Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(511) >>

存在を問う

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(3385) - いいね!(1)

★Gc8HjmXH4j_BiB

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる

2年前 No.0
ページ: 1 2 3 4 5 6

 
 
↑前のページ (461件) | 最新ページ

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>460

 ありがとうございます。

> 論理的必然性は理解できないまま、自分が認識しているのはなぜか「○○○である」の方であって「○○○でない」の方ではないと、在りのままに認めるしかないのがオーソドックスな科学です。それを正しいと受け入れるのであれば、「○○○である」の方を証明なしに「公理」として定めるしか方法が有りません。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られない、ということです。


 また、ご質問をさせていただくのですが、
 これを、《多世界解釈を導入した場合》に適用すると、自分が認識しているのは「○○○である」の方であるが、「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」と考える。それを正しいと受け入れるのであれば、多世界解釈を証明なしの「公理」として定めることになる。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られないということになるかと思います。
 つまり、自然科学をはじめとして、ある公理を受け入ることにより、その公理系内では、論理が貫徹するが、その公理自体を疑うと、無現後退するというのが、多世界解釈が正しい場合に答えがなくなることの教訓だったと思いますが、同様の構造で、公理としての多世界解釈を疑うと、同じことにはならないのでしょうか。

>・ 後半の思い込みなしは、《多世界解釈を導入した場合》のうちの(正しい場合)ではなく、(正しい場合)+(正しくない場合)に該当します。


 了解しました。

>「多世界解釈」(合)を導入した場合、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)です。「謎はない」(正)を選ぶと「謎はない」(正)が選ばれますが、「なぜ謎はないのか?」というメタ謎が発生してしまいます。「謎が残る」(反)を選ぶと「謎が残る」(反)が選ばれる上に、「なぜ謎が残るのか?」というメタ謎も発生してしまいます。「謎はない」(合)に留まれば、「謎はない」(正)か「謎が残る」(反)かにも確定していないので、「なぜ謎はないのか?」「なぜ謎は残るのか?」というメタ謎自体が「ない」です。


 ここでの疑問は、「すべてある」(合)=「すべてある」(正)+「すべてあるわけではない」(反)だとすると、「すべてあるわけではない」(反)のことも含めて、「すべてある」(合)だということかと理解しやすいのですが、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)の場合は、「謎が残る」(反) のことも含めて、「謎はない」(合)だということが理解しにくいです。
 上の一切の思い込みなしの考え方(多世界解釈)においても、「謎がない」(正)こともあり、「謎が残る」(反)こともある、それらをあわせて、全体として「謎がない」(合)とはならないような気がするのですが、どう考えればいいのでしょう。

10日前 No.462

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>462  えぴめてうすさんへ

>> 論理的必然性は理解できないまま、自分が認識しているのはなぜか「○○○である」の方であって「○○○でない」の方ではないと、在りのままに認めるしかないのがオーソドックスな科学です。それを正しいと受け入れるのであれば、「○○○である」の方を証明なしに「公理」として定めるしか方法が有りません。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られない、ということです。


> また、ご質問をさせていただくのですが、

> これを、《多世界解釈を導入した場合》に適用すると、自分が認識しているのは「○○○である」の方であるが、「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」と考える。それを正しいと受け入れるのであれば、多世界解釈を証明なしの「公理」として定めることになる。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られないということになるかと思います。

> つまり、自然科学をはじめとして、ある公理を受け入ることにより、その公理系内では、論理が貫徹するが、その公理自体を疑うと、無現後退するというのが、多世界解釈が正しい場合に答えがなくなることの教訓だったと思いますが、同様の構造で、公理としての多世界解釈を疑うと、同じことにはならないのでしょうか。


 「多世界解釈」(合)はトートロジーなので、「公理」として定めたといっても、何一つ真理を限定した訳ではなく、証明の必要も無いので、無限後退に陥ることも有りません。《「多世界解釈」(合)を導入した場合》というのは、《仮定すなわち真理を限定する「公理」を何一つ定めない場合》と同義です。

>>「多世界解釈」(合)を導入した場合、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)です。「謎はない」(正)を選ぶと「謎はない」(正)が選ばれますが、「なぜ謎はないのか?」というメタ謎が発生してしまいます。「謎が残る」(反)を選ぶと「謎が残る」(反)が選ばれる上に、「なぜ謎が残るのか?」というメタ謎も発生してしまいます。「謎はない」(合)に留まれば、「謎はない」(正)か「謎が残る」(反)かにも確定していないので、「なぜ謎はないのか?」「なぜ謎は残るのか?」というメタ謎自体が「ない」です。


> ここでの疑問は、「すべてある」(合)=「すべてある」(正)+「すべてあるわけではない」(反)だとすると、「すべてあるわけではない」(反)のことも含めて、「すべてある」(合)だということかと理解しやすいのですが、「謎はない」(合)=「謎はない」(正)+「謎が残る」(反)の場合は、「謎が残る」(反) のことも含めて、「謎はない」(合)だということが理解しにくいです。

> 上の一切の思い込みなしの考え方(多世界解釈)においても、「謎がない」(正)こともあり、「謎が残る」(反)こともある、それらをあわせて、全体として「謎がない」(合)とはならないような気がするのですが、どう考えればいいのでしょう。


 「多世界解釈」(合)の視点に立っているとき、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)ですから、「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(反)とが重ね合わせのままです。「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」という《謎》は、「多世界解釈」(正)の視点だと消滅し、「多世界解釈」(反)の視点だと残ります。「多世界解釈」(合)の視点では、「多世界解釈」(反)の場合に《謎》が残ってしまう原因も理解しているし、《謎》を消滅させるには「多世界解釈」(正)を選べば良いことも知っています。つまり「多世界解釈」(合)の視点では、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方なのか?」という《謎》の答をすでに得ており、《謎》は消滅しています。

10日前 No.463

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>463

 ありがとうございます。

>>つまり、自然科学をはじめとして、ある公理を受け入ることにより、その公理系内では、論理が貫徹するが、その公理自体を疑うと、無現後退するというのが、多世界解釈が正しい場合に答えがなくなることの教訓だったと思いますが、同様の構造で、公理としての多世界解釈を疑うと、同じことにはならないのでしょうか。


 すみません。上記で誤字がありました。失礼しました。
(誤字)
 無現後退するというのが、
   ↓
 無限後退するというのが、

 多世界解釈が正しい場合に答えがなくなること
   ↓
 多世界解釈が正しくない場合に答えがなくなること


「多世界解釈」(合)の場合の公理としての考え方のところがよくわからないのですが……、

>「多世界解釈」(合)はトートロジーなので、「公理」として定めたといっても、何一つ真理を限定した訳ではなく、証明の必要も無いので、無限後退に陥ることも有りません。《「多世界解釈」(合)を導入した場合》というのは、《仮定すなわち真理を限定する「公理」を何一つ定めない場合》と同義です。


《常識的に考えた場合》
【公理】
 何かがある又は何もないのどちらかである
   ↑
 この「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退となる。

《「多世界解釈」(合)を導入した場合》
【公理】
 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》
   ↑
 この【公理】について論理的必然性による説明を試みた場合、「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」、「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」という疑問が出て、結局、「それは、実証も反証もできない公理として置いているから」ということにはならないのでしょうか。

10日前 No.464

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>464  えぴめてうすさんへ

>《「多世界解釈」(合)を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》

>   ↑

> この【公理】について論理的必然性による説明を試みた場合、「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」、「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」という疑問が出て、結局、「それは、実証も反証もできない公理として置いているから」ということにはならないのでしょうか。


 「多世界解釈」(合)の内容は「存在し得るすべての世界のどれもが、「存在する」または「存在しない」または「存在する」+「存在しない」の可能性が有る」です。あらゆる可能性を網羅しているので、何一つ真理を限定していません。従って証明の必要も無く恒真(トートロジー)であり、「多世界解釈」(合)そのものが論理的必然性で真です。
 「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」と問われていますが、そんな限定は何も含まれていません。「成立し得る」を選べば「成立し得る」が選ばれる、「成立し得ない」を選べば「成立し得ない」が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。

 「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」の方。
 「多世界解釈」(合)には、「存在し得るすべての世界が存在する」を確率1/2で、「存在し得るすべての世界のうち、存在するのは自分が住む世界W1だけであり、他の世界W2、W3、…は存在しない」を確率1/2で重ね合わせたものも含まれます。この場合「成立し得る」です。「多世界解釈」(合)は、「存在し得るすべての世界が存在する」が確率1の場合も含んでいるし、「存在し得るすべての世界のうち、存在するのは自分が住む世界W1だけであり、他の世界W2、W3、…は存在しない」が確率1の場合も含まれます。これらの場合「成立し得ない」です。「成立し得る」を選べば「成立し得る」が選ばれる、「成立し得ない」を選べば「成立し得ない」が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。

 「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」の方も同様です。「成立し得る」を選べば「成立し得る」が選ばれる、「成立し得ない」を選べば「成立し得ない」が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。

9日前 No.465

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>465

 何度も繰り返しで、恐縮です。
 公理自体を問題にするという意味で、「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」なのですが、
 別の言い方をするとすれば、

>「多世界解釈」(合)の内容は「存在し得るすべての世界のどれもが、「存在する」または「存在しない」または「存在する」+「存在しない」の可能性が有る」です。あらゆる可能性を網羅しているので、何一つ真理を限定していません。従って証明の必要も無く恒真(トートロジー)であり、「多世界解釈」(合)そのものが論理的必然性で真です。

といった意味内容を持つ「公理」たる「多世界解釈」(合)は、なぜそのような内容であるのかを問うということかと思います。

 つまり、常識的に考えた場合の【公理】「何かがある又は何もないのどちらかである」に対して、「この「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退となる」という構造を、「多世界解釈」(合)を導入した場合に適用すると、こういう問い(世界の説明としての「多世界解釈」(合)は、なぜそのような内容であるのか)があるのではないかと思われるのですが………。

9日前 No.466

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>466  えぴめてうすさんへ

>>「多世界解釈」(合)の内容は「存在し得るすべての世界のどれもが、「存在する」または「存在しない」または「存在する」+「存在しない」の可能性が有る」です。あらゆる可能性を網羅しているので、何一つ真理を限定していません。従って証明の必要も無く恒真(トートロジー)であり、「多世界解釈」(合)そのものが論理的必然性で真です。

>といった意味内容を持つ「公理」たる「多世界解釈」(合)は、なぜそのような内容であるのかを問うということかと思います。


 真理を何一つ限定しないことを考えているので、世界の状態は存在し得るすべての可能性を考慮すべきだし、「存在する」か「存在しない」か「存在する」+「存在しない」かもすべての可能性を考慮します。そうすると「多世界解釈」(合)になります。

> つまり、常識的に考えた場合の【公理】「何かがある又は何もないのどちらかである」に対して、「この「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退となる」という構造を、


 「何かがある又は何もないのどちらかである」をa「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)と解釈するなら、これ自体がトートロジーです。(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張していることになり、外れることが有り得ない、という意味で)。トートロジー(恒真)ですから証明不要だし、無限後退にはなりませんよ。
 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。

9日前 No.467

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>467

 ありがとうございます。

《常識的に考えた場合》のアナロジーで見た場合、《「多世界解釈」(合)を導入した場合》についても、公理への問いという点では同じに見えます。

《常識的に考えた場合》
【公理】
 何かがある又は何もないのどちらかである
   ↑
 なぜ世界は「何かがある又は何もないのどちらかである」のか?
   ↑
 それは、実証も反証もできない公理として置いているから

《「多世界解釈」(合)を導入した場合》
【公理】
 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」
   ↑
 なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?
   ↑
 それは、実証も反証もできない公理として置いているから

>>といった意味内容を持つ「公理」たる「多世界解釈」(合)は、なぜそのような内容であるのかを問うということかと思います。

>真理を何一つ限定しないことを考えているので、世界の状態は存在し得るすべての可能性を考慮すべきだし、「存在する」か「存在しない」か「存在する」+「存在しない」かもすべての可能性を考慮します。そうすると「多世界解釈」(合)になります。


 私の質問の仕方がよくありませんでしたが、多世界解釈の内容は、ご説明の内容で了解しているのですが、《常識的に考えた場合》の【公理】何かがある又は何もないのどちらかである」に対する問い「なぜ世界は「何かがある又は何もないのどちらかである」のか?」と同様、なぜ世界のことを、「真理を何一つ限定しないことを考えているので、世界の状態は存在し得るすべての可能性を考慮すべきだし、「存在する」か「存在しない」か「存在する」+「存在しない」かもすべての可能性を考慮」する多世界解釈で説明するのかを問うということかと思います。
 私は、世界のありようの説明としての多世界解釈は、仮説であり、公理としておいたものであり、ユークリッド幾何学などの公理と同様、前提であるとしか答えがないように思えるのです。

 また、 >>465  で、
>「なぜ多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立しうるのか」「なぜそのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立しうるのか」と問われていますが、そんな限定は何も含まれていません。「成立し得る」を選べば「成立し得る」が選ばれる、「成立し得ない」を選べば「成立し得ない」が選ばれる、これもダブル・トートロジーです。


 とのことでしたが、公理から、神は両方を実現していますので、それぞれの視点に立つことなく、世界全体では、「多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立し」、「そのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立し」ているということかと思われます。
 さらに、それぞれが独立しており、世界を同時に体験できないとすれば、それはなぜなのかという問いが生じるように思われるのですが、いかがでしょうか。

9日前 No.468

★Android=5p7EFVubi0

それぞれが独立しており、世界を同時に体験できない理由 有ると無いを同時に満たしてしまうと矛盾した存在しないものになるから(正確には不定=定義不能=認識不能)

9日前 No.469

★Android=5p7EFVubi0

まあ正確には全ての集合の集合が結果として集合ではない存在になり存在しないになるのと同じ理由

9日前 No.470

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

失礼します

なぜなにも無いのでなく在るのか?の答えは「時間が有るから」じゃないでしょうか?
存在というのは時間とイコールだと思います。時間が無ければ当然に存在もない。通行人の意見ですが・・

9日前 No.471

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>469  塵さんへ

>それぞれが独立しており、世界を同時に体験できない理由 有ると無いを同時に満たしてしまうと矛盾した存在しないものになるから(正確には不定=定義不能=認識不能)


 これはナイスコメント!! しかもExtremely Good!! 脱帽です。SumioBabaの説明も全く同じものになります。以下でもうちょっと詳しく説明しますが。


>>468  えぴめてうすさんへ

>《常識的に考えた場合》

>【公理】

> 何かがある又は何もないのどちらかである

>   ↑

> なぜ世界は「何かがある又は何もないのどちらかである」のか?

   ↑
> それは、実証も反証もできない公理として置いているから


>《「多世界解釈」(合)を導入した場合》

>【公理】

 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」
>   ↑

> なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?

>   ↑

> それは、実証も反証もできない公理として置いているから


 上の2つの例、【公理】がどちらもトートロジーなので(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真であると主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真なので)、人間が住む「無矛盾な世界」では絶対的真理であるから、それを「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。
 「神」は全知全能なのだから、トートロジーでさえ肯定も否定もできます。しかし、トートロジーを否定すると矛盾になり、それは「有矛盾な世界」での話になります。我々は今、「無矛盾な世界」で世界とは何かを議論しているので、トートロジーは絶対的真理であり、それを証明する必要も無いし、トートロジーの否定を考えてみる必要も有りません。
 例えば「サイコロの目は1,2,3,4,5,6のどれかが出る」は、「角や辺で立つこともあるかもしれないではないか?」のような屁理屈を言い出さなければ、「無矛盾な世界」では絶対的真理です。これら6つ以外の可能性は無いからです。もちろん「神」は全知全能なので、「サイコロの目は1,2,3,4,5,6のどれかが出る」でさえ肯定することも否定することもできます。ただし、否定した場合には矛盾が生じ「有矛盾な世界」での話になってしまいます。我々人間が住む「無矛盾な世界」では、トートロジーである「サイコロの目は1,2,3,4,5,6のどれかが出る」は絶対的真理であり、「なぜ?」と問う必要さえ有りません。

> 公理から、神は両方を実現していますので、それぞれの視点に立つことなく、世界全体では、「多世界解釈の正誤という矛盾する世界の双方が成立し」、「そのような絶対的恒真のすべての世界が同時に成立し」ているということかと思われます。

 さらに、それぞれが独立しており、世界を同時に体験できないとすれば、それはなぜなのかという問いが生じるように思われるのですが、いかがでしょうか。

 なぜ人間は、「○○○である」と「○○○でない」の片方だけしか認識できないのか?、なぜ人間は「○○○である」と「○○○でない」の両方を同時に認識できないのか?、…であれば、塵さんがすでに答えて下さっています。両方を同時に認識すると矛盾が生じてしまい、「空」M0になってしまうから、…が答です。人間の心は「色」M1、M2、M3、…の方であり、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に縛られていなければ存在できません。

>>471  うさぎさんへ

>なぜなにも無いのでなく在るのか?の答えは「時間が有るから」じゃないでしょうか?

>存在というのは時間とイコールだと思います。時間が無ければ当然に存在もない。通行人の意見ですが・・


 なぜ時間は「ない」ではなく「ある」の方なのでしょう?

8日前 No.472

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>472

 丁寧なご返事をいただいているところですが、どうも質問の意図が届かず、苦慮しております。

>上の2つの例、【公理】がどちらもトートロジーなので(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真であると主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真なので)、人間が住む「無矛盾な世界」では絶対的真理であるから、それを「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


(《常識的に考えた場合》の公理を問うことが無意味であることについて)
  >>433 以降、《常識的に考えた場合》=多世界解釈が正しくない場合 に答えがないことは、真偽の証明ができない公理を受け入れたうえで、その公理を問題にしたためだということを、 >>459 で確認させていただいたかと思います。
 多世界解釈が正しくない場合について、下記のことが当てはまるのでしょうか。

>>467
 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。

(《「多世界解釈」(合)を導入した場合》の公理を問うことが無意味であることについて)
 多世界解釈の内容について、なぜと問うのではありません。
 なぜ、世界は、絶対的真理である「多世界」なのかという問いのことです。
 下記は、多世界解釈の内容がなぜ問う必要のない絶対的真理であることと、世界がなぜそのような多世界解釈の内容を持ったものであることを分けたうえ、後者の問いをしていることになるかと思います。

《「多世界解釈」(合)を導入した場合》
【公理】
 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」
   ↑
 なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?
   ↑
 それは、実証も反証もできない公理として置いているから

8日前 No.473

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>473  えぴめてうすさんへ

> 多世界解釈が正しくない場合について、下記のことが当てはまるのでしょうか。

> >>467

> 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。


 もちろんです。「「無矛盾な世界」においてトートロジーは論理的必然性で真」は、多世界解釈を採るか採らないかとは無関係に言えます。「トートロジーを否定すると矛盾が生じるから」がその理由です。

>(《「多世界解釈」(合)を導入した場合》の公理を問うことが無意味であることについて)

> 多世界解釈の内容について、なぜと問うのではありません。

> なぜ、世界は、絶対的真理である「多世界」なのかという問いのことです。


 P=「世界は、絶対的真理である「多世界」である」と置きます。「多世界解釈」(合)は、「Pが真であり¬Pが偽である」と真理を限定している訳ではなく、「Pまたは¬Pが真である」と主張しているので、決して外れることは無いという意味でトートロジー(恒真)です。

>《「多世界解釈」(合)を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈が正しい(すべてのことがあり得、かつ実現している)+多世界解釈が正しくない=《真理を限定する「公理」を何一つ定めない》=「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」

>   ↑

> なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?

>   ↑

> それは、実証も反証もできない公理として置いているから


 「SB量子神学」(合)による答はこうです。
    【問】
 なぜ世界は、「「全知全能の「神」があらゆる○○○について、「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」=「□□□である」」のか?
    【答】
 全知全能の「神」が実現しているのは、「□□□である」だけではなく、a「□□□である」+b「□□□でない」(aとbは不明)である。「□□□である」かもしれない、「□□□でない」かもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、…これらすべての可能性が有る。【問】は、実現されているのが「□□□である」片方だけだと思い込む勘違いにより、「なぜ「□□□である」の方だけが実現され、「□□□でない」の方は実現されていないのか?」と問うてしまっている。正しく理解すれば【問】自体が消滅する。

8日前 No.474

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> えぴめてうすさんへ


 「SB量子神学」では、論理法則も特定のものには限定せず、どんな論理法則が成立する世界も有り得て良い、と考えます。ただし、有矛盾な論理法則が成立するような世界では、状態が定まらず、特定の意識を持った心は存在できず、「空」M0になってしまうと考えます。我々人間の心のように、特定の意識を持った心である「色」M1、M2、M3、…の視点に立つと、必然的に自分が住む世界は無矛盾な論理法則に縛られているはずです。「有矛盾な世界」では真偽の区別が無いため、何も議論できません。世界とは何かを議論するためには、「無矛盾な世界」に立たねばならず、少なくとも無矛盾な論理法則を考える必要が有ります。

 無矛盾な論理体系によく用いられるものが3つあります。
      【同一律】 A⇒A、あるいは、A⇔A
「AならばAである」という意味です。同語反復しているだけだと見なすと、これこそトートロジーであり、Aの内容に拘らず恒真だと見なされます。//
      【無矛盾律】 ¬(A∧¬A)
「「Aである」かつ「Aでない」は有り得ない」という意味です。【無矛盾律】を【矛盾律】と呼ぶことも多いので混乱し勝ちですが、誤解しないためには【無矛盾律】と表現した方が良いでしょう。//
      【排中律】 A∨¬A
「「Aである」または「Aでない」のどちらかであり、その中間というものは有り得ない」という意味です。A∨¬Aは、Aであるのかないのかについてすべての可能性を網羅した上で、必ずその中のどれかになるのであって、それ以外は有り得ないと主張しており、決して外れることは無いという意味で、これもAの内容に拘らず恒真(トートロジー)です。//

 論理法則にもいろいろな解釈が有り、【排中律】は必要だろうか?とか、【無矛盾律】を少し書き換えれば【排中律】は消滅するのではないか?とか、新たな論理体系を提案している人も多いようですが、ここでは取り敢えずこれら3つを受け入れます。
 そうすると、「すべての可能性について、肯定または否定のどちらかである」は【排中律】を満たしており、Aの内容とは無関係に真だと主張できます。これが「論理的必然性で真」という意味です。「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)や、「SB量子神学」(合)=「SB量子神学」(正)+「SB量子神学」(反)がこれです。
 一方、「Aであり、¬Aではない」という形の命題は、【同一律】【無矛盾律】【排中律】のどれを使っても、一般論として真偽を確定させることができません。実際「Aであり、¬Aではない」は、Aの内容によって真になったり偽になったりします。A=「F=maが成立する」なら経験的に真だし、A=「F=m/aが成立する」なら経験的に偽です。こういう命題は「論理的必然性では真とも偽とも言えない」です。そしてこういう命題が真であることを、何とか論理的必然性で説明しようと試みでも、決して成功せず、無限後退に陥るだけです。

8日前 No.475

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>474,475

 すみません。まだかみ合っていないところについて、お尋ねします。

  >>433 以降、《常識的に考えた場合》=多世界解釈が正しくない場合 に答えがないことは、真偽の証明ができない公理を受け入れたうえで、その公理を問題にしたためだということをご教示いただき、 >>459 で確認させていただいたかと思います。
 それと、 >>474 のご回答をあわせて考えると、

〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。

 よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。
ということになるように思いますが、いかがでしょうか。

>P=「世界は、絶対的真理である「多世界」である」と置きます。「多世界解釈」(合)は、「Pが真であり¬Pが偽である」と真理を限定している訳ではなく、「Pまたは¬Pが真である」と主張しているので、決して外れることは無いという意味でトートロジー(恒真)です。


 多世界解釈(合)の内容について、なぜと問うのではありません。
 なぜ、世界は、「多世界解釈」(合)なのかという問いのことです。
 なぜ、世界は、SumioBabaさんが述べられている多世界解釈の全体なのかという問いは、無意味でしょうか。この全体の中には、ご説明いただいたすべての内容が含まれます。

8日前 No.476

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>476  えぴめてうすさんへ

>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


 それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。

> 多世界解釈(合)の内容について、なぜと問うのではありません。

> なぜ、世界は、「多世界解釈」(合)なのかという問いのことです。

> なぜ、世界は、SumioBabaさんが述べられている多世界解釈の全体なのかという問いは、無意味でしょうか。この全体の中には、ご説明いただいたすべての内容が含まれます。


 「多世界解釈」(合)は、「存在し得るすべての世界のどれもが「存在する」または「存在しない」のうちどちらかである」と主張しています。これは【排中律】を満たしているので論理的必然性で真です。逆に「多世界解釈」(合)の否定は、【排中律】を否定することになるので、論理的必然性で偽です。
      あるいは、
 「多世界解釈」(合)は、起こり得るすべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが起こると主張しており、外れるはずが無いという意味で恒真(トートロジー)です。もし「多世界解釈」(合)を否定するなら、起こり得るすべてのもの以外に、起こり得るものが有ると主張することになり、矛盾が生じます。【無矛盾律】により、「多世界解釈」(合)の否定は有り得ません。論理的必然性で「多世界解釈」(合)の肯定だけが導かれます。

8日前 No.477

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>477

 ありがとうございます。

>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 では、
>>416
>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。

>bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

>「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。

 につきましては、
>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

 と理解いたします。

 上記から、「多世界解釈」(正)も、「多世界解釈」(反)も、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなる、さらに、「多世界解釈」(合)も、当然、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなるということになるかと思います。
 この「存在の問いへの意味がなくなる」ということは、「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」という意味だと理解しています。
 では、なぜ、世界は、そのような「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」多世界解釈(合)で描かれる世界であるのかという問いをどのように考えればよいでしょうか。

8日前 No.478

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

また横から失礼します。
>0はなぜ何も無いのでなく、何かがあるのか?の問いかけであるが、答えは「私が居るから、それは存在する」も
考えられるのではないかと思います。なぜなら、私が居なければ有るといえるでしょうか?

8日前 No.479

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>478  えぴめてうすさんへ

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

>aではもう問う必要はありません。

>bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。


 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の場合、つまり多世界解釈を採らないと論理的必然性が理解できず、なぜか経験的に正しいと受け入れるしか無い場合がこうです。

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる


 「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の場合、つまり、《排中律》を満たした恒真な命題の場合がこうです。論理的必然性で真なのが当たり前であり、それに対して「なぜ?」と問う事自体が無意味です。

    《イエローカード》
 えぴめてうすさんは、初め「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だったのに、途中から「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えてしまいました。そんな誤魔化しをしてはいけません。

8日前 No.480

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>480

>えぴめてうすさんは、初め「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だったのに、途中から「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えてしまいました。そんな誤魔化しをしてはいけません。


 私の考えは、 >>459 のとおりです。
 数学の基礎のお話を応用して、下記を提示いたしました。

《常識的に考えた場合》
【公理】何かがある又は何もないのどちらかである
    ↓
【問い】なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
【答え】?、無現後退、答えはない…A

《多世界解釈を導入した場合》
【公理】多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)
    ↓
【問い】なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
    ↓
【答え】(正しい場合)すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。
    (正しくない場合)Aと同じ

 あくまで、問いは、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」のままです。
 「何かがある又は何もないのどちらかである」は、公理として考えたもので、上記を明示し、それ以降、ずっとこの構造を維持しつつ、考えてまいりました。
  >>459 で述べましたように、
>>そして、それを用いて、自分で「bでは答が無いこと」を確かめようとしているところです。

>>以下で順を追って確認しながら、 >>443 「この【結論】はいかがでしょうか?」についての私の考えと多世界解釈を採る場合についての疑問も記したいと思います。


 この公理の設定は、 >>443 で下記のご回答をいただき、《常識的に考えた場合》に、下記に相当する公理として「何かがある又は何もないのどちらかである」と置いたのです。

>>【公理】

>> a「何かがある」+b「何もない」(aもbも不明) を全体とし、「何かがある」の視点に立てば「何かがある」(a=1)、「何もない」(b=1)の視点に立てば「何もない」、すべての可能性がありうる。

>> 観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何かがある」が確率1で実現し、「何もない」が実現した確率は0で、観測して「何かがある」の視点に立つ場合は、「何もない」が確率1で実現し、「何かがある」が実現した確率は0となる。

>> ただし、「何かがある」を体験している「私1」、「何もない」を体験している私を「私2」、「何かがある」+「何もない」を体験している私を「私3」とすると、私2と私3は、無意識であり、3つの私を同時に体験していることを共有できないし、実証も反証もできない。

>> 実証も反証もできないからこそ、全知全能の「神」は3つを実現している、という解釈が可能になる。

   ↓
>>【問い】

>> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

   ↓
>>【答え】

>> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

 という構造で理解してよいのでしょうか。
> その通りです。


 したがって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」です。

>「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の場合、つまり、《排中律》を満たした恒真な命題の場合がこうです。論理的必然性で真なのが当たり前であり、それに対して「なぜ?」と問う事自体が無意味です。


 「何かがある又は何もないのどちらかである」が、恒真な命題で、論理的必然性で真なのが当たり前であり、それに対して「なぜ?」と問う事自体が無意味であることを理解しています。
 《常識的に考えた場合》、この公理で考えるので、あるかないかなのどちらかなのに、なぜあるのかという問いになってしまう。しかし、その「何かがある又は何もないのどちらかである」を疑っても、無限後退するだけで、公理であるのだから、結局、それ以上の答えがないことになると思いました。

 この《常識的に考えた場合》の公理が間違っているようなら、どのような公理が前提にされていると考えればよろしいでしょうか。

8日前 No.481

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

うさぎさん

>>479

 「私が居るから、それは存在する」も考えられますね。
 この問いは、世界があって、人がいる場合にのみ発せられるものだと思います。
 逆に、うさぎさんが居なければ、世界はないんでしょうか?
 恐竜時代はなかったんでしょうか?
 えぴめてうすがいなくて、ウサギさんがいる場合は、「私が居るから、それは存在する」で、その逆の場合は、どうなるでしょう?
 何か独我論になっちゃいますが…

8日前 No.482

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>481  えぴめてうすさんへ

> あくまで、問いは、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」のままです。

> 「何かがある又は何もないのどちらかである」は、公理として考えたもので、上記を明示し、それ以降、ずっとこの構造を維持しつつ、考えてまいりました。


 それだと、 >>478 が理解できなくなります。(以下の引用は >>478 から)

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない


はOKです。「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」であれば当然ですので。では、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。


の方は、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」からどうやれば導けるのでしょうか? 「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」に置き換えない限り導けないように思いますが?

8日前 No.483

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

部屋が2部屋あって、こちらの部屋のテーブル上にリンゴがある。私はそれを見る。用事で隣の部屋に移動した

そのリンゴは見えなくなった。「ついさっき見たのだから、そのリンゴが在るのは当たり前だ」これは

5000億人に聞いても全員が同じ答え(笑   また元の部屋に戻ってきた。「ああ、リンゴはあったあった」

当たり前だよ。君が居ようが居まいが在るのは当たり前だよ? しかし、なぜ在るのか?は「私が居るから在る

のでしょ?」 君が代理で見てくれても、代理は代理じゃないのかなあ? 無いかもしれないよ

8日前 No.484

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>483

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。

の方は、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」からどうやれば導けるのでしょうか? 「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」に置き換えない限り導けないように思いますが?

>>476  ↓の確認内容
> >>433 以降、《常識的に考えた場合》=多世界解釈が正しくない場合 に答えがないことは、真偽の証明ができない公理を受け入れたうえで、その公理を問題にしたためだということをご教示いただき、 >>459 で確認させていただいたかと思います。

> それと、 >>474 のご回答をあわせて考えると、

>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そ>のまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。

> よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


>>477  ↓SumioBabaさんの回答
>>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。

>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 それを受けて、 >>478 となります。

8日前 No.485

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

なぜ、あるのか? の答えは「私が居るから在るのだよ」という以外にない。

8日前 No.486

★30JjgxOVKX_ZFe

>486
うさぎちゃん
「私が居る」から「在る」が導き出されます?

7日前 No.487

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>485  えぴめてうすさんへ

>>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


> それを受けて、 >>478 となります。


 やっぱり、 >>478

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない


のときは「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だったのを、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。


のときは、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えた訳ですね。

7日前 No.488

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>485  えぴめてうすさんへ

    《1》

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

    【1】
「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」

    《2》
>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

    【2】
「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」

 SumioBabaの説明は、《1》が言えるのは【1】のときであり、《2》が言えるのは【2】のときであり、今は【1】を問題にしているのだから、【1】を【2】にすり変えてはいけません、です。
 えぴめてうすさんは、「いや、すり変えていない」、「《2》のときも「存在の問い」は【2】ではなく【1】である」、です。
 だったら、【1】のときになぜ《2》が言えるのかを説明して下さい。なぜ同じ【1】から、《1》と《2》という異なる内容が結論されるのですか?

7日前 No.489

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>478  えぴめてうすさんへ

> 上記から、「多世界解釈」(正)も、「多世界解釈」(反)も、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなる、さらに、「多世界解釈」(合)も、当然、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなるということになるかと思います。


 それは「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の方です。「Aまたは¬Aのどちらかである」という《排中律》そのものの形をしているのだから、「多世界解釈」(合)であろうと「多世界解釈」(正)であろうと「多世界解釈」(反)であろうと、無矛盾な世界でさえあれば恒真であるのは自明です。これに対して「なぜ?」と問うておられるえぴめてうすさんの方が、SumioBabaには不可解です。

> この「存在の問いへの意味がなくなる」ということは、「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」という意味だと理解しています。


 それは違います。「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」という形をしており、【同一律】【無矛盾律】【排中律】を使うだけでは決して真偽を確定できず、論理的必然性だけでは真とも偽とも判断できません。にも拘らず我々は、なぜか「何かがある」の方が真であり「何もない」は偽だと認識しています。論理的必然性では真とも偽とも言えないのに、なぜか経験科学的には真なのです。それを「なぜ?」と問うのは立派な疑問だし、哲学で最大の謎とされるゆえんです。
 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」ですり変えてはいけません。

> では、なぜ、世界は、そのような「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」多世界解釈(合)で描かれる世界であるのかという問いをどのように考えればよいでしょうか。


 「意味がない」のは、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーに対して「なぜ?」と問うことです。
 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、立派に意味が有る疑問です。「多世界解釈」(合)を採らないと、この謎には答えられず、「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。「多世界解釈」(合)を採り、「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。

6日前 No.490

★5h7s4afvks_kuu

 えぴめてうすさん、馬場さんへ

>  それは違います。「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」という形をしており、【同一律】【無矛盾律】【排中律】を使うだけでは決して真偽を確定できず、論理的必然性だけでは真とも偽とも判断できません。にも拘らず我々は、なぜか「何かがある」の方が真であり「何もない」は偽だと認識しています。論理的必然性では真とも偽とも言えないのに、なぜか経験科学的には真なのです。それを「なぜ?」と問うのは立派な疑問だし、哲学で最大の謎とされるゆえんです。


論理学の「同一律・無矛盾律・排中律」で判断できる問題は、井戸を全世界と見た場合の井戸の中の問題です。この視点で見た場合の井戸の外の問題、これが「アポリア」と言われるものですね。ですので、井戸の中の視点では通常わからない(解けない)のですね。

>  「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」ですり変えてはいけません。


たぶん、意図的なすり替えではなくて、理解が起こらず、単純に混乱されているように思いますね。

>  「意味がない」のは、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーに対して「なぜ?」と問うことです。

>  「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は、立派に意味が有る疑問です。「多世界解釈」(合)を採らないと、この謎には答えられず、「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。「多世界解釈」(合)を採り、「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。


例えばですが「水は、高い所から低い所に流れます」は、井戸の中の世界では、謎はありません。が、その世界で「ではなぜそのような世界なのか?」についての答えは出ないしょう。ここで「ドン詰まり」です。

このとき、視点をこの世界の中(井戸の中)にしか持たない者には「重力が・液体は・・」という答えにしかなりません。これは、井戸の中だからです。これ以降の問いになると、上記で馬場さんの仰る「「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。」ということです。ここが、現代科学で解き明かされる事柄(問題)の限界です。同時に現代における「ドン詰まり」の限界点です。もちろんこれでよいのであれば、それでよいことですが。

そしてこれを、多世界解釈を取り、よりメタな視点で見た場合に「「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。」ということですね。ここで哲学的な視点が必要になってきます。

ですので、ここでは科学の世界と哲学の世界の融合ともいえる事柄を、馬場さんは表現されているのだと思いますよ。

そしてこの視点を持つものが、初めて「すべての謎はない」と表現でき、哲学的な最終問題(アポリア)は消滅します。そしてこれをもう少しだけ上の視点で表現すると「最初から謎はなかったんだ」という表現になります。

ここまではシンプルに同じ構造なのですが、見ていると理解することが難しいもののようですね。

6日前 No.491

★5h7s4afvks_kuu

えぴめてうすさんへ

アポリアとは 哲学では、哲学的難題または困惑の状態のこと。(wiki)

哲学のアポリアを解き明かそうとした場合には、”結果として”哲学の世界観以外の概念を用いる必要があります。

そこで哲学の難問だからと言った思い込みで、いくら過去の哲学者の残した言葉を知ったとしても、哲学史を紐解いたとしても、いくら書籍を読み込んだとしても、ごく僅かの行きつく可能性はないとはいえないにしても、恐らくは、答えには行きつかないでしょう。

哲学の解けない難問は、その長年行われてきた哲学の世界での解けない難問だからですね。

そこで必要なのは、違う世界の概念です。ここでの馬場さんは、現代物理の量子力学の観測問題における解釈の一つとして発想されたエヴェレットの多世界という概念を馬場さんなりに発展させて、哲学の問題との融合で答えに行きつかれたのだと思います。

では、えぴめてうすさんにお遊びでの問題です。

個人の自由意思により、この発想と融合は可能でしょうか?

お遊びですので、お答えいただけなくても結構ですよ。

6日前 No.492

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>491  時さんへ

 コメント有難うございます。

>たぶん、意図的なすり替えではなくて、理解が起こらず、単純に混乱されているように思いますね。


 そうかもしれません。えぴめてうすさんは紳士的で謙虚な方だし、意図的にすり変えて誤魔化そうとする人ではないですね。こちらがきつく言い過ぎたかも。えぴめてうすさん、要は、SumioBabaの説明 >>490 と時さんの >>491 を理解して頂ければ良いだけです。あんまり考え込まないで下さい。

>例えばですが「水は、高い所から低い所に流れます」は、井戸の中の世界では、謎はありません。が、その世界で「ではなぜそのような世界なのか?」についての答えは出ないしょう。ここで「ドン詰まり」です。

>このとき、視点をこの世界の中(井戸の中)にしか持たない者には「重力が・液体は・・」という答えにしかなりません。これは、井戸の中だからです。これ以降の問いになると、上記で馬場さんの仰る「「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。」ということです。ここが、現代科学で解き明かされる事柄(問題)の限界です。同時に現代における「ドン詰まり」の限界点です。もちろんこれでよいのであれば、それでよいことですが。

>そしてこれを、多世界解釈を取り、よりメタな視点で見た場合に「「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。」ということですね。ここで哲学的な視点が必要になってきます。

>ですので、ここでは科学の世界と哲学の世界の融合ともいえる事柄を、馬場さんは表現されているのだと思いますよ。

>そしてこの視点を持つものが、初めて「すべての謎はない」と表現でき、哲学的な最終問題(アポリア)は消滅します。そしてこれをもう少しだけ上の視点で表現すると「最初から謎はなかったんだ」という表現になります。


 Perfectly Good !!!!! 非の打ちどころが有りません。特に「科学の世界と哲学の世界の融合ともいえる事柄を、馬場さんは表現されているのだと思いますよ」が素晴らしい。この表現、パクッてこちらも使わせて頂きます。SumioBabaの説明だけだと薄っぺらなままですが、同じ内容を別の例え話を用い、時さんの言葉で補足説明して下さると、ずっしりとした厚みが生じます。ぜひまたよろしくお願い致します。感謝!!!

6日前 No.493

審判 ★ZCQiVRbxEz_Ew9

「何かがある又は何もないのどちらかである」は問いじゃなく「《常識的に考えた場合》の公理」だと、エピメテウスは一貫して説明しているし、そもそも「何かがある又は何もないのどちらかである」は問いとして機能していない。

スミオババの書いた >>490 に即して考えるなら、

公理「Aまたは¬Aのどちらかである」
問い「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」
が《常識的に考えた場合》のエピメテウスの「存在の問い」の構図。

問い「Aまたは¬Aのどちらかである」
がスミオババの抗議内容。
問いになってないから、意味不明であり、抗議としての体裁をなして無い。

スミオババは訳のわからない事を言って参加者を困らせないように。


>>490

>それは違います。「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は「なぜ¬Aではなく、Aなのか?」という形をしており、【同一律】【無矛盾律】【排中律】を使うだけでは決して真偽を確定できず、論理的必然性だけでは真とも偽とも判断できません。にも拘らず我々は、なぜか「何かがある」の方が真であり「何もない」は偽だと認識しています。論理的必然性では真とも偽とも言えないのに、なぜか経験科学的には真なのです。それを「なぜ?」と問うのは立派な疑問だし、哲学で最大の謎とされるゆえんです。


なんでやねんw
スミオババは「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」と主張してきた。その内容を確認したエピメテウスに「それは違います(キリっ」というのなら、前言の該当部分を撤回、もしくは訂正してください。


:審判による論点整理:
エピメテウスの問い
「「多世界解釈(合)」を公理として置いた場合、他の公理と同様、その根源を問うなら、無限後退するのでは?」
スミオババの答え
「「多世界解釈(合)」はトートロジーだから無限後退には陥りません。」
というやり取りが462あたりから続いている。

>>491 で時は、エピメテウスの視点の狭さを指摘しているが、あえて言うなら逆だよね。
つまり、閉じられた系であるスミオババ理論の中だけで考えるならそこに謎は無いけど、よりメタな視点(「多世界解釈(合)」を公理とする視点)でスミオババ理論の根源を問うなら謎が生じるのでは?、というのがエピメテウスの呈する疑問点だろうか。

構図としてはすでに決着がついたようだけど、まあお互い納得いくまでやり合いなはれ。

4日前 No.494

審判 ★Sh23KvltDW_Ew9

:審判雑感:

>>491

>多世界解釈を取り、よりメタな視点で見た場合に「「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているのだと考えた場合に初めて、この謎はそもそも事実誤認だったのだと解り、謎が消滅します。


両方が実現していると考えた場合にはそうなるだろうよ。スミオババ理論も全知全能を前提に構築されてるから、もちろん両方実現しているんだろう。
でも世界は両方が実現していないよね。両方が実現していると考えた場合は難問が解消するんだろうけど、世界はそうなってないじゃん。だからこそ難問は難問であり続けているわけだし。
「そう考えたら都合が良いからそう信じる」を採用し、世界を「事実誤認」として認知するなら、世界はいかようにも改変出来る事になっちゃうよ。
たしか前にも同じ様な内容で批判した事があったな。それに対して、

過去の反論例1:スミオババの理論は難問の解消を目的に構築したけど、真意はそこじゃない
過去の反論例2:何も限定してないんだからスミオババ理論は信じる信じないの問題じゃない とーとろじ〜なの
過去の難癖例1:じゃあおまえは難問をどう考えてるんだ? 代替案が何も無いのに批判ばっかりするな
過去の難癖例2:さん付けしないならこれ以上議論してやらないぞ 丁寧語を使いやがれ
過去の難癖例3:なんかおまえらって苦しくなるとちゃぶ台ひっくりかえすよな それってどうなの?
過去の難癖零4:おまえって精神異常じゃない? さてはおまえサイコやろうだな

改めて見るとヒドイ難癖おおすぎw 俺じゃなきゃブチ切れてるぜよ
エピメテウスとの議論では誠実に議論してもらいたいものだ

4日前 No.495

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>488

>えぴめてうすさんは、初め「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」だったのに、途中から「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えてしまいました。そんな誤魔化しをしてはいけません。


  >>480 で上のご指摘をいただきました。
 教えていただいたことを1つ1つ確認しながら、私の思考を進めてきたつもりですが、すり替えがあったとすれば、まずそれがどこかを特定し、もう一度そこからやり直しをしないと、これまで教えていただいたことや私が考えてきたことが無駄になってしまいます。

 ここに至った経緯と私の考えの筋道は、 >>459 で整理させていただいたとおりです。

 それでは、お手数ですが、順に確認していきたいと思います。
 まず、議論の基本構造を示した >>459 と、それに対するSumioBabaさんのレスの >>460 の中に、すり替えが起こっている部分が含まれていますでしょうか。

>>489
>だったら、【1】のときになぜ《2》が言えるのかを説明して下さい。なぜ同じ【1】から、《1》と《2》という異なる内容が結論されるのですか?


 まさに、 >>459 以降で、「【1】のときになぜ《2》が言えるのかを説明」してきたつもりなのですが、どこにまずいところがあったのか、順に確認していきたいと思います。その結果がこの答えになると思います。

>>490
 とりあえず、すり替え箇所の確認を優先したいと思いますので、よろしくお願いします。


時さん

>>491>>492

 私は、中学生の問いを発しています。そして、疑うことを旨としてドン詰まりを自分で経験することをあえて選んでいます。認識レベルは、まだ >>410 に書いた状況のままです。しっかりと高校に行けるようがんばります。
 時さんがおっしゃっていただいてることについては、私が分かるようになったときにはじめて分かると思います。いつもありがとうございます。

3日前 No.496

★V2ucdXJJd6_kuu

>>496  えぴめてうすさんへ

>  私は、中学生の問いを発しています。そして、疑うことを旨としてドン詰まりを自分で経験することをあえて選んでいます。認識レベルは、まだ >>410 に書いた状況のままです。しっかりと高校に行けるようがんばります。


了解しました。私が少しばかり先走りしすぎていたようですね。失礼しました。

> 疑うことを旨としてドン詰まりを自分で経験することをあえて選んでいます。


えぴめてうすさんは、堅実な性格の方のようですね。ですので、その方法がベストかもしれません。

私には何もできませんが、全ての答えに到達されることを願っています。レスは不要です。

3日前 No.497

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>496  えぴめてうすさんへ

> とりあえず、すり替え箇所の確認を優先したいと思いますので、よろしくお願いします。


 すり変えが起きたのは >>478 です。以下は >>478 からの引用と、それについての解説です。

>>それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 これはSumioBabaが、「何かがある又は何もないのどちらかである」がトートロジーだから「なぜ?」と問うこと自体が無意味だと説明したものです。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方ではありませんよ。ところが >>478 は以下のように続き、えぴめてうすさんはこれを誤解または曲解し、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をトートロジーであり、「なぜ?」と問うことが無意味だと理解する、と書いておられます。ここがすり変えです。

> では、

> >>416

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

>> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。

>>bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

>>「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。

> につきましては、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。


> 上記から、「多世界解釈」(正)も、「多世界解釈」(反)も、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなる、さらに、「多世界解釈」(合)も、当然、トートロジーなので、存在の問いへの意味がなくなるということになるかと思います。


 えぴめてうすさんは、こう主張されました。→徹頭徹尾「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」であり、「存在の問い」=「何かがある又は何もないのどちらかである」にすり変えてなどいない、と。だったらなぜ、SumioBabaは「何かがある又は何もないのどちらかである」の方について、それがトートロジーであり、「なぜ?」と問うのは無意味だと説明しただけなのに、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方までがトートロジーであり「なぜ?」と問うのが無意味になってしまうのでしょうか? 答は1つしかないように思います。すり変えたから。

 SumioBabaは、こういう誤解が生じないようにと、はっきり「「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジーは…」、と明記しています。ところが、なぜかえぴめてうすさんはこれを「存在の問い」という言葉で置き換えておられます。なぜ、わざわざどちらなのか不明な「存在の問い」などという曖昧な言葉に置き換えられたのでしょう? そしてSumioBabaの「何かがある又は何もないのどちらかである」についての説明を、まるで「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」についての説明であったかのように誤解あるいは曲解されています。これが、意図的なすり変えに見えてしまうのです。すり変えていないと主張されるのなら、 >>489 の質問に答えてみて下さい。答えられないようだと、やはりすり変えが起きていたことになります。

 まとめるとこんな感じ。
●えぴめてうすさん→「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」はオーソドックスな科学の範囲内で解決すべき問題だと思う。
○SumioBaba→いや、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」はオーソドックスな科学の範囲内では答が見付からない問題であり、だからアポリアなんだ。それを解決するためには、量子力学の多世界解釈を採り、根本的に新しい世界観を構築する必要が有る。
●えぴめてうすさん→では「何かがある又は何もないのどちらかである」は?
○SumioBaba→それはただのトートロジーだよ。論理的必然性で恒真であり、「なぜ?」と問うことさえ無意味だよ。
●えぴめてうすさん→じゃあ「存在の問い」は無意味で、「世界があるとかないについて根拠を求めても、意味がない」ということだね。
○SumioBaba→えっ!? どうしてそうなるんだい? 無意味なのはトートロジーである「何かがある又は何もないのどちらかである」に対して「なぜ?」と問う方だけだよ。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は大問題として残っているじゃないか。

3日前 No.498

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>498

 大変お手数をおかけします。

>…だったらなぜ、SumioBabaは「何かがある又は何もないのどちらかである」の方について、それがトートロジーであり、「なぜ?」と問うのは無意味だと説明しただけなのに、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方までがトートロジーであり「なぜ?」と問うのが無意味になってしまうのでしょうか? 答は1つしかないように思います。すり変えたから。


 私は、「「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方までがトートロジーであ」ると思っていません。そもそも問いがトートロジーであるという言葉自体が意味が分からないように思います。
 あくまで、ご説明のあったように、公理として置いた「何かがある又は何もないのどちらかである」の方がトートロジーであると理解しています。

 「「なぜ?」と問うのが無意味になってしまう」というのが、次のAの部分だと思われますが、そう理解した理由は、下の >>477 のご回答の内容からです。

@ >>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

A >>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>477
>>〇多世界解釈が正しくない場合に答えがないことについては、真偽の証明ができない公理を受け入れることで無限後退になるから。

>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。よって、多世界解釈が正しくない場合は、答えがないのではなく、多世界解釈が正しい場合と同様、問いに意味がない。

>>ということになるように思いますが、いかがでしょうか。


> それでOKです。「何かがある又は何もないのどちらかである」のようなトートロジー(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張しているため、外れることは有り得ないという意味で恒真な命題)は、多世界解釈を採るか採らないかに関係なく、「無矛盾な世界」においては論理的必然性で絶対的真理なので、「なぜ?」と問うこと自体が無意味です。


 @は、 >>416 で、
>「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。

として、以下の >>433 をはじめとして、
>>433
「そして、その「公理」自体は、真とも偽とも証明できません。証明しようとしても、無限後退するだけです。「その「公理」はなぜ正しいと言えるのか?」と問われ、「メタ公理1」「メタ公理2」「メタ公理3」…を使って「公理」を証明して見せても、また「「メタ公理1」はなぜ正しいと言えるのか?」と問われてしまうからです。」
との説明をいただきました。

 そして、
>>460
> 【結論】

 多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考えてしまうと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに、オーソドックスな科学は答えられず、「なぜかそうだからそうなのさ」と黙って受け入れるしか無くなる。
> その理由は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いが、「何かがある又は何もないのどちらかである」という公理の真偽を問題にしているからだと思いますが、違うでしょうか。


 そうです。論理的必然性は理解できないまま、自分が認識しているのはなぜか「○○○である」の方であって「○○○でない」の方ではないと、在りのままに認めるしかないのがオーソドックスな科学です。それを正しいと受け入れるのであれば、「○○○である」の方を証明なしに「公理」として定めるしか方法が有りません。その「公理」について論理的必然性による説明を試みても、無限後退に陥ってしまい、決して満足な答は得られない、ということです。
とのご回答でした。

 このことからは、「bでは答が存在しない」であり、上の >>477 の1つ目の〇として確認させていただきました。

 しかし、 >>467 で、
>「何かがある又は何もないのどちらかである」をa「何かがある」+b「何もない」(aとbは不明)と解釈するなら、これ自体がトートロジーです。(すべての可能性を網羅した上で、その中のどれかが真だと主張していることになり、外れることが有り得ない、という意味で)。トートロジー(恒真)ですから証明不要だし、無限後退にはなりませんよ。


 さらに、 >>474 で、
> 多世界解釈が正しくない場合について、下記のことが当てはまるのでしょうか。

> >>467

> 無限後退に陥ってしまうのは、「「ある」が真であり「ない」は偽である」や「F=maは「成立しない」ではなく「成立する」の方である」のように、真理を片方だけに限定してしまい、トートロジーではない(けれど経験的になぜか真らしいという)命題を、何とか論理的必然性で説明してやろうと試みる場合の話です。初めからトートロジーの場合は、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしません。


 もちろんです。「「無矛盾な世界」においてトートロジーは論理的必然性で真」は、多世界解釈を採るか採らないかとは無関係に言えます。「トートロジーを否定すると矛盾が生じるから」がその理由です。

とのご説明でしたので、上の >>477 の2つ目の〇として確認させていただきました。
 これが、Aの理解に至った経緯です。
 2つ目の〇は、「「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方までがトートロジーであり「なぜ?」と問うのが無意味になってしまう」と言っていますでしょうか?
 以上が、 >>489 の答えでもあります。

>これはSumioBabaが、「何かがある又は何もないのどちらかである」がトートロジーだから「なぜ?」と問うこと自体が無意味だと説明したものです。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方ではありませんよ。


 上記のとおり、そのように理解しています。そもそも「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、存在への問いであって、公理ではなく、当然トートロジーだとは考えられません。

>ところが >>478 は以下のように続き、えぴめてうすさんはこれを誤解または曲解し、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をトートロジーであり、「なぜ?」と問うことが無意味だと理解する、と書いておられます。ここがすり変えです。


 「「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をトートロジーであり、「なぜ?」と問うことが無意味だと理解する、と書いて」いる箇所がわかりません。

 例えば、bではなく、aの方、つまり、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる


 の場合で考えると、問いは、同じく「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」ですが、その問いをトートロジーだと考えているわけではなく、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーであるがゆえに、「「なぜ?」と問うことが無意味 = 存在の問いへの意味がなくなる」ということだと思いますので、bもそれと同じ構造です。
 したがって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」をトートロジーだという意図はありませんし、そのような記載は含まれていないと思います。

>○SumioBaba→えっ!? どうしてそうなるんだい? 無意味なのはトートロジーである「何かがある又は何もないのどちらかである」に対して「なぜ?」と問う方だけだよ。


 に異論は全くありません。

>「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」の方は大問題として残っているじゃないか。


 この「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問題について、SumioBabaさんは、

> 多世界解釈が正しい世界では、謎が消滅しますが、正しくない世界では、そうではありません。多世界解釈に立脚すると、この2つの世界があるということになります。

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

> aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。

 それは違います。
 aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。
 bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

と述べられていると認識してします。そして、すり替え箇所の確認は、このbに関係した議論だと思います。

 要は、私の認識の浅さから、的確な表現ができていないことが話が通じない原因じゃないかと思うのですが、 >>478 で申し上げたことを、 >>459 で提示したb多世界解釈が正しくない場合の枠組みでいうと、

《常識的に考えた場合》
【公理】
 何かがある又は何もないのどちらかである
   ↓
【問い】
 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
   ↓
【答え】
 ?、無現後退、答えはない…A

 かな(477 〇の1つ目)と思ったら、そうではなく、

 公理がトートロジーなので、問いへの意味がなくなる…B

 が正解だった(477 〇の2つ目)んですねという確認が、 >>478 です。

3日前 No.499

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

考えるから在るのです。

あなたたちには、コギト命題が似合っていますね・・

3日前 No.500

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>499  えぴめてうすさんへ

>>〇しかし、多世界解釈が正しくない場合の公理(何かがある又は何もないのどちらかである)は、初めからトートロジーなので、そのまま論理的必然性で真であり、無限後退はしない。


 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」で良いですよね。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」は初めからトートロジーなので、論理的必然性で真だし、「なぜ?」と問う事自体が無意味、も良いですよね。で、そこからどうして、 >>478 の、
>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> と理解いたします。

が言えるのですか? トートロジーで「なぜ?」と問うのが無意味なのは「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の方ですよ。なぜ・bの方、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのですか? SumioBabaは、
>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

と説明したつもりなのですが?

3日前 No.501

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>501

>「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」で良いですよね。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」は初めからトートロジーなので、論理的必然性で真だし、「なぜ?」と問う事自体が無意味、も良いですよね。


 はい、おっしゃるとおりと理解しています。

>で、そこからどうして、 >>478 の、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>> と理解いたします。

>が言えるのですか? トートロジーで「なぜ?」と問うのが無意味なのは「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の方ですよ。なぜ・bの方、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのですか?


 申し訳ありませんが、その前に、

>SumioBabaは、

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

と説明したつもりなのですが?

 については、 >>416 と認識しています。
 これに至る経緯をさかのぼりますと、

>>371
●えぴめてうす
>> a多世界解釈が正しい世界である場合、謎はなくなるが、b多世界解釈が正しくない世界の場合は、謎はなくならない。これは、絶対的に真である。

>> ただし、私のいる世界が、a、bどちらであるのかは、観測しても実証も反証もできない。(つまりa=1もb=1も確定しない。)

>> つまり、aとbどちらにいるのか判明しないため、存在への問いが意味があるかないか(謎かそうでないか)確定しない。

>> 誤りをご指摘いただければ幸いです。

○SumioBabaさん
> よろしいんじゃないでしょうか。


 これを受けて、
>>406
●えぴめてうす
 多世界解釈が正しい世界では、謎が消滅しますが、正しくない世界では、そうではありません。多世界解釈に立脚すると、この2つの世界があるということになります。
・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる
・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない
 aではもう問う必要はありません。bではまだ問いが解かれないまま残されています。
 結局、私は、いまどちらの世界にいるかわかりませんが、bの世界での問いを解こうとしているということかと思います。人間は、必然的にaの世界にいるということではなく、bの世界にいるのでもない、どちらでもありうる。どちらかには任意性があると思われます。

 それに対して、
>>416
○SumioBabaさん
 それは違います。
 aでは答が得られたので、もう問う必要は有りません。
 bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。
 「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。aでは答が見付かったから、これ以上問う必要は有りません。bでは答が存在しないに確定したのだから、こちらもこれ以上問う必要など無いのではありませんか?

 とのことで、SumioBabaさんは、「b多世界解釈が正しくない世界」については、「存在の問いに対して謎が消滅していない 」ではなく、「bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません」とおっしゃっていると認識しています。

 ここから、bでは答えがない理由である「とっくに説明ずみ」の内容について、数学や科学における公理系の説明をいただいたという流れかと思います。

 それであらためて、
>で、そこからどうして、 >>478 の、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>> と理解いたします。

>が言えるのですか? トートロジーで「なぜ?」と問うのが無意味なのは「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」の方ですよ。なぜ・bの方、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのですか?


 について、 >>499 の繰り返しになり恐縮ですが、

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

 の場合を考えると、
ア)問いは、同じく「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」ですが、よろしいですね?
イ)その問い自体をトートロジーだと考えているわけではなく、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーであると考えるべきと思いますが、いかがでしょうか?
ウ)イと考えるゆえに、「「なぜ?」と問うことが無意味 = 存在の問いへの意味がなくなる」ということだと思いますが、いかがでしょうか?

 このaと同じ構造で、bを考えるといけませんか?

 どこがおかしいのかがほんとうにわからないのです。

 aの場合、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのは、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーだからではないでしょうか。同様に、bの場合も、公理として置いた「何かがある又は何もないのどちらかである」がトートロジーだからではないでしょうか。

 「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのは、公理がトートロジーだからではないのですか?
 もしこの表現、言葉遣い自体がおかしいならば、「・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる」がそもそもおかしかったことになると思います。
 繰り返しになりますが、 bで「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に意味がなくなるのは、aと同様、公理がトートロジーだからだと思っていましたが、そうでないとしたら、

>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない


 について、bには答えがないという公理系の話と、公理の「何かがある又は何もないのどちらかである」がトートロジーだから、」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問う意味がないということをどう考えればよいのでしょうか。

 どうも頭が固くて申し訳ありません。

3日前 No.502

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

目の前に存在しているのに「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と思うのですか?

3日前 No.503

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>501  えぴめてうすさんへ

>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

 の場合を考えると、
ア)問いは、同じく「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」ですが、よろしいですね?
イ)その問い自体をトートロジーだと考えているわけではなく、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーであると考えるべきと思いますが、いかがでしょうか?
ウ)イと考えるゆえに、「「なぜ?」と問うことが無意味 = 存在の問いへの意味がなくなる」ということだと思いますが、いかがでしょうか?
> このaと同じ構造で、bを考えるといけませんか?

> どこがおかしいのかがほんとうにわからないのです。


 「多世界解釈」(合)を「公理」とする場合。存在し得るすべての世界がどれも確率的に「存在する」と「存在しない」の両方の可能性が有ります。それゆえ「何かがある」と「何もない」のどちらも確率的に実現していることになります。この時初めて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、ダブル・トートロジーに解消できます。つまり、「両方が実現されているので、片方に注目するにはそちらを選ぶ必要が有り、「何かがある」の方を選べば「何かがある」が選ばれるし、「何もない」の方を選べば「何もない」が選ばれる。どちらもトートロジーである。」という説明です。

 「多世界解釈」(合)を採らず、世界は1つだけであり、「何かがある」だけが実現して「何もない」は実現していない、とする場合。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーを仮定したからといって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を解消できる訳ではありません。「何かがある」の方だけが実現し「何もない」は実現していないと考えている以上、「なぜ「何かがある」の方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに答は有りません。「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。

 要するに、「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーによって謎が無くなるのではなく、「多世界解釈」(合)の中の「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」という設定こそが、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎をダブル・トートロジーという形で解消するのです。

2日前 No.504

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>>504

 ありがとうございます。

>「多世界解釈」(合)を「公理」とする場合。存在し得るすべての世界がどれも確率的に「存在する」と「存在しない」の両方の可能性が有ります。それゆえ「何かがある」と「何もない」のどちらも確率的に実現していることになります。この時初めて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、ダブル・トートロジーに解消できます。つまり、「両方が実現されているので、片方に注目するにはそちらを選ぶ必要が有り、「何かがある」の方を選べば「何かがある」が選ばれるし、「何もない」の方を選べば「何もない」が選ばれる。どちらもトートロジーである。」という説明です。


 このことは、「多世界解釈」(正)についても同じでしょうか。

>「多世界解釈」(合)を採らず、世界は1つだけであり、「何かがある」だけが実現して「何もない」は実現していない、とする場合。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーを仮定したからといって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を解消できる訳ではありません。「何かがある」の方だけが実現し「何もない」は実現していないと考えている以上、「なぜ「何かがある」の方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに答は有りません。「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。


 「多世界解釈」(反)については、答えがないという意味をおっしゃっていますか。

>要するに、「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーによって謎が無くなるのではなく、「多世界解釈」(合)の中の「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」という設定こそが、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎をダブル・トートロジーという形で解消するのです。


 いまは、
 「多世界解釈」(正) = a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる
 「多世界解釈」(反) = b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない
 についての確認ですので、「多世界解釈」(合)の前に、まずこの2つについて確認させていただけませんでしょうか。

 「多世界解釈」(合)についてのこの内容が「多世界解釈」(正)にも当てはまるとすれば、aは「謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる 」でよろしいですね。ここは疑義がないところと思います。

 1つ上で、「「何かがある」の方だけが実現し「何もない」は実現していないと考えている以上、「なぜ「何かがある」の方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに答は有りません」とおっしゃっていますが、これは、bは「答が存在しない」でよろしいでしょうか。

 もしそうであれば、
>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

 の場合を考えると、
ア)問いは、同じく「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」ですが、よろしいですね?
イ)その問い自体をトートロジーだと考えているわけではなく、公理に相当する多世界解釈(正)がトートロジーであると考えるべきと思いますが、いかがでしょうか?
ウ)イと考えるゆえに、「「なぜ?」と問うことが無意味 = 存在の問いへの意味がなくなる」ということだと思いますが、いかがでしょうか?
> このaと同じ構造で、bを考えるといけませんか?

 については、どうお考えでしょうか。

2日前 No.505

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>505  えぴめてうすさんへ

>>「多世界解釈」(合)を「公理」とする場合。存在し得るすべての世界がどれも確率的に「存在する」と「存在しない」の両方の可能性が有ります。それゆえ「何かがある」と「何もない」のどちらも確率的に実現していることになります。この時初めて、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、ダブル・トートロジーに解消できます。つまり、「両方が実現されているので、片方に注目するにはそちらを選ぶ必要が有り、「何かがある」の方を選べば「何かがある」が選ばれるし、「何もない」の方を選べば「何もない」が選ばれる。どちらもトートロジーである。」という説明です。


> このことは、「多世界解釈」(正)についても同じでしょうか。


 「多世界解釈」(正)=「存在し得るすべての世界が「存在する」であり「存在しない」ではない」ですから、「何かがある」だけが実現し、「何もない」の方は実現されていません。だから、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎はダブル・トートロジーに解消されません。

>>「多世界解釈」(合)を採らず、世界は1つだけであり、「何かがある」だけが実現して「何もない」は実現していない、とする場合。「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーを仮定したからといって、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」を解消できる訳ではありません。「何かがある」の方だけが実現し「何もない」は実現していないと考えている以上、「なぜ「何かがある」の方だけが選ばれて実現したのか?」という問いに答は有りません。「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ」で終わってしまいます。


> 「多世界解釈」(反)については、答えがないという意味をおっしゃっていますか。


 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しない」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。

>>要するに、「公理」=「何かがある又は何もないのどちらかである」というトートロジーによって謎が無くなるのではなく、「多世界解釈」(合)の中の「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」という設定こそが、「存在の問い」=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎をダブル・トートロジーという形で解消するのです。


> いまは、

> 「多世界解釈」(正) = a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> 「多世界解釈」(反) = b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

> についての確認ですので、「多世界解釈」(合)の前に、まずこの2つについて確認させていただけませんでしょうか。


 上に説明した通り、「多世界解釈」(正)では「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現されていないので、ダブル・トートロジーによる謎の解消はできません。「多世界解釈」(反)は「多世界解釈」(正)の否定ですが、無数のヴァリエーションが有るため、場合によって様々です。両方併せたものが、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)です。

> 「多世界解釈」(合)についてのこの内容が「多世界解釈」(正)にも当てはまるとすれば、aは「謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる 」でよろしいですね。ここは疑義がないところと思います。


 「多世界解釈」(合)では「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているので、ダブル・トートロジーにより謎は解消します。「多世界解釈」(正)は「何かがある」の方だけしか実現していないので、ダブル・トートロジーによる謎の解消はできません。
 シュレディンガーの猫の生死だったら、「多世界解釈」(合)でも「多世界解釈」(正)でも(場合によっては「多世界解釈」(反)でも)「生」と「死」の両方が実現しています。だから、「「生」と「死」の両方が実現している」という設定でさえあれば、謎をダブル・トートロジーに解消できるし、「「生」と「死」の片方だけが実現している」という設定であれば、謎をダブル・トートロジーに解消できません。

> もしそうであれば、

>>>・a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる


 「多世界解釈が正しい世界」というのは、「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合、という意味ですね。「多世界解釈が正しくない世界」の方は、「何かがある」と「何もない」の片方だけしか実現していないと考える場合、という意味になります。

 例えば「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」もトートロジーです。しかし、「多世界解釈」(合)を採らない《常識的に考えた場合》の「公理」=「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」だと、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現している、とは考えていないはずです。自分が住む世界1つだけが存在し、宇宙人は「存在する」か「存在しない」か片方だけしか実現していない、と考えているはずです。この場合、仮に宇宙人は「存在する」の方だと判明したとしても、《謎》=「なぜ宇宙人は「存在しない」のではなく「存在する」の方なのか?」はダブル・トートロジーには解消されません。そこで、「多世界解釈」(「合」「正」「反」のどれでも良い)を仮定し、少なくとも2つ以上の世界が実現し、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現されていると考えた場合に初めて、ダブル・トートロジーによる謎の解消ができるということです。

 「謎が消滅する」「謎が消滅しない」「謎が残らない」「謎が残る」「初めから謎は無かった」「謎に答が有る」「謎に答は無い」「問いに意味が有る」「問いに意味がない」…など表現がばらばらですので、1つに統一します。(ダブル・トートロジーが実現し)「謎は解消する」、または、(ダブル・トートロジーが実現せず)「謎は解消しない」を用います。
   ・「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現していると考えれば、
    (ダブル・トートロジーが実現し、)「なぜ「○○○でない」ではなく
    「○○○である」の方なのか?」という謎は解消する。
   ・「○○○である」だけが実現し、「○○○でない」は実現していないと
    考えると、(ダブル・トートロジーが実現せず、)「なぜ「○○○でない」
    ではなく「○○○である」の方なのか?」という謎は解消しない。
になります。

2日前 No.506

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBabaさん

>> >>506


 ありがとうございます。

> 「多世界解釈」(正)=「存在し得るすべての世界が「存在する」であり「存在しない」ではない」ですから、「何かがある」だけが実現し、「何もない」の方は実現されていません。だから、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という謎はダブル・トートロジーに解消されません。


 「多世界解釈」(正)では、「何もない」の方は実現されていないことを認識できていませんでした。
 「多世界解釈」(正)では、謎が解消されないことは了解です。

> 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しない」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。


 「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(反)を、「多世界解釈」が正しい場合と「多世界解釈」が正しくない場合と同じと考えてしまい、早合点していました。

> 上に説明した通り、「多世界解釈」(正)では「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現されていないので、ダブル・トートロジーによる謎の解消はできません。「多世界解釈」(反)は「多世界解釈」(正)の否定ですが、無数のヴァリエーションが有るため、場合によって様々です。両方併せたものが、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)です。


 私が早合点して、=でつないでしまったのですが、この >>505 の=はまず間違い、つまり、両辺は別物ということですね。そうであれば、これ以降、「多世界解釈が正しい世界」、「多世界解釈が正しくない世界」という表現でいきたいと思います。
> 「多世界解釈」(正) = a多世界解釈が正しい世界 → 謎が消滅し、存在の問いへの意味がなくなる

> 「多世界解釈」(反) = b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない


> 「多世界解釈」(合)では「何かがある」と「何もない」の両方が実現しているので、ダブル・トートロジーにより謎は解消します。「多世界解釈」(正)は「何かがある」の方だけしか実現していないので、ダブル・トートロジーによる謎の解消はできません。


 「多世界解釈」(正)は「何かがある」の方だけしか実現していないことを理解しましたので、「多世界解釈」(合)についてのこの内容が「多世界解釈」(正)に当てはまらないことを了解しました。

> 「多世界解釈が正しい世界」というのは、「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合、という意味ですね。「多世界解釈が正しくない世界」の方は、「何かがある」と「何もない」の片方だけしか実現していないと考える場合、という意味になります。


 表現内容を整理させていただくと、

「多世界解釈が正しい場合」:
 「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合

「多世界解釈が正しくない場合」:
 「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合
=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合
=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合

「多世界解釈」(反):
 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しない」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。( >>506 より)

 ということかと思いますが、これで支障がありますでしょうか。

 この場合の「多世界解釈が正しくない場合」は、
>「多世界解釈」(合)を採らない《常識的に考えた場合》の「公理」=「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」だと、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現している、とは考えていないはずです。自分が住む世界1つだけが存在し、宇宙人は「存在する」か「存在しない」か片方だけしか実現していない、と考えているはずです。

 と同じことになり、「多世界解釈が正しくない場合」=《常識的に考えた場合》となります。

 ここまでは、よろしいでしょうか。

 ここで、 >>459 で合意した下記の枠組みとそれ以降の確認をやり直さないといけないと思います。
 まず、枠組みの整理としては、以下のとおり。

《常識的に考えた場合》

《多世界解釈を導入した場合》

 (多世界解釈が正しい場合)

 (多世界解釈が正しくない場合)

 ただし、
《常識的に考えた場合》=《多世界解釈を導入しない場合》=(多世界解釈が正しくない場合)
=「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合
=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合
=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合
 また、《多世界解釈を導入した場合》は、多世界解釈(合)に当たる。

【説明】
 多世界解釈を導入した場合としない場合に分け、導入しない場合が、常識的な考え方=「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合で、導入した場合については、多世界解釈の定義上、すべてが実現しているため、その中に同時実現した多世界(存在しないも含まれる)と、この常識的な考え方の世界を含んでいると考える枠組み

 これを踏まえて、 >>459 で合意した枠組みを確認しましたが、上記説明に基づいても、下記のように【答え】の内容を除き、特に変更は不要のように思いますが、いかがでしょうか。

>「謎が消滅する」「謎が消滅しない」「謎が残らない」「謎が残る」「初めから謎は無かった」「謎に答が有る」「謎に答は無い」「問いに意味が有る」「問いに意味がない」…など表現がばらばらですので、1つに統一します。(ダブル・トートロジーが実現し)「謎は解消する」、または、(ダブル・トートロジーが実現せず)「謎は解消しない」を用います。

   ・「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現していると考えれば、
    (ダブル・トートロジーが実現し、)「なぜ「○○○でない」ではなく
    「○○○である」の方なのか?」という謎は解消する。
   ・「○○○である」だけが実現し、「○○○でない」は実現していないと
    考えると、(ダブル・トートロジーが実現せず、)「なぜ「○○○でない」
    ではなく「○○○である」の方なのか?」という謎は解消しない。
になります。

 表現の整理をありがとうございました。
 これに基づき、上記枠組みの【答え】の内容について検討すると、

>>459
>《常識的に考えた場合》

>【公理】

> 何かがある又は何もないのどちらかである

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

> ?、無現後退、答えはない…A

   ↓
  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

>《多世界解釈を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

  以下の両方を含む全体としては、(ダブル・トートロジーが実現し)謎は解消する。

>(正しい場合)

> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

   ↓
  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

>(正しくない場合)

> Aと同じ

   ↓
  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

>> 【結論】

>> 多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考えてしまうと、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに、オーソドックスな科学は答えられず、「なぜかそうだからそうなのさ」と黙って受け入れるしか無くなる。

> この【結論】の考え方は、うえで設定した《常識的に考えた場合》に該当すると思います。

> よって、【答え】は、Aであり、SumioBabaさんが【結論】の中でお述べのとおりです。

 その通りです。ここまでは合意成立ですね。

 早合点や勘違いなどがあるかもしれません。
 支障がある箇所を指摘又修正いただければ幸いです。

 なお、《常識的に考えた場合》及び《多世界解釈を導入した場合》(正しくない場合)の【答え】について、次のご説明をどのように反映すればよいでしょうか。

・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない
   ↓
 bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。
 「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。aでは答が見付かったから、これ以上問う必要は有りません。bでは答が存在しないに確定したのだから、こちらもこれ以上問う必要など無いのではありませんか?

2日前 No.507

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>507  えぴめてうすさんへ

> 「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(反)を、「多世界解釈」が正しい場合と「多世界解釈」が正しくない場合と同じと考えてしまい、早合点していました。

> 私が早合点して、=でつないでしまったのですが、この >>505 の=はまず間違い、つまり、両辺は別物ということですね。そうであれば、これ以降、「多世界解釈が正しい世界」、「多世界解釈が正しくない世界」という表現でいきたいと思います。


 それもあまり正確ではありません。いっそ、「「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現していると考える場合」、「「○○○である」だけが実現し「○○○でない」の方は実現していないと考える場合」に分けましょう。その方が一目瞭然です。

> 「多世界解釈」(正)は「何かがある」の方だけしか実現していないことを理解しましたので、「多世界解釈」(合)についてのこの内容が「多世界解釈」(正)に当てはまらないことを了解しました。


 はい、有難うございます。「多世界解釈」(正)、「多世界解釈」(反)、「多世界解釈」(合)という言葉は、SumioBabaが好き勝手に定義した上、一度しか説明していなかったので、誤解は有って当然だと思います。質問が有ったので詳しく説明しましたが、必要が無ければ、そんなに詳しく理解して頂かなくても良い、と考えておりました。

> 「多世界解釈が正しい世界」というのは、「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合、という意味ですね。「多世界解釈が正しくない世界」の方は、「何かがある」と「何もない」の片方だけしか実現していないと考える場合、という意味になります。


>「多世界解釈が正しい場合」:

> 「何かがある」と「何もない」の両方が実現していると考える場合


>「多世界解釈が正しくない場合」:

 「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合
>=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合

>=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合


 はい、そうです。

>「多世界解釈」(反):

> 「多世界解釈」(反)は、「多世界解釈」(正)の否定であり、「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界のうち、真部分集合だけが「存在する」であり補集合は「存在しない」である」ですから、無数のヴァリエーションが考えられます。「多世界解釈」(反α)=「自分が住む世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、…は「存在しない」である」ならば、「何かがある」だけが実現しており、「何もない」は実現していません。「多世界解釈」(反β)=「存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が「存在しない」である」ならば、「何もない」だけが実現しており、「何かがある」は実現していません。これら2つを重ね合わせた「多世界解釈」(反γ)= 「多世界解釈」(反α)+ 「多世界解釈」(反β)なら、「何かがある」も「何もない」も実現しています。( >>506 より)


> ということかと思いますが、これで支障がありますでしょうか。


 はい、OKです。ただ、ちょっと説明が不備でした。「多世界解釈」(反α)と「多世界解釈」(反β)とは「多世界解釈」(反)の定義に従っていますが、「多世界解釈」(反γ)はちょっと外れています。このような「多世界解釈」(反γ)もまた「多世界解釈」(反)に含める、という定義の拡張が必要ですね。「多世界解釈」(合)は考えられるすべての可能性を含んでおり、そこから「多世界解釈」(正)を除くものすべてが「多世界解釈」(反)です。「多世界解釈」(合)=「多世界解釈」(正)+「多世界解釈」(反)。

> この場合の「多世界解釈が正しくない場合」は、

>>「多世界解釈」(合)を採らない《常識的に考えた場合》の「公理」=「宇宙人は「存在する」か「存在しない」かどちらかである」だと、宇宙人が「存在する」と「存在しない」の両方が実現している、とは考えていないはずです。自分が住む世界1つだけが存在し、宇宙人は「存在する」か「存在しない」か片方だけしか実現していない、と考えているはずです。


> と同じことになり、「多世界解釈が正しくない場合」=《常識的に考えた場合》となります。


> ここまでは、よろしいでしょうか。


 はいその通りです。

> まず、枠組みの整理としては、以下のとおり。

>《常識的に考えた場合》

>《多世界解釈を導入した場合》

> (多世界解釈が正しい場合)

> (多世界解釈が正しくない場合)


> ただし、

>《常識的に考えた場合》=《多世界解釈を導入しない場合》=(多世界解釈が正しくない場合)

>=「多世界解釈を採らず、「何かがある」と「何もない」のうち実現したのは「何かがある」の方だけだと考え」る場合

>=公理である「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合

>=多世界でない(2つ以上の状態が重ね合わせでない)世界である場合

> また、《多世界解釈を導入した場合》は、多世界解釈(合)に当たる。


 はい、正しく理解されています。

>【説明】

> 多世界解釈を導入した場合としない場合に分け、導入しない場合が、常識的な考え方=「何かがある又は何もないのどちらかである」を前提して考える場合で、導入した場合については、多世界解釈の定義上、すべてが実現しているため、その中に同時実現した多世界(存在しないも含まれる)と、この常識的な考え方の世界を含んでいると考える枠組み


 はいこれでOKです。ただ、ちょっと見方を変えると、《常識的に考えた場合》というのは、(多世界解釈が正しい場合)と(多世界解釈が正しくない場合)のうち正しいのは(多世界解釈が正しくない場合)の方だ、と無意識的に真理を限定してしまっている視点なのですね。だから、そんな先入観を捨て、何一つ暗黙の仮定をせず、真理のデフォルト値である「多世界解釈」(合)から話を始めようではないか、ということです。そうすれば、敢えて《常識的に考えた場合》を書く必要は無くなります。(多世界解釈が正しくない場合)こそが《常識的に考えた場合》そのものなのですから。

>《常識的に考えた場合》

>【公理】

> 何かがある又は何もないのどちらかである

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

> ?、無現後退、答えはない…A

>   ↓

>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。


 はい、そうです。

>《多世界解釈を導入した場合》

>【公理】

> 多世界解釈(すべてのことがあり得、かつ実現している)

>   ↓

>【問い】

> なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

>   ↓

>【答え】

>  以下の両方を含む全体としては、(ダブル・トートロジーが実現し)謎は解消する。

>(正しい場合)

> すべてがあるのだから、その問い自体がおかしい。

>   ↓

>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。

>(正しくない場合)

> Aと同じ

>   ↓

>  (ダブル・トートロジーが実現せず)謎は解消しない。


 (正しい場合)と(正しくない場合)とが、どういう分け方になっているのかよく解りません。「「何かかがある」と「何もない」の両方が実現している場合」と「「何かがある」だけが実現し「何もない」は実現していない場合」とに分けるのであれば、前者はダブル・トートロジーが実現し「謎は解消する」、後者はダブル・トートロジーが実現せず「謎は解消しない」だと思いますが?

 《常識的に考えた場合》というのは、《多世界解釈を導入した場合》の(正しい場合)と(正しくない場合)のうち、先入観で無意識的に(正しくない場合)の方を選んでしまっている視点です。だから、《常識的に考えた場合》と、《多世界解釈を導入した場合》の(正しくない場合)とは、完全に同じになるはずです。

> なお、《常識的に考えた場合》及び《多世界解釈を導入した場合》(正しくない場合)の【答え】について、次のご説明をどのように反映すればよいでしょうか。

>>・b多世界解釈が正しくない世界 → 存在の問いに対して謎が消滅していない

>>   ↓

>> bでは答が無いことが解ったので、こちらももう問う必要は有りません。

>> 「bではまだ問いが解かれないまま残されています」ではなく、「bでは答が存在しないことをSumioBabaはとっくに説明ずみ」です。だから、答は無いのに、えぴめてうすさんはbを選び、いつまでも何しているのだろう?と疑問に感じるのです。aでは答が見付かったから、これ以上問う必要は有りません。bでは答が存在しないに確定したのだから、こちらもこれ以上問う必要など無いのではありませんか?


 P=「「何かがある」と「何もない」の両方が実現している」と考えれば、ダブル・トートロジーの実現により、《謎》=「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は解消されます。その代わり、「なぜ「Pでない」ではなく「Pである」の方なのか?」=《メタ謎P》が発生してしまいます。

 Q=「「何かがある」だけか実現し「何もない」は実現していない」と考えると、その論理的必然性は存在しないので、経験科学的真理として黙って受け入れるしか有りません。「理由なんか知らないよ」「なぜかそうだからそうなのさ」「神の気まぐれとしか言いようがないね」「神はなぜか最後まで謎が残るように世界を作ったのだ」が最終的な答になり、《謎》は解消しません。さらに、「なぜ「Qでない」ではなく「Qである」の方なのか?」=《メタ謎Q》も発生してしまいます。

 「多世界解釈」(合)は、P+Qという重ね合わせの視点に立ちます。正確に書けばaP+bQ(aとbは不明)であり、Pかもしれない、Qかもしれない、両方かもしれない、片方かもしれない、です。この場合、Pを選べば《謎》は解消し、Qを選べば《謎》は解消しません。つまり、この視点だと、「《謎》は解消する」を選べば「《謎》は解消する」が選ばれる、「《謎》は解消しない」を選べば「《謎》は解消しない」が選ばれる、というダブル・トートロジーが成立しているだけであり、《メタ謎P》と《メタ謎Q》も解消します。と同時に、《謎》が解消する理由、解消しない理由も解っているので、《謎》の答も得られたことになります。

1日前 No.508

★Android=1jTqFEWVqK

反実在論が正しいことの証明 全ては主観であるとする
全ては主観であることも主観であるよって客観であり
偽 全ては主観であるは偽とするつまり全ては客観であるとなるこれは真である
この文は偽のみである(つまり、同時に真ということはない)は同時に真ということはないがこの文は偽のみで
否定されるため真であり同時に偽でパラドックスは解決される。よって全ては主観であるは客観であり主観なので主観と客観は一致するとなり反実在論は正しいとなる

2時間前 No.509

★Android=1jTqFEWVqK

全ては→これは
つまりはこれは主観であるは偽でも真でも矛盾するため他の理論を使う必要もなく単独で偽でも真でもないとわかり結論としてでた偽でも真でもあるが結論が正しいならば主観と客観は同じであるという事実も正しいということです

2時間前 No.510

★Android=1jTqFEWVqK

またこれは客観であるが真であるとき真ですが偽であるときを考えた場合 主観または主体を離れて独立に存在する存在が偽とした主観でみると偽になり矛盾
よって客観は客観であるが真のとき存在し客観であるが偽のとき存在するとなり前の考えを補強する

2時間前 No.511
ページ: 1 2 3 4 5 6

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる