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神はなぜ悪を創ったのか?

 ( 哲学掲示板 )
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薪の王 @arom ★Android=be6xaWPL7M

悪は裁かれる存在

神は完璧な存在である
完璧な存在であるはずの神はあるミスを犯している
それはこの世に悪を創ったことだ
先ほど述べたように悪は裁かれる存在である
なら何故悪を創ったのか?
悪を創りそして罰するなど
私たちの神はずいぶん無能で無慈悲なものだ

それとも悪とは本当に悪なのか?
自然界において悪とはあるのか?
悪とは人類が発達し社会を築き上げたからできたのか?

4年前 No.0
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トムコルレオーネ ★Tablet=A3XF6aoVhZ

若い時って自分の主観を信じ過ぎてました
知識すくないから

勉強したら自分の考えも他人の考えも誰に決められてるのってもっと分からなくなりました

一旦寝ます

1ヶ月前 No.196

トムコルレオーネ ★Tablet=A3XF6aoVhZ

何かのアニメの記憶
NHKでしったっけ
寝ます

1ヶ月前 No.197

空の光 ★1k5tCf7ARj_m9i

トムコルレオーネさん

気分を悪くさせたみたいでごめんなさい。

言葉は気をつけなきゃと思いつつ・・・反省。

1ヶ月前 No.198

トムコルレオーネ ★Tablet=0P2EQLgHIH

いえ礼を欠いているのは僕のほうだと思います
勘違いされてしまう事が頻繁にあります
スミマセン

1ヶ月前 No.199

トムコルレオーネ ★Tablet=0P2EQLgHIH

気持ち悪い話で恐縮ですが
僕は四年半NHK高校倫理ラジヲ聴いて勉強したら
友人のうん子身に宿した状態でプレスでペシャンコになって
真空パックにしてもらって世界中の人々にペシャンコになった自分を
見て欲しいって考えになりました
何十年も何百年も観て欲しい
これは悪ですか
それとも狂人ですか

1ヶ月前 No.200

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

トムコルレオーネ

気持ち悪いですね。
それでは狂人ですよ。

1ヶ月前 No.201

トムコルレオーネ ★Tablet=0P2EQLgHIH

魔人ムシンさん

ありがとうございます
今後控え目にします

今 君を誰もが振り向くよ
ほら 生まれ変われ
本当はもっと素敵な君さ

1ヶ月前 No.202

地下水 ★KATHFaYqOw_Bdn

>>186  人間は地に満ちました。中国人は13億人を超え印度人は15億人も超えました。ここ数十年ではわずか10年で13億人も増えるという人口爆発が続いています。発展途上国では平均で5人や7人もの出産があるからです。
 20世紀に入るとエンジンやガソリンポンプが開発されて急速に普及を始め化石燃料の大量消費や資源の大量消費が始まった事が原因です。既に地球が1.4個必要な程に急速に消費が進んでおり、森や珊瑚や地下水などの生環境を支える自然の資源が急速に破壊され減少を続けています。
 マイクロプラスチックスによる海洋汚染や二酸化炭素による海洋酸性化が進み、海洋生物の死亡や御魚の餌であるプランクトンの減少が起きようとしています。

 日本も日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争など、より酷い戦争を経験する様になってきています。エンジンや爆弾の開発で、重火器や兵器が大量生産された為に酷くなってきました。近頃では更に科学を使って、核兵器や化学兵器や生物兵器も開発され法的に使用を禁止されています。

 また温暖化で二百年後には南極の氷が全て融けて海水面が60メートルも上がり二割もの土地が海に沈み、平地の農地や大都市圏や貿易センターは全て沈んで使えなくなり、食糧や住居やインフラが劇的に減少すると予測されています。

1ヶ月前 No.203

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>192

SumioBabaさん、段差注意を例に考察してみます。

段差があるのは万人に共通です。これが真理に相当します。真理は万人に共通です。

段差があると信じること、適切な回避策を講じること、これが信仰です。

段差注意を看板や声で促すこと、これが伝道です。相手への愛や、安全への責任感を持って行います。

段差を知らない人、信じない人、知っていても回避する行動を取らない人に災いが望みます。何を信じるのも自由ですが、段差は万人に共通して、そこに真理として存在しています。

段差で躓き、後頭部を打って死亡する人もいれば、軽傷で済む人もいるかもしれません。つまり、裁きは神のものです。人が決めるものではありません。

しかし信者は、段差注意を無視する人を攻撃したり殺したりはしません。平和を重んじるからです。また無理矢理タックルして、回避させようともしません。自由意志です。人は自分の選んだ生き方に対し、良くも悪くも各自責任を負います。

ガラテヤ6:7-8
何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り,霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取ることになるからです。

この説明で聖書のスタンスが分かり易いでしょうか?

1ヶ月前 No.204

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>193,204  伝道者さんへ

>>193

>真理は一つだと信じています。この点、イスラム教徒の方も、SumioBabaさんご自身も同じ考えをお持ちだと思います。何を真理と考えているかは異なります。


 「真理は一つだ」というのは【真理の実在論】だと思われます。SumioBabaは【真理の実在論】ではなく【真理の観念論】を支持します。

    【真理の観念論】
 真理とは、人間の心の中に観念として存在し得るだけであり、心を離れて「実在」するものではない。「○○○である」と「○○○でない」のどちらが真理かを人間がまだ解明していないとき、どちらが真理であるか確定してすらいない。「どちらが真理なのだろう?」と人間が問い、どちらが真理なのかを実験・観察によって見極めようとするとき、初めて真理はどちらであるかが決まる。しかも真理は、片方だけでなく両方である。「○○○である」が真理だと認識した方は「○○○である」の方だけが真理だと思い込む。「○○○でない」が真理だと認識した方は「○○○でない」の方だけが真理だと思い込む。どちらも、自分が住む世界でのみ成立する相対的真理でしかないのに。もちろん、人間の心が認識していない時には物質世界など実在していないし、物理状態も確定していなければ、どんな物理法則に従うかも確定していない。//→ http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-650,651,652,653,654,662,663,664,665,711,750,751,973,1000#a

 キリスト教でいう「原罪」は、「人間には原罪が有る」と確信している人の心の中にだけ存在するのであり、「人間に原罪など無い」と確信している人には存在しないことになります。SumioBabaの場合、科学的に物事を考えるので、進化論は正しいと99%確信しています。「人間には原罪が有る」という話は、進化論を無視しており、SumioBabaにとってこれが正しい確率はせいぜい1%くらいです。「人間には原罪が有る」が正しい世界をW1、「人間に原罪など無い」が正しい世界をW2とすると、SumioBabaは、W1を1%の重みで、W2を99%の重みで重ね合わせた世界aW1+bW2(|a|^2=1/100、|b|^2=99/100)に住んでいます。もし伝道者さんが、逆に99%の可能性で「人間には原罪が有る」と確信しておられるならば、伝道者さんの住んでおられる世界は、cW1+dW2(|c|^2=99/100、|d|^2=1/100)となります。人それぞれ、みな住む世界が異なるのです。これが、量子力学の「多世界解釈」を突き詰めた世界観です。

1ヶ月前 No.205

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>205

SumioBabaさん、あなたが205で書かれた多世界解釈を信じている、という点に於いて、あなたも真理は一つ(つまり多世界解釈が正しい)とお考えでしょう、と述べた次第です。多世界解釈の性質上、複雑な議論になりかねませんが、包括的な次視点では、自分の信じていることが正しいと感じている点につき、SumioBabaさんも私も同じです。

原罪について思っていることがあります。例えば何故、利他的でありたいと願うのに、人間には利己的な傾向があるのか。何故、内面で自己葛藤や矛盾ががあるのか。神の性質を受け継ぎながら、罪に毒された結果と説明出来ます。例えば魚には内面の葛藤がありません。

何故、人間は永遠に生きたいと思う傾向があるのか。何故、神に頼る傾向があるのか。何故、公正を欲するのか。何故、自由意志があるのか。枚挙すればきりがありません。しかし本来、人間がどの様に造られたのか、聖書の説明は納得がいきます。聖書は人間が神の特質を受け継ぎ、神により頼みながら、永遠に生きる様に本来造られたと説明しています。しかし罪を犯した結果、死が入り込みました。本来あるべき性質に焦がれつつ、異なった現実となっている説明をしています。

聖書は論理的に高度でありながら、愛や慰めに於いて、感情も揺さぶります。そして教えを適用する時、実用的であることも分かります。単純に論理的だけの理論よりも遥かに価値があると感じています。

1ヶ月前 No.206

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>205

SumioBabaさん、お願いがあるのですが、以下の二つの記事をご覧頂けますでしょうか。

生命の起源-5つの質問
生命-どこから
(このキーワードで検索すると、JWというウェブサイトの記事がそれぞれヒットします。)

進化論に関して、本当に信じるに値するかが、科学的観点も踏まえながら、真剣に考察されています。

是非、粗探しをしてみて下さい。粗が見つかったら、教えて下さい。その粗が正当かどうか、私自身も真剣に考察しますから。

1ヶ月前 No.207

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>206  伝道者さんへ

>SumioBabaさん、あなたが205で書かれた多世界解釈を信じている、という点に於いて、あなたも真理は一つ(つまり多世界解釈が正しい)とお考えでしょう、と述べた次第です。


 「自分が住む世界W1では、」という条件が付けば、「○○○である」が真で「○○○でない」が偽だと、いろいろ決まるものが有ります。しかし、「別の世界W2では、」という条件付きで必ず「○○○でない」の方も真になり得る、ということです。多世界解釈が「正しい」か「正しくない」かも、答はa「正しい」+b「正しくない」(aとbの値は不明)です。ただ、自分の住む世界W1だけを見て判断すれば、多世界解釈は「正しい」が90%くらい、「正しくない」が10%くらいに感じます。

>多世界解釈の性質上、複雑な議論になりかねませんが、包括的な次視点では、自分の信じていることが正しいと感じている点につき、SumioBabaさんも私も同じです。


 自分が住む世界W1に限定すれば、「○○○である」の方が正しく「○○○でない」は正しくないと確信しているものが、たくさん有ります。でも、それが伝道者さんの世界W2で成立するのかどうかは判りません。

>原罪について思っていることがあります。例えば何故、利他的でありたいと願うのに、人間には利己的な傾向があるのか。何故、内面で自己葛藤や矛盾ががあるのか。神の性質を受け継ぎながら、罪に毒された結果と説明出来ます。


 それはキリスト教による説明であり、伝道者さんが住む世界W2では真理なのかもしれませんね。しかしSumioBabaが住む世界W1では、真理は全く異なります。R・ドーキンスの『利己的遺伝子』や『神は妄想である』などで、こういう問題はすべて説明し尽くされています。もちろん、絶対に正しいかどうかは解りませんが、SumioBabaは、自分が住む世界W1においては、ドーキンスの説明が正しいと確信しています。

 人間は生物として生存競争を勝ち抜いてきたのだから、利己的なのは当たり前です。他人のために自分が犠牲になりましょう、なんていう人はとっくに絶滅したでしょう。他人を殺してでも自分が生き延びたい、という利己的な人たちだけが生き残ったのですから、今生きている人たちが利己的なのは当然です。

 ただし人間の場合、かなりの知恵を身に付け、個人で利己的に生きるよりも他人と結託して協力し合う方が自分にとって利益が大きい、と理解することができます。1人だと大した事はできないけれど、多くの人間で協力し合うと莫大な利益を生み出すことが可能です。協力し合うためには、他人の意見にも譲歩し、紳士的に振る舞えることが必要です。現代社会で生き残るためには、利己的だけではダメで、自分を少し犠牲にしてでも他人とうまく付き合っていける人間の方が有利です。だから人間は、利己的な部分と利他的な部分の両面を持つに至っています。それが、現代社会における生存競争で、一番優れた戦略だからです。

>何故、人間は永遠に生きたいと思う傾向があるのか。何故、神に頼る傾向があるのか。何故、公正を欲するのか。何故、自由意志があるのか。枚挙すればきりがありません。しかし本来、人間がどの様に造られたのか、聖書の説明は納得がいきます。聖書は人間が神の特質を受け継ぎ、神により頼みながら、永遠に生きる様に本来造られたと説明しています。しかし罪を犯した結果、死が入り込みました。本来あるべき性質に焦がれつつ、異なった現実となっている説明をしています。

>聖書は論理的に高度でありながら、愛や慰めに於いて、感情も揺さぶります。そして教えを適用する時、実用的であることも分かります。単純に論理的だけの理論よりも遥かに価値があると感じています。


 そのように考えたい人は、それで良いのではないですか。


>>207  伝道者さんへ

>SumioBabaさん、お願いがあるのですが、以下の二つの記事をご覧頂けますでしょうか。

>生命の起源-5つの質問

>生命-どこから

>(このキーワードで検索すると、JWというウェブサイトの記事がそれぞれヒットします。)

>進化論に関して、本当に信じるに値するかが、科学的観点も踏まえながら、真剣に考察されています。

>是非、粗探しをしてみて下さい。粗が見つかったら、教えて下さい。その粗が正当かどうか、私自身も真剣に考察しますから。


 それは、本末転倒していると思います。伝道者さんが進化論に異論を持っておられるのなら、進化論の粗探しをして見せて下さい。ただ、伝道者さんのご主張はすべて、「聖書に書かれてある事は真だ」が証明なしに《公理》に定めてあるように思われます。SumioBabaは聖書を《公理》とは見なしません。異なる《公理》系に立っている以上、SumioBabaと伝道者さんとの間で、まともな議論は成立しないのではないでしょうか? SumioBabaが「なぜ?」と問うと、伝道者さんはひたすら聖書の引用を続けるだけでしょう? 聖書を正しいと信じていないSumioBabaには、何の説明にもなっていないのに。

1ヶ月前 No.208

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>208

SumioBabaさん、ご返信下さり、ありがとうございます。

>「自分が住む世界W1では、」という条件が付けば、「○○○である」が真で「○○○でない」が偽だと、いろいろ決まるものが有ります。しかし、「別の世界W2では、」という条件付きで必ず「○○○でない」の方も真になり得る、ということです。

仮に多世界が存在するとすれば、仰る通りかも知れません。しかし、多世界は存在するのでしょうか。そして仮に多世界が存在するとしても、他の世界まで考慮に入れることは大切でしょうか。本質から乖離し、机上の空論に囚われませんか。仮に多世界が存在するとしても、「この世界」のことを論ずることが大切ではありませんか。極論、他の世界は実質、無関係ではありませんか。

>しかしSumioBabaが住む世界W1では、真理は全く異なります。R・ドーキンスの『利己的遺伝子』や『神は妄想である』などで、こういう問題はすべて説明し尽くされています。もちろん、絶対に正しいかどうかは解りませんが、SumioBabaは、自分が住む世界W1においては、ドーキンスの説明が正しいと確信しています。


私は一般的な日本人として、進化論を教えられ、当たり前に信じて育ちました。しかし創造論に触れ、真剣に考察し、「創造論の方が論理的」だとの思いに至り、創造論を選びました。

進化論の肯定意見、反対意見を両方聞いて、判断を下すのが賢明ではないでしょうか。ですから創造論にも一度真剣に耳を傾けて頂けると嬉しいです。先に紹介した記事は、非科学ではなく「科学に基づいて」創造論を考察・肯定しており、興味深い内容となっています。今後、SumioBabaさんが創造論を否定し続けるとしても、創造論者の言い分を十分に理解した上で否定出来る事になり、どちらにしても読めば益となるのではないでしょうか。

>ただし人間の場合、かなりの知恵を身に付け、個人で利己的に生きるよりも他人と結託して協力し合う方が自分にとって利益が大きい、と理解することができます。1人だと大した事はできないけれど、多くの人間で協力し合うと莫大な利益を生み出すことが可能です。協力し合うためには、他人の意見にも譲歩し、紳士的に振る舞えることが必要です。現代社会で生き残るためには、利己的だけではダメで、自分を少し犠牲にしてでも他人とうまく付き合っていける人間の方が有利です。

つまり、利己的な動機に基づき、利他的に行動するということですね。表面的には利他的に見える行動だが、目的は結局、利己的ですね。

それでは何故、見知らぬ他人が車に轢かれそうになった時、身の危険を顧みずに、その他人を救うようなことが人間にはあり得るのでしょうか。そこに利己的な動機があるでしょうか。説明が可能ですか?

>それは、本末転倒していると思います。伝道者さんが進化論に異論を持っておられるのなら、進化論の粗探しをして見せて下さい。

進化論の話を持ち出したのは、私ではありません。いずれにしても、先の記事で進化論の粗が存分に指摘されています。基本的に私は記事に賛成しています。私の進化論の粗探しは、先の記事に網羅されています。

>ただ、伝道者さんのご主張はすべて、「聖書に書かれてある事は真だ」が証明なしに《公理》に定めてあるように思われます。

その様な愚かなことは致しません。私はクリスチャンの家庭に生まれたわけではなく、聖書を教えられて育ったのでもありません。むしろ哲学を好み、聖書を否定して生きてきました。

しかし先に述べた地図の例の通り、後に聖書を再検討する機会があり、徹底的に「論理的に考察」して、実地検証した結果、実は聖書が真理であるとの結論に至りました。聖書の徹底的な粗探しを経て、聖書が全面的に信頼出来ると確信する様になりました。

その過程を経た上で、今、真理として聖書を引用しています。自分の意見として引用しています。現在、自分の意見は全く聖書通りだからです。しかし引用聖句で語るのは、神からのものと私が信じている聖書の言葉は、私自身の言葉より優れていると考えているからです。

1ヶ月前 No.209

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>209  伝道者さんへ

>仮に多世界が存在するとすれば、仰る通りかも知れません。しかし、多世界は存在するのでしょうか。


 「存在する」と答えても、「存在しない」と答えても、「なぜ?」という解けない謎(アポリア)となって残ります。片方だけに限定すると謎が生じるのです。だから、a「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)と答えます。これは、「存在する」かもしれない、「存在しない」かもしれない、「両方」かもしれない、「片方」かもしれない、という意味で、あらゆる可能性を網羅しており、何一つ真理を限定していないので、証明不要のまま恒真(トートロジー)です。

>そして仮に多世界が存在するとしても、他の世界まで考慮に入れることは大切でしょうか。本質から乖離し、机上の空論に囚われませんか。仮に多世界が存在するとしても、「この世界」のことを論ずることが大切ではありませんか。極論、他の世界は実質、無関係ではありませんか。


 存在し得るすべての世界が、a「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)であると考えない限り、哲学最大の謎(アポリア)とされる「なぜ何もないのではなく、何かが有るのか?」は解消できません。伝道者さんの場合、このような哲学的問題と真剣に取り組んでおられないのです。恐らく、このような謎の存在に気付いてさえおられないのです。

>私は一般的な日本人として、進化論を教えられ、当たり前に信じて育ちました。しかし創造論に触れ、真剣に考察し、「創造論の方が論理的」だとの思いに至り、創造論を選びました。


 それはそれで良いのではありませんか。「進化論」と「創造論」と、どちらがより適切と思うか、ディベート・ゲームのように意見を闘わせてみるのは面白いと思いますが。それでも恐らく、意見は一致しないでしょう。

>進化論の肯定意見、反対意見を両方聞いて、判断を下すのが賢明ではないでしょうか。ですから創造論にも一度真剣に耳を傾けて頂けると嬉しいです。先に紹介した記事は、非科学ではなく「科学に基づいて」創造論を考察・肯定しており、興味深い内容となっています。今後、SumioBabaさんが創造論を否定し続けるとしても、創造論者の言い分を十分に理解した上で否定出来る事になり、どちらにしても読めば益となるのではないでしょうか。


 読んではみましたよ。以下の五つが書いてありましたね。
@生命はどのようにして始まったのか。
A単純な生物など本当にあるのか。
Bわたしたちの設計図はどこから来たのか
Cすべての生物は共通の祖先から来たのか。
D聖書を信じるのは理に反することか。

>つまり、利己的な動機に基づき、利他的に行動するということですね。表面的には利他的に見える行動だが、目的は結局、利己的ですね。


 「進化論」に則って考えるとそうなります。

>それでは何故、見知らぬ他人が車に轢かれそうになった時、身の危険を顧みずに、その他人を救うようなことが人間にはあり得るのでしょうか。そこに利己的な動機があるでしょうか。説明が可能ですか?


 答は「キリスト教的な「性善説」を盲信している人もいるから」です。自動車の運転に熟達している運転手は、車の前に人が飛び出すと、反射的にブレーキを踏むでしょう。先天的に備わった機能ではなく、後天的な学習による一種の条件反射です。

>進化論の話を持ち出したのは、私ではありません。いずれにしても、先の記事で進化論の粗が存分に指摘されています。基本的に私は記事に賛成しています。私の進化論の粗探しは、先の記事に網羅されています。


 では、SumioBabaの方から、@〜Dに対する反論(1)と、キリスト教的な世界の説明に対する不満(2)の2つを挙げます。以下の通りです。

(1) @〜Dの殆どが、「生物が偶然発生する確率は極めて0に近い。」「神がデザインして世界を創ったと考える方が合理的だ。」という内容だったように思います。SumioBabaは「多世界解釈」を採ります。世界が1つだけだと考えると、生物が偶然に発生する確率は無限小に見えるかもしれません。しかし「多世界解釈」だと、存在し得る世界はすべて実現するので、それらの中に1つでも生物が発生し、人間にまで進化する確率は1であり、偶然ではなく必然です。生物が発生しなかった世界は、観測者が存在しないので、世界そのものが存在しないのと同じです。認識される世界は、必然的に生物が発生している世界となります。こういうのを「人間原理」と呼びます。

(2) キリスト教のような神が世界を設計して作ったと考えてしまうと、「その神は誰が作ったのか?」という謎が残り、無限後退してしまいます。キリスト教信者は「それは神のみぞ知る」と、思考停止に陥っていると思います。「複雑なものが単純なものを創る」というトップ・ダウンの説明ではうまくいかないというドーキンスの主張に、SumioBabaは賛成です。うまく説明するには、ボトム・アップの説明、つまり「単純なものから複雑なものが生じる」という説明が必要であり、それに成功しているのが「進化論」です。

1ヶ月前 No.210

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>210

SumioBabaさん、ご返信をありがとうございます。

>「存在する」と答えても、「存在しない」と答えても、「なぜ?」という解けない謎(アポリア)となって残ります。片方だけに限定すると謎が生じるのです。だから、a「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)と答えます。これは、「存在する」かもしれない、「存在しない」かもしれない、「両方」かもしれない、「片方」かもしれない、という意味で、あらゆる可能性を網羅しており、何一つ真理を限定していないので、証明不要のまま恒真(トートロジー)です。


「存在するか、存在しないか」という問いに対し、「存在するかもしれないし、しないかもしれないし、両方かもしれない」というのが答えであれば、それは無意味な答えに思えます。無価値な答えであり、答えにさえになっていないのではないでしょうか。思考放棄、回答放棄、諦めであると、私には思えます。何も解決していないままです。※逃げることにより、かろうじて表面的には論理性を取り繕った※に過ぎないのではないでしょうか。

例えてみましょう。ある案件に投資すべきかしないべきか、投資アドバイザーに質問します。「投資した方が良いかもしれないし、しない方が良いかもしれない。両方かも知れません。※ですから私の予想は常に当たります。※」と投資アドバイザーは答えます。その投資アドバイザーは失格でしょう。何のアドバイスにもなっていないでしょう。

多世界解釈が正しいかどうか、は人生観に多大な影響を与える大切な問題です。何故、もっと突き詰めて考え、「どちらなのか」ご自身で納得出来るまで考えることを放棄されるのですか。

>存在し得るすべての世界が、a「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)であると考えない限り、哲学最大の謎(アポリア)とされる「なぜ何もないのではなく、何かが有るのか?」は解消できません。伝道者さんの場合、このような哲学的問題と真剣に取り組んでおられないのです。恐らく、このような謎の存在に気付いてさえおられないのです。


多世界解釈は興味深い概念です。私自身、自分なりに精一杯考察したことがあります。

朝、私がトイレに行きます。5:51に行きます。その瞬間、5:52に私がトイレに行くパターンの別世界が生まれます。その世界にも太陽があり、地球があり、歴史があり、第二次世界大戦があります。全てが私の世界と全く同じですが、唯一の違いは私がトイレに行った時間が1分だけ違います。

更に考えれば、5:53、5:54のパターンの世界、更に言えば5:52:01秒、5:52:00000000001秒の世界も生成されます。つまり文字通り無限数の別世界が生成されます。その全てに太陽があり、地球があり、歴史があり、第二次世界大戦があります。

次に私が歯磨きをするとします。ここでも同様の方式で無限数の別世界が生成されます。今度はトイレの時間の無限数のパターンに、歯磨きの時間の無限数のパターンの乗数のパターンが生まれます。

私のただ二つの行為で、この様なことが起きます。世界の人口が60億とすると、全て乗数になりますので果てしない数の似通った世界が莫大なスピードで生成され続けます。

気の遠くなる様な重複が生まれます。その価値は何処にありますか。果てしない重複の無駄です。途方も無いエネルギーの無駄遣いです。

私の知っている「この世界」では、先ずエネルギー保存の法則が存在します。そして自然界を観察する限り、素晴らしいエネルギー効率を見出します。蝿のエネルギー効率は飛行機のエネルギー効率を凌駕します。

この様な観察に基づいて、莫大なエネルギーの無駄と思える多世界解釈を私はナンセンスと結論付けました。

>それはそれで良いのではありませんか。「進化論」と「創造論」と、どちらがより適切と思うか、ディベート・ゲームのように意見を闘わせてみるのは面白いと思いますが。それでも恐らく、意見は一致しないでしょう。


私は科学者ではありませんので、この分野で専門的な話は出来ませんが、精一杯やってみましょう。お互い考えるキッカケになるでしょう。

1ヶ月前 No.211

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>210

SumioBabaさん、返信の続きです。

>読んではみましたよ。以下の五つが書いてありましたね。

@生命はどのようにして始まったのか。
A単純な生物など本当にあるのか。
Bわたしたちの設計図はどこから来たのか
Cすべての生物は共通の祖先から来たのか。
D聖書を信じるのは理に反することか。

真摯に読んで下さり、ありがとうございます。

>答は「キリスト教的な「性善説」を盲信している人もいるから」です。


果たしてそうでしょうか。日頃、全く利己的に生きていて性悪説を信じている人でも、本当にとっさの直感的反応で、自らの危険を顧みずに、轢かれそうになっている人を助けることは皆無でしょうか。

また、人間が進化論に沿って生きているのであれば、何故、人間社会では社会的弱者を保護するのですか。それは種として強くなっていく動機に反していませんか。どの様にお考えですか。

>(1) @〜Dの殆どが、「生物が偶然発生する確率は極めて0に近い。」「神がデザインして世界を創ったと考える方が合理的だ。」という内容だったように思います。SumioBabaは「多世界解釈」を採ります。世界が1つだけだと考えると、生物が偶然に発生する確率は無限小に見えるかもしれません。しかし「多世界解釈」だと、存在し得る世界はすべて実現するので、それらの中に1つでも生物が発生し、人間にまで進化する確率は1であり、偶然ではなく必然です。生物が発生しなかった世界は、観測者が存在しないので、世界そのものが存在しないのと同じです。認識される世界は、必然的に生物が発生している世界となります。こういうのを「人間原理」と呼びます。


全く仰る通りです。多世界解釈の前提であれば、論理的に一切間違っていません。

しかし先の通り、私は多世界解釈を退ける方向を選びましたので、私にとって、無限小を信じることは不適切な判断と結論しています。

あくまで余談ですが、多世界解釈を採用した場合、論理的で正しくあることの意味も損なわれると思います。論理がどうでも良いバージョンの世界も無数にあるからです。

それは「この世界」の中でさえ、存在します。赤ちゃんにとって、また犬にとって、夢の中の大人にとって、論理的であることはどうでも良いのです。夢の中では死んだ筈の人が自然に会話していたり、時系列がバラバラになっていたり、自分が別人になっていたりしますが、全く自然に受け入れれて夢を見ていますよね。非論理が堂々と自然にまかり通る世界があります。

1ヶ月前 No.212

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>210

SumioBabaさん、返信の続きです。

非論理がまかり通る世界がある話をしましたが、要は人間、究極的な話としては、自分で納得出来るかが大事です。最終的には腹落ちすれば良いのです。

ここでは個人差があります。論理性を何処まで重んじるか、直感を何処まで重んじるか、感性を何処まで重んじるか。

私は感性も重んじますが、比較的理屈っぽいので、根底が論理的でないと気が済まないことが多いです。ですから聖書の粗探しを徹底的に行いました。当初は粗だらけに思えましたが、深く研究した結果、粗が無いことが分かりました。驚きました。これは自分の論理性なんかより上だと思いました。

更に聖書は倫理的にも感性面でも実用面でも素晴らしいことを実感しました。論理性だけでなく、あらゆる点で最高レベルである聖書を、真理と確信するに至りました。

>(2) キリスト教のような神が世界を設計して作ったと考えてしまうと、「その神は誰が作ったのか?」という謎が残り、無限後退してしまいます。キリスト教信者は「それは神のみぞ知る」と、思考停止に陥っていると思います。「複雑なものが単純なものを創る」というトップ・ダウンの説明ではうまくいかないというドーキンスの主張に、SumioBabaは賛成です。うまく説明するには、ボトム・アップの説明、つまり「単純なものから複雑なものが生じる」という説明が必要であり、それに成功しているのが「進化論」です。

聖書を真理と確信に至る点で、私自身、この問題と闘いました。神のみぞ知る、の様な答えでは、私は納得出来ませんでした。

私が見出した鍵は「信頼」です。

SumioBabaさんが自動車を運転される時、自動車の構造全てを理解されて運転していますか。そうではないでしょう。しかし自動車メーカーを信頼して、命を預けています。

或いはバスに乗る時、バスドライバーの生い立ちや人柄を熟知していますか。(例えば乗客諸共、崖から落ちて自殺を企んでいるかもしれません。)何もドライバーのことを知らずに、ドライバーを信頼して命を預けているでしょう。

この様な信頼は当たり前に行われており、何も不自然ではありません。頭でっかちでなく、「実際的な」判断をしているだけです。

私は自然界を観察し、これは偶然発生でなく、デザイナーがいると信じるに至りました。そのデザイナーは誰か。模索する中で、様々な理由より、聖書の神こそが創造主であるとの結論に至りました。

そうなると私の中で、幾つかの前提が形成されました。つまり、聖書の神は自分より賢い。その聖書の神が自分こそが全ての始まりです、神の神はいない、と述べている。そうであれば私は、その言葉を信頼します。私より賢い方が、そう述べておられるからです。私は身の丈をわきまえて、謙遜に考えます。私如きの小賢さで、神の神がいるのでは、と考えるのは愚かである。この場合、私より上の知性を持つ神の知性を信頼することが、私の出来る最も賢い選択である、と。無限後退が解決しました。

1ヶ月前 No.213

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>211  伝道者さんへ

>「存在するか、存在しないか」という問いに対し、「存在するかもしれないし、しないかもしれないし、両方かもしれない」というのが答えであれば、それは無意味な答えに思えます。無価値な答えであり、答えにさえになっていないのではないでしょうか。思考放棄、回答放棄、諦めであると、私には思えます。何も解決していないままです。※逃げることにより、かろうじて表面的には論理性を取り繕った※に過ぎないのではないでしょうか。


 それが全知全能の「神」の視点です。「神視点」では謎が何も無いので、答も不要です。

>例えてみましょう。ある案件に投資すべきかしないべきか、投資アドバイザーに質問します。「投資した方が良いかもしれないし、しない方が良いかもしれない。両方かも知れません。※ですから私の予想は常に当たります。※」と投資アドバイザーは答えます。その投資アドバイザーは失格でしょう。何のアドバイスにもなっていないでしょう。


 それは「人間視点」です。「人間視点」では、自分の心M1が住む世界W1において、様々な○○○につき「○○○である」が真であり「○○○でない」が偽である、と定まっています。「投資すべきかどうか」も、どちらが適切か、片方に決まるでしょう。

>多世界解釈が正しいかどうか、は人生観に多大な影響を与える大切な問題です。何故、もっと突き詰めて考え、「どちらなのか」ご自身で納得出来るまで考えることを放棄されるのですか。


 貴方が「神視点」と「人間視点」とを混同されているだけです。

>多世界解釈は興味深い概念です。私自身、自分なりに精一杯考察したことがあります。

>朝、私がトイレに行きます。5:51に行きます。その瞬間、5:52に私がトイレに行くパターンの別世界が生まれます。その世界にも太陽があり、地球があり、歴史があり、第二次世界大戦があります。全てが私の世界と全く同じですが、唯一の違いは私がトイレに行った時間が1分だけ違います。

>更に考えれば、5:53、5:54のパターンの世界、更に言えば5:52:01秒、5:52:00000000001秒の世界も生成されます。つまり文字通り無限数の別世界が生成されます。その全てに太陽があり、地球があり、歴史があり、第二次世界大戦があります。

>次に私が歯磨きをするとします。ここでも同様の方式で無限数の別世界が生成されます。今度はトイレの時間の無限数のパターンに、歯磨きの時間の無限数のパターンの乗数のパターンが生まれます。

>私のただ二つの行為で、この様なことが起きます。世界の人口が60億とすると、全て乗数になりますので果てしない数の似通った世界が莫大なスピードで生成され続けます。

>気の遠くなる様な重複が生まれます。その価値は何処にありますか。果てしない重複の無駄です。途方も無いエネルギーの無駄遣いです。


 なぜ「無駄」なのでしょうか? 全知全能の「神」は微妙に異なるすべての心の状態を作り出し、自ら体験しています。どの体験も、「神」にとっては貴重なコレクションであり、「無駄」ではありません。

>私の知っている「この世界」では、先ずエネルギー保存の法則が存在します。そして自然界を観察する限り、素晴らしいエネルギー効率を見出します。蝿のエネルギー効率は飛行機のエネルギー効率を凌駕します。

>この様な観察に基づいて、莫大なエネルギーの無駄と思える多世界解釈を私はナンセンスと結論付けました。


 「無駄」というのは、全知全能でない人間がどこかで「無駄」をしたために、別のところで不足が生じて困るような場合に指摘される概念です。全知全能の「神」は、どこかで不足が生じて困ることも無いので、「無駄」という概念が無意味です。多世界を実現せず、世界を1つだけしか作らないのであれば、他の世界を創れなかったことで「神」は全知全能でなくなってしまいます。

1ヶ月前 No.214

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>212  伝道者さんへ

>果たしてそうでしょうか。日頃、全く利己的に生きていて性悪説を信じている人でも、本当にとっさの直感的反応で、自らの危険を顧みずに、轢かれそうになっている人を助けることは皆無でしょうか。


 むしろ、100%「性悪説」を信じてしまっている人が皆無なのだと思います。誰でも「性善説」と「性悪説」の中間だから、「自らの危険を顧みずに、轢かれそうになっている人を助けること」も有り得るのではないでしょうか?

>また、人間が進化論に沿って生きているのであれば、何故、人間社会では社会的弱者を保護するのですか。それは種として強くなっていく動機に反していませんか。どの様にお考えですか。


 人間にはホンネとタテマエが有るのです。現代社会で勝ち抜くには、多くの人々に支持されて指導者や管理者になる必要が生じます。そんなとき露骨に、「強い者が生き抜き、弱い者は死ねば良いのだ」などと主張したら、顰蹙を買い、誰も支持してくれず、選挙に落選してしまうでしょう。現代社会で勝ち抜くためには、利己的と利他的の両方を使いこなす才能こそが、最も有利な武器となります。だから、タテマエでは「世界平和が実現するといいね」と言いながら、ホンネでは軍事産業で儲けている人もいる訳です。

>>(1) @〜Dの殆どが、「生物が偶然発生する確率は極めて0に近い。」「神がデザインして世界を創ったと考える方が合理的だ。」という内容だったように思います。SumioBabaは「多世界解釈」を採ります。世界が1つだけだと考えると、生物が偶然に発生する確率は無限小に見えるかもしれません。しかし「多世界解釈」だと、存在し得る世界はすべて実現するので、それらの中に1つでも生物が発生し、人間にまで進化する確率は1であり、偶然ではなく必然です。生物が発生しなかった世界は、観測者が存在しないので、世界そのものが存在しないのと同じです。認識される世界は、必然的に生物が発生している世界となります。こういうのを「人間原理」と呼びます。


>全く仰る通りです。多世界解釈の前提であれば、論理的に一切間違っていません。

>しかし先の通り、私は多世界解釈を退ける方向を選びましたので、私にとって、無限小を信じることは不適切な判断と結論しています。


 SumioBabaは、現在のところ多世界解釈を実証も反証もできないので、多世界解釈が「正しい」か「正しくない」かについて、a「正しい」+b「正しくない」(aとbの値は不明)と答えています。伝道者さんは、実証も反証もできないのに、多世界解釈を否定してしまうという論理の飛躍をしてしまっている点に、気付いておられますか?

>あくまで余談ですが、多世界解釈を採用した場合、論理的で正しくあることの意味も損なわれると思います。論理がどうでも良いバージョンの世界も無数にあるからです。

>それは「この世界」の中でさえ、存在します。赤ちゃんにとって、また犬にとって、夢の中の大人にとって、論理的であることはどうでも良いのです。夢の中では死んだ筈の人が自然に会話していたり、時系列がバラバラになっていたり、自分が別人になっていたりしますが、全く自然に受け入れれて夢を見ていますよね。非論理が堂々と自然にまかり通る世界があります。


 多世界解釈を採らないと、「なぜ我々の世界は、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に「縛られない」ではなく「縛られる」の方なのか?」という謎(アポリア)が残ってしまい、「そんなの知らないよ、なぜかそうだからそうなのさ。」で諦めるしか有りません。多世界解釈を採れば、このアポリアも解消できます。こう説明すれば良いのです。→「そもそも世界は、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に「縛られる」とも「縛られない」とも限定されていない。ただし、「縛られない」世界の方は矛盾が生じ、状態も存否も確定できない。だから、認識できるのは「縛られる」を満たした世界だけとなるのだ。」。

 多世界解釈を採らないとアポリアが残ってしまい、多世界解釈を採ればアポリアが消滅します。どちらが合理的ですか? さらに、多世界解釈が「正しい」と断定しても「正しくない」と断定しても、「なぜ?」というアポリアが生じます。a「正しい」+b「正しくない」(aとbの値は不明)と答えておけば、何も謎は生じません。どちらが合理的ですか?

1ヶ月前 No.215

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>213  伝道者さんへ

>非論理がまかり通る世界がある話をしましたが、要は人間、究極的な話としては、自分で納得出来るかが大事です。最終的には腹落ちすれば良いのです。

>ここでは個人差があります。論理性を何処まで重んじるか、直感を何処まで重んじるか、感性を何処まで重んじるか。

>私は感性も重んじますが、比較的理屈っぽいので、根底が論理的でないと気が済まないことが多いです。ですから聖書の粗探しを徹底的に行いました。当初は粗だらけに思えましたが、深く研究した結果、粗が無いことが分かりました。驚きました。これは自分の論理性なんかより上だと思いました。

>更に聖書は倫理的にも感性面でも実用面でも素晴らしいことを実感しました。論理性だけでなく、あらゆる点で最高レベルである聖書を、真理と確信するに至りました。


 そう思う人はそれで良いのではありませんか。

>>(2) キリスト教のような神が世界を設計して作ったと考えてしまうと、「その神は誰が作ったのか?」という謎が残り、無限後退してしまいます。キリスト教信者は「それは神のみぞ知る」と、思考停止に陥っていると思います。「複雑なものが単純なものを創る」というトップ・ダウンの説明ではうまくいかないというドーキンスの主張に、SumioBabaは賛成です。うまく説明するには、ボトム・アップの説明、つまり「単純なものから複雑なものが生じる」という説明が必要であり、それに成功しているのが「進化論」です。


>聖書を真理と確信に至る点で、私自身、この問題と闘いました。神のみぞ知る、の様な答えでは、私は納得出来ませんでした。

>私が見出した鍵は「信頼」です。

>SumioBabaさんが自動車を運転される時、自動車の構造全てを理解されて運転していますか。そうではないでしょう。しかし自動車メーカーを信頼して、命を預けています。

>或いはバスに乗る時、バスドライバーの生い立ちや人柄を熟知していますか。(例えば乗客諸共、崖から落ちて自殺を企んでいるかもしれません。)何もドライバーのことを知らずに、ドライバーを信頼して命を預けているでしょう。

>この様な信頼は当たり前に行われており、何も不自然ではありません。頭でっかちでなく、「実際的な」判断をしているだけです。

>私は自然界を観察し、これは偶然発生でなく、デザイナーがいると信じるに至りました。そのデザイナーは誰か。模索する中で、様々な理由より、聖書の神こそが創造主であるとの結論に至りました。

>そうなると私の中で、幾つかの前提が形成されました。つまり、聖書の神は自分より賢い。その聖書の神が自分こそが全ての始まりです、神の神はいない、と述べている。そうであれば私は、その言葉を信頼します。私より賢い方が、そう述べておられるからです。私は身の丈をわきまえて、謙遜に考えます。私如きの小賢さで、神の神がいるのでは、と考えるのは愚かである。この場合、私より上の知性を持つ神の知性を信頼することが、私の出来る最も賢い選択である、と。無限後退が解決しました。


 伝道者さんがそれで満足なのであれば、それで良いのではありませんか。SumioBabaは伝道者さんのこのような態度こそが「思考停止」だと認識し、それでは満足できないというだけです。

 伝道者さんの場合、「自分は1人の人間であって、神などではない」というのが暗黙の「公理」になっています。「人間として正しく生きるにはどうすれば良いか?」が最も重要なテーマですね。そして「聖書を信じ、神の意にかなう生き方をすべきだ。」「そのためには、哲学のアポリアなど特に興味も無い。」というのが、その答のようですね。

 SumioBabaの場合は、「哲学のアポリアに答を見い出したい」が最優先です。自分の心M1はついつい自分を1人の人間だと思い込んでいますが、そう考えてしまうと、答の無いアポリアが残ってしまいます。《存在選択の謎》=「なぜ自分の心M1は「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」、《状態選択の謎》=「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなくこのM1なのか?」、…等々。そこで、真の自分は「神」なのであり、本当は存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…それぞれについて「存在する」と「存在しない」の両方を確率的に体験しているのであって、M1はその中の1つに過ぎないのではないか?、と考えます。そうすると《存在選択の謎》も《状態選択の謎》も消滅します。

 自分は1人の人間なのか? 真の自分は「神」なのか? どちらも実証も反証もできません。だからどちらもa「正しい」+b「正しくない」(aとbの値は不明)です。ただ、自分を1人の人間だと考えると、解けない謎(アポリア)がたくさん残ります。真の自分は全知全能の「神」なのだと考えれば、すべての謎(アポリア)が消滅します。それゆえ後者の方が合理的だと考えるのです。

1ヶ月前 No.216

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>214

SumioBabaさん、

>それが全知全能の「神」の視点です。「神視点」では謎が何も無いので、答も不要です。

SumioBabaさんは人間原理、進化論の立場ですよね。そうであれば、何故、神が存在して、その神は全知全能と思われるのでしょうか。論理的な繋がりを教えて下さい。

>それは「人間視点」です。「人間視点」では、自分の心M1が住む世界W1において、様々な○○○につき「○○○である」が真であり「○○○でない」が偽である、と定まっています。「投資すべきかどうか」も、どちらが適切か、片方に決まるでしょう。

人間の観点で神を考察している訳ですから、人間視点で良いのではないでしょうか。人間視点でなければ正に「神のみぞ知る」で話が終わってしまいませんか。

>貴方が「神視点」と「人間視点」とを混同されているだけです。

同上です。SumioBabaさんは、ご自身の結論が正しい前提から逆算して話されているので、議論になっていないと感じます。

>なぜ「無駄」なのでしょうか? 全知全能の「神」は微妙に異なるすべての心の状態を作り出し、自ら体験しています。どの体験も、「神」にとっては貴重なコレクションであり、「無駄」ではありません。

凄まじい重複が無駄なコレクションだと思います。重複が問題です。何故、私がトイレに行った時間が0.0000000000000000000001秒異なる世界が無限数に必要なのですか。「その他全てのこと」は、全ての該当世界で重複しています。

>世界を1つだけしか作らないのであれば、他の世界を創れなかったことで「神」は全知全能でなくなってしまいます。

論理的一貫性を保つ為、多世界を造るしか出来ない神は全知全能ではありません。論理より弱い神です。

やりたいことだけをやる、それが全能です。自分の意志によって、選択的に能力をコントロール出来るのが全能です。ですから世界が一つでも全能神は成立します。

何でもかんでもやることを「強いられる」、多世界を造らなければならない、それは全能ではありません。

1ヶ月前 No.217

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>217  伝道者さんへ

>SumioBabaさんは人間原理、進化論の立場ですよね。そうであれば、何故、神が存在して、その神は全知全能と思われるのでしょうか。論理的な繋がりを教えて下さい。


 考える対象は「神」でも「世界」でも良いのですが、ある○○○について、「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方だけに限定されていると考えてしまうと、「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」だけが選ばれたのか?」というアポリア(答の無い謎)が生じてしまいます。だから、アポリアを発生させないためには、どんな○○○についても「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに限定されず、両方だと考える必要が有ります。

 しかし、「両方」と「片方」のうち「両方」だと考えてしまうと、また、「なぜ「片方」ではなく「両方」なのか?」というアポリアが生じてしまいます。それを避けるには、「○○○である」、「○○○でない」、「両方」、「片方」、というすべての可能性を網羅する必要が有り、これを、a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbの値は不明)と表現します。これは、「○○○である」か「○○○でない」かについて、すべての可能性を網羅していますから、決して外れることは有り得ないという意味で、証明不要のまま恒真(トートロジー)です。

 「□□□である」= a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbの値は不明)、とおくとこれはすべての可能性を網羅した集合なので、その補集合である「□□□でない」の方は空集合φになります。従って「なぜ「□□□でない」ではなく「□□□である」の方が選ばれたのか?」という謎は、もはや生じません。「□□□である」はすでに完全に飽和しているから選ばれるのは必ずこちらであり、「□□□でない」の方は空集合φなので選ばれようがないからです。

 「神」を「全知全能である」と表現する場合も、「全知全能である」(正)と「全知全能でない」(反)とに分けたうちの片方である「全知全能である」(正)の方だけだと考えてしまうと、「神」は「全知全能でない」(反)の方を満たせていないので、本当の意味で「全知全能である」とは言えなくなってしまいます。それを超越するため、「神」は、「全知全能である」(正)、「全知全能でない」(反)、「両方」、「片方」、とすべての可能性を持つことが要求されます。これを「全知全能である」(合)=a「全知全能である」(正)+b「全知全能でない」(反) (aとbの値は不明)と書きます。全知全能の「神」は、「存在する」か「存在しない」かについても、a「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)です。

>人間の観点で神を考察している訳ですから、人間視点で良いのではないでしょうか。人間視点でなければ正に「神のみぞ知る」で話が終わってしまいませんか。


 伝道者さんが考えておられる神のように、神が自分の好みで「○○○である」と「○○○でない」の片方を選ぶと考えてしまうと、どちらなのかは「神のみぞ知る」になってしまいます。しかし、SumioBabaが考える「神」は何一つ限定されていないので、人間は「「神」は何一つ限定されていない」と知ることができます。

>凄まじい重複が無駄なコレクションだと思います。重複が問題です。何故、私がトイレに行った時間が0.0000000000000000000001秒異なる世界が無限数に必要なのですか。「その他全てのこと」は、全ての該当世界で重複しています。


 重複した世界は「同じ」と見なされるだけです。すべての世界が重ね合わせで存在して飽和している場合、世界Waが変化すると必ずすでに存在している別の世界Wb、Wc、Wd、…に一致するのは当然です。すべての世界Wa、Wb、Wc、Wd、…が存在する、で良いのです。

>>世界を1つだけしか作らないのであれば、他の世界を創れなかったことで「神」は全知全能でなくなってしまいます。

>論理的一貫性を保つ為、多世界を造るしか出来ない神は全知全能ではありません。論理より弱い神です。


 全知全能の「神」は多世界をa「造る」+b「造らない」(aとbの値は不明)です。つまり、「造る」、「造らない」、「両方」、「片方」、のどれでもあります。すべての可能性を網羅しているので、証明不要のまま恒真(トートロジー)です。

>やりたいことだけをやる、それが全能です。自分の意志によって、選択的に能力をコントロール出来るのが全能です。ですから世界が一つでも全能神は成立します。


 「○○○である」と「○○○でない」の片方しか選べないようでは、全知全能とは言えないと思います。「両方を選ぶ」が不可能なのですから。

>何でもかんでもやることを「強いられる」、多世界を造らなければならない、それは全能ではありません。


 SumioBabaが考える「神」は、多世界を「造る」、「造らない」、「両方」、「片方」、のどれでもあります。

1ヶ月前 No.218

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>215

SumioBabaさん、ご返信下さり、ありがとうございます。

>人間にはホンネとタテマエが有るのです。現代社会で勝ち抜くには、多くの人々に支持されて指導者や管理者になる必要が生じます。そんなとき露骨に、「強い者が生き抜き、弱い者は死ねば良いのだ」などと主張したら、顰蹙を買い、誰も支持してくれず、選挙に落選してしまうでしょう。現代社会で勝ち抜くためには、利己的と利他的の両方を使いこなす才能こそが、最も有利な武器となります。だから、タテマエでは「世界平和が実現するといいね」と言いながら、ホンネでは軍事産業で儲けている人もいる訳です。


道徳的なことがタテマエだとしたら、悲しいことだと私は思います。むしろ道徳的なことこそ、表面のメッキでなく、本質であって欲しいと思います。

> SumioBabaは、現在のところ多世界解釈を実証も反証もできないので、多世界解釈が「正しい」か「正しくない」かについて、a「正しい」+b「正しくない」(aとbの値は不明)と答えています。


トートロジーは多世界解釈でのみ成立するのではないですか。多世界解釈を実証出来ないのであれば、トートロジーの土台が崩れます。

>伝道者さんは、実証も反証もできないのに、多世界解釈を否定してしまうという論理の飛躍をしてしまっている点に、気付いておられますか?

途方も無い重複を含む多世界解釈を、私はエネルギーの無駄遣いと考えています。私の「身のまわりの観察」では、この様なエネルギーの無駄遣いは見受けられません。よって多世界解釈を退けています。

仮に別の世界が存在するとしても、それでも私には無関係であり、無視して良いと考えています。実質、無関係で、無視して差し支えありません。

SumioBabaさんは、上記は実証ではないと仰るかもしれない。しかし私はその理屈で納得し、満足し、腹落ちしています。

先の夢の中の話の様に、論理性が全てではありません。納得することが大切です。赤ちゃんに大人の論理が理解出来ますか。出来ません。では大人より高度な知性体の論理を、大人が理解出来ますか。やはり出来ません。自分は論理的だ、実証した、そう思っても、それは不確かなままです。しかし納得は個人的、実質的なものです。実際的な価値があります。

>多世界解釈を採らないとアポリアが残ってしまい、多世界解釈を採ればアポリアが消滅します。どちらが合理的ですか? さらに、多世界解釈が「正しい」と断定しても「正しくない」と断定しても、「なぜ?」というアポリアが生じます。a「正しい」+b「正しくない」(aとbの値は不明)と答えておけば、何も謎は生じません。どちらが合理的ですか?


私にとって、アポリアが残ろうと、大した問題ではありません。例えば道徳的であること、納得できること、その方が大切です。

>>216

>伝道者さんがそれで満足なのであれば、それで良いのではありませんか。SumioBabaは伝道者さんのこのような態度こそが「思考停止」だと認識し、それでは満足できないというだけです。

SumioBabaさんは、自動車の構造を完全に理解出来るまでは、一切、運転拒否されますか?バスの運転手の履歴を調べ、自殺行為をしないと誓約書を毎回書かせてからバスに乗車しますか?しないでしょう。

しかし、自動車を運転する、バスに乗車することは命を預ける行為なのです。何故、SumioBabaさんは、ここにはこだわらないのですか?そのこと自体、信頼の大切さ、実際的な価値、そして机上の空論の無価値を、ご自身でも証言されていらっしゃることに気付いて頂けると嬉しいです。

>真の自分は全知全能の「神」なのだと考えれば、すべての謎(アポリア)が消滅します。それゆえ後者の方が合理的だと考えるのです。

大切なこと、実際的なことを置き去りにしたまま机上の空論を捏ね続けた結果、とんでもない結論に至ってしまいましたね。。私は、そう感じます。

全ての人間が全能神ですか?それは論理的に破綻します。「全ての多世界」で全能神同士が戦う時、誰が勝つのですか?「全ての多世界」で戦う場合を考えて下さい。この世界では彼が勝つが、あの世界では彼女が勝つ、勝ちも負けもする、という話では無いです。或る神は「全ての多世界」で勝てますか、という話です。

>>218

>伝道者さんが考えておられる神のように、神が自分の好みで「○○○である」と「○○○でない」の片方を選ぶと考えてしまうと、どちらなのかは「神のみぞ知る」になってしまいます。しかし、SumioBabaが考える「神」は何一つ限定されていないので、人間は「「神」は何一つ限定されていない」と知ることができます。


「全能の神が選択的に何かを行うこと」はコレクション出来ないのですか?「全ての多世界」に於いて、雨を降らせたい、は実現可能ですか?その様な現象をコレクション出来ますか?出来なければ全能ではありません。トートロジーは自己矛盾です。

>重複した世界は「同じ」と見なされるだけです。すべての世界が重ね合わせで存在して飽和している場合、世界Waが変化すると必ずすでに存在している別の世界Wb、Wc、Wd、…に一致するのは当然です。すべての世界Wa、Wb、Wc、Wd、…が存在する、で良いのです。


同じ物が途方も無く大量生産されます。無意味なコレクションですね。良いものを厳選して、というコレクションは出来ないのですか。とても希釈された、何でもかんでもな雑なコレクターではありませんか。

>「○○○である」と「○○○でない」の片方しか選べないようでは、全知全能とは言えないと思います。「両方を選ぶ」が不可能なのですから。

全能神ですから、当然、「両方を選ぶ」も達成可能です。しかし「片方だけ」を選ぶことも出来る筈です。何を実現したいかにより、「選択する」能力があります。必ずトートロジー「しか」選べないのであれば、全能ではありません。単世界を実現する力が無い、トートロジーを壊す力が無いのでは、全能ではありません。論理やアポリアに屈する神となってしまいます。それでは全能ではない。論理やアポリアより下位の存在となり、全能ではない。

1ヶ月前 No.219

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>219  伝道者さんへ

>道徳的なことがタテマエだとしたら、悲しいことだと私は思います。むしろ道徳的なことこそ、表面のメッキでなく、本質であって欲しいと思います。


 「願望」と「現実」とを混同してはいけません。

>トートロジーは多世界解釈でのみ成立するのではないですか。多世界解釈を実証出来ないのであれば、トートロジーの土台が崩れます。


 多世界解釈が「正しい」なら、ダブル・トートロジーですべてのアポリアが解消されます。多世界解釈が「正しくない」なら、ダブル・トートロジーで解消できないアポリアが残ります。「正しい」場合の「神」が「全知全能である」(正)。「正しくない」場合の「神」が「全知全能でない」(反)。「神」は両方を実現しており、「全知全能である」(合)=a「全知全能である」(正)+b「全知全能でない」(反) (aとbの値は不明)です。

>途方も無い重複を含む多世界解釈を、私はエネルギーの無駄遣いと考えています。私の「身のまわりの観察」では、この様なエネルギーの無駄遣いは見受けられません。よって多世界解釈を退けています。


 多世界解釈を全く誤解されているようです。「エネルギーの無駄遣い」などどこにも無いのに。

>仮に別の世界が存在するとしても、それでも私には無関係であり、無視して良いと考えています。実質、無関係で、無視して差し支えありません。


 貴方にとって都合の悪いものは無視するということですね。

>SumioBabaさんは、上記は実証ではないと仰るかもしれない。しかし私はその理屈で納得し、満足し、腹落ちしています。


 そういうのを「思考停止」「論理の飛躍」と言います。実証も反証もできない場合は、「正しい」と「正しくない」の両方の可能性を保留すべきです。

>先の夢の中の話の様に、論理性が全てではありません。納得することが大切です。赤ちゃんに大人の論理が理解出来ますか。出来ません。では大人より高度な知性体の論理を、大人が理解出来ますか。やはり出来ません。自分は論理的だ、実証した、そう思っても、それは不確かなままです。しかし納得は個人的、実質的なものです。実際的な価値があります。


 何の話ですか?

>私にとって、アポリアが残ろうと、大した問題ではありません。例えば道徳的であること、納得できること、その方が大切です。


 そう、だから哲学のアポリアをどう説明するかについて、貴方は初めから「思考停止」なのですよ。

>SumioBabaさんは、自動車の構造を完全に理解出来るまでは、一切、運転拒否されますか?バスの運転手の履歴を調べ、自殺行為をしないと誓約書を毎回書かせてからバスに乗車しますか?しないでしょう。

>しかし、自動車を運転する、バスに乗車することは命を預ける行為なのです。何故、SumioBabaさんは、ここにはこだわらないのですか?そのこと自体、信頼の大切さ、実際的な価値、そして机上の空論の無価値を、ご自身でも証言されていらっしゃることに気付いて頂けると嬉しいです。


 何の話ですか?

>>真の自分は全知全能の「神」なのだと考えれば、すべての謎(アポリア)が消滅します。それゆえ後者の方が合理的だと考えるのです。

>大切なこと、実際的なことを置き去りにしたまま机上の空論を捏ね続けた結果、とんでもない結論に至ってしまいましたね。。私は、そう感じます。


 大乗仏教やインド哲学も、SumioBabaと似たような結論に到達しています。大乗仏教やインド哲学は自分の頭で真理を悟ろうとする哲学であるのに対し、キリスト教は「思考停止」する宗教なのですよ。哲学のアポリアを考え抜くと、真の自分が「神」であることに、自ずと気付きます。そう考えないとアポリアが残ってしまい、そう考えればアポリアが完全消滅するのですから。キリスト教徒は、哲学を放棄して「思考停止」するので、自分が人間であることを疑おうともせず、真の自分は「神」なのだということに気付かないまま一生を送るのです。本当に賢いのは、どちらでしょう?

>全ての人間が全能神ですか?それは論理的に破綻します。「全ての多世界」で全能神同士が戦う時、誰が勝つのですか?「全ての多世界」で戦う場合を考えて下さい。この世界では彼が勝つが、あの世界では彼女が勝つ、勝ちも負けもする、という話では無いです。或る神は「全ての多世界」で勝てますか、という話です。


 意味不明。1人の人間の心は、特定の状態に定まっていて、それ以外の状態を放棄しているのだから、全知全能ではありませんよ。存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を確率的に体験している「神」が全知全能です。

>「全能の神が選択的に何かを行うこと」はコレクション出来ないのですか?「全ての多世界」に於いて、雨を降らせたい、は実現可能ですか?その様な現象をコレクション出来ますか?出来なければ全能ではありません。


 もちろんできます。「神」は全知全能ですから、どんな○○○についても「○○○である」と「○○○でない」のどちらもできるし、両方でも片方でも有り得ます。無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則にも「縛られる」、「縛られない」、「両方」、「片方」、のどれでも有り得ます。もちろん、「全能の神が選択的に何かを行うこと」も、「「全ての多世界」に於いて、雨を降らせたい」も、実現可能です。

>同じ物が途方も無く大量生産されます。無意味なコレクションですね。良いものを厳選して、というコレクションは出来ないのですか。とても希釈された、何でもかんでもな雑なコレクターではありませんか。


 存在し得るすべての世界をW0、W1、W2、W3、…とするとき、あるいは、存在し得るすべての心をM0、M1、M2、M3、…とするとき、それぞれがa「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)です。aとbの値次第で、「それらすべてが存在する」にもなれるし、「任意の一部だけが存在する」にもなれるし、「何も存在しない」にもなれます。「神」は無矛盾な論理法則にも縛られないので、好きなものだけを肯定し、嫌いなものを否定することもできるのです。

>>「○○○である」と「○○○でない」の片方しか選べないようでは、全知全能とは言えないと思います。「両方を選ぶ」が不可能なのですから。

>全能神ですから、当然、「両方を選ぶ」も達成可能です。しかし「片方だけ」を選ぶことも出来る筈です。何を実現したいかにより、「選択する」能力があります。必ずトートロジー「しか」選べないのであれば、全能ではありません。単世界を実現する力が無い、トートロジーを壊す力が無いのでは、全能ではありません。論理やアポリアに屈する神となってしまいます。それでは全能ではない。論理やアポリアより下位の存在となり、全能ではない。


 伝道者さんの神は、「アダムとエバが堕落する世界」だけを創り、「アダムとエバが堕落しない世界」は創れなかったのでしょう? だったら、全知全能ではないことになります。
 SumioBabaの「神」は、「アダムとエバが堕落する世界」、「アダムとエバが堕落しない世界」、「両方」、「片方」というすべての可能性を確率的に実現しており、全知全能です。

1ヶ月前 No.220

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>220

SumioBabaさん、ご返信ありがとうございます。

以下、私の感想を述べます。

論理的思索だけでは、頭でっかちになってしまいます。頭でっかちではバランスが悪く、倒れてしまいます。バランスの良い歩きには、論理的思索だけでなく、感性による舵取りや、体験による観察、適用による検証も必要です。

アポリアの解決の為であろうと、例えば道徳を軽んじてはいけません。何故なら論理は手段ではあるが、目的ではありません。論理の奴隷になってはいけません。論理は使うもので、使われるものではないからです。

石橋を叩きすぎて壊すならば、それはcleverかもしれませんが、wiseな人ではありません。橋が渡れないことを、その人は証明したつもりになっているかもしれません。自分の目には自分が賢く思えるかもしれません。しかし他の人には愚かに見えます。石橋を渡ることは十分可能だからです。頭の良さと知恵の違い、実際的な価値、そういったものを再考察してみて下さい。

ご自身の結論として、あなたは自分は全能の神だと思っている様です。しかし、物理法則を発見、応用することは出来るが、作り出すことや超越することは出来ない。物理法則に縛られているだけです。また、あなたは種子の造り方、無から命を造る方法も知らない。全知の神でもない。あなたの辿り着いた結論は無価値なものです。

道徳さえ必要悪とするならば、あなたの結論は危険なものです。道を踏み外さない様、注意して下さい。

>伝道者さんの神は、「アダムとエバが堕落する世界」だけを創り、「アダムとエバが堕落しない世界」は創れなかったのでしょう? だったら、全知全能ではないことになります。

自由意志や公正さについて、もう少し考察されると良いと思います。聖書が思考停止という「思い込み」に囚われている限り、そこから先の理解に到達出来ないでしょう。何遍でも説明可能ですが、あなたがご自身を聖書より上だと決めつけている限り、あなたが心を閉ざしている限り、あなたのプライドがあなた自身を躓かせ、私の説明が分からないでしょう。

上記の事柄がお分かりにならなければ、これ以上の議論はお互いに労力の無駄になるでしょう。

1ヶ月前 No.221

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>221  伝道者さんへ

>論理的思索だけでは、頭でっかちになってしまいます。頭でっかちではバランスが悪く、倒れてしまいます。バランスの良い歩きには、論理的思索だけでなく、感性による舵取りや、体験による観察、適用による検証も必要です。


 今、我々は「哲学」の議論をしているのであって、「信仰」の話をしているのではありません。「哲学」とは徹底的に論理的思索で、どう考えるのが適切かを追究することです。なのに貴方は、「哲学」を放棄して「信仰」に走ってしまわれました。それでは「思考停止」であって、「哲学」の議論にはなりません。貴方は、「哲学」のアポリアを自分の頭で考え抜くことを放棄して「信仰」に逃避しておきながら、自分を「バランスの良い歩き」などと正当化しているだけです。

>アポリアの解決の為であろうと、例えば道徳を軽んじてはいけません。何故なら論理は手段ではあるが、目的ではありません。論理の奴隷になってはいけません。論理は使うもので、使われるものではないからです。


 これも曲解です。SumioBabaは「道徳を軽んじている」のではなくて、まず根源的に重要なのが、「なぜ世界は「無い」ではなく「有る」の方なのか?」のような哲学における究極の謎アポリアの解決なのです。このような根源的な謎にどういう答を見い出すかで、「道徳」の方は様々に変わってしまいます。だから、根源的アポリアに正しい答を見い出すことが、「道徳」を議論する上でも決定的に重要なのです。

 それなのに貴方は、最も重要な哲学的アポリアを自分の頭で考え抜くことを放棄してしまい、聖書を「信仰」してしまいました。「神は欠陥天使を創り、それがサタンになってしまい、神はそれを予知できなかった」とか。「アダムとエバの失楽園の話は実話だ」とか。「すべての人間には原罪が遺伝している」とか。SumioBabaからから見ると、あまりにも非科学的です。伝道者さんの道徳こそ、このような非科学の上に構成された危険極まりない「道徳」なのですよ。実際、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それぞれ違った「道徳」を主張しており、それが戦争の原因にまでなっています。

>石橋を叩きすぎて壊すならば、それはcleverかもしれませんが、wiseな人ではありません。橋が渡れないことを、その人は証明したつもりになっているかもしれません。自分の目には自分が賢く思えるかもしれません。しかし他の人には愚かに見えます。石橋を渡ることは十分可能だからです。頭の良さと知恵の違い、実際的な価値、そういったものを再考察してみて下さい。


 何の話ですか?

>ご自身の結論として、あなたは自分は全能の神だと思っている様です。しかし、物理法則を発見、応用することは出来るが、作り出すことや超越することは出来ない。物理法則に縛られているだけです。また、あなたは種子の造り方、無から命を造る方法も知らない。全知の神でもない。あなたの辿り着いた結論は無価値なものです。


 またまた曲解ですね。「神視点」と「人間視点」とを意図的に混同しています。そういうのを「藁人形論法」と呼びます。SumioBabaの心M1が「神」なのではなく、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を確率的に体験している「神」が全知全能であると、すでに説明しているのですけれど…。「神」の定義は「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」です。SumioBabaの心M1は、{M}の要素の1つであり、「神の分身」になります。

>道徳さえ必要悪とするならば、あなたの結論は危険なものです。道を踏み外さない様、注意して下さい。


 道徳が「必要悪」? SumioBabaは、「哲学のアポリアをきちんと解決した上で、それに基づいた「道徳」を考えるべきだ」と言っているのです。伝道者さんの「道徳」は、「神は欠陥天使を創り、それがサタンになってしまい、神はそれを予知さえできなかった」とか「アダムとエバの失楽園の話は実話だ」とか「すべての人間には原罪が遺伝している」とか、非科学の上に造られているので、それこそが危険なのです。

>自由意志や公正さについて、もう少し考察されると良いと思います。聖書が思考停止という「思い込み」に囚われている限り、そこから先の理解に到達出来ないでしょう。何遍でも説明可能ですが、あなたがご自身を聖書より上だと決めつけている限り、あなたが心を閉ざしている限り、あなたのプライドがあなた自身を躓かせ、私の説明が分からないでしょう。


 SumioBabaには聖書を信じることはできません。日食が起きた時に「神の怒りだ、生贄が必要だ」と言われても、受け入れられないのと同じです。SumioBabaは日食を、「神の怒りなどではない、太陽が月の陰に隠れただけだ」と、科学的に説明します。

>上記の事柄がお分かりにならなければ、これ以上の議論はお互いに労力の無駄になるでしょう。


 そうですね。SumioBabaの説明を伝道者さんが曲解されるようになったので、これ以上の説明は無駄かもしれませんね。

1ヶ月前 No.222

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    聖書の解釈は人それぞれ異なり、実証も反証もできない。

 SumioBabaは、「聖書の解釈によって神を理解し、聖書に基づいて道徳を定めようとすること」を不適切だと考えます。その理由は、《ユダヤ教》《キリスト教》《イスラム教》という3つの異なる宗教の存在です。3つとも聖書を元にしておきながら、解釈の違いによって異なる宗教に分裂し、戦争を起こす原因にまでなってしまった、という事実です。

 SumioBabaは宗教学者ではないので、あまり詳しくはありませんが、3つの宗教のおおまかな差異は、こんな感じだと理解しています。間違いが有れば指摘して下さい。

    《ユダヤ教》
 「旧約聖書」の時代から存在していたのが《ユダヤ教》です。そして「旧約聖書」に出て来る神は、そもそもイスラエル民族だけの神であり、他の民族を滅ぼして財産を奪い取ることをイスラエル民族に命令し、成功すると賞賛し、イスラエル民族が神に忠誠を誓うと、他の民族を征服する行為に力を貸す神でした。これが《ユダヤ教》の神です。ところがイエスが現れ、「敵をも愛しなさい」など、《ユダヤ教》の教えと矛盾するようなことを言い出しました。《ユダヤ教》の信者は、イエスを神に逆らう者と見なし、十字架に張り付けて殺害しました。《ユダヤ教》では、聖書とは「旧約聖書」だけを意味し、イエスは犯罪者であって、「新約聖書」など聖書とは認めません。//

    《キリスト教》
 イエスの新しい教えである「神と人間は父と子の関係である」や「隣人を愛しなさい」や「敵をも愛しなさい」は「新約聖書」にまとめられました。「旧約聖書」と「新約聖書」の両方を聖書と見なすのが《キリスト教》です。しかし、両者の神観には多くの矛盾点が有り、合理的な解釈は非常に困難です。《ユダヤ教》は、イエスの教えを《ユダヤ教》の神観に反するとして認めません。《イスラム教》は、イエスの教えを、「アッラーの神に息子などできるはずがない。アッラーの神への冒涜だ。」として受け入れません。//

    《イスラム教》
 「旧約聖書」は聖書として受け入れますが、イエスの教えをまとめた「新約聖書」の方は聖書とは見なしません。イエス(イーサー)という人物の存在は認めますが、「救世主」ではなく「預言者」止まりであり、十字架で死んだのではなく、逃げて生き延びたと解釈するようです。その代わり、預言者ムハンマドが天使ガブリエルの教えを忠実に書き記したとされる「コーラン(クルアーン)」を最も重要と見なします。偶像崇拝を強く禁じる宗教であるため、他宗教の神を攻撃する傾向が有ります。//

 このように、聖書という同一の書物をどう解釈するかで、3つの異なる宗教に分裂してしまい、争い事の原因になってしまいました。非常にくだらない事だと思います。聖書の解釈なんて、『ノストラダムスの大預言』と同様、好き勝手にどうにでもこじ付けられてしまう「マルチプルアウト」です。どれが正しいかなど、実証も反証もできません。形而上学のくだらなさを強調する例として、「針の先で何人の天使が踊れるか?」という問いが有ります。ある人は「3人」、ある人は「10人」、またある人は「30人」と意見が分かれても、どれが正しいか、実証も反証もできません。それなのに、お互いに自分だけが正しいと言い張り、ケンカになり、とうとう戦争にまで発展してしまう有様です。あまりにも愚かではないでしょうか? 聖書が悪いのではありませんが、「聖書の解釈で真理を見抜ける」などとは考えない方が賢明だと思います。

1ヶ月前 No.223

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>223

SumioBabaさん、解釈や理解が異なる人がいるからと言って、そのものの価値が決まる訳ではありません。例えば、私があなたの時節を理解出来ない、解釈が異なるからといって、それによって争いに発展するとしても、あなたはあなたの時節を否定しますか。

人の解釈や理解ではなく、それが何を伝えようとしているのか、極論、そこが本質です。

以下、全て旧約聖書からのみ引用します。解釈ではなく、引用です。

>「旧約聖書」の時代から存在していたのが《ユダヤ教》です。そして「旧約聖書」に出て来る神は、そもそもイスラエル民族だけの神であり

イザヤ54:5
「あなたの偉大な造り主はあなたの夫たる所有者,その名は万軍のエホバである。イスラエルの聖なる方はあなたを買い戻す方。その方は※全地の神※と呼ばれるであろう。

列王第一8:41-43
「そしてまた,あなたの民イスラエルのものではないのに,あなたのみ名のゆえに遠い地から実際にやって来る※異国の人のためにも※,(それは,彼らがあなたの大いなるみ名と,強いみ手と,差し伸べたみ腕とについて聞くからですが,)そのような人が実際に来て,この家に向かって祈るなら,あなたが天から,すなわちあなたの住まわれる定まった場所からお聴きになり,すべてその※異国の人があなたに呼び求めるところにしたがって行なってください※。それは,※地のすべての民※があなたのみ名を知って,※あなたの民イスラエルと同じように※あなたを恐れるようになり,またあなたのみ名が私の建てたこの家に付されてとなえられていることを知るためです。

アモス9:11-12
「『その日,わたしは倒れているダビデの仮小屋を起こし,その破れを必ず修復する。またその荒れ跡を起こし,必ずそれを築き上げて昔の日のようにする。彼らがエドムの残されているところを取得するためである。そして,わたしの名がとなえられる※あらゆる国の民も※』。この事を行なっておられるエホバがお告げになる。

>イエスの※新しい教え※である「神と人間は父と子の関係である」や「隣人を愛しなさい」や「敵をも愛しなさい」は「新約聖書」にまとめられました。

箴言24:17
あなたの敵が倒れるとき,歓んではならない。彼がつまずくとき,あなたの心が喜ぶことのないように。

箴言25:21
あなたを憎む者が飢えているなら,食べるパンを与えよ。もし渇いているなら,飲む水を与えよ。

1ヶ月前 No.224

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

誤字です。時節→自説

1ヶ月前 No.225

うさぎ ★Tablet=YyF7oGwALk

善と悪というのは、それらが有ると無いではない。人間がどこかでそれらを知ったということ。
神がつくったのではなく人間が作ったともいえる、知識と知性のおかげですね。
犬も猫も馬も鳥も善悪は知らないのでは?

1ヶ月前 No.226

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>222

SumioBabaさん、

>今、我々は「哲学」の議論をしているのであって、「信仰」の話をしているのではありません。「哲学」とは徹底的に論理的思索で、どう考えるのが適切かを追究することです。なのに貴方は、「哲学」を放棄して「信仰」に走ってしまわれました。

私は信仰の話はしていませんでした。論理的思索だけでなく、感性による舵取りや、体験による観察、適用による検証も必要だと述べました。哲学が徹底的な論理的思索のみだとは、SumioBaba さん独自の定義です。

更に言えば、信仰は盲信ではありません。そこには論理性も大いに求められます。SumioBabaさんが盲信と一蹴される聖書でさえ、信仰には論理性が求められると定義しています。

ヘブライ11:1
信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な※論証※です。

聖書について持論を展開する前に、ご自身で真剣に研究するのが誠実かと思います。生半可な知識、他者からの二次的情報を参考に、持論を組み立てると偏見が生まれます。

>実際、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それぞれ違った「道徳」を主張しており、それが戦争の原因にまでなっています。

見抜けませんか。旧約聖書は只一つです。しかし長い人間の歴史の中で、政治的思惑より教義が改ざんされました。歴史の中で、宗教は政治と切り離せない関係でした。そこで改ざん・分派が生まれます。戦争が始まります。しかし旧約聖書が説いているのは愛や平和です。戦争を行う人々は旧約聖書に反しています。洞察力を働かせて下さい。

>非科学の上に造られているので、それこそが危険なのです。

聖書が科学的であると証明出来る用意があります。非科学的であると証明出来ますか。

>日食が起きた時に「神の怒りだ、生贄が必要だ」と言われても、受け入れられないのと同じです。SumioBabaは日食を、「神の怒りなどではない、太陽が月の陰に隠れただけだ」と、科学的に説明します。

聖書の話をしているのですか。何か別の話(例えば聖書に基づかない偽キリスト教会)の批判を聖書に当てはめていませんか。

私はキリスト教徒の話をしていません。キリスト教会が真理だとも考えていません。只々、聖書が真理だと考えています。

1ヶ月前 No.227

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>224,227  伝道者さんへ

>SumioBabaさん、解釈や理解が異なる人がいるからと言って、そのものの価値が決まる訳ではありません。例えば、私があなたの時節を理解出来ない、解釈が異なるからといって、それによって争いに発展するとしても、あなたはあなたの時節を否定しますか。


 SumioBabaが主張している事、例えば、「全知全能の「神」はあらゆる○○○について、a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbの値は不明)を実現している」…※は、トートロジーです。「○○○である」「○○○でない」「両方」「片方」すべての可能性を網羅し、正しいのはそれらのどれかだと主張しているだけですから、決して外れることは有り得ず、無矛盾な世界に住む人間にとって、論理的必然性で自ずと恒真です。(「神」は矛盾さえ作り出せると考えますが、有矛盾な世界では真と偽の区別も無いので、何を議論してもムダです。) 今、我々は無矛盾な世界で議論しているのですから、伝道者さんが理解できるかどうか、受け入れるかどうかに拘わらず、※は恒真です。

 一方、「イエスが救世主である」…*のような命題は、実証も反証もできない仮説です。実際、キリスト教信者は*を真だと信じるのかもしれませんが、ユダヤ教信者やイスラム教信者は*を偽だと判断する訳です。実証も反証もできない命題を、真だと「盲信」するのも論理の飛躍だし、偽だと断定するのも論理の飛躍です。実証も反証もできないのだから、*の真偽についても、a「真」+b「偽」(aとbの値は不明)と答えておけば、証明不要のまま恒真(トートロジー)なのに。

 有神論者と無神論者の論争もそうですね。「神」は「存在する」のか「存在しない」のか、実証も反証もできないのだから、a「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)が正解であり、こう答えておけば証明不要のまま恒真(トートロジー)です。なのに、有神論者も無神論者も、実証も反証もできないのに論理の飛躍をしてしまい、「自分が正しい」「相手が間違っている」と言い争うのですよね。

>人の解釈や理解ではなく、それが何を伝えようとしているのか、極論、そこが本質です。


 真理ではない間違った事を人々に伝えてしまうと、伝えられた人々は迷惑です。

>聖書が科学的であると証明出来る用意があります。非科学的であると証明出来ますか。


 例えば「イエスが救世主である」…*という命題は、決して実証も反証もできません。実証も反証もできないものを、「真」だと断定してしまうのが「非科学的」です。

>私はキリスト教徒の話をしていません。キリスト教会が真理だとも考えていません。只々、聖書が真理だと考えています。


 「只々、聖書が真理」なのであれば、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、すべて聖書を元にしているのだから、どれも真理になってしまいますよ。そうではないでしょう? 聖書自体は、真とも偽とも言えません。聖書の解釈が、真か偽かに分かれるのです。
 貴方は、「只々、聖書が真理」と考えておられるのではなく、「聖書の解釈において、自分の解釈だけが真理だ(ユダヤ教やイスラム教の聖書解釈は間違い)」と盲信しておられるのであり、それがまずいのです。SumioBabaから見ると、これら3つの宗教による聖書の解釈の違いは、針の先で何人の天使が踊れるかといった問題に似ています。「3人だ」「10人だ」「30人だ」と言い争っているようなもので、実証も反証もできないのだから、全く無駄な論争をしているとしか思えないのです。

1ヶ月前 No.228

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

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1ヶ月前 No.229

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>228

SumioBabaさん、最後にもう一度だけ、質問です。ご自宅で便意をもよおした時、トイレに行かれますか。いまこの瞬間、トイレが存在していると思いますか。

私なら行きます。さっきもトイレはそこにあった。取り壊した音も、その様な計画も聞いていない。よって、今もトイレはそこにあるだろう。そう結論するのは十分に論理的であり、実際的であるからです。

SumioBabaさんはトイレに行きません。自説に忠実であるなら、トイレに行けません。今もそこにトイレがあるか、実証も反証も出来ないと考えるからです。トイレはあり、またトイレはない、これはトートロジーで完全に論理的だ、とします。行動を起こしません。

しかし実際は、SumioBabaさんはトイレに行っている筈です。つまりご自身で、自説を無価値な机上の空論と実証しているのです。

論理至上的でなく、完全でなくても十分に論理的であること、経験に基づいて適切な推論をすること、その推論に基づいて行動を起こすこと、そうすれば体験が推論の正しさを証明すること、そこには実際的な価値があること、それが大切なことです。

実際、多世界があるとして、別の世界ではトイレが無いかもしれません。しかし、それは無視して良い。ご都合主義ではありません。別の世界のことはどうでも良い。この世界にトイレがあるかどうかが大事です。そして行動を起こすことです。論理が全てとしてトイレに行かないなら、現実的な害があります。

そろそろ私はここいらで失礼します。お話が出来て良かったです。この議論がお互いに益になります様に。

1ヶ月前 No.230

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>230  伝道者さんへ

>SumioBabaさん、最後にもう一度だけ、質問です。ご自宅で便意をもよおした時、トイレに行かれますか。いまこの瞬間、トイレが存在していると思いますか。


 この質問は、1人の人間であるSumioBabaへの「人間視点」に立った質問なのでしょう? 「人間視点に立った質問」=「ご自宅で便意をもよおした時、トイレに行かれますか。いまこの瞬間、トイレが存在していると思いますか。」。だったら、答えるときも「人間視点」に立って答えます。「人間視点に立った回答」=「はい、トイレに行きます。SumioBabaの心M1が住む世界W1では、何十年も前から、自宅のトイレは廊下の突き当りに存在することが確定しているので、その位置にトイレが存在していると確信しています。」

 もし「神視点」で質問するのであれば、質問の内容が変わります。「神視点に立った質問」=「貴方は神であり、存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…の中で、様々な人間という体験をしています。ご自宅で便意をもよおした時、トイレに行かれますか。いまこの瞬間、トイレが存在していると思いますか。」。これだったら、答はこうなるでしょう。「神視点に立った回答」=「どの世界W1、W2、W3、…に住む人間を体験している場合も、自宅にトイレくらい有るだろうし、どこにトイレがあるかは確定しているはずだから、そのトイレに行くでしょう。ただし、存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…の中には、トイレの無い世界も有るだろうから、トイレに行かない体験、トイレを探そうとしたけれど間に合わなかった体験など、自分は存在し得るすべての体験をするでしょう。」

>SumioBabaさんはトイレに行きません。自説に忠実であるなら、トイレに行けません。今もそこにトイレがあるか、実証も反証も出来ないと考えるからです。トイレはあり、またトイレはない、これはトートロジーで完全に論理的だ、とします。行動を起こしません。


 卑劣な「藁人形論法」です。SumioBabaは、「人間視点に立った質問」には「人間視点に立った回答」をし、「神視点に立った質問」には「神視点に立った回答」をします。
 伝道者さんは、「人間視点に立った質問」に「神視点に立った回答」をするというトンチンカンな事をやってしまい、SumioBabaの説明を曲解した上で、それをナンセンスだと貶めようとしています。そういうのが「藁人形論法」であり、議論する上で最低の行為ですよ。

1ヶ月前 No.231

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>231

SumioBabaさん、別に意図的に貶めようとしているのではありません。私はあなたの説に納得出来ないので、粗と思われる点を指摘しています。
(因みに過去、聖書に対しても同じ様に、私は徹底的に粗探しをしました。)

議論はここまでにしようと思いましたが、人間視点、神視点というキーワードで、ようやくSumioBabaさんの世界観が掴めかけた様な気が致します。

しかし、私の意見は基本的に同じです。

この世界のSumioBabaさんは、この世界しか経験出来ません。別の世界に別のSumioBabaさんがいるとしても、この世界のSumioBabaさんには、別の世界を経験出来ません。それは別のSumioBabaさんのものです。つまり別の世界は無関係です。この世界に焦点を置くべきです。

この世界のSumioBabaさんは、この世界しか経験出来ません。一世界に縛られています。つまり神視点を持つ神ではなく、人間視点を持つ人間です。人間視点を持つ人間にとって、神はいる、或いはいない、かのどちらです。両方であるというトートロジーは神視点のものです。つまりトートロジーの解法は、人間視点の人間には適用出来ない、適用しても無意味になります。

これこそが、正に人間視点と神視点を混ぜないということではないでしょうか。

1ヶ月前 No.232

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>231

SumioBabaさん、アポリアの別の解決法を思い付いたので、ご検討下さい。

「混沌」から全てが始まります。混沌は有でも無でも無い。これが始まり。

混沌は混沌故に、何が起きるか分からず、何が起きても良い故に、ふと有と無を生み出します。

無は無でも在り続けます。しかし有は有であるが故に、あらゆるものを生み出します。いわゆるビックバンです。

多世界が生まれます。人間原理で、観察出来る精巧なこの世界も生まれます。

いきなり複雑なものが生まれても良いので、進化論でもそうでなくても良い。

これでも説明が付きませんか。自分が神であったり、色々な経験をコレクションする神が必要でしょうか。

1ヶ月前 No.233

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

上の世界観でも、SumioBabaさんの世界観でも、論理的です。

検討を要する問題点が二つあり得ます。

先ず感性を考慮に入れていないこと。論理は知性ですが、知性単体ではバランスが崩れます。右の無い左が成立しない様に、感性の無い知性は成立するのか。

次に、と言うか上記に関連して、人生の目的や道徳の「絶対的」基盤はおざなりになります。人生の目的が無く且つ必要なら、自分で定義すれば良い。無いのに要るなら作れば良いだけです。しかし道徳の「絶対的」基盤は作れません。絶対故に、作るものではありません。

ところで私にとって、聖書も驚く程、論理的です。散々の粗探しにも耐えました。先述の通り、無限後退の問題も解決しました。更に具体的な預言の成就を始め、その他の信頼に値する加算点もあります。更には人生の目的、道徳の絶対的基盤も提供します。総合的に最も優れていると結論しています。

1ヶ月前 No.234

うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY

ここのタイトルはなぜ神が悪を創ったか、であるが神は悪を創りなどしていない。人間が悪を知ったのである。
その結果、人間は自由を失い始めたのですね、そして生を欲するよりも死を恐れ始めたのです。それを回復
したのがイエスキリスト(神の観念)の登場だったのですね、日本人には5億年くらいは理解は
無理でしょうね?((笑)

1ヶ月前 No.235

空の光 ★0lAwBkNNa5_m9i

うさぎさん

でも、いつの日かどこかで、何にもないところから誕生したんじゃない?
悪だって作られた存在のはず。自らを生み出したんじゃない限り。

1ヶ月前 No.236

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>232  伝道者さんへ

>この世界のSumioBabaさんは、この世界しか経験出来ません。別の世界に別のSumioBabaさんがいるとしても、この世界のSumioBabaさんには、別の世界を経験出来ません。それは別のSumioBabaさんのものです。つまり別の世界は無関係です。この世界に焦点を置くべきです。


 はい、それが「人間視点」です。「人間視点」の質問には「人間視点」で答えれば良いのではありませんか。

>この世界のSumioBabaさんは、この世界しか経験出来ません。一世界に縛られています。つまり神視点を持つ神ではなく、人間視点を持つ人間です。人間視点を持つ人間にとって、神はいる、或いはいない、かのどちらです。両方であるというトートロジーは神視点のものです。つまりトートロジーの解法は、人間視点の人間には適用出来ない、適用しても無意味になります。


 「人間視点を持つ人間にとって、神はいる、或いはいない、かのどちらです。」が論理の飛躍をしてしまっています。神は、「いる」とも「いない」とも「両方」とも「片方」とも、実証も反証もできないのが「人間視点」です。観測してもいないのに、どちらかに決まっていると考えてしまうと、「どちらに決まっているのか?」「なぜ他方でなく、こちらに決まっているのか?」というアポリアが生じてしまいます。
 それゆえ「人間視点」では、神はa「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)こそが、何一つ論理の飛躍をしない答であり、こう答えておけば、すべての可能性を網羅していて、正しいのはその中のどれかだと主張するだけですから、証明不要のまま恒真(トートロジー)です。
 貴方のように、「人間視点を持つ人間にとって、神はいる、或いはいない、かのどちらです。」とするのは論理の飛躍であり、半分は正しいかもしれないけれど、半分は間違っている危険性が生じます。実際、神は「存在する」とも「存在しない」とも証明できないでしょう? 実証も反証もできないのに、勝手な思い込みで真理を片方に限定してしまうのは、非科学的です。そういう論理の飛躍をしてしまうと、有神論者と無神論者の間で愚かなののしり合いに発展してしまいます。

>>233  伝道者さんへ

>SumioBabaさん、アポリアの別の解決法を思い付いたので、ご検討下さい。

>「混沌」から全てが始まります。混沌は有でも無でも無い。これが始まり。

>混沌は混沌故に、何が起きるか分からず、何が起きても良い故に、ふと有と無を生み出します。

>無は無でも在り続けます。しかし有は有であるが故に、あらゆるものを生み出します。いわゆるビックバンです。

>多世界が生まれます。人間原理で、観察出来る精巧なこの世界も生まれます。

>いきなり複雑なものが生まれても良いので、進化論でもそうでなくても良い。

>これでも説明が付きませんか。自分が神であったり、色々な経験をコレクションする神が必要でしょうか。


 あらゆる○○○について、a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbの値は不明)が実現したと考えるのなら、上の説明はSumioBabaの説明と同じものになります。
 もし、ある○○○について「○○○である」と「○○○でない」の片方だけが実現したと考えるのであれば、「なぜ片方だけが選ばれて起こり、他方は起こらなかったのか?」というアポリアが残ってしまいます。
 アポリアを完全に消滅させる方法は、あらゆる○○○についてa「○○○である」+b「○○○でない」(aとbの値は不明)が実現したと考えるのが、唯一の方法です。

>>234  伝道者さんへ

>上の世界観でも、SumioBabaさんの世界観でも、論理的です。

>検討を要する問題点が二つあり得ます。

>先ず感性を考慮に入れていないこと。論理は知性ですが、知性単体ではバランスが崩れます。右の無い左が成立しない様に、感性の無い知性は成立するのか。


 貴方の仰る「感性」とは、「論理の飛躍」を意味しているように思われます。貴方は「論理的」に物事を考えるべきところで「論理の飛躍」をしてしまっており、それを正当化するために「感性」と呼んでいるだけに見えます。キリスト教は、「論理的」に考えるべきところで、貴方の仰る「感性」すなわち「論理の飛躍」が入ってしまい、人それぞれ異なる「感性」により、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という、異なる宗教に分裂してしまったのです。あくまで「論理的」に考えておけば、分裂などしなかったはずなのに。

>次に、と言うか上記に関連して、人生の目的や道徳の「絶対的」基盤はおざなりになります。人生の目的が無く且つ必要なら、自分で定義すれば良い。無いのに要るなら作れば良いだけです。しかし道徳の「絶対的」基盤は作れません。絶対故に、作るものではありません。


 「人生の目的や道徳の「絶対的」基盤」など、そもそも存在しないのです。自分の好きなように作れば良いのです。それなのに、自分の作った「人生の目的や道徳の「絶対的」基盤」だけが唯一絶対に正しいと思い込むのが、宗教の好ましくない点です。

>ところで私にとって、聖書も驚く程、論理的です。散々の粗探しにも耐えました。先述の通り、無限後退の問題も解決しました。更に具体的な預言の成就を始め、その他の信頼に値する加算点もあります。更には人生の目的、道徳の絶対的基盤も提供します。総合的に最も優れていると結論しています。


 キリスト教についての不満をまとめてみましたので、この後に投稿します。

27日前 No.237

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    イエスの教えの問題点

 イエスの教えに、「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」が有ります。旧約聖書では、「神」と「人間」の関係はいわば「主人」と「僕」の関係でした。イエスの新しい教えをまとめた新約聖書では、「神」と「人間」の関係が「父」と「子」との関係に変わりました。神観の大きな変化です。だいぶ親しみやすい神観へと変わり、一歩真理に近付いたと思われます。これらの教え自体には、特に異論は有りません。しかし…。

 今となっては、イエスが実在の人物だったのかどうかも判りません。新約聖書に書いてある内容が実話なのかどうかも判りません。イエスなど実在していなかった可能性も有るし、実在していて本当は全く違った教えを述べていたのに、後世の人々がイエスを神格化して、こういう人物に仕立て上げたのかもしれません。どれが真実かは不明ですが、イエスは普通の人間だとしておいた方が良かったように思います。イエスの教えで決定的にまずかったのは、イエスを普通の人間ではなく、特別な「神の子」として扱ってしまった点です。これは、キリスト教の長所というより、致命的な短所になっています。

 仮に、イエス自身が自分を特別な「神の子」だと認識していたとしても、そして、自分以外の人間はすべて原罪を負っていて自分だけが例外だと思っていたとしても、そう言わない方が賢明だったと思います。つまり、こう言えば良かったのです。→「私は貴方たちと同じ普通の人間であり、貴方たちと同様、罪深い人間です。私だけが神に特別に愛されている訳でもありません。私だけが神から直接何かを教わったのでもありません。ただ私は、普通の人間の立場で、神についていろいろ考えてみました。そして神は人間に、こう言いたいのではないかと確信するに至ったのです。「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」。」

 こう言っておけば、「イエスは本当に特別な「神の子」だったのか?、それともただの人間だったのに嘘をついたのか?」というつまらない問題で躓く必要は無かったのです。あくまで1人の人間であるイエスの教えが、適切だと思えば受け入れて良いし、不適切だと思うなら受け入れなければ良いだけです。ところが新約聖書では、イエスは「神の子」すなわち神の化身のような特別な人間であり、他の人間たちとは本質的に異なるのだ、という話になっています。余計な事を主張したばかりに、その点で多くの人々が躓きました。

 イエスが十字架で処刑されたのも、この「神の子」だという主張が最大の原因だったと思います。周囲の人間すべてに対しては「貴方たちはみな原罪を負った罪人です」と言い、「私だけは例外で、原罪も無く、神に特別愛されている「神の子」です」と言ってしまったら、顰蹙を買うのは当然です。たとえそれが真理だったとしても、言わない方が良かったのではないでしょうか。自分の頭で考えようとせず、ただただ権威にすがりつく人々は、普通の人間であるイエスよりも、神格化されたイエスを信じたくなるのかもしれません。しかし、自分の頭で論理的にしっかり考えようとする人々にとって、イエスの神格化はキリスト教の主張をいたずらに非科学的なものにするだけであり、キリスト教会最大の失敗だったように思います。

 イスラム教の信者は、イエス(イーサー)を預言者だとは認めるようですが、「神の子」などとは認めず、あくまで1人の人間だと見なします。そうすると、嘘をついてまでイエスを神格化しようとするキリスト教は、邪教に見えてしまうでしょう。天使ガブリエルの教えを忠実に書き記した「コーラン」の作成者とされるムハンマドは、イスラム教で最も尊敬される預言者ですが、「神の子」などではなく、あくまでただの人間だとされています。イエスも、「神の子」などとはせずに、「尊敬すべき人間ではあったけれど、あくまでただの人間であった」としておけば良かったのです。

 まだ科学が進歩していなかった時代には、何が真理かを主張するためには、「神のお告げが有ったのだ」と、神の権威を利用する必要が有ったのかもしれません。疑って受け入れない人に対しては、「信じる人は天国に入れるが、信じない人は地獄に落ちる」といった、アメとムチを使うしか方法が無かったのかもしれません。しかし、科学が急速に進歩した現代では、何が真理であるかは実験・観察を行い、話し合いによって民主主義的に判断を下すのが常識となっています。「針の先で何人の天使が踊れるか?」のような実証も反証もできない形而上学については、真偽を議論する事自体無意味というのが常識になっています。それなのにキリスト教は、実証も反証もできない形而上学的問題について、神の権威を借りた独断的な真理を主張してしまっています。キリスト教の主張する真理は、もはや時代遅れの真理に思えてなりません。

27日前 No.238

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    キリスト教道徳の問題点

 イエスの教えである「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」には、特に異論は有りません。しかし、不満は有ります。それは、「そもそも神とは何なのか?」「なぜ、神や隣人や敵を愛すべきなのか?」の説明が無い点です。理由を説明しないまま、一方的に「神がそう命令しているのだから、人間は不満を言わずに黙って従えば良いのだ」と言われているように感じてしまい、その点に反発したくなるのです。そして結局のところ、「神の意にかなえば天国に入れる」とか、「神に背くと地獄に落ちる」とか、アメとムチとで神の命令に従わせようとしているように思います。たとえ神の命令に従った人でも、その理由が「天国に入りたかったから」「地獄に落ちたくなかったから」であれば、それはその人の私欲を満たしただけであって、あまり立派な行為とも思えません。

 「そもそも神とは何なのか?」「なぜ、神や隣人や敵を愛すべきなのか?」について、納得のいく説明が欲しいのです。理由も説明せず、命令として押し付けても、人々は従わないでしょう。実際、神を信じない無神論者もいるし、隣人を愛せない利己的な人間も多いし、敵をも愛せる人など殆どいないでしょう。逆にもし、本当に納得のいく理由が解れば、「愛するな」と言われても、「いや、自分は、神も隣人も敵をも愛さずにはいられないのだ!!」と言うはずです。人々にそう思わせるような教えは、存在しないのでしょうか?

 旧約聖書の教えでは、「神」と「人間」の関係はいわば「主人」と「僕」の関係でした。イエスの新しい教えでは、「神」と「人間」の関係が「父」と「子」との関係に変わりました。だいぶ親しみやすい神観へと変わり、一歩真理に近付いたと思われます。しかし、まだ途中です。さらにもう一歩進むと、インド哲学が主張するように、「人間の心は神の分身」に到達します。これが究極の真理だと思います。
   @「神」と「人間」の関係は「主人」と「僕」の関係(旧約聖書)
   A「神」と「人間」の関係は「父」と「子」の関係(新約聖書)
   B「人間の心」は「神」の分身(インド哲学)

 @の旧約聖書では、「自分」と「隣人」はあくまで他人です。Aの新約聖書になると、「神」が「父」なのですから、「自分」と「隣人」は兄弟姉妹ということになり、だいぶ身近な存在となりましたが、やはりまだ別人です。それがBになるとどうでしょう? 「自分」も「隣人」も「敵」も「神」の分身であり、実は「自分」「隣人」「敵」「神」の四者すべてが同一の《自分》であることになります。だったら、「自分」が「神」や「隣人」や「敵」を愛すべき理由は明確です。「「自分」も「神」も「隣人」も「敵」も、《自分》だから」です。「自分」が「敵」を殴るという行為は、実は《自分》で《自分》を殴っていることとなり、大変愚かなのが解ります。このように、Bまで到達すれば、「そもそも神とは何なのか?」にも答えているし、「なぜ、神や隣人や敵を愛すべきなのか?」にも納得のできる説明が与えられることになります。

 では、キリスト教はこの後、AからBにまで進化するでしょうか? それは極めて困難だと思われます。なぜならそれは、キリスト教の完全崩壊を意味するからです。この世界には「善」だけでなく「悪」も存在します。キリスト教では、「神」を100%「善」に結び付けようとしたため、「悪」の方は、堕落した天使サタンであるとか、サタンにそそのかされて堕落した人間(アダムとエバ)が作り出したのだ、という説明になってしまいました。「善」である「神」と、「悪」である「サタン」や「人間」とは、同一のものであってはならないのがキリスト教の大前提です。もし、サタンや人間が神の分身だと認めると、神は「ジキルとハイド」のような二重人格であり、しかも自分でそれに気付いてさえいない愚か者だったことになってしまいます。それゆえBは、キリスト教の延長ではなく、キリスト教とは全く別の神観だと見なした方が良いでしょう。

 善悪の問題を考えるとき、「人間視点」と「神視点」とを混同してはならないのです。それなのにキリスト教では、全知全能の「神」の価値観を、人間の価値観と混同してしまっています。例えば人間は、自分の人生を一度きりのものだと思い込んでいるため、「幸福」(正)にはなりたいけれども「不幸」(反)にはなりたくないと感じます。
    《「人間視点」での価値観》
    「幸福」(正)>「不幸」(反)
そしてキリスト教では、全知全能の「神」もこれと同じ価値観を持っていると思い込んでいます。恐らくそこが間違っているのです。

 全知全能の「神視点」に立つと、「神」は無数の人生を作り出してコレクションにし、自ら体験して楽しんでいるだけです。そうなると、「幸福」(正)だけを体験するよりも、「幸福」(正)と「不幸」(反)の両方を体験する方が、もっと「幸福」(合) =「幸福」(正)+「不幸」(反)になるのです。 >>48
    《「神視点」での価値観》
    「幸福」(合) =「幸福」(正)+「不幸」(反)>「幸福」(正)>「不幸」(反)
それゆえ全知全能の「神」は、量子力学でいう「多世界解釈」、あるいは、D・ルイスのいう「様相実在論」のように、存在し得る世界すべてを作り出し、存在し得るすべての人間の心をコレクションにし、自ら体験していると考えるのが合理的です。だから世の中には「善」も「悪」も有るし、「神」は苦しんでいる人間を敢えて助けようともしない訳です。もっとも、存在し得るすべての心を「体験しない」ではなく「体験する」の方に限定してしまうと、「神」は全知全能でなくなってしまうので、正しくは、存在し得るすべての心それぞれについて、「体験する」「体験しない」「両方」「片方」のすべてを確率的に実現しており、a「体験する」+b「体験しない」(aとbの値は不明)と表現されます。

 @やAのキリスト教的視点に立てば、1人の人間としての「自分」と「神」とは、あくまで他者です。「自分」は「自分」と「神」のどちらを優先すべきか? どうしても「自分」を優先したくなります。「神」の命令として、「「自分」より「神」を優先せよ」と言われても、簡単には従えないでしょう。

 Bのインド哲学的視点に立てば、1人の人間としての自分の心M1は、「神」{M}という集合に含まれる無数の要素M0、M1、M2、M3、…の中の1つ、ということになります。「自分」は「自分」と「神」のどちらを優先すべきか? もちろん「神」になります。「神」は集合{M}なのに対し、自分の心は1つの要素M1に過ぎません。M1と{M}の両方が存在する状態から、どちらか一方を消滅させねばならないとしたら、犠牲にすべきなのはM1の方です。というか、M1は{M}の中にすでに存在しているのであり、存在するのは{M}だけなのか、それとも、{M}以外にもう1つのM1が存在するのかは、区別する事自体無意味です。{M}さえ確率的に存在すれば良いのであり、それ以外にもう1つのM1など不要なのです。

27日前 No.239

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>237

SumioBabaさん、ご回答下さり、ありがとうございました。

ずっと平行線のままですので、ここらで止めましょう。今は私の言い分もSumioBabaさんの言い分も変わらないでしょう。

>>238

>仮に、イエス自身が自分を特別な「神の子」だと認識していたとしても、そして、自分以外の人間はすべて原罪を負っていて自分だけが例外だと思っていたとしても、そう言わない方が賢明だったと思います。つまり、こう言えば良かったのです。→「私は貴方たちと同じ普通の人間であり、貴方たちと同様、罪深い人間です。

アダムは罪の無い完全な人間でした。そのアダムが罪を犯し、死が入り込みました。そして不完全さは人類子孫全体に広がりました。

その罪を贖い、永遠の命を再びもたらすには、もう一人の別の「罪の無い完全な」人物が死に至るまで義に貫き通すことで、神のみ前に贖いが完了します。目には目、歯には歯にも見られる等価の法則です。

つまりイエスが罪を負って生まれた不完全な人間であれば、アダムの原罪を打ち消すこと自体が不可能です。

>イエスが十字架で処刑されたのも、この「神の子」だという主張が最大の原因だったと思います。

救世主が処刑されることは、旧約聖書で既に預言されていたことでした。最も早くは原罪の直後、エホバは既に預言していました。アダムの罪を贖う道を計画されました。

>疑って受け入れない人に対しては、「信じる人は天国に入れるが、信じない人は地獄に落ちる」といった、アメとムチを使うしか方法が無かったのかもしれません。

地獄は後代に背教したキリスト教徒の教えです。聖書から示せますが、原始キリスト教では不義者はただ滅びるのみです。神は愛の神ですので、地獄は造っていません。

>>239

>イエスの教えである「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」には、特に異論は有りません。しかし、不満は有ります。それは、「そもそも神とは何なのか?」「なぜ、神や隣人や敵を愛すべきなのか?」の説明が無い点です。

説明はあります。神は愛だからです。

>Bまで到達すれば、「そもそも神とは何なのか?」にも答えているし、「なぜ、神や隣人や敵を愛すべきなのか?」にも納得のできる説明が与えられることになります。

アガペー、無視の愛、利他的な愛が答えです。自分が神の一部だから神を愛する、では利他的な愛ではありません。

SumioBabaさん、幸福も不幸も感情です。論理で扱える問題でないことがあります。哲学は万学の父でしょう?確かに数学は「論理」です。しかし学問には「観察」に基づく物理もあれば、「感情」に基づく文学もあるでしょう。論理だけで哲学を扱うことは力不足だと思いますし、特に人生の意義、幸福とはといった分野に関しては尚更かと思います。

25日前 No.240

地下水 ★lHRYPNADL9_tVR

>>240  こころのともしび、の阿南せんせいの、「あなた方に新たなおきてを定める。私があなた方を愛した様に、貴方がたも互いに愛し合いなさい。」の説明が良くて、ふに落ちました。主よ、どうぞ人を愛するという掟を忘れがちな私をお許しください。

25日前 No.241

うさぎ ★Tablet=YyF7oGwALk

神とは一体何なのか。神の存在証明とかいう本がある。キリスト教会にいくと、神や主という言葉を
必ず何回も耳にする。日本人なら八百万の神が登場する。一体全体に「神とは何」?

答えは簡単すぎてあきれ果ててしまう。答えは「愛」の一文字。これが神なのですね。
神とは愛のことである、これが答えです。人々は科学や論理や感情で答えを求めますが、

永久に答えは出ずに、そのすべては間違いです。神=愛 愛=神 これが答えです。

25日前 No.242

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>242

ヨハネ第一4:7-8
愛する者たちよ,これからも互いに愛し合ってゆきましょう。愛は神からのものだからです。そして,すべて愛する者は神から生まれており,神について知るのです。愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。

うさぎさん、私の投稿は以下の聖句に基づいていますが、どうか誤解しないで下さい。神=愛、愛=神ではありません。

愛にも自己愛、男女の愛、兄弟愛、利他的な無私の愛など色々ありますし、神の愛は「愛の愛」ではありません。

25日前 No.243

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>240  伝道者さんへ

>ずっと平行線のままですので、ここらで止めましょう。今は私の言い分もSumioBabaさんの言い分も変わらないでしょう。


 そうですね。でも我々は、対等な立場で形而上学の議論をしている訳ではないですよ。SumioBabaは、「実証も反証もできない事に関しては、真とも偽とも断定すべきではない」と主張するのに対し、貴方は「いやだ、自分こそが正しいと断定する」と言っているのですよ。SumioBabaは、何一つ論理の飛躍をしていません。貴方は、論理の飛躍をしておられます。この違い、理解されていますか?

>アダムは罪の無い完全な人間でした。そのアダムが罪を犯し、死が入り込みました。そして不完全さは人類子孫全体に広がりました。

>その罪を贖い、永遠の命を再びもたらすには、もう一人の別の「罪の無い完全な」人物が死に至るまで義に貫き通すことで、神のみ前に贖いが完了します。目には目、歯には歯にも見られる等価の法則です。

>つまりイエスが罪を負って生まれた不完全な人間であれば、アダムの原罪を打ち消すこと自体が不可能です。


 こういうのが、実証も反証もできない内容です。「イエスが救世主である」という命題は、キリスト教信者は信じるのかもしれないけれど、ユダヤ教信者やイスラム教信者は信じません。実証も反証もできないのに、「真だ」「偽だ」とどちらも論理の飛躍をしています。そしてそれが言い争いから戦争にまで発展しました。まるで「針の先で何人の天使が踊れるか?」のように実証も反証もできない形而上学なのに、「10人だ」「20人だ」「30人だ」と言い争い、それが原因で戦争になっているくらい、愚かしく見えます。SumioBabaは「イエスが救世主である」という命題を、実証も反証もできないがゆえに、真とも偽とも断定しません。そして、「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」というイエスの教えには、特に異論は有りません。これが一番賢い態度だと思います。

>救世主が処刑されることは、旧約聖書で既に預言されていたことでした。最も早くは原罪の直後、エホバは既に預言していました。アダムの罪を贖う道を計画されました。


 しかし、「イエスが救世主である」という命題は、キリスト教信者は信じたのに対し、ユダヤ教信者やイスラム教信者は信じなかった、という現状が有ります。実証も反証もできないのだから、真偽を断定しなければ良いのに、論理の飛躍をして「真だ」「偽だ」と断定してしまい、それが原因で戦争にまで発展してしまった、という現状が有ります。

>説明はあります。神は愛だからです。


 「愛」とは心の中にだけ存在する観念です。「神」が「愛」だとすると、キリスト教の言う「神」は人間の心が作り上げた観念に過ぎないということになります。そんな定義で良いのでしょうか? また、「神」が「愛」に限定されているのであれば、「神」は「非愛」(愛以外のもの)にはなれず、全知全能でなくなってしまいます。「神」が全知全能であれば、「愛」にも「非愛」にもなれるはずです。

>アガペー、無視の愛、利他的な愛が答えです。自分が神の一部だから神を愛する、では利他的な愛ではありません。


 そもそも「他」などというものは存在せず、すべての人間が「自分」すなわち「神」であることを理解することが必要ではないのでしょうか? 「他」など存在しないのだから、「利他的愛」などという概念が、そもそもナンセンスなのです。「他」などというものが存在すると勘違いするから、「なぜ他を愛さねばならないのか?」という謎が生じ、答が見付からないから、アメとムチで「利他的愛」を強要するしか方法が無くなってしまうのが、キリスト教の限界ではないのでしょうか?

>SumioBabaさん、幸福も不幸も感情です。論理で扱える問題でないことがあります。哲学は万学の父でしょう?確かに数学は「論理」です。しかし学問には「観察」に基づく物理もあれば、「感情」に基づく文学もあるでしょう。論理だけで哲学を扱うことは力不足だと思いますし、特に人生の意義、幸福とはといった分野に関しては尚更かと思います。


 今SumioBabaが説明しているのは、「論理だけで哲学を扱えるか」という問題ではありません。「イエスが救世主である」のような実証も反証もできない命題については、論理の飛躍をせず、真偽を断定すべきではない、という話です。「イエスが救世主である」という命題を、キリスト教は真だと論理の飛躍をし、ユダヤ教やイスラム教は偽だと論理の飛躍をするから、愚かな争いが起きてしまうのだ、という話です。

23日前 No.244

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>244

SumioBabaさん、やはり私達は平行線です。私にはSumioBabaさんがご自身の考えに囚われて思考停止している様に思えます。そしてSumioBabaさんは私に対して全く同じ事を思われていらっしゃる。

ここいらで止めにしましょう。いつかお互いが分かり合える日が来るかもしれない。でも今は無理でしょう。少なくとも意見交換が出来、紳士的な議論が出来て良かったです。ありがとうございました。

22日前 No.245
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