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存在を問う

 ( 哲学掲示板 )
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★Gc8HjmXH4j_BiB

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる

3年前 No.0
メモ2019/11/06 20:40 : 優鬼★uJcaHEY0RF_g5X

・「真であるか、または偽である」を「真かもしれないし、偽かもしれない」と、可能性があるように表現するミスリード

・真理値を0か1のどちらでもよいとすることで、命題を肯定系でも否定形でも表現できる作為性

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★aMPDKhlhm0_GOx

〜なぜ何も”ない”のではなく、何かが”ある”のか?〜

「ある・ない」の重ね合わせの状態を「ある」と思い込むと、この問いは解けないでしょう。

それを「ある」だけとは思い込まずに「ある・ない」という状態だという事に気付ければ、それはもう問いではなくなります。

縛りを外せないで「ある」という思考回路のみでしか考えられなければ答えが見つからず、「あるものはあるんだ」という事でドン詰まります。(思い込みによる縛りです)

縛りを外せて考えられれば「ある・ない」という思考の世界で考えられますので「ある・ない」の両方の世界が実現していて、我々はその一方「ある」の世界を体験しているだけなのです。と言う事に気付けるかと思います。

よって「なぜ何も”ない”のではなく、何かが”ある”のか?」というアポリアは、ここで解消することになるのでしょう。(最初から謎ではなかったという事です)

哲学の先人たちも「ある」という縛りの中だけで思考していたので、答えが見つからなかったのだと思います。

馬場さんは、このような事を仰っているのではないでしょうか。

1年前 No.701

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>701  時さんへ

>〜なぜ何も”ない”のではなく、何かが”ある”のか?〜

>「ある・ない」の重ね合わせの状態を「ある」と思い込むと、この問いは解けないでしょう。

>それを「ある」だけとは思い込まずに「ある・ない」という状態だという事に気付ければ、それはもう問いではなくなります。

>縛りを外せないで「ある」という思考回路のみでしか考えられなければ答えが見つからず、「あるものはあるんだ」という事でドン詰まります。(思い込みによる縛りです)

>縛りを外せて考えられれば「ある・ない」という思考の世界で考えられますので「ある・ない」の両方の世界が実現していて、我々はその一方「ある」の世界を体験しているだけなのです。と言う事に気付けるかと思います。

>よって「なぜ何も”ない”のではなく、何かが”ある”のか?」というアポリアは、ここで解消することになるのでしょう。(最初から謎ではなかったという事です)

>哲学の先人たちも「ある」という縛りの中だけで思考していたので、答えが見つからなかったのだと思います。

>馬場さんは、このような事を仰っているのではないでしょうか。


 はい、全くその通りです。確率は「客観的」ではなく「主観的」なのです。a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbは不明)というのは、aとbが「不明」であると同時に「不定」でもあります。「○○○である」の確率が|a|^2、「○○○でない」の確率が|b|^2ですが、これが「客観的」ではなく「主観的」なのです。つまり、「○○○である」の視点に立てば、|a|^2=1、|b|^2=0、になります。「○○○でない」の視点に立てば、|a|^2=0、|b|^2=1、になります。「○○○である」と「○○○でない」とがちょうど半々で重ね合わせだと認識する視点に立てば、|a|^2=1/2、|b|^2=1/2、になります。だから、a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbは不明)を見て、一方的に「○○○である」の方だとも言えないし、一方的に「○○○でない」の方だとも言えません。正解は、「○○○である」とも言えるし、「○○○でない」とも言えるし、「○○○である」+「○○○でない」とも言える、です。

1年前 No.702

★JNv11SraQr_GKj

富士山はあるのか?ないのか?

日本を代表する山の富士山は、あるのか?ないのか?を考察してみます。

富士山という山は、常にあるように思われていると思いますが、そうではありません。富士山が見える人には「ある」と言う事ができ、見えない人には「ある」と言う事はできない。がその答えだろうと思われます。

富士山を客観的な物質として心で主観的に認識した場合には、その物質はある。という事で、客観的な物質として心で主観的に認識できない場合には、その物質は「ない」ではなくて「あると言う事はできない」という事だろうと思われます。

仮に、ある時、富士山が噴火してその姿が消滅したとしましょう。富士山の近隣に住むという条件の人で、その噴火を目の当たりにした人にとっては、富士山が無くなったことを心で主観的にもはっきりと認識できますが、その事実をまだ知らない人にとっては、通常、あるもないもなく富士山はあると思い込んでいます。

ここで、その思い込みを外して考えた場合には、その噴火後に富士山が消滅したことを目の当たりにした人にとっての認識は、富士山は「あった→噴火でなくなった→ない」であり、それを目の当たりにしていない人にとっては、富士山は「あるかどうかは分からない」となります。

ですので、@客観的な富士山は、その「ある」という事実を主観的に認識した人にとっては「ある」であり、主観的な認識である心の状態と一致します。

一方、A客観的な富士山は、その「ある」という事実を主観的に認識できない人にとっては「ある・ない」のどちらかであると思われがちですが、主観的な認識である心の状態と一致しませんので、実際には「ある・ない」とは言えないはずです。

上記、@、Aともに一般的には「ある・ない」のどちらかの認識になりますが、@の場合には、客観的な事実とともに主観的な認識が一致し、Aの場合には、客観的事実は知らないのにその主観的な思い込みによって客観的事実だと決めつけようとします。これが思い込みによる断定です。

ですので多世界解釈を採用するのであれば、客観的な世界ではなく、主観的な世界にのみ当てはまるように思います。

そして客観的世界の物質現象を主観でも認識した人にとっては、客観と主観が一致しますので、それが事実と言えるように思います。

片や、客観世界の物質現象を主観で認識していない人にとっては、その客観世界の物質の有無自体が認識できませんので「ない」のではなくて「有無はわからない」という答えになるのではないでしょうか。ですのでこの場合は「分からない」が事実という事が言えるでしょう。

見ていない時、月は存在するのか?見ていない時、富士山は存在するのか?見ていない時、宇宙は存在するのか?等々・・意識していない時、それらの存在は、物理的な表現として重ね合わせの状態だという事ができるでしょう。つまりは一般的な表現としての「わからない」という事です。そしてそれは、確率的にあるとないの重ね合わせなのだという答えも、間違いとは言えないように思います。

最後に、もしも私が「富士山はあるのか?ないのか?」と問われれば、「見ているときにはあります。見ていない時には、あるともないとも言えません」と言う答え方になるでしょうか。

量子力学の専門の扉は開かずに、後は、専門の方々にお任せした方がよさそうです。もしもその扉を開けば、そこには、きっと永く続く奇妙な旅路が待っている事でしょう。

1年前 No.703

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

「ある」とはどういうことか?

「意識がそれ(「あるもの」や「あること」)を知覚すること」だろうか?

この場合、「幻覚」はどうなるのだろう?

「幻覚」とは「『ないもの』を知覚すること」だから、意識が何かを知覚したからといって、それが直ちに「ある」にはならない。

「幻覚」か「実覚」かは、区別がつかない。
ではどうすれば良いのか?

複数の人格で知覚することを以て「実覚」と「幻覚」を区別するのだろうか?
では、「集団幻覚」はどうなるのか?

正直いって、世界中の人が集団幻覚を知覚しているのだとしたら、それと実存を区別する術は無い。

だから私は、「再現性の良い集団幻覚」と「実存(実際に存在するもの)」を区別せず、両者とも「ある」としている。

そういう意味で、「月は存在する」「富士山は存在する」「電磁気は存在する」と思う。

1年前 No.704

宿題 ★hxYn2UbX46_a2e

マトリックスと言う映画を見て・・

コンピューター・ネットワーク上のサイバースペース(電脳空間)に築かれた「仮想現実空間」、

人類の全コンピューター・システムから引き出されたデータの「視覚的再現」、「共感覚幻想」のことを「マトリックス」と呼んでいる。

どちらが真実か映画で分からなくなる・・世界・・

1年前 No.705

宿題 ★hxYn2UbX46_a2e

あっ・・間違いました・・

トータルリコールと言う映画を見てでした・・訂正いたします。申し訳ありません・・

1年前 No.706

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」。

この問いに関して、しばしば提出される論点は、

「ある」と「ない」を同列にあつかうものである。

そこでは、「何かがある」と「何もない」が、

まるで「1」と「0」の関係のように、論じられている。

しかしこのような論点は、本当の意味でこの問いを問うことを開示しない。

なぜなら、「ある」と「ない」はコインの裏表のような関係にはないからである。

「ある」と「ない」は対義語ではないのである。

・・・

「ある」と「ない」がコインの裏表のような関係にあるとして論じる者は、

つねに、そのあるなしを判断する者の存在を見過ごしている。

言いかえれば、そのような論者は、

存在の全体を俯瞰する観察者を前提としている。

そこでは判断者ないし観察者は、絶対に危険にさらされることのない、

安定したスペースを完全に保証されている。

言いかえれば、自らの「存在」が揺るがされることのない立場から、

目の前の存在を判断ないし観察しているのである。

というのも、そのような論者は、

自らの「存在」が揺るがされるような、

正気の沙汰ではいられない危険な場所では、

幻覚や幻聴を見るかもしれず、

そこにないものをあると言うかもしれないから、

それでは本当にあるものを捉えられないと考えるからである。

しかしそれによって肝心の、判断の主体としての「存在」、

危険にさらされるかもしれない自分の「存在」という、

もっとも「身近な」もの、「ある」としか言いようのないものを見落とすのである。

・・・

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いは、

このような安全の保障された場所から捉えられる、

あってもなくてもどっちでもいいけれど、

とりあえず観察できるから「ある」という意味での、

「ある」を問うているのだろうか。

むしろ、この問いは、

自ら危険にさらされるかもしれないような場所で、

あってもなくてもどちらでもいいのではなく、

まさにそのことが他人ごとではないさし迫った問題であるような、

そんな存在を問うているのではないだろうか。

その意味で、この問いを正しく問う者は、狂気と紙一重である。

1年前 No.707

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

とはいえ、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いは、

「なぜ何もないのではなく、私があるのか」という定式ではない。

ここでの「何か」は、あくまでも外在的な、あるいは具体的な対象を指している。

ゆえにこの問いは、それを問う存在を見過ごすミスリーディングへと導かれやすい。

・・・

しかし、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いは、

決して、外在的な、あるいは具体的な対象を指して、その根拠を問うているわけではない。

というのも、紛れもなく「何かがある」が、

その「何か」が何なのか、はっきりとしない点に、

この問いのさし迫った重要性があるからである。

・・・

この問いを発する状況は、暗闇にいきなり放りだされる状況によく似ている。

暗闇にいきなり放りだされると、人は恐怖で身動きが取れなくなる。

なぜ恐怖を感じるのか。

それはこの暗闇に「何か」がいる気配が充溢しているからである。

その「何か」が何なのか、それははっきりとしない。

それでも、「何かがある」のは間違いない。

・・・

しかし、ただそれだけでは、そこから

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いは生まれないだろう。

なぜなら、人は、暗闇の気配に晒されている状況では、

そのような問いの生まれる余裕すら持つことができないからである。

しかし、暗闇に放り出された私が、正気を失いながら、

ひたすらその「何か」の気配に怯え、

今にも気を失いそうなほどの危機に晒されているとき、

ここに、ある決定的な決断が下される可能性がある。

それは「諦め」である。

私は、ひたすら暗闇の気配に怯えつづけ、すっかり疲弊している。

もう、今になっては、いきなり暗闇から「何か」が飛び出してきても、

抗う余力も残ってないし、逃げる気力もない。

もう私には、諦めるしかない。

そして私は悲嘆に暮れて、運命を呪い、次のように言うだろう。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか・・・」と。

ため息とともに、ぼそりと呟かれたこの問いは、存在の根拠を”闇雲に”問うている。

しかしまだ、それでも、暗闇に潜む「何か」は、私にとどめを刺すことがない。

もういっそのこと、私を暗闇に葬ってくれればいい、と何度思ったことか。

そこでもはや自分の命を諦めた私は、その残された時間を、次の問いに費やす。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか・・・?」

そこには素朴な疑問がある。

なぜ何もないのではなく、何かがあるのだろう、と不思議で仕方ないのである。

そこで私は暗闇に目を凝らし、耳を澄ます。

そこで私は、はっと目ざめる。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか・・・!」

そこで本当にあるものに気づくのである。

・・・

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いは、

「ある」と「ない」を1と0のように、コインの裏表のように考えていては、

きちんと問われることができない。

哲学は伝統的には「驚愕(タウマゼイン)」からはじまるとされている。

ここに描いた存在論的な問いの展開が、この驚愕を描いたものだとすれば、

哲学のすべては、あるトラウマを抱えている。

それは、圧倒的な無の暗闇に放り出されて、

それでも「何か」があることに対する、脅迫じみたトラウマである。

そしてこのトラウマから逃げるようにして、

存在の全体を俯瞰する観察者が想定され

1と0の論理操作に興じる理性を生み出され、

その理性は必死になって、自らの存在の安全を保証しようとすることになる。

しかしそれは、

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いとは

逆のベクトルを向くことになる。

自らの居城を堅固にすればするほど、

いっそう存在から遠ざかってゆくのである。

1年前 No.708

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 存在を問うには、問う人間が存在しなければならない。

 また人間のみが存在することはなく、他の何かかが存在する中で人間は存在している。そして、存在を問う。

 さらに、何も存在していないことをも想像し、あるのか、ないのかと考える。人間が存在しなくても、他の何かが存在するのかとさえ問う。

 人間は、人間の認識能力しか持たず、この世界をありのままに把握する非人間的な能力は持つ必要がないため、存在の問いの満足するような答えを得る能力はきっと持てないだろう。

1年前 No.709

宿題 ★5z6bVAmgS3_a2e

えぴめてうすさん

ヤスパースさんによれば、限界状況のぎりぎりで超越者の導きを見出す前に神の声や思し召しをたった一度だけ聴いた気になるらしいです。

1年前 No.710

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

 ヤスパースは、存在の問いをどう考えたんでしょうか?

1年前 No.711

宿題 ★hxYn2UbX46_a2e

えぴぺめてうすさん

経験的現実や思い描く存在・思惟の対象である存在だけが存在とは言い切れないそうです・・

存在の源泉を探求する基盤を崩されるような4分五裂の深淵な混迷からの顕在と探求の統一を道とする超越は

「ある」と言う悟性の空虚さを超え・・本来の自由な実存を充実させる・・

1年前 No.712

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>>712

 おっしゃっている内容が難しいので、意味を確認させていただきたいのですが、

一  >>712 の言葉は、ヤスパースの存在の問いについてのものでしょうか?

二 「存在の源泉を探求する基盤を崩されるような4分五裂の深淵な混迷からの顕在と探求の統一を道とする超越」とはどのように読めばよいのかわかりません。
@「存在の源泉を探求する基盤を崩されるような」は何にかかっていますか。
A「「顕在と探求」の「統一」」でよいですか、「「顕在」と「探求の統一」」でしょうか。
B「…を道とする超越」とは具体的に何を指しますか。

三 「「ある」と言う悟性」は、なぜ空虚なのでしょうか。

四 「本来の自由」とは具体的にどんなことでしょうか。

五 「実存を充実させる」とはどういう意味でしょうか。

六 この二つのコメントは、何か共通のことをおっしゃりたいのでしょうか。
 ・存在を問う  >>712  「経験的現実や思い描く存在・思惟の対象である存在だけが存在とは言い切れないそうです・・」
 ・哲学の意味  >>472  「何かがある。何もない。これだけが存在とは言い切れないのです。」

九 「経験的現実や思い描く存在・思惟の対象である存在」=「何かがある。何もない。」ですか。両者の関係は何ですか。

十 「「…」だけが存在とは言い切れない」とは、「経験的現実や思い描く存在・思惟の対象」や「何かがある。何もない。」のほかにどんな存在があるということでしょうか。

 よろしくお願いします。

1年前 No.713

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>>713

 七と八が飛んでいますが、気になさらないでください。特に意味はありません。
 もし質問の意味がわからないところがありましたら、具体的にお尋ねください。

1年前 No.714

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

存在を問う場合、「なぜなにも無いのでなく有るのか」を考えた方が面白いね?

空・無  は仏教哲学でも西洋哲学でも興味ある題材です・・・。

有ると無いを決めるのは「みんな」なのか「私」なのか?

ひょっとして、そのビルは無いかもしれないというひとは個人か集団か・・です。

1年前 No.715

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

質問に気付かなくて申し訳ありませんでした・・ゆっくり考えます・・

1年前 No.716

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

>>713

えぴめてうすさん

一、ヤスパースさんです。

二、@「 」にかかります・・存在の源泉を探求する基盤を崩されるような「4分五裂の深淵な混迷」
  A原文どうりではないかもしれません・・
  B4分五裂の深淵な混迷を統一し超越するということです・・

三、他者との相互作用や交わりが無い存在は空虚という事です。

四、永遠性の無のような中の時間性という自由。従いながらの自由というような両概念の対立を統一した自由。

五、実存を満足させる・・

六、両極端を同時に持つ・・超越の概念です・・

九、自分の中に他を見る(一にして二)・(二にして一)

十、思惟を超えます・・

1年前 No.717

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>>717

 ご返答ありがとうございます。

 ヤスパースの存在の問いに関するこの言葉「存在の源泉を探求する基盤を崩されるような4分五裂の深淵な混迷からの顕在と探求の統一を道とする超越は「ある」と言う悟性の空虚さを超え・・本来の自由な実存を充実させる・・」

 さっぱり意味が分かりませんでした。
 宿題さんは、この言葉の意味を理解されていますか? できれば、平易な文章に書き直していただけないでしょうか? 無理なら結構です。

>>十 「「…」だけが存在とは言い切れない」とは、「経験的現実や思い描く存在・思惟の対象」や「何かがある。何もない。」のほかにどんな存在があるということでしょうか。

>思惟を超えます・・


 ということは、思惟の範囲内では、「経験的現実や思い描く存在・思惟の対象である存在だけ」が存在と言い切れるということではないのでしょうか?

1年前 No.718

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

これで簡単にしたのです。これが難しいのなら・・えぴめてうすさんはヤスパースさんは無理かもしれません・・

試しに一度でもいいからヤスパースさんを読んでもらえたらと思います。

1年前 No.719

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>これで簡単にしたのです。これが難しいのなら・・えぴめてうすさんはヤスパースさんは無理かもしれません・・


 そうですか。
 それなら参考に「「存在の源泉を探求する基盤を崩されるような4分五裂の深淵な混迷からの顕在と探求の統一を道とする超越は「ある」と言う悟性の空虚さを超え・・本来の自由な実存を充実させる・・」」について、簡単にしていない元のバージョンの文章を教えていただけますか。
 これ以上、意味の分からない文章を見てみたいです。

>思惟を超えます・・


 そもそも、思惟を超えているなら、それについて何かを考えたり、述べたりすることはできないのではないでしょうか?

1年前 No.720

宿題 ★5z6bVAmgS3_gaI

えぴめてうすさん

ほんの一例1パーセント抜粋します。


さらにもし、自我の思惟が、この自我をば、直接的な対象となし、このような直接性の存在をば、自己が自己へ関係することの二重化の仕方で

言い表すことによって解決し、問題を済ますならば、その場合思惟は論理的に不可能なことを、或る一つの存在の現実として述べているのである。

つまり《自我》は二にして一なるものであり、且つ一にして二なるものであるという、論理的に不可能なことを、或る一つの存在の現実として

現表しているわけである。しかしもし私が、このような意識一般の埒内にある自我の二重化を乗り越えて、自己反省において可能的実存としての

自我にまで超越するならば、そのときは、私の何であるかについての現表の矛盾の中に、弁証法的な円環運動の深淵が開ける。

1年前 No.721

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

 次のような意味でしょうか?

>自我の思惟が、この自我をば、直接的な対象となし、このような直接性の存在をば、自己が自己へ関係することの二重化の仕方で言い表すことによって解決し、問題を済ますならば、その場合思惟は論理的に不可能なことを、或る一つの存在の現実として述べているのである。


 自分を思考の対象として、自分について分析し、答えを出そうとするならば、論理的に不可能なことを述べていることになる。

>つまり《自我》は二にして一なるものであり、且つ一にして二なるものであるという、論理的に不可能なことを、或る一つの存在の現実として現表しているわけである。


 自分を思考対象とすることは、矛盾することを述べるわけである。

>しかしもし私が、このような意識一般の埒内にある自我の二重化を乗り越えて、自己反省において可能的実存としての自我にまで超越するならば、そのときは、私の何であるかについての現表の矛盾の中に、弁証法的な円環運動の深淵が開ける。


 しかし、超越した見方ができるようになれば、その矛盾に対して有効な解釈をする余地が生まれる。

1年前 No.722

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

ヤスパースさんの文章は解りやすいでしょうか?

1年前 No.723

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

 あまりわかりやすい文章とは言えませんが、 >>722 の内容で大まかにあっているなら、ある程度分かりました。

1年前 No.724

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

どんでん返しの文章を抜粋します。

全体の理念は時として、全く偶然的なものへの分裂から超えて出る一歩ではあるとしても、それでさえ、

全体は決して展望されず、結局は再び世界現存在の偶然に左右されるようになる。



ここでヒントは「弁証法的な円環運動の深淵が開ける」・・深淵は悪い意味です。

・・これはヤスパースさんの序文にすぎません・・

1年前 No.725

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

>>722

>しかしもし私が、このような意識一般の埒内にある自我の二重化を乗り越えて、自己反省において可能的実存としての自我にまで超越するならば、そのときは、私の何であるかについての現表の矛盾の中に、弁証法的な円環運動の深淵が開ける。


> しかし、超越した見方ができるようになれば、その矛盾に対して有効な解釈をする余地が生まれる。


やはり一部分の文章だけでは大変な誤解があります・・

1年前 No.726

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>>725

>どんでん返しの文章を抜粋します。

>これはヤスパースさんの序文にすぎません・・


>>726
>やはり一部分の文章だけでは大変な誤解があります・・


 それなら、どんでん返しの文章も無理かと思います。

 宿題さん自身は、ヤスパースが存在の問いについて、どういう考えを持っていると理解されていますか。宿題さんが理解されている範囲で結構ですので、自身のお言葉でお願いできればと思います。

1年前 No.727

宿題 ★5z6bVAmgS3_gaI

えぴめてうすさん

検索したら出てこないことと言えば・・

現実存在の限界状況で超越者の導きにより目眩の深淵に落ちるのを免れ時間と空間を超越できる実存を開明できる。自己を刻印すること。

存在とは思惟を超えるので出来る限り永遠に表現していく真理追求である。

間違ってたら指摘してもらえるとうれしいです・・

1年前 No.728

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_5qC

的確なことも言えず、自分の中でなぜそうなのかも言えないのですが、
現実だけは疑っちゃいけないって思うんです。

目の前にある現実を疑うのは不遜だし、単なる思考ゲームじゃないですか?
そのことはみなさんお気づきだったり、承知の上で、なのでしょうか。

約80億いる人間たちの命は尊いし世界で起こっている様々な問題が
まるで遠い話のように感じて、いえ、それ以上に「実は脳みそは水槽に浸かっててパソコンにつながれた電気信号から、
様々な夢を見せられている」とか言い出したら…それって人としてアウトな気がします。


なんかね、みんながこの話題に便乗してるそのこと自体がおっかないです。

小学生みたいな感想でごめんね。

1年前 No.729

宿題 ★5z6bVAmgS3_gaI

ゆみさん

数億のゲーマーに喧嘩を売っているのですか?

どこに真理があるか解りもしないのに?

1年前 No.730

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_5qC

宿題さんへ

ゲームってゲームでしかないんでしょ?

ケンカを売ってるんじゃなく、見ていて恐いと思っているだけです。

1年前 No.731

宿題 ★5z6bVAmgS3_gaI

ゆみさん

地に足をつけた体を離れ思考で宇宙の果てに飛躍させなければならない観念論の哲学には用はないのでは?

1年前 No.732

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_5qC

宿題さんへ

見るか見ないかは私の自由ということで終わらせてもらえると非常に助かります。

1年前 No.733

宿題 ★5z6bVAmgS3_gaI

ゆみさん

ゆみさんみたいな若い人の扱いは年寄りは無理で申し訳ありませんでした・・

1年前 No.734

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_5qC

宿題さんへ

いえ、私のような若輩者が偉そうにすみませんでした。

1年前 No.735

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>>728

>現実存在の限界状況で超越者の導きにより目眩の深淵に落ちるのを免れ時間と空間を超越できる実存を開明できる。自己を刻印すること。

 存在とは思惟を超えるので出来る限り永遠に表現していく真理追求である。
 間違ってたら指摘してもらえるとうれしいです・

 実存とは、ハイデガーの現存在と同じであれば、「時間と空間を超越できる」ような感覚を持ってしまうことがあっても、超越は不可能でしょう。
 できる根拠が示されていません。
 「存在とは思惟を超える」のであれば、「永遠に表現していく真理追求である」ということは、人間には、永遠に存在の意味がわかるわけがないと言っているように思いますが、いかがでしょうか。
 「間違っていたら」とは、このヤスパースの言説についてという意味ですね?

1年前 No.736

宿題 ★sicIy89Ne4_gaI

えぴめてうすさん

観念は時間に関係無く過去も未来も自由に思考できます。

科学が終わりなく発達するように、存在の意味も発達しているのではありませんか?

1年前 No.737

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>観念は時間に関係無く過去も未来も自由に思考できます。


 そのように考えるなら、

 存在とは思惟を超えるので出来る限り永遠に表現していく真理追求である。
  ↓
 思惟とは存在を超えるので出来る限り永遠に表現していく真理追求である。

 の方が良いような気がします。

>存在の意味も発達しているのではありませんか?


 宿題さんは、その発達を感じたことはありますか? 例えば、どんな場面ですか?

1年前 No.738

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

存在とは・・思惟の存在と肉体の存在が合体した時人間としての存在になります・・存在と思惟の関係です・・


発達すると言えば、ただ本能のままに生きることから理性によって生きること、

より良く生きようとすること・・永遠に改良しようとすること・・改善していこうとすること・・

1年前 No.739

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>存在とは・・思惟の存在と肉体の存在が合体した時人間としての存在になります・・存在と思惟の関係です・・

>発達すると言えば、ただ本能のままに生きることから理性によって生きること、

>より良く生きようとすること・・永遠に改良しようとすること・・改善していこうとすること・・


 ヤスパースは、人間について語っているということですね。
 このスレでは、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」
 (なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形
 ということなので、人間も含めたあらゆる存在者(自ら思惟せず、思惟の対象となるものもの含めて)のことを考えるのです。

1年前 No.740

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

存在とは?

身体や物体に限定された存在だけではありません・・

1年前 No.741

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>存在とは? 身体や物体に限定された存在だけではありません・・


 少なくとも、このスレでの議論としては、そのとおりだと思います。
 それと同時に、身体や物体に限定されない存在だけでもありませんので、
>存在とは・・思惟の存在と肉体の存在が合体した時人間としての存在になります・・存在と思惟の関係です・・

 では狭い範囲となります。

>存在の意味も発達しているのではありませんか?

>発達すると言えば、ただ本能のままに生きることから理性によって生きること、

>より良く生きようとすること・・永遠に改良しようとすること・・改善していこうとすること・


 これも人間に限定した内容で、存在全般についてではないと思います。無生物は本能のままに生きるということが当てはまりませんので。
 ちなみに、「身体や物体に限定された」というのは、どういう意味で「限定された」という表現をされていますか?
 「身体や物体と独立した」という意味でしょうか、それとも逆に「身体や物体をも限定する」ようなという意味でしょうか?

1年前 No.742

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

存在の視点@ 物体・動植物なども

存在の視点A われ思うゆえに我あり・・人間の思惟

存在の視点B 神・未確認宇宙人などの想像以上の存在

どの存在でしょうか?

1年前 No.743

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>どの存在でしょうか?


 このスレは、 >>740 でも述べましたように、 >>0 についての考察だと思っています。
 ですので、ここでの存在とは、人間の思惟のみというわけではなく、すべての存在と理解しています。
 ただ、「神・未確認宇宙人など」や正義や物理法則などの観念を存在と呼ぶかどうかは微妙です。
 宿題さんは、観念のみを存在として捉えていますか?

1年前 No.744

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

「限定的」存在は物質や動植物だということです・・

1年前 No.745

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>存在とは? 身体や物体に限定された存在だけではありません・・

>「限定的」存在は物質や動植物だということです・・

>存在とは・・思惟の存在と肉体の存在が合体した時人間としての存在になります・・存在と思惟の関係です・・


 これらのご回答から、存在とは、物質や動植物と人間(思惟の存在と肉体の存在が合体した時)ということですね。

1年前 No.746

宿題 ★sicIy89Ne4_gaI

えぴめてうすさん


>存在とは? 身体や物体に限定された存在だけではありません・・



このポイントをご理解いただけるでしょうか?

1年前 No.747

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>>存在とは? 身体や物体に限定された存在だけではありません・・

>このポイントをご理解いただけるでしょうか?


 そのポイントをわかりやすくご説明いただければ幸いです。

1年前 No.748

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

>存在とは? 身体や物体に限定された存在だけではありません・・


この簡単な単純な文章の何処が疑問なのですか?

1年前 No.749

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>>存在とは? 身体や物体に限定された存在だけではありません・・

>この簡単な単純な文章の何処が疑問なのですか?


  >>747 で、特に「このポイント」とおっしゃったことについてです。

1年前 No.750

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

存在を限定的なものと限定できないものに分類したポイントです。

限定的な存在についてしか存在を考えていないの?かというポイントです・・

1年前 No.751

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>限定的な存在についてしか存在を考えていないの?かというポイントです・・


 ご趣旨は了解しました。
 ただし、 >>744 で、「このスレは、 >>740 でも述べましたように、 >>0 についての考察だと思っています。ですので、ここでの存在とは、人間の思惟のみというわけではなく、すべての存在と理解しています」と申し上げているのですが、そのうえでのお尋ねですか?

>>存在とは? 身体や物体に限定された存在だけではありません・・

>存在を限定的なものと限定できないものに分類したポイントです。


 ということは、「身体や物体に限定された存在」=「限定的なもの」ですか? そうであれば、「限定できないもの」は何になりますか? 観念や思惟といったものでしょうか?

1年前 No.752

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

見えなくても存在している・・(物質・身体でない存在)についてが形而上学です。

1年前 No.753

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>見えなくても存在している・・(物質・身体でない存在)についてが形而上学です。


 物質・身体である存在も形而上学の対象になり、観念のみを形而上学が扱っているわけではないように思います。
 例えば、カントの物自体などは、物質・身体である存在を対象として扱い、観念的な思考を行っているのではないでしょうか?
 つまり、見えて存在している・・(物質・身体である存在)についても形而上学だと思いますが、いかがでしょうか?

1年前 No.754

宿題 ★sicIy89Ne4_gaI

えぴめてうすさん

結局えぴめてうすさんは、限定的に存在していると思いますか?    空間時間を超越して存在していると思いますか?

1年前 No.755

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>結局えぴめてうすさんは、限定的に存在していると思いますか? 空間時間を超越して存在していると思いますか?


 もう一度、 >>744 をご覧になってください。私の認識と宿題さんへの質問です。
 それと、「何」が限定的に存在しているというお尋ねですか? 「何」が空間時間を超越して存在しているというお尋ねでしょうか?
 「何」についてなのかお教えいただけるとありがたいです。

1年前 No.756

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

存在とは何か?(中味のソフト)

存在しているのかいないのか?(外枠ハード)

同時並行で議論するべきだと思いませんか?

1年前 No.757

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>存在とは何か?(中味のソフト)

>存在しているのかいないのか?(外枠ハード)

>同時並行で議論するべきだと思いませんか?


 難しくて、よくわかりませんが、同時並行というか、特定のものを取り上げて問うのでなければ、存在とは何か?(中味のソフト)と存在しているのかいないのか?(外枠ハード)は、ほぼ一体の問題設定ではないでしょうか?

 それで、 >>755 はこのことをおっしゃりたかったんですか?

1年前 No.758

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

存在していると認識するには意識が必要です。現実知覚です。

神秘・・本当に時間を超え空間を超え存在する「絶対的意識」があるから神を感じるのではありませんか?

われ思う故に我あり・・という意識・・これが存在です。

1年前 No.759

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>存在していると認識するには意識が必要です。現実知覚です。

>神秘・・本当に時間を超え空間を超え存在する「絶対的意識」があるから神を感じるのではありませんか?

>われ思う故に我あり・・という意識・・これが存在です。


 そうですか。認識する意識がなければ、存在はないということですね。
 地球の生物が意識を持つ以前、例えば、2億5000万年以前は、意識を持つものはなく、存在そのものもなかったのでしょうか?
 ある人が死んでも、存在がなくなるわけではないと思いませんか? 死ねば、その人の意識はなくなるので、その人にとって存在を認識できなくなるだけで、存在そのものがなくなると、生きている我々は困りませんか?
 でもそういう立場が、世にいう観念論というものですかね?

 「時間を超え空間を超え存在する「絶対的意識」」と「神を感じる」は、私の中では繋がっていません。もしよろしければ、なぜ感じることができるのかその理由を教えてください。
 また、「時間を超え空間を超え存在する「絶対的意識」」とは、人間の意識ですか?

1年前 No.760

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

人間の存在と無機物の存在と・・存在も千差万別の状態の種類があると思いませんか?

1年前 No.761

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>人間の存在と無機物の存在と・・存在も千差万別の状態の種類があると思いませんか?


 思いますよ。ただ、観念は微妙ですが…

 ですので、「われ思う故に我あり・・という意識・・これが存在です」となると、無機物は存在でないことになりませんか?

 もう一度、 >>744 をご覧になってください。私の認識と宿題さんへの質問です。それと、 >>760 もよろしくお願いします。

1年前 No.762

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

自分で存在を意識する自意識(自我)のある存在・・存在していると思わずに存在する自意識の無い存在・・二通り?

1年前 No.763

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>自分で存在を意識する自意識(自我)のある存在・・存在していると思わずに存在する自意識の無い存在・・二通り?


  >>761 でしたら、「人間の存在と無機物の存在と」で、二通り?
 でも「存在も千差万別の状態の種類がある」ってことですから、それ以外に何かありますかね?

  >>759 の「われ思う故に我あり・・という意識・・これが存在です」となると、無機物は存在でないことになりませんか?

  >>760 もよろしくお願いします。

1年前 No.764

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

自我があるか無いか?の二通り・・

時間的制限があるか無いか?の二通り・・

空間的制限があるかないか?のふた通り・・

一般的な意識の存在か神のような神秘的超越の存在か?

・・・

1年前 No.765

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

 おっしゃっていることが理解不能です。
 必ずしも2通りと考えなくてよいですが、それがお好きならどうぞ。

1年前 No.766

宿題 ★hxYn2UbX46_gaI

えぴめてうすさん

家族がPCの場所を占領したので書き込みが中途半端になりました。

色々な視点の違いで存在のとらえ方があるということです。

1年前 No.767

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

 游さんを最近見ませんが、どこへ行かれたかご存知ですか?

1年前 No.768

宿題 ★hxYn2UbX46_K6b

えぴめてうすさん

他のサイトに移動されたのではありませんか?

アク禁の投稿制限も一カ月以上とかありませんか?

1年前 No.769

うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY

「なぜ宇宙・世界があるか」という問いにたいして、それは「私が見るから」あるのだ。という

答えしか思い浮かばないです。私の見ない物はあるとは言えないのでは?

1年前 No.770

俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E

「何かがある」なら「何かである」のでもなければならないかもしれないけれど、「何かである」から「何かがある」とは言えず、「何かがある」と「何かである」は区別され、認識の問題は「何かである」に属するとすれば、存在の問いに認識を持ち出すのは的外れだと言えると思う。

というのも、「何があるか」が問われているのではないから。
「何があるか」は、何にせよ「何かがあり」、それが「何であるか」の問いだとすれば、問われているはずの「何かがある」は前提とされ、飛び越えられてしまっているのでは。

そうであれば、「認識されたものが〜」等は「何があるか」には答えているかもしれないが(つまり認識されたものが存在する)、なぜ「何かがあるのか」という問いは飛び越えられてしまっている、と言えるかもしれない。

つまり、「なぜ何かがあるのか」という問いの重点は「何か」ではなく「ある」の方にあり、「何かがある」と「何かである」は区別されるとすれば、「ある」にはその「何か」(内容規定)がなく、「なぜ何かがあるのか」は問いの形式は持っていても、問われている内容がないと言えるかもしれない。

1年前 No.771

俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E

「なぜ世界はあるのか」「なぜ宇宙はあるのか」「なぜ何かがあって、何もないのでないのか」。

これらは全て、問題の重点がズレてしまっていると言えるかもしれない。
というのも、ここで問われているのは「存在」ではなく、世界宇宙あるいは何であれ存在する何かがなぜ存在するのか、という問いだろうから。

そのように問題の重点がズレてしまえば、世界宇宙あるいは何であれ何かが存在することとそれらが存在しないこととが対比され、問いたかったはずの「存在」は問いの空間から締め出されてしまう。

とはいえ、「存在」は必ず「何かの存在」であるとすれば、「存在」の問いは「何かの存在」の問いに変貌するか、あるいは、それであることしかできないのかもしれない。

と書いてみて、もし仮に自分がここで問題にしていることが問題であるとして、ここに問題があるとして(実は問題なんてなくただの妄想か勘違いかもしれない)、誰もこんなこと問題にしないかもしれない、そもそも問題としてすら認知されないかもしれない、と思った。

1年前 No.772

優鬼 ★uJcaHEY0RF_LOn

頭のおかしな人、みんないなくなったかな?…これでやっと「平和」になる。

1年前 No.773

優鬼 ★uJcaHEY0RF_LOn

ツッコミどころ多すぎて、反論がまとまらなかったのは反省点。詭弁放置が最もまずかった。

1年前 No.774

宿題 ★sicIy89Ne4_sxd

完全な団体などありえません・・

失業者が必ずいる社会・・

貧乏が必ずある社会・・

犯罪が必ずある社会・・

戦争が必ずある世界・・

1年前 No.775

俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E

考えれば考えるほど「何かがある」ことに驚きを感じる。
それが何でなぜこのようにあるのかが分かったとしても、それがなぜあるのかは分からない。
「何かがある」ことは凄いことなんじゃないか、奇跡みたいなものなんじゃないかと思えてくる。

例えば、世界があるのはビッグバンによってだとか、神がそうさせた、とか答えたとしても、なぜビッグバンはあるのか?なぜ神はあるのか?とさらに問えるだろう。
この問いは「ビッグバン」の原因や「神」の原因の問いではないと思う。
もしそのような問いであるとすれば、ビッグバンや神は第一原因として考えられているはずであるから、その原因を問うことはできないだろうし、問えるとすれば、それらが本当に第一原因か、それらが本当にあるのか、そもそも第一原因なんてあるのか等々になるだろう。
そうだとすれば、この問いをビッグバンや神であれ何であれ、それらが「ある」ことへの問いだと考えることはできないか。

そうすると、「ある」だけでなく「あり続けている」ことにも驚きを感じる。
そこに懐疑を差し挟みたくなる人もいるかもしれないけど、それは問題が違う。

とはいっても、こんなのただの妄想勘違いだろ、と自分で自分を疑ってもいるのだけれど。
あることに驚いたり不思議に思ったとしても、そのあることがただの勘違いであることはありえるだろうから。

1年前 No.776

うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY

「ある」と「見る」と「存在について、私は以前にその順番を  見る⇒ある⇒存在と書いたがチョットそれは

独我論の誤った見解として、実際は  ある⇒見る⇒存在 だと思う。つまり先に「ある」ということでしょうね。

ここで問題なのは「ありかた」と「見え方」でしょうね? そこに存在の意味があると思います。

1年前 No.777

優鬼 ★uJcaHEY0RF_LOn

>そうすると、「ある」だけでなく「あり続けている」ことにも驚きを感じる。

>そこに懐疑を差し挟みたくなる人もいるかもしれないけど、それは問題が違う。


存在の問いの根底にあるのは因果律への疑問、「すべてのことには原因がある」ということへの懐疑だ。
無→存在の否定。そしてあり続けること、存在は理由なく無にならない…

因果律が存在するのは時間が存在するからだ。因果律の成立を問うことは時間の成立を問うこと。時間とともに因果律が生まれた。
時間が存在する「前」というのはない。時間という存在に、存在する前はない。ここでは因果律そのものが成立しない。

1年前 No.778

優鬼 ★uJcaHEY0RF_LOn

時間もまた存在しない。この宇宙は漫画の一コマもしくは映画のワンシーンのようなものからできている(量子力学的にも時間は連続ではなく、プランク定数という一定の単位を持つ)。宇宙のすべての粒子の取りうる状態がすべて存在し、それらの中で近いものだけが一定の時間が過ぎたと主観に認識される形で映し出されている。人生とはそのようにしてできた、漫画・映画である。

1年前 No.779

宿題 ★sicIy89Ne4_sxd

優鬼さん

周りの心と自分の心の関係はどうですか?

1年前 No.780

優鬼 ★uJcaHEY0RF_LOn

空飛ぶスパゲッティモンスターは存在する。その世界に自分という個が存在しないだけ。

1年前 No.781

優鬼 ★uJcaHEY0RF_LOn

複合命題の真理値は真か偽かではない。それを構成する単純命題の真理値によって決まる。
そもそも恒真な論理式が公理と呼ばれるのだから、それを「真かもしれない偽かもしれない」ということが矛盾。
突き詰めていえば、話のすり替え。

1年前 No.782

宿題 ★eM1n2yJmTo_sxd

優鬼さん

論理式の性質は・・恒真・恒偽だけではありません。偶然的なものもあります・・

1年前 No.783

優鬼さん ★uJcaHEY0RF_eQW

SMB詭弁の骨子は、排中律の悪用にある。

排中律
「いかなる命題も真であるか、または偽である」、または「p∨~pの形の命題はすべて真である。」

排中律は単純命題pを「真であるか、または偽である」ということは必ず真になる、という意味。ここで複合命題p∨~pを「真であるか、または偽である」というと矛盾になる。p∨~pの形の命題を「真であるか、または偽である」ということは排中律そのものを否定しているから。
このように排中律を適用できない複合命題をいつの間にか単純命題のようにすり替えるというトリックだった。

1年前 No.784

宿題 ★eM1n2yJmTo_pcO

哲学は神学の侍女(はしため)

聖なる教えを受けとるのは、啓示のみにあり、他の諸学問は人間の知性の不十分さゆえに、

それを明瞭にするために、利用されるだけであり、それゆえに、他の諸学問は神学の下女(婢)の地位にあるのだとされるのです。

この考えのスコラ哲学者たちは・・理論のための理論を徹底的にしました・・理論をもてあそぶかのように・・

1年前 No.785

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>784  優鬼さんさんへ

>排中律

>「いかなる命題も真であるか、または偽である」、または「p∨~pの形の命題はすべて真である。」


 ここまではOK。

>排中律は単純命題pを「真であるか、または偽である」ということは必ず真になる、という意味。


 pは単純命題とは限らず、複合命題p=q∨~qでも何でも良いはずです。

>ここで複合命題p∨~pを「真であるか、または偽である」というと矛盾になる。


 なりません。排中律を真だと仮定すると、p∨~pは排中律により「真」となり、「真」である命題は「真であるか、または偽である」も当然満たしているから、「p∨~pは「真であるか、または偽である」」も真です。「真」≠「真であるか、または偽である」だけれども、「真」→「真であるか、または偽である」、つまり、「真」であるときは「真であるか、または偽である」も満たしているのですよ。「男である」≠「男であるか、または女である」だけれども、「「男である」ならば「男であるか、または女である」」は真です。

 排中律は、数学基礎論でいうヒルベルトの「形式主義」では論理法則として取り入れ、ブラウワーの「直観主義」では取り入れませんが、どちらも無矛盾な真理体系を構成できます。つまり、「排中律」もまた正しい可能性と正しくない可能性の両方がある、というのが最も一般化された、すべての可能性を網羅した状態です。

>p∨~pの形の命題を「真であるか、または偽である」ということは排中律そのものを否定しているから。


 否定していません。「p∨~pは「真であるか、または偽である」」は、r= p∨~pについて「rは「真であるか、または偽である」」ということであり、単純にrについて排中律を適用しているだけ。r= p∨~pは、たまたまこれ自体が排中律の形をしているために「真」だけれど、「真」である命題は「真であるか、または偽である」の方も満たしているので、「p∨~pは「真であるか、または偽である」」は真。

>このように排中律を適用できない複合命題をいつの間にか単純命題のようにすり替えるというトリックだった。


 排中律「p∨~pは真である」は、単純命題pだけでなく、複合命題p=q∨~qの場合も使えるはずです。複合命題p=q∨~qの場合、pは「真」であり、「真」≠「真または偽」ではありますが、「真」→「真または偽」(「真」であるならば、「真または偽」を満たしている)なので、「p∨~pは「真または偽」である」は真です。

    まとめ
 排中律を正しいと見なすとき、
   「p∨~p」は「真」
になるが、「真」である命題は「真または偽」を満たしていないのではなく、「真または偽」をも満たしている。ゆえに、
   「p∨~pは「真または偽」」も真
「真」≠「真または偽」だけれども、「真」→「真または偽」、すなわち、「真」であるならば「真または偽」の方も満たしているからである。A=「真」、B=「真または偽」とすると、A≠Bだけれども、A→Bなのである。よって、「p∨~pは「真」」が真ならば、「p∨~pは「真または偽」」も真。
   Sさんは「男」である
が真ならば、
   Sさんは「男または女」である
も真になるのと同じ。「男」≠「男または女」であるが、「男」→「男または女」、すなわち「男」であれば必ず「男または女」を満たしているから。

1年前 No.786

優鬼 ★uJcaHEY0RF_eQW

優鬼さんトラップには引っかからなかったようだが、SMBがSumioBabaとは一言もいってないぞ。お前サイコパスじゃね?

排中律が公理でない体系はもちろん存在するが、議論しない。というのも、僕にはその知識はない。
ただ一つ指摘するなら、論点先取。「排中律もまた正しい可能性と正しくない可能性の両方がある」は排中律そのものなので、アプリオリに排中律を適用している。
(前にも同じこと言ったなあ…可能性を限定しなければ間違わない→でも正しいって限定してるじゃん→SMB自身も正しいかどうかはわからないよ、だっけ?今回はなんて答えるんだろ)

1年前 No.787

優鬼 ★uJcaHEY0RF_eQW

1そんな代入操作はない

いつものできるできる詐欺。できるというなら論理学の教科書から引用してみればいい。
できるというだけならだれでもできるから、今のところ根拠はないといえる。

できないなら話をすり替えているだけ。それは排中律という公理ではなく、「排中律」という言葉が同じだけで、異なる意味を持つ、まったく別の単純命題の話をしている。

それが可能だとどうなるか、ちょっと考えればわかる。単純命題に代入すると「真であるか、または偽である」になるなら、恒真・恒偽はありえない。つまり公理というものが存在しない、そんな論理学。

2

「真であるか、または偽である」という根拠は排中律にある。これはもちろん偽の可能性があるという意味。
いつの間にか意味が変わっているだろ?SMBのそれは、論理学の「真であるか、または偽である」とは意味が違う。

まとめとかいうミスリードやめない?同じ話を4回書く必要がどこにあるんだよ。
論点を余さず網羅するのがまとめだよ。

1年前 No.788

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>787,788  優鬼さんへ

>>787

>ただ一つ指摘するなら、論点先取。「排中律もまた正しい可能性と正しくない可能性の両方がある」は排中律そのものなので、アプリオリに排中律を適用している。


 「排中律」を誤解しておられます。「排中律」は、「…もまた正しい可能性と正しくない可能性の両方がある」という意味ではありません。「排中律」とは、「どんな命題pも、つまり、単純命題pも、複合命題pも、「恒真」な命題pも、「恒偽」な命題pも、「恒真」でも「恒偽」でもなく状況次第で真にも偽にもなれる命題pも、「必ず「真または偽」を満たしている」、あるいは、「p∨¬pは必ず真になる」」という意味です。

>>788
>「真であるか、または偽である」という根拠は排中律にある。これはもちろん偽の可能性があるという意味。

>いつの間にか意味が変わっているだろ?SMBのそれは、論理学の「真であるか、または偽である」とは意味が違う。


 「排中律」を誤解しているのは貴方の方です。「排中律」=「pは必ず「真または偽」である」=「p∨¬pは恒真である」は、「(pは)偽の可能性がある」という意味ではありません。上の説明のとおり、「どんな命題pも、つまり、単純命題pも、複合命題pも、「恒真」な命題pも、「恒偽」な命題pも、「恒真」でも「恒偽」でもなく状況次第で真にも偽にもなれる命題pも、「必ず「真または偽」を満たしている」、あるいは、「p∨¬pは必ず真になる」」という意味です。

1年前 No.789

優鬼 ★uJcaHEY0RF_eQW

まるで安倍首相の答弁だな

1年前 No.790

うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY

なぜ何も無いのでなく、それはあるのか? の答えは「それは私が生きているから在るのだよ」というほかないです。
単純すぎて困りますが・・・「見るから在る」  「見なければ無い」 だと思います。

11ヶ月前 No.791

田中 ★iPhone=5jixfiig8m

色々と思うところはありますが、まず、「見る」という表現は不適切だと思いますね。
何故かと言って、あなたは「見るから在る」「見なければ無い」という区別を用いていますよね。
では、何を見て何を見ないのですか?
あなたが見る「それ」は、あなたが「見るから在り」「見なければ無い」のだから、それを「見る」ことも不可能でしょう。
何故って、「それ」はあなたが見なければ無いのだから。
「見る」というは、「見る」こととは独立に存在するものによって、見る「それ」が「見る」とは独立に存在することによって、初めて「それ」を「見る」ことが可能なのでは?
そうでなければ、「見るから在る」「見なければ無い」という区別は無意味では?
で、このことによって「見るから在る」「見なければ無い」という区別自体がそもそも無意味では?

11ヶ月前 No.792

田中 ★iPhone=pbVj0lMlCg

同一性の問題です。
在るものと無いものとが個物として同一というのはナンセンスですから、「見るから在るそれ」と「見なければ無いそれ」の「それ」の同一性を確保できないために、「見るから在る」「見なければ無い」という区別自体ナンセンスではないか、という指摘です。

11ヶ月前 No.793

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

実在論と観念論、立場の違いで、答えが違う。

世界をどう見るか、両者を止揚できる可能性はあるのだろうか。

また見られるべき「世界」は存在するのだろうか。

11ヶ月前 No.794

地下水 ★lHRYPNADL9_Tbw

 人間は、観念で考え、数学の様に、論理展開を繰り返すが、何時かは対象を把握しようとする。そしてその対象が世界に向けられた時に、数学は物理に応用される数学の開発に変化する。観念は、実在を把握する、観念に変化する。観念は、実在の自分や、公共の福祉に仕様を合わせる様に、変化するのである。

11ヶ月前 No.795

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

観察者と世界。

世界は観察者が作り出したものなのか、観察者とは別に存在するものなのか。

いくら世界の存在に実感があっても、観察者の主観を通じてしか把握できない構造がある。

観察者が見る世界はあくまで観察者の世界である。

しかし、観察者が存在するが、観察者以外は存在しないという根拠はないのではないか。

11ヶ月前 No.796

地下水 ★KATHFaYqOw_Tbw

 赤ん坊を見ていると解るのである。赤ん坊は胎児のときは見えていない。生まれてしばらくは見えていないが、やがて見える様になり、親の顔を見る様になる。乳房は見えない時から、もうすぐくわえられる。そうして1年もすると片言が解って来るが、記憶はまだ定かではない。観念を育てる、大脳新皮質や言語野は、生得的に持っているが、思考の言語である国語でさえ、後発的な学習により徐々に取得される。児童の頃はまだまだ対象把握が不充分であり、空想に囚われており、現実把握や世界観が出来上がっていない。もっともっと現実の世界との対話が必要なのである。しかし直接社会に出すのも足りない物が多いから、学校という限られた空間の中で、文化を学習をする事になる。そして大学の頃、専門分野に限られた現実世界に出る事になる。
 その者の世界観は発達を続け、関心や対象の把握の仕方や、認識される物が異なって来る。

11ヶ月前 No.797

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

観察者の主観と言えど、見るゆえに存在するというのは、見なければ損存在しないのと表裏一体。

認識作用がすべてだと見なせば、世界は消えるが、自分はなぜ消えないというのだろう。

11ヶ月前 No.798

優鬼 ★uJcaHEY0RF_8By

ちょっと考えればわかるだろ、両者は不可分だって。観測者が見ているものが世界なんだから。
そもそもあんたたちが言葉だけ知っているであろう「多世界解釈」は、観測者も系(世界)の一部という発想から生まれた量子力学の観測問題に対する解釈なんだが。

11ヶ月前 No.799

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

物ではなくて、道徳や数式などの観念のみについても、それを存在するというか。

何をもって存在というのか、定義の問題なのか、より本質的な要素が隠れているのか。

「世界以外のすべてが存在する」?

11ヶ月前 No.800


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