月前 No.842

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>838
#文章の一部を切り取って、揚げ足を取ります。w

>「法則」があるから「再現性」があるのであって、逆ではない。


物理法則のような いわゆる自然科学の法則に関しては、そうではない。
まず最初に 観測によって「再現性」が発見されて、そこから「なぜそうなるのか」という理屈をこねくり回して、筋の通った説明ができたものが「法則」となる。

「法則」があるから「再現性」があるのではなく、
「再現性」があるから「そこに法則を見出す」のではないか? だから、「道徳法則」のようなものが導かれるのではないか?

3ヶ月前 No.843

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

例えば、「同族殺しをすればするほど種族の繁栄につながる」という極めて特殊な環境があったとする。(具体的には思い浮かばないが...)
そういう環境においては 同族殺しを推奨するような道徳法則が見出されることであろう。

昔は、自然災害を鎮めるために生贄を捧げた。今は、していない。

昔は、自然災害と生贄の間に 何らかの因果関係を見出していた。だから、生贄は有効であった。

でもこれは、「昔は効いたけど、今は効かなくなった」ということではない。人々の見方が変化したから、効果を見いだせなくなったということだろう。

「最初に法則ありき」という考え方は、自分にはなじまない。

3ヶ月前 No.844

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

針はなぜ刺さるのか?先端が細いからだ。しかし、糸も先端が細いが皮膚に刺さることはない。先端が鋭いからというのは、不十分な説明である。先端が細く、かつ硬いからだ。ところで、どうして先端が細くかつ硬ければ刺さるという現象が起こるのか?先端が細いということは、その先端をものに押しつけたとき、圧力が分散されないということだ。すなわち圧力が集中されるということだ。そして針が硬いということは、力の方向が分散されないということだ。硬いということは、力の方向が、力点から遠いところでも同方向でありつづけるということである。力の方向が持続的に保たれるということは、力が同じ方向に持続的にかかるということだ。針が刺さるのは、持続的な同方向への圧力が集中されるからだ。

だがこの持続的同方向への圧力集中がなぜ刺さるという現象を起こすのか?

砂に指を突っ込むことをイメージしてほしい。なぜ指は砂の中に入ってゆくのか?それは砂の一粒一粒相互の繋がりがゆるいからだ。もちろん所によっては砂の粒と粒が相互にうまく噛み合っている箇所もあるだろう。そして現実的には砂よりも大きな粒や砂よりも小さな粒が砂の間に介在している。特に、砂を水で固めた場合を考えてほしい。砂という小さな粒子よりももっと小さな粒子が水である。水は砂と砂との間に入り込む。そのようにして砂と砂とをくっつけることになる。

では、なぜ自足的同方向への圧力集中が刺さるという現象を起こすのか?

刺さるというのは、物体が物体が密集しているところを通過することである。刺さるというのは、物体を脇に寄せることである。物体が脇にどけるためには、そこにどけてゆく空間がなくてはならない。

この事情と、同方向への圧力の集中は何の関係があるのか?逆に圧力の分散というのは、密集している物体の様々なところの位置を同時にずらすことである。多くのものが一度にずらされるということは、それらの噛み合いが位置のズレを妨害することが多くなるということである。したがって、平たい物で密集する物体を動かすためには、何度も叩くなどの動作が必要になる。数多性が、移動しにくさをカバーする。

では逆に圧力が同方向に集中されているということは、圧力がかかったときにそれだけ位置がずれる物体が少ないということである。したがって確率的に、物体はどけやすくなる。針の移動に際して、その移動を妨げうる分子の数が大幅に減少するからだ。圧力が持続的にかけられるということは、この物体がどける確率を非常に上昇させる。

では、針が刺さるという現象と、私たちが歩行するという現象は、同じか?

これらは同等でありうる。力学的に同等である。これらは結局のところ同じだ。

以上を踏まえて、「法則」と「再現性」について考えてみよう。

3ヶ月前 No.845

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>843
Mobiusさん

Mobiusさんがどの程度ご自分の発言について理解されているのかを、まず確認させてください。
>>826

>何度やっても同じ結果が出る。AをするとBという結果が出る。甲さんがやっても乙さんがやっても、誰がやってもAをするとBが出る。
>「A⇒B」が何度も再現し、例外が発生しない。AとBの因果関係は説明できないが、なぜかAをやるとBが必ず出る。
>AをやったらCが出た。AをやったらDが出た。
>→ よく調べたら虚言だった。書き間違いだった。どちらの結果も実はBだった。
>こういうときに、「『A⇒B』は正しい」と言う。

が、「帰納的飛躍」であることは、理解されているでしょうか?
これに関しては、カール・ポパーが進んだ見解を示しているので、参考にするとよいかもしれません。

次に、 >>843

>まず最初に 観測によって「再現性」が発見されて、そこから「なぜそうなるのか」という理屈をこねくり回して、筋の通った説明ができたものが「法則」となる。

という部分ですが、「理屈をこねくり回す」という言葉の意味は、
「筋の通らない理屈を並べる」という意味であることを理解されているでしょうか?

「法則」や「再現性」以前に、何か基本的なところで誤解があるような気がします。
Mobiusさんが考えるべきなのは、「理屈」ではなく、「哲学」です。
つまり、

「法則」のない「再現性」はあるのか?
「再現性」のない「法則」はあるのか?

といったことを考えたほうが、前向きな議論になると思われます。
しかし、このようなことは「哲学」を標榜する今の(修辞(figure of speech)の追求としての)学問は敬遠しています。
それは、このような問いに、文学的価値を見出せないからに他なりません。
なので、これをMobiusさんに求めるのは、少々酷かもしれませんね。

3ヶ月前 No.846

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

哲学が帰納的な推論を好む理由は単純である。
それは、核心から説明する文学はつまらないからだ。
「ワクワク」しないからだ。
現代哲学は、話の流れを重視しており、「理屈を並べる」「ご高説を垂れ流す」ことはしない。
「読者の想像をかきたてる」ことを本懐としている。
まるで、文学のように。

3ヶ月前 No.847

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=BKzFEeA4SW

>>845

この投稿を見て、反射的に頭に浮かんだ言葉は、「無知の知」

自分の頭の中がどうなっているのかわからないけど、あとで辻褄の合う理屈を考えてみよう。

3ヶ月前 No.848

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>846

>Mobiusさんがどの程度ご自分の発言について理解されているのかを、まず確認させてください。


これは、「Mobiusさんがどういう意図で発言したのか詳しく知りたいので確認させて下さい」という意味だろうか? あまり聞き慣れない表現だ。
まぁ いいや。揚げ足取りしてもしょうがないので、ざっと流して次に行こう。


>>何度やっても同じ結果が出る。AをするとBという結果が出る。甲さんがやっても乙さんがやっても、誰がやってもAをするとBが出る。


>>こういうときに、「『A⇒B』は正しい」と言う。


>が、「帰納的飛躍」であることは、理解されているでしょうか?


「帰納的」という言葉と「飛躍」という言葉は知っているけど、「帰納的飛躍」と繋げた使い方をしたことはないので、よくわからない。
「カール・ポパー」「帰納的飛躍」で検索したら いろいろヒットしたけど、くだんのMobiusの発言はカール・ポパーのいうところの帰納的飛躍というものに該当する という指摘であると理解した。



>>まず最初に 観測によって「再現性」が発見されて、そこから「なぜそうなるのか」という理屈をこねくり回して、筋の通った説明ができたものが「法則」となる。


>という部分ですが、「理屈をこねくり回す」という言葉の意味は、

>「筋の通らない理屈を並べる」という意味であることを理解されているでしょうか?


最終的に「筋の通った説明(理屈)」がアウトプットされる過程において、試行錯誤的に様々な異説,珍説がアウトプットされるという意味で「筋の通らない理屈を並べる」と言っておられるならば、その通りだと思う。



>何か基本的なところで誤解があるような気がします。


この表現は 抽象的であるが故に 私には何も伝わらない。「何か基本的なところ」をもう少し説明して欲しい。



>「法則」のない「再現性」はあるのか?

>「再現性」のない「法則」はあるのか?


「法則」を辞書で引いてみると、「いつ、どこでも、一定の条件のもとでは成立する関係」とある。
言い換えるなれば、「再現性が成立する関係」ということか。
そうであるならば、「『再現性』のない『法則』は無い」ということになる。
一方で、「関係はよくわからないけど、なぜか再現する」というようなことはある。
例えば、光の速度とか。なぜかよくわからないけど、光の速度は約30万km/s。
ひょっとして、私が知らないだけ? なぜ光の速度は30万km/sであって、20万km/sや40万km/sでないのだろう?
光の速度が30万km/sであって20万km/sや40万km/sでない理由って、もう既にわかっているのかしら?
まぁいいや。一旦置こう。
たとえそれが解ったとしたって、結局わからないところは残るので、
「法則のない再現性」というのは、あるのではないか?

3ヶ月前 No.849

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>849
Mobiusさん


>「Mobiusさんがどういう意図で発言したのか詳しく知りたいので確認させて下さい」という意味だろうか?

「意図と発言が一致しているか?」という意味です。



>この表現は 抽象的であるが故に 私には何も伝わらない。「何か基本的なところ」をもう少し説明して欲しい。

基本的なところとは、「「何かが伝わる」とは、どういうことか?」といったところです。



>光の速度が30万km/sであって20万km/sや40万km/sでない理由って、もう既にわかっているのかしら?

「光速度不変の法則」です。


>たとえそれが解ったとしたって、結局わからないところは残るので、
>「法則のない再現性」というのは、あるのではないか?

わからないものは、存在しないのでしょうか?
Aさんがある法則Bを言ったとして、その法則Bとその発言の両方をCさんが知らなければ、
Cさんにとって、そのAさんのいった法則Bは、Cさんが認識するまで存在しないのでしょうか?

3ヶ月前 No.850

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>850

光速度不変の法則は、「真空における光の速度cは、どの慣性座標系でも同一である」ということを与えているだけで、その値が30万km/sである理由を与えているわけではない。
誰か光の速度が30万km/sである理由を知っている方、いらっしゃいますかぁ?


>わからないものは、存在しないのでしょうか?

>Aさんがある法則Bを言ったとして、その法則Bとその発言の両方をCさんが知らなければ、

>Cさんにとって、そのAさんのいった法則Bは、Cさんが認識するまで存在しないのでしょうか?


Yes.
「生贄を捧げることで自然災害が軽減される」という法則を知らない人は、「そんな法則は存在しない」と言うでしょう。

3ヶ月前 No.851

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>851
Mobiusさん

>光速度不変の法則は、「真空における光の速度cは、どの慣性座標系でも同一である」ということを与えているだけで、その値が30万km/sである理由を与えているわけではない。

なるほど。私は同等の事象が発生する「再現性」の話題についての事例だと思っていましたが、どうやら違うのですね。
筋が通らない理屈の意味が分かりました。
しかし、アウトプットなしに議論は成立するでしょうかね。


>「生贄を捧げることで自然災害が軽減される」という法則を知らない人は、「そんな法則は存在しない」と言うでしょう。

「そんな法則は知らない」ではなく、「存在しない」と言ってしまうのは、
やはりこれも論理の飛躍になってしまうのではないでしょうか。


>>850
>「何かが伝わる」とは、どういうことか?
については、どう思いますか?

3ヶ月前 No.852

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>852

>なるほど。私は同等の事象が発生する「再現性」の話題についての事例だと思っていましたが、どうやら違うのですね。


話の脈略から考えて「同等の事象が発生する『再現性』の話題についての事例」に決まっていると思うが、「どうやら違う」という感想が来るということは、私の話に「再現性」の要素が見いだせないということなのか?

でもこれは、重要な指摘である。

>>「生贄を捧げることで自然災害が軽減される」という法則を知らない人は、「そんな法則は存在しない」と言うでしょう。


「そんな法則は存在しない」と言う人は、「そんな法則は知らない」ということを根拠に「存在しない」と言っているわけではなく、
「生贄と自然災害との間に再現性の関係が見出だせない」ことを根拠に「存在しない」と言っている可能性があるということになる。

----------------------------

>「何かが伝わる」とは、どういうことか?


「人が人に情報を伝える場合」について考える。
「AさんがBさんに情報Cを伝える」とはどういうことか?
(とりあえずCは「言語情報」としておく。)

Aさんが記憶している言語情報Cを発する(テキストや音声で)。
Bさんが、それを受け取る(目や耳で)。
Bさんの記憶と照合する。
BさんがAさんに照合結果を言語情報で伝達する。
Aさんはその照合結果と自分の記憶とを照合し 整合の確認をし、その結果をBさんに伝達する。

こういう場合、「AさんがBさんに情報Cを伝える」が成功したということになる。

3ヶ月前 No.853

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

>>853

伝達される情報は必ず誤差が出ます。受け取り方に微妙な差があります。

C≒C

例えばA=Aであると言えのにA=Bであると思う人がいると言うことです・・

3ヶ月前 No.854

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

それで、結局は善とはなにでしょうね?
善の定義は? つまり、結論は?

3ヶ月前 No.855

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>855
結論:善とは、「環境改善への意志と行動」である。

3ヶ月前 No.856

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_FWA

>>853

>私の話に「再現性」の要素が見いだせないということなのか?

では、どこに見出せますか?
ある時ワイングラスが2つ机の上に置かれていて、次の日それを再現しろと言われれば、同じようにワイングラスを2つおきます。
このとき、「再現」することと、「そもそもなぜワイングラスが2つあったのか」ということの間には、何の関わりもありません。
というのが私の主張です。


>「生贄と自然災害との間に再現性の関係が見出だせない」

これも再現性の正確な用法ではないように思われます。
事象Aが事象Bを再現するとは、事象Aと事象Bが同等である必要があります。
この場合では、「生贄」と「自然災害」が同等というおかしな使い方になっています。


>BさんがAさんに照合結果を言語情報で伝達する。
>Aさんはその照合結果と自分の記憶とを照合し 整合の確認をし、その結果をBさんに伝達する。

「伝える」の定義の中に「伝達」という言葉を入れてしまうと、「循環定義」になります。
これは、「定義が成立しない」ことを意味します。

3ヶ月前 No.857

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>857
#この人の目的はなんなんだろうか? 話がどんどんずれていっているような気がするけど。
----------------------

>>私の話に「再現性」の要素が見いだせないということなのか?


>では、どこに見出せますか?


「光の速度は、30万km/sで一定である」というところにです。最初からそう書いてあるとおもいますけど。なぜ勝手に「30万km/sで」を取っちゃうのだろうか?相手の発言の趣旨を汲み取ろうとせず、自分の興味の対象 もしくは 自分の知っている範囲の部分だけ切り取ってわかったふうなことを言われても...

これが、「知らないことは無視されて、無いことになってしまう」ということなのだろうか?
----------------------
>>「生贄と自然災害との間に再現性の関係が見出だせない」


>これも再現性の正確な用法ではないように思われます。

>事象Aが事象Bを再現するとは、事象Aと事象Bが同等である必要があります。

>この場合では、「生贄」と「自然災害」が同等というおかしな使い方になっています。


「『水を飲む』と『のどが潤う』」「『頭痛薬を飲む』と『頭痛が収まる』「『地鎮祭を行う』と『土地が鎮まる』」などの例と同様です。

(#文脈からわかりそうなものだけどなぁ。真性バカなのかなぁ、この人はw。 それとも単に揚げ足を取っているだけなのかなぁ?)
----------------------
>>BさんがAさんに照合結果を言語情報で伝達する。

>>Aさんはその照合結果と自分の記憶とを照合し 整合の確認をし、その結果をBさんに伝達する。


>「伝える」の定義の中に「伝達」という言葉を入れてしまうと、「循環定義」になります。

>これは、「定義が成立しない」ことを意味します。


それについては、あなたが引用を省略した3行に書いてあります。以下再掲します。
>>Aさんが記憶している言語情報Cを発する(テキストや音声で)。

>>Bさんが、それを受け取る(目や耳で)。

>>Bさんの記憶と照合する。


(#一部の発言を切り取って揚げ足取りするのではなく、もう少し考えて反応して欲しいなぁw。)

3ヶ月前 No.858

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_FWA

>>858
Mobiusさん

>この人の目的はなんなんだろうか?
特に目的はないです。
気分を害してしまったようで、すみませんでした。

3ヶ月前 No.859

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

どくぜん
【独善】
自分だけが正しいと信じ込んで行動する態度。ひとりよがり。

真理は独りでは生まれないのです・・

3ヶ月前 No.860

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>826,827,832,833,836,837,838,839,843,844,846,847,849,850,851,852,853,857,858,859

目的がないのだとすると、文脈を無視して首尾一貫性の無い指摘をする理由も肯ける。

3ヶ月前 No.861

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

『ヒコ太郎さんの発言に対しての短い解釈コメント』




>>846

>「法則」や「再現性」以前に、何か基本的なところで誤解があるような気がします。


その誤解とは

自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…という根本的誤解だ。

これは、自分が記した言葉と自分との距離に関わる。

だからヒコ太郎さんは

>「「何かが伝わる」とは、どういうことか?」


という問題を提出したのだ。




《 まとめ 》

ここから読み取れる隠しメッセージは…

『 ヘ ー ゲ ル を 読 め 』

3ヶ月前 No.862

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_FWA

>>861
Mobiusさん

最後にひとつだけ。
「理性の作用」と「理性」は同じものではありません。
首尾一貫させるのは理性の作用ですが、それは目的がなくても可能です。
理性の作用がなければ理性とは言えないし、理性がなければ理性の作用もないにもかかわらず、
これらは異なるものです。
理性とはこのように複雑怪奇なものなので、
「論理学」「認識論」などの理性の作用の研究だけでは、それを解き明かすことはできません。
すなわち「倫理学」「形而上学」がなければ理性の解明はできないのですが、
それも理性の作用、いいかえると現実との関わりなしにはそもそも理性が理性ではなくなるのです。
しいて言うならば、私の目的はこういったところでしょうか。

3ヶ月前 No.863

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>862

>《 まとめ 》

>ここから読み取れる隠しメッセージは…

>『 ヘ ー ゲ ル を 読 め 』


「なぜ私に(そのメッセージを投げるの)?」という疑問はありますが...

(なぜそう思うかというと、ヒコ太郎氏は複数回に渡って「Mobiusに求めるのは酷だ」と発言しているからです。これは「Mobiusは(哲学板に必要な最低限の)コンテクストを共有しない人間だ」と言っているのでしょう? そういう人間に対して「ヘーゲルを読め」とは言わないんじゃないかと思うのです。)

ヒコ太郎氏とてじ氏は、私が持っていないコンテクストを共有しているが故に、互いの文章を読み解ける(意味が通じる、意思疎通ができる)のかもしれないけど、私は私の持っているコンテクストとの照合によってしか対話することができないので、てじ氏やヒコ太郎氏が言っていることの真意は理解できていないと思う。(ただ、てじ氏は比較的平易で長く詳しい文章を書くので まだ少しは伝わっているのかもしれないが、ヒコ太郎氏の文章は非常に短く コンテクストを共有していない人には「酷」だろうと思う。)

--------------------------
>自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…という根本的誤解だ。

>これは、自分が記した言葉と自分との距離に関わる。


私は自分の意図や企図を伝えるための表現として文章を書く。私の書く文章は省略が多く、不完全な文章である。なぜなら、自分の意図,企図を正確に表現するためのコンテクストは膨大で とても書ききれないから。だから、要点(一番伝えたいこと)しか書かない。
でも大抵の人は、1回読んだだけでは意図,企図が読み解けない。だから質問する。
私は、質問に答えて、「これはこうです。あれはああです。それは違います。そうではなくこうです...」などと言葉を補っていく。この間、首尾一貫した受け答えに努める。なぜならば、途中で言うことを変えると話が伝わらないから。

私の書いた不完全な文章を、私と全く異なる背景情報を持った人が読み解けば、当然違う意味になる。
なぜ私の持っているコンテクストを共有しない人が、私の文章を読み解けるのだろう。不思議だ。

自分が書き記した言葉を最も正しく解釈できるのは自分だ。なぜならば、言葉になっていないコンテキストの部分をこの世のだれより共有しているから。(だって、書き手と読み手が同一人物なのだから。)

「(根本的)誤解」の意味がわからない。

--------------------------
「何かが伝わるとはどういうことか」については、 >>853 に書いたとおり。発せられた言葉の意味を自分の記憶(コンテキスト)と照合することによってしか意味は伝わらない。だから、コンテクストを共有しない同士ではコミュニケーションできない。

コンテクストを共有しない人とコミュニケーションするにはどうしたらよいのか?
→ より平易でプリミティブな共有コンテクストを探して、それを足掛かりに平易な言葉を交わし合うしかない。

より平易でプリミティブな共有コンテクストは、最終的には「辞書」と「文法」になる。

3ヶ月前 No.864

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>863

>「理性の作用」と「理性」は同じものではありません。

>首尾一貫させるのは理性の作用ですが、それは目的がなくても可能です。


可能かどうかではなく、必要かどうかです。私に対して 何らかの意味があることを伝えたい という意図を持っていたのであれば、首尾一貫したことを言う必要があります。しかし、そのような目的がなければ かならずしも首尾一貫したことを言う必要はありません。

だから、「目的がない」という発言を真に受けると、首尾一貫したことを言う動機が無いので、首尾一貫性の無い発言をしていたとしても肯ける ということです。(もちろん、首尾一貫したことを言っている可能性もあります。)

3ヶ月前 No.865

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

懲りずに法則と再現性について考えてみる。

1.自然界には万物に通じる法則があり、万物はそれに従ってしか存在しえないから 万物の間で再現性が確認できるのだ。

2.自然界に存在する万物は、あるがままにそこに存在する。ただその間に関係性を見出し、見出したものを法則と呼んでいるだけ。法則は反例によって覆り得るものである。

・法則があるから再現性が生じるのか

・再現性があるものに法則を見出すのか

マーフィーの法則とか

3ヶ月前 No.866

事務所から ★3rXhbHSowa_4fx

>855

>それで、結局は善とはなにでしょうね?

>善の定義は? つまり、結論は?



善とは思い込みの産物

3ヶ月前 No.867

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>864

>なぜ私の持っているコンテクストを共有しない人が、私の文章を読み解けるのだろう。不思議だ。


非常に良い問題設定ですね。

>ヒコ太郎氏とてじ氏は、私が持っていないコンテクストを共有しているが故に、互いの文章を読み解ける(意味が通じる、意思疎通ができる)のかもしれないけど、


いや、私の >>862 をヒコ太郎さんが読んだらたぶん「全然そんなこと言ってねえし!」と思うと思いますよ。
ヒコ太郎さんの一連の投稿を理解できるようになるためにはどう考えてゆけばいいか…自分なりの整理を述べただけです。



>「(根本的)誤解」の意味がわからない。


ソクラテスの話を知っていますか?
デルフォイの神殿で「ソクラテスより賢い者はいない」という神託が言われた。
ソクラテスは思った:「え、僕は全然賢くないけどな。でも神が嘘を吐くはずないし…」

私は敢えて逆説を発表しました。

『自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは、根本的誤解だ。』

>コンテクストを共有しない人とコミュニケーションするにはどうしたらよいのか?


ソクラテスの話をもう一度思い出してください。

神は、人間とはまるで異質なコンテクストにもとづいて神託を送る。
その神託の真意をソクラテスはどうして理解できたのか?

「自分は何も知らない」という事の意味が変わることによって。
ソクラテスは「え?神は何を言っているんだ?」と思いながらも、神の言葉を試みてみた。いったん信じてみたわけです。すなわち、意味不明なまま、自分には見えて来ないコンテクストに乗っかってみた。

(Mobiusさんが「無知の知」と言っていたので、この戦略が通じるかもしれないと思ったのです。)

>コンテクストを共有しない人とコミュニケーションするにはどうしたらよいのか?


Mobiusさんの答えは「より平易でプリミティブな共有コンテクストを探して、それを足掛かりに平易な言葉を交わし合うしかない」ですよね。

そもそもコンテクストを共有しないってどういう事態か?

例えばヒコ太郎さんは「カール・ポパー」の名前を出した。私はポパーなんて知りません。正確に言うと「なんか反証可能性とか言った科学哲学の人?」ぐらいの知識です。で、ヒコ太郎さんはポパーを知っている。どうコミュニケーションすればいいか?…ポパーを知らない人がポパーについて調べるか、ポパーを知っている人がポパーを紹介すればいいのです。自分の語彙に、ポパー的用語、ポパー的語用法を取り入れて、自分のコンテクストを拡張すればいいのです。

Mobiusさんの答えは、お互いが共有しているコンテクスト内で語り合おうということだと思います。ポパーが何か言ったのかもしれないが、それをポパーの用語ではなくて、誰にでも分かるような言葉で言い換えればいいではないか、という感じだと思います。

私の答えは、自分のコンテクストを増やすことでコンテクストの共通点を増やそう、というものです。つまり、自分にとってまだ異質なポパーの発想や用語が、自分にとって自然になるまでこの身になじませようって感じです。

Mobiusさんの答えは、自分でも照合できるような文章を『相手が』書いてもらうことによって成り立つ。
私の答えは、相手の意味不明な文章を理解するために照合する必要があるコンテクストを『自分で』探すことによって成り立つ。

どっちも必要ですよね。
でも、他人って自分の思い通りにならない。「もっと丁寧に書いて」と言っても書かないし「もっと簡潔に書いて」と言われましても私は困ります。だから自分が時間をかけたり努力したりした方が早い。

どうかな…ソクラテスのエピソードという共通のコンテクストで、伝わりやすくなればいいが。たぶん伝わらない。相手が理解できない事を相手に理解させようとするなんて、一見、矛盾した挑戦ですからね。「哲学は教えることができるのか( http://mb2.jp/_tetsugaku/747.html )」って問題ともカブります。これもソクラテス。

結局、私の試みも(おそらくヒコ太郎さんの試みも?)相手の態度変更を目指すものです。
態度変更というと大袈裟ですが、もっと具体的に言うと、相手の誤解を解くのを目指している。

私の答えも、逆から言えば、自分が有しているコンテクストに至るまでコンテクストを『相手が』拡張するように強いるものです。
Mobiusさんの答えも、同様に、『自分が』相手の有しているコンテクストの中で説明できるように工夫しようとするものです。

どっちがどっちと言えない。相互的です。これを解消するひとつの手段は「上下をはっきりさせること」です。私の目から見たら、ヒコ太郎さんの方がMobiusさんより格上に見えます。すなわち、Mobiusさんにとってヒコ太郎さんはコンテクスト拡張のチャンスだが、ヒコ太郎さんにとってはチャンスではない。ヒコ太郎さんは「教える立場」だからです…私の目から見たら。

しかし全てにおいてヒコ太郎さんが格上であるわけではありません。しかし少なくとも分析哲学という分野については、彼はMobiusさんや私より格上です。なのでその点については、私たちが努力する側です。ヒコ太郎さんは「特に目的はないです。気分を害してしまったようで、すみませんでした。」と言って退きましたが、自分が或る点については相手よりも格上だという自覚が足りない。あるいは、その自覚に対して素直じゃない。ヒコ太郎さんの方が目上なのに、Mobiusさんの気分を気にしている(フリをしている)。平等主義の弊害ですね。

知性というのは上下があります。もしなかったら絶望的でしょう。ソクラテスの神託エピソードにおいて密かに重要なのは、神があらゆる人間よりも「上」の存在であるという点です。「人間の最も賢いものでも、神とくらべれば猿にみえるだろう、智においても、美においても、その他のどの点においても。」(ヘラクレイトス断片83)

え〜本当に?仮に本当じゃないとしても、ソクラテスのエピソードの中で神が神であることによってどのような役割を果たしているかという問題を提起することで、ソクラテスのエピソードはより考えられたものとして見返されるきっかけになるでしょう。何でもないような箇所が、重要に思えてくる。こういうことは「感謝」でも起こりますね。

3ヶ月前 No.868

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>868
ありがとうございます。

(とりあえず今日は、既読表明のみにて失礼します。)

3ヶ月前 No.869

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>868

「賢者は愚者に学び、愚者か賢者に学ばず」

もし、私の発言の一連を読んで、私が抱えているコンテクストの底(深さ)を伺い知れるほどの知恵をお持ちなら、私に対する方便(多少正確でなくても 私にニュアンスを伝えるための言葉を選ぶこと(てじさんが以前に言っていた「幼児に話しかけるように話す」など))を使えるだろう。

一方 私は、ヒコ太郎氏の投稿から「分析哲学」というワードが全く連想されない。(分析哲学という分野があること自体 初耳だし)

私が 分析哲学の分野のコンテクストを得たい と思っているのなら、ヒコ太郎氏に食らいついていくことは有効だと思うが、お互いにそういう関係ではない。
私に分析哲学の片鱗を教えようという意志がヒコ太郎氏にあるのかどうか不明だし、私はヒコ太郎氏の投稿目的すらわからない状態だ。

もし分析哲学周りの話をしたいのなら、ヒコ太郎氏の方から降りてくるしかない。

(これはこれで置いておいて、別の話をしたいと思うが、今はここまで。)

3ヶ月前 No.870

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>863

>「理性の作用」と「理性」は同じものではありません。

(中略)
>理性の作用がなければ理性とは言えないし、理性がなければ理性の作用もないにもかかわらず、

>これらは異なるものです。


理性の作用とは理性によるアウトプットのことで、理性とは理性そのもののことだから、「理性」と「理性の作用」が異なるのは理解できる。それ故、次の一文

>理性とはこのように複雑怪奇なものなので、


に繋がらない。

だから、私の理解は間違っているのだろう。(私は、単純な理解をしているので。)


>首尾一貫させるのは理性の作用ですが、それは目的がなくても可能です。


この一文が唐突。目的という言葉はここにしか出て来ない。これが「理性」「理性の作用」の説明と どう絡んでくるのか?

3ヶ月前 No.871

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>868

>ソクラテスの話を知っていますか?

>デルフォイの神殿で「ソクラテスより賢い者はいない」という神託が言われた。

>ソクラテスは思った:「え、僕は全然賢くないけどな。でも神が嘘を吐くはずないし…」


>私は敢えて逆説を発表しました。

>『自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは、根本的誤解だ。』



ここだけ切り取って、私がソクラテスをなぞると こうなる。

「自分が書き記した言葉について、いろいろな人に聞いてみよう。」
「あぁ、この人もわかっていない。」
「あぁ、あの人もわかっていない。」
「色々な人に聞いたけど、結局誰も解っていない。」
「それはそうだろうなぁ。だって、この言葉は 私が発明した『Mobius語』だもんw」

『自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは、根本的誤解だ。』という逆説は間違いだった。


まぁ、『Mobius語』というのは大げさだけど、言外にどんな意味を込めているかは、他の人には見えないから、わからないよね。

もちろん、人生の達人は いろいろな人のことを見聞きして知っているから、私の反応が「典型的な○○パターンの人」というふうに類型できて、その人が「△△」と言うとき、言外に「□□」という意味を込めている と類推できるということはあるかもしれない。(でも、私は演技しているかもしれないw)

3ヶ月前 No.872

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>868

> >コンテクストを共有しない人とコミュニケーションするにはどうしたらよいのか?


>ソクラテスの話をもう一度思い出してください。

>神は、人間とはまるで異質なコンテクストにもとづいて神託を送る。

>その神託の真意をソクラテスはどうして理解できたのか?

>「自分は何も知らない」という事の意味が変わることによって。

>ソクラテスは「え?神は何を言っているんだ?」と思いながらも、神の言葉を試みてみた。いったん信じてみたわけです。すなわち、意味不明なまま、自分には見えて来ないコンテクストに乗っかってみた。



では仮に、『自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは、根本的誤解だ。』が真だとした場合、どういう見方をすれば、それが真と言えるかについて考えてみればよい。

例えば、自分の言語化能力が低い場合とか。

A「うんぬんかんぬん、あーだこーだ、くどくど … …」
B「結局それって、○○じゃネ?」
A「そうそう、それそれ!!」


あるいは、発言者の意図は関係ないとする場合とか。(これは無いかな w)

3ヶ月前 No.873

百理 ★5z6bVAmgS3_P5K

判断と言うのはその時の状況次第のケースバイケースではないのでしょうか?

3ヶ月前 No.874

てじ @flyonbody ★iPhone=AuL4PyZ7fL

>>872

>だって、この言葉は私が発明した『Mobius語』だもんw」

>言外にどんな意味を込めているかは、他の人には見えないから、わからないよね。


へえ、ここで『私的言語』の話題を出しますか。Mobiusさんはご存知ないかもしれないが、ウィトゲンシュタインという哲学者が、それを私的言語と名付けました。

それは置いといて…

>自分が書き記した言葉について一番知っているのは自分だ…これは根本的誤解だ。


これを言い換えると

>言葉の意味は発言者の意図である…これは根本的誤解だ。


となります。

なぜなら、言葉がどういう意味であるかはコンテクストに依存しますが、発言者の意図はコンテクストに依存せずそれ自体で存在するからです。

???

うん…私には手が付けられない問題なのです。

まず私たちは「言外に意味を込める」など不可能だと承認しなければなりません。あ…はい分かってます…そんなことは承認できませんよね。では私一人で考えてみます。「言外に意味を込める」の可能性が否定されることによって、何の可能性が否定されているのか?言葉という器に意味という中身を注ぐことの可能性が否定されている。「言葉にどんな意味を注いだかは他の誰にも見えない」ということは、いわば、外から中身が見えない器に意味という液体を注ぎ込んで、その器を見ても中の液体が何であるか分からないということです。注いだ本人だけはそれが分かる。しかし、そもそも言葉は器ではないし、意味は液体ではないのです。注がれる液体は器とは独立に存在します。言葉はむしろ、或る器に注がれれば別なものになり、別な器に注がれれば別なものになるようなものです。しかし、やはりコンテクストは器ではなく、言葉は液体ではなく、その液体の状態は意味ではありません。

しかし、こういう事実があります。相手が何の話をしているか分からないということがある…これは事実です。この事実は何を意味するか?その話が不透明な器のようなものであり、この器に入れられた意味が見えないということを意味するのではない。そして「話が見えてくる」というのは、その器が徐々に透明になってきてその中身が見えてくるという意味ではない。

しかし、確かに、話が見えてこないとは、相手が何を考えているか分からないということです。つまり、相手の意図が分からないということではないですか。しかしやはり、この相手の意図というものは存在するものではないのです。ましてや、言葉に込められたり、言葉の背景にあるものではないのです。相手の意図が分からないとは、相手が何のことを話しているか分からないということです。

相手が何のことを話しているか分からない場合のひとつのケース、それは相手が異国語を話す場合です。この場合、その異国語を習得すれば相手が何を話しているか分かるようになります。では、Mobius語というものが仮に存在するとして、それも習得すれば分かるようになるものでしょうか?いや、Mobius語が他人には分からないのは、誰もそれをまだ習得していないからではありません。Mobius語話者に、「あなたは〜ということを言っているのですよね?」と言ったところで「その〜はMobius語ではないので、私の言っていることを正確に表現したものではありません」と言える余地が常に残ること、これがMobius語が他人には分からないということです。仮にMobius語話者が語った通り、一言一句違わずにおうむ返ししたとしても、やはりそうです。「おうむ返しにそのように言った場合には、その言葉は同じ意味を持たないというのが、Mobius語です」と言える余地があるからです。

これは、言葉の意味は言葉やコンテクストと独立に存在しうるということと、同じです。Mobius語は、そのMobius語で使われる語彙やMobius語の文法などと独立して存在しうるのです。

では、そういうものとしてMobius語というものが存在しうるのか?否、Mobius語が存在するのではなく、「それはMobius語ではない」というような言葉の使い方があるのです。この言葉の意味は十分に理解しえます。しかしこれは、Mobius語という新言語を理解しえるということではありません。Mobius語という日本語を日本語の中に組み込みうる、ということです。

言葉には使い方があります。使い方があるということは、いかに言葉に意味を込めようとするにしても、その意味の込め方は限定されるということです。そして、そのやり方が限定された意味込めは、もはや、言葉やコンテクストから独立した心理的意図(魂)を直接言葉に込めることではありえません。言葉は、それ自体のうちに配列や順番等を含み、それ自体もまた何らかの話の中に配列されるものです。この配列の外に意味があるのではありません。すなわち、その配列は、その配列とは別な何か観念を表現するものではないのです。

しかし、話は何かについての話であり、その「何か」というのは表現される話題のことではないか?だが今や常に、その話題とその話題の提示の仕方は不可分だということを念頭に置かねばなりません。

ですがこれは、言葉は文字通りの意味しか持たず言外の意味を持たないということではないのです。しかしまた、言外の意味は言葉と独立に存在するわけでもないのです。言外の意味も、また言語の中に位置しなければ、意味を持ちえません。言語の意味とは、言おうとしたけど口には出さなかった本音などではありません。「言おうとしたけど口に出さなかった本音」など存在しません。

私たちは、自分の言い間違いを思い出すことができません。「5」と言うはずが「10」と言っていた場合、「10って言ってたよね?」という指摘を受けても、「5を言う」ということをしていた私は自分が「10」と言っていたシーンを回想的に再現できません。記憶は、過去にあったことを心に焼き付けて、その焼き付いたものを後から戻って見返すようなものではありません。むしろ自分が何を言ったか思い出すとは、その過去の状況を認識した上で、その状況において自分なら何と言うかをその時に考え出すということに近いのです。「5」と言うはずのシチュエーションを指摘されて「あなたは10と言っていた」と言われても、そのシチュエーションを考える私がそこでは「5」というよりほかないとしか思えないときには、「10」と言っていたことが信じられない。なぜなら記憶にないからです。このときには、全くの記憶喪失のなかで、他人の指摘を信じるしかありません。

思い出される記憶は、何らかの解釈装置を介した結果としてのみ、蘇ります。思い出すというのは、過去の印象が現代にそのままの形で(ただし少しぼやけて)置き直されるということではないのです。それは、過去の特定の状況の認識に基づいた解釈そのものです。記憶もまた、意味と同様に、解釈とは独立に存在する精神的存在ではないわけです。なので記憶は変わります。しかしそれは、解釈と独立に存在する記憶が、別な内容を持つようになるということではありません。意識にのぼる記憶はどんなものでも解釈済みのものだということです。解釈抜きに記憶の同一性や差異性について言うことはできないのです。記憶は常に再度読み込まれる。読み込まれるものとしてのみ記憶は意識にのぼる。その読み込み方が固定されるので、繰り返し思い出される記憶というものがあるように思えてくる。つまり、記憶がそれ自体で自己同一性を保って脳内かどこかに存在するかのように思えてくる。しかし、同一なのは記憶ではなく、記憶の思い出し方なのです。例えば、思い出す名前が一緒だということに過ぎないのであって、そういう名前だったと思い出すという仕方が、名前という点について同一なだけです。しかしやはり、同じ名前で常に別な対象が思い出されるということでもない。すなわち、思い出し方と記憶は不可分であり、それを切り離すことはできません。

分かりますか?

…分からない?ふむ、どうして「口に出さなかった本音」が存在しないのか分からない。ふむ、なぜ突然後半記憶の話になったのか分からない。そうですよね。いや、あなたが悪いのではなく、私の能力不足です。私たちは常に解釈の回転運動を続けていると言ったところで、これは単なる物語。私はやはり、私が問題にしたのと同じことをより綿密に展開したヘーゲルを読まなければならないのでしょうね。

…或いは感覚の違い?そう、私は自分が何を言いたいか分からないけど、しかし何を言ってやりたいのかを知っている…けど何を言いたいか分かるということは、それについて言う言葉を組み立てられるということそれ自体だ。すなわち、私は自分の書いていることの意味が分かっていない。私が書こうとしている事柄に私よりも精通した人が、私の書いていることを私よりも知っている。その人はおそらく「こいつの言おうとしてることは分かるが、なぜこいつはこんなに不十分な仕方で、しかもその事柄の冒頭部分だけをイタズラに長く語っているんだ?はやく本題のアノコトに立ち入れよ」と思うことでしょう。そして焦ったくなり、「つまりこいつの言いたいことはこうだ」と私の話を継ぐでしょう。そう、ここで私とMobiusさん(が想定したひとつの解決法)は一致します。ただその内実を、私は難しく考え過ぎているわけです。

3ヶ月前 No.875

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_FWA

>>875


>私たちは、自分の言い間違いを思い出すことができません。「5」と言うはずが「10」と言っていた場合、「10って言ってたよね?」という指摘を受けても、「5を言う」ということをしていた私は自分が「10」と言っていたシーンを回想的に再現できません。記憶は、過去にあったことを心に焼き付けて、その焼き付いたものを後から戻って見返すようなものではありません。むしろ自分が何を言ったか思い出すとは、その過去の状況を認識した上で、その状況において自分なら何と言うかをその時に考え出すということに近いのです。「5」と言うはずのシチュエーションを指摘されて「あなたは10と言っていた」と言われても、そのシチュエーションを考える私がそこでは「5」というよりほかないとしか思えないときには、「10」と言っていたことが信じられない。なぜなら記憶にないからです。このときには、全くの記憶喪失のなかで、他人の指摘を信じるしかありません。


〜CASE 彦太郎〜

Aさん「10って言ってたよね?」
彦太郎さん「ん?何だって?」
Aさん「いや、きみ今10って言っただろ?」
彦太郎さん「10なんて言うわけがない、文脈上5だろ、つまらない揚げ足取りするなよ」

結論:彦太郎さんは他人の指摘を信じなかった・・・!
   それに飽き足らず、彦太郎さんは続けてこのような発言をする。

彦太郎さん「意味というのは、言葉にあるものではないんだよ。言葉が何かを表すということはない。
      意味があるのは、言葉ではないもの・・・つまり、言外の意味だけだ。
      例えば、個人主義という言葉を考えて欲しい。
      その究極的な姿は、個人という言葉の意味すらあいまいで、結局その状態が個人主義であるとはいえなくなってしまうだろう。
      だから規則という無意味なものを作ってしまったんだ。
      みなよ、規則を守れと主張する人は鬱陶しいが、規則を破る人もまた鬱陶しい。
      この矛盾はまるで、規則自体に規則がないみたいじゃないか。
      それは、言葉に意味がないということだよ」
Aさん「話が長いよ。それに、それはきみが10って言ったことと何か関係があるのか?」
彦太郎さん「お前は彦太郎語を知らないのか?無知だな・・・フッ」

3ヶ月前 No.876

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>875

うわぁ、てじ語だ(笑)。
頑張って、読んでみますね。読んでみて、私が思ったことを書いてみます。


>へえ、ここで『私的言語』の話題を出しますか。

「私的言語」で検索してみましたが、私のいう『Mobius語』は、ウィトゲンシュタインの言う『私的言語』とはちょっと違うと思う。私は >>875 を読んで「うわぁ、てじ語だ(笑)」と言いましたが、ヘーゲルを知っている人なら普通に意味が汲み取れるのかもしれない。私にはヘーゲルについての知識がないので、てじ氏の発言の意味が汲み取れない。ここでいう「てじ語」は、完全なる『私的言語』というわけではなくて、「ヘーゲルに関する知識(コンテクスト)を持たない人には読み解けない言葉」という程度の意味です。 >>872 で書いている『Mobius語』についても ほぼ同様です。違うとすると「てじ語」には「ヘーゲル」というキーワードが付いているので、それを頼りに読み解くための知識をかき集めることができますが、『Mobius語』にはそのようなキーワードが付いていないので、読み解くためのキーワードは私の発言から集めるしかないわけです。

#ただ、私が「生贄と自然災害の関係性」について発言したことに対しては、“生贄”が“自然災害を鎮めるための儀式”であることくらいは「書かなくてもわかるだろう」という気持ちはあります。

3ヶ月前 No.877

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

私は、善と云うのは、感性的な不快、言い換えれば醜や真理軸に於ける偽、言い換えれば嘘、こうしたモノによってうわべを繕われた関係性だと、思います。

醜、関係性を守る為に我慢する醜い感情ですね。
嘘、関係性の破綻を守る為に、虚偽の物語を作る訳です。

この善を行動に活かしたのが礼ではないでしょうか。

例えば、孔子は、ある子供がいて、その父親が罪を犯した時、その父親を訴え出でました。
王様は、法を守るその子供を称えましたが、孔子は親を訴え出た子を良しとしませんでした。

孔子は法より親子の関係性の方を重視しました。

3ヶ月前 No.878
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