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『純粋理性批判』

 ( 哲学掲示板 )
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てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

ドイツの哲学者カントの『純粋理性批判』を読んで、その内容について議論しよう、というスレです。

この本は、いろいろと訳が出ていると思います。例えば、岩波文庫、平凡社ライブラリー、光文社古典新訳文庫、講談社学術文庫、カント全集、等々。あとは、その他外国語訳もあるでしょうし、ドイツ語のものもあります。ここで扱うのは、それらのうちのどれでも構いません。

どのように議論していくか。

基本的に議論のしかたは自由ですが、次のようなしかたでやってみようかと思います。


・或る人が、『純粋理性批判』の一部を要約して、ここにレスする。要約だけでもいいですし、そこに解釈やコメントや感想をつけ加えてもかまいません。
・その要約された内容やそれの解釈について、他の人がコメントしたり、批判したり、最初にレスした人の疑問点などを解決したりする。
・或る一部を要約して、その続きの箇所を再び要約して投稿する場合、できれば、その前の要約レスに「続きだ」ということを示すリンクを付けてください(ナンバーの指示だけでもかまいません)。なお、続きの箇所を要約する人物は、前の要約をした人と同一人物でも、別の人物でもかまいません。


※文量の制限はありません。一文でもいいし、一節でもいい。一文とかの場合、そのまま本文から引用してもかまいません。
※どこの箇所を要約してもかまいません。序文でもいいし、いきなり後半の箇所でもいいし、A版でもB版でもかまいません。
※或る要約が投稿されていてそれについて議論がされていたとしても、そこにまた別の人が要約を投稿してもかまいません。
※要約を投稿する場合、どの訳のどの部分を使ったか(ページとか目次とか)を、できれば書いてください。見た人が参照できるようにするため。
※外国語を使う場合は、日本語の訳を付けてください。
※要約(か要約へのレス)しか投稿してはならない、というルールではありません。もしなにかカントについて言いたいことがあったら自由にどうぞ。

のんびり行きましょう。

4年前 No.0
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pipit ★iPhone=lshVIhkuSL

安齋さまへ

カントの『意識一般』って、どのような意味で言葉を使ってるのかなあ、と、疑問に思っていました。
もし、ご存知なら教えていただけたら嬉しいです。

下記は、pipitが他掲示板へ投稿したもののコピペです。

コピペ開始
『今、カントの、原則の分析論・経験の類推の箇所を勉強しようとしてるのですけど、その過程で、

意識一般

というカントによる概念用語を初めて意識しました。(目は通してたけど頭にちゃんとは入ってきてませんでした)

御子柴善之先生の文章の引用↓
『(略)、私たちがすでに検討したように、知覚判断と経験判断がある。知覚判断は主観的であり、諸知覚を結合するものであり、認識主観の状態を判断するものに過ぎない。この判断が客観の経験に届くことはない。では経験判断は、何ができたときに成立するのだろうか。それをカントは「私が知覚を意識一般において結合するとき(Ak300、中公81、岩波103)と記している。結合されるものが知覚であっても、〈私の主観的意識〉ではなく「意識一般」においてそれが結合されるとき、経験が成立するというのである。意識一般とは、〈私の意識〉や〈君の意識〉を概念的に包み超えた意識である。そんな意識がどこかにあるだろうか。あるのは〈私の意識〉や〈君の意識〉だけなのではないか。いや、それでは自然科学が成立するはずはない。権利上、〈私の意識〉や〈君の意識〉に通底する「意識一般」の可能性が想定され、そこで諸知覚が結合されるとき、経験判断が成立するのである。こうして、カントは経験一般の分析を通して「意識一般」というキーワードを取りだした。』
(『カント哲学の核心』御子柴善之先生、p128.129より引用)


なにこれーーー

意識一般、って、おもしろそうなキーワードじゃないですか〜!(◎_◎;)

カント先生、そんなこと述べてられましたの〜?

ルソーの一般意志のパクリ(×)
、、、触発されて閃いたのかなぁ
違うかなぁ?

また機会があったら、一般意識についても調べてみたいな(^ ^)

コピペ終了

御子柴先生のこの本は、『プロレゴーメナ』を解説されたものだそうです。

6日前 No.362

pipit ★iPhone=lshVIhkuSL

>>362

御子柴先生の解説内容は、カント解釈で一般的なものなのか、
それとま、
解釈が分かれているものなのか、
など、ご存知なこと教えていただければとても嬉しいです。m(_ _)m

6日前 No.363

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

御子柴先生のこの御説は十分、広く通用するものです。私は賛成します。「意識一般」はカントの哲学の根本的性格を表わした言葉の一つだと思います。これはヤスパースなどからは批判を受けています。

6日前 No.364

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

実は御子柴先生とは毎年年賀状をやり取りしている仲です。大学院生時代には少し自慢になってしまいますが「机を並べて」カントを別居うした経験があります。しかし実力、人格共にまったく別格でした。私の後輩もみんなカントのことは御子柴先生に質問に行くのです。私は「俺もいるのに・・・。しかし、仕方がないか・・・。」と思いました。何もかも完璧な方でした。私は公立の高校教師に先生は研究者の水戸を進まれました。とにかくばらしますけど「愛妻家の人格者」です。お人柄は「とっても良い方」です。良すぎると言っていいと思います。最近の先生とのやり取りでは「平和」を繰り返し強調されています。時々、カントの専門書を送ってくださいます。本当にありがたいです。おかげで細々とですが勉強が続いています。

5日前 No.365

pipit ★iPhone=RXDWsH0DdY

安齋さま

>御子柴先生のこの御説は十分、広く通用するものです。私は賛成します。「意識一般」はカントの哲学の根本的性格を表わした言葉の一つだと思います。<


こんばんは。
教えてくださってありがとうございます。

御子柴先生と一緒に勉強されてたとはすごいですね。
図書館でジュニア用の新書『自分で考える勇気』を読んで、とても良い本だなぁと思って、自分でも欲しいな、と、思ってます。
この機会に購入しようかな。
きっかけをありがとうございます(^_^)

意識一般、って、安斎さんも私もみなさんもアクセス出来得る一つとしての意識みたいなかんじでしょうか?

wikiの『純粋理性批判』の記事内に、
『時間および空間(以下時空)は直観の先天的形式である。外的現象に適用される空間は、外的印象を並列的に受け取る外的直観の先天的形式である。これに対し一切の現象に適用される時間は、内的状態を継時的に受け取る内的直観の先天的形式である。ここでいう時空は概念でなく直観である。すなわち個々の時空と唯一の時空とは、個別者と概念との関係でなく部分と全体との関係をもつ。時空の制約は物自体(それ自身は現象しない)には適用されない(先験的観念性(transzendentale idealitat) )。』
とあったのですが、

個別意識、と、意識一般、の関係はどうなると安斎さんは考えてられますか?

wikiの記述だと、
空間と時間は【直観】とありますが、、、空間と時間は現象の中で対象物として存在している、しかも、万人に共通(共有)の対象物として存在してる、とカントは考えてたのでしょうか?

5日前 No.366

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

慎重に答えなくてはなりませんね。「意識一般」はまず一つ一つの経験的な個別の意識に共通なその統一を可能にする意識です。二つ説があって、一つは「なければならない」もので直接のアクセスはできないという考えです。例えば我々が「因果性のカテゴリー」など普遍妥当的な範疇を個別の対象に適用できるためには不可欠であると言えます。普遍的な「意識一般」がなくてはなりません。また我々は「直接的に自己の自己意識の統一性を自覚する時、意識一般を自覚する」という事態はあるという考えです。第一の考えは間違いないと思います。第二は意見が分かれると思います。「意識一般」の相関者は「対象一般」です。それを実際に用いているという自覚があるかないかということです。個別の経験的意識は誰もが意識できるでしょう。しかし、個別の経験的な自己意識を意識し、経験するためには「意識一般」がないと不可能です。そうでないと自己意識の統一や自己同一性は不可能だからです。個別の経験的自己意識をもちながら「私は私である」という自覚を持つためです。
「空間と時間は現象の中で対象物として存在しているか?」という問いには「否」ですね。なぜなら時間と空間は経験的対象を可能にする主観の直観の形式だからです。したがって万人に共通(共有)の対象物として存在する」も「否」です。ただし、時間、空間はすべての対象が与えられるためのあ・プリオリな条件なので普遍性はあります。もっと簡単に言うと「時間と空間」は「物」ではありません。

5日前 No.367

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

「意識一般」とは「超越論的統覚」または「超越論的自己意識」のことです。我々は個別的な経験的意識とその統一を直接意識していますが、その「必要条件」として「超越論的統覚の統一」と「同一性」がなくてはなりません。否定的に言えばそうでないと個別的経験的意識はバラバラになってしまうからです。問題は個別的経験の意識の統一性の自覚は「超越論的統覚」の直接の意識ではないか、ということだと思います。そうではないと言い切りたいのですが、「私は考えるはあらゆる私の表象に伴いうるものでなければならない」というカントの言明をどう解釈するかです。「伴いうる」であって「実際に伴っている」とは言っていません。しかし、現実の我々の意識ではまさに伴っていることもあるわけです。しかし、伴っていない時も実際にはあるでしょう。超越論的統覚の統一をあくまで経験的統覚の統一の「論理的必要条件」あるいは「要請」と考えるか、もっと直接的に自覚できるものか、意見は分かれると思います。私はカントの原書からは何か所か、「直接意識している」ととれる部分があると思います。ただ断言はできません。確実なのは必要条件であるということです。逆に経験的統覚(自己意識)の統一は超越論的統覚(自己意識)の統一の必要条件でもあります。この相関関係があるから「対象一般」が成立し、その超越論的概念であるカテゴリーを個別的な「対象」に適用できるわけです。

5日前 No.368

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

もっとわかりやすく書くように工夫してみます。個別的な経験的な自我、自己意識とその同一性の自覚は実際に直接経験されています。しかし、これは超越論的な自我、自己意識の統一性と同一性がないと不可能です。したがって、超越論的統覚やその統一性、同一性は直接意識はできず、単なる論理的要請にとどまるという意見があります。しかし「超越論的統覚」あるいは「自己意識」は「私は考える」という自己意識なのです。経験的自己意識を離れて自覚されませんが、直接意識していることはあるという意見です。後者の弱点は「私は考える」を常に意識はしていないということだと思います。だから、カントは「『私は考える』という表象はあらゆる表象に伴いうるものでなければならない」としているのだと思います。

5日前 No.369

pipit ★iPhone=n1DPatVLRq

安斎さま、書き込みありがとうございますm(_ _)m

>>367

私は御子柴先生の『通底する』という言葉に、全員共有の一つとしての意識の存在を妄想してしまったんですけど、そういうことではなくて、個々にある(意識一般)が万人に共通、ということなのかな?と、安斎さまのコメント読んで思いました。

個別に生じる単なる意識、を、『私、が、生まれてから今まで、ずっと考えてる』としてつなげる、まとめる、そう考える意識、が、『超越論的統覚』または『超越論的自己意識』とよばれるものなのかな、と、今の時点では思いました。

とりあえずここまでを投稿します。

教えてくださって感謝です。

5日前 No.370

pipit ★iPhone=PW4REXe5TQ

>>367

空間と時間について

これまた私は、wikiの

『ここでいう時空は概念でなく直観である。すなわち個々の時空と唯一の時空とは、個別者と概念との関係でなく部分と全体との関係をもつ。』

という記述から、時間と空間を人間は実際に『物』として直観してるのかな、と勘違い妄想してしまったのですが、

そうではなく、現象としての『物』の現れ方の【形式】が、時間・空間、ということなのかな、と、思いました。

そうだとすると疑問に思ったのが、wikiでの『部分と全体』の表現なのですが、
今の段階の私見書きます。
人間の直観の形式が時間・空間であることが、万人共通なので、
物自体を万人が感性によって表す時、物自体との関係において、万人が時間・空間の中に現れる現象の位置を何らかの形で共有できる、というイメージかな、と、思いました。

私が読んだ、中山元先生の解説を引用します。
引用開始
『空間の第三の解明と時間の第三の解明で考察されるのは、
空間と時間の「唯一性」である。
もちろん空間はさまざまな場所に分割できるのであり、
それぞれの場所は個人にとって意味の異なるものである。
しかしさまざまな部分的な空間を合成して、一つの全体の
空間が考えられるのではない。
「部分的な空間は、単一の空間の内部でしか考えることが
できないものなのである。」(043)
(略)
同じことは時間についても語ることができる。
古代のギリシアのヘラクレイトスは、夢見るときのように自分だけの
時間に籠るものは、大きな共同性から外れてしまうと語ったことがある。
誰もが自分だけの時間の流れのうちに生きているが、
それが時間として意味をもちうるのは、
他者とのあいだで共有した大きな一つの時間のうちの一部であり、
他者もまた私的な時間を生きながら、この大きな時間のうちで
暮らしているからなのである。

この空間と時間の唯一性は、(略)空間と時間が人間が知覚するために必要な
アプリオリな形式的な条件であることによっても生まれる。
カントはこのことを空間と時間が「純粋な直観」(同)である
という言葉で表現する。

(略)ぼくたちは誰もが何かを知覚するときに、空間と時間という形式に依拠するのであり、その形式は、すべての人に共通なものとして普遍的なものである。
その普遍性から、人々が生きる空間と時間性の唯一性が結論されるのである。
(略)

それが「直観」と表現されるのは、概念は複数のものに適用されるが、
直観は唯一のものだからである。
ある論者が指摘しているように、「直観は多数なものが統一されていることを示し、
概念は多数のうちに統一されたものが含まれていることを示すからである。」。
(続く)

引用終了
(同本p356〜358より中山元先生の解説を抜粋引用)

安齋さまにご質問なのですけど、

「私たちは1つとしての時間と空間を共有できている、と、カントは考えてる。」と、認識してもいいのでしょうか?

4日前 No.371

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

微妙に違いますね。確かに全員共通の一つの意識ではありません。しかし、「個々の」というのはどうかと思う。確かに個々の主観に普遍的な「意識一般」というか「超越論的統覚の統一」が「成立していなければならない」と言った方が正確だと思う。あと「つないでいる」というのもあまり正確ではないですね。「総合的に統一している」が一番、正確な表現だと思います。
あと「主観の形式としての時間、空間」に関しても、カントは多様を示唆していますが、これも意識されるためには「総合統一」されます。いわゆる「図式論」ですね。慎重に書かないとオリジナルとずれてしまいます。

4日前 No.372

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

書き足りていませんね。誤解を受ける恐れがるので捕捉します。カントは時間が認識されるためには「(自己)触発の働き(Handlung)」によって線を引かなくてはならないといっています。

4日前 No.373

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

誰かに挑戦してもらいたいことがあります。これはカントを超えています。自己触発と時間(時間性)の意識に関してハイデガーは「将来」からの到来の自己触発を重視し、デリダは過去から「現在」への触発を重視します。後者は有名な「差延」の理論に発展します。ここらは「カントを超える地点」だと思います。自己意識の統一とか「同一性」も自明扱いされていますが、彼らのような「解体」や「脱構築」をしてみると全く違う光景が開けてきます。誰か挑戦してみませんか?ハイデガーは少しカントを曲げて解釈し、「自己」と「時間」を同一視して「自己が自己を触発する」を「時間が時間を触発する」と言っています。

4日前 No.374

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

「理性の自己同一性」という観点からカント哲学を見てみます。「純粋理性批判」では経験的認識の領域では「超越論的統覚の統一(自己意識の統一)」ということで自己同一性は保証されます。しかし、経験的認識を超えて独断的形而上学の領域に入ると「矛盾する判断(命題)が対等な権利で真であると証明される」という「二律背反」に陥り、理性の自己同一性は保証されなくなります。自由に関しても真偽不定です。しかし、「実践理性批判」では自由の認識根拠として道徳法則の意識(事実)によって理性の自己同一性を回復します。理性の自己同一性の最大の難関は宗教論で扱った「悪」または「根源悪」の問題でした。完全に自己矛盾しています。これを突破したのが「理性信仰」でした。それでも「理性を信じる」という立場です。ここまでくると人によってはついていけない、となるかもしれません。
 「理性の自己同一性」をもっとも単純な命題に還元すると「私は私であることを私が承認(肯定)する」という自明な命題になります。平たく言えば最も「当たり前」の命題でしょう。しかし、現代ではこれでは物足りないでしょう。なぜなら、日常の中に「異常」や「悪」があることが深刻な問題だからです。「当たり前」だから大丈夫だから安心しなさい、というカント哲学のスタンスでは物足りないでしょう。
 自己意識の統一を「解体」し、「脱構築」すると統合失調症の方や双極性障害の異常な意識の成り立ちが解明できます。ヤスパースがすでに「限界状況」に関して「意識一般」では無理だと言っていると思います。皆さんはどう思われますか?

4日前 No.375

pipit ★iPhone=bZoq02bB9n

安齋さま、ありがとうございます。

>>371 の最後での私の質問は、
「私たちは1つとしての時間と空間を共有できている」、と、カントは考えていたのですか?

なのですが、
その問いに対する安齋さまの答えは、何処の箇所なのでしょうか?

>>372 での安齋さまの「微妙に違いますね」は、その問いに対する答えではなく、
私の
>>370
での意見に対する、安齋さまのアドバイスと思っています。

それで、安齋さまの言っていることを理解したいのでお聞きしていいでしょうか?

>確かに全員共通の一つの意識ではありません。しかし、「個々の」というのはどうかと思う。確かに個々の主観に普遍的な「意識一般」というか「超越論的統覚の統一」が「成立していなければならない」と言った方が正確だと思う。<


個々の主観に「超越論的統覚の統一」が成立していなければならなく、その「超越論的統覚の統一」は「意識一般」において成立される、
と考えればよいでしょうか?


>あと「つないでいる」というのもあまり正確ではないですね。「総合的に統一している」が一番、正確な表現だと思います。<


了解いたしました。
総合的に統一している、のが、超越論的統覚としての意識、、、
と書いて、超越論的統覚としての意識、という書き方で大丈夫なのかな?と思いました。
とりあえず現段階では、超越論的統覚としての意識にて諸知覚を総合的に統一している、というように考えますが、間違ってたらご指摘くださればとても嬉しいです。

>あと「主観の形式としての時間、空間」に関しても、カントは多様を示唆していますが、これも意識されるためには「総合統一」されます。いわゆる「図式論」ですね。慎重に書かないとオリジナルとずれてしまいます。<


安齋さまは、

中山元先生の
「誰もが自分だけの時間の流れのうちに生きているが、
それが時間として意味をもちうるのは、
他者とのあいだで共有した大きな一つの時間のうちの一部であり、
他者もまた私的な時間を生きながら、この大きな時間のうちで
暮らしているからなのである。
この空間と時間の唯一性は、(略)空間と時間が人間が知覚するために必要な
アプリオリな形式的な条件であることによっても生まれる。
カントはこのことを空間と時間が「純粋な直観」(同)である
という言葉で表現する。」
という解説内容を肯定されますか、否定的にみられますか?

私がこの解説文を読むと、大きな時間と空間を人間は共有している、と、読んでしまうのですが、
安齋さまは、違う意見ですか?

空間・時間の唯一性を、個人の世界の中での唯一性ととるか、
同じ感性を持つものどうしでの唯一性ととるか、どちらなのかな、と思いましたが、そういうことでもないのかな。

4日前 No.376

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

「共有できるている」の「共有」の意味が明らかでないのでお答えできないのです。ある意味ではそうでしょう。共有より「共通」の方が正確だと言えます。個々人の時間経験は個々別々ですが、我々はコミュニケーションできますよね。その根拠は「共通性」があるから、伝達可能性があるのでしょう。カントは「共通感覚」を認識、実践などの領域で我々の諸能力の「ア・プリオリな一致」に基礎づけています。言い換えれば「根源的獲得」です。
それに正直、皆さん、原書を読んでいないので「訳語」に引きずられて解釈しているのが痛々しいですね。例えばなんで「超越論的統覚」と「意識一般」が同じなのか、日本語では分かりにくいでしょう。また「対象一般」の相関物(コレラート)と言われても理解できないですよね。
 簡単に正確性を失うことを覚悟で実例で話しますね。例えばある人が「A君」という人をあるときに知りました。それから、数年後、少し変わった「A君」に出合いました。その時に「同じA君だ」と再認識します。同時にあの時の自分と今の自分は同じだと自覚します。この時の「私の自己意識」は差し当たっての経験的なその時、その時の自己意識です。しかし、同じA君をA君と再認識したときにその経験的自己意識の間に「同一性」と「統一性」が成立していることを自覚するのです。A君が「対象」であり、「対象一般」とは「なんであれある対象」となる述語です。したがってこの経験的自己意識の統一のためには単なる経験的ではない超越論的な自己意識の統一と自己同一性が必要になります。A君は経験的対象です。したがって経験的対象の領域では「私が私であることを確認し、承認できる」わけです。私は「意識一般」という訳はほかにないから仕方がないと思います。しかし具体的にはこういうことです。しかし、A君のような経験的対象ならともかく「自由」とか「神」とか「霊魂(の不死)」に関しては確認の道がありませんね。
 少し話は飛躍しますが、私たちの苦悩は自己を承認できないこと、肯定できないことにあると思われます。カントは真理を認識し、道徳的に正しく生きればそれができると主張しているわけです。

4日前 No.377

pipit ★iPhone=1LLfSA2GgC

>>377

あ、すみません、

意識一般、と、超越論的統覚、って、
同一原語なのですか?

日本語訳が2つになっているのですか?

それとも、原語がそれぞれ微妙にでも違うのか、教えていただけたらありがたいです。

4日前 No.378

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

 主観の唯一性や独自性、個体性や個別性は確かにある。しかし、それだけでは「正しさ」を獲得できない。例えば客観との一致が真理の必要条件とされている。「空が晴れている」時に独り「雨が降っている」とか、何もないのに「黄色の新幹線が走っている」とか「ピンクの豚が飛んでいる」といったら普通、どう判断します。少なくとも「独りよがり」ですよね。客観と一致していたら皆と判断が一致するはずです。だからカントは「客観的妥当性と普遍的妥当性は交換概念である」と何度か言っているのです。道徳法則でも「普遍性の形式」にこだわるのは「真実ならだれにとっても真実」だからでしょう。カントを理解するときの「肝」ともいえる感覚です。確かお釈迦様が遺言で「自己をよりどころとし、真理をよりどころとせよ」と言ったとか、共通するものを感じます。心の安らぎのよりどころでしょう。

4日前 No.379

pipit ★iPhone=GHzWmiwJ6W

私、あなた、あの人、などのストーリーを作っちゃう、ということかなー

ちよっと受動意識仮説を思い出しちゃうなー

4日前 No.380

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

全く違う。というか意味が分からない。ストーリーを勝手に作るのはカント哲学の精神にまったく反する。カントは常に自己の学説と健全な「人間理性」、「良識」、「共通感覚」との整合するように気を配っていた。超越論的統覚と意識一般は原語は異なる。しかし、同義なことが明らかな個所がいくつもある。これも原書をちゃんと読んでいないことを意味している。失礼だが、そういわざるを得ない。

4日前 No.381

pipit ★iPhone=5heVXDKVaQ

>>381

ドイツ語全然わからないので、すみませんm(_ _)m


>超越論的統覚と意識一般は原語は異なる。しかし、同義なことが明らかな個所がいくつもある。<


原語は違うけど、同義な単語が、超越論的統覚と意識一般なのですね。
教えていただいてありがとうございます。

ストーリー、は、誤解される単語使いでしたね、すみません。
何て言えばいいのかなー。

事実、って言葉変えればいいのかな。

私、あなた、あの人、の事実としての事実を作る。

かなぁ。

客観的な事実としての流れを認識としてつくる、です。

4日前 No.382

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

結局、自分で原書をしっかりちゃんと読まず、しかも自分の頭で理解する努力をしない。かつ御子柴先生や他の専門家の著作の中ら引用し、確かに一見、矛盾しているような箇所を取り上げて、結局はカントは無関係な何か自説めいたことを主張している。その自説は説得力に乏しい。印象では「独りよがり」な感じが否めない。さすがにこれはひどすぎないだろうか。

4日前 No.383

pipit ★iPhone=kqE3TAXfG4

>>381

原語どころか、日訳でも『純粋理性批判』通読できてない者で、
でも、理解してみたいなー、と、思ってる者です。

感じたもの考えて、認識に対象が従ってる、
この結果できあがったものを私は安易にストーリーと呼んでしまったのですが(軽率でしたね、すみません。)、では、私がストーリーと呼んでしまったものを、安齋さまは、何と呼びますか?

4日前 No.384

pipit ★iPhone=kqE3TAXfG4

>>383

また、私が382で述べた

「客観的な事実としての流れを認識としてつくる、です。」

という言葉は、カント哲学の理解としては間違えてますか?

4日前 No.385

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

どっちとも言えません。「流れ」って何ですか?哲学する者の基礎、基本ですが「真偽の判定」がなるべくつくように「書く」ことがマナーでしょうね。「事実としての流れ」というのは詳しく説明してください。また感情的になったことは本当に謝ります。「認識をつくる」も引っかかりますね。カントの認識論は認識能力を大きく分けて「受容性」と「自発性」に分かれます。「受容性」は例えば、感性の受容性なら、今でいう感覚所与をそのまま受容する、正確ではありませんが、そういう能力で「つくり」はしないですね。しかし、その素材をもとに自発性でいろいろと認識の能動的行為をするのも本当です。単純に「客つかん的認識をする」で十分だと思いますが、それではきっと何かが足りないのでしょうね。私の推測では悟性や理性の自発性の能力のことかな?と思いました。

4日前 No.386

pipit ★iPhone=Nvvx74Zl0j

>>386

私の独りよがりに理解していたことをただしてくださることに感謝いたします。

私は、カントの考えてたことを理解したいと思っている者で、でも、カントの文章は私には難しすぎるので、いろんな方の解説本を読んだり、安齋さまのように知識のある方から教わったりして、読み進めたいな、と、思っている者です。

自分の感想はさておき、まずは、カントの言ってることを理解しなくてはいけないな、と、思いました。
ありがとうございます。

>「事実としての流れ」というのは詳しく説明してください。<


安齋さんの提示してくださった例で言えば、
「ある人が「A君」という人をあるときに知りました。それから、数年後、少し変わった「A君」に出合いました。その時に「同じA君だ」と再認識します。同時にあの時の自分と今の自分は同じだと自覚します。」

が、私のイメージする、客観的な事実としての流れ、です。
私という存在、の、事実の継起、
A君という存在、の、事実の継起、
を、流れと表現しました。

ということは?


「客観的な事実としての継起を認識としてつくる、です。」

とりあえずここまでを投稿します。

4日前 No.387

pipit ★iPhone=nyYRgCXo0q

>>386

>「認識をつくる」も引っかかりますね。カントの認識論は認識能力を大きく分けて「受容性」と「自発性」に分かれます。「受容性」は例えば、感性の受容性なら、今でいう感覚所与をそのまま受容する、正確ではありませんが、そういう能力で「つくり」はしないですね。しかし、その素材をもとに自発性でいろいろと認識の能動的行為をするのも本当です。単純に「客つかん的認識をする」で十分だと思いますが、それではきっと何かが足りないのでしょうね。私の推測では悟性や理性の自発性の能力のことかな?と思いました。<


認識行為の中にある、自発性を思い、つくるという言葉が出たように思います。

感じたものを考えて認識の対象とする。
とした時、
認識の対象は、人間の能力によってつくられたもの、と、私は考えたのですが、

安齋さんは、
認識の対象は、人間の能力によってつくられたものではない、と、考えますか?

、、、

言い換えます。

「客観的な事実としての継起を、認識でつくる。」

この言葉使いなら、カントの考え方の表現としては安齋さんはどう思われますか?

4日前 No.388

pipit ★iPhone=nyYRgCXo0q

つくる、は、意志的なものを感じてしまう言葉かもしれませんね。

やっぱり、

『認識に対象が従う。』
が、ピッタリな言葉なのかもしれませんね。

カントすごいなぁと素直に思いが浮かびます。

4日前 No.389

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

安齋「さま」はよしてください。私はかえって不愉快に思いました。前よりずっとよくなりました。しかし、カントの認識論は伝統的には「主観/客観」の図式を取っています。日本語で言うと「モノ」に近い感じです。「事実」だと「コト」になるのでどうもしっくりきません。とにかく「原書」を読むことをお勧めします。そうでないなら、あまり深入りしない方がよいと思います。時間の無駄です。訳本で読む場合にも良しあしがあります。岩波文庫の『純粋理性批判』は日本語としてはいいのですが、訳した篠田氏が哲学、特にカント哲学を十分理解していないので「本当に理解」する目的ならおすすめしません。と言ってどの訳本が一番いいかはわかりません。なるべく「ごつごつした直訳風」をおすすめします。しかし、それなら自分で原書を読んだ方が早いかもしれません。まずドイツ語の勉強は必要ですね。「学問に王道なし」です。ただ基本的な知識を読む前に入門書や解説本で仕入れておくのはありだと思います。まずそのあたりからお始めになることをすすめます。問題は動機でしょう。哲学を学びたいならカント哲学は良い入口ですが、以上のようなことが不可欠です。哲学を何故学びたいのか?どこまで学びたいのか?はっきり言ってあまり実用的な学問ではありません。知っても「得」になることは少ないです。哲学とは何か?ですら大きな問題です。私は時代がかったこの古い定義が好きです。「原理の学」です。今言ったら笑われます。しかし、物事の根本原理を扱う学問であることは間違いないでしょう。現代哲学も現代の問題を根源あるいは根本から学ぶなら「哲学する」ことは不可欠です。それに非常に現実的な話ですが、哲学で食べていくのはほぼ不可能です。大学の先生になるくらいでしょう。私も偉そうなことは言えず、途中でやめました。また哲学者と哲学研究者は違います。哲学者になるには「哲学する心」も持っていないとそう称する資格はないと思います。二度とない人生です。大切に生きてください。

4日前 No.390

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

pipitさん。哲学の先生に「哲学をやる意義」を一度、真面目に聞いてみるといいと思います。彼らは哲学を教えて給料を貰っているのです。中途半端な私より、まともな答えが規定できるでしょう。私の知っている誠実な哲学科の教授で「安齋さん、私を哲学者だと思わないでください。お金を貰っているからです。ソクラテスは一文も貰っていませんでした。」と答えた方がいます。

4日前 No.391

pipit ★iPhone=JgHKbQ3R91

>>390

安齋さん

私がカントの勉強をする動機は、
最終的には
自分という存在の原理を知りたいからです。

カントの言ってることを参考にして、自分という存在の原理を知りたい、と、思っています。

カントを盲信するのではなく、カントの言ってる地点から、自分の認識や存在そのものを省みて、実際どうなってるのかを知るのが目的です。


ドイツ語を勉強したらいいけど、ちょっと時間も能力も足りないかなぁ。
日々の仕事と家事と用事で、日本語でカントの思想の勉強するだけで現在の生活では精一杯です。


一番大切なことは、カントの思っていたこと、言いたかったことを理解することだと思っています。

対話するとき、お互いがお互いの言葉にどういう意味を込めたかを確認しあって、最終的に、カントはどう言おうとしたのか、を、知ることができたらいいな、と、思います。

4日前 No.392

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

だれかいい教えてくださる方がいるといいですね。カント哲学を十分に学ぶには独学では無理でしょう。自分の原理を知りたかったという動機は悪くないと思います。頑張ってください。

4日前 No.393

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

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4日前 No.394

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

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4日前 No.395

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

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4日前 No.396

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

カントの「裁判官モデル」をどう考えますか?カントは当時の形而上学をめぐる混乱に終止符を打つために「批判」によって理性の権利根拠を法的に吟味しました。モデルは明らかに裁判、法廷でした。

4日前 No.397

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

比喩である。経験するときに人間は同じメガネ(超越論的主観)をかけるので、皆、同じ形式と枠組みで物を見る(経験する)。またメガネを通じて見えるものは「物自体そのもの」ではなく「現象」である。認識に普遍的妥当性がある理由をこのモデルで説明できる。これを「認識論的主観主義」という。主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従うのである。このモデルをどうお考えになりますか?

4日前 No.398

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

ア・プリオリとは本来は「先立つ」という意味である。カントでは「その能力が経験に由来せず、論理的に必要条件として先立つもの」とされる。それゆえ我々の認識主観、認識能力に根源的、かつオリジナルに帰属しているとしている。一種の「権利根拠」に関するものである。カントが裁判官モデル、法廷モデルを用いているという説とも整合する。権利として「根源的に獲得されたもの」である。しかし、現在では「生得的」に近い意味で経験科学では使用される。これについてどう考えられますか?

4日前 No.399

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

超越的とは普通、経験を超えているという意味である。伝統的には「対象の区別を超えた普遍概念」の意味がある。カントの超越論的とは違う。カントの超越論的とは
@起源がア・プリオリである。(従って理性自身に帰属する)
□経験が(科学的)対象世界、道徳的世界など一定の領域の成立を成立を可能にする権利の根拠足りうる原理を指す。
たとえばカテゴリーは純粋悟性概念で超越論的とされる。演繹論はこれらが経験一般を可能にする権利根拠として「正当化」するための「議論」と見なされる。問題は本当に「正当化」されているか、である。かなりオリジナルは錯綜している。超越論的統覚の統一が最高原理として打ち出されている。「私は考える」の「統一」、「同一性」である。このための必要条件としてカテゴリーなどは「演繹」されている。本当に「正当化」されていると思いますか?このカントの判決に意義はないですか?独断的形而上学は「二律背反」になるので「正当化」できないとしています。科学的概念の正当化の議論ともみなせると思います。

4日前 No.400

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

私の中で答えが出ていないことがあります。「演繹論」とは何か?ということです。少なくとも「論証」だするとおかしいのです。最高原理として「超越論的統覚の統一」をあげていますが、その根拠は「経験的統覚の統一」で明らかに循環論証になっています。ただ普通の循環論証と違うのは「ほかに選択肢がない」ことを明らかにしていることです。この最高原理は「私は考える」の同一性です。従って、循環論証になることを示し、しかし、ほかに選択肢がないことを明らかにする、それゆえにその必要条件を「正当化」している。「そうであるからそうなんだ」と言っているのに近いですね。
 これとそっくりの構造が「道徳形而上学原論」と実践理性批判」でも出てきます。「道徳形而上学原論」では「道徳法則」を自由と不可分なものとして論証しようとしますが、最後に循環になり「把握不可能性を把握する」で終わっているのです。つまりほかに選択肢がないということです。そして「実践理性批判」では「道徳法則」は「理性の事実」として主張します。事実は証明不可能だし、証明が不要です。ということは統覚の統一の最高原理も証明不要な「根源的事実」である主張していることになります。だから「正当化」の議論としたのです。繰り返し見え隠れするのが「理性の自己同一性」とか「肯定的自己関係性」です。「理性を否定するのも理性になってしまう」で文句が言えないのですね。これをどう評価するか、当たり前のことだから納得するか、分かれ道だと思います。ただカントはかなり時代の制約を受けています。それを慎重に配慮すべきです。そうしても根本の構造はこうだと思います。

4日前 No.401

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

「理性の自己同一性」を命題で表現すれば「理性は理性である」になります。しかし、この命題化には以下の批判があります。
@単なるトートロジーではないか。
□理性的自己意識に関するものだ。自覚がないと成立しない。
これを踏まえると「理性が理性であることを理性が自覚する」になります。しかし、自己意識とは何か、という難しい問題が出てきます。したがって「承認する」とか「肯定する」という風に言い換えるのが正しいし、無難だと思います。
B「理性が理性であることを理性が承認(肯定)する」
理性は理性て自我のことですから、少し後ろめたいですが、しかし、Bから
C「私が私であることを私が承認(肯定)する」
演繹は可能だと思います。
 カントはこれを「理性」の「事実」とか認識の最高原理として掲げています。しかし、感覚所与のような知覚可能な事実ではないでしょう。それなら単なる「経験的事実」です。超越論的「事実」であるのは理性自身に帰属する根源的なものだからです。事実だから証明不要で証明不可能です。これが理性の法廷での究極の判決の根拠になっています。
 科学とその諸原理と諸法則は「合法」ですし、道徳的な諸原理や法則も「合法」です。理性の自己同一性が成立するために不可欠だからです。しかし、独断的形而上学は「違法」という判決を下しています。
@経験を超えて確かめられない。
□論理的に検証しても二律背反になる。
二律背反では矛盾する命題が対等の権利で真と証明されるので「理性の自己同一性」は成り立ちません。
 「自由」に関しては科学「理論理性」では「真偽不定」で、違法とも合法ともされません。しかし、実践理性では「道徳法則が認識根拠」になって「真」が確定するので理性の自己同一性は成り立ちます。
 自己同一性は少し古いかもしれません。今では「肯定的自己関係性」として語る人が多いです。トートロジーへの還元をより回避できます。本質は不変です。しかし、「本当に事実か?」と問われても当然でしょう。それに対して「当たり前」だからでは哲学にはならないでしょう。客観的には「確信」が妥当だと思います。ただし独りよがりな確信ではなく、大多数の人が賛同する「確信」です。
 やっぱり「異常な現実」はどうするのと問われるでしょう。カントはどう答えるでしょうか?その点ではハイデガーやヤスパースの実存哲学の包含去っていると思います。二人は世界大戦を経験し、人間理性の脆さを体験しました。カントはそんな体験はしていません。啓蒙時代の人だからです。どう思われますか?

3日前 No.402

★E6vycvPYvN_pzR

>>389
『認識に対象が従う。』
わたしのばあい、逆ね。「対象に認識が従う」あるいは「対象を認識が見る」っていうこと。


デカルトは『省察』のなかんでこんなこと書いてます。
〔私はそこで、私の見るもののすべてが偽である、と想定する。当てにはならぬ記憶が表象[ナイシハ、再現]するもののうちにはかつて存在していたものは何もない、と信ずることにする。何らの感官も私は全くもっていないことにする。〕
これによると、デカルトは「記憶」を〈当てにならないもの〉ってしているようです。
また、デカルトは〈記憶からのもの〉を「表象」ってしてる、ってわたしは見てます。

わたしが問題としてるのは、デカルトは「感官」と「記憶」の存在を認めてる、っていうこと。


で、ねえ、ところでpipit さま、カントは、「記憶」とか「表象」について、どんなこと書いてます?

3日前 No.403

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

本人が「原書」を読んでいないのと言っているのは変ですよ。何かこの言明にはありますね。少なくとも純粋には思えない。認識論的主観主義も一つの立場に過ぎない。私も客観主義でも行けると思う。カントの動機がヒュームなどの懐疑論からまともな科学と道徳を正当化して守ろうとしたことがある。しかし、現代ではそのために「主観主義」を採る必然性はない。しかし、当時の彼はそれしかないと思っていたのだ。こういう不完全さは色々あり、それが後の哲学の発展の契機になっている。私は哲学をする人は個人的には「誠実」であってほしいと思う。カントも「自己自身に徹底的に誠実だった」ことは間違いない。

3日前 No.404

★E6vycvPYvN_pzR

ちょっと、
>>404
〈カントも「自己自身に徹底的に誠実だった」ことは間違いない〉
同意します。

3日前 No.405

pipit ★iPhone=NvP5UY2MPm

>>403

游さま、こんばんは

まず、カントの文章を引用します。
『ところで人間が心で思い描く像はすべて、それが外部の物を対象とするかどうかを問わず、すべて人間の心の規定であるために、心の内的な状態に属する。』
『純粋理性批判1』中山元先生訳、p103より引用。

多分、記憶も上記で言う【心で思い描く像】に含まれると思っています。
人間が思い描く像はすべて、心の内的な状態に属する、と、カントは考えていたようですね。

それで、【表象】についてですが、冨田恭彦先生という方の『カント入門講義』という本での説明文を引用します。

☆表象について☆
引用開始
『「表象」のもとのドイツ語は'Vorstelling'(フォーアシュテルング)です。
'Vor-'(フォーア)は「前に」、'stellung'(シュテルング)は「置かれたもの」を意味します。

ですから、「フォーアシュテリング」というのは、「前に置かれたもの」、「前にあるもの」のことです。

何の前にあるかというと、私たちの心の前です。
というわけで、「表象」は、心(意識)の対象となっているもの、意識に現れているものを意味します。』
p95より引用

心(意識?)の対象として現れてるものならなんでも、それを表象と呼んでるのかな?と、思いました。

それで、【記憶】ではないのですが、【夢や狂気】についてカントが述べてたところは知ってたので、引用しますね。

カントの文章です。
『しかしだからと言ってわたしたちが直観において外的な事物の像を心に描いたから、外的な事物が実際に存在するとは結論できない。
夢や狂気の場合のように、わたしたちがたんなる想像力の働きで、外的な事物の像を心に描くこともあるからである。
しかしこうした像は、かつて外的に知覚した像を再生したものにすぎない。
外的な知覚は、すでに指摘したように、外的な対象の現実性によって可能となる。』
『純粋理性批判3』中山元先生訳、p197より引用

それでは失礼します

おやすみなさい

3日前 No.406

pipit ★iPhone=XpRNxaZCMF

>>406

最後に引用したカントの文章に出てくる、

>しかしこうした像は、かつて外的に知覚した像を再生したものにすぎない。<


これ、記憶のことかな?とも、思いました。

3日前 No.407

pipit ★iPhone=KEjzBTo5aD

記憶は想像力の働きとしてるのかな?

もしかしたら、『カント事典』という本を買うかもなので、


項目に『記憶』があったら、引用してみようかな、と、思っています。

まだ頼んでないですけど〜(o^^o)

3日前 No.408

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

「記憶」についてカントが主題的には語っていないと思います。しかし、何か所か取り上げています。「構想力(想像力)」を「再生産的構想力」と「生産的構想力」に分けています。この訳がベストか、どうかは正直、自信はありません。ただ、この区別に関して「記憶」に関して述べていると思います。

3日前 No.409

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

あとは「覚知の総合」を主題にしている箇所で過去の表象を把持することに関して書かれています。

3日前 No.410

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

 私が短い時間ですが、調べた結果、カントの記憶に関しての記述では以下のことは確実だと思います。
@「記憶」を主題にしている「節」や「章」はない。
□再生産的構想力と生産的構想力の区別に関して「記憶」について書かれている箇所がある。
B「覚知の総合」で過去の表象を把持する必要があるという意味のことが書かれており、これは「記憶」のことだと思われる。
Cデカルトの違いはよくわからない。なぜなら私はデカルトを良く知らない。少なくとも原書では読んだことが無い。
 しかし、カントがデカルトをはっきり批判している箇所があります。そこでは「われ思う故に我あり」を批判しています。根拠は「私は考える」という表象は思惟の自発性として意識はできるが、感性的直観に与えられない、今風に言えば感覚所与がないので、認識できないからである。「私は考えつつある」の方が正確だと言っています。これは後々大事になってきます。なぜなら弁証論の「霊魂論」で、(こういうと古めかしいですが、現代的には唯心論対唯物論)を扱っているところで、「私は考える」は認識できないので、二律背反になる、ということです。これは現代の言語分析でも「心身問題」は答えの出ない疑似問題とすることが普通です。「心の哲学」はもっと踏み込んでいます。
 問題はカント自身が「思惟の自発性」を「etwas Real」と書いている箇所があることです。直訳すれば「何かリアルなもの」でしょうが、認識できないものに「実在性」を与えている、カテゴリーを適用しているからおかしいと厳しい批判があります。一か所だけです。たぶん、「何か現実的なもの」で、自発性の意識の現実性を否定できないことを言っているのだ思います。それなら「嘘」ではないですね。
 デカルトを知らない私は逆にデカルトのご専門の方にカントのこのデカルト批判をどう思われるか、聞きたいです。

3日前 No.411
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