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存在を問う

 ( 哲学掲示板 )
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★Gc8HjmXH4j_BiB

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる

4年前 No.0
メモ2019/11/06 20:40 : 優鬼★uJcaHEY0RF_g5X

・「真であるか、または偽である」を「真かもしれないし、偽かもしれない」と、可能性があるように表現するミスリード

・真理値を0か1のどちらでもよいとすることで、命題を肯定系でも否定形でも表現できる作為性

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SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    全知全能の「神」は否定する方に立証責任が有る

 我々人間は、様々な限定を受けた存在です。我々が住む世界は、無矛盾な論理法則・物理法則に「縛られない」ではなく「縛られる」の方です。物理法則・物理定数もいろいろ考えられるのに、特定の物理法則・物理定数に限定されています。我々の世界の地理や歴史も、様々に考えられる中の特定の1つだけに限定されています。殆どの人はそれが当たり前と感じてしまい、逆に「全知全能の神が存在する」という主張の方が荒唐無稽な仮説であり、それを正しいと主張するためには証明が必要だと感じているはずです。しかし、実は全く逆です。

 全知全能の「神」は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している、です。「□□□」=「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」と置いた場合も、「□□□である」と「□□□でない」の両方を実現しています。それを、a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbは不明)と表現します。この中に、「○○○である」「○○○でない」「□□□である」「□□□でない」の4つがすべて含まれています。a「○○○である」+b「○○○でない」は、「○○○である」か「○○○でない」かについて、考えられる可能性をすべて含んでいるので、譬えると「サイコロの目は1,2,3,4,5,6のどれかが出る」と同様、絶対に外れることは無いという意味で、恒真(トートロジー)であり、証明不要の絶対的真理になります(もちろん、人間が住む「無矛盾な世界」において)。つまり、全知全能の「神」を肯定する場合は、証明不要のトートロジーです。

 逆にa「○○○である」+b「○○○でない」を否定する方は、真理の限定をすることになります。例えば「サイコロの目は3以下が出るのであり4以上は出ない」とか「サイコロの目は偶数が出るのであり奇数は出ない」のように。従ってこちらの方が、なぜそのように真理を限定できるのか、証明の必要が生じます。全知全能の「神」を否定し、すべての可能性のうち実現されているのはその一部だと主張する方が、その立証責任を負うのです。

 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎の場合も同様です。自分は確かに、自分の住む世界W1が「ない」ではなく「ある」の方だと認識します。しかしW1は、確率1で「ある」だけが実現したのか、それとも本当は確率Pで「ある」と確率1−Pで「ない」の両方が実現したのか、実証も反証もできません。だからここでも、a「ある」+b「ない」(aとbは不明)と考えれば、証明不要のトートロジーになります。そして、「ある」だけが実現し「ない」は実現しなかったのだと真理を限定してしまうと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎に答が無くなってしまいます。「ある」と「ない」の両方が実現し、「ある」の視点に立てば「ある」、「ない」の視点に立てば「ない」、というダブル・トートロジーが成立しているだけだ、と考えれば、この謎は消滅します。

      まとめ

 全知全能の「神」は、肯定する場合には何一つ真理を限定しないため証明不要のトートロジーであり、否定する場合に真理を限定してしまうので立証責任が生じる。逆ではないので要注意。

1年前 No.401

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>400  時さんへ

 釈迦が悟りを開き、「この教えで人々を苦しみから解放してあげたい」と願って活動したのも、一種の「煩悩」ではないのでしょうか?

1年前 No.402

★Android=tS41nh4Ux5

>私は、そちらの楽の方を選びます。

彼自身が選択した。
ということであって、広めたいということではないと解釈できます。

ただし、個人の選択に制約はありませんが
インターネット掲示板、もとい他人も存在する現実は無制約でははありません。
受け取り手の問題もありますから、なんとかの方が良い、と書き込んだとき
煩悩であると受け止められることもあります。

そういったことを防ぐのが明示的または暗黙的ルール即ち制約ですが
個人の制約なしの選択を全開放すれば、ルールや制約の無視に触れる可能性があります。
良くも悪くも空気読まないキャラということ。
そこがいつも反発が起こる部分なんでしょうねー

1年前 No.403

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> 時さんへ


 釈迦は第一弟子が死んだときに号泣した、という話も聞いたことが有ります。時さんはこれをどう思いますか? もし完全に煩悩が消滅していたのなら、第一弟子が死んでも悲しまず、ケロッとしているのではないでしょうか? でも、それはそれで、感情を無くしたロボットみたいで、そんな釈迦は好きになれません。
 自分は、釈迦もまた、SumioBabaがいう「人間視点」と「神視点」とに半々で立っていたように思います。そして、第一弟子が死んだときに号泣したのは「人間視点」の部分です。ただし釈迦は、半分は「神視点」にも立っていますから、決していつまでもメソメソしていたのではないと思います。「第一弟子が死んだのは悲しい。しかし、いつまでも泣いてはいられない。こういう悲しみから解放される方法を、私自身が人々に教えてきたのではないか。」と、自分に言い聞かせたのではないでしょうか?

 SumioBabaも「人間視点」と「神視点」とに半々で立っています。「人間視点」の部分では、できるだけ幸福を求め、不幸は避けたいと思います。楽しい事が有れば笑うし、悲しい事が有れば泣きます。だからこそ、こんな場合にはどうするのが最善か、時さんに相談したりしています。これはこれで、とても面白いゲームです。一方SumioBabaは「神視点」にも半分立っています。この部分は、幸福も不幸も体験してみたいと感じています。実際に多世界解釈では、SumioBabaという人間も無数に分裂し、幸福になったSumioBabaもいれば不幸になったSumioBabaもいて、「神」としての自分は、それらすべてを線形の重ね合わせのまま同時に体験しています。

1年前 No.404

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>371

 ありがとうございます。
 私の問う行為、姿勢について、補足というか、言い訳をさせていただきたく思います。
 繰り返しをご容赦いただきたいのですが、中学生が、ちょっとこだわって、哲学上の問題を考えているのと同じだと思います。過去の哲学者やその理論についての理解や科学分野についての専門的な知見を有してはおりませんので、対等に議論する資格はないと考えています。(以前書きましたように、「見切り発車している」のです。)
 よって、中学生が大人に素朴な疑問をぶつけ、中学生であることを良いことに、見たまま、思ったまま、感じたままをレスさせていただいております。勉強不足は事実として、決してそれを正当化するつもりではないのですが、日常感覚からの疑問を通じた思考をしていかないと、自分が最終的に納得するところ、―それが非日常的なものであっても― に行きつかないのではないかとの思い込みをしております。
 私の疑問の内容や思考のしかたが、哲学的ではないかもしれないことは自覚しております(他の方から別スレでそういうご指摘をいただいたこともあります。)が、自分はこうしてこういうやり方で哲学しているのだとも思っております。
 それと、私が問うているのは、純粋に自分自身の納得を得るためで、それ以外ではありません。
 ですので、レスをいただいている方々には何の役にも立たないにもかかわらず、お時間を割いて辛抱強くお付き合いいただいていることに感謝しております。

 特にここで、2点、申し上げておきたいのですが、

 再度述べますと、私は、思考の途上にあり、SumioBabaさんとは、思考のフェーズというか段階の違いがあると思っています。
 SumioBabaさんが述べられていることは、私のいる次元から止揚して別の次元で考えると、問題が問題でなくなるというイメージのように感じています。次の段階あるいは結論にたどり着くまでに、自ら問いを意図的に消滅させる思考をする動機が私にはありません。決してSumioBabaさんの考えそのものの是非を問題にしているのではありません。あくまで私が問う過程でそのような思考を選択する意義を見出せないのです。
 この「意図的に」のところが一番ひっかかるところかもしれません。それは、すでに述べました、
 世界 = a.多世界解釈が正しい世界(すべての可能性が実現している)+ b.多世界解釈が正しくない世界(存在について論ずる意味が生じる)
 世界がaだけから成り立っているわけではないのなら、aの視点に立つ、bの視点に立つという道が開かれ、選択の余地が生じます。存在を問う立場としては、aを選ぶ(謎は消滅)のではなく、bにも目を向けなければと思いますし、自分はそもそもそうしているのだと思えるのです。(aの視点に立てば、謎はないのですから、それ以上、思考する必要はありません。私にとっての問題は、bなのです。)
 ただし、思考を進め、到達した結論として、そのような考え方を受け入れ、自分が納得することを排除するものではありません。 つまり、一歩一歩思考を進めた結果として、そのような認識に到達するかもしれません。
 今は思考の途上ですので、その間を飛ばして、直接結論に行くには飛躍があると考えております。繰り返しで恐縮ですが、私は、思考の途上にあり、SumioBabaさんとは、思考のフェーズというか段階の違いがあると思っています。

 それと、一番申し上げたかったのは、

>>「「謎を消滅させるためにはどう解釈すれば良いか?」と考えるなら、多世界解釈を採ることが必須だと言え」ることは同意しますが、私にとっては、上記の理由からそう考えることは思考停止していることになります。

と私が申し上げ、

> 謎を消滅させるためには多世界解釈を採ることが必須だという点には同意しながら、多世界解釈を採らずに謎が残る方を選ぶのですか? そちらの方が思考停止だと思いませんか?


とコメントいただいたことについてですが、
「思考停止」と表現したのは、記載のとおりあくまで「私にとって」の思考においてであります。そのうえで、謎を消滅させるためには多世界解釈を採ることが必須だということにと同意しますが、それを採ることは、私にとって、思考停止になると申し上げたのです。
 なぜなら、多世界解釈を採る視点に立てば、謎は消滅するのですから、それ以上、思考する必要はありません。問題は、私がそれを解決と考えてしまい、多世界解釈を採らない視点が残っているのにそれに目を向けないことであり、それが私にとっての思考停止という意味です。仮に多世界解釈を採る視点しかないのであれば、他の選択肢はないのですから、どちらを選ぶかという意図や恣意性も生じないのだと思います。
  >>390  決して、「ダブル・トートロジーで《難しい問題》を解消するSumioBabaの方法を「思考停止」と呼」んでいるのではありません。
 私にとって思考停止だと申し上げていることについては、是非ご理解をいただきたいです。

 SumioBabaさんは、私と違い、一定の結論に到達されていると思います。その過程では、多世界解釈を採らない視点では、答えが出ないという確信を得られたのだろうと思います。
 ある意味では、私のこの思考はそういった確信を求めてさまよっているようなものかもしれませんが、自分の中で問う余地がないところまでいろいろと考えてみることが哲学することだと思っています。

>>370  の文章でそのような意味が伝わらなかったことについては、表現力のなさであり、申し訳なく思います。

>とにかくいろいろ考えてみて下さい。どう考えてもまた「なぜ?」という謎が生じ、無限後退になってしまうことを、自分で確かめてみるのが良いと思います。


 私がすべきなのは、この指摘のとおりだと思っています。それを実践し、これから確かめてみる過程を進むことを考えていますし、そのようにご理解いただいていると誤解しておりました。
>>351 「えぴめてうすさんは、徹底的に自分の頭で考え尽くすタイプなので、SumioBabaの説明をあっさり受け入れない方が良いと思います。自分で考え尽くして、答を見付けて下さい。」

 それに当たっては、SumioBabaさんがずいぶん以前に通った道を右往左往している状況をご報告するかもしれませんし、道を外れて迷子になっているように映るかもしれません。それについて、もしお付き合いいただくとすれば、大変ご迷惑をおかけするのかもしれません。
 私が問うている(哲学する)のは、純粋に自分自身の納得を得るためで、それ以外ではありません。その意味で、中学生の悩みにお付き合いいただくことは申し訳ないと思っています。

 補足と言い訳は以上とさせていただきます。長々と余計な事を書いてしまい、失礼しました。

 それで、自分の頭で思考を続けたいと思うのですが、

>だったら、証明もできないまま「多世界解釈」を否定してしまうえぴめてうすさんは、真理を探究することを放棄してしまっていますよ。実証も反証もできないのであれば、「多世界解釈」の肯定と否定の両方を考慮すべきなのでは?


 多世界解釈について、よくわからない点が多々あり、これまでいろいろと質問させていただいている中で、そのような印象(証明もできないまま「多世界解釈」を否定してしまう)を与えているのかもしれませんが、 >>370 の後半で述べたことにおいては、おっしゃるとおりに、「多世界解釈」の肯定と否定の両方を考慮しているつもりですが、違いますでしょうか。

>>371
>> 多世界解釈が正しいかどうかで世界の可能性を考えた場合、

>> 世界 = a.多世界解釈が正しい世界(すべての可能性が実現している)+ b.多世界解釈が正しくない世界(存在について論ずる意味が生じる)

>> 世界は、a、b、a+bの場合があり得るが、a+bは矛盾しているため、人間は認識できない。aとbは認識できうるものとして同時に体験しているが、別の世界であり、相互に共有できないし、そのことを実証も反証もできない。


>> a多世界解釈が正しい世界である場合、謎はなくなるが、b多世界解釈が正しくない世界の場合は、謎はなくならない。これは、絶対的に真である。

>> ただし、私のいる世界が、a、bどちらであるのかは、観測しても実証も反証もできない。(つまりa=1もb=1も確定しない。)

>> つまり、aとbどちらにいるのか判明しないため、存在への問いが意味があるかないか(謎かそうでないか)確定しない。


>> 誤りをご指摘いただければ幸いです。


> よろしいんじゃないでしょうか。

1年前 No.405

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん
時さん

  >>371>>378  同趣旨のことをおっしゃっていますので、

> 仮にネッシーが「いる」の方だったとして、「なぜネッシーは「いない」ではなく「いる」の方なのか?」という新たな謎にはどう答えますか? 仮にネッシーが「いない」の方だったとして、「なぜネッシーは「いる」ではなく「いない」の方なのか?」という新たな謎にはどう答えますか?


 「いる」の方だったら、なぜ人間活動や気候変動などの影響を受けずに、生き延びれたのかをネス湖の歴史や環境などの生息条件等を調べて、究明することになると思われます。科学的に確固たる結論がでるかどうかはわかりませんが。
 「いない」の方だったら、なぜいるといううわさや写真がでてきたのかが究明されるべき点と思います。また、現代において、中生代にいたと思われる生物が生存していること自体が謎のため、生存していないという結果は、謎ではないと思われます。もっとも「いない」の確認は、「いる」の確認より難しいということに留意が必要ですが。

 と書いたのですが、この例の説明がよくなかったと反省しております。
 実は、この「ネッシー」は、あるかないかの物体ではなく、「存在への問いの答え」という意味で使いました。
 よって、この例を用いた >>370 での意図は、「「存在への問いの答え」を探しているとき、「存在への問いの答え」はあるかもしれないし、ないかもしれない、「存在への問いの答え」を謎としないために、両方あり得ると考えたら、探す理由がなくなった」と言っているように感じ」るということです。
 ですので、「仮にネッシー(存在への問いの答え)が「いる」(ある)の方だったとして、「なぜネッシー(存在への問いの答え)は「いない」(ない)ではなく「いる」(ある)の方なのか?」という新たな謎にはどう答えますか? 仮にネッシー(存在への問いの答え)が「いない」(ない)の方だったとして、「なぜネッシー(存在への問いの答え)は「いる」(ある)ではなく「いない」(ない)の方なのか?」という新たな謎にはどう答えますか? 」についての答えは、「存在への問いの答え」の中身による、最終的な答えであれば、謎は生じない。そうでなければ、さらなる問い(謎)が生じるということになります。
 大変失礼しました。

>「いる」か「いない」かだけ判明しても、それは自分が住む世界だけでの真理です。なぜそちらが選ばれたのかの答にはなりません。すべての謎を消滅させるためには、やはり多世界解釈を採り、両方が実現していると想定することで、ダブル・トートロジーに持ち込む以外に方法は無いと思います。


 多世界解釈が正しい世界では、謎が消滅しますが、正しくない世界では、そうではありません。多世界解釈に立脚すると、この2つの世界があるということになります。
・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる
・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない
 aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。
 結局、私は、いまどちらの世界にいるかわかりませんが、bの世界での問いを解こうとしているということかと思います。人間は、必然的にaの世界にいるということではなく、bの世界にいるのでもない、どちらでもありうる。どちらかには任意性があると思われます。

>>371
>> a多世界解釈が正しい世界である場合、謎はなくなるが、b多世界解釈が正しくない世界の場合は、謎はなくならない。これは、絶対的に真である。

>> ただし、私のいる世界が、a、bどちらであるのかは、観測しても実証も反証もできない。(つまりa=1もb=1も確定しない。)

>> つまり、aとbどちらにいるのか判明しないため、存在への問いが意味があるかないか(謎かそうでないか)確定しない。


>> 誤りをご指摘いただければ幸いです。


> よろしいんじゃないでしょうか。

1年前 No.406

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>371

>「多世界解釈」というのは、そもそもマクロなレベルで様々に異なる世界が線形の重ね合わせのまま存続し、時間発展していくと考えるものです。シュレディンガーの猫で言えば、猫が生きていた世界W1と死んでいた世界W2とが、観測の時点で片方が消滅するのではなく、両方が線形の重ね合わせのまま時間発展していく、という考え方です。


 素人ゆえの知識不足で恐縮ですが、シュレーディンガーの猫は、放射性物質の発生というミクロの現象を、猫が死ぬというマクロの現象と連動させて量子現象を理解しようとする思考実験と思っていますが、ご紹介のあった物理学者アンケートで「量子力学でどの解釈を支持するか」という問いに対し、人間がいろいろなふるまいをすることや、宇宙の膨張など自然現象そのものについても、マクロなレベルで様々に異なる世界が線形の重ね合わせのまま存続し、時間発展していくという意味で、30人の物理学者が「多世界解釈」を支持されているという意味なのかどうか確認させていただければ幸いです。

1年前 No.407

★Nzp2hWWclT_aZs

>>404  馬場さんへ

>  釈迦は第一弟子が死んだときに号泣した、という話も聞いたことが有ります。時さんはこれをどう思いますか?


仏典には記載がない内容、つまりは後世の誰かの作り話か思い違いによる伝聞だと思います。ですので以下のお話は、これを元にしていますので、そう思われるのですね?としか言いようがありません。ですので、この件に関しての会話を続ける意味が私にはありません。スレチですので、悪しからず。

えぴめてうすさんも戻って来られたようです。議論をお続けください。

1年前 No.408

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>371

>「世界について、何ごとも述べていない」ではなくて、「世界は初めから、「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方であった、などとは限定しない(偏見を持たない)」、ということです。なぜなら、限定されていたと考えると、「なぜ?」という謎が生じてしまうからです。実際、えぴめてうすさんは、「何かがある」と「何もない」のうち「何かがある」の方だけに限定されていたという《真理実在教》を盲信するがゆえに(偏見を持つがゆえに)、「なぜ?」という解けない謎にぶつかってしまっておられます。


 私にとって、悪しき偏見のない思考ができればと思っていますが、それがなかなか難しいことは認めざるを得ません。
 私が世界を見ていること自体が偏見を生じさせ、固定化しているというふうにも思いますし、何かしようとする(例えば、存在を問う)意思をもった時点で、偏見から逃れられないようにも思います。
 何らかの立場をとることと思考は連動していると考えていますので、問うことにおいて何らかの偏見が混ざることが必然と捉え、悪しき偏見については、思考過程や結論の内容で、矛盾の有無など整合性や一貫性を検証して排除していくしかないのではないかと思っています。

 また、少なくとも、 >>370 においては、限定する考えはとっていないと思っています。「何かがある」の方だけに限定されていたという《真理実在教》から出発しているのではなく、多世界解釈から始めて、多世界解釈が正しい場合は謎がなくなり、正しくない場合は謎は残ると、双方に目を向けているつもりですが、違いますでしょうか。

 それと、「世界について、何ごとも述べていない」は、SumioBabaさんのお考えの是非やそれに対する私の見解を述べているのではありません。

>>370
>上の違和感とつながっているのですが、


と述べているとおり、このトートロジーは、問い(謎)を消滅させてしまったのだから、その消滅させた謎に対し、このトートロジー自身が、何か意味のあることを述べることはないという意味で申し上げました。あるもないも両方もふくめてすべてがある(世界は初めから、「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方であった、などとは限定しない)とすれば、それ以上、私が求めている存在の謎に関する世界についての情報はないと思われたのですが、いかかでしょうか。

>>370 「上の違和感」
 やはり存在を問うているにもかかわらず、存在の謎を消滅させようと、多世界解釈が真であるという視点(偽の視点もあるにもかかわらず)で考えることに違和感があるのだと思います。

1年前 No.409

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>371

>無限後退です。決して謎は無くなりません。それゆえ謎を無くすには、《暗黙の前提》を否定して「何かがある」と「何もない」の両方が実現したと考え、論理の段階でダブル・トートロジーに持ち込むしか方法は無いと思われます。


 SumioBabaさんとは、思考のフェーズというか段階の違いがあると思っています。
 まずは、「無限後退です。決して謎は無くなりません」を私が疑うことが私の思考において必要だと思われるのです。
 ショートカットで、私が結論をゲットすることは、私にとって哲学していることではないと思います。
 私はこの問いに当たって、何らかの道を通って「無限後退です。決して謎は無くな」るのかなくならないのか私が自分で発見すべきだと考えています。
 ですので、私が違和感を抱くこの方法について、堂々巡りになっていることは、私の思考が進まないとこれ以上、進展しないということだと思います。

時さん

>>373
>上記の場合に、えぴめてうすさんは「この世界には、ネッシーは何故いないではなくているのか?」、私(時)は「この世界には、ネッシーは何故いるではなくていないのか?」と言う問いには、「いるものはいるんだ」「いないものはいないんだ」としか、それぞれの個人的な世界観では、答えられなくなりますね。(別に答える必要もありませんが)


 自分の考えを構築し、ブラッシュアップしたいという意思はあります。それは、私の個人的な世界観の中でです。思考を進めて、世界観が揺さぶられ、その形を変えることはあっても、メタな視点から見えるその全体像が私の井戸の問題に何か意味のあることかどうかよくわかりません。
 私の世界という井戸の中で、存在の問題に向き合っていて、つばめの目線から、世界の全体像はこういうことになってといるんだという情報をもらっても、井戸の中の問題にそれをどう使ってよいかわからないのです。
 ただ、例えば、おまえのいる井戸の中にはこれがないんだという情報、ほかの井戸の人はこう考えているよという情報、他人は井戸の中でこう解決したという情報を聞くことは参考になると思っていますので、こうしてご意見や様々な知見をうかがうことは有用なことだと考えています。
 また繰り返しで恐縮ですが、私が問うている(哲学する)のは、純粋に自分自身の納得を得るためで、それ以外ではありません。問題は、私の井戸の中にあり、その問題を解決したいのであって、人間の共通知を生み出そうとか、他者に広めようという内容を考えているわけではないのです。
 中学生の問いとは本来そういうものだと思います。
 その意味で、そのような中学生の悩みにお付き合いいただくことは申し訳ないと思っています。

>別に狭い井戸の中で「真理だ。真理だ。」と自己満足に浸っていても良いと思いますし、もう少し上の視点での哲学をされても良いとも思いますし。自由意志があるとすれば、えぴめてうすさんは、どちらの「真理」を選ばれるでしょうか?馬場さんは、普通の言葉使いで会話さえすれば、普通に答えて頂ける方で、上の視点の持ち主ですよ。


 まだ私は、「真理だ。真理だ。」と述べる内容をもっていないのですが、なにか言いましたでしょうか。真理と呼べる何ら確定的な認識に達していませんので、そのような表現は撤回、訂正、削除させていただきます。

>>378
>この先、えぴめてうすさんがどちらの道を進まれるのか?は、神のみぞ知るです。以上です。


 多世界解釈では、すべての世界が存在するため、神は私がすべての道を実現されるだろうと考えるべきでしょうか。


SumioBabaさん
時さん

>>371
>無限後退です。決して謎は無くなりません。


>>378
>答えようがない「ドン詰まり」状態です。

>いずれドン詰まると思いますよ


 現に、存在への問いが「哲学における究極の謎」と呼ばれて残されている状況(解けていない状態)はあると思います。
 このことについて、何らかの確信をお持ちと思います。そうでないと次に進めないはずです。
 私の段階では、このことを探求する必要があると思っておりまして、安直に答えをもとめようとしているのではありませんが、当面の壁はこのことですので、御二方は、どのようにしてこの認識に至ったのか、また、この認識にはどんな根拠があるのか、是非お伺いできればと思います。

 いつも質問ばかりで恐縮です。よろしくお願いします。

1年前 No.410

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

なぜ、何もないのでなく、、、、あるのですか? 私が居るから有るのじゃないですか?

私がいなければ、なにかが在りますか??

1年前 No.411

★7HlQcVK6MI_aZs

>>410  えぴめてうすさんへ

> 私の世界という井戸の中で、存在の問題に向き合っていて、つばめの目線から、世界の全体像はこういうことになってといるんだという情報をもらっても、井戸の中の問題にそれをどう使ってよいかわからないのです。


問題は、それを解決できないから 問題なのですね。ですので、使い方と言えば、その問題を解決出来たと言う人のお話を聞き、その問題を解決できた人の視点を探す事だろうと思います。自身の視点とは何が、どこが違うのか?です。そして、その違う視点で観た場合には、他の問題(現在の自身の問題です)はどのように映るのか?と言った具合になると思います。それは、観察力、洞察力、認識力、理解力、共感力、想像力等々、つまりは、人間力です。ですが、この場合にも問題は噴き出てくると思います。それは、「私の意志」としてそれが自由に出来るのか?と言う事です。もしも自由自在にそれが可能なのであれば、やってみればよい事です。問題はありません。問題となるのは、ではなぜそれが出来ないのか?と言う新たな問題です。答えはありますよ。勿論、「時の井戸」の中にはですが。納得できています。

次の問題です。では、「時井戸」では問題なく、なぜに「(例えば)K井戸」では問題が残るのか?と言う問題です。・・・このように解決されていかれればよいのではないでしょうか。延々とそのような問題は発生し続けます。では、問題はなぜ発生するのか?ですね。ここを解決できれば、問題は発生しません。そして今回の場合、アポリアについて解決できますという2人がいます。私は説明できませんし、しようとも思いませんが、馬場さんは説明されていますね。一つの案として、そして冒頭に戻ります。

>  また繰り返しで恐縮ですが、私が問うている(哲学する)のは、純粋に自分自身の納得を得るためで、それ以外ではありません。問題は、私の井戸の中にあり、その問題を解決したいのであって、人間の共通知を生み出そうとか、他者に広めようという内容を考えているわけではないのです。

>  中学生の問いとは本来そういうものだと思います。


私も同様に、広めようという事は考えていません。ただ独りの井戸の中で日々起こっては消えていく問題を考え続けただけです。ほとんど全て体現として納得できています。世界での大きな問題?で言うと「世界平和はなぜ訪れないのか?」から、小さなことでは「なぜ、あの石ころにけつまづいたのか?」「なぜ、体育の先生は怒ったのか?」「なぜ、黄色のチョークがなくなったのか?」・・なぜの連続でしたよ。そして現在、自由意志が存在するのだとしたら、私は平和を選びます。と言う事だけです。

>  まだ私は、「真理だ。真理だ。」と述べる内容をもっていないのですが、なにか言いましたでしょうか。真理と呼べる何ら確定的な認識に達していませんので、そのような表現は撤回、訂正、削除させていただきます。


失礼しました。書き方が悪かったですね。えぴめてうすさんに向けたレスの中で、これは、巷でよく聞くフレーズを書きました。ですので、えぴめてうすさんがそのように叫んでいるという意味ではありません。

> >この先、えぴめてうすさんがどちらの道を進まれるのか?は、神のみぞ知るです。以上です。


この文章には、問題解決まで思考し続けてきた私の多くの思いが込められています。

>  多世界解釈では、すべての世界が存在するため、神は私がすべての道を実現されるだろうと考えるべきでしょうか。


私個人は、神=多世界解釈 とは思い込んでいません。ただし、多世界解釈での説明をされている馬場さんの考え方(思考ルート)は、理解できていると思います。

ここで大切なことは、えぴめてうすさんがどのように考えておられるのか?(思考ルートをたどるのか?)です。と言った意味で、「考えるべきでしょうか?」に対する私の答えは「いいえ」です。

> 御二方は、どのようにしてこの認識に至ったのか、また、この認識にはどんな根拠があるのか、是非お伺いできればと思います。


根拠は、そのように観えていて、そのようになっているからです。ですので、これが根拠です。と人に説明できるようなものはありません。(私のつたない言葉の羅列では、ご納得いただけないものとは思いますが)それこそ人に説明をするためではなく、独りの井戸の中での問題解決をしたというだけですので。

認識に至るまでは、どうでしょうか?そもそもアポリアと言う問題解決に至る為の思考ではありませんで、日々沸き起こっては消えていく、諸問題についてしつこく納得がいくまで思考し、しつこく納得がいくまでできる限りの行動に移してみたという経験からでしょうか。いわば、「私」と言う「時井戸」の中での問題が存在しないことは本当の事であり、それを基準にして他の井戸を覗いてみると、やはり同じような問題を抱えて解決しようとされていた場合があるというだけです。ですので、その意味では、議論の余地はありません。

哲学とは何か?何かとは何か?・・このような事を繰り返し行っていれば、人生はすぐに終焉を迎えそうですね。自身にとっての大切なことに気付いて、それを思考し続けて、その答えを一つづつ見つけて頂きたいと思います。

最後は何か偉そうに受け取られるかもしれませんが、そんな風に思っています。

レスをありがとうございました。以上です。

1年前 No.412

宿題 ★bUKyk3gX2r_xmq

時さん

世界は無限です。次元を超えた存在も無限です。

思惟を超えた表現できない存在もあります・・

1年前 No.413

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

ある理論が矛盾を前提に成り立っている時点で、どんな命題の真偽も証明できてしまう。だから矛盾は取り除かなければならない。
絶対的真理であり、その正しさを主張しないというのがこの場合の矛盾点だった。単純に矛盾を指摘してもいいし、「この理論が正しくないことも考慮しなければならない」という言い方もできる。これは第三の論点と裏表でもある。

1年前 No.414

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>405  えぴめてうすさんへ

>SumioBabaさんが述べられていることは、私のいる次元から止揚して別の次元で考えると、問題が問題でなくなるというイメージのように感じています。次の段階あるいは結論にたどり着くまでに、自ら問いを意図的に消滅させる思考をする動機が私にはありません。決してSumioBabaさんの考えそのものの是非を問題にしているのではありません。あくまで私が問う過程でそのような思考を選択する意義を見出せないのです。


 オーソドックスな科学の方法で「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に答が見付かりそうだと考えておられるのなら、まずやってみて下さい。やってみないことには、これがオーソドックスな科学の方法で解決できる問題なのか、それを超越した問題なのかも、さっぱり判断できないと思います。まだ何も考えていないのなら、「そのような思考を選択する意義を見出せない」のも当たり前です。考えてみて初めて見出せるのですから。

1年前 No.415

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>406  えぴめてうすさんへ

> 多世界解釈が正しい世界では、謎が消滅しますが、正しくない世界では、そうではありません。多世界解釈に立脚すると、この2つの世界があるということになります。

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。


 それは違います。
 aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。
 bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

 「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。aでは答が見付かったから、これ以上問う必要は有りません。bでは答が存在しないに確定したのだから、こちらもこれ以上問う必要など無いのではありませんか?

> 結局、私は、いまどちらの世界にいるかわかりませんが、bの世界での問いを解こうとしているということかと思います。


 SumioBabaは、「bでは答が存在しないことをとっくに説明ずみ」です。えぴめてうすさんがこれを受け入れず、「bの世界での問いを解こうとしている」のなら、早く1つでも答を探して見せて下さい。

1年前 No.416

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>407  えぴめてうすさんへ

> 素人ゆえの知識不足で恐縮ですが、シュレーディンガーの猫は、放射性物質の発生というミクロの現象を、猫が死ぬというマクロの現象と連動させて量子現象を理解しようとする思考実験と思っていますが、ご紹介のあった物理学者アンケートで「量子力学でどの解釈を支持するか」という問いに対し、人間がいろいろなふるまいをすることや、宇宙の膨張など自然現象そのものについても、マクロなレベルで様々に異なる世界が線形の重ね合わせのまま存続し、時間発展していくという意味で、30人の物理学者が「多世界解釈」を支持されているという意味なのかどうか確認させていただければ幸いです。


 世界W1とW2の間で、初めは素粒子1個だけのミクロな差異でも、カオスが絡むとマクロな差異に拡大します。今年、読売ジャイアンツが日本一になれなかった世界W3も有れば、日本一になれた世界W4も有るでしょう。世界平和が成立した世界W5も有れば、第3次世界大戦で人類滅亡した世界W6も有り得ると思われます。これら無数の世界が線形の重ね合わせのまま時間発展していく、と考えるのが「多世界解釈」です。「SumioBabaの多世界解釈」もこう考えますし、「一般的な多世界解釈」でもこのへんはほぼ共通していると思います。もっとも、「多世界解釈」には無数のヴァリエーションが有り得ますから、すでにこのへんで異なる「多世界解釈」も中には有るかもしれません。

1年前 No.417

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> 時さんへ


 (1) 第一弟子が死んだときに号泣した釈迦。(2) 第一弟子が死んだのに煩悩が無いためケロっとしていた釈迦。どちらが真相かは判りませんが、SumioBabaは、号泣した釈迦の方が人間味を感じて好きです。時さんはどちらの釈迦が好きですか?

1年前 No.418

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>409  えぴめてうすさんへ

> >>370 においては、限定する考えはとっていないと思っています。「何かがある」の方だけに限定されていたという《真理実在教》から出発しているのではなく、多世界解釈から始めて、多世界解釈が正しい場合は謎がなくなり、正しくない場合は謎は残ると、双方に目を向けているつもりですが、違いますでしょうか。

 多世界解釈を採れば「謎は無くなる」であり、それ以上考える必要は有りません。
 多世界解釈を採らなければ「謎は残る」ですが、これは「謎が残るので、これからその答を探さねばならない」ではなく「この謎には答が無いことが確定する」という意味ですから、やはりこれ以上考える必要は有りません。
 双方に目を向け、どちらも結論が得られたはずなのに、なぜ多世界解釈を採らない方にだけいつまでも執着するのでしょうか?、という意味です。

>あるもないも両方もふくめてすべてがある(世界は初めから、「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方であった、などとは限定しない)とすれば、それ以上、私が求めている存在の謎に関する世界についての情報はないと思われたのですが、いかかでしょうか。


 本来、「謎」は何も無いのです。だから、それを説明する「情報」も不要です。えぴめてうすさんの場合、「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに真理は確定していると思い込んでおられるので、「真理はどちらなのだろう?」という謎が生じるし、仮に自分の住む世界でどちらが真なのかが判明しても、「なぜ他方ではなく、こちらなのか?」という謎が残り続けます。つまり、「「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに真理は確定している」と思い込むことが、謎を生じさせているだけであり、そう思い込まなければ初めから謎は何も無いのです。

 こちらから1つ質問します。
      【質問】
 例えばP=「ニュートン力学と相対性理論はどちらが正しいか?」は、オーソドックスな科学の方法で十分答が得られる問題です。一方、Q=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、科学の方法では解けないアポリアだと言われています。なぜQはアポリアだと言われているのでしょうか? PとQの本質的な違いは何でしょう?

1年前 No.419

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

全知全能の神は「謎を考える必要がある」を実現していないことになる。最初からそもそも「謎は何もない」のなら、「謎がある」と「謎がない」は両方実現されていない。

1年前 No.420

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

なんでこんなことになるのか。
ダブル・トートロジーは選択肢を限定しない限り成立する。神を全知全能とすることは、ダブル・トートロジーから逸脱できないことを意味する。
少しでも可能性を限定した時点で、ダブル・トートロジーではなくなり、神は全知全能ではなくなる。
結果としてSumioBabaは常にダブル・トートロジーを言うほかない。そこから一歩でも足を踏み出せば矛盾する。
これは理論というより呪いだろう。

1年前 No.421

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

「pならばqである」は論理学で仮言命題といわれる。

pならばqである
~pならばqである
p・~pならばqである

トートロジーは「pならばpである」という仮言命題で、ダブル・トートロジーは

pならばpである
~pならば~pである
p・~pならばp・~pである

「神は全知全能」なので、p・~pもq・~qも成立させなければならない。
ところでp・~pならばqであり、q・~qではない。いったいどこで間違えた?

1年前 No.422

★Android=mR3k3xC54v

優鬼さんそれはないというのは、ないということがあるということだからさ。

1年前 No.423

宿題 ★bUKyk3gX2r_xmq

ベン図で考えたらなんていうことはないです・・

1年前 No.424

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

時さん

>>412

>> 私の世界という井戸の中で、存在の問題に向き合っていて、つばめの目線から、世界の全体像はこういうことになってといるんだという情報をもらっても、井戸の中の問題にそれをどう使ってよいかわからないのです。


>問題は、それを解決できないから 問題なのですね。ですので、使い方と言えば、その問題を解決出来たと言う人のお話を聞き、その問題を解決できた人の視点を探す事だろうと思います。自身の視点とは何が、どこが違うのか?です。そして、その違う視点で観た場合には、他の問題(現在の自身の問題です)はどのように映るのか?と言った具合になると思います。

 ご指摘のとおりと思っています。他の井戸の中(時さんやSumioBabaさん、その他の方のお考えなど)を参考にしたく、このスレで拝見しながら、自分で考えはじめようというところです。
 ただ、私が申し上げた「つばめの目線」は、「メタな視点」という意味で使ったのですが、 >>373 「ここでメタな視点を持つ者が、両者の井戸の上から観た場合に助言」される内容は、個々の井戸の中の情報ではなく、「世界の全体像」という意味だろうと思いました。時さんのおっしゃった「その個人の井戸を集めたであろう世界観での真理」をそういう意味にとりました。
 その意味でのメタな視点での助言を、私の「井戸の中の問題にそれをどう使ってよいかわからないのです」。他の井戸の情報は参考になるように思いますが、井戸と井戸の外を含めた全体像がどうなっているかという情報は、私の井戸の問題の解決になるようには思えなかったのです。
 でもこんなこと言っていても仕方がないと思いますので、私の思考を進めます。

>それは、観察力、洞察力、認識力、理解力、共感力、想像力等々、つまりは、人間力です。


 自分の人間力の低さは、認めざるを得ません。

>ですが、この場合にも問題は噴き出てくると思います。それは、「私の意志」としてそれが自由に出来るのか?と言う事です。もしも自由自在にそれが可能なのであれば、やってみればよい事です。問題はありません。問題となるのは、ではなぜそれが出来ないのか?と言う新たな問題です。答えはありますよ。勿論、「時の井戸」の中にはですが。納得できています。

>それこそ人に説明をするためではなく、独りの井戸の中での問題解決をしたというだけですので。


 自分の納得こそが大事だと思っています。それも私の井戸の中の納得しかありえません。
 私の納得はみなさんとはレベルも段階も違うでしょうが、私にとってそこはさして問題ではありません。自分にとって、考えるようにしか考えられない、わかるようにしかわからないということこそが個人の自由を生み出すのだと思います。わからないことは一生わかりませんので。レベルの低い納得も当人にとって、その低さが自覚されないなら問題ありません。私が到達するところがすべてです。

>>自身にとっての大切なことに気付いて、それを思考し続けて、その答えを一つづつ見つけて頂きたいと思います。


 励ましのお言葉、ありがとうございました。

1年前 No.425

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>420  優鬼さんへ

>全知全能の神は「謎を考える必要がある」を実現していないことになる。


 全知全能の「神」は、あらゆる○○○について「○○○である」も「○○○でない」も実現しています。当然、「謎を考える必要がある」も「謎を考える必要がない」も実現しています。

>最初からそもそも「謎は何もない」のなら、「謎がある」と「謎がない」は両方実現されていない。


 最初はそもそも「謎は何もない」(合)=「謎がない」(正)+「謎がある」(反)です。それを「謎がない」(正)と「謎がある」(反)とに分け、「謎がない」(正)の方を選べば「謎がない」(正)が選ばれる、「謎がある」(反)の方を選べば「謎がある」(反)が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。

>421 優鬼さんへ


>ダブル・トートロジーは選択肢を限定しない限り成立する。神を全知全能とすることは、ダブル・トートロジーから逸脱できないことを意味する。


 「神」は「全知全能である」(合)=「全知全能である」(正)+「全知全能でない」(反)を満たしています。「全知全能である」(正)のときダブル・トートロジーを満たし、「全知全能でない」(反)のときにダブル・トートロジーを満たしません。どちらでも有り得るのが「全知全能である」(合)です。

>少しでも可能性を限定した時点で、ダブル・トートロジーではなくなり、神は全知全能ではなくなる。


 優鬼さんは、「全知全能である」(合)=「全知全能である」(正)+「全知全能でない」(反)という弁証法的構造が、まだ理解できておられないようです。

>結果としてSumioBabaは常にダブル・トートロジーを言うほかない。そこから一歩でも足を踏み出せば矛盾する。これは理論というより呪いだろう。


 相変わらず好き勝手に誤解・曲解し、優鬼さんの読解力の無さを暴露しているだけです。読解力では、優鬼さんよりもえぴめてうすさんの方が上ですね。

>>422  優鬼さんへ

 何を言いたいのか解りませんが、「神」は全知全能であり、「有矛盾な世界」+「無矛盾な世界」全体に住んでいます。人間は「無矛盾な世界」だけに住んでいるので、「神」が「有矛盾な世界」の方で矛盾を生じさせても、それは認識できません。だから、「神」はあらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現できますが、人間が住む世界では何一つ矛盾は生じません。優鬼さんは、「神」にできない事が有ることになる、だとか、人間が住む世界で矛盾が生じることになる、だとか、いまだに両者を混同しておられるようです。

 そういう読解力不足による間違った独断は、周囲の読者をミスリードしてしまうので有害です。周囲の読者の方も、優鬼さんにミスリードされないよう注意し、逆に優鬼さんのどこが誤解なのかを見抜く演習問題にして下さい。もちろん、紳士的な態度で直接SumioBabaに質問して下さる方には、優鬼さんのどこが誤解なのか、できるだけ丁寧に答えさせて頂くつもりです。

1年前 No.426

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

 ありがとうございます。

>>415

>オーソドックスな科学の方法で「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に答が見付かりそうだと考えておられるのなら、まずやってみて下さい。

>やってみないことには、これがオーソドックスな科学の方法で解決できる問題なのか、それを超越した問題なのかも、さっぱり判断できないと思います。


 ご指摘のとおりだと考えています。

>まだ何も考えていないのなら、「そのような思考を選択する意義を見出せない」のも当たり前です。考えてみて初めて見出せるのですから。


>>371
>無限後退です。決して謎は無くなりません。

>>378
>答えようがない「ドン詰まり」状態です。

>いずれドン詰まると思いますよ


 私は、こう言い切れるほどの認識に至るまで考えていないということだと思います。

>>416
>「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。


 すみません。それはフォローできていませんでした。
 どの投稿を見ればよろしかったでしょうか? お手数ですが、教えていただけませんでしょうか?

>>417
> 今年、読売ジャイアンツが日本一になれなかった世界W3も有れば、日本一になれた世界W4も有るでしょう。世界平和が成立した世界W5も有れば、第3次世界大戦で人類滅亡した世界W6も有り得ると思われます。これら無数の世界が線形の重ね合わせのまま時間発展していく、と考えるのが「多世界解釈」です。「SumioBabaの多世界解釈」もこう考えますし、「一般的な多世界解釈」でもこのへんはほぼ共通していると思います。


 了解しました。ありがとうございました。

>>419

>えぴめてうすさんの場合、「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに真理は確定していると思い込んでおられるので、「真理はどちらなのだろう?」という謎が生じるし、仮に自分の住む世界でどちらが真なのかが判明しても、「なぜ他方ではなく、こちらなのか?」という謎が残り続けます。


 自覚がないのですが、そうなのかもしれません。自分では何とも判定できません。

>こちらから1つ質問します。

【質問】
 例えばP=「ニュートン力学と相対性理論はどちらが正しいか?」は、オーソドックスな科学の方法で十分答が得られる問題です。一方、Q=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、科学の方法では解けないアポリアだと言われています。なぜQはアポリアだと言われているのでしょうか? PとQの本質的な違いは何でしょう?

 ニュートン力学、相対性理論、それぞれ対象が明確だと思います。数式による説明という人間に見えやすい形で両方の結果を示し、比較が可能なのに対し、「何もない」、「何かがある」、「その理由」という個々の構成要素自体が、そのような数式による厳密な定義から始まっていませんし、実証になじまない、科学の方法が適用できない問いだからで、問いの立て方にも問題がある(正しくない)のではないかと思います。
 ライプニッツは、そもそも答えがあるという前提を置いていますが、正しくない問いに答えがあるというのもおかしな話です。それがアポリアたるゆえんかと思います。
 十分な答えではないと思いますが、私の答えは以上です。

 私としては、もう一度、問いから疑ってみないといけないと思います。

1年前 No.427

★Android=tS41nh4Ux5

>それぞれ対象が明確だと思います。


科学で未解明な部分があることを考えれば
意図的に明示しているのであって
その明示理由の根本的な、またはいっちばんさいしょの最初の本当の理由は実はQと同じ。

1年前 No.428

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

とっくの昔に理解済み、です。
pとqは命題といわれています。伝統的な論理学において、命題はその内容を抽象化するとともに、その真理値も隠蔽しています。
議論においてよく言われる論理というのは、命題の真理値でなく命題間の関係性に着目することだと理解しています。
真理値の与え方は論理では決まりません。一貫性が保証されればなんでもよく、たとえAさんとBさんで異なっていてもいい。どちらが正しいということはなく、シームレスに論理学と相対主義がつながります。

1年前 No.429

宿題 ★bUKyk3gX2r_xmq

論理は真か偽かが問題です。

真理は論理を超越します。

1年前 No.430

★Android=RNlzHxyVci

矛盾しているものは存在しない。存在しないものは矛盾している。全能は矛盾したものである。矛盾したものは全能である。簡単な話ですね。

1年前 No.431

宿題 ★bUKyk3gX2r_xmq

解らないもの=不思議

神=全知全能

言葉を記号とするならば記号として表したに過ぎない・・

その中身の言葉の意味を解らないまま・・

1年前 No.432

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>427  えぴめてうすさんへ

 「数学基礎論」とか「科学基礎論」を学ばれたことは有りますか? 正式な勉強でなくても、本を一冊読む程度で十分です。そもそも数学や科学は何をやっているのかを理解する上で、極めて重要です。哲学最大の謎「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」がオーソドックスな科学の方法で解明できないことを、もう一度きちんと説明してみます。

 「数学」で真だと証明された命題は、絶対的に正しいと思い込んでいる人が多いと思いますが、決してそうではありません。数学では、まずこれとこれだけは証明なしに真だと仮定しようとする「公理」を定め、それを使って「定理」を証明します。だから、数学で真だと証明された命題は、「その「公理」を正しいと仮定すると」という条件付きの真理であり、絶対的真理ではありません。
 そして、その「公理」自体は、真とも偽とも証明できません。証明しようとしても、無限後退するだけです。「その「公理」はなぜ正しいと言えるのか?」と問われ、「メタ公理1」「メタ公理2」「メタ公理3」…を使って「公理」を証明して見せても、また「「メタ公理1」はなぜ正しいと言えるのか?」と問われてしまうからです。「公理」を何一つ定めなければ、何も「定理」は証明できません。だから、真理体系を作り上げるためには、少なくとも1つは証明なしに「公理」を定める必要が有ります。
 何を「公理」と定めるかは恣意的なので、それを「公理」だと見なす公理系を作ることもできるし、見なさない公理系を作ることもできます。例えば、ユークリッド幾何学の公理系では「三角形の内角の和は180度である」という「定理」が証明できますが、非ユークリッド幾何学の公理系では証明できません。そして、公理系を特定しなければ、「定理」は真とも偽とも言えません。どちらも、そのように限定された世界の中での相対的真理でしかない、ということです。
 敢えて絶対的真理を求めるなら、こうなります。「「三角形の内角の和は180度である」を真と見なす幾何学では「三角形の内角の和は180度である」は真、「三角形の内角の和は180度である」を偽と見なす幾何学では「三角形の内角の和は180度である」は偽」。これこそダブル・トートロジーなので、証明不要の絶対的真理です。と同時に、真理を何も限定していないので、全く中身の無い命題であり、これこそまさに「空」(くう)です。

 「科学」もよく似ています。力学の例でいうと、「なぜ物体を自由落下させると、2秒後には20m落下するのか?」「なぜ物体を地上から初速14m/sで45度の角度に投げ上げると20m離れた位置に落ちるのか?」「なぜ物体を初速30m/sで真上に投げると、3秒後に最高地点に到達するのか?」…のような複雑雑多な謎が無数に挙げられます。これらを分析すると、たった1つの謎「なぜF=maなのか?」に統一できることを見抜いたのがニュートンです。そしてこのF=maを1つ物理法則として定めれば、力学におけるこれら無数の謎に答が得られます。
 一見すると、謎が解明できたように見えますが、そうではありません。「なぜ我々の世界でF=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方なのか?」という謎は、ニュートンも答えられないまま残ったのです。科学は、これに答えることができません。そしてF=maは、「公理」として定めることにしました。いわゆる《帰納》により、どうやら正しいらしいと判断したのであり、論理的に《演繹》した訳ではないので、なぜ正しいのか必然性は理解できないまま在りのままに受け入れた、ということです。
 つまり科学は、自分が住む世界において、「「○○○である」と「○○○でない」のどちらが真でどちらが偽か?」(パターンX)を在りのままに現状認識できるだけです。自分が住む世界で「○○○である」が真だと判明しても、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」(パターンY)には答えられないのです。
 そしてこの場合も、多世界解釈を採り、「「○○○である」が真である世界では「○○○である」が真、「○○○でない」が真である世界では「○○○でない」が真」、と考えればすべての謎が消滅します。これもまたトートロジーであり、全く中身の無い命題であり、まさに「空」です。そもそも世界には謎など何も無かった、謎が有ると思っていたのが井の中の蛙だった、という結論です。

 以上を踏まえて「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について。
 「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」という問題はパターンXの方ですから、オーソドックスな科学の範囲内で解決できる問題です。「針の先で何人の天使が踊れるか?」のような実証も反証もできない問題は形而上学になりますが、実験的に実証・反証できる内容であれば、科学で解決可能です。
 一方、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、パターンYの方ですから、そもそも科学で答えられる問題ではないことになります。「我々の世界は「ある」と「ない」のどちらか?」だったら、観察するだけで「ある」の方だと判断できますが、「なぜ「ない」ではなく「ある」の方なのか?」という問いには、科学は答えられない訳です。
 「いや、F=maの発見により、科学は、なぜ「物体を自由落下させると、2秒後には200m落下する」ではなく「物体を自由落下させると、2秒後には20m落下する」であるのかを説明できたではないか?」という反論も有り得るでしょう。しかしこの場合、そもそもF=ma自体が自分の住む世界の現状認識に過ぎず、これが正しいことを論理的必然性で理解した訳ではありません。だから、「なぜF=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方なのか?」という謎が残ります。「もっと根源的な自然法則Aが存在し、それによってF=maは「成立する」の方なのだ」と説明しても、また「なぜ自然法則Aは「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」と問えます。「もっと根源的な自然法則Bが存在し、それによって自然法則Aが成立するのだ」と答えても、「なぜ自然法則Bは「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」と問えます。…。これが無限後退です。

 現在の物理学は、我々の世界で成立している物理法則L1がどんなものかを解明している段階です。仮にL1を完全解明しても、まだ謎が残ります。「なぜ他の物理法則L2、L3、L4、…ではなく、このL1なのか?」。そこで次の課題は、存在し得るすべての物理法則L1、L2、L3、…を要素とする集合{L}はどんな集合か?、の解明です。これが解明できれば、謎はすべて消滅します。どんな物理法則Li(i=1、2、3、…)も、「成立する」と認識する視点に立てば「成立する」、「成立しない」と認識する視点に立てば「成立しない」、のダブル・トートロジーが成立していただけになります。
 どんな科学理論も、究極まで完成したときには必ずトートロジーに到達することになります。ただしそのためには、多世界解釈を採り入れ、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現している、と想定することが必要です。

 以上のような説明でいかがでしょうか? 疑問点が有ったら指摘して下さい。

1年前 No.433

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>433

 いつも丁寧なご説明ありがとうございます。

>「数学基礎論」とか「科学基礎論」を学ばれたことは有りますか? 正式な勉強でなくても、本を一冊読む程度で十分です。そもそも数学や科学は何をやっているのかを理解する上で、極めて重要です。


 ヴィトゲンシュタインの「数学の基礎」をアンソロジーでさらっと読んだぐらいです。
 本来は一冊読んでから、レスすべきかもしれませんが、ご容赦ください。

 数学と科学の考え方のご説明を拝読し、質問のご解答の次の部分についてですが、

>「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」という問題はパターンXの方ですから、オーソドックスな科学の範囲内で解決できる問題です。… 一方、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、パターンYの方ですから、そもそも科学で答えられる問題ではないことになります。…


 「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」も「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」も両方とも、パターンXの議論では、この世界における真偽の判定が可能、パターンYの議論では、オーソドックスな科学の範囲内での解答が不能ということではないのでしょうか。

1年前 No.434

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>434  えぴめてうすさんへ

> 「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」も「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」も両方とも、パターンXの議論では、この世界における真偽の判定が可能、パターンYの議論では、オーソドックスな科学の範囲内での解答が不能ということではないのでしょうか。


 その通りです。「我々の世界において、ニュートン力学と相対性理論のどちらが成立しているか?」はパターンXの方なので、オーソドックスな科学の範囲で解明可能な問題です。「なぜ我々の世界では、ニュートン力学ではなく相対性理論の方が成立しているのか?」となるとパターンYになるため、答が見付からず「なぜかそうだからそうなのさ」と受け入れるしか無くなります(どちらが成立する世界も矛盾無く存在し得るという想定のもとで)。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」はパターンYの方なので、オーソドックスな科学の範囲では答が見付からず、「なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。「自分の住む世界は「ある」と「ない」のどちらか?」であればパターンXの方なので、オーソドックスな科学の範囲内で、というか、自分の体験をもとに、直ちに「ある」の方だと答えられます。

1年前 No.435

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>435

  >>433 でご説明いただきましたことについて、勝手に要約しました。

(数学について)
・数学では、まず証明なしに真だと仮定する「公理」を定め、それを使って「定理」を証明する。よって、真である命題は、その公理が正しいという条件付きの真理である。
・その公理自体は、真偽の証明ができない。
・真理体系を作り上げるためには、少なくとも1つは公理を定める必要がある。
・何を公理とするかは恣意的で、公理系を特定しなければ、定理の真偽は判定できず、どちらも限定された世界の中での相対的真理でしかない。
・絶対的真理であるのは、すべての公理系での真偽を示すことであり、全体がトートロジーからなり、証明不要の絶対的真理になると同時に、真理を何も限定しないため、全く中身の無い命題「空」(くう)となる。

(科学について)
・科学で、複数の物理現象を、1つ物理法則として定められる場合があるが、この世界でなぜその法則が成立するのかという謎が残り、科学はこれに答えることができない。
・たとえば、F=ma自体が自分の住む世界の現状認識に過ぎず、これが正しいことを論理的必然性で理解した訳ではない。ゆえに「なぜF=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方なのか?」という謎が残る。根源的な自然法則の存在で説明しようとしても無限後退となる。
・「「○○○である」と「○○○でない」それぞれの真偽」(パターンX)は現状認識できるが、この世界で「○○○である」が真だと判明しても、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」(パターンY)には答えられない。
・この場合も、多世界解釈を採り、「「○○○である」が真である世界では「○○○である」が真、「○○○でない」が真である世界では「○○○でない」が真」、と考えればすべての謎が消滅する。
・現在の物理学は、我々の世界で成立している物理法則L1を解明している段階。存在し得るすべての物理法則を要素とする集合{L}が解明できれば、謎はすべて消滅する。
・このように、どんな科学理論も、究極まで完成したときには必ずトートロジーに到達する。ただしそのためには、多世界解釈を採り入れ、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現している、と想定することが必要。

(「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について)
・「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」も「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」も両方とも、パターンXの議論では、この世界における真偽の判定が可能、パターンYの議論では、オーソドックスな科学の範囲内での解答が不能である。

以上

誤った要約部分がありましたら、お手数ながらお教えいただけると幸いです。

>>427 でいただいた次のご質問の答えとしては、@でしょうか、Aでしょうか。
【質問】
例えばP=「ニュートン力学と相対性理論はどちらが正しいか?」は、オーソドックスな科学の方法で十分答が得られる問題です。一方、Q=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、科学の方法では解けないアポリアだと言われています。なぜQはアポリアだと言われているのでしょうか? PとQの本質的な違いは何でしょう?

@「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」という問題はパターンXの方ですから、オーソドックスな科学の範囲内で解決できる問題です。一方、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、パターンYの方ですから、そもそも科学で答えられる問題ではないことになります。

A「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」も「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」も両方とも、パターンXの議論では、この世界における真偽の判定が可能、パターンYの議論では、オーソドックスな科学の範囲内での解答が不能である。

1年前 No.436

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>436  えぴめてうすさんへ

>(数学について)

>・数学では、まず証明なしに真だと仮定する「公理」を定め、それを使って「定理」を証明する。よって、真である命題は、その公理が正しいという条件付きの真理である。

>・その公理自体は、真偽の証明ができない。

>・真理体系を作り上げるためには、少なくとも1つは公理を定める必要がある。

>・何を公理とするかは恣意的で、公理系を特定しなければ、定理の真偽は判定できず、どちらも限定された世界の中での相対的真理でしかない。

>・絶対的真理であるのは、すべての公理系での真偽を示すことであり、全体がトートロジーからなり、証明不要の絶対的真理になると同時に、真理を何も限定しないため、全く中身の無い命題「空」(くう)となる。


>(科学について)

>・科学で、複数の物理現象を、1つ物理法則として定められる場合があるが、この世界でなぜその法則が成立するのかという謎が残り、科学はこれに答えることができない。

>・たとえば、F=ma自体が自分の住む世界の現状認識に過ぎず、これが正しいことを論理的必然性で理解した訳ではない。ゆえに「なぜF=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方なのか?」という謎が残る。根源的な自然法則の存在で説明しようとしても無限後退となる。

>・「「○○○である」と「○○○でない」それぞれの真偽」(パターンX)は現状認識できるが、この世界で「○○○である」が真だと判明しても、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」(パターンY)には答えられない。

>・この場合も、多世界解釈を採り、「「○○○である」が真である世界では「○○○である」が真、「○○○でない」が真である世界では「○○○でない」が真」、と考えればすべての謎が消滅する。

>・現在の物理学は、我々の世界で成立している物理法則L1を解明している段階。存在し得るすべての物理法則を要素とする集合{L}が解明できれば、謎はすべて消滅する。

>・このように、どんな科学理論も、究極まで完成したときには必ずトートロジーに到達する。ただしそのためには、多世界解釈を採り入れ、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現している、と想定することが必要。


>(「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」について)

>・「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」も「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」も両方とも、パターンXの議論では、この世界における真偽の判定が可能、パターンYの議論では、オーソドックスな科学の範囲内での解答が不能である。


>誤った要約部分がありましたら、お手数ながらお教えいただけると幸いです。


 すべて正しく理解して頂けているように思います。素晴らしい読解力です、はい。

> >>427 でいただいた次のご質問の答えとしては、@でしょうか、Aでしょうか。

>【質問】

>例えばP=「ニュートン力学と相対性理論はどちらが正しいか?」は、オーソドックスな科学の方法で十分答が得られる問題です。一方、Q=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、科学の方法では解けないアポリアだと言われています。なぜQはアポリアだと言われているのでしょうか? PとQの本質的な違いは何でしょう?

>@「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」という問題はパターンXの方ですから、オーソドックスな科学の範囲内で解決できる問題です。一方、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、パターンYの方ですから、そもそも科学で答えられる問題ではないことになります。

>A「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」も「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」も両方とも、パターンXの議論では、この世界における真偽の判定が可能、パターンYの議論では、オーソドックスな科学の範囲内での解答が不能である。


 正確なのは@の方です。ただし、パターンXの「ニュートン力学と相対性理論とはどちらが正しいか?」をパターンYに変えたものが「我々の世界では、なぜニュートン力学ではなく相対性理論の方が成立しているのか?」であり、パターンYの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をパターンXに変えたものが「我々の世界は「何かがある」と「何もない」のどちらか?」であると見なすのなら、Aの方も正しいと言えます。

1年前 No.437

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>437

 ありがとうございます。

 ご教示を踏まえ、考えた場合、「多世界解釈が正しくない世界」では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」についての答が存在しないことが解ったことの説明というのは、次のことでしょうか。正確でなければ、その箇所をご教示いただければ幸いです。

 「「○○○である」と「○○○でない」それぞれの真偽」(パターンX)は現状認識できるが、この世界で「○○○である」が真だと判明しても、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」(パターンY)には答えられない。

>>416

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

>> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。


>bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

>「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。

1年前 No.438

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>438  えぴめてうすさんへ

> ご教示を踏まえ、考えた場合、「多世界解釈が正しくない世界」では「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」についての答が存在しないことが解ったことの説明というのは、次のことでしょうか。正確でなければ、その箇所をご教示いただければ幸いです。


> 「「○○○である」と「○○○でない」それぞれの真偽」(パターンX)は現状認識できるが、この世界で「○○○である」が真だと判明しても、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」(パターンY)には答えられない。


 はい、そういう事です。「○○○である」=「ある」、「○○○でない」=「ない」と置きます。「この世界は「ある」のか「ない」のか?」であればパターンXの方であり、経験的に「ある」の方が真だと判明します。「なぜこの世界は「ない」ではなく「ある」の方なのか?」という謎はパターンYの方なので、多世界解釈を採らないオーソドックスな科学では答えられないことになります。
 そこで「多世界解釈」(合)[ >>372 ]を採り、存在し得るすべての世界が、視点の取り方によって「存在する」と「存在しない」のどちらにも成り得るような在り方をしていると考えます。すると、「何かがある」という視点に立てば「何かがある」、「何もない」という視点に立てば「何もない」、というダブル・トートロジーだったこととなり、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎も消滅します。

1年前 No.439

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>439

 ありがとうございます。

 なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」(パターンY)にはなぜ答えられないのか、もう少しご教示いただきたいのですが、数学、科学の基礎のところで、公理を導入(仮定)することにより、定理を導くことができるが、公理自体は、真偽の証明ができないとのご説明がありました。
 そのアナロジーでいうと、問いの中の、何かがあるのであって、何もないわけではないということが、公理に相当するということでしょうか。

1年前 No.440

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>440  に加えての質問ですが、多世界解釈をとった場合、

【公理】
 a「何かがある」+b「何もない」(aもbも不明) を全体とし、「何かがある」の視点に立てば「何かがある」(a=1)、「何もない」(b=1)の視点に立てば「何もない」、すべての可能性がありうる。
 観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何かがある」が確率1で実現し、「何もない」が実現した確率は0で、観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何もない」が確率1で実現し、「何かがある」が実現した確率は0となる。
 ただし、「何かがある」を体験している「私1」、「何もない」を体験している私を「私2」、「何かがある」+「何もない」を体験している私を「私3」とすると、私2と私3は、無意識であり、3つの私を同時に体験していることを共有できないし、実証も反証もできない。
 実証も反証もできないからこそ、全知全能の「神」は3つを実現している、という解釈が可能になる。

   ↓

【問い】
 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

   ↓

【答え】
 すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

 という構造で理解してよいのでしょうか。

1年前 No.441

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>440  に加えての2つ目の質問ですが、

 ユークリッド幾何学では、次のような展開だと思いますが、いかかでしょうか。

【所与の前提】
 平面

 ↓

【公理】
 1.同じものに等しいものは、互いに等しい
 2.同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい
 3.同じものから同じものを引いた場合、残りは等しい
 4.[不等なものに同じものを加えた場合、その合計は不等である]
 5.[同じものの2倍は、互いに等しい]
 6.[同じものの半分は、互いに等しい]
 7.互いに重なり合うものは、互いに等しい
 8.全体は、部分より大きい
 9.[2線分は面積を囲まない]      (ウィキペディア)

 ↓

【定理】
 三角形の内角の和は180度であってほかではない。


 では、SB量子神学では、どのようになるんでしょうか。

【所与の前提】

 ↓

【公理】

 ↓

【定理】

1年前 No.442

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>440  えぴめてうすさんへ

> なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」(パターンY)にはなぜ答えられないのか、もう少しご教示いただきたいのですが、数学、科学の基礎のところで、公理を導入(仮定)することにより、定理を導くことができるが、公理自体は、真偽の証明ができないとのご説明がありました。

> そのアナロジーでいうと、問いの中の、何かがあるのであって、何もないわけではないということが、公理に相当するということでしょうか。


 その通りです。論理的必然性は見い出せないまま、なぜか正しいらしいと受け入れるのですから、証明なしに「公理」に定めることになります。

>>441  えぴめてうすさんへ
>【公理】

> a「何かがある」+b「何もない」(aもbも不明) を全体とし、「何かがある」の視点に立てば「何かがある」(a=1)、「何もない」(b=1)の視点に立てば「何もない」、すべての可能性がありうる。

> 観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何かがある」が確率1で実現し、「何もない」が実現した確率は0で、観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何もない」が確率1で実現し、「何かがある」が実現した確率は0となる。

> ただし、「何かがある」を体験している「私1」、「何もない」を体験している私を「私2」、「何かがある」+「何もない」を体験している私を「私3」とすると、私2と私3は、無意識であり、3つの私を同時に体験していることを共有できないし、実証も反証もできない。

> 実証も反証もできないからこそ、全知全能の「神」は3つを実現している、という解釈が可能になる。

   ↓
>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

   ↓
>【答え】

> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

 という構造で理解してよいのでしょうか。

 その通りです。ただし、

> 観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何かがある」が確率1で実現し、「何もない」が実現した確率は0で、観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何もない」が確率1で実現し、「何かがある」が実現した確率は0となる。


というのは、ちょっと表現がおかしいです。「「何かがある」と「何もない」は両方実現しているので、「何かがある」の方を選べば「何かがある」が選ばれ、「何もない」の方を選べば「何もない」が選ばれる。どちらもトートロジーなので、謎は無い。」と表現した方が良いかも。

 これまで説明した理由により、SumioBabaはこう結論します。
    【結論】
 多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考えてしまうと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに、オーソドックスな科学は答えられず、「なぜかそうだからそうなのさ」と黙って受け入れるしか無くなる。

 この【結論】はいかがでしょうか?  >>442 はまた別の問題になりますので、取り敢えずここまでで決着を着けませんか。

1年前 No.443

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>442  えぴめてうすさんへ

> ユークリッド幾何学では、次のような展開だと思いますが、いかかでしょうか。


>【所与の前提】

> 平面

 ↓
>【公理】

> 1.同じものに等しいものは、互いに等しい

> 2.同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい

> 3.同じものから同じものを引いた場合、残りは等しい

> 4.[不等なものに同じものを加えた場合、その合計は不等である]

> 5.[同じものの2倍は、互いに等しい]

> 6.[同じものの半分は、互いに等しい]

> 7.互いに重なり合うものは、互いに等しい

> 8.全体は、部分より大きい

> 9.[2線分は面積を囲まない]      (ウィキペディア)

 ↓
>【定理】

> 三角形の内角の和は180度であってほかではない。


 ユークリッド幾何学における「公理」は普通、第1公準〜第5公準と呼ばれる5つのものを指します。第5公準だけが複雑な内容を持ち、他の4つから何とか導けないかと試みられて来ましたが、決して成功しませんでした。そして、第5公準を第5公準の否定に置き換えても、無矛盾な幾何学を構成できることが判明しました。それが非ユークリッド幾何学です。もっとも、今は幾何学の話をしているのではないので、詳しい話はここまでにします。

1年前 No.444

宿題 ★bUKyk3gX2r_xmq

在るものが無いとは?

無いものが在るとは?

1年前 No.445

★30JjgxOVKX_ZFe

>445

「無い」って、どういうことなのかしら?

宿題さまの「無い」の意味を記してもらえるとわかりやすいんだけど。
でも、おそらく、ママには、「無理」よね。

1年前 No.446

宿題 ★5z6bVAmgS3_xmq

およぐちゃん

猫がおよぐちゃんの部屋にいたとします。その時猫は存在します。

猫が隣の部屋に移動したとします。その時それを知らないおよぐちゃんの前には猫は存在しないのです。

今およぐちゃんにとって猫は存在しないのです。(在るものが無い)

およぐちゃんが猫を見ているから(主観)そうなるのです。

1年前 No.447

★30JjgxOVKX_ZFe

>447
「存在」と「無」とは同じ次元で考えないほうがいいと思うのね。

「(在るものが無い)」は、すでに「存在する(在る)」が前提となっているんじゃない?

「○○である」、「○○ではない」においては、「○○」が「存在する」が前提となってなっているんじゃない?

「猫を見ているから(主観)」って、どういう意味かしら?

1年前 No.448

宿題 ★5z6bVAmgS3_xmq

およぐちゃん

およぐちゃんの前に猫が存在しますか?

1年前 No.449

★30JjgxOVKX_ZFe

>449
わたしの横にはいわゆる犬がいます。
ママのそばにだれがいます?

1年前 No.450

宿題 ★5z6bVAmgS3_xmq

およぐちゃん

ちゃんと答えてもらえませんか?

およぐちゃんの前に猫は存在しますか?

1年前 No.451

宿題 ★5z6bVAmgS3_xmq

主観と客観の説明だからちゃんと答えてもらいたいです・・

1年前 No.452

★30JjgxOVKX_ZFe

”ここ”では、ちゃんと答えてるつもりだけど。
「主観と客観の説明」?ここ、この場じゃなよね。

「なぜ何もないのではなく」っていう場所でしょ?


ママのそばには誰もいないの?

1年前 No.453

宿題 ★bUKyk3gX2r_xmq

およぐちゃん

序論・本論・結論・・

物事にはそれぞれにおいて段階があります。

主観の説明をしないと存在の対象の客観の説明が始まりません・・

私は一人では暮らせません・・そばにはボディガードが居ます・・

1年前 No.454

★30JjgxOVKX_ZFe

>454

「前提→推論→結論」を「論証」っていうらしいわよ。

え!ママには、ボディガードがいるの? すご!

1年前 No.455

宿題 ★bUKyk3gX2r_xmq

およぐちゃん

私の住んでいる一帯は、夜道は歩けないの・・昼間でさえ誰もあるかない危険地帯・・

毎晩パトカーがカーチェイスしている所です。

1年前 No.456

怒髪天 ★5MMzkkTu6n_Ew9

荒らすな。他でやれ。はみ出してくるな。

1年前 No.457

★30JjgxOVKX_ZFe

その「危険地帯」、人間の問題?

1年前 No.458

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>443

>取り敢えずここまでで決着を着けませんか。


 すみません、調子に乗ってしまいました。

 いま私は、 >>427 の諸課題に取り組んでいます。少しだけ、整理させてください。

  >>371 で、「実証も反証もできないのであれば、「多世界解釈」の肯定と否定の両方を考慮すべきなのでは?」とのご指摘をいただき、私もそういう観点で考えてまいりました。

 両方を考慮した結果、a多世界解釈が正しい世界では、謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなることは、以前から了解しています。
 また、b多世界解釈が正しくない世界では、まだ問いが解かれないまま残されていると思ったのですが、「bでは答が無いことが解った」、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」だとのご指摘を受けました。

 そのことについて、私が十分フォローできていないことを申し上げ、 >>433 で、数学、科学の基礎として、前提として「公理」を受け入れる必要があること、その「公理」の設定は恣意的かつ真偽判定不能なこと、それを証明しようとすると、無限後退に陥ることなどをご説明いただき、このことが、「bでは答が無いことが解った」ことの説明だと受けとめさせていただきました。

 そして、それを用いて、自分で「bでは答が無いこと」を確かめようとしているところです。
 前置きがくどくなりましたが、以下で順を追って確認しながら、 >>443 「この【結論】はいかがでしょうか?」についての私の考えと多世界解釈を採る場合についての疑問も記したいと思います。

《常識的に考えた場合》
【公理】
 何かがある又は何もないのどちらかである
   ↓
【問い】
 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
   ↓
【答え】
 ?、無現後退、答えはない…A

《多世界解釈を導入した場合》
【公理】
 多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)
   ↓
【問い】
 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
   ↓
【答え】
(正しい場合)
 すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。
(正しくない場合)
 Aと同じ

> 【結論】

 多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考えてしまうと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに、オーソドックスな科学は答えられず、「なぜかそうだからそうなのさ」と黙って受け入れるしか無くなる。

 この【結論】の考え方は、うえで設定した《常識的に考えた場合》に該当すると思います。
 よって、【答え】は、Aであり、SumioBabaさんが【結論】の中でお述べのとおりです。
 その理由は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いが、「何かがある又は何もないのどちらかである」という公理の真偽を問題にしているからだと思いますが、違うでしょうか。

 今度は、 >>354 でいただいた次のご説明をもとに《多世界解釈を導入した場合》を考えてみます。
>SumioBabaは、「多世界解釈こそが絶対に正しい」などと主張していないことは、理解して頂けてますか? 多世界解釈は「正しい」か「正しくない」かについて、SumioBabaの判断は、a「正しい」+b「正しくない」です。つまり、正しいかもしれない、正しくないかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、です。そして、「正しい」と考えれば「謎は無くなる」、「正しくない」と考えれば「謎は無くならない」です。「正しい」か「正しくない」かについてすべての可能性を考慮していますから、これが外れることは無いという意味で恒真(トートロジー)であり、証明不要の絶対的真理です。もちろん「信じる・信じない」の話ではないですね。


 《多世界解釈を導入した場合》に、【答え】は、(正しい場合)では、謎の消滅が示され、(正しくない場合)では、それが、《常識的に考えた場合》に該当するのであれば、Aと同様であることが示されます。
 この場合、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いは、「多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)」という公理の真偽を問題にはしていません。
 蛇足ですが、《多世界解釈を導入した場合》について、あえて、私の意識があるこの世界は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いとして考えた場合、「すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。」に加えて、「この世界であなたの意識があるのは、偶然だ。」という答えを付け加えてもよいかと思いますが、いかがでしょうか。

 ここで、私の疑問ですが、 >>419 でお述べになった「つまり、「「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに真理は確定している」と思い込むことが、謎を生じさせているだけであり、そう思い込まなければ初めから謎は何も無い」の前半の思い込みが《常識的に考えた場合》で、後半の思い込みなしが《多世界解釈を導入した場合》のうちの(正しい場合)に該当すると思われます。
 しかし、《多世界解釈を導入した場合》のうちの(正しくない場合)は、前半の思い込みのある《常識的に考えた場合》と同様の状況で残っています。
 つまり、《多世界解釈を導入した場合》という1つの公理系のもとで、(正しい場合)と(正しくない場合)があり、「「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに真理は確定している」と思い込まない(正しい場合)において、初めから謎は何も無いということが言えるように思われます。
 言い替えれば、《多世界解釈を導入した場合》において、(正しい場合)に限定しないと、初めから謎は何も無いということができず、(正しい場合)だけの答えを、答えとして受け入れるならば、真理を限定していることになるのではないかと思われるのです。
 「多世界解釈」の肯定と否定の両方を考慮すべきなのでは?」とのご指摘を踏まえ、《多世界解釈を導入した場合》において、それが(正しい場合:問いの意味がない)と(正しくない場合:答えがない)のすべて(両方)の可能性を考慮することにより、これが外れることは無いという意味で恒真(トートロジー)であり、証明不要の絶対的真理となるのではないかということについて、私の思考の誤っている箇所についてご教示いただけれれば幸いです。

>>444

 あと、 >>442 では、この究極の問いにおいて、ユークリッド幾何学の「平面」に相当するものは何か。SB量子神学では、「平面」に相当するものは何かについてお聞きしたかった次第です。

 以上、お手数ですが、よろしくお願いします。

1年前 No.459

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>459  えぴめてうすさんへ

> すみません、調子に乗ってしまいました。


 いえいえ、しっかり理解して頂けているのを確認するのは嬉しいし、レベルの高い議論ができて楽しいです。

>《常識的に考えた場合》

>【公理】

> 何かがある又は何もないのどちらかである

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

> ?、無現後退、答えはない…A


>《多世界解釈を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

>(正しい場合)

> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

>(正しくない場合)

> Aと同じ


>> 【結論】

>> 多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考えてしまうと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに、オーソドックスな科学は答えられず、「なぜかそうだからそうなのさ」と黙って受け入れるしか無くなる。


> この【結論】の考え方は、うえで設定した《常識的に考えた場合》に該当すると思います。

> よって、【答え】は、Aであり、SumioBabaさんが【結論】の中でお述べのとおりです。


 その通りです。ここまでは合意成立ですね。

> その理由は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いが、「何かがある又は何もないのどちらかである」という公理の真偽を問題にしているからだと思いますが、違うでしょうか。


 そうです。論理的必然性は理解できないまま、自分が認識しているのはなぜか「○○○である」の方であって「○○○でない」の方ではないと、在りのままに認めるしかないのがオーソドックスな科学です。それを正しいと受け入れるのであれば、「○○○である」の方を証明なしに「公理」として定めるしか方法が有りません。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られない、ということです。

> 蛇足ですが、《多世界解釈を導入した場合》について、あえて、私の意識があるこの世界は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いとして考えた場合、「すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。」に加えて、「この世界であなたの意識があるのは、偶然だ。」という答えを付け加えてもよいかと思いますが、いかがでしょうか。


 「偶然」という言葉の定義次第だと思います。「偶然」だと見える視点だと「偶然」に見えるし、「必然」だと見える視点だと「必然」に見えるのではないでしょうか?

> ここで、私の疑問ですが、 >>419 でお述べになった「つまり、「「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに真理は確定している」と思い込むことが、謎を生じさせているだけであり、そう思い込まなければ初めから謎は何も無い」の前半の思い込みが《常識的に考えた場合》で、後半の思い込みなしが《多世界解釈を導入した場合》のうちの(正しい場合)に該当すると思われます。


・ 前半の思い込みが《常識的に考えた場合》である点はOKです。
・ 後半の思い込みなしは、《多世界解釈を導入した場合》のうちの(正しい場合)ではなく、(正しい場合)+(正しくない場合)に該当します。
・ 「「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現している」と思い込むのが、《多世界解釈を導入した場合》のうちの(正しい場合)に該当します。

> しかし、《多世界解釈を導入した場合》のうちの(正しくない場合)は、前半の思い込みのある《常識的に考えた場合》と同様の状況で残っています。

> つまり、《多世界解釈を導入した場合》という1つの公理系のもとで、(正しい場合)と(正しくない場合)があり、「「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに真理は確定している」と思い込まない(正しい場合)において、初めから謎は何も無いということが言えるように思われます。


 多世界解釈も3つに分けます( >>372 )。「多世界解釈」(正)=「存在し得るすべての世界が「存在する」であり、「存在しない」ではない」。「多世界解釈」(反)=「多世界解釈」(正)の否定=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり、その補集合は「存在しない」である」。「多世界解釈」(合)=「存在し得るすべての世界が「存在する」または「存在しない」または「存在する」+「存在しない」のどれかである」。「多世界解釈」(合)は、「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(反)のすべてのヴァリエーションを確率的に重ね合わせたものであり、これこそがあらゆる可能性を網羅しているので、決して外れることが無く恒真(トートロジー)です。「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)。「多世界解釈」(正)のとき「謎はない」(正)、「多世界解釈」(反)のとき「謎が残る」(反)、「多世界解釈」(合)のとき「謎はない」(合)です。そして、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)です。

> 言い替えれば、《多世界解釈を導入した場合》において、(正しい場合)に限定しないと、初めから謎は何も無いということができず、(正しい場合)だけの答えを、答えとして受け入れるならば、真理を限定していることになるのではないかと思われるのです。


 「多世界解釈」(合)を導入した場合、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)です。「謎はない」(正)を選ぶと「謎はない」(正)が選ばれますが、「なぜ謎はないのか?」というメタ謎が発生してしまいます。「謎が残る」(反)を選ぶと「謎が残る」(反)が選ばれる上に、「なぜ謎が残るのか?」というメタ謎も発生してしまいます。「謎はない」(合)に留まれば、「謎はない」(正)か「謎が残る」(反)かにも確定していないので、「なぜ謎はないのか?」「なぜ謎は残るのか?」というメタ謎自体が「ない」です。

> あと、 >>442 では、この究極の問いにおいて、ユークリッド幾何学の「平面」に相当するものは何か。SB量子神学では、「平面」に相当するものは何かについてお聞きしたかった次第です。


 「SB量子神学」では、「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」が唯一の「公理」です。○○○については、特に何も限定しておらず、必要と思われるものはすべて含んでOKです。ただし、ライプニッツのモナドロジーでも十分に世界を記述できると思われ、これが最もシンプルな記述かと思います。そのため、考える必要が有るのは、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…の集合{M}で十分ではないかと考えます。個々の心が持つ情報をMi=「01?1??0?001?…」(「0」、「1」、「?」=「0」+「1」の3つが合計N個並ぶ)と表し、個々のビットが独立して「0」、「1」、「?」の3値を取れるとすれば、全部で3^N種類の心になります(N→∞)。これらすべての心について、「存在する」と「存在しない」の両方を自ら体験していることにより、「神」は何一つ限定されておらず全知全能であると考えます。

1年前 No.460

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>442  えぴめてうすさんへ

> では、SB量子神学では、どのようになるんでしょうか。

>【所与の前提】

> ↓

>【公理】

> ↓

>【定理】


    【所与の前提】

 「SB量子神学」において、【所与の前提】は特に有りません。敢えて言えば、モナドロジーを採るので、考えるのは存在し得るすべての心の状態だけです。他にも必要なものが有ればすべて含めますが、特に必要は無いように思われます。

    【公理】

 「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」が唯一の【公理】です。ただし、この時点ですでに2つの解釈が生じます。「あらゆる○○○」の中に、「□□□である」自身は含まれるのか、含まれないのか、です。

 「含まれない」と解釈すると「SB量子神学」(正)になります。この場合、「「□□□である」が真、「□□□でない」は偽」と真理を片方だけに限定したことになり、もちろん証明はしていないので、科学の立場で「SB量子神学」(正)はただの仮説に留まります。「□□□である」=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」を主張するものの、「□□□である」自体が唯一の例外であり、「□□□でない」の方は実現されていない、と見なすのが「SB量子神学」(正)です。

 「含まれる」と解釈すると「SB量子神学」(合)になります。つまり全知全能の「神」は「□□□である」だけでなく「□□□でない」の方も実現している、です。そこで、a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbは不明)と表現すれば、「○○○である」「○○○でない」「□□□である」「□□□でない」の4つすべてを含むことになり、すべての可能性を網羅した上でそのどれかが真だと主張しているので、恒真(トートロジー)になります。これは、「SB量子神学」(正)で唯一の仮定であり【公理】であった「「□□□である」が真であり、「□□□でない」は偽である」を外したことに相当します。つまり「SB量子神学」(合)は、何一つ【公理】を定めない真理体系、あるいは、a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbは不明)というトートロジー1つだけを【公理】とする真理体系になります。

    【定理】

 「SB量子神学」(正)では、「「□□□である」が真、「□□□でない」が偽」という真理の限定をする【公理】が1つだけ有りました。「□□□である」が真なのですから、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現されています(「○○○である」=「□□□である」の場合だけが唯一の例外)。それゆえ「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」なのか?」という謎は、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」、というダブル・トートロジーに解消され、消滅します(「○○○である」=「□□□である」の場合だけが唯一の例外)。つまり、「すべての謎はダブル・トートロジーで消滅する」=「△△△である」が「SB量子神学」(正)における【定理】と見なせます(ただし、「○○○である」=「□□□である」の場合だけが唯一の例外。)。

 「SB量子神学」(合)では、唯一の例外をも無くすため、「□□□である」と「□□□でない」も両方実現していると考えます。そして、「□□□である」のとき「△△△である」ですが、「□□□でない」のとき「△△△でない」にも成り得ます。つまり、「△△△である」も「△△△でない」も、無条件で真になることは有りません。せいぜい条件付きで、「△△△である」と認識する視点に立てば「△△△である」、「△△△でない」と認識する視点に立てば「△△△でない」、と言えるだけです。「SB量子神学」(合)では、真理を限定する【公理】を何一つ定めていないので、同じく真理を限定する【定理】も何一つ有りません。つまり、無条件に「「○○○である」が真、「○○○でない」が偽」と言えるような【定理】は何一つ無く、真だと見なせる命題はすべて、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」、というトートロジーだけになります。

1年前 No.461

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>460

 ありがとうございます。

> 論理的必然性は理解できないまま、自分が認識しているのはなぜか「○○○である」の方であって「○○○でない」の方ではないと、在りのままに認めるしかないのがオーソドックスな科学です。それを正しいと受け入れるのであれば、「○○○である」の方を証明なしに「公理」として定めるしか方法が有りません。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られない、ということです。


 また、ご質問をさせていただくのですが、
 これを、《多世界解釈を導入した場合》に適用すると、自分が認識しているのは「○○○である」の方であるが、「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」と考える。それを正しいと受け入れるのであれば、多世界解釈を証明なしの「公理」として定めることになる。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られないということになるかと思います。
 つまり、自然科学をはじめとして、ある公理を受け入ることにより、その公理系内では、論理が貫徹するが、その公理自体を疑うと、無現後退するというのが、多世界解釈が正しい場合に答えがなくなることの教訓だったと思いますが、同様の構造で、公理としての多世界解釈を疑うと、同じことにはならないのでしょうか。

>・ 後半の思い込みなしは、《多世界解釈を導入した場合》のうちの(正しい場合)ではなく、(正しい場合)+(正しくない場合)に該当します。


 了解しました。

>「多世界解釈」(合)を導入した場合、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)です。「謎はない」(正)を選ぶと「謎はない」(正)が選ばれますが、「なぜ謎はないのか?」というメタ謎が発生してしまいます。「謎が残る」(反)を選ぶと「謎が残る」(反)が選ばれる上に、「なぜ謎が残るのか?」というメタ謎も発生してしまいます。「謎はない」(合)に留まれば、「謎はない」(正)か「謎が残る」(反)かにも確定していないので、「なぜ謎はないのか?」「なぜ謎は残るのか?」というメタ謎自体が「ない」です。


 ここでの疑問は、「すべてある」(合)=「すべてある」(正)+「すべてあるわけではない」(反)だとすると、「すべてあるわけではない」(反)のことも含めて、「すべてある」(合)だということかと理解しやすいのですが、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)の場合は、「謎が残る」(反) のことも含めて、「謎はない」(合)だということが理解しにくいです。
 上の一切の思い込みなしの考え方(多世界解釈)においても、「謎がない」(正)こともあり、「謎が残る」(反)こともある、それらをあわせて、全体として「謎がない」(合)とはならないような気がするのですが、どう考えればいいのでしょう。

1年前 No.462

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>462  えぴめてうすさんへ

>> 論理的必然性は理解できないまま、自分が認識しているのはなぜか「○○○である」の方であって「○○○でない」の方ではないと、在りのままに認めるしかないのがオーソドックスな科学です。それを正しいと受け入れるのであれば、「○○○である」の方を証明なしに「公理」として定めるしか方法が有りません。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られない、ということです。


> また、ご質問をさせていただくのですが、

> これを、《多世界解釈を導入した場合》に適用すると、自分が認識しているのは「○○○である」の方であるが、「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」と考える。それを正しいと受け入れるのであれば、多世界解釈を証明なしの「公理」として定めることになる。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られないということになるかと思います。

> つまり、自然科学をはじめとして、ある公理を受け入ることにより、その公理系内では、論理が貫徹するが、その公理自体を疑うと、無現後退するというのが、多世界解釈が正しい場合に答えがなくなることの教訓だったと思いますが、同様の構造で、公理としての多世界解釈を疑うと、同じことにはならないのでしょうか。


 「多世界解釈」(合)はトートロジーなので、「公理」として定めたといっても、何一つ真理を限定した訳ではなく、証明の必要も無いので、無限後退に陥ることも有りません。《「多世界解釈」(合)を導入した場合》というのは、《仮定すなわち真理を限定する「公理」を何一つ定めない場合》と同義です。

>>「多世界解釈」(合)を導入した場合、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)です。「謎はない」(正)を選ぶと「謎はない」(正)が選ばれますが、「なぜ謎はないのか?」というメタ謎が発生してしまいます。「謎が残る」(反)を選ぶと「謎が残る」(反)が選ばれる上に、「なぜ謎が残るのか?」というメタ謎も発生してしまいます。「謎はない」(合)に留まれば、「謎はない」(正)か「謎が残る」(反)かにも確定していないので、「なぜ謎はないのか?」「なぜ謎は残るのか?」というメタ謎自体が「ない」です。


> ここでの疑問は、「すべてある」(合)=「すべてある」(正)+「すべてあるわけではない」(反)だとすると、「すべてあるわけではない」(反)のことも含めて、「すべてある」(合)だということかと理解しやすいのですが、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)の場合は、「謎が残る」(反) のことも含めて、「謎はない」(合)だということが理解しにくいです。

> 上の一切の思い込みなしの考え方(多世界解釈)においても、「謎がない」(正)こともあり、「謎が残る」(反)こともある、それらをあわせて、全体として「謎がない」(合)とはならないような気がするのですが、どう考えればいいのでしょう。


 「多世界解釈」(合)の視点に立っているとき、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)ですから、「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(反)とが重ね合わせのままです。「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」という《謎》は、「多世界解釈」(正)の視点だと消滅し、「多世界解釈」(反)の視点だと残ります。「多世界解釈」(合)の視点では、「多世界解釈」(反)の場合に《謎》が残ってしまう原因も理解しているし、《謎》を消滅させるには「多世界解釈」(正)を選べば良いことも知っています。つまり「多世界解釈」(合)の視点では、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」という《謎》の答をすでに得ており、《謎》は消滅しています。

1年前 No.463

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>463

 ありがとうございます。

>>つまり、自然科学をはじめとして、ある公理を受け入ることにより、その公理系内では、論理が貫徹するが、その公理自体を疑うと、無現後退するというのが、多世界解釈が正しい場合に答えがなくなることの教訓だったと思いますが、同様の構造で、公理としての多世界解釈を疑うと、同じことにはならないのでしょうか。


 すみません。上記で誤字がありました。失礼しました。
(誤字)
 無現後退するというのが、
   ↓
 無限後退するというのが、

 多世界解釈が正しい場合に答えがなくなること
   ↓
 多世界解釈が正しくない場合に答えがなくなること


「多世界解釈」(合)の場合の公理としての考え方のところがよくわからないのですが……、

>「多世界解釈」(合)はトートロジーなので、「公理」として定めたといっても、何一つ真理を限定した訳ではなく、証明の必要も無いので、無限後退に陥ることも有りません。《「多世界解釈」(合)を導入した場合》というのは、《仮定すなわち真理を限定する「公理」を何一つ定めない場合》と同義です。


《常識的に考えた場合》
【公理】
 何かがある又は何もないのどちらかである
   ↑
 この「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退となる。

《「多世界解釈」(合)を導入した場合》
【公理】
 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》
   ↑
 この【公理】について論理的必然性による説明を試みた場合、「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」、「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」という疑問が出て、結局、「それは、実証も反証もできない公理として置いているから」ということにはならないのでしょうか。

1年前 No.464

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>464  えぴめてうすさんへ

>《「多世界解釈」(合)を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》

>   ↑

> この【公理】について論理的必然性による説明を試みた場合、「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」、「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」という疑問が出て、結局、「それは、実証も反証もできない公理として置いているから」ということにはならないのでしょうか。


 「多世界解釈」(合)の内容は「存在し得るすべての世界のどれもが、「存在する」または「存在しない」または「存在する」+「存在しない」の可能性が有る」です。あらゆる可能性を網羅しているので、何一つ真理を限定していません。従って証明の必要も無く恒真(トートロジー)であり、「多世界解釈」(合)そのものが論理的必然性で真です。
 「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」と問われていますが、そんな限定は何も含まれていません。「成立し得る」を選べば「成立し得る」が選ばれる、「成立し得ない」を選べば「成立し得ない」が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。

 「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」の方。
 「多世界解釈」(合)には、「存在し得るすべての世界が存在する」を確率1/2で、「存在し得るすべての世界のうち、存在するのは自分が住む世界W1だけであり、他の世界W2、W3、…は存在しない」を確率1/2で重ね合わせたものも含まれます。この場合「成立し得る」です。「多世界解釈」(合)は、「存在し得るすべての世界が存在する」が確率1の場合も含んでいるし、「存在し得るすべての世界のうち、存在するのは自分が住む世界W1だけであり、他の世界W2、W3、…は存在しない」が確率1の場合も含まれます。これらの場合「成立し得ない」です。「成立し得る」を選べば「成立し得る」が選ばれる、「成立し得ない」を選べば「成立し得ない」が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。

 「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」の方も同様です。「成立し得る」を選べば「成立し得る」が選ばれる、「成立し得ない」を選べば「成立し得ない」が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。

1年前 No.465

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>465

 何度も繰り返しで、恐縮です。
 公理自体を問題にするという意味で、「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」なのですが、
 別の言い方をするとすれば、

>「多世界解釈」(合)の内容は「存在し得るすべての世界のどれもが、「存在する」または「存在しない」または「存在する」+「存在しない」の可能性が有る」です。あらゆる可能性を網羅しているので、何一つ真理を限定していません。従って証明の必要も無く恒真(トートロジー)であり、「多世界解釈」(合)そのものが論理的必然性で真です。

といった意味内容を持つ「公理」たる「多世界解釈」(合)は、なぜそのような内容であるのかを問うということかと思います。

 つまり、常識的に考えた場合の【公理】「何かがある又は何もないのどちらかである」に対して、「この「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退となる」という構造を、「多世界解釈」(合)を導入した場合に適用すると、こういう問い(世界の説明としての「多世界解釈」(合)は、なぜそのような内容であるのか)があるのではないかと思われるのですが………。

1年前 No.466

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>466  えぴめてうすさんへ

>>「多世界解釈」(合)の内容は「存在し得るすべての世界のどれもが、「存在する」または「存在しない」または「存在する」+「存在しない」の可能性が有る」です。あらゆる可能性を網羅しているので、何一つ真理を限定していません。従って証明の必要も無く恒真(トートロジー)であり、「多世界解釈」(合)そのものが論理的必然性で真です。

>といった意味内容を持つ「公理」たる「多世界解釈」(合)は、なぜそのような内容であるのかを問うということかと思います。


 真理を何一つ限定しないことを考えているので、世界の状態は存在し得るすべての可能性を考慮すべきだし、「存在する」か「存在しない」か「存在する」+「存在しない」かもすべての可能性を考慮します。そうすると「多世界解釈」(合)になります。

> つまり、常識的に考えた場合の【公理】「何かがある又は何もないのどちらかである」に対して、「この「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退となる」という構造を、


 「何かがある又は何もないのどちらかである」をa「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)と解釈するなら、これ自体がトートロジーです。(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張していることになり、外れることが有り得ない、という意味で)。トートロジー(恒真)ですから証明不要だし、無限後退にはなりませんよ。
 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。

1年前 No.467

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>467

 ありがとうございます。

《常識的に考えた場合》のアナロジーで見た場合、《「多世界解釈」(合)を導入した場合》についても、公理への問いという点では同じに見えます。

《常識的に考えた場合》
【公理】
 何かがある又は何もないのどちらかである
   ↑
 なぜ世界は「何かがある又は何もないのどちらかである」のか?
   ↑
 それは、実証も反証もできない公理として置いているから

《「多世界解釈」(合)を導入した場合》
【公理】
 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」
   ↑
 なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?
   ↑
 それは、実証も反証もできない公理として置いているから

>>といった意味内容を持つ「公理」たる「多世界解釈」(合)は、なぜそのような内容であるのかを問うということかと思います。

>真理を何一つ限定しないことを考えているので、世界の状態は存在し得るすべての可能性を考慮すべきだし、「存在する」か「存在しない」か「存在する」+「存在しない」かもすべての可能性を考慮します。そうすると「多世界解釈」(合)になります。


 私の質問の仕方がよくありませんでしたが、多世界解釈の内容は、ご説明の内容で了解しているのですが、《常識的に考えた場合》の【公理】何かがある又は何もないのどちらかである」に対する問い「なぜ世界は「何かがある又は何もないのどちらかである」のか?」と同様、なぜ世界のことを、「真理を何一つ限定しないことを考えているので、世界の状態は存在し得るすべての可能性を考慮すべきだし、「存在する」か「存在しない」か「存在する」+「存在しない」かもすべての可能性を考慮」する多世界解釈で説明するのかを問うということかと思います。
 私は、世界のありようの説明としての多世界解釈は、仮説であり、公理としておいたものであり、ユークリッド幾何学などの公理と同様、前提であるとしか答えがないように思えるのです。

 また、 >>465  で、
>「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」と問われていますが、そんな限定は何も含まれていません。「成立し得る」を選べば「成立し得る」が選ばれる、「成立し得ない」を選べば「成立し得ない」が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。


 とのことでしたが、公理から、神は両方を実現していますので、それぞれの視点に立つことなく、世界全体では、「多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立し」、「そのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立し」ているということかと思われます。
 さらに、それぞれが独立しており、世界を同時に体験できないとすれば、それはなぜなのかという問いが生じるように思われるのですが、いかがでしょうか。

1年前 No.468

★Android=5p7EFVubi0

それぞれが独立しており、世界を同時に体験できない理由 有ると無いを同時に満たしてしまうと矛盾した存在しないものになるから(正確には不定=定義不能=認識不能)

1年前 No.469

★Android=5p7EFVubi0

まあ正確には全ての集合の集合が結果として集合ではない存在になり存在しないになるのと同じ理由

1年前 No.470

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

失礼します

なぜなにも無いのでなく在るのか?の答えは「時間が有るから」じゃないでしょうか?
存在というのは時間とイコールだと思います。時間が無ければ当然に存在もない。通行人の意見ですが・・

1年前 No.471

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>469  塵さんへ

>それぞれが独立しており、世界を同時に体験できない理由 有ると無いを同時に満たしてしまうと矛盾した存在しないものになるから(正確には不定=定義不能=認識不能)


 これはナイスコメント!! しかもExtremely Good!! 脱帽です。SumioBabaの説明も全く同じものになります。以下でもうちょっと詳しく説明しますが。


>>468  えぴめてうすさんへ

>《常識的に考えた場合》

>【公理】

> 何かがある又は何もないのどちらかである

>   ↑

> なぜ世界は「何かがある又は何もないのどちらかである」のか?

   ↑
> それは、実証も反証もできない公理として置いているから


>《「多世界解釈」(合)を導入した場合》

>【公理】

 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」
>   ↑

> なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?

>   ↑

> それは、実証も反証もできない公理として置いているから


 上の2つの例、【公理】がどちらもトートロジーなので(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真であると主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真なので)、人間が住む「無矛盾な世界」では絶対的真理であるから、それを「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。
 「神」は全知全能なのだから、トートロジーでさえ肯定も否定もできます。しかし、トートロジーを否定すると矛盾になり、それは「有矛盾な世界」での話になります。我々は今、「無矛盾な世界」で世界とは何かを議論しているので、トートロジーは絶対的真理であり、それを証明する必要も無いし、トートロジーの否定を考えてみる必要も有りません。
 例えば「サイコロの目は1,2,3,4,5,6のどれかが出る」は、「角や辺で立つこともあるかもしれないではないか?」のような屁理屈を言い出さなければ、「無矛盾な世界」では絶対的真理です。これら6つ以外の可能性は無いからです。もちろん「神」は全知全能なので、「サイコロの目は1,2,3,4,5,6のどれかが出る」でさえ肯定することも否定することもできます。ただし、否定した場合には矛盾が生じ「有矛盾な世界」での話になってしまいます。我々人間が住む「無矛盾な世界」では、トートロジーである「サイコロの目は1,2,3,4,5,6のどれかが出る」は絶対的真理であり、「なぜ?」と問う必要さえ有りません。

> 公理から、神は両方を実現していますので、それぞれの視点に立つことなく、世界全体では、「多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立し」、「そのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立し」ているということかと思われます。

 さらに、それぞれが独立しており、世界を同時に体験できないとすれば、それはなぜなのかという問いが生じるように思われるのですが、いかがでしょうか。

 なぜ人間は、「○○○である」と「○○○でない」の片方だけしか認識できないのか?、なぜ人間は「○○○である」と「○○○でない」の両方を同時に認識できないのか?、…であれば、塵さんがすでに答えて下さっています。両方を同時に認識すると矛盾が生じてしまい、「空」M0になってしまうから、…が答です。人間の心は「色」M1、M2、M3、…の方であり、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に縛られていなければ存在できません。

>>471  うさぎさんへ

>なぜなにも無いのでなく在るのか?の答えは「時間が有るから」じゃないでしょうか?

>存在というのは時間とイコールだと思います。時間が無ければ当然に存在もない。通行人の意見ですが・・


 なぜ時間は「ない」ではなく「ある」の方なのでしょう?

1年前 No.472

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>472

 丁寧なご返事をいただいているところですが、どうも質問の意図が届かず、苦慮しております。

>上の2つの例、【公理】がどちらもトートロジーなので(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真であると主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真なので)、人間が住む「無矛盾な世界」では絶対的真理であるから、それを「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


(《常識的に考えた場合》の公理を問うことが無意味であることについて)
  >>433 以降、《常識的に考えた場合》=多世界解釈が正しくない場合 に答えがないことは、真偽の証明ができない公理を受け入れたうえで、その公理を問題にしたためだということを、 >>459 で確認させていただいたかと思います。
 多世界解釈が正しくない場合について、下記のことが当てはまるのでしょうか。

>>467
 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。

(《「多世界解釈」(合)を導入した場合》の公理を問うことが無意味であることについて)
 多世界解釈の内容について、なぜと問うのではありません。
 なぜ、世界は、絶対的真理である「多世界」なのかという問いのことです。
 下記は、多世界解釈の内容がなぜ問う必要のない絶対的真理であることと、世界がなぜそのような多世界解釈の内容を持ったものであることを分けたうえ、後者の問いをしていることになるかと思います。

《「多世界解釈」(合)を導入した場合》
【公理】
 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」
   ↑
 なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?
   ↑
 それは、実証も反証もできない公理として置いているから

1年前 No.473

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>473  えぴめてうすさんへ

> 多世界解釈が正しくない場合について、下記のことが当てはまるのでしょうか。

> >>467

> 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。


 もちろんです。「「無矛盾な世界」においてトートロジーは論理的必然性で真」は、多世界解釈を採るか採らないかとは無関係に言えます。「トートロジーを否定すると矛盾が生じるから」がその理由です。

>(《「多世界解釈」(合)を導入した場合》の公理を問うことが無意味であることについて)

> 多世界解釈の内容について、なぜと問うのではありません。

> なぜ、世界は、絶対的真理である「多世界」なのかという問いのことです。


 P=「世界は、絶対的真理である「多世界」である」と置きます。「多世界解釈」(合)は、「Pが真であり¬Pが偽である」と真理を限定している訳ではなく、「Pまたは¬Pが真である」と主張しているので、決して外れることは無いという意味でトートロジー(恒真)です。

>《「多世界解釈」(合)を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」

>   ↑

> なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?

>   ↑

> それは、実証も反証もできない公理として置いているから


 「SB量子神学」(合)による答はこうです。
    【問】
 なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?
    【答】
 全知全能の「神」が実現しているのは、「□□□である」だけではなく、a「□□□である」+b「□□□でない」(aとbは不明)である。「□□□である」かもしれない、「□□□でない」かもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、…これらすべての可能性が有る。【問】は、実現されているのが「□□□である」片方だけだと思い込む勘違いにより、「なぜ「□□□である」の方だけが実現され、「□□□でない」の方は実現されていないのか?」と問うてしまっている。正しく理解すれば【問】自体が消滅する。

1年前 No.474

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> えぴめてうすさんへ


 「SB量子神学」では、論理法則も特定のものには限定せず、どんな論理法則が成立する世界も有り得て良い、と考えます。ただし、有矛盾な論理法則が成立するような世界では、状態が定まらず、特定の意識を持った心は存在できず、「空」M0になってしまうと考えます。我々人間の心のように、特定の意識を持った心である「色」M1、M2、M3、…の視点に立つと、必然的に自分が住む世界は無矛盾な論理法則に縛られているはずです。「有矛盾な世界」では真偽の区別が無いため、何も議論できません。世界とは何かを議論するためには、「無矛盾な世界」に立たねばならず、少なくとも無矛盾な論理法則を考える必要が有ります。

 無矛盾な論理体系によく用いられるものが3つあります。
      【同一律】 A⇒A、あるいは、A⇔A
「AならばAである」という意味です。同語反復しているだけだと見なすと、これこそトートロジーであり、Aの内容に拘らず恒真だと見なされます。//
      【無矛盾律】 ¬(A∧¬A)
「「Aである」かつ「Aでない」は有り得ない」という意味です。【無矛盾律】を【矛盾律】と呼ぶことも多いので混乱し勝ちですが、誤解しないためには【無矛盾律】と表現した方が良いでしょう。//
      【排中律】 A∨¬A
「「Aである」または「Aでない」のどちらかであり、その中間というものは有り得ない」という意味です。A∨¬Aは、Aであるのかないのかについてすべての可能性を網羅した上で、必ずその中のどれかになるのであって、それ以外は有り得ないと主張しており、決して外れることは無いという意味で、これもAの内容に拘らず恒真(トートロジー)です。//

 論理法則にもいろいろな解釈が有り、【排中律】は必要だろうか?とか、【無矛盾律】を少し書き換えれば【排中律】は消滅するのではないか?とか、新たな論理体系を提案している人も多いようですが、ここでは取り敢えずこれら3つを受け入れます。
 そうすると、「すべての可能性について、肯定または否定のどちらかである」は【排中律】を満たしており、Aの内容とは無関係に真だと主張できます。これが「論理的必然性で真」という意味です。「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)や、「SB量子神学」(合)=「SB量子神学」(正)+「SB量子神学」(反)がこれです。
 一方、「Aであり、¬Aではない」という形の命題は、【同一律】【無矛盾律】【排中律】のどれを使っても、一般論として真偽を確定させることができません。実際「Aであり、¬Aではない」は、Aの内容によって真になったり偽になったりします。A=「F=maが成立する」なら経験的に真だし、A=「F=m/aが成立する」なら経験的に偽です。こういう命題は「論理的必然性では真とも偽とも言えない」です。そしてこういう命題が真であることを、何とか論理的必然性で説明しようと試みでも、決して成功せず、無限後退に陥るだけです。

1年前 No.475

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>474,475

 すみません。まだかみ合っていないところについて、お尋ねします。

  >>433 以降、《常識的に考えた場合》=多世界解釈が正しくない場合 に答えがないことは、真偽の証明ができない公理を受け入れたうえで、その公理を問題にしたためだということをご教示いただき、 >>459 で確認させていただいたかと思います。
 それと、 >>474 のご回答をあわせて考えると、

〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。

 よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。
ということになるように思いますが、いかがでしょうか。

>P=「世界は、絶対的真理である「多世界」である」と置きます。「多世界解釈」(合)は、「Pが真であり¬Pが偽である」と真理を限定している訳ではなく、「Pまたは¬Pが真である」と主張しているので、決して外れることは無いという意味でトートロジー(恒真)です。


 多世界解釈(合)の内容について、なぜと問うのではありません。
 なぜ、世界は、「多世界解釈」(合)なのかという問いのことです。
 なぜ、世界は、SumioBabaさんが述べられている多世界解釈の全体なのかという問いは、無意味でしょうか。この全体の中には、ご説明いただいたすべての内容が含まれます。

1年前 No.476

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>476  えぴめてうすさんへ

>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


 それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。

> 多世界解釈(合)の内容について、なぜと問うのではありません。

> なぜ、世界は、「多世界解釈」(合)なのかという問いのことです。

> なぜ、世界は、SumioBabaさんが述べられている多世界解釈の全体なのかという問いは、無意味でしょうか。この全体の中には、ご説明いただいたすべての内容が含まれます。


 「多世界解釈」(合)は、「存在し得るすべての世界のどれもが「存在する」または「存在しない」のうちどちらかである」と主張しています。これは【排中律】を満たしているので論理的必然性で真です。逆に「多世界解釈」(合)の否定は、【排中律】を否定することになるので、論理的必然性で偽です。
      あるいは、
 「多世界解釈」(合)は、起こり得るすべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが起こると主張しており、外れるはずが無いという意味で恒真(トートロジー)です。もし「多世界解釈」(合)を否定するなら、起こり得るすべてのもの以外に、起こり得るものが有ると主張することになり、矛盾が生じます。【無矛盾律】により、「多世界解釈」(合)の否定は有り得ません。論理的必然性で「多世界解釈」(合)の肯定だけが導かれます。

1年前 No.477

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>477

 ありがとうございます。

>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 では、
>>416
>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。

>bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

>「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。

 につきましては、
>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

 と理解いたします。

 上記から、「多世界解釈」(正)も、「多世界解釈」(反)も、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなる、さらに、「多世界解釈」(合)も、当然、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなるということになるかと思います。
 この「存在の問いへの意味がなくなる」ということは、「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」という意味だと理解しています。
 では、なぜ、世界は、そのような「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」多世界解釈(合)で描かれる世界であるのかという問いをどのように考えればよいでしょうか。

1年前 No.478

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

また横から失礼します。
>0はなぜ何も無いのでなく、何かがあるのか?の問いかけであるが、答えは「私が居るから、それは存在する」も
考えられるのではないかと思います。なぜなら、私が居なければ有るといえるでしょうか?

1年前 No.479

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>478  えぴめてうすさんへ

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

>aではもう問う必要はありません。

>bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。


 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の場合、つまり多世界解釈を採らないと論理的必然性が理解できず、なぜか経験的に正しいと受け入れるしか無い場合がこうです。

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる


 「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の場合、つまり、《排中律》を満たした恒真な命題の場合がこうです。論理的必然性で真なのが当たり前であり、それに対して「なぜ?」と問う事自体が無意味です。

    《イエローカード》
 えぴめてうすさんは、初め「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だったのに、途中から「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えてしまいました。そんな誤魔化しをしてはいけません。

1年前 No.480

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>480

>えぴめてうすさんは、初め「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だったのに、途中から「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えてしまいました。そんな誤魔化しをしてはいけません。


 私の考えは、 >>459 のとおりです。
 数学の基礎のお話を応用して、下記を提示いたしました。

《常識的に考えた場合》
【公理】何かがある又は何もないのどちらかである
    ↓
【問い】なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
【答え】?、無現後退、答えはない…A

《多世界解釈を導入した場合》
【公理】多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)
    ↓
【問い】なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
【答え】(正しい場合)すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。
    (正しくない場合)Aと同じ

 あくまで、問いは、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」のままです。
 「何かがある又は何もないのどちらかである」は、公理として考えたもので、上記を明示し、それ以降、ずっとこの構造を維持しつつ、考えてまいりました。
  >>459 で述べましたように、
>>そして、それを用いて、自分で「bでは答が無いこと」を確かめようとしているところです。

>>以下で順を追って確認しながら、 >>443 「この【結論】はいかがでしょうか?」についての私の考えと多世界解釈を採る場合についての疑問も記したいと思います。


 この公理の設定は、 >>443 で下記のご回答をいただき、《常識的に考えた場合》に、下記に相当する公理として「何かがある又は何もないのどちらかである」と置いたのです。

>>【公理】

>> a「何かがある」+b「何もない」(aもbも不明) を全体とし、「何かがある」の視点に立てば「何かがある」(a=1)、「何もない」(b=1)の視点に立てば「何もない」、すべての可能性がありうる。

>> 観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何かがある」が確率1で実現し、「何もない」が実現した確率は0で、観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何もない」が確率1で実現し、「何かがある」が実現した確率は0となる。

>> ただし、「何かがある」を体験している「私1」、「何もない」を体験している私を「私2」、「何かがある」+「何もない」を体験している私を「私3」とすると、私2と私3は、無意識であり、3つの私を同時に体験していることを共有できないし、実証も反証もできない。

>> 実証も反証もできないからこそ、全知全能の「神」は3つを実現している、という解釈が可能になる。

   ↓
>>【問い】

>> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

   ↓
>>【答え】

>> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

 という構造で理解してよいのでしょうか。
> その通りです。


 したがって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」です。

>「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の場合、つまり、《排中律》を満たした恒真な命題の場合がこうです。論理的必然性で真なのが当たり前であり、それに対して「なぜ?」と問う事自体が無意味です。


 「何かがある又は何もないのどちらかである」が、恒真な命題で、論理的必然性で真なのが当たり前であり、それに対して「なぜ?」と問う事自体が無意味であることを理解しています。
 《常識的に考えた場合》、この公理で考えるので、あるかないかなのどちらかなのに、なぜあるのかという問いになってしまう。しかし、その「何かがある又は何もないのどちらかである」を疑っても、無限後退するだけで、公理であるのだから、結局、それ以上の答えがないことになると思いました。

 この《常識的に考えた場合》の公理が間違っているようなら、どのような公理が前提にされていると考えればよろしいでしょうか。

1年前 No.481

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

うさぎさん

>>479

 「私が居るから、それは存在する」も考えられますね。
 この問いは、世界があって、人がいる場合にのみ発せられるものだと思います。
 逆に、うさぎさんが居なければ、世界はないんでしょうか?
 恐竜時代はなかったんでしょうか?
 えぴめてうすがいなくて、ウサギさんがいる場合は、「私が居るから、それは存在する」で、その逆の場合は、どうなるでしょう?
 何か独我論になっちゃいますが…

1年前 No.482

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>481  えぴめてうすさんへ

> あくまで、問いは、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」のままです。

> 「何かがある又は何もないのどちらかである」は、公理として考えたもので、上記を明示し、それ以降、ずっとこの構造を維持しつつ、考えてまいりました。


 それだと、 >>478 が理解できなくなります。(以下の引用は >>478 から)

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない


はOKです。「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」であれば当然ですので。では、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。


の方は、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」からどうやれば導けるのでしょうか? 「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」に置き換えない限り導けないように思いますが?

1年前 No.483

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

部屋が2部屋あって、こちらの部屋のテーブル上にリンゴがある。私はそれを見る。用事で隣の部屋に移動した

そのリンゴは見えなくなった。「ついさっき見たのだから、そのリンゴが在るのは当たり前だ」これは

5000億人に聞いても全員が同じ答え(笑   また元の部屋に戻ってきた。「ああ、リンゴはあったあった」

当たり前だよ。君が居ようが居まいが在るのは当たり前だよ? しかし、なぜ在るのか?は「私が居るから在る

のでしょ?」 君が代理で見てくれても、代理は代理じゃないのかなあ? 無いかもしれないよ

1年前 No.484

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>483

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。

の方は、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」からどうやれば導けるのでしょうか? 「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」に置き換えない限り導けないように思いますが?

>>476  ↓の確認内容
> >>433 以降、《常識的に考えた場合》=多世界解釈が正しくない場合 に答えがないことは、真偽の証明ができない公理を受け入れたうえで、その公理を問題にしたためだということをご教示いただき、 >>459 で確認させていただいたかと思います。

> それと、 >>474 のご回答をあわせて考えると、

>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そ>のまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。

> よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


>>477  ↓SumioBabaさんの回答
>>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。

>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 それを受けて、 >>478 となります。

1年前 No.485

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

なぜ、あるのか? の答えは「私が居るから在るのだよ」という以外にない。

1年前 No.486

★30JjgxOVKX_ZFe

>486
うさぎちゃん
「私が居る」から「在る」が導き出されます?

1年前 No.487

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>485  えぴめてうすさんへ

>>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


> それを受けて、 >>478 となります。


 やっぱり、 >>478

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない


のときは「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だったのを、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。


のときは、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えた訳ですね。

1年前 No.488

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>485  えぴめてうすさんへ

    《1》

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

    【1】
「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」

    《2》
>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

    【2】
「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」

 SumioBabaの説明は、《1》が言えるのは【1】のときであり、《2》が言えるのは【2】のときであり、今は【1】を問題にしているのだから、【1】を【2】にすり変えてはいけません、です。
 えぴめてうすさんは、「いや、すり変えていない」、「《2》のときも「存在の問い」は【2】ではなく【1】である」、です。
 だったら、【1】のときになぜ《2》が言えるのかを説明して下さい。なぜ同じ【1】から、《1》と《2》という異なる内容が結論されるのですか?

1年前 No.489

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>478  えぴめてうすさんへ

> 上記から、「多世界解釈」(正)も、「多世界解釈」(反)も、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなる、さらに、「多世界解釈」(合)も、当然、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなるということになるかと思います。


 それは「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の方です。「Aまたは¬Aのどちらかである」という《排中律》そのものの形をしているのだから、「多世界解釈」(合)であろうと「多世界解釈」(正)であろうと「多世界解釈」(反)であろうと、無矛盾な世界でさえあれば恒真であるのは自明です。これに対して「なぜ?」と問うておられるえぴめてうすさんの方が、SumioBabaには不可解です。

> この「存在の問いへの意味がなくなる」ということは、「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」という意味だと理解しています。


 それは違います。「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」という形をしており、【同一律】【無矛盾律】【排中律】を使うだけでは決して真偽を確定できず、論理的必然性だけでは真とも偽とも判断できません。にも拘らず我々は、なぜか「何かがある」の方が真であり「何もない」は偽だと認識しています。論理的必然性では真とも偽とも言えないのに、なぜか経験科学的には真なのです。それを「なぜ?」と問うのは立派な疑問だし、哲学で最大の謎とされるゆえんです。
 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」ですり変えてはいけません。

> では、なぜ、世界は、そのような「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」多世界解釈(合)で描かれる世界であるのかという問いをどのように考えればよいでしょうか。


 「意味がない」のは、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーに対して「なぜ?」と問うことです。
 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、立派に意味が有る疑問です。「多世界解釈」(合)を採らないと、この謎には答えられず、「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。「多世界解釈」(合)を採り、「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。

1年前 No.490

★5h7s4afvks_kuu

 えぴめてうすさん、馬場さんへ

>  それは違います。「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」という形をしており、【同一律】【無矛盾律】【排中律】を使うだけでは決して真偽を確定できず、論理的必然性だけでは真とも偽とも判断できません。にも拘らず我々は、なぜか「何かがある」の方が真であり「何もない」は偽だと認識しています。論理的必然性では真とも偽とも言えないのに、なぜか経験科学的には真なのです。それを「なぜ?」と問うのは立派な疑問だし、哲学で最大の謎とされるゆえんです。


論理学の「同一律・無矛盾律・排中律」で判断できる問題は、井戸を全世界と見た場合の井戸の中の問題です。この視点で見た場合の井戸の外の問題、これが「アポリア」と言われるものですね。ですので、井戸の中の視点では通常わからない(解けない)のですね。

>  「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」ですり変えてはいけません。


たぶん、意図的なすり替えではなくて、理解が起こらず、単純に混乱されているように思いますね。

>  「意味がない」のは、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーに対して「なぜ?」と問うことです。

>  「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、立派に意味が有る疑問です。「多世界解釈」(合)を採らないと、この謎には答えられず、「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。「多世界解釈」(合)を採り、「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。


例えばですが「水は、高い所から低い所に流れます」は、井戸の中の世界では、謎はありません。が、その世界で「ではなぜそのような世界なのか?」についての答えは出ないしょう。ここで「ドン詰まり」です。

このとき、視点をこの世界の中(井戸の中)にしか持たない者には「重力が・液体は・・」という答えにしかなりません。これは、井戸の中だからです。これ以降の問いになると、上記で馬場さんの仰る「「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。」ということです。ここが、現代科学で解き明かされる事柄(問題)の限界です。同時に現代における「ドン詰まり」の限界点です。もちろんこれでよいのであれば、それでよいことですが。

そしてこれを、多世界解釈を取り、よりメタな視点で見た場合に「「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。」ということですね。ここで哲学的な視点が必要になってきます。

ですので、ここでは科学の世界と哲学の世界の融合ともいえる事柄を、馬場さんは表現されているのだと思いますよ。

そしてこの視点を持つものが、初めて「すべての謎はない」と表現でき、哲学的な最終問題(アポリア)は消滅します。そしてこれをもう少しだけ上の視点で表現すると「最初から謎はなかったんだ」という表現になります。

ここまではシンプルに同じ構造なのですが、見ていると理解することが難しいもののようですね。

1年前 No.491

★5h7s4afvks_kuu

えぴめてうすさんへ

アポリアとは 哲学では、哲学的難題または困惑の状態のこと。(wiki)

哲学のアポリアを解き明かそうとした場合には、”結果として”哲学の世界観以外の概念を用いる必要があります。

そこで哲学の難問だからと言った思い込みで、いくら過去の哲学者の残した言葉を知ったとしても、哲学史を紐解いたとしても、いくら書籍を読み込んだとしても、ごく僅かの行きつく可能性はないとはいえないにしても、恐らくは、答えには行きつかないでしょう。

哲学の解けない難問は、その長年行われてきた哲学の世界での解けない難問だからですね。

そこで必要なのは、違う世界の概念です。ここでの馬場さんは、現代物理の量子力学の観測問題における解釈の一つとして発想されたエヴェレットの多世界という概念を馬場さんなりに発展させて、哲学の問題との融合で答えに行きつかれたのだと思います。

では、えぴめてうすさんにお遊びでの問題です。

個人の自由意思により、この発想と融合は可能でしょうか?

お遊びですので、お答えいただけなくても結構ですよ。

1年前 No.492

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>491  時さんへ

 コメント有難うございます。

>たぶん、意図的なすり替えではなくて、理解が起こらず、単純に混乱されているように思いますね。


 そうかもしれません。えぴめてうすさんは紳士的で謙虚な方だし、意図的にすり変えて誤魔化そうとする人ではないですね。こちらがきつく言い過ぎたかも。えぴめてうすさん、要は、SumioBabaの説明 >>490 と時さんの >>491 を理解して頂ければ良いだけです。あんまり考え込まないで下さい。

>例えばですが「水は、高い所から低い所に流れます」は、井戸の中の世界では、謎はありません。が、その世界で「ではなぜそのような世界なのか?」についての答えは出ないしょう。ここで「ドン詰まり」です。

>このとき、視点をこの世界の中(井戸の中)にしか持たない者には「重力が・液体は・・」という答えにしかなりません。これは、井戸の中だからです。これ以降の問いになると、上記で馬場さんの仰る「「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。」ということです。ここが、現代科学で解き明かされる事柄(問題)の限界です。同時に現代における「ドン詰まり」の限界点です。もちろんこれでよいのであれば、それでよいことですが。

>そしてこれを、多世界解釈を取り、よりメタな視点で見た場合に「「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。」ということですね。ここで哲学的な視点が必要になってきます。

>ですので、ここでは科学の世界と哲学の世界の融合ともいえる事柄を、馬場さんは表現されているのだと思いますよ。

>そしてこの視点を持つものが、初めて「すべての謎はない」と表現でき、哲学的な最終問題(アポリア)は消滅します。そしてこれをもう少しだけ上の視点で表現すると「最初から謎はなかったんだ」という表現になります。


 Perfectly Good !!!!! 非の打ちどころが有りません。特に「科学の世界と哲学の世界の融合ともいえる事柄を、馬場さんは表現されているのだと思いますよ」が素晴らしい。この表現、パクッてこちらも使わせて頂きます。SumioBabaの説明だけだと薄っぺらなままですが、同じ内容を別の例え話を用い、時さんの言葉で補足説明して下さると、ずっしりとした厚みが生じます。ぜひまたよろしくお願い致します。感謝!!!

1年前 No.493

審判 ★ZCQiVRbxEz_Ew9

「何かがある又は何もないのどちらかである」は問いじゃなく「《常識的に考えた場合》の公理」だと、エピメテウスは一貫して説明しているし、そもそも「何かがある又は何もないのどちらかである」は問いとして機能していない。

スミオババの書いた >>490 に即して考えるなら、

公理「Aまたは¬Aのどちらかである」
問い「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」
が《常識的に考えた場合》のエピメテウスの「存在の問い」の構図。

問い「Aまたは¬Aのどちらかである」
がスミオババの抗議内容。
問いになってないから、意味不明であり、抗議としての体裁をなして無い。

スミオババは訳のわからない事を言って参加者を困らせないように。


>>490

>それは違います。「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」という形をしており、【同一律】【無矛盾律】【排中律】を使うだけでは決して真偽を確定できず、論理的必然性だけでは真とも偽とも判断できません。にも拘らず我々は、なぜか「何かがある」の方が真であり「何もない」は偽だと認識しています。論理的必然性では真とも偽とも言えないのに、なぜか経験科学的には真なのです。それを「なぜ?」と問うのは立派な疑問だし、哲学で最大の謎とされるゆえんです。


なんでやねんw
スミオババは「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」と主張してきた。その内容を確認したエピメテウスに「それは違います(キリっ」というのなら、前言の該当部分を撤回、もしくは訂正してください。


:審判による論点整理:
エピメテウスの問い
「「多世界解釈(合)」を公理として置いた場合、他の公理と同様、その根源を問うなら、無限後退するのでは?」
スミオババの答え
「「多世界解釈(合)」はトートロジーだから無限後退には陥りません。」
というやり取りが462あたりから続いている。

>>491 で時は、エピメテウスの視点の狭さを指摘しているが、あえて言うなら逆だよね。
つまり、閉じられた系であるスミオババ理論の中だけで考えるならそこに謎は無いけど、よりメタな視点(「多世界解釈(合)」を公理とする視点)でスミオババ理論の根源を問うなら謎が生じるのでは?、というのがエピメテウスの呈する疑問点だろうか。

構図としてはすでに決着がついたようだけど、まあお互い納得いくまでやり合いなはれ。

1年前 No.494

審判 ★Sh23KvltDW_Ew9

:審判雑感:

>>491

>多世界解釈を取り、よりメタな視点で見た場合に「「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。


両方が実現していると考えた場合にはそうなるだろうよ。スミオババ理論も全知全能を前提に構築されてるから、もちろん両方実現しているんだろう。
でも世界は両方が実現していないよね。両方が実現していると考えた場合は難問が解消するんだろうけど、世界はそうなってないじゃん。だからこそ難問は難問であり続けているわけだし。
「そう考えたら都合が良いからそう信じる」を採用し、世界を「事実誤認」として認知するなら、世界はいかようにも改変出来る事になっちゃうよ。
たしか前にも同じ様な内容で批判した事があったな。それに対して、

過去の反論例1:スミオババの理論は難問の解消を目的に構築したけど、真意はそこじゃない
過去の反論例2:何も限定してないんだからスミオババ理論は信じる信じないの問題じゃない とーとろじ〜なの
過去の難癖例1:じゃあおまえは難問をどう考えてるんだ? 代替案が何も無いのに批判ばっかりするな
過去の難癖例2:さん付けしないならこれ以上議論してやらないぞ 丁寧語を使いやがれ
過去の難癖例3:なんかおまえらって苦しくなるとちゃぶ台ひっくりかえすよな それってどうなの?
過去の難癖零4:おまえって精神異常じゃない? さてはおまえサイコやろうだな

改めて見るとヒドイ難癖おおすぎw 俺じゃなきゃブチ切れてるぜよ
エピメテウスとの議論では誠実に議論してもらいたいものだ

1年前 No.495

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>488

>えぴめてうすさんは、初め「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だったのに、途中から「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えてしまいました。そんな誤魔化しをしてはいけません。


  >>480 で上のご指摘をいただきました。
 教えていただいたことを1つ1つ確認しながら、私の思考を進めてきたつもりですが、すり替えがあったとすれば、まずそれがどこかを特定し、もう一度そこからやり直しをしないと、これまで教えていただいたことや私が考えてきたことが無駄になってしまいます。

 ここに至った経緯と私の考えの筋道は、 >>459 で整理させていただいたとおりです。

 それでは、お手数ですが、順に確認していきたいと思います。
 まず、議論の基本構造を示した >>459 と、それに対するSumioBabaさんのレスの >>460 の中に、すり替えが起こっている部分が含まれていますでしょうか。

>>489
>だったら、【1】のときになぜ《2》が言えるのかを説明して下さい。なぜ同じ【1】から、《1》と《2》という異なる内容が結論されるのですか?


 まさに、 >>459 以降で、「【1】のときになぜ《2》が言えるのかを説明」してきたつもりなのですが、どこにまずいところがあったのか、順に確認していきたいと思います。その結果がこの答えになると思います。

>>490
 とりあえず、すり替え箇所の確認を優先したいと思いますので、よろしくお願いします。


時さん

>>491>>492

 私は、中学生の問いを発しています。そして、疑うことを旨としてドン詰まりを自分で経験することをあえて選んでいます。認識レベルは、まだ >>410 に書いた状況のままです。しっかりと高校に行けるようがんばります。
 時さんがおっしゃっていただいてることについては、私が分かるようになったときにはじめて分かると思います。いつもありがとうございます。

1年前 No.496

★V2ucdXJJd6_kuu

>>496  えぴめてうすさんへ

>  私は、中学生の問いを発しています。そして、疑うことを旨としてドン詰まりを自分で経験することをあえて選んでいます。認識レベルは、まだ >>410 に書いた状況のままです。しっかりと高校に行けるようがんばります。


了解しました。私が少しばかり先走りしすぎていたようですね。失礼しました。

> 疑うことを旨としてドン詰まりを自分で経験することをあえて選んでいます。


えぴめてうすさんは、堅実な性格の方のようですね。ですので、その方法がベストかもしれません。

私には何もできませんが、全ての答えに到達されることを願っています。レスは不要です。

1年前 No.497

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>496  えぴめてうすさんへ

> とりあえず、すり替え箇所の確認を優先したいと思いますので、よろしくお願いします。


 すり変えが起きたのは >>478 です。以下は >>478 からの引用と、それについての解説です。

>>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 これはSumioBabaが、「何かがある又は何もないのどちらかである」がトートロジーだから「なぜ?」と問うこと自体が無意味だと説明したものです。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方ではありませんよ。ところが >>478 は以下のように続き、えぴめてうすさんはこれを誤解または曲解し、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をトートロジーであり、「なぜ?」と問うことが無意味だと理解する、と書いておられます。ここがすり変えです。

> では、

> >>416

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

>> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。

>>bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

>>「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。

> につきましては、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。


> 上記から、「多世界解釈」(正)も、「多世界解釈」(反)も、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなる、さらに、「多世界解釈」(合)も、当然、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなるということになるかと思います。


 えぴめてうすさんは、こう主張されました。→徹頭徹尾「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」であり、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えてなどいない、と。だったらなぜ、SumioBabaは「何かがある又は何もないのどちらかである」の方について、それがトートロジーであり、「なぜ?」と問うのは無意味だと説明しただけなのに、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方までがトートロジーであり「なぜ?」と問うのが無意味になってしまうのでしょうか? 答は1つしかないように思います。すり変えたから。

 SumioBabaは、こういう誤解が生じないようにと、はっきり「「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジーは…」、と明記しています。ところが、なぜかえぴめてうすさんはこれを「存在の問い」という言葉で置き換えておられます。なぜ、わざわざどちらなのか不明な「存在の問い」などという曖昧な言葉に置き換えられたのでしょう? そしてSumioBabaの「何かがある又は何もないのどちらかである」についての説明を、まるで「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」についての説明であったかのように誤解あるいは曲解されています。これが、意図的なすり変えに見えてしまうのです。すり変えていないと主張されるのなら、 >>489 の質問に答えてみて下さい。答えられないようだと、やはりすり変えが起きていたことになります。

 まとめるとこんな感じ。
●えぴめてうすさん→「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」はオーソドックスな科学の範囲内で解決すべき問題だと思う。
○SumioBaba→いや、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」はオーソドックスな科学の範囲内では答が見付からない問題であり、だからアポリアなんだ。それを解決するためには、量子力学の多世界解釈を採り、根本的に新しい世界観を構築する必要が有る。
●えぴめてうすさん→では「何かがある又は何もないのどちらかである」は?
○SumioBaba→それはただのトートロジーだよ。論理的必然性で恒真であり、「なぜ?」と問うことさえ無意味だよ。
●えぴめてうすさん→じゃあ「存在の問い」は無意味で、「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」ということだね。
○SumioBaba→えっ!? どうしてそうなるんだい? 無意味なのはトートロジーである「何かがある又は何もないのどちらかである」に対して「なぜ?」と問う方だけだよ。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は大問題として残っているじゃないか。

1年前 No.498

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>498

 大変お手数をおかけします。

>…だったらなぜ、SumioBabaは「何かがある又は何もないのどちらかである」の方について、それがトートロジーであり、「なぜ?」と問うのは無意味だと説明しただけなのに、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方までがトートロジーであり「なぜ?」と問うのが無意味になってしまうのでしょうか? 答は1つしかないように思います。すり変えたから。


 私は、「「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方までがトートロジーであ」ると思っていません。そもそも問いがトートロジーであるという言葉自体が意味が分からないように思います。
 あくまで、ご説明のあったように、公理として置いた「何かがある又は何もないのどちらかである」の方がトートロジーであると理解しています。

 「「なぜ?」と問うのが無意味になってしまう」というのが、次のAの部分だと思われますが、そう理解した理由は、下の >>477 のご回答の内容からです。

@ >>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

A >>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>477
>>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


> それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 @は、 >>416 で、
>「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。

として、以下の >>433 をはじめとして、
>>433
「そして、その「公理」自体は、真とも偽とも証明できません。証明しようとしても、無限後退するだけです。「その「公理」はなぜ正しいと言えるのか?」と問われ、「メタ公理1」「メタ公理2」「メタ公理3」…を使って「公理」を証明して見せても、また「「メタ公理1」はなぜ正しいと言えるのか?」と問われてしまうからです。」
との説明をいただきました。

 そして、
>>460
> 【結論】

 多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考えてしまうと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに、オーソドックスな科学は答えられず、「なぜかそうだからそうなのさ」と黙って受け入れるしか無くなる。
> その理由は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いが、「何かがある又は何もないのどちらかである」という公理の真偽を問題にしているからだと思いますが、違うでしょうか。


 そうです。論理的必然性は理解できないまま、自分が認識しているのはなぜか「○○○である」の方であって「○○○でない」の方ではないと、在りのままに認めるしかないのがオーソドックスな科学です。それを正しいと受け入れるのであれば、「○○○である」の方を証明なしに「公理」として定めるしか方法が有りません。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られない、ということです。
とのご回答でした。

 このことからは、「bでは答が存在しない」であり、上の >>477 の1つ目の〇として確認させていただきました。

 しかし、 >>467 で、
>「何かがある又は何もないのどちらかである」をa「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)と解釈するなら、これ自体がトートロジーです。(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張していることになり、外れることが有り得ない、という意味で)。トートロジー(恒真)ですから証明不要だし、無限後退にはなりませんよ。


 さらに、 >>474 で、
> 多世界解釈が正しくない場合について、下記のことが当てはまるのでしょうか。

> >>467

> 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。


 もちろんです。「「無矛盾な世界」においてトートロジーは論理的必然性で真」は、多世界解釈を採るか採らないかとは無関係に言えます。「トートロジーを否定すると矛盾が生じるから」がその理由です。

とのご説明でしたので、上の >>477 の2つ目の〇として確認させていただきました。
 これが、Aの理解に至った経緯です。
 2つ目の〇は、「「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方までがトートロジーであり「なぜ?」と問うのが無意味になってしまう」と言っていますでしょうか?
 以上が、 >>489 の答えでもあります。

>これはSumioBabaが、「何かがある又は何もないのどちらかである」がトートロジーだから「なぜ?」と問うこと自体が無意味だと説明したものです。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方ではありませんよ。


 上記のとおり、そのように理解しています。そもそも「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、存在への問いであって、公理ではなく、当然トートロジーだとは考えられません。

>ところが >>478 は以下のように続き、えぴめてうすさんはこれを誤解または曲解し、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をトートロジーであり、「なぜ?」と問うことが無意味だと理解する、と書いておられます。ここがすり変えです。


 「「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をトートロジーであり、「なぜ?」と問うことが無意味だと理解する、と書いて」いる箇所がわかりません。

 例えば、bではなく、aの方、つまり、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる


 の場合で考えると、問いは、同じく「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」ですが、その問いをトートロジーだと考えているわけではなく、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーであるがゆえに、「「なぜ?」と問うことが無意味 = 存在の問いへの意味がなくなる」ということだと思いますので、bもそれと同じ構造です。
 したがって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をトートロジーだという意図はありませんし、そのような記載は含まれていないと思います。

>○SumioBaba→えっ!? どうしてそうなるんだい? 無意味なのはトートロジーである「何かがある又は何もないのどちらかである」に対して「なぜ?」と問う方だけだよ。


 に異論は全くありません。

>「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は大問題として残っているじゃないか。


 この「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問題について、SumioBabaさんは、

> 多世界解釈が正しい世界では、謎が消滅しますが、正しくない世界では、そうではありません。多世界解釈に立脚すると、この2つの世界があるということになります。

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。

 それは違います。
 aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。
 bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

と述べられていると認識してします。そして、すり替え箇所の確認は、このbに関係した議論だと思います。

 要は、私の認識の浅さから、的確な表現ができていないことが話が通じない原因じゃないかと思うのですが、 >>478 で申し上げたことを、 >>459 で提示したb多世界解釈が正しくない場合の枠組みでいうと、

《常識的に考えた場合》
【公理】
 何かがある又は何もないのどちらかである
   ↓
【問い】
 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
   ↓
【答え】
 ?、無現後退、答えはない…A

 かな(477 〇の1つ目)と思ったら、そうではなく、

 公理がトートロジーなので、問いへの意味がなくなる…B

 が正解だった(477 〇の2つ目)んですねという確認が、 >>478 です。

1年前 No.499

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

考えるから在るのです。

あなたたちには、コギト命題が似合っていますね・・

1年前 No.500


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