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存在を問う

 ( 哲学掲示板 )
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★Gc8HjmXH4j_BiB

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる

3年前 No.0
メモ2019/11/06 20:40 : 優鬼★uJcaHEY0RF_g5X

・「真であるか、または偽である」を「真かもしれないし、偽かもしれない」と、可能性があるように表現するミスリード

・真理値を0か1のどちらでもよいとすることで、命題を肯定系でも否定形でも表現できる作為性

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ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>296

「世界がある」ということ,「何かがある」ということは,その否定が矛盾であって,したがってむしろ論理的真理と言ったほうが正しいのではないかと考えます, 語の意義の拡張になるかもしれませんが,。
つまり,「何もない」というのは矛盾ということ。
これは古典論理の標準的理論では,
 ∃x[φ(x)∨¬φ(x)]
が論理的真理であることで示されていると思います。
さらに補強すれば,
 p∨¬p(排中律)
も,あえてインフォーマルではありますが2階の表現をすれば
 ∀p[p∨¬p]
の意味ですし,ここからは次が帰結します。
 ∃p[p∨¬p]
これは「何らかの事実が存在する」ということを意味すると言えるでしょう。

前レスでも述べたように,もちろん論理の公理系もこれだけではなく,存在仮定を置かない公理系も構成可能で,そこでは何もないということが無矛盾に語り得ます。
しかし,これも先に述べたように,「世界がある」ということを「世界がいかにあるか」という問題に還元する操作であって,私としては存在論の非存在論化に等しいと思います。

一応,少し表現を換えてまとめておきます。
@ 存在の謎は全体としての世界の存在に関わる。
A 全体としての世界の存在と、世界内存在とは異なる。
B 前者を後者に還元することはできない。

あと,私にとって言わずもがなのことかもしれないんですが,
せっかくSumioBabaさんにレスしているので,ついでに踏み込んでおきます(笑)

SB神学は,
@ 「なぜ世界が存在するのか」
A 「なぜ世界はこうなっているのか」
という二つの問題の@をAに還元することによって存在の謎を解いたとする。
しかし,@の問題は本来Aに還元できないものであり,
したがって,SB神学は何ら存在の謎を解いてはいない。
というのも,その原理となっている量子論の多世界解釈や人間原理は,Aの問題を解くためのものであって,そのことにおいては有効であるが,存在の謎を解くことはできないからである。

どんなもんでしょうかね?(笑)

2年前 No.301

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>299  えぴめてうすさんへ

> 観測以前は、状態が決まっていない(重ね合わせの状態?)というのが、何とも不思議です。決まっているが、観測できないので、言うことができないという意味ではなく、ほんとうに決まっていない(可能性が重なりあっている)というふうに書かれていたと記憶しています。

> 物理って、人間の存在や行為には関係ないものというイメージがありましたので、混乱しました。おまけにマルチバースや人間原理、多世界解釈といった宇宙論の言説には何か思考上の遊びのような雰囲気を感じたのが正直なところでした。


 たとえ文科系の人であっても、量子力学の基礎的なことくらいは知っておいた方が良いと思います。存在論や認識論という哲学の分野においても、量子力学は絶大な影響を及ぼしています。量子力学を知らないと、何世紀も前の古典論で終わってしまう危険性が有ります。これまでの古典論に代わり、「量子存在論」「量子認識論」とでも呼ぶべきものを構築すべき状況だと思います。

> 「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めた上で、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」と問われているということを考えると、やはり疑似問題ではないかという気がしています。


 「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」というのが、G・ライプニッツの言う「充足理由律」(すべての謎には答がある)の別表現なのでしょう?

> このことから、そもそも「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めたところで、疑似問題にしてしまっているのではないかと思います。この前提は、必ずしも保障されているとはいいがたいのではないでしょうか。


 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」を「充足理由律」の範囲外だと見なし、この問いに「答はありません」で諦めるのも1つの選択肢です。

 逆に「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」をも「充足理由律」の範囲内だと見なし、必ず答は有るはずだと考えるなら、 >>296 に説明したと通り「充足理由律」とほぼ同値である「豊饒性原理」を受け入れ、「何かがある」と「何もない」の両方が実現したと考える以外に方法は無い、ということです。実現したのが「何かがある」の方だけだと考えると、「なぜ?」という謎は決して消滅しません。

>>本当のところ自分は、単独の「何かがある」、単独の「何もない」、両方の「何かがある」+「何もない」、の3つを同時に体験しているのだと考えます。ただし認識できるのは、単独の「何かがある」だけになります。他の2つは認識できないからです。


> その場合、認識できた「何かがある」に対して、あらためて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うことはできないでしょうか。


 自分が体験している3つのうち、「何もない」や「何かがある」+「何もない」を選ぶと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問い自体が有りません。3つのうち「何かがある」を選んだ場合にだけ、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いが発生し得ます。そしてその答は、「3つのうち「何かがある」を選んだから」です。3つのうち「何かがある」を選んだから、3つのうち「何かがある」が選ばれた、…ただのトートロジーです。何も謎は無いと思いますが?

2年前 No.302

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>300  ザビビのふくろうさんへ

>SumioBabaさん

>お久しぶりです。


 お久しぶりです。また議論させて頂けて嬉しいです。インターネットの書き込みの90%はゴミだと言われていますが、そんな中、ザビビのふくろうさんの書き込みは、哲学に関する高度な内容を素人にも理解できるよう平易に解説して下さっているので、とても貴重だと感じます。掲示板全体のレベルアップのため、もっともっと活躍して欲しいと思っております。

>ライプニッツは二つの問いを立てていますよね。

>@ 「なぜ世界が存在するのか」

>A 「なぜ世界はこうなっているのか」

>結論だけ述べると、あなたの考えは、@の問いをAの問いへと還元してしまっているのではないか、と思っているんです。


 まさにその通りですよ。「SB量子神学」では、客観的物質世界など認めず、個々の心(モナド)M1、M2、M3、…が存在するだけだと考えます。少なくとも1ビットは情報を持っていて、特定の意識状態にあるのが「色」M1、M2、M3、…です。これらすべてを同じ重みで重ね合わせ、情報が完全に消滅したM0=M1+M2+M3+…が「空」です。そして、個々の「色」M1、M2、M3、…が《有》であり、「空」M0が《無》です。つまり、《有》と《無》は単なる状態の違いに過ぎないのです。ここが、「観念論」の最も凄いところです。「実在論」だと、どうやったら《無》と《有》とが入れ替われるのか、全く不明です。そんなの有り得ないようにさえ思います。「観念論」だと簡単です。《無》であるM0が分裂すれば《有》M1、M2、M3、…になります。《有》であるM1、M2、M3、…を重ね合わせれば《無》M0になります。これこそが「量子存在論」「量子認識論」と呼ぶべき内容の本質です。《無》と《有》の違いが、単なる状態の違いに還元されたのです。こんな芸当、「実在論」にはできないでしょう? 「全体」が《無》、「部分」が《有》です。逆ではないので要注意。


>>301  ザビビのふくろうさんへ

>「世界がある」ということ,「何かがある」ということは,その否定が矛盾であって,したがってむしろ論理的真理と言ったほうが正しいのではないかと考えます, 語の意義の拡張になるかもしれませんが,。

>つまり,「何もない」というのは矛盾ということ。

>これは古典論理の標準的理論では,

> ∃x[φ(x)∨¬φ(x)]

>が論理的真理であることで示されていると思います。

>さらに補強すれば,

> p∨¬p(排中律)

>も,あえてインフォーマルではありますが2階の表現をすれば

> ∀p[p∨¬p]

>の意味ですし,ここからは次が帰結します。

> ∃p[p∨¬p]

>これは「何らかの事実が存在する」ということを意味すると言えるでしょう。


 よろしいんじゃないですか。「SB量子神学」でも、「空」M0は完全矛盾状態です。それゆえ、「M0はM0である」という同一律を守ってM0のままでもあり得るし、矛盾を起こして同一律を否定し、「M0はM0でない」を利用してすべての「色」M1、M2、M3、…に化けることもできる、と考えます。それがM0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕です。

2年前 No.303

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

SumioBabaさん

>>302

 物分かりが悪くて申し訳ありませんが、もうすこしだけ教えてください。

>3つのうち「何かがある」を選んだ場合にだけ、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いが発生し得ます。そしてその答は、「3つのうち「何かがある」を選んだから」です。3つのうち「何かがある」を選んだから、3つのうち「何かがある」が選ばれた、…ただのトートロジーです。


 確かに、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問い自体がなぜ発生する理由は、おっしゃるように、3つのうち「何かがある」が選ばれたからだと思うのですが、
「何かがある」がなぜ選ばれたのか、
「何か」が「ある」に至ったのはなぜなのか
選択肢としての「何かがある」は、どのようにしてできたのか
という問いは残されいるように思うのです。

 すべて確率的な事象だからということではない、何か問う内容があるように思うのですが。
 よろしくお願いします。

2年前 No.304

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

我思う我「自分は存在するという命題だけは、絶対に疑うことができない」について

「デカルトは、感覚への懐疑から始めて、数学のような明晰な学問の信憑性すらも、全能の神によって騙されているかもしれないとして疑った末に、「自分は存在する」という命題だけは、絶対に疑うことができないという結論に到達する。デカルトによれば、「精神は身体よりも容易に知られる」。デカルトは、自分が他者と思っている人間は、実は自動機械ではないだろうかとか、自分が肉体を所有していると思い込んでいるのは幻想に過ぎないのではないだろうかと疑っている。だから、絶対に確実な存在である自分とは、あくもでも自分の意識なのである。」 永井俊哉ドットコム「他者は存在するのか」より

「自分は存在するという命題だけは、絶対に疑うことができない」と思う根拠は何でしょうか。

・まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。
・また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。
・さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。
・そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神(Dieu trompeur)で、自分が認める全てのものが悪い霊(genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。
・ただし、すべてのことを疑っても、疑っている自分の意識は否定できない。
        「省察 □ Wikipedia」より

 この「自分の意識」も、AIの意識かもしれないし(デカルトの時代にはないけど)、誰かに乗っ取られ、だれかが操っている意識かもしれない。夢なのかもしれない。
 それでも、AIの意識であろうが、乗っ取られ、操られていようが、夢であろうが、「自分の意識である」といえるかもしれない。
 しかし、そのいずれであるか、いずれでもないかは、方法的懐疑においては証明できない。
 ここで、「自分の意識」とは何かというと、「自分だとその時に思っている意識」ということになる。
 確固とした自分ではなくなる。今はこの自分と思っているが、別のだれかの意識を乗っ取れば、別の自分になる。夢から覚めれば、その夢の自分は現実の自分でなかったことになる。

 無理やり、デカルトが到達した唯一確かな「自分の意識」を疑ってみました。
 意識状態として、明晰な覚醒状態から酩酊状態までさまざまですが、「自分の意識」とは、どの意識レベルまでをいうのでしょうか。
 デカルトの考察(肉体や覚醒、数学、神も偽とする)も、結局、「存在」の定義がないまま、「存在」を示そうとしているにすぎないように思えました。
 ある物の存在を示す場合、主観の認識の範囲では、結局、推測も交えてモノを言うしかないのではないか、そうでなければ、語りえないものに分類するしかないのでは。

2年前 No.305

魔術師 @newmemphis ★dTvismLx8f_TBm

>M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕

これがよく分からない。なんでM0なのだろう。

無から有が発生すると言いたいのかもしれないが、最初に無を持ってくる根拠はないだろう。

あと、数式のような表現になっているが、数量的な内容を意味しているのか、よく分からない。

+1と−1なら足すと0になる、あの式ではどのような数量を表しているのだろうか。


私は最近、量子論的な発想そのものが、疑わしく思えてきた。

「状態の重ね合わせ」と簡単に言うが、AでなくかつA(排中律違反?)という状態は、

すでに存在しているものに関する説明においては持ち出し禁止ではないのか。

「存在するものは、特定の場所に100%存在している。」という前提を認めないのであれば、

考えたり表現したりする前提がなくなってしまうし、

確率の基準(何の%なのか。どういう状態を100%とするのか。)もなくなってしまうということはないのだろうか?


観測前でも、それぞれの時点で存在しているものは、特定の場所に100%存在していたと考えるべきで、

50%存在していた、というような考え方は奇妙である。

確率計算における計算式を実際の物事のあり方として理解するのはおかしい。

壺振りで、壺をあける前のサイコロの状態は、半である確率が2分の1なのであって、

2分の1の存在濃度で半になっているわけではない。


「AでなくかつAである」ということはありえない、という原則を排中律であると私は理解している。

排中律を前提としないのであれば、思考や表現の前提がなくなるし、

「個々の物が存在する」ということについて、通常の理解とは別の定義が必要になる。

しかし、その「別の定義」は不可能なのではないか。

「ある」ということと「確率」は、根本的に相容れない概念だ。

特定の場合の数/全ての場合の数が確率の基本的な定義であり、

全ての場合の数というのは、すでに存在しているものについての描写である。

つまり、存在しているものは100%存在しているから、確率も定義できるのである。

また、「ある」というのは、事実について言われているのだが、「確率」は予測について言われていて、

事実について使われる概念ではない。予測と事実の区別をつけないような表現そのものがおかしいと思う。

2年前 No.306

魔術師 @newmemphis ★dTvismLx8f_TBm

訂正。

「全ての場合の数というのは、すでに存在しているものについての描写である。」

では、分かりづらいと思う。

それは、「全ての場合の数というからには、個々の場合の存在を前提としているはず。」

という意味である。

2年前 No.307

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>304  えぴめてうすさんへ

> 確かに、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問い自体がなぜ発生する理由は、おっしゃるように、3つのうち「何かがある」が選ばれたからだと思うのですが、

>「何かがある」がなぜ選ばれたのか、

>「何か」が「ある」に至ったのはなぜなのか

>選択肢としての「何かがある」は、どのようにしてできたのか

>という問いは残されいるように思うのです。


 大変良い質問です。永井均氏の「独在論の<私>」につながりそうな。答を言うと、何も選ばれてはいません。貴方は、3つを平等に体験しているだけです。「何かがある」を体験している貴方を「貴方1」、「何もない」を体験している貴方を「貴方2」、「何かがある」+「何もない」を体験している貴方を「貴方3」とします。貴方は現在「貴方1」の視点に立っているので、「何かがある」だけがなぜか選ばれているように実感します。しかし、3つの貴方を足し合わせた【貴方】=「貴方1」+「貴方2」+「貴方3」の視点に立つと、【貴方】は3つを平等に体験しているのであり、どれか1つだけが選ばれているのではありません。そして、「貴方1」、「貴方2」、「貴方3」の中から「貴方1」を選び出す時に初めて、「何かがある」、「何もない」、「何かがある」+「何もない」の中から「何かがある」が選び出される、というだけです。もちろん、「3つの中からそれを選んだから、それが選ばれた」というトートロジーですね?

 永井均氏の「独在論の<私>」が、全く同じ問題を扱っています。「私は永井均である。その理由が解らない。私は他のA氏、B氏、C氏、…であっても良かったはずなのに、なぜ永井均だけが私に選ばれているのか? これは科学では決して解明できない謎だ。」…といった内容です。これも実はただのトートロジーで、何も謎は有りません。もう読まれましたか?

2年前 No.308

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★ZexeeNyD8L_MZt

私は神の幻影に二十五年間も苛まされ続けた者です。

私はゴルゴダの刑場まで、二十五年、歩んだ後、復活したのです。

長く苦しい二十五年でした。

2年前 No.309

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>303  SumioBabaさん

まいったな(-_-;) 買い被りすぎですよ…

あなたと時さんの議論に、なかなか参加できないのを残念に思っています。

ところで、私の批判というか、指摘については、意図的・自覚的であるということですね。
了解しました。
それはそれで一つの見識と言いますか、立場ではありえるでしょう。
私は原理主義者とまでは言えないにしても、あなたの立場に正直満足はいかないのですが、
これ以上の議論は今のところ無理なんで、すごすごと引っ込みます(笑)
役不足ですみませんねm(__)m

2年前 No.310

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

SumioBabaさん

>>308

 いろいろお教えいただき、ありがとうございます。
 いままで存在論を量子論的なアプローチで考えたことはなかったので、戸惑いもあり、的外れの質問をしてしまいそうで申し訳ありませんが、ひっかかるところを書かせていただきます。

> 本当のところ自分は、単独の「何かがある」、単独の「何もない」、両方の「何かがある」+「何もない」、の3つを同時に体験しているのだと考えます。ただし認識できるのは、単独の「何かがある」だけになります。他の2つは認識できないからです。


 3つを同時に体験としていることを、いかにして人間は知るのでしょうか。たぶん確率的にそうだという話ではなく、100%実現している世界が3つあるという意味と捉えました。
 また、「何かがある」+「何もない」が実現している世界は、重ね合わせが量子の世界ではない日常レベルで実現しているという意味でしょうか。

 さらに、「何もない」が実現した世界は、認識できないとおっしゃっています。
 「認識できない世界が存在する」に違和感がありまして、「認識できない」を「現に認識していない」の意味で用いた場合、自分(別の自分? 貴方2?)が体験しているにもかかわらず、永遠に存在が確認できないことになり、「認識不可能である」とした場合も同じことになるのではないでしょうか。

 3つを同時に体験している自分とは、相互に認識を共有できない、別の世界に住む自分という意味でしょうか。「何もない」世界に生きる自分が想像できないです。生物として存在していますか。観念だけがあるのでしょうか。それもないのでしょうか。

 3つの世界は相互に行き来できない、つまり両方又は3つすべてを認識できないようですので、そもそも3つを同時に体験していることをどのように証明するのでしょうか。

>「サイコロを投げて出る目は1、2、3、4、5、6のどれかである」のように、すべての可能性をどれ1つ否定せずに網羅したまま、その中のどれかが正しいだろうと主張しており、外れることは有り得ないという意味で、恒真(トートロジー)になります。


 この例では、1、2、3、4、5、6のどれかがでることは、「認識可能である」と「現に認識する」の両方で認識できます。
 「何かがある・ない」については、事情が違うように思います。

>「貴方1」、「貴方2」、「貴方3」の中から「貴方1」を選び出す時に初めて、「何かがある」、「何もない」、「何かがある」+「何もない」の中から「何かがある」が選び出される、というだけです。


 この場合、どのようにして選び出されるのでしょうか。自分が意識的にそうするのでしょうか。確率論的にでしょうか。

 以上、思いついたまま、書かせていただきましたが、私としては、おそらく、「証明不要の絶対的真理」とおっしゃった a「何かがある」+b「何もない」(3つを同時に体験している自分)という前提を疑っているから、このようなことを感じるのだと思います。

2年前 No.311

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>311  えぴめてうすさんへ

>> 本当のところ自分は、単独の「何かがある」、単独の「何もない」、両方の「何かがある」+「何もない」、の3つを同時に体験しているのだと考えます。ただし認識できるのは、単独の「何かがある」だけになります。他の2つは認識できないからです。

> 3つを同時に体験としていることを、いかにして人間は知るのでしょうか。たぶん確率的にそうだという話ではなく、100%実現している世界が3つあるという意味と捉えました。


 3つを同時に体験していることを、人間は実証も反証もできません。「貴方1」は、自分が「何かがある」だけを体験しているように実感するので、そのまま、「何かがある」だけを体験しているだけだ、と解釈することもできます。いや、真の貴方は【貴方】=「貴方1」+「貴方2」+「貴方3」なのだけれど、3つは独立しているので、「貴方1」は真の貴方を【貴方】だと気付けず、「貴方1」だと勘違いしているだけだ、と解釈することもできます。
 前者と後者、どちらが正しいのか、実証も反証もできません。ただ、前者だと考えてしまうと、「なぜ3つのうち「何かがある」だけが選ばれているのだろう?」という謎が生じてしまうのに対し、後者だとその謎が無くなるという違いが有ります。

> さらに、「何もない」が実現した世界は、認識できないとおっしゃっています。

> 「認識できない世界が存在する」に違和感がありまして、「認識できない」を「現に認識していない」の意味で用いた場合、自分(別の自分? 貴方2?)が体験しているにもかかわらず、永遠に存在が確認できないことになり、「認識不可能である」とした場合も同じことになるのではないでしょうか。


 「何もない」が実現した世界を、「存在する」と呼ぶか「存在しない」と呼ぶかはどちらでも良いです。要するに、「何かがある」の方だけが選ばれて「何もない」の方は選ばれなかったと考えてしまうと、「なぜ「何もない」は選ばれず、「何かがある」の方だけが選ばれたのだろう?」という《謎》が生じてしまいます。だから、確率Pで「何かがある」が、確率1−Pで「何もない」が両方選ばれて実現したのだけれど、「何もない」の方はそれを認識する自分そのものが発生しなかったのだと考えれば、《謎》が消滅するということです。

> 3つを同時に体験している自分とは、相互に認識を共有できない、別の世界に住む自分という意味でしょうか。「何もない」世界に生きる自分が想像できないです。生物として存在していますか。観念だけがあるのでしょうか。それもないのでしょうか。


 「貴方1」、「貴方2」、「貴方3」の3つは、相互に認識を共有できない、別の世界に住む貴方です。しかも「貴方2」と「貴方3」は完全に無意識です。

> 3つの世界は相互に行き来できない、つまり両方又は3つすべてを認識できないようですので、そもそも3つを同時に体験していることをどのように証明するのでしょうか。


 実証も反証もできません。

>「貴方1」、「貴方2」、「貴方3」の中から「貴方1」を選び出す時に初めて、「何かがある」、「何もない」、「何かがある」+「何もない」の中から「何かがある」が選び出される、というだけです。

> この場合、どのようにして選び出されるのでしょうか。自分が意識的にそうするのでしょうか。確率論的にでしょうか。


 真の貴方は【貴方】=「貴方1」+「貴方2」+「貴方3」だと考えます。すると、「貴方1」が「自分は【貴方】なんかじゃない。ただの「貴方1」だ」と考えるのは勘違いだということになります。こういう説明を、多世界解釈のヴァリエーションの1つして「裸の解釈」と呼ぶようです。この勘違いを起こすときに、「3つの中から「貴方1」だけが選ばれている」という錯覚が生じるだけです。真の貴方が【貴方】なのであれば、本当は何も選ばれていないのですから。

 地球に住む数十億人の心を「心1」、「心2」、「心3」、…、「心N」とします。えぴめてうすさんの心が「心1」、SumioBabaの心が「心2」です。「心1」が認識できるのは「心1」の存在と状態だけですから、自分が体験しているのは「心1」だけであり、他の「心2」、「心3」、…、「心N」など自分は体験していない、と思い込んでおられるでしょう。そうすると、すべての心の中で唯一「心1」だけが特殊な<私>に感じてしまいます。しかし、真の自分は【心】=「心1」+「心2」+「心3」+ … +「心N」なのであり、本当はすべての「心1」、「心2」、「心3」、…、「心N」を平等に体験しているのだ、と解釈することもできるのです。これもまた実証も反証もできない解釈の違いですが、前者だと「なぜ「心1」だけが<私>に選ばれているのだろう?」という謎が残るのに対し、後者だとこの謎が消滅するという違いが有ります。この【心】こそが「神」です。

2年前 No.312

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

SumioBabaさん

>>312

 量子論の専門的知識を持たない者に、丁寧にわかりやすくお答えいただき、ありがとうございました。
 ご説明いただいた、単独の「何かがある」、単独の「何もない」、両方の「何かがある」+「何もない」、の3つを同時に体験しているのだと考えると、単なるトートロジーであり、《謎》が消滅するということを理解しました。

 現在の気持ちは、
1 「証明不要の絶対的真理」とおっしゃった a「何かがある」+b「何もない」(3つを同時に体験している自分)という前提を受け入れることに心理的抵抗があるのと、
2 むりやり謎を生み出そうとはしていないつもりなのですが、かりに3つを同時に体験しているのだと考えたとしても、多世界解釈は、3)の答えにはなっても、1)や2)の答えとしては、不十分だと思われます。
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」
 1)「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
 2)「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
 3)「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」  >>0 より
 つまり、無意識の何もない宇宙や世界を導入し、何かがある宇宙や世界では、そこに生きているのは、「ある」宇宙や世界に生きているからというトートロジーの答え以外に、そもそも、a「何かがある」ということがなぜあるのか、「何か」が「ある」とは何か、「ある」に至ったのはなぜなのか(「ない」から「ある」が生じたのか、もともと「ある」だったのか)、a「何かがある」+b「何もない」のa「何かがある」という世界のバリエーションがなぜ生まれたのかなどについては、別に問えるのではという思いをもっています。
 ただ、一方で、問いには答えがあるとする「充足理由律」も疑う必要があると考えています。

>>308

>永井均氏の「独在論の<私>」が、全く同じ問題を扱っています。「私は永井均である。その理由が解らない。私は他のA氏、B氏、C氏、…であっても良かったはずなのに、なぜ永井均だけが私に選ばれているのか? これは科学では決して解明できない謎だ。」…といった内容です。これも実はただのトートロジーで、何も謎は有りません。もう読まれましたか?


 永井均氏の「〈子ども〉のための哲学」講談社現代新書を読み、独我論に興味を持ちました。
    http://mb2.jp/_tetsugaku/436.html-427

2年前 No.313

優鬼 ★A1xnfKFaK3_eYJ

量子力学の立場に立って「存在は揺らいでいる」としても、「その揺らいでいる存在はどうして成立したのか」という謎は残る。そしてその世界に存在している存在に、「その世界がどうして存在するようになったか」などわかるはずもない。

2年前 No.314

優鬼 ★A1xnfKFaK3_eYJ

>>306
「何も情報がない=状態が確定していない=観測がされていない」を無と定義してるからな。+は重ね合わせ。
そもそも排中律はただの公理に過ぎない。ユークリッド幾何学の公理を一つ反転させただけで非ユークリッド幾何学が生まれたように、排中律の成立しない論理学も可能だろう。現に量子力学が成立しているのだから。

2年前 No.315

魔術師 @newmemphis ★xwOCTepPRl_eqS

>>315

波動関数を発見したシュレディンガーは、量子力学の考え方を嫌っていた。納得もしなかった。

アインシュタインもまた、それを嫌っていた。やはり、納得しなかった。

このように、現代物理学の扉を開いた当事者たちからも懐疑的に見られていた量子力学については、我々も疑ってみても良いのでは。

現代においても、「重ね合わせ」説(コペンハーゲン解釈)に対して批判的な物理学者はいる。


物理学者ではない私は、哲学的な見地から、相対性理論もコペンハーゲン解釈も疑いの目で見ている。ほとんど否定している。

やはり、観念論が真理だと思う。

2年前 No.316

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>313  えぴめてうすさんへ

> ご説明いただいた、単独の「何かがある」、単独の「何もない」、両方の「何かがある」+「何もない」、の3つを同時に体験しているのだと考えると、単なるトートロジーであり、《謎》が消滅するということを理解しました。


 だいぶ理解していただけたようで、嬉しいです。大きな進歩ですね。こちらの説明がヘタクソですみません。

> 現在の気持ちは、

>1 「証明不要の絶対的真理」とおっしゃった a「何かがある」+b「何もない」(3つを同時に体験している自分)という前提を受け入れることに心理的抵抗があるのと、

>2 むりやり謎を生み出そうとはしていないつもりなのですが、かりに3つを同時に体験しているのだと考えたとしても、多世界解釈は、3)の答えにはなっても、1)や2)の答えとしては、不十分だと思われます。

>「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」

 1)「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
 2)「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
 3)「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」  >>0 より

> つまり、無意識の何もない宇宙や世界を導入し、何かがある宇宙や世界では、そこに生きているのは、「ある」宇宙や世界に生きているからというトートロジーの答え以外に、そもそも、a「何かがある」ということがなぜあるのか、


 「そもそも、a「何かがある」ということがある」も客観的な事実ではありません。「そもそも、a「何かがある」ということがある」という視点に立った場合に初めて真となる命題です。「そもそも、a「何かがある」ということさえない」という視点に立てば、「そもそも、a「何かがある」ということさえない」になります。やはりダブル・トートロジーです。

 恐らく貴方は、確率を客観的なものと考えておられるのだと思います。でも、正しくは主観的なものです。例えばシュレディンガーの猫の話で猫の生死を観測して「生」だったとします。多世界解釈を採らないと、「なぜ「死」の方は実現しなかったのだろう?」という謎が生じます。そこで多世界解釈は「「生」と「死」の両方が確率1/2ずつで実現したのだ」と説明します。しかし、これでも納得しない人がいます。「なぜ確率1/2ずつで実現した」のだろう? 「確率1/2ずつで実現した、のではない」でも良かっただろうに? これは「「生」と「死」の両方が確率1/2ずつで実現したのだ」を誰にとっても正しい客観的な事実だと思い込んでいます。実はそうではないのです。観測して「生」だった視点に立っている人にとっては、「生」が確率1で実現し、「死」が実現した確率は0です。観測して「死」だった視点に立っている人にとっては、「死」が確率1で実現し、「生」が実現した確率は0です。「「生」と「死」の両方が確率1/2ずつで実現したのだ」という命題もまた、「「生」と「死」の両方が確率1/2ずつで実現したのだ」と認識する視点に立ったときにだけ真となる命題であり、そうでない視点に立てば偽にも成り得るのです。

>「何か」が「ある」とは何か、「ある」に至ったのはなぜなのか(「ない」から「ある」が生じたのか、もともと「ある」だったのか)、a「何かがある」+b「何もない」のa「何かがある」という世界のバリエーションがなぜ生まれたのかなどについては、別に問えるのではという思いをもっています。


    「何か」が「ある」とは何か
 これは定義の問題なので、特定できません。

    「ある」に至ったのはなぜなのか
 「「ある」に至った」という視点に立っているからです。「「ある」に至っていない」という視点に立てば「「ある」に至っていない」です。

    (「ない」から「ある」が生じたのか、もともと「ある」だったのか)
 これは、世界が初めから無矛盾な論理法則・物理法則に縛られているという前提に立っているように思われます。初めから「縛られている」と「縛られていない」のうち「縛られている」の方に限定されていたと考えると、また「なぜ?」という解けない謎が残ってしまいます。そこで、世界の初めはどんな○○○についても「○○○である」と「○○○でない」の片方に縛られることは無かったと考えます(より正確に言うなら、「縛られる」にも「縛られない」にも成り得た)。すると説明は簡単です。世界は「有ってはならない」という法則に縛られていませんから、「ある」に成り得ます。世界は「有らねばならない」という法則にも縛られていませんから、「ない」にも成り得ます。つまり、確率Pで「ある」でもあり、確率1−Pで「ない」にも成り得ます(Pの値は不明)。「片方でなければならない」という法則にも縛られていないので、P=1/2で両方にも成り得ます。「両方でなければならない」という法則にも縛られていないので、P=0やP=1で片方にもなれます。

    世界のバリエーションがなぜ生まれたのか
 これも同じです。「世界のバリエーションが生まれた」と認識する視点に立っているから「世界のバリエーションが生まれた」、が答です。「世界のバリエーションは生まれなかった」と認識する視点に立てば「世界のバリエーションは生まれなかった」も成立しています。やはり、ダブル・トートロジーです。「世界のバリエーションが生まれた」もまた主観的真理に過ぎず、客観的真理ではないのです。

> ただ、一方で、問いには答えがあるとする「充足理由律」も疑う必要があると考えています。


 全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現し、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」、というダブル・トートロジーを成立させているだけだ(=「□□□である」とおく)、と考えれば、「なぜ○○○なのか?」という謎はすべてトートロジーに解消でき、充足理由律を満たせます。
 「□□□である」を否定すると、最後まで謎が残ってしまい、充足理由律を満たさない問、つまり答の無い謎が発生します。
 本来、世界は何一つ限定されていないと考えるなら、「□□□である」と「□□□でない」もまた、どちらか片方でも有り得るし、両方でも有り得ます。

2年前 No.317

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>313  えぴめてうすさんへ

 「まだこんな謎が残っているじゃないか!?」という疑問点が有りましたら、いくらでも反論を試みて下さい。

2年前 No.318

優鬼 ★A1xnfKFaK3_eYJ

なぜという問いは無限回帰するというが
なぜ「なぜという問い」は無限回帰するのか?という問いも同じく無限回帰するので
結局、無限回帰する根拠も明確には示せない。

2年前 No.319

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>313  えぴめてうすさんへ

>1 「証明不要の絶対的真理」とおっしゃった a「何かがある」+b「何もない」(3つを同時に体験している自分)という前提を受け入れることに心理的抵抗があるのと、


 a「何かがある」+b「何もない」というのが、真理を何一つ限定しない一般形であり、単独の「何かがある」も、単独の「何もない」も、両方の「何かがある」+「何もない」も、3つすべてを含んだものです。何も真理を限定していないので、「これらの中のどれかである」という主張は証明不要の絶対的真理です。
 逆に、これを受け入れないとどうなるか。真理を3つの中から2つ以下に限定することになるので、その証明が必要になります。a「何かがある」+b「何もない」は、正しいと受け入れるときは証明不要、受け入れないときに「正しくない」という立証責任が生じます。a「何かがある」+b「何もない」は正しくないと、証明できますか?

 「心理的抵抗がある」という気持ちはよく解ります。科学の方法論そのものに問題が有るのです。科学は、「「○○○である」が真であり「○○○でない」が偽に違いない」という《仮説》を立て、実験・観察によってそれが正しい事を証明し、「また真理を1つ解明しました!!」という方法でこれまで発展して来ました。確かに、自分が住む世界では「○○○である」が真であり、「○○○でない」が偽だと判明しました。しかし、「なぜ「○○○である」と「○○○でない」のうち、「○○○である」の方だけが選ばれて実現したのだろう?」という謎が残ってしまいます。完全解決していないのです。
 多世界解釈を採れば、「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現したのであり、「○○○である」の視点に立てば「○○○である」が真だし、「○○○でない」の視点に立てば「○○○でない」が真です。実験・観察していなければ、どちらが真でどちらが偽だと確定してさえいません。こう考えて初めて謎が完全解決します。

>2 むりやり謎を生み出そうとはしていないつもりなのですが、かりに3つを同時に体験しているのだと考えたとしても、多世界解釈は、3)の答えにはなっても、1)や2)の答えとしては、不十分だと思われます。

>「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」

> 1)「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」

> 2)「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」

> 3)「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」  >>0 より


 多世界解釈にも、何通りかの解釈ができます。
      (1)
 存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在する」と「存在しない」のうち「存在する」の方に客観的に確定している、と考える人もいるようです。こう考えてしまうと、「なぜすべての世界は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのだろう?」という解けない謎が残ってしまいます。
      (2)
 存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…のどれもが、確率的に「存在する」でもあれば「存在しない」でもある、の両方だと考えることもできます。実際に個々の世界W1、W2、W3、…はどれも、その世界に住む人にとっては「存在する」ですが、自分が住んでいない世界の方は、「存在する」なのか「存在しない」のか不明、という在り方をしています。だから自分が住んでいない世界は、「確率1で存在している」「確率1で存在していない」「0より大きく1より小さい確率で存在している」、のどれだと考えることもできます。
 W1、W2、W3、…の全集合を{W}、任意の部分集合を{Wa}、その補集合を{Wx}とします。そして、{Wa}の要素だけが「存在する」であり、{Wb}の要素は「存在しない」、という確率も必ずいくらか有ると考えることができます。{Wa}を{W}そのものに取れば、「すべての世界W1、W2、W3、…が「存在する」」(=P)になります。{Wa}を空集合φに取れば、「すべての世界W1、W2、W3、…のどれ1つとして「存在しない」」(=Q)になります。{Wa}の要素を自分が住む世界W1だけに取れば、「W1だけが「存在する」であり、W2、W3、…は「存在しない」」(=R)になります。P、Q、Rのどれもが、ある確率で実現している、と考えます。そして、P、Q、Rのどれを「○○○である」と置いた場合も、「○○○である」を選べば「○○○である」が選ばれる、「○○○でない」を選べば「○○○でない」が選ばれる、のダブル・トートロジーが成立しています。
      (3)
 (1)だと謎が残ります。(2)だとすべての謎がダブル・トートロジーで消滅します。(1)と(2)のどちらが真なのかという点に関しても、どちらか一方だけに真理を限定してしまうと「なぜ?」という謎が生じてしまいます。謎を残さない答は、a「(1)である」+b「(2)である」〔aとbは不明〕になります。

2年前 No.320

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>320

 すみません。訂正です。

 W1、W2、W3、…の全集合を{W}、任意の部分集合を{Wa}、その補集合を{Wx}とします。そして、{Wa}の要素だけが「存在する」であり、{Wb}の要素は「存在しない」、という確率も必ずいくらか有ると考えることができます。
      ↓
 W1、W2、W3、…の全集合を{W}、任意の部分集合を{Wa}、その補集合を{Wx}とします。そして、{Wa}の要素だけが「存在する」であり、{Wx}の要素は「存在しない」、という確率も必ずいくらか有ると考えることができます。

2年前 No.321

優鬼 ★A1xnfKFaK3_eYJ

多世界に別の自分なんていない。多世界というが本当は無数の世界であって、そこには「一粒子だけ状態の違うSumioBaba」から「半分はSumioBabaで半分はえぴめてうす」まで存在する。どこからどこまで自分なのか?と問うても「そのすべてが神だ」で逃げられるだろう。
そして「本当のあなたはそのすべてを観測している」という。これもヒュー・エヴェレットの多世界解釈ではなく、SumioBabaの「多世界解釈」解釈だと言われればそれまで。

2年前 No.322

えぴめてうす ★oQDM9oOiW4_BqV

SumioBabaさん

>>317,320

 ありがとうございます。残る謎について考えています。

>「そもそも、a「何かがある」ということがある」も客観的な事実ではありません。


 それぞれの主観が見る客観的世界であって、絶対的な客観的世界を認識できないと思っております。
 そのうえで、「事実」の定義にもよると思いますが、自分がいる世界には、何かがあるというのが「事実」はないのでしょうか。 あくまで「何かがある」ということがあるという視点に立った場合の議論です。

>「何か」が「ある」とは何か

 これは定義の問題なので、特定できません。

 「何かがある」ということがあるという視点に立った議論でいえば、「ある」の意味、「ある」とはどういうことか、なぜ「ある」に至ったのか、を問う余地があると思われます。
 ご指摘のように、その議論のためには、「何か」、「ある」をひとまず定義して考える必要があるかもしれません。

>「ある」に至ったのはなぜなのか

 「「ある」に至った」という視点に立っているからです。「「ある」に至っていない」という視点に立てば「「ある」に至っていない」です。

 「ある」に至った」という視点に立った場合に、「ある」がどうしてできたのかについて問うものですので、この問いは、「「ある」に至っていない」という視点に立っていないと言えます。

>(「ない」から「ある」が生じたのか、もともと「ある」だったのか)

 これは、世界が初めから無矛盾な論理法則・物理法則に縛られているという前提に立っているように思われます。

 ご指摘のとおり、その前提に立っています。
 まさに、人は、「a「何かがある」+b「何もない」(3つを同時に体験している自分)という前提を置いて、a「何かがある」という視点からは「あり」、そうでない視点からは「ない」ことになるので、トートロジーであり、謎はない」というふうに論理的に考えるように、おそらく、「無矛盾な論理法則・物理法則」でないものを、人間は考えることができないのではないでしょうか。
 この前提に立ったうえで、その起源を問うているということです。

>世界のバリエーションがなぜ生まれたのか


 a「何かがある」+b「何もない」(同時成立)と3つに分けている前提を絶対的真理に置いていますが、なぜこれが3であって、それ以外ではないのかを問うことはできないでしょうか。言い換えると、なぜ「ある」と「ない」(同時成立)なのか。
 また、a「何かがある」+b「何もない」(同時成立)を絶対的真理の前提として置いた場合、「世界のバリエーションは生まれなかった」という視点に立つことは矛盾ではないでしょうか。

> 「□□□である」を否定すると、最後まで謎が残ってしまい、充足理由律を満たさない問、つまり答の無い謎が発生します。


 まさにそうだと思います。
 ただ私は、「□□□である」ことを肯定・否定するというより、「○○○がある」という視点に立った場合に、その「ある」ということに対して問いを向けているのだと思います。
 下記の1)、2)を、宇宙や世界が「ある」ということはどういうことか、なぜ「ある」という事象が生じているのか、という観点で見ているということだと思います。
 つまり、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の問いには、「ないのではなく、あるのはなぜか」の問い(これには、a「何かがある」+b「何もない」と考えてトートロジーとすることで1つの答えが出ます。)と、「ある」そのものについて問うことをしていると思っています。

>>かりに3つを同時に体験しているのだと考えたとしても、多世界解釈は、3)の答えにはなっても、1)や2)の答えとしては、不十分だと思われます。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」
 1)「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
 2)「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
 3)「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」  >>0 より

>a「何かがある」+b「何もない」というのが、真理を何一つ限定しない一般形であり、単独の「何かがある」も、単独の「何もない」も、両方の「何かがある」+「何もない」も、3つすべてを含んだものです。何も真理を限定していないので、「これらの中のどれかである」という主張は証明不要の絶対的真理です。


 a「何かがある」+b「何もない」(同時成立)とおいて、「これらの中のどれかである」という主張自体は、証明不要の絶対的真理だと思うのですが、なぜ「ある」と「ない」と「ある・ない同時成立」の3つになのか、なぜ「ない」や「ある・ない同時成立」を経験できないのに、前提に入っているのかの謎があるように思います。

>多世界解釈を採れば、「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現したのであり、「○○○である」の視点に立てば「○○○である」が真だし、「○○○でない」の視点に立てば「○○○でない」が真です。実験・観察していなければ、どちらが真でどちらが偽だと確定してさえいません。こう考えて初めて謎が完全解決します。


 私の心理的抵抗は、「こう考えて初めて謎が解決」するということにあると気づきました。
 つまり、こう考えなければ解決しない、こう考えるかどうかは任意、つまり、312の「前者だと考えてしまうと、「なぜ3つのうち「何かがある」だけが選ばれているのだろう?」という謎が生じてしまうのに対し、後者だとその謎が無くなるという違いが有る」というように、どっちと考えるかは任意で、「こう考えると謎がなくなる」というだけに過ぎず、謎を解決するために、そう考えてしまっているようにも見えるのです。
 さらに、前提である3つの事態について、 >>312  から、
・その3つを同時に体験していることを、人間は実証も反証もできない
・「貴方1」は、自分が「何かがある」だけを体験しているように実感するので、そのまま、「何かがある」だけを体験しているだけだ、と解釈することもでき、真の貴方は【貴方】=「貴方1」+「貴方2」+「貴方3」なのだけれど、3つは独立しているので、「貴方1」は真の貴方を【貴方】だと気付けず、「貴方1」だと勘違いしているだけだ、と解釈することもでき、前者と後者、どちらが正しいのか、実証も反証もできない
・「貴方1」、「貴方2」、「貴方3」の3つは、相互に認識を共有できない、別の世界に住む貴方で、しかも「貴方2」と「貴方3」は完全に無意識である、
といったことを踏まえたうえで、この前提を合理的に理解し、それを選択する(「□□□である」を肯定する)ことがなかなか困難なように思えるのです。

 しかし、「世界が初めから無矛盾な論理法則・物理法則に縛られている」ことを疑うことは革命的な何かを予感させるものがあります。つまり、この世界で、人が獲得した論理法則・物理法則はどこまで確かで、そうでない世界があるのか、面白い話だと思います。

2年前 No.323

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>323  えぴめてうすさんへ

>> これは定義の問題なので、特定できません。

> 「何かがある」ということがあるという視点に立った議論でいえば、「ある」の意味、「ある」とはどういうことか、なぜ「ある」に至ったのか、を問う余地があると思われます。

> ご指摘のように、その議論のためには、「何か」、「ある」をひとまず定義して考える必要があるかもしれません。


 自分の場合は多世界解釈を採り、これを突き詰めていくと客観的物質世界というものが意味を無くし、存在しているのは様々な心M0、M1、M2、M3、…の集合{M}だけだとするライプニッツの「モナドロジー」で十分になります。M1、M2、M3、…は「色」(しき)であり、少なくとも1ビットは情報を持ち、特定の意識を持った状態です。M1、M2、M3、…をすべて同じ重みで重ね合わせると情報が完全に消滅し、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕になります。M0は何一つ情報を持たない完全無意識状態で、これが「空」(くう)です。観念論を採る場合は、「空」M0が《無》、「色」M1、M2、M3、…が《有》だと定義すれば、《無》と《有》とがスムーズにつながります。つまり、「全体」が《無》、「部分」が《有》です。西田幾多郎の言葉で言えば、左辺のM0が《絶対無》、右辺のM1、M2、M3、…が《絶対有》、M0=M1+M2+M3+…が両者の《絶対矛盾的自己同一》です。左辺のM0は、M1、M2、M3、…のすべてが重ね合わせられて消滅している視点であり、この視点で「何もない」が成立しています。右辺の個々のM1、M2、M3、…の視点では「何かがある」が成立しています。

> 「ある」に至った」という視点に立った場合に、「ある」がどうしてできたのかについて問うものですので、この問いは、「「ある」に至っていない」という視点に立っていないと言えます。


 科学は「「ある」がどうしてできたのか」について、「自分はまだ答を知らないけれど、特定の答がすでに決まっているに違いない」と盲信し、それを解明しようとします(真理の実在論)。実験・観察によって「「ある」がどうしてできたのか」を調べていくと、自分の住む世界では1つの答が見付かるかもしれません。例えば「ビッグ・バン」のような。しかし、答が唯一なら疑問は残りませんが、唯一だと思えない場合、「他にも答が有って良さそうなのに、なぜ他の答ではなくこの答なのだろう?」という謎が残ってしまいます。
 そこで、「自分がその答を認識していないとき、答は決まってさえいない」と考えます。「答を認識した時点で自分が住む世界における答は確定したが、この時も様々な答を得た多数の世界に分裂したのであり、1つの答だけが選ばれたのではない。」と考えれば、この謎は消滅します(真理の観念論)。

> まさに、人は、「a「何かがある」+b「何もない」(3つを同時に体験している自分)という前提を置いて、a「何かがある」という視点からは「あり」、そうでない視点からは「ない」ことになるので、トートロジーであり、謎はない」というふうに論理的に考えるように、おそらく、「無矛盾な論理法則・物理法則」でないものを、人間は考えることができないのではないでしょうか。


 矛盾が生じている世界では、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立できるので、「矛盾が生じている状態とはどんな状態か?」と問うとき、「「○○○である」という状態です。「○○○でない」という状態ではありません。」という答はできません。「「○○○である」でもあれば「○○○でない」でもあり、片方でもあれば両方でもある。」(=「□□□である」とおく)としか言えません。もちろん、「□□□である」でもあれば「□□□でない」でもあります。
 世界が初めから、無矛盾な論理法則・物理法則に縛られていたと考えてしまうと、「なぜ「縛られない」ではなく「縛られる」だけが選ばれたのか?」という謎を隠蔽してしまいます。隠蔽しないためには、「縛られない」と「縛られる」の両方が実現したのだと考えれば良い訳です。ただし今度は、「なぜ人間は「縛られる」の方だけしか体験できないのか?」を説明する必要が生じます。これは「人間原理」で簡単に説明可能です。無矛盾な論理法則・物理法則に「縛られない」世界は、たとえ実現されたとしても状態が確定せず、何も情報を持てない「空」M0になってしまうと考えられます。特定の意識状態である「色」M1、M2、M3、…の視点に立てば、自分が住む世界は必然的に、無矛盾な論理法則・物理法則に「縛られる」の方になります。

> a「何かがある」+b「何もない」(同時成立)と3つに分けている前提を絶対的真理に置いていますが、なぜこれが3であって、それ以外ではないのかを問うことはできないでしょうか。言い換えると、なぜ「ある」と「ない」(同時成立)なのか。


 今は「何かがある」と「何もない」の2つを考えているので、起こり得るすべての可能性として、両者の論理和で2つ、論理積で1つ、合計3つになっただけです。3つ以上の選択肢を考えるなら、もっと多くの可能性が出て来ると思われます。
 なぜ論理和の方は2つなのかと言えば、我々が「論理二元論」の世界に住んでいるからだと思われます。M0=M1+M2+M3+…の左辺と右辺とは同一のものなのですが、右辺の方は「真」と「偽」からなる「論理二元論」、あるいは、a「真」+b「偽」でaとbが様々な値を取り得る「論理多元論」で記述しています。左辺のM0は「?」=「真」+「偽」たった1つからなる「論理一元論」で記述しているため、「真」と「偽」の区別さえ無い、と見なせるかもしれません。

> また、a「何かがある」+b「何もない」(同時成立)を絶対的真理の前提として置いた場合、「世界のバリエーションは生まれなかった」という視点に立つことは矛盾ではないでしょうか。


 a「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)においてaとbは不明なので、a=1、b=0を選ぶと、単独の「何かがある」になります。この視点では、確率1で「何かがある」だけが実現し、「何もない」が実現した確率は0すなわち実現していません。つまり、「世界のバリエーションは生まれなかった」です。
 一方、aとbは不明なので、a>0、b>0と考えることもできます。この場合、「何かがある」も「何もない」も、0より大きい確率で実現したことになり、「世界のバリエーションが生まれた」です。
 a=1、b=0と解釈することもできます。a>0、b>0と解釈することもできます。実証も反証もできないからこそ、全知全能の「神」は両方を実現している、という解釈が可能になるし、片方だけ実現している、にも成り得ます。「何かがある」と「何もない」と「両方」の3つすべてを実現しているとも見なせるし、2つ以下しか実現していない、とも見なせます。これらすべてを含んでいるのが、a「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)です。

> a「何かがある」+b「何もない」(同時成立)とおいて、「これらの中のどれかである」という主張自体は、証明不要の絶対的真理だと思うのですが、なぜ「ある」と「ない」と「ある・ない同時成立」の3つになのか、なぜ「ない」や「ある・ない同時成立」を経験できないのに、前提に入っているのかの謎があるように思います。


 なぜ3つになるのかはすでに説明しました。「なぜ「ない」や「ある・ない同時成立」を経験できないのに、前提に入っているのか」というのは、経験科学の立場では常識的な疑問だと思います。科学は自分の経験を元にして、真理を解明しようとするからです。
 しかし、哲学的には本末転倒していると感じます。正しい問はこうではないでしようか? 「世界を初めから「ある」と「ない」の片方だと決め付けてしまうと、その時点で「なぜ?」という謎を隠蔽してしまう。謎を隠蔽しないため、世界の初めは「ある」にも「ない」にも確定していなかったというところからスタートすべきだ。すると問はこうなる。本来、世界は「ある」にも「ない」にもなれたと思われるのに、なぜ自分は「ある」の方だけを認識するのか!?」。

>>多世界解釈を採れば、「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現したのであり、「○○○である」の視点に立てば「○○○である」が真だし、「○○○でない」の視点に立てば「○○○でない」が真です。実験・観察していなければ、どちらが真でどちらが偽だと確定してさえいません。こう考えて初めて謎が完全解決します。

> 私の心理的抵抗は、「こう考えて初めて謎が解決」するということにあると気づきました。

> つまり、こう考えなければ解決しない、こう考えるかどうかは任意、つまり、312の「前者だと考えてしまうと、「なぜ3つのうち「何かがある」だけが選ばれているのだろう?」という謎が生じてしまうのに対し、後者だとその謎が無くなるという違いが有る」というように、どっちと考えるかは任意で、「こう考えると謎がなくなる」というだけに過ぎず、謎を解決するために、そう考えてしまっているようにも見えるのです。


 その通りですよ。

> さらに、前提である3つの事態について、 >>312  から、

>・その3つを同時に体験していることを、人間は実証も反証もできない

>・「貴方1」は、自分が「何かがある」だけを体験しているように実感するので、そのまま、「何かがある」だけを体験しているだけだ、と解釈することもでき、真の貴方は【貴方】=「貴方1」+「貴方2」+「貴方3」なのだけれど、3つは独立しているので、「貴方1」は真の貴方を【貴方】だと気付けず、「貴方1」だと勘違いしているだけだ、と解釈することもでき、前者と後者、どちらが正しいのか、実証も反証もできない

>・「貴方1」、「貴方2」、「貴方3」の3つは、相互に認識を共有できない、別の世界に住む貴方で、しかも「貴方2」と「貴方3」は完全に無意識である、

>といったことを踏まえたうえで、この前提を合理的に理解し、それを選択する(「□□□である」を肯定する)ことがなかなか困難なように思えるのです。


 実証も反証もできない、という点が重要なのですね。だからこそ、3つすべてが実現しているとも解釈できるし、2つ以下しか実現していないと解釈することもでき、こう考えると謎が無くなります。こう考えないと謎は無くなりません。

> しかし、「世界が初めから無矛盾な論理法則・物理法則に縛られている」ことを疑うことは革命的な何かを予感させるものがあります。つまり、この世界で、人が獲得した論理法則・物理法則はどこまで確かで、そうでない世界があるのか、面白い話だと思います。


 上でも説明しましたが、自分が無矛盾な論理法則・物理法則に「縛られている」からといって、世界が初めから「縛られている」の方だと考えてしまうと、「なぜ?」という謎は永久に隠蔽されてしまいます。世界は本来、「縛られない」と「縛られる」の両方であった、というところから出発し、なぜ人間は「縛られる」の方だけしか認識できないのかを説明すれば、この謎も消滅する訳です。

 量子力学でも、こういう点がチラホラ見え隠れします。我々の世界には「運動量保存則」というものがあるように見えます。周囲から力を受けていない粒子は等速直線運動をする、と説明されます。しかし、量子力学の1つの形式である「経路積分」では、本当は粒子は等速直線運動などしておらず、あらゆる曲線経路すべてを通っている状態の重ね合わせになっている、と考えます。ただし、それらをすべて波のように重ね合わせると、等速直線運動する経路と、そのごく周辺だけ粒子の存在確率が残り、大きく逸脱した領域では波と波が打ち消し合い、粒子の存在確率は0になります。「粒子は運動量保存則などに縛られていない」と仮定し、存在し得る状態をすべて重ね合わせると、自ずと「運動量保存則」が生じるという訳です。だから、「本当は運動量保存則は「ある」にも「ない」にも限定されていないが、観測にかかるのは「ある」の方だけだ」と解釈できる訳です。こう考えると、「なぜ運動量保存則なんてものが、「ない」ではなく「ある」の方だけ選ばれて実現しているのか?」という謎も無くなります。

2年前 No.324

★30JjgxOVKX_ZFe

SBさま
前にもどこかで聞いてみたけど、問い方変えて、

「○○○」って、なあに?

2年前 No.325

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

 ありがとうございます。

>自分の場合は多世界解釈を採り、これを突き詰めていくと客観的物質世界というものが意味を無くし、存在しているのは様々な心M0、M1、M2、M3、…の集合{M}だけだとするライプニッツの「モナドロジー」で十分になります。


 やはり、多世界解釈をとるかどうかが分かれ目なように思いました。

>実証も反証もできない、という点が重要なのですね。だからこそ、3つすべてが実現しているとも解釈できるし、2つ以下しか実現していないと解釈することもでき、こう考えると謎が無くなります。こう考えないと謎は無くなりません。


 おっしゃることはそうだと思いますが、そう解釈する前提について、疑いが残ってしまうということが心理的抵抗を生んでしまいます。
 たとえば、絶対空間、絶対時間を疑い、光速度が一定であると仮定して、時間・空間を相対的なものとした相対論は、常識的にはなかなか受け入れられないように思いますが、実験能力の進歩などで実証されており、そういう意味で受け入れやすいのですが。

>科学は「「ある」がどうしてできたのか」について、「自分はまだ答を知らないけれど、特定の答がすでに決まっているに違いない」と盲信し、それを解明しようとします(真理の実在論)。実験・観察によって「「ある」がどうしてできたのか」を調べていくと、自分の住む世界では1つの答が見付かるかもしれません。


 私が、ご指摘のように「科学」的な考え方をし、それに沿って納得しようとしているのは事実です。
 ただ、ライプニッツの置いた「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めた上で、問われた問いという設定ですので、その原理を認めなければ、この謎に答えはないということもあり得ます。
  >>249 でも述べましたように、問いを立てる際の暗黙の仮定や前提が誤っていたり、検証できないものに依拠していたりするため、答えがそもそも存在しない問いとして、「疑似問題」とすることもあると考えています。

>M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕になります。M0は何一つ情報を持たない完全無意識状態で、これが「空」(くう)です。観念論を採る場合は、「空」M0が《無》、「色」M1、M2、M3、…が《有》だと定義すれば、《無》と《有》とがスムーズにつながります。


 つまらない質問で恐縮ですが、全体 = a「何かがある」+b「何もない」(同時成立) の場合は、右辺に「何もない」があり、M0 = M1+M2+M3+…の場合(「空」M0が《無》、「色」M1、M2、M3、…が《有》だと定義できる)は、右辺はすべて「有」(何かがある)となっているのはどう考えればよいのでしょうか。

> 世界が初めから、無矛盾な論理法則・物理法則に縛られていたと考えてしまうと、「なぜ「縛られない」ではなく「縛られる」だけが選ばれたのか?」という謎を隠蔽してしまいます。


 これもつまらない質問なのですが、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られていたと考えてしまう」と、「なぜ「縛られない」ではなく「縛られる」だけが選ばれたのか?」という謎が生まれるということではないのでしょうか。

>なぜ論理和の方は2つなのかと言えば、我々が「論理二元論」の世界に住んでいるからだと思われます。


 この場合も、「論理二元論」の世界以外に、三元論、四元論などすべての世界があると考えるのでしょうか。

> a「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)においてaとbは不明なので、a=1、b=0を選ぶと、単独の「何かがある」になります。この視点では、確率1で「何かがある」だけが実現し、「何もない」が実現した確率は0すなわち実現していません。つまり、「世界のバリエーションは生まれなかった」です。


 私が「生まれた」と表現したのがよくなかったのですが、世界のあり方として、a「何かがある」+b「何もない」(同時成立)という3つのバリエーションがあることについて、なぜと問うことができるという意味で申し上げました。

>哲学的には本末転倒していると感じます。正しい問はこうではないでしようか? 「世界を初めから「ある」と「ない」の片方だと決め付けてしまうと、その時点で「なぜ?」という謎を隠蔽してしまう。謎を隠蔽しないため、世界の初めは「ある」にも「ない」にも確定していなかったというところからスタートすべきだ。すると問はこうなる。本来、世界は「ある」にも「ない」にもなれたと思われるのに、なぜ自分は「ある」の方だけを認識するのか!?」。


 「世界は「ある」にも「ない」にもなれたと思われるのに、なぜ自分は「ある」の方だけを認識するのか!?」」という謎を問うているのだと思います。(「ある」ではなく、「「ある」を認識する」に置き換わっていますが。)
 そして、なぜ、世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっているのか。
 これも「ある」「ない」(同時成立)と考えるから、そういうバリエーションになっているというトートロジーの答えになるのでしょうか。

>世界は本来、「縛られない」と「縛られる」の両方であった、というところから出発し、なぜ人間は「縛られる」の方だけしか認識できないのかを説明すれば、この謎も消滅する訳です。


 「なぜ人間は「縛られる」の方だけしか認識できないのか」を問うということでしょうか。これも究極の問いの派生形だと思われます。

>それらをすべて波のように重ね合わせると、等速直線運動する経路と、そのごく周辺だけ粒子の存在確率が残り、大きく逸脱した領域では波と波が打ち消し合い、粒子の存在確率は0になります。「粒子は運動量保存則などに縛られていない」と仮定し、存在し得る状態をすべて重ね合わせると、自ずと「運動量保存則」が生じるという訳です。


 観測によって、「運動量保存則」が実現するという場合は、a「運動量保存則がある」+b「それ以外の法則がある」+c「法則は何もない」から、必ず、観測すると、aが実現するということでしょうか。
 そうであれば、なぜ観測すると、必ず「運動量保存則」が選ばれるのか(=なぜこの世界には、運動量保存則があるのか)という問いが成立すると思われます。

 とりとめもなく、ズレた質問ばかりで恐縮です。
 本投稿の最初に戻りますが、多世界解釈、人間原理、重ね合わせ、などの考え方をとろうとするかどうか、ということにかかっているなと感じました。
 とすれば、謎のない世界に行くか、謎に絶対的な答えを見出すか、1つの答えを見出しても他の謎が生まれてしまうか、絶対解けない謎として認定するか、結論が出ないままギブアップするか、のいずれかを、それぞれの人が任意に選択するしかないということでしょうか。

2年前 No.326

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は存在の問いである。これは存在論であると同時に、質問でもある。「存在するのはどうしてか?」「理由を問うとは、どういうことか?」という二つの疑問がある。ここで問題になってくるのは後者のほう。
全ての物事が因果律X→Yに基づくなら、事象はA→B→C→…→Zの連続である。Z(存在それ自体)の根拠を問うとき、原因となるAとは何か?この問いは無限に繰り返されることが予想され、また答えがないとも言われる。(あくまで一般論、個人的には無限に続くか疑っている)
一方でトートロジーは「AならばAである」(A→A)。逆に言うと「存在するのは、存在するからである」で止まることを意味する。

2年前 No.327

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

結局「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られない世界」なんて存在しないんだ。最初から「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られる世界」と「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られない世界」が存在して、そのどちらかが真である…という時点でもう無矛盾な論理法則・物理法則に縛られてる。

2年前 No.328

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

>>326
基本的に波動方程式を理解していないと見受けられるところはどうしようもないが。「世界のバリエーション」という言葉で何を意味しようとしているのか。最初から表現があいまいで、意思の疎通に齟齬があるし僕にも理解できない。
つまり世界のあり方を「ある」「ない」「ある+ない」(「ある」と「ない」の重ね合わせ)の3つで考え、そのうちのどれかは正しいはずだ。という最初の仮定において「なぜ3つのバリエーションなのか」ということ?確かにここだけ3値論理に見えるのは不自然さもあるが…

2年前 No.329

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>325  游さんへ

>「○○○」って、なあに?


 自分の住む世界で成立していたり成立していなかったりする命題を指しています。例えば「世界は存在する」とか「世界は物理法則に縛られている」とか「自分という人間が存在する」…等々。「○○○である」がその肯定、「○○○でない」がその否定です。

2年前 No.330

★nmOavkXBbc_c1Z

 馬場さんへ

ここ数年の間、ここでのやり取りを拝見していて感じるのは、失礼な表現かも知れませんが、「笑ってしまう程、面白い」です。ここでいう「面白い」は「興味深い」と言う意味合いで、他意はありません。

日本語で説明され、日本語でその説明されている世界観を理解されているはずなのに、一見会話が通じているようでその意図するところの意味合いが通じていませんね。

文学の世界ではなくて科学の世界では、その一応共通の定義等がされており、得手不得手は別としても、理解、説明するためにはうってつけのはずですが、(大まかにでも)その世界観の共有が難しいのでしょうか。

馬場さんの説明は、無矛盾に矛盾の世界を説明されているようにしか見えませんが、それを理解しようとする側が、意識無意識無関係に無矛盾な世界(井戸)を出ることが出来ない(出ようとしない)のかもしれませんね。つまりは、常に何かを決め付け続けて、自らにとっての無矛盾なエゴ(自己中心的思考)の世界観を創造しようとしているのが「人」なのかもしれません。もしもそうであるならば、争い事が終わらないはずです。

もしかして、私(時)の見方がおかしいのかもしれませんが(笑)

2年前 No.331

★30JjgxOVKX_ZFe

>330
SumioBaba様、ありがとうございます。

2年前 No.332

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

時さん
甘やかすなよ。オーディエンスが突っ込まないから、メビウスリング掲示板には魑魅魍魎しか残っていない。
長文を書いて「トートロジーです」。これのどこがおかしいか?
相対主義者である僕は何も間違いだとは思わない。問題なのは、そこで止まることだ。
わざわざ矛盾する視点に立つのはなぜか?異なる結論を「見る」ためではないのか。

2年前 No.333

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>326  えぴめてうすさんへ

> やはり、多世界解釈をとるかどうかが分かれ目なように思いました。


 その通りです。多世界解釈を採らず、世界は1つだけだと考えるなら、早くも解けない謎が発生します。「なぜ無数の世界が考えられるのに、その中からこの世界1つだけが選ばれて実現したのだろう?」。そして、「そんなの知らないよ。なぜかそうだからそうなのさ。」で終わるしか有りません。実証も反証もできないので、それを間違いだと主張しているのではありませんが、「謎を消滅させるためにはどう解釈すれば良いか?」と考えるなら、多世界解釈を採ることが必須だと言えます。

> おっしゃることはそうだと思いますが、そう解釈する前提について、疑いが残ってしまうということが心理的抵抗を生んでしまいます。


 別に疑っても良いですよ。「信じなさい」と要求する宗教ではないのですから。ただ、「すべての○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現されている」を肯定すればすべての謎が無くなるし、否定すると必ず謎が残ってしまう、…とありのままに淡々と説明してるだけですから。貴方がどちらを信じようと選ばれるのか、こちらは興味も有りません。

> たとえば、絶対空間、絶対時間を疑い、光速度が一定であると仮定して、時間・空間を相対的なものとした相対論は、常識的にはなかなか受け入れられないように思いますが、実験能力の進歩などで実証されており、そういう意味で受け入れやすいのですが。


 いまだに貴方は、「○○○である」と「○○○でない」とは、どちらか一方が真に決まっているはずだ、という常識的な真偽二元論で物事を考えておられるようです。だから、「どちらにも決まっていない、と考えれば謎はすべて無くなりますよ。」と言われても、なんとなく納得できないのでしょう。

>>M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕になります。M0は何一つ情報を持たない完全無意識状態で、これが「空」(くう)です。観念論を採る場合は、「空」M0が《無》、「色」M1、M2、M3、…が《有》だと定義すれば、《無》と《有》とがスムーズにつながります。

> つまらない質問で恐縮ですが、全体 = a「何かがある」+b「何もない」(同時成立) の場合は、右辺に「何もない」があり、M0 = M1+M2+M3+…の場合(「空」M0が《無》、「色」M1、M2、M3、…が《有》だと定義できる)は、右辺はすべて「有」(何かがある)となっているのはどう考えればよいのでしょうか。


 「空」M0が「何もない」という視点、「色」M1、M2、M3、…が「何かがある」という視点です。M0=M1+M2+M3+…というのは、両者の関係を表す式です。a「何かがある」+b「何もない」において、a=0、b=1なら、M0だけが「存在する」であり、M1、M2、M3、…は「存在しない」です。a=1、b=0なら、M0が「存在しない」、M1、M2、M3、…の方が「存在する」です。0<a<1、0<b<1なら、M0も、M1、M2、M3、…も、確率的に「存在する」と「存在しない」の両方です。

 M0は完全無意識状態なので、数の0と同様、「存在する」=「存在しない」です(0×0=0×1、「0が無い」と「0が有る」は等しい)。それゆえ、M0=M1+M2+M3+…の右辺にもM0を含め、M0=M0+M1+M2+M3+…と書いても良いです。全体 = a「何かがある」+b「何もない」と比較すると、左辺のM0が「全体」に、右辺のM0がb「何もない」に、右辺のM1、M2、M3、…がa「何かがある」に対応します。

> これもつまらない質問なのですが、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られていたと考えてしまう」と、「なぜ「縛られない」ではなく「縛られる」だけが選ばれたのか?」という謎が生まれるということではないのでしょうか。


 その通りです。

>>なぜ論理和の方は2つなのかと言えば、我々が「論理二元論」の世界に住んでいるからだと思われます。

> この場合も、「論理二元論」の世界以外に、三元論、四元論などすべての世界があると考えるのでしょうか。


 量子力学以前なら、「真」と「偽」だけの二元論で十分でしたが、量子力学は「重ね合わせ」という状態を考えるので、「0」、「1」、「?」=a「0」+b「1」、あるいは、「真」、「偽」、「不明」=a「真」+b「偽」の3値になった、と考えても良いです。三元論でも記述できない世界が有り得るなら、四元論、五元論、…に従う世界も実現していると考えます。
 ただし、「0」、「1」、「?」=a「0」+b「1」を論理値の違いと見なさず、状態の違いと見なし、真偽に関してはそれぞれの状態が「真」か「偽」のどちらかを取ると見なせば、やはり「論理二元論」で記述することも可能と思われます。つまり、「論理一元論」か「論理多元論」かの違いは決定的に重要ですが、「論理多元論」の方で「論理二元論」か「論理三元論」か「論理四元論」か、…という区別はあまり意味が無いように思います。

> 「世界は「ある」にも「ない」にもなれたと思われるのに、なぜ自分は「ある」の方だけを認識するのか!?」」という謎を問うているのだと思います。(「ある」ではなく、「「ある」を認識する」に置き換わっていますが。)


 もともと世界は何一つ限定されていない、あるいは全知全能の「神」がすべての可能性を実現している、という点からスタートすると、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いは、「なぜ人間は「何もない」を認識できず「何かがある」の方だけを認識するのか?」という認識の問題に変わるのではないでしょうか。

> そして、なぜ、世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっているのか。

> これも「ある」「ない」(同時成立)と考えるから、そういうバリエーションになっているというトートロジーの答えになるのでしょうか。


 「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」と「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」とが確率的に、どちらか片方だけ、または、両方とも、実現していると想定します。「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」を選べば「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」が選ばれます。「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」を選べば「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」が選ばれます。「どちらか不明」を選べば「どちらか不明」が選ばれます。これで謎はすべて解消するのではないでしょうか?

> 観測によって、「運動量保存則」が実現するという場合は、a「運動量保存則がある」+b「それ以外の法則がある」+c「法則は何もない」から、必ず、観測すると、aが実現するということでしょうか。

> そうであれば、なぜ観測すると、必ず「運動量保存則」が選ばれるのか(=なぜこの世界には、運動量保存則があるのか)という問いが成立すると思われます。


 「神」は全知全能なので、あるいは、世界は本来何一つ限定されていないので、「運動量保存則が成立する世界」、「それ以外の法則が成立する世界」、「法則は何もない世界」のすべてについて、「存在する」と「存在しない」の両方が実現されていると考えます。ただし、人間は無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にしか存在できません。「法則は何もない世界」は直ちに矛盾が生じると思われ、人間に観測されることは有りません。「運動量保存則が成立する世界」は人間に観測されることが可能です。「それ以外の法則が成立する世界」は、法則の種類によっては、人間のような意識を持つ観測者を発生させられるかもしれず、もし観測者が発生し得たなら、その観測者にとってその世界が「存在する」に成り得ます。
 実際、現代物理学の最先端である「M理論」では、我々が住む世界だけでなく、物理定数や物理法則までが異なる10^500種類ほどの世界が考えられるそうです。我々の世界だけが1つだけ選ばれて実現していると考える必要は特に無いし、そう考えると「なぜ?」という謎が生じてしまうので、それらすべてが実現していると考えるようです。

> とりとめもなく、ズレた質問ばかりで恐縮です。

> 本投稿の最初に戻りますが、多世界解釈、人間原理、重ね合わせ、などの考え方をとろうとするかどうか、ということにかかっているなと感じました。

> とすれば、謎のない世界に行くか、謎に絶対的な答えを見出すか、1つの答えを見出しても他の謎が生まれてしまうか、絶対解けない謎として認定するか、結論が出ないままギブアップするか、のいずれかを、それぞれの人が任意に選択するしかないということでしょうか。


 選択したい人は選択して良いと思います。その選択が正しいかどうかは実証も反証もできず、好みの問題ですから。好みで1つだけ選択した、けれど、実証も反証もできない、です。どれも可能性が有るので、1つだけを選択せず、すべての中のどれかだろうと考えれば、証明不要のトートロジーになるだけです。

 貴方は恐らく、自分が真理を知らない場合も、「○○○である」と「○○○でない」のどちらか一方だけに真理は決まっているはずだ、という常識的な真偽観を持っておられるのだと思います(真理の実在論)。そうすると、「□□□である」=「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現しており、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、のダブル・トートロジーを成立させているだけだ。」の方が、とんでもない荒唐無稽な仮定のように感じてしまうはずです。これが「心理的抵抗」ですね。
 しかし、よく考えてみると、「□□□である」の方が何一つ真理を限定していないので、こう主張する方は証明不要です。逆にこれを否定し、「□□□でない」と主張する方が真理を限定することとなり、立証責任が生じるのです。もちろん、実証も反証もできないでしょうけれど。どちらが自然で美しいでしょうか?
 「□□□である」の方は、「実現可能なものはすべて実現している」という《豊饒性原理》を満たした主張です。こう考えると謎は無くなります。これを否定するという事は、「実現可能なものの全集合のうち、実現しているのはその真部分集合だけであり、補集合は実現していないに違いない」、と主張することになります。そうすると、「なぜ全集合のうち、実現したのは真部分集合だけで、補集合は実現しなかったのだろう?」という謎が生じます。自分で真理を限定しておきながら、「なぜ真理は限定されているのだろう?」と問うている訳です。「真理を限定すれば真理は限定される」「真理を限定しなければ真理は限定されない」というただのダブル・トートロジーなのに。

2年前 No.334

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>331  時さんへ

>ここ数年の間、ここでのやり取りを拝見していて感じるのは、失礼な表現かも知れませんが、「笑ってしまう程、面白い」です。ここでいう「面白い」は「興味深い」と言う意味合いで、他意はありません。


 こちらもすごく楽しんでいます。

>日本語で説明され、日本語でその説明されている世界観を理解されているはずなのに、一見会話が通じているようでその意図するところの意味合いが通じていませんね。


 まあ、こんなもんじゃないでしょうか。

>文学の世界ではなくて科学の世界では、その一応共通の定義等がされており、得手不得手は別としても、理解、説明するためにはうってつけのはずですが、(大まかにでも)その世界観の共有が難しいのでしょうか。


 科学の世界では、共通した常識のようなものが確定しているがゆえに、これまでの常識を打ち破るのが逆に難しくなるのかもしれませんね。ニュートン力学では「時間は誰にでも一様に流れる」が常識だったので、相対性理論が主張する「どういう運動をしているかによって時間の流れは様々に異なる」はなかなか受け入れられませんでした。古典力学では「観測していないときも物理状態は特定の1つに客観的に確定している」が常識だったので、量子力学が主張する「観測していないときは物理状態が様々な状態の重ね合わせのまま1つに確定していない」はなかなか受け入れられませんでした。

>馬場さんの説明は、無矛盾に矛盾の世界を説明されているようにしか見えませんが、それを理解しようとする側が、意識無意識無関係に無矛盾な世界(井戸)を出ることが出来ない(出ようとしない)のかもしれませんね。つまりは、常に何かを決め付け続けて、自らにとっての無矛盾なエゴ(自己中心的思考)の世界観を創造しようとしているのが「人」なのかもしれません。もしもそうであるならば、争い事が終わらないはずです。


 まさに仰る通りです。でもそれが普通の人間です。時さんは、仏教も究めておられるし、インド哲学も聖人に学ばれておられます。だからこそ「SB量子神学」についても、超人的な理解力をお持ちなのです。時さんは、普通の人間ではないのですよ。自覚して下さい。

2年前 No.335

★iHxogqOnlR_c1Z

>>333  優鬼さんへ

書いても書かなくても問題ありませんので、書いてみます。

>甘やかすなよ。オーディエンスが突っ込まないから、メビウスリング掲示板には魑魅魍魎しか残っていない。


一体、誰が誰を甘やかしていると仰っているのでしょうか?そこには誰もいませんよ。その世界での視点でその世界の説明をされているのですよ。

>問題なのは、そこで止まることだ。


優鬼さんは、その先(の世界)をご存じなのでしょうか?もしもご存じならば「甘やかすなよ。オーディエンスが突っ込まないから、メビウスリング掲示板には魑魅魍魎しか残っていない。」と言う一文は出てきません。そして逆に表現すれば、各人が「そこで止まること」が出来ないからこそ、問題が発生しているのです。

> わざわざ矛盾する視点に立つのはなぜか?異なる結論を「見る」ためではないのか。


自身がその求め続けた答えを知っていて「わざわざ」そのような視点に立つ存在は、特殊な場合を除いては、ないと思いますよ。その求める答えが見つからない者が「その視点」に立ってしまうのだと思います。そしてその視点に立ち、自身の視点とは異なる視点での結論を見て、自身の世界での矛盾を無くそうとしているのではないでしょうか。つまりは、「異なる結論を「見る」ため」は、未だ「答えを探している」という事でしょう。矛盾の世界を矛盾の世界だとはっきりと認識できているのであれば、問題ありません。その矛盾の世界を自己と言う無矛盾の世界(井戸)観に当てはめようとするから問題が発生するのですね。しかし、これとて何も問題がありません。通じるでしょうか。

以上です。レスをありがとうございました。

2年前 No.336

★iHxogqOnlR_c1Z

>>335  馬場さんへ

> まあ、こんなもんじゃないでしょうか。


馬場さんにすれば珍しい表現ですが、思わず笑ってしまいました。

> 時さんは、普通の人間ではないのですよ。自覚して下さい。


あら?私は普通ではなかったのですか?普通だと思っていました。(笑)

仮にそれを自覚し、慢心に至らない方法は、一つしかなさそうです。

レスをありがとうございました。

2年前 No.337

★30JjgxOVKX_ZFe

メルロの研究ノートから
『感じうるもの、見えるものは、私にとっては、無とは何であるのかを語る機会であるにちがいない。−−無とは見えないもの以上の(また以下の)のもではない。』

ここ〈なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う〉ことだったね。

「無」って、なにかしら?

2年前 No.338

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

二転三転しすぎwwwwバリエーションの説明、元に戻ってる。
定型的すぎるんだな。これ以上つついても仕方ないだろう。

2年前 No.339

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

メビウスリング掲示板はもう終わりだ。SNS最盛期だからというだけではない。Twitterや2ちゃんねるが優れているというつもりもない。
文章主義の結果がこれだ。トートロジーに過ぎないことを長文で書く。
元はそんな人間ではなかった。自分の考えた最強の理論で、何を言われても定型句を返すようになったのは、遅すぎた中二病だ。
もう病院を超えた。あとは滅ぶだけだ。

2年前 No.340

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

>>336
相手の世界観を変えることで「自身の世界での矛盾を無くそう」も含むのか?

2年前 No.341

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>333  優鬼さんへ

>オーディエンスが突っ込まないから、メビウスリング掲示板には魑魅魍魎しか残っていない。


 えぴめてうすさんは紳士的な態度で、このスレッドのテーマである「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に関し、いろいろ疑問点を質問して下さっていますよ。言葉遣いも丁寧だし。だからSumioBabaも誠意をもって答えているつもりです。
 一方、優鬼さんの書き込みは全く議論になっていません。いつも上から目線で、SumioBabaとえぴめてうすさんの議論を好き勝手に誤解・曲解したまま、ここが間違い、あそこが間違い、と独断を下しておられるだけです。もしSumioBabaが優鬼さんに「それは誤解です」と説明したとしても、優鬼さんは絶対に自分の間違いを認めようとはせず、ますます攻撃的になられるだけでしょう? だからこちらも、優鬼さんに説明しようという気持ちにはなれません。魑魅魍魎が増えてしまった原因は、議論する上でのマナーさえ満たせない人が増えてしまったからではないのでしょうか。

1年前 No.342

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

僕はSumioBabaについて論じてすらいない。

1年前 No.343

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> 時さんへ


 前にも別スレッドで書いたことが有りますが、ここで議論する上で、最低でもこれだけは満たさねばならないマナーというものが有ると思いませんか? あんまり厳しい事は言いたくないけれど、一言で言えば、柔道や剣道、将棋や囲碁で、試合の前後に行う「礼」がそれです。あの「礼」にはものすごく重要な意味が有るのです。「試合中は必死で相手を倒そうとするのが当然だが、決してこれはケンカではなくスポーツである」「相手を倒して勝ち誇るのが目的ではない」「相手を倒して侮辱するのが目的ではない」「試合をすることでお互いが人間として成長することが目的である」といった意味です。ここでの議論も同様です。それなのに、時々「礼」のできない人がいます。相手が「礼」をしているのに、「オレ、礼なんかしないもんね」とそっぽ向いている人です。そういう人って、自分の間違いを指摘されると逆切れし、汚い言葉で相手を侮辱し始め、収拾のつかない状態に陥ります。柔道や剣道で言えば、負けそうになると殴る・蹴る・噛みつくなどの反則行為をしてしまう人。将棋・囲碁で言えば、負けそうになると盤をひっくり返して「オレは負けていない」と言いながら立ち去る人。こういう人とは議論が成立しないですね。

 なお、こういう分野に関しては、時さんが先生であり、SumioBabaが生徒ですので、これからもよろしくご指導お願い致します。スレッドのテーマからちょっと離れてしまいましたが、議論全体のマナーに関する重要な事なので、敢えて書いてみました。

1年前 No.344

エロイムエッサイム ★0c2FClPgy1_Ew9

>自分の間違いを指摘されると逆切れし、汚い言葉で相手を侮辱し始め、収拾のつかない状態に陥ります。柔道や剣道で言えば、負けそうになると殴る・蹴る・噛みつくなどの反則行為をしてしまう人。将棋・囲碁で言えば、負けそうになると盤をひっくり返して「オレは負けていない」と言いながら立ち去る人。こういう人とは議論が成立しないですね。


これがスミオババである可能性をなぜ考えない?
審判(読者?)はスミオババの負けを宣言してるだろ。それでも「おれ負けてねえし、だって礼節なってねえし」で永遠に負けを認めようとしないじゃん。負けを認めなけりゃ永遠に負けねえと思ってるみたいだけど、潔く無い選手にむかつくのは当然だし、そんなやつ誰も相手にしなくなるよ。みんなヒマじゃないんだし。
それを「逃げた、よっておれの勝ち」ってちーがーうーだーろー

1年前 No.345

★Gs7hvwaZGo_c1Z

>>344  馬場さんへ

>  前にも別スレッドで書いたことが有りますが、ここで議論する上で、最低でもこれだけは満たさねばならないマナーというものが有ると思いませんか?


仰りたい事は、十分に理解できているつもりの上で、少し書いてみます。

理想的にはこのような場での議論や会話には、最低限のマナーは必要ですね。では「理想」とはどういった事でしょうか。

理想 考えられるうちで最高の状態のこと。(wiki)とあります。次に「考えられる」とは、誰が考えるのか?です。これは、各人と言う個人です。つまり、個人が考えられる最も最高の状態(思い)が「理想」と言う表現の意味だろうと思います。

これ(理想)を極端に表現すると「エゴ(自己中心的思考)」になります。つまりこれを押し付けようとすると、エゴの押しつけになるでしょう。ですので、個人の理想を押し付ける行為が「自己中」になりますね。この場合に、その個人に問題が発生します。ですが、個人の中だけで「理想」を持つことだけでは、問題発生しません。同時に「最低限」の基準も同じ事です。

話は変わりますが、目の錯覚でその見え方が違うと言った「トリックアート」と言うものがありますが、例えば、紙に書かれた白黒の絵が何に見えるのか?と言う物のようで、人によっては(例えば)それが老婆にしか見えなかったり、人によっては若い女性にしか見えなかったりと言う事なのだそうです。他にもいろいろと書かれていました。(有名なトリックアート で検索しました)勿論、全く何も分からない人もいるでしょうし、二つの表現(老婆と女性)が書かれているという事が、瞬時に分かる(見える)人もいるでしょう。

私は、個人が集まって会話(議論)をする場が、掲示板だと思っています。ですので、そこにはいろいろな方がおられますね。それこそ、物事を多角的に見られる人、一方的にしか見られない人、解らずに書いている人、解った上で書いてる人等です。一応こちらは、哲学と言うカテゴリに分けられているようですが、その会話内容の濃淡によって、哲学的であるのか?雑談になるのか?といった個々人の判断になるように思います。

そしてその理想を実現できるのは、あくまでも証明不要の個人の心の中だけでしょう。このような考え方で観ていると、(例えば)私個人の理想である「マナー」を人に押し付けさえしなければ、その部分だけでの問題は発生しません。そして実際には他人の心には、関与できません(その理解は、個々人に委ねられるという事です)。仮に他人の心に関与したと思ってしまうのは、その個人の心が関与したという事を感知(妄想です)しているだけです(これが行き過ぎると、うぬぼれに繋がります)。勿論、これらも幻想ですが。

そして先ほどの紙の上でのトリックアートの「多色三次元版」が、ネット上での掲示板も含めた実社会での見え方だと思います。ほぼ日々の雑談をここで行う人と、専門的に哲学を学問として学んだ人とでは、話が全くかみ合うはずがありませんね。

次に「(若干)話がかみあわない場合に」ですが、各人がそれぞれの価値観を持ち、それぞれの理想を押し付け合うと、議論から論争になり、罵倒しあいになり・・・となっていきますね。(私にとって)これには価値がありませんし、意味もありません。ですので、一方的にその価値観を押し付けません。

全ては現象していません。これが今の私の最終の答えです。現象しているとすれば、一つの心の中だけです。その一つの心の抱えている問題を解決できれば、何も現象しなくなるという事です。(馬場さんにならば、ある程度この意味合いは通じると思います。)

以前、SB量子神学のご説明の中で「神の定常状態」と言う表現をされていたと記憶していますが、そういう事です。私の表現では、神はその「恒常性を保持」し続けているとなります。神の恒常性・・その内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向・・大まかにはこれを「世間」と仏教では表現しますが、この世間(内部環境)から出ることが、仏教での結果の一つ(出世間と表現します)です。それを内部で見ていると「変化(無常)」しています。つまり全てが現象しています。それを(出世間で)全体としてみると現象していません。と言う事です。ですので、全ての問題が消滅しています。

問題があるとすれば、そのような精神状態(心の状態)になることが出来るのか?と言う事だけだろうと思います。その方法等については、私の場合には、先人の賢者達の知恵を借りるしかありませんでした。(笑)

最後に、直近の問題解決についてですが、マナーの悪い発言・誹謗中傷と判断した場合にはスルーです。ここでの問題は、上記と同じく、そのような精神状態(心の状態)になることが出来るのか?だけです。もしこれが出来なければ、心の中のもやもや等から怒りの発生、引き続きの罵倒のしあい等のメカニズムの終焉を迎えません。つまりは、一つの心の中の安定(寂静)を得られないという事です。

>こういう人とは議論が成立しないですね。


私はですが、基本的に人には敬意をもって接したいと思っています。ですが、残念ながら成立しない場合が多いでしょうね。マナーが悪いと判断する人に対して何を語ろうが、無意味です。それはなぜか?そのマナー自体が、個々人のエゴ(自己中心的思考)の産物だからです。つまりは、幻想です。

出来うるならばですが、議論できないかなと判断した場合には、そこで終わりにすると良いですね。その判断の途中や判断後に、いくら「自身の正しさ」を主張しても、個々人で三次元トリックアートの何を見ているのかが違うのですから議論は成立しません。議論内容とは無関係の、無意味な罵倒試合が始まるだけです。

例えばですが、とある仏典には、友の家に行ったときに食事が出されますが、私がそれを食べなければその残った食事は、最終的には彼のものになります。では、中傷や怒りの言葉を向けられても、それを受け取らなければそれは誰のものになるでしょうか?と言ったような内容が書かれていたりします。受け取ってしまうから問題が発生するのですね。問題解決のためには、そのような精神状態になれる事です。(お互いにこういう人との議論が成立しないのは当たり前の事としてですが)

2500年前も2000年前も現代も、物質的な豊かさ等の環境の違いはあれども、その一つの心の中の状態は変わっていないと思いますね。つまりは「神の恒常性」「神の定常状態」です。

>  なお、こういう分野に関しては、時さんが先生であり、SumioBabaが生徒ですので、これからもよろしくご指導お願い致します。スレッドのテーマからちょっと離れてしまいましたが、議論全体のマナーに関する重要な事なので、敢えて書いてみました。


以前にも書いたと思いますが、私は先生にはなれません。意味合いは、通じると思います。まとまりのない文章になり、失礼しました。

1年前 No.346

★Gs7hvwaZGo_c1Z

>>346  追記です。

> 理想的にはこのような場での議論や会話には、最低限のマナーは必要ですね。


> そしてその理想を実現できるのは、あくまでも証明不要の個人の心の中だけでしょう。


要は、自身の心の中だけでのその個人の思い描く理想的な最低限のマナーを自身が守るだけですね。それを他の心に求めず押し付けず、それを実現できさえすれば、その部分での問題はなくなると思います。

後は、自身が議論したいと思えるような存在が現れるのを待つだけです。それに関して「私」と言う個には「何もできません」。

釈迦に説法でしたね。以上です。

1年前 No.347

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>334

 ありがとうございます。いただいたご所見につき、感じたことを書かせていただきます。

>>やはり、多世界解釈をとるかどうかが分かれ目なように思いました。

>その通りです。

>「謎を消滅させるためにはどう解釈すれば良いか?」と考えるなら、多世界解釈を採ることが必須だと言えます。


 多世界解釈をとった場合、問いが意味をなさなくなると思います。
 多世界解釈をとり、あらゆる世界が同時に実現していると考えることは、そこにはもはや一切の謎はなく、すべての答えが用意され、波風のない自己完結した静寂の空間のように思えます。
 ただ、自分としては、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎(問い)に自分なりの解を求めており、謎(問い)を「消滅させ」ようという発想は持っていないのが正直なところです。

>科学は「「ある」がどうしてできたのか」について、「自分はまだ答を知らないけれど、特定の答がすでに決まっているに違いない」と盲信し、それを解明しようとします(真理の実在論)。


 私は、いまこのスタンスをとっているということだと思います。それは、慣れ親しんでいる感覚だということであって、それを捨て去る理由を見い出せておらず、謎(問い)を消滅させようという発想を持っていないからです。
 任意に選択するのではなく、現在のスタンスをとる理由を排除できれば納得感が得られるのではと思います。
 悪あがきかもしれませんが、多世界解釈をとった場合の世界と、とらない場合の世界の両方が全体であると考えた場合、とらない世界には謎が残っていて、謎がないのは、多世界解釈内であるという考え方はできないでしょうか。

>>実証も反証もできない、という点が重要なのですね。

>たとえば、絶対空間、絶対時間を疑い、光速度が一定であると仮定して、時間・空間を相対的なものとした相対論は、常識的にはなかなか受け入れられないように思いますが、実験能力の進歩などで実証されており、そういう意味で受け入れやすいのですが。


 世の中には頭で直感的に理解できないことがありますが、それでも相対論のように実験や観測で裏付けが与えられたものは、受け入れやすく、「実証も反証もできない」前提は、信じる・信じないの世界ですので、存在への問いをしている者として受け入れにくいという意味です。

>「空」M0が「何もない」という視点、

>左辺のM0が「全体」に、右辺のM0がb「何もない」に、右辺のM1、M2、M3、…がa「何かがある」に対応します。


 「空」M0=「何もない」=「全体」ということでしょうか。さらに、「何もない」=「何かがある」=「空即是色」でしょうか。

>>> 世界が初めから、無矛盾な論理法則・物理法則に縛られていたと考えてしまうと、「なぜ「縛られない」ではなく「縛られる」だけが選ばれたのか?」という謎を隠蔽してしまいます。

>>これもつまらない質問なのですが、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られていたと考えてしまう」と、「なぜ「縛られない」ではなく「縛られる」だけが選ばれたのか?」という謎が生まれるということではないのでしょうか。

>その通りです。


「謎を隠蔽してしまう」ではなく、「謎が生まれる」でよいのですね?

>ただし、「0」、「1」、「?」=a「0」+b「1」を論理値の違いと見なさず、状態の違いと見なし、真偽に関してはそれぞれの状態が「真」か「偽」のどちらかを取ると見なせば、やはり「論理二元論」で記述することも可能と思われます。つまり、「論理一元論」か「論理多元論」かの違いは決定的に重要ですが、「論理多元論」の方で「論理二元論」か「論理三元論」か「論理四元論」か、…という区別はあまり意味が無いように思います。


 またまたつまらない質問ですが、半分「真」で半分「偽」とか、70%「真」で30%「偽」であることもあるということかと思いますが、それって、どういう状態でしょうか。完全無意識ではなく、一部無意識ということもあるのでしょうか。

>>324
>>なぜ3つになるのかはすでに説明しました。「なぜ「ない」や「ある・ない同時成立」を経験できないのに、前提に入っているのか」というのは、経験科学の立場では常識的な疑問だと思います。科学は自分の経験を元にして、真理を解明しようとするからです。

 しかし、哲学的には本末転倒していると感じます。正しい問はこうではないでしようか? 「世界を初めから「ある」と「ない」の片方だと決め付けてしまうと、その時点で「なぜ?」という謎を隠蔽してしまう。謎を隠蔽しないため、世界の初めは「ある」にも「ない」にも確定していなかったというところからスタートすべきだ。すると問はこうなる。本来、世界は「ある」にも「ない」にもなれたと思われるのに、なぜ自分は「ある」の方だけを認識するのか!?」。

 再度の質問で恐縮ですが、この場合、謎が問われているということにはならないのでしょうか。

>「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」と「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」とが確率的に、どちらか片方だけ、または、両方とも、実現していると想定します。


 その想定では、全体 = a「何かがある」+b「何もない」が成り立っていないということでしょうか。

>ただし、人間は無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にしか存在できません。


 このことは、真理を限定していることにならないのでしょうか。

 思いつくまま、書いてしまいました。

1年前 No.348

★30JjgxOVKX_ZFe

>340

優鬼さま、〈メビウスリング掲示板はもう終わりだ〉

そうね、わたしも、そう思うし、そうあって欲しい。

特に哲学掲示板はね。

1年前 No.349

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>346,347  時さんへ

 ご返事有難うございます。

>最後に、直近の問題解決についてですが、マナーの悪い発言・誹謗中傷と判断した場合にはスルーです。ここでの問題は、上記と同じく、そのような精神状態(心の状態)になることが出来るのか?だけです。もしこれが出来なければ、心の中のもやもや等から怒りの発生、引き続きの罵倒のしあい等のメカニズムの終焉を迎えません。つまりは、一つの心の中の安定(寂静)を得られないという事です。


 やはり、マナーの悪い相手はスルーが最善だということですね。それに従うことにします。現在、このスレッドできちんとマナーを満たして議論して下さっている時さんとえぴめてうすさんとは、これからも引き続き議論させて頂きたいと思います。マナーを満たせていないと判断した相手はスルーすることにします。

>> なお、こういう分野に関しては、時さんが先生であり、SumioBabaが生徒ですので、これからもよろしくご指導お願い致します。スレッドのテーマからちょっと離れてしまいましたが、議論全体のマナーに関する重要な事なので、敢えて書いてみました。

>以前にも書いたと思いますが、私は先生にはなれません。意味合いは、通じると思います。まとまりのない文章になり、失礼しました。


 いえいえ、こちらは時さんを先生だと見なしているので、これからもこういう問題にぶつかった場合には相談させて頂きます。ご返事有難うございました。

1年前 No.350

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>348  えぴめてうすさんへ

> ありがとうございます。いただいたご所見につき、感じたことを書かせていただきます。


 こちらこそいろいろ質問して頂き、有難うございます。えぴめてうすさんほど紳士的な議論相手はなかなか現れず、貴重な存在です。現在、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という哲学の難問に対し、SumioBabaの持論を説明し、えぴめてうすさんに疑問点を指摘して頂いています。とても紳士的な質問なので、こちらも誠意をもって答えてみたいと思います。議論の上では「論敵」でも、その前に、同じ問題について議論し合える「論友」だと自覚し合うことが大切ですね。えぴめてうすさんは、それのできる方だと思っております。

> 多世界解釈をとった場合、問いが意味をなさなくなると思います。

> 多世界解釈をとり、あらゆる世界が同時に実現していると考えることは、そこにはもはや一切の謎はなく、すべての答えが用意され、波風のない自己完結した静寂の空間のように思えます。

> ただ、自分としては、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎(問い)に自分なりの解を求めており、謎(問い)を「消滅させ」ようという発想は持っていないのが正直なところです。


 それはそれで良いと思います。ただし、別解が見付かるでしょうか? 自分の住む世界では「○○○である」の方だけが実現しているとします。多世界解釈を採らないと、「なぜ「○○○である」の方だけが実現し「○○○でない」は実現しなかったのだろう?」という謎が生じます。そこで多世界解釈は、「○○○である」が実現した世界も、「○○○でない」が実現した世界も、両方実現していると考えることによって、この謎を消滅させます。
 ここで、多世界解釈を採らず、世界は1つだけだという前提で、「なぜ「○○○でない」の方は実現しなかったのだろう?」と問うても、答は見付からないのではないでしょうか? なぜなら、多世界解釈を採り、別の世界で「○○○でない」の方も実現したのだ、という解釈ができるからです。これこそ、「○○○でない」の方が実現できなかった理由など、探しても見付からないことの証明ではないでしょうか?

>>科学は「「ある」がどうしてできたのか」について、「自分はまだ答を知らないけれど、特定の答がすでに決まっているに違いない」と盲信し、それを解明しようとします(真理の実在論)。


> 私は、いまこのスタンスをとっているということだと思います。それは、慣れ親しんでいる感覚だということであって、それを捨て去る理由を見い出せておらず、謎(問い)を消滅させようという発想を持っていないからです。


 それで良いと思います。そうやって、多世界解釈を採る方法以外の別解を、何とか探そうと必死になって考えてみて下さい。その結果、別解が見付かれば、それで良し。考え尽くすことによって、別解は存在しないと理解できれば、それで良し。そのへんは、他人に教わって理解できるものではなく、自分の頭で考えないと理解できないものと思われます。えぴめてうすさんは、徹底的に自分の頭で考え尽くすタイプなので、SumioBabaの説明をあっさり受け入れない方が良いと思います。自分で考え尽くして、答を見付けて下さい。

> 任意に選択するのではなく、現在のスタンスをとる理由を排除できれば納得感が得られるのではと思います。

> 悪あがきかもしれませんが、多世界解釈をとった場合の世界と、とらない場合の世界の両方が全体であると考えた場合、とらない世界には謎が残っていて、謎がないのは、多世界解釈内であるという考え方はできないでしょうか。


 その通りですよ。「謎が残らない」と「謎が残る」もまた、片方だけが真だ限定すると「なぜ?」というメタ謎が発生してしまいます。メタ謎が無くなるのは、「謎が残らない」と「謎が残る」もまた片方だけに真理は限定されていない、と考える場合だけです。

>>実証も反証もできない、という点が重要なのですね。


>たとえば、絶対空間、絶対時間を疑い、光速度が一定であると仮定して、時間・空間を相対的なものとした相対論は、常識的にはなかなか受け入れられないように思いますが、実験能力の進歩などで実証されており、そういう意味で受け入れやすいのですが。


 やはりえぴめてうすさんは、「「○○○である」が真であり「○○○でない」が偽である」というふうに、片方だけに限定するものが「真理」だ、と考えておられるのでしょうね。

> 世の中には頭で直感的に理解できないことがありますが、それでも相対論のように実験や観測で裏付けが与えられたものは、受け入れやすく、「実証も反証もできない」前提は、信じる・信じないの世界ですので、存在への問いをしている者として受け入れにくいという意味です。


 これはちょっと違うように思います。「実証も反証もできない」のに、真理を片方だけだと思い込むのが「信じる・信じない」の世界ですよ。「実証も反証もできない」問題に対しては、真理を片方だけに限定せず、「肯定かもしれない、否定かもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない」と考えておけば、何一つ真理を限定していないので、「信じる・信じない」の世界ではありません。「信じる・信じない」の世界から抜け出せずにおられるのは、えぴめてうすさんの方に見えるのですが?

>>>これもつまらない質問なのですが、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られていたと考えてしまう」と、「なぜ「縛られない」ではなく「縛られる」だけが選ばれたのか?」という謎が生まれるということではないのでしょうか。

>>その通りです。

>「謎を隠蔽してしまう」ではなく、「謎が生まれる」でよいのですね?


 生まれた謎について、真剣に考慮するのであれば「謎が生まれる」で良いです。しかし、「世界は初めから無矛盾な論理法則・物理法則に縛られていた」と考え、「世界はなぜか初めからそうだったのだからその理由など無い」と説明放棄してしまうと「謎を隠蔽してしまう」になります。

> またまたつまらない質問ですが、半分「真」で半分「偽」とか、70%「真」で30%「偽」であることもあるということかと思いますが、それって、どういう状態でしょうか。完全無意識ではなく、一部無意識ということもあるのでしょうか。


 例えばシュレディンガーの猫の話で、命題「猫は生きている」の真偽を問う場合です。観測していないときは、a「生」+b「死」(0≦a≦1、0≦b≦1)であり、a「真」+b「偽」です。観測すると、a=1、b=0で「生」に確定するか、または、a=0、b=1で「死」に確定します。

>>「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」と「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」とが確率的に、どちらか片方だけ、または、両方とも、実現していると想定します。


> その想定では、全体 = a「何かがある」+b「何もない」が成り立っていないということでしょうか。


 いいえ。a「何かがある」+b「何もない」において、a=1、b=0、または、a=0、b=1、とおけば、「ある」と「ない」の片方だけであり、「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」です。a>0、b>0とおけば、「ある」も「ない」も0より大きい確率で実現しており、「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」です。つまり、a「何かがある」+b「何もない」の中に、「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」と「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」の両方が含まれている、ということです。

 要するに、「あらゆる○○○について「○○○である」でもあり「○○○でない」でもある」(=「□□□」)です。えぴめてうすさんはこれ対し、「「□□□である」というのなら「□□□ではない」ではなくなるではないか?」と仰っている訳ですが、もちろん「□□□である」でもあれば「□□□でない」でもあります。a「○○○である」+b「○○○でない」という表現の中に、「○○○である」、「○○○でない」、「□□□である」、「□□□でない」の4つがすべて含まれているのです。

>ただし、人間は無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にしか存在できません。


> このことは、真理を限定していることにならないのでしょうか。


 「神」は全知全能なので、矛盾も平気で生じさせることができ、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた人間」と「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られない人間」の両方さえ、作り出せると言えます。これは矛盾も発生し得る世界での話です。ただし、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られない人間」の方は、特定の意識状態を保てず、「空」M0になってしまい、人間にはなれないと思われます。これは、人間が住む無矛盾な世界での話です。「人間」の定義は言わば、「人間」≡「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にだけ存在できる特定の意識を持った生物」です。これを「人間は無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にしか存在できません。」に代入すると、こうなります。→「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にだけ存在できる特定の意識を持った生物は、無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にしか存在できません。」これはトートロジーですから、真理を限定したことにはならないと思われます。
 真理を限定するというのは、○○○自体はトートロジーではなく、「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現可能だと思われるのに、なぜか「「○○○である」が真であり「○○○でない」が偽である」と決め付ける場合です。

1年前 No.351

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

何を言っても「おまそう」しか返ってこないことが目に見えてるから。
そもそもオレオレ理論というマイルールの中で話すこと自体、対等ではない。
だったらそのルールの外に出るしかないわな。

1年前 No.352

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

神に仮託しなければ何も語れないか?
神とは都合のいい入れ物だ。要は「例のアレ」。
人はそこになんでも自分の望むものを入れようとする。
二人の語る神は全くの別物だ。
そして神という言葉がその事実を隠蔽する。

1年前 No.353

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>348  えぴめてうすさんへ

 SumioBabaは、「多世界解釈こそが絶対に正しい」などと主張していないことは、理解して頂けてますか? 多世界解釈は「正しい」か「正しくない」かについて、SumioBabaの判断は、a「正しい」+b「正しくない」です。つまり、正しいかもしれない、正しくないかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、です。そして、「正しい」と考えれば「謎は無くなる」、「正しくない」と考えれば「謎は無くならない」です。「正しい」か「正しくない」かについてすべての可能性を考慮していますから、これが外れることは無いという意味で恒真(トートロジー)であり、証明不要の絶対的真理です。もちろん「信じる・信じない」の話ではないですね。

 一方、えぴめてうすさんがSumioBabaの解釈を受け入れないとすると、例えば多世界解釈を採らないものとすると、「正しい」と「正しくない」のうち「正しくない」の方だけ、つまり「多世界解釈は正しくない」の方だけが真に違いない、と真理を限定してしまうことになります。「多世界解釈は正しくない」を証明できますか? 証明できないのであれば、なぜ真理を片方だけに限定するのですか? SumioBabaのようにすべての可能性を認めておけば証明不要のトートロジーです。えぴめてうすさんはなぜ、証明もできないのに真理を片方だけに限定し、敢えて「信じる・信じない」の世界に持ち込み、わざわざ解けない謎を作り出すのですか?

1年前 No.354

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBaba さん

>>351

 ありがとうございます。

>議論の上では「論敵」でも、その前に、同じ問題について議論し合える「論友」だと自覚し合うことが大切ですね。


 いつも議論になっていないようで、申し訳ありません。
 私とSumioBaba さんとは、中学生が大人に素朴な疑問をぶつけているといった関係で、決して私が「論敵」「論友」の立場にあるなどとは思っておりません。
 周りを見渡しても、子供の時に抱いた素朴な疑問(哲学的なもの)にけりをつけて、大人になっている人はそれほど多くないように思います。他のことで忙しかったり、無駄なことだと納得したり、隠蔽したり。(それが決して悪いことだとは思っていません。)
 でも私は、「私」や「この世」に対して何かが気になるのです。ただ、専門的に哲学を勉強したこともなく、論理学や物理学の素養もありませんので、それらを身につけてから出直せと言われると、この一生ではスタート台にも立てなくなりますので、見切り発車しているのが現状です。(それが許されるスレであることを期待します。)
 中学生であることを良いことに、見たまま、思ったままをレスさせていただいております。私は、ここでは得るものこそあれ、失うものは何もないので、ただただワクワク感、充実感を感じさせていただいております。そして、それが「私」や「この世」に対しての落ち着かなさを緩和してくれるのだと思います。
 こういったやり取りができる環境は、日常の中ではありませんので、私にとって、大変貴重なことで、辛抱強くお付き合いいただいていること(お時間を費やしていただいていること)にただただ感謝申し上げます。
 つまらないことを申し上げました。
 ひきつづき、中学生の疑問にお付き合いください。

>別解が見付かるでしょうか? 

>多世界解釈を採り、別の世界で「○○○でない」の方も実現したのだ、という解釈ができるからです。これこそ、「○○○でない」の方が実現できなかった理由など、探しても見付からないことの証明ではないでしょうか?


 おっしゃるとおりだと思いますが、「別の世界で「○○○でない」の方も実現したのだ」と解釈するからそうなるということはわかりますが、「「○○○でない」の方が実現できなかった理由」が問われないようにするために、「別の世界で「○○○でない」の方も実現したのだ」と『考える』ことに違和感があります。
 つまり、謎を消滅させるための前提を人為的に設定し、その設定(「別の世界で「○○○でない」の方も実現した」)については、あくまで解釈であり、実証も反証もできないという条件の下で考えるとそうなるということで、その中だけで完結している論理だと思います。
 「人間原理」については、この世界の特質を人間の存在と認識に求め、この世界について言及しており、なんとなく共感できます。それはおそらく、この世界以外では、生命がそもそも存在しないか、観測できる人間がいないことをこの宇宙に人間がいることの所以であると述べていると思いますが、人間の認識行為の有無によって、世界への認識の可否が決定されるという論理で、人間が主観的に世界を見ていることと、整合的だと思います。
 それに対して、ご提示いただいている多世界解釈は、この宇宙であっても他の宇宙であってもすべての可能性が同時にそれぞれに実現しているということですから、日常感覚的には、別の世界、あるいは○○○でない世界についてのリアリティを得ることが(その定義上も)困難だからかもしれません。

「弱い人間原理
 ディッケは宇宙の年齢が偶然ではなく、人間の存在によって縛られていることを示した。それによれば、宇宙の年齢は現在のようなある範囲になければならないという。なぜなら、宇宙が若すぎれば、恒星内での核融合によって生成される炭素などの重元素は星間に十分な量存在することができないし、逆に年をとりすぎていれば、主系列星による安定した惑星系はなくなってしまっているからである。このように宇宙の構造を考える時、人間の存在という偏った条件を考慮しなければならないという考え方を弱い人間原理と呼ぶ。」(Wikipedia)
「強い人間原理
 ブランドン・カーターはこれをさらに進めて、「知的生命体が存在し得ないような宇宙は観測され得ない。よって、宇宙は知的生命体が存在するような構造をしていなければならない。」という「強い人間原理」を示した。」(Wikipedia)

>> 悪あがきかもしれませんが、多世界解釈をとった場合の世界と、とらない場合の世界の両方が全体であると考えた場合、とらない世界には謎が残っていて、謎がないのは、多世界解釈内であるという考え方はできないでしょうか。

>その通りですよ。「謎が残らない」と「謎が残る」もまた、片方だけが真だ限定すると「なぜ?」というメタ謎が発生してしまいます。メタ謎が無くなるのは、「謎が残らない」と「謎が残る」もまた片方だけに真理は限定されていない、と考える場合だけです。


 結局、私は、多世界解釈をとらない場合の世界で、謎と向き合っているということですね。謎のない別の世界もあるけど、あえて謎のある世界にとどまっているから謎があるということでしょう。
 その場合、謎のある世界内では、謎がある世界だから謎があるわけですが、なぜ謎があるのかという問いがあり得ます。つまり、多世界解釈を導入しても、謎のある世界の方には謎があり、問う余地があるということかと思います。答えがあるかどうかは別ですが。

>>「実証も反証もできない」前提は、信じる・信じないの世界ですので、存在への問いをしている者として受け入れにくいという意味です。

>これはちょっと違うように思います。「実証も反証もできない」のに、真理を片方だけだと思い込むのが「信じる・信じない」の世界ですよ。

「実証も反証もできない」問題に対しては、真理を片方だけに限定せず、「肯定かもしれない、否定かもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない」と考えておけば、何一つ真理を限定していないので、「信じる・信じない」の世界ではありません。「信じる・信じない」の世界から抜け出せずにおられるのは、えぴめてうすさんの方に見えるのですが?

 SB量子神学のような確立した理論体系とそれに相当するようなものを私が提示して議論しているような場合は、そのとおりだと思います。
 残念ながら、ここで、私は、 >>249  以降で述べている内容しか持たない、単に「存在への問いをしている者」に過ぎず、最終的な結論への見当や予想などはぼんやりとありますが、思考の途上にある状況です。
 思考を推し進めるに当たり、 >>320  でご指摘いただいたように、「科学は、「「○○○である」が真であり「○○○でない」が偽に違いない」という《仮説》を立て、実験・観察によってそれが正しい事を証明し、「また真理を1つ解明しました!!」という方法でこれまで発展して来」たこの方法論をベースにしているということになると思います。
 したがって、理論体系の中であらゆる世界の可能性を肯定するといったことではなくて、思考の途中では、方法論として、すべての可能性を肯定することは、思考停止になってしまいます。哲学でどこまでできるかは別として、ある仮設をたて、それを実証したり、反証したりして、思考を次に進めていくということをしようと思っています。
 なお、「信じる・信じない」という表現がよくなくて、「その仮説を任意にとるか、とらないか」という方がよかったかもしれません。ただ、「実証も反証もできない」前提については、仮説にとどまってといるものと考えます。
 そういう意味で、私が思考の途上で、「信じる・信じない」(その仮説を任意にとるか、とらないか)の世界から抜け出ていないことに間違いありません。ある前提や仮説を推し進めた結果、それが実証されたり、あるいは反証されて採用すのるか、棄却するのかといったことをまた考えるという方法論しか思いつきません。
 じゃあ、存在の謎についてのおまえの仮説と思考の到達点を示せと言われても、いまは、 >>249  で書いた以上の内容はございません。とりあえず、上に述べたような視点で、SumioBaba さんの論に反応するのが精一杯です。

>>>「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」と「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」とが確率的に、どちらか片方だけ、または、両方とも、実現していると想定します。

>> その想定では、全体 = a「何かがある」+b「何もない」が成り立っていないということでしょうか。

>いいえ。a「何かがある」+b「何もない」において、a=1、b=0、または、a=0、b=1、とおけば、「ある」と「ない」の片方だけであり、「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」です。


 a、b、a+bは、同時に成立しているのではないのでしょうか。
 また、a=1、b=0、または、a=0、b=1、とおくことは、真理を限定することにはならないのでしょうか。

> a>0、b>0とおけば、「ある」も「ない」も0より大きい確率で実現しており、「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」です。


 この場合、無矛盾に世界が「ある」と「ない」とが共存しているということでしょうか。

 私の質問の仕方がまずかったですが、この話におけるそもそもの疑問は、可能性がすべて実現していることを考えると、「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっていない」こともあることになります。
 この意味は、全体 = a「何かがある」+b「何もない」(同時成立)の右辺に、「ある」「ない」という2種(同時成立を入れると3種)のバリエーションだけではない、+αがある可能性があるのではという趣旨でした。
 ということで、「その想定では、全体 = a「何かがある」+b「何もない」が成り立っていないということでしょうか」ということをお聞きした次第です。

>>ただし、人間は無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にしか存在できません。

>>このことは、真理を限定していることにならないのでしょうか。

>「神」は全知全能なので、矛盾も平気で生じさせることができ、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた人間」と「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られない人間」の両方さえ、作り出せると言えます。

>「人間」の定義は言わば、「人間」≡「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にだけ存在できる特定の意識を持った生物」です。


 全知全能の神により、両方の人間が想定されているのに、次の段階で、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にだけ存在できる特定の意識を持った生物」として人間を定義し直しているように思われます。
 人間が「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にだけ存在できる」生物であるなら、神は「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られない人間」を作り出せないことになります。
 しかし、この矛盾は、矛盾を平気で生じさせることができる神の成せる業なのでしょうか。

1年前 No.355

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>354

 お手数をおかけしています。

>多世界解釈は「正しい」か「正しくない」かについて、SumioBabaの判断は、a「正しい」+b「正しくない」です。


 理解いたしました。
 私の違和感は、正しいか、正しくないかが定まっていない状況下で、謎を消滅させるために、多世界解釈をとればいいと考えているような感覚があるところです。順序としては、まず前提である多世界解釈が正しいのかどうかの議論が先に思えます。
 あと、私自身が謎を解こうとして臨んでいることに対し、謎を意図的に消滅させることで対処することが、自分としてしっくりいかないこともあります。この「意図的に」とは、「任意に多世界解釈を選択して」という意味です。答えに合う形で、世界の在り方を決めているふうに見えてしまうのです。(人間原理にはそういうところがあるのですが。)

>すべての可能性を考慮していますから、これが外れることは無いという意味で恒真(トートロジー)であり、証明不要の絶対的真理です。もちろん「信じる・信じない」の話ではないですね。


 まさにそうだと思います。ゆえに存在の謎を考える上では、意味をもちえないように思えるのです。

>一方、えぴめてうすさんがSumioBabaの解釈を受け入れないとすると、例えば多世界解釈を採らないものとすると、「正しい」と「正しくない」のうち「正しくない」の方だけ、つまり「多世界解釈は正しくない」の方だけが真に違いない、と真理を限定してしまうことになります。


 私は、SumioBabaさんが、多世界解釈を、正しいかもしれない、正しくないかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、と判断しており、「正しい」と考えれば「謎は無くなる」、「正しくない」と考えれば「謎は無くならない」とおっしゃっていることを認識しています。
 したがって、SumioBabaさんのお考えは、多世界解釈が正しいとか、多世界解釈だけをとるということではなく、多世界解釈を「とれば謎が消え、とらなければ謎が残る、とるかどうかは任意で、正しいかどうかは未定」というその全体を受け入れるかどうかだと理解しています。
 内容はおっしゃる通りで、同意できるものだと思っておりますが、存在への問いの答えとしては、なにも言及されていないように思えるのが正直な感想です。
 ですので、正しければ「謎は無くなる」でよいですし、正しくなければ「謎は無くならない」ので、問いは続くことになります。両方の場合は、どうしたらよいかわかりませんが。
 繰り返しになりますが、可能性として、多世界解釈が正しい場合と正しくない場合(わからない場合も含む)に分けた場合、正しい場合は謎は解決し、正しくない場合は謎は解決していないことになり、今の私の状態は、正しくない場合において、謎を考えていると言えなくもないと思います。正しいかどうか判断できないため、仮説の場合は別にして、結論としては確定的にどちらかに限定することができないということかと思います。

>「多世界解釈は正しくない」を証明できますか? 証明できないのであれば、なぜ真理を片方だけに限定するのですか? SumioBabaのようにすべての可能性を認めておけば証明不要のトートロジーです。えぴめてうすさんはなぜ、証明もできないのに真理を片方だけに限定し、敢えて「信じる・信じない」の世界に持ち込み、わざわざ解けない謎を作り出すのですか?


 多世界解釈の真偽はおそらく証明できないのではないでしょうか。これも確定的には言えませんので、「正しい」、「正しくない」に「わかりようがない」も加わるような気がしています。
  >>355  でも書きましたが、思考の途中で見通しすらない状況ですが、なんらかの前提や仮設を置かないと、進められないという点で、オーソドックスな科学的アプローチをとろうかなと思っています。
 したがって、正しくないという仮説を暗に置いていることになるのかもしれせん。一方、正しいという仮説を置くと、謎は消滅するのですから、もう考える必要はありません。
 これはアプローチ方法の問題ですが、思考の途中ではなく、いきなり結論として、すべての可能性があるとすることは、絶対に間違わないことにもなりますが、何も言っていないことになるように思えてならないのです。
 私の視野の狭さが露見しておりますが、そんなところが私の思考の限界のようです。

1年前 No.356

★30JjgxOVKX_m9i

悪魔は「神」を利用するのね。

1年前 No.357

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

そういえば多世界解釈でボルンの規則はどういう意味だっけ?世界の数に比例するのかと思ってたけど…

1年前 No.358

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

質問の意味を確定させないと答えは定まらないし、やみくもに答えたって正解は出ない。重ね合わせと場合分けを階層的に用いたら、見た目は三値論理になるね。

1年前 No.359

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

神は万能だからなんでもありという時点で、トートロジーは自明だから常に真とも言えない。自分の理論が正しいか間違っているか判断しないというのはもうすべての責任を放棄してる。

1年前 No.360

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_c1Z

>悪魔は「神」を利用するのね。

人間だって「神」を商売の道具に使うよ

1年前 No.361

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>355  えぴめてうすさんへ

> おっしゃるとおりだと思いますが、「別の世界で「○○○でない」の方も実現したのだ」と解釈するからそうなるということはわかりますが、「「○○○でない」の方が実現できなかった理由」が問われないようにするために、「別の世界で「○○○でない」の方も実現したのだ」と『考える』ことに違和感があります。


 なぜ違和感が有るのでしょう? P=「別の世界で「○○○でない」の方も実現したのだ」は実証も反証もできないでしょう? だったら、「Pが真であり、¬Pが偽だ」とか「Pが偽であり、¬Pが真だ」と決め付けてしまう方こそ、宗教の信仰と同じ「信じる・信じない」の世界に突入しますよ。そうならないためにSumioBabaは、「Pかもしれない、¬Pかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない」と考えます。えぴめてうすさんは哲学を放棄して、宗教の信仰を選ぶのですか?

> つまり、謎を消滅させるための前提を人為的に設定し、その設定(「別の世界で「○○○でない」の方も実現した」)については、あくまで解釈であり、実証も反証もできないという条件の下で考えるとそうなるということで、その中だけで完結している論理だと思います。


 多世界解釈は、量子ミステリーをうまく説明できるいくつかの解釈の中で、もっともシンプルで合理的なものであり、多くの物理学者たちが本気で正しいと主張している解釈です。決して、謎を消滅させるためにその場しのぎで考え出された荒唐無稽な空想ではありません。「量子力学でどの解釈を支持するか」という物理学者たちのアンケート( http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-197)によると、コペンハーゲン解釈=4票、ガイド波解釈=2票、その他の収縮メカニズム=4票、そして、多世界解釈=30票、となっています。多世界解釈以外の方法で量子ミステリーを説明できる人はそれでも良いですが、そういう人はもはや少数派です。量子コンピュータも成功しており、ますます多世界解釈の支持者は増えるでしょう。量子コンピュータの成功により、多世界解釈の正しさが証明された、と主張している物理学者さえいるくらいです(D・ドイッチェ氏とか)。えぴめてうすさんも、もう少し多世界解釈を真剣に考えてみてはどうですか。

> 結局、私は、多世界解釈をとらない場合の世界で、謎と向き合っているということですね。謎のない別の世界もあるけど、あえて謎のある世界にとどまっているから謎があるということでしょう。


 そうなりますね。

> a、b、a+bは、同時に成立しているのではないのでしょうか。

> また、a=1、b=0、または、a=0、b=1、とおくことは、真理を限定することにはならないのでしょうか。


 「神」の「全知全能である」(正)に対応するのが「aとbは0から1までのすべての値を取る」です。しかしこれだけだと、その否定「aとbは特定の値だけを取る」を放棄してしまうことになってしまいます。これを超越するために「神」は、aとbを特定の値に定め、それ以外を放棄した「全知全能でない」(反)をも実現することが必要です。そして両方を併せたときに初めて「神」は、「全知全能である」(合)=「全知全能である」(正)+「全知全能でない」(反)になります。だから「全知全能である」(合)を満たした「神」は、「aとbは0から1までのすべての値を取る」も実現しているし、「aとbは特定の値だけを取る」も実現しています。

>> a>0、b>0とおけば、「ある」も「ない」も0より大きい確率で実現しており、「世界は、「ある」、「ない」というバリエーションになっている」です。

> この場合、無矛盾に世界が「ある」と「ない」とが共存しているということでしょうか。


 「ある」と「ない」を背反的だと見なせば、両方が同一の世界で実現するのは矛盾になります。従って、無矛盾な世界では「ある」と「ない」の片方だけが実現し、両方は実現できません。そして、a>0、b>0で両方が起きたと仮定する場合も、「ある」の視点では「ある」が確率1で生じ「ない」が生じた確率は0であり、「ない」の視点では「ない」が確率1で生じ「ある」が生じた確率は0になります。これが、確率は客観的ではなく主観的だということです。

> 全知全能の神により、両方の人間が想定されているのに、次の段階で、「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にだけ存在できる特定の意識を持った生物」として人間を定義し直しているように思われます。

> 人間が「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にだけ存在できる」生物であるなら、神は「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られない人間」を作り出せないことになります。

> しかし、この矛盾は、矛盾を平気で生じさせることができる神の成せる業なのでしょうか。


 その通りです。神は「無矛盾な世界」+「有矛盾な世界」全体に住み、人間は「無矛盾な世界」だけにしか住めないと考えます。神は矛盾を生じさせることも可能ですが、それは「有矛盾な世界」での話であり、我々人間は「無矛盾な世界」だけに住んでいるのですから、「有矛盾な世界」の方は認識できないことになります。「人間」≡「無矛盾な論理法則・物理法則に縛られた世界にだけ存在できる生物」という定義も、「無矛盾な世界」でだけ意味を持つのであり、「有矛盾な世界」では定義そのものが肯定も否定もできてしまい、意味を失います。


>>356  えぴめてうすさんへ

> 私の違和感は、正しいか、正しくないかが定まっていない状況下で、謎を消滅させるために、多世界解釈をとればいいと考えているような感覚があるところです。順序としては、まず前提である多世界解釈が正しいのかどうかの議論が先に思えます。


 やっぱりえぴめてうすさんは、「「○○○である」が真であり「○○○でない」が偽である」と真理を片方だけに限定して見せること、それこそが「真理」なのだ、と考えておられるようですね。

> 私は、SumioBabaさんが、多世界解釈を、正しいかもしれない、正しくないかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、と判断しており、「正しい」と考えれば「謎は無くなる」、「正しくない」と考えれば「謎は無くならない」とおっしゃっていることを認識しています。

> したがって、SumioBabaさんのお考えは、多世界解釈が正しいとか、多世界解釈だけをとるということではなく、多世界解釈を「とれば謎が消え、とらなければ謎が残る、とるかどうかは任意で、正しいかどうかは未定」というその全体を受け入れるかどうかだと理解しています。


 はい、その通りです。正しく理解して下さっています。えぴめてうすさんの理解力も大変素晴らしいと思いますよ。短期間でよくぞここまで理解して下さいました。有難うございます。

> 多世界解釈の真偽はおそらく証明できないのではないでしょうか。これも確定的には言えませんので、「正しい」、「正しくない」に「わかりようがない」も加わるような気がしています。


 実証・反証のレベルにも、様々な段階が有りますからね。科学か哲学かでも全く異なります。科学では、「ニュートン力学と相対性理論では、相対性理論の方が正しいとすでに実証済み」とか、「ニュートン力学と量子力学では、量子力学の方が正しいとすでに実証済み」とか、言っても良いと思います。しかし哲学では、そんな簡単には言えません。哲学的に厳密なことを言い出すと、独我論・独今論さえ実証も反証もできません。他人が心を持つのかどうかも判りません。自分が知覚・認識していないとき、物質世界が実在しているのかどうかも判りません。過去や未来も、本当に実在している(いた)のか、それとも現在の自分が推測しているだけで本当は実在していないのか、判りません。殆どの問題は実証も反証もできない中、どう解釈するのが合理的か、自分の好みの解釈を探すことしかできない状況です。

>  >>355  でも書きましたが、思考の途中で見通しすらない状況ですが、なんらかの前提や仮設を置かないと、進められないという点で、オーソドックスな科学的アプローチをとろうかなと思っています。


 まあ、それでも良いですが。哲学最大の謎「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」が「アポリア」だとか「疑似問題」だとか言われて来た理由は、オーソドックスな方法では答が見付かりそうにないからではないのでしょうか? つまり、問題の定式自体が間違っているのでは?と疑うべきです。ではどう間違っていたのか? 世界は1つだと思い込み、「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現しなかったと前提してしまい、その上で「なぜ何もないではなく、何があるのか」と問うているのが間違いです。前提を疑い、世界は1つではなく多数だし、「何かがある」と「何もない」も両方が起きたと考えれば、この謎はそもそも謎ではなく、事実誤認によって生じていた「疑似問題」だったことになります。

1年前 No.362

エロイムエッサイム ★Vw5jLDE0de_Ew9

スミオババ理論と物理学は関係ねえのになんで「物理学で言う多世界解釈」を、「スミオババ理論で言う多世界解釈」と同じものとして話をすすめるの?
両者が別物だってスミオババは理解してるんだよね?
理解しててあえてまぎらわしい表現する理由は何?

今後、スミオババ理論で言う多世界解釈を「多世界解釈」と表現する事を禁ずる。
イエローカード

1年前 No.363

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

神どうこうは別として、人間に関しては定義ではなく直接の観察事実を得られる。
つまり人間は実際に多世界、矛盾のある世界を観測できない。
多世界解釈がただ一つの波動方程式で宇宙を記述するとき、観測者も観測される系の中に一部として含まれているから。

1年前 No.364

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

「SumioBabaは正しいか間違っているかどちらかである。
そしてそのどちらかに限定しなければ、決して間違わない。
つまり絶対に正しい。」
これなんだけど、最後に正しいと限定しているから、どちらかではなくなってる。
だからSumioBabaは間違っていると結論することもできる。限定しなかった結果ですね。
「正しい」と「間違っている」の両方を証明できるようにしておいて、その時々で都合のいいほうだけを主張しているということ。

1年前 No.365

優鬼 ★A1xnfKFaK3_Uit

>>363
第一に「多世界解釈と違う」、第二に「物理学ではなく論理学」。
第一の論点はSumioBabaの「多世界解釈」解釈だと言い逃れできる。しないなら、逆に淡々と無知を指摘すればいいだけ。

SumioBaba論法に慣れすぎて、有と無が重ね合わせできるような錯覚に陥るけど、あるのは量子の重ね合わせ状態だけだから。ある場所に量子が存在するかどうか、観測すれば確率で決まる。量子自体はもちろんどこかには存在する。
そして多世界解釈に観測はない。「有と無とその重ね合わせ」って選択肢がもう、観測する前と観測した後が混合しているというカオス。決して並列できるもんではない。

1年前 No.366

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

第二の論点については、えぴめてうすさんから「無と重ね合わせは観測されないのに、選択肢に含まれているのはおかしい」という形で指摘済み。これは一般論に過ぎないものを、無理やり物理に適用した結果でもある。

第三の論点は先に出した。トートロジーは証明不要でも、絶対的真理でもない。この理論自体、選択肢が網羅的であることなどを暗黙に仮定している。
全知全能の神もここには介入できない。SumioBabaは神ではないから、矛盾を実現させることはできない。つまり「正しいなら正しい、間違っているなら間違っている」のどちらかでなければならない。結果的に自分の理論で自分の首を絞めることになる。

1年前 No.367

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>優鬼さんへ


 いくつか興味深い指摘もしていただいているので、答えてみましょう。

>>360
>神は万能だからなんでもありという時点で、トートロジーは自明だから常に真とも言えない。自分の理論が正しいか間違っているか判断しないというのはもうすべての責任を放棄してる。


 「神」は全知全能であり、矛盾さえ生じさせることができると考えます。しかし、「神とは何か?」を説明し理解するときには「無矛盾な世界」に立つことが必要です。そして「無矛盾な世界」において、トートロジーだけは絶対的真理になります。トートロジーを否定すると、矛盾が生じますから。
 「神」が矛盾を生じさせられるからといって、「神」を理解し説明しようとしているときに「有矛盾な世界」に立ってしまうと、「神」について何の理解もできなくなってしまいます。禅問答がまさにこの失敗をしていて、有矛盾な「神」を説明しようと頑張ってはいるのですが、説明自体が矛盾しているので何を言っているのか意味不明です。
 「神」を説明するときの方法はこうです。「無矛盾な世界」に立ち、「○○○である」と「○○○でない」とをはっきり分別します。「有矛盾な世界」ではこれ自体ができないので、「無矛盾な世界」に立つことは絶対に必要です。そして「○○○である」と「○○○でない」の両方をしっかり認識します。その上で、「神」は「○○○である」でもあるし「○○○でない」でもある、と理解します。こうすれば、有矛盾な「神」を無矛盾に理解可能となります。
http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-1182

>>366
>神どうこうは別として、人間に関しては定義ではなく直接の観察事実を得られる。


 現在の自分の心M1が直接観察できる事実は、M1の存在と状態だけです。それ以外を拒絶するのなら、独我論・独今論に陥ってしまいます。もちろんそれも間違いとは言えません。実証も反証もできないのですから。ただし、そこで留まってしまうと、多くの謎が生じます。
 そこで、「自分が観測していなときも物質世界は実在しているのかもしれない」「過去や未来も実在しているのかもしれない」と仮定してみると、謎が消滅し、より合理的な世界観が得られます。
 多世界解釈を採らないと、「他にもいろんな世界が考えられるのに、なぜ我々の世界が1つだけ選ばれて存在しているのだろう?」という謎が残ります。そして、多世界解釈を採ればこの謎は消滅させることができます。たとえ実証・反証できなくても、最も合理的な世界観を探し出すことは、哲学の重要な課題だと思われます。

>>365
>「SumioBabaは正しいか間違っているかどちらかである。

>そしてそのどちらかに限定しなければ、決して間違わない。

>つまり絶対に正しい。」

>これなんだけど、最後に正しいと限定しているから、どちらかではなくなってる。


 「真理の限定」というのは、「○○○である」と「○○○でない」の両方がトートロジーでも矛盾でもなく、どちらも起こり得るにも拘らず、「「○○○である」が真であり「○○○でない」は偽だ」と、真理を片方だけに限定することです。「○○○である」がすべての可能性を網羅していてトートロジーである場合には、それを否定すると矛盾になるので、「無矛盾な世界」においてトートロジーは絶対的真理であり、「「○○○である」は絶対的に正しい」が言え、これは真理を限定したことにはなりません。

>だからSumioBabaは間違っていると結論することもできる。限定しなかった結果ですね。


 それをやってしまうと、トートロジーさえ「正しい」と「正しくない」の両方が有り得る、と主張しているのですから、「正しくない」の場合には矛盾が生じてしまい、「有矛盾な世界」に立ってしまうことになります。そして禅問答のように、説明自体に矛盾が生じ、意味不明になります。

>「正しい」と「間違っている」の両方を証明できるようにしておいて、その時々で都合のいいほうだけを主張しているということ。


 「その時々で都合のいいほうだけを主張している」ではありません。論じている対象は「有矛盾な世界」に住む「神」ですが、論じている自分は「無矛盾な世界」に立つ、という区別をしているだけです。優鬼さんは両者を混同しています。

>>366

>SumioBaba論法に慣れすぎて、有と無が重ね合わせできるような錯覚に陥るけど、あるのは量子の重ね合わせ状態だけだから。ある場所に量子が存在するかどうか、観測すれば確率で決まる。量子自体はもちろんどこかには存在する。


 これも誤解です。量子力学では「有」と「無」も重ね合わせになります。量子(粒子)が0個の状態、1個の状態、2個の状態、…なども、どれなのかを観測していなければ重ね合わせになります。

>>367

 上で説明ずみ。

1年前 No.368

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「多世界解釈」は現在発展成長中

 「ニュートン力学」「相対性理論」「量子力学」などの理論体系は、どのような公理からどのような定理をどのように演繹するかが、すでに明確に論じられています。だから、正しく理解している物理学者たちの間では、意見が完全に一致するはずです。言わばこれらは、すでに完成しており、静的な状態にあります。

 一方「多世界解釈」の方は、今まさに発展途上にあり、完成しておらず、動的な状態にあります。「多世界解釈」の定義も必要最小限に留められており、多数の解釈の余地が残されています。

 例えば「多世界解釈」では、確率をどう解釈するのか?という新たな問題が生じます。量子力学では、「射影公理」と呼ばれるものにより、「波動関数の二乗がその確率を与える」と説明されます。シュレディンガーの猫の話だと、「「生」と「死」が確率1/2ずつ」という場合も有れば「「生」が確率3/4、「死」が確率1/4」という場合も有ります。しかし「多世界解釈」だと、「「生」も「死」も両方実現する確率が1」とも言えるし、「「生」の視点に立っている人には「生」が確率1で「死」が確率0」とも言えるし、「「死」の視点に立っている人には「死」が確率1で「生」が確率0」とも言えます。これは、確率が客観的なものではなく、どういう視点に立つかで様々に変わる主観的なものなのだ、と示唆しています。確率とは何なのかを、もう一度考え直す必要が有る訳です。
 そして、wikiなどで「多世界解釈」の定義を調べても、そんな詳しいことは何も定義されていません。つまり、多世界解釈において確率をどう解釈するかは無数の考え方が残っており、それらすべてが「多世界解釈」のヴァリエーションになります。

 他にも「多」をどう解釈するか、という問題が有ります。物理法則や物理定数は我々の世界と同一の世界だけに限定し、物理状態だけが「多」に分裂するのだ、と考えることもできます。物理定数さえ、我々の世界と異なる様々な世界を考えることもできます。物理法則さえ、我々の世界とは異なる様々な世界を考えることもできます。これらもまた、「多世界解釈」の定義の中に、どれでなければならないと限定されている訳ではないので、様々な拡張が可能であり、それらもすべて「多世界解釈」のヴァリエーションになり得ます。「多世界解釈」支持者を百人集めて議論したら、百者百様でみな微妙に異なるはずです。

 こういうのは、「多世界解釈」ですべてを説明してやろう!!、と自分でチャレンジした経験を持つ人でないと、なかなか理解できないと思われます。日本人は自分の頭で考えようとせず、外国人が完成してくれた理論をそのまま輸入して丸暗記するだけ、という批判がよくなされます。確かにそういう傾向は今でも有ります。自分の頭で考えない人は、科学の最先端が「静的」ではなく「動的」なのを認識できず、すべてを「静的」に捉えてしまうのではないでしょうか。

1年前 No.369

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>362

 ありがとうございます。

>なぜ違和感が有るのでしょう?


 何度かのべています私の違和感、これがうまく表現できていないのですが、やはり存在を問うているにもかかわらず、存在の謎を消滅させようと、多世界解釈が真であるという視点(偽の視点もあるにもかかわらず)で考えることに違和感があるのだと思います。
 何かを探しているときに、たとえば、ネッシーがいるかを探しているのに、「ネッシーはいるかもしれないし、いないかもしれない、ネッシーの存在を謎としないために、両方あり得ると考えたら、探す理由がなくなった」と言っているように感じます。
 ネッシーがいるかを探しているのに、「ネッシーの存在の謎を消滅させるため」の思考をする理由が私には見当たらないのです。

 なお、 >>355 で書いたことですが、思考の結果、SumioBabaさんのように到達した体系としてそのように考えることを選択することは当然あり得ると思いますが、そこにたどり着くまでに、問いを意図的に消滅させる動機を持っていません。SumioBabaさんとは、思考のフェーズというか段階の違いがあると思っています。
 「「謎を消滅させるためにはどう解釈すれば良いか?」と考えるなら、多世界解釈を採ることが必須だと言え」ることは同意しますが、私にとっては、上記の理由からそう考えることは思考停止していることになります。

>えぴめてうすさんは哲学を放棄して、宗教の信仰を選ぶのですか?


 永井均氏が「〈子ども〉のための哲学」(講談社新書)で述べている、哲学を始める方法は、「子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身が本当に納得いくまで、けっして手放さないこと」を信条としてこの問いに臨んでいます。これが私の哲学する姿勢です。そういう意味で、永井教信者かもしれませんが、第一の教義は、真理を探求するだと思います。

>多世界解釈は、量子ミステリーをうまく説明できるいくつかの解釈の中で、もっともシンプルで合理的なものであり、多くの物理学者たちが本気で正しいと主張している解釈です。決して、謎を消滅させるためにその場しのぎで考え出された荒唐無稽な空想ではありません。

「量子力学でどの解釈を支持するか」という物理学者たちのアンケート( http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-197)によると、コペンハーゲン解釈=4票、ガイド波解釈=2票、その他の収縮メカニズム=4票、そして、多世界解釈=30票、となっています。

 量子論における物理学界の動向についてはよくわかっていませんが、この30人の学者の方は、このマクロ的な世界レベルの理解として、多世界解釈を支持しておられるのでしようか。

>やっぱりえぴめてうすさんは、「「○○○である」が真であり「○○○でない」が偽である」と真理を片方だけに限定して見せること、それこそが「真理」なのだ、と考えておられるようですね。


 上の違和感とつながっているのですが、「真理」を限定しないトートロジーは、結局、世界について、何ごとも述べていないと思います。
 また、確かに哲学においては、SumioBabaさんの次のコメント通りであると思います。
>殆どの問題は実証も反証もできない中、どう解釈するのが合理的か、自分の好みの解釈を探すことしかできない状況です。

 存在への問いをしているとき、「どう解釈するのが合理的か」ということについては、問いそのものが妥当かどうかは別の問題としてあるとしても、問いを無意味にするため(謎を消滅するため)の解釈を探すことではないと思えるのです。

>えぴめてうすさんも、もう少し多世界解釈を真剣に考えてみてはどうですか。


 私の能力の範囲内で、考えていきたいと思います。

 多世界解釈では、a「何かがある」+b「何もない」(aもbも不明)…※ を全体とし、「何かがある」の視点に立てば「何かがある」(a=1)、「何もない」(b=1)の視点に立てば「何もない」、のダブル・トートロジーが成立していただけとなり、存在の謎は消滅する。観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何かがある」が確率1で実現し、「何もない」が実現した確率は0で、観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何もない」が確率1で実現し、「何かがある」が実現した確率は0となる。
 ただし、「何かがある」を体験している「私1」、「何もない」を体験している私を「私2」、「何かがある」+「何もない」を体験している私を「私3」とすると、私2と私3は、無意識であり、3つの私を同時に体験していることを共有できないし、実証も反証もできない。
 実証も反証もできないからこそ、全知全能の「神」は3つを実現している、という解釈が可能になる。

 これまでやりとりさせていただいた内容は、「存在とは何か」というより、そもそも「存在への問いをたてることに意味があるか」についてでしたので、その論点から、多世界解釈によって、世界の可能性を考えることが必要になると考えます。

 多世界解釈が正しいかどうかで世界の可能性を考えた場合、
 世界 = a.多世界解釈が正しい世界(すべての可能性が実現している)+ b.多世界解釈が正しくない世界(存在について論ずる意味が生じる)
 世界は、a、b、a+bの場合があり得るが、a+bは矛盾しているため、人間は認識できない。aとbは認識できうるものとして同時に体験しているが、別の世界であり、相互に共有できないし、そのことを実証も反証もできない。

 a多世界解釈が正しい世界である場合、謎はなくなるが、b多世界解釈が正しくない世界の場合は、謎はなくならない。これは、絶対的に真である。
 ただし、私のいる世界が、a、bどちらであるのかは、観測しても実証も反証もできない。(つまりa=1もb=1も確定しない。)
 つまり、aとbどちらにいるのか判明しないため、存在への問いが意味があるかないか(謎かそうでないか)確定しない。

 誤りをご指摘いただければ幸いです。

>哲学最大の謎「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」が「アポリア」だとか「疑似問題」だとか言われて来た理由は、オーソドックスな方法では答が見付かりそうにないからではないのでしょうか? つまり、問題の定式自体が間違っているのでは?と疑うべきです。


 私も、 >>249 で述べましたように、この問題は考慮せざるを得ない問題だと思いますが、これも難問であることは間違いありません。

1年前 No.370

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>370  えぴめてうすさんへ

> 何度かのべています私の違和感、これがうまく表現できていないのですが、やはり存在を問うているにもかかわらず、存在の謎を消滅させようと、多世界解釈が真であるという視点(偽の視点もあるにもかかわらず)で考えることに違和感があるのだと思います。


 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、《暗黙の前提》=「世界は1つであり、「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない」の上で、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問うています。そしてその答が見つかりません。だとしたら、《暗黙の前提》を疑ってみるべきではないのでしょうか。
 「何かがある」と「何もない」とどちらであるべきなのか、論理だけでは判断ができません。論理的にはどちらも有り得て良い内容です。経験的事実として「何かがある」が真だとは認めても、「何かがある」片方だけが実現せねばならない理由は、論理だけでは決して答が見付からないということです。それを敢えて「何かがある」の方でなければならないと説明するには、「何かがある」の方だけが選ばれる自然法則のようなものを仮定する必要が有ります。しかしそうするとまた、「なぜそんな法則に縛られるのか?」という謎が生じます。無限後退です。決して謎は無くなりません。それゆえ謎を無くすには、《暗黙の前提》を否定して「何かがある」と「何もない」の両方が実現したと考え、論理の段階でダブル・トートロジーに持ち込むしか方法は無いと思われます。

> 何かを探しているときに、たとえば、ネッシーがいるかを探しているのに、「ネッシーはいるかもしれないし、いないかもしれない、ネッシーの存在を謎としないために、両方あり得ると考えたら、探す理由がなくなった」と言っているように感じます。

> ネッシーがいるかを探しているのに、「ネッシーの存在の謎を消滅させるため」の思考をする理由が私には見当たらないのです。


 仮にネッシーが「いる」の方だったとして、「なぜネッシーは「いない」ではなく「いる」の方なのか?」という新たな謎にはどう答えますか? 仮にネッシーが「いない」の方だったとして、「なぜネッシーは「いる」ではなく「いない」の方なのか?」という新たな謎にはどう答えますか? 「いる」か「いない」かだけ判明しても、それは自分が住む世界だけでの真理です。なぜそちらが選ばれたのかの答にはなりません。すべての謎を消滅させるためには、やはり多世界解釈を採り、両方が実現していると想定することで、ダブル・トートロジーに持ち込む以外に方法は無いと思います。

> なお、 >>355 で書いたことですが、思考の結果、SumioBabaさんのように到達した体系としてそのように考えることを選択することは当然あり得ると思いますが、そこにたどり着くまでに、問いを意図的に消滅させる動機を持っていません。SumioBabaさんとは、思考のフェーズというか段階の違いがあると思っています。


 だと思います。とにかくいろいろ考えてみて下さい。どう考えてもまた「なぜ?」という謎が生じ、無限後退になってしまうことを、自分で確かめてみるのが良いと思います。

> 「「謎を消滅させるためにはどう解釈すれば良いか?」と考えるなら、多世界解釈を採ることが必須だと言え」ることは同意しますが、私にとっては、上記の理由からそう考えることは思考停止していることになります。


 謎を消滅させるためには多世界解釈を採ることが必須だという点には同意しながら、多世界解釈を採らずに謎が残る方を選ぶのですか? そちらの方が思考停止だと思いませんか?

>>えぴめてうすさんは哲学を放棄して、宗教の信仰を選ぶのですか?


> 永井均氏が「〈子ども〉のための哲学」(講談社新書)で述べている、哲学を始める方法は、「子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身が本当に納得いくまで、けっして手放さないこと」を信条としてこの問いに臨んでいます。これが私の哲学する姿勢です。そういう意味で、永井教信者かもしれませんが、第一の教義は、真理を探求するだと思います。


 だったら、証明もできないまま「多世界解釈」を否定してしまうえぴめてうすさんは、真理を探究することを放棄してしまっていますよ。実証も反証もできないのであれば、「多世界解釈」の肯定と否定の両方を考慮すべきなのでは?

> 量子論における物理学界の動向についてはよくわかっていませんが、この30人の学者の方は、このマクロ的な世界レベルの理解として、多世界解釈を支持しておられるのでしようか。


 「多世界解釈」というのは、そもそもマクロなレベルで様々に異なる世界が線形の重ね合わせのまま存続し、時間発展していくと考えるものです。シュレディンガーの猫で言えば、猫が生きていた世界W1と死んでいた世界W2とが、観測の時点で片方が消滅するのではなく、両方が線形の重ね合わせのまま時間発展していく、という考え方です。

> 上の違和感とつながっているのですが、「真理」を限定しないトートロジーは、結局、世界について、何ごとも述べていないと思います。


 「世界について、何ごとも述べていない」ではなくて、「世界は初めから、「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方であった、などとは限定しない(偏見を持たない)」、ということです。なぜなら、限定されていたと考えると、「なぜ?」という謎が生じてしまうからです。実際、えぴめてうすさんは、「何かがある」と「何もない」のうち「何かがある」の方だけに限定されていたという《真理実在教》を盲信するがゆえに(偏見を持つがゆえに)、「なぜ?」という解けない謎にぶつかってしまっておられます。
 我々の世界W1だけについて言えば、様々な事が確定しています。無矛盾な論理法則・物理法則には「縛られない」ではなく「縛られる」の方です。物理定数も物理法則も、特定のものに限定されています。宇宙の地理や歴史も、特定の状態に限定されています。それらを研究・解明しているのが科学です。
 多世界解釈を採らず、世界は1つだけだと考えるなら、「我々の世界以外にも様々な世界が考えられるのに、特定の物理法則、特定の物理定数、特定の地理・歴史を持つ我々の世界だけが1つだけ選ばれて実現したのはなぜだろう?」という謎が残ってしまいます。こっちの方が不自然です。だから、本来世界は何一つ限定されておらず、存在し得るすべての世界は実現していると考えると、自ずと「多世界解釈」につながります。

> 存在への問いをしているとき、「どう解釈するのが合理的か」ということについては、問いそのものが妥当かどうかは別の問題としてあるとしても、問いを無意味にするため(謎を消滅するため)の解釈を探すことではないと思えるのです。


 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に対し、オーソドックスな科学の方法論で、えぴめてうすさんはどういう答を探しておられるのでしょう? 科学でできる事って、自分が住む世界で「○○○である」と「○○○でない」のどちらが経験的に真なのかを実験・観察で調べるだけでしょう? もし「○○○である」の方が真だと判っても、「なぜ、「○○○ではない」ではなく「○○○である」の方なのか?」を追究すると無限後退に陥るだけなので、完全解決できない事は一目瞭然ではないでしょうか? 科学はすべての謎を解明できると、素朴に信じておられるのでしょうか?

> 多世界解釈では、a「何かがある」+b「何もない」(aもbも不明)…※ を全体とし、「何かがある」の視点に立てば「何かがある」(a=1)、「何もない」(b=1)の視点に立てば「何もない」、のダブル・トートロジーが成立していただけとなり、存在の謎は消滅する。観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何かがある」が確率1で実現し、「何もない」が実現した確率は0で、観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何もない」が確率1で実現し、「何かがある」が実現した確率は0となる。

> ただし、「何かがある」を体験している「私1」、「何もない」を体験している私を「私2」、「何かがある」+「何もない」を体験している私を「私3」とすると、私2と私3は、無意識であり、3つの私を同時に体験していることを共有できないし、実証も反証もできない。

> 実証も反証もできないからこそ、全知全能の「神」は3つを実現している、という解釈が可能になる。


> これまでやりとりさせていただいた内容は、「存在とは何か」というより、そもそも「存在への問いをたてることに意味があるか」についてでしたので、その論点から、多世界解釈によって、世界の可能性を考えることが必要になると考えます。


> 多世界解釈が正しいかどうかで世界の可能性を考えた場合、

> 世界 = a.多世界解釈が正しい世界(すべての可能性が実現している)+ b.多世界解釈が正しくない世界(存在について論ずる意味が生じる)

> 世界は、a、b、a+bの場合があり得るが、a+bは矛盾しているため、人間は認識できない。aとbは認識できうるものとして同時に体験しているが、別の世界であり、相互に共有できないし、そのことを実証も反証もできない。


> a多世界解釈が正しい世界である場合、謎はなくなるが、b多世界解釈が正しくない世界の場合は、謎はなくならない。これは、絶対的に真である。

> ただし、私のいる世界が、a、bどちらであるのかは、観測しても実証も反証もできない。(つまりa=1もb=1も確定しない。)

> つまり、aとbどちらにいるのか判明しないため、存在への問いが意味があるかないか(謎かそうでないか)確定しない。


> 誤りをご指摘いただければ幸いです。


 よろしいんじゃないでしょうか。

1年前 No.371

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「多世界解釈」の弁証法

 「多世界解釈」はまだ完成しておらず、今まさに発展進化中であり、多くの科学者・哲学者たちがいろんなヴァリエーションを考慮中だと思われます。「SumioBaba解釈」もその1つであり、今まで解けないと諦められてきた哲学上の難問(アポリア)を、「多世界解釈」を応用することですべてトートロジーに解消できるのではないかと、究極まで拡張を試みるところが特徴です。

    (1) 物理状態の多様性

 まず「多世界解釈」を採らないと、すぐに説明不可能な謎が発生してしまいます。「他にも物理状態の異なる世界が多数考えられるのに、なぜ我々の世界1つだけが選ばれて存在しているのか?」。そして、こう答えるしか無くなります。「そんなの知るもんか。なぜかそうだからそうなのさ。」そこで「多世界解釈」を採り、存在し得る世界はすべて存在すると考えれば(豊饒性原理)、この謎は無くなります。

    (2) 物理定数の多様性

 我々の世界における物理定数は、人間という知的生物を発生させるのに、あまりにも好ましい数値が特別に選び出されているように見える、という謎が指摘されています(ファイン・チューニング問題)。世界を1つだけ作り、物理定数をランダムに設定したとすると、それが偶然この値を取る確率は10^(−100)くらいに小さい、という計算も有るようです。
 この謎も「多世界解釈」を採るとうまく説明できます。世界はたった1つではなく、存在し得る世界はすべて存在しているのです。10^1000、10^10000、10^100000、…。それらすべての世界の中に、我々の世界のような知的生物を発生させ得る世界が1つでも含まれている確率は、10^(−100)ではなく1です。つまり、偶然ではなく必然です。
 しかも、観測者としての知的生物を発生させられなかった世界は、誰にも観測されないために、存在しないのと同じです。観測者を発生させた世界だけが、その観測者に観測されることで存在することになります。だから、知的生物を発生させるのに奇跡的なくらい好都合の物理定数を持った世界だけが、選ばれて造られたように見えてしまうのです(人間原理)。

    (3) 物理法則の多様性

 物理法則も同様です。なぜ我々の世界は、物理法則に「縛られない」ではなく「縛られる」の方なのか? なぜ我々の世界で成立している物理法則は、他の物理法則ではなく、この物理法則なのか? ここでも「多世界解釈」を採らなければ「そんなの知らないよ。なぜかそうだからそうなのさ。」と答えるしか無くなりそうです。「多世界解釈」を採れば、こう答えられます。「いや、存在し得るあらゆる物理法則について、それに「縛られる」世界も「縛られない」世界も、すべて存在しているのだよ。ただし、物理法則に縛られない世界は状態が定まらず、観測者を発生させられないはず。観測者を発生させるのに極めて好都合な物理法則が成立している世界だけが観測者を発生させ、観測されることで存在することになる。それ以外の世界は観測者を発生させられないので、誰にも認識されず、存在しないのと同じなのだよ。」

    (4) 「存在する」と「存在しない」

 「多世界解釈」では、存在し得るすべての世界が存在する、と考えます。ただし、その存在の仕方が奇妙です。どの世界に住む人にとっても、自分が住む世界は確率1で「存在する」ですが、他の世界は「存在する」か「存在しない」か不明だし、決して認識できないという意味では「存在しない」に見えてしまう、という在り方をしています。
 量子力学以前の古典力学では、誰かにとって「存在する」ものは誰にとっても「存在する」だし、誰かにとって「存在しない」ものは誰にとっても「存在しない」であり、「存在する」か「存在しない」かはすべての人間に共通する客観的な事実だと思われてきました。量子力学は、この常識を破っています。同一の世界が、どういう視点に立つかで、「存在する」にも「存在しない」にもa「存在する」+b「存在しない」にもなり得るような在り方をしているのです。このへんをどう解釈すべきか、という問題が有ります。

 存在し得るすべての世界は、誰にとっても客観的に「存在する」の方である、と考えると、直ちに解けない謎が発生してしまいます。「なぜ存在し得るすべての世界は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」。そしてやはり、「そんなの知るもんか。」で終わってしまいます。
 この謎を消滅させるには、個々の世界が「存在する」と「存在しない」の両方であり得ると考えれば良いことが解ります。存在し得るすべての世界をW1、W2、W3、…とし、その全集合を{W}とします。どの世界Wi(i=1、2、3、…)も、確率Piで「存在する」、確率1−Piで「存在しない」を満たした在り方をしている、と考えます。そして、任意の部分集合を{Wa}、その補集合を{Wx}とするとき、「{Wa}の要素だけが「存在する」、{Wx}の要素は「存在しない」」である確率が必ずいくらか存在すると考えます。すると、P=「{W}の要素すべてが「存在する」」である確率もいくらか有ります。Q=「{W}の要素すべてが「存在しない」」である確率もいくらか有ります。R=「自分が住む世界W1だけが「存在する」、他の世界W2、W3、…は「存在しない」」である確率もいくらか有ります。

 こう考えると、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎も消滅します。この問いの場合、実現しているのは「何かがある」の方だけであり、「何もない」の方は実現していないと思い込んでしまっています。そこがすでに、事実誤認なのです。Q=「{W}の要素すべてが「存在しない」」の場合には「何もない」が実現しているのですから。つまり、こう答えれば良いのです。「「何かがある」と「何もない」とは両方実現しているのであって、「何かがある」だけが選ばれている訳ではない。どちらを選ぶかで、どちらに注目することもできる。「何かがある」を選べば「何かがある」が選ばれる。「何もない」を選べば「何もない」が選ばれる。どちらもただのトートロジーだよ。」

 P=「{W}の要素すべてが「存在する」」を「多世界解釈」(正)と呼びます。QやRはPを否定しており、これらを「多世界解釈」(反)と呼びます。そして、P、Q、Rすべてを含んだもの、つまり、「任意の部分集合{Wa}について、{Wa}の要素だけが「存在する」、{Wx}の要素は「存在しない」、である確率が必ずいくらか存在する」を、「多世界解釈」(合)と呼びます。すると、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)という弁証法的構造が生じます。そして「多世界解釈」(合)は、「多世界解釈」(正)について、真かもしれない、偽かもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、と主張していることになります。
 「多世界解釈」(合)を仮定すれば、謎はすべて無くなります。「いや、「多世界解釈」(合)が真だというのなら、なぜ「多世界解釈」(合)は偽でなく真なのか?、という謎が残るではないか?」という反論は不要です。なぜなら「多世界解釈」(合)は、特定の1つの状態ではなく集合であり、自分の中に自分の部分否定すべてをも含んでいるからです。あるいは、「多世界解釈」(合)はすべての可能性を網羅しており、その全否定はφ(空集合)なので、真の方だけが選ばれて偽の方は放棄されているではないか?、と反論しても、放棄しているのがφ(空集合)なので、何も放棄していません。「多世界解釈」(合)は、存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…のどれもが、「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在しない」のどれかである、と主張しており、すべての可能性を何一つ否定せず、真理はそれらの中のどれかだろうと言っているだけなので、外れるはずが無いという意味で、証明不要のトートロジーであり恒真です。

    (5) 「多世界解釈」から「多精神解釈」へ

 「多世界解釈」を突き詰めていくと、客観的物質世界という概念が成立しなくなり、存在するのは個々の心M0、M1、M2、M3、…の集合{M}だけだとする、ライプニッツの「モナドロジー」に行き着きます。
 シュレディンガーの猫の話で、猫が生きていた世界をW(生)、死んでいた世界をW(死)とします。友人は猫の生死を観測したので、W(生)に住んでいる友人(生)は「猫が生きていたのを観測した友人」、W(死)に住んでいる友人(死)は「猫が死んでいたのを観測した友人」となり、友人(生)≠友人(死)のため、両者は分裂します。そして、友人(生)はW(生)だけに住み、友人(死)はW(死)だけに住むようになります。しかし、猫の生死を観測していない自分の場合、W(生)に住んでいる自分(生)も、W(死)に住んでいる自分(死)も、「猫の生死を知らない自分」であるため、自分(生)=自分(死)となり、両者の間に心身状態の差異が生じません。それゆえ自分は嫌でも、自分(生)+自分(死)という重ね合わせの視点に立てるだけであり、世界もW(生)+W(死)という重ね合わせのままです。
 自分の心をM1、自分が住む世界をW1、友人の心をM2、友人が住む世界をW2とすると、W1はM1が持つ情報の範囲内でだけ物理状態が確定し、W2はM2が持つ情報の範囲内でだけ物理状態が確定します。世界と心を区別する必要が無くなり、M1=W1、M2=W2。「多世界解釈」で考えていた存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…を要素とする集合{W}は、そのまま、存在し得るすべての心M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}に置き換えられます。

    (6) M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕

 M0は、すべてのM1、M2、M3、…を同じ重みで重ね合わせ、情報が完全に消滅した無意識状態の「空」(くう)であり、M0=「??????????…」で表されます。これは「何もない」が成立している視点です。「?」=「0」+「1」。
 M1、M2、M3、…の方は、例えば「01??10?1?0…」や「?110??010?…」や「10?0???110…」のように、少なくとも1ビットは「0」または「1」のどちらかに確定し、特定の情報を持った有意識状態の「色」(しき)で、「何かがある」が成立している視点です。人間の心はこの「色」に含まれます。
 M0、M1、M2、M3、…のどれもが、確率的に「存在する」と「存在しない」の両方であり得る「半存在」です。だから、「何もない」と「何かがある」もまた、確率的にどちらも実現していることになります。
 「空」M0こそが、何ものにも限定されない全知全能の「神」の本来の姿を表しています。ただし、「神」がM0だけに留まると、「「神」はM0である」と「「神」はM0でない」のうち、「「神」はM0である」の方だけに限定されてしまうことになってしまいます。それを超越するため、「神」は敢えて全知全能でない「色」M1、M2、M3、…にも化けるのです。つまり、「全知全能である」(合)=「全知全能である」(正)+「全知全能でない」(反)。これこそ、全知全能の「神」が敢えて全知全能でない人間の心を作り出し、自ら体験している理由です。

1年前 No.372

★A18XwmEACN_xmq

えぴめてうすさんへ、馬場さんへ

哲学は、例えば「ネッシーとは何か?」を思考する事から通常は始まると思いますが、これは、その哲学をする人(例えば、えぴめてうすさん)の世界観においてだけのお話ですね。ここでいう世界観と言うのが、馬場さんの仰る(W1)のことです。

「私とは何か?」「世界とは何か?」「正義とは何か?」「争いはなぜ起こるのか?」等々も同じ事ですね。その思考する個人の世界観においての問い(謎)です。通常はその世界(W1)の世界での「真理(本当の事)」を追求しようとしているのではないでしょうか。言わば、個人の井戸の中の真理(本当の事)です。これが通常の哲学の姿勢だと思います。

ですが、もう一つの真理(本当の事)があります。その個人の井戸を集めたであろう世界観での真理(本当の事)です。ここまで到達できれば、一応は、通常の哲学は終了ではないでしょうか。

上記、両者の違いは、(例えばですが)「ネッシーはいるのか?」を哲学して「ネッシーはいる」と言う真理(答え)にえぴめてうすさんが到達したとしましょう。ここでえぴめてうすさんは、えぴめてうすさんの世界観における「ネッシーはいるのか?」と言う問いに対する「ネッシーはいない」と言う真理を得たことになります。

片や、例えば、私(時)も「ネッシーはいるのか?」を哲学したとしましょう。そして到達した私(時)の世界観で「ネッシーはいない」と言う真理(本当の事)に到達したとしましょう。勿論、これは、私(時)個人の井戸の中の真理です。

上記の場合に、えぴめてうすさんは「この世界には、ネッシーは何故いないではなくているのか?」、私(時)は「この世界には、ネッシーは何故いるではなくていないのか?」と言う問いには、「いるものはいるんだ」「いないものはいないんだ」としか、それぞれの個人的な世界観では、答えられなくなりますね。(別に答える必要もありませんが)

ここでメタな視点を持つ者が、両者の井戸の上から観た場合に助言するとすれば「それはトートロジーなのですよ」と言う表現になります。(笑)

勿論、えぴめてうすさんの事ではありませんが、狭い井戸の中の住人が、意地を張り、言葉使い荒く「トンデモだろ!」「日本語で話せ!」等の揶揄をしても、それを知らないものが知る者に対しての言葉使いかなぁと言うだけで、私(時)は別に構わないのですがね。えぴめてうすさんの仰る「思考のフェーズというか段階の違い」です。

別に狭い井戸の中で「真理だ。真理だ。」と自己満足に浸っていても良いと思いますし、もう少し上の視点での哲学をされても良いとも思いますし。自由意志があるとすれば、えぴめてうすさんは、どちらの「真理」を選ばれるでしょうか?馬場さんは、普通の言葉使いで会話さえすれば、普通に答えて頂ける方で、上の視点の持ち主ですよ。

「神」をこの世での最高(全知全能)の存在と設定し、その最高の視点で観た場合には、全ての謎が消滅するというのは、こういう事だろうと思います。

1年前 No.373

★A18XwmEACN_xmq

>>373  失礼しました。訂正です。

>上記、両者の違いは、(例えばですが)「ネッシーはいるのか?」を哲学して「ネッシーはいる」と言う真理(答え)にえぴめてうすさんが到達したとしましょう。ここでえぴめてうすさんは、えぴめてうすさんの世界観における「ネッシーはいるのか?」と言う問いに対する★「ネッシーはいない」と言う真理を得たことになります。




上記、両者の違いは、(例えばですが)「ネッシーはいるのか?」を哲学して「ネッシーはいる」と言う真理(答え)にえぴめてうすさんが到達したとしましょう。ここでえぴめてうすさんは、えぴめてうすさんの世界観における「ネッシーはいるのか?」と言う問いに対する★「ネッシーはいる」と言う真理を得たことになります。

1年前 No.374

審判 ★kootX4cEra_Ew9

スミオババ理論の中で語られる「スミオババの多世界解釈」は「物理学における多世界解釈」とは別物である。なぜなら「スミオババの多世界解釈」においては、「多世界解釈の成り立つ世界」と「多世界解釈の成り立たない世界」が同時に存立しているばかりではなく、「物理法則の成り立つ世界」と「物理法則の成り立たない世界」あるいは「論理法則の成り立つ世界」「論理法則の成り立たない世界」などなど、物理の解釈とは関係なく、無限の世界が並立していると仮定しているからである。

このような理由で「スミオババの多世界解釈」と「物理学における多世界解釈」を分けて表現せよ、と警告した。 >>363

それに対するスミオババの反論が >>369 である。369を要約すると、

>「物理学における多世界解釈」は、いまだ理論として確立されておらず、様々なバリエーションが考えられる。


369は、「物理学における多世界解釈」の話であり、 >>363 における警告への反論としては不十分である。
スミオババも不十分であると理解したのか、 >>372 において補足説明を試みる。372を要約すると、
>「スミオババの多世界解釈」は、多世界解釈を究極まで拡張したものだ。


スミオババの主張を要約するとこういうになる。
>「物理学における多世界解釈」は、いまだ確立されておらず、様々なバリエーションが考えられる。

>「スミオババの多世界解釈」は、多世界解釈を究極まで拡張したものだ。

>よって、「多世界解釈の成り立たない世界」「物理法則の成り立たない世界」「論理法則の成り立たない世界」などのあらゆる世界を含む「スミオババの多世界解釈」も「物理学における多世界解釈」の一つであると言えるのではなかろうか。


:ジャッジ:
「スミオババの多世界解釈」と「物理学における多世界解釈」は別物である。なぜなら、物理法則や論理性で形成されるのが物理学なのであり、その物理学において、物理法則や論理性を無視する理論を語る事は出来ないからだ。つまり、物理学でスミオババ理論は語れないということ。まだ反論があるなら「スミオババの多世界解釈」を肯定する物理学者を連れてくるように。それが出来ないのであれば、「スミオババの多世界解釈」と「物理学における多世界解釈」は別物である、というジャッジはくつがえらない。
よって、今後、スミオババ理論で言う多世界解釈を「多世界解釈」と表現する事を禁ずる。
イエローカード(本当はレッドカードだが執行猶予な)

:審判雑感:
スミオババが自説を説明するのに「量子(SB量子神学)」や「多世界解釈」という物理用語を入れたがるのは、自説が科学に則った理論だとミスリードする意図があるように思われる。これは、議論を試合と捉える >>344 スミオババが、試合に勝つために考えた戦略なのだろうが、このような小細工は見ている者に不信感を抱かせる結果につながるのではないか。スミオババ理論の現況はそれをあらわしてるように思う。
多世界を信じるスミオババが、なぜこれほど強引な手法を採用し、現世での勝利にこだわるのか。スミオババは自説を信じていないのでなかろうか。

>>370
えぴめてうすとスミオババの議論は、そろそろ堂々巡りやな

>>373
時はスミオババ理論を信じてるん? 信者1号?

1年前 No.375

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>373  時さんへ

>上記、両者の違いは、(例えばですが)「ネッシーはいるのか?」を哲学して「ネッシーはいる」と言う真理(答え)にえぴめてうすさんが到達したとしましょう。ここでえぴめてうすさんは、えぴめてうすさんの世界観における「ネッシーはいるのか?」と言う問いに対する「ネッシーはいる」と言う真理を得たことになります。


>片や、例えば、私(時)も「ネッシーはいるのか?」を哲学したとしましょう。そして到達した私(時)の世界観で「ネッシーはいない」と言う真理(本当の事)に到達したとしましょう。勿論、これは、私(時)個人の井戸の中の真理です。


>上記の場合に、えぴめてうすさんは「この世界には、ネッシーは何故いないではなくているのか?」、私(時)は「この世界には、ネッシーは何故いるではなくていないのか?」と言う問いには、「いるものはいるんだ」「いないものはいないんだ」としか、それぞれの個人的な世界観では、答えられなくなりますね。(別に答える必要もありませんが)


>ここでメタな視点を持つ者が、両者の井戸の上から観た場合に助言するとすれば「それはトートロジーなのですよ」と言う表現になります。(笑)


 まさにそういう事です。さすが時さん、解り易い例え話ですね。

>「神」をこの世での最高(全知全能)の存在と設定し、その最高の視点で観た場合には、全ての謎が消滅するというのは、こういう事だろうと思います。


 その通りです。これも非の打ち所がない的確な表現です。

 自分の井戸の中だけで成立する真理で満足するのなら、それはそれで良しです。ところが、このスレッドのテーマである「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、自分の井戸だけでは解決できず、メタ視点で「何かがある」と「何もない」の両方を見渡さないと答が見付からない問題の典型なのですね。だから、自分の井戸の中だけで説明しようとしても誰も説明できない超難問(アポリア)でした。両方の井戸を見渡せば、そもそもこれは謎ではなかったこととなり、自ずとただのトートロジーに解消されるのです。

1年前 No.376

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>375  審判さんへ

>:ジャッジ:

>「スミオババの多世界解釈」と「物理学における多世界解釈」は別物である。なぜなら、物理法則や論理性で形成されるのが物理学なのであり、その物理学において、物理法則や論理性を無視する理論を語る事は出来ないからだ。


 もちろん「スミオババの多世界解釈」と「物理学における多世界解釈」は別物ですよ。「物理学における多世界解釈」を究極まで拡張したのが「スミオババの多世界解釈」なのだから、同一でないのは当然でしょう。

 「物理法則や論理性を無視する理論を語る事は出来ない」という限定をしてしまうと、《謎》=「なぜ我々の世界は無矛盾な論理法則・物理法則に「縛られない」ではなく「縛られる」の方なのか?」に答えられません。これに答えるには、「そもそも世界は無矛盾な論理法則・物理法則に「縛られる」か「縛られない」かさえ限定されていない」というところから出発して「観測者に認識される世界は、必ず無矛盾な論理法則・物理法則に縛られている」を導けば良いのです。それを説明しているのが「スミオババの多世界解釈」です。もちろん拡張しているのだから、ただの物理学ではなく、哲学も入っています。それの何がいけないのですか?

 要するに審判さんは、審判さんが思いも付かなかった方法で哲学の難問(アポリア)を解消しようと試みているSumioBabaを見ているのが、不愉快なのではありませんか? 審判さんができない事をSumioBabaができているのが許せないのではありませんか?

1年前 No.377

★d7h9nrIIyo_aZs

>>370  えぴめてうすさんへ

>  何かを探しているときに、たとえば、ネッシーがいるかを探しているのに、「ネッシーはいるかもしれないし、いないかもしれない、ネッシーの存在を謎としないために、両方あり得ると考えたら、探す理由がなくなった」と言っているように感じます。


個人の世界観で「ネッシー探し」をして、最終的にその答えが出るとすれば「いる」「いない」「分からない」の3通りですね。「分からない」場合には、そのままその哲学を続けるかもしれません。つまり、残るのは「いる」「いない」になります。

そして人の思考で出す答えは「いるのだが、いない」は、通常ありません。(矛盾の視点ですので)

つまり、出した答えが「いる」の場合と出した答えが「いる」の場合のどちらかになりますね。(これが無矛盾の視点です)

・「いる」の場合に「では、何故いないではなくているのですか?」と問われた場合、どのように答えられるのでしょうか?
・「いない」の場合に「では、何故いるではなくていないのですか?」と問われた場合、どのように答えられるのでしょうか?

答えようがない「ドン詰まり」状態です。

アポリアとは、解決のつかない難問のこと。ギリシア語の原義は通路または手段のないことを意味する。 アリストテレスによれば,解決しがたい事柄をいい,一つの問いに二つの相反した合理的解答のあること。(コトバンク)

「ネッシーはいるのか?いないのか?」についての答えが「いる」場合と「いない」場合とで、それぞれの個人の世界観での合理的な回答がある場合に、一つに解決しません。(アポリア)

>  ネッシーがいるかを探しているのに、「ネッシーの存在の謎を消滅させるため」の思考をする理由が私には見当たらないのです。


上記の「ネッシーがいるかを探している」のが、個人的世界観での哲学です。そしてこれは、その世界観で行き着く所まで行けたとしても、通常は、ドン詰まります。つまり解決できません。

そして「ネッシーの存在の謎を消滅させるため」の思考をする理由自体はありません。目的が違うからですね。「ネッシーはいるのか?」の思考を継続していけば、やがては答えられない壁に当たります。これがアポリアですね。

ですので「ネッシーの存在の謎を消滅させるため」ではなくて(例えばですが)馬場さんは「ネッシーの存在の謎を解き明かすため」の思考をされたのだと思いますよ。その結果、アポリアも消滅したという事だと思います。つまりは、そのアポリアの壁(解決のつかない難問)を突破した思考の世界観だという事です。

冒頭の「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」も同じ事です。

勿論、「ネッシーが存在するのか?しないのか?」を哲学されても良いと思いますが、仮にそれが上手く行ったとしても、いずれドン詰まると思いますよ(アポリア)。だからと言って、自在な思考の切り替えは、人には不可能ですので、行き着く所まで行ってみるのも良いと思いますね。

この先、えぴめてうすさんがどちらの道を進まれるのか?は、神のみぞ知るです。以上です。

1年前 No.378

★d7h9nrIIyo_aZs

>>378  失礼しました。訂正です

>つまり、出した答えが「いる」の場合と出した答えが「★いる」の場合のどちらかになりますね。(これが無矛盾の視点です)




つまり、出した答えが「いる」の場合と、出した答えが「★いない」の場合のどちらかになりますね。(これが無矛盾の視点です)

1年前 No.379

審判 ★464UCWsqox_Ew9

>>377
警告を受けた理由がまだわかってないみたいだな。
スミオババは、「スミオババの多世界解釈」と「物理学における多世界解釈」が別物だと理解しているにも関わらず、ある意図をもって両者を混同して語っている。この行為に対して警告を与える。以下詳細。

「物理学における多世界解釈」は、科学的見地に立脚した物理の話であり、観測結果とも符合するがゆえに、物理の世界において一定の支持を得ている一つの科学的仮説(解釈)である。いっぽう「スミオババの多世界解釈」は、物理法則や論理性を排除して考えられたものであり、物理とはまったく関係の無い話である。
つまりだ、いくら「物理学における多世界解釈」の正当性を主張しても、「スミオババの多世界解釈」への影響は皆無であり、その正当性はまったく強化されない。であるにも関わらず、スミオババは「物理学における多世界解釈」と「スミオババの多世界解釈」を同一のものとして語り、「物理学における多世界解釈」の正当性が、あたかも「スミオババの多世界解釈」の正当性を強化するがごとく印象づけようとする発言が多く見受けられる。これは、自説の正当性強化を目論むスミオババのミスリードであり、これを反則行為であると断じ、警告を与えた次第である。


>「スミオババの多世界解釈」はただの物理学ではなく、哲学も入っています。それの何がいけないのですか?


「スミオババの多世界解釈」には、物理の要素(科学的要件)が入っていない。理由は上記参照。
よって、今後、スミオババ理論で言う多世界解釈を「多世界解釈」と表現する事を禁ずる。


>審判さんが出来ない事をSumioBabaができているのが許せないのではありませんか?


審判は審判であり審判なのだから公正中立が原則であり、そのような振舞を心がけている。個人的な感想は雑感にかく。


:審判雑感:
スミオババは、難問を「解消」しようと試みる。
えぴめてうすは、難問を「解明」しようと試みる。
哲学的立場で言うなら普通はえぴめてうすに同調する。難問に対する取り組み方がスミオババと違う人間は、スミオババ理論に価値を見いだせないだろう。
あとな、審判は公正中立が原則だが心証の悪化はまぬがれないらしいよ人間だもの(笑

>>378
スミオババ信者に間違いを指摘するのはあれだが、時よ、おまえの解釈まちがってるぞ。

>馬場さんは「ネッシーの存在の謎を解き明かすため」の思考をされたのだと思いますよ。その結果、アポリアも消滅したという事だと思います。


スミオババは、難問の解消を目的に、スミオババ理論を構築した。それはスミオババ理論の構造を見ればわかるし、スミオババ自身も明言している。よく読んでみ。

1年前 No.380

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

>>368
確かに「神は全知全能」からトートロジーが導かれているわけではないから、前文は撤回する。ただし第三の論点として根拠を変えて主張そのものは継続している。
後文も撤回はしない。絶対的真理といいながら「正しいか正しくないか主張していない」は態度矛盾。

そこは
えぴめてうす「人間の定義次第じゃね?」
に対して、Babaさんをフォローしているところだから…
僕は誰が正しいかではなく、何が正しいかということにしか興味はない。

1年前 No.381

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

少なくとも「神」「多世界解釈」「トートロジー」あたりの語彙を適切に表現するだけでも問題は少なくなる。どうしてこんなに意見が割れるかって他のところで物理、特に量子力学をかじったことがあるかどうかで別れると思う。宇宙論や人間原理まで多世界解釈として述べられているから。
本人も「SumioBaba解釈」といい「哲学が入ってる」と認めた時点で、第一と第二の論点はスルーだな。

1年前 No.382

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

SumioBabaの主張は「ABのどちらかが正しいとき、どちらが正しいか限定せず、AならばAであるBならばBである」をダブル・トートロジーとする。ダブル・トートロジーは恒真である。
優鬼の主張は、ダブル・トートロジーは「限定しない」という条件付きで成立する。ダブル・トートロジーを恒真とおくことはその条件と矛盾する。

世界が無矛盾であるから、この理論も無矛盾でなければならない。そんな理屈が許されるなら、あらゆる理論の無矛盾性が証明できてしまう。
実際 >>354 で多世界解釈にダブル・トートロジーを適用しているではないか?
だいたい今まで重ね合わせだとか言っておいて、ここだけ都合よく二値論理になってるのはなんで?
二値論理ならAと非Aだけですべての場合を網羅できる。しかしその重ね合わせも含めると、果たしてそれですべての可能性を網羅できているかということに疑問が生じる。これは証明不要というほど自明なことではない。
正直なところ、重ね合わせという概念さえなければ、言っていることはほとんど相対主義と同じなんだけど。

第三の論点は実はもっと恐ろしい。そもそもダブル・トートロジーが成立するのはなぜか?という疑問が残るんだよな…

1年前 No.383

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> 時さんへ


 これは、特定の誰かを批判するためのものではなく、一般論ですので、架空の人物をX氏とします。X氏が以下のようなマナー違反を平気でする人だったと想定して下さい。

    (1)
 こちらはX氏を「Xさん」と「さん」付けで呼んでいるのに、X氏はこちらを呼び捨てにする。
    (2)
 こちらは丁寧語を使っているのに、X氏は丁寧語を使わない。X氏は常に上から目線で、自分が上司、周りの人間すべては部下だと思い込んでいるのか、相手を叱責したり、相手に命令したりする。
    (3)
 X氏は自分勝手な誤解・曲解をしたまま、いきなり独断で「おまえは間違いだ!!」と結論を書き込んでしまう。X氏の方が誤解している可能性も有るのだから、まずは質問から始めて、自分の誤解でないかどうかを確認するのがマナーのはずなのに、それをせずに一方的に「おまえは間違いだ!!」と書き込むのは、議論ではなく誹謗・中傷に過ぎない。
    (4)
 こちらが丁寧語を使って「それは誤解です」と説明しても、X氏は自分が誤解していたとは一切認めようとしない。そればかりかX氏は逆切れし、汚い言葉でこちらをののしり始め、人格攻撃にまで発展し、収拾がつかなくなる。
    (5)
 掲示板は、みんなが議論を楽しむ場所である。場合によっては、ディベート・ゲームのように、勝ち・負けを競うことも有り得るが、それもすべてゲームであり、ケンカではない。だからこそ、柔道や剣道、将棋や囲碁の試合に前後に行う「礼」のようなマナーが必要である。なのにX氏は、相手が「礼」をしているのに、「オレ、「礼」なんかしないもんね」とそっぽを向いてしまう。そして、相手を不愉快にする書き込みをすることで、X氏は喜びを感じているように思われる。こうなると、悪質な「荒らし」行為であるし、X氏はいわゆる「サイコパス」と呼ばれる病気ではないか?との疑いさえ生じる。〔以上〕

 時さんはかつて、丁寧な言葉遣いを心掛けていると書いておられました。相手を「おまえ」と呼ぶような書き込みをしている人を時々見かけるけれども、呆れてものが言えない、といったお話だったと記憶しています。
 SumioBabaも全く同感です。掲示板では、お互いに相手の年齢も経歴も不明のまま議論する事が多いのですから、自分よりも相手の方が年配かもしれないし、自分よりも相手の方が見識は上かもしれません。相手を「さん」付けで呼び、丁寧語を使うのが当たり前だと思います。普通こういうことは、子供の頃から厳しく仕付けられ、身に付くはずなのですが、大人になってもそれのできない人が時々いるようです。時さんは、こんなX氏と議論したいと思いますか?

 「相手が誹謗・中傷しているだけだと判断した場合にはスルーする」というのが時さんのご指導でしたよね。こちらがスルーすると、恐らくX氏は罵詈雑言を並べ立て、「おまえは間違いだ!!」「反論できないから黙り込んだのだろう!?」「オレの勝ちが確定した!!」という主張を延々と続けると予想しますが、とにかくスルーして相手にしないのが賢明ということでしょうね。

 すべてのスレッドに共通する、議論全般において大切なマナーの話なので、今一度書いてみました。

1年前 No.384

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> 優鬼さんへ


 SumioBabaや時さんと議論したいのであれば、最低、相手の名前を「さん」付けで呼ぶ、SumioBabaや時さんと同じ程度の丁寧語を使う、いきなり独断で結論を出さず質問から始める、くらいのマナーを守って下さい。「SumioBabaさんの○○○という説明に対し、正しくは×××ではないのか?、という疑問を感じているのですが、この点、どう考えておられるのでしょうか?」と質問して下されば、できる限りの誠意を込めてお答えしますよ。

1年前 No.385

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>380  審判さんへ

>>378

>スミオババ信者に間違いを指摘するのはあれだが、時よ、おまえの解釈まちがってるぞ。


>馬場さんは「ネッシーの存在の謎を解き明かすため」の思考をされたのだと思いますよ。その結果、アポリアも消滅したという事だと思います。


>スミオババは、難問の解消を目的に、スミオババ理論を構築した。それはスミオババ理論の構造を見ればわかるし、スミオババ自身も明言している。よく読んでみ。


 いいえ、正しいのは時さんの理解の方です。審判さんが曲解しているだけです。SumioBaba本人が言うのだから間違いありません。審判さんはなぜそこまでして、議論をかき乱すのですか?

1年前 No.386

審判 ★t8lFm6tqz1_Ew9

>>386
えっ?
スミオババ理論が難問の解消(正確には「何が全知全能か」)を目的に構築されてるじゃん。
それに「難問の解消を目的にスミオババ理論を構築した」って自分で言ってるだろ。 >>377 とか、他多数。

そういう嘘は審判厳しく取り締まるから。嘘やミスリードにはバンバン警告出すよ。
選手スミオババは正々堂々議論するように。

1年前 No.387

審判 ★5Sg23iWTcd_Ew9

:審判雑感:
議論に丁寧語なんて必要ないよ。
さん付けも必要ない。
議論におけるマナーが何かと問われれば、それは誠心誠意議論に望む事だよ。表面上の丁寧語やさん付けなんてまるで意味が無い。相手が真摯に議論してるかどうかなんて内容見りゃわかるし。
審判は嘘やミスリードに警告を出してるわけだが、審判はそういうのをマナー違反として取り締まっとるわけやな。

1年前 No.388

★HCueDDd5Sk_aZs

>>384  馬場さんへ

>時さんは、こんなX氏と議論したいと思いますか?


議論したいとは思いません。と言いますか、議論(話し合い)になりません。議論にならない相手と議論をしようとするから、議論にならないのは、必然ですね。ですので私は、議論(話し合い)をしたいと思えるお相手としか議論しませんし、出来ません。

>  「相手が誹謗・中傷しているだけだと判断した場合にはスルーする」というのが時さんのご指導でしたよね。こちらがスルーすると、恐らくX氏は罵詈雑言を並べ立て、「おまえは間違いだ!!」「反論できないから黙り込んだのだろう!?」「オレの勝ちが確定した!!」という主張を延々と続けると予想しますが、とにかくスルーして相手にしないのが賢明ということでしょうね。


話せば長くなりますので、短く書いてみたいと思いますが、これは、2500年前の仏陀の教えにもある事なのですね。そう言った意味では、いつの時代にも通じる事のように思います。

・私(仏陀)により説かれた法に関して、それを知らず、見向きもしないで愚痴ばかり言う者がいますが、はたして私(仏陀)は、その愚かで無知で無見な凡夫に対して、これ以上何をすればよいでしょうか?

と言った内容なのですが「法を説く以外、見向きもしないものにはこれ以上なにもできないでしょ。」と言う意味です。要は、究極まで極めれれば、人が何を言おうと揶揄されようと問題にならないのですね。なぜならば、究極までそれを知識でではなく体現しているからです。質問する者がいた場合に、答えるべき内容を答えるべき時に答えるだけなのです。ですので、議論にならないのです。勿論、論争にもなり得ません。

ちなみに「怒り」には3種類ほどあります。「大きな怒り」「小さな怒り」「潜在している怒り」です。問題は、最後の「潜在している怒り」です。これは、通常は本人も気が付かず、無意識下に潜在しています。これがあると、何かのきっかけに無意識に反応してしまうという事なのですね。この無意識下での怒りをも滅尽するのも仏道です。そしてそれは可能なのですね。そしてこれは・・結果として言うのであれば「スルー」と言う行為になると言う意味なのですよ。

> 恐らくX氏は罵詈雑言を並べ立て、「おまえは間違いだ!!」「反論できないから黙り込んだのだろう!?」「オレの勝ちが確定した!!」という主張を延々と続けると予想しますが、とにかくスルーして相手にしないのが賢明ということでしょうね。


・怒った人に対して怒りを返す人は、それにより悪をなす事になります。怒った人に対して怒らないならば、勝ちがたい戦にも勝つ事になるのです。他人が怒ったのを知り、心に気をつけて他人が怒っているのを知っても、自ら気を落ちつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人との両者の為になる事を実行しているのです。真理に通達していない人々は、自分と他人と両者の治療を行っている人の事を「彼は愚人だ」と考えます。

と言う内容のものもあります。煽られてそれに反応しない場合に、その煽った人は反応しない人を「愚か者」だと考えるでしょうが・・別に良いのではないでしょうか。馬場さんが、持論で究極まで行き着いていればですが。

インド聖者の言葉で言うのであれば、全ては幻想です。そして、私は、マナー自体もエゴ(自己中心的思考)の産物だと書いたと思います。そして、仏教では、心の奥に潜在する「怒り」をも滅尽します。SB量子神学でも、M1.M2.M3.・・と各心の状態を設定し、それを見つめている(コレクション)のが神(M0)視点ですね。ですので、可能であれば、神の処(神視点)に留まれば良いと思いますよ。それこそトートロジーです。問題ないはずですが。

もしもそれを分かっておられて、わざわざM1の視点で議論されるのであれば、100%問題は発生します。対処方法は、≒M0の視点に戻る事です。トートロジーですね。そしてもしもその視点に戻れず、M1視点のままであれば、その世界観・価値観等の違いにより、X氏(例えば、M3)との関係での争い事はなくなりません。(今、実際そうなっているでしょ?)なぜならば、X氏はX氏の世界で生きているのですから。その世界観で物事を判断して当然ですね。(無矛盾です)ですので、馬場さんの世界観での常識やマナーとX氏の世界観での常識やマナーは、どちらが「正しい」ではなくて、違うのだと考えた方が良いと思いますよ。なぜならば、どちらもその世界観で「正しい」のですから。少なくとも、同じ世界観だとは考えない事です。同じだと考えてしまうから問題が発生します。つまりは、M1とM3の世界観の違いでの論争ですね。

馬場さんは馬場さんなりにSB量子神学を考案されて、それに自信があるのであれば、それでOKではないでしょうか。

ちなみにですが、仏典にも「存在」についての定義らしきものも書かれていますが、今、ここでそれを書く意味がありません。(なぜならば、私が納得しているからです。つまり、議論にならないという事です)

1年前 No.389

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>389  時さんへ

 ご返事有難うございました。ご指導に従い、議論が成立しそうにない相手はスルーすることにします。SumioBabaは、相手の挑発に対してカーッと頭に血が上り、売り言葉に買い言葉でケンカになってしまう、ということは決して無いと思います。ただ、相手に誤解されたままこちらからの返答を断ってしまうのが、とても心苦しいのです。できればきちんと説明して、相手に理解して貰いたい、でも相手がマナーを満たしていない場合には逆効果に終わるかもしれない、…ここで葛藤するのですね。優鬼さん・審判さんは、マナーさえ満たして下されば、大変良い議論相手になれたかもしれないのに、とても残念です。

 その代わり、時さんに、 >>386 の解説をさせて下さい。

>馬場さんは「ネッシーの存在の謎を解き明かすため」の思考をされたのだと思いますよ。その結果、アポリアも消滅したという事だと思います。( >>378  時さんの発言)

>スミオババ信者に間違いを指摘するのはあれだが、時よ、おまえの解釈まちがってるぞ。( >>380  優鬼さんの発言)

>スミオババは、難問の解消を目的に、スミオババ理論を構築した。それはスミオババ理論の構造を見ればわかるし、スミオババ自身も明言している。よく読んでみ。( >>380  優鬼さんの発言)

> いいえ、正しいのは時さんの理解の方です。審判さんが曲解しているだけです。SumioBaba本人が言うのだから間違いありません。( >>386  SumioBabaの発言)


● えぴめてうすさんは、「ネッシーは「いる」のか「いない」のか?」という《易しい問題》と、それがどちらかに判明した場合、「なぜ他方ではなく、こちらなのか?」という《難しい問題》の区別ができておられません。そして、ダブル・トートロジーで《難しい問題》を解消するSumioBabaの方法を「思考停止」と呼び、自分はオーソドックスな科学の方法で《難しい問題》の方も解決するのだ、と主張されました。

● SumioBabaは、オーソドックスな科学の方法で解明できるのは《易しい問題》の方だけであり、《難しい問題》の方がなぜ解けないアポリアなのかをきちんと解説しました。その上で、《難しい問題》を解消する唯一の方法がダブル・トートロジーだと説明しました。

● 時さんはSumioBabaの説明を完璧に理解して下さり、「SumioBabaは思考停止しているのではなく、逆にこの問題を最初から最後まで考え尽くした上で、アポリアを解消する方法まで到達したのだと思う」と支持して下さいました。まさにこれが正解です。

● 審判さんは、「スミオババは、難問の解消を目的に、スミオババ理論を構築した。」と主張されており、これ自体は正しいのであって、何も間違っていません。ただ、時さんとは論点が全く異なっているのです。そして、時さんの真意を誤解したまま、あるいは正しく理解していながら曲解した上で、「時よ、おまえの解釈まちがってるぞ。」と不適切な指摘をされました。

 以上です。

1年前 No.390

★742f6jFb6i_aZs

>>330  馬場さんへ

馬場さんが表現されていることは良く分かるつもりでいます。

> 相手に理解して貰いたい


その上で強いて言うのであれば、これが欲望(渇愛 かつあい)と表現される、煩悩の事なのですね。まぁ、相手の誤解も理解だという事で。その誤解は、解ける相手にしか解けませんから。トートロジーですね(笑)

> ● えぴめてうすさんは、「ネッシーは「いる」のか「いない」のか?」という《易しい問題》と、それがどちらかに判明した場合、「なぜ他方ではなく、こちらなのか?」という《難しい問題》の区別ができておられません。そして、ダブル・トートロジーで《難しい問題》を解消するSumioBabaの方法を「思考停止」と呼び、自分はオーソドックスな科学の方法で《難しい問題》の方も解決するのだ、と主張されました。


> ● SumioBabaは、オーソドックスな科学の方法で解明できるのは《易しい問題》の方だけであり、《難しい問題》の方がなぜ解けないアポリアなのかをきちんと解説しました。その上で、《難しい問題》を解消する唯一の方法がダブル・トートロジーだと説明しました。


> ● 時さんはSumioBabaの説明を完璧に理解して下さり、「SumioBabaは思考停止しているのではなく、逆にこの問題を最初から最後まで考え尽くした上で、アポリアを解消する方法まで到達したのだと思う」と支持して下さいました。まさにこれが正解です。


> ● 審判さんは、「スミオババは、難問の解消を目的に、スミオババ理論を構築した。」と主張されており、これ自体は正しいのであって、何も間違っていません。ただ、時さんとは論点が全く異なっているのです。そして、時さんの真意を誤解したまま、あるいは正しく理解していながら曲解した上で、「時よ、おまえの解釈まちがってるぞ。」と不適切な指摘をされました。


上記のご解説、全て了解しました。何も問題ありませんね。以上です。

1年前 No.391

★CW3cIhmhdT_aZs

失礼しました。引用間違いです。

>>330  馬場さんへ



>>390  馬場さんへ

1年前 No.392

審判 ★6dZGOa39wl_Ew9

>>389

>SB量子神学でも、M1.M2.M3.・・と各心の状態を設定し、それを見つめている(コレクション)のが神(M0)視点ですね。ですので、可能であれば、神の処(神視点)に留まれば良いと思いますよ。それこそトートロジーです。問題ないはずですが。


ほら見ろ。審判と同じこと言ってるだろ。本当にスミオババ理論を信じてるなら、嘘やミスリードを使ってまで論争の勝利にこだわる意味が無くなるはずだ、ってことにもなるよね。
選手スミオババは正々堂々と議論するように。

>>390
>審判さんは、マナーさえ満たして下されば、大変良い議論相手になれたかもしれないのに、とても残念です。


審判は議論相手(選手)じゃない。公正中立にジャッジを下すのが審判の役割だ。


:審判雑感:
ドラゴンボールに出てくるフリーザっているだろ?
あいつって丁寧語つかうし相手をさん付けで呼ぶけど、すげえ悪者なんだぜ!
スミオババは知らないだろうから教えといてやるよ

1年前 No.393

★zCUszzjM68_aZs

>>390  馬場さんへ

> 議論が成立しそうにない相手はスルーすることにします。


このスルーと言う行為は、一見、無視し、また無視されているようで良くないイメージがありますが、実はそうではありません。議論やお話合いにならない場合に両者間の次のトラブル防止のためには良い手段だと思います。

つまりは、スルーは両者の為(トラブル防止)になっているという事ですね。(前出仏典の、自分と他人と両者の治療を行っている人の事です)

ですので、マナーが悪い人、即スルーと言う意味ではありません。(マナーが悪く)議論(お話合い)が進まないようであれば、スルーが望ましいと思うという事ですね。ネット上でコメントがすぐに流れる動画サイト、落ち着いてお話しが出来るであろうサイト、個人のSNSに書き込む場合等々、その場のTPOに適した表現等があると思いますので。いつもいつも丁寧語でとはいかないでしょう(笑)

問題は、本人がこれが出来る精神状態になれるかなれないかです。ここでもしも相手に「〜してほしい」と言った欲が在れば、これが苦しみ(心の葛藤等)を生み出します。と同時に、議論相手もそれに反発します。なぜならばその議論相手も「〜してほしい」と思っている欲があるからです(その欲が満たされない場合に噴き出るのが、無意識下で潜在していた怒りです)。結果として、これでは両者の為にならないという事ですね。

これは、お互いの世界観における「正しさ」の押し付け合いの構図です。これをエゴ(自己中心的思考)の産物と表現しています。ですので聖者は言うのです、「エゴを消滅なさい」と。でも、きっとこれは、簡単ではありませんよ。(笑)長々と失礼しました。

1年前 No.394

宿題 ★bUKyk3gX2r_xmq

親の心子知らず

神の心は親心より解らないと思います・・

自分より器の小さいスケールでないと理解できないと思います。

解るとは定義できる言葉よりスケールが大きい(思考)能力を持っていることではありませんか?

1年前 No.395

下手人 ★VwVFA5jPfC_EP8

量子コンピュータで言う所の量子ビットの世界ですかね。
コヒーレントな状態において重ね合わせが起きている状態。
一応現実でもあり得るみたいですね。
tocana/2016/01/post_8476.html

1年前 No.396

優鬼 ★A1xnfKFaK3_0Un

僕はおままごとに付き合うつもりはない。議論に審判はいないし、人は神にはなれない。

1年前 No.397

★Android=tS41nh4Ux5

わざわざスルーする、などとスルーしたい相手が見える
公の場で書き込む時点でスルーや煩悩は捨てきれていないと言うことさ

1年前 No.398

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>391  時さんへ

>> 相手に理解して貰いたい


>その上で強いて言うのであれば、これが欲望(渇愛 かつあい)と表現される、煩悩の事なのですね。まぁ、相手の誤解も理解だという事で。その誤解は、解ける相手にしか解けませんから。トートロジーですね(笑)


 「相手に理解して貰いたい」というのが「煩悩」であることは十分承知しています。SumioBabaは煩悩を捨てたいのではなく、煩悩を楽しんでいるのです。だから、「相手に理解して貰いたい」という煩悩が満たされれば「快」(正)、満たされなければ「不快」(反)ですが、同時に「快」(合)=「快」(正)+「不快」(反)でもあるのです。
 ここに書き込んでいるときは、SumioBabaという1人の「人間視点」が50%、「神視点」も50%くらいの重ね合わせの視点に立っています。「人間視点」の方では、「快」(正)は得たいけれど、「不快」(反)は得たくない、です。「神視点」では、「快」(正)も「不快」(反)も体験してみたい、です。
 時さんは、煩悩を完全に無くして、人生が楽しいですか? SumioBabaは、「人間視点」と「神視点」とに半々で立っている時が一番楽しいです。

1年前 No.399

★GgadY7jxCU_aZs

>>399  馬場さんへ

> 時さんは、煩悩を完全に無くして、人生が楽しいですか?


煩悩での世界での欲を五妙欲と表現しますが、この五妙欲の世界での楽欲よりも楽な世界がその先にある事を知っています。ですので、煩悩がなくなれば、その世界での楽があるという事です。私は、そちらの楽の方を選びます。

そろそろ潮時のようです。

1年前 No.400


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