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存在を問う

 ( 哲学掲示板 )
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★Gc8HjmXH4j_BiB

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる

4年前 No.0
メモ2019/11/06 20:40 : 優鬼★uJcaHEY0RF_g5X

・「真であるか、または偽である」を「真かもしれないし、偽かもしれない」と、可能性があるように表現するミスリード

・真理値を0か1のどちらでもよいとすることで、命題を肯定系でも否定形でも表現できる作為性

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百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

>>200

身体で感じる感覚は脳の中で科学的反応では・・?

少し言い方を変えると科学的でない形而上学的な何かが脳みその中にあると思いませんか?

2年前 No.201

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_Nu2

>>201

身体で感じる感覚と脳の中の科学的反応には、埋めがたいギャップがあります。

科学的でない何かは、脳みその中にあるのではなく、
ぼくらの日々の暮らしの営まれるこの世界の肌理(texture)そのものだと思います。

必ずしも、何もかも科学的反応に還元できるとは限りません。

…という意見です。

2年前 No.202

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

>>202

科学で無いものとは、科学で説明のつかないものと言う意味ですか?

2年前 No.203

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_Nu2

>>203

はい。そのつもりです。

2年前 No.204

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

>>204

哲学は論理学や科学を基礎としていますがその限界を知りそれを超越しなければならないと思います。

2年前 No.205

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

存在は様々な様態があります。

現実存在・妥当存在・実体・特性・量・質・資料・形相・生・意識などの特徴があります。

存在は至る所で同一の意味を持ってはいません・・



存在と無の同一性としても超存在もあれば非存在もあります。

2年前 No.206

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

なぜあるのか?何故に存在するか? の答えは「私が生きているから在る」という答えができる。

なぜなら、私が死んだらすべての存在が確認できない以上、無になると思うからです。

2年前 No.207

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_jWF

>>207

確認できない存在は、無なのですか?

確認した存在/確認していない存在/無

と三つに分類されるだけでは?

2年前 No.208

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

>208
確認できない存在は、無かどうかは不明です。五分五分というわけですね?しかしながら、事実として

私の死後は私の知覚が消滅することは言えます。つまり、すべての存在が無くなるわけです。どう思うか

その人の自由ではありますが・・・・

2年前 No.209

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_jWF

なるほど。ありがとうございます。

2年前 No.210

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

存在を問うかぎり、
その問う者である現存在は、
ある仕方で自ら、存在を脱け出ていなければならない。

というのも、問う者もまた存在であり、
問われる者もまた存在であれば、
問う者と問われる者は一致し、問いを為さないからである。

その意味で存在を問う者である現存在は、
すでにして脱‐存(ex-sistence)している。

2年前 No.211

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

>211


>問う者もまた存在であり


問う者は存在者。
よってその理由づけは無効です。

存在を脱け出るって何?
意味が分かってて言ってるのですか?

2年前 No.212

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

>>211

・問う者 → 問うこと
・問われる者 → 問われること  に訂正してみる。

>問うことと問われることは一致し、問いを為さないからである。

否、問うことのうちに問われることが未規定的なまま含まれれば、
問うことと問われることが一致しても問いを為すのではないか。

……。

2年前 No.213

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

>>213

それは無駄なあがきというものです。

違うアプローチがある。『存在と時間』冒頭とか『形而上学とは何か?』とか読んでると分かるはずだけど。

存在を脱け出るって何ですか?

2年前 No.214

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

『存在と時間』によれば、
実存は自己に先立って存在していることとして規定される。

実存。existence。ex-sistence。脱‐存。

また、現存在はそのつど、自身の存在を問題とする。

それはひとえに自己に先立っているという実存の様式にもとづいており、
それゆえに現存在は自らの存在と関わりを持つことができる。

存在を脱け出る、というよりは、
自己を脱け出るがゆえに、存在を問える……。

2年前 No.215

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

>>215

「存在を脱け出る」ではないですよね。

私は

>自己に先立って

すなわちSich-vorwegについてはまだ理解できてないので、その先のことは分かりません。

自己を脱け出るっていうのも、いまだ□み込めません。(時間性の話でしょう?



ちなみに、「存在とは何か」と問うとしたら、その存在が理解可能になるための地平が要請されるのだが、それが「存在の意味」と呼ばれるもの。この存在の意味が、いわば、脱け出る先の場所だと、私は思いますけどね。だから『存在と時間』冒頭と言いました。

この存在の意味が時間性で、時間性は脱自(Ekstase)として捉えられる。

2年前 No.216

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

自己存在と超克する自己反省は循環します。空虚になることもあるこの循環で現存在は飛躍することが出来ます。

自己存在は存在するだけでは、やがて無に還るのみである・・

存在の二重性の統一によって超越者に直面することによって突破できる存在です。

1人では何もできない存在。身を委ねてしまう存在と言う二重性を克服するには超越者に直面して飛躍すると言う・・みんなが眩暈の底に落ちるのを救える方法・・

2年前 No.217

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_v2j

存在は中性的ではない。
中性的なのはただひとり子どものみである。
それゆえ主体はまだ子どもである。

主体性へと移行しなければならない。
すなわち父性あるいは母性へと移行しなければならない。
つまりは他者との絆を結ばなければならない。

他者との絆とはすなわち子を産み育てることである。
家庭を持つということである。

主体性の芽生えとは
母性に父性を注ぎ込まれることであり、すなわち子を孕むことである。
赦しに責めを注ぎ込まれることこそが主体性の芽生えなのである。
子を孕むことによって母となり父となる。

2年前 No.218

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_v2j

>>218 はすべて、具体的なことであると同時に、アナロジーである。

2年前 No.219

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

娘・・オンナの良いと言う漢字

嫁・・オンナが家を構えている

姑・・オンナの古くなったと言う

息子・・下心がある子供

婿・・身体が女によって定まる

舅・・オトコを留めていられる

2年前 No.220

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_7zY

存在は退いて場所を明け渡す。
その退く動性を時間と呼びうるのでは。

しかしなぜ、存在は表象という名の痕跡を残し、身を引くのだろうか。
なぜ追跡できるように、わざわざ痕跡を残すのだろうか。

追い求める動きは、存在の明け渡した場所を占め、
そこに立ち現われるものが主体と呼ばれる。

現在とは贈物である。
贈物は存在を表象で包み意味へと変容することによって、
存在の一回性を反復可能性へと仕立て上げる。
過去や未来は現在という贈物の届け先であり、
それゆえに過去は記憶と呼ばれ、未来は予定と呼ばれる。
記憶はたえず、言語化できる一般的なものとして、予定でもありうる。
逆もまた然り。

この過去現在未来で語られるものは歴史である。
しかし歴史は根本的に、主体のアイデンティティを保証するための物語である。
一般に時間は過去現在未来の直線的系列で語られるが、その系列は作話と同じ構造である。
もちろん物語は単一的な流れとは限らないが、それはそのまま私たちの思考にも当てはまる。
あたかも記憶の順序を入れ替えうるように。

ここでは時間は、
存在の退去する動性としてか、あるいは歴史として出現するかのようである。
しかしこれらは相異なる区別ではない。
歴史は存在の退きから派生するものである。

しかしなぜ、存在は退くのだろうか。

椅子の認識はたしかに椅子の存在を前提としているかもしれないが、
それはあくまでも作話のうちの論理的操作である。
椅子を認識するとき、存在は退き「椅子」として現れる。
椅子は他の調度品との関係性から捉えられるのかもしれないが、
関係性とはそもそも差異があるから成り立つのであり、
差異はすでにして否定性を要求する。
仮に存在が退くことがなかったら、
一切はただあるのみであり、なんの運動もありえないだろう。

なぜ存在は退くのか。
なぜ存在は手がかりのある謎を残すのか。
この問いの答えは語りうるのだろうか。

2年前 No.221

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

存在はなぜさし迫りつつ退くのか。

この解きほぐしえないかのような両義性。

獲物が足跡を残して茂みから覗いているみたいに、
存在は痕跡を残して気配を漂わせている。

知ることなく知られる一方で、知られることなく知る。

そこに媒介は存するのだろうか。

…超越はなお課題となるのか。

2年前 No.222

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

私は存在を見ている。しかし存在もまた私を見ている。

むむむ…。

2年前 No.223

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

「私とは何か」や「私とは誰か」よりも、
「今ここはどこか」と問うて。

2年前 No.224

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

あらゆるコンテクストの原形態は、
痕跡を頼りに気配を嗅ぎ分けてゆくこと…。

2年前 No.225

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

「わたし」が「あなた」を見ているの…?
「あなた」が「わたし」を見ているの…?

2年前 No.226

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

道徳の根源。

「いらっしゃい!」
「おじゃましまーす」

2年前 No.227

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

おじゃましました…。

2年前 No.228

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

存在とは時間じゃないの? では時間って一体何なのですか? 時間とは存在のことだと思う。

観念論では「無い」も含まれるが、存在も時間も「在る」「有る」から出発するのでは?

2年前 No.229

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

>>229

…。

…なるほど、です。

学ばさせていただきました。

ありがとうございます。

2年前 No.230

気まぐれな風 ★Android=dRpQclOCQi

私は存在を見ている。
しかし存在もまた私を見ている。


霊は魂を使用し

魂は肉体を使用し

 見ている。

肉眼で見ているのは
 彼の肉体ですよ。

さらに、
観る者は、観る者自身を観れない。
観る、機能の、始点だからね。


時間とは存在のことだと思う。

 時の間
 間を指している。

 時、という
 プロットを指している訳ではない。

a  b
a b

スペースは、どうなの?
長いの?
短いの?
速いの?
遅いの?

 間には何かが在る

ゆえに存在という解答は
50点(笑)


 更に
 プロットを定める者
 その存在が不可欠。

定める者が存在しなければ
プロットは、無い。
従って時間も無い。

2年前 No.231

気まぐれな風 ★Android=dRpQclOCQi

だから赤子は時間など気にしない(笑)

 そもそも時間など

 関係ないのだ。

時間を気にしてるのは両親だ(笑)

2年前 No.232

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

父なる有…

うぅぅぅ……(´;ω;`)

でもきっと、それでいいんじゃコラァ!(#^ω^)

(-人-)

2年前 No.233

気まぐれな風 ★Android=dRpQclOCQi


時の間が同じ長さでも

 周波数が細ければ道のりは長くなる。

コレが
  時計で同じ一時間でも

 長かったり短かったりする理由。


 だら□んとした時間は
 道のりが短い

キリキリした時間は
 道のりが長い


 正弦波

  それが時間の正体

この正弦波の波数は、精神(思考クロック)

 CPUスピード

 それが正体なんだよ。


 観察者がいなければ
 時間は存在しない。

時間という言語も存在しない。

 時間という言語がある

  ということは

  観察者が既に存在する、ということ。


観察者の存在が先にあり

 後に時間という言語が作られた。


時間が先に在った訳じゃない。


 今、と、過去(記憶、記録)

 今、と、未来(予想点)

過去、と、未来

 この二点があって初めて『時間』という
 言語が意味を為す。


このプロットを打つには

 観察者、が、絶対的に必要なのです。


でも!!!
昔から今まで、そしてこれからも!
時間は流れてるじゃないか!!!


 と、思考する者が、先ず在るのです。


思考物が先にあるわけじゃない(笑)


 言語が先にあって
 その後人類が生まれた
 と、考えるのは
 おバカさんだ(笑)


嫌な、ながーい時間は、

 実際に道のりが長い(笑)

 時計の刻みと道のり(距離)は

ある一定の関連性はあるが、

 ホントは波数が重要なのです。

 この波数は不可視ゆえに見れないのです。

だから、

 なんでだろう。。。
 と、疑問が浮かぶ。

理由を知ればなんでもないこと。

 これはtrue

いや、false

 やっぱtrue

いやいや、やっぱfalse

 この繰り返し。


悟への道は

 タンジェント波だね。

2年前 No.234

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

波に揺られてふーらふら…

でも苦しいとぎゅっとなる…

……はぁぁ(´・ω・`)

2年前 No.235

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

ぼくはいま、ファルスです…

Wow!

2年前 No.236

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

カタルシスと父性……

不正……

伏せ!

2年前 No.237

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

父はいるだけで、ぼくに教えてくれます。

だから父は有なのかな。

母はいつも身を引いて、ときに急かしてくれます。

だから母は時なのかな。

2年前 No.238

気まぐれな風 ★Android=dRpQclOCQi


 父は父

 母は母

  (笑)

文脈から見ると

 父と母を対比させている様に思われる。

 父が有であれば
 母が時

は、対比性がないでしょ。


あえて言うなら

 父は放出で
 母は受容

  とかね。

父は照らす太陽で
母は照らされる地球

 とかね。


言語は、

 他人に解りやすく、

 つまり自分に解りやすく

 使用しましょうね。


自分が紡いだ言語で

 自分が混乱してる人ばかり(笑)

 ワケワカメ(笑)

 そんな文章を読んだ他人は

更に更にワケワカメ。

 もう、
 ワケワカメパーティー(笑)




俺、ワカメだけどお前はコンブだ!

いいや、お前こそシシャモ!
このシャモ男め!

ところでさ、、、ある意味、

ワカメって観念?

コンブは存在かもしれないね。

つまり時間は統一場がシャモだ。

  おぉ、なるほど!!!(一同)



(笑)(笑)(笑)

2年前 No.239

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

>>239

もう、最後のほう…ワケワカメですよ……

人にわかるように話してくださいよ………

どこかの誰かみたいにならないで……(笑)

2年前 No.240

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

( ゚д゚)ハッ!

これも教えっ!

ははーっ<(_ _)>

……失礼しました。

ほんと、添削してくださったり、ありがとうございます<(_ _)>

2年前 No.241

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

あ、そういうことか!

「ワカッ」……( ..)φメモメモ……

って、できてねぇ…・・・(;・∀・)

2年前 No.242

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

さしあたりぼくは悟空……

気まぐれな風に吹かれて、

気づけばずーっと、手のひらの上……

2年前 No.243

気まぐれな風 ★Android=dRpQclOCQi


 いや、気付くだけ大したモノ(笑)


!!!!


 殆どが気付けない(笑)


すめっちは、

 色々な哲学書や理論書

 読んで楽しくて

なーんとなく理解したけど

 何か釈然としない。

  ホントの事って、なんだろう。

ソレを言い当ててる文章を

 今まで読んだことない。


『時間』を解説するのに
どっかの権威の博士が一冊の厚い本で解説してましたけど。
僕は殆ど理解出来なかった。
時間って、
そんなに難しいモノなのかな。


  時間は時の間だよ。


この短文で解決しちゃうんだよ。


 理解とは理で解す。


塊を分解する行為だ。

 どんどん、単純に簡潔になっていく。


 どんどん文量が増すのは
 理解ではなく
 知識のラッピング

理解とは正反対のベクトルなんだよ。


 この世界の様相を

色即是空、空即是色

 と、現したその凄さ。

 殆どの人は気付かない。

2年前 No.244

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

脱自。

思想において自己を表しながらも、
その外に出てその思想に態度を取ることができる。

その思想が宇宙であるならば、
”その”宇宙を越え出て、
たえず修正されつつ、実際に生きることができる。

しかし脱け出たままでは忘れられる。
外に脱け出つつ関わらねばならない。
それが問うということである。

自らを表した思想を問いただす。

この次元において、
ぼくは自分の思想の外に出つつ関わることができる。

2年前 No.245

気まぐれな風 ★Android=MQFVEeylOi

脱自。

 自我からの離脱
 という意味だね。

思想において自己を表しながらも、

 思想、とは?
 思、、、ロジックの心
     思考だね。
 想、、、相に心
     客体に心の焦点を合わせる。

相、を、思する、ということ。


 思想において自己を表す
 は、意味が通りませんよ。


その外に出てその思想に態度を取ることができる。

 自我から脱し、
 自我を観察する真我

ならば意味が通る。
 『観照者』といいますよ。



その思想が宇宙であるならば、

 宇宙、とは?
 閉ざされた内側の空間
 という意味ですか?

主体は客体に囲まれているね。


”その”宇宙を越え出て、
たえず修正されつつ、実際に生きることができる。

 自我からの脱却のことかな?
 生きる、は、自我の機能ですよ。


しかし脱け出たままでは忘れられる。

 いいのでは?
 忘れられても。

外に脱け出つつ関わらねばならない。

 別に関わらなくても
 構わないのでは?

それが問うということである。

 問う、は、
 自我の門、から、口が出ているね。


自らを表した思想を問いただす。

 自らに在る『齟齬』『矛盾』に
 気が付き、悔い、改める
 ですよ。


この次元において、
ぼくは自分の思想の外に出つつ関わることができる。

 ソレは僕が君に
 理解への螺旋階段を創っているから。
 しかし、最終的には、
 自身で行かなくてはならない。
 君が求める答えは、
 僕の置いた言語には、ない。
 僕の言語は階段の踏み台だ。

僕が、気が向かなければ、

 わざわざ、
 階段など創らない(笑)

僕の立ち位置は、

 僕は既にソコに居る、のだから

 誰に解説する必要もない。

 他者に、言う必要など、ない。

僕が自分独りで
楽してればいいだけ(笑)

2年前 No.246

気まぐれな風 ★Android=MQFVEeylOi


 ただ、ね。

毒キノコを食べて

 腹痛。

 何度も何度も何度も。

 迷い、苦しみ、悩み、

君なら、どうする???

 僕はお腹痛くない。

 君なら、どうする???

2年前 No.247

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

現実問題、
ぼくには卒論を書かねばならないという予定があるので、
お腹痛いです。

2年前 No.248

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ご参加の皆さん

 まだこのスレの投稿内容を飛ばし飛ばししか読んでません、新参者です。
 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」が前から気になっているものですから、投稿してみました。

 >133 で述べられているように、「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めた上で、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」と問われているということを考えると、やはり疑似問題ではないかという気がしています。

 ウィキペデアでは、「擬似問題とは、問いを立てる際の暗黙の仮定や前提が誤っていたり、検証できないものに依拠していたりするため答えがそもそも存在しない問いのこと」とされています。

 このことから、そもそも「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めたところで、疑似問題にしてしまっているのではないかと思います。この前提は、必ずしも保障されているとはいいがたいのではないでしょうか。

 では、この前提をなくして、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」を考えると、現実の世界は「無」ではないですし、人間は「無」を経験できない状況にあります。そもそも「無ではなく」という選択肢があるのかさえ疑わしいと思われます。

 人間の認識として、「有」と「無」はなんとなくそれぞれイメージを持っていると思いますが、「有」の世界に住んでいて「無」を知っているようでも、まったくの「無」はわかっていないと考えざるを得ないと思います。むしろ、「無」という選択肢はないのかもしれません。

 しかし、「なぜ何かがあるのか」と単体で問うことは残されているかもしれません。ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』のなかで言っている「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」(6・44)
 このことについては、「十分な理由を示すことが必ずできる」という原理(前提)をとりはらったことで、答えがあるかもしれないし、ないかもしれないということになります。

 ヴィトゲンシュタインはさらに次のようにも言っています。
 「私はハイデガーが存在と不安について考えていることを、十分に考えることができる。人間には言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、何かが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない、われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ。」□□シュリック家での談話、ハイデガーについて (1929年末)、木田元 訳

 私には、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を問うことについて、このヴィトゲンシュタインの言葉が一番しっくりきています。

2年前 No.249

哲夫 ★iPhone=G7SOWkzjp6

私は他の哲学者の本など読むのが嫌い(始終、反論ばかり考えてしまってイライラするし、長文を読むだけの忍耐力がないから)で、専門用語はわかりませんので、少し見当違いになってしまうかもしれませんが、この議題について授業で触れたので、議論させていただきます。

私も同様に世界が存在しないという選択肢は想像できず存在しないと思います。しかし、存在しないという選択肢が無いのなら、世界は無限に過去から存在し、これからもずっと存在し続けることになります。私は過去にも無限に続いているということもまた想像できません。この世界に始まりはないということですよね。そう考えたら、世界に何もない事の方が自然に思えてきました。思考する意識も存在しないということになりますが。それならば、世界(私の意識の上だけかもしれないが)はどうして存在しているのでしょう?結局、質問に戻ってしまいました。

2年前 No.250

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>249

はじめまして、すめんと申します。

>このことから、そもそも「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めたところで、疑似問題にしてしまっているのではないかと思います。この前提は、必ずしも保障されているとはいいがたいのではないでしょうか。

このようにおっしゃられるのはなぜなのでしょうか……?

2年前 No.251

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

ぼくは「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いについて、
そこで着目すべきは、それを問う人のあり方ではないかと思います。

それを問うとき、人はどんな状態にいるでしょうか。

少なくとも、目の前の諸課題をこなすのに必死な人は、
このような問いを「ばかばかしい」と一蹴してしまうでしょう。

「何を考えているんだ、そんなこと考えなくても生きていけるじゃないか。
 きみは生きるのに必死でない暇人だね」

そんな風にあざ笑われる声が、ぼくには聞こえてきます。

しかしもちろん、これを問う人とて、
生きるのを諦めているのかというと、そうではありません。

むしろ生に固執すればするほど、
この問いはさし迫ってくるのではないか、と思います。

というのも、この問いの発端はつねに、
私が安らいでいる世界の外側に何かが息をひそめていて、
それが襲ってくるかもしれないという不安にあるからです。

「え、何かいる!?」という場面を想像してみてください。

あなたには、その「何か」が何なのか、追跡する手がかりが欠けています。
それなのに、間違いなくその「何か」はすぐ傍にいます。
何もないのではなく、「何か」がいるのです。

もしかしたらそれは、不意にあなたを襲ってきて、
喉元を噛み千切ってゆくかもしれません。

そうなるかどうかはまったくわかりません。

すべてが可能性のままです。
現実に訪れることは、少なくともまだ今のところありません。
しかしそれは次の瞬間には襲ってくるかもしれません。

それは誰にもわかりません。

だからまず、この問いを問うには、
このただ事ではない事態に身を置く必要があります。

ところがなお、こんな尋常じゃない状況で、
「”なぜ”何もないのではなく、何かがあるのか」と問う可能性が、
人には残されています。

残されているといっても、
「いつ死んでも構わない」くらいの覚悟がないかぎり、
この問いを問うことはできないでしょう。

だって、それを問うくらいなら、
とりあえず何でもいいから推測を立てて、
現実的な対処を考える方がマシだからです。

だから人は大抵、
その「何か」に対して、憶測を立てて、
それに対する対応策を練ることで、
自分の安心できるスペースを確保しようとします。

だから、目の前のこなすべき課題に必死な人は、
こんな風に、何の現実的な対処もせずに、
訳の分からないものとそのまま向き合っている人を馬鹿にします。

「あの人は暇人だ」と言うことでしょう。

しかし、それを問うこちらとしては、
決して暇なわけではなく、ある種、
「いつ襲われても構わない」という覚悟を決めて、
ものすごく真剣に向き合っているわけです。

では、この向き合っている人は、
心のなかはもう、不安で満たされていて、
何も考えることができていないのでしょうか。

ぼくはそのようには思いません。

もちろんそこには不安があります。
けれど、「なぜ?」と問うことで、不安でありながらも、
まだそれが襲ってくるまでの時間がその人には残されています。

というのも、本当にもう時間がなかったら、
「なぜ?」と問うことすらできないからです。

あるいはこう言ってもいいのかもしれません。

「なぜ?」と問うことで時間が捻り出される。

つまり問うことにおいて、
正気の沙汰でいられない中でも正気を保つことができるのです。

だから
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いを問うことは、
狂気のなかの正気なのです。

この問いと向き合い、
途中で耐えきれずに、答えと思しきものに飛びついてしまった人が、
その答えを世界の根源と思い込んで誇大妄想に陥り、
精神病院に連れて行かれてしまいます。

だからこの問いを本気で問うべきときが訪れたら、
必ず胆に銘じておかなければならないことがあります。

それは「答えることなく、問いつづけよ」ということです。

暗闇の道を、母恋しさに振り返ったら、悪魔に連れていかれてしまいます。
だから怖くても不安でも、絶対に振り返ってはなりません。
ずっと前に進み続けなければなりません。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」

この問いは、このような未曾有の問いだと、ぼくは思います。

変な長文かもしれないです。失礼しました(-_-;)

2年前 No.252

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

哲夫さん

>存在しないという選択肢が無いのなら、世界は無限に過去から存在し、これからもずっと存在し続けることになります。


 少々私が書いた249の補足です。ここで、私は「なぜ無ではなく、何かがあるのか」を考えるとき、人間は「無」を経験できない、そもそも「無」とはどんなことかわからないので、無を当然視する「なぜ無ではなく」という前提に無理があるのではと思っています。「無」があるかないかというより、「無」そのものがわからないのではというニュアンスです。
 宇宙論では、ビッグバンによって、宇宙が生じたとされていたり、マルチバースといういくつもの宇宙が存在するという理論があったりという話を考慮に入れる(専門的には私も全く分かっていませんが。)と、無であったことがあるのかどうか、ほんとうに何もないとはどういうことか、かなり難しい問題と思っています。
 また、物質が存在しない真空でもエネルギーが存在するという言い方もされています。「過去からずっと」という時間軸も、ビッグバン以前に「時間」が存在していたのかもわからないのではないでしょうか。少なくとも、我々が住むこの宇宙がビッグバンで始まってからは時間が流れているようには思いますが、それ以外のことは想像できません。
 ただ、文系の私ですので、理系の人からは、ゼロやマイナス、虚数などの数学概念では、人間は理解しているという反論があるかもしれません。相対論であらゆる慣性系で光速度は常に一定であるとか、光速に近づくと時間が遅くなり、空間が縮むというようなことは科学として受け入れられていますが、私が本質的に理解できているかというと理解不能と言わざるを得ません。
 要は、「存在しないという選択肢がない」というのは、「無」でないから、ずっと「有」であるという意味ではなく、「無」という人間が本質的にわかっていなことを前提にしても回答はでないというような意味で使っています。

>世界(私の意識の上だけかもしれないが)はどうして存在しているのでしょう?


 世界が存在するとは、不思議なことだと思います。でもその答えが、どこかに必ずあるとは言い切れないのだと思います。「どうして」という人間が考える問いに、「そうか」と人間がわかる答えがあるかどうか。この問いは、科学的でもあり、哲学的でもある問題と思いますが、存在することにほんとうに人間が納得する理由があるのかも視野に入れて検討してみてはどうでしょうか。検討の余地はあります。
 「世界(私の意識の上だけかもしれないが)」は、独我論の問題として取り上げられます。これも疑似問題というのが、私の感想です。よろしければ、別スレ「独我論を乗り越える方法」の 443 を参照ください。

2年前 No.253

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

すめんさん


 すめんさんに触発されて、この問題が気になっている私個人の事情について書きます。

 小学生の3年か4年のころ、夕方、両親が帰ってくる前に、「自分が死んだらどうなるのだろう」という強い不安感に襲われる時が何度もありました。

 学校で、先生が黒板に書かれているその日の日付を指して、「今日は二度と戻ってこない。あなたたちの人生で、今日は二度とない。だから、その日その日を大事にしないといけない」という意味のことを言いました。それがきっかけかどうか定かではないですが、当時私は、天国や極楽のような言葉は知っていたものの、絶対に嘘だと思っていて、死んだら何もなくなると思っていました。この私のすべてがこの宇宙からなくなる。死という行為そのものより、この私の存在が不可逆的に何もなくなるということが異常なくらいの恐怖でした。

 さらに、当時、小学生向けの雑誌に、太陽の運命が書かれた記事があり、膨張して、地球を飲み込んだ後、50億年後には光をなくした星になる(白色矮星になる)というのを読んで、地球がいずれなくなる、全人類がいなくなる、ということにもどうしようもない恐怖感を感じました。そんな考えが浮かんだ夕方は、よくおばあちゃんに泣きながら「死んだらどうなるの?」と繰り返し繰り返し聞いていました。両親が帰ってきてみんなで夕食を食べたり、テレビを見ていると落ち着いたのを覚えています。

 この宇宙がなぜ存在するかを問うことは、私の深層で過去の異常なくらいの恐怖とつながっているように思います。
 この問いを問いとして、思考からはずせるかというと、きっと外せないと思います。浮かんできてしまうものであり、一旦は横に置いておくことはできても、一生放置しておくことはできないものです。

 この問題にかかわらず、世の根源的なことの根拠を求める気持ちは強い方だと思います。すめんさんが言われるように、自らの精神の中に「自分の安心できるスペースを確保しよう」としているのかもしれません。ただ、「いつ死んでも構わない」くらいの覚悟はないのが現状です。

 あえて、私がこの問題を考えるメリットがあるとすれば、現実の価値観、つまり学歴や社会的地位、財産、人間関係などの不満や劣等感がちっちゃく思えて精神安定効果があることです。だから、現実的な何かで落ち込んだときは、逆にこのような哲学的な問いや、宇宙論、生命の歴史に思いをはせ、精神安定効果を狙うことがあります。

 すめんさんの書かれていることとは少し違うかもしれませんが、長年、私の意識に昇ってこなかったことを思い出しましたので、書いてみました。

2年前 No.254

★30JjgxOVKX_ZFe

「メリット・デメリット」の問題じゃないんじゃないじゃないじゃない?

「フィロソフィア」って。

2年前 No.255

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐさん

話が噛み合わない人の特徴【1】:価値観が常識とかけ離れている

        【2】:絶対に自分が正しいと思っている

2年前 No.256

★30JjgxOVKX_ZFe

おばちゃま、

「常識」って、なあに?

2年前 No.257

百理 ★bUKyk3gX2r_zRM

およぐちゃん

昔はアタック1って言うアニメで主人公のお父さんが勉強で辞書を全部憶えるのに1ページずつ食べていたの・・

最近そういうアニメは無いと思うけど・・イタリア人も知っているのアタックナンバーワンって知ってる?

辞書で調べてみてはどうですか?

バレーーボール選手と昭和の常識です。アタックナンバーワンのアニメ・・

2年前 No.258

★30JjgxOVKX_ZFe

>258
「昭和の常識」?

じゃ、「平成の常識」知ってます?

他にも、江戸の、明治の、大正の、縄文の、弥生の、アメリカの、ドイツの、フランスの、イスラムの・・・、常識を。

2年前 No.259

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐちゃん

常識の意味知ってて聞いたのね?

2年前 No.260

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>255

およぐちゃん

あたかもメリットが無い愛があるような言い方を、君がするなんて驚きだよ。

2年前 No.261

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>254

えぴめてうすさん。

お返事ありがとうございます。

ぼくも話がかみ合うかどうか、微妙ですが、

最近ふと、

自分が怯える暗闇のなかの「何か」は、

じつは自分自身ではないか、と思うようになりました。

本当に暗闇の先には、死があるのでしょうか。

このように問うのを、ただちに死後を信じることだとは、

どうか解さないでください。

光に慣れた目を癒すには、

暗闇も必要です。

それをメリットと呼ぶには、あまりにももったいない。

そんな気がします。

2年前 No.262

★30JjgxOVKX_ZFe

いっぱい雨が降ってる。嫌いじゃないけど、今は暇。

>260

ママ、常識をエポケーしてるだけよ。

2年前 No.263

百理 ★bUKyk3gX2r_zRM

およぐちゃん

ヒコ太郎さんに返答するのを気付いてる?

2年前 No.264

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

すめんさん

  >>262

 私も微妙なのですが、

>光に慣れた目を癒すには、暗闇も必要です。それをメリットと呼ぶには、あまりにももったいない。


 「暗闇」とは、このスレのテーマである「存在を問う」ということでしょうか。
 私にとって、「存在を問う」は、頭の片隅にある気がかりなことをつい思い出してしまうテーマです。
 それが、>254 で書いた自分の死(存在がなくなること)への恐怖体験と関係しているのかなと思っています。(定かではありません。根源を問いたがるのが、単に私の性格なのかもしれません。)
 他のスレでもいろいろ教えてもらっているのですが、答えがないので、気持ちの良い、楽しいテーマではないです。たぶん考え続けても、何かいいことがあるわけではないと思っています。
 そんな中、トランキライザーとして、意図的に思い浮かべる時があるのです。
 価値を見出せそうなら、何か怪しげなものではないかと疑ってしまう貧乏性でもあります。実用的な価値(トランキライザーとして以外に)がないことだから、逆に安心でもあるのです。
 我ながら、意味不明かも……

2年前 No.265

★30JjgxOVKX_ZFe

>261

あら、天使ちゃん。

あたかも「メリットが無い愛がある」ような言い方をほのめかしているのは、さすが天使ちゃん。
わたしが悪魔だっていうこと忘れてないようね。

でも、ちょっといまいちね。
人間が「愛」と呼んでいるものはメリット・デメリットっていう判断基準の次元に存在しているのではない、
って言ったら天使になれるかもよ。

高等科の悪魔はね、人間を知ることが重要な課題となっていて、それは、哲学から、だけじゃないのよ。

ちょっと教えてあげましょうか?
哲学の弱点はね、「感情」って人間が呼んでいるもの。
悪魔の手口は、そこを・・・しようとするの。


あまり書くと大魔王様に叱られちゃうからこのぐらいにしておこっと。

2年前 No.266

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>265

えぴめてうすさん。

死は存在するのでしょうか。

2年前 No.267

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

すめんさん

 >267

 私は、死について、哲学的に考えたことはありません。なぜか考える動機がわいてこないのです。
 「なぜ生きているのか」の対岸に「死」があるのかもしれませんが、今生きている人生とは、死ぬまでの時間つぶしだと思っています。学校へ行ったり、仕事をしたり、遊んだりすること。もしそれらをしなければ長すぎて間が持たないというか、それこそ死んでしまいそうになると思います。エロスが勝って、タナトスを押さえ、人は生きている。生を受けたら、生きざるを得ない状況になり、生きている。死の恐怖より、それ以外の何らかの苦が耐え難い状況になった人には、タナトスが頭をもたげてくるのかなと思います。
 話を戻して、「死」の存在ですが、全然哲学的ではないですが、「死」は現象ですので、「受精」が存在するか、「がんの発生」が存在するか、「けがをすること」が存在するかと同じではないかと思います。
 きっと哲学的に、レヴィナスの問いかけをイメージして、そうおっしゃってるんだろうと思いますが、あえて擬人化するなら、−例えば、「悲しみよ、さようなら」など − そんな言い方もできるけど、普通そんな言い方はしない、ただ死という現象があるということではないでしょうか。
 たぶん、期待外れかと。

2年前 No.268

百理 ★bUKyk3gX2r_zRM

えぴめてうすさん

名前に意味がはっきり解らないのですが・・

意識の中味は知覚体験で満たされます。

頭や背中を撫でられたことがありますか?

2年前 No.269

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>266

およぐちゃん


>人間が「愛」と呼んでいるものはメリット・デメリットっていう判断基準の次元に存在しているのではない、
>って言ったら天使になれるかもよ。

神様は、暇を持て余しているから、ボランティアで愛を人間に届けているのは知っているよ。
でもね、「天使になれるかもよ。」っていうのは、信じないよ。
悪魔のいうことだからね。



>哲学の弱点はね、「感情」って人間が呼んでいるもの。

悪魔がそういうからには、「「感情」って人間が呼んでいるもの」の弱点が、「哲学」なんだろうね。
それなら、話は簡単だ。
「「感情」って人間が呼んでいるもの」を、「哲学」から守ればいいんだね。

2年前 No.270

★30JjgxOVKX_ZFe

>270
天使ちゃん、「信じないよ」、ピンポン〜。

〈「「感情」って人間が呼んでいるもの」を、「哲学」から守ればいいんだね。〉
ちょっと、違う。これまでの哲学を、認識(主知主義とか理性)から解放するってうこと、かな?

2年前 No.271

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>271

そんなこと、きみにも、神様にだって、できやしない。
それができるのは、人間だけだよ。
罪ある者達には便所掃除がお似合いさ。
信じられるかい?彼らは、平気で汚物を撒き散らすんだ。

2年前 No.272

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>268

エロスとタナトスといった

二項の価値が反転する鏡のような現象としての死について、

それを問う時間そのものは

あるかないかと問うことができるのでしょうか……?

問えないとしたら、

死に問いかけ自己を照らす時間は

自己を試しているのでしょうか………

死そのものに

そのままの自己を見るとき、

私の問いかけているのが私だとしたら…………

2年前 No.273

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>268  えぴめてうすさん
はじめまして。
通りすがりで失礼します。

もし、あなたが死について哲学的に考えたことがないのなら、
独我論についても全然わかっていないことになりますね。
以下、理由を述べます。

独我論とは、
「私だけが存在する」
言い換えると、
「存在するのは私だけである」
と主張する思想です。
したがって、
 存在するものごとの総体=世界
だとすると、独我論とは、
 私=世界
と主張する思想でもあります。
したがって、
 私の死=世界の終わり
ということも含意します。
『論考』に書かれた独我論もこのことに関わっています。
それゆえ、自分の死を哲学的に考えたことのないものは、独我論もけして理解していませんし、ウィトゲンシュタインの言っていることも全くわかっていないことになります。

独我論について真剣に考える気があるのなら、知ったかぶりしか能のない人(すめんさんではありません)を相手に時間を無駄にするより、『論考』の訳者である野矢茂樹さんの『心と他者』(中公文庫)でも読まれたほうが、よっぽど有意義かと思いますよ。

2年前 No.274

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

本の中の意味は、解りやすいのに・・気持ちのいい納得・・

生身の人は全く視点が違う・・

会話になるかどうか・・

意思疎通がネットも国会答弁並み・・

2年前 No.275

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>275

こんにちは、百里さん。

せっかくコメントしていただいたのに、

返信せずにすいません。

さっそく >>275 のコメントについて、

どうやら本の中の意味はわかりやすいけれど、

その反面、毒にもなるらしいです・・・

デリダという人がプラトンの『パイドロス』を読解して、

ギリシャ語の「パルマコン」という言葉が、

書という意味と同時に、毒という意味があることを炙り出したんだとか・・・

すいません・・・

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』、講談社、2015年

という本に書いてあった知識を使ったのですが、

何しろまったくうろ覚えなので、

へぇって程度に聞き流しといていただければ・・・

(もしかしたら間違ってるかもしれません)

まあ、

たぶん書と毒のバランスが大事なんでしょう・・・

自分で書いていながら、

そうか、と納得したりw

あ、もしかしたら

書と毒ではなく

格と読かもしれませんね・・・

格は「人格」の格ですねw

どうも相手を縛るような意味があるそうです!

もちろん、縛るといっても、悪い意味ではないですよ・・・

その人の「顔」をイメージすると、

自然と言葉が詰まったり、

すらすらと出たり・・・

そういう意味での「格」ですね!

話ながらまた、新たな発見!

また、お話ししましょう!

では、たいへん、失礼いたしました!

2年前 No.276

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

すめんさん

いつも適当発言でお気を悪くなさったことお詫びします。

言葉は芸術とならず魔術となったら最悪です。

雄弁の銀は、しょせん沈黙の金には敵いません・・

聖域の象徴、パルテノン神殿も破壊されたのです。

2年前 No.277

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

百理さん

こんにちわ

  >>269

>頭や背中を撫でられたことがありますか?


あります。

2年前 No.278

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>もし、あなたが死について哲学的に考えたことがないのなら、

>独我論についても全然わかっていないことになりますね。


 別のスレでも言っているのですが、私は、「独我論」の主張がわかりません。
 「独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。」という意味と理解して考えを巡らせていますが、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」のところが特に理解できません。
 ただし、私が独我論者であると言われたこともあります。

>独我論とは、

>「私だけが存在する」

>言い換えると、

>「存在するのは私だけである」

>と主張する思想です。


 ちょうどいい切り口をいただいたと思います。
 私が独我論について、強い疑念をもっているのは、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」といい、まさに「じこちゅー」的な見方で、「私が認識している範囲の世界がすべてである」ということになり、ご指摘の「存在するのは私だけである」になってしまうことなのですが、具体的に言うと、その人は誰に向かってそのことを言っているのでしょうか、すべて一人言なのでしょうか、自分の親も否定するのでしょうか、それなら、自分の存在の起源をどう考えているのでしようか、自分が生産してもいない食べ物を食べて生きていることを不思議に思わないのでしょうか、科学理論(物理や化学や)をどう考えているのでしょうか、という疑問です。「私の言っていることはうそである」に匹敵しそうな奇妙さがあります。
 「夢」がまさにそういう状態(独我論の世界)に近いような気がしますが、現実の世界では、人間としての社会性を欠く(一人だけなのですから、他者を全く気にする必要はないはずです)か、自分をずっとだまして(社会性を装って)生きていかなければならないのではないかと思います。自分をだます必要性はないように思いますが。

>私の死=世界の終わり

>ということも含意します。


 そうなりますよね。そこで上記に加えてですが、この「私」とはだれか、1人しかいないのでしょうか。何人かいるのでしようか。複数いるなら、世界も複数あり、それらの世界同士は独立しているのでしょうね。マルチバースでしょうか。しかし、1つの世界には1人しかいないのですから、科学や哲学の知見や論点もあまり意味はないように思います。もっと言えば、「私が認識を止めると」、自分の足や手もまた「消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」であれば、もはや生命であるとも言い切れない存在。それが、「私」ということに。ほんとうに独我論の世界は不思議です。

>『論考』に書かれた独我論もこのことに関わっています。

>それゆえ、自分の死を哲学的に考えたことのないものは、独我論もけして理解していませんし、ウィトゲンシュタインの言っている>>ことも全くわかっていないことになります。


 ヴィトゲンシュタインは、まちがいなく私の精神に衝撃を与えた人物です。世の中にこんなことを考えていた人がいたのかという私なりの驚きを覚えたことを思い出します。驚きとともに、彼の性格というか性癖というか人間そのものに対する、何とも言えない、プラス、マイナス入り混じった感情を抱きました。
 しかし、そのことと、ヴィトゲンシュタインを理解していることとは別だと思います。「独我論」は決して理解できません。

>『独我論について真剣に考える気があるのなら、知ったかぶりしか能のない人(すめんさんではありません)を相手に時間を無駄にするより、『論考』の訳者である野矢茂樹さんの『心と他者』(中公文庫)でも読まれたほうが、よっぽど有意義かと思いますよ。


 ありがとうございます。いま社会科学でいくつか読まなければならない本がありまして、正月あたりで是非読んでみたいと思います。

2年前 No.279

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

すめんさん

>>273

>時間そのものはあるかないかと問うことができるのでしょうか……?


 時間とは、変化を理解するために人間が生み出した概念ではないかと思います。なので、正義とか温度など同じではないでしょうか。時間、正義、温度といった概念は、人間の頭の中には存在し、それを用いて思考できます。時間という概念がなくても、世界は変わらないでしょうが、別の概念で世界を見れば、それを用いて見た世界は違って見えるのではないかと思います。
 また、どこかでだれかが、「認識の形式」ではと言っておられましたが、それに少し共感しています。

>死そのものにそのままの自己を見るとき、私の問いかけているのが私だとしたら…………


 その状況では、きっとあなたしかいないと思います。ちょっとドキッとしますね。

2年前 No.280

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 この哲学における究極の問題には、「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という前提が置かれているとのことですが、このことについて、みなさんどう思われますか。

人間の思考は、ある範囲に限られるというのが、私の感覚です。
まず、情報は感覚器官を通じて獲得されますが、見えるのは可視光の範囲、聴覚も範囲がある、嗅覚も他の動物より能力が低い(ことが多い)、計算力も個人差はあるものの、コンピュータのCPUにはかなわない などなど。
それが人間であり、人間を規定している要素だと思います。

もどって、そんな全能の神でない人間に、「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」ことが保証されているかといわれれば、YESとは答えがたいというのが私の意見です。

人間の思考能力(論理的な演算力)がスパコンや量子コンピュータ並みだったら、世の中の言論や自然科学、社会科学は、もっと違った知見を示すでしょう。「十分な理由」を示せる範囲も拡大するのではないかと思います。どこまでいけば、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に納得のいく回答が出るのかはわかりませんが。

2年前 No.281

hiro ★0eOsgQeVPl_PHR

何かが存在することに関して、そもそも理由があるのか疑問に感じています。道端に石が転がっている事と同じ事ではないでしょうか。それに対して人間が勝ってに意味を付与しただけだと考えています。偉そうな事を言ってしまい、すいません。

2年前 No.282

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

hiroさん

 私も同様の疑問を持ち、「存在」について考えています。

 さらに、人間が「理由がある」と思うとは、どういうことか問う必要があるかもしれません。

 道端に転がっている石であれば、その石が今の状態にたどり着いた来歴がわかれば、そこにある理由になるのかもしれません。
 ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」で、「世界がどのようになっているか、でなく、世界があるということ、これが謎である」と言っています。
 ものごとがいかにあるかを問題にすることと、ものごとがあるということそのものを問題にすることは、別と考えるべきなのかもしれません。なぜ別なのか言い表すことは私にとって難しいことですが。

 私も人間が勝手に意味を創造しているのではないかと思っています。はたしてその意味創造の機序、メカニズムはどうなっているのでしょうか。

2年前 No.283

★30JjgxOVKX_m9i

>282

hiroさまの場合、「意味」という語、どういう意味で使っています?

2年前 No.284

hiro ★0eOsgQeVPl_PHR

価値、という意味で使ってます。客体と主体との相互作用のなかで何かが発生するという意味で、それが価値だと思います。もっともそれは、客体が存在することを前提とします。では、客体の存在は証明可能なのか?そしてまた主体の存在はどうなのか?そもそも証明という概念は何なのか?疑問を感じている私が存在することは確かだという考え方がありますが、本当にそうなのか?論理法則は、アプリオリに信用できるのか?僕にはよく分かりません。



世界が存在する事が謎である。

世界の存在することは、定理ではなく公理だと考えてはいけないのでしょうか。

2年前 No.285

★30JjgxOVKX_m9i

>285

「世界の存在することは、定理ではなく公理だと考えてはいけないのでしょうか」

は、「世界が存在するかどうか」という問い的問題であって、

「世界が存在する事が謎である」とはちょっと意味あいが違う感じするけど?

2年前 No.286

hiro ★0eOsgQeVPl_PHR

存在について考察するには、二つのアプローチがあるとおもいます。即ち、why,とhow,です。これに関してある仮説を立ててみました。        まずhowについて   事象がその属性として具備しており、人間はそれを認識できる。物理学の成功がそれを支持している。      whyについて    事象がその属性として具備していないのに、人間がそれを認識できると思いこんでいる。 人間の思考の習性として、方向性として、思いこんでいる。その結果、論理と概念による妄想の体系が出来上がった。  どう思われますでしょうか?

2年前 No.287

hiro ★0eOsgQeVPl_PHR

世界が存在することが公理であればその根拠をそれ以上問う必要が無くなるので、従って謎ではなくなる、という意味で発言させていただきました。誤解があれば、すいません、

2年前 No.288

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>287

「妄想の体系」ねえ…
昔、そんなふうなことを言った論理実証主義っていうのがあったな。
今でもそういうことを考える人がいるんだね。

その考えをラフに言い換えると、もともと充足理由律の枠組みでは答の出ない問いなのに、
それを当てはめるから無理があるんだとも言えるんじゃないのかな。

確かに、存在論の問いは形而上学的問いであって、科学的問いではない。

『世界が存在することの神秘』にうたれることのない人間には、そもそも存在論は理解できない。
ライプニッツも、ハイデガーも、ウィトゲンシュタインも、『存在の不思議』を見つめた哲学者だ。
ライプニッツの言葉にいわば「心がわしづかみ」にされない人、あるいは、この問いの定式化にライプニッツの天才の凄さを感じない人は、
だいたい形而上学的センスがないので、とんちんかんなことばかり言う。ま、存在論はわからんでしょ。独我論もね。
と、個人的には思うな(笑)
まあ、必要もないだろうし、そう思うならスルーしたらいいんじゃないの。

2年前 No.289

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>289

蛇足だろうが、少し付け加えておく。

存在を公理しても別に構わないというか、古典論理の標準理論は議論領域が空でないことを前提とするから、
世界の存在を前提にしているとも解釈可能だろうね。

だけど、それは、その公理系を採用する言語の中で存在について語らない、という取り決めに過ぎないのであって、
存在の不思議さが消えるわけでも、それについて納得いく解決が得られたのでも、問題が解消したわけでもない。

仮にその内部だけを語りうる領域としたところで、その外部を人が求めるということそのものを否定することはできない。
実際、そこにこそ生の意義や美や宗教的価値などあるわけで、だからこそ芸術・文学・宗教etc.が存在するわけだ。
もちろん、それについて科学が用いる言語と同じ言語で記述することはできないかもしれないが、
だからといって、それを語ろうとすることそのものを妄想とするのは言いすぎだろう。

論理実証主義なんかは『論考』に依拠して、その非常に狭く限定した検証可能な命題をのみ有意義な言語とし、それをはみ出す表現を無意味だと言ってしまったが、
それはあまりに言語に対する偏った観方であったと現在ではみなされているし、それは当然だと思うよ。

だから、哲学史的には論理実証主義もそこに属する分析哲学の系統でも、現在では存在論は様相論理などを用いて盛んに論じられているし、
他方、現象学やハイデガー的存在論の流れからも、結構早くから精神病理学への応用がなされているし、
最近では認知科学や人工知能でも現象学やハイデガーの存在論の知見を利用している研究者もいる。
こういったものをある程度きちんと勉強して知れば、存在論を妄想なんて言えなくなると思うんだけどね。

お邪魔さま。

2年前 No.290

★30JjgxOVKX_m9i

>290

阿さま

「認知科学や人工知能でも現象学やハイデガーの存在論の知見を利用している研究者もいる。」

こういう研究者、わたし、好み。

でもね、「哲学」って、「最近」っていう次元じゃない「学」じゃないかしら?

2年前 No.291

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>290

ちょっとちょっと、何で名前間違えてんのよ、かんべんしてよ。

嫌がらせ?(笑)

2年前 No.292

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>292

あっ、ミスった。

290じゃなくて、 >>291 ね。

2年前 No.293

★30JjgxOVKX_m9i

>292
あら、ごめんなさい。違ったかいら?
なんか、上から目線的なオーラを感じてるからからかしらね。

ふくちゃん
わたしが嫌がらせするはずないでしょ。
わたしって素直なのよ。

(笑)で、許してあげる。

2年前 No.294

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」が答の無い究極の謎に見えてしまう理由は、単純です。自分が認識できるのは「何かがある」の方だけだという理由だけで、「何もない」の方は実現していないと勝手に思い込んでいるからです。言わば、自分の世界こそがすべてだと信じる「井の中の蛙」状態だからです。
 そこで本当は、確率Pで「何かがある」が、確率1−Pで「何もない」が、ともに実現していると考えます。そうすると、「何かがある」と認識する視点に立てば「何かがある」、「何もない」と認識する視点に立てば「何もない」、のダブル・トートロジーが成立していただけとなり、この謎は消滅します。もっとも、「何もない」の方はそれを認識する主体も発生できないので、仮に確率1/2ずつで両方が実現したとしても、確率1で「何かがある」だけが実現したように認識するはずです(一種の「人間原理」「観測者選択効果」)。
 量子力学の多世界解釈(やD・ルイスの「可能世界論(様相実在論)」)では、存在し得るすべての世界の存在を考えますが、どの世界も、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」、を満たした在り方をしています。こう考えると、「なぜ存在するのか?」「なぜ存在しないのか?」という謎自体が消滅します。

 一般的な表現は、a「何かがある」+b「何もない」(aもbも不明)…※です。a=1、b=0だと※は単独の「何かがある」です。a=0、b=1だと※は単独の「何もない」です。a=1、b=1だと※は両方の「何かがある」+「何もない」です。「何かがある」でもあれば「何もない」でもあり、片方でもあれば両方でもある、とすべてを含んだ記述になっています。「○○○である」=「何かがある」、「○○○でない」=「何もない」、「□□□である」=「「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現されている」とおくと、※は、「○○○ある」でもあれば「○○○でない」でもあり、かつ、「□□□である」でもあれば「□□□でない」でも有り得ています。この※こそが究極の真理だと見なせます。

 ※は証明不要の絶対的真理です。そもそも証明というものは、「「○○○である」が真であり「○○○でない」は偽である」というふうに、真理を片方だけに限定する場合に必要となるものです。つまり、「「何かがある」が真であり「何もない」は偽である」または「「何もない」が真であり「何かがある」は偽である」と主張する人の方が、立証責任を負います。※は何も真理を限定していないので、証明不要のまま真です。例えると「サイコロを投げて出る目は1、2、3、4、5、6のどれかである」のように、すべての可能性をどれ1つ否定せずに網羅したまま、その中のどれかが正しいだろうと主張しており、外れることは有り得ないという意味で、恒真(トートロジー)になります。

 「○○○である」自体がトートロジーであれば、その否定である「○○○でない」は矛盾になるので、「○○○である」だけが起こり「○○○でない」の方は起こり得ない理由を、無矛盾な論理法則だけで説明できます。しかし、「○○○である」も「○○○でない」もトートロジーではなく、矛盾でもない場合、論理だけではどちらが起きるのかを決められません。自分の世界で「○○○である」の方だけが実現していても、それは経験的事実に過ぎず、論理的必然性ではないため、「なぜ?」という謎が残り、「そんなの知らないよ」「なぜかそうなのだからそうなのさ」で答は見つかりません。

 ここで「充足理由律」(どんな謎にも答が有る)を仮定するなら、どう考えるべきでしょう? 多世界解釈を採り、自分が住む世界では「○○○である」が実現したけれども、別の世界では「○○○でない」の方が起きたのだ、と考える以外に解決方法は有りません。そして、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、というダブル・トートロジーが成立しているだけだ、という説明になります。


 より詳しくはこちらへ↓
スレッド『量子神学概論(多世界解釈で記述する全知全能の神)』 http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-488,493,494

2年前 No.295

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「充足理由律」と「豊饒性原理」の関係

 G・ライプニッツの言う「充足理由律」(どんな謎にも答が有る)とR・ノージックの言う「豊饒性原理」(実現可能なものはすべて実現している)とは、密接な関係が有ります。殆ど同値と言えるくらいです。

 まず「○○○である」自体がトートロジー(同語反復的恒真命題)である場合。例えば「リンゴはリンゴである」など。その否定「○○○でない」は矛盾した内容となります。だから、実現できるのは「○○○である」の方だけであり、「○○○でない」の方は実現できないことを、無矛盾な論理法則だけで説明できます。この場合、「○○○である」が実現しているだけで「豊饒性原理」を満たしているがゆえに、「充足理由律」の方も満たしているのです。

 次に「○○○である」も「○○○でない」もトートロジーではなく、矛盾でもない場合。例えばシュレディンガーの猫の生死を観測し、「「生」である」と「「生」でない」(「死」である)のような場合。無矛盾な論理法則だけでは、どちらが起きるのかを決定できません。どちらも起きて良いし、起こらなくても良い、という状況です。自分が住む世界では「○○○である」の方だけが起きているとしましょう。もしここで、実現したのは「○○○である」の方だけであり「○○○でない」の方は実現していないと考えると、どうなるでしょう? 両方実現可能なのに、片方だけが実現しているとすると「豊饒性原理」が満たされていません。すると、「なぜ「○○○である」の方だけが選ばれて実現し、「○○○でない」の方は実現しなかったのか?」という謎が残り、その答は無く、「そんなの知らないよ。なぜかそうだからそうなのだよ。」と諦めるしか無くなり、「充足理由律」の方も満たせないことになります。
 そこで量子力学の多世界解釈を採り、自分が住む世界では「○○○である」の方が実現したが、別の世界では「○○○でない」の方も実現したのだ、と考えます。すると、どちらも実現したのだから「豊饒性原理」を満たすことになります。しかも両方が実現しているので、片方の視点に立つためにはそちらを選ぶ必要が生じます。つまり、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、のダブル・トートロジーが成立しているだけなのだ、と説明ができ、「充足理由律」の方も満たせることになります。

 人間は「○○○である」と「○○○でない」の片方だけしか認識できないので、「なぜ片方だけが選ばれて実現したのだろう?」という謎の存在を感じてしまいます。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」がまさにそれです。「何かがある」の方だけが実現したと考えると「豊饒性原理」が満たされないがゆえに「充足理由律」も満たされません。
 そこで「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考えれば、「豊饒性原理」を満たすがゆえに「充足理由律」の方も満たし得るのです。そして、「何かがある」と認識する視点に立てば「何かがある」、「何もない」と認識する視点に立てば「何もない」、というダブル・トートロジーが成立しているだけだったことになり、この謎も消滅します。

2年前 No.296

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

SumioBabaさん

 おはようございます。

 私は存在論がよくわかっていない素人でして、物理的に「何もない」ということが、物質がなく、エネルギーがあると考えてよいのか、エネルギーもない状態を指すのか、ビッグバン以前はそうだったのかどうか、つまり「何もない」ということがどういうことかよくわからないのですが、

>そこで「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考えれば、


 は、同時に確率的には実現しているという意味でしょうか。あるいは今のこの世界がそうだという意味でしょうか。

>「何かがある」と認識する視点に立てば「何かがある」


 という前提で、あらためて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うことはできないでしょうか。
 私は、何かがある世界に生きてしまった人間が発する問いだと思っています。
 よって、この自分が生きている世界が、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という、この世界があることの根拠や理屈を求めているように思うのです。
 それは、「何かがある」ことそのものへの問いにもつながり、なぜ選択肢として、「何かがある」と「何もない」に分かれるのか を問うことでもあるのではと思われるのです。

2年前 No.297

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>297  えぴめてうすさんへ

> おはようございます。


 こんばんは。

> 私は存在論がよくわかっていない素人でして、物理的に「何もない」ということが、物質がなく、エネルギーがあると考えてよいのか、エネルギーもない状態を指すのか、ビッグバン以前はそうだったのかどうか、つまり「何もない」ということがどういうことかよくわからないのですが、


 いえいえ、書いておられる事がしっかりしています。えぴめてうすさんの文章は意味がはっきりと読み取れるし、自分の頭で考え抜いて書いておられるので、とても好感が持てますよ。

 「物理的に「何もない」」という言葉は、恐らく、物質もエネルギーも時間も空間も無い状態を指すのだと思います。ただしこれは、「実在論」(心に知覚・認識されなくても、物質世界の存否や状態は客観的に確定している)を前提にしているように思われます。もし本当に「何もない」状態が有り得たとしたら、それを認識する主体も無い訳ですから、「何もない」のかどうか誰にも分らないはずです。「観念論」の立場を採ると、「何もない」は「物質世界(時間、空間、物質、エネルギー、…等)が無い」という意味にはならず、「物質世界が有るのか無いのか、有るとしたらどういう状態なのかについての情報が何も無く、あらゆる可能性が量子力学でいう重ね合わせになった状態」を意味すると思われます。「観念論」だと、意識こそが波動関数収縮の原因であり、意識の持つ情報こそが物理状態を定めているのですから、意識が「何もない」場合には何一つ物理状態は定まらない、と考えるべきだと思います。

>>そこで「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考えれば、

> は、同時に確率的には実現しているという意味でしょうか。あるいは今のこの世界がそうだという意味でしょうか。


 確率Pで「何かがある」が、確率1−Pで「何もない」が、両方実現している、という意味です(Pの値は不可知)。ただし、両者は背反的・排他的だと思われるので、1つの世界や1つの心において両方同時に実現すると矛盾になってしまいます。矛盾が生じると、あらゆる命題の肯定も否定も証明できてしまい、何一つ状態が定まらないので、「「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているぞ」という認識は成立しません。単独の「何もない」の方も、それを認識する主体さえ存在しないのですから、「今自分は「何もない」という視点の方に立っているぞ」という認識も成立しません。結局のところ、単独の「何かがある」の場合にだけ、「今自分は「何かがある」という視点の方に立っているぞ」という認識が成立することになります。

>>「何かがある」と認識する視点に立てば「何かがある」

> という前提で、あらためて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うことはできないでしょうか。

> 私は、何かがある世界に生きてしまった人間が発する問いだと思っています。

> よって、この自分が生きている世界が、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という、この世界があることの根拠や理屈を求めているように思うのです。

> それは、「何かがある」ことそのものへの問いにもつながり、なぜ選択肢として、「何かがある」と「何もない」に分かれるのか を問うことでもあるのではと思われるのです。


 本当のところ自分は、単独の「何かがある」、単独の「何もない」、両方の「何かがある」+「何もない」、の3つを同時に体験しているのだと考えます。ただし認識できるのは、単独の「何かがある」だけになります。他の2つは認識できないからです。まだ何か謎が残るでしょうか? 納得のいかないところは、徹底的に反論して下さい。

2年前 No.298

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

SumioBabaさん

 お返事ありがとうございます。

 存在の問いについて、量子論的な要素も交えて、教えを乞うことに少し興奮しています。
 ただし、文系の私は、量子論について、「量子力学入門―現代科学のミステリー (岩波新書) 並木 美喜雄」、「「量子論」を楽しむ本 PHP研究所 佐藤勝彦監修」、少し関連で、「宇宙に外側はあるか (光文社新書) 松原隆彦」を読んだことがあるレベルです。
 両方とも読んだのは、何年も前になりますが、観測によって、状態が確定すると書かれていることに、違和感を感じました。
 アインシュタインは、神はサイコロを振らないと言ったそう(この言葉に興味をもって量子論の本を紐解きました。)ですが、観測するということは、人間の目に見えるようにするために光を当てたりする、その光子によって状態が確定する、というような理解をしました。
 観測以前は、状態が決まっていない(重ね合わせの状態?)というのが、何とも不思議です。決まっているが、観測できないので、言うことができないという意味ではなく、ほんとうに決まっていない(可能性が重なりあっている)というふうに書かれていたと記憶しています。
 物理って、人間の存在や行為には関係ないものというイメージがありましたので、混乱しました。おまけにマルチバースや人間原理、多世界解釈といった宇宙論の言説には何か思考上の遊びのような雰囲気を感じたのが正直なところでした。


>「物理的に「何もない」」という言葉は、恐らく、物質もエネルギーも時間も空間も無い状態を指すのだと思います。もし本当に「何もない」状態が有り得たとしたら、それを認識する主体も無い訳ですから、「何もない」のかどうか誰にも分らないはずです。

>単独の「何もない」の方も、それを認識する主体さえ存在しないのですから、「今自分は「何もない」という視点の方に立っているぞ」という認識も成立しません。結局のところ、単独の「何かがある」の場合にだけ、「今自分は「何かがある」という視点の方に立っているぞ」という認識が成立することになります。


 私は、 >>249  で書きましたように、

 「「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めた上で、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」と問われているということを考えると、やはり疑似問題ではないかという気がしています。

 ウィキペデアでは、「擬似問題とは、問いを立てる際の暗黙の仮定や前提が誤っていたり、検証できないものに依拠していたりするため答えがそもそも存在しない問いのこと」とされています。

 このことから、そもそも「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めたところで、疑似問題にしてしまっているのではないかと思います。この前提は、必ずしも保障されているとはいいがたいのではないでしょうか。

 この前提をなくして、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」を考えると、現実の世界は「無」ではないですし、人間は「無」を経験できない状況にあります。そもそも「無ではなく」という選択肢があるのかさえ疑わしいと思われます。
 人間の認識として、「有」と「無」はなんとなくそれぞれイメージを持っていると思いますが、「有」の世界に住んでいて「無」を知っているようでも、まったくの「無」はわかっていないと考えざるを得ないと思います。むしろ、「無」という選択肢はないのかもしれません。」

 と考えています。失礼ながら、少し近い感覚のように思いましたが、いかがでしようか。


>本当のところ自分は、単独の「何かがある」、単独の「何もない」、両方の「何かがある」+「何もない」、の3つを同時に体験しているのだと考えます。ただし認識できるのは、単独の「何かがある」だけになります。他の2つは認識できないからです。


 その場合、認識できた「何かがある」に対して、あらためて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うことはできないでしょうか。
 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いは、この世界があることの理由を求める問いであるように思うのです。

 同じく、 >>249  で書きましたように、
 「しかし、「なぜ何かがあるのか」と単体で問うことは残されているかもしれません。ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』のなかで言っている「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」(6・44)
 このことについては、「十分な理由を示すことが必ずできる」という原理(前提)をとりはらったことで、答えがあるかもしれないし、ないかもしれないということにな」ると考えています。

2年前 No.299

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>295
SumioBabaさん
お久しぶりです。

よく考えたわけではないんですけど、前から次の引用に示されるあなたの考えに疑問を感じてるので、それを少し述べてみます。

>「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」が答の無い究極の謎に見えてしまう理由は、単純です。

>自分が認識できるのは「何かがある」の方だけだという理由だけで、「何もない」の方は実現していないと勝手に思い込んでいるからです。

>言わば、自分の世界こそがすべてだと信じる「井の中の蛙」状態だからです。

>そこで本当は、確率Pで「何かがある」が、確率1−Pで「何もない」が、ともに実現していると考えます。そうすると、「何かがある」と認識する視点に立てば「何かがある」、「何もない」と認識する視点に立てば「何もない」、のダブル・トートロジーが成立していただけとなり、この謎は消滅します。

>もっとも、「何もない」の方はそれを認識する主体も発生できないので、仮に確率1/2ずつで両方が実現したとしても、確率1で「何かがある」だけが実現したように認識するはずです(一種の「人間原理」「観測者選択効果」)。

>量子力学の多世界解釈(やD・ルイスの「可能世界論(様相実在論)」)では、存在し得るすべての世界の存在を考えますが、どの世界も、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」、を満たした在り方をしています。

>こう考えると、「なぜ存在するのか?」「なぜ存在しないのか?」という謎自体が消滅します。

〜〜〜〜〜〜〜〜
ライプニッツは二つの問いを立てていますよね。
@ 「なぜ世界が存在するのか」
A 「なぜ世界はこうなっているのか」

結論だけ述べると、あなたの考えは、@の問いをAの問いへと還元してしまっているのではないか、と思っているんです。

何ものも存在しないということを仮定するなら、いかなる主体も存在しません。
そうすると、「何もない」と認識する主体も存在しません。
あなたは「何もないと認識する視点に立てば」と言いますが、何もないなら、それを認識する視点に立つ認識主体はありえず、そもそもこの仮定は論理的に不可能なんじゃないでしょうか。
つまり、
「何も存在しない」
とうい命題を仮定することの不合理さは、
「私は存在しない」
という命題の不合理さと同じではないかと思います。
後者は前者から帰結しますしね。

あなたはこの疑問に対して、いや、そんなことはわかっている、だから「>もっとも・・・」というところで人間原理などを示唆して説明済みと言うかもしれませんが、私はこれが@をAに還元していることだと考えます。
論理学的にも、テクニカルには対象領域の空でないことを前提にしない体系を構成することは可能で、したがって、これにより何もない世界を語りうることになりますが、私はまさにこれは@のAへの還元だと考えます。
理由は以下の通り。
何かが存在する世界がありうる唯一の世界であると思っているのが「井の中の蛙」状態であるとすれば、「何もない世界」が論理的にありえ、また思考可能であることになります。
つまり,「井の外」の存在が前提されているということですね。
しかし、これは何もないということを、可能世界の一つ、あるいは、世界の可能な一状態とみなすということにほかならないと思います。
すなわち、このとき「世界はなぜ存在するのか?なぜ存在しないのではないのか?」という問いが、「世界はなぜこのようであって、あのようではないのか?」ということにすり替えられていると思うからです。
あえてオーバーに言うと、存在論原理主義者(いるのか?(笑))からすると、このすり替えは、まさに「許容できない問題の矮小化」ではないでしょうか。
したがって、言い方を換えれば、あなたの解釈を適用しても、存在の謎は手付かずのまま残っているとも言えると思います。

詳しく知らないのでえらそうなことは言えないんですけど、でもまあちょっと言いますが(笑)、人間原理や多世界解釈というのも、「世界(宇宙)はなぜこのような世界(宇宙)なのか」に答えるものであって(そしてそれ自体は意義のあることです)、@の問い、「世界はなぜあるのか?」に答えるものではないのではないでしょうか。
あっ、でも永井均の考えには有効かもしれませんが^^

2年前 No.300


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