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存在を問う

 ( 哲学掲示板 )
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★Gc8HjmXH4j_BiB

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる

3年前 No.0
メモ2019/11/06 20:40 : 優鬼★uJcaHEY0RF_g5X

・「真であるか、または偽である」を「真かもしれないし、偽かもしれない」と、可能性があるように表現するミスリード

・真理値を0か1のどちらでもよいとすることで、命題を肯定系でも否定形でも表現できる作為性

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SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>499  えぴめてうすさんへ

>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。


 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」で良いですよね。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」は初めからトートロジーなので、論理的必然性で真だし、「なぜ?」と問う事自体が無意味、も良いですよね。で、そこからどうして、 >>478 の、
>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。

が言えるのですか? トートロジーで「なぜ?」と問うのが無意味なのは「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の方ですよ。なぜ・bの方、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのですか? SumioBabaは、
>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

と説明したつもりなのですが?

1年前 No.501

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>501

>「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」で良いですよね。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」は初めからトートロジーなので、論理的必然性で真だし、「なぜ?」と問う事自体が無意味、も良いですよね。


 はい、おっしゃるとおりと理解しています。

>で、そこからどうして、 >>478 の、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>> と理解いたします。

>が言えるのですか? トートロジーで「なぜ?」と問うのが無意味なのは「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の方ですよ。なぜ・bの方、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのですか?


 申し訳ありませんが、その前に、

>SumioBabaは、

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

と説明したつもりなのですが?

 については、 >>416 と認識しています。
 これに至る経緯をさかのぼりますと、

>>371
●えぴめてうす
>> a多世界解釈が正しい世界である場合、謎はなくなるが、b多世界解釈が正しくない世界の場合は、謎はなくならない。これは、絶対的に真である。

>> ただし、私のいる世界が、a、bどちらであるのかは、観測しても実証も反証もできない。(つまりa=1もb=1も確定しない。)

>> つまり、aとbどちらにいるのか判明しないため、存在への問いが意味があるかないか(謎かそうでないか)確定しない。

>> 誤りをご指摘いただければ幸いです。

○SumioBabaさん
> よろしいんじゃないでしょうか。


 これを受けて、
>>406
●えぴめてうす
 多世界解釈が正しい世界では、謎が消滅しますが、正しくない世界では、そうではありません。多世界解釈に立脚すると、この2つの世界があるということになります。
・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる
・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない
 aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。
 結局、私は、いまどちらの世界にいるかわかりませんが、bの世界での問いを解こうとしているということかと思います。人間は、必然的にaの世界にいるということではなく、bの世界にいるのでもない、どちらでもありうる。どちらかには任意性があると思われます。

 それに対して、
>>416
○SumioBabaさん
 それは違います。
 aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。
 bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。
 「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。aでは答が見付かったから、これ以上問う必要は有りません。bでは答が存在しないに確定したのだから、こちらもこれ以上問う必要など無いのではありませんか?

 とのことで、SumioBabaさんは、「b多世界解釈が正しくない世界」については、「存在の問いに対して謎が消滅していない 」ではなく、「bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません」とおっしゃっていると認識しています。

 ここから、bでは答えがない理由である「とっくに説明ずみ」の内容について、数学や科学における公理系の説明をいただいたという流れかと思います。

 それであらためて、
>で、そこからどうして、 >>478 の、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>> と理解いたします。

>が言えるのですか? トートロジーで「なぜ?」と問うのが無意味なのは「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の方ですよ。なぜ・bの方、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのですか?


 について、 >>499 の繰り返しになり恐縮ですが、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

 の場合を考えると、
ア)問いは、同じく「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」ですが、よろしいですね?
イ)その問い自体をトートロジーだと考えているわけではなく、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーであると考えるべきと思いますが、いかがでしょうか?
ウ)イと考えるゆえに、「「なぜ?」と問うことが無意味 = 存在の問いへの意味がなくなる」ということだと思いますが、いかがでしょうか?

 このaと同じ構造で、bを考えるといけませんか?

 どこがおかしいのかがほんとうにわからないのです。

 aの場合、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのは、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーだからではないでしょうか。同様に、bの場合も、公理として置いた「何かがある又は何もないのどちらかである」がトートロジーだからではないでしょうか。

 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのは、公理がトートロジーだからではないのですか?
 もしこの表現、言葉遣い自体がおかしいならば、「・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる」がそもそもおかしかったことになると思います。
 繰り返しになりますが、 bで「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのは、aと同様、公理がトートロジーだからだと思っていましたが、そうでないとしたら、

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない


 について、bには答えがないという公理系の話と、公理の「何かがある又は何もないのどちらかである」がトートロジーだから、」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問う意味がないということをどう考えればよいのでしょうか。

 どうも頭が固くて申し訳ありません。

1年前 No.502

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

目の前に存在しているのに「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と思うのですか?

1年前 No.503

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>501  えぴめてうすさんへ

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

 の場合を考えると、
ア)問いは、同じく「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」ですが、よろしいですね?
イ)その問い自体をトートロジーだと考えているわけではなく、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーであると考えるべきと思いますが、いかがでしょうか?
ウ)イと考えるゆえに、「「なぜ?」と問うことが無意味 = 存在の問いへの意味がなくなる」ということだと思いますが、いかがでしょうか?
> このaと同じ構造で、bを考えるといけませんか?

> どこがおかしいのかがほんとうにわからないのです。


 「多世界解釈」(合)を「公理」とする場合。存在し得るすべての世界がどれも確率的に「存在する」と「存在しない」の両方の可能性が有ります。それゆえ「何かがある」と「何もない」のどちらも確率的に実現していることになります。この時初めて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、ダブル・トートロジーに解消できます。つまり、「両方が実現されているので、片方に注目するにはそちらを選ぶ必要が有り、「何かがある」の方を選べば「何かがある」が選ばれるし、「何もない」の方を選べば「何もない」が選ばれる。どちらもトートロジーである。」という説明です。

 「多世界解釈」(合)を採らず、世界は1つだけであり、「何かがある」だけが実現して「何もない」は実現していない、とする場合。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーを仮定したからといって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を解消できる訳ではありません。「何かがある」の方だけが実現し「何もない」は実現していないと考えている以上、「なぜ「何かがある」の方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに答は有りません。「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。

 要するに、「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーによって謎が無くなるのではなく、「多世界解釈」(合)の中の「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」という設定こそが、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎をダブル・トートロジーという形で解消するのです。

1年前 No.504

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>504

 ありがとうございます。

>「多世界解釈」(合)を「公理」とする場合。存在し得るすべての世界がどれも確率的に「存在する」と「存在しない」の両方の可能性が有ります。それゆえ「何かがある」と「何もない」のどちらも確率的に実現していることになります。この時初めて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、ダブル・トートロジーに解消できます。つまり、「両方が実現されているので、片方に注目するにはそちらを選ぶ必要が有り、「何かがある」の方を選べば「何かがある」が選ばれるし、「何もない」の方を選べば「何もない」が選ばれる。どちらもトートロジーである。」という説明です。


 このことは、「多世界解釈」(正)についても同じでしょうか。

>「多世界解釈」(合)を採らず、世界は1つだけであり、「何かがある」だけが実現して「何もない」は実現していない、とする場合。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーを仮定したからといって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を解消できる訳ではありません。「何かがある」の方だけが実現し「何もない」は実現していないと考えている以上、「なぜ「何かがある」の方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに答は有りません。「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。


 「多世界解釈」(反)については、答えがないという意味をおっしゃっていますか。

>要するに、「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーによって謎が無くなるのではなく、「多世界解釈」(合)の中の「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」という設定こそが、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎をダブル・トートロジーという形で解消するのです。


 いまは、
 「多世界解釈」(正) = a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる
 「多世界解釈」(反) = b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない
 についての確認ですので、「多世界解釈」(合)の前に、まずこの2つについて確認させていただけませんでしょうか。

 「多世界解釈」(合)についてのこの内容が「多世界解釈」(正)にも当てはまるとすれば、aは「謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる 」でよろしいですね。ここは疑義がないところと思います。

 1つ上で、「「何かがある」の方だけが実現し「何もない」は実現していないと考えている以上、「なぜ「何かがある」の方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに答は有りません」とおっしゃっていますが、これは、bは「答が存在しない」でよろしいでしょうか。

 もしそうであれば、
>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

 の場合を考えると、
ア)問いは、同じく「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」ですが、よろしいですね?
イ)その問い自体をトートロジーだと考えているわけではなく、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーであると考えるべきと思いますが、いかがでしょうか?
ウ)イと考えるゆえに、「「なぜ?」と問うことが無意味 = 存在の問いへの意味がなくなる」ということだと思いますが、いかがでしょうか?
> このaと同じ構造で、bを考えるといけませんか?

 については、どうお考えでしょうか。

1年前 No.505

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>505  えぴめてうすさんへ

>>「多世界解釈」(合)を「公理」とする場合。存在し得るすべての世界がどれも確率的に「存在する」と「存在しない」の両方の可能性が有ります。それゆえ「何かがある」と「何もない」のどちらも確率的に実現していることになります。この時初めて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、ダブル・トートロジーに解消できます。つまり、「両方が実現されているので、片方に注目するにはそちらを選ぶ必要が有り、「何かがある」の方を選べば「何かがある」が選ばれるし、「何もない」の方を選べば「何もない」が選ばれる。どちらもトートロジーである。」という説明です。


> このことは、「多世界解釈」(正)についても同じでしょうか。


 「多世界解釈」(正)=「存在し得るすべての世界が「存在する」であり「存在しない」ではない」ですから、「何かがある」だけが実現し、「何もない」の方は実現されていません。だから、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎はダブル・トートロジーに解消されません。

>>「多世界解釈」(合)を採らず、世界は1つだけであり、「何かがある」だけが実現して「何もない」は実現していない、とする場合。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーを仮定したからといって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を解消できる訳ではありません。「何かがある」の方だけが実現し「何もない」は実現していないと考えている以上、「なぜ「何かがある」の方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに答は有りません。「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。


> 「多世界解釈」(反)については、答えがないという意味をおっしゃっていますか。


 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しない」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。

>>要するに、「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーによって謎が無くなるのではなく、「多世界解釈」(合)の中の「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」という設定こそが、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎をダブル・トートロジーという形で解消するのです。


> いまは、

> 「多世界解釈」(正) = a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> 「多世界解釈」(反) = b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

> についての確認ですので、「多世界解釈」(合)の前に、まずこの2つについて確認させていただけませんでしょうか。


 上に説明した通り、「多世界解釈」(正)では「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現されていないので、ダブル・トートロジーによる謎の解消はできません。「多世界解釈」(反)は「多世界解釈」(正)の否定ですが、無数のヴァリエーションが有るため、場合によって様々です。両方併せたものが、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)です。

> 「多世界解釈」(合)についてのこの内容が「多世界解釈」(正)にも当てはまるとすれば、aは「謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる 」でよろしいですね。ここは疑義がないところと思います。


 「多世界解釈」(合)では「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているので、ダブル・トートロジーにより謎は解消します。「多世界解釈」(正)は「何かがある」の方だけしか実現していないので、ダブル・トートロジーによる謎の解消はできません。
 シュレディンガーの猫の生死だったら、「多世界解釈」(合)でも「多世界解釈」(正)でも(場合によっては「多世界解釈」(反)でも)「生」と「死」の両方が実現しています。だから、「「生」と「死」の両方が実現している」という設定でさえあれば、謎をダブル・トートロジーに解消できるし、「「生」と「死」の片方だけが実現している」という設定であれば、謎をダブル・トートロジーに解消できません。

> もしそうであれば、

>>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる


 「多世界解釈が正しい世界」というのは、「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合、という意味ですね。「多世界解釈が正しくない世界」の方は、「何かがある」と「何もない」の片方だけしか実現していないと考える場合、という意味になります。

 例えば「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」もトートロジーです。しかし、「多世界解釈」(合)を採らない《常識的に考えた場合》の「公理」=「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」だと、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現している、とは考えていないはずです。自分が住む世界1つだけが存在し、宇宙人は「存在する」か「存在しない」か片方だけしか実現していない、と考えているはずです。この場合、仮に宇宙人は「存在する」の方だと判明したとしても、《謎》=「なぜ宇宙人は「存在しない」のではなく「存在する」の方なのか?」はダブル・トートロジーには解消されません。そこで、「多世界解釈」(「合」「正」「反」のどれでも良い)を仮定し、少なくとも2つ以上の世界が実現し、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現されていると考えた場合に初めて、ダブル・トートロジーによる謎の解消ができるということです。

 「謎が消滅する」「謎が消滅しない」「謎が残らない」「謎が残る」「初めから謎は無かった」「謎に答が有る」「謎に答は無い」「問いに意味が有る」「問いに意味がない」…など表現がばらばらですので、1つに統一します。(ダブル・トートロジーが実現し)「謎は解消する」、または、(ダブル・トートロジーが実現せず)「謎は解消しない」を用います。
   ・「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現していると考えれば、
    (ダブル・トートロジーが実現し、)「なぜ「○○○でない」ではなく
    「○○○である」の方なのか?」という謎は解消する。
   ・「○○○である」だけが実現し、「○○○でない」は実現していないと
    考えると、(ダブル・トートロジーが実現せず、)「なぜ「○○○でない」
    ではなく「○○○である」の方なのか?」という謎は解消しない。
になります。

1年前 No.506

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>> >>506


 ありがとうございます。

> 「多世界解釈」(正)=「存在し得るすべての世界が「存在する」であり「存在しない」ではない」ですから、「何かがある」だけが実現し、「何もない」の方は実現されていません。だから、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎はダブル・トートロジーに解消されません。


 「多世界解釈」(正)では、「何もない」の方は実現されていないことを認識できていませんでした。
 「多世界解釈」(正)では、謎が解消されないことは了解です。

> 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しない」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。


 「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(反)を、「多世界解釈」が正しい場合と「多世界解釈」が正しくない場合と同じと考えてしまい、早合点していました。

> 上に説明した通り、「多世界解釈」(正)では「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現されていないので、ダブル・トートロジーによる謎の解消はできません。「多世界解釈」(反)は「多世界解釈」(正)の否定ですが、無数のヴァリエーションが有るため、場合によって様々です。両方併せたものが、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)です。


 私が早合点して、=でつないでしまったのですが、この >>505 の=はまず間違い、つまり、両辺は別物ということですね。そうであれば、これ以降、「多世界解釈が正しい世界」、「多世界解釈が正しくない世界」という表現でいきたいと思います。
> 「多世界解釈」(正) = a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> 「多世界解釈」(反) = b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない


> 「多世界解釈」(合)では「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているので、ダブル・トートロジーにより謎は解消します。「多世界解釈」(正)は「何かがある」の方だけしか実現していないので、ダブル・トートロジーによる謎の解消はできません。


 「多世界解釈」(正)は「何かがある」の方だけしか実現していないことを理解しましたので、「多世界解釈」(合)についてのこの内容が「多世界解釈」(正)に当てはまらないことを了解しました。

> 「多世界解釈が正しい世界」というのは、「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合、という意味ですね。「多世界解釈が正しくない世界」の方は、「何かがある」と「何もない」の片方だけしか実現していないと考える場合、という意味になります。


 表現内容を整理させていただくと、

「多世界解釈が正しい場合」:
 「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合

「多世界解釈が正しくない場合」:
 「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合
=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合
=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合

「多世界解釈」(反):
 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しない」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。( >>506 より)

 ということかと思いますが、これで支障がありますでしょうか。

 この場合の「多世界解釈が正しくない場合」は、
>「多世界解釈」(合)を採らない《常識的に考えた場合》の「公理」=「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」だと、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現している、とは考えていないはずです。自分が住む世界1つだけが存在し、宇宙人は「存在する」か「存在しない」か片方だけしか実現していない、と考えているはずです。

 と同じことになり、「多世界解釈が正しくない場合」=《常識的に考えた場合》となります。

 ここまでは、よろしいでしょうか。

 ここで、 >>459 で合意した下記の枠組みとそれ以降の確認をやり直さないといけないと思います。
 まず、枠組みの整理としては、以下のとおり。

《常識的に考えた場合》

《多世界解釈を導入した場合》

 (多世界解釈が正しい場合)

 (多世界解釈が正しくない場合)

 ただし、
《常識的に考えた場合》=《多世界解釈を導入しない場合》=(多世界解釈が正しくない場合)
=「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合
=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合
=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合
 また、《多世界解釈を導入した場合》は、多世界解釈(合)に当たる。

【説明】
 多世界解釈を導入した場合としない場合に分け、導入しない場合が、常識的な考え方=「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合で、導入した場合については、多世界解釈の定義上、すべてが実現しているため、その中に同時実現した多世界(存在しないも含まれる)と、この常識的な考え方の世界を含んでいると考える枠組み

 これを踏まえて、 >>459 で合意した枠組みを確認しましたが、上記説明に基づいても、下記のように【答え】の内容を除き、特に変更は不要のように思いますが、いかがでしょうか。

>「謎が消滅する」「謎が消滅しない」「謎が残らない」「謎が残る」「初めから謎は無かった」「謎に答が有る」「謎に答は無い」「問いに意味が有る」「問いに意味がない」…など表現がばらばらですので、1つに統一します。(ダブル・トートロジーが実現し)「謎は解消する」、または、(ダブル・トートロジーが実現せず)「謎は解消しない」を用います。

   ・「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現していると考えれば、
    (ダブル・トートロジーが実現し、)「なぜ「○○○でない」ではなく
    「○○○である」の方なのか?」という謎は解消する。
   ・「○○○である」だけが実現し、「○○○でない」は実現していないと
    考えると、(ダブル・トートロジーが実現せず、)「なぜ「○○○でない」
    ではなく「○○○である」の方なのか?」という謎は解消しない。
になります。

 表現の整理をありがとうございました。
 これに基づき、上記枠組みの【答え】の内容について検討すると、

>>459
>《常識的に考えた場合》

>【公理】

> 何かがある又は何もないのどちらかである

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

> ?、無現後退、答えはない…A

   ↓
  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

>《多世界解釈を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

  以下の両方を含む全体としては、(ダブル・トートロジーが実現し)謎は解消する。

>(正しい場合)

> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

   ↓
  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

>(正しくない場合)

> Aと同じ

   ↓
  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

>> 【結論】

>> 多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考えてしまうと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに、オーソドックスな科学は答えられず、「なぜかそうだからそうなのさ」と黙って受け入れるしか無くなる。

> この【結論】の考え方は、うえで設定した《常識的に考えた場合》に該当すると思います。

> よって、【答え】は、Aであり、SumioBabaさんが【結論】の中でお述べのとおりです。

 その通りです。ここまでは合意成立ですね。

 早合点や勘違いなどがあるかもしれません。
 支障がある箇所を指摘又修正いただければ幸いです。

 なお、《常識的に考えた場合》及び《多世界解釈を導入した場合》(正しくない場合)の【答え】について、次のご説明をどのように反映すればよいでしょうか。

・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない
   ↓
 bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。
 「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。aでは答が見付かったから、これ以上問う必要は有りません。bでは答が存在しないに確定したのだから、こちらもこれ以上問う必要など無いのではありませんか?

1年前 No.507

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>507  えぴめてうすさんへ

> 「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(反)を、「多世界解釈」が正しい場合と「多世界解釈」が正しくない場合と同じと考えてしまい、早合点していました。

> 私が早合点して、=でつないでしまったのですが、この >>505 の=はまず間違い、つまり、両辺は別物ということですね。そうであれば、これ以降、「多世界解釈が正しい世界」、「多世界解釈が正しくない世界」という表現でいきたいと思います。


 それもあまり正確ではありません。いっそ、「「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現していると考える場合」、「「○○○である」だけが実現し「○○○でない」の方は実現していないと考える場合」に分けましょう。その方が一目瞭然です。

> 「多世界解釈」(正)は「何かがある」の方だけしか実現していないことを理解しましたので、「多世界解釈」(合)についてのこの内容が「多世界解釈」(正)に当てはまらないことを了解しました。


 はい、有難うございます。「多世界解釈」(正)、「多世界解釈」(反)、「多世界解釈」(合)という言葉は、SumioBabaが好き勝手に定義した上、一度しか説明していなかったので、誤解は有って当然だと思います。質問が有ったので詳しく説明しましたが、必要が無ければ、そんなに詳しく理解して頂かなくても良い、と考えておりました。

> 「多世界解釈が正しい世界」というのは、「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合、という意味ですね。「多世界解釈が正しくない世界」の方は、「何かがある」と「何もない」の片方だけしか実現していないと考える場合、という意味になります。


>「多世界解釈が正しい場合」:

> 「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合


>「多世界解釈が正しくない場合」:

 「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合
>=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合

>=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合


 はい、そうです。

>「多世界解釈」(反):

> 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しない」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。( >>506 より)


> ということかと思いますが、これで支障がありますでしょうか。


 はい、OKです。ただ、ちょっと説明が不備でした。「多世界解釈」(反α)と「多世界解釈」(反β)とは「多世界解釈」(反)の定義に従っていますが、「多世界解釈」(反γ)はちょっと外れています。このような「多世界解釈」(反γ)もまた「多世界解釈」(反)に含める、という定義の拡張が必要ですね。「多世界解釈」(合)は考えられるすべての可能性を含んでおり、そこから「多世界解釈」(正)を除くものすべてが「多世界解釈」(反)です。「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)。

> この場合の「多世界解釈が正しくない場合」は、

>>「多世界解釈」(合)を採らない《常識的に考えた場合》の「公理」=「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」だと、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現している、とは考えていないはずです。自分が住む世界1つだけが存在し、宇宙人は「存在する」か「存在しない」か片方だけしか実現していない、と考えているはずです。


> と同じことになり、「多世界解釈が正しくない場合」=《常識的に考えた場合》となります。


> ここまでは、よろしいでしょうか。


 はいその通りです。

> まず、枠組みの整理としては、以下のとおり。

>《常識的に考えた場合》

>《多世界解釈を導入した場合》

> (多世界解釈が正しい場合)

> (多世界解釈が正しくない場合)


> ただし、

>《常識的に考えた場合》=《多世界解釈を導入しない場合》=(多世界解釈が正しくない場合)

>=「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合

>=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合

>=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合

> また、《多世界解釈を導入した場合》は、多世界解釈(合)に当たる。


 はい、正しく理解されています。

>【説明】

> 多世界解釈を導入した場合としない場合に分け、導入しない場合が、常識的な考え方=「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合で、導入した場合については、多世界解釈の定義上、すべてが実現しているため、その中に同時実現した多世界(存在しないも含まれる)と、この常識的な考え方の世界を含んでいると考える枠組み


 はいこれでOKです。ただ、ちょっと見方を変えると、《常識的に考えた場合》というのは、(多世界解釈が正しい場合)と(多世界解釈が正しくない場合)のうち正しいのは(多世界解釈が正しくない場合)の方だ、と無意識的に真理を限定してしまっている視点なのですね。だから、そんな先入観を捨て、何一つ暗黙の仮定をせず、真理のデフォルト値である「多世界解釈」(合)から話を始めようではないか、ということです。そうすれば、敢えて《常識的に考えた場合》を書く必要は無くなります。(多世界解釈が正しくない場合)こそが《常識的に考えた場合》そのものなのですから。

>《常識的に考えた場合》

>【公理】

> 何かがある又は何もないのどちらかである

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

> ?、無現後退、答えはない…A

>   ↓

>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。


 はい、そうです。

>《多世界解釈を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

>  以下の両方を含む全体としては、(ダブル・トートロジーが実現し)謎は解消する。

>(正しい場合)

> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

>   ↓

>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

>(正しくない場合)

> Aと同じ

>   ↓

>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。


 (正しい場合)と(正しくない場合)とが、どういう分け方になっているのかよく解りません。「「何かかがある」と「何もない」の両方が実現している場合」と「「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない場合」とに分けるのであれば、前者はダブル・トートロジーが実現し「謎は解消する」、後者はダブル・トートロジーが実現せず「謎は解消しない」だと思いますが?

 《常識的に考えた場合》というのは、《多世界解釈を導入した場合》の(正しい場合)と(正しくない場合)のうち、先入観で無意識的に(正しくない場合)の方を選んでしまっている視点です。だから、《常識的に考えた場合》と、《多世界解釈を導入した場合》の(正しくない場合)とは、完全に同じになるはずです。

> なお、《常識的に考えた場合》及び《多世界解釈を導入した場合》(正しくない場合)の【答え】について、次のご説明をどのように反映すればよいでしょうか。

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

>>   ↓

>> bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

>> 「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。aでは答が見付かったから、これ以上問う必要は有りません。bでは答が存在しないに確定したのだから、こちらもこれ以上問う必要など無いのではありませんか?


 P=「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」と考えれば、ダブル・トートロジーの実現により、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は解消されます。その代わり、「なぜ「Pでない」ではなく「Pである」の方なのか?」=《メタ謎P》が発生してしまいます。

 Q=「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」と考えると、その論理的必然性は存在しないので、経験科学的真理として黙って受け入れるしか有りません。「理由なんか知らないよ」「なぜかそうだからそうなのさ」「神の気まぐれとしか言いようがないね」「神はなぜか最後まで謎が残るように世界を作ったのだ」が最終的な答になり、《謎》は解消しません。さらに、「なぜ「Qでない」ではなく「Qである」の方なのか?」=《メタ謎Q》も発生してしまいます。

 「多世界解釈」(合)は、P+Qという重ね合わせの視点に立ちます。正確に書けばaP+bQ(aとbは不明)であり、Pかもしれない、Qかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、です。この場合、Pを選べば《謎》は解消し、Qを選べば《謎》は解消しません。つまり、この視点だと、「《謎》は解消する」を選べば「《謎》は解消する」が選ばれる、「《謎》は解消しない」を選べば「《謎》は解消しない」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立しているだけであり、《メタ謎P》と《メタ謎Q》も解消します。と同時に、《謎》が解消する理由、解消しない理由も解っているので、《謎》の答も得られたことになります。

1年前 No.508

★Android=1jTqFEWVqK

反実在論が正しいことの証明 全ては主観であるとする
全ては主観であることも主観であるよって客観であり
偽 全ては主観であるは偽とするつまり全ては客観であるとなるこれは真である
この文は偽のみである(つまり、同時に真ということはない)は同時に真ということはないがこの文は偽のみで
否定されるため真であり同時に偽でパラドックスは解決される。よって全ては主観であるは客観であり主観なので主観と客観は一致するとなり反実在論は正しいとなる

1年前 No.509

★Android=1jTqFEWVqK

全ては→これは
つまりはこれは主観であるは偽でも真でも矛盾するため他の理論を使う必要もなく単独で偽でも真でもないとわかり結論としてでた偽でも真でもあるが結論が正しいならば主観と客観は同じであるという事実も正しいということです

1年前 No.510

★Android=1jTqFEWVqK

またこれは客観であるが真であるとき真ですが偽であるときを考えた場合 主観または主体を離れて独立に存在する存在が偽とした主観でみると偽になり矛盾
よって客観は客観であるが真のとき存在し客観であるが偽のとき存在するとなり前の考えを補強する

1年前 No.511

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>508
 ありがとうございます。

> それもあまり正確ではありません。いっそ、「「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現していると考える場合」、「「○○○である」だけが実現し「○○○でない」の方は実現していないと考える場合」に分けましょう。その方が一目瞭然です。


  (案)
 「すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現していると考える場合」
 「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」
 ではどうでしょうか。

>> 「多世界解釈が正しい世界」というのは、「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合、という意味ですね。「多世界解釈が正しくない世界」の方は、「何かがある」と「何もない」の片方だけしか実現していないと考える場合、という意味になります。

>>「多世界解釈が正しい場合」:

>> 「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合

>>「多世界解釈が正しくない場合」:

 「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合
>>=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合

>>=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合

> はい、そうです。


>> この場合の「多世界解釈が正しくない場合」は、

>>>「多世界解釈」(合)を採らない《常識的に考えた場合》の「公理」=「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」だと、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現している、とは考えていないはずです。自分が住む世界1つだけが存在し、宇宙人は「存在する」か「存在しない」か片方だけしか実現していない、と考えているはずです。

>> と同じことになり、「多世界解釈が正しくない場合」=《常識的に考えた場合》となります。

>> ここまでは、よろしいでしょうか。

> はいその通りです。


>> まず、枠組みの整理としては、以下のとおり。

>>《常識的に考えた場合》

>>《多世界解釈を導入した場合》

>> (多世界解釈が正しい場合)

>> (多世界解釈が正しくない場合)

>> ただし、

>>《常識的に考えた場合》=《多世界解釈を導入しない場合》=(多世界解釈が正しくない場合)

>>=「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合

>>=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合

>>=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合

>> また、《多世界解釈を導入した場合》は、多世界解釈(合)に当たる。

>はい、正しく理解されています。


>>【説明】

>> 多世界解釈を導入した場合としない場合に分け、導入しない場合が、常識的な考え方=「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合で、導入した場合については、多世界解釈の定義上、すべてが実現しているため、その中に同時実現した多世界(存在しないも含まれる)と、この常識的な考え方の世界を含んでいると考える枠組み

> はいこれでOKです。


 これらの理解のもとに、表現としては、上の(案)で使っていきたいと思いますが、いかがでしょうか。

>>「多世界解釈」(反):

>> 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しな


」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。( >>506 より)
>> ということかと思いますが、これで支障がありますでしょうか。

> はい、OKです。ただ、ちょっと説明が不備でした。「多世界解釈」(反α)と「多世界解釈」(反β)とは「多世界解釈」(反)の定義に従っていますが、「多世界解釈」(反γ)はちょっと外れています。このような「多世界解釈」(反γ)もまた「多世界解釈」(反)に含める、という定義の拡張が必要ですね。「多世界解釈」(合)は考えられるすべての可能性を含んでおり、そこから「多世界解釈」(正)を除くものすべてが「多世界解釈」(反)です。「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)。


 ややこしそうですし、この概念を使うことはなさそうですので、この「多世界解釈」(反)は私からは触れないことにします。

>ただ、ちょっと見方を変えると、《常識的に考えた場合》というのは、(多世界解釈が正しい場合)と(多世界解釈が正しくない場合)のうち正しいのは(多世界解釈が正しくない場合)の方だ、と無意識的に真理を限定してしまっている視点なのですね。だから、そんな先入観を捨て、何一つ暗黙の仮定をせず、真理のデフォルト値である「多世界解釈」(合)から話を始めようではないか、ということです。そうすれば、敢えて《常識的に考えた場合》を書く必要は無くなります。(多世界解釈が正しくない場合)こそが《常識

的に考えた場合》そのものなのですから。

 おっしゃっていることは、私なりに理解できますし、SumioBabaさんが不自然さや違和感を感じられていると推察しています。
 しかし、このことこそが、私とSumioBabaさんの持つ背景の違いであり、レベル・段階の差そのものだと思います。
 私の思考は、「多世界解釈」(合)から始めることを許していません。いわゆる常識的な考えも多世界解釈も同様に疑うことを旨として一歩一歩進めることしか今の私にはできないのと思っています。そこからしか自分の納得は得られないと確信しています。

>(正しい場合)と(正しくない場合)とが、どういう分け方になっているのかよく解りません。「「何かかがある」と「何もない」の両方が実現している場合」と「「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない場合」とに分けるのであれば、前者はダブル・トートロジーが実現し「謎は解消する」、後者はダブル・トートロジーが実現せず「謎は解消しない」だと思いますが?

>>《多世界解釈を導入した場合》

>>【公理】

>> 多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)

>>   ↓

>>【問い】

>> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>>   ↓

>>【答え】

>>  以下の両方を含む全体としては、(ダブル・トートロジーが実現し)謎は解消する。

>>(正しい場合)

>> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

>>   ↓

>>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。 ×

    (ダブル・トートロジーが実現し)謎は解消する。  ○

>>(正しくない場合)

>> Aと同じ

>>   ↓

>>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。


 間違えておりました。上記のとおり修正します。
 (正しい場合)と(正しくない場合)については、上の(案)に変更します。

>《常識的に考えた場合》というのは、《多世界解釈を導入した場合》の(正しい場合)と(正しくない場合)のうち、先入観で無意識的に(正しくない場合)の方を選んでしまっている視点です。だから、《常識的に考えた場合》と、《多世界解釈を導入した場合》の(正しくない場合)とは、完全に同じになるはずです。


 おっしゃるとおりです。
 注釈として、「《常識的に考えた場合》というのは、《多世界解釈を導入した場合》の(正しい場合)と(正しくない場合)のうち、先入観で無意識的に(正しくない場合)の方を選んだ場合と同じである。」を付記します。

>P=「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」と考えれば、ダブル・トートロジーの実現により、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は解消されます。その代わり、「なぜ「Pでない」ではなく「Pである」の方なのか?」=《メタ謎P》が発生してしまいます。

>Q=「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」と考えると、その論理的必然性は存在しないので、経験科学的真理として黙って受け入れるしか有りません。「理由なんか知らないよ」「なぜかそうだからそうなのさ」「神の気まぐれとしか言いようがないね」「神はなぜか最後まで謎が残るように世界を作ったのだ」が最終的な答になり、《謎》は解消しません。さらに、「なぜ「Qでない」ではなく「Qである」の方なのか?」=《メタ謎Q》も発生してしまいます。

>「多世界解釈」(合)は、P+Qという重ね合わせの視点に立ちます。正確に書けばaP+bQ(aとbは不明)であり、Pかもしれない、Qかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、です。この場合、Pを選べば《謎》は解消し、Qを選べば《謎》は解消しません。つまり、この視点だと、「《謎》は解消する」を選べば「《謎》は解消する」が選ばれる、「《謎》は解消しない」を選べば「《謎》は解消しない」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立しているだけであり、《メタ謎P》と《メタ謎Q》も解消します。と同時に

、《謎》が解消する理由、解消しない理由も解っているので、《謎》の答も得られたことになります。

 要約しますと、
○「すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現していると考える場合」(=P)
 ダブル・トートロジーの実現により、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は解消される。
 その代わり、「なぜ「Pでない」ではなく「Pである」の方なのか?」=《メタ謎P》が発生してしまう。

○「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」」(=Q)
 論理的必然性は存在しないので、経験科学的真理として黙って受け入れるしかないため、この《謎》は解消されない。
 さらに、「なぜ「Qでない」ではなく「Qである」の方なのか?」=《メタ謎Q》が発生してしまう。

○そこで、Pかもしれない、Qかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、というPとQの重ね合わせを「多世界解釈」(合)=《多世界解釈を導入した場合》としてとらえたとき、「《謎》は解消する」を選べば「《謎》は解消する」が選ばれ、「《謎》は解消しない」を選べば「《謎》は解消しない」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立し、《メタ謎P》と《メタ謎Q》も解消する。

○これらのことから、
《謎》が解消する理由……すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現していると考えることで、ダブル・トートロジーが実現し、この《問い》そのものが成立しなくなるため。
《謎》が解消しない理由…ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考えることで、世界を限定してとらえることになり、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため。
ということが解かり、それが《謎》の答になる。
という理解でよいでしょうか。

 また、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という表現がでてきましたので、以後使うのであれば、《謎》の定義もしておいたほうがよいように思いますが、「問い」との関係も含め、どのように定義したらよいでしょうか。
 また、存在への問いは、哲学における究極の問いと言われているように、最終的になぜと問うもので、問いがどこで止まるかが問題とされていることから、上記ご説明にもあるように、さらに「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に対するメタ問あるいはメタ謎が生じる場合があり、混乱することも考えられます。
 問(あるいは謎)=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を、問0または原問、メタ問をメタ問1、2、3…などはどうでしょうか。

1年前 No.512

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>512  えぴめてうすさんへ

>> それもあまり正確ではありません。いっそ、「「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現していると考える場合」、「「○○○である」だけが実現し「○○○でない」の方は実現していないと考える場合」に分けましょう。その方が一目瞭然です。


>  (案)

> 「すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現していると考える場合」

> 「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」

> ではどうでしょうか。


 特定の○○○について「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」を問題にしている時は、特定の○○○だけに限定すべきです。《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について議論しているのに、一般論として「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」と言われても、「何かがある」と「何もない」については、両方実現したと考えているのか、片方だけ実現したと考えているのか、不明です。

>>《多世界解釈を導入した場合》

>>【公理】

>> 多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)

>>   ↓

>>【問い】

>> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>>   ↓

>>【答え】

>>  以下の両方を含む全体としては、(ダブル・トートロジーが実現し)謎は解消する。

>>(正しい場合)

>> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

>>   ↓

>>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。 ×

    (ダブル・トートロジーが実現し)謎は解消する。  ○
>>(正しくない場合)

>> Aと同じ

>>   ↓

>>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

> 間違えておりました。上記のとおり修正します。


 はい、解りました。

>>P=「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」と考えれば、ダブル・トートロジーの実現により、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は解消されます。その代わり、「なぜ「Pでない」ではなく「Pである」の方なのか?」=《メタ謎P》が発生してしまいます。


>>Q=「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」と考えると、その論理的必然性は存在しないので、経験科学的真理として黙って受け入れるしか有りません。「理由なんか知らないよ」「なぜかそうだからそうなのさ」「神の気まぐれとしか言いようがないね」「神はなぜか最後まで謎が残るように世界を作ったのだ」が最終的な答になり、《謎》は解消しません。さらに、「なぜ「Qでない」ではなく「Qである」の方なのか?」=《メタ謎Q》も発生してしまいます。


>>「多世界解釈」(合)は、P+Qという重ね合わせの視点に立ちます。正確に書けばaP+bQ(aとbは不明)であり、Pかもしれない、Qかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、です。この場合、Pを選べば《謎》は解消し、Qを選べば《謎》は解消しません。つまり、この視点だと、「《謎》は解消する」を選べば「《謎》は解消する」が選ばれる、「《謎》は解消しない」を選べば「《謎》は解消しない」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立しているだけであり、《メタ謎P》と《メタ謎Q》も解消します。と同時に、《謎》が解消する理由、解消しない理由も解っているので、《謎》の答も得られたことになります。


> 要約しますと、

>○「すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現していると考える場合」(=P)

> ダブル・トートロジーの実現により、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は解消される。

> その代わり、「なぜ「Pでない」ではなく「Pである」の方なのか?」=《メタ謎P》が発生してしまう。


 はい、そうです。

>○「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」」(=Q)

> 論理的必然性は存在しないので、経験科学的真理として黙って受け入れるしかないため、この《謎》は解消されない。

> さらに、「なぜ「Qでない」ではなく「Qである」の方なのか?」=《メタ謎Q》が発生してしまう。


 「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」が「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」を含んでいるのかどうか不明です。含んでいればOKです。特定の《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について議論している時に、わざわざ一般化すると、何を含んでいるのか却って判らなくなります。

>○そこで、Pかもしれない、Qかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、というPとQの重ね合わせを「多世界解釈」(合)=《多世界解釈を導入した場合》としてとらえたとき、「《謎》は解消する」を選べば「《謎》は解消する」が選ばれ、「《謎》は解消しない」を選べば「《謎》は解消しない」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立し、《メタ謎P》と《メタ謎Q》も解消する。

>○これらのことから、

>《謎》が解消する理由……すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現していると考えることで、ダブル・トートロジーが実現し、この《問い》そのものが成立しなくなるため。

>《謎》が解消しない理由…ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考えることで、世界を限定してとらえることになり、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため。

>ということが解かり、それが《謎》の答になる。

>という理解でよいでしょうか。


 はい、良いと思います。

> また、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という表現がでてきましたので、以後使うのであれば、《謎》の定義もしておいたほうがよいように思いますが、「問い」との関係も含め、どのように定義したらよいでしょうか。


 その都度、《謎》=「・・・」と明記した方が良いと思います。誤解も防げて安全だし、他の読者たちにも理解し易いと思います。

> また、存在への問いは、哲学における究極の問いと言われているように、最終的になぜと問うもので、問いがどこで止まるかが問題とされていることから、上記ご説明にもあるように、さらに「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に対するメタ問あるいはメタ謎が生じる場合があり、混乱することも考えられます。

> 問(あるいは謎)=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を、問0または原問、メタ問をメタ問1、2、3…などはどうでしょうか。


 Q=「「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない」と考えてしまうと、真理を片方だけに限定しているのでダブル・トートロジーは実現せず、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎は解消しません。

 P=「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」と考えれば、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」はダブル・トートロジーで解消します。しかしPは、「「Pである」と「Pでない」のうち、「Pである」」と新たに真理を限定してしまっているので、やはり《メタ謎》=「なぜ「Pでない」ではなく「Pである」の方なのか?」が生じてしまい、このままだと《メタ謎》はダブル・トートロジーに解消できません。

 これを防ぐのが、a「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)という表現です。これは、「何かがある」「何もない」「Pである」「Pでない」の4つをすでに含んでいます。何一つ真理を限定していないので、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」という形の謎は存在せず、無限後退に陥ることは有りません。多世界解釈(合)こそが、a「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)も、c「Pである」+d「Pでない」(cとdは不明)も満たした視点です。

1年前 No.513

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「複素平面X-Yi」と「実軸X」の譬え

 「無矛盾な世界」+「有矛盾な世界」と「無矛盾な世界」との関係は、「複素平面X-Yi」と「実軸X」の関係に譬えられるように思います。

 哲学のアポリアをすべて解消するため、そもそも世界は何一つ限定されていない、と考えます。初めから世界が「○○○である」の方であり「○○○でない」の方ではないと限定してしまうと、「なぜ?」という謎を隠蔽することになるからです。表現を変えると、全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現しており、「無矛盾な世界」も「有矛盾な世界」も作り出せると考えます。

 ただし、「有矛盾な世界」の方は矛盾が生じているのですから、何一つ真偽が確定せず、その状態は、あらゆる○○○について「○○○である」でもあれば「○○○でない」でもあるし、「存在する」のか「存在しない」のかについても、「存在する」でもあれば「存在しない」でもあり、意味の有る事が何も言えません。逆に、自分の住む世界の状態が「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だとか、「存在しない」ではなく「存在する」の方だとはっきり言えるのは、自分の住む世界が「無矛盾な世界」である場合に限られます。

 例えると「複素平面X-Yi」です。ヨコ軸Xが「実軸」であり、タテ軸Yiが「虚軸」であり、点P(X、Yi)が複素数Z=X+Yiに対応します。ただし、実数は「無矛盾」な性質を表し、虚数は「有矛盾」な性質を表すとします。
 「実軸X」上の点P1、P2、P3、…の中のどれか、例えばP1が自分の住む世界を表します。Yi=0で矛盾は無いため、「P1はP1である」「P2はP2である」「P3はP3である」…という同一律を満たしています。
 一方「実軸X」上の点ではない点Q1、Q2、Q3、…の方は、Yi≠0なので矛盾が生じており、同一律さえ否定され、点Q1、Q2、Q3、…のどれもが、点P1、P2、P3、…および点Q1、Q2、Q3、…のどれでもあるしどれでもない、という不確定状態です。言わば矛盾が生じている点Q1、Q2、Q3、…では、その位置自体が確定せず、「複素平面X-Yi」全体をさまよっているような状態です。そしてたまたま点Q1、Q2、Q3、…が点P1、P2、P3、…のどれかになった時、無矛盾なため「P1はP1である」「P2はP2である」「P3はP3である」…という同一律を満たし、これらの中のどれか1つに確定します。
 結局、状態が確定し、「存在する」とはっきり言えるのは無矛盾な「実軸X」上の点P1、P2、P3、…に対応する様々な状態の世界だけです。矛盾を含む点Q1、Q2、Q3、…に対応する世界の方は、その状態も確定しないし、「存在する」のか「存在しない」のかも確定せず、認識できないという意味では「存在しない」のと同じです。

 以上のような理由により、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問うとき、先入観のため、ついつい次のような暗黙の前提をしてしまい勝ちです。
      【1A】
    世界は無矛盾な論理法則に「縛られない」ではなく「縛られる」の方だけ
    に限定されている。
      【1B】
    世界は「ない」ではなく「ある」の方だけに限定されている。
この2つを暗黙の前提として「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問うてしまうと、答が見付からなくなってしまいます。【1A】も【1B】も、真理を片方だけに限定していますが、そう限定されねばならない論理的必然性は存在しません。だから、論理的必然性は理解できないまま、経験科学的真理として「なぜか正しい」と受け入れることしかできなくなります。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問われても、「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ」と答えるしか無くなってしまう訳です。

 (ビッグ・バン仮説は、無から有の発生を説明しようとはしていますが、それは発生のメカニズムの解明に留まります。「なぜ「ビッグ・バンが起こらず宇宙は存在しない」ではなく、「ビッグ・バンが起きて宇宙は存在する」の方なのか?」と問われると、この「なぜ?」にはやはり答えられないようです。これも、片方だけに限定されねばならないという論理的必然性は無いからです。)

 この難点を解消するため、【1A】【1B】という暗黙の前提を外します。そして次のように変えます。
      【2A】
    世界は無矛盾な論理法則にa「縛られる」+b「縛られない」(aとbは不明)で
    あり、「縛られる」かもしれない、「縛られない」かもしれない、両方かも
    しれない、片方かもしれない。
      【2B】
    世界はc「ある」+d「ない」(cとdは不明)であり、「ある」かもしれない、
    「ない」かもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない。
これらは、何一つ真理を限定していない点が重要です。

 【1A】と【1B】とを暗黙の前提にしている人は、それを当たり前だと思っているので、【2A】と【2B】の方が特殊な仮定をしていると感じてしまうでしょうが、それは逆です。【1A】と【1B】の方が、無意識的に真理を限定してしまう仮定を取り入れてしまっていたのです。【2A】と【2B】は、その暗黙の前提を外そうと言っているのであり、【2A】と【2B】の方が無仮定です。【2A】と【2B】とは論理的に考えられるすべての可能性を網羅した上で、それらすべての可能性を認めていますから、外れることは有り得ないという意味でトートロジー(恒真)であり、証明の必要が有りません。逆に【1A】や【1B】の方が真理を限定しているので、正しいと主張するためには証明が必要になります。
 【1B】と【2B】だけでなく、【1A】と【1B】、【2A】と【2B】とを2つ並べた理由は、【2B】自体が矛盾した内容を主張しているので、まず【1A】を【2A】に変えた後で【1B】を【2B】に変える必要が有るからです。

 【2B】だと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に答えるのは簡単です。「何もない」と「何かがある」の両方が確率的に起きていると考えるのが【2B】です。どちらか一方に注目するためには、そちらを選ぶ必要が生じます。「何もない」を選べば「何もない」が選ばれる、「何かがある」を選べば「何かがある」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立しているだけです。しかも「何もない」の方は、それを認識する心も発生できないので、「何もない」という認識自体が発生できません。「何かがある」の方は、それを認識する心も発生可能なので、発生した場合には「何かがある」という認識が生じ得ます。
 結局、「何もない」と「何ががある」の両方が確率的に実現したのだけれども、認識できるのは「何かがある」の方だけ、ということになります。

 「なぜ世界は無矛盾な論理法則に「縛られない」ではなく「縛られる」のか?」という謎も同様です。【2A】は両方が確率的に実現していると考えます。どちらか一方に注目するためには、そちらを選ぶ必要が生じます。そしてやはり、「縛られない」を選べば「縛られない」が選ばれる、「縛られる」を選べば「縛られる」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立しているだけです。しかも「縛られない」の方は矛盾が生じ、状態が確定せず、「縛られない」という認識自体が発生できません。「縛られる」の方は、それを認識する心も発生可能なので、発生した場合には「縛られる」という認識が生じ得ます。
 結局、「縛られない」と「縛られる」の両方が確率的に実現したのだけれども、認識できるのは「縛られる」の方だけ、ということになります。

1年前 No.514

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>513

> 特定の○○○について「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」を問題にしている時は、特定の○○○だけに限定すべきです。《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について議論しているのに、一般論として「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」と言われても、「何かがある」と「何もない」については、両方実現したと考えているのか、片方だけ実現したと考えているのか、不明です。


 「特定の」の意味が少しわかりにくいのですが、「すべて」と「ある」を付け加えた趣旨は、多世界解釈の場合は、「ある」と「ない」だけでなく、どのような「ある」も実現していると考えるのかと思い、「すべて」を付け加えました。
 一方、常識的な考え方では、複数の「ある」を含むと一種の多世界解釈になるため、1つの「ある」と、「ない」のどちらかしか実現しない(2者択一)という設定を考えています。
 「〇〇〇」については、私としては、世界は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いだと考えていますので、「〇〇〇」を「世界」と置き換えてもよいのではないでしょうか。
 「両方が同時に実現している」と「どちらかが実現している」と区別して表現していますので、後者は、文字通り片方だけ実現したと考えていることになるかと思います。

>「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」が「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」を含んでいるのかどうか不明です。含んでいればOKです。特定の《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について議論している時に、わざわざ一般化すると、何を含んでいるのか却って判らなくなります。


 「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合とは、世界は、「ある」か「ない」のどちらかだという意味ですが、よろしいでしょうか。

>> また、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という表現がでてきましたので、以後使うのであれば、《謎》の定義もしておいたほうがよいように思いますが、「問い」との関係も含め、どのように定義したらよいでしょうか。

>その都度、《謎》=「・・・」と明記した方が良いと思います。誤解も防げて安全だし、他の読者たちにも理解し易いと思います。


 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、「問い」でもあると思いますので、《謎》=「問い」でしょうか。
 私としては、両者が「=」というより、問いのうち、解けない状況であるものが《謎》ということのように見えています。

1年前 No.515

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>515  えぴめてうすさんへ

 《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の場合。「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現してないと考えると、ダブル・トートロジーは実現せず、《謎》は解消しません。「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考えれば、ダブル・トートロジーが実現し、《謎》が解消します。それだけの話です。この点、理解してもらえたはずです。それでOKです。

1年前 No.516

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>516

>《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の場合。「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現してないと考えると、ダブル・トートロジーは実現せず、《謎》は解消しません。「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考えれば、ダブル・トートロジーが実現し、《謎》が解消します。それだけの話です。この点、理解してもらえたはずです。それでOKです。


 「ダブル・トートロジーが実現し(せず)、《謎》は解消する(しない)」ということ、SumioBabaさんが「それだけの話」と言われること、の双方ともすでに私なりに理解してきました。ただ、それは、私の思考にはなっていませんし、私にはそれだけの話には思えないのです。

 2、3点確認してからと思っていましたが、提示した方が話が早いと思いましたので、これまでの整理として下記の検討の枠組みをあらためて提示します。表現の意義や理解のしかた等は、基本的に >>512>>515 によることとします。
 誤り等があれば、ご指摘ください。

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

《ケース1 常識的に考えた場合》
【公理】
 Q=ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現している
    ↓
【問い】
 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
【答え】
 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。

《ケース2 多世界解釈を導入した場合》
【公理】
 PおよびQの両方が同時に実現している
  P=すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現している
  Q=ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現している
  ↓
【問い】
 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
  ↓
【答え】
(Pの場合)
 ダブル・トートロジーが実現し、謎は解消するが、メタ問い「なぜ「Pでない」ではなく、「Pである」のか」が生じる
(Qの場合)
 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる
(P+Qの場合)
 ダブル・トートロジーが実現し、すべての謎は解消する。

 なお、《常識的に考えた場合》というのは、《多世界解釈を導入した場合》のPとQのうち、先入観で無意識的にQの方を選んだ場合と同じである。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 それと、合意が成立した段階から、この検討の枠組みを使って、宿題となっております答えを見つけるための私自身の思考を始めたいと思っています。それに当たって、下記「えぴめてうすさんがこれを受け入れず」の「これ」を今一度ご教示いただけないでしょうか。すでにご説明いただいたことだと思いますが、確認が必要だと考えています。

>>416
>SumioBabaは、「bでは答が存在しないことをとっくに説明ずみ」です。えぴめてうすさんがこれを受け入れず、「bの世界での問いを解こうとしている」のなら、早く1つでも答を探して見せて下さい。


 「すり替え」のご指摘につきましては、「 >>489 の 質問に答えてみて下さい」とのことでしたが、私自身では該当箇所を見つけることができませんでした。
 上記の「これ」にも関連するのと、上記「検討の枠組み」は、「すり替え」以前に戻った段階からのスタートになりますので、あらためてということでもよいかと思われますが、もし明確にされていないとお感じのようでしたら、「すり替え」が起こったとされる段階までのやりとりを整理して提示いたしますので、よろしくお願いします。

1年前 No.517

★lWXCVNWysD_kuu

>>517  えぴめてうすさんへ

横レス失礼します。

>下記「えぴめてうすさんがこれを受け入れず」の「これ」を今一度ご教示いただけないでしょうか。


上記の「これ」は・・

>>416

>  aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。

>  bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。


結果としての、上記の事だと思いますよ。つまり「bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。」の事でしょう。

ですので、馬場さん視点では、

>>416
>SumioBabaは、「bでは答が存在しないことをとっくに説明ずみ」です。えぴめてうすさんがこれを受け入れず、「bの世界での問いを解こうとしている」のなら、早く1つでも答を探して見せて下さい。


となりますね。ですので

>>406
> 結局、私は、いまどちらの世界にいるかわかりませんが、bの世界での問いを解こうとしているということかと思います。


に対して

>>416
> SumioBabaは、「bでは答が存在しないことをとっくに説明ずみ」です。えぴめてうすさんがこれを受け入れず、「bの世界での問いを解こうとしている」のなら、早く1つでも答を探して見せて下さい。


という話の流れになるのではないでしょうか。

それとも、再度「これ(bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。)」に至る説明を求められているのでしょうか?

1年前 No.518

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>518

 いつもありがとうございます。

>それとも、再度「これ(bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。)」に至る説明を求められているのでしょうか?


 ご指摘のとおりです。
 「答が存在しないことをとっくに説明ずみ」について、 >>427 でお聞きしたことの再度の確認をお願いしている次第です。
 「謎が解消する・しない」ではなく、bの場合は、「答えが存在しない」ため、問う必要がないとのことですので、「答えが存在しない」の説明についてお尋ねしています。
  >>433 以降でご説明のあったことだと自分では理解していましたが、確認のうえ、 >>517 の検討の枠組みに反映すべきだと考えています。もうすこし趣旨を明確に書くべきでした。

1年前 No.519

★U5EDYUxjxY_kuu

>>519  えぴめてうさんへ

>  「謎が解消する・しない」ではなく、bの場合は、「答えが存在しない」ため、問う必要がないとのことですので、「答えが存在しない」の説明についてお尋ねしています。


科学等の世界での説明は、馬場さんにお任せするとして、私(時)は別の視点からの説明をしてみますね。

井戸の中の蛙と、空を舞う燕で例えます。

井戸の中で蛙が見ている世界では、ある問いに対して、その世界での常識や科学等での答えがあります。例えば「リンゴがなぜ木から落ちるのか?」または、例えば「川の水は、なぜ上流から下流に流れるのか?」と言った問いに対する答えがあるという意味です。

この場合には、答えがありますので、これ以上問う必要がなくなりますね。

つまり、その答えというのは、問いに対する答えですので、その問い自体が「井戸の中での問い」ですので、「井戸の中での答え」があります。そしてその答えは、井戸の中の住人である蛙には、導き出せると同時に、学べばその井戸の住人である蛙が理解できる答えです。

しかし、同じ井戸の中の世界での蛙視点で「では、この世界では、なぜリンゴが木から落ちない世界ではなくて、リンゴが落ちる世界なのだろうか?」または「この世界では、川の水が下流から上流に流れる世界ではなくて、なぜこの世界では、上流から下流に流れる世界なのだろうか?」という問いには答えられませんね。なぜならば、答えがないからです。つまり、その問い自体は沸き起こっても、蛙自身がその井戸の中の世界では確認することができないからです。確認することができない事象についての答えはありません。

これが「答えが存在しない」という意味だと思いますが。

これは(例えばですが)「なぜ何もないではなくて、何かがあるのか?」というアポリアですね。そしてこれがなぜアポリアと表現されるかというと、「井戸の中の世界での答えが見つからないから」です。

井戸の中での答えが見つかるのは、井戸の中での出来事のみについてです。
アポリアがアポリアたる所以は、井戸の中で井戸の外の問いを解こうとするからです。

(例えばの)アポリアは、その一つの井戸の世界を超えている問いです。

そこで上空の燕視点でみると、多くの井戸、無数の井戸が見えていますので、当然、「何かがあるのではなくて、何もない世界」や「川の水が下流から上流に流れる世界」も観ています。ですので、燕視点でみると「全ての謎がない」となるのですよ。

つまり、我々蛙の井戸の中の世界での問いとして大別して2種類のものがあります。

a 井戸の中の世界での答えがあり、それを導き出す事ができる問い。
b 井戸の中の世界での答えがなく、それを導き出す事ができない問い。

aは、科学や物理や生物学での問いです。これは >>416 の「aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。」ということです。

bは、アポリアと表現される問いです。これは >>416 の「bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。」ということです。(これは、井戸の中での問いですが、その視点を一つの井戸の外から多くの井戸に向けた時に答えが見つかりますので、一つの井戸の中では、その答えは見つかりません)

そして馬場さんが仰っているのは、上記「その視点を一つの井戸の外から多くの井戸に向けた時」を可能にするのが「多世界解釈ですよ」ということだと思います。(一つの視点で、多くの可能性の世界を見ているでしょう?)

この場合の多世界の世界とは、各蛙の住む井戸の事であり、可能性の世界でもあるということであり、bの場合には、「問う」ても答えがありません(見つかりません)ので、問う必要がありませんね。同時に、問うのではなくて「多世界解釈」で理解すればよいのではないでしょうか?という趣旨だと思います。

もしもこれができれば、アポリアは消滅しますよ。

ついでにですが・・ >>406 にてえぴめてうすさんは、

> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。


と書かれましたが、それに対して >>416 で馬場さんは

>  それは違います。

>  aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。

>  bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。


と訂正されたのですね。なぜならば、bの場合には、問うても答えがないからです。

後は、馬場さんにお任せしたほうが良いでしょうか。

1年前 No.520

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>520

 ありがうございます。

 井戸の外と中の問題については、いまだ >>410>>425 あたりにとどまっています。(520はすこし条件設定が変わっていますが。誤解ならごめんなさい。)
 ただ、おっしゃっている意味はわかっているつもりです。つまり、そう考えれば、そうなるということについて。
 中学生の問題認識として、疑い、確認するという姿勢で臨んでいますので、井戸の外というものについても懐疑をもっている状況です。自分の納得を得るために。

>>bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

> と訂正されたのですね。なぜならば、bの場合には、問うても答えがないからです。


 そうです。そこの「問うても答えがない」ことについて、「答が存在しないことをとっくに説明ずみ」の内容について確認させていただく趣旨です。

1年前 No.521

★U5EDYUxjxY_kuu

>>521  えぴめてうすさんへ

>  中学生の問題認識として、疑い、確認するという姿勢で臨んでいますので、井戸の外というものについても懐疑をもっている状況です。自分の納得を得るために。


「自分の納得を得るために」は、よい表現ですね。

人に説明できる「知る」よりも、自身が納得できる「知る」ということが、私は大切なことだと思います。

今回の件が、最終的に腑に落ちるかどうかはわかりませんが、人に説明できる知識のみを得るのではなくて、このままご自身のための知を得て行ってください。何やら偉そうな物言いで申し訳ありませんが、以上です。

1年前 No.522

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

国民なら政治に参加しなければならない。投票権があると言う知識があります。

この知識は私にはストレスです。

権力闘争に素人が口を突っ込めるわけありません・・太陽のように政治がいつも輝いていてもらいたいと思います。

知識は考察と行為のはざまで緊張状態にあります・・

全ては二律背反に陥ったら相当な心理的緊張になります。

同一性を求めて安定したいです・・

1年前 No.523

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

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1年前 No.524

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

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1年前 No.525

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    試し
 ごく普通の内容なのに、なぜかフィルターが2回連続でかかりました。試しにこれを投稿してみます。

1年前 No.526

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>518,520,522  時さんへ

 いつもいつも、補足説明有難うございます。今回も素晴らしい内容です。特に「アポリアがアポリアたる所以は、井戸の中で井戸の外の問いを解こうとするからです。」は、痒い処に手が届きました。時さんは、あちこちに明言を残してくれてますね。感謝!!!!!


>>517  えぴめてうすさんへ

 十分正しく理解されたのですから、これで良いではないですか。

 まさかこの後、「えぴめてうすさんは「すり替え」を行っていたか否か?」「SumioBabaは、bでは答が存在しないことを、十分に説明していたか否か?」といった議論に突入したいのですか? 「どこですり替えたというのか?」「ここだよ」「いや、それはすり替えじゃない」「いやすり替えだ」…、「bでは答が存在しないことを、どこで説明しているのか」「ここだよ」「いや、それでは説明になっていない」「いや説明している」…、こういう議論だったら時間の無駄なので、SumioBabaは撤退します。

1年前 No.527

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

 一旦、515を再整理いたします。

>>515

> 特定の○○○について「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」を問題にしている時は、特定の○○○だけに限定すべきです。《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について議論しているのに、一般論として「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」と言われても、「何かがある」と「何もない」については、両方実現したと考えているのか、片方だけ実現したと考えているのか、不明です。


 「すべて」と「ある」を付け加えた趣旨は、 >>515 のとおりです。
 「〇〇〇」については、 >>515 の理由で「世界」と置き換えます。
 「どちらかが実現している」は、文字通り片方だけ実現したと考える場合です。

>「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考える場合」が「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」を含んでいるのかどうか不明です。含んでいればOKです。特定の《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について議論している時に、わざわざ一般化すると、何を含んでいるのか却って判らなくなります。


 誤解を防ぐため、「○○○」は以降、「世界」にします。

>> また、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という表現がでてきましたので、以後使うのであれば、《謎》の定義もしておいたほうがよいように思いますが、「問い」との関係も含め、どのように定義したらよいでしょうか。

>その都度、《謎》=「・・・」と明記した方が良いと思います。誤解も防げて安全だし、他の読者たちにも理解し易いと思います。


 「問い」のうち、解けない状況にあるものが《謎》という理解をし、表現上は、ほぼイコールな使い方をします。

 以上

>>524
>Qが「「何かがある」だけが実現し、「何もない」は実現していない」を意味するのであればOKです。


 「Q=ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現している」は、公理として置いています。多世界解釈ではなく、常識的な考え方=「世界はあるかないかのどちらか」だという意味ですので、ある場合とない場合の両方の可能性が含まれています。
 「「何かがある」だけが実現し、「何もない」は実現していない」というのは、常識的な考え方をした場合の現状(この世界があること)に対するその人の認識を示していると思われます。

>理解できたのだから、これで良いではないですか。


 私は、存在への問いについて、自分としての答えを見つけようとして、投稿を重ねてまいりました。
 これまで、SumioBabaさんから多世界解釈というアイデアをご教示いただき、それも踏まえて考えるため、自分なりに理解しようと整理に努めてまいりました。
 いわばその成果が、「検討の枠組み」と呼んだ多世界解釈を含めた全体像であり、それを用いて、これから自分自身の思考を進めようと考えています。
 私の理解は浅いものと思われますが、十分理解せず、誤解・曲解したまま、あるいは、「すり替え」に無自覚なまま、論を進めても手戻りになるだけですので、そこを確認したうえで、納得の得られる結論を目指したいと考えています。

 私が一番重要視しているのが、「b多世界解釈が正しくない世界」です。
 まず、このbを問うことから始めたいと考えています。今の「検討の枠組み」には、bの答えがないことが反映されていません。
 それについては、これまでご教示をいただいたところですが、自分自身で、一番整理ができていないと考えておりますので、あえてお尋ねしている次第です。

>まさかこの後、「えぴめてうすさんは「すり替え」を行っていたか否か?」「SumioBabaは、bでは答が存在しないことを、十分に説明していたか否か?」といった議論に突入したいのですか? 「どこですり替えたというのか?」「ここだよ」「いや、それはすり替えじゃない」「いやすり替えだ」…、「bでは答が存在しないことを、どこで説明しているのか」「ここだよ」「いや、それでは説明になっていない」「いや説明している」…、こういう議論だったら時間の無駄なので、SumioBabaは撤退します。


 私が知りたいのは、「えぴめてうすさんは「すり替え」を行っていたか否か?」でも「SumioBabaは、bでは答が存在しないことを、十分に説明していたか否か?」でもありません。それらが、私自身の思考を進めることに役立つとは思えません。
 端的に言いますと、bに「答えがないこと」のロジックは何か、それが「論理的必要性をもって」実証されているかの2点です。そのことを「検討の枠組み」に組み込む必要があると考えています。

 もちろん、SumioBabaさんが、私(えぴめてうす)の理解能力を超えている内容だ、あるいは、SumioBabaさんがもうそんな説明は時間の無駄だとご判断になるのならば、それはやむを得ません。これ以上、私のためにあえてお願いすることはできないと思っています。

1年前 No.528

審判 ★SZ4bUqc1ZZ_Ew9

スミオババは「十分正しく理解されたのですから、これで良いではないですか。 >>527 」と言ってるんだから、「エピメテウスはスミオババ理論を十分に理解した」という前提で話を進めていけばいいよ。
スミオババは問題は解決したと考えてるけど、同じスミオババ理論を理解したエピメテウスは「それでも問題は解決されてない」と考えてるんだろうから、そういう疑問点を書いていけば良い。同じものの理解が別の解釈になるんだから、スミオババも納得だろうし、何か思うところがあれば指摘するだろうし。

エピメテウスは思うところを好きに書きたまえ。

1年前 No.529

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>528  えぴめてうすさんへ

> 「すべて」と「ある」を付け加えた趣旨は、 >>515 のとおりです。


 未だに理解できていません。

>「〇〇〇」については、 >>515 の理由で「世界」と置き換えます。


 《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の場合、「なぜ「○○○でない」ではなく、「○○○である」のか?」と比較すれば解る通り、「○○○」=「世界」ではありませんよ。「○○○」=「○○○である」=「何かがある」、「○○○でない」=「何もない」です。

> 「Q=ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現している」は、公理として置いています。多世界解釈ではなく、常識的な考え方=「世界はあるかないかのどちらか」だという意味ですので、ある場合とない場合の両方の可能性が含まれています。


 理解できません。多世界解釈でなく、常識的な考え方なのであれば、「ある」と「ない」の片方しか可能性はないのではないでしょうか? そして、「ある」の方を体験しているためついつい「ない」は実現していないと思い込んでいるのではないでしょうか?

> 私が一番重要視しているのが、「b多世界解釈が正しくない世界」です。

> まず、このbを問うことから始めたいと考えています。今の「検討の枠組み」には、bの答えがないことが反映されていません。


 なぜ今さら、こういう質問が必要なのでしょう?  「b多世界解釈が正しくない世界」(=X)は曖昧表現であり、「 「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」(=P)と考えているのか、「「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない」(=Q)と考えているのか、はっきりしません。Pならダブル・トートロジーが実現して謎は解消する、Qならダブル・トートロジーは実現せず謎は解消しない、と説明しましたし、理解してもらえたはずです。それなのに、なぜまた曖昧表現Xに戻る必要が有るのでしょう?

1年前 No.530

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>530

>>「すべて」と「ある」を付け加えた趣旨は、 >>515 のとおりです。

>「未だに理解できていません。


>>524 で、「正しく理解されている」という評価をいただいたと思ったのですが、「すべて」と「ある」については、
 多世界解釈の場合、「ある」と「ない」だけでなく、どのような「ある」も実現していると考えるのかと思い、「すべて」を付け加えました。
 一方、常識的な考え方では、複数の「ある」を含むと一種の多世界解釈になるため、1つの「ある」と、「ない」のどちらかしか実現しない(2者択一)という設定を考えています。
 この内容では、ご理解いただけないでしょうか。

>>524
>《ケース1 常識的に考えた場合》

>【公理】

> Q=ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現している

>    ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>    ↓

>【答え】

> 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。


>《ケース2 多世界解釈を導入した場合》

>【公理】

> PおよびQの両方が同時に実現している

>  P=すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現している

>  Q=ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現している

>  ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>  ↓

>【答え】

>(Pの場合)

> ダブル・トートロジーが実現し、謎は解消するが、メタ問い「なぜ「Pでない」ではなく、「Pである」のか」が生じる

>(Qの場合)

> 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる

>(P+Qの場合)

> ダブル・トートロジーが実現し、すべての謎は解消する。


> なお、《常識的に考えた場合》というのは、《多世界解釈を導入した場合》のPとQのうち、先入観で無意識的にQの方を選んだ場合と同じである。


 Qが「「何かがある」だけが実現し、「何もない」は実現していない」を意味するのであればOKです。正しく理解されていると思います。理解できたのだから、これで良いではないですか。

1年前 No.531

★HsXXh3n5K6_kuu

>>531  えぴめてうすさんへ

再度、横レス失礼します。

>《ケース1 常識的に考えた場合》

>【公理】

> Q=ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現している

    ↓
>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

    ↓
>【答え】

> 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。


つまり、ここ(《ケース1 常識的に考えた場合》)では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」の答えが導けません。

上記の問いの答えを導き出すために多世界解釈を用いるのです。


《ケース2 多世界解釈を導入した場合》
【公理】
Q1=何もない Q2=何かある
Q1・Q2の両方が同時に実現している

【問い】
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

【答え】
《ケース1 常識的に考えた場合》では、世界を限定したことにより、経験科学的真理にとどまるため、アポリアは解消できず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」が生じたが、多世界解釈を用いたことで Q1・Q2の両方が同時に実現し、ダブルトートロジーにより「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」というアポリアが解消する。

ここまでで、アポリア(なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? )は解消しますね?

えぴめてうすさんが《ケース2 多世界解釈を導入した場合》(P+Q)の場合として書かれた内容の世界観は、この次の視点での世界観です。

1年前 No.532

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>532

>つまり、ここ(《ケース1 常識的に考えた場合》)では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」の答えが導けません。上記の問いの答えを導き出すために多世界解釈を用いるのです。


  >>416 で、b多世界解釈が正しくない世界(今は「常識的に考えた世界」)に「答えが導けない」ことを教えていただきましたが、その理由をうまく理解できていないため、お尋ねしている次第です。

>>416
> 多世界解釈が正しい世界では、謎が消滅しますが、正しくない世界では、そうではありません。多世界解釈に立脚すると、この2つの世界があるということになります。

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。

 それは違います。
 aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。
 bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。
 「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。aでは答が見付かったから、これ以上問う必要は有りません。bでは答が存在しないに確定したのだから、こちらもこれ以上問う必要など無いのではありませんか? <

>《ケース2 多世界解釈を導入した場合》

【公理】
Q1=何もない Q2=何かある
Q1・Q2の両方が同時に実現している
>【問い】

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
>【答え】

《ケース1 常識的に考えた場合》では、世界を限定したことにより、経験科学的真理にとどまるため、アポリアは解消できず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」が生じたが、多世界解釈を用いたことで Q1・Q2の両方が同時に実現し、ダブルトートロジーにより「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」というアポリアが解消する。
>ここまでで、アポリア(なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? )は解消しますね?

えぴめてうすさんが《ケース2 多世界解釈を導入した場合》(P+Q)の場合として書かれた内容の世界観は、この次の視点での世界観です。<

 そう理解しています。
 ただ、常識的に考えた場合では、答えがないことを確定しないと、次の思考に移るべきではないと考えています。
 以前から、ドン詰まりだとご指摘いただいているこのポイントについて、答えがないことに明確に「答え」を出しておきたいのです。頭が固くてすみません。

1年前 No.533

★HsXXh3n5K6_kuu

>>533  えぴめてうすさんへ

>  ただ、常識的に考えた場合では、答えがないことを確定しないと、次の思考に移るべきではないと考えています。

>  以前から、ドン詰まりだとご指摘いただいているこのポイントについて、答えがないことに明確に「答え」を出しておきたいのです。頭が固くてすみません。


いえいえ、理解できない事をとことん追求しようとする姿勢は良いことだと思いますよ。

答えがないことをご自身で明確に認識するためには、これから長い間考察されて、その答えを探求するしかないのではないでしょうか。

> 答えがないことに明確に「答え」を出しておきたいのです。


では、その常識の世界観で、その答えを出すことにチャレンジしてみてください。我々が「ドン詰まり」だとした答えをいくら書いたとしても、ご自身の実体験に勝るものはないと思いますよ。

その体験を伴わない掲示板という環境で、ロジックがどうのというやり取りをするよりも、思考の限界という実体験が良いのかもしれませんね。

そんな風に感じました。

1年前 No.534

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>534

>> 答えがないことに明確に「答え」を出しておきたいのです。

>では、その常識の世界観で、その答えを出すことにチャレンジしてみてください。我々が「ドン詰まり」だとした答えをいくら書いたとしても、ご自身の実体験に勝るものはないと思いますよ。

>その体験を伴わない掲示板という環境で、ロジックがどうのというやり取りをするよりも、思考の限界という実体験が良いのかもしれませんね。


 私の表現がよくなかったかもしれません。
 《ケース1 常識的に考えた場合》)では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」の答えがないことについて、答えを出したいのです。
 もし「思考の限界」というのが理由だとお考えなら、それでいいのです。ほかに、あるのならそれを伺いたいのです。
 ですので、ケース1に答えがないのなら、それはどういう理由で、答えがないとお考えかを知りたいという意味です。蛇足な補足ですが。

1年前 No.535

宿題 ★5z6bVAmgS3_ly4

申し訳ありませんが

我思うゆえに我あり。

私が思う。そういう理由で・・私が在る・・

何故あるのかの理由ではありませんか?

1年前 No.536

★HsXXh3n5K6_kuu

>>535  えぴめてうすさんへ

> 《ケース1 常識的に考えた場合》)では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」の答えがないことについて、答えを出したいのです。

>  もし「思考の限界」というのが理由だとお考えなら、それでいいのです。ほかに、あるのならそれを伺いたいのです。


えぴめてうすさんがお知りになりたいのは「答えがない」事の理由でしょ?なにやら悪魔の証明のようですね(笑)

ある人物が思考した場合には、その範囲内でしか思考領域がありません。逆に表現すると、その思考領域内でしか思考できません。それがその人物の思考の世界です。ですので、それ以外の世界観を思考することができません。これがその人物の思考の限界ということです。つまり、その人物の常識の世界での思考です。

そして、当たり前に何かがある世界(その人物の常識の世界)に住んでいるその人物が、常識では「何もない世界」を想定できませんので、思考できません。なぜならば、当たり前に「何かがある世界」に住んでいるのが、その人物の常識(当たり前)だからです。

では人間のすべてが、その常識の世界観以外の世界を認識できないのか?ですが、できる人もいるというのが答えです。

ではその両者(常識の世界観から抜け出せない人と抜け出せる人)の違いは何か?というと、過去に少し書きました総合の人間力でしょう。(自由意思があるのだとすればですが)

>  ですので、ケース1に答えがないのなら、それはどういう理由で、答えがないとお考えかを知りたいという意味です。蛇足な補足ですが。


これは質問を理解する上で、大切な補足ですよ。本人がその趣旨をわかっていても、その伝え方でその趣旨が相手には伝わらない場合がありますから。

では、逆にお尋ねします。

《ケース1 常識的に考えた場合》)では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」について・・

どういう理由で「答えはある」と考えられるのでしょうか?(えぴめてうすさんが「答えはある」という主張をされているのではないことは理解していますよ)





追記です。

近い将来、えぴめてうすさんが「存在の問い」に答えを見出したであろう時、現在で言うところの量子力学という分野が哲学の分野にまで食い込み、もはや他分野という概念ではなく、常識的な見地としてその座を獲得しているやもしれません。

そうなれば「存在の問い」に対する「常識的に答えはある」という答えになるでしょう。そうなれば、アポリアはもはやアポリアとは呼ばれなくなりますね。なぜならば、それは井戸の中の問いとしてそこに答えがあるからです。そこにあるのは、常識的な問いと常識的な答えのみです。

全ての変化の中で、その全ての答えも変化していきます。

1年前 No.537

審判 ★DtvR6UZ4Im_Ew9

>>537
エピメテウスは、この「総合の人間力」とは何ですか?、と問うてるんじゃないのか。

まず前提として、スミオババ理論は全員(スミオババ、トキ、エピメテウス)が理解している。
であるにも関わらず、認識は大きく違うよね。スミオババとトキは「問題が解決した(納得した)」と思ってる。だがエピメテウスは「問題は解決していない(納得してない)」と思ってる。
両者の違いが「総合の人間力」ということなら、「総合の人間力」って何さ?という事になるよね。

トキは、スミオババ理論が納得できるようになるという「総合の人間力」とは何か、を答えてあげればいいんじゃね。
もしそれが、個人の主観の類いなら、存在への問いの答えとしては不十分なんだろうけど。

1年前 No.538

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時 さん

>>537

> えぴめてうすさんがお知りになりたいのは「答えがない」事の理由でしょ?なにやら悪魔の証明のようですね(笑)


 そうですか。無理をお願いしているということですね。
 そうなら、SumioBabaさんがそうおっしゃっていただければ、もうお尋ねしません。

>ある人物が思考した場合には、その範囲内でしか思考領域がありません。逆に表現すると、その思考領域内でしか思考できません。それがその人物の思考の世界です。ですので、それ以外の世界観を思考することができません。これがその人物の思考の限界ということです。つまり、その人物の常識の世界での思考です。

>そして、当たり前に何かがある世界(その人物の常識の世界)に住んでいるその人物が、常識では「何もない世界」を想定できませんので、思考できません。なぜならば、当たり前に「何かがある世界」に住んでいるのが、その人物の常識(当たり前)だからです。


 ↑まさに、私の世界です。普通の凡人である証拠です。

>では人間のすべてが、その常識の世界観以外の世界を認識できないのか?ですが、できる人もいるというのが答えです。

>ではその両者(常識の世界観から抜け出せない人と抜け出せる人)の違いは何か?というと、過去に少し書きました総合の人間力でしょう。(自由意思があるのだとすればですが)


 このスレで、私への3回目の「人間力」とのご指摘、身に沁みます。これが哲学する資格になってしまったら、私は即退場ですね。
 ただ、常識の世界での思考しかしない私でも、すべてを疑うことはできますし、しようと思っています。成果は上がらないかもしれませんが。

>では、逆にお尋ねします。

>《ケース1 常識的に考えた場合》)では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」について・・

>どういう理由で「答えはある」と考えられるのでしょうか?(えぴめてうすさんが「答えはある」という主張をされているのではないことは理解していますよ)


 大変恐縮ですが、もう少しお待ちください。
 「検討の枠組み」が整理できたら、自分の思考を進めたいと思っており、まずこの問題に取り組みたいと考えていますので。

>近い将来、えぴめてうすさんが「存在の問い」に答えを見出したであろう時、現在で言うところの量子力学という分野が哲学の分野にまで食い込み、もはや他分野という概念ではなく、常識的な見地としてその座を獲得しているやもしれません。

>そうなれば「存在の問い」に対する「常識的に答えはある」という答えになるでしょう。そうなれば、アポリアはもはやアポリアとは呼ばれなくなりますね。なぜならば、それは井戸の中の問いとしてそこに答えがあるからです。そこにあるのは、常識的な問いと常識的な答えのみです。

>全ての変化の中で、その全ての答えも変化していきます。


 私はこのように考えることに完全同意します。この考え方こそが自分の納得する道だと思っています。決して、時さんから盗んだんではありません。自分で考えました。信じてください。

 ちなみに、SumioBabaさんは、量子神学概論(多世界解釈で記述する全知全能の神) >>787 で、次のようにおっしゃっていました。

>例えば未来にひょんな事から、多世界解釈が間違いだったと科学的に証明されちゃったら、この理論はどうなるだろう?って事です。


 何の関係も有りません。多世界解釈が正しかろうと間違っていようと、「SB量子神学」(合)はトートロジーなので、絶対的に「正しい」です。論理的にも実際(現実)的にも、です。

1年前 No.539

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

宿題さん

>>536

>私が思う。そういう理由で・・私が在る・・

何故あるのかの理由ではありませんか?

 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、存在に対する究極の問いですので、メタ問いが生じてはまずいのです。
 cf.「私が思う」と言えるのはなぜか。
 でも、独我論で考えるなら、それが存在の理由になるかもしれません。

1年前 No.540

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

審判さん

>>538

 「審判」に話しかけるのもどうかと思いますので、最初で最後です。

 私が先になかなか進まないので、焦れておられるように思います。でもその前に情報が必要なのです。

 ある人にわかることでも、他の人にはわからないことは多々あり、きっと私には多いのでしょう。
 自慢ではありませんが、哲学のスレでやんやんやっていても、アリストテレスもカントもニーチェも知りません、わかりません。アインシュタインもシュレーディンガーもぜんぜんわかりません。

 私は、意味盲(表現が適切でないなら撤回します。)なのです。人間力という、常識にとらわれない感覚、柔軟な思考を可能にする「何か」をあまり持っていないのだと思います。
 そもそも、それが十分あれば、私はこの掲示板には出会わなかったでしょう。

 少なくとも、この問題については、あくまで個人の納得に価値があると思っていますので、人間力に応じた(私の分かる範囲の)結論にしか達しないのだと思います。でも、その努力をするかどうかが、後悔するかしないかにかかわるので、やっぱり聞けることは聞くのがありがたいと思っています。

 ちなみに、
 「エピメーテウス」とはギリシア語で epi(後の)+ metheus (知恵)という意味であり、現代日本語の「下種の後知恵」という慣用句に類似して、行動・失敗した後で、ああしていれば良かったと後悔する者の意である。これは兄のプロメーテウスが、「先の知恵」すなわち「先見の明を持つ・行動する前に熟慮する」という意味であるのと対比的な名である。(ウィキペディア)

1年前 No.541

★HsXXh3n5K6_kuu

>>539  えぴめてうすさんへ

>  このスレで、私への3回目の「人間力」とのご指摘、身に沁みます。これが哲学する資格になってしまったら、私は即退場ですね。


これは、えぴめてうすさん個人への評価として書いたのではありませんので、そういう意味ではありませんよ。普通に考えた場合に、人としての幅や深さ(総合の人間力)が高いほど、思考も深くでき、その対応も的確なものになりやすいでしょ。そういった意味合いです。

>  ただ、常識の世界での思考しかしない私でも、すべてを疑うことはできますし、しようと思っています。成果は上がらないかもしれませんが。


思い出すと、私も事あるごとに疑った時期がありました。「ん?それは本当なのか?」と。(笑)そしてその都度、少しづつ答えらしきものを出していきました。

> >では、逆にお尋ねします。

> >《ケース1 常識的に考えた場合》)では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」について・・

> >どういう理由で「答えはある」と考えられるのでしょうか?(えぴめてうすさんが「答えはある」という主張をされているのではないことは理解していますよ)


>  大変恐縮ですが、もう少しお待ちください。

>  「検討の枠組み」が整理できたら、自分の思考を進めたいと思っており、まずこの問題に取り組みたいと考えていますので。


了解しました、ですが、その検討の枠組みが出来上がった段階で、ある程度の答えが出ているようにも感じますが。

> >近い将来、えぴめてうすさんが「存在の問い」に答えを見出したであろう時、現在で言うところの量子力学という分野が哲学の分野にまで食い込み、もはや他分野という概念ではなく、常識的な見地としてその座を獲得しているやもしれません。

> >そうなれば「存在の問い」に対する「常識的に答えはある」という答えになるでしょう。そうなれば、アポリアはもはやアポリアとは呼ばれなくなりますね。なぜならば、それは井戸の中の問いとしてそこに答えがあるからです。そこにあるのは、常識的な問いと常識的な答えのみです。

> >全ての変化の中で、その全ての答えも変化していきます。


>  私はこのように考えることに完全同意します。この考え方こそが自分の納得する道だと思っています。決して、時さんから盗んだんではありません。自分で考えました。信じてください。


以前、ザビビのふくろうさんに教えて頂いたのですが、哲学には「虚学」と「実学」というのがあり、我々がやっているのは実学の方のようです。ですので、えぴめてうすさんも実学になると思いますので、他の人に対して信じてください等の言葉は不要ですよ。なぜならば、自分自身での問題を自分自身内で解決さえできればよいのですから。(人に説明するためのものではないという意味です)同時に私個人には、盗むとか盗まないとか、無関係で、無意味なことですから。

>  ちなみに、SumioBabaさんは、量子神学概論(多世界解釈で記述する全知全能の神) >>787 で、次のようにおっしゃっていました。


> >例えば未来にひょんな事から、多世界解釈が間違いだったと科学的に証明されちゃったら、この理論はどうなるだろう?って事です。


>  何の関係も有りません。多世界解釈が正しかろうと間違っていようと、「SB量子神学」(合)はトートロジーなので、絶対的に「正しい」です。論理的にも実際(現実)的にも、です。


はい。了解しています。では、私もちなみに話を・・

ちなみに2500年前に仏陀は「一切」というものを仏典内で説いています。

一切とは、眼と色・耳と音・鼻と香・舌と味・身と接触・意と意の作用とするものです。

これで一切(全て)です。これ以外にはありませんよと言う事ですね。

ですので、確率で表現すれば「0〜1」「0%〜100%」で全てであり、全てがそのうちに収まると言う事ですね。SB量子進学の(合)も表現こそ違えども同じことです。

決して、外しません(笑)

1年前 No.542

★HsXXh3n5K6_kuu

>>542  失礼しました 訂正です。

>SB量子★進学の(合)も表現こそ違えども同じことです。




SB量子★神学の(合)も表現こそ違えども同じことです。

1年前 No.543

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>542

>以前、ザビビのふくろうさんに教えて頂いたのですが、哲学には「虚学」と「実学」というのがあり、我々がやっているのは実学の方のようです。ですので、えぴめてうすさんも実学になると思いますので、他の人に対して信じてください等の言葉は不要ですよ。なぜならば、自分自身での問題を自分自身内で解決さえできればよいのですから。(人に説明するためのものではないという意味です)同時に私個人には、盗むとか盗まないとか、無関係で、無意味なことですから。


 いやいや、時さんが私の心を見通すかのような内容を書かれたから、驚いてつい口走ってしまいました。
 でも哲学に実学があるとは初耳です。普通、哲学は虚学。自分のために役立つ哲学なので、実学ですか。それでは、虚学の哲学って存在意義があるのだろうかと考えちゃいます。まあどちらでも構いませんが。

>これで一切(全て)です。これ以外にはありませんよと言う事ですね。

>ですので、確率で表現すれば「0〜1」「0%〜100%」で全てであり、全てがそのうちに収まると言う事ですね。SB量子進学の(合)も表現こそ違えども同じことです。

>決して、外しません(笑)


 理解しているつもりです。私にはフィットしていませんが。また、今後ご教示いただくことになると思います。

1年前 No.544

審判 ★DtvR6UZ4Im_Ew9

:審判雑感:

>>541
いあいあこっちこそ出しゃばってゴメンね。
エピメテウスが誠実に思考してるのは誰もが認めるだろうし、理解力や語彙力も抜群だろう。意味盲なんてとんでもないぜ。
だが最も驚嘆すべきはその忍耐力だ。
エピメーテウス「も」トリビアやね。覚えとくわ

>>542
スミオババ理論が納得できるようになる「人としての幅や深さ(総合の人間力)」ってだから何なのさ?
具体的には、何かの知識なのか? 人生経験とかなのか? 言語化出来ない何かなのか?
トキは仏教に詳しいみたいだけど、仏教の知識と何か関係があるのか?
どっかで「空」とかを見た記憶があるけど、まさかそれは関係ないよね?

スミオババ理論では「この世は全知全能の神である」ということになるんだけど、何をどう考えれば、これで納得できるんだ?
俺は昔この理論をスミオババから聞いてまったく納得できなかった。スミオババの説明では、たぶん一生納得できないだろう。
でもトキはスミオババから聞いたスミオババ理論で納得してる。納得してる人間を、俺はトキ以外には知らない。ここは純粋に疑問なんだよ。だからスミオババ理論が納得できるようになる「総合の人間力」というのに興味がある。

「総合の人間力」って何なのさ?

1年前 No.545

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>えぴめてうすさんへ

>>時さんへ


>>537
> えぴめてうすさんがお知りになりたいのは「答えがない」事の理由でしょ?なにやら悪魔の証明のようですね(笑)


> そうですか。無理をお願いしているということですね。

> そうなら、SumioBabaさんがそうおっしゃっていただければ、もうお尋ねしません。


 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、「なぜ「何もない」の方ではなく「何かがある」の方なのか?」と、片方だけが選ばれた理由を問うています。これに対する答は、「こうこうこういう論理的必然性で「何もない」ではなく「何かがある」の方なのだ」と答える必要が有ります。ところが、「何もない」と「何かがある」のうち「何かがある」だけが選ばれて実現せねばならない論理的必然性は存在しません。同一律・無矛盾律・排中律を使うだけでは、「何かがある」と「何もない」のうち「何かがある」だけが選ばれねばならない理由を説明できないからです。

 経験科学的真理を利用してしまうと、その経験科学的真理について「なぜ、それは「起きない」ではなく「起きた」の方なのか?」という謎が新たに生じ、無限後退してしまうだけです。経験科学的真理を使って良いのなら、初めから「何かがある」という経験科学的真理を使い、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」…それは「何かがある」からだ、と答えて良いことになってしまいますが、これでは誰も納得しないでしょう。

 つまり、Q=「「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない」と考える場合、
   《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に「答がない」。
        ||
   論理だけでは、「何かがある」と「何もない」のうち「何かがある」だけ
   が選ばれて実現する必然性を証明できない。
という意味です。
 逆に、えぴめてうすさんが「いや、答は有る!」と仰るなら、経験科学的真理を一切使わず、同一律・無矛盾律・排中律といった論理法則だけを使って、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に答を示す必要が有ります。それは無理でしょう?

1年前 No.546

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>546

 ありがとうございます。

>「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、「なぜ「何もない」の方ではなく「何かがある」の方なのか?」と、片方だけが選ばれた理由を問うています。これに対する答は、「こうこうこういう論理的必然性で「何もない」ではなく「何かがある」の方なのだ」と答える必要が有ります。ところが、「何もない」と「何かがある」のうち「何かがある」だけが選ばれて実現せねばならない論理的必然性は存在しません。同一律・無矛盾律・排中律を使うだけでは、「何かがある」と「何もない」のうち「何かがある」だけが選ばれねばならない理由を説明できないからです。


 常識的に考えた場合に、この問い「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に、答えがない理由は、
 「何もない」と「何かがある」のうち「何かがある」だけが選ばれて実現せねばならない論理的必然性が存在しないから。
 それは、同一律・無矛盾律・排中律を使うだけでは、「何かがある」と「何もない」のうち「何かがある」だけが選ばれねばならない理由を説明できないからである。
 経験科学的真理を利用すると、メタ問いが発生し、無限後退する。
 ですね。

 「検討の枠組み」でも、「「世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。」となっていますので、もともとお尋ねした理由が含まれていたということですね。大変失礼しました。
 以前の公理のお話は、経験科学的真理を利用した場合に無限後退することの説明でした。了解です。
 次の公理(何かがある又は何もないのどちらかである≠なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?)がトートロジーであるというお話については、どのように考えればよかったでしょうか。

>>477
>>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


また、
>>531
>>「すべて」と「ある」を付け加えた趣旨は、 >>515 のとおりです。

>「未だに理解できていません。


  >>524 で、「正しく理解されている」という評価をいただいたと思ったのですが、「すべて」と「ある」については、
 多世界解釈の場合、「ある」と「ない」だけでなく、どのような「ある」も実現していると考えるのかと思い、「すべて」を付け加えました。
 一方、常識的な考え方では、複数の「ある」を含むと一種の多世界解釈になるため、1つの「ある」と、「ない」のどちらかしか実現しない(2者択一)という設定を考えています。
 この内容では、ご理解いただけないでしょうか。

1年前 No.547

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>547  えぴめてうすさんへ

> 次の公理(何かがある又は何もないのどちらかである≠なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?)がトートロジーであるというお話については、どのように考えればよかったでしょうか。


> >>477

>>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。


>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。


>>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


>>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 それでOKです。十分説明しているし、正しく理解されているし、これ以上何が必要なのでしょうか。

>  >>524 で、「正しく理解されている」という評価をいただいたと思ったのですが、「すべて」と「ある」については、

> 多世界解釈の場合、「ある」と「ない」だけでなく、どのような「ある」も実現していると考えるのかと思い、「すべて」を付け加えました。

> 一方、常識的な考え方では、複数の「ある」を含むと一種の多世界解釈になるため、1つの「ある」と、「ない」のどちらかしか実現しない(2者択一)という設定を考えています。

> この内容では、ご理解いただけないでしょうか。


 未だに理解していません。「多世界解釈」という言葉が「多世界解釈」(合)、「多世界解釈」(正)、「多世界解釈」(反)のどれなのかも不明ですし、「どのような「ある」」「複数の「ある」」「1つの「ある」」という言葉の意味も不明です。これがQを意味するように書いてあったので、理解できないまま、「Qを意味するのであれば良いんじゃないの」と書いただけです。
 常識的な考え方なのであれば、自分は「何かがある」の方を体験しており、「「何かがある」だけが実現し「何もない」の方は実現していない」=Qと思い込んでいる状態です。これを「1つの「ある」と、「ない」のどちらかしか実現しない(2者択一)」という意味不明な表現に置き換える必要があるのでしょうか?
 SumioBabaの説明は、PとQを使ってとっくに終わっています。理解できたのであれば、それで良いではないですか。SumioBabaの説明を、意味不明な形に変形し、「これでどうですか?」と質問されても、興味も無いし、そういうことを議論するのも時間の無駄です。あとは、勝手にやって下さい。

1年前 No.548

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>548

>> 次の公理(何かがある又は何もないのどちらかである≠なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?)がトートロジーであるというお話については、どのように考えればよかったでしょうか。


> >>477

>>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。

>>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。

>それでOKです。十分説明しているし、正しく理解されているし、これ以上何が必要なのでしょうか。


 「多世界解釈が正しくない場合」は、いまは、「何かがある又は何もないのどちらかであると考える場合」として進めていますが、この場合、「答えがない」のではなく、「「なぜ?」と問うこと自体が無意味だ」ということになるのかどうかを確認させていただければという趣旨です。

>> >>524 で、「正しく理解されている」という評価をいただいたと思ったのですが、「すべて」と「ある」については、

>> 多世界解釈の場合、「ある」と「ない」だけでなく、どのような「ある」も実現していると考えるのかと思い、「すべて」を付け加えました。

>> 一方、常識的な考え方では、複数の「ある」を含むと一種の多世界解釈になるため、1つの「ある」と、「ない」のどちらかしか実現しない(2者択一)という設定を考えています。

>> この内容では、ご理解いただけないでしょうか。

>未だに理解していません。「多世界解釈」という言葉が「多世界解釈」(合)、「多世界解釈」(正)、「多世界解釈」(反)のどれなのかも不明ですし、「どのような「ある」」「複数の「ある」」「1つの「ある」」という言葉の意味も不明です。これがQを意味するように書いてあったので、理解できないまま、「Qを意味するのであれば良いんじゃないの」と書いただけです。

> 常識的な考え方なのであれば、自分は「何かがある」の方を体験しており、「「何かがある」だけが実現し「何もない」の方は実現していない」=Qと思い込んでいる状態です。これを「1つの「ある」と、「ない」のどちらかしか実現しない(2者択一)」という意味不明な表現に置き換える必要があるのでしょうか?

> SumioBabaの説明は、PとQを使ってとっくに終わっています。理解できたのであれば、それで良いではないですか。SumioBabaの説明を、意味不明な形に変形し、「これでどうですか?」と質問されても、興味も無いし、そういうことを議論するのも時間の無駄です。あとは、勝手にやって下さい。


 意味不明な形に変形などしてしまいまして、失礼しました。

 《ケース2 多世界解釈を導入した場合》の「多世界解釈」は、「PおよびQの両方が同時に実現している 」場合ですので、「多世界解釈」(合)を意味すると理解しています。

 「常識的な考え方なのであれば、自分は「何かがある」の方を体験しており」とおっしゃっていますので、Qには、この世界以外の世界の存在は肯定されていないと理解しました。

1年前 No.549

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>537

>では人間のすべてが、その常識の世界観以外の世界を認識できないのか?ですが、できる人もいるというのが答えです。


  >>373,412,491,520,537 あたりで、井戸の話でご説明いただいておりますが、ちょっと質問させてください。
 この井戸の意味には、他人の思考の世界のとき( >>373,412,520 )と他の世界のとき( >>491,537 )の2通りがあるように思うのです。
 このうち、他人の思考の世界があることはわかりやすいですのですが、他の世界があることの方は、必ずしも自明ではないように思います。
 また、あったとしても、 >>370  SumioBabaさん曰く、
 「世界は、a、b、a+bの場合があり得るが、a+bは矛盾しているため、人間は認識できない。aとbは認識できうるものとして同時に体験しているが、別の世界であり、相互に共有できないし、そのことを実証も反証もできない。」

 このように、多世界解釈では、別の世界は、相互に共有できないようですので、見ることは難しそうなのです。
 自分のいる井戸の中にいて想像するのではなく、私という蛙が、この燕になることは可能なのでしょうか。あるいは、燕から蛙が情報を受け取ることは可能なのでしょうか。

>《ケース1 常識的に考えた場合》)では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」について・・

どういう理由で「答えはある」と考えられるのでしょうか?(えぴめてうすさんが「答えはある」という主張をされているのではないことは理解していますよ)

 まず、公理に対して、正しい問いがなされなければならないと思っています。

1年前 No.550

審判 ★Chmgg8s7my_Ew9

エピメテウスの「検討の枠組み」は、スミオババとの対話で確認した箇所を整理したものであり、「意味不明な表現に置き換え」というスミオババの指摘は当たらない。

「あとは勝手にやってください」という発言からもうかがえるように、スミオババは誠実に対応する気が失せたようなので、エピメテウスは確認作業を省いて、今考えている枠組みで、自身の思考の検討を進めていってもよろしい。

:審判雑感:
スミオババはよくちゃぶ台をひっくりかえす。なぜひっくりかえすのか? 心証悪し

1年前 No.551

★H3c3VE5jHw_kuu

>>550  えぴめてうすさんへ

>   >>373,412,491,520,537 あたりで、井戸の話でご説明いただいておりますが、ちょっと質問させてください。

>  この井戸の意味には、他人の思考の世界のとき( >>373,412,520 )と他の世界のとき( >>491,537 )の2通りがあるように思うのです。


はい。その視点では、2つありますね。

>  このうち、他人の思考の世界があることはわかりやすいですのですが、他の世界があることの方は、必ずしも自明ではないように思います。


ですから、えぴめてうすさんには2つの視点なのですね。

例えばですが「リンゴが木から落ちる」というのは、自明でしょうか?
例えばですが「(テーブルの上に)リンゴがある」というのは、自明でしょうか?
例えばですが「時というHNを使って投稿している人物がいる」というのは、自明でしょうか?
「えぴめてうすさんがいる」というのは、自明な事でしょうか?

まずは、全てを疑ってみれば良いと思いますよ。

>  また、あったとしても、 >>370  SumioBabaさん曰く、

>  「世界は、a、b、a+bの場合があり得るが、a+bは矛盾しているため、人間は認識できない。aとbは認識できうるものとして同時に体験しているが、別の世界であり、相互に共有できないし、そのことを実証も反証もできない。」


当たり前ですよね。例えばですが、真っ赤に熟したリンゴと完全に透明な同じリンゴは同時に同じ世界では共有できません。しかしその存在を完全否定もできませんね。これが、別の世界であり、相互に共有できないし、そのことを実証も反証もできない。という意味だと思いますよ。

>  このように、多世界解釈では、別の世界は、相互に共有できないようですので、見ることは難しそうなのです。


いえ、簡単ですよ。えぴめてうすさんは「リンゴは、絶対にある」という思い込みの世界観により、観えていないのだろうと思います。

>  自分のいる井戸の中にいて想像するのではなく、私という蛙が、この燕になることは可能なのでしょうか。あるいは、燕から蛙が情報を受け取ることは可能なのでしょうか。


表現は様々あるとは思いますが「時」も「時井戸の中」で観ています。一切知者の仏陀も「仏陀井戸の中」で真理を見つけました。燕から蛙が情報を受け取るというのは、燕視点では「教え」であり、蛙視点では「学び」です。ですので、我々蛙にとって必要なことは「学び」です。正しい燕から蛙が学べれば、その蛙は燕になる事は可能だと思います。

そして「学び」に必要なのは、その姿勢と資質です。同時に、出会うタイミングです。それは「私」にはコントロールできません。必然です。

>  まず、公理に対して、正しい問いがなされなければならないと思っています。


これを例え話を絡めて、もう少し詳しくご説明頂けますか?

1年前 No.552

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>552

 ありがとうございます。いつもものわかりが悪くて申し訳ありません。

>例えばですが「リンゴが木から落ちる」というのは、自明でしょうか?

例えばですが「(テーブルの上に)リンゴがある」というのは、自明でしょうか?
例えばですが「時というHNを使って投稿している人物がいる」というのは、自明でしょうか?
「えぴめてうすさんがいる」というのは、自明な事でしょうか?
>まずは、全てを疑ってみれば良いと思いますよ。


 それぞれ程度の差はありますが、私は自明と考えています。(「自明とは何か」が問題になるのかもしれません。)
 なお、我思う我「自分は存在するという命題だけは、絶対に疑うことができない」についても疑ってみました。 >>305
 時さんは、それぞれについてどのようにお考えなのでしょうか。

>> このように、多世界解釈では、別の世界は、相互に共有できないようですので、見ることは難しそうなのです。

>いえ、簡単ですよ。えぴめてうすさんは「リンゴは、絶対にある」という思い込みの世界観により、観えていないのだろうと思います。


 「リンゴは、絶対にある」という思い込みを排せば、別の世界があるとして、異なる世界の間で、情報を相互に共有できるのでしょうか。

> > 自分のいる井戸の中にいて想像するのではなく、私という蛙が、この燕になることは可能なのでしょうか。あるいは、燕から蛙が情報を受け取ることは可能なのでしょうか。

>表現は様々あるとは思いますが「時」も「時井戸の中」で観ています。一切知者の仏陀も「仏陀井戸の中」で真理を見つけました。燕から蛙が情報を受け取るというのは、燕視点では「教え」であり、蛙視点では「学び」です。ですので、我々蛙にとって必要なことは「学び」です。正しい燕から蛙が学べれば、その蛙は燕になる事は可能だと思います。


 「別の世界は、相互に共有できない」ことと、「正しい燕から蛙が学」んだり、「その蛙は燕になる」ことはどのように両立するのでしょうか。

>> まず、公理に対して、正しい問いがなされなければならないと思っています。

>これを例え話を絡めて、もう少し詳しくご説明頂けますか?


 表現がもうひとつ正確ではありませんでした。「公理と問いを正しく設定しなければならないと思っています。」という意味ですので、そのように訂正させていただきます。

 SumioBabaさんからの >>549 に対するご回答を待って、進めていきたいと思っています。

 思っていることは、まったく何の公理、前提、定義もなければ、問いも成立しえず、問いが可能となるためには、必ず何らかの公理、前提、定義が必要となるし、答えが有意味なものであるためには、少なくとも、この「公理」−「問い」の関係がうまくかみ合っていなければならないということです。
 そして、哲学における公理、前提、定義は、数学における公理とは違い、任意性、恣意性が強いものだと思います。ただ、そういった哲学における公理、前提、定義でも万人に受け入れらているもの、時代がかわって受け入れられるようになったものがあるように思います。

 私は、いまだ常識的な考え方にとどまっているのですが、例えば、ユークリッド幾何学の「三角形の内角の和は180度である」という公理は、私には自明に思えます。厳密な数学的証明ができないのかもしれませんが、平面において正しいことが、この世界の中で容易に検証でき、反証が見つからないと思います。それに比べ、存在の問い「世界は、なぜ何もないのではなく、なにかがあるのか」についての「常識的な考え方をした場合」の公理は、「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」であると考えていますが、これは、ユークリッド幾何学の公理ほど自明ではありません。
 この、「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」という「公理」をもとに、「世界は、なぜ何もないのではなく、なにかがあるのか」という「問い」が発せられているのですが、この公理には思い込みがあるように思えます。

1年前 No.553

★EKNbOHiqTv_kuu

>>553  えぴめてうすさんへ

>  それぞれ程度の差はありますが、私は自明と考えています。(「自明とは何か」が問題になるのかもしれません。)

>  なお、我思う我「自分は存在するという命題だけは、絶対に疑うことができない」についても疑ってみました。 >>305

>  時さんは、それぞれについてどのようにお考えなのでしょうか。


自明だと認識する世界観では自明です。自明ではないと認識する世界観では、自明ではありません。両方の世界観を私(時)は有しています。

デカルトの我思うも有名な言葉ですので否定はしませんが、その先には2つの世界があります。我が消滅する世界と思いが消滅する世界です。では「何もないじゃないか」と思われるかも知れませんが、そうではありません。ありますよ。

>  「別の世界は、相互に共有できない」ことと、「正しい燕から蛙が学」んだり、「その蛙は燕になる」ことはどのように両立するのでしょうか。


矛盾するものは同次元で存在しえません。透明の赤色は存在しえないでしょ?青色の黄色信号は存在しえないでしょ?これが、相互に共有できないと言う事だと思います。

その矛盾する世界観を1つの視点でとらえられるようになると、それが燕視点です。

そしてその正しい燕視点を持ったものから正しく蛙が学び、完全理解が起これば、その蛙はそのとき燕になっていると言う事です。

昔からインド聖者の存在が絶え間なく続いてきているのは、これが起きているからですよ。何も学校で学べるようなことではありませんし、聞くだけでよいというものでもありません。一瞬で理解が起こる存在には、起こります。理解が起こらない存在には、一生起こりません。そこに個人の自由意思は関与できません。そして我々蛙が矛盾だと認識・識別している事柄を、聖者たちは、無矛盾に観ています。ただそれだけのことです。

>  私は、いまだ常識的な考え方にとどまっているのですが、例えば、ユークリッド幾何学の「三角形の内角の和は180度である」という公理は、私には自明に思えます。厳密な数学的証明ができないのかもしれませんが、平面において正しいことが、この世界の中で容易に検証でき、反証が見つからないと思います。


はい、それでよいのではないでしょうか。

一つお尋ねしてもよいでしょうか。「平面」とは何を基準にしているどのようなものなのでしょうか?教えて頂けますか。

1年前 No.554

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>549  えぴめてうすさんへ

> >>548

>>> 次の公理(何かがある又は何もないのどちらかである≠なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?)がトートロジーであるというお話については、どのように考えればよかったでしょうか。


> >>477


>>>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。


>>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。


>>>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


>>>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


>>それでOKです。十分説明しているし、正しく理解されているし、これ以上何が必要なのでしょうか。


> 「多世界解釈が正しくない場合」は、いまは、「何かがある又は何もないのどちらかであると考える場合」として進めていますが、この場合、「答えがない」のではなく、「「なぜ?」と問うこと自体が無意味だ」ということになるのかどうかを確認させていただければという趣旨です。


 それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


>>553  えぴめてうすさんへ

> 私は、いまだ常識的な考え方にとどまっているのですが、例えば、ユークリッド幾何学の「三角形の内角の和は180度である」という公理は、私には自明に思えます。


 「三角形の内角の和は180度である」はユークリッド幾何学における「公理」ではなく「定理」です。前にも説明した通り、「公理」は、第1公準〜第5公準と呼ばれるものです。

>厳密な数学的証明ができないのかもしれませんが、


 「厳密な数学的証明ができないのかもしれませんが」が意味不明。第1公準〜第5公準を「公理」に定めれば、「定理」である「三角形の内角の和は180度である」は当然のことながら、厳密な数学的証明が可能です。第5公準をその否定に置き換えると、非ユークリッド幾何学になり、「三角形の内角の和は180度である」は証明できなくなり、「三角形の内角の和は180度でない」という具体例が挙げられます。

>平面において正しいことが、この世界の中で容易に検証でき、反証が見つからないと思います。


 ブラックホールの解析や宇宙全体の形状について論じる時は、時空の曲率を考慮せねばならないので、非ユークリッド幾何学が必要なことがとっくに認められています。人間の身体的スケールでは、時空の曲率は無視できるほど小さいので、十分にユークリッド幾何学で近似できるというだけです。えぴめてうすさんの「「三角形の内角の和は180度である」という公理は、私には自明に思えます。」「反証が見つからないと思います。」という直観がいかに危ないものか。だからこそ数学では、「あくまでこの「公理」が正しいとすると」という前提の上での話です、と「公理」を明記するのです。

>それに比べ、存在の問い「世界は、なぜ何もないのではなく、なにかがあるのか」についての「常識的な考え方をした場合」の公理は、「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」であると考えていますが、これは、ユークリッド幾何学の公理ほど自明ではありません。


 「同一律」「無矛盾律」「排中律」の3つを正しいと前提しています。これらを否定することも可能ですが、肯定するか否定するかも恣意的であり、どちらが正しいとは決められません。自分の真理体系を一番うまく記述できるものを好みで選んで良いのです。
 Pがどんな内容かに拘らず、「P→P」という形をした命題はすべて真だと保証してくれるのが「同一律」です。Pがどんな内容かに拘らず、「¬(P∧¬P)」という形をした命題はすべて真だと保証してくれるのが「無矛盾律」です。Pがどんな内容かに拘らず、「P∨¬P」という形をした命題はすべて真だと保証してくれるのが「排中律」です。
 「排中律」を正しいと考えているのだから、P=「何かがある」、¬P=「何もない」とおけば、「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」は「P∨¬P」という「排中律」そのものでしょう?

> この、「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」という「公理」をもとに、「世界は、なぜ何もないのではなく、なにかがあるのか」という「問い」が発せられているのですが、この公理には思い込みがあるように思えます。


 「思い込み」とは、「正しくないのに正しいと思い込む」という意味かと思います。「排中律」を正しいとする、という前提の話なのに、なぜ「排中律」そのものの形をした命題が思い込みなのでしょう?

1年前 No.555

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>554

> 自明だと認識する世界観では自明です。自明ではないと認識する世界観では、自明ではありません。両方の世界観を私(時)は有しています。


 それぞれの事象について、自明であると、自明でないは、同じ程度ですか。
 時さんが、「リンゴが木から落ちる」ところや、「(テーブルの上に)リンゴがある」ところを見ているとき、「えぴめてうすというHNを使って投稿している人物」に回答しているときには、両方の世界観を持っておられ、日々、時々でどちらかを選択あるいは判断されているのでしょうか。
 時さんご自身の存在について、自明と自明でない、両方の認識をお持ちであれば、自分の存在について、日常どういう感覚をお持ちなのでしょうか。
 両方の世界観を有しておられるということについて、なかなか想像ができないもので、変な質問かもしれませんが。

>デカルトの我思うも有名な言葉ですので否定はしませんが、その先には2つの世界があります。我が消滅する世界と思いが消滅する世界です。では「何もないじゃないか」と思われるかも知れませんが、そうではありません。ありますよ。


 「ある」ということは、自明なことなのでしょうか。また、自明と自明でないの両方なのでしょうか。

> 矛盾するものは同次元で存在しえません。透明の赤色は存在しえないでしょ?青色の黄色信号は存在しえないでしょ?これが、相互に共有できないと言う事だと思います。


 燕目線とは、他の井戸(世界)の中を見られるという意味かと思っておりましたが、「その矛盾する世界観を1つの視点でとらえられるようになる」ことが、燕視点ということですか。
 なので、燕は、他の世界の様子を直接見ることができるというわけではないのなら、私の質問は的外れでした。

 とすると、「その正しい燕視点を持ったものから正しく蛙が学び、完全理解が起これば、その蛙はそのとき燕になっている」というご説明については、まだまだ理解が追い付かない状況です。
 いまのところ、私は、自分の井戸からでることはできないと考えています。他人の井戸のことは、コミュニケーションを通じて、うかがい知ることはできますが、自分の世界の外を見ることは一切できないと考えています。

>…「学び」に必要なのは、その姿勢と資質です。同時に、出会うタイミングです。それは「私」にはコントロールできません。必然です。


 やはり、時さんにご説明いただく世界観は、私にとって、わかるときが来れば、わかるようになるとしかいえませんね。まえにお聞きした時もそうでしたね。
 そうであれば、自分の意思で考えようとする場合、自分ができる思考の範囲でできる努力をする、そして納得するしかないのですね。

> 一つお尋ねしてもよいでしょうか。「平面」とは何を基準にしているどのようなものなのでしょうか?教えて頂けますか。


 私は数学に詳しくないので、専門的にはわかりません。
 「平面」とは、概念だと思います。「曲面」でないのが、「平面」であるように思いますので、二次元という額縁の中で、地と図の関係でしょうか。

1年前 No.556

★oTi6CoxhwH_kuu

>>556  えぴめてうすさんへ

> 自分の意思で考えようとする場合、自分ができる思考の範囲でできる努力をする、そして納得するしかないのですね。


ご自身内で何か問題がある場合、えぴめてうすさんがご自身の思考の範囲でできるだけの努力をする。そしてそれを納得できるまで続ける。で良いのではないでしょうか。

それが、他者への説明というものが不要なえぴめてうすさんご自身の実学としての哲学と言えるのではないでしょうか。

以上です。

1年前 No.557

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>555

 ありがとうございました。

> > 「多世界解釈が正しくない場合」は、いまは、「何かがある又は何もないのどちらかであると考える場合」として進めていますが、この場合、「答えがない」のではなく、「「なぜ?」と問うこと自体が無意味だ」ということになるのかどうかを確認させていただければという趣旨です。

> それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 了解です。公理「何かがある又は何もないのどちらかであると考える場合」に、問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」については、謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる と理解すれば、よろしいですね。

> 「三角形の内角の和は180度である」はユークリッド幾何学における「公理」ではなく「定理」です。前にも説明した通り、「公理」は、第1公準〜第5公準と呼ばれるものです。


 基礎的な知識の誤りをいたしました。私の数学レベルはこんなもので、大変失礼しました。

>厳密な数学的証明ができないのかもしれませんが、


 公理と誤解しましたので、そのような表現をしてしまいました。

>平面において正しいことが、この世界の中で容易に検証でき、反証が見つからないと思います。


 ブラックホールの解析や宇宙全体の形状について論じる時は、時空の曲率を考慮せねばならないので、非ユークリッド幾何学が必要なことがとっくに認められています。人間の身体的スケールでは、時空の曲率は無視できるほど小さいので、十分にユークリッド幾何学で近似できるというだけです。えぴめてうすさんの「「三角形の内角の和は180度である」という公理は、私には自明に思えます。」「反証が見つからないと思います。」という直観がいかに危ないものか。だからこそ数学では、「あくまでこの「公理」が正しいとすると」という前提の上での話です、と「公理」を明記するのです。

 ユークリッド幾何学において、「三角形の内角の和は180度である」ことが、平面において正しいことに反証が見つからないと思っていたのですが、違いますでしょうか。

>「排中律」を正しいと考えているのだから、P=「何かがある」、¬P=「何もない」とおけば、「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」は「P∨¬P」という「排中律」そのものでしょう?


 表現がうまくできないのですが、SumioBabaさんにとって、哲学上の公理と数学上の公理は、同じレベルのものと捉えておられるのでしょうか。

>>この、「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」という「公理」をもとに、「世界は、なぜ何もないのではなく、なにかがあるのか」という「問い」が発せられているのですが、この公理には思い込みがあるように思えます。

>「思い込み」とは、「正しくないのに正しいと思い込む」という意味かと思います。「排中律」を正しいとする、という前提の話なのに、なぜ「排中律」そのものの形をした命題が思い込みなのでしょう?


 公理の内容そのものを疑う必要があると考えたところから、「思い込み」という表現をしました。ただ、私の使い方としては、「正しいかどうかわからないのに、断定している」というニュアンスも含まれます。まあ、公理なので、正しい・正しくないに言及することは、ある意味、無理筋の話なのかもしれませんが。

1年前 No.558

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん、時さん

 多世界解釈の理解について、一通りお聞きしたように思います。

 SumioBabaさんには、多世界解釈の考え方についてご教示いただくに当たり、多大なご面倒をおかけし、申し訳なく、感謝に堪えません。要領を得ない質問で、ご迷惑をおかけしました。

 また、時さんにも適時・適切にご助言いただいたことに感謝申し上げます。

 まだ、十分理解できていないところもあるとは思いますが、ここまで来ましたので、これまでもご指摘いただき、自分としてもそうしようと思っていたように、自分の納得できる答えを求め、私なりの理解のもと思考を進めてみようかと思います。

 今後とも、投稿内容に対するご意見・ご指摘をいただければありがたいと考えております。

1年前 No.559

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

ご参加の皆さん、SumioBabaさん、時さん

 私は、 >>249 からの参加ですが、「存在」の問題について気になっていたものの、これまであまり深く考えたことはありませんでした。
 他のスレで、独我論の問題を考えていましたが、根源的な問いであるこの問題をまず考えるべきと思い、 >>249 以降、このスレで勉強させていただき、この問題に自身の答えをお持ちの方々(賢人)のお考えの一端にも触れ、この問いの難しさを実感しています。
 私のここでの姿勢と目標は、中学生の心でこの問いを考え、自分自身の納得を得るために思考を進めることです。
 それでは、まず >>249 で述べていた疑問から、始めてみます。

 常識的に考えた場合の「公理」(=前提、定義)、「問い」、「答え」の関係を、下記の「検討の枠組み」ケース1で示しました。
 なお、多世界解釈を導入した場合については、ケース2として、後で検討します。

 「常識的に」とは、「私が現在持っている知見をもとに」という意味です。当然、みなさんおひとりおひとりと私では、この「常識」の範囲や質が異なっていると思います。
 私の持っている知見をすべて示すことはできませんが、私の経験科学的知見(私は文系出身です)や価値観などが含まれているとお考えください。

「検討の枠組み」
《ケース1 常識的に考えた場合》
【公理】
 Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している
    ↓
【問い】
 世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
【答え】
 公理Qはトートロジーであり、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、問い自体が無意味となる。

 このケース1には、答えがあるのかないのか。一般的に、問いには、答えがある場合とない場合がありえますが、そのときの対処は次のとおり。
・答えがない(あるいは問う意味がない)とわかった場合 → 公理や問いを疑うべき。
・答えがないかどうかわからない場合 → 答えを見つけられる余地がある。
・答えがあることが分かった場合 → 終了

 ケース1の「公理」と「問い」の関係を見ると、「何かがある」と「何もない」のどちらもあり得る状況下で、「何かがある」理由を問うています。

 この「公理」とこの「問い」の情報だけから、論理だけを用いて答えを導くことはできません。何らかの情報が加わらなければなりません。しかし、現在のところ、明確な判断ができる経験科学的知見はないと思います。
 したがって、論理的にも経験科学的にも答えがない状況に見えますが、今後の経験科学の進展を考慮して、「答えがないかどうかわからない場合」も留保する必要があると考えます。

 さらに、仮に「答えがない(あるいは問う意味がない)とわかった場合」について検討します。
 ライプニッツのいう充足理由律が成立していない状況ですが、「公理」と「問い」に含まれる「何かがある」と「何もない」の2つの選択肢に懐疑の目を向けたいと思います。
 「世界は、「何かがある」が実現している」の方は、独我論的立場も含めて、疑いうるものと思いますが、ここでは自明と考えます。
 次に、「世界は、「何もない」が実現している」の「何もない」についてですが、そもそも「何もない」とはどういうことなのか、ほんとうに「何もない」ということはあるか、この人間が経験したことがなく、観測もできない「何もない」状態を前提に考えるべきかという疑問を感じます。

1年前 No.560

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>558  えぴめてうすさんへ

>> それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


> 了解です。公理「何かがある又は何もないのどちらかであると考える場合」に、問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」については、謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる と理解すれば、よろしいですね。


    《レッドカード》
 それが問題のすり替えです。現行犯逮捕ですね。やはり意図的だったようです。「なぜ?」と問うのが無意味なのは「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジーだけです。《謎》=「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の方は何も解消せず残ったままだと、繰り返し繰り返し説明しました。えぴめてうすさんも理解されていたはずです。それなのに、またすり替えですか。こちらの説明を十分理解した上で、意図的な曲解であることが判ったので、真面目に説明するのがバカバカしくなってしまいました。

1年前 No.561

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

初参加です。過去レス読んでいません。

>>0

>「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」


あるのが前提だから。無いと始まらないから。

1年前 No.562

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>561

>> 了解です。公理「何かがある又は何もないのどちらかであると考える場合」に、問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」については、謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる と理解すれば、よろしいですね。

> 《レッドカード》

 それが問題のすり替えです。現行犯逮捕ですね。やはり意図的だったようです。「なぜ?」と問うのが無意味なのは「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジーだけです。《謎》=「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の方は何も解消せず残ったままだと、繰り返し繰り返し説明しました。えぴめてうすさんも理解されていたはずです。それなのに、またすり替えですか。こちらの説明を十分理解した上で、意図的な曲解であることが判ったので、真面目に説明するのがバカバカしくなってしまいました。

 SumioBabaさんは、公理である「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」に対して、なぜ?と問うていると思われていたのですね。
 それで、 >>480 で、「「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の場合」とおっしゃっていたことがわかりました。問い=公理という意味が理解できませんでした。
 当初から、問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」について検討しておりますし、「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」は、公理として設定しております。

>「なぜ?」と問うのが無意味なのは「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジーだけです。《謎》=「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の方は何も解消せず残ったままだと、繰り返し繰り返し説明しました。えぴめてうすさんも理解されていたはずです。


 そう理解していたからこそ、ずいぶん前から、下記の「検討の枠組み」を示しながら、おかしいところがないか丹念に確認してまいりました。
 私が「何かがある又は何もないのどちらかである」を問いとしてお聞きしたことがありますでしょうか。

 【答え】は下記のとおり変更が必要ということですね。

 《ケース1 常識的に考えた場合》
【公理】
 Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している
    ↓
【問い】
 世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
【答え】
× 公理Qはトートロジーであり、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、問い自体が無意味となる。
   ↓
〇【答え】
 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。

 このメタ問いが発生するのは、公理に対してだと思いますが、トートロジーの場合は無限後退しないのであれば、メタ問いも発生しないように思いますが、いかがでしょうか。

>>467
> 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。

1年前 No.563

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

Mobiusさん

>>562

  >>560 で書きましたように、哲学の素人が中学生の心で、存在の問いについて、ぼちぼち考えています。
 私もマイペースでやっていきますので、ご自身のお考えや私へのご指摘・ご意見等ありましたら、どんどん投稿ください。(スレ主ではないのですが。)

1年前 No.564

審判 ★Chmgg8s7my_Ew9

>>561
スミオババは訳の解らない事を言って参加者を困らせないように。2度目だぞ!!
あとスミオババは選手なんだから勝手にカードを出すんじゃあない。それとも選手兼、審判をするつもりか?

:審判雑感:
エピメテウスよ。スミオババは誠実に対話する気が無いから、いちいち確認するのは時間の無駄だと思うぜ。
時よ。スミオババの不誠実な態度についてどう思ってんの? 時から注意してあげたら。仲間だろ。

1年前 No.565

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>564 えぴめてうすさん、 お声掛けありがとうございます。
まだ、いろいろと質問できるほど、他の人の発言内容が理解できていませんので、しばらくは 自分の考えたことをひとりごとのように呟いてみたいと思います。

----------

「世界は、『何も無い』か『何かがある』のいずれかである」という文章について考えてみる。
私には、「『何も無い』は はたして“世界”なのだろうか?」という疑問がある。

「何も無い」のであれば、“世界”ですらないのではないだろうか?
「何かがあること」は、世界成立の前提ではないだろうか?

1年前 No.566

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

・「空集合」という概念があるが、これは「集合」という概念の後にしか生まれない。

・「無」という概念は、「有」があって 初めて認識されるのではないか?

・「無」というのは、実は「存在しない」のではないか? 「認識できないこと/もの」を便宜上「無」と表現しているだけではないか?

・「無」と「有」は、対称でないのではないか? 「無」は「有」の補間概念なのではないだろうか?

・この問題は、「なぜ無いのではなく」の方ではなく、「なぜあるのか」の方に着目すべきなのではないだろうか?

1年前 No.567

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>562  Mobiusさんへ

 大歓迎です。Mobiusさんのような頭の切れる方のご意見をぜひ伺いたいところです。

> >>0

>>「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」

>あるのが前提だから。無いと始まらないから。


 この場合も、「なぜ「無いで始まらないのまま」ではなく「あるで始まった」のか?」という謎が残るように思われます。「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」という形をしています。こういう問題に経験科学が答えられない理由は、片方だけが選ばれねばならないという論理的必然性が無いからだと思われます。経験科学で解明できるのは、たかだか「なぜか知らないけれどAであり、¬Aではない」という現状認識だけであり、「なぜ¬AではなくAの方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに対し、「かくかくしかじかの論理的必然性により、¬AではなくAの方が選ばれて実現したのだ」という答が存在しないからではないのでしょうか。

>>566  Mobiusさんへ

>「世界は、『何も無い』か『何かがある』のいずれかである」という文章について考えてみる。

>私には、「『何も無い』は はたして“世界”なのだろうか?」という疑問がある。

>「何も無い」のであれば、“世界”ですらないのではないだろうか?

>「何かがあること」は、世界成立の前提ではないだろうか?


 「世界は、」は書かない方が適切だと思います。

>>567  Mobiusさんへ

>・「無」と「有」は、対称でないのではないか? 「無」は「有」の補間概念なのではないだろうか?


 良い着眼点だと思います。
 【実在論】=「物質世界の存在や状態は、人間の心に認識されていなくても客観的に確定している」の立場だと、ついつい、「無」=「物質世界か無い」、「有」=「物質世界が有る」、というふうに解釈し勝ちです。
 そこで、【観念論】=「物質世界の存在や状態は、すべて心の中の観念に過ぎない」を採ると、「無」=「意識が無い」=「情報が無い」、「有」=「意識が有る」=「情報が有る」、になります。「無」とは情報が全くない心の状態を表すことになり、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」が量子力学的に重ね合わせのまま、片方に確定していない状態、です。情報を「0」、「1」、「?」(=「0」+「1」)で表すと、何一つ「0」や「1」に確定せず、すべてのビットが「?」のままである完全無意識状態M0=「??????????…」であり、これを「空」と呼びます。逆に、「0?1?01?0?1…」や「1??00?1??0…」や「?010??011?…」…のように、少なくとも1ビットは「0」か「1」に確定し、特定の意識(情報)を持った心の状態が「色」M1、M2、M3、…です。
 すべての「色」M1、M2、M3、…を同じ重みで重ね合わせると、すべての情報が打ち消し合って消滅し、「空」M0になります。これが、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕。「無」がM0、「有」がM1、M2、M3、…なので、「無」と「有」との関係は「全体」と「部分」の関係になります。
 いかがでしょうか。

1年前 No.568

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>568 SumioBabaさん、過分なお言葉を戴き恐縮です。考え始めたばかりですので、折角お返事頂いても理解が追いつかず、まともに反応できないことも多々あると思いますが、お目溢し下さい。

「ないと始まらない」について。
例えば科学の実験で、一方の水槽には雑菌が繁殖し、もう一方の水槽には繁殖しなかったのだとすると、「なぜ雑菌が繁殖したのか/しなかったのか」を問うことができます。
しかし、この宇宙開闢以来、“雑菌”なるものが一度も繁殖しなかったのだとすると、「なぜ雑菌が繁殖しなかったのか」を問うことができません。なぜなら“雑菌”という概念が存在していないからです。存在しない概念については問うことができません。

「なぜ何も無いではなく何かがあるのか?」と問えているということは、「すでに何かがある」ということが前提なのではないかと。

----------

物事には「始まり」と「終わり」がある。
「始まりから終わりまで」を「有」と言い、「始まる前」と「終わった後」を「無」という。

例えばここに昼食がある。なぜあるのかというと、私が作ったからだ。なぜ作ったのかというと、食べるためだ。なぜ食べるのかというと、動物だからだ。動物はなぜ食べるのかというと、そうやってエネルギーを得るしくみだからだ。なぜそのようになっているのかというと、そのように進化したからだ。なぜそのように進化したのかというと、そのしくみが生存競争に有利だったからだ。(以下略)

今は昼食は無い。なぜ無いのかというと、私が食べたからだ。(食べる理由は、上記を参照のこと)

物事の始まりと終わりを観察するためには、物事の外側に居る必要がある。
昼食の始まりと終わりを観察できるのは、私が昼食の外側に居るからだ。

私は世界の始まりや終わりは観察できない。なぜならば、自分が世界の中にあるから。

「なぜ◯◯が無いではなく◯◯があるのか?」のような問いは、◯◯の外側に主体がある場合しか答えられない。

1年前 No.569

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

SumioBabaさん、

>>568 の後半部分について。

「無」が二重定義になっているように見えます。
(“0”が無なのか、それとも全ビット“?”が無なのか、文脈からは分かりにくい。)

1年前 No.570

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>570  Mobiusさんへ

> >>568 の後半部分について。

>「無」が二重定義になっているように見えます。

>(“0”が無なのか、それとも全ビット“?”が無なのか、文脈からは分かりにくい。)


 「全ビット“?”」が、「情報が何も無くて完全無意識である心」M0を表します。「0」と「1」は、コンピュータと同様、情報を二進法で表したものです。例えば二重スリット干渉実験で、1個の光子が左右どちらのスリットを通ったかを観測し、|左>を「0」、|右>を「1」で表す、などです。シュレディンガーの猫の生死を観測し、|生>を「0」、|死>を「1」で表す、でも良いです。どちらか観測しない場合の|不明>を「?」で表すと、「?」=「0」+「1」の関係により、|不明>=|左>+|右>、|不明>=|生>+|死>、と表現できます。より正確に規格化すれば、「?」=(1/√2)「0」+(1/√2)「1」、|不明>=(1/√2)|左>+(1/√2)|右>、|不明>=(1/√2)|生>+(1/√2)|死>、になります。

 《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、科学では解明できず、哲学でもどう答えて良いのか判らない「アポリア」だと言われています。その理由は何だと思われますか?

1年前 No.571

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>571 SumioBabaさん、

“0”も“1”も「情報あり」ですね。理解しました。

「アポリア」である理由については、もう少し考えさせて下さい。

1年前 No.572

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

SumioBabaさん、

M0(全ビット“?”)は、中味は“空(無)”でも 外側は“心”なのですよね。

中味が何もないのに、外側が心だと どうしてわかるのでしょうか?

「『要素がひとつも存在しない世界』というのは、はたして世界なのか?」と同類の疑問です。
「情報が全くない心」は、はたして心と呼べるのだろうか?

1年前 No.573

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

「アポリア」である理由は、「無限後退するから」ですか?

1年前 No.574

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>573  Mobiusさんへ

>M0(全ビット“?”)は、中味は“空(無)”でも 外側は“心”なのですよね。

>中味が何もないのに、外側が心だと どうしてわかるのでしょうか?


 心に「中味」「外側」という区別は無意味だと思います。あるいは、「中味」が何か有る場合にだけ、それが入っている「外側」(容器)のようなイメージが生じますが、「中味」が何も無いときは「外側」(容器)の方も無くなっていると思われます。「中味」の方を見られる側「客観」と呼び、「外側」(容器)の方を見る側「主観」と呼ぶと、「客観」が存在するためには「主観」が存在せねばならないし、「主観」が存在するためには「客観」が存在せねばなりません。片方だけの存在というのは、無意味なのではないでしょうか。

>「『要素がひとつも存在しない世界』というのは、はたして世界なのか?」と同類の疑問です。「情報が全くない心」は、はたして心と呼べるのだろうか?


 「空」M0を「心」と呼ぶかどうかは、どちらでも良いです。「空」M0と「色」M1、M2、M3、…を併せたものを「心」と呼ぶ、でも良いし。「色」M1、M2、M3、…だけを「心」と呼び、「空」M0は「心」と呼ばない、でも良いし。前者だと、「空」「色」「心」が三者三様で異なり、使い分けが便利になります。後者だと「色」=「心」となり、3つの言葉を使いながらも、実は2種類しかないことになり、ちょっと不便になります。
 1、2、3、…は「数」と呼びますが、0を「数」と呼ぶべきかどうか、とよく似た状況です。どちらでも良いし、どちらも一長一短なのですが、含めておいた方がいくらか便利なようです。


>>574  Mobiusさんへ

>「アポリア」である理由は、「無限後退するから」ですか?


 そうだと思います。論理的必然性の無いものを、経験科学的真理だけで説明しようとすると、無限後退に陥ります。経験科学は、「Aと¬Aのどちらが真か?」だけなら実験・観察によって答えられる場合が有りますが、Aと¬Aの片方だけが選ばれる論理的必然性は無いので、《謎A》=「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」には答えられず、「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます(ただし、Aはトートロジーではないとする)。別の経験科学的真理Bを用い、「それはBだからだ」と答えても、《謎B》=「なぜ¬Bではなく、Bなのか?」が残ってしまい、C、D、E、…を使い続けても無限後退することになります。いかがでしょうか。

1年前 No.575

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>563 えぴめてうすさん、横レス失礼します。

>【公理】Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している


公理Qは、トートロジーであり、恒に真なので、以下のメタ問いは生じないのではないでしょうか?

>メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」

1年前 No.576

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>576  Mobiusさんへ

> >>563 えぴめてうすさん、横レス失礼します。

>>【公理】Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している

>公理Qは、トートロジーであり、恒に真なので、以下のメタ問いは生じないのではないでしょうか?

>メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」


 その通りです。トートロジーで恒真な命題を【公理】に定める、というのがどうかしていますよね。【公理】に定めなくても恒真なのですから。【公理】に定めるのであれば、トートロジーでない命題を定めるべきです。

 ちなみに、えぴめてうすさんのQは、SumioBabaが示したQではありません。すでに別物ですり替えてしまってあるので注意して下さい。

 SumioBabaの説明はこうでした。 >>508

( >>508, SumioBabaの説明)
 P=「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」と考えれば、ダブル・トートロジーの実現により、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は解消されます。その代わり、「なぜ「Pでない」ではなく「Pである」の方なのか?」=《メタ謎P》が発生してしまいます。
 Q=「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」と考えると、その論理的必然性は存在しないので、経験科学的真理として黙って受け入れるしか有りません。「理由なんか知らないよ」「なぜかそうだからそうなのさ」「神の気まぐれとしか言いようがないね」「神はなぜか最後まで謎が残るように世界を作ったのだ」が最終的な答になり、《謎》は解消しません。さらに、「なぜ「Qでない」ではなく「Qである」の方なのか?」=《メタ謎Q》も発生してしまいます。
 「多世界解釈」(合)は、P+Qという重ね合わせの視点に立ちます。正確に書けばaP+bQ(aとbは不明)であり、Pかもしれない、Qかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、です。この場合、Pを選べば《謎》は解消し、Qを選べば《謎》は解消しません。つまり、この視点だと、「《謎》は解消する」を選べば「《謎》は解消する」が選ばれる、「《謎》は解消しない」を選べば「《謎》は解消しない」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立しているだけであり、《メタ謎P》と《メタ謎Q》も解消します。と同時に、《謎》が解消する理由、解消しない理由も解っているので、《謎》の答も得られたことになります。
(以上、 >>508 )

 【公理】あるいは【前提】として定めるのであれば、SumioBabaのPやQを定めるべきです。PもQもトートロジーではないので、定めるとメタ謎が生じます。P+Qの視点に立つときに初めて、メタ謎も解消されます。

1年前 No.577

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

「『「有る』と『無い』の重ね合わせ」というのが よく理解できません。
「有る」と「無い」を重ねたものは、「有る」ではないかと思います。

1年前 No.578

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>578  Mobiusさんへ

>「『「有る』と『無い』の重ね合わせ」というのが よく理解できません。

>「有る」と「無い」を重ねたものは、「有る」ではないかと思います。


 例えば量子力学では、1個の光子が、確率1/2で「有る」と確率1/2で「無い」とが重ね合わせられた、ψ=(1/√2)「有る」+(1/√2)「無い」、という状態を作れます。「有る」と「無い」のどちらなのかを観測すると、確率1/2ずつで「有る」または「無い」の片方だけに確定します。つまりこういう実験を100回繰り返すと、約50回は「有る」と判明し、約50回は「無い」と判明します。観測しなければ、ψ=(1/√2)「有る」+(1/√2)「無い」、という重ね合わせの状態のままであり、これは「有る」とも「無い」とも断定できない状態です。

1年前 No.579

@くん @akitagawa ★WiiU=fmANEEbXwW

>>0

また貴方か・・・・・・。
存在性って言うのは凄く、証明し難いものでもある。だけれど、それと同時に証明しやすいものでもある。
「○○にとっては存在して」「○○にとっては存在する」
これは理論観と感情論によって凄く変わってくる難しいものだ。例えば、ゲーム、最近だとVRッって言うのもあるよね?。あれは仮想空間だと定義して、その仮想空間を現実世界だと勘違いしている人がいたとしよう、あら不思議、「存在するではありませんか!!!」
そして、そうじゃない人にとっては「存在しないではないですか!!!」っと。分かりにくいならもう少し分かりやすく書きます。
さて、私達の今いる世界は本当に存在するのでしょうか?。理論、倫理、思想で定義しようとそれは「そうであってそうではない」と言う答えか間違いに必ず辿り着く。
追求するのにはもう少し知るべきものがある。私達が存在すると勘違いしているのか?、それとも定義されているのか?、それともそう認識しているのか?。
貴方はどう思いますか?。

>>た さん


その定義で求めるべき答えが変わります。

1年前 No.580

@くん @akitagawa ★WiiU=fmANEEbXwW

あ、た・・・じゃない、ま・・・だ。
まあもうソフィーさんで良いや(適当)。

1年前 No.581

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

Mobiusさん

 インフルエンザB型に罹ったがゆえにレスできました。
 高熱が出なくてもインフルなんですね。こんなんインフルだったら、これまで何度も病院に行かずに適当に治したことありますけど、おもいっきり感染拡大の原因者となっていたんでしょうか。

 すみません。それはさておき、

>>576

>>【公理】Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している

>公理Qは、トートロジーであり、恒に真なので、以下のメタ問いは生じないのではないでしょうか?

>>メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」


 「Qでない」には、
  「何かがある」及び「何もない」の両方が実現
  「何かがある」のみが実現
  「何もない」のみが実現
 があり得ますので、そうではなく、なぜ、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現しているのかという意味と理解しています。

1年前 No.582

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>560 のつづき

「何もない」について

「検討の枠組み」 >>563 で一部修正
《ケース1 常識的に考えた場合》
【公理】
 Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している
    ↓
【問い】
 世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
【答え】
 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。

 この問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、「何もない」と「何かがある」のどちらもありうるという認識が前提になっているように思います。

 しかし、「何かがある」と「何もない」とを比べると、「何もない」の方は、人間が観測したり、経験したりすることが一切できないことから、「何もない」への実感は持てませんし、その性質上、「何もない」ということが積極的に肯定される実質を備えているとは思われません。
 科学的にも、「何もない」という事態が証明されていないと認識しています。

 さらに、「何かがある」とか「何もない」といった概念は、他の事象や命題から根拠を論理的に導出することはできませんし、論理的に肯定も否定もできないのではないかと思います。

 「何もない」がないということは実証できませんが、それ以上に「何もない」があることも実証できないように思われます。これらの理由から、「何もない」を「何かがある」と同等に扱ってよいのかという疑問が生じます。「何もない」ことが存在しないことを証明するのは、「悪魔の証明^2」のような感じです。今後、「何もない」もあるのだと判明することがあれば、「何かがある」と同じレベルで扱うことでよいのではないかと思います。

 要は、「何もない」とは、人間が観測したり、経験したりすることが一切できず、論理的にも科学的にも否定も肯定もできない、真偽不明の概念だと考えられます。

 なお、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いが発っせられるのは、「何かがあ」って、それを認識する人間がいる場合のみですが、人間が主観的な見方しかできないとの考えは維持しつつ、当面は、いわゆる「独我論」(この「ある」世界全体が、実在の世界ではなく、私の生み出した世界とし、他者の存在をも認めない考え)には、立ち入らないことにします。

1年前 No.583

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>583 のつづき

 そもそも「何もない」を想定する根拠は何か。単なる空想の産物なのか。「ある」も疑いうるものですが、「何もない」はもっと疑いうる概念であり、両者を同等に扱うことを疑問に思っています。

 ウィキペディアの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」のページには、この問題に関する哲学者の考えが紹介されています。

アンリ・ベルグソン
「…多くの人は、まず無があり、そこに何らかの存在物が付加され、そして有となる、といった考え方をする。つまり「無 + 何か → 存在」といった考え方をする。しかし無に対するこうした考え方は間違っている、とベルクソンは言う。無の観念が得られる過程は、実際には、まず頭の中で何らかの存在物が思い描かれ、そしてそれに対して否定、すなわち消し去るという作業が行われ、そしてそれによって無の観念が得られる、とする。つまり無の観念は「存在 + 否定 → 無」という形で得られているものであり、無は存在よりもより複雑な複合的な概念だとした。すなわち無は「非-存在」とでも表現されるべきものであり、より基礎的で単純なのは存在の観念の方であるとした。…」

 (私見)ベルグソンの人間の思考における「無」の観念については、同意できるものです。

「…そしてベルクソンは、何かが存在するということは、論理学における同一律(どんなものもそれ自身と等しい、3=3, -15=-15 などを一般化した規則)「A=A」などと同じく、他の何ものにも依存せず、ただそれ自身によって成り立っていると言ってよいような自明なことだろうとし、存在することは、それに対する何らかの理由づけや根拠を提示する必要のない事である、とした。…」

 (私見)世界の存在を、「存在することは、それに対する何らかの理由づけや根拠を提示する必要のない事である」と考えることについては、ほぼ同意しますが、少しニュアンスの違う考えです。

 同じくウィキペディアの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」のページにある「解答の候補」には、「無」に関するものが紹介されています。

必然的存在者
「必然的存在者(英文:Necessary existence)による論証とは、少なくとも何か一つ「存在しなければならないもの」があると言うことで、「無が不可能であること」を示そうという論証である。つまり、必ず存在するもの(必然的存在者)がある、よって無は不可能、つまり「何かがある」のは必然、こういう形が目指される。この形で最もよく議論されてきたのは神である。そして次に数学的対象もしくは数学的プラトン世界である。」

 (私見)私は、「何かがある」のが必然であることを、積極的に論証するのも困難なことだと思っています。

無は不可能である「形而上学的ニヒリズム」
「この問いは無と有を対比させた上で「無でもよかったはずなのに、なぜ有なのか?」と問う形になっている。しかしそもそも無は本当に可能なのか?という点ははっきりせず、この点はしばしば議論の的となる。ここで「無は可能である」と考える立場は形而上学的ニヒリズム(Metaphysical Nihilism)と呼ばれるが、この形而上学的ニヒリズムの立場を否定する、つまり「そもそも無は不可能である」、「何も無いような状態など実現不可能である」と言うことで何かがあることの必然性を主張する方法がある。こうした主張を
した人物としてデイヴィッド・アームストロング、デイヴィッド・ルイスなどがいる[59]。」

 (私見)上記と同様、「無は不可能である」ことを、積極的に論証するのは困難と思います。

ただ在る「ナマの事実」
「世界が存在することは、それに対する説明や根拠がないとする立場。世界が存在することは「根源的事実」「ナマの事実」(英文:Brute fact)であると考える。「あらゆる事には理由、説明、根拠といったものがあるはずだ」という仮定は充足理由律と言われるが、この立場からは充足理由律は実際には成立していないものとされる。つまり私達の知識が足りないから、または私達の科学や技術の状態が発展途上にある為にまだ分からない、ということではなく、また原理的に知りえないよう隠されているから分からないということでもなく、そもそも理由や根拠にあたるものが「ない」ような事実があるのだとする。そうした充足理由律に対する反例のひとつ、つまり理由や説明と言えるものがない一つの顕著な事実の例が「世界が存在すること」であるとする。」

 (私見)この「私達の知識が足りないから、または私達の科学や技術の状態が発展途上にある為にまだ分からない」、「原理的に知りえないよう隠されているから分からない」という可能性は否定しません。
 また、「そもそも理由や根拠にあたるものが「ない」ような事実がある」可能性にも同意します。逆に言うと、すべての問いに必ず人間が理解できる答えがあるというのは、実証されていないという認識を持っています。

不充足理由律
「充足理由律に対する反例としてよく挙げられるもう一つの例は、一般的な解釈での量子力学における波動関数の収縮である。量子力学は統計的に非常に精緻な予測を行うが、しかし「具体的なある特定の一回の試行」に関して「なぜあの状態ではなく、この状態に確定したのか」といった問いには、答えられるような理由(原因や内部メカニズムにあたるもの)は一般にないと考えられている。このことは不充足理由律(Principle of Insufficient Reason)、または無差別原理(Principle of indifference)と呼ぶ。[62]。つまり世界が存在することに理由はなく、「世界はただ在る」。20世紀のイギリスの哲学者バートランド・ラッセルはこう述べている。「宇宙はただそこにある、そしてそれが全てだ」[63]
 この立場を取ったときに現れるひとつの疑問は「なぜ世界が存在することに理由はないのか?」という問いである。この問いに再び「理由がない」と答えた場合、さらに「なぜ『世界が存在することに理由がない』ということに理由がないのか?」という次の問いが発生する。これは無限後退の状況を生むが、ロバート・ノージックはこの階層性を持った問いの状況について、ある段階で解答が変化する可能性なども含めて、分析を行っている。」

 (私見)前半は、なぜ、世界は、このようにあるのかを問題にしていると思いますが、後半の「世界が存在すること」に対するメタ問いが生じる問題については、ノージックの分析は知りませんが、「何もない」を選択肢として採用していることが問題なのではないかと思います。

1年前 No.584

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> えぴめてうすさんへ


>>563
> 《ケース1 常識的に考えた場合》

>【公理】

> Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している


>>582
> 「Qでない」には、

>  「何かがある」及び「何もない」の両方が実現

>  「何かがある」のみが実現

>  「何もない」のみが実現

> があり得ますので、そうではなく、なぜ、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現しているのかという意味と理解しています。


 「Qでない」に3つの内容が有ると書かれていますが、どれも違うように思われます。A=「何かがある」、¬A=「何もない」とします。
    「何かがある」及び「何もない」の両方が実現
 《ケース1 常識的に考えた場合》ですから、これはA∧¬Aという形の矛盾であって起こり得ません。多世界解釈なら、ある世界ではAが起こり、別の世界では¬Aが起こり、しかも矛盾は無い、ということが考えられますが、《ケース1 常識的に考えた場合》ですので、両方実現すると矛盾になってしまい、有り得ません。
    「何かがある」のみが実現
    「何もない」のみが実現
 これら2つは「Qでない」ではなく「Qである」の方に含まれています。

 つまり、この場合の可能性はA=「何かがある」と¬A=「何もない」の2つであり、Q=A∨¬Aは排中律そのものですから、「Qである」の方にすべての可能性が網羅され、「Qでない」の方はφ(空集合)です。従って、必然的に「Qである」が起きるのであり、「Qでない」は起こり得ません。これが、「Qはトートロジーである」という意味です。論理的必然性で「Qである」だけが起こり、「Qでない」は起こり得ないので、「なぜ「Qでない」ではなく「Qである」の方なのか?」というメタ謎も発生しません。

1年前 No.585

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>585

 ご指摘ありがとうございます。

 公理をQ=「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」と置くと、
【答え】
 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。

 けれど、

 公理をQ=「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」と私が置いているものだから、常識的に考えた場合においては、それがトートロジーなので、メタ問いも生じないということですね。

とすれば、下記の【答え】を修正しなければならないように思いますが、

******************************************************************************

「検討の枠組み」 >>563 で一部修正
《ケース1 常識的に考えた場合》
【公理】
 Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している
    ↓
【問い】
 世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
×【答え】
 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。
   ↓
?【答え】
 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消しないが、公理は、トートロジーなので、メタ問いは生じない。

******************************************************************************

 そのまえに、【公理】「Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」についてですが、物事を考える場合は、何らかの認識を一切持たないとすれば、問いも生じ得ない(理解できない)のだと思っています。
 例えば、世界があるでもなく、ないでもない、どちらかでもなく、多世界解釈でもない、真偽は別として、そのような世界の存在に関する何らの認識も持たなければ、問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」自体が意味不明となります。

 常識的に考えた場合、問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の前提には、「Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」という認識があって、「何もない」でもよかったのに、なぜ「何かがある」の方なのかという意味の問いがなされていると思っています。
 Q=「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」を公理として置いた場合、「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を問うた瞬間に、公理がそうなっているからだということになり、問そのものが無意味に思えます。

 公理という言葉にはこだわっていませんが、世界の存在(何かがある、何もない)についての思考の大前提は、常識的に考えた場合、「Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」ではないでしょうか。
 そのうえで、Q=「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」という認識があり、その理由を問うのが、問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だと思っています。

 また、「Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」でないこととして、常識的に考えた場合なのに、多世界解釈の選択肢を混ぜるのは確かにおかしいと思いましたが、常識的に考えた場合でも、論理的には、両方が実現していると考えることはできるように思います。
 そのうえで、「Qでない」内容としての両方の実現については、常識的に考えた場合には矛盾するので、メタ問いの意味がないとすればよいのではと思います。
 ただ、常識的に考えた場合でも、同様、論理的には「何かがある」のみ、あるいは「何もない」のみが実現していると考え得るように思われますが、いかがでしょうか。

1年前 No.586

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_7sc

>「無でもよかったはずなのに、なぜ有なのか?」<

いや〜私も自分とは何か、存在とは何か、ぐらいまでなら、すこし哲学を勉強してみたいと思っているのです。

有と無 これは相対的 リンゴがある、食べたら無い、しかし無くなったリンゴというイメージ、思いは残っている。つまりリンゴは無いが、思いは在る。これは「ゆえに我在り」のことと同じ。では在るの対義語は・・・ない。在るには対がない、対が絶えている、つまり在るは絶対的存在、つまり神?。
友人が遠くにいて、連絡は取っていないが、自分の思いとしては友は在る。友は死んでいるかもしれないが、そんなことは知らないから、友は在ると思っている。死んだ人も思い出ががある限り、そこに思いとして在る。つまり死んでいようが、生きていようが思いがあればそこに在る。自分の命がある限りそこに在る、つまり存在していると実感できる。

この世界にはいろんな色がある。なくてもよかったのに在る。モノトーンでもよかったのに、色とりどりな色が在る。何故モノトーンではいけなかったのか???・・・・そんなこといくら考えたって分かるはずね〜だろうが。

東洋哲学では形而上のことはあまり考えない、釈迦の毒矢の例えのように。
「毒矢を射られた王様が“毒矢を放ったのは誰か探してこい”と命令し、また“毒矢の毒の成分を調べろ”と命令する。そして、それらが終わるまで毒矢は抜いてはならんといった」
もしこんな三文芝居を見たら観客はきっとこう言うであろう「王様はバカに違いない、早く毒矢を抜いて治療しないと死んでしまうではないか。犯人や毒の成分など知って何になるのか、まず毒矢を抜いて治療する方が先ではないか、まずやらねばならないことをやろうとしない王様はバカの王様だ」ってねww

1年前 No.587

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

shinwoodさん

みんなが毒矢を作らないように考えなければ王様ではありません・・

1年前 No.588

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>582 えぴめてうすさん、レスありがとうございます。

私は、「ある」=「¬無い」、「無い」=「¬ある」を前提に考えていたので、「『ある』と『無い』の両方が同時に実現」というケースは考えていませんでした。

ちなみに、「なぜ何も無いではなく、何かがあるのか?」という質問文における「ある」と「無い」は、「ある」=「¬無い」、「無い」=「¬ある」の関係なので、「『ある』と『無い』の両方が同時に実現」というケースは考慮すべきでないと思います。でないと質問文の意味が変わってしまいます。

1年前 No.589

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>579 SumioBabaさん、

それは、「ある位置における存在確率が1にならない」というだけの話で、位置が不確定ではあるものの存在していることには変わりないのではないでしょうか?

1年前 No.590

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

Mobiusさん

>>589

>私は、「ある」=「¬無い」、「無い」=「¬ある」を前提に考えていたので、「『ある』と『無い』の両方が同時に実現」というケースは考えていませんでした。

>ちなみに、「なぜ何も無いではなく、何かがあるのか?」という質問文における「ある」と「無い」は、「ある」=「¬無い」、「無い」=「¬ある」の関係なので、「『ある』と『無い』の両方が同時に実現」というケースは考慮すべきでないと思います。でないと質問文の意味が変わってしまいます。


 私は、《ケース1 常識的に考えた場合》と《ケース2 多世界解釈を導入した場合》に分けて検討しようとしています。ケース2は、これからです。
 SumioBabaさんからもご指摘いただきましたように、「Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」でないこととして、常識的に考えた場合なのに、多世界解釈の選択肢を混ぜるのは確かにおかしいと思いました。
 ただ、常識的に考えた場合でも、論理的には、両方が実現していると考えることはできるように思います。そのうえで、「Qでない」内容としての両方の実現については、常識的に考えた場合には矛盾するので、メタ問いの意味がないとすればよいのではと思います。ただ、これは後付の理屈でして、無理があるなら撤回します。

1年前 No.591

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>586  えぴめてうすさんへ

>******************************************************************************


>「検討の枠組み」 >>563 で一部修正

>《ケース1 常識的に考えた場合》

>【公理】

> Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している

>    ↓

>【問い】

> 世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>    ↓

>×【答え】

> 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」も生じる。

>    ↓

>?【答え】

> 世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消しないが、公理は、トートロジーなので、メタ問いは生じない。


>******************************************************************************


 このQはトートロジーだから、敢えて書かなくても自由に使って良いけれど、はっきりさせるために書きたいのであれば、書いても別に問題は有りません。でも、それだけだと、何も世界を限定していないではないですか。「世界を限定したことについて」と書いてありますが、どう限定したというのでしょう?
 SumioBabaのQ=「「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない」を取り入れたときに初めて、「何かがある」と「何もない」のうち「何かがある」の方だけに世界を限定したことになります。
 「常識的に考えた場合には謎が解消しない」ということを言いたいのであれば、例えばえぴめてうすさんのQをRに変えてそのまま【公理】とし、SumioBabaのQを【前提】として取り入れれば良いのではないでしょうか。世界を限定しているのは【公理】ではなく【前提】の方、ということになります。

1年前 No.592

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>590  Mobiusさんへ

>それは、「ある位置における存在確率が1にならない」というだけの話で、位置が不確定ではあるものの存在していることには変わりないのではないでしょうか?


 Mobiusさんが考えておられるのは、例えば箱の中に1個の光子が存在することだけは確率1で確定しているけれども、位置が不確定になっているので、左半分に存在する|左>である確率も1/2、右半分に存在する|右>である確率も1/2であり、どちらに有るのかが確定していない、つまり、ψ=(1/√2)|左>+(1/√2)|右>といった状況です。
 SumioBabaが挙げているのは、箱の中に確実に1個の光子が「有る」状態と、箱の中に確実に1個の光子が「無い」状態との重ね合わせ、ψ=(1/√2)「有る」+(1/√2)「無い」です。量子力学では、存在する素粒子の個数も観測していない時は定まらず、0個の状態|0>、1個の状態|1>、2個の状態|2>、3個の状態|3>、…が、ψ=a0|0>+a1|1>+a2|2>+a3|3>+…という重ね合わせになり得る、という話です。

1年前 No.593

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>587  shinwoodさんへ

>この世界にはいろんな色がある。なくてもよかったのに在る。モノトーンでもよかったのに、色とりどりな色が在る。何故モノトーンではいけなかったのか???・・・・そんなこといくら考えたって分かるはずね〜だろうが。


 「色がある」と「色がない」のうち、なぜかshinwoodさんは「色がある」を体験しています。そして、「実現しているのは「色がある」の方だけであって「色がない」は実現していない」と思い込んでいます。その上で「なぜ「色がない」ではなく「色がある」なのか?」と問いますが、「色がある」の方だけが選ばれて実現せねばならない論理的必然性は有りません。それゆえ、「そんなこといくら考えたって分かるはずね〜だろうが。」になる訳です。

1年前 No.594

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>584  えぴめてうすさんへ

>不充足理由律

>「充足理由律に対する反例としてよく挙げられるもう一つの例は、一般的な解釈での量子力学における波動関数の収縮である。量子力学は統計的に非常に精緻な予測を行うが、しかし「具体的なある特定の一回の試行」に関して「なぜあの状態ではなく、この状態に確定したのか」といった問いには、答えられるような理由(原因や内部メカニズムにあたるもの)は一般にないと考えられている。このことは不充足理由律(Principle of Insufficient Reason)、または無差別原理(Principle of indifference)と呼ぶ。


 これを克服するために考えられたのが「多世界解釈」です。例えば二重スリット実験で、1個の光子を確率1/2ずつで左右両方のスリットを通るようにし、どちらを通ったか観測したら「右」ではなく「左」だったとします。多世界解釈を採らないと、《謎》=「なぜ「右」は実現せず「左」だけが実現したのか?」に答は無く、「なぜかそうだからそうなのさ」と諦めるしか有りません。

 そこで多世界解釈は、「左」だった世界と「右」だった世界の両方が実現したのであり、線形の重ね合わせのまま存続し時間発展している、と考えます。すると、《謎》は事実誤認だったこととなって消滅します。両方実現しているのですから、片方に注目するためには、そちらを選ぶ必要が生じます。「左」を選べば「左」が選ばれる、「右」を選べば「右」が選ばれる、どちらもただのトートロジーだったことになります。

 「いや、自分は「左」を選んでなどいない。なぜか端的に「左」だったのだ。」と主張する人も居ます(永井均氏が代表例)。この場合、答はこうです。→「もし片方を選ばないのであれば、こちらの世界で「左」を知覚した貴方と、あちらの世界で「右」を知覚した貴方と、両方を併せたものが真の貴方です。どちらの貴方も、片方だけしか知覚していないと思い込んでいますが、それは勘違いです。真の貴方は両方を平等に体験しているのであって、片方だけが選ばれてなどいません。」←こういう説明を「多世界解釈」のヴァリエーションの1つとして「裸の解釈」と呼ぶようです。(『量子力学の哲学』、森田邦久著、講談社現代新書、2011)。

1年前 No.595

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>592

 ありがとうございます。

> このQはトートロジーだから、敢えて書かなくても自由に使って良いけれど、はっきりさせるために書きたいのであれば、書いても別に問題は有りません。でも、それだけだと、何も世界を限定していないではないですか。「世界を限定したことについて」と書いてありますが、どう限定したというのでしょう?


 「世界を限定したことについて」は、 >>513 から来ています。
 私は、「ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現している」とどちらかに限定して考えることと、問い「世界は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と「何かがある」方に限定していることを意味しているのかと思っていました。

>>513
>>○そこで、Pかもしれない、Qかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、というPとQの重ね合わせを「多世界解釈」(合)=《多世界解釈を導入した場合》としてとらえたとき、「《謎》は解消する」を選べば「《謎》は解消する」が選ばれ、「《謎》は解消しない」を選べば「《謎》は解消しない」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立し、《メタ謎P》と《メタ謎Q》も解消する。

>>○これらのことから、

>>《謎》が解消する理由……すべての「○○○である」と「○○○でない」の両方が同時に実現していると考えることで、ダブル・トートロジーが実現し、この《問い》そのものが成立しなくなるため。

>>《謎》が解消しない理由…ある「○○○である」又は「○○○でない」のどちらかが実現していると考えることで、世界を限定してとらえることになり、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため。

>>ということが解かり、それが《謎》の答になる。

>>という理解でよいでしょうか。


>はい、良いと思います。



> SumioBabaのQ=「「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない」を取り入れたときに初めて、「何かがある」と「何もない」のうち「何かがある」の方だけに世界を限定したことになります。

>「常識的に考えた場合には謎が解消しない」ということを言いたいのであれば、例えばえぴめてうすさんのQをRに変えてそのまま【公理】とし、SumioBabaのQを【前提】として取り入れれば良いのではないでしょうか。世界を限定しているのは【公理】ではなく【前提】の方、ということになります。


 ご教示いただいたのは、こんな感じでしょうか。

《ケース1 常識的に考えた場合》
【公理】
 R=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している
    ↓
【前提】
 Q=世界は、「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない
    ↓
【問い】
 世界は、なぜ「何もない」のではなく、「何かがある」のか?
    ↓
【答え】
 前提で、世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Rでない」ではなく、「Rである」のか」も生じる。

 Rについてですが、

>>577
> その通りです。トートロジーで恒真な命題を【公理】に定める、というのがどうかしていますよね。【公理】に定めなくても恒真なのですから。【公理】に定めるのであれば、トートロジーでない命題を定めるべきです。


 「トートロジーで恒真な命題を【公理】に定める、というのがどうかしてい」るというお話ははじめてお聞きました。
 別に【公理】という言葉にこだわってはいませんが、これまで一貫してトートロジーである「世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」を公理に置いて考えてきました。
 でも結論的には、
> このQはトートロジーだから、敢えて書かなくても自由に使って良いけれど、はっきりさせるために書きたいのであれば、書いても別に問題は有りません。

 でよろしいですね。

 また、メタ問いですが、
>>586
 「Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」でないこととして、常識的に考えた場合なのに、多世界解釈の選択肢を混ぜるのは確かにおかしいと思いましたが、常識的に考えた場合でも、論理的には、両方が実現していると考えることはできるように思います。
 そのうえで、「Qでない」内容としての両方の実現については、常識的に考えた場合には矛盾するので、メタ問いの意味がないとすればよいのではと思います。
 ただ、常識的に考えた場合でも、同様、論理的には「何かがある」のみ、あるいは「何もない」のみが実現していると考え得るように思われますが、いかがでしょうか。

1年前 No.596

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>593 SumioBabaさん、

>SumioBabaが挙げているのは、箱の中に確実に1個の光子が「有る」状態と、箱の中に確実に1個の光子が「無い」状態との重ね合わせ、ψ=(1/√2)「有る」+(1/√2)「無い」です。量子力学では、存在する素粒子の個数も観測していない時は定まらず、0個の状態|0>、1個の状態|1>、2個の状態|2>、3個の状態|3>、…が、ψ=a0|0>+a1|1>+a2|2>+a3|3>+…という重ね合わせになり得る、という話です。


「空間を限定して その中に入っているか否か」という話ではなく、「この世に存在するか否か」という話をしています。よくわかっていないので教えて欲しいのですが、全空間内の存在確率の総和が1にならない粒子って あるのでしょうか?

1年前 No.597

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>596  えぴめてうすさんへ

> ご教示いただいたのは、こんな感じでしょうか。


>《ケース1 常識的に考えた場合》

>【公理】

> R=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している

>    ↓

>【前提】

> Q=世界は、「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない

>    ↓

>【問い】

> 世界は、なぜ「何もない」のではなく、「何かがある」のか?

>    ↓

>【答え】

> 前提で、世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Rでない」ではなく、「Rである」のか」も生じる。


 Rはトートロジーなので、メタ問いは生じません。メタ問いが生じるのはトートロジーでないQの方です。メタ問いは「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」です。

> 「Q=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している」でないこととして、常識的に考えた場合なのに、多世界解釈の選択肢を混ぜるのは確かにおかしいと思いましたが、常識的に考えた場合でも、論理的には、両方が実現していると考えることはできるように思います。

> そのうえで、「Qでない」内容としての両方の実現については、常識的に考えた場合には矛盾するので、メタ問いの意味がないとすればよいのではと思います。


 前半では「常識的に考えた場合でも、論理的には、両方が実現していると考えることはできるように思います」と言い、後半では「常識的に考えた場合には矛盾する」と言い、結局は矛盾だと判断するのですね。

1年前 No.598

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>597  Mobiusさんへ

>>SumioBabaが挙げているのは、箱の中に確実に1個の光子が「有る」状態と、箱の中に確実に1個の光子が「無い」状態との重ね合わせ、ψ=(1/√2)「有る」+(1/√2)「無い」です。量子力学では、存在する素粒子の個数も観測していない時は定まらず、0個の状態|0>、1個の状態|1>、2個の状態|2>、3個の状態|3>、…が、ψ=a0|0>+a1|1>+a2|2>+a3|3>+…という重ね合わせになり得る、という話です。


>「空間を限定して その中に入っているか否か」という話ではなく、「この世に存在するか否か」という話をしています。よくわかっていないので教えて欲しいのですが、全空間内の存在確率の総和が1にならない粒子って あるのでしょうか?


 有ります。上の例ψ=(1/√2)「有る」+(1/√2)「無い」だと、この1個の光子は、箱の中に存在する確率が1/2、箱の外に存在する確率は0なので、全空間内の存在確率の総和は1/2です。

 全空間内のどこかに存在する確率が1だと判明している粒子は、全空間内の存在確率の総和は1です。全空間内のどこかに存在する確率が0だと判明している粒子は、全空間内の存在確率の総和は0です。全空間内のどこかに存在する確率が1/2だと判明している粒子は、全空間内の存在確率の総和は1/2です。全空間内のどこかに存在する確率がP(0≦P≦1)だと判明している粒子は、全空間内の存在確率の総和はPです。全空間内のどこかに存在する確率が不明な粒子は、全空間内の存在確率の総和も不明です。

 存在確率が0より大きく1より小さい粒子を「仮想粒子」と呼ぶことが有ります。「有る」のか「無い」のかを観測していないため、存在確率が0でも1でもなく、その中間、つまり、ψ=a「有る」+b「無い」(a≠0、b≠0、|a|^2+|b|^2=1)という重ね合わせ状態です。仮に存在確率が10%でも、そんな「仮想粒子」が300個集まれば、存在確率1の「実粒子」が30個有るのと同じくらいの影響力を持てます。電荷を持つ2つの物体間に働くクーロン力は、「仮想粒子」としての光子を交換することで生じている、と見なされます。

1年前 No.599

★dXuVkWAJnJ_kuu

>>598  馬場さんへ

> >《ケース1 常識的に考えた場合》

> >【公理】

> > R=世界は、「何かがある」又は「何もない」のどちらかが実現している

> >    ↓

> >【前提】

> > Q=世界は、「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない

> >    ↓

> >【問い】

> > 世界は、なぜ「何もない」のではなく、「何かがある」のか?

> >    ↓

> >【答え】

> > 前提で、世界を限定したことについて、論理的必然性が存在せず、経験科学的真理にとどまるため、謎は解消せず、メタ問い「なぜ「Rでない」ではなく、「Rである」のか」も生じる。


>  Rはトートロジーなので、メタ問いは生じません。メタ問いが生じるのはトートロジーでないQの方です。メタ問いは「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」です。


そうですよね。Rはトートロジーですよね。ですので、メタの問いが発生して、アポリアと表現されるのは、Qの方ですよね。

R=高きより低きに水は流れる。(低きより高きに水は流れない)

Q=では、なぜこの世界は、水は高きより低きに流れる世界なのか?

Rは、物理法則等で答えられますね。しかしQには、答えられません。

> メタ問い「なぜ「Rでない」ではなく、「Rである」のか」も生じる。


ですから、上記ではメタ問いは発生しません。発生するのは、「なぜ「Qでない」ではなく、「Qである」のか」・・・こちらがメタ問いですね。

ご自身で理解できていない所を、理解されていないのですかね。

1年前 No.600


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