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「我思う故に我在り」この言葉イラっとする

 ( 哲学掲示板 )
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和風電話 @wafter ★iPhone=eV9Ac2E9yf

我思う故に我在り
有名ななんたらさんのお言葉。
なんかイラっとする。
というわけで自分が思考していても自分が居るとは限らないという証明をしてみましょう。あくまで主観的に自分がいるかですよ?

2年前 No.0
ページ: 1 2

 
 
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和風電話 @wafter ★iPhone=eV9Ac2E9yf

↑ネーム別のが入ってました。申し訳ないです。

2年前 No.7

てじ ★ZkiDndseok_Ew9

>>6
それはフィクションです。自我の多数性を前提するフィクションです。自我の多数性は我思う故に我在りと矛盾します(正確には矛盾しません)。
我思う故に我在りに、多層世界を貫く魔力を期待しても無駄です。これは、超世界的な永遠普遍の真理ではありません。
ただの現実の経験の名前です。そういう意味では、あの言葉は無力です。

ちなみに、「我思っているという結果が出ているシミレート」は、デカルトも想定しています。これを悪霊の仮説と言います。

2年前 No.8

和風電話 @wafter ★iPhone=eV9Ac2E9yf

なるほど、つまりは今のこの状況ならば表層世界以外の世界の存在を懐疑的に消したあと戻す術を持たないからこれの存在を証明出来ないとして無いものと出来る。表層世界だけでは否定出来ない真理であり、この真理は表層世界以外の世界を認めないので真理は覆らない、というわけですか。
なるほど、ありがとうございました。

2年前 No.9

ロズレイド ★Android=K9A6pgHK10

なんか上から目線で悟ってます感ある和訳がイラッとするんでしょう。

例えば、J-pop風の和訳

ぼくはおもうよ だからこそ
ぼくは ぼくなんだ

とたんに安っぽい感じがしてイライラはしない。

俺思うわー 故に俺なんだわー みたいなミサワ風でもマイルドになる。

2年前 No.10

★KpJlOIs1Hp_6st

どうして、〈我思う故に我在り〉に、和風電話さまは、〈なんかイラっとする〉の?
「我思う」に対して?それとも「我あり」に対して?それとも「故に」に対して?

2年前 No.11

和風電話 @wafter ★iPhone=eV9Ac2E9yf

我思う故に我在りならば我在らず故に我思わずというので始めの命題の証明になりますが、どうしても対偶だけでなく、逆とか裏とかも真なような気がしてしまう。そうやって考えると我思わず故に我在らずってどうなんだって思ってしまう。1から自分の存在を証明しなければ我は居ないのか?実際言ってることはそうではないだろうが……。要は私の意識の問題でもあるのでしょう。

2年前 No.12

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Eca

思い考えると言うことは、何かに限定されている。

私が思うと言うことは、
対象性一般、現実性、自由の領域を区別します。
この思いには、論理や秩序があります。
私が私を思うときは、私を原理や演繹的方法に必然的に導きます。(思いの範疇)

しかし思い(あなたの命題)を越えたものが存在するという思いがあるのです。

例えば私が知りたがっている形而上学においても
形而上学では神を覚知させる思いであるにもかかわらず
神の本質を規定する思いではないのです。

宗教との違いは、ここにあります。

2年前 No.13

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_5PY

>>10
お前が天才かwwwww
そういえば昔、世界の終わりの「天使と悪魔」を聞いて、「論理的に議論するより歌の方が意味が通じるってどうよ」とか書いたの思い出したわ。

しかしそうなると上から目線でイラッとするのはなぜかってことになる。
事実を述べる文章に上から目線も何もないのだから。

2年前 No.14

★KpJlOIs1Hp_6st

〈我思う故に我在り〉というデカルトだったか、この命題(判断を言葉に表したもの)は哲学的である。でもわたしのぴろぴろじゃない。

ぴろぴろにおいては、「わたしは思う、だから、わたしはいる」ってなる。デカルト大先生がが言うんだから、〈ego cogito〉はこれとは別世界の概念における命題なのだと思う。

いいのよねこの命題。神に併合すべく導き出されたんだから。なにゆえこれ哲者がこだわり続けるのか、が問題なのよね。
わたしとしては。

〈要は私の意識の問題でもあるのでしょう。〉だとわたしは思います。デカルトのこの〈我思う故に我在り〉を読んだとき、あ、そうなの、って思っただけだった。感情が湧いてこなかった、っていうところかな。でも、彼の書物(「省察と反論と答弁」)を読んだとき、私の感情が湧いたのは、「・・・・」っていところ(前に記したので・・・は記しません)でした。

〈事実を述べる文章〉ってどんな「文章」?

2年前 No.15

神様 ★I7DAQPCQoF_m9i


なにごとも、イラっとするやうでは、人間まだまだだね、未熟者。

神様わ、なにがあっても泰然自若、すこしも驚かぬのじゃ

2年前 No.16

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_5PY

「ぴろぴろ」ってのは、ゴーストみたいなもんか?攻殻機動隊で草薙素子(少佐)が言うところの。

1843か…
あのときは最初に自分がデカルトを引用したんだったな。
それに阿が、デカルトが考えるような「我」などない、とか言って。
私さんが原文を引用し、正当な解釈を付け加えたんだっけ。

事実を述べる文章って言い方はまずかったな。ここは哲学掲示板だから、「事実」が問題になる。
けど、もういいんだ。上から目線でも問題ないような気がしてきたから。

2年前 No.17

★KpJlOIs1Hp_6st

わたしが私に関わっているかぎり、〈上から目線〉な〜んてもんは、存在しないのよー、ってね。
なに言ってるんの?あんた。(ごめんなさいね、ちょっと酔ってるかも)

2年前 No.18

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_5PY

わたしが私に関わっているかぎり…
僕はyohukeか、目玉おやじか、それともゲスト110か?

2年前 No.19

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_zVi

…うまく言語化できる自信がない。

上から目線かどうかは相対的な問題に過ぎない、で納得した。私は常に自分自身と向き合ってきたから。
でも「自分って何?」が疑問になって、スレ間で分裂している自称に気持ち悪さを感じてきた。もうyohukeという存在は必要ないのだが、まだ自分が見つからないんだよな。

2年前 No.20

★KpJlOIs1Hp_6st

<我在り>の根拠ないし前提が、<我思う>、で、”ある”のであろうか? っていうところかな?

2年前 No.21

ちょっと寄ってみました。 ★AqBk4MgmmE_mgE

ラッセル先生は、「われ思うゆえにわれあり」でデカルトは余計なこと(われありのこと)ゆうとるとゆうとるよ。

2年前 No.22

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_zVi

我思う故に我在り…ならば、存在している「我」は誰なんだ?
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」のときも、最終的には「何があるのか」という疑問にたどり着いた。そしてその答えは出なかった。というより「答えは出ない」というのが正しい。
しかし「我」とは、自分自身のことだ。そんなことは自分で決めればよい。…自由意志が存在すればの話だが。

2年前 No.23

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_zVi

アンサイクロペディアの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」秀逸だったので、概要をコピペ。

>人間とは得てして暇になると余計な事を考える生き物であり、古今東西それが変わる事は無く、かのアリストテレスの時代には既に何の役にも立たぬ思考実験を繰り返す哲学者と呼ばれるごくつぶしがいた。紀元前より似たような事を考えて暇を潰していた者たちは大勢存在したが、17世紀になってから話を蒸し返したのがドイツのゴットフリート・ライプニッツである。古代ギリシャの時代にパルメニデスが一種の存在論的な事を考えだしたのがそもそもの話であるが、そのような話題をイエス・キリストの生誕から1600年も経過してから蒸し返すなどよほどの暇人である、他に話題が無かったのであろう。


>ライプニッツが余計な事を詮索したがために他の暇人たちが続々と名乗りを上げ、カントだのベルクソンだのと言葉をやたら無闇にこねくり回す事に長けた者たちが集まった。全員でお互いを煽り、否定し、揚げ足をとったが何の解決にもならなかった。そのような状態を見かねてラッセルが「あるならあるんだよ、もういいだろ」と空気の読めない発言をしたが速やかにスルーされた。

2年前 No.24

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

誰を師とするかで人生は180度変わることがあります。
私はヤスパースさんを師事しています。

今日母が子供たちに(私は最近現場にいないので知らないのですが)
クリスマスに生まれた人を5歳の子に聞いたら天皇陛下と答えたそうです。
ゆゆしき問題です。

私は、本棚を宮沢賢治で埋め尽していますが・・・・戦争間近・・・・・

2年前 No.25

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_zVi

自分を選ぶことができた。

2年前 No.26

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

私は、昨日夢の中で
哲学とA3位の用紙に書いて
大学に提出する夢を見ました。

漢字の哲学の文字が今でもはっきり・・

夢の方は、正直な願望が出ています。

リアルでは哲学を今でも趣味な事は内緒なので・・

2年前 No.27

(´*ω*`) @solomaxx☆Ucq/l7irLEPm ★OfPNMpydQs_M0e

自分自身が存在しないと自分自身の思考が出来ない。
対義で【死人にくちなし】みたいなもんでは?

2年前 No.28

(´*ω*`) @solomaxx☆Ucq/l7irLEPm ★3k6RJJkaVF_M0e

自分が思考していても自分が居るとは限らないという証明
そういうことならもうシックス・デイのシュワチャンだろうなぁ
本人だけど本人じゃなかったからな(´*ω*`)
ようは自分のクローンと仲良しになればよい(´*ω*`)

2年前 No.29

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_zVi

私はリアルで自分のやりたいことA4用紙に書いて提出しましたけどね。たとえば「安西先生…!!哲学がしたいです……」とか。
ところで上から目線の理由が分かった。相対主義だ。

2年前 No.30

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

自分の見解と同じ見解を書物に見た時の喜びはひとしおです。

2年前 No.31

★KpJlOIs1Hp_6st

共感?
異なる見解、否定される見解を見たときの、省察は発生しないの?

2年前 No.32

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

ニーチェ支持者から、滅茶苦茶言われたり
気が利くだけの人から陥れられたり
じわじわ説得と言う言葉しか対処方法が浮かびません。

2年前 No.33

★KpJlOIs1Hp_6st

〈じわじわ説得と言う言葉しか対処方法が浮かびません〉
”表現する言葉”っていのは、どうもそのようなもののようですよ。
よって、一般的。別名、まとも。

2年前 No.34

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

60歳になったら二度草鞋と言います。
子供に帰って赤いべべを着てからが勝負です。
ほとんどの人が、あまりまともでなくなります。

2年前 No.35

★KpJlOIs1Hp_6st

<子供に帰って>
宿題さま、あなた、帰る気があります?

2年前 No.36

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

絶対にぼけたくないのです。
そのためには、病院に行かないような健康管理が必要です。

年とって入院したらまずアウトです。

2年前 No.37

★KpJlOIs1Hp_6st

<ぼける>っていうことはどういうことだと思っています?
子どもに対して<ぼける>っていう言葉つかいませんよねー。

「わたしは思う、だから、わたしはある」じゃないのよねー、幼少の頃は。

2年前 No.38

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

ぼけるとは、・・・(暈ける)物の色や輪郭、また、物事の内容などがはっきりしない状態になる。ぼやける。

三歳までの子供は、靴をはいたまま上がったり、右と左の区別が出来ません。
こどもは、ぼやけています。

2年前 No.39

★KpJlOIs1Hp_6st

<ぼけるとは、・・・(暈ける)物の色や輪郭、また、物事の内容などがはっきりしない状態になる。ぼやける。>においては、すでに、輪郭がはっきりしている、っていことが前提となっていますよねー。
この意味から、<三歳までの子供は、靴をはいたまま上がったり、右と左の区別が出来ません。>から、<こどもは、ぼやけています。>は導き出されませんよねー?

2年前 No.40

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

ぼやけている人には、ぼやけていることがわからないので・・

2年前 No.41

★KpJlOIs1Hp_6st

<ぼやけている人には、ぼやけていることがわからないので・・>これは、客体(あるいは客観)。

2年前 No.42

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

意味が解る。意識の内容がわかる。主観と客観がわかる。
分かることがぼやけるわけです。

2年前 No.43

ゲスト110 ★Dygp8pxoMa_zVi

同志なら自分の気持ちが分かるという幻想か…
ところでもうボケが進行しているように見えるんだが、そんな脳で大丈夫か?

2年前 No.44

宿題 ★iDmzDk5Pdf_Wsk

ゲスト110さんもボケ防止に参加してください。
それほどロムってもないと思われますが・・

2年前 No.45

★KpJlOIs1Hp_6st

ところで、宿題さま、<ボケ防止>にはどのようなことが対策としてあるとお思い?

2年前 No.46

うさぎ ★Tablet=cDxDNvypD4

我が思わなければ、我は無いのだろうか?
何も考えなくても何も思わなくても我は有るだろうに・・・・・・

1年前 No.47

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_15y

デカルトの
「私は思う、ゆえに私はある」という言葉は、
主体の誕生そのものである。

これによって、
主体性が問題とされなくなり、
「私は誰か」から「私は何か」へと問いが移行してしまった。

「私は」と語ることの責任が、
「思う」という一般的なものへと散らばってしまい、
それが「私はある」の根拠になってしまう。

「私は〜と思う」という発言は、前言撤回できる。
「〜である」という発言は、前言撤回できない。

たとえば、「私はアメリカが世界のリーダーであると思う」という発言に対しては、
なお経験や議論によって訂正される可能性がある。
前言撤回できるがゆえに、私は責任を負う必要はない。

しかし「アメリカが世界のリーダーである」という発言に対しては、
私が発話者として一手に責任を負い、間違いと発覚すれば責めに会う。
それはひとえに、前言撤回できないことに由来する。

この前言撤回可能性によって、現象を正面から問うことが不可能になる。
一切は空間的に布置された言語のうちでしか語りえなくなってしまう。
近代哲学は原理的に現象の時間的展開を放逐してしまった。

空間においては一目で一挙に関係性を把握しうる。
そのダイナミズムは共時的に説明される。

一方で時間においては、関係性は順次、与えられる。
そのダイナミズムは持続そのものとして、
あたかもドラマの展開のように説明される。

「私は〜と思う」ではなく
「〜である」と発話することこそが、主体性の領域である。

そもそも「私は」と語ること自体が、ある種の一般化を免れない。

「私は会社員である」という発話は、
この発話者を会社員へと一般化してしまっている。
たしかに発話者は、学生とは代えが効かないが、会社員としては代替可能である。

したがってデカルトのコギト(私は思う)は二重の意味で、
主体性の主体化として、
日常社会という責任の場すなわち
主体性のダイナミズムに触れる哲学の可能性を塞いでいる。

すなわち「私は」と語ることの同一性への安らぎと
「思う」という前言撤回可能性ゆえの責任逃れ。

それを根拠に置くことによって、
存在はすでに代替可能な安らぐものとして、
主体と同一視されるようになってしまった。

存在とは本来、仮借なさであり、逃れえなさである。
ゆえに表象を欠いては、さし迫りとされる。

そこから認識を通じて、主体化してしまうことで
この存在の仮借なさが、代替可能性のもと、薄められてしまう。

存在の一回性が再現性すなわち客観的実在へと移行してしまい、
科学の隆盛の代償として、哲学が社会に触れる場を塞いでしまう。

したがって「私とは何か」と問うべきではない。
問うべきは「私とは誰か」である。

このように自らを問いただすことで、
未曾有の責任へとわたしは追い詰められる。

「誰か」という問いは、
もはや空間的ダイナミズムに陥ることなく、
生という圧倒的な時間的ダイナミズムで展開される。

答えは出ないが問いつづけることに意味がある。
これこそ、哲学という営みの醍醐味そのものでは。

・・・

補足。

ここで語られる主体性は、なんら斬新なものではない。
事実、父性ないしは母性という形で、現実に生きられている。

とりわけ母性の、身を退いて場所を与えつつ見守る特性は、
エコノミーの破綻として、つまりは自然界の進化論ではなく、
親による子育てへの視点の移行として、現代を乗り越える可能性を示唆している。

弱肉強食な場所の取り合いではなく、親と子の関係のように互いに見守ること。
この点を”哲学も”看過すべきではない。
事実、日常社会においてはありえるのだから。

2ヶ月前 No.48

百理 ★5z6bVAmgS3_jmr

私が理解するというときに

理解する手段が伝達と言う経路により誤差が出るということが解りました・・

2ヶ月前 No.49

魔術師 @newmemphis ★oz2NJhSwMN_EHG

「我思う故に我在り」

観念論の立場からは、重要な指摘である。

体験している何か、主観の存在は否定できない。

体験、認識という事態も否定できない。

その「思う」という言葉には、「思考」という意味も含まれていて、

認識とか体験という意味にアクセントはないのかもしれないが、

それでも主観としての精神の存在を基本的なものと考える第一歩としては、高く評価できる。

2ヶ月前 No.50

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_15y

たしかに、高く評価できる点もありますが、
それによって哲学が失ったものは大きいと思います。

ぼくらがふだんそれとなく生きている人間関係における責任が、
哲学、とりわけ観念論において、描くのに非常に困難になってしまいました。

その点はあまり評価できないと思うのです。

2ヶ月前 No.51

魔術師 @newmemphis ★oz2NJhSwMN_EHG

>ぼくらがふだんそれとなく生きている人間関係における責任が、

哲学とは真理を追求することが目的だったはずです。

人間関係とか日々の生活をどうするか、ということ自体が目的だったとは思えません。

結果として、そういった次元のことにも影響してくることはあっても、本来はそれ自体が目的ではなかったと思います。

そうでなければ、わざわざ「哲学」という分野を「思想」とか「宗教」と分離して考える必要はなくなります。

ブッダは解脱とそのための瞑想を推奨し、マルクスは実践と革命を推奨しましたので、哲学からは外れています。

2ヶ月前 No.52

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉48

わたしおばあい、

>「アメリカが世界のリーダーである」という発言に対して、

誰が言ってるの? って聞くけど。

上記の判断(〜である)の主語は何?「アメリカ」でいいのかしら?
アメリカっていう人がそう言っている、っていうことになるのかしら?
としたら、じゃあ、アメリカって誰よ?


>「私は〜と思う」ではなく「〜である」と発話することこそが、主体性の領域である。

逆じゃない?

2ヶ月前 No.53

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_15y

>>53

悪魔さん、こんばんは。

「」の中は、発言内容のつもりでした。
なので「アメリカが世界のリーダーである」と言っているのは「私」です。
もちろん、”発言内容の”主語はアメリカですが、その内容を発しているのは、「私」です。

失礼しました。

2ヶ月前 No.54

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

これまで重ねてきた省察を、体系的にぎゅっと圧縮してメモとして記します。
その際に、自分の思想をデカルトの第一原理批判という文脈に乗せます。

・・・

<コギトの場所>

 「私は考える、ゆえに私は存在する」というデカルトの第一原理は、自明なものだろうか。これに対し、「考えるためには場所がいる」という着想から、デカルトを告発するのが、ここでの趣旨となる。

・現前と表象
 コギトは場所を前提としている。そのコギトを根拠に置くことで、存在はすでに場所に出来するものとみなされる。しかし、逆である。むしろ存在から場所が出来するのであり、そこではじめて、コギトが可能となるのである。以下、その過程を描く。
 まず存在を描くとして、それには気配という場面が適している。気配において、何かは痕跡のもとで、際立ってさし迫りつつ、一方で何かはすでに退いている。その何かの輪郭はおぼろげなままである。このとき存在は、存在者としての具体的な形をはみ出して、自らを晒している。ここで、存在の内実が垣間見える。存在はさし迫りつつ退くのである。
 このさし迫りつつ退くという奇妙な動性は、持続の如く、解きほぐしえない一つの動性である。しかしあえてここで、さし迫りと退きに分離することで、存在を語りうるようにする。さし迫りとは、際立って居合わせることであり、その意味で現前という語が適している。一方で退きは、つねに痕跡を残してしかありえず、その痕跡と退きを一体とみなせば、表象という語が適している。存在の動性を現前と表象に分離することで、はじめて場所の原的状態が語りうるようになる。

・理念と意味
 気配において、表象はなお、現前と十全に対応することがない。つまりその気配の何かは、十分に退くことなく、依然としてさし迫っている。ゆえにまだ、場所は十全に出来しえない。しかしこのときその何かは、表象によって垣間見られることになる。この垣間見えが、それを十全に解明しようとする働きを息づかせることになる。この息吹を与える動性が理念と呼ばれる。つまり理念は実体ではなく活動性である。
 この理念の息吹を与える動性によって、表象は自らの拡張を志向することになる。表象はコンテクストに乗ることで自らを拡張し、現前と十全に対応しようとする。それによって、現前と十全に対応した表象が意味と呼ばれる。したがって意味は現前の全き代理であり、意味において現前は一般化され、意味がコンテクストに乗りさえすれば、いつでも現前は呼び起こされることになる。ここにおいて場所は出来するが、それはまだ保持されていない。

・ 歴史と起源
 想起や予期は意味において可能となる。意味が一定のコンテクストに乗ることで、現前は想起され予期される。しかしその現前は、意味化のゆえに、全きさし迫りという性格を喪失している。ゆえに過去や未来は触れられることなく眺められる。
 意味はコンテクストを頼りに自ら他の意味と結合し、それによって歴史が創設される。歴史は起源を指し示すことで、同一性を保証し、そこではじめて場所が保持されるに至る。
 この保持された場所を実体化したものが主体と呼ばれる。主体はつねに作用の主体である。ゆえに場所を占めては行き過ぎる多様なものは、思考として、主体の作用の如く捉えられる。
 以上のことから、コギトの内実は場所であり、場所が存在の根拠なのではなく、むしろ存在から場所が出来することになる。

・・・

伝わりにくいかと思われますが、自分の思考の整理として。
また、これまでたびたび投稿してきたのには、
一貫してこの体系があることを示すつもりで。

2ヶ月前 No.55

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

次に、
>>55 の体系を類比的に世界性および社会性に拡張します。

・・・

<場所の世界性>
 コギトは世界を有する、あるいは世界のうちにあると言われる。しかしこの世界の内実は、場所の一様態であり、世界の生成は上記の現前の主題系から類比的に描くことができる。具体的には、現前に対応するものを肉とすることで、場所の世界性を描くことができるようになる。以下、それを試みる。

・肉と知覚
 存在のさし迫りつつ退く動性を現前と表象に分離することは、類比的に存在を肉と知覚に分離することに等しい。したがって、現前の主題系はそのまま世界の生成過程に対応することになる。
 あらゆる知覚の根底には肉が横たわっている。肉はそれ自体では過敏にさし迫るのみで、それは目や耳といった特有の運動性を備える身体性に供されることではじめて、退いて知覚となる。

・生と価値
 しかし知覚は肉に対して非十全的であり、依然として肉を備える。その肉を統合する理念が生と呼ばれ、生は知覚の拡張を動機づける。それによって肉と十全に対応した知覚が価値と呼ばれ、価値はコンテクストに乗ることで、肉を呼び起こす。
 価値が有用性と同一視されるのは、価値が肉であると同時に全き身体性であり、そのかぎりで価値は固有の運動性を備えるからである。
 知覚が価値となることで、場所が出来する。しかしまだ、それは世界として保持されていない。

・配置と世界
 価値はその固有の運動性にしたがって、他の価値と連結する。この連結によって価値は配置され、場所は構造化されるようになる。この場所の構造化において、本能を起源に持つことで、世界は確保されるに至る。
 ただし、構造は空間的である。つまり、一瞥で看取することができ、かつ拡張可能なものである。したがってここには、構造を張り巡らす志向が出来しうる。

・・・

<場所の社会性>
 社会性は世界性とは真逆の性格を有した場所の一様態である。両者は性差の如く、根源的な二元性である。社会性は類比的に現前を対面に位置づけることで、世界性と同様に、現前の主題系に沿ってその生成過程を追うことができる。以下、それを試みる。

・対面と表情
 対面は表情を欠いてはさし迫りであり、それゆえに現前である。そこに表情が与えらえることでさし迫りは減衰する。
 表情は語りや仕草のうちに現れる。表情において存在が退くことで、そこに場所が出来する。逆に表情なき対面は、まったく退くことなくさし迫る無関心さである。憎悪はなお、抗う余地を残すが、無関心さはそれすら残さない。ゆえに表情を欠くことは、根源的なさし迫りである。

・信頼と約束
 表情はなお、対面に十全に対応することはない。しかし表情を垣間見ることで、信頼という理念が形成され、それに動機づけられて表情が拡張し、対面において約束を交わすことができるようになる。ここではじめて、場所が出来する。しかしそれはまだ確保されていない。

・誓約と社会
 対面は約束に十全に包まれることで、その内包するコンテクストに準じて、過去や未来に移行しうる。こういった約束のうちで起源になるのが、友情や愛情の誓約であり、この誓約において場所は確保され、それは社会性を帯びるようになる。
 世界性が構造という構えにおいて確保されたのに対し、社会性は支えにおいて確保される。支えは構造とは対照的に時間的である。つまり、一瞥で看取されえず、拡張も不可能である。支えはドラマの如く場面的に展開し、それによって場所は拡張されるのではなく、連なってゆく。したがってここには、支え合いという志向が生じる。

・・・

この記述はかなり構造的で、表情に欠いたメモですが、
ポテンシャルは高いと思われます。

2ヶ月前 No.56
ページ: 1 2

 
 
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