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どうして言葉の意味が通じるのか

 ( 哲学掲示板 )
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てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

どうして言葉は通じるのか?
あるいは、人々が「言葉が通じる」という表現で語っていることは何なのか?

例えば、「分かった」という返事をする人は、たいてい実は分かっていないというような話がある。
ではこの人は、本当は分からないのに「分かった」と言ってその場をやり過ごしているのか。あるいは、彼が分かったと思い込んでいることが間違っているのか。それとも、「分かった」ということはそもそもひとつの解釈でしかないのか。

言葉の意味が分かるとはどういうことなのだろうか?

言葉を交わしながら、
言葉の通じなさ、互いに分かり合える可能性、どうしたら相手の言葉を理解したことになるか…等々について考えましょう。

3年前 No.0
ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8

 
 

セットン ★AU=k8yAgBwXQT

あなたが何もわかっていないと言う事はよくわかりました。

3年前 No.1

地下水 ★NTOvajQcEy_nHx

 英語を翻訳した時、辞書にはflowerに対して花と言う言葉がある。しかし英国の花と日本の花はおよそ異なるのだから、違う種類の花を指している可能性が高く、その言葉による訳文の内容も異なる景色を指している可能性が高い。
 貴方という人間と、その経験の記憶と、生活の環境と、私という人間は異なるのだから、同じ心と言う言葉を用いても、思い描いている心は異なる可能性が高い。

 一方で、ノーム・チョムスキーが指摘した様に、人間の脳には変形生成文法があり、英語と日本語は異なるとはいえ、翻訳ができる程の非常に多くの言葉の対応関係を持ち、辞書を作る事ができる。この世界は原子からできており、生命は遺伝子からできているが、ある程度地表に共通性があるので、これを表す自然言語にも共通性がある。論理に於いても共通性があり、特に数学には普遍性がある。異なる言語にもこの様な共通性が反映され、貴方という人間と、私という人間にも、ある程度の共通性が存在している。

 対話で共通の話を作り上げる為に、充分な内容項目を述べ合う事ができれば、討論はある程度成り立つ事になる。人間の免疫系は遺伝子の中抜きを行う事で、様々な遺伝子を生み出して、異なる反応器を生み出し、何十億と異なる異物を分類し対応している。DNAのコドンも数十もつながれば何十億種類もの蛋白質を作り出せるのである。
 臭いを分類する鼻には、何百と異なる官能基があり、それぞれの官能基とどれくらい臭いの分子が反応するかの組み合わせで、臭いを判定している。
 言葉もまた連なり、指数的に世界を規定して行くので、数百も言葉を並べれば、広い宇宙の一点を指定するのに充分な情報量になる。従って、対話は成り立つ。論理と現実との対応も成り立つのである。この指数性が情報の持つ強力な性質である。

3年前 No.2

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1
私は自分が人間であるということが分かっている。
私は「何も分かっていない」のではない。
だとすると、あなたは一体何が分かったのか。「てじが何も分かっていないと分かった」
だが、てじは「自分は人間である」ということは分かる。
では、あなたの「わかりました」というのは間違いなのだろうか。

いやいや、この「何もわかっていない」というのは、
「お前はこの世界のことが何もわかっていないな…」とかの台詞と同じ意味での「何もわかっていない」ですよ。

しかし、「何も…ない」というは、全てのことを否定する表現ではないか?
だが、私は自分が人間であるということはわかる。ならば、「何もわかっていない」といって、全てが否定されたのはまちがいだ。

いやいや、「何も…ない」という表現で全てを否定するとは限りません。
「この村には何もないんでね」と言うときでも、やはり村には畑があり、家があり、道路がある。
「何もわかっていない」というのも、これと同じ意味ですよ。

いや、まて、「これと同じ意味です」と言って何かが伝わるとでも思っているのか?
何が同じなのか?何に頼って、私が「ああ、同じだね」とわかると思っているのか?

セットンは「わかっていないということはわかった」というパラドキシカルな台詞を言いたかっただけだと私には分かる、と私が言うとき、セットンさんは「そんなことない」と言うかもしれない。じゃあ、私のこの「わかった」というのは何なのか。
粗雑な解釈…である。誤解ではなく、情報が足りないにも関わらず断言するという「粗雑な解釈」だ。

私は「どうして私が何もわかっていないなんて思ったの?」と質問すればよかった。
そこでちゃんとした根拠が示されなければ、「ああ、『わかってないということはわかった』という、セリフを言いたかったのかな」という思いが強まる。



だが、「あなたが何を言いたいのか分からない」と言われたら、自分の文章が下手だったと思うだろう。
文章がもっと上手ければ、意味が伝わっただろうに、と私は考えていることになる。
では、文章が上手いとはどういう状態か。
私が何について考えながら書いているかという、その元になっているものへと、読者を案内するような文章が上手い。
「分かる」というのは、元になっているものから、過去に言われた言葉、過去に起こった出来事を解釈することだ。このとき、様々なピースがはまり合い、過去に言われた言葉たちがしっくり来るようになり、それらの全てが根拠あるものだったと実感することになる。
このような判明は、過去に言われなかったことまでも分かるようになるという風に、広範囲に影響する。判明した同じ根拠に由来する様々な解釈が思いつかれることになるからだ。

3年前 No.3

神様 ★ifi29bygzc_yoD

若い時には気にもかけなかった風景が、歳をとると、たいそう美しく見えたりする。
風景の美しさが「分かる」、「分からない」ってなんだんだろうね? 感覚がにぶいってことなのだが・・・・
 クラシック音楽を理解しない者に、モーツアルトの交響曲40番をいくら説明しても ぱっぱりなにだろうねぇ

言葉の限界っていうものだろうか?

地下水さんの、同じフラワーっていう言葉も、砂漠の民とモンスーンの民とでは 意味が微妙にちがって、同じフラワーではなぃ。
しかし、数学や物理やの言葉みたく、地域や風土や文化の違いに関係なく分かる言葉、これを井筒俊彦なんか「普遍語」と言ってたみたぃ。

  普遍語ではない、その地域、文化に根差した言葉、まぁ、なんつーか、その地域・文化の魂のこもった言葉たち、これが失われると文明の衰退が
始まる。「普遍語」しか理解しない、流行らない、そんな文明は滅びる。ローマのカトーだったかな、女子供がみなしてギリシャ人の最先端のなにを真似る
ことを批判して、泥臭くてもローマ人はローマ人のやり方でなにしろってゆったとか。 たしかオルテガは、ローマの衰亡の原因を、ローマが領土拡大するに
つれて、「普遍語」のみが繁盛し、泥臭い地域の文化の、魂の言葉たちが失われた、ここにローマ衰亡の原因があったとか

 いま、小学校からエーゴを教えろ、なんてゆう亡国の教育がなされようとしておる。

3年前 No.4

神様 ★ifi29bygzc_yoD

そぉゆぇば、大学教育も、文系を縮小して、科学技術系とか、科学化された文系、たとぃば経済学とか、政治学、法学、商学……
こんな糞なもんしか、学問として認めない なんてゆー

まさに現代文明の衰退を予見させるもんだな。

   わしももふに。小学校から、論語の素読、中学では孔孟思想、それに国学だな、本居宣長、
   古事記伝の必須科目化、   万葉集、こり賀茂真淵か、
     男女共学は禁止、女大学なんてのも教材にするべきであろうな。

とにかく金儲けを基準にして教育も考える風潮にある。から駄目だ。

3年前 No.5

地下水 ★NTOvajQcEy_nHx

>>5  古来学者の家では幼少の頃から四書五経の素読をしたという。湯川秀樹も学齢以前から祖父に習い、ヲコト点をポンポンと叩く音が響いていた。小学校も高学年になるとその堅苦しさへの反発からか少年誌の立ち読みに興じたそうである。長じては老荘思想に親しみ「月日は百代の過客にして行き交う時も又旅人なり」という句が繰り返し夢に浮かび、夜中に起きては枕元に書きつけて、中間子が行き交う様子を思いついたのだという。歴史書と心の働きには深いものがあるとしか言いようがない。

3年前 No.6

エピステーメー ★iPhone=UjsvnXvoDL

ウィトゲンシュタイン 哲学探究

ある言語ゲームを想像せよ。そこでは、BがAの質問に応えて、石材置き場にある板石や台石の数、あるいは、辺りに置かれている建築石材の色や形を報告する。
その報告の言葉は「5枚の板石」というものかもしれない。すると、この「5枚の板石」という報告や主張と、「5枚の板石!」という命令との間にある違いは何だろうか? ―― それは、言語ゲームにおいてこの言葉を発することが担う役割である。
確かに、語調や顔つきなど相違点は他にも色々あるだろう。しかし、命令や報告は様々な語調と顔つきで行なわれるのだから、語調と顔つきが同じで、ただそれらの使用のみが違うという場合も想像できる。
全ての主張が修辞疑問文の形式と語調を持つ、あるいは、全ての命令が「君はこれをしてくれますか?」という疑問文の形式を持つような言語を想像できるだろう。
すると人は「この言語を話す人の言葉は疑問文の形式をしているが、実際には命令文である」と言うだろう。
―― これはつまり、言語の実際の使用においては、命令の機能を持っているということである。(同様に人はまた、「君はこれをするだろう」を予言ではなく命令だと言うだろう。何がこの文を予言とし、何が命令とするのだろう?)

3年前 No.7

エピステーメー ★iPhone=UjsvnXvoDL

人工知能のパラドクス
厳密は理解の不可能性から、人工知能はフリーズする。
最近話題のグーグル人工知能はディープラーニングする。
簡単に言えばと解を求めるのでなく、寝ずに経験させて上達される。
これは人間のコミュニケーションの上達と同じだ。
囲碁なら人間以上にゲームができるからそれだけ上達する。
しかし人間はさらに優れている。
コミュニケーションしないと死んじゃう。
間違いかどうかなんかより、とにかくなんでもいいからコミュニケーションするしかない。
そのせきたてが社会を成立させて、発展させる。

3年前 No.8

エピステーメー ★iPhone=UjsvnXvoDL

伝わっていようがいまいが、関係ない。
コミュニケーションするしか、選択肢はないんだから。

3年前 No.9

神様 ★ifi29bygzc_yoD

コミュニケーションの基本わ、過去とのコミュニケーションだな。
過去とのコミュニケーションでもって、人は生きているのだ。

3年前 No.10

空の光 ★XUruaR05XT_m9i

分かったと言う言葉の持つ物

人間の意思想念。これは何気なく使っている言葉を遙かにしのぐ物があるのかもしれない。
では、なぜ人は「分かった」という言葉を発しているのか?
意思想念で補っているのかも知れない。こういう意味だなと自分の納得する方へ誘導する。
だから、実際に行動に移ると違っていたりする場合が存在する。
意思想念が違わないようにするには、徹底的に自分の思いと相手の思いを問い合わせる。
そうして、これなら間違いない。という事になってから行動に移る。

3年前 No.11

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

「自分の言っていることが相手に伝わらない」ということが、私にとって実際的な問題になっています。

どうして話が通じないのでしょう?

思い当たることがひとつあります。

ある方からの指摘によれば、「あなたは長文だから言っていることが分からない」とのことです。

長文だから話が通じない…

どうして長文なら伝わりにくいのでしょうね。

たぶん、長文には多くの話題が含まれているからです。

そしてまた、ひとつの文章にいくつもの話題を詰め込もうとするから文章が長くなるのです。

ひとつの文章に複数の話題を詰め込むことは、文章が長くなる原因でもあり、文章が読みにくいことの原因でもあるでしょう。

つまり…

私の文章が読みにくい原因は「ひとつの文章に複数の話題を詰め込むこと」なのではないでしょうか。

すなわち…

問題は「文章が長文だ」ということよりむしろ、「ひとつの文章に複数の話題を詰め込んでいる」ということかもしれません。

だとすると…

『なぜひとつの文章に複数の話題を詰め込むと文章が分かりにくくなるのか』

これを考えてみるのが良い策かもしれません。

【つづく】

3年前 No.12

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_pxp

長文で説明してわからない人には、さらなる長文で当たらなければならない。
長文でわからないといわれて短文にしてしまうと、もっとわからなくなる。

3年前 No.13

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_pxp

数学の問題は短く、その証明は長い。
証明は長いのだが、それでもわからなければ、さらに長くしなければならない。
たとえば、
「フェルマーの最終定理」
のとても長い証明は、フェルマーの書いた説明が短すぎてわからなかったことからはじまった。
その本何冊にも及ぶ証明ですら、数学を専攻するものでなければ理解することができない。
このとき、一般人が理解するのに必要なのは、短い「かいつまんだ」証明ではなく、さらに長い証明なのだ。
なぜなら、短い「かいつまんだ」証明は、何百年も前にすでにフェルマーがしてしまったのだから。

3年前 No.14

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>13,14

確かに、そうだと思います。

では別な方向から考えてみます。

3年前 No.15

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

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3年前 No.16

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

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3年前 No.17

鬼灯 @flower0 ★nnE3EJae2y_JdE

 言葉が伝わらない、意味が通じるとはどういう事か、という事を一度脇に置いて、プログラム言語における変数の説明においては斯様な議論がされていたりする。
「初学者に変数の概念を教える時、箱モデルであるべきか、名札モデルであるべきか」
これは変数を宣言するという事は既に確保された箱に対して数を入れる、という事ではなく、メモリの領域を確保する、という事を意味しているから問題になる。
例えば"int a = 10"という単純な変数宣言について考えてみる。
これはメモリ領域をint型変数であるから、4バイト分確保して、そのメモリ領域をaと設定している。
箱モデルはこの「領域を確保する」という点が抜け落ちていたりするから問題になるし、名札モデルはわかり難い事が問題になったりする。
そもそも、箱だの名札だのでこういった物を例えるのは実際の所、無理がある。
名札モデルであってもdouble型は8バイトだし、char型は1バイト。大きさにも違いがあるし、それぞれの変数の役割にも違いがあって、スケーリングの時に問題になる。
また、名札をつけたとして、では"int b = a"とした時にどのような処理が行われているかが問題になる。
初学者ならば「なるほどこれは名札の場所をbに収納しているのか」などと考えてしまう事も十分にあり得る。
しかし、初学者に全てを説明するとしよう。
変数の宣言とはメモリの領域の確保で、変数の型によってサイズや運用形態は少し異なる。そのメモリ領域に数を代入する事で――(中略)――アドレスは勿論int型だから4バイト進んでこれが――(中略)――これが変数のアーキテクチャだよ。
長い。長いし多分色々つっこまれる。「アドレスってなぁに?」「型ってなぁに?」「領域の確保?どゆこと?」「メモリって具体的にどんな風な構造してんの?」
まぁ似たような話は数学の教師が「いいか、0にかけたら何でも0になる、でも0で割ることはできないんだ。そういうもんなんだ」とか、下手な教師だったらネイピア数についてろくに教えず「いいか、ネイピア数はこういう性質の数だ」とか言って定義を省略したりする。
最大の例は円の面積の求め方じゃないだろうか。「いいかお前ら、ぱいあーるじじょうだぞ!」とかいわれてもなんの事やら。実際にそれを理解できるのは高校3年の微積分を習った時だ。
でも、初学者にとってはそういう説明でない説明をする事がかえって良い結果をもたらしたりする。
本人はそれについて理解などしていないが、少なくとも心構えをする事、さっきも使ったが、アーキテクチャを理解する事ができる。その後、実際にそれに触れていった後に、その物自体を経験によって理解する。
私はPCについて詳しく知らなかったが、使いこなしていたし、その後に色々と勉強して具体的な内部の振る舞いを知った。
説明する、言葉を理解するという事はあくまでも言葉そのものの理解にしか及ばず、結局は実際的な物に触れるまでそれを理解できないと思う。
説明されただけでそれを理解し使いこなしたとしても、それはそのアーキテクチャを理解しているだけであって、その物自体を理解しているとはあまり言えない事が多い。
そして、理解の難易度は実際、長文だろうがなんだろうがあまり関係ない。ライトノベルなら4000ページだろうと読める人間が数学については1ページもろくに理解していなかったりする。
前にてじさん自身がどっかで似たような事を言ってたと思うが、その人間にとって魅力的じゃない事が問題だと思う。その辺の女子高生を捕まえてプログラミングについて語ったってそりゃ理解されない。

3年前 No.18

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_pxp

>初学者にとってはそういう説明でない説明をする事がかえって良い結果をもたらしたりする。
クソみたいな説明が役に立ったことなんて一度もないんですが・・・

3年前 No.19

鬼灯 @flower0 ★nnE3EJae2y_JdE

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3年前 No.20

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

話すということについて(2)



私には鬼灯さんのプログラミング(?)について言ってることのほぼ全てが伝わっていない。ほんと、私は「バイト」が何なのかも分かりませんから。もっと適切に言えば、「変数」が何か分からない。

何のことだか分からない…そもそもプログラミングって何をしているのかが分からない。

プログラミングって何をすることなのかが分からないので、プログラミング言語も当然理解できない。ただし、

>変数の宣言とはメモリの領域の確保で、変数の型によってサイズや運用形態は少し異なる。

を読むと、ふむふむ「変数の宣言」って「メモリ領域の確保」なんだな…ということは分かる。
ただこのときの「分かる」というのは、その実、何も分かってないに等しい。実際、私は「サイズ」が何のサイズなのか分からない。変数のサイズなのか、メモリのサイズなのか、メモリの領域のサイズなのか…(変数のサイズなはずはないのだが、あまりに知らないので、そうも言い切れない)
私は『プログラミングにおいてサイズが問題になるようなもの』が何であるかを知らないのだ。

プログラミングの作業で1ミリも悩んだことがない私は、プログラミングにおけるあらゆる問題に対して不感症である。

全く分からないまま話を進めてみる。

「変数の宣言」=「メモリの領域の確保」だとするとだね、プログラミングにおける或る問題を説明するとき、その同一の問題を変数の宣言ということから説明することもできるし、メモリの領域の確保ということから説明することもできる。そしてこの2つの説明は結局のところ同じことを言ってることになる、ってことだね!

私は変数の宣言が何であるか分からないまま「なんで変数を宣言するの?宣言しなくてもこっそりさあ、数を変えればいいんじゃない?」とか「なんでメモリの領域の確保するの?その場でちゃちゃっとさあ、臨機応変に何とかなるよ」とか滅茶苦茶なことを言うだろう。「宣言」とか「確保」とかいう言葉の日常的ニュアンスに引っ張られるから。

けど「なぜ変数を宣言するの?」という問いは私にとって必要な問いだ。

「変数の宣言って何?」という問いに対しては「ん?変数を宣言することだよ」という答えが通用する。

しかし「なぜ変数を宣言するのか?」という問いに対して「変数を宣言するからだよ」という答えは通用しない。

同じく「1+1=2」について「何で2なの?」という問いが出されたとき「1に1を足すからだよ」というのは答えとして通用しない。もちろん「2だからだよ」
というのも通用しない。
ただし、「1+1=2だからだよ」というのは通用する。

同じく「変数を宣言するってことは、メモリの領域の確保だからだよ」というのも答えとして通用する。しかしおそらく「プログラミングだからだよ」というのも答えとして通用する。

ん、ん〜?このてじって人は何を言ってるんだ?

なんで変数を宣言するの?
プログラミングだからだよ。

これはひどいやり取りだが、ナンセンスではない。

このとき、更に

なんでプログラミングするの?

という質問を私がしたら、その先の話で私が「なぜ変数を宣言するか」の答えを得ることはないだろう。

ここで私は「プログラミングって何?」と問わねばならない。

或いは同じことだが「プログラミングにおいて変数の宣言の位置づけってどんな感じ?プログラミングにおいて変数の宣言はいかなる意味を持つ?」と問わねばならないだろう。

何でプログラミングするの?
この質問に対して
生きるためだよ
と答えてもナンセンスではない。

ん、ん〜?このてじって人は何を言いたいんだ?

3年前 No.21

マジカルモンキー ★SxKM1tJ4Xs_mwG

言葉が伝わらない理由。

悪人に善人の言葉が伝わらないのと同じ。
IQ低い人に、IQ高い人の言葉が伝わらないのと同じ。


第一に人間に伝わるれるのは、『 ☆ 表情 ☆ 』である。


マジカルは進化論を専攻にしてきたから、進化論的な話。

まず、キツネザルという原始のサルには、表情がない。
目が満丸なサル。スローロリスやアイアイとか。
こいつら原始のサルは、あまり目が良くない。

しかし、高度なサル、低等な霊長類になると、目が良くなってきて
まず、色の識別ができるようになる。
そして、他の仲間の表情を読み取れるようになる。



言葉が伝わらないは、『 ☆ 脳の連結形態 ☆ 』が同じであること。

本を良く読む人と、スマホをいじる人とは話がかみ合わない。

なぜならば、脳を使っている部位が違うから。

3年前 No.22

マジカルモンキー ★SxKM1tJ4Xs_mwG

訂正、 >>22

脳の連結部位が、お互いに一緒ならば、話は通じる。
脳の連結部位が、違えば、話は通じない。

3年前 No.23

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi

神は短文が好きだ。
だから人間は、この世の中は恐ろしく簡単なルールによって支配されている、と信じているようであるが、
それは誤りである。
どんなに長い聖典をもってしても、全てのルールを書ききることはできない。
だから、神がその短文によって示しているのは、人間の限界に他ならない。
しかし、一方で、人間の作る文の文字数には限界がない。
可算無限には理など通じない。
なぜか?
長文とは、神が持たず、人間が持つ、唯一のものだからだ。
哲学はまるで使い物にならないが、
その使い物にならないという一点においては、
神を超えてしまっているのだ。

3年前 No.24

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

文章は段階的に読まれなければならない。
つまり文章は一目見て一挙に理解することはできない。
分けて読まれねばならず、分けて語られなければならないという事情が、文章というものを理解しがたいものにしている。



※補注)

 相手に話すときには、自分がしたい話を一気に語ることはできない。段階を踏まなければならないというこの必然性。分けて語らねばならないという必然性が、文章を読みにくくしている。絵画は一気に目に映る。文章も一気に目に映すことはできるが、その内容を読み取るためには文章を順々に追ってゆかなければならない。

 文章は黙読されることが基本であろうと思われます。

「多次元に亘って錯綜し得るシーニュ、たとえば視覚的記号と異なり、聴覚的記号は一つの線上に形作られる空間の中で錯綜を呈し得るのみである。シーニュのすべての要素は相次いで継起し、一つの連鎖を作らざるを得ない。」(丸『ソ』219)「言語においては、シニフィアンが聴覚的性質をもっているため、時間の中でのみ展開し、時間から借用した次の性格を有する。つまり、(a)一方向の拡がりを表すこと、(b)唯一つの次元においてしか形作られない拡がりを表すこと、である。先には、単にシーニュという語を用いたので不明瞭さを残していた。」(丸『ソ』219-220)

 文章は黙読されるとき時間の中で展開されざるを得ない。当然言葉を聞くときも、その言葉は一方向的・一次元的に展開されざるを得ない。この時間という制約は、多次元的錯綜が一挙に与えられるということを妨げ、言葉を段階的にする。段階を追わねばならないというこの制約は、最初に言われた言葉を理解するための手だてが後に来る言葉の中に存しているという点で、文章を分かりにくいものにする。イメージ図は「直観的」な理解を助けると言われる。ただ、イメージ図で物事を理解する際にも、例えばその図に書かれている要素を順々に眺めてゆくときには、それは時間的に展開される。
 自動車運転のことを考えてみよう。運転席から見える光景は、光景自体としては段階を踏んで展開されない。光景は一挙に与えられ、しかもその光景の中には複数の要素が与えられている。しかしその複数の要素は順々に見られるのではなく、一挙に同時に与えられる。かつ光景は運転中どんどん変わってゆく。それでも光景はやはり絶えず一挙に与えられ続ける。ではバックミラーを見ながら運転するということを考えみよう。バックミラーを見ている時には、見ていない時に比べて、車の前面の細かい情報が入って来なくなる(故に危険である)。一方でバックミラーに映っている情報については、前面を見ている時に比べてより詳細に入って来る。そして逆にただ前面を集中して見ている時にもバックミラーは視界に映っている。「後方に車が走っているな」ということぐらいの情報は入って来る。
 同様にイメージ図を読み取る時には、或る要素を見ている時であっても他の要素が視界の隅に映っている。しかしその他の要素が細かく正確に見られるためにはそちらの方に視点が移されなければならない。そして文章を読むことも同様であるが、文章の場合にはこの要素が細かく分かれている。
 運転中の視点移動としては、前面を見る・バックミラーを見る・サイドミラーを見る・助手席を見る・直接後方を見るなどがある。同様に文章は、絶えず視点を移動させることによって読まれる。
 同じことを《聞く》ということについて言える。テレビをつけながら他人と会話するとき、他人の会話に集中している時にはテレビの内容が入って来づらく(入って来ても記憶に残らず)テレビに集中している時には他人の会話が入って来づらい。この同時聴取の困難さは、聴覚的イメージ(シニフィアン)が線状的に時間的に展開されるというところに存する。

一方で聖徳太子のことや速読のことも考えてみなければならない。

3年前 No.25

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

例えば、運転中にバックミラーに目を移すのと同じ様な仕方で

表情を見てその表情の或る要素から別な要素へと視点を移すことは出来るだろうか?

いや、表情には、バックミラーとサイドミラーのような複数の異なる視点が存在していない。

顔には鼻や口や目や頬や顎や耳や額などの複数の部分があるが、

表情には部分がない。

ここで仮説を立ててみる。

『表情は部分がなく、それ自体で単位になっているため、伝わりやすい。』
『文章は部分が多くあり、読み手は順々に視点を移してゆく必要性があるので、「伝わりにくい」。』

この「伝わりやすさ」という感覚は、理解が早いという即座性であり、この即座性は理解されるものが「ひとつ」であるからである。という仮定。

この即座性が最も分かりやすいのは、文章を音読する時である。





「あ」という文字を音読してほしい。

「あ」という文字と、あなたが発した音声との間には、何の繋がりもない(恣意性)。

「あ」という文字をみて特定の音声を発するとき、「あ」という文字は「読まれている」。

一文字を音読することが読むことの最小単位である。

表情を見て取ることは、一文字を音読するように、単純である。

しかし私が或る発言をしたときその場に居合わせたひとりが嬉しそうな表情をしもうひとりが悲しそうな表情をしたとしたら、そこには何らかの複雑な事情がある。

表情の違い、違う2つの表情が同時に同じ場面に居合わせていること、この場面を見た人は、この場面がどういう状況かを瞬時に分からないだろう。

事情が分からなければ、或る場面を理解できない。
事情を予め知っていれば、その場面をひとつの表情のようなものとして見て取ることができるだろう。例えば「またいつものか」というように。
これが「例の如く」である。

知っていることは、みなまで言わずとも、聞かなくても分かる。
知らないことは、全部の言葉をつぶさに段階的に追っても、理解できるとは限らない。

3年前 No.26

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

「神は永遠において宇宙の全瞬間を直観している」と言われるとき、究極に複雑なものが「ひとつのもの」として理解されている。

神は、人間のあらゆる長文を無視して、「あ〜、聞かなくても全て知ってます」と答えるだろう。

ところで神からしたら、ただひとつのものを示せばそれですべてを示せる境地にある。
すべて聞かなくても分かる者にとってみれば、分かるために言葉は不要である。



「あ」を見ると、これの発音の仕方がわかる。

恐れ入りますが、いま発音してみてください。「あ」

じゃあ、「あ」という文字がその音で発音される、ということを、言葉で説明してみてと言われたら、どうしよう。

そう訓練したから、そう教えられたから、親に教えられたから、「あ」を「ア」と発する。
親はどうやって教えたのか。明らかに言葉でもって教えたのではない。
文字を見せて、自ら「あ」と発音することによって教えた。

「あ」をその音で発音するということが単純な文字理解であるように、
神の理解は単純であるとしよう。
しかし神は親に教えられて宇宙を習得したとは思われない。
ここで私は「全知の神というのはインチキではないか」と思うにいたる。

それでいながら「全知」というものを或る限定の中で理解できるとも思う。宇宙全体をひとつの表情のようにして「ひとつのもの」と見なすことが全知である、と。

3年前 No.27

マジカルモンキー ★SxKM1tJ4Xs_mwG

てじ殿

なるほど、知らないモノを伝え理解させるのは難しいわね。

表情は遺伝的な要素ではある。遺伝的ではない『新しいモノ』の理解か

3年前 No.28

マジカルモンキー ★SxKM1tJ4Xs_mwG

遺伝的要素では理解できない『 新しいモノの理解 』
遺伝子に組み込まれるべき、新しい理解。新しいモノ。
まだ、この世にないもの。大部分の人間が理解できなかったモノ。



ワクワクドキドキするモノ。
私の恋人が素敵―!と言いそうなもの。
ミステリアス、サスペンス。

謎。

謎の追求。答えがまだ見つかってない物事。
人間興味を持つもの。



怒り、期待、判断、迷走、妄想、想像。
なぜ、マジカルは、まだ来ていない未来を予想できるのか?
10年後の経済は?100後の経済は?1000年後の経済は?

新しいモノを受け入れる人間の機能は?
最先端の先は、闇。最先端が光。なぜ、人は研究する。
何を発見し、それを記録に残すのか?
安全だから謎に挑む。危険だから矛盾を諦める。

新しいモノの理解。新しいモノの伝達方法。凄い。猛烈。衝撃的。
継続、話し合い、真似。それ以外、唐突に現れたものを伝達するか?
死を伝えられるか?

脳の中にはキーボードがあり、
そのキーボードのボタン一つ一つに鋳型が書かれている。
これは遺伝的なものだが、
仮に、このボタンの鋳型に、無いものがあったら、どうなる。

つくるしかない。
じゃ、どうつくる?
感じられないものを。

じゃ、誰も予想できないものを伝える。

……
……
……

☆☆ カマボコが世界を征服する ☆☆

ええ!!カマボコが世界を征服するの!?
カマボコってあれだよね?うどんの中に入っている食いものだよね。
食い物が世界を征服するの?
一応、色的に縁起ものだよね。
てか、アフリカ人ってカマボコ知らないよね。
カマボコが襲ってきたら、カマボコの板は楯になるのかな?
1000年後の人類は、カマボコの姿を見て、ヒェー!カマボコ!逃げろー!
となるのかしら。(独り事)


うむむ……



話は変わるが、タケノコは地下である程度育ち、地上に這い出てくる。
新しいものをマルマル伝えるには、
例えば、地下が眠っている姿が必要ではなかろうか?
ようは、背景か…。

予感(謎) → 感覚 → 伝わる。

3年前 No.29

わたし ★30JjgxOVKX_m9i

え!カマボコが動き出したって!それって、ヤバくない!
来る時が来たか!懸念してはいたが・・・これ、マジでヤバイよ


誰かが、リンゴじゃなくて、タマネギにしちゃったせいだ・・・きっと。

神は死んだ!誰が殺したのか!皆が寄ってたかって殺したのだ!
もうおしまいだ!

縁起物? やつらにとって縁起がいいのだ。
人間は、とんでないものを作り出してしまったのだ。
みんな、気づいてないだけなのよ

タケノコは人間が作り出したもののじゃないから、まだ純。でも、地の中で虎視眈々とその機をうかがっている。あなどれない。

やつらの板は盾になる? 確かに、でも、こっちには包丁っていう矛があるじゃないか!
でも、ちょっと不安・・・


ここ、言葉による表現が通じることの現場と見ましょうか。

3年前 No.30

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-939-940#a

自分の言っていることを聞いてもらうためには、まず相手に挨拶する必要がある。

「あの〜…すみません」
こう挨拶されることによって、話しかけられた者は「何?」と思う。

ただしここで出されている疑問文「何?」は、私の存在を問うものではなく、私の言葉の意味を問うものですらない。そしてまた、今のこの状況がどういう状況であるかを尋ねる問いでもない。この「何?」という疑問文は、話しかけた私の方を見つめるという行為によって完全に代行される。すなわち、「何?」という疑念が起こることは、「思うこと」である必要がない。それは「ん?」という疑問文で表現しても同じくらい十分に表現できるような疑問文である。


だが、

誰に言うともなく発言をするということは多々ある。
そしてその発言を聞いて、その発言は自分に向けて言われたのだと解釈し、その発言に反応して行動する人間が存在する。

「なんかこの部屋汚れてるな」
と誰にともなく言われた発言に対して「掃除します」と答える人間が存在する。

こう答えた人間は、当の発言内容を超えたところに注意を向けている。

一方で「なんかこの部屋汚れてるな」という呟きに対して「はい、汚れてますね」と答える人は、その発言の内容を超えない範囲で対応している。
こういう人間は、部屋が汚れていることと自己自身との間に何の関係も見出していない。…無関心である。…そう見られる。
逆に、「掃除します」などと答える人間は、誰に言われたでもない言葉を、自分に言われたものだとして解釈する。強く解釈する。そのようにして部屋の汚れと自分自身を結びつける。

さて、「なんかこの部屋汚れてるな」という発言の内容というのは、例えばこの発言者が部屋に入って散らかっているという印象を受けたとかいうものになるだろう。散らかっているということは、片づけるべきだ。そこまでは言ってもいい。しかし、片づけるのは自分であるというところにまで行くと、完全にその発言内容から逸脱している。

「掃除します」と言う人は、いわば無理矢理その発言を自分自身に関係づけている。
だから、発言者は「いや、そういうつもりじゃないよ」と容易に言い得る。「そういう風に受け取るな」と、相手の敢えての解釈を、敢えて禁止するという行いに出ることが容易である。
そして「なんか汚れてるな」という発言に無理矢理の解釈をほどこし「掃除します」と答えた人間は、「そういう風に受け取るな」という発言に対しても無理矢理の解釈をほどこすだろう。すなわち「そういう風に受け取るな」という発言に対して「いえ、私も部屋が散らかってると落ち着かないので…」などと答える。こうなると完全に、答える人間が自主的に部屋を掃除したいのだということになる。そうなると、最初に呟いた者は容易に「じゃあ勝手にやってくれ」と言えるだろう。

ところで、こういう対応は、呟きのメッセージを正しく読み取った対応なのだろうか。発言自体としては自分に言われたわけでもない発言を自分に関係づけ、相手によるその関係づけの否定も拒絶するような対応が、正しい対応でありうるのだろうか。時にはありうる。

例えば、「なんかこの部屋汚れてるな」という発言に対して「汚れてますね」と答えた人間に対して、「なぜ私がそう呟いたと思う?」などと問うとしよう。
これに対して、「あ…はい、掃除しますね」と答える人間と「部屋が汚いと思ったからではないですか?」と答える人間がいる。(或いは「私はあなたじゃないんだから、そんなこと知りません」と答えるような人間も存在する。)

「なぜそう呟いたと思う?」「なぜ私はこう呟いたのでしょーか?」というような疑問文は、当の発言を、当の発言の外から説明しろという示唆である。

「なぜ?」という問いは、当の出来事ないし言葉をストレートに受け止めず、例えば「なにか狙いがあるのではないか」などと、うがって見ることである。
「なぜ…なのでしょーか?」と語り掛けるということは、「うがって見てみなさい」という指示になりうる。
すなわち言外の意味を読み取りなさいという指示になりうる。
それはすなわち、「この言葉を或る特定の(強引な)仕方で解釈しなさい」という指示である。

「なぜ私は部屋が汚れてると呟いたのでしょーか?」という質問に対して「なぜあなたはそんなことを訊くのか?」と答える人間が存在するとしよう。
この質問に対して「察しろよ」と答えられるとしたら、これはもはや「なぜ…でしょーか?」という問いかけの狙いの暴露になってしまう。
すなわち「なぜ…なのでしょーか?」という問いかけ自体が「察しろ」という命令なのだ。したがってこれは厳密には「なぜあなたはそんなことを訊くのか?」という質問への直接の答えではない。しかし答えになってはいる。

そして「なぜあんたはそんなことを訊く?」と問い返すことは、最初の呟き者を困らせることである。呟き者は狙いを明示するよう迫られているからだ。そして呟き者ははじめからこの狙いをぼやかしておこうとしている。「察しろ」という命令は、「問い返すな」という命令でもある。

「来い」と言われて来たら「そういう意味ではない」と言われ、「来るな」と言われて行かなかったら「察しろ」と言われ、「来い」と言われて行ったら「本気にするな」と言われ、「来るな」と言って行ったら「来るなと言っただろ」と言われ…というようなことが繰り返されると、何が正しいのか分からなくなる。
「そこは場合場合で察しろ」という指示が、正解を指し示している。これは言葉に左右されず、状況を基にして言葉を聞けという意味である。それはすなわち「なぜ私がそういう発言をするのかという意図を基にしろ」という指示である。
しかしこれは結局、「常に私に都合が良いように行動してくれたまえ」ということである。なぜなら、他人の意図を基に行動するということは、他人の意図を思い描いて、そのイメージから自分の行動を選択するということではないからだ。相手がどんな心的状況であったとしても、客観的にその人にとって都合がよいように行動するということが「意図を汲み取る」ということである。
すなわち、「行為の基準としては、その行為そのものがまずひとつあるが、君が行為するときにはその事象的基準と並べて『私に都合がよい』という基準も採用しなさい」という指示である。件のようにして「何が正しいか分からなくな」った人間は、言葉そのものに従うことも止めて、かといってその時その時に意図を知ることはできないので、とにかく客観的な意味で命令者の「意に沿う」ように振る舞うようになるだろう。「意に沿う」とは言っても、これはその人の気持ちを何らかの仕方で直観して、その直観された心的状態を基にして行為することではない。そうではなく、ここでの「意に沿う」とは「媚びる」と同義である。

「空気を読め」というのは、「媚びろ」という意味だ。

そんななか、挨拶とは何か。

「すみませんが…」という挨拶もまた、発言者が自分に対して注意を向けるように相手に働きかけることである。
そしてまた、相手に「何だ?」と思わせるようなことである。「何が狙いだ?」と思わせるようなことである。
決定的に違うのは、「すみませんが」とか「恐れ入りますが」というような挨拶は、自分の狙いを明かす際の序言であるということだ。

すみませんが…で始る発言は、解釈すべき言葉を浮遊させるのではなく、そうではなくこれから言われるべき言葉の狙いを提示する。
というのも、狙いをまず提示することが、相手に自分の言うことを分からせる際に有効であるからだ。
相手に狙いを察させる手間を取らせるということは、迅速に自分の言いたいことを相手に伝える際には、上手い手だてではない。

たまに、「〜さん」とか「〜殿」とか名前を明示せずに誰にともなく不満だけを言う人間が存在する。
そういう発言に対して「私に言ってますか?」と問いつめても「いや、そうではないですよ」と簡単に言い逃れられるし、もしも私が問いつめなかったとしたら、その言葉は私に関係づけられ得る可能性のなかに留まり続ける。

ツイッターではこれを「不穏ツイート」とか「不穏なエアリプライ」などと呼びます。

この不穏なエア・リプライに傷つくというのは、言葉の意味が通じているということなのか。それとも不穏エアリプに傷つくことは飽くまでも被害妄想であり続けるのか。明らかに自分に対して言われているのであっても、それでも被害妄想ということになるのだろうか。

2年前 No.31

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

この言葉は自分に向かって言われているのだと思う…というのは、ひとつの言語理解の仕方である。

この聞き方は或る種の痛みを伴うものだ。「耳が痛い」と言う時と同じ様な痛みである。

言葉を自分自身に関係づけるとは、その言葉が自分のことを言っているのだと思うことである。思うだけでなく、そう聞いてしまい、そうして一喜一憂することですらある。

この痛みのようなものって何なんだ?

痛くない言葉…ぜんぜん自分には関係がないと見なせるような言葉…こういうものもあるだろう。

したがって、或る種のエア非難(誰にともなく、或いは一般的な意味での人間に対して言われた非難)に傷つかないために、正しく振る舞うということもありえることになる。

例えば「人殺しはダメだ」という誰にともなく言われた言葉を聞いても、人を殺したことのない人間は傷つかないと思われる。

だが或る種の文脈でこの発言が言われた時、人を殺したことのない人間であっても、この発言を自分に関係づけて深く傷つくということがあり得る。
そのように痛む時には、自分の中の何らかの要素が「人殺し」として解釈されている。

人を殺したことがないのに、自分の中に人殺しの要素を見出すというのは、無理な解釈に思われるだろう。
だが、自己自身に言葉を関係づけるということは、こういう無理な解釈をリアルなものとする(そして歓喜するか傷つくかする)。

さて、文字通り読まないこと(人殺しに向けての非難を、人を殺したことのない人間への言葉として解釈すること)と、言葉を自己自身に関係づけるということとの間には、何か必然的な関係があるのだろうか。

言い換えると、その「人を殺したことのない人間」は「自己自身」であらねばならないのだろうか。
…なんとなくそんな気がする。
なぜなら痛みというものが介在しているから。

痛みをもって言葉を受け止めるというのは、どういうことなのか?

この痛みは何だ?

2年前 No.32

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>0
>>2
>>8
>>11

どうして言葉の意味が通じるのかという問題。
まず、「意味が通じる」を表現するためにモデルを用意する。
定義:
「価値」→主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価
「意味が通じる」→目的を共有して、必要という価値観を共有したと判断すること
「意味」→言葉によって指定したい『実現して欲しい未来』

上記定義から、「意味が通じる」理由を考える。
主体と目的を共有する対象が存在する場合、主体が言葉によって指定した命題によって、目的(実現して欲しい未来)の存在を肯定する反応が起こりうる。これを肯定した場合、目的の共有が起こったと判断して、目的を達成するための価値判断ができることを示す。主体の主張が指定した命題を肯定することである場合、対象は指定した命題を肯定するための価値観を持っていると判断できるならば、主体は上記定義した「意味が通じる」現象を実現したと言える。
ここで、『どうして言葉の意味が通じるのかという問題』は『「意味が通じる」現象の実現』をどうやって達成するのかという問題に置き換えられる。
そこで、上記モデルから必要なものは、

・目的を設定する機能
・言葉による命題の指定する機能
・指定された命題を解釈する機能
・命題から読み取れる主張を肯定・否定など種別分類する機能
・対象の反応から指定した命題に対する主張を分類する機能
・『主体と対象が目的を共有して、価値観を共有しているか』を判断する機能

となる。よって、これらの機能群を包摂したシステムがあるから、「意味が通じる」現象も起きると言える。
『どうして言葉の意味が通じるのかという問題』の答えは、以上説明したシステムがあるからと言える。

2年前 No.33

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〉33
ねえねえ、恋愛学者さま、その〈システム〉どこにあるの?

2年前 No.34

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>34

なぜ、実際に有るかどうかを証明する必要があるのですか?
題意は、『どうして言葉の意味が通じるのかという問題』でしょう?

ちなみに存在の有無を議論はじめたならば、本当に「意味が通じる」現象が生じているかを示す必要まであります。

それとも興味本位でしょうか?
その場合を考えて答えますと、例えばIBMのワトソン(人工知能)がこれらの機能を持っていると言えるでしょう。

2年前 No.35

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〉35

てじ様の「意味が通じる」ということにおいて、わたし、「人間において」と見ています。

〈『どうして言葉の意味が通じるのかという問題』の答えは、以上説明したシステムがあるから〉
じゃ、人間にそのシステムがどこにあるのかなーって思っただけなのね。

語の意味を定義し、その内で(何においてはわからないけど)、○○っていう機能がある。って言ってるだけの、
典型的科学的手法内に閉じ込められてるっていう感じなのよね。

この場を考えて、
〈なぜ、実際に有るかどうかを証明する必要があるのですか?〉
これ、まったく、わたし、意味わからない。


〉32

てじ様の「痛み」

フッサールのいう「地平」は、他人の表現したものの地平と、自分の地平があるように思えている。



さて、意味が通じただろうか?

2年前 No.36

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>36
>>人間にそのシステムがどこにあるのかなーって思っただけなのね。

これって、この世のどこかにあると仮定する人間を表現しているプログラムを持ってきて、「ここに書いてあるじゃん」とか言わないと納得しないということですか?なら、私には問いに答えることができません。


>>〈なぜ、実際に有るかどうかを証明する必要があるのですか?〉これ、まったく、わたし、意味わからない。

「言葉が通じる」現象を説明して、そのために必要な機能を挙げて、それが無いと無理だろうという仮説を立てるだけならば、 >>33 の答えで十分だと思います。

生命を表現するプログラムの存在を証明しなければならないという題意ならば、上記同様に、この問いに答えることは私にはできません。

2年前 No.37

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

ここ、現場って見てますから

〉37、わたし、ますます意味がわからなくなっちゃてます。

そこで、

恋愛学者さま、あなたは自分自身を人間だと思っていますか?

ちなみに、わたしは人間だと思っています。

2年前 No.38

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>38

一般的な認識として、私は自身を人間だと思っています。

2年前 No.39

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〉39

わたしもあなたも人間だと思っている。

この人間どうしの「言葉が通じる」っていうこと、あるいは「通じない」っていうことは、どういうことなんだろう、っていうことを語りあおうとしてるんじゃってって、わたし、言っているの。

ちなみに、わたしの場合、
「概念は言葉で表されその意味となる」ってしてますから、
「言葉が通じる」っていうのは、正確には「言葉の意味が通じる」ってなります。
問題なのは、意味(概念)の共存があるかどうかじゃないかなって思ってます。

2年前 No.40

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>40
>>問題なのは、意味(概念)の共存があるかどうかじゃないかなって思ってます。

それに関しては >>33 で仕組みの仮説を示すことで答えました。
これで十分でないのならば、人間同士で言葉の意味が通じるのは○○の仕組みがあるからと証明する必要があります。これは、私にはできません。なので、これ以上反論できません。

2年前 No.41

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>あなたは自分自身を人間だと思っていますか?


という質問に

>私は自身を人間だと思っています。


と答える。

これは言葉の意味が通じていると言えるだろう。
しかし質問の意味は理解されていないだろう。

まず「あなたは…ですか?」という質問は「YES/NO」の回答を誘導している。
「私は自身を人間だと思っています」という回答は、一般的な認識としてという留保がついていようがいまいが、「YES」という意味しかない。

このとき、「言葉の意味が通じている」というのは「…ですか?」という質問に対しての答え方を知っているということでしかないのではないか?

この発想を一気に拡大すると…

言葉の意味が通じているように見えるのは、一定の言葉の組み合わせに対して一定の仕方で対応する方法が習得されているからだということになる。

そうだとすると言葉の意味が通じるためには、聞き手が質問に含まれている正しい答え方を看取する必要がある。

しかし「おはよう」と言われて「なにがおはようだ。何時だと思ってる?」と答えることも、或る意味では言葉の意味が通じている。
このとき「おはよう」という言葉は場にそぐわないものとして発せられている。
場にそぐわない挨拶に対して真っ向に対応するのも可だが、むしろ突っ込むことの方が適切な場合もある。

このときのツッコミというのは、言葉が無力になっていることの指摘である。

おはようの挨拶に突っ込む人には、おはようの意味が通じていないのか?
「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すルールを知らないのか?

そうではない。

話の途中で突然「おはよう」と言われたら、一瞬だけ「ん、誰か来たのか」と思うだろう。
このときの関心は、「その言葉は誰に向けて言われたのか」ということに向けられている。
この関心は「ん?誰か来た?」という表現で表されている。

このときの一瞬の「誰?」という疑念は、「おはよう」という言葉の意味のあるべき所の予感である。
もしも背後に新たな訪問者が入って来ていたら、「おはよう」の「意味が分かった」ということになる。これは予想されていた空白が埋められたということであるだろう。

相手に問うというのは、埋められるべき空白を示すことである。
ということは、そのように埋められるべきところが空白のままあるという発想を、相手に持たせることなのだ。

「誰?」という一瞬の問いは、「おはよう」という言葉によって惹起された埋められるべき空白を指し示している。

2年前 No.42

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

例えば「心が通じ合っている」ということで考えてみてもよい。

心が通じ合っているってどういう状態?

2年前 No.43

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>42

その仕組みはどこにあるのですか(笑)?

2年前 No.44

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

>44

わたしさんが指摘したのは、かくかくのシステムがあるから言葉の意味が通じているはずなんだ、と言ってもあまり意味がない…ということでしょう。

むしろそのシステムの内容である「目的」とか「指定」とか「解釈」などの意味が重要になってくると思いますよ。

私は恋愛学者さんが「とにかくシステムがあるから言葉の意味が通じてるんだ」と >>2 の地下水さんみたいな主張をしているのではないとは思っています。

むしろシステムの内容がポイントで、「言葉が通じるとしたら、こういう要素が必要だ」という要素を羅列したものだとみなしています。

ただ万が一、システムがあるから言葉が通じるというところだけを切り取ってピックアップするなら、次のように言っても同じだということになります:

言葉には意味伝達のパワーがあるから、言葉の意味が通じるんだ。

しかし、恋愛学者さんが言いたいのはこういうことではないと思っています。



さて、
仕組みはどこかにあるか?

これには答えないのが正解だ。





「仕組みがどこにあるのか」という質問そのものがどこに関心を置いているのか?

その関心はもっぱら、訳が分からない(と恋愛学者さんが強調したい)わたしさんの問いをパロディすることによってもたらされる周囲への効果への関心でしょう。

この問いは、仕組みは脳にあるのか文法にあるのかはたまた魂にあるのか…という問題ではなく、冗句でしょうね。笑っているところからもそれがうかがえます。

その問いは、恋愛学者さんとわたしさんとのやり取りの中から出て来たものです。したがってその問いの意味を理解するためには、その問いだけを見てもダメで、恋愛学者さんとわたしさんとのやり取りを少しでも目に触れさせておかねばならない…でしょうね。

2年前 No.45

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

どうして言葉の意味が通じるのか?

簡単な話、相手が話す言語を私も知っているからです。具体的には、お互いが日本語で話していて、相手の知らない外国語を使っていないからです。

これはバカバカしいけど重大な要素だと思います。

もっと具体的に言うと、相手の発する音をこちらで分節化できるから、相手の言葉が通じる。

しかしこちらの恣意的な文節では意味が通じない。中国語を聞いて「ハンニャンホンニャンチーチキフー」と言っているなあと分節化したとて、何も意味が分からないように。

そしてもっとバカバカしいことを言うならば、

言葉は聞かれてはじめて意味が通じる。

相手から100メートル離れて小声で「明日10時に校門前集合」と呟いても、相手には言葉の意味が通じない。

当たり前じゃん、言葉が聞こえてないんだから。裏を返せば、言葉は聞こえなければ(或いは読み取らなければ)通じない。

しかしさっきも言ったように、どんなに大きな声で近くでスペイン語が話されていても、私は何も意味が分からない。

聞くとは何か、ってことになる。

2年前 No.46

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>43

「心が通じ合う」の意味が、「互いの心のよりどころを共有する」ならば、互いの現在重要と思っている目的を共有することを示せばいいでしょう。

なので、 >>33 によれば、「意味が通じ合う」時点で「心も通じ合う」が起きているので、 >>33 で示したことにします。

2年前 No.47

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

33は聞こえてるんですけどね、全く意味が通じてこないのはなぜなんでしょう。たふん頭が柔いんだと思うけど、正直頭が柔すぎてそのうち「ふとんがふっとんだ」とかも分かんなくなっちゃいそうで怖い。なんでわかんねえんだろなあ。俺が思うに、意味っていうのはハートでキャッチするもんなんだよ。相手が投げかけてそれを俺がキャッチすると意味が通じる。こういうシステムがある。だから意味が通じるんだ。「おめえよ」「なんだ」「あれどうした」「あれってなんだよ」「河童だよ」「リビングの机に飾ってあるさ」「おめえんち机なんてあったか」「俺んちの家具はかくれんぼが得意なんさ」「まあなー」。こういう会話が友だちとあったんだけど、意味わかる?わかんないよねー。河童ってのは俺が遠野に行った土産の河童型の鉛筆。であいつんちはめっちゃ汚いんで、机が物に埋もれて見えなかったわけ。俺がどこいったかしらんひととか、ていうか河童型の鉛筆なんて「河童」だけじゃあわかんないよねー。そういう意味じゃあ言語って無限にあるのね面白いね。ウィトゲンシュタイン?の言語ゲームだっけ?あれに全部書いてあんじゃないの?何か新しいことがあるの?真面目に読んでないけど。でもーなんか昔昔の大昔のホメロス?とかって白黒赤しか色が出てこないってあれ都市伝説かしらん。なんか色の分類が違う世界じゃ、色が変わったって認識する程度も全然違うらしいじゃん。もし白黒赤とかって世界ならいくら緑説明しても難しいよね。ていうか先天性の盲人に色の説明ってできんの?意味通じる?無理だよなあ。色なんて知らないんだから。あと、河童って言葉が鉛筆のことを言うってことも知らないでしょ。

2年前 No.48

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

あと社会的人間としてお恥ずかしい話なんですけど、「頭が柔(やわ)い」って使い方あるもんだと思ってたら無いんですねー好きな曲の歌詞で耳で覚えてからずっと使ってた。放送コードにひっかかりそうな表現を変えたんでしょうね。頭が柔らかいって言ったら機転が効くだし、きっと皆様には伝わんなかったでしょうね。僕やそのアーティストが言ったのはやわい=脆い、つまり知恵がおくれ的なことです。なんで俺はあのアーティストの意味するところを理解したんだろうかと、ひっきょう言葉は意味なくても周りの文脈と語感で理解したんです。言語は要らなかった!

2年前 No.49

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>49

確かに、今日人さんにはわけの分からないことを話しているなら、私はあなたにとって知恵遅れですね。

2年前 No.50

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

>>50
喋ってる言語が違うんでねえかね

2年前 No.51

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>51

その意味で言語が異なるというのならば、当然、互いの自我が全く同じ人はいるはずないですから、違いすぎるから理解し合えないのでしょうね。

2年前 No.52

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

ときどき同じ言語を喋れるときは意味が通じたりするかもしれませんねえ。確認なんてできないわけですが。

2年前 No.53

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>53

>>36 の主張では、人間の仕組みのどこに「意味が通じる」を実現する仕組みがあるかを確認できなければ、「どうして言葉の意味が通じるのか?」問題の解答にふさわしくないらしいですが、 >>53 の主張は、 >>36 に従うと「どうして言葉の意味が通じるのか?」問題に十分な答えを出すことができないということですか?

ちなみに、確認できないから、私はこの題意の議論はどのような仕組みが必要かを提示するだけで十分だと思います。 >>33 で示したように。

2年前 No.54

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

そもそもこの掲示板のタイトルが悪い。

2年前 No.55

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>55

意図したところが実現されるように、再定義する意味で新しくスレッドを立ち上げないんですか?

2年前 No.56

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>56

私の問題把握が粗末すぎたのでしょう。

2年前 No.57

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>57

>>42>>46
これらを見る限り、「人間同士の自然な応答はどのようにして形成されるか?」をテーマにスレッドを立ち上げたらどうでしょう?

2年前 No.58

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

辻井伸行さんに「何色が好きですか?」と質問すれば、彼は「青色です」と答えるだろう。

辻井さんは青色を見たことがない。

では、彼の答えは丸で意味がないものなのだろうか?

いや、その前に、色が好きとはいったいどういうことなのか…

仮に盲目の少年がいて「僕は黄色が好きだ。だって黄色はえいたその色だから」と言うとしよう。
この発言は、しかし、単にえいたそが好きだという意味に尽きるものではない。
えいたそが好きすぎて、黄色も好きになったという意味だって持ち得るものである。

この少年は「黄色のサイリウムを買ってくれ。だって黄色はえいたその色だから」と言うこともできるし、この言葉が無意味だということはない。
色が見えない人間が色について語っても、その発言が無意味になるということはない。

この少年が「黄色はレモンの色だよ。イチョウも黄色いよ。信号で黄色だと、もうすぐ赤になるんだ。黄色はまぶしい色だよ。」と言うとき、この少年は黄色をよく分かっていると言えるだろう。
しかし、この少年は「色」を知らず、「まぶしい」という感覚も知らないと言いたくなる。

問題は、『感覚を知らなければ言葉の意味が通じないか』ということだ。

盲目の少年に「黄色いものには触れるな」と命じるとき、少年はこの言葉の意味を理解する(ただし、器用に黄色を避けるということは出来ないだろう)。しかもこの少年は「うっかり自分が黄色のものを触ってしまうかもしれない」という風に理解するだろう。

「黄色が好きだ」と有意味な仕方で言うためには、例えば黄色を前にして気持ちよい感じを持ちつつでなければならないだろうか。
「黄色が好きだ」という言葉に「なぜ?」と問われて「えいたその色だからだ」と答えても、これは不合理な答えではない。

しかしそれでも、盲目の人が「黄色が好きだ」というのはどこかおかしい…という感覚もある。

この感覚の正体は何か?

2年前 No.59

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>58

それは私の問題ではありません。

2年前 No.60

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

>>54
どこに、なんて皮肉でしょう。公理はその体系のなかでしか意味をなさないんだから。
まあ俺にはよくわかりませぬよ
問題意識は >>59 が一番面白いね

2年前 No.61

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

うまく行かんなあ!

ちょっとアリス・アンブローズ編『ウィトゲンシュタインの講義』やコーラ・ダイアモンド編『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』とかを読んで落ち着こう。はぁはぁ。

消化できてない…

本を落ち着いて読めるだけで幸せなんだからね、そこをよく肝に銘じておけ!(ドアを乱暴に閉めて立ち去る)

2年前 No.62

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

てじ様がドアをバタン!と閉めて立ち去った後、
闇の部屋の片隅でうずまっているわたしは、

〉33、

ちょっと聞いてよいかしら?

恋愛学者さまにおける「命題」っていう語の意味を教えてもらえませかしら?


もう寝るので、いやなら、いいですけど。

2年前 No.63

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>63

グーグル検索したところ、

言語や式によって表した一つの判断の内容。

らしいです。私も論理学的定義で用いています。

2年前 No.64

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〉64

とすると、

〈「価値」→主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価〉において、

「価値」の定義を〈主体が目的を達成するために指定した〔言語や式によって表した一つの判断の内容〕を必要と判断する評価〉とする。

こうなります。わたしの場合、やっぱ、難解です。

では、次に、

恋愛学者さまにおける「評価」っていう語の意味を教えてもらえませかしら?

いやなら、いいですけど。

2年前 No.65

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

恋愛世界観のなかでしか通用しない言語は僕には話せないんです。

2年前 No.66

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>65

検索すると、評価の意味は

価値を判断して決めること

らしいです。私もこのように用いています。

ちなみに、「判断する評価」とは、評価という処理で判断していることを示しています。

2年前 No.67

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>67

よくよく >>33 を見てみると、 >>66 で問いたい「評価」というのは、「価値=評価の結果」のことですね。

2年前 No.68

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〉67

〈主体が目的を達成するために指定した〔言語や式によって表した一つの判断の内容〕を必要と判断する〔価値を判断して決めること〕〉


「価値」を定義しているのに、定義の内容に「価値」が出てきちゃってるし、語の重複が多すぎでごちゃごちゃしてる。


だから、わたしの場合、難解なのね。

2年前 No.69

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>69

>>68 を見てほしいのですが、
この場合の価値とは、評価の結果です。

>>「価値」→主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価

とは、「主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する」という制約条件を持つ「価値=評価の結果」です。

2年前 No.70

今日人 @shrapit ★0FtEoBvIOA_dB9

>>59
盲目な人間にえいたそ色に触るな、とか、盲目少年がえいたそ色が好きだとかいうのは、なんなんだろうと考える。
まず、えいたそとは誰なのか。調べたら、芸能人だった。知らない。
俺たちの体験で考えてみた。そのけん玉には呪いがかけられてる。その河童の置物には呪いがかけられてる。
「えいたそ色に触るな」というのは「呪いのあるものに触るな」と霊能者から言われているに等しい。
しかし俺たちは霊能者じゃないから、呪いなんてわからん。触ろうとすると「それには呪いがかかってる!触るな!」と彼に言われてビクッとする。
俺たちには呪いはわからんが、霊能者が呪いと叫ぶから、俺たちもそんな気がしてくる。このけん玉は禍々しいのだ。さわると地獄に落ちるのだ…
すると俺たちにも呪いは見えてくる。こうして霊能者は俺たちと心を交わすようになる。霊能者は「彼らを救えた」と感じ、彼の言説は救われる。
意味が通じるとはこういうことじゃないか、俺たちにはわからんことでも、霊能者と共感することで、全く知らなかった事柄でも俺たちは理解する。
全く見えなくたって、感じられなくたって、霊能者に共感することで、俺たちはそれが呪いであると理解する。そしてなんと、怖がりもする!
これは確実に意味が通じたと言えるだろう。その後、俺たちはそのけん玉を見るたびに呪いを(なんとなく)感じる。
すなわちキーワードは「共感」なんだ。俺たちは霊能者の恐れに共感して、呪われたけん玉という言説を理解する。じゃあ共感とは何なんだ。という話にもなる。

この話とは別に、ここでしか通じない言葉スラング、というものがある。スラングという概念を引き延ばして考えると、俺たちが喋ってるあらゆる言葉はスラングだ。
さっきあげた霊能者の別世界の言葉と、このスラングというあらゆる他者のもつ別世界を理解することは、同じだろうか、同じだとしたらどういう風に考えることができる?
例えば「頭が柔い」という言葉を「弱い頭の」という風に理解したとき、というか哲学書を初めて読んだ時のことを思い出してほしい。そんな言葉にあふれていなかったか。きっと日常では使わない言葉の使い方にあふれていただろう。そういった表現をどうやって、今ある哲学的な言葉の理解に持って行ったか。もちろん辞書の<<哲>>みたいなところをすぐさま開けた人もあるだろうけれど、俺なんかは文脈を読みながら、こういう意味で使っているんだろうな、と考えながら、その意味を理解していった。「純粋理性」?なんじゃそれ、と思ってると、「純粋な、すなわち完全にアプリオリな」とかいう表現がちょろっと出てくる。そこでああなるほど。と思ったのを憶えている。だいたい「理性い」ってのも何だって話だったけど。これも一種の共感である。
じゃあやっぱり共感って何なんだっていう話になる。今あげた例の場合、文脈を読み取ることだった。霊能者が呪われている!と叫んだ時、俺たちは「呪い」ってものを全く分かっていないんだが、霊能者が呪いってものを知っていて、表情から「恐れ」を抱いているのをわかる、こういう意味での文脈を読み取ることで、「呪い」を理解する。呪いというとわかりにくいかもしれないが、霊能者が「そのけん玉はボヌールだ!!」と悲壮な顔で叫んだらどうだろう。俺たちは霊能者という性格を理解して、その悲壮な顔を理解して、そのけん玉に触らないようにするだろう。しかし実はボヌールはボヌールであったのだ。

2年前 No.71

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>71

ちょっと整理させてください。
・けん玉に触ろうとしたら、霊能者から「触るな!」と悲壮な表情で注意され、「それには呪いがかかっている」と教えられる。
・霊能者が呪いと叫ぶと、いずれ私たちにも呪いが見えてくる。(彼に共感したとしたら)
・これまで分からなかった言葉(ないし概念)を語りかけられても、それを語った者と共感することによって、意味が分かるようになってくる。

問題はいくつかある。今日人さんには悪いが、指摘させていただきたい。別に文句をつけるのではなく、どう問題を展開させてゆくかを探るためです。

(1)
まず、私は「霊能者に共感したくもない」という気持ちを持っている。「呪い?ただのけん玉じゃん」という常識を持っている。
そしてむしろ「あ…この霊能者はこのけん玉に呪いがかかっていると思い込んでいる…そういう人なんだな」と私なら思うだろう。
すなわち、けん玉に呪いがかかっていると思うようになるのでなく、霊能者に対して、この霊能者はけん玉に呪いがかかっていると思っているのだなと思うようになる。
意地悪してわざと触ってみて「なんともないですよ」と言いたくなる。

一方で、私がコップに入っている液体を飲もうとしたらおじさんから「おっとそれを飲むな!それは飲み物じゃない!飲むと死ぬぞ!水銀が入ってるから」と怒鳴られたら、事態は変わって来る。

「呪われたけん玉」と「毒入りの液体」に何の違いがあるというのか?本質的には違いはないのではないか?そう思われるだろう。
実はその液体には毒は入っておらずおじさんがそう思い込んでいるだけだということは十分にありえる。
それなのに私はその液体をあえて飲もうとは思わない。水銀という言葉の意味を、厳密な意味ではなくとにかく体内に入れたら危険なものとして、知っているからだ。
でも、私は「呪い」という言葉が危険なことを意味するということも分かっているのではないか?…

とりあえず2点。
・呪いの客観的存在を共感によって信じるのとは別に、共感せずに「あ、そういう人なんだ」と霊能者への見方が変わる場合というのもありえる。
・「呪い」という例は、「毒物」という例とは異なっている。

(2)
次に、呪いが見えて来るということについて。
例えば今の例では「そのひとつの同じけん玉」についてのみ「呪いがかけられている」との発言がなされている。
そこでそう言われた私がはっとして「なるほど!じゃあこの時計にも呪いがかけられてますね!」と悲痛な面持ちで霊能者に言えるようになったとしよう。
そこで霊能者に「いや、この時計は祝福されていますが?」と言われた場合、とりあえず2パターン考えられる。
・私が「これが呪いかあ」と思うにいたったものが、実は霊能者の言う「呪い」ではなかった。
・実は私は霊能者よりも霊力が高く、その霊力が覚醒したので、その霊能者には見えない高レベルな呪いも見ることができた。

例えば、赤ん坊がスリッパの裏を舐めているのを見て母親が「汚い!やめて!」と大声をあげるとしよう。(それでも赤ん坊はそういう行為をしばらく繰り返すのだが…)そして赤ん坊はじょじょに学習してゆき、そのスリッパではない別なスリッパの裏をも「汚い」と見なすようになる。すなわち、そのスリッパだけが汚いのではなく、あらゆるスリッパの裏が汚いと学ぶ。
もっと一般的に言えば、何が食べられ何が食べられないのかを学ぶことを考えてみてほしい。「食べられる」という性質は目に見えない。しかし私たちはほうれん草やイナゴの佃煮や豚肉の生姜焼きを食べられるものとして見る。だがイナゴの佃煮はどうしても食べることができないという人間もいる。仮にゴキブリの佃煮があるとして、これが安全保障付きだとしても、「よう食わん」と思う人はいる。

ところで、「そのけん玉には呪いがかけられているぞよ!」と言われて、『 あ ら ゆ る けん玉』に触ることができなくなったとしたら、それは霊能者の発言の意味を理解していないことになるだろう。そして一方、そのけん玉にのみ触れなくなったのであれば、それは「呪い」という言葉の意味を分かったからではなく、「そのけん玉」の扱い方を学んだに過ぎない。(霊能者がそう思い込んでいるだけだと私が思っているならば、「霊能者の前におけるそのけん玉の扱い方」を学んだに過ぎない。きわめて特殊な文脈を学んだことになる。)

指摘したのは次の点:
・私に見えてきた呪いというものは、霊能者に見えている呪いと同じだろうか?
・その例は、ひとつの特定のけん玉の使用法の学習例であり、呪いという言葉の学習ではないのではないか。
(この2目の指摘は、言葉の意味は一般的なものだという指摘です。)

(3)
ちょっと話は戻るのですが…
私が今日人さんのいう「河童」という"スラング"の意味が分かったのは、

>河童ってのは俺が遠野に行った土産の河童型の鉛筆。

という説明を聞いたからであって、今日人さんに共感したからではない…ということが頭に引っかかっていた。

ここでの指摘は、言葉の理解は共感によってではなく説明によってなされた、ということ。
問題は、でも説明できないことってあるよね、ということ。そこで霊能者の例に行くわけだが…

(4)
「おめえよ」
「なんだ」
「あれどうした」
「あれってなんだよ」
「河童だよ」
「リビングの机に飾ってあるさ」
「おめえんち机なんてあったか」
「俺んちの家具はかくれんぼが得意なんさ」
「まあなー」

>河童ってのは俺が遠野に行った土産の河童型の鉛筆。

私はこれを読んで「あ、今日人さんは遠野に行って河童型の鉛筆を買ってきたんだ」と分かり、私は勝手に「で、今日人さんはそれを自分のリビングの机に飾ってるんだ」と思い込んだ。「土産」と聞いて私は「記念として自分用に買って来るもの」だと思い込んだのだった。
私は最初「おめえよ」と話しかけたのは友人だと思い込んで、今日人さんが「リビングの机に飾ってあるさ」と答えたのだと思い込んでいた。

だから
>であいつんちはめっちゃ汚いんで、机が物に埋もれて見えなかったわけ。

という言葉が書き間違いだと思った。「いや、河童は今日人さんの机にあるんだろ!でもあいつんちにあるってどういうことだ?矛盾してるぞ」と。

だが読み返してみると…今日人さんが友人に河童を渡したのだということが分かる。
ここで私が読み飛ばしていた「土産」の意味が分かった。

私の今の実体験からの示唆としては…先の例で私が「じゃあこの時計にも呪いがかかってますね!」と言って霊能者に否定されたら、「この霊能者は低級だな、だってこの呪いが見えないんだから」と思う前に、霊能者の言っていることを整合的に理解できるようチャリティー精神を持つべきではないか…ということだ。

もうひとつ。

私が自分の「土産」という言葉に対する勘違いに気付いたのは、すなわち「土産」という言葉の意味を正しく理解したのは、共感したからではない。
どちらかというと、文脈を読んだからだ。

しかし私ははじめに「今日人さんが遠野に行って自分に河童型の鉛筆を買った」という誤った文脈で、その会話を読んでいた。
間違った文脈に企投して読むと、文章そのものがどこかで「間違ってるじゃん」という風に映ってくる。

もちろんこの誤りが露呈しないこともありえる。
例えば「机が見えない」という話がカットされて、会話が「河童だよ」で終わっていたとしたら、私は河童が今日人さんの家にあると思って読んでもその会話文はなんら矛盾を持たない。すなわち、私は河童がどこにあるのかを誤解したままだろう。

さて、正しいコンテキストにもとづいて、発想を逆転させて「土産はいま友人のもとにある!」という文脈のもとに、私は会話を整合的に読めるようになった。
(今日人さんからすれば、「いや、最初からそうやって書いてるじゃん」と思われると思いますが、「最初からそう言ってんじゃん」ということをずっと後になってから「あ、そういうことね」と言ってくるノロマもいるのです。語る人と、聞く人との間には、非常に大きなギャップがあります。)

この(4)にて強調したいのは、「整合性」というワードです。



…とりあえず指摘のみに留めます。

2年前 No.72

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>「価値」→主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価


「that which a subject considers necessary to attain his end」 という意味ですよね。
「指定」も「命題」も「判断」も「評価」も抜けてますが。



自分が書いた言葉を定型から崩すことができないタイプの人間でしょう。
そう書いてしまったのだから、その書かれた言葉を基準にしましょうという感じで、そして周りに労力を取らせるタイプの人間です。

一方言語は、そうなってしまったのだから従おうというものの集合です。
話すという事柄を「はなす」と発音することに根拠はない。(ソシュール)
別に私たちは赤色が「あか」と呼ばれるのは赤色が「あ」と発音したときの感覚に近いからだ(デタラメ)という理由をいちいち与えられて言葉を学習してきたのではない。
言語は、前の世代に使われていたものを理由なく受け入れることによって、伝承される。

話すを「はなす」と発音する必然性はないのだが、しかし「話す」は話すというシニフィエを持っているというのは勝手に変えることができない。
その意味では、そのシニフィエとシニフィアンとの結合は必然的である。
それでもやはり、根拠がないのだから、「話す」というシーニュが話すというシニフィエを持っているのは恣意的である。
偶然「そういうことに決まっている」となってしまっているのが、言語だ。偶然なのに決まっているのだ。

無根拠だからむしろ変えられない。
もし根拠があるならば、その根拠にもとづいてシニフィアンを変えるなどということができるかもしれないが、そもそもそうなっていない。

価値の定義の根拠は、あるはずなんだよ。
すなわち価値にまつわる何らかの経験がもとになっている。それを具体例で出してもらえば、定義の文章を校正できる。

例えば、「紙を切るという目的を達成しようというときにはハサミが価値を持つ」という命題を考えてみよう。
これは具体的によく分かると思うが、「…のときハサミが価値を持つ」ってあまり言わないよね、と思うだろう。
「紙を切りたいなら、ハサミを使うといいよ」とかなら、まだ分かる。
これをもういっかい言い換えると
「主体が紙を切りたいという状況におかれたならば、ハサミというものが使うと善いものとして、すなわち実践的な善として示されてくる」などと言えるだろう。
これを主体を主語にして言い換えれば
「主体が紙を切るという目的を設定するとき、ハサミを使うのが実践的善だと判断する」となるだろう。

それでもやはり「価値」というのは「評価の中で判断されたもの」であって「評価の結果」ではないんだよな。



価値って善さじゃん、善さって目的によって変わってくるじゃん、じゃあ目的を共有しないと何が善いかっていうのも共有できないじゃん、だから「何が良いか」ということをそのまま共有することは難しくて、いったん目的というものを共有してから「何が良いか」っていうのを共有した方が、急がば回れで有効なんだよ。

「主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価」というおかしい日本語も同様だよ。
この言葉で何が言いたいのかっていうのが分かれば、この言葉の中の「指定した命題」とか「必要と判断」とかいう言葉の意味も分かってくる。

そして逆に、この言葉で何が言いたいのか(この言葉がこのような形でこの場に提供された根拠)が判明したら、むしろこの言葉がこの形を保つことの必然性はなくなるんだよ。
その言わんとすることにより適合するように、もっと良く私が言い換えてやろう…そういう人間が出て来る。
逆に言うとね、何が言いたいのかを隠すことによって、根拠を隠すことによって、この言葉がこの形であらねばならないというような偶然的必然性は守られる。
結局何が言いたいのか(目的)を隠すことで、その目的のために出て来た手段(ここでは価値の定義)が「不当な不変性」を得る。

黄色があの色であることの根拠がなく、それゆえにどうしても黄色はあの色でなければならない。
(黄色がある瞬間に赤色に変わることを想像しても、この文章の中に黄色とか赤色とかが含まれているかぎり、そういった可能性を言い表わすことはできない。或る瞬間から黄色というあの色を黄色として知覚する人類が消滅し、同時にその色を赤色として知覚する人類が生れると想像したとしても、そもそもこの文章のなかに黄色とか赤色とかが含まれており、しかもこのシーニュがあの色を意味しなければそもそもこの想定を言い表わす文章も意味を持たなくなる。)

これを利用すれば…根拠を隠せば隠すほど、定義はよく分からない不変性を持ち始める。
もちろん、こういう隠蔽はすぐにばれる。
あと、恋愛学者さんは別に根拠を隠してはいないということも弁じておきたい。恋愛学者さんは質問に答えているのだ。

しかし、根拠を示せばいいんだよ。
根拠を示せば、どういう事情で定義がそうなったのか分かる。(定義の正当性が判明する)
それと同時に、その定義がダメな定義だということも露呈し、定義はその体裁(その文章構成であることの必然性)を喪失する。

根拠を示せば定義は共有されうるものとなるが、共有されるがゆえに、定義は発案者の手を離れて批判にさらされ、もとの形を失う。
そうすると、発案者は発案者としての特権を失う。

>恋愛世界観のなかでしか通用しない言語は僕には話せないんです。

という皮肉も、こういう事情からして発言されていると、私は解する。

「存在主義」も同様。定義の固定化によってありもしない不当な優越性を確保しようとしている。

2年前 No.73

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>73
>>根拠を示せばいいんだよ。

めんどい。
興味があるのなら、都度聞いてくれ。

あと、慣れていないから英語は分からない。

2年前 No.74

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

>>72
てじさんの言葉は勉強になるなあ(たぶん)!
あとでゆっくり読ませていただきます。

2年前 No.75

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>48

>でもーなんか昔昔の大昔のホメロス?とかって白黒赤しか色が出てこないってあれ都市伝説かしらん。なんか色の分類が違う世界じゃ、色が変わったって認識する程度も全然違うらしいじゃん。もし白黒赤とかって世界ならいくら緑説明しても難しいよね。


これの具体例は『ソシュールを読む』で丸山圭三郎が紹介しているカラー(Culler)の議論において示されている。(講談社学術文庫135頁〜)

〈カラーの議論〉

カラーは、英語の色を異文化の人間に教えるというケースを紹介している。
対象者は「スペクトルの色を二色…にしか区切らないゲシュタルトの持主」である「リベリヤの一言語であるバッサ語を母国語とする人」である。
この人に英語の色を一気に教えても効果はないので、まずはブラウン(brown)という色だけを教えることにする。
まずはこの人にブラウン色のものを100個見せます。
「これはブラウンだ」「これもブラウンだ」とノートとかカバンとか万年筆を見せる。
そして覚えたな〜と思ったら、彼を別室に連れて行って、ちゃんと覚えたかどうかテストしてみる。
色々な色のものを並べて、「ここからブラウン色のものを取り出してください」と指示してみる。
しかし、バッサ語を喋る人は、どうしてもブラウン色のものを取り出せない。
あれ?…じゃあ今度はブラウン色のものを500見せるぞ!
それでもやはりうまくいかない。
そこでカラーは結論づける。
彼にブラウンだけを示しても彼はブラウンを学ばない。ブラウンとレッド、ブラウンとイエロー、ブラウンとブラックとの間の区別を教えるまでは、彼はブラウンを学ばない。
すなわち、ブラウンとその他の色(ブラウンでないもの)との関係を学んではじめて、彼はその関係におけるブラウン色を学習するだろう。
「ブラウンはなんらかの本質的な性質によって画定される独立の概念ではなくて、色名語の体系中の一辞項であり、これを画定する他の事項との関係によって画定される」。
「公理はその体系のなかでしか意味をなさない」( >>61 )というのもこれと同じ事情だが、100個ブラウン色を教えられてもブラウンが分からないというのは驚きだ。

カラーはここで「記号は恣意的であり、それはそれが属する言語に特有な仕方で連続体を分割した結果であるから、われわれは記号を自律的な存在体として取扱うことはできないのであって、これを体系の部分として見なければならないのだ」と言う。

私(日本語話者)は、バッサ語を喋っている人の視野にはたしかに茶色が見えているはずだ、見えているのにそれを他の色から際立たせることができないのだ…と言いたい。
すなわち、自然的にはバッサ語話者にも茶色が存在しているが、文化的(語彙的)には茶色が存在していない…と言いたくなる。
すなわち、バッサ語を喋る人の視覚能力は即自的な茶色イメージに対して不感症であるのではない…と言いたくなる。これはもちろんそうだろう。
しかし、はたして彼にも自然的な意味では茶色が存在していると…言えるのかどうか…という話だ。
もちろん茶色が見えているに決まっている。だが「茶色が見えているね」と言っているのは日本語話者の私だ。…

例えば全てが赤色に見える病気の人間が存在しているとしよう。
ただし彼でも明暗は識別できるとしよう。
このとき彼に緑色や黄色を教えることはできるかできないか。
このとき彼がそれらを区別することができさえすれば、彼は緑色も黄色もそして赤色さえも識別できるだろう。そして彼が私たちには知覚できない微妙な差異を感じ取ってそういう違いを見分けるということがありえるだろう。…そう言いたくなる。カンディンスキーは絵画によって音を表現しようとした。…逆もまた考えられるだろう。音を聞いて色を感じるということがありえる。同様に、全てが赤色の中に何らかの感覚の違いを見出して、それを緑や青と呼ぶことがありえるだろう。…そう言いたくなる。
だが、そもそも「全てが赤色に見える」という想定は、この病気の彼自身の自己自身の在り方を正確に表したものなのだろうか。

同じことを別な例で、ピタゴラスの珍説で言ってみよう。
動いている物体は音を発している。そうだとすればこの惑星も音を発しているはずであるし、太陽系の様々な惑星も音を発しているはずだ。そして太陽系のこれらの星たちは共にハーモニー(ハルモニア)を奏でているのだ。…そして俺にはこのハーモニーが聞こえる。お前らには聞こえないだろうけどな。…こういう説である。
これで考えれば、私たちは常に惑星規模の大轟音に晒されているはずだ。この大轟音の中になるちっぽけな音を、私たちは聞き分けているのだ。
全てがまっ赤になっている中で、この赤世界の中のちっぽけな差異を感じ取って、健常者と同様に赤視覚病の人も色を識別できるということがありえる。

このハルモニアは宇宙規模かつ神秘的なので、私たちには想像しにくい。もっと身近な例を言おう。
耳に指を突っ込むと「ゴゴゴゴゴゴ」と何か音が聞こえる。…血流の音である。
ところで血流は全身に流れており、耳朶の近くでも、鼓膜のすぐ脇でも、流れているはずである。
…なぜこの轟音が私には(あなたには)聞こえないのか。
…という議論が巷にはある。

他にも、盲目であっても音を発してその反響を聞き取って障害物を避けたり狭い路地を歩いたりできる人物も存在する。

かなり話が逸れるが、ここから想像できることは:

私たちの大多数が非常に多くの(本来は)可能な識別能力を眠らせたままなのではないか…ということだ。

例えば音楽は12音階で奏でられるのが普通である。12音階より細かい音階を弾き分けて(吹き分けて)も、それらの微妙な差異は12音階のどれかに吸収されてしまう。
12音階の間を聞き分ける訓練をすることは可能だろう。そしてその新しい音分節のゲシュタルトにもとづいた音楽が可能だろう。だが、12音階で音楽を聞く人間がそれを聞いても、それは「ちょっと違和感がある」「しっかり調律できていない」12音階の音楽にしか聞こえないだろう。

これと同じことが、哲学の議論にも言えるかもしれない。

ドイツ観念論やハイデガーを読み慣れると、そんな感じをぼんやりと覚える。

2年前 No.76

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

わたしの話はなぜ「通じない」のか?

それは私の話を聞く人が「なぜいまここでそういう発言をするのか」に思い至らないからだ。すなわち聞き手が発言の理由に思い当たらないからだ。

なぜ私の話が通じないか?

それは、私の話のうちに欠如があるからだ:

すなわち、聞き手に発言の由来を思い当たらせるに足るだけの明白な話題の提示が欠けている。

私の話が通じないのは、『急に話しかけられたらすぐには言葉の意味が分からない』という現象に近い。この場合には、あまりにも急すぎて、話題に思い当たるまでの時間が欠けているのである。








あともうひとつ思い当たる理由がある。

私の文章が難解だから…という理由だ。

2年前 No.77

百理 ★5z6bVAmgS3_dB9

音痴の人は、ドレミファソラシド♪だけで音痴と分かります。

2年前 No.78

百理 ★5z6bVAmgS3_dB9

ドの音はきちんと定義されています。他の音も定義されています。

言葉の意味(意識の中味)の定義が解れば文章は理解できます。

言葉の定義が解らない人は文章の音痴です・・

2年前 No.79

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

話題提示とは、聞き手(読み手)が、その話に入って来れるように、何の話なのかを、明らかにすることだ。

これは、或る話題に注意を注がせることによってなされる。

すなわち、相手が「今は何々の話だ」という風に待機できる状態にさせることによって、それはなされる。

この話題提示は、いまその場で起こっている出来事を、それが起こっていることの際立った徴へと注意喚起することによって示すことに似ている。

例えば、部屋から漏れている声に注意を仕向けることによって、その部屋の中で歌のレッスンがなされているということを示すのに似ている。

この場合、例えば「聞いてごらん」と言うだけで、そこで歌の練習がなされているという事態が理解される場合もある。

このとき、起こっている事態そのものへの指示によって、聞き手が事態を察したのではない。
起こっている事態のひとつの徴を指摘することによって、聞き手が事態を察知することができるように仕向けたのである。

同じように話題提示も、聞き手の意識に直接働きかけてそれを話題そのものへと向けさせることではないし、
また、話題そのものを直接示すことでもない。

話題提示は、話題となっている事態を指す言葉を言うことによってなされるか、その事態の徴を指す言葉を言うことによってなされる。
すなわち話題提示とは、実際には、話題が何であるかを示唆する徴を見せることである。

このようなサインをきっかけに、聞き手は何が話題になるかについて準備する。

用意していないときに急に話しかけると、聞き返されることが多い。

言葉はそれだけで相手の心に意味を打ち込むものではなく、相手に聞かれなければ通じない。

ただし、話題提示のためのサインで準備した聞き手が、そこで自分が予想した話題からは出て来ないような発言を聞かされた場合、その聞き手は困惑する。

ここから分かるのは、予想するよう仕向けた話題と、その話題の話として話される話が、対応していなければ、聞き手は困惑するということだ。

示された話題(実際には、相手のサインをもとに自分が想定した話題)と語られる内容が合っていないとき、聞き手は:
(1)自分の話題想定が間違っていたと気付いて、想定の路線を変更する。
(2)相手の頭がおかしいと思う。
(3)思考停止する。

この(3)の思考停止状態というのは、発言だけが与えられたまま、その発言が出て来た由来は与えられていない間の時間のことである。
それは「え…?」とか「ん…?」とかいうような、困惑した時間である。
そしてこの「え…?」や「ん…?」という発言には
(a)疑問・不思議・不審
(b)無内容
(c)聞き返し
というような要素がある。

この疑念は、与えられた発言にとっての、その発言が出て来た由来についての、問いの形式になる以前の問いである。
この疑念は自分と相手に向けられ、自分には聞き方の変更を要請し、相手にはもう一度言い直すことを要請する。
この無内容な疑念は、言い間違いの可能性ないし聞き間違いの可能性に身を置かされることである。

2年前 No.80

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

・話題提示は、話題となっている事柄を直接目の前に差し出すようにしてはなされない。
・話題提示とは、相手が特定の方向に意識を向けるように仕向けるべく、標識を提示することである。
・聞き手が標識を提示されて特定の方向に意識を向けて次の言葉を待っていたら、その方向からは出て来るはずのない言葉が与えられたとき、聞き手は困惑する。
・困惑は、発言と、発言の由来とが、合っていないなという感情である。

この「合っていない」という困惑状態になるためには、或る特定の発言と、或る特定の話題との、適合性を学んでいなければならない。

聞き手は、基本的には、話題の方から発言の方へと話を理解してゆく。
ただし聞き手がそもそも話題の方へと注意を向けるのは、多くの場合、特定の発言によってである。(或いは発言でなくとも、ゆびさしや図などによる示唆でもよい。)

この事情は話し手についても同様である。
話し手は、話題の方から発言を引き出してくる。
そして話し手の場合には、自分が意識している話題から「自分が意識していない話題から出てくる発言」を話すということはない。
ただし、自分が意識している話題から「自分が意識している話題から通常は出て来ることのない語彙」で話すということはありえる。
例えば暗喩によって語ることなどはある。

なぜ話し手は、自分の話している話題と、自分の話している発言とのあいだの、適合性について話し間違えることがないのか?
なぜなら、そもそもその発言が、そのとき意識されている話題の方から出て来たものであるからだ。
つまり…Aから出て来たBについて、それがAから出て来たかどうかについて間違えるはずがないのだ。
発言Bは「Aから出て来たB」として出て来ており、単なる「B」としては出て来ていない。

しかし聞き手にとっては、与えられたBという発言は、仮にとっさに「このBはAから出たものだ」と思いつくにしても、はじめから「Aから出て来たものとしてのB」としては与えられない。したがって、この与えられた「B」について、「これはCから出て来た」とかいう風に間違える可能性がある。

この話し手の「間違える可能性が端的にない」という事態はどういうものか?

これは…言われた発言がそもそも意識された話題から出て来た…ということである。

これは…なされた動作がやろうとした行為から出て来た…ということと同じである。
ただし行為の場合は、「話し間違い」のときとは違って、言い訳がしづらい。
助けようと思って突き飛ばしてしまったとき…突き飛ばすという動作は助けようという行為の意図から出て来たものであるが、これは「言い直す」ような仕方で撤回できるものではない。なぜならこの場合、事態は、その事態を何だと考えるかに関係なく、もう起こってしまっているからだ。
その動作が攻撃ではなかったということは納得してもらえる可能性があるにしても、その動作が突き飛ばす動作ではなかったということは納得できない。それを納得するためには、因果性の発想を失わなければならないだろう。つまり、手を動かす動作と、動かされた身体との間には何の関係もないと実感できなければならないだろう。

しかし本人からすれば、その動作は「助けようとした動作」でありつづける。
しかしこういう場合、本人にとってその動作がどういう意味を持っていたかということが、絶対的な免罪符になりえることはない。

ここでは事態は解釈の余地なく(解釈の暇なく)起こってしまっている。
このような出来事は、誤解を招く言い方をするならば、「無時間的」である。

実際に移動したものが、その移動それ自体について、移動し間違えるということはない。
移動し間違えるということが起こるのは、移動の仕方を間違えるか、移動する先を間違えるか、或いは移動させる物を間違えるか…という場合であって、この移動が移動そのものとして間違いだということはありえない。

発言と話題との適合性は、その話題が何であるかということそれ自体である。

間違って椅子を飲むということはありえないし、「自分の頭をかじる」ことはできない。
しかしこの不可能性は、私が椅子は何であるかを知っているから100%それを飲むのを避けられるだとか、私が自分の頭が何であるかを認識しているから100%それをかじろうとは思わないだとかいう意味ではない。

ではなぜ「その話題が何であるかということそれ自体」と言うのか。

それは「何であるかについての認識」すなわち定義や本質を、間違える可能性が端的に無い適合性として捉え直すためである。

2年前 No.81

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>81

話題と発言とのあいだの適合性は、発言において話題を間違える可能性が端的に無いという、紛れなさである。
しかし明らかに、この適合性は学習されたものだ。
そしてこの学習を間違える可能性というのはある。
同じく、間違った知識を修正することもできる。

2年前 No.82

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>81

「空気は、それがなくなれば生きてゆけなくなるものである。」
「じゃあ、この空気を除去する装置で実験してみよう」

「この装置を使って空気を除去したが、しかし私たちは生きているぞ」
「ということは、『空気は、それがなくなれば生きてゆけなくなるものである』という定義は間違いだったんだ!」
「いや、そうではなく、その装置を使って除去したものが、空気ではなかったのだ。その装置は空気とは別なものを除去したのだ」
「いや、あるいは、その装置は空気を『除去した』と言ったが、実は空気はその量が減らされただけであって『無くなった』のではないのだ」

ふつうに考えれば、その装置が『空気の除去』に失敗したのである。
その装置が空気とは別なものを除去したにせよ、空気に対して「除去」とは別な作用をしたにせよ、『空気の除去』の失敗には変わりない。

しかし強引に「空気は、この装置によって除去されるもののことだ!」と空気を再定義する人からすれば…

この装置によって除去されないものなど空気ではない。
ところで、この装置は作動した、すなわち、空気は除去された。
しかし、私たちは生きている。
ということは、「空気は、それがなくなれば生きてゆけなくなるものである」という定義は間違いだ。

という論理になる。

その装置が発明されるまでは、空気は曖昧な仕方でしか定義されていなかった。
その装置が発明された以後は、その装置によって空気を精確に定義することができるようになった。
それによって「空気がなければ生きていけない」という間違った常識が覆った…ということだ。

2年前 No.83

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>83

だが、「それがなければ生きてゆけないもの」と「或る装置によって除去されるもの」は同じものではない。
すなわちその常識転覆によって、空気についての間違った認識が、空気についての正しい認識に変ったわけではない。
私たちが何を「空気」と呼ぶことにするかの、約束が変えられようとしているのだ。

「空気」という名称を「或る特定の装置によって除去されるもの」に限定するにしても、
それまで「空気」と呼ばれてきた「それがなければ生きてゆけないものとしての空気」が消失するわけではない。

「これまで『空気』と呼ばれてきたものは、厳密な意味での『空気』と、生きることを可能にしている『空中エレメント』をごちゃ混ぜにしたものだった。」

こうなったとき、「空気」という言葉の意味が変化したわけではない。
「空気」という記号の「価値」が変わったのだ。
前の適合性と後の適合性はぜんぜん違うものである。

というのも、以前までは紛れもなく空気だったものが、それ以降、紛らわしいものになったから。
ただしこの変化は「以前までの語用法は紛らわしかったが、今度からは紛らわしくなくなった」という風にして起こる。
これによって、紛れもない状態から紛らわしい状態に転じたものは再び紛れもない状態へと戻ってゆく。

もしそうだとしたら…
最初の方の紛れもない空気も、最初は紛らわしいものだった可能性がある。
その紛らわしさも、再定義によって徐々に、紛らわしくないものに転じていったのだろう。

しかしいずれにせよ、そのもっと最初の空気というのは、もはや完全に忘れ去られている。

空気が特定の装置によって定義された後になっては、元々空気と呼ばれていたものは「空気+空中エレメント」として捉えられるようになる。
しかしこの後の「空気」がそれ自体で紛れもなく空気を意味するようになった後では、空気と空中エレメントの結合の必然性は忘れられてゆく。
なぜなら、空中エレメントを考え合わせずとも、空気だけで十分に独立した実体でありうるからだ。
或る実体が別な性質へと転じたのではなく、別な実体が誕生したのだ。
この新実体の誕生は、新しい用語法の登場でもある。

ところでこの例の場合、
(1)もはや忘れられた元々の空気(という記号)
(2)生命をもとにして考えられた第二の空気(という記号)
(3)特定の装置をもとにして定義された第三の空気(という記号)
という価値変遷の歴史がある。

この変遷によって得られたのは精確さである。
この変遷によって失われたのは単純さである。

2年前 No.84

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>81

適合(Stimmen)が問題だ。

何かが適合すると言われる場合、適合するものと、それに合っているものと、2つ必要である。だが、その2つのものは何において適合するというのか?そう、適合が起こるためには、最低でも、2つのものと、1つの適合基準という、3つのものが必要なのだ。ところで、その基準にされるものは、どのようにして選ばれるのか?つまり、その基準が2つの適合対象と適合するということを測るための基準はどこから取られるのか?ところで、この基準が何かしらのところから取られるとしても、この基準選択が今の適合(すなわち2つのものと1つの基準との間での適合)と適合するかどうかを測るための尺度は…どこから取られてくるのか?以下無限に続く。

端的に言おう。
適合とは、適合するものと適合の基準とのあいだの適合に他ならない。

すなわち、真に適合するのは、任意の対象と任意の対象ではなく、或る基準(Mass)と、それに適合するものと、であるのだ。
すなわち、或る基準に適うものが有るということ自体が適合なのである。
すなわち、適合は、或るものと或るものが何かにおいて合致してはじめて成立するものなのではない。
適合は、そもそもその「何かにおいて」ということが起こることそれ自体である。

適合は、不適合の可能性そのものである。

或いは、適合を可能にするものが、適合と同時に不適合を可能にしている。

適合を可能にするものと、何かの適合および何かの不適合は、別である。

では何が適合を可能にしているのか?

そもそも適合が可能であるとはどういうことなのか?

そして、基準と真に適合するとされる、適合者というのは、いったい何なのか?

そして、このとき基準とは何なのか?

そもそもの話に戻れば分かる。「発言と話題との適合性は、その話題が何であるかということそれ自体である。」そして、発言と話題が適合しているときには「間違える可能性が端的に無い」のだ。適合者は発言であり、適合の基準は話題である。適合は、発言と話題との間における関係である。「発言」という言葉と、「話題」という言葉と両者は、それ自体が話的な言葉であり論的な言葉であるから、それらの適合は、発言と『事実』との適合とも違うものである。

だが、間違える可能性が端的に無いというのはどのような状況なのだろうか?

それは、適合が話者を捉えて話さない限り話者は話題について語るのだがその発言が適合を完全に表に出すことがないという状況である。

表に出され、議題として提示された話題は、「間違える可能性が端的に無い」という状況とはほど遠い。むしろそういう議論においては、間違えているかそれとも間違えていないかという発言の正しさこそが問題になるのであって、つまり「端的に間違える可能性が有る」という状況なのである。では、間違える可能性が端的に無い議論というのは、議論の余地が無い議論なのであろうか?すなわち、争うまでもない自明な普遍的共通事項なのか?いや、はっきり言って、間違える可能性が端的に無い議論など存在しない。そういう話し方は、「間違える可能性が端的に無い適合性」とも適合せず、議論というものとも適合しない。

議論とは何か?

そして、議論とは決して相容れないものとしての、本来的適合性とは何のことか?

議論では、提示された問題についてあれこれと語りながら、その発言の正しさを問題にする。
発言の正しさは、事実に合っているか、現在の話に添うものとなっているか(話を履き違えていないか)、相手からの発言に対して適切な応じ方をしているか等によって測られる。議論ではまさしく発言の話題との適合が問題になっている。

しかしこれが問題になりうるということは、話題と発言との解離があり得るということである。すなわち、今話題になっているものとは別なものを話してしまうことがあり得るということである。しかし、自分がいま話していることとは別なことを話してしまうなどということがあり得るのか?あり得る。例えば、何のことを話しているのか分からないにも関わらず、或る特定の定まった形の発言を繰り返す場合である。しかし、このときにはもう「自分がいま話していること」がまだ残続しているかどうかさえ疑問である。

間違える可能性が端的に無い適合とは、話題を見据えることだ。話題から眼を離さないことが、端的な適合それ自体である。

相手が話題から一切眼を逸らしていないと見なして相手の話を聞くことは、相手の言葉を(それがどれだけ互いに離れて異質なものに思えても)整合的になるように努力して解意することである。

整合は適合に基づく。整合的であれば内容がどんなであっても正しいわけがなく、反対に、内容が適合的であれば見かけ上の不整合には眼をつぶってもよいだろう。ただし、このような不整合を自分に許すというのは、怠惰でしかない。そもそも、適合的であろうと望むならば、整合的に語ろうとするはずだ。適合的であろうと望みながら、自らの不整合を許すということは、当初の意志に矛盾している。

しかし、話題が見かけ上の不整合をものともしないものであったときは?すなわち、人間がどれだけ不整合に語ってもなおその適合性を保つほど適合的なものがあるとすれば?そしてむしろ、単に整合的に見えるように語るよりも、遠く遠く離れたものこそを適合的に見せるような語り方に親和するような話題があるとしたら?

このような話し方は、逆説的である。

逆説は言葉の整合性とは異なるもの…話題と発言との適合性を示す。

2年前 No.85

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

常套句(form)が会話の成立をスムーズにする。



「イデアこそが本当に存在するのであって、感性的なものは本当は存在しない。」

これは実に分かりやすい表現だ。この言葉の意味は通じると思う。

そして

「ということは、いま見ているこのパソコンも、いま座っているこの椅子も、本当は存在していないんですね!?」
「その通り」

と会話が成り立つだろう。



様式(form)は、実体を参照しないまま処理することを可能にする。


だがこの常套句を誰が最初につくったのか。

常套句の連関を、事象を見据えつつ、接合的に組み立てた者が存在する。
事態に則るようにうまく配分され組み立てられた一群の言葉が存在する。
そういう組み立てる努力の結果が、一連の常套句となっている。



そして様式(form)は、実体参照の省略をうながすゆえに、その様式で言及されていない諸事項を見過ごさせる危険がある。
事象を見据えつつ自ら接合的に組み立てた者は見過ごしていなかったが、しかし彼が様式(form)にまで反映させていなかった諸事項が見過ごされる。

この創設者の言葉の後先が見過ごされる。
この創設者の前提が見過ごされ、この創設者がこれから語らんとする諸事項が禁じられる。
常套句は固定され、それが前提とすべきものとなり、それが創設者自身のこれからの論述をも限定すべきものとして見られることになる。





ダマし絵を見て、平面の絵が飛び出て見えるとき、「しかし理屈の上では飛び出していない。平面だ」と言える。
このとき私は、そう見えざるをえない見え方を否定して、理屈を優先させる。
理屈というのは、「これは平面なのだから、立体的ではない」というシンプルなものだ。
すなわち、実際に見えているものよりも、その見えているものが何であるかを、判断の基準として、優先させるのだ。
ここでは、見た通りの印象と、何であると見られたかの本質が、対立させられている。

見えるがままの見えは、自分ではコントロールしがたい。
ダマし絵が飛び出して見えるように見えざるをえないという必然性は、「これは平面である」という理屈によって、撤退させられる。
「これは何々だ」という正体把握は、コントロールできない受動性を放逐して、自分の正体把捉をそれよりも優先させる。

判断の基準を、視覚ではなく、その視覚において自分が看取した事象に取ることが、ここで起こっている。
しかもその看取された事象は、立体性ではなく平面性が選択されている。
ここでは、見たときに迫ってくる印象ではなく、前もって企図された正体が、基準となっている。最初はダマされていたが、よくよく確かめてみたら実はどうなっているかが分かった場合であっても、やはりそれが判明した後でも見える見かけは視覚的に変わらない。すなわち、最初はダマされて後から事態が判明した場合でも、ダマし絵を見てそれがダマし絵だと判断するときには、基準が前もって看取された事態そのもの(ダマし絵であるという事態)である。

そもそも、その立体に見える見かけが実は平面であると確認するために、例えば表面を撫でてみるという発想が生れるのは、予めそれが実は平面だと思ってのことである。
この表面を撫でてみるという行為は、それが騙し絵であるという思いと適合している。

そして触れてみると、それは「飛び出して見えるダマし絵に見せかけた本当の立体的オブジェ」であったと判明するかもしれない。
しかしこのとき、「いや、これは触れてみると立体的に思えるが、本当は立体に見せかけた平面だ」と言うことはできない。
しかし、触覚感覚が視覚感覚よりも優先されたということではない。
触れてみたことによって「それが何であるか」についての看取が変わったから、もはやそう言うことはできないのだ。

すなわち、そのような正体把捉は、自ら企図したものではなく、正体判明の明るさのうちに入り込まされていることである。
この正体判明によってその正体に適合的な行為をする発想が生れるということが、適合という出来事である。
適合は、行為の選択ではなく、基準の選択ではなく、ものの正体の判明である。

2年前 No.86

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

てじさん

感覚に誤差があるのは・・意識が伝達のせいだと思いませんか?

2年前 No.87

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

「どうして言葉の意味が通じるのか」

すでにこの問いには、「言葉の意味は通じる」という前提が置かれている。
そこで問いをより根本に移すために、「そもそも言葉の意味は通じうるのか」という問いを立てる。
この問いは、最初の問いを問うにあたって、まずもって検討されねばならない問いである。
私たちは何をもって言葉の意味が通じるとするのか。
言葉の意味とは何か。
言葉と意味は分離しうるのか。

たとえば、「とぅめんこ」という言葉は一見意味のない言葉である。
しかしここで、私を怒らせた異邦人が、両手を合わせて申し訳なさそうに「とぅめんこ」を連呼した場合、その異邦人の切実さから、私は謝られていることを理解する。
少なくとも、相手に謝罪の念があると捉える。

この具体的状況を振る舞いを含む広義の「文脈」と捉えれば、「とぅめんこ」の意味は、文脈において決定されたことになる。

一方で、実はこの異邦人は、私の怒りを見て、何かに憑りつかれたと思い、悪霊払いの意味で「とぅめんこ」を連呼していたとすれば、私は「とぅめんこ」の意味を誤解していたことになる。

このとき、まだ「とぅめんこ」は両者間で分裂している。

では、どのタイミングで「とぅめんこ」が双方向的な意味を確定するのか。
この問いに、言葉の意味が通じうるか否かの一切が懸かっている。

けだし、相手の応答の手ごたえにおいて、言葉の意味が決定するとすれば、厳密には、双方向的な意味の確定はありえないのではないか。

異邦人が「とぅめんこ」を連呼することによって、私は謝られたと思い、怒りを鎮めるが、その私の応答を見て、異邦人は悪霊が去ったと捉える。
その異邦人の安堵する姿を見て、私は一層、「とぅめんこ」が謝罪であるという確信が強まる。
こうして、相手の応答によって、「とぅめんこ」の意味は確定するも、厳密には、誤解の生じる事態がありうる。

しかし、そのように考えると、そもそも相互理解というものの一切がありえないことになり、言葉の意味は全く通じておらず、私が勝手に通じていると勘違いして、独我論的な世界に放置されることになる。

この問題が生じるのは、この具体例に、未だ決定的な状況が欠けているからである。
その決定的な状況とは、「第三者」である。
「とぅめんこ」の意味は両者間で誤解されているが、その誤解を認識し、正しうるのは、その状況を俯瞰的に捉えることのできるもののみである。
言い方を変えれば、「とぅめんこ」の意味は第三者によって公共性を獲得する。

この呼びかけと応答の対話とそれを俯瞰する第三者、かつその第三者によって意味が一般性を獲得する、そういった構図は弁証法特有のものであり、言葉の意味が通じうるか否かという問いは、弁証法において通じうると答えることができる。
けだし、この俯瞰する第三者を排除する考えは、いまだ一般性を獲得しない言語空間で孤立する実存を生むことになる。
しかし、この実存が孤独から脱しうるには、言葉が欠かせない。
それは言葉の意味決定にすでに、第三者という条件が含まれていることに由来する。

このように、前提から問うことによって、最初の問いに対する答えも必然的に浮き彫りになってくる。
すなわち、言葉の意味が通じるという事態は、その原初においては、対話のうちではなく、必ず第三者、もっと言えば社会性を必要とする。

2年前 No.88

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

 現代を生きる私たちが日常使用している言語は、ただのツールなのだろうか。用件を伝えたり、冗談を言い合ったり、愛を囁いたり、それだけが言語の果たす役割なのだろうか。私たちの世代は震災という大きな傷を経験している。私は間接的にしかそれを経験していないが、被災地では、物質的な支えもさることながら、言葉による精神的な支えも求められたと聞いている。そこでは言語はただのツールに終わることなく、生きる糧として積極的に役割を果たしていた。言語にはときに、それによって人が生きる拠り所となる大きな意味も与えられることがある。言語には生々しい側面がある。そこには無機質な科学的言語からはあまり感じられない、生き生きとした側面があり、そこから私たちは日々を営む活力を得るのである。
 では、言語がそのように、誰かの生きる糧となるのは、どんなときだろうか。思いやりのある一言、共に嘆き悲しむ者がここにもいることを告げる言葉はどのようにして生まれるのだろうか。そういった言葉のすべてに共通するものはいったいなんだろうか。
 私たちは他者の絶望に胸を痛めることができる。心から同情し、自分に何かできることはないかと自問することができる。そこには純粋な他者への祈りがあり、実践的なあらゆる行為の根底にある、純粋な行為とも呼ぶべきものがある。言語がこの祈りを起点として生まれるとき、それは誰かの心へ響くかけがえのない表情を帯びることになるのではないだろうか。誰かの生きる糧となるような言葉とはこのような祈りを起点として語られたものなのではないだろうか。
 日常を生きる私たちにとって、言葉はしばしば軽く見られがちである。そこにはときに暴言というかたちで誰かを傷つけたり、他者を軽んじるような砕けた表現がガラスのように突き刺さった言葉があったりする。言葉が軽視されがちな時代にあって、この祈りを起点とした言語を強く主張することは、もう一度、他者との関係を見直そうと促すことに等しい。

1年前 No.89

宿題 ★hxYn2UbX46_a2e

伝達という方法以外に意識を感じる方法が無いのでしょうか?

1年前 No.90

俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E

うどん粉さんは、社会性というよりも全てを俯瞰して見ることのできる全知の神の存在を必要とする、と言うべきじゃないのかなぁ?

その第三者だって誤解しているかもしれないし、第三者の第三者、第三者の第三者の第三者以下同様。
とすれば、どこまでいっても言葉の意味決定はなされず、一般性(公共性)も獲得されない。

だから、それ以上誤解の可能性のない第三者、全知の神の存在を前提とする。
言葉が通じるのは全知の神が存在するからだ、と。

と書いてから、うどん粉さんの書き込みが一年も前のものだと気付いた。

1年前 No.91

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

どうして言葉の意味が通じるのか、ではない。

言葉からどのようにして私が生まれるのか、である。

諸項の順番を逆転させねばならない。

まず私がいて、あなたがいて、それで後から言葉がつけ加わるのではない。

まず言葉があって、そこから私やあなたが生まれるのである。

だから通じるのは当たり前なのである。

1年前 No.92

宿題 ★hxYn2UbX46_a2e

自然災害で命を落とすと思うのは今日この頃になってから・・

その都度予測と判断力は環境を把握する必要がある・・

相手の環境を如何に把握して予想できるか・・共感するには相手の状況を把握しておかねば・・

1年前 No.93

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 直感的には、経験や概念がまずあって、それが言語を獲得するというイメージのように思っています。

 だから、生活上の要不要や経験した内容や物事の捉え方のある種偶然的な違いによって、通じる言葉のバリエーションは微妙に違うのではないでしょうか。そして、集団内で、あるきっかけで区別する必要が生じたとき、呼び分ける必要に迫られて、言葉(名詞)がつくられていくということかと思います。

 例えば、「エスキモーといえば、よく「雪」を表す 言葉のことが挙げられます。「カニック、 アニユ、アプット、プカック、ベシュト ック、アウベック」とあり、カニックは 降っている雪、切片としての意味です。 アニユは飲料水をつくるための雪、アプ ットは積もっている雪、プカックはきめ 細かな雪、ベシュトックは吹雪、アウベックはイグルーをつくるための切りだした雪です。これは、初めに「ユキ」があって、それを細分化しているのではなく、 初めから別個に分かれています。つまり、 互いに音声の類似がないことからわかるように、(細雪、どか雪、粉雪といったように、雪に形容をつけて2次的に細分化し ているのでなく)それぞれまったく別物としてとらえられた、最初からの類別化・ 範疇化なのです。しかも、これはかぎられたエスキモーにとっての専門用語といったものではありません。つまり、それらの個々の範疇は、(飲料水をとるもの、イグルーをつくるものといった)生活上の 基本的な行動様式、それと結びついた道具、技術などが切り離しがたく結びついた、エスキモーにとっては日常的な基礎語彙だということを忘れてはなりません。」(「言語の違い、認識のちがい」宮岡 伯人 大阪学院大学情報学部教授)

 文法については、言語学などは素人ですが、何かを他者に伝える必要に応じて、生成し、多様化していったと言えるように思います。
 あまり哲学的ではないですが、「どうして言葉の意味が通じるのか」は、意思疎通しうる範囲を「言葉」と呼んでいるということではないかと思います。(通じるように使っている(いた)から、言葉と呼ぶ(呼んだ)。)

 歴史上で「未解読文字」と言われるものがいくつかあって、もちろん我々には意味が通じないのですが、他の言語の文字から類推して文字ではないかと仮定している限りで、「文字」という表現が使われているだけで、単なる土器や銅板の装飾だった、あるいはそれをつくった技術者が独自に生み出し、当時もだれにもわからない「文字」だったかもしれないと想像したりします。

 ので、通じるものしか、言葉として残らないということかと思います。当然、属する集団による使用言語の違いや、個々人の言語に対する理解度や処理能力、いわゆる読解力などに差がありますので、言葉全てがすべての人に同じ程度で通じることはないでしょう。また、常に新しく想像もされるでしょうが。

 多くの場合、言葉の意味は、単に言葉だけでなく、発せられた状況やそれを受け取るのが誰かということでも、意味が変わる余地が常にあるものだと思います。

 スレのテーマ的には、こういう議論ではないのかもしれませんが……

1年前 No.94

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>94

 「また、常に新しく想像もされるでしょうが。」は、
 「また、常に新しく創造もされ、集団内で広まることもあるでしょうが。」に訂正します。

1年前 No.95

俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E

たぶん、「誤解」というものが一役買って、こう考える人は多いと思う。
言葉(の意味)を理解するとは何か心的なものである、と。
だから(で繋げるには飛躍があるようにも思うけれど)、何故言葉が通じるのかが不思議に思えるのかもしれない。

もちろん、言葉を理解するとは何か心的なものであることを否定するわけではないし、何か別のそれらしい答えをもっているわけでもないけれど、誰かと言葉を交わす多くの場合、言葉を理解する何か心的なものや心的な過程と呼べそうなものはないように思う。

1年前 No.96

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>94 のつづき

 「どうして言葉の意味が通じるのか」

 私的には、ヒトは生物学的に言葉を発することができる必然として、伝える必要のあることについて、その必要に迫られて、伝わるように言語が作られ、世代を超えて、維持されてきた(あるいは変遷してきた)というふうに思います。

 ただ、伝わるかどうかは、個人がどう受け取るかなので、その個人の言語能力や知的背景、その時の状況によって、通じ方の程度は差が生じると思います。

 それ以上の深い論点を見いだせていません。

1年前 No.97

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>97

 「伝わるように言語が作られ、世代を超えて、維持されてきた。」

 生物学的に発声機能や認識能力などの発達が前提となって、伝わるものとしての言語が成立したのだと思う。

 「どうして言葉の意味が通じるのか」といえば、生物学的に発声機能や認識能力などが発達したからにすぎない。

 単語とそれが示す物や事態の関係性を理解する能力が備わったからで、「どうして言葉の意味が通じるのか」という問いそのものが意味をなしていないように思われる。

1年前 No.98

よう、俺だ ★iPhone=FsT9EUinkf

誤解の有無とは関わりなく、というか誤解の可能性としてもまず、意味は伝達されるものでなければならないだろうと思う。
というのも、私の発話や書いた文章の意味が誤解されたとしても、意味が伝達されるものでなければならないのではないとすれば、何をもってそれが誤解されたと言えるのだろうか。

私の発話や書いた文章の意味、それによって私が意味していることと、相手(自分も含め)がそれを聞いたり読んだりして理解する意味とが全く個々別々である、つまり伝達される意味によって媒介されないとすれば、それによって何事かを伝えるということを期待することもできない。
というのも、媒介するものがないために伝わるということがそもそもないから。
そうすると、それはただの音や模様と同じものになってしまわないだろうか。

もう一点。
私が「これ」でもって何事かを指したいとき、「これ」は「これ一般」の意味しか持たないということはありえない。
でなければ、例えば、「これ」でもって目の前にある本を指して「これを彼に渡して欲しい」と言うこともできないだろうから。
ということと上記のことから、言語が公的性(?)しか持たないということはありえないが、「これ」が持つ一般的な指示能力を介さない限り、「これ」がこの本を指すこともまたありえないだろう、ということがもしかしたら言えるかもしれない。

1年前 No.99

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

自分が話したいことについて、自分で整理ができていない。

例えば、次の文章:
http://mb2.jp/_tetsugaku/696.html-633#a

>離人症のある種の患者で、「ものとしての自分」は理解できて、何とか日常生活をおくることはできるけど、「自分ということ」その実感が失われて、「自分があるということ」が実感できなくなってしまう人があるらしいのです。

>このとき、ものとしての自分がバラバラにあるだけで、自分ということが実感できなくなると同時に、時計時間は認識できても、時間の流れが感じられなくなり、空間的広がりも感じられなくなり、音楽もバラバラの音としてしか聴こえず旋律として聴こえなくなる、ということです。


俺の関心。この「音楽もバラバラの音としてしか聴こえず旋律として聴こえない」というのを、どのように確認したのかが、気になる。患者からこれを聞き出して確認したのか?だとしたら、それはただの言葉であって、事実ではないのではないか?患者がそう言ったのは確かだろう。しかし、患者の言った内容は事実か?患者は何かを伝えようとしているだろう。このことは事実だろう。しかし、患者が自分の状態を伝えようとしてひねり出した言葉の、その中身、これは事実だろうか?

もしも、これと違って、彼がまったく歌を歌えず、非常に音痴であるのを確認したのだとしよう。しかし、音痴であるからといって、彼の音の聞こえ方が上述のようであるとはかぎらない。しかしながら、もちろん、彼が音痴であることを表現するために「彼には音楽が、バラバラの音としてしか聴こえず旋律として聴こえていない」と言うことはできる。ところで、なぜ、そういう言い方をするのか?

さて、問題。俺は何を問題にしたいのか?

医師は厳密に判断しただろう。この「厳密に」というのは、厳密には、何を意味するか?

言葉と事実の問題。取り決めの問題。

1年前 No.100


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