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どうして言葉の意味が通じるのか

 ( 哲学掲示板 )
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てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

どうして言葉は通じるのか?
あるいは、人々が「言葉が通じる」という表現で語っていることは何なのか?

例えば、「分かった」という返事をする人は、たいてい実は分かっていないというような話がある。
ではこの人は、本当は分からないのに「分かった」と言ってその場をやり過ごしているのか。あるいは、彼が分かったと思い込んでいることが間違っているのか。それとも、「分かった」ということはそもそもひとつの解釈でしかないのか。

言葉の意味が分かるとはどういうことなのだろうか?

言葉を交わしながら、
言葉の通じなさ、互いに分かり合える可能性、どうしたら相手の言葉を理解したことになるか…等々について考えましょう。

2年前 No.0
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今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

あと社会的人間としてお恥ずかしい話なんですけど、「頭が柔(やわ)い」って使い方あるもんだと思ってたら無いんですねー好きな曲の歌詞で耳で覚えてからずっと使ってた。放送コードにひっかかりそうな表現を変えたんでしょうね。頭が柔らかいって言ったら機転が効くだし、きっと皆様には伝わんなかったでしょうね。僕やそのアーティストが言ったのはやわい=脆い、つまり知恵がおくれ的なことです。なんで俺はあのアーティストの意味するところを理解したんだろうかと、ひっきょう言葉は意味なくても周りの文脈と語感で理解したんです。言語は要らなかった!

1年前 No.49

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>49

確かに、今日人さんにはわけの分からないことを話しているなら、私はあなたにとって知恵遅れですね。

1年前 No.50

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

>>50
喋ってる言語が違うんでねえかね

1年前 No.51

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>51

その意味で言語が異なるというのならば、当然、互いの自我が全く同じ人はいるはずないですから、違いすぎるから理解し合えないのでしょうね。

1年前 No.52

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

ときどき同じ言語を喋れるときは意味が通じたりするかもしれませんねえ。確認なんてできないわけですが。

1年前 No.53

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>53

>>36 の主張では、人間の仕組みのどこに「意味が通じる」を実現する仕組みがあるかを確認できなければ、「どうして言葉の意味が通じるのか?」問題の解答にふさわしくないらしいですが、 >>53 の主張は、 >>36 に従うと「どうして言葉の意味が通じるのか?」問題に十分な答えを出すことができないということですか?

ちなみに、確認できないから、私はこの題意の議論はどのような仕組みが必要かを提示するだけで十分だと思います。 >>33 で示したように。

1年前 No.54

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

そもそもこの掲示板のタイトルが悪い。

1年前 No.55

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>55

意図したところが実現されるように、再定義する意味で新しくスレッドを立ち上げないんですか?

1年前 No.56

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>56

私の問題把握が粗末すぎたのでしょう。

1年前 No.57

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>57

>>42>>46
これらを見る限り、「人間同士の自然な応答はどのようにして形成されるか?」をテーマにスレッドを立ち上げたらどうでしょう?

1年前 No.58

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

辻井伸行さんに「何色が好きですか?」と質問すれば、彼は「青色です」と答えるだろう。

辻井さんは青色を見たことがない。

では、彼の答えは丸で意味がないものなのだろうか?

いや、その前に、色が好きとはいったいどういうことなのか…

仮に盲目の少年がいて「僕は黄色が好きだ。だって黄色はえいたその色だから」と言うとしよう。
この発言は、しかし、単にえいたそが好きだという意味に尽きるものではない。
えいたそが好きすぎて、黄色も好きになったという意味だって持ち得るものである。

この少年は「黄色のサイリウムを買ってくれ。だって黄色はえいたその色だから」と言うこともできるし、この言葉が無意味だということはない。
色が見えない人間が色について語っても、その発言が無意味になるということはない。

この少年が「黄色はレモンの色だよ。イチョウも黄色いよ。信号で黄色だと、もうすぐ赤になるんだ。黄色はまぶしい色だよ。」と言うとき、この少年は黄色をよく分かっていると言えるだろう。
しかし、この少年は「色」を知らず、「まぶしい」という感覚も知らないと言いたくなる。

問題は、『感覚を知らなければ言葉の意味が通じないか』ということだ。

盲目の少年に「黄色いものには触れるな」と命じるとき、少年はこの言葉の意味を理解する(ただし、器用に黄色を避けるということは出来ないだろう)。しかもこの少年は「うっかり自分が黄色のものを触ってしまうかもしれない」という風に理解するだろう。

「黄色が好きだ」と有意味な仕方で言うためには、例えば黄色を前にして気持ちよい感じを持ちつつでなければならないだろうか。
「黄色が好きだ」という言葉に「なぜ?」と問われて「えいたその色だからだ」と答えても、これは不合理な答えではない。

しかしそれでも、盲目の人が「黄色が好きだ」というのはどこかおかしい…という感覚もある。

この感覚の正体は何か?

1年前 No.59

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>58

それは私の問題ではありません。

1年前 No.60

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

>>54
どこに、なんて皮肉でしょう。公理はその体系のなかでしか意味をなさないんだから。
まあ俺にはよくわかりませぬよ
問題意識は >>59 が一番面白いね

1年前 No.61

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

うまく行かんなあ!

ちょっとアリス・アンブローズ編『ウィトゲンシュタインの講義』やコーラ・ダイアモンド編『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』とかを読んで落ち着こう。はぁはぁ。

消化できてない…

本を落ち着いて読めるだけで幸せなんだからね、そこをよく肝に銘じておけ!(ドアを乱暴に閉めて立ち去る)

1年前 No.62

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

てじ様がドアをバタン!と閉めて立ち去った後、
闇の部屋の片隅でうずまっているわたしは、

〉33、

ちょっと聞いてよいかしら?

恋愛学者さまにおける「命題」っていう語の意味を教えてもらえませかしら?


もう寝るので、いやなら、いいですけど。

1年前 No.63

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>63

グーグル検索したところ、

言語や式によって表した一つの判断の内容。

らしいです。私も論理学的定義で用いています。

1年前 No.64

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〉64

とすると、

〈「価値」→主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価〉において、

「価値」の定義を〈主体が目的を達成するために指定した〔言語や式によって表した一つの判断の内容〕を必要と判断する評価〉とする。

こうなります。わたしの場合、やっぱ、難解です。

では、次に、

恋愛学者さまにおける「評価」っていう語の意味を教えてもらえませかしら?

いやなら、いいですけど。

1年前 No.65

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

恋愛世界観のなかでしか通用しない言語は僕には話せないんです。

1年前 No.66

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>65

検索すると、評価の意味は

価値を判断して決めること

らしいです。私もこのように用いています。

ちなみに、「判断する評価」とは、評価という処理で判断していることを示しています。

1年前 No.67

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>67

よくよく >>33 を見てみると、 >>66 で問いたい「評価」というのは、「価値=評価の結果」のことですね。

1年前 No.68

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〉67

〈主体が目的を達成するために指定した〔言語や式によって表した一つの判断の内容〕を必要と判断する〔価値を判断して決めること〕〉


「価値」を定義しているのに、定義の内容に「価値」が出てきちゃってるし、語の重複が多すぎでごちゃごちゃしてる。


だから、わたしの場合、難解なのね。

1年前 No.69

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>69

>>68 を見てほしいのですが、
この場合の価値とは、評価の結果です。

>>「価値」→主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価

とは、「主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する」という制約条件を持つ「価値=評価の結果」です。

1年前 No.70

今日人 @shrapit ★0FtEoBvIOA_dB9

>>59
盲目な人間にえいたそ色に触るな、とか、盲目少年がえいたそ色が好きだとかいうのは、なんなんだろうと考える。
まず、えいたそとは誰なのか。調べたら、芸能人だった。知らない。
俺たちの体験で考えてみた。そのけん玉には呪いがかけられてる。その河童の置物には呪いがかけられてる。
「えいたそ色に触るな」というのは「呪いのあるものに触るな」と霊能者から言われているに等しい。
しかし俺たちは霊能者じゃないから、呪いなんてわからん。触ろうとすると「それには呪いがかかってる!触るな!」と彼に言われてビクッとする。
俺たちには呪いはわからんが、霊能者が呪いと叫ぶから、俺たちもそんな気がしてくる。このけん玉は禍々しいのだ。さわると地獄に落ちるのだ…
すると俺たちにも呪いは見えてくる。こうして霊能者は俺たちと心を交わすようになる。霊能者は「彼らを救えた」と感じ、彼の言説は救われる。
意味が通じるとはこういうことじゃないか、俺たちにはわからんことでも、霊能者と共感することで、全く知らなかった事柄でも俺たちは理解する。
全く見えなくたって、感じられなくたって、霊能者に共感することで、俺たちはそれが呪いであると理解する。そしてなんと、怖がりもする!
これは確実に意味が通じたと言えるだろう。その後、俺たちはそのけん玉を見るたびに呪いを(なんとなく)感じる。
すなわちキーワードは「共感」なんだ。俺たちは霊能者の恐れに共感して、呪われたけん玉という言説を理解する。じゃあ共感とは何なんだ。という話にもなる。

この話とは別に、ここでしか通じない言葉スラング、というものがある。スラングという概念を引き延ばして考えると、俺たちが喋ってるあらゆる言葉はスラングだ。
さっきあげた霊能者の別世界の言葉と、このスラングというあらゆる他者のもつ別世界を理解することは、同じだろうか、同じだとしたらどういう風に考えることができる?
例えば「頭が柔い」という言葉を「弱い頭の」という風に理解したとき、というか哲学書を初めて読んだ時のことを思い出してほしい。そんな言葉にあふれていなかったか。きっと日常では使わない言葉の使い方にあふれていただろう。そういった表現をどうやって、今ある哲学的な言葉の理解に持って行ったか。もちろん辞書の<<哲>>みたいなところをすぐさま開けた人もあるだろうけれど、俺なんかは文脈を読みながら、こういう意味で使っているんだろうな、と考えながら、その意味を理解していった。「純粋理性」?なんじゃそれ、と思ってると、「純粋な、すなわち完全にアプリオリな」とかいう表現がちょろっと出てくる。そこでああなるほど。と思ったのを憶えている。だいたい「理性い」ってのも何だって話だったけど。これも一種の共感である。
じゃあやっぱり共感って何なんだっていう話になる。今あげた例の場合、文脈を読み取ることだった。霊能者が呪われている!と叫んだ時、俺たちは「呪い」ってものを全く分かっていないんだが、霊能者が呪いってものを知っていて、表情から「恐れ」を抱いているのをわかる、こういう意味での文脈を読み取ることで、「呪い」を理解する。呪いというとわかりにくいかもしれないが、霊能者が「そのけん玉はボヌールだ!!」と悲壮な顔で叫んだらどうだろう。俺たちは霊能者という性格を理解して、その悲壮な顔を理解して、そのけん玉に触らないようにするだろう。しかし実はボヌールはボヌールであったのだ。

1年前 No.71

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>71

ちょっと整理させてください。
・けん玉に触ろうとしたら、霊能者から「触るな!」と悲壮な表情で注意され、「それには呪いがかかっている」と教えられる。
・霊能者が呪いと叫ぶと、いずれ私たちにも呪いが見えてくる。(彼に共感したとしたら)
・これまで分からなかった言葉(ないし概念)を語りかけられても、それを語った者と共感することによって、意味が分かるようになってくる。

問題はいくつかある。今日人さんには悪いが、指摘させていただきたい。別に文句をつけるのではなく、どう問題を展開させてゆくかを探るためです。

(1)
まず、私は「霊能者に共感したくもない」という気持ちを持っている。「呪い?ただのけん玉じゃん」という常識を持っている。
そしてむしろ「あ…この霊能者はこのけん玉に呪いがかかっていると思い込んでいる…そういう人なんだな」と私なら思うだろう。
すなわち、けん玉に呪いがかかっていると思うようになるのでなく、霊能者に対して、この霊能者はけん玉に呪いがかかっていると思っているのだなと思うようになる。
意地悪してわざと触ってみて「なんともないですよ」と言いたくなる。

一方で、私がコップに入っている液体を飲もうとしたらおじさんから「おっとそれを飲むな!それは飲み物じゃない!飲むと死ぬぞ!水銀が入ってるから」と怒鳴られたら、事態は変わって来る。

「呪われたけん玉」と「毒入りの液体」に何の違いがあるというのか?本質的には違いはないのではないか?そう思われるだろう。
実はその液体には毒は入っておらずおじさんがそう思い込んでいるだけだということは十分にありえる。
それなのに私はその液体をあえて飲もうとは思わない。水銀という言葉の意味を、厳密な意味ではなくとにかく体内に入れたら危険なものとして、知っているからだ。
でも、私は「呪い」という言葉が危険なことを意味するということも分かっているのではないか?…

とりあえず2点。
・呪いの客観的存在を共感によって信じるのとは別に、共感せずに「あ、そういう人なんだ」と霊能者への見方が変わる場合というのもありえる。
・「呪い」という例は、「毒物」という例とは異なっている。

(2)
次に、呪いが見えて来るということについて。
例えば今の例では「そのひとつの同じけん玉」についてのみ「呪いがかけられている」との発言がなされている。
そこでそう言われた私がはっとして「なるほど!じゃあこの時計にも呪いがかけられてますね!」と悲痛な面持ちで霊能者に言えるようになったとしよう。
そこで霊能者に「いや、この時計は祝福されていますが?」と言われた場合、とりあえず2パターン考えられる。
・私が「これが呪いかあ」と思うにいたったものが、実は霊能者の言う「呪い」ではなかった。
・実は私は霊能者よりも霊力が高く、その霊力が覚醒したので、その霊能者には見えない高レベルな呪いも見ることができた。

例えば、赤ん坊がスリッパの裏を舐めているのを見て母親が「汚い!やめて!」と大声をあげるとしよう。(それでも赤ん坊はそういう行為をしばらく繰り返すのだが…)そして赤ん坊はじょじょに学習してゆき、そのスリッパではない別なスリッパの裏をも「汚い」と見なすようになる。すなわち、そのスリッパだけが汚いのではなく、あらゆるスリッパの裏が汚いと学ぶ。
もっと一般的に言えば、何が食べられ何が食べられないのかを学ぶことを考えてみてほしい。「食べられる」という性質は目に見えない。しかし私たちはほうれん草やイナゴの佃煮や豚肉の生姜焼きを食べられるものとして見る。だがイナゴの佃煮はどうしても食べることができないという人間もいる。仮にゴキブリの佃煮があるとして、これが安全保障付きだとしても、「よう食わん」と思う人はいる。

ところで、「そのけん玉には呪いがかけられているぞよ!」と言われて、『 あ ら ゆ る けん玉』に触ることができなくなったとしたら、それは霊能者の発言の意味を理解していないことになるだろう。そして一方、そのけん玉にのみ触れなくなったのであれば、それは「呪い」という言葉の意味を分かったからではなく、「そのけん玉」の扱い方を学んだに過ぎない。(霊能者がそう思い込んでいるだけだと私が思っているならば、「霊能者の前におけるそのけん玉の扱い方」を学んだに過ぎない。きわめて特殊な文脈を学んだことになる。)

指摘したのは次の点:
・私に見えてきた呪いというものは、霊能者に見えている呪いと同じだろうか?
・その例は、ひとつの特定のけん玉の使用法の学習例であり、呪いという言葉の学習ではないのではないか。
(この2目の指摘は、言葉の意味は一般的なものだという指摘です。)

(3)
ちょっと話は戻るのですが…
私が今日人さんのいう「河童」という"スラング"の意味が分かったのは、

>河童ってのは俺が遠野に行った土産の河童型の鉛筆。

という説明を聞いたからであって、今日人さんに共感したからではない…ということが頭に引っかかっていた。

ここでの指摘は、言葉の理解は共感によってではなく説明によってなされた、ということ。
問題は、でも説明できないことってあるよね、ということ。そこで霊能者の例に行くわけだが…

(4)
「おめえよ」
「なんだ」
「あれどうした」
「あれってなんだよ」
「河童だよ」
「リビングの机に飾ってあるさ」
「おめえんち机なんてあったか」
「俺んちの家具はかくれんぼが得意なんさ」
「まあなー」

>河童ってのは俺が遠野に行った土産の河童型の鉛筆。

私はこれを読んで「あ、今日人さんは遠野に行って河童型の鉛筆を買ってきたんだ」と分かり、私は勝手に「で、今日人さんはそれを自分のリビングの机に飾ってるんだ」と思い込んだ。「土産」と聞いて私は「記念として自分用に買って来るもの」だと思い込んだのだった。
私は最初「おめえよ」と話しかけたのは友人だと思い込んで、今日人さんが「リビングの机に飾ってあるさ」と答えたのだと思い込んでいた。

だから
>であいつんちはめっちゃ汚いんで、机が物に埋もれて見えなかったわけ。

という言葉が書き間違いだと思った。「いや、河童は今日人さんの机にあるんだろ!でもあいつんちにあるってどういうことだ?矛盾してるぞ」と。

だが読み返してみると…今日人さんが友人に河童を渡したのだということが分かる。
ここで私が読み飛ばしていた「土産」の意味が分かった。

私の今の実体験からの示唆としては…先の例で私が「じゃあこの時計にも呪いがかかってますね!」と言って霊能者に否定されたら、「この霊能者は低級だな、だってこの呪いが見えないんだから」と思う前に、霊能者の言っていることを整合的に理解できるようチャリティー精神を持つべきではないか…ということだ。

もうひとつ。

私が自分の「土産」という言葉に対する勘違いに気付いたのは、すなわち「土産」という言葉の意味を正しく理解したのは、共感したからではない。
どちらかというと、文脈を読んだからだ。

しかし私ははじめに「今日人さんが遠野に行って自分に河童型の鉛筆を買った」という誤った文脈で、その会話を読んでいた。
間違った文脈に企投して読むと、文章そのものがどこかで「間違ってるじゃん」という風に映ってくる。

もちろんこの誤りが露呈しないこともありえる。
例えば「机が見えない」という話がカットされて、会話が「河童だよ」で終わっていたとしたら、私は河童が今日人さんの家にあると思って読んでもその会話文はなんら矛盾を持たない。すなわち、私は河童がどこにあるのかを誤解したままだろう。

さて、正しいコンテキストにもとづいて、発想を逆転させて「土産はいま友人のもとにある!」という文脈のもとに、私は会話を整合的に読めるようになった。
(今日人さんからすれば、「いや、最初からそうやって書いてるじゃん」と思われると思いますが、「最初からそう言ってんじゃん」ということをずっと後になってから「あ、そういうことね」と言ってくるノロマもいるのです。語る人と、聞く人との間には、非常に大きなギャップがあります。)

この(4)にて強調したいのは、「整合性」というワードです。



…とりあえず指摘のみに留めます。

1年前 No.72

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>「価値」→主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価


「that which a subject considers necessary to attain his end」 という意味ですよね。
「指定」も「命題」も「判断」も「評価」も抜けてますが。



自分が書いた言葉を定型から崩すことができないタイプの人間でしょう。
そう書いてしまったのだから、その書かれた言葉を基準にしましょうという感じで、そして周りに労力を取らせるタイプの人間です。

一方言語は、そうなってしまったのだから従おうというものの集合です。
話すという事柄を「はなす」と発音することに根拠はない。(ソシュール)
別に私たちは赤色が「あか」と呼ばれるのは赤色が「あ」と発音したときの感覚に近いからだ(デタラメ)という理由をいちいち与えられて言葉を学習してきたのではない。
言語は、前の世代に使われていたものを理由なく受け入れることによって、伝承される。

話すを「はなす」と発音する必然性はないのだが、しかし「話す」は話すというシニフィエを持っているというのは勝手に変えることができない。
その意味では、そのシニフィエとシニフィアンとの結合は必然的である。
それでもやはり、根拠がないのだから、「話す」というシーニュが話すというシニフィエを持っているのは恣意的である。
偶然「そういうことに決まっている」となってしまっているのが、言語だ。偶然なのに決まっているのだ。

無根拠だからむしろ変えられない。
もし根拠があるならば、その根拠にもとづいてシニフィアンを変えるなどということができるかもしれないが、そもそもそうなっていない。

価値の定義の根拠は、あるはずなんだよ。
すなわち価値にまつわる何らかの経験がもとになっている。それを具体例で出してもらえば、定義の文章を校正できる。

例えば、「紙を切るという目的を達成しようというときにはハサミが価値を持つ」という命題を考えてみよう。
これは具体的によく分かると思うが、「…のときハサミが価値を持つ」ってあまり言わないよね、と思うだろう。
「紙を切りたいなら、ハサミを使うといいよ」とかなら、まだ分かる。
これをもういっかい言い換えると
「主体が紙を切りたいという状況におかれたならば、ハサミというものが使うと善いものとして、すなわち実践的な善として示されてくる」などと言えるだろう。
これを主体を主語にして言い換えれば
「主体が紙を切るという目的を設定するとき、ハサミを使うのが実践的善だと判断する」となるだろう。

それでもやはり「価値」というのは「評価の中で判断されたもの」であって「評価の結果」ではないんだよな。



価値って善さじゃん、善さって目的によって変わってくるじゃん、じゃあ目的を共有しないと何が善いかっていうのも共有できないじゃん、だから「何が良いか」ということをそのまま共有することは難しくて、いったん目的というものを共有してから「何が良いか」っていうのを共有した方が、急がば回れで有効なんだよ。

「主体が目的を達成するために指定した命題を必要と判断する評価」というおかしい日本語も同様だよ。
この言葉で何が言いたいのかっていうのが分かれば、この言葉の中の「指定した命題」とか「必要と判断」とかいう言葉の意味も分かってくる。

そして逆に、この言葉で何が言いたいのか(この言葉がこのような形でこの場に提供された根拠)が判明したら、むしろこの言葉がこの形を保つことの必然性はなくなるんだよ。
その言わんとすることにより適合するように、もっと良く私が言い換えてやろう…そういう人間が出て来る。
逆に言うとね、何が言いたいのかを隠すことによって、根拠を隠すことによって、この言葉がこの形であらねばならないというような偶然的必然性は守られる。
結局何が言いたいのか(目的)を隠すことで、その目的のために出て来た手段(ここでは価値の定義)が「不当な不変性」を得る。

黄色があの色であることの根拠がなく、それゆえにどうしても黄色はあの色でなければならない。
(黄色がある瞬間に赤色に変わることを想像しても、この文章の中に黄色とか赤色とかが含まれているかぎり、そういった可能性を言い表わすことはできない。或る瞬間から黄色というあの色を黄色として知覚する人類が消滅し、同時にその色を赤色として知覚する人類が生れると想像したとしても、そもそもこの文章のなかに黄色とか赤色とかが含まれており、しかもこのシーニュがあの色を意味しなければそもそもこの想定を言い表わす文章も意味を持たなくなる。)

これを利用すれば…根拠を隠せば隠すほど、定義はよく分からない不変性を持ち始める。
もちろん、こういう隠蔽はすぐにばれる。
あと、恋愛学者さんは別に根拠を隠してはいないということも弁じておきたい。恋愛学者さんは質問に答えているのだ。

しかし、根拠を示せばいいんだよ。
根拠を示せば、どういう事情で定義がそうなったのか分かる。(定義の正当性が判明する)
それと同時に、その定義がダメな定義だということも露呈し、定義はその体裁(その文章構成であることの必然性)を喪失する。

根拠を示せば定義は共有されうるものとなるが、共有されるがゆえに、定義は発案者の手を離れて批判にさらされ、もとの形を失う。
そうすると、発案者は発案者としての特権を失う。

>恋愛世界観のなかでしか通用しない言語は僕には話せないんです。

という皮肉も、こういう事情からして発言されていると、私は解する。

「存在主義」も同様。定義の固定化によってありもしない不当な優越性を確保しようとしている。

1年前 No.73

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>73
>>根拠を示せばいいんだよ。

めんどい。
興味があるのなら、都度聞いてくれ。

あと、慣れていないから英語は分からない。

1年前 No.74

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

>>72
てじさんの言葉は勉強になるなあ(たぶん)!
あとでゆっくり読ませていただきます。

1年前 No.75

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>48

>でもーなんか昔昔の大昔のホメロス?とかって白黒赤しか色が出てこないってあれ都市伝説かしらん。なんか色の分類が違う世界じゃ、色が変わったって認識する程度も全然違うらしいじゃん。もし白黒赤とかって世界ならいくら緑説明しても難しいよね。


これの具体例は『ソシュールを読む』で丸山圭三郎が紹介しているカラー(Culler)の議論において示されている。(講談社学術文庫135頁〜)

〈カラーの議論〉

カラーは、英語の色を異文化の人間に教えるというケースを紹介している。
対象者は「スペクトルの色を二色…にしか区切らないゲシュタルトの持主」である「リベリヤの一言語であるバッサ語を母国語とする人」である。
この人に英語の色を一気に教えても効果はないので、まずはブラウン(brown)という色だけを教えることにする。
まずはこの人にブラウン色のものを100個見せます。
「これはブラウンだ」「これもブラウンだ」とノートとかカバンとか万年筆を見せる。
そして覚えたな〜と思ったら、彼を別室に連れて行って、ちゃんと覚えたかどうかテストしてみる。
色々な色のものを並べて、「ここからブラウン色のものを取り出してください」と指示してみる。
しかし、バッサ語を喋る人は、どうしてもブラウン色のものを取り出せない。
あれ?…じゃあ今度はブラウン色のものを500見せるぞ!
それでもやはりうまくいかない。
そこでカラーは結論づける。
彼にブラウンだけを示しても彼はブラウンを学ばない。ブラウンとレッド、ブラウンとイエロー、ブラウンとブラックとの間の区別を教えるまでは、彼はブラウンを学ばない。
すなわち、ブラウンとその他の色(ブラウンでないもの)との関係を学んではじめて、彼はその関係におけるブラウン色を学習するだろう。
「ブラウンはなんらかの本質的な性質によって画定される独立の概念ではなくて、色名語の体系中の一辞項であり、これを画定する他の事項との関係によって画定される」。
「公理はその体系のなかでしか意味をなさない」( >>61 )というのもこれと同じ事情だが、100個ブラウン色を教えられてもブラウンが分からないというのは驚きだ。

カラーはここで「記号は恣意的であり、それはそれが属する言語に特有な仕方で連続体を分割した結果であるから、われわれは記号を自律的な存在体として取扱うことはできないのであって、これを体系の部分として見なければならないのだ」と言う。

私(日本語話者)は、バッサ語を喋っている人の視野にはたしかに茶色が見えているはずだ、見えているのにそれを他の色から際立たせることができないのだ…と言いたい。
すなわち、自然的にはバッサ語話者にも茶色が存在しているが、文化的(語彙的)には茶色が存在していない…と言いたくなる。
すなわち、バッサ語を喋る人の視覚能力は即自的な茶色イメージに対して不感症であるのではない…と言いたくなる。これはもちろんそうだろう。
しかし、はたして彼にも自然的な意味では茶色が存在していると…言えるのかどうか…という話だ。
もちろん茶色が見えているに決まっている。だが「茶色が見えているね」と言っているのは日本語話者の私だ。…

例えば全てが赤色に見える病気の人間が存在しているとしよう。
ただし彼でも明暗は識別できるとしよう。
このとき彼に緑色や黄色を教えることはできるかできないか。
このとき彼がそれらを区別することができさえすれば、彼は緑色も黄色もそして赤色さえも識別できるだろう。そして彼が私たちには知覚できない微妙な差異を感じ取ってそういう違いを見分けるということがありえるだろう。…そう言いたくなる。カンディンスキーは絵画によって音を表現しようとした。…逆もまた考えられるだろう。音を聞いて色を感じるということがありえる。同様に、全てが赤色の中に何らかの感覚の違いを見出して、それを緑や青と呼ぶことがありえるだろう。…そう言いたくなる。
だが、そもそも「全てが赤色に見える」という想定は、この病気の彼自身の自己自身の在り方を正確に表したものなのだろうか。

同じことを別な例で、ピタゴラスの珍説で言ってみよう。
動いている物体は音を発している。そうだとすればこの惑星も音を発しているはずであるし、太陽系の様々な惑星も音を発しているはずだ。そして太陽系のこれらの星たちは共にハーモニー(ハルモニア)を奏でているのだ。…そして俺にはこのハーモニーが聞こえる。お前らには聞こえないだろうけどな。…こういう説である。
これで考えれば、私たちは常に惑星規模の大轟音に晒されているはずだ。この大轟音の中になるちっぽけな音を、私たちは聞き分けているのだ。
全てがまっ赤になっている中で、この赤世界の中のちっぽけな差異を感じ取って、健常者と同様に赤視覚病の人も色を識別できるということがありえる。

このハルモニアは宇宙規模かつ神秘的なので、私たちには想像しにくい。もっと身近な例を言おう。
耳に指を突っ込むと「ゴゴゴゴゴゴ」と何か音が聞こえる。…血流の音である。
ところで血流は全身に流れており、耳朶の近くでも、鼓膜のすぐ脇でも、流れているはずである。
…なぜこの轟音が私には(あなたには)聞こえないのか。
…という議論が巷にはある。

他にも、盲目であっても音を発してその反響を聞き取って障害物を避けたり狭い路地を歩いたりできる人物も存在する。

かなり話が逸れるが、ここから想像できることは:

私たちの大多数が非常に多くの(本来は)可能な識別能力を眠らせたままなのではないか…ということだ。

例えば音楽は12音階で奏でられるのが普通である。12音階より細かい音階を弾き分けて(吹き分けて)も、それらの微妙な差異は12音階のどれかに吸収されてしまう。
12音階の間を聞き分ける訓練をすることは可能だろう。そしてその新しい音分節のゲシュタルトにもとづいた音楽が可能だろう。だが、12音階で音楽を聞く人間がそれを聞いても、それは「ちょっと違和感がある」「しっかり調律できていない」12音階の音楽にしか聞こえないだろう。

これと同じことが、哲学の議論にも言えるかもしれない。

ドイツ観念論やハイデガーを読み慣れると、そんな感じをぼんやりと覚える。

1年前 No.76

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

わたしの話はなぜ「通じない」のか?

それは私の話を聞く人が「なぜいまここでそういう発言をするのか」に思い至らないからだ。すなわち聞き手が発言の理由に思い当たらないからだ。

なぜ私の話が通じないか?

それは、私の話のうちに欠如があるからだ:

すなわち、聞き手に発言の由来を思い当たらせるに足るだけの明白な話題の提示が欠けている。

私の話が通じないのは、『急に話しかけられたらすぐには言葉の意味が分からない』という現象に近い。この場合には、あまりにも急すぎて、話題に思い当たるまでの時間が欠けているのである。








あともうひとつ思い当たる理由がある。

私の文章が難解だから…という理由だ。

1年前 No.77

百理 ★5z6bVAmgS3_dB9

音痴の人は、ドレミファソラシド♪だけで音痴と分かります。

1年前 No.78

百理 ★5z6bVAmgS3_dB9

ドの音はきちんと定義されています。他の音も定義されています。

言葉の意味(意識の中味)の定義が解れば文章は理解できます。

言葉の定義が解らない人は文章の音痴です・・

1年前 No.79

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

話題提示とは、聞き手(読み手)が、その話に入って来れるように、何の話なのかを、明らかにすることだ。

これは、或る話題に注意を注がせることによってなされる。

すなわち、相手が「今は何々の話だ」という風に待機できる状態にさせることによって、それはなされる。

この話題提示は、いまその場で起こっている出来事を、それが起こっていることの際立った徴へと注意喚起することによって示すことに似ている。

例えば、部屋から漏れている声に注意を仕向けることによって、その部屋の中で歌のレッスンがなされているということを示すのに似ている。

この場合、例えば「聞いてごらん」と言うだけで、そこで歌の練習がなされているという事態が理解される場合もある。

このとき、起こっている事態そのものへの指示によって、聞き手が事態を察したのではない。
起こっている事態のひとつの徴を指摘することによって、聞き手が事態を察知することができるように仕向けたのである。

同じように話題提示も、聞き手の意識に直接働きかけてそれを話題そのものへと向けさせることではないし、
また、話題そのものを直接示すことでもない。

話題提示は、話題となっている事態を指す言葉を言うことによってなされるか、その事態の徴を指す言葉を言うことによってなされる。
すなわち話題提示とは、実際には、話題が何であるかを示唆する徴を見せることである。

このようなサインをきっかけに、聞き手は何が話題になるかについて準備する。

用意していないときに急に話しかけると、聞き返されることが多い。

言葉はそれだけで相手の心に意味を打ち込むものではなく、相手に聞かれなければ通じない。

ただし、話題提示のためのサインで準備した聞き手が、そこで自分が予想した話題からは出て来ないような発言を聞かされた場合、その聞き手は困惑する。

ここから分かるのは、予想するよう仕向けた話題と、その話題の話として話される話が、対応していなければ、聞き手は困惑するということだ。

示された話題(実際には、相手のサインをもとに自分が想定した話題)と語られる内容が合っていないとき、聞き手は:
(1)自分の話題想定が間違っていたと気付いて、想定の路線を変更する。
(2)相手の頭がおかしいと思う。
(3)思考停止する。

この(3)の思考停止状態というのは、発言だけが与えられたまま、その発言が出て来た由来は与えられていない間の時間のことである。
それは「え…?」とか「ん…?」とかいうような、困惑した時間である。
そしてこの「え…?」や「ん…?」という発言には
(a)疑問・不思議・不審
(b)無内容
(c)聞き返し
というような要素がある。

この疑念は、与えられた発言にとっての、その発言が出て来た由来についての、問いの形式になる以前の問いである。
この疑念は自分と相手に向けられ、自分には聞き方の変更を要請し、相手にはもう一度言い直すことを要請する。
この無内容な疑念は、言い間違いの可能性ないし聞き間違いの可能性に身を置かされることである。

1年前 No.80

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

・話題提示は、話題となっている事柄を直接目の前に差し出すようにしてはなされない。
・話題提示とは、相手が特定の方向に意識を向けるように仕向けるべく、標識を提示することである。
・聞き手が標識を提示されて特定の方向に意識を向けて次の言葉を待っていたら、その方向からは出て来るはずのない言葉が与えられたとき、聞き手は困惑する。
・困惑は、発言と、発言の由来とが、合っていないなという感情である。

この「合っていない」という困惑状態になるためには、或る特定の発言と、或る特定の話題との、適合性を学んでいなければならない。

聞き手は、基本的には、話題の方から発言の方へと話を理解してゆく。
ただし聞き手がそもそも話題の方へと注意を向けるのは、多くの場合、特定の発言によってである。(或いは発言でなくとも、ゆびさしや図などによる示唆でもよい。)

この事情は話し手についても同様である。
話し手は、話題の方から発言を引き出してくる。
そして話し手の場合には、自分が意識している話題から「自分が意識していない話題から出てくる発言」を話すということはない。
ただし、自分が意識している話題から「自分が意識している話題から通常は出て来ることのない語彙」で話すということはありえる。
例えば暗喩によって語ることなどはある。

なぜ話し手は、自分の話している話題と、自分の話している発言とのあいだの、適合性について話し間違えることがないのか?
なぜなら、そもそもその発言が、そのとき意識されている話題の方から出て来たものであるからだ。
つまり…Aから出て来たBについて、それがAから出て来たかどうかについて間違えるはずがないのだ。
発言Bは「Aから出て来たB」として出て来ており、単なる「B」としては出て来ていない。

しかし聞き手にとっては、与えられたBという発言は、仮にとっさに「このBはAから出たものだ」と思いつくにしても、はじめから「Aから出て来たものとしてのB」としては与えられない。したがって、この与えられた「B」について、「これはCから出て来た」とかいう風に間違える可能性がある。

この話し手の「間違える可能性が端的にない」という事態はどういうものか?

これは…言われた発言がそもそも意識された話題から出て来た…ということである。

これは…なされた動作がやろうとした行為から出て来た…ということと同じである。
ただし行為の場合は、「話し間違い」のときとは違って、言い訳がしづらい。
助けようと思って突き飛ばしてしまったとき…突き飛ばすという動作は助けようという行為の意図から出て来たものであるが、これは「言い直す」ような仕方で撤回できるものではない。なぜならこの場合、事態は、その事態を何だと考えるかに関係なく、もう起こってしまっているからだ。
その動作が攻撃ではなかったということは納得してもらえる可能性があるにしても、その動作が突き飛ばす動作ではなかったということは納得できない。それを納得するためには、因果性の発想を失わなければならないだろう。つまり、手を動かす動作と、動かされた身体との間には何の関係もないと実感できなければならないだろう。

しかし本人からすれば、その動作は「助けようとした動作」でありつづける。
しかしこういう場合、本人にとってその動作がどういう意味を持っていたかということが、絶対的な免罪符になりえることはない。

ここでは事態は解釈の余地なく(解釈の暇なく)起こってしまっている。
このような出来事は、誤解を招く言い方をするならば、「無時間的」である。

実際に移動したものが、その移動それ自体について、移動し間違えるということはない。
移動し間違えるということが起こるのは、移動の仕方を間違えるか、移動する先を間違えるか、或いは移動させる物を間違えるか…という場合であって、この移動が移動そのものとして間違いだということはありえない。

発言と話題との適合性は、その話題が何であるかということそれ自体である。

間違って椅子を飲むということはありえないし、「自分の頭をかじる」ことはできない。
しかしこの不可能性は、私が椅子は何であるかを知っているから100%それを飲むのを避けられるだとか、私が自分の頭が何であるかを認識しているから100%それをかじろうとは思わないだとかいう意味ではない。

ではなぜ「その話題が何であるかということそれ自体」と言うのか。

それは「何であるかについての認識」すなわち定義や本質を、間違える可能性が端的に無い適合性として捉え直すためである。

1年前 No.81

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>81

話題と発言とのあいだの適合性は、発言において話題を間違える可能性が端的に無いという、紛れなさである。
しかし明らかに、この適合性は学習されたものだ。
そしてこの学習を間違える可能性というのはある。
同じく、間違った知識を修正することもできる。

1年前 No.82

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>81

「空気は、それがなくなれば生きてゆけなくなるものである。」
「じゃあ、この空気を除去する装置で実験してみよう」

「この装置を使って空気を除去したが、しかし私たちは生きているぞ」
「ということは、『空気は、それがなくなれば生きてゆけなくなるものである』という定義は間違いだったんだ!」
「いや、そうではなく、その装置を使って除去したものが、空気ではなかったのだ。その装置は空気とは別なものを除去したのだ」
「いや、あるいは、その装置は空気を『除去した』と言ったが、実は空気はその量が減らされただけであって『無くなった』のではないのだ」

ふつうに考えれば、その装置が『空気の除去』に失敗したのである。
その装置が空気とは別なものを除去したにせよ、空気に対して「除去」とは別な作用をしたにせよ、『空気の除去』の失敗には変わりない。

しかし強引に「空気は、この装置によって除去されるもののことだ!」と空気を再定義する人からすれば…

この装置によって除去されないものなど空気ではない。
ところで、この装置は作動した、すなわち、空気は除去された。
しかし、私たちは生きている。
ということは、「空気は、それがなくなれば生きてゆけなくなるものである」という定義は間違いだ。

という論理になる。

その装置が発明されるまでは、空気は曖昧な仕方でしか定義されていなかった。
その装置が発明された以後は、その装置によって空気を精確に定義することができるようになった。
それによって「空気がなければ生きていけない」という間違った常識が覆った…ということだ。

1年前 No.83

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>83

だが、「それがなければ生きてゆけないもの」と「或る装置によって除去されるもの」は同じものではない。
すなわちその常識転覆によって、空気についての間違った認識が、空気についての正しい認識に変ったわけではない。
私たちが何を「空気」と呼ぶことにするかの、約束が変えられようとしているのだ。

「空気」という名称を「或る特定の装置によって除去されるもの」に限定するにしても、
それまで「空気」と呼ばれてきた「それがなければ生きてゆけないものとしての空気」が消失するわけではない。

「これまで『空気』と呼ばれてきたものは、厳密な意味での『空気』と、生きることを可能にしている『空中エレメント』をごちゃ混ぜにしたものだった。」

こうなったとき、「空気」という言葉の意味が変化したわけではない。
「空気」という記号の「価値」が変わったのだ。
前の適合性と後の適合性はぜんぜん違うものである。

というのも、以前までは紛れもなく空気だったものが、それ以降、紛らわしいものになったから。
ただしこの変化は「以前までの語用法は紛らわしかったが、今度からは紛らわしくなくなった」という風にして起こる。
これによって、紛れもない状態から紛らわしい状態に転じたものは再び紛れもない状態へと戻ってゆく。

もしそうだとしたら…
最初の方の紛れもない空気も、最初は紛らわしいものだった可能性がある。
その紛らわしさも、再定義によって徐々に、紛らわしくないものに転じていったのだろう。

しかしいずれにせよ、そのもっと最初の空気というのは、もはや完全に忘れ去られている。

空気が特定の装置によって定義された後になっては、元々空気と呼ばれていたものは「空気+空中エレメント」として捉えられるようになる。
しかしこの後の「空気」がそれ自体で紛れもなく空気を意味するようになった後では、空気と空中エレメントの結合の必然性は忘れられてゆく。
なぜなら、空中エレメントを考え合わせずとも、空気だけで十分に独立した実体でありうるからだ。
或る実体が別な性質へと転じたのではなく、別な実体が誕生したのだ。
この新実体の誕生は、新しい用語法の登場でもある。

ところでこの例の場合、
(1)もはや忘れられた元々の空気(という記号)
(2)生命をもとにして考えられた第二の空気(という記号)
(3)特定の装置をもとにして定義された第三の空気(という記号)
という価値変遷の歴史がある。

この変遷によって得られたのは精確さである。
この変遷によって失われたのは単純さである。

1年前 No.84

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>81

適合(Stimmen)が問題だ。

何かが適合すると言われる場合、適合するものと、それに合っているものと、2つ必要である。だが、その2つのものは何において適合するというのか?そう、適合が起こるためには、最低でも、2つのものと、1つの適合基準という、3つのものが必要なのだ。ところで、その基準にされるものは、どのようにして選ばれるのか?つまり、その基準が2つの適合対象と適合するということを測るための基準はどこから取られるのか?ところで、この基準が何かしらのところから取られるとしても、この基準選択が今の適合(すなわち2つのものと1つの基準との間での適合)と適合するかどうかを測るための尺度は…どこから取られてくるのか?以下無限に続く。

端的に言おう。
適合とは、適合するものと適合の基準とのあいだの適合に他ならない。

すなわち、真に適合するのは、任意の対象と任意の対象ではなく、或る基準(Mass)と、それに適合するものと、であるのだ。
すなわち、或る基準に適うものが有るということ自体が適合なのである。
すなわち、適合は、或るものと或るものが何かにおいて合致してはじめて成立するものなのではない。
適合は、そもそもその「何かにおいて」ということが起こることそれ自体である。

適合は、不適合の可能性そのものである。

或いは、適合を可能にするものが、適合と同時に不適合を可能にしている。

適合を可能にするものと、何かの適合および何かの不適合は、別である。

では何が適合を可能にしているのか?

そもそも適合が可能であるとはどういうことなのか?

そして、基準と真に適合するとされる、適合者というのは、いったい何なのか?

そして、このとき基準とは何なのか?

そもそもの話に戻れば分かる。「発言と話題との適合性は、その話題が何であるかということそれ自体である。」そして、発言と話題が適合しているときには「間違える可能性が端的に無い」のだ。適合者は発言であり、適合の基準は話題である。適合は、発言と話題との間における関係である。「発言」という言葉と、「話題」という言葉と両者は、それ自体が話的な言葉であり論的な言葉であるから、それらの適合は、発言と『事実』との適合とも違うものである。

だが、間違える可能性が端的に無いというのはどのような状況なのだろうか?

それは、適合が話者を捉えて話さない限り話者は話題について語るのだがその発言が適合を完全に表に出すことがないという状況である。

表に出され、議題として提示された話題は、「間違える可能性が端的に無い」という状況とはほど遠い。むしろそういう議論においては、間違えているかそれとも間違えていないかという発言の正しさこそが問題になるのであって、つまり「端的に間違える可能性が有る」という状況なのである。では、間違える可能性が端的に無い議論というのは、議論の余地が無い議論なのであろうか?すなわち、争うまでもない自明な普遍的共通事項なのか?いや、はっきり言って、間違える可能性が端的に無い議論など存在しない。そういう話し方は、「間違える可能性が端的に無い適合性」とも適合せず、議論というものとも適合しない。

議論とは何か?

そして、議論とは決して相容れないものとしての、本来的適合性とは何のことか?

議論では、提示された問題についてあれこれと語りながら、その発言の正しさを問題にする。
発言の正しさは、事実に合っているか、現在の話に添うものとなっているか(話を履き違えていないか)、相手からの発言に対して適切な応じ方をしているか等によって測られる。議論ではまさしく発言の話題との適合が問題になっている。

しかしこれが問題になりうるということは、話題と発言との解離があり得るということである。すなわち、今話題になっているものとは別なものを話してしまうことがあり得るということである。しかし、自分がいま話していることとは別なことを話してしまうなどということがあり得るのか?あり得る。例えば、何のことを話しているのか分からないにも関わらず、或る特定の定まった形の発言を繰り返す場合である。しかし、このときにはもう「自分がいま話していること」がまだ残続しているかどうかさえ疑問である。

間違える可能性が端的に無い適合とは、話題を見据えることだ。話題から眼を離さないことが、端的な適合それ自体である。

相手が話題から一切眼を逸らしていないと見なして相手の話を聞くことは、相手の言葉を(それがどれだけ互いに離れて異質なものに思えても)整合的になるように努力して解意することである。

整合は適合に基づく。整合的であれば内容がどんなであっても正しいわけがなく、反対に、内容が適合的であれば見かけ上の不整合には眼をつぶってもよいだろう。ただし、このような不整合を自分に許すというのは、怠惰でしかない。そもそも、適合的であろうと望むならば、整合的に語ろうとするはずだ。適合的であろうと望みながら、自らの不整合を許すということは、当初の意志に矛盾している。

しかし、話題が見かけ上の不整合をものともしないものであったときは?すなわち、人間がどれだけ不整合に語ってもなおその適合性を保つほど適合的なものがあるとすれば?そしてむしろ、単に整合的に見えるように語るよりも、遠く遠く離れたものこそを適合的に見せるような語り方に親和するような話題があるとしたら?

このような話し方は、逆説的である。

逆説は言葉の整合性とは異なるもの…話題と発言との適合性を示す。

1年前 No.85

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

常套句(form)が会話の成立をスムーズにする。



「イデアこそが本当に存在するのであって、感性的なものは本当は存在しない。」

これは実に分かりやすい表現だ。この言葉の意味は通じると思う。

そして

「ということは、いま見ているこのパソコンも、いま座っているこの椅子も、本当は存在していないんですね!?」
「その通り」

と会話が成り立つだろう。



様式(form)は、実体を参照しないまま処理することを可能にする。


だがこの常套句を誰が最初につくったのか。

常套句の連関を、事象を見据えつつ、接合的に組み立てた者が存在する。
事態に則るようにうまく配分され組み立てられた一群の言葉が存在する。
そういう組み立てる努力の結果が、一連の常套句となっている。



そして様式(form)は、実体参照の省略をうながすゆえに、その様式で言及されていない諸事項を見過ごさせる危険がある。
事象を見据えつつ自ら接合的に組み立てた者は見過ごしていなかったが、しかし彼が様式(form)にまで反映させていなかった諸事項が見過ごされる。

この創設者の言葉の後先が見過ごされる。
この創設者の前提が見過ごされ、この創設者がこれから語らんとする諸事項が禁じられる。
常套句は固定され、それが前提とすべきものとなり、それが創設者自身のこれからの論述をも限定すべきものとして見られることになる。





ダマし絵を見て、平面の絵が飛び出て見えるとき、「しかし理屈の上では飛び出していない。平面だ」と言える。
このとき私は、そう見えざるをえない見え方を否定して、理屈を優先させる。
理屈というのは、「これは平面なのだから、立体的ではない」というシンプルなものだ。
すなわち、実際に見えているものよりも、その見えているものが何であるかを、判断の基準として、優先させるのだ。
ここでは、見た通りの印象と、何であると見られたかの本質が、対立させられている。

見えるがままの見えは、自分ではコントロールしがたい。
ダマし絵が飛び出して見えるように見えざるをえないという必然性は、「これは平面である」という理屈によって、撤退させられる。
「これは何々だ」という正体把握は、コントロールできない受動性を放逐して、自分の正体把捉をそれよりも優先させる。

判断の基準を、視覚ではなく、その視覚において自分が看取した事象に取ることが、ここで起こっている。
しかもその看取された事象は、立体性ではなく平面性が選択されている。
ここでは、見たときに迫ってくる印象ではなく、前もって企図された正体が、基準となっている。最初はダマされていたが、よくよく確かめてみたら実はどうなっているかが分かった場合であっても、やはりそれが判明した後でも見える見かけは視覚的に変わらない。すなわち、最初はダマされて後から事態が判明した場合でも、ダマし絵を見てそれがダマし絵だと判断するときには、基準が前もって看取された事態そのもの(ダマし絵であるという事態)である。

そもそも、その立体に見える見かけが実は平面であると確認するために、例えば表面を撫でてみるという発想が生れるのは、予めそれが実は平面だと思ってのことである。
この表面を撫でてみるという行為は、それが騙し絵であるという思いと適合している。

そして触れてみると、それは「飛び出して見えるダマし絵に見せかけた本当の立体的オブジェ」であったと判明するかもしれない。
しかしこのとき、「いや、これは触れてみると立体的に思えるが、本当は立体に見せかけた平面だ」と言うことはできない。
しかし、触覚感覚が視覚感覚よりも優先されたということではない。
触れてみたことによって「それが何であるか」についての看取が変わったから、もはやそう言うことはできないのだ。

すなわち、そのような正体把捉は、自ら企図したものではなく、正体判明の明るさのうちに入り込まされていることである。
この正体判明によってその正体に適合的な行為をする発想が生れるということが、適合という出来事である。
適合は、行為の選択ではなく、基準の選択ではなく、ものの正体の判明である。

1年前 No.86

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

てじさん

感覚に誤差があるのは・・意識が伝達のせいだと思いませんか?

1年前 No.87

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

「どうして言葉の意味が通じるのか」

すでにこの問いには、「言葉の意味は通じる」という前提が置かれている。
そこで問いをより根本に移すために、「そもそも言葉の意味は通じうるのか」という問いを立てる。
この問いは、最初の問いを問うにあたって、まずもって検討されねばならない問いである。
私たちは何をもって言葉の意味が通じるとするのか。
言葉の意味とは何か。
言葉と意味は分離しうるのか。

たとえば、「とぅめんこ」という言葉は一見意味のない言葉である。
しかしここで、私を怒らせた異邦人が、両手を合わせて申し訳なさそうに「とぅめんこ」を連呼した場合、その異邦人の切実さから、私は謝られていることを理解する。
少なくとも、相手に謝罪の念があると捉える。

この具体的状況を振る舞いを含む広義の「文脈」と捉えれば、「とぅめんこ」の意味は、文脈において決定されたことになる。

一方で、実はこの異邦人は、私の怒りを見て、何かに憑りつかれたと思い、悪霊払いの意味で「とぅめんこ」を連呼していたとすれば、私は「とぅめんこ」の意味を誤解していたことになる。

このとき、まだ「とぅめんこ」は両者間で分裂している。

では、どのタイミングで「とぅめんこ」が双方向的な意味を確定するのか。
この問いに、言葉の意味が通じうるか否かの一切が懸かっている。

けだし、相手の応答の手ごたえにおいて、言葉の意味が決定するとすれば、厳密には、双方向的な意味の確定はありえないのではないか。

異邦人が「とぅめんこ」を連呼することによって、私は謝られたと思い、怒りを鎮めるが、その私の応答を見て、異邦人は悪霊が去ったと捉える。
その異邦人の安堵する姿を見て、私は一層、「とぅめんこ」が謝罪であるという確信が強まる。
こうして、相手の応答によって、「とぅめんこ」の意味は確定するも、厳密には、誤解の生じる事態がありうる。

しかし、そのように考えると、そもそも相互理解というものの一切がありえないことになり、言葉の意味は全く通じておらず、私が勝手に通じていると勘違いして、独我論的な世界に放置されることになる。

この問題が生じるのは、この具体例に、未だ決定的な状況が欠けているからである。
その決定的な状況とは、「第三者」である。
「とぅめんこ」の意味は両者間で誤解されているが、その誤解を認識し、正しうるのは、その状況を俯瞰的に捉えることのできるもののみである。
言い方を変えれば、「とぅめんこ」の意味は第三者によって公共性を獲得する。

この呼びかけと応答の対話とそれを俯瞰する第三者、かつその第三者によって意味が一般性を獲得する、そういった構図は弁証法特有のものであり、言葉の意味が通じうるか否かという問いは、弁証法において通じうると答えることができる。
けだし、この俯瞰する第三者を排除する考えは、いまだ一般性を獲得しない言語空間で孤立する実存を生むことになる。
しかし、この実存が孤独から脱しうるには、言葉が欠かせない。
それは言葉の意味決定にすでに、第三者という条件が含まれていることに由来する。

このように、前提から問うことによって、最初の問いに対する答えも必然的に浮き彫りになってくる。
すなわち、言葉の意味が通じるという事態は、その原初においては、対話のうちではなく、必ず第三者、もっと言えば社会性を必要とする。

1年前 No.88

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

 現代を生きる私たちが日常使用している言語は、ただのツールなのだろうか。用件を伝えたり、冗談を言い合ったり、愛を囁いたり、それだけが言語の果たす役割なのだろうか。私たちの世代は震災という大きな傷を経験している。私は間接的にしかそれを経験していないが、被災地では、物質的な支えもさることながら、言葉による精神的な支えも求められたと聞いている。そこでは言語はただのツールに終わることなく、生きる糧として積極的に役割を果たしていた。言語にはときに、それによって人が生きる拠り所となる大きな意味も与えられることがある。言語には生々しい側面がある。そこには無機質な科学的言語からはあまり感じられない、生き生きとした側面があり、そこから私たちは日々を営む活力を得るのである。
 では、言語がそのように、誰かの生きる糧となるのは、どんなときだろうか。思いやりのある一言、共に嘆き悲しむ者がここにもいることを告げる言葉はどのようにして生まれるのだろうか。そういった言葉のすべてに共通するものはいったいなんだろうか。
 私たちは他者の絶望に胸を痛めることができる。心から同情し、自分に何かできることはないかと自問することができる。そこには純粋な他者への祈りがあり、実践的なあらゆる行為の根底にある、純粋な行為とも呼ぶべきものがある。言語がこの祈りを起点として生まれるとき、それは誰かの心へ響くかけがえのない表情を帯びることになるのではないだろうか。誰かの生きる糧となるような言葉とはこのような祈りを起点として語られたものなのではないだろうか。
 日常を生きる私たちにとって、言葉はしばしば軽く見られがちである。そこにはときに暴言というかたちで誰かを傷つけたり、他者を軽んじるような砕けた表現がガラスのように突き刺さった言葉があったりする。言葉が軽視されがちな時代にあって、この祈りを起点とした言語を強く主張することは、もう一度、他者との関係を見直そうと促すことに等しい。

4ヶ月前 No.89

宿題 ★hxYn2UbX46_a2e

伝達という方法以外に意識を感じる方法が無いのでしょうか?

4ヶ月前 No.90

俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E

うどん粉さんは、社会性というよりも全てを俯瞰して見ることのできる全知の神の存在を必要とする、と言うべきじゃないのかなぁ?

その第三者だって誤解しているかもしれないし、第三者の第三者、第三者の第三者の第三者以下同様。
とすれば、どこまでいっても言葉の意味決定はなされず、一般性(公共性)も獲得されない。

だから、それ以上誤解の可能性のない第三者、全知の神の存在を前提とする。
言葉が通じるのは全知の神が存在するからだ、と。

と書いてから、うどん粉さんの書き込みが一年も前のものだと気付いた。

3ヶ月前 No.91

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

どうして言葉の意味が通じるのか、ではない。

言葉からどのようにして私が生まれるのか、である。

諸項の順番を逆転させねばならない。

まず私がいて、あなたがいて、それで後から言葉がつけ加わるのではない。

まず言葉があって、そこから私やあなたが生まれるのである。

だから通じるのは当たり前なのである。

3ヶ月前 No.92

宿題 ★hxYn2UbX46_a2e

自然災害で命を落とすと思うのは今日この頃になってから・・

その都度予測と判断力は環境を把握する必要がある・・

相手の環境を如何に把握して予想できるか・・共感するには相手の状況を把握しておかねば・・

3ヶ月前 No.93

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 直感的には、経験や概念がまずあって、それが言語を獲得するというイメージのように思っています。

 だから、生活上の要不要や経験した内容や物事の捉え方のある種偶然的な違いによって、通じる言葉のバリエーションは微妙に違うのではないでしょうか。そして、集団内で、あるきっかけで区別する必要が生じたとき、呼び分ける必要に迫られて、言葉(名詞)がつくられていくということかと思います。

 例えば、「エスキモーといえば、よく「雪」を表す 言葉のことが挙げられます。「カニック、 アニユ、アプット、プカック、ベシュト ック、アウベック」とあり、カニックは 降っている雪、切片としての意味です。 アニユは飲料水をつくるための雪、アプ ットは積もっている雪、プカックはきめ 細かな雪、ベシュトックは吹雪、アウベックはイグルーをつくるための切りだした雪です。これは、初めに「ユキ」があって、それを細分化しているのではなく、 初めから別個に分かれています。つまり、 互いに音声の類似がないことからわかるように、(細雪、どか雪、粉雪といったように、雪に形容をつけて2次的に細分化し ているのでなく)それぞれまったく別物としてとらえられた、最初からの類別化・ 範疇化なのです。しかも、これはかぎられたエスキモーにとっての専門用語といったものではありません。つまり、それらの個々の範疇は、(飲料水をとるもの、イグルーをつくるものといった)生活上の 基本的な行動様式、それと結びついた道具、技術などが切り離しがたく結びついた、エスキモーにとっては日常的な基礎語彙だということを忘れてはなりません。」(「言語の違い、認識のちがい」宮岡 伯人 大阪学院大学情報学部教授)

 文法については、言語学などは素人ですが、何かを他者に伝える必要に応じて、生成し、多様化していったと言えるように思います。
 あまり哲学的ではないですが、「どうして言葉の意味が通じるのか」は、意思疎通しうる範囲を「言葉」と呼んでいるということではないかと思います。(通じるように使っている(いた)から、言葉と呼ぶ(呼んだ)。)

 歴史上で「未解読文字」と言われるものがいくつかあって、もちろん我々には意味が通じないのですが、他の言語の文字から類推して文字ではないかと仮定している限りで、「文字」という表現が使われているだけで、単なる土器や銅板の装飾だった、あるいはそれをつくった技術者が独自に生み出し、当時もだれにもわからない「文字」だったかもしれないと想像したりします。

 ので、通じるものしか、言葉として残らないということかと思います。当然、属する集団による使用言語の違いや、個々人の言語に対する理解度や処理能力、いわゆる読解力などに差がありますので、言葉全てがすべての人に同じ程度で通じることはないでしょう。また、常に新しく想像もされるでしょうが。

 多くの場合、言葉の意味は、単に言葉だけでなく、発せられた状況やそれを受け取るのが誰かということでも、意味が変わる余地が常にあるものだと思います。

 スレのテーマ的には、こういう議論ではないのかもしれませんが……

3ヶ月前 No.94

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>94

 「また、常に新しく想像もされるでしょうが。」は、
 「また、常に新しく創造もされ、集団内で広まることもあるでしょうが。」に訂正します。

3ヶ月前 No.95

俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E

たぶん、「誤解」というものが一役買って、こう考える人は多いと思う。
言葉(の意味)を理解するとは何か心的なものである、と。
だから(で繋げるには飛躍があるようにも思うけれど)、何故言葉が通じるのかが不思議に思えるのかもしれない。

もちろん、言葉を理解するとは何か心的なものであることを否定するわけではないし、何か別のそれらしい答えをもっているわけでもないけれど、誰かと言葉を交わす多くの場合、言葉を理解する何か心的なものや心的な過程と呼べそうなものはないように思う。

3ヶ月前 No.96

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>94 のつづき

 「どうして言葉の意味が通じるのか」

 私的には、ヒトは生物学的に言葉を発することができる必然として、伝える必要のあることについて、その必要に迫られて、伝わるように言語が作られ、世代を超えて、維持されてきた(あるいは変遷してきた)というふうに思います。

 ただ、伝わるかどうかは、個人がどう受け取るかなので、その個人の言語能力や知的背景、その時の状況によって、通じ方の程度は差が生じると思います。

 それ以上の深い論点を見いだせていません。

3ヶ月前 No.97

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>97

 「伝わるように言語が作られ、世代を超えて、維持されてきた。」

 生物学的に発声機能や認識能力などの発達が前提となって、伝わるものとしての言語が成立したのだと思う。

 「どうして言葉の意味が通じるのか」といえば、生物学的に発声機能や認識能力などが発達したからにすぎない。

 単語とそれが示す物や事態の関係性を理解する能力が備わったからで、「どうして言葉の意味が通じるのか」という問いそのものが意味をなしていないように思われる。

3ヶ月前 No.98
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