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ロゴス

 ( 哲学掲示板 )
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てじ @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

ハイデガーの論文「ロゴス」について話すスレです。「ロゴス」はハイデッガー選集『ロゴス・モイラ・アレーテイア』などに邦訳があります。ハイデッガー全集7巻およびKlett-Cottaの『講演と論文』なども参照ください。

3年前 No.0
メモ2017/01/08 12:23 : てじ @flyonbody★ZkiDndseok_Ew9
ページ: 1

 
 

てじ @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

ロゴス

「私たちの思考の、最も必要な道は、広い。この道は、ロゴスという名のもとに思考すべきものでありつづけているあの単純なものへと通じている。この道の方向を指し示すしるしは、いまだに、これから[その道を指し示すべく]わずかにある。
これ以後に続くこの論文では、ヘラクレイトスの箴言(B50)を導きとして、自由に考察しながら、その道を何歩か歩もうと試みている。おそらく、そのように歩むことで私たちは、その箴言が、少なくとも、より疑いに値するしかたで私たちに語りかけてくるような所に近づくだろう。断片50は次のようになっている。

ウーク・エムー・アラ・トゥー・ログー・アクーサンタス
ホモロゲイン・ソフォン・エスティン・ヘン・パンタ
ouk emou alla tou Logou akousantas
homologein sophon estin Hen Panta.

これには様々な翻訳があるが、それらの似たり寄ったりの翻訳のうちの一つは、このようになっている。

□Habt ihr nicht mich, sondern den Sinn vernommen,
so ist es weise, im gleichen Sinn zu sagen: Eins ist Alles. □
[※Einsはイタリック]
[すなわち、『君たちが、私ではなくて意味の方を聞き取ったなら、一は全というのを、同一の意味で言うのが賢い。』]」

わからない箇所も多いが、ひとつ分かるのは、ハイデガーがこのヘラクレイトスの箴言を解明するために「道を歩む」というよりはむしろ、その箴言が「より疑わしくなる」ためにそうするつもりでいる、ということだ。

「より疑わしい」は、frag-w□rdigerのことだ。frag-というのは、Fragenで、つまり問うということ。-w□rdigは、○○する価値がある、○○するに値する、ということだ。

しかも、単に私たちが疑い深くなるのではない。箴言(Spruch)が、より疑わしくなって、私たちに語りかける(sprechen)のだ。
すなわち、箴言は、より謎になるにもかかわらず、語りかけてくる。謎は理解を拒むが、それと同時に、謎が語りかけてくるのだ。

3年前 No.1

てじ @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

>>1

>おそらく、そのように歩むことで私たちは、その箴言が、少なくとも、より疑いに値するしかたで私たちに語りかけてくるような所に近づくだろう。


歩む、ということは、ハイデガーが「私はもうこの論文を書いてしまって、それで問題を一応解決しましたので見てください」と言いたいのでは、ない、ということだ。
「お前も歩め」ということだ。私には、ハイデガーの研究結果を読むことだけでなく、事柄を辿ること(sinnen?)も求められているだろう。
□□□□□□
「近づく」という表現は、すぐ後にまた出てくる。この論文では主題にならないと記憶しているが、時に、「近さ」を、ハイデガーは語る。※たとえば「物」という講演において、など。

3年前 No.2

てじ @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

「この箴言は語っている…アクーエインのことを。すなわち、《聞くこと・聞いてしまったこと》について。ホモロゲインのことを。すなわち、《同一のことを言うこと》について。エゴーのことを。すなわち、レゴーン(語り手)としての思考者自身について。ヘラクレイトスはここで、《聞くこと》と《言うこと》のことを熟考している。彼は、ロゴスが言うことをこう言い表わしている…ヘン・パンタ。すなわち、一が全である、と。ヘラクレイトスのこの箴言は、どんな観点から読んでも納得できるようにみえる。それでも、ここでは全てが疑うに値するものでありつづけている。最も疑うに値するのは、最も自明なことだ…すなわち、『ヘラクレイトスの言うことは、彼よりも後から生まれた私たちの常識からすれば、直接的に明らかであるにちがいない』という決めつけが、最も疑わしい。これは一種の権利主張だが、おそらく、この主張内容を満たした者は、ヘラクレイトスの同時代者や同行者を含めても、誰もいなかっただろう。
しかし、古代の人たちにとってのみならず私たちにとっても、思考された事柄においていくつかの謎が残っている、ということを認めるときに、私たちはむしろヘラクレイトスの思考に応えたことになる、と言ってもよい。私たちは、それを前にして退くときにこそ、むしろそれに近づく。その際、示されることは…謎が謎であると気付くためには、何よりもまず、ロゴスが何を意味するか・レゲインが何を意味するか、ということを明らかにする必要がある、ということだ。」

ロゴスが何であるかを明らかにすることによって、謎が謎として気づかれる。すなわち、謎が深まる。
一見ヘラクレイトスの箴言は現代人にとって明らかにちがいないように思える、とハイデガーは言う。
ヘラクレイトスの箴言が謎であるだけでなく、ヘラクレイトスの箴言で言われている事柄そのものに謎がある。だから、謎を謎と認める方が、ヘラクレイトスの箴言に対応していることになる。

この後、ホモロゲインやウーク・エムー(エゴー)そしてヘンなどについて語られる。ホモロゲインは「同意」などと訳されたりする。ウーク・エムーとは「私に、ではなく」という意味だ。そしてヘンとは「一(いち)」である。もちろんロゴスというギリシャ語について語られることになる。

『存在と時間』では、ロゴスはドイツ語でRedeと訳されている。このドイツ語レーデは、日本語では「話」などと訳される。『ロゴス』ではこうした訳はされないが、しかし「話」という事柄は、ここでも存続している…という記憶がある。

一事が万事という言葉がある。しかし、ヘン・パンタはこの言葉と同じだろうか。ひょっとすると、ヘンというのは特別な「一事」かもしれない。いわば、それを知りさえすれば死んでもいいような、唯一的な事柄かもしれない。

後に、少しだけ、「同じ」ということが、ホモに関して、語られる。

3年前 No.3

宿題 ★5z6bVAmgS3_6Gk

実存を忘れ
真理の多様性から深淵に臨む眩暈に完全に引き込まれすべての基底を奪われ自己欺瞞の中へ逃げ込んで
自分を閉ざさないために

一つでとらえようとする原理的に不可能なことには、挑戦してはいけない。

3年前 No.4

死体の蠅 @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

Dem Sprechen gehoeren ― dies ist nichts anderes als: jeweils das, was ein vor-liegen-Lassen beisammen vorlegt, beisammen liegen lassen in seinem Gesamt.

直訳すると…
語ることに属する、これは次のことにほかならない:そのつどそのつど、或る前に置いてあるようにさせることが共に前に置くものを、その全てにおいて共に置いてあるようにさせること。

この難文は「ロゴス」の著者が何かについて語った結果として出てきた。
では、この難文という同じ結果にいたるようなスタート地点に私は立てるだろうか?

2年前 No.5

死体の蠅 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

dem Sprechen gehoeren
この「sprechen」が「legein」であり、「legein」が「legen」であり、「legen」が「beisammen-vor-liegen-lassen」であるということが前提になっている。
「gehoeren」は「gehoert haben」との関連で出てきた。「gehoert haben」は直訳すると「聞いてしまった」であり動詞「hoeren」の現在完了形である。

Wir haben gehoert, wenn wie dem Zugesprochenen gehoeren.
(直訳)私たちは、語り渡されたものに属するときに、聞いてしまった。
すなわち、私たちが「聞いてしまっている」という状態にあるのは、語られている事柄が分かっているときである。何が話されているか分からないときには、私はまだ聞き取っていない。何が話されているか分かったときに、少し前に言われていた言葉の意味が「ああそのことね!」と分かる。

したがって「gehoeren」を「属する」と訳すのでは、不十分である。よくやられるのは、「gehoeren」を「聴属する」と訳して「聞く hoeren」との関連を示す翻訳だ。
私はあえて「gehoeren」を「ついて聞く」と訳す。本当は、「ついて」だけがいいのだが、それでは文章にならないので、「ついて聞く」と訳す。

dem Sprechen gehoeren, dies ist nichts anderes als
話されていることについて聞くこと、このことは次のことにほかならない。

jeweils das (…)beisammen liegen lassen (…)
この「jeweils」を見過ごしてはならない。「das」は「liegen lassen」という動詞の目的語だ。
「jeweils」は、「そのつどそのつど」という意味だ。「je-」それぞれの「-weils」時間で、という意味。「Weile」は「間」を意味する。例えば「fuer eine Weile」は「しばらくのあいだ」という意味である。英語で言う「for a while」だ。
さて、「jeweils」なのだから、聞くとき聞くときそのときそのときが重要である。聞くとき聞くときによって置かれている事情は異なるだろう。「ついて聞くこと gehoeren」は、聞くとき聞くときにそのつどいつも問題になる。つまり、そのときそのときで語られている事柄に注意を向けることが、「ついて聞く」ときには重要である。

das, was ein vor-liegen-Lassen beisammen vorlegt, beisammen liegen lassen
さて、注目すべきは「beisammen vorlegt, beisammen」という「beisammen」の繰り返し。
もうひとつ、「ein vor-liegen-Lassen (…)vorlegt, (…)liegen lassen」という「liegen lassen」の繰り返しだ。ちなみに「vorlegt」の「legt」は「legen」であり、「legen」とは「liegen lassen」なので、ここでは「liegen lassen」が3回も繰り返し出てきていることになる。
なぜ、このように重複して繰り返されるのか?
ひとつには、「ロゴス」の著者であるハイデガーが「語ること」と「聞くこと」がともに「legen」であるという風に話を持って行きたいからだ。
もうひとつには、この著者が「legen」に導かれて「語ること」と「聞くこと」とを普通とは従来とは違った目で見ているからだ。
そしてたしかに、「聞くこと」は「語ること」なのである。あるいは、「聞くこと」は「legen」であり、「語ること」も「legen」であるのだ。

das, was ein vor-liegen-Lassen beisammen vorlegt
「das」は「was」に当たる。「was」は、ここでは語られた内容と考えてもらっていい。「何が語られたか?」という問いの答えで出されるのがここでの「das, was」である。英語の関係代名詞「what」や「that which」を思い出してほしい。ドイツ語の「was」は英語の「what」である。
問題は「beisammen」と「vorlegt」だ。
「beisammen」は「一緒に」とか「集まって」とかを意味する。例えば「Beisammensein」は「集まり=集会」を意味する。ここでは何が「一緒に」「集まって」いるのだろうか?
私が思うに、様々な言葉と様々な事物が「一緒に」、ということだと思う。「今日、寝坊して慌てて車に飛び乗ったら、財布を忘れた」という語りは、「寝坊」とか「慌てて」とか「財布」とか様々なことを「一緒に」まとめて語っている。だが「明日、水泳して悲しくて時計に座ったら、財布を助けた」という語りは、同じく様々なことを並べてはいるが、支離滅裂である。こんなことを言う人は「nicht alle beisammen haben」だ。つまり「頭がいかれている」。直訳すると、「全てを、一緒にしないまま、持っている」となる。この違いが示唆するものに注意してほしい。
では「vorlegt」すなわち「vorlegen」は?
直訳すると、「前に置く」「前に横たえる」あるいは「発表する」「提出する」「世に問う」「成果をあげる」という意味である。とすると、ここでの「前 vor=fore」というのは、他の人びとにも見えるところのことらしい。自分の物事を「vorlegen」しなければ、他人はその物事を評価することもできないし、それについて何も言わないということすらできないだろう。「vorlegen」とは、内に秘めずに他人のもとに晒すことであろうし、そういう意味では相手に自分の物事を委ねることでもあるだろう。
ここで「liegen Lassen」が生きてくる。「lassen」は、「ゆだねること」「あずけること」「流れるにまかせること」「放っておくこと」「放り投げること=放棄すること」「置いたまま立ち去ること=置き忘れ」などを意味する。
したがって「vor-liegen-lassen」というのは、語られた事柄が自らの存在を示すように、それを自分のもとから解き放つことである。話すことによって、他人は話されたことに「ついて話す」ことができるようになる。だが下手な話し方ならば、他人は自分が話したいことに「ついて話す」ことをしてくれない。話は支離滅裂であってはならず、「まとまって」いなければならない。
したがって「語る」とは「beisammen-vor-liegen-lassen」であり、語られた事柄が全員の前に存在し、その事柄が全員に対して「我をかくかくのように語れ」という風に指示することができるように、まとめることだ。
そして「聞く」というのは、前という場所(事柄が、我について話せと、事柄自身の居場所を示すときの場所)に出された話題について語られた言葉をまとまったもの(意味のあるもの)と見なして、そこで示される事柄が自分の返答用意を規定するようにさせることだ。
「聞く」とは、ただ受け取ることではなく、存在を示すものの示しが自分のもとに届くようにそのものに「力を認める」ことである。

in seinem Gesamt
最後のこれが難しい。
「Gesamt」は「sammeln」という「集める」を意味する語を思い起こさせる。もちろんこの語は「beisammen」とも関連があるだろうし「ロゴス」という論文の前提として「legen」は「sammeln」である。
まず簡単なところから。「seinem」というのは「das, was」の所有代名詞である。
「Gesamt」は、「全…」という意味である。すなわち、「全ての」という意味だが、ところで、「全て」は「統べて」であり、「すべて」というのは「統一的に集められたもの」のことではないか?そして「統一的に集められたもの」は「統一者」の「集結」によって出てくるものだ。
そして、ここでは厳密には「聞くこと gehoeren」ではなく「ついて聞くこと gehoeren」が話の核である。
「ついて」聞くかぎり、相手がまだ話していないこと、これから話すことも予想がつく。朝について、「目を開けた」と聞いたら、次には「布団をどかす」とか「起き上がる」とか「カーテンを開ける」とかの予想がつくのと同様に、「ついて」ということが起こるときには或る程度の予言が可能である。
「Gesamt」はそのような、「そのつどの」語られたものに「ついて」の可能性全体である…と私は解釈しておく。
「gehoeren」とは、単に言われた言葉の意味が分かるだけでなく、なぜその言葉がそのような形でそのときに言われたのかということも分かるということだ。すなわち、そのときの言葉の意味を分析できるだけでなく、その言葉をまだ言われていない言葉や前に言われた言葉と綜合できる。

「beisammen」というドイツ語をギリシャ語にすれば「syn」となるだろうし、「綜合」はギリシャ語の「synthesis」に由来するらしい。「thesis」は普通「定立」というように訳されるが、この「thesis」は「legen」と無縁ではない。(ただ、「thesis」は普通ドイツ語「setzen」と訳される。)

この難文から「綜合とは何か」を考えることもできるだろう。

◯ハイデガー・パロディ
語られた事柄に"つく"こと、このことは次のことにほかならない:そのつどそのつど、まとまった形で前に出されてそれ自身の存在を示すようにされた事柄を、やはりまとまったものとして、しかも綜合的に統べられたその事柄特有の可能性全体におけるものとして、それが自分に語りかけてくることができるようにそれにその場の支配力を委ねること。

2年前 No.6

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

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2年前 No.7

宿題 ★5n9Jhh5DYh_1zu

死体の蝿さん

ドイツ語の3格、4格の語順は、素人の日本人には訳する時大変です。

定形(動詞)の第2位の原則(法則)などは、・・(ちんぷんかんぷん・・??)

ドイツ人は話し言葉の文法にさえロゴスを必要としたのです。

2年前 No.8

神様 ★ifi29bygzc_yoD

ふ〜ん 宿題さんって 頭いいんだね

2年前 No.9

宿題 ★5n9Jhh5DYh_1zu

神様

神様みたいにちょっとひねってみると・・魂(こころ)を勉強しているのに皮肉に聞こえます・・

2年前 No.10

死体の蠅 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1 の復習
fragwuerdig…問うに値する(疑わしい)という言葉について。
伏線が回収されたとき、伏線であったシーンが、伏線として明確に明かされ、そうすることによって、その伏線は「かつてその伏線をはじめて見たときに疑ってもよかったようなもの」と(遡及的に)成る。まだその伏線が回収されるさまを体験していない人に向けて、「どうしてこれはこうなってるのかな」と、それが伏線(いずれ明かされるはずの謎)であると臭わせること。そう臭わせなければ、その未体験者は、疑うべきところを素通りしたかもしれない。

真実が明らかになることによって、今まで触れてきたものが、問うに値するものとなる。すなわち、それの謎の本来の重みが、それに取り返される。

「そのように歩むことで私たちは、その箴言が、少なくとも、より疑いに値するしかたで私たちに語りかけてくるような所に近づくだろう。」
そう、或る所にまでいたった後で、今まで読んできたし、素通りしてきた有名な箴言が、問うに値するものに思えてくる。
そのときには、奇妙な問いの定式を思いつくだろう。
それは、《答えを知りつつ問う問い》の定式である。つまり、答えとしての現前者と対峙しながら、問いの言葉を発すること。

或る場所にまで行きつくことによって、過去に通り過ぎられたものが、私を呼びとめてくるようになる。この呼びとめは、私がそれを思い出すことと同じである。

>>7 のつづきの箇所

「ロゴスが何であるかを、レゲインというギリシャ語から読み取ってみようと思う。」

原文では、ロゴスとレゲインはギリシャ文字で書かれている。logosとlegein
ロゴスというと、哲学では有名な言葉だが、普通に暮らしていてはなじみがないように思える。
だが、カタログ(catalog)とかアンソロジー(anthology)とかの「ログ」とか「ロジー」もロゴス由来である。アンソロジーというのは「選集」のことで、カタログは「目録」のこと。これらはどちらも、ロゴスの《集める》という性格を残している。「ロゴス」という論文では、ロゴスのこの《集める》という性格について、まず語られることになる。そのとき使われる情景というのは、農業的なイメージだ。
ところで、伝説(legend)という言葉、これも「ロゴス」「レゲイン」(legein)に由来するのだろうか?レジェンドが、語り継がれた話の寄せ集めだとすると、レジェンドもロゴスを由来にしているかもしれない。ちなみに、「ロゴス」論文の後半では、「レーゲ」(Lege)というドイツ語(?)が出てくるが、これは「レーゼ」(Lese)と並べられる。これはアンソロジーを意味することもあるドイツ語である。そしておそらく、「レーゲ」は「ザーゲ」(Sage)と並べられる。そしてこの「ザーゲ」(Sage)というのは、《伝説》をも意味する。「サガ」(saga)という言葉がある。これは「物語」とか「伝説」を意味する。たとえば、「ゼノサーガ」とか「ロマンシング・サガ」とかいうビデオゲームがありますね。この言葉も、segjaという言葉を語源としており、これはドイツ語でいえば「ザーゲン」(sagen)にあたる。英語でいう「セイ」(say)ですね。
以上のことからして、ハイデガーもつづく言葉を次のように継ぐ。

「ギリシャ語を知っている人なら誰でも知っていることだが、レゲインというのは、言うこと・話すことを意味する。そしてロゴスというのは、発言することとしてのレゲインと、それから、発言された発言という意味でのレゴメノンを意味する。」

「レゲイン」というのは、「レゴー」の「不定形」だ。
英語では、3人称単数の場合、「say」が「he says」と変化する。これを「活用」と言います。ちなみに、名詞が変化するのは「曲用」という。例えば、ドイツ語では男性名詞「Mensch」(人間)が2格というものだと「Menschen」になる。同じ意味(人間)だけど、使われ方によって形が変ってくる。英語の、複数形で語尾に「s」をつけるというのも、それに当たるのかな(?)。あるいは例えば、「現象」(フェノメノン)の複数形は「フェノメナ」となる。姿形を変えることによって、複数という意味を持たせる。日本語では「人々」とか「人たち」とか、「ノマ」(畳字)を付けたり「たち」を加えたりして複数を表現する。でもこのとき「人」という形「hito」は変ってない。
レゴーというのは、レゲインの1人称単数。「レゴー」だけで「私は言う」を意味する。「私」を強調したいときは、「エゴー・レゴー」とか「レゴー・エゴー」とかいう風に、「エゴー」を付け加える。ちなみに、ギリシャ語は語順がけっこう自由である。ちなみに、デカルトの言葉で「コギト・エルゴ・スム」という言葉がありますね。いや…これはラテン語だ。しかし、ラテン語でも「コギト」だけで「私は考える」を意味する。「スム」というのもこれだけで「私はある」を意味する。「エルゴ」というのは、「それゆえに」という意味。

「レゴメノン」は受動の分詞だっけ…すなわち、「言われた」ということ。名詞となって、「言われたもの→言葉」を意味する。
ただし、私が読むときには、ほぼハイデガーのドイツ語訳を助けとして読んでいる。ただ、Perseus Digital LibraryというGreek Word Study Toolを私はよく使うと、紹介しておこう。これで検索すると出てくる。変化形も検索できるので、「本読んでたらちょっと1語だけギリシャ語が出てきちゃった〜」というときには、便利である。ちなみに、ラテン語その他の言語も検索できる。

2年前 No.11

宿題 ★5n9Jhh5DYh_1zu

外来語辞典を読むのは好きです。

ロゴスの所に以下のような文があります。


  ギリシャ語で言葉をロゴスと言い、ロゴスは又ことわり(理)でもある・・・・

  ロゴス(理)無しには言葉はなく、言葉なしにはロゴス(理)は無い。

2年前 No.12

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1,3,7,11

>>11 のつづき


◯前編

1.S. 200の箇所の翻訳(1段落未満)

「『レゲイン』というギリシャ語は、ギリシャの最初期から、《話す》・《言う》・《物語る》を意味しているということを否定しようとする人はいないだろう。しかし、『レゲイン』は同じく、ギリシャの最初期から、しかも《話す》という意味よりも根源的なところで、したがっていつもすでに、ということは先ほど述べた意味のなかでも、ドイツ語の同発音の言葉『レーゲン』が意味することを意味している。すなわち、《下に・前に・置くこと》を意味している。この意味のうちでは、《集めておく》ということが、支配している。これはすなわち、《獲り入れて集めておく》という意味でのドイツ語のレーゼンに当たるところの、ラテン語のレゲーレである。」

2.似たような発音(Gleichlautenden)

レーゲン…legen
レーゼン…lesen(これは《読む》という意味で使われる)
レゲーレ…legere
レゲイン…legein(本当はギリシャ文字)

3.ラテン語のlego(legere)を辞書で引いてみる

Lexidiumというアプリより、ラテン語lego(legere)の意味を《抜粋・収拾》。

・to bring together, gather
 寄せ集める、拾い集める
・to take out, pick out, extract, remove
 取り出す、見分けて選び出す、引き抜く、取り去る
・to pluck, strip, gather fruit from (a tree, etc. )
 摘む、剥ぎ取る、(樹などから)収穫する
・to draw together, furl
 纏まる、巻き上げる
・steal
 奪う
・to choose, select
 選ぶ

「これらは、Lexidiumから取ってきました」(奪ってきた?)
まさにこのように選びとり抜き取り、この場に集めることは、legereではないだろうか。

4.原文でのドイツ語。特にeinholenについて。

「下に・前に・置くこと」は、残念ながら今の段階では直訳となってしまっているが、nieder- und vorlegen。
「集めておく」は、Zusammenbringen。
「獲り入れて集めておく」は、einholen und zusammenbringen。
ここで「とる」を「獲る」としたのは、後々に《集める》ということが収穫のイメージで語られるから。

私はここでの「einholen」に、《買い込む》とか《買い入れる》とかに表われる《込む》《入れる》のニュアンスを読みたい。だが、「einholen」というのは、「錨を上げる」とか「帆をおろす」とか言うように、《下げたものを上げて取り込む》とか、《上げたものを下げて戻す》とかいうように《元に戻す形で収める》というニュアンスが見られるようだ。また、「遅れを取り戻す」「損失を埋め合わせる」というときにも、この言葉が使われるようである。だがまた、「einholen」は、日用品等を買い込む、食料品を買い入れるとかいう意味もある。これらに共通するものはあるのだろうか。ひとつ思いつくのは、《自分のところに引き入れる》ということ。《自分の手もとから離れていったものを、再び自分のもとへと連れ戻そう》ということ。
とりあえず「einholen」については、不明だというままにしておくほかない。

2年前 No.13

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1,3,7,11,13

◯後編

5.「nieder- und vorlegen」と「Zusammenbringen」について少し雑談的に、論文を忘れて、自分勝手な解釈を述べてみる。

〈zusammen-bringen〉

例えば、袋の中にお菓子を詰め合わせると、その袋を運ぶことによって複数のお菓子を一度に一緒に運ぶことができる。まず短絡的に「zusammen」と「bringen」とからイメージすると、これは、まとめて一緒に運ぶことである。林檎を摘みカゴに入れて、カゴにたまったら、仕分け(Erlesen)する所に運び、そこで箱へと仕分けて、その箱をトラックに積み込み、トラックが箱で一杯になったら、それを倉庫へ運ぶ。

「zusammenbringen」には次のような用法もあるらしい。
「keine drei Saetze zusammenbringen」(まるで口が利けない)
すなわち、三語も集めて来れない、数個の言葉も思いつかないほど、そこで何が起っているかを冷静に分析できない。逆に言えば、私たちが百の語を集めて来れるときには、私たちは自分が何のことを話しているかをしっかり理解していることだろう。

ところで、「niederlegen」と「zusammenbringen」との間には何か関係があるだろうか。
まず、「niederlegen」には《保管する、しまっておく》という意味がある。例えば、「Geld bei jemandem niederlegen」で《…に金を預けておく》という意味である。すなわち、金を、誰か知り合いのところなり銀行なりに、置いておくこと、そこに金をまとめて入れておくこと、ひょっとすると今後もそこに同じもの(ここでは金)を追加で持っていくかもしれないこと、である。そこで金は、《そこへとしまっておくもの》という意味を持つことになる。

じゃあ、「vorlegen」はどうなの。
これは、例えば《結果を出す》とか《効果を上げる》という意味もあるし、《質問を提出する》とか《希望を持ち出す》とかいう意味もある。すなわち《他の人にも見えるようにすること》、そのようにして《他の人もそれについて話したり、評価したり、対決したり、応対したりすることができるようになる》ということでもある。

じゃあ、「nieder- und vorlegen」って何なの?
ここまでのことを無理矢理まとめると、《まとめて一緒にして詰め合わせたものを提出する》ということであり、その詰め合わせにこれからも追加で物を入れるかもしれないし、しかもその詰め合わせには、他人も追加で物を入れることができるようになっている、ということだ。このようにして、物が集まっているだけでなく、人も集まり、物を持ち寄ることになる。ここには二重の集合がある。物の集合と、人の集合である。

まず私はこういったイメージを持っている。このイメージが、論文を読み込むことによって、どう変ってくるか。これを自己観察する。

2年前 No.14

百理 ★5n9Jhh5DYh_1zu

心の中にロゴスがないと動物と同じ運命です。

人間が社会を社会として成立させて生きているのは、ロゴスによるもの・・

2年前 No.15

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1,3,7,11,13,14

S. 200の続きの箇所
「本来、レゲインが意味するのは、自他を集めながらの、下に・前に・置くことである。」
Eigentlich bedeutet legein das sich und anderes sammelnde Nieder- und Vorlegen.

これを >>14 の読感イメージから言い換えると、

レゲインの本来の意味は、集められ纏まったものを他の人にも分かるように出して、そしてこの出すことは保管することでもあり、そしてこの保管場所は他人にも分かるようになっているのだから、この同じ保管場所に他人もまた物を持ち寄ることができるので、そうして他人もまた集まってくる(すなわち、そうした纏まったものの提示が、人を呼び寄せる…集める)。

…となる。

この読感イメージにおいては、anderesは「他人」であると解釈されている。
そして「sich sammeln」は物(言葉)の集合を意味しており、「anderes sammeln」は、そうした集合による(あるいはそうした集合を進行させる)話すことを意味すると、解釈されている。この話すことは、話し合いであり、集まりであり、集会(つどい)であり、すなわち他人の集まりである…と解釈されている。

また、保管場所というイメージが出されている(vorgelegt ist)。話すということは、同じ保管場所へと言葉を投げ込むことであるとイメージされている。しかし、このイメージはかなり間違っていると思う。しかしとにかく、話すことは、話題となっているものについて、言葉を継いでくることであり、それについての言葉を思いつき、その思いつきを口に出し、あるいはそれについてまとまった意見を考えてくることである。話し合いにおいて、私たちは普通に、意見を募る。意見は無いかと、意見を集める。そして、この意見それ自体も、やはりひとつの集まりであり、集めである。それは、「ひとつの整理のしかた」であり、「ひとつの秩序だてのしかた」である。こういった組織化は、或る視点を中心とした物の整列であり、整列されるものを集めてきて配置することである。

ただ、ここでの「sich und anderes sammelnd」が実のところ何を意味するかは、分からない。だがヒントはある。

2年前 No.16

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>15
また適当なことを言っている。
アリストテレスのzoon politikonとzoon logon echonから連想して、ただ思いつきを口に出すだけ。
ただ「ロゴス」という字面に反応して思いつきを反射的に打ち込むだけのアニマルだ。

2年前 No.17

百理 ★5n9Jhh5DYh_1zu

てじさん

普通に話しただけです。気に障ったのなら申し訳ありません・・

てじさんは、正確で厳密なのですか?

2年前 No.18

てじ @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

>>18
いや、私も正確で厳密ではないですね。

昨日はイライラしていたようです。八つ当たりをしてしまい、すみませんでした。

2年前 No.19

百理 ★5n9Jhh5DYh_1zu

てじさん

てじさんは、ハイデッカーに何故はまっているのですか?

私はヤスパースさんにハマっていますが・・

2年前 No.20

てじ @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

>>20
大学の授業で、ハイデガーを扱っていました。それで毎日読んでいたら、習慣になって、大学を卒業した今でも読んでいる、というわけです。

習慣であり日課です。

百理さんは、なぜヤスパースに?

2年前 No.21

百理 ★5n9Jhh5DYh_1zu

てじさん

私は文学系の全集物を何人も読破しました。

ヤスパースさんの本だけが、心のピントがぴったりあったのです。

もっとも他の哲学者の方をまだあまり読んでいません。

2年前 No.22

百理 ★5n9Jhh5DYh_1zu

純文学系統は、まったく肌に合いませんが・・

哲学系統は、けっこう読めばピントが合うかもしれません。

2年前 No.23

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1,3,7,11,13,14,16

>>16 のつづきの箇所、200ページと201ページをまたぐところ。

「レゲインの中動態のレゲスタイが意味するのは、《静かに横になること》である。レコスとは、寝台のことである。ロコスは、何かが保管され置かれている隠し場所のことである。(ここでまだ考慮すべきこととして残っていたのは、アイスキュロスとピンダロス以来廃れた古い言葉アレゴーだ。アというのは連結詞である。何かが私に対してアン・リーゲンだというのは、私にとってそれが気にかかる、ということである。)」

この拙訳だけ見ても、全く意味が分からない。

訳注として必須なのは、「静かに」というのは原語では「in die Sammlung der Ruhe」であるということだ。「die Sammlung」は《集める》を意味する「sammeln」の名詞形である。「die Sammlung」は、(精神の)集中・平静・沈思を意味する。すなわち《落ち着いていること》を意味する。だが、これは《集めること》としての「Zusammenbringen」と関係ない。ただのそういう慣用があったというだけではないか。逆に、落ち着かない状態が、集まっていない状態なのだとしたら、では、はたして、ここでの《集まる》とは何なのか。
だめ押しで、レコスは「寝台」(das Ruhelager)であると言っている。

ロコスについては、私はこの文章をちゃんと訳せていない。
loxos ist der Hinterhalt, wo etwas hinterlegt und angelegt ist.
というのが原語だが、「Hinterhalt」というのは《待ち伏せする隠れ場所》である。「hinterlegen」は、《預ける》《保管する》を意味する。「anlegen」は、様々な意味がある。だが、何かが「anlegen」されている場所が「Hinterhalt」というのは、私にはよく分からない。
ただ、ここから読み取れるのは、レゲインと関係する言葉としてのロコスの、《下に・前に・置くこと》という意味に関係しているのは、待機する場所、預けられる場所であるということである。待機というのは、《目的を持って待つこと》であり、預けられるというのは、《使われたり奪われたり移動したりすることがないように落ち着かされるということ》である。
先に例に出した林檎を集めて運ぶ例でも、保管というのは、移動の果てに保管場所に安定することであり、出荷されるまでそこに落ち着くことである。
アレゴーについては、おそらく、「前に・置くこと」との関係が語られている。すなわち、《気になっている》という意味で《念頭に置かれている》ということ、この意味における《前に(頭に)置かれている》ということが示唆されている。

ちなみに、「中動態」は、或る動作が(他人や他の物ではなく)自分自身に関わっているときに使われる。自分でお茶を飲むときの「お茶を入れる」というのは、中動的である。他人にお茶を入れるというのは「能動的」である。他人にお茶を入れてもらうというのは「受動的」である。

この箇所を読むことで、ここでの「下に・置くこと」というのは、《安定状態にすること》を意味するというのが分かる。
また、ここでの《安定状態にすること》というのは、《保管される》《隠される》といったことも含意するかもしれない…

2年前 No.24

百理 ★5n9Jhh5DYh_1zu

>>24

ロゴスは、自然の中に隠された暗号です。

形而上学的対象性は、暗号としてあります。これは、超越者等の言語であり、意識一般には理解出来ません。(ヤスパースさん形而上学)

2年前 No.25

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1,3,7,11,13,14,16,24

【Klett-Cotta版の201ページ、9段落目?】

また話が戻って、レゲインというギリシャ語が『話す・語る』を意味するということが言われる。【 >>11 を参考にしてください。】
この箇所でハイデガーは、レゲインというギリシャ語には普通『話す』という意味があるのに、あえて「legen」という意味を持ってこなくてもいいのではないかと、自問します。【 >>13,16,24 を参考にしてください。】

そして10段落目(?)で、著者はこういう問いを提出します。

「レゲインの本来の意味、レーゲンは、どのようにして、語るとか話すとかいう意味になるのか?」

※ちなみに、この論文(ロゴス)で、著者はこの問いに十分に答えません。このことについては、いずれこの論文自体の中で語られます。

そして、この問いに内容のある答えを出すためには、「レーゲンとしてのレゲインのうちで何が本来的にリーゲンしているか」を考えねばならないと著者は言います。つまりは、レゲインとは何かを考えねばならない。何がレゲインと言われているのかを考えなければならない。
ここで著者はあえて「liegen」というドイツ語を使っていると思われます。そのこころは、「ここにもレーゲンがあります」ということで、いま話題にしていることにおいてもレゲインが在る、ということでしょう。リーゲン(liegen)というのは、『横たわっている』とか『寝ている』とか『置かれている』とかいう意味です。
http://mb2.jp/_tetsugaku/971.html-23#a で言われている、「現存在の『本質』は実存に存する」という言葉の「存する」は、このリーゲンです。

Das >>Wesen<< des Daseins liegt in seiner Existenz.
(現存在の「本質」は、それ自身の実存に、ある。)
【Max Niemeyer版の42ページ】

…さて、では、レーゲンとは何か。著者はシンプルにまずこう述べます。

「レーゲンとは、リーゲンするようにさせることをいう。」
(Legen heisst: zum Liegen bringen. )

日本語で言えば、『置くとは、置かれているようにさせることをいう』とでもなるでしょう。
或いは『横たえるとは、横になっている状態へと持っていくことをいう』とでも。

ここで、少し先取りして、203ページ16段落目(?)の一部を引用しておく。著者がリーゲンをどういうものとして考えているかのヒントとするためである。

「Das keisthai, fuer-sich-Vorliegen des so Hintergelegten, des hypokeimenon, ist nichts Geringeres und nichts Hoeheres als das Anwesen des Vorliegenden in die Unverborgenheit. 」

keisthaiというのはギリシャ語のケイオー(ケイマイ)であり、(法律とかが)立てられる等の意味があるようです。
keimenon sxhmaで『(じっくり練られた)計画』という意味があるようです(?)
【StudyLight.orgのLexiconsを参考にしています。】

このドイツ語はいまは訳さないので、すみません。
ただ「ヒュポケイメノン」という言葉と「Anwesen」という言葉に注目していただきたい。【 >>7 を参考にしてください。また、非常にアヤシイことが書かれているが http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-821#a 等も参考になるかもしれません。】

このドイツ語を簡単に言い捨てると、『ケイスタイはAnwesen以上のものでも以下のものでもないですよ』ということです。
ケイスタイというのは、ケイマイのことで、例えば『(法律が)立てられてある』とか『(計画が)練られてある』とかいうことで、英語では「laid down」と訳されるようです。これは、法律等が定められる、などの意味があります。ご存じの通り、英語の「lay」は、『置く』とか『倒す』とか『(問題等を)提出する』を意味します。この言葉の元になった古英語は「lecgan」というらしいです。【ジーニアス参照】…「legen」や「legein」に似ていると分かります。

この時点で、話し合いで定められる決まりやプランというものが、レゲイン議論のうちに入り込んできていますね。(ケイスタイは、laid down in argumentという意味を持ちます。『議論して定められた』ということです。)
こういった基本的な事情が、レーゲンが『語る』という意味になっていく過程において無関係ではないのではないか、と思い、少し先取りしてこの箇所を紹介しました。

【なお、このことについてはLogosが入っている本の169ページから170ページにかけてのラテン語resについての議論も参考にしてください。
今読んでいるこの本はVortraege und Aufsaetzeといいます。その169ページの文章を含む論文の名は「物」でして、これはハイデッガー全集79巻所収の「有るといえるものへの観入」にも含まれています。(※すこしテキストに違いがあります。)
いずれこのスレで、その箇所を紹介したいと思います。ここでもAnwesenが出てきており、Anwesen解釈の助けとなるでしょう。
…私がこのスレでしたいのは、ハイデガー読書で『わけが分かんねえよぅ』となっている人のために、少しでも助けになればと、ネット上にヒントを存在させておくことです。私自身がヒントを得たいことと言ったら、例えばAnwesenをどう解釈するかについてのヒントが(ハイデガーの著作の)どこに書かれているか、です。こういう原典への指示は、私の不正確な解釈や感想が、ハイデガー解釈を妨げる弾幕となることを防ぐでしょう。すなわち、私は自分の感想を提示するとともに、この感想よりも参考にすべき原典をも提示しているのですから、当然、私の感想・解釈の重要度は相対的に下がるわけです。】

2年前 No.26

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>26

さて、このスレは「Logos」という1951年の論文について語るスレでありますが、ここで少しこの論文から離れて、同じ本に入っている「Das Ding」という講演録の一部を引用し、そこの箇所を、いま読んでいた箇所に関係づけてみましょう。(※このレス内では、関係づけまでは行ってません。以後のレスでなされるかも…?)

【Klett-Cotta版の167ページ】

この箇所は、古ドイツ語の「thing」についての話を、ラテン語の「res」に関係づけている箇所です。
この講演の話の流れで言えば、今から引用する箇所は、補足的な箇所でしょう。(これの前のページ、166ページは、この講演のひとつのピークの箇所だと思います。)

「たぶん、古高ドイツ語のthingは、集まりを意味しているだろう。しかも、この集まりというのは、問題となっている案件(訴訟事件)について討議するための集まりのことある。」
(Wohl bedeutet das althochdeutsche Wort thing die Versammlung und zwar die Versammlung zur Verhandlung einer in Rede stehenden Angelegenheit, eines Streitfalles. )

一。thingという古ドイツ語は、英語のthingを思い出させる。ジーニアス英和辞典を見ると、英語thingの語源は、古英語thingであり、これは『公の集会』『問題』『事件』を意味すると書かれている。
一。ここでのVersammlungは、普通に読めば、人々の会合としての集まりのことである。
一。in Rede stehenは、『問題になっている』という意味だが、より逐語的に訳すならば、『話に出ている』ないし『話になっている』という意味である。
一。Angelegenheitは、ここでは「案件」と訳した。英語で言えば「matter」である。例えば「raise the matter with」で、『〜と議論する』を意味する。ちなみに、「案」というのは『机』を意味する。この「Angelegenheit」については >>24 の「angelegt」も参照。anliegenは『〜にとって気がかりだ』という関心を意味する。そこで転じて、『(仕事が)片付かず残っている』という意味もあるらしい。
一。AngelegenheitはStreitfallと言い換えられている。この言葉は「異論の余地のある、まだ解決していない問題」を意味する。すなわち、目下検討中の事件(Fall)を意味する。Fallは、英語でいうcaseである。この英語は、ラテン語のcasusを語源とするが、このcasusは『落下』を意味する。ドイツ語のfallenという動詞は『落下する』という意味である。これが英語のcause(事由)とも関係しているかは今のところ不明だが、ハイデガーは上に引用した文章の少し後で、causaというラテン語を持ち出してくる。causeという英語よりも「because」という接続詞の方が有名だろう。

議題や案件、問題や論点、こういったものは、どういった存在様式で存在しているのか?この存在の仕方は、精神でも物質でもない(matterではあるが)。こういったものは、《話題になる》という仕方で存在する。《話題になる》からには、《私たちの関心を引いている》のである。案件は、《私たちの関心を引く》という仕方で存在する。さらに言うと、案件は、《私たちの話し合いの事由である》という仕方で存在する。案件は、《私たちの語り合いを可能にする》という仕方で存在する。
あるいは、《私たちの語りを条件づける》という仕方で、すなわち、Bedingenという仕方で存在する。「Beding」は「条件」のことであり、例えば「unbedingt」
は、『何ら条件づけられていない』すなわち『無条件』を意味する。だが、案件は、私たちの語りを制限し、私たちを沈黙させるのではない。むしろ、私たちがその案件について語り続けるようにと、私たちの関心事であり続けるのである。
ところで、dingenというドイツ語がある。これは、『(…と)裁判で討論する』を意味するようだ。また、『雇う』という意味があり、Dingungは『雇用』を意味する。すなわち、『賃金を払う代わりに…を自分の目的に役立てる』すなわち『金を払って人を使う』を意味する。(ちなみに、ハイデガーの根本語のひとつに「Brauch」というのがあり、これはおそらく『使用する』という意味であるが、今の話との関連性は不明である。)

事例(case)は参加者を「事例の世界」に引き込み、そうして参加者は議論に熱中する。こう言う場合、主体となっているのは、語る者ではなく、事例(事案、案件、問題となっている事柄)である。

脱線するが、ハイデガーは166ページで、「Wie aber west das Ding? Das Ding dingt. Das Dingen versammelt. 」と述べている。非常に直訳的な仕方で訳すと、これは「だが、どのようにして物は本質するのか?物は物する。物することは集める。」となる。もっと普通に訳せば、「だが、どのようにして物は存在しているのか?物は、雇う。雇うとは、招集するということだ。」とでもなるだろうか。ここでの「招集」は、果たして、人々を会合に招集するという意味での《問題になること》であるのか?いずれにせよ、「物は、雇う。」という訳は、普通の日本語を諦めることであるので、良くない。
しかし、ここでは「wesen」という言葉についてのヒントがある。ここでハイデガーは「どのようにwesenするのか?」と自問したのち、「dingen」と答えている。しかも「Das Dingはどのようにwesenするのか?」と自問したのち、「Das Ding dingt」と答えている。ここで私が問いたいのは、じゃあ、「Das Nichtsはどのようにwesenするのか?」という質問に「Das Nichts selbst nichtet. 」と答えてよいかどうか、である。(『形而上学とは何か?』を参照。)

さて、本題であるラテン語のresはいつ出てくるのか?

上に引用した文章の続き:

「したがって、昔のドイツ語の言葉thingそしてdincは、案件を表わす名前であることになる。これらの言葉は、何らかの仕方で人々が気にしているもの全ての名前である。集まりは、そのつど気にされている色々な関心事に応じて、何が問題となっているかということに関している。問題になっているものを、ローマ人はresと呼んだ。」
(Demzufolge werden die alten deutschen Woerter thing und dinc zu den Namen fuer Angelegenheit; sie nennen jegliches, was den Menschen in irgendeiner Weise anliegt, sie angeht, was demgemaess in Rede steht. )

さて、文法的解釈の問題。「sie angeht」の「sie」という代名詞は何を指示するものか。私はまず、Angelegenheitだと思った。そこで「demgemaess」は「in irgendeiner Weise」を意味するだろうと思った。そこで「案件は、そのように様々な仕方で気にされる仕方に応じて、問題となっているものに関したものである」という風に訳した。だが、よく見ると、「was demgemaess〜」の「was」にあたる代名詞が見つからない。あるとしたら、「jegliches」だが、そうすると間の「sie angeht」が分からない。私は正直、「sie angeht」は本当は「sie angehen」なのだと思いたい。しかし、結局、「sie」は「Versammlung」だと取った。そうすると「何が問題になっているか」と訳しやすいから。しかし、自信はない。

ただ、ここで、「angehen」という動詞が持ち込まれているということに、注意すべきだということは分かる。An-gelegenheitやan-liegenといった言葉に、an-gehenが加わるというのは、注目すべきことだ。私はこの「an-」を《〜について》という言葉によって解釈したいが、それは保留する。ただ168ページでさらに「das Anwesende」という言葉が出てくるということは予告しておく。

ここでは議題と論点が言われていると、私は解釈する。すなわち、人々の関心を引いているのが議題(案件・事件)であり、何が問題となっているか(was in Rede steht)が論点である。ただ、ひょっとすると、「anliegen」が「in Rede stehen」と言い換えられただけかもしれない。

ラテン語resは、話になっている案件を意味するか、集まりがそれに関してのものであるところの、議題を意味するか、あるいは、その審議の論点(何が問題か)を意味するか、これはまだ分からない。

【つづく】

2年前 No.27

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>26,27

まだもう少し、事案の事案性について、文章を増やす作業をする。

「たぶん、古高ドイツ語のthingは、集まりを意味しているだろう。しかも、この集まりというのは、問題となっている案件(訴訟事件)について討議するための集まりのことある。したがって、昔のドイツ語の言葉thingそしてdincは、案件を表わす名前になった。これらの言葉は、何らかの仕方で人々が気にしているもの全ての名前である。集まりは、そのつど気にされている色々な関心事に応じて、何が問題となっているかということに関わっている。このような、問題になっているものを、ローマ人はresと呼んだ。」

この文章のつづき。

「eiro(retos, retra, rema)は、ギリシャ語で、〜について話す、〜について討議するを意味する。」

一。ここでの「eiro(retos, retra, rema)」は原文ではギリシャ語。
一。なぜここで「エイロー」というギリシャ語が出てきたかというと、ラテン語の「res」が「レートス」「レートラ」「レーマ」に由来しているということを暗示するためだろう。
一。エイローは『話す』を意味する。レートスは『話されること』、レートラは『話』、レーマは『話題』である(と、私の数年前の読書メモには書かれている)。

次の文章。

「res publicaは、国家のことではない。それは、その民族における全員に明らかに関係しているもののことであり、その全員を『持っている』もののことであり、すなわち、公的に討論されるもののことである。」

前提。ネットで「res publica 意味」と検索するとすぐ分かりますが、このラテン語は「国家」を意味します。
ハイデガーはここで、res publicaというのは国家のうちの或る特性を表示しているのだと述べているのだと思う。RES publicaは、公共的に、そこに住む人々全員に関係している事柄であり、それについてはそこに住む自由人全員で論ずべきだ、といったものだ。それは、一家庭での問題でなく、スポーツする者たちだけの問題でなく、全員に関わる公的な問題である。国家は、そういった案件を論ずるものだ。
なによりここで言われているのは、「res」というのが単なる物ではなく、「関係する」という働きを伴うものであるということだ。すなわち、「res publica」は、単に「公共的な物」でしかないのではなく、「公的に人々に関係してくる」という意味を持っている。

次の段落では、res adversaeとres secundae(逆境と順境)について語られている。その後、思考が語源学に基づくのでなく、語源学の方が思考に基づくという言い訳がなされる。

「resがdas Angehendeを意味するからこそ、res adversaeやres secundaeという語結合がありえたのだ。前者は、人間に不都合な仕方で関わってくるものであり、後者は、人間に好都合に進むものである。」

res adversaeは、人間を邪魔する事態である。ここでの「関わってくるもの」というときの「もの」は、案件のことである。「もの」と言うからといって、これは個物(ひとつの物体、ひとつの魂等々)を意味するのではない。また、案件は、ひとつの石・ひとつの魂といった、個体のことだけでない。案件は、ケース(case, Fall)であり、『場合』であり、広がりを持った状況である。そして、この《状況》が、人間に、関わってくる。ここでの「関わり」は、単なる点と点の衝突ではない。
res secundaeについて、「人間に好都合に進む」と訳したが、これは誤訳である。正しくは、「人間を好都合的に連れて行く」と訳した方がいい。原文は、「den Menschen guenstig geleitet」である。geleitenは『ついていって一緒に行くことによって導く』・『護送する』といった意味である。ちなみにleitenは『案内する』『指導する』『到達させる』を意味する。このようなgeleitenのMitgehen(同行)という性格を加味すれば、res secundaeというのは「人間を乗せて、その人間に好都合な方向へと進むような、場合」である。

次の段落。

「ラテン語のresは、人間に関わってくるものの名である。すなわち、案件、訴訟事由、場合を名指す。」
(Das roemische Wort res nennt das, was den Menschen angeht, die Angelegenheit, den Streitfall, den Fall. )

一。「場合」は、ここでは、事例と同じような意味である。「これは事だぞ」という時の、「事」である。
一。ここでは訴訟(Streit)ないし論争といった特殊な性格が強調されていない。訴訟をイメージすると分かりやすくなるが、訴訟から考えると、間違う。訴訟や話し合い、審議、会議、議論の根底にあるものが、今の話題であるからだ。訴訟についてのイメージを根底にすると間違うのは、当然だろう。
一。この文章で、「Fall」という言葉が持ち出して来られた。続く文章で、この「Fall」について語られることになる。 >>27 で私はこれについて予告的に話しておいた。

次の文章。

「この言葉の代わりに、ローマ人は、causaという言葉も使用する。これは、本来は、すなわち最初は、『原因』を意味するものではなかった。」

causa suiで「自己原因」(スピノザ等)であり、causa formalisで「形相因」である。

「causaは、事件のことであり、したがって、〜ということになる・〜の時が来るという、場合であるということを意味する。」
(causa meint den Fall und deshalb auch solches, was der Fall ist, dass sich etwas begibt und faellig wird. )

一。注意深い人なら、私がここで翻訳をごまかしていると分かるだろう。私はこの箇所を読解できていない。
一。「was der Fall ist」のヒント。例えば、同ページ2段落目の最初の文章は、「Doch das Gegenteil solcher Befuerchtungen ist der Fall. 」となっている。わざとだろうと、私は思っている。つまり、わざと「ist der Fall」という表現をここで使っているのだろうと、思っている。ここでの「solcher Befuerchtungen」というのは、一言で言えば、『著者の言っていることは単なる言葉遊びなんじゃないの?』というものだ。これについて著者は「実情は正反対だ」と言っていることになる。「ist der Fall」とは「〜である」という意味であるが、これは存在を意味するのではない。「〜という事情にある」とか「〜の場合」という意味である。
一。「faellig werden」が分からない。ただ、これは時間と関係している。場合も、時間と関係している。だが、時間でしかないのではない。ここには広がりと内容がある。この内容を成すのが《Angehen》という性格である。それが《話》に関係しているという論争性格は、広がりを成している。
例えば、「Das Urteit ist morgen faellig」で『判決はあすの予定である』という意味らしい(これも訴訟だ)。すなわち、faelligは、「〜の時に起こることになっている」という意味だと推測される。ここには、出来事が起るという性格と、時の性格と、それから予定という性格とが含まれている。

次の文章。

「causaが、resとほとんど同じ意味でありながら、事情(Fall)を意味するからこそ、後にcausaという語は、或る作用の因果性という意味での、原因という意味になることができたのである。」

この文章の意味、分かります?私はしっくりとは来ない。
Fall(事案、案件、事例、場合、事情、実情)が、訴訟の事由(die Causa, Streitfall)であり、審議の根拠(Grund, Ursache)であるということは分かる。人々が話し合える根拠は、提出された事案について共通の認識を持っているからです。或いは、審議するために、事案への共通理解を作り出すということが、まず話し合いの始めにはなされなければならない。だが、ここから、作用の因果性という意味での原因(作用因とか)になると言っている。すなわち、私たちが普通にイメージする原因の意味になると、言っている。つまり、causaが、原因が結果を生み出すといった、そういうaction(作用、働き)の原因を意味するようになる、ということですね。何となく分かるけど、過程は省略されている気がする。(この過程を述べることが、今の話の本筋ではないので、OKなのだが。)

【つづく】

2年前 No.28

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>26,27,28

【168ページ】

「古ドイツ語のthingとdincは、集まりという意味(すなわち、案件について審議するための集まりという意味)があるため、ラテン語のres(関わってくるもの)を事柄に即して翻訳するのに、他に代わりがないほど、相応しい言葉だ。ところで、resという言葉に対応しているラテン語の言葉から、すなわち事件や案件という意味のcausaという言葉から、ロマンス語のla cosaやフランス語のla choseという言葉へとなった。これを私たちはdas Dingと言う。」

一。集会を意味するthingと、この語の由来resに同じく対応していたcausaから発した、la chose等の語に対応するドイツ語Dingとの関連性を述べている。

この後、同段落において、英語のthingでもまだ《Angehen》という性格が生きているということが述べられる。

2年前 No.29

てじ @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

>>26

さて、 >>1,3,7,11,13,14,16,24,26 で本題の『ロゴス』についてノートを書いてきました。

>>27,28,29 では『物』についてノートを書いてきました。
ここでは、主にラテン語の「res」をめぐってノートを記してきました。

『ロゴス』では、ロゴスの原義〈集める〉についての議論がありましたが…『物』のresの話の中でも、それは「集会」「集まり」を意味していたという様に、集まりについて語られていました。

また、この集まりは議論(民会)のことでもあります。ここには、ギリシャ語の「logos」が話を意味するようになった経緯について示唆するところが有ると思われます。

ところで、 >>26 でヒュポケイメノンの話が出ましたね。

これについての補足として、ハイデガー『ニーチェ』の中にある「存在の歴史としての形而上学」を読んでみましょう。

2年前 No.30

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>30

なぜ『ニーチェ』の「存在の歴史としての形而上学」なのか?

…私は現在実体論に関心があります。
例えば『思索スレ』で、私はアリストテレスの実体に関する文章を引用した。( http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-1185#a
それは以下のようである:

「実体――それも最も本来的な意味で、そして第一に実体と言われ、また最も多く実体であると言われるものは、何か或る基体について言われることもなければ、何か或る基体のうちにあることもないもののことである。例えば或る特定の人間、あるいは或る特定の馬。」

ところで、まさにこの文章を引用してそれについて論じている本として、ハイデガーの『ニーチェ』の「存在の歴史としての形而上学」がある。
369ページで引用されている。(私が持っているのはKlett-Cottaの第7版である。)

それをパラパラ見ていたら、次のような文章があった:

Sein ist Anwesenheit als Sichzeigen des Aussehens.
〔存在は、外観の自己呈示としての、現前性である。〕

この意味不明の文章は、私が http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-1204#aで書いた八計"の輝きと関係がありそうだと思った。
(この輝きの話については、ハイデガー『形而上学入門』の「2 存在と仮象」から示唆を受けている。)

そこで、この本のこの論文が、私のいまの関心にぴったり来ると思った次第です。

ただ、私は今日からこの本を読み始めます。

(『ロゴス』は『ロゴス』で >>26 で引用した箇所の続きの箇所をちょこちょこと読む予定があります。)

以上。



おまけ:

引用したアリストテレスの言葉のハイデガーの訳(およびそれの拙訳)

Anwesendes aber ist im Sinne der ueberherrschend wesenden sowohl als auch demgemaess in erster Linie und am meisten gesagten (Anwesenheit) dasjenige, was weder im Hinblick auf ein irgend schon Vorliegendes ausgesagt wird, noch in einem schon irgendwie Vorliegenden (erst nur) vorkommt, z. B. der Mensch da, das Pferd da.(369ページ)

「現前するものは、だが、支配的に本質存在する現前者という意味では、すなわち第一に、最高の(現前性)だと言われる現前者という意味では、次のものである:何かすでに提示されてあるものに関して言明されるのでなく、また、何かすでにどのようにか提示されてあるもののうちでようやっと出現するのでもないもの。例えば、そこに〔いる〕人間、そこに〔いる〕馬。」

私はいま「Vorliegen」を「提示されてある」と訳した。
このVorliegenは、『ロゴス』においても出て来る。( >>16,26
(昔の私は「俎上に上がっているもの」とか「出て来ているもの」などと訳している。)
ここでは、「Vorliegendes」は「ヒュポケイメノン」のドイツ語訳となっている。

…さて、そして、上に引用された引用文の後、

「そのような仕方で現前するものは、何らかの可能な述語でもなく、何か別なものの内にないしそれに於いて現前するものでもない。」

と言われている。つまり、ウシア(現前者)は、述語になることが無く、何か別なものがあってこそそれが存在するというものでもない。と繰り返されている。

その後、この「現前性」(Anwesenheit)というのは、そのつどそのつどそれ自らで残続するもの(Verweilenden)、すなわち提示されてあるもの(Vorliegenden)の残続であると言われる。

ここで「Verweilende」と「Vorliegende」が並置されていることに注意。
また、「Verweilen」という〈滞在〉ないし〈続く〉といった意味が出て来たことに注意。
http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-1205#ahttp://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-1155#aでも、残続ないし持続が気にされていた。)

その後、この現前性はまたギリシャ語に直され、ウシア・カテカストン(ousia kath' ekaston)と言われる。
そしてヘカストン(それぞれのもの)が、またドイツ語で「そのつどのこれ」(das je Dieses)「特異なもの」(Singulaere)と言いかえられる。
(すなわち、「個体」か?)

…そして以下、第二実体についての文章も、ハイデガーは翻訳している。
そこでのコメントで「下位の意味での現前性は、外観の自己呈示である。これに全ての種姓が属している。この色々な種姓において、そのつどそこに留まっているもの(das jeweilige Verweilende)は、それが何として現前しているかを、出現させる。」と言われる。
第二実体の第二実体性は、或るものの見かけが示されることである。このように、様々な種類のものがこの〈或るものに見える〉ということを不可欠のものとしている。そしてこういった見かけ(見た目の現出)において、そのつどその時そこにあるものは、自分が何であるかということを、その時(その場面)に持ち来らす。すなわち、それは何かとして出現する。例えば、その生物は人間の姿をしている(人間だ)とか、その生物は犬の見かけをしている(犬である)など。

(※ここですでに私は「Verweilen」を残続と訳し続けることを断念している。ここではverweilenは、例えば眼の前に居続けているもの、すなわち飛び去ったり川底に消えたりせず、たゆたっているもの、とまっているもの、歩いているもの、などだろう。)

等々

2年前 No.31

百理 ★5n9Jhh5DYh_DpT

ラテン語は、今日のロマンス諸語(東ロマンス語:イタリア語・ルーマニア語、西ロマンス語:フランス語・スペイン語・ポルトガル語など)は、
俗ラテン語から派生した言語である。また、英語・ドイツ語・オランダ語などのゲルマン諸語にも文法や語彙の面で多大な影響を与えた。

ギリシア語はまた、『新約聖書』原典を記すのに用いられた言語でもある。ヘレニズム時代には東地中海世界の通商語として広まり、中世には東ローマ帝国領の大半にあたる広大な地域(中東・北アフリカ・東南ヨーロッパ・アナトリア半島)に波及した。

ギリシア語に起源を持つと推測される英語の語彙はその内の12%である。

らしいです。

私は、まだ翻訳を信頼するしかすべを持ちません。

2年前 No.32

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>30,31

『Nietsche II』391ページ(Klett-Cotta、第7版)を少し引用する。
その後、単に文章的なことだけを補足する。

「そのつどのものは、それ自ら出て来ている、本来のヒュポケイメノンである。すでに臨在しているものと一緒に姿を見せる全てのものを、アリストテレスはシュンベベコタと呼んでいる。この名称からは、まだ、臨在の性格を読み取れる。それゆえギリシャ的な存在の本質(ウシア)を読み取れる。しかし、シュンベベコタはいつだって共に臨在するものにすぎず、すなわち、すでに自ずから留まっているものに加えてようやく登場するにすぎず、このものと共に、このものの許でのみ持続性を持つにすぎない。だから、シュンベベコタは或る意味ですでにメ・オンである。すなわち、そのつどのもの(ヒュポケイメノン)の時間という純粋な仕方には至らないような臨在者である。」

〈訳語に対応する原語〉
「そのつどのもの」:das Jeweilige
「出て来ている」:vorliegen
「臨在しているもの」:das Anwesende
「留まっているもの」:das Verweilende
「持続性」:Bleiben
「時間」:die Weile

〈ギリシャ語〉
・ヒュポケイメノン:
http://mb2.jp/_tetsugaku/936.html-26#aも参照。ヒュポケイメノンは、「das von sich her Verweilende」や「das von sich aus Vorliegende」と見なされている。ここには「von sich her」という言葉が見られる。ここに読み取れるのは、一つにはそれ自らが或る出発点であるということ、また一つには、それが自立的であるということだ。そして「vorliegen」と「verweilen」とが同じと見なされていると考えるならば、また後に「die Weile des Jeweiligen」(そのつどのものの時間)と言われていることも考え合わせると…それは自立的に出発点でありながら眼の前にあって或る時間を作るようなものだと考えられる。
・シュンベベコタ:
「syn-bebekota」は「syn-bebekos」の複数形である。「syn」は〈一緒に〉、〈共に〉を意味する。(例えば「Synthese」は「綜合」である。)このことは上の文章では当然のこととされているので、ハイデガーは「シュンベベコタ」という言葉を出したあとに、これを「共に臨在するもの」(mit-anwesen)と呼んでいる。「bebekos」は、ギリシャ語「バイノー」の名詞形で、バイノーは〈歩く〉〈或る場所に立っている〉〈居合わせている〉を意味する。なのでハイデガーは、これを前提して、「この名称からは、まだ、臨在の性格を読み取れる。」と述べている。「Anwesen」は「居合わせている」等の意味を持つ。
・ウシア:
この言葉が「実体」と訳されている。
・メ・オン
「メ」は否定を意味する否定辞であるが、「ウー(ク)」という否定辞とは少し異なる。「メ・オン」は、欠如のある存在者とでも言うべきもので、「ウーク・オン」は、非存在者である。例えばアリストテレスにおいては現在こそが「オン」であり過去と未来は「メー・オン」である。「オン」は「存在するもの」を意味する。

2年前 No.33

百理 ★5n9Jhh5DYh_DpT

Dasein・・存在する・実存する・・Existenz


Ontologie・・存在論(学)


>>33

知らない人が、存在ってエクソシストとオーメンみたいなジョークを言いそうで怖いです。

2年前 No.34

てじ @flyonbody ★iPhone=HlJ2JlAFDg

>>33

本の制約から離れて自由に論ずる。

「シュンベベーコタ」における「シュン」を、直訳的に読んで、「…と共に」であるとする。

このとき:何と共にか?

明らかに:ヒュポケイメノンと共に。

しかし:シュンベベーコタとヒュポケイメノンの存在は次元が異なる。

すなわち:ヒュポケイメノンは、或るシュンべべーコスと並んで、或る場面に共に歩み出る(シュンバイネイ)ものではない。

むしろ:或るシュンべべーコスは、別なシュンべべーコスと共に、或る場面に歩み出る。そこでそれらは「シュンベベーコタ」と複数形で呼ばれる。

しかし一方:シュンベベーコタは、或る場面に共に歩み出て、或る場面という俎上に上がるのだから、それらは、その場面と共にある。更に言えば、シュンベベーコタが共に一所に出でることを可能にするのは、それらに常に伴う場所であり、この場所においてシュンベベーコタは出会い、互いに向かい合う。「…と共に」の実質は、この場所(一所)である。

http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-1169#aも参照。

ところで:いまの話をリアルなものとして読むためには、「話において思念が場を開く」という言葉の意味を分析し、詳述しなければならないだろう。

(例えば、寺山修司の賭けの話。二人の男が、カフェで窓外を見ながら賭けをする。窓外に帽子をかぶった人間が通るかどうかを賭けよう。仮に、その店の代金を賭けるとしよう。この、賭けの時間において、賭ける者たちにとって、窓外に帽子をかぶった人が通るということは、もはや単なる現象でしかないのではない。そこには今や大きな意味がある。更に言うと、その時間に帽子をかぶった人間が通らないということにすら、すなわちほとんど無に等しい出来事にすら、大きな意味がある。

ここでの賭けが「思念」に当たり、またその歓喜と落胆を伴う時間が、「開かれる場」に当たる。)

2年前 No.35

百理 ★5n9Jhh5DYh_DpT

哲学の未来もまだまだ明るいです。そのうちにコリン・ウィルソンさん並みの新実存主義者が現れると思います。

2年前 No.36

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1,3,7,11,13,14,16,24,26

このスレの本流は「ロゴス」ですが、これまでいくつか枝分かれの道を行きました。例えば、 >>26-29 では「物」という講演について投稿し、 >>31,33,35 では中途半端に「実体」という言葉に触れました。本流に戻ります。

Klett-Cotta版の『講演と論文』の201頁まで進んだのでした。

「レーゲンとは:リーゲンするようにもってゆくことである。」

まで行った。次の文章は…

「このとき同時に、レーゲンは:或るものを別なものへ(置くこと)、ひとつにまとめることである、レーゲンはレーゼンである。」
(Legen ist dabei zugleich: eines zum anderen-, ist zusammenlegen, Legen ist lesen. )

です。

レーゼン(Lesen)といったら、《読む》を意味するドイツ語の動詞です。しかし、これに続く文章によれば…《書物を読む》という意味でのレーゼンは、私たちがまず思いつくだけであって、レーゼンの意味のひとつにすぎないそうです。レーゼンは、「一緒に-前に置いてあるように-もってゆくこと」という意味であり、読むというのはこの意味のひとつの変種にすぎないというのです。

zusammen-ins-Vorliegen-bringen

「もってゆく」という私の日本語に違和感を覚えられたでしょう?「ins-Vorliegen-bringen」というのは、「Vorliegen」という状態にすることです。「bringen」は直訳すると「持ってゆくこと」です。しかしこの場合の「もってゆく」というのは、《何か物体を手に持って、それを持ったまま自分が移動することによって、同時にその物体も同じく移動するようにさせる》という意味ではありません。むしろ「事を上手い具合にもってゆく」とか「今後どのように有利な展開にもってゆくか」とかいうときの意味です。

同時に…「持ってゆく」というのは「つくりだす」という意味ではない…ということにも注意してみてください。レーゲンは《置く》という意味であり、ともすると《措定》という意味であり、すなわち「posit」のことであり、例えば神が精神を措定したようなイメージで、《創造》を意味すると、思われるかもしれません。

ただこのとき『ヒューマニズムについて』の冒頭を思い出していただきたい。(この箇所はてじが最も引用する箇所のひとつ。)

「ふつう、行為というと、何らかの作用を生み出すこととしてしか知られていない。行為の現実さの度合いは、その行為の有益さによって測られる。だが、行為の本質は、遂げること(Vollbringen)である。遂げるとは、何かをその本質の充溢にまで展開すること、そうした本質充溢にいたるまで護送すること、producereである。したがって、遂げうるものというのは、本来は、すでにあるもののみである。」

…まず、「行為は作用を生み出すものだ」という常識は、別に一般的には常識ではない。しかし、ドイツ観念論を経由している人にとっては、それは常識である。すなわち、行為というのは結果をもたらすものである、内面にあるものを外面に実現することである…という常識。私がカントを最初に読んだとき、こういう行為観が前提されていて「ほえ〜」とぼんやりしたものだった。今でもいまいち分からないのだが、行為は、《結果をもたらす》という点から見られるようだ。
この常識のひとつのあらわれとしてのヘーゲルの『哲学入門』からの引用:
「内的規定から外面への移転のはたらきを行為(Handeln)と呼ぶ。」
「内的規定」は決意や企画や伝導だという。カントも「行動の結果は、意思の目的や動機の実現」だという行為観を示している。(そしてカントは、こういう行為観のうえで、しかし行為の道徳的な善さはこういう内的目的や動機や意図にあるのではなく、いわんやその実現にあるのでもないと述べるのだ。)

さて…「充溢」という言葉のもとになっているドイツ語は「Fulle」である。つまり、フル。フルパワーのフル。そして「成し遂げる」と訳した言葉は「Vollbringen」である。このドイツ語は「ヴォルブリンゲン」ではなく「フォルブリンゲン」と発音する。「voll」というのは《満ちた》とか《完全な》とかの意味である。すなわち、このフォルはフルであり、フュレ(Fulle)でもある。日本語の「遂げる」というのも、《終りまでやる》という意味があると思います。遂げるとは、果たすことである。果たすとは結果を結実させることであるので、行為はやはり結果を生むことである…と思われる。しかし、重点は《生み出すこと》ではなく《完全な状態になるまで見守ること》のほうにある…というのがハイデガーの考えのようです。

いわば、「Vollbringen」は「in-die-Fulle-bringen」であり、《完全に力を発揮する状態になるまで見守りつつ見送ること》である。

ここであえて「producere」というラテン語を出しています。英語の「produce」と言えば、《製造》とか《生産》であり、もろ《結果を出すこと》を意味しているように思えます。しかし、もともとの意味をみれば「pro-」は《前へ》という意味ですが、「ducere」は《導き出す》を意味します。

「…にいたるまで護送する」と私が訳した言葉は「hervorgeleiten」です。「leiten」というのは英語の「lead」だと思って下さい。《案内する》《率いる》とか《指揮する》とかを意味しますが、もっと強く、《管理する》《支配する》ということも意味します。ハイデガーは「存在者とは何であるか」という問いを「導きの問い」と呼んでいたりしますが、これは「Leitfrage」です。これは普通の意味では《主要な問い》とか《中心となる問い》といった意味であり、《主導的な(leitend)問題》という意味です。
で…「leiten」と「geleiten」は違います。「geleiten」は、《保護・護衛しながら同行して送ること》を意味するようです。すなわち《護送》、《付き添って守りながら送り届ける》という意味です。…ハイデガーはよくこの「geleiten」という動詞を使います。

動詞「bringen」についてはここまでにします(何か前もこういう話をした気が…)

本題は、「zusammen-ins-Vorliegen-bringen」とは何かということです。

・これは「legenとは何か」ということへのひとつの答えである。
・「legenはliegen lassenでもあった。」
>>13,14,16 の《集める》の話の繰り返しでもある。

このことは、続く箇所で、農業的に語られることになる。

また、『存在と時間』の§7と『ロゴス』ではだいぶ話が違っているが、やはりその§7も参考になるのではないかと思われる。
http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-600#ahttp://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-597#aも参照。

※これまでにも私が述べてきたことを繰り返しつつ、遅々として進まないのは、仕様である。

2年前 No.37

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>37

『形而上学入門』204頁によると…

「legein」はラテン語の「legere」であり、ドイツ語でいうところの「lesen」である。たとえば,落ち穂を拾う(lesen)こと、葡萄を摘む(lesen)こと、選り抜き(Auslese)などという。この「Lesen」は、一方のものを他方のものに添えて置くこと、一つに収集すること、集めることである。

さて…落ち穂を拾うとは、収穫後に畑に残っている穂を拾い上げてそれを収穫の全体に加えることである。当然だが、落ち穂拾いでは石ころを拾うわけではない。落ち穂拾いにおいては、畑に散乱しているもののうち落ち穂だけが際立ってくる。これは葡萄摘みにおいても同じである。葡萄の果実だけが選ばれてもぎ取られ、かごの中に加えられてる。葡萄摘みの時点で、食われてダメになってしまっているものは脇に寄せられるかもしれない。或いは…とりあえずカゴに入れられた葡萄は選り分けする台へと集められ、そこで農夫が良い葡萄と悪い葡萄とを選り分けるかもしれない。この選り分けは、集めることに属しているのだろうか。

だがこのとき、落ち穂拾い・葡萄摘み等々は、どのようにして「一方のものを他方のものに添えて置くこと」であろうか。

レーゼン(lesen)は、拾うこと・取りあげることであって、「置くこと」ではないように思われる。そう思われるところで、レーゼンを置くことだと考えてみる。レーゼンは、拾うこと・取りあげることで終わるのではなく、その取ったものを同種のもののところに一緒しておくところにまで及ぶ…と考えてみる。すなわち、レーゼンの動作範囲を拾う瞬間にのみ限定せず、時間的な幅を持たせて考えてみる。

「一方のものを他方のものに添えて」と言うとき、その一方と他方は同種のものであろう。『形而上学入門』201頁の続きの箇所で「小銭集めとは決してむやみにかき集められたごた混ぜではない。」と言われている。例えばコレクション用の小銭を入れる綴じ本のように、そこでは小銭が種類ごとに並べられたりする。このとき一種類の硬貨は、別なもう一種類の硬貨の横に嵌められるが、しかし「単に横に置くこと」がレーゼンなのではない。当然のことながら、横にまだ硬貨が嵌められていないところへ硬貨を置くとしても、それは「一方のものを他方のものに添えて置くこと」であろう。しかし先に述べたように、単に小銭を嵌めることがレーゼンではない。そこで、「一方のもの」というのを新しい小銭だとして、「他方のもの」を小銭コレクション用の綴じだと考えてみる。すなわち、レーゼンは「添えて」置くことではないのではないか。

レーゼンは「一つに収集すること」である。コレクションは、集めることでもあり、集められた集合体でもある。その統一性をもった集まりに新しくそれになじむものを加えることはレーゼンである。

…その後、『形而上学入門』209頁で、ロゴスというギリシャ語が出て来るヘラクレイトスの断片が紹介される(zusammen-ins-Vorliegen-gebracht-werden)。

2年前 No.38

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

我が家には祖母が生きている頃、落穂拾いの絵と般若のお面の額とピアノの部屋がありました。

落穂拾いの意味が解ったのは、40歳過ぎてからです。

私の仕事は、認可されていない所では高所得者相手の仕事でした。

身体を痛め父の認可のおりた人格のある法人に努めたら、その施設は、寄留者、孤児、寡婦のもの、でした。

法人にも法人格というモノがあります。法人格に努めると精神的に苦痛でした。法人格が無いと肉体的に苦痛でした。

肉体的苦痛か精神的苦痛か・・肉体労働とサービス労働と

確かに、社会には必ず、一方のものに添えられる存在があることを・・

2年前 No.39

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>38

そのヘラクレイトスの箴言というのは、断片一と二である。長くなるがほぼそのまま引用する:

>だがlogosは存続的にlogosのままであるのだが、人間どもは、それを聞いてしまう前にも、それをやっと聞いてしまった後にも、把握しない者(axynetoi)のような顔つきをしている。すべてのものは、実は、kata ton logon tonde、すなわちこのlogosにのっとり、従って、存在者になるのである。にもかかわらず彼ら(人間ども)は、私がそれぞれのものをkata physin、つまり存在にのっとって、分解し、それがどんな状態にあるかを明らかにするさいに述べる語句や作品を聞いたり読んだりして自分で試みてはみるのだが、しかも彼らは何ごとかを経験するということに関して大胆な吟味を一度もしたことがない者に似ている。他の人間ども(他の人間ども、誰もかれもみなhoi polloi)に対しては、彼らが眠っているときにしたことは、その後再び彼らに対して隠蔽されてしまうのと同じように、ほんとうに目覚めているときにしたことも、やはり隠蔽されているのである。


>だから存在者の中のこの凝集に従うこと、これにたよることが必要である。だがlogosが存在者の中のこのような凝集として現成するのに、多くの人々はめいめい独自の悟性(見識)を持っているかのように生きてゆく。


『形而上学入門』平凡社ライブラリー210頁でハイデガーは、この箴言で述べられている要素をいくつか取り出している。
(1)ロゴスの存続性。
(2)ロゴスは存在者の中の凝集であり、集約するもの。
(3)存在者全てはこの存続的凝集にのっとってそこに立っており、この凝集こそ「支配するもの」である。

以下、てじのとりあえずの解釈:
logosの存続性というのは、話をしている間ずっと支配しつづけているということだ。この支配は、はじめから全体として集結させられてありつつ、これから言葉を集めてくるような「凝集」である。人間はこのlogosに対して、axynetoi(…を集めもたらしていない者ども)である。この集めることの否定は何を意味するか。人間は、言葉を聞く前も聞いた後も同じであり、どちらにしろ同じということが、この集めることの否定である。すなわち、logosを集めもたらさないまま聞く(聞かない)こと。このような人間は語句は聞くが、logosを綜合的に会得することがない(cf. 212頁)。すなわち、ずっと話を支配しつづけている中心的なものを会得しないまま、語句を聞いたり聞かなかったりしているのが、人間どもである。
ヘラクレイトスは、色々なものを、そのphysis(自然本性…と普通解される)に応じて、そのつど分解して、それが何であるかを説明してやっている。人間どもはたしかに聞くは聞く。しかし、言われていることを経験しようとはしていない。経験するまで事柄を自分のなかに生かし続けるということをしない。
すなわち、存続的なものを存続させず、凝集的なものを凝集させず、ただ聞くだけ、ただ読むだけである。

このような人間の否定的有様を、ハイデガーは自分の文脈に引き入れて、「人間どもは絶えず存在者に関係しているのだから、存在に関わっているのだが、彼らは存在に背を向けるので、存在は彼らには無縁なのである」と述べている。その後数頁にわたって、ヘラクレイトスの様々な箴言を綜合してみせる。なぜヘラクレイトスが人間どもを「犬」や「ロバ」呼ばわりしているのかとか、色々な箴言を「logos=存続的凝集」ということからして纏めてみせる。

以上の『形而上学入門』の話は、 >>37 の「集める」の話に関わっている。『存在と時間』におけるプラトンやアリストテレスの分析・綜合の話にもおそらく関係しているのではないかと思われる。

だが…集めるということについて何も明らかにならなかった。…私もまたaxynetosだということか。

2年前 No.40

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

人格の背骨は、理性と言う真理ではないでしょうか?

脳みそはもっと複雑でしょう・・

2年前 No.41

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1,3,7,11,13,14,16,24,26,37
>>38

ひきつづき、Klett-Cotta版の『講演と論文』の201頁。全体の11段落目。農業的なことが語られる箇所。

☆反復
legenは、現在では「語る」とか「話す」を意味するようになっているが、その意味の根本に、もっと基本的な意味が響いている。前の箇所( >>26 )でも言われていたように、問題は、この基本的意味が、どのような経緯で現在の意味へと至ったのか、ということです。legenという言葉の「歴史」を語ろうとしているようにみえます。( >>7 も同様の意図があるようにおもえます。) >>13 で引用した文章にあるように、legenの「話す」という意味よりも、もっと根源的なところで、別な意味(集める)が働きつづけている。この根源的な意味は、農業の営みにおいて、経験されている実際の「行為」です。

☆本文
「しかし、集めるといっても、それは、ただ単に積み上げること以上のことだ。集めるならば、取り入れて運び込むだろう。そこでは、しまい込むという意向がはたらく。また、保管するといった意向もはたらく。集めることが、単に拾い上げて一ヶ所に積み上げてゆくこと『以上』だといっても、この単なる積み上げに何かを足したら、それになるということではない。また、集めるということは、拾い上げる作業の最終到着地点でもない。運び込んで保管することは、すでに集める歩みの第一歩を、というかそれら全てを、それらの進行の連鎖に含んでいる。ただこの一連の歩みを見つめるだけで、摘むことともぎ取ることには集めること(Zusammenbringen)が並んでいるのがわかり、これに運び込むことが並び、保管所や倉庫にしまい込むことが並ぶのが分かる。もしそうなら、保存・保管はもはや集めることに属するものでない、という風にみえてくる。しかし、秘蔵(Bergen)の根本動向によっては牽引されずまた担われない収穫(Lese)はなにになろうか。秘蔵することは、収穫の本質営作(Wesensbau)における最初のものである。」

とりあえず、axynetoi( >>40 )のまま、まとまりのないまま訳しました。

まず、集めるとはいっても、ただ物体を一カ所に意味なく寄せ集めることではない、ということが言われています。たとえば葡萄を摘むときも、葡萄をいったんカゴに「集める」わけですが、その後で選り分けるためにさらに大規模に集めて、その後整理して倉庫などに保管するでしょう。では、こういう保管行為というのは、「摘み取る」といった行程の次の別な行程なのでしょうか。いいえ。摘み取るという、枝からの切り取り、入手行為。これは単なる果実の移動ではなく、収穫の為の行為だ。この収穫が、収穫の一連の作業をまとめる。

最後の2文くらいでハイデガーが「Bergen」というハイデガーの愛用語をここで持ち込んでくる。保管するということは、秘蔵することだ。

そしてまた、「Lese」という言葉ももってくる。「収穫」と訳した。当然、このドイツ語と「legen」とつなげて( >>37 )、そこから「legein」へとつなげて( >>3,6 )、そうして「Logos」までもっていきたいのだろう。

この日本語には、「収める」という字が入っています。収めるというのは、すなわち、上で言うところの「運び込む」とか「取り入れる」とか「しまい込む」ということです。「収集」という言葉があるように、「収める」という日本語は、集めるということと無関係ではないでしょう。というか、この日本語一文字で上の文章を要約できるのではないかと思えるほどです。

2ヶ月前 No.42

宿題 ★eM1n2yJmTo_pcO

思いを言葉という形に押し込めるだけでその思いは正確さが欠けています・・

2ヶ月前 No.43

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1,3,7,11,13,14,16,24,26,37,38,42

ひきつづき、Klett-Cotta版の『講演と論文』の201頁。

☆試訳

しかし、秘蔵するとはいっても、なんらかの場所でなんらかの時に現われる任意のものを秘蔵するということではありません。秘蔵することから本来的に開始する収集(収め)は、元々から、秘蔵が要求しているものを選ることです。ところで、この選別は選別で、選別されうる範囲のなかにあらわれれる優れたものによって〔その選別方法を〕定められています。収集の本質営作において秘蔵することに対してある一番最初のものは、よりすぐること(アレマン語ではVor-lese)です。このよりすぐることに、選別は結合しています。〔それは〕一緒にすること、運び入れること、しまい込むこと全てが納められています。

☆感想

腹が立つほど意味のとりにくい文章だ。
俺たちは摘果する。実選り。偶然ながら、日本語の「摘む」をドイツ語で訳そうとすれば「auslesen」であろうし、「選る」をドイツ語で訳そうとすれば「erlesen」だろう。「摘む」は「つむ」と読むが、同じ読みで「集む」と書けば、これは集めることを意味する。 >>42 では「単に積み上げること」に言及されたが、「積む」というのも「つむ」である。「詰む」であると、詰めることであり、これは「einbringen」だろう。摘果とは間引きのことだ。よく育ちそうなものを残して他を摘み取ってしまう。
上の文章では、任意のもの(なんでもいい)というのと対比させて、「優れたもの」「選られたもの」「選り抜きのもの」が秘蔵されるのだといわれている。摘果の場合、悪しかろうものはあらかじめ排除される。優れたものを残して他を間引く。優れたものを間引く基準とするというのであれば、これは「優れたものによって〔その選別方法を〕定められる」ということだろう。
腹が立つのでこのへんにしておこう。

☆注

・秘蔵する=Bergen
・収集=Sammeln、Lese
・収め=Lese
・選る=Auslesen
・選別=Auslese
・優れたもの=das Erlesene
・よりすぐること=Erlesen
・結合=sich fuegen
・一緒にすること、運び入れること、しまい込むこと=Zusammen-, Ein- und Unter-bringen

1ヶ月前 No.44
ページ: 1

 
 
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