「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、 3年前 No.0
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「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、 3年前 No.0
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えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
宿題さん
>見えなくても存在している・・(物質・身体でない存在)についてが形而上学です。
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
宿題さん
>結局えぴめてうすさんは、限定的に存在していると思いますか? 空間時間を超越して存在していると思いますか?
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
宿題さん
>存在とは何か?(中味のソフト)
>存在しているのかいないのか?(外枠ハード)
>同時並行で議論するべきだと思いませんか?
えぴめてうすさん
存在していると認識するには意識が必要です。現実知覚です。
神秘・・本当に時間を超え空間を超え存在する「絶対的意識」があるから神を感じるのではありませんか?
われ思う故に我あり・・という意識・・これが存在です。
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
宿題さん
>存在していると認識するには意識が必要です。現実知覚です。
>神秘・・本当に時間を超え空間を超え存在する「絶対的意識」があるから神を感じるのではありませんか?
>われ思う故に我あり・・という意識・・これが存在です。
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
宿題さん
>人間の存在と無機物の存在と・・存在も千差万別の状態の種類があると思いませんか?
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
宿題さん
>自分で存在を意識する自意識(自我)のある存在・・存在していると思わずに存在する自意識の無い存在・・二通り?
えぴめてうすさん
自我があるか無いか?の二通り・・
時間的制限があるか無いか?の二通り・・
空間的制限があるかないか?のふた通り・・
一般的な意識の存在か神のような神秘的超越の存在か?
・・・
うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY
「なぜ宇宙・世界があるか」という問いにたいして、それは「私が見るから」あるのだ。という
答えしか思い浮かばないです。私の見ない物はあるとは言えないのでは?
俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E
「何かがある」なら「何かである」のでもなければならないかもしれないけれど、「何かである」から「何かがある」とは言えず、「何かがある」と「何かである」は区別され、認識の問題は「何かである」に属するとすれば、存在の問いに認識を持ち出すのは的外れだと言えると思う。
というのも、「何があるか」が問われているのではないから。
「何があるか」は、何にせよ「何かがあり」、それが「何であるか」の問いだとすれば、問われているはずの「何かがある」は前提とされ、飛び越えられてしまっているのでは。
そうであれば、「認識されたものが〜」等は「何があるか」には答えているかもしれないが(つまり認識されたものが存在する)、なぜ「何かがあるのか」という問いは飛び越えられてしまっている、と言えるかもしれない。
つまり、「なぜ何かがあるのか」という問いの重点は「何か」ではなく「ある」の方にあり、「何かがある」と「何かである」は区別されるとすれば、「ある」にはその「何か」(内容規定)がなく、「なぜ何かがあるのか」は問いの形式は持っていても、問われている内容がないと言えるかもしれない。
俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E
「なぜ世界はあるのか」「なぜ宇宙はあるのか」「なぜ何かがあって、何もないのでないのか」。
これらは全て、問題の重点がズレてしまっていると言えるかもしれない。
というのも、ここで問われているのは「存在」ではなく、世界宇宙あるいは何であれ存在する何かがなぜ存在するのか、という問いだろうから。
そのように問題の重点がズレてしまえば、世界宇宙あるいは何であれ何かが存在することとそれらが存在しないこととが対比され、問いたかったはずの「存在」は問いの空間から締め出されてしまう。
とはいえ、「存在」は必ず「何かの存在」であるとすれば、「存在」の問いは「何かの存在」の問いに変貌するか、あるいは、それであることしかできないのかもしれない。
と書いてみて、もし仮に自分がここで問題にしていることが問題であるとして、ここに問題があるとして(実は問題なんてなくただの妄想か勘違いかもしれない)、誰もこんなこと問題にしないかもしれない、そもそも問題としてすら認知されないかもしれない、と思った。
俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E
考えれば考えるほど「何かがある」ことに驚きを感じる。
それが何でなぜこのようにあるのかが分かったとしても、それがなぜあるのかは分からない。
「何かがある」ことは凄いことなんじゃないか、奇跡みたいなものなんじゃないかと思えてくる。
例えば、世界があるのはビッグバンによってだとか、神がそうさせた、とか答えたとしても、なぜビッグバンはあるのか?なぜ神はあるのか?とさらに問えるだろう。
この問いは「ビッグバン」の原因や「神」の原因の問いではないと思う。
もしそのような問いであるとすれば、ビッグバンや神は第一原因として考えられているはずであるから、その原因を問うことはできないだろうし、問えるとすれば、それらが本当に第一原因か、それらが本当にあるのか、そもそも第一原因なんてあるのか等々になるだろう。
そうだとすれば、この問いをビッグバンや神であれ何であれ、それらが「ある」ことへの問いだと考えることはできないか。
そうすると、「ある」だけでなく「あり続けている」ことにも驚きを感じる。
そこに懐疑を差し挟みたくなる人もいるかもしれないけど、それは問題が違う。
とはいっても、こんなのただの妄想勘違いだろ、と自分で自分を疑ってもいるのだけれど。
あることに驚いたり不思議に思ったとしても、そのあることがただの勘違いであることはありえるだろうから。
うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY
「ある」と「見る」と「存在について、私は以前にその順番を 見る⇒ある⇒存在と書いたがチョットそれは
独我論の誤った見解として、実際は ある⇒見る⇒存在 だと思う。つまり先に「ある」ということでしょうね。
ここで問題なのは「ありかた」と「見え方」でしょうね? そこに存在の意味があると思います。
>そうすると、「ある」だけでなく「あり続けている」ことにも驚きを感じる。
>そこに懐疑を差し挟みたくなる人もいるかもしれないけど、それは問題が違う。
時間もまた存在しない。この宇宙は漫画の一コマもしくは映画のワンシーンのようなものからできている(量子力学的にも時間は連続ではなく、プランク定数という一定の単位を持つ)。宇宙のすべての粒子の取りうる状態がすべて存在し、それらの中で近いものだけが一定の時間が過ぎたと主観に認識される形で映し出されている。人生とはそのようにしてできた、漫画・映画である。
複合命題の真理値は真か偽かではない。それを構成する単純命題の真理値によって決まる。
そもそも恒真な論理式が公理と呼ばれるのだから、それを「真かもしれない偽かもしれない」ということが矛盾。
突き詰めていえば、話のすり替え。
優鬼さん ★uJcaHEY0RF_eQW
SMB詭弁の骨子は、排中律の悪用にある。
排中律
「いかなる命題も真であるか、または偽である」、または「p∨~pの形の命題はすべて真である。」
排中律は単純命題pを「真であるか、または偽である」ということは必ず真になる、という意味。ここで複合命題p∨~pを「真であるか、または偽である」というと矛盾になる。p∨~pの形の命題を「真であるか、または偽である」ということは排中律そのものを否定しているから。
このように排中律を適用できない複合命題をいつの間にか単純命題のようにすり替えるというトリックだった。
哲学は神学の侍女(はしため)
聖なる教えを受けとるのは、啓示のみにあり、他の諸学問は人間の知性の不十分さゆえに、
それを明瞭にするために、利用されるだけであり、それゆえに、他の諸学問は神学の下女(婢)の地位にあるのだとされるのです。
この考えのスコラ哲学者たちは・・理論のための理論を徹底的にしました・・理論をもてあそぶかのように・・
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>784 優鬼さんさんへ
>排中律
>「いかなる命題も真であるか、または偽である」、または「p∨~pの形の命題はすべて真である。」
>排中律は単純命題pを「真であるか、または偽である」ということは必ず真になる、という意味。
>ここで複合命題p∨~pを「真であるか、または偽である」というと矛盾になる。
>p∨~pの形の命題を「真であるか、または偽である」ということは排中律そのものを否定しているから。
>このように排中律を適用できない複合命題をいつの間にか単純命題のようにすり替えるというトリックだった。
優鬼さんトラップには引っかからなかったようだが、SMBがSumioBabaとは一言もいってないぞ。お前サイコパスじゃね?
排中律が公理でない体系はもちろん存在するが、議論しない。というのも、僕にはその知識はない。
ただ一つ指摘するなら、論点先取。「排中律もまた正しい可能性と正しくない可能性の両方がある」は排中律そのものなので、アプリオリに排中律を適用している。
(前にも同じこと言ったなあ…可能性を限定しなければ間違わない→でも正しいって限定してるじゃん→SMB自身も正しいかどうかはわからないよ、だっけ?今回はなんて答えるんだろ)
1そんな代入操作はない
いつものできるできる詐欺。できるというなら論理学の教科書から引用してみればいい。
できるというだけならだれでもできるから、今のところ根拠はないといえる。
できないなら話をすり替えているだけ。それは排中律という公理ではなく、「排中律」という言葉が同じだけで、異なる意味を持つ、まったく別の単純命題の話をしている。
それが可能だとどうなるか、ちょっと考えればわかる。単純命題に代入すると「真であるか、または偽である」になるなら、恒真・恒偽はありえない。つまり公理というものが存在しない、そんな論理学。
2
「真であるか、または偽である」という根拠は排中律にある。これはもちろん偽の可能性があるという意味。
いつの間にか意味が変わっているだろ?SMBのそれは、論理学の「真であるか、または偽である」とは意味が違う。
まとめとかいうミスリードやめない?同じ話を4回書く必要がどこにあるんだよ。
論点を余さず網羅するのがまとめだよ。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>ただ一つ指摘するなら、論点先取。「排中律もまた正しい可能性と正しくない可能性の両方がある」は排中律そのものなので、アプリオリに排中律を適用している。
>「真であるか、または偽である」という根拠は排中律にある。これはもちろん偽の可能性があるという意味。
>いつの間にか意味が変わっているだろ?SMBのそれは、論理学の「真であるか、または偽である」とは意味が違う。
うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY
なぜ何も無いのでなく、それはあるのか? の答えは「それは私が生きているから在るのだよ」というほかないです。
単純すぎて困りますが・・・「見るから在る」 「見なければ無い」 だと思います。
色々と思うところはありますが、まず、「見る」という表現は不適切だと思いますね。
何故かと言って、あなたは「見るから在る」「見なければ無い」という区別を用いていますよね。
では、何を見て何を見ないのですか?
あなたが見る「それ」は、あなたが「見るから在り」「見なければ無い」のだから、それを「見る」ことも不可能でしょう。
何故って、「それ」はあなたが見なければ無いのだから。
「見る」というは、「見る」こととは独立に存在するものによって、見る「それ」が「見る」とは独立に存在することによって、初めて「それ」を「見る」ことが可能なのでは?
そうでなければ、「見るから在る」「見なければ無い」という区別は無意味では?
で、このことによって「見るから在る」「見なければ無い」という区別自体がそもそも無意味では?
同一性の問題です。
在るものと無いものとが個物として同一というのはナンセンスですから、「見るから在るそれ」と「見なければ無いそれ」の「それ」の同一性を確保できないために、「見るから在る」「見なければ無い」という区別自体ナンセンスではないか、という指摘です。
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
実在論と観念論、立場の違いで、答えが違う。
世界をどう見るか、両者を止揚できる可能性はあるのだろうか。
また見られるべき「世界」は存在するのだろうか。
地下水 ★lHRYPNADL9_Tbw
人間は、観念で考え、数学の様に、論理展開を繰り返すが、何時かは対象を把握しようとする。そしてその対象が世界に向けられた時に、数学は物理に応用される数学の開発に変化する。観念は、実在を把握する、観念に変化する。観念は、実在の自分や、公共の福祉に仕様を合わせる様に、変化するのである。
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
観察者と世界。
世界は観察者が作り出したものなのか、観察者とは別に存在するものなのか。
いくら世界の存在に実感があっても、観察者の主観を通じてしか把握できない構造がある。
観察者が見る世界はあくまで観察者の世界である。
しかし、観察者が存在するが、観察者以外は存在しないという根拠はないのではないか。
地下水 ★KATHFaYqOw_Tbw
赤ん坊を見ていると解るのである。赤ん坊は胎児のときは見えていない。生まれてしばらくは見えていないが、やがて見える様になり、親の顔を見る様になる。乳房は見えない時から、もうすぐくわえられる。そうして1年もすると片言が解って来るが、記憶はまだ定かではない。観念を育てる、大脳新皮質や言語野は、生得的に持っているが、思考の言語である国語でさえ、後発的な学習により徐々に取得される。児童の頃はまだまだ対象把握が不充分であり、空想に囚われており、現実把握や世界観が出来上がっていない。もっともっと現実の世界との対話が必要なのである。しかし直接社会に出すのも足りない物が多いから、学校という限られた空間の中で、文化を学習をする事になる。そして大学の頃、専門分野に限られた現実世界に出る事になる。
その者の世界観は発達を続け、関心や対象の把握の仕方や、認識される物が異なって来る。
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
観察者の主観と言えど、見るゆえに存在するというのは、見なければ損存在しないのと表裏一体。
認識作用がすべてだと見なせば、世界は消えるが、自分はなぜ消えないというのだろう。
ちょっと考えればわかるだろ、両者は不可分だって。観測者が見ているものが世界なんだから。
そもそもあんたたちが言葉だけ知っているであろう「多世界解釈」は、観測者も系(世界)の一部という発想から生まれた量子力学の観測問題に対する解釈なんだが。
えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV
物ではなくて、道徳や数式などの観念のみについても、それを存在するというか。
何をもって存在というのか、定義の問題なのか、より本質的な要素が隠れているのか。
「世界以外のすべてが存在する」?
どうしてこうも認識論的な問題設定から抜け出せない人達が多いのか、さっぱり理解できない。
「在る」ということが問題なんじゃないの?
どのようなものが在って、それがなぜ在るのかを知ることができたとしても、「在る」とは何かはわからないんだよ。
どうしてかと言うと、前者の問題設定においては既に「在る」は了解済みでなければならないから。
「在る」が了解済みでなければ、どのようなものが「在って」、それがなぜ「在る」のかということを、「在る」とはどういうことかを知らないのだから、知ることができない。
例え、存在するもの全てを知っても、「存在」だけはわからない。
だから、認識論的な問題設定から抜け出して、まずそこから問わなければならないのだろうけれども、残念なことにどうすればいいのかさっぱりわからない。
そもそも「存在する」ってどういうことだい?
それこそが問題なんじゃないのかなぁ。
うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY
だから以前に言った通りですね、存在するとは「私が見る」という単なる行為です。私が見ない物、私に見えない物が
存在すると言えるでしょうか?ゆえに、何故に在るか有るかは、自分が見るから在るのじゃあないですか?