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存在を問う

 ( 哲学掲示板 )
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★Gc8HjmXH4j_BiB

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる

1年前 No.0
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すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

現実問題、
ぼくには卒論を書かねばならないという予定があるので、
お腹痛いです。

1ヶ月前 No.248

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ご参加の皆さん

 まだこのスレの投稿内容を飛ばし飛ばししか読んでません、新参者です。
 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」が前から気になっているものですから、投稿してみました。

 >133 で述べられているように、「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めた上で、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」と問われているということを考えると、やはり疑似問題ではないかという気がしています。

 ウィキペデアでは、「擬似問題とは、問いを立てる際の暗黙の仮定や前提が誤っていたり、検証できないものに依拠していたりするため答えがそもそも存在しない問いのこと」とされています。

 このことから、そもそも「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めたところで、疑似問題にしてしまっているのではないかと思います。この前提は、必ずしも保障されているとはいいがたいのではないでしょうか。

 では、この前提をなくして、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」を考えると、現実の世界は「無」ではないですし、人間は「無」を経験できない状況にあります。そもそも「無ではなく」という選択肢があるのかさえ疑わしいと思われます。

 人間の認識として、「有」と「無」はなんとなくそれぞれイメージを持っていると思いますが、「有」の世界に住んでいて「無」を知っているようでも、まったくの「無」はわかっていないと考えざるを得ないと思います。むしろ、「無」という選択肢はないのかもしれません。

 しかし、「なぜ何かがあるのか」と単体で問うことは残されているかもしれません。ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』のなかで言っている「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」(6・44)
 このことについては、「十分な理由を示すことが必ずできる」という原理(前提)をとりはらったことで、答えがあるかもしれないし、ないかもしれないということになります。

 ヴィトゲンシュタインはさらに次のようにも言っています。
 「私はハイデガーが存在と不安について考えていることを、十分に考えることができる。人間には言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、何かが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない、われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ。」□□シュリック家での談話、ハイデガーについて (1929年末)、木田元 訳

 私には、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を問うことについて、このヴィトゲンシュタインの言葉が一番しっくりきています。

1ヶ月前 No.249

哲夫 ★iPhone=G7SOWkzjp6

私は他の哲学者の本など読むのが嫌い(始終、反論ばかり考えてしまってイライラするし、長文を読むだけの忍耐力がないから)で、専門用語はわかりませんので、少し見当違いになってしまうかもしれませんが、この議題について授業で触れたので、議論させていただきます。

私も同様に世界が存在しないという選択肢は想像できず存在しないと思います。しかし、存在しないという選択肢が無いのなら、世界は無限に過去から存在し、これからもずっと存在し続けることになります。私は過去にも無限に続いているということもまた想像できません。この世界に始まりはないということですよね。そう考えたら、世界に何もない事の方が自然に思えてきました。思考する意識も存在しないということになりますが。それならば、世界(私の意識の上だけかもしれないが)はどうして存在しているのでしょう?結局、質問に戻ってしまいました。

1ヶ月前 No.250

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>249

はじめまして、すめんと申します。

>このことから、そもそも「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という原理を認めたところで、疑似問題にしてしまっているのではないかと思います。この前提は、必ずしも保障されているとはいいがたいのではないでしょうか。

このようにおっしゃられるのはなぜなのでしょうか……?

1ヶ月前 No.251

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

ぼくは「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いについて、
そこで着目すべきは、それを問う人のあり方ではないかと思います。

それを問うとき、人はどんな状態にいるでしょうか。

少なくとも、目の前の諸課題をこなすのに必死な人は、
このような問いを「ばかばかしい」と一蹴してしまうでしょう。

「何を考えているんだ、そんなこと考えなくても生きていけるじゃないか。
 きみは生きるのに必死でない暇人だね」

そんな風にあざ笑われる声が、ぼくには聞こえてきます。

しかしもちろん、これを問う人とて、
生きるのを諦めているのかというと、そうではありません。

むしろ生に固執すればするほど、
この問いはさし迫ってくるのではないか、と思います。

というのも、この問いの発端はつねに、
私が安らいでいる世界の外側に何かが息をひそめていて、
それが襲ってくるかもしれないという不安にあるからです。

「え、何かいる!?」という場面を想像してみてください。

あなたには、その「何か」が何なのか、追跡する手がかりが欠けています。
それなのに、間違いなくその「何か」はすぐ傍にいます。
何もないのではなく、「何か」がいるのです。

もしかしたらそれは、不意にあなたを襲ってきて、
喉元を噛み千切ってゆくかもしれません。

そうなるかどうかはまったくわかりません。

すべてが可能性のままです。
現実に訪れることは、少なくともまだ今のところありません。
しかしそれは次の瞬間には襲ってくるかもしれません。

それは誰にもわかりません。

だからまず、この問いを問うには、
このただ事ではない事態に身を置く必要があります。

ところがなお、こんな尋常じゃない状況で、
「”なぜ”何もないのではなく、何かがあるのか」と問う可能性が、
人には残されています。

残されているといっても、
「いつ死んでも構わない」くらいの覚悟がないかぎり、
この問いを問うことはできないでしょう。

だって、それを問うくらいなら、
とりあえず何でもいいから推測を立てて、
現実的な対処を考える方がマシだからです。

だから人は大抵、
その「何か」に対して、憶測を立てて、
それに対する対応策を練ることで、
自分の安心できるスペースを確保しようとします。

だから、目の前のこなすべき課題に必死な人は、
こんな風に、何の現実的な対処もせずに、
訳の分からないものとそのまま向き合っている人を馬鹿にします。

「あの人は暇人だ」と言うことでしょう。

しかし、それを問うこちらとしては、
決して暇なわけではなく、ある種、
「いつ襲われても構わない」という覚悟を決めて、
ものすごく真剣に向き合っているわけです。

では、この向き合っている人は、
心のなかはもう、不安で満たされていて、
何も考えることができていないのでしょうか。

ぼくはそのようには思いません。

もちろんそこには不安があります。
けれど、「なぜ?」と問うことで、不安でありながらも、
まだそれが襲ってくるまでの時間がその人には残されています。

というのも、本当にもう時間がなかったら、
「なぜ?」と問うことすらできないからです。

あるいはこう言ってもいいのかもしれません。

「なぜ?」と問うことで時間が捻り出される。

つまり問うことにおいて、
正気の沙汰でいられない中でも正気を保つことができるのです。

だから
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いを問うことは、
狂気のなかの正気なのです。

この問いと向き合い、
途中で耐えきれずに、答えと思しきものに飛びついてしまった人が、
その答えを世界の根源と思い込んで誇大妄想に陥り、
精神病院に連れて行かれてしまいます。

だからこの問いを本気で問うべきときが訪れたら、
必ず胆に銘じておかなければならないことがあります。

それは「答えることなく、問いつづけよ」ということです。

暗闇の道を、母恋しさに振り返ったら、悪魔に連れていかれてしまいます。
だから怖くても不安でも、絶対に振り返ってはなりません。
ずっと前に進み続けなければなりません。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」

この問いは、このような未曾有の問いだと、ぼくは思います。

変な長文かもしれないです。失礼しました(-_-;)

1ヶ月前 No.252

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

哲夫さん

>存在しないという選択肢が無いのなら、世界は無限に過去から存在し、これからもずっと存在し続けることになります。


 少々私が書いた249の補足です。ここで、私は「なぜ無ではなく、何かがあるのか」を考えるとき、人間は「無」を経験できない、そもそも「無」とはどんなことかわからないので、無を当然視する「なぜ無ではなく」という前提に無理があるのではと思っています。「無」があるかないかというより、「無」そのものがわからないのではというニュアンスです。
 宇宙論では、ビッグバンによって、宇宙が生じたとされていたり、マルチバースといういくつもの宇宙が存在するという理論があったりという話を考慮に入れる(専門的には私も全く分かっていませんが。)と、無であったことがあるのかどうか、ほんとうに何もないとはどういうことか、かなり難しい問題と思っています。
 また、物質が存在しない真空でもエネルギーが存在するという言い方もされています。「過去からずっと」という時間軸も、ビッグバン以前に「時間」が存在していたのかもわからないのではないでしょうか。少なくとも、我々が住むこの宇宙がビッグバンで始まってからは時間が流れているようには思いますが、それ以外のことは想像できません。
 ただ、文系の私ですので、理系の人からは、ゼロやマイナス、虚数などの数学概念では、人間は理解しているという反論があるかもしれません。相対論であらゆる慣性系で光速度は常に一定であるとか、光速に近づくと時間が遅くなり、空間が縮むというようなことは科学として受け入れられていますが、私が本質的に理解できているかというと理解不能と言わざるを得ません。
 要は、「存在しないという選択肢がない」というのは、「無」でないから、ずっと「有」であるという意味ではなく、「無」という人間が本質的にわかっていなことを前提にしても回答はでないというような意味で使っています。

>世界(私の意識の上だけかもしれないが)はどうして存在しているのでしょう?


 世界が存在するとは、不思議なことだと思います。でもその答えが、どこかに必ずあるとは言い切れないのだと思います。「どうして」という人間が考える問いに、「そうか」と人間がわかる答えがあるかどうか。この問いは、科学的でもあり、哲学的でもある問題と思いますが、存在することにほんとうに人間が納得する理由があるのかも視野に入れて検討してみてはどうでしょうか。検討の余地はあります。
 「世界(私の意識の上だけかもしれないが)」は、独我論の問題として取り上げられます。これも疑似問題というのが、私の感想です。よろしければ、別スレ「独我論を乗り越える方法」の 443 を参照ください。

28日前 No.253

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

すめんさん


 すめんさんに触発されて、この問題が気になっている私個人の事情について書きます。

 小学生の3年か4年のころ、夕方、両親が帰ってくる前に、「自分が死んだらどうなるのだろう」という強い不安感に襲われる時が何度もありました。

 学校で、先生が黒板に書かれているその日の日付を指して、「今日は二度と戻ってこない。あなたたちの人生で、今日は二度とない。だから、その日その日を大事にしないといけない」という意味のことを言いました。それがきっかけかどうか定かではないですが、当時私は、天国や極楽のような言葉は知っていたものの、絶対に嘘だと思っていて、死んだら何もなくなると思っていました。この私のすべてがこの宇宙からなくなる。死という行為そのものより、この私の存在が不可逆的に何もなくなるということが異常なくらいの恐怖でした。

 さらに、当時、小学生向けの雑誌に、太陽の運命が書かれた記事があり、膨張して、地球を飲み込んだ後、50億年後には光をなくした星になる(白色矮星になる)というのを読んで、地球がいずれなくなる、全人類がいなくなる、ということにもどうしようもない恐怖感を感じました。そんな考えが浮かんだ夕方は、よくおばあちゃんに泣きながら「死んだらどうなるの?」と繰り返し繰り返し聞いていました。両親が帰ってきてみんなで夕食を食べたり、テレビを見ていると落ち着いたのを覚えています。

 この宇宙がなぜ存在するかを問うことは、私の深層で過去の異常なくらいの恐怖とつながっているように思います。
 この問いを問いとして、思考からはずせるかというと、きっと外せないと思います。浮かんできてしまうものであり、一旦は横に置いておくことはできても、一生放置しておくことはできないものです。

 この問題にかかわらず、世の根源的なことの根拠を求める気持ちは強い方だと思います。すめんさんが言われるように、自らの精神の中に「自分の安心できるスペースを確保しよう」としているのかもしれません。ただ、「いつ死んでも構わない」くらいの覚悟はないのが現状です。

 あえて、私がこの問題を考えるメリットがあるとすれば、現実の価値観、つまり学歴や社会的地位、財産、人間関係などの不満や劣等感がちっちゃく思えて精神安定効果があることです。だから、現実的な何かで落ち込んだときは、逆にこのような哲学的な問いや、宇宙論、生命の歴史に思いをはせ、精神安定効果を狙うことがあります。

 すめんさんの書かれていることとは少し違うかもしれませんが、長年、私の意識に昇ってこなかったことを思い出しましたので、書いてみました。

28日前 No.254

★30JjgxOVKX_ZFe

「メリット・デメリット」の問題じゃないんじゃないじゃないじゃない?

「フィロソフィア」って。

27日前 No.255

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐさん

話が噛み合わない人の特徴【1】:価値観が常識とかけ離れている

        【2】:絶対に自分が正しいと思っている

27日前 No.256

★30JjgxOVKX_ZFe

おばちゃま、

「常識」って、なあに?

27日前 No.257

百理 ★bUKyk3gX2r_zRM

およぐちゃん

昔はアタック1って言うアニメで主人公のお父さんが勉強で辞書を全部憶えるのに1ページずつ食べていたの・・

最近そういうアニメは無いと思うけど・・イタリア人も知っているのアタックナンバーワンって知ってる?

辞書で調べてみてはどうですか?

バレーーボール選手と昭和の常識です。アタックナンバーワンのアニメ・・

27日前 No.258

★30JjgxOVKX_ZFe

>258
「昭和の常識」?

じゃ、「平成の常識」知ってます?

他にも、江戸の、明治の、大正の、縄文の、弥生の、アメリカの、ドイツの、フランスの、イスラムの・・・、常識を。

27日前 No.259

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐちゃん

常識の意味知ってて聞いたのね?

27日前 No.260

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>255

およぐちゃん

あたかもメリットが無い愛があるような言い方を、君がするなんて驚きだよ。

27日前 No.261

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>254

えぴめてうすさん。

お返事ありがとうございます。

ぼくも話がかみ合うかどうか、微妙ですが、

最近ふと、

自分が怯える暗闇のなかの「何か」は、

じつは自分自身ではないか、と思うようになりました。

本当に暗闇の先には、死があるのでしょうか。

このように問うのを、ただちに死後を信じることだとは、

どうか解さないでください。

光に慣れた目を癒すには、

暗闇も必要です。

それをメリットと呼ぶには、あまりにももったいない。

そんな気がします。

27日前 No.262

★30JjgxOVKX_ZFe

いっぱい雨が降ってる。嫌いじゃないけど、今は暇。

>260

ママ、常識をエポケーしてるだけよ。

27日前 No.263

百理 ★bUKyk3gX2r_zRM

およぐちゃん

ヒコ太郎さんに返答するのを気付いてる?

27日前 No.264

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

すめんさん

  >>262

 私も微妙なのですが、

>光に慣れた目を癒すには、暗闇も必要です。それをメリットと呼ぶには、あまりにももったいない。


 「暗闇」とは、このスレのテーマである「存在を問う」ということでしょうか。
 私にとって、「存在を問う」は、頭の片隅にある気がかりなことをつい思い出してしまうテーマです。
 それが、>254 で書いた自分の死(存在がなくなること)への恐怖体験と関係しているのかなと思っています。(定かではありません。根源を問いたがるのが、単に私の性格なのかもしれません。)
 他のスレでもいろいろ教えてもらっているのですが、答えがないので、気持ちの良い、楽しいテーマではないです。たぶん考え続けても、何かいいことがあるわけではないと思っています。
 そんな中、トランキライザーとして、意図的に思い浮かべる時があるのです。
 価値を見出せそうなら、何か怪しげなものではないかと疑ってしまう貧乏性でもあります。実用的な価値(トランキライザーとして以外に)がないことだから、逆に安心でもあるのです。
 我ながら、意味不明かも……

27日前 No.265

★30JjgxOVKX_ZFe

>261

あら、天使ちゃん。

あたかも「メリットが無い愛がある」ような言い方をほのめかしているのは、さすが天使ちゃん。
わたしが悪魔だっていうこと忘れてないようね。

でも、ちょっといまいちね。
人間が「愛」と呼んでいるものはメリット・デメリットっていう判断基準の次元に存在しているのではない、
って言ったら天使になれるかもよ。

高等科の悪魔はね、人間を知ることが重要な課題となっていて、それは、哲学から、だけじゃないのよ。

ちょっと教えてあげましょうか?
哲学の弱点はね、「感情」って人間が呼んでいるもの。
悪魔の手口は、そこを・・・しようとするの。


あまり書くと大魔王様に叱られちゃうからこのぐらいにしておこっと。

27日前 No.266

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>265

えぴめてうすさん。

死は存在するのでしょうか。

27日前 No.267

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

すめんさん

 >267

 私は、死について、哲学的に考えたことはありません。なぜか考える動機がわいてこないのです。
 「なぜ生きているのか」の対岸に「死」があるのかもしれませんが、今生きている人生とは、死ぬまでの時間つぶしだと思っています。学校へ行ったり、仕事をしたり、遊んだりすること。もしそれらをしなければ長すぎて間が持たないというか、それこそ死んでしまいそうになると思います。エロスが勝って、タナトスを押さえ、人は生きている。生を受けたら、生きざるを得ない状況になり、生きている。死の恐怖より、それ以外の何らかの苦が耐え難い状況になった人には、タナトスが頭をもたげてくるのかなと思います。
 話を戻して、「死」の存在ですが、全然哲学的ではないですが、「死」は現象ですので、「受精」が存在するか、「がんの発生」が存在するか、「けがをすること」が存在するかと同じではないかと思います。
 きっと哲学的に、レヴィナスの問いかけをイメージして、そうおっしゃってるんだろうと思いますが、あえて擬人化するなら、−例えば、「悲しみよ、さようなら」など − そんな言い方もできるけど、普通そんな言い方はしない、ただ死という現象があるということではないでしょうか。
 たぶん、期待外れかと。

26日前 No.268

百理 ★bUKyk3gX2r_zRM

えぴめてうすさん

名前に意味がはっきり解らないのですが・・

意識の中味は知覚体験で満たされます。

頭や背中を撫でられたことがありますか?

26日前 No.269

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>266

およぐちゃん


>人間が「愛」と呼んでいるものはメリット・デメリットっていう判断基準の次元に存在しているのではない、
>って言ったら天使になれるかもよ。

神様は、暇を持て余しているから、ボランティアで愛を人間に届けているのは知っているよ。
でもね、「天使になれるかもよ。」っていうのは、信じないよ。
悪魔のいうことだからね。



>哲学の弱点はね、「感情」って人間が呼んでいるもの。

悪魔がそういうからには、「「感情」って人間が呼んでいるもの」の弱点が、「哲学」なんだろうね。
それなら、話は簡単だ。
「「感情」って人間が呼んでいるもの」を、「哲学」から守ればいいんだね。

26日前 No.270

★30JjgxOVKX_ZFe

>270
天使ちゃん、「信じないよ」、ピンポン〜。

〈「「感情」って人間が呼んでいるもの」を、「哲学」から守ればいいんだね。〉
ちょっと、違う。これまでの哲学を、認識(主知主義とか理性)から解放するってうこと、かな?

26日前 No.271

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>271

そんなこと、きみにも、神様にだって、できやしない。
それができるのは、人間だけだよ。
罪ある者達には便所掃除がお似合いさ。
信じられるかい?彼らは、平気で汚物を撒き散らすんだ。

26日前 No.272

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>268

エロスとタナトスといった

二項の価値が反転する鏡のような現象としての死について、

それを問う時間そのものは

あるかないかと問うことができるのでしょうか……?

問えないとしたら、

死に問いかけ自己を照らす時間は

自己を試しているのでしょうか………

死そのものに

そのままの自己を見るとき、

私の問いかけているのが私だとしたら…………

26日前 No.273

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>268  えぴめてうすさん
はじめまして。
通りすがりで失礼します。

もし、あなたが死について哲学的に考えたことがないのなら、
独我論についても全然わかっていないことになりますね。
以下、理由を述べます。

独我論とは、
「私だけが存在する」
言い換えると、
「存在するのは私だけである」
と主張する思想です。
したがって、
 存在するものごとの総体=世界
だとすると、独我論とは、
 私=世界
と主張する思想でもあります。
したがって、
 私の死=世界の終わり
ということも含意します。
『論考』に書かれた独我論もこのことに関わっています。
それゆえ、自分の死を哲学的に考えたことのないものは、独我論もけして理解していませんし、ウィトゲンシュタインの言っていることも全くわかっていないことになります。

独我論について真剣に考える気があるのなら、知ったかぶりしか能のない人(すめんさんではありません)を相手に時間を無駄にするより、『論考』の訳者である野矢茂樹さんの『心と他者』(中公文庫)でも読まれたほうが、よっぽど有意義かと思いますよ。

26日前 No.274

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

本の中の意味は、解りやすいのに・・気持ちのいい納得・・

生身の人は全く視点が違う・・

会話になるかどうか・・

意思疎通がネットも国会答弁並み・・

25日前 No.275

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

>>275

こんにちは、百里さん。

せっかくコメントしていただいたのに、

返信せずにすいません。

さっそく >>275 のコメントについて、

どうやら本の中の意味はわかりやすいけれど、

その反面、毒にもなるらしいです・・・

デリダという人がプラトンの『パイドロス』を読解して、

ギリシャ語の「パルマコン」という言葉が、

書という意味と同時に、毒という意味があることを炙り出したんだとか・・・

すいません・・・

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』、講談社、2015年

という本に書いてあった知識を使ったのですが、

何しろまったくうろ覚えなので、

へぇって程度に聞き流しといていただければ・・・

(もしかしたら間違ってるかもしれません)

まあ、

たぶん書と毒のバランスが大事なんでしょう・・・

自分で書いていながら、

そうか、と納得したりw

あ、もしかしたら

書と毒ではなく

格と読かもしれませんね・・・

格は「人格」の格ですねw

どうも相手を縛るような意味があるそうです!

もちろん、縛るといっても、悪い意味ではないですよ・・・

その人の「顔」をイメージすると、

自然と言葉が詰まったり、

すらすらと出たり・・・

そういう意味での「格」ですね!

話ながらまた、新たな発見!

また、お話ししましょう!

では、たいへん、失礼いたしました!

23日前 No.276

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

すめんさん

いつも適当発言でお気を悪くなさったことお詫びします。

言葉は芸術とならず魔術となったら最悪です。

雄弁の銀は、しょせん沈黙の金には敵いません・・

聖域の象徴、パルテノン神殿も破壊されたのです。

23日前 No.277

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

百理さん

こんにちわ

  >>269

>頭や背中を撫でられたことがありますか?


あります。

21日前 No.278

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>もし、あなたが死について哲学的に考えたことがないのなら、

>独我論についても全然わかっていないことになりますね。


 別のスレでも言っているのですが、私は、「独我論」の主張がわかりません。
 「独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。」という意味と理解して考えを巡らせていますが、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」のところが特に理解できません。
 ただし、私が独我論者であると言われたこともあります。

>独我論とは、

>「私だけが存在する」

>言い換えると、

>「存在するのは私だけである」

>と主張する思想です。


 ちょうどいい切り口をいただいたと思います。
 私が独我論について、強い疑念をもっているのは、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」といい、まさに「じこちゅー」的な見方で、「私が認識している範囲の世界がすべてである」ということになり、ご指摘の「存在するのは私だけである」になってしまうことなのですが、具体的に言うと、その人は誰に向かってそのことを言っているのでしょうか、すべて一人言なのでしょうか、自分の親も否定するのでしょうか、それなら、自分の存在の起源をどう考えているのでしようか、自分が生産してもいない食べ物を食べて生きていることを不思議に思わないのでしょうか、科学理論(物理や化学や)をどう考えているのでしょうか、という疑問です。「私の言っていることはうそである」に匹敵しそうな奇妙さがあります。
 「夢」がまさにそういう状態(独我論の世界)に近いような気がしますが、現実の世界では、人間としての社会性を欠く(一人だけなのですから、他者を全く気にする必要はないはずです)か、自分をずっとだまして(社会性を装って)生きていかなければならないのではないかと思います。自分をだます必要性はないように思いますが。

>私の死=世界の終わり

>ということも含意します。


 そうなりますよね。そこで上記に加えてですが、この「私」とはだれか、1人しかいないのでしょうか。何人かいるのでしようか。複数いるなら、世界も複数あり、それらの世界同士は独立しているのでしょうね。マルチバースでしょうか。しかし、1つの世界には1人しかいないのですから、科学や哲学の知見や論点もあまり意味はないように思います。もっと言えば、「私が認識を止めると」、自分の足や手もまた「消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」であれば、もはや生命であるとも言い切れない存在。それが、「私」ということに。ほんとうに独我論の世界は不思議です。

>『論考』に書かれた独我論もこのことに関わっています。

>それゆえ、自分の死を哲学的に考えたことのないものは、独我論もけして理解していませんし、ウィトゲンシュタインの言っている>>ことも全くわかっていないことになります。


 ヴィトゲンシュタインは、まちがいなく私の精神に衝撃を与えた人物です。世の中にこんなことを考えていた人がいたのかという私なりの驚きを覚えたことを思い出します。驚きとともに、彼の性格というか性癖というか人間そのものに対する、何とも言えない、プラス、マイナス入り混じった感情を抱きました。
 しかし、そのことと、ヴィトゲンシュタインを理解していることとは別だと思います。「独我論」は決して理解できません。

>『独我論について真剣に考える気があるのなら、知ったかぶりしか能のない人(すめんさんではありません)を相手に時間を無駄にするより、『論考』の訳者である野矢茂樹さんの『心と他者』(中公文庫)でも読まれたほうが、よっぽど有意義かと思いますよ。


 ありがとうございます。いま社会科学でいくつか読まなければならない本がありまして、正月あたりで是非読んでみたいと思います。

21日前 No.279

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

すめんさん

>>273

>時間そのものはあるかないかと問うことができるのでしょうか……?


 時間とは、変化を理解するために人間が生み出した概念ではないかと思います。なので、正義とか温度など同じではないでしょうか。時間、正義、温度といった概念は、人間の頭の中には存在し、それを用いて思考できます。時間という概念がなくても、世界は変わらないでしょうが、別の概念で世界を見れば、それを用いて見た世界は違って見えるのではないかと思います。
 また、どこかでだれかが、「認識の形式」ではと言っておられましたが、それに少し共感しています。

>死そのものにそのままの自己を見るとき、私の問いかけているのが私だとしたら…………


 その状況では、きっとあなたしかいないと思います。ちょっとドキッとしますね。

21日前 No.280

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 この哲学における究極の問題には、「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」という前提が置かれているとのことですが、このことについて、みなさんどう思われますか。

人間の思考は、ある範囲に限られるというのが、私の感覚です。
まず、情報は感覚器官を通じて獲得されますが、見えるのは可視光の範囲、聴覚も範囲がある、嗅覚も他の動物より能力が低い(ことが多い)、計算力も個人差はあるものの、コンピュータのCPUにはかなわない などなど。
それが人間であり、人間を規定している要素だと思います。

もどって、そんな全能の神でない人間に、「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」ことが保証されているかといわれれば、YESとは答えがたいというのが私の意見です。

人間の思考能力(論理的な演算力)がスパコンや量子コンピュータ並みだったら、世の中の言論や自然科学、社会科学は、もっと違った知見を示すでしょう。「十分な理由」を示せる範囲も拡大するのではないかと思います。どこまでいけば、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に納得のいく回答が出るのかはわかりませんが。

7日前 No.281

hiro ★0eOsgQeVPl_PHR

何かが存在することに関して、そもそも理由があるのか疑問に感じています。道端に石が転がっている事と同じ事ではないでしょうか。それに対して人間が勝ってに意味を付与しただけだと考えています。偉そうな事を言ってしまい、すいません。

7日前 No.282

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

hiroさん

 私も同様の疑問を持ち、「存在」について考えています。

 さらに、人間が「理由がある」と思うとは、どういうことか問う必要があるかもしれません。

 道端に転がっている石であれば、その石が今の状態にたどり着いた来歴がわかれば、そこにある理由になるのかもしれません。
 ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」で、「世界がどのようになっているか、でなく、世界があるということ、これが謎である」と言っています。
 ものごとがいかにあるかを問題にすることと、ものごとがあるということそのものを問題にすることは、別と考えるべきなのかもしれません。なぜ別なのか言い表すことは私にとって難しいことですが。

 私も人間が勝手に意味を創造しているのではないかと思っています。はたしてその意味創造の機序、メカニズムはどうなっているのでしょうか。

7日前 No.283

★30JjgxOVKX_m9i

>282

hiroさまの場合、「意味」という語、どういう意味で使っています?

6日前 No.284

hiro ★0eOsgQeVPl_PHR

価値、という意味で使ってます。客体と主体との相互作用のなかで何かが発生するという意味で、それが価値だと思います。もっともそれは、客体が存在することを前提とします。では、客体の存在は証明可能なのか?そしてまた主体の存在はどうなのか?そもそも証明という概念は何なのか?疑問を感じている私が存在することは確かだという考え方がありますが、本当にそうなのか?論理法則は、アプリオリに信用できるのか?僕にはよく分かりません。



世界が存在する事が謎である。

世界の存在することは、定理ではなく公理だと考えてはいけないのでしょうか。

5日前 No.285

★30JjgxOVKX_m9i

>285

「世界の存在することは、定理ではなく公理だと考えてはいけないのでしょうか」

は、「世界が存在するかどうか」という問い的問題であって、

「世界が存在する事が謎である」とはちょっと意味あいが違う感じするけど?

4日前 No.286

hiro ★0eOsgQeVPl_PHR

存在について考察するには、二つのアプローチがあるとおもいます。即ち、why,とhow,です。これに関してある仮説を立ててみました。        まずhowについて   事象がその属性として具備しており、人間はそれを認識できる。物理学の成功がそれを支持している。      whyについて    事象がその属性として具備していないのに、人間がそれを認識できると思いこんでいる。 人間の思考の習性として、方向性として、思いこんでいる。その結果、論理と概念による妄想の体系が出来上がった。  どう思われますでしょうか?

4日前 No.287

hiro ★0eOsgQeVPl_PHR

世界が存在することが公理であればその根拠をそれ以上問う必要が無くなるので、従って謎ではなくなる、という意味で発言させていただきました。誤解があれば、すいません、

4日前 No.288

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>287

「妄想の体系」ねえ…
昔、そんなふうなことを言った論理実証主義っていうのがあったな。
今でもそういうことを考える人がいるんだね。

その考えをラフに言い換えると、もともと充足理由律の枠組みでは答の出ない問いなのに、
それを当てはめるから無理があるんだとも言えるんじゃないのかな。

確かに、存在論の問いは形而上学的問いであって、科学的問いではない。

『世界が存在することの神秘』にうたれることのない人間には、そもそも存在論は理解できない。
ライプニッツも、ハイデガーも、ウィトゲンシュタインも、『存在の不思議』を見つめた哲学者だ。
ライプニッツの言葉にいわば「心がわしづかみ」にされない人、あるいは、この問いの定式化にライプニッツの天才の凄さを感じない人は、
だいたい形而上学的センスがないので、とんちんかんなことばかり言う。ま、存在論はわからんでしょ。独我論もね。
と、個人的には思うな(笑)
まあ、必要もないだろうし、そう思うならスルーしたらいいんじゃないの。

4日前 No.289

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>289

蛇足だろうが、少し付け加えておく。

存在を公理しても別に構わないというか、古典論理の標準理論は議論領域が空でないことを前提とするから、
世界の存在を前提にしているとも解釈可能だろうね。

だけど、それは、その公理系を採用する言語の中で存在について語らない、という取り決めに過ぎないのであって、
存在の不思議さが消えるわけでも、それについて納得いく解決が得られたのでも、問題が解消したわけでもない。

仮にその内部だけを語りうる領域としたところで、その外部を人が求めるということそのものを否定することはできない。
実際、そこにこそ生の意義や美や宗教的価値などあるわけで、だからこそ芸術・文学・宗教etc.が存在するわけだ。
もちろん、それについて科学が用いる言語と同じ言語で記述することはできないかもしれないが、
だからといって、それを語ろうとすることそのものを妄想とするのは言いすぎだろう。

論理実証主義なんかは『論考』に依拠して、その非常に狭く限定した検証可能な命題をのみ有意義な言語とし、それをはみ出す表現を無意味だと言ってしまったが、
それはあまりに言語に対する偏った観方であったと現在ではみなされているし、それは当然だと思うよ。

だから、哲学史的には論理実証主義もそこに属する分析哲学の系統でも、現在では存在論は様相論理などを用いて盛んに論じられているし、
他方、現象学やハイデガー的存在論の流れからも、結構早くから精神病理学への応用がなされているし、
最近では認知科学や人工知能でも現象学やハイデガーの存在論の知見を利用している研究者もいる。
こういったものをある程度きちんと勉強して知れば、存在論を妄想なんて言えなくなると思うんだけどね。

お邪魔さま。

1日前 No.290

★30JjgxOVKX_m9i

>290

阿さま

「認知科学や人工知能でも現象学やハイデガーの存在論の知見を利用している研究者もいる。」

こういう研究者、わたし、好み。

でもね、「哲学」って、「最近」っていう次元じゃない「学」じゃないかしら?

1日前 No.291

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>290

ちょっとちょっと、何で名前間違えてんのよ、かんべんしてよ。

嫌がらせ?(笑)

1日前 No.292

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>292

あっ、ミスった。

290じゃなくて、 >>291 ね。

1日前 No.293

★30JjgxOVKX_m9i

>292
あら、ごめんなさい。違ったかいら?
なんか、上から目線的なオーラを感じてるからからかしらね。

ふくちゃん
わたしが嫌がらせするはずないでしょ。
わたしって素直なのよ。

(笑)で、許してあげる。

1日前 No.294

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」が答の無い究極の謎に見えてしまう理由は、単純です。自分が認識できるのは「何かがある」の方だけだという理由だけで、「何もない」の方は実現していないと勝手に思い込んでいるからです。言わば、自分の世界こそがすべてだと信じる「井の中の蛙」状態だからです。
 そこで本当は、確率Pで「何かがある」が、確率1−Pで「何もない」が、ともに実現していると考えます。そうすると、「何かがある」と認識する視点に立てば「何かがある」、「何もない」と認識する視点に立てば「何もない」、のダブル・トートロジーが成立していただけとなり、この謎は消滅します。もっとも、「何もない」の方はそれを認識する主体も発生できないので、仮に確率1/2ずつで両方が実現したとしても、確率1で「何かがある」だけが実現したように認識するはずです(一種の「人間原理」「観測者選択効果」)。
 量子力学の多世界解釈(やD・ルイスの「可能世界論(様相実在論)」)では、存在し得るすべての世界の存在を考えますが、どの世界も、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」、を満たした在り方をしています。こう考えると、「なぜ存在するのか?」「なぜ存在しないのか?」という謎自体が消滅します。

 一般的な表現は、a「何かがある」+b「何もない」(aもbも不明)…※です。a=1、b=0だと※は単独の「何かがある」です。a=0、b=1だと※は単独の「何もない」です。a=1、b=1だと※は両方の「何かがある」+「何もない」です。「何かがある」でもあれば「何もない」でもあり、片方でもあれば両方でもある、とすべてを含んだ記述になっています。「○○○である」=「何かがある」、「○○○でない」=「何もない」、「□□□である」=「「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現されている」とおくと、※は、「○○○ある」でもあれば「○○○でない」でもあり、かつ、「□□□である」でもあれば「□□□でない」でも有り得ています。この※こそが究極の真理だと見なせます。

 ※は証明不要の絶対的真理です。そもそも証明というものは、「「○○○である」が真であり「○○○でない」は偽である」というふうに、真理を片方だけに限定する場合に必要となるものです。つまり、「「何かがある」が真であり「何もない」は偽である」または「「何もない」が真であり「何かがある」は偽である」と主張する人の方が、立証責任を負います。※は何も真理を限定していないので、証明不要のまま真です。例えると「サイコロを投げて出る目は1、2、3、4、5、6のどれかである」のように、すべての可能性をどれ1つ否定せずに網羅したまま、その中のどれかが正しいだろうと主張しており、外れることは有り得ないという意味で、恒真(トートロジー)になります。

 「○○○である」自体がトートロジーであれば、その否定である「○○○でない」は矛盾になるので、「○○○である」だけが起こり「○○○でない」の方は起こり得ない理由を、無矛盾な論理法則だけで説明できます。しかし、「○○○である」も「○○○でない」もトートロジーではなく、矛盾でもない場合、論理だけではどちらが起きるのかを決められません。自分の世界で「○○○である」の方だけが実現していても、それは経験的事実に過ぎず、論理的必然性ではないため、「なぜ?」という謎が残り、「そんなの知らないよ」「なぜかそうなのだからそうなのさ」で答は見つかりません。

 ここで「充足理由律」(どんな謎にも答が有る)を仮定するなら、どう考えるべきでしょう? 多世界解釈を採り、自分が住む世界では「○○○である」が実現したけれども、別の世界では「○○○でない」の方が起きたのだ、と考える以外に解決方法は有りません。そして、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、というダブル・トートロジーが成立しているだけだ、という説明になります。


 より詳しくはこちらへ↓
スレッド『量子神学概論(多世界解釈で記述する全知全能の神)』 http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-488,493,494

1日前 No.295

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「充足理由律」と「豊饒性原理」の関係

 G・ライプニッツの言う「充足理由律」(どんな謎にも答が有る)とR・ノージックの言う「豊饒性原理」(実現可能なものはすべて実現している)とは、密接な関係が有ります。殆ど同値と言えるくらいです。

 まず「○○○である」自体がトートロジー(同語反復的恒真命題)である場合。例えば「リンゴはリンゴである」など。その否定「○○○でない」は矛盾した内容となります。だから、実現できるのは「○○○である」の方だけであり、「○○○でない」の方は実現できないことを、無矛盾な論理法則だけで説明できます。この場合、「○○○である」が実現しているだけで「豊饒性原理」を満たしているがゆえに、「充足理由律」の方も満たしているのです。

 次に「○○○である」も「○○○でない」もトートロジーではなく、矛盾でもない場合。例えばシュレディンガーの猫の生死を観測し、「「生」である」と「「生」でない」(「死」である)のような場合。無矛盾な論理法則だけでは、どちらが起きるのかを決定できません。どちらも起きて良いし、起こらなくても良い、という状況です。自分が住む世界では「○○○である」の方だけが起きているとしましょう。もしここで、実現したのは「○○○である」の方だけであり「○○○でない」の方は実現していないと考えると、どうなるでしょう? 両方実現可能なのに、片方だけが実現しているとすると「豊饒性原理」が満たされていません。すると、「なぜ「○○○である」の方だけが選ばれて実現し、「○○○でない」の方は実現しなかったのか?」という謎が残り、その答は無く、「そんなの知らないよ。なぜかそうだからそうなのだよ。」と諦めるしか無くなり、「充足理由律」の方も満たせないことになります。
 そこで量子力学の多世界解釈を採り、自分が住む世界では「○○○である」の方が実現したが、別の世界では「○○○でない」の方も実現したのだ、と考えます。すると、どちらも実現したのだから「豊饒性原理」を満たすことになります。しかも両方が実現しているので、片方の視点に立つためにはそちらを選ぶ必要が生じます。つまり、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、のダブル・トートロジーが成立しているだけなのだ、と説明ができ、「充足理由律」の方も満たせることになります。

 人間は「○○○である」と「○○○でない」の片方だけしか認識できないので、「なぜ片方だけが選ばれて実現したのだろう?」という謎の存在を感じてしまいます。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」がまさにそれです。「何かがある」の方だけが実現したと考えると「豊饒性原理」が満たされないがゆえに「充足理由律」も満たされません。
 そこで「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考えれば、「豊饒性原理」を満たすがゆえに「充足理由律」の方も満たし得るのです。そして、「何かがある」と認識する視点に立てば「何かがある」、「何もない」と認識する視点に立てば「何もない」、というダブル・トートロジーが成立しているだけだったことになり、この謎も消滅します。

15時間前 No.296

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

SumioBabaさん

 おはようございます。

 私は存在論がよくわかっていない素人でして、物理的に「何もない」ということが、物質がなく、エネルギーがあると考えてよいのか、エネルギーもない状態を指すのか、ビッグバン以前はそうだったのかどうか、つまり「何もない」ということがどういうことかよくわからないのですが、

>そこで「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考えれば、


 は、同時に確率的には実現しているという意味でしょうか。あるいは今のこの世界がそうだという意味でしょうか。

>「何かがある」と認識する視点に立てば「何かがある」


 という前提で、あらためて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うことはできないでしょうか。
 私は、何かがある世界に生きてしまった人間が発する問いだと思っています。
 よって、この自分が生きている世界が、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という、この世界があることの根拠や理屈を求めているように思うのです。
 それは、「何かがある」ことそのものへの問いにもつながり、なぜ選択肢として、「何かがある」と「何もない」に分かれるのか を問うことでもあるのではと思われるのです。

9時間前 No.297
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