おー ★Tablet=XtxJxNKARL
時さん
それは、私は理解していない、ということを理解しているという結果によってもたらされていると解釈してみたんだ。
なので、理解するという思いを傲慢だとすると、あらゆる判断は傲慢だとみなさなければならなくなるだろう、と。
時 ★sFzmoCMBP0_qxX
おーさんへ
> あるタイミングではそれは正しいけど
> そのタイミングが他人と合致してないんじゃない。
「あるタイミングではそれは正しい」場合はいいですね。
「そのタイミングが他人と合致してない」場合が、問題になりますね。
このスレでは、量子力学を用いた考え方で神と言う概念を説明されています。この事について理解できない人が理解したいと思うのであれば、スレ主さんがおられるので、スレ主さんに質問すればよいですね。それについて答えるも答えないもスレ主さんの判断に委ねられます。
それと同じ事で、世界平和のスレでは、当時マーボさんがそれについて提案されました。この事について理解できない人が理解したいと思うのであれば、マー坊さんがおられるので、マー坊さんに質問すればよいですね。それについて答えるも答えないもマー坊さんの判断に委ねられます。
それぞれの方が、よりそのそれぞれの持論の理解を他の方に深めてほしいと思われるのであれば、説明されるのではないでしょうか。
>そろそろスレチが過ぎるかもしれない。
>撤退します
そう仰らずに「SB量子神学」について、ここで「理解」を深めてみませんか?ここのスレ主さんは、丁寧に質問すれば丁寧に答えて頂けますよ。
これもまた、おーさんの判断に委ねられますので、勿論、議論(お話し合い)するもしないも、おーさんの判断次第ですね。
時 ★sFzmoCMBP0_qxX
おーさんへ
量子神学概論(多世界解釈で記述する全知全能の神)と言うこのスレッドで、
>そろそろスレチが過ぎるかもしれない。
という判断を、おーさんがされて
>撤退します
と言う判断も、おーさん自身がされた。と言う事で、時と議論(お話合い)を「しなければならない」なんて言う義務はありません。
会話等の全てが、それぞれの人の判断に委ねられるからですね。こんな感じで宜しいでしょうか。
ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr
>>1194 >>1195
お初にお目にかかります<(_ _)>
たまーに書き込みに来るひろと申します。
この掲示板にはいつも暇な時、お世話になっとります。
で、議論のあり方についてですが、僕は
自己主張と自己主張とのぶつかり合いがあるからこそ、お互いの主張を理解し合うことができるようになる場合もあるのでは、と思います。
子供は喧嘩を繰り返すことによって、人との関わり方を覚えていくように、議論もそのようなぶつかり合いから学んでいくものだという考えにも一理あると思うからです。
非常識な人も、非常識なことから常識を学ぶことがあるのではないでしょうか。
それから、議論に求められるニーズは人によって多様性があるのですから、中には非常識だと思うような人とも対話をしていかなければ仕方がないという部分もあるのではないでしょうか。
例えば、僕は主にアウトプットの練習のために「時間のスレ」や「独我論スレ」で、今後の読書につながる形で議論をしています。(あくまでも身勝手な利用をさせてもらってます)
また、議論を将棋ゲームの娯楽のように使う人も中にはいるでしょう。
しかし、そういった人たちを自分の常識の範疇内で説得しようとしても、無理がある場合があるのではないかと思います。
まぁここ掲示板ですしね。掲示板ってそういうもんですよ。
だから例えば、ルールを設けてみたりしてみるのも一つの手だったりしますね。
とはいえ、それは管理人さんの仕事の部分もあったり、ルールを設けているのに守らない人がいたりするのはあるとは思いますが、それは皆さんで話し合って解決していくしかないと思いますね。
まぁもっとも、時さんとsumiobabaさんがただ「自分のこと賢いと思ってる人たちって面倒くさいよねー」というだけの話をしているのなら、そこまでする必要はないと思いますけど。。。
時 ★sFzmoCMBP0_qxX
>>1205 ひろさんへ
> お初にお目にかかります<(_ _)>
こんにちは。思慮スレ以来ですね。宜しくお願いします。
>そういった人たちを自分の常識の範疇内で説得しようとしても、無理がある場合があるのではないかと思います。
その通りですね。少し違うのは、私(時)の場合は「常識の範疇」と言うよりは「許容範囲」です。
まずは、解らないと表現される方に対しては、解るであろうと思う事を、書こうと思う時に書きます。しかし、それでも解らないと表現される方に対しては、もうお手上げです。それと、解らないと表現される方が、解ると表現している方に対しての言葉の使い方、表現の仕方も大切だと思っています。
例えばですが・・
「解るというのなら、ここで書いてみなよw」と言う表現と「解らないのですが、教えて頂けますか?」と言う表現では、質問に応える方の気持ちを考えた場合に、どちらが適切かと言う事です。
この場合、解らない方は、解るという方に対して質問をして本当に知りたいと思っているのだろうか?と言う事です。私の場合の「許容範囲」で言うのならば、前者はそれを逸脱していますので基本的には応えませんが、後者は逸脱していませんので、出来るだけ答えようとは思っています。
ですが、先ほども書きましたが、両者(質問者・応答者)ともに、掲示板等の質問事項に対して全て応えなければならないという縛り(義務)はありませんし、言葉使いも丁寧でないといけないなんて言う縛り(義務)もありません。
> まぁここ掲示板ですしね。掲示板ってそういうもんですよ。
はい。ですので、今のままで良いのではないでしょうか。
ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr
時さん
>その通りですね。少し違うのは、私(時)の場合は「常識の範疇」と言うよりは「許容範囲」です。
まずは、解らないと表現される方に対しては、解るであろうと思う事を、書こうと思う時に書きます。しかし、それでも解らないと表現される方に対しては、もうお手上げです。それと、解らないと表現される方が、解ると表現している方に対しての言葉の使い方、表現の仕方も大切だと思っています。
そういう姿勢はとても大事ですよね。
でもどんなにいってもわからない人は中にいる・・・
人間違う固体なので、それは仕方のないことだとは思います。
>「解るというのなら、ここで書いてみなよw」と言う表現と「解らないのですが、教えて頂けますか?」と言う表現では、質問に応える方の気持ちを考えた場合に、どちらが適切かと言う事です。
この場合、解らない方は、解るという方に対して質問をして本当に知りたいと思っているのだろうか?と言う事です。私の場合の「許容範囲」で言うのならば、前者はそれを逸脱していますので基本的には応えませんが、後者は逸脱していませんので、出来るだけ答えようとは思っています。
反抗期のお子さんに対して悩む母親は、お子さんに対しての接し方が近すぎるというのがあって、親子喧嘩が絶えないという問題を引き起こしてしまいます。
この原因は、仕方のない部分もなきにしもあらずなんですよ。
というのも、反抗期の時期にあるお子さんは、母親に問いかけられた言葉に対してどういう言語選択を行っていけばいいのか、わからないという原因があって、だからよく母親が言ったことに対して子供がいう「別に」とか「なんとも」とかいうのはその現れなんですよね。
この例えが適切かどうかは別として、結論するに、一番の改善策は「放って置くこと」なんだと思います。
なおかつ、私と時さんが赤の他人同士であるように、他の人たちとも自分と他者との壁がどうしても立ちはだり、その上顔の見えないものに対して接する情報量も限られている中で、「大人の対応」と「わかり合う」ことを両立させることはなかなか難しいことだと思います。
だから、放って置くことが本人のためにもなり、自分と他人との距離の丁度よい中庸を守ってくれるんだと思います。
>ですが、先ほども書きましたが、両者(質問者・応答者)ともに、掲示板等の質問事項に対して全て応えなければならないという縛り(義務)はありませんし、言葉使いも丁寧でないといけないなんて言う縛り(義務)もありません。
> まぁここ掲示板ですしね。掲示板ってそういうもんですよ。
はい。ですので、今のままで良いのではないでしょうか。
そうですね。お互いが傷つかず、賢くなれるという掲示板になれたらいいですね。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
ひろさん、はじめまして。
いきなり突っ込みいれてすみませんが、、
>>1205
>子供は喧嘩を繰り返すことによって、人との関わり方を覚えていくように、議論もそのようなぶつかり合いから学んでいくものだという考えにも一>理あると思うからです。
>非常識な人も、非常識なことから常識を学ぶことがあるのではないでしょうか。
学ぶことができないから、議論でぶつかりあうのではないでしょうか。
また、非常識なことから常識を学ぶことができないから、非常識なのではないでしょうか?
非常識なことから常識を学ぶことができたのに、常識を知らない人というのはいないはずです。ボケた人くらいしか。
>だから例えば、ルールを設けてみたりしてみるのも一つの手だったりしますね。
時様は、倫理的な話をしているのであって、義務的な話をしているのではないというのは、
繰り返しおっしゃってるので、よく読んでみてください。
このような批判をしていますが、ひろさんの書き込みにはおおむね同意なんですけどね。
時 ★uab6cPxWy1_qxX
>>1207 ひろさんへ
> 人間違う固体なので、それは仕方のないことだとは思います。
はい。その通りですね。仕方ないんですよ。
> この例えが適切かどうかは別として、結論するに、一番の改善策は「放って置くこと」なんだと思います。
はい。これも仰る通りだと思います。最終的には「放って置くこと」しかないでしょう。
> なおかつ、私と時さんが赤の他人同士であるように、他の人たちとも自分と他者との壁がどうしても立ちはだり、その上顔の見えないものに対して接する情報量も限られている中で、「大人の対応」と「わかり合う」ことを両立させることはなかなか難しいことだと思います。
私はその自分と他者との「壁」を越えようとは思っていません。例えば、どなたかが超えようと思うのは自由ですが、超えられないと思っておいた方が正解だと思うからです。
先に反抗期の子供の例を出していただきましたが、赤の他人に対しての対応と、自身の子供からの対応は別物ですね。もしも私に子供がいて「知っているなら、言ってみなよw」なんて表現されたら、叱り飛ばします。その話の内容云々(うんぬん)よりも、その態度や言葉使いを正しますね。(笑)
しかしここはネット上の掲示板です。おまけに赤の他人同士の会話の場ですね。ですので、ご本人が気づくまで「放って置くこと」がベストだと私も思います。
> だから、放って置くことが本人のためにもなり、自分と他人との距離の丁度よい中庸を守ってくれるんだと思います。
はい。ですので、少し前のレスで「自己啓発、ホスピタリティ」なんてワードを出していたのですよ。
> そうですね。お互いが傷つかず、賢くなれるという掲示板になれたらいいですね。
そうですね。自身が苦しまず、相手を苦しめず・・・お互いが賢くなれればよいですね。
返信をありがとうございました。
>>1208 ヒコ太郎さんへ
ありがとうございます。
ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr
>>1208
>学ぶことができないから、議論でぶつかりあうのではないでしょうか。
また、非常識なことから常識を学ぶことができないから、非常識なのではないでしょうか?
非常識なことから常識を学ぶことができたのに、常識を知らない人というのはいないはずです。ボケた人くらいしか。
なるほど、そういう考えには至りませんでしたねぇ・・・
確かに非常識な人が常識を学ぶことなんてできない・・・
ということは、誰だって経験していけば、同じ共通の姿勢に行き着くのかもしれません。
中には同じ理念ばかりに固執する人たちもいますが、そういう人ですら、経験していけば、自分の考え方の歪みに気づくというわけですね。
>時様は倫理的な話をしているのであって、義務の話をしているわけではないというのは、繰り返し仰っているのでよく読んでみてください。
なるほど、そうでしたか・・・
そうなると、僕の時さんへの返答も、若干ズレてしまっているということですね。
これはいかんいかん・・・
自分も「人の話を聞かない人間」の部類からまだ抜け出ていないのかもしれない・・・
再度そうしますね。
ご批判有難く頂戴仕りました<(_ _)>
ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_qxX
>そうですね。お互いが傷つかず、賢くなれるという掲示板になれたらいいですね。
これが目的として共有される(できるか)かどうか。
善悪関係なく、ある実利的目的の達成が優先される場合
例えばお腹がすいているので食べ物を探す(食べないといずれ死ぬ)、という目的に対して
お互いが傷つかず、賢くなれる、というのは無力だろう。
ここはそんな場所ではない、ということであるなら
平和とか、現実にあてはめた(あてはめるべき)議論はあまりすべきではない。
なぜなら、現実には実利、不利が働いており、それにかかわる人が閲覧、書き込みするからだ。
お互いが傷つかず、賢くなれる、というのは無力な理想論として批評されることになるだろう。
それを望まないなら、せめてそのようなテーマ設定をしたスレッドを立てないと。
ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr
>>1211
>これが目的として共有される(できるか)かどうか。
善悪関係なく、ある実利的目的の達成が優先される場合
例えばお腹がすいているので食べ物を探す(食べないといずれ死ぬ)、という目的に対して
お互いが傷つかず、賢くなれる、というのは無力だろう。
>ここはそんな場所ではない、ということであるならここはそんな場所ではない、ということであるなら
平和とか、現実にあてはめた(あてはめるべき)議論はあまりすべきではない。
なぜなら、現実には実利、不利が働いており、それにかかわる人が閲覧、書き込みするからだ。
お互いが傷つかず、賢くなれる、というのは無力な理想論として批評されることになるだろう。
そうですねぇ・・・ある実利を達成するという場合は無力かもしれませんね。
ですが、理想のないところに実践はないとも思います。
僕は平和スレに参加はできませんでしたが、平和スレを拝見させてもらって、世の中にはたくさん苦しんでいる人がいるんだなということを学ぶことで、平和の志向を今までよりも高められたのではないか、と思います。
最もこれはただの自己満足かもしれません。
しかし、無意味な自己満足ではなかったと思います。
こう思えるのも、あのスレでの議論が多少荒れてはいても、良識にかなったレスがいっぱいあったからだと思うんです。影ながら見ている不特定多数の人たちに、自分の頭で考える大切さだったり、「こういう先入観にとらわれている人たちもいるだろうけどこういう考え方も実はあるんだぜ」ということを学んだり、そういう影響を不特定多数の人たちに与えると思うんですよ。
ここがインターネットの強みでもあり、弱点でもあるわけですが。
でもこの強みを生かそうと思ったら、果たしてどういうスレの雰囲気が、他人に対していい影響を与えてくれるのでしょうか?
そう考えたら、他人を傷つけず自分も苦しまない、お互いが賢くなれるような掲示板を目指すことは、とても有益なことだと思います。
もしかしたら、素晴らしい知見を与えてくれる人が現れたりしてくれるかもしれないじゃないですか。
みんながみんな、倫理的な入り込みやすいスレッドの方が、そうでないよりよっぽど掲示板の意義を追求できると思いますよ。
堅苦しいガチガチした集団より、親切で優しい集団の方が入っていきやすいし、レスを読もうという気にさせてくれると思います。
もっとも、TTTさんがどういう人なのかによって、僕の価値観とのズレはあるとも思いますけど、あくまでも個人的な意見として受け取っていただいたらいいかな。
ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_qxX
>>1212
>もっとも、TTTさんがどういう人なのかによって、僕の価値観とのズレはあるとも思いますけど、あくまでも個人的な意見として受け取っていただいたらいいかな。
文字通り、受け取るだけでいいのなら
私の記載した「個人的意見」以下の文章は不要なはずです。
「素晴らしい知見を与えてくれる人が現れたりしてくれるかもしれない」ということが目的であるとき
私の意見は素晴らしくないだろうが、一切参考情報にもならない、と言い切れないなら、
あなたのいう人のためになる掲示板は、柔らかい雰囲気、倫理観のみによってもたらされるものではない、といえるかと思います。
人と人との摩擦の中で、傷つきたくないと思うことは自然です。
しかしある一定の目的に従い、発言を行う(人とかかわるとき)、「そこにあるべきことか」というと疑問が生じます。
あるべきだ、というのも一つの価値観だと思います。
ただしその2つは最終的な目的が異なることになるだろう、とは思いました。
以下、個人的意見。
倫理観、仰る通り、大切ですよね。それを否定する人はいないと思います。
しかし倫理観の実現は極めて難しいものです。
一昔前に流行った「その場の空気を読む」という難しい作業が発生するからです。
このとき「素晴らしい知見を与えてくれる人が現れたりしてくれるかもしれない」ということを目的とするなら
倫理観という実現が難しいことの制限がかかっている状態と、良いステータスも悪いステータスも含めてあらゆる情報が飛び交っている状態
どちらが発生確率が高いでしょうか?
あなたも、後者であることは、一部、認めていると読み取れます。
>「こういう先入観にとらわれている人たちもいるだろうけどこういう考え方も実はあるんだぜ」ということを学んだり
また、現実的には2chねるの方が参加人数の関係から情報源としては有用だったり、Twitterはたびたび炎上を起こしているが
著名人の発言を得ることもでき、やはり情報源としては有用です。
こんな風なほうがいいのにな、というあなたの考えも
ふるいに掛けれていない情報を参照したがゆえに、発生したものではないのですか?
ビックデータ解析、みたいなことを考えても、制限がかかっているソースよりも、あらゆる情報があったほうが精度は高くなります。
メビリンには申し訳ないのですが、メビリンでこんな発言が!みたいなニュースは見たことがありません。
また、ルールがちがちにしたスレッドを立てたとき、ルールを守ることに終始し
良い結果が得られない、という結果になる、というのは一般解かと思います。
つまり、最初から「倫理的な入り込みやすいスレッドの方」が目的になってしまうと
お互いに牽制しあうような事態になって、活発な情報交換が阻害されるでしょう。
「素晴らしい知見を与えてくれる人が現れたりしてくれるかもしれない」ということは
何らかの価値が発生したほうがよい、という自然な考え方です。
しかし、ここにお互いに牽制しあうようなことをしたとき、
価値が発生したほうがよいことを阻害してしまう。
このとき、それでも倫理観が大事なのか、価値を発生させることが大事なのか。
ここは価値観なのかもしれません。
私は価値を発生させることのほうが大事だと思っています。
そこが人とは違うんでしょうね。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
tttさん
>>1213
>良いステータスも悪いステータスも含めてあらゆる情報が飛び交っている状態
2chやTwitterにはあらゆる情報は飛び交ってないですよ。
他にない情報があるからといって、あらゆる情報があるというのは拡大解釈だと思います。
社会的な問題に対しては強みがあるかもしれませんが、学問的にみて有用な情報は少ないです。
これに対し、wikipediaには、倫理的な規定があるからこそ、学問的にみて有用な情報が多いのです。
2chやTwitterで思い思いに書かれた情報の学問的価値が、wikipediaを上回っているというのならそうでしょうが。
哲学は雑多な情報のひとつというわけではなく、学問として成立していますから、
自由な議論は議論版ですればよいし、哲学は学問なので哲学板は倫理観にのっとって行うことで、哲学としての価値が生まれると思います。
tttさんはそれとも、倫理観が欠如し日記帳のようになっている哲学板の現状に、価値があるとお思いですか?
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
掃き溜めのような倫理観の欠如した場所に、苦労して書き上げた価値のある文章を投稿する人がいるでしょうか?
泥棒の集まりの中に大金を持っていくようなものです。
それは倫理観を大事にしなければ、価値のある情報が少なくなるということの根拠になります。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
時様も
>「解るというのなら、ここで書いてみなよw」と言う表現と「解らないのですが、教えて頂けますか?」と言う表現では、質問に応える方の気持ちを考えた場合に、どちらが適切かと言う事です。
>この場合、解らない方は、解るという方に対して質問をして本当に知りたいと思っているのだろうか?と言う事です。私の場合の「許容範囲」で言うのならば、前者はそれを逸脱していますので基本的には応えませんが、後者は逸脱していませんので、出来るだけ答えようとは思っています。
とおっしゃっています。
倫理観というのは、感情の発露のようでいて、実は深い理性によって支えられているのです。
なので倫理観をないがしろにするということは、理性をないがしろにするということです。
価値のあるものを生み出せても、それは一時的、投機的で軽薄なものです。
このような理由があるので、相手の態度を見れば、相手が理性的か、理性的でないか、という判断は通常ならば容易でしょう。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
「宝くじは買わなければ当たらない」
という人がいます。
tttさんのおっしゃっているのような価値も、そのようなものではないでしょうか。
長い目で見れば、むしろ損失になっているというのは明らかなのに、
目先の利益に釣られてしまうのです。
それが、理性的でないということです。
ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_qxX
>>1214
ヒコ太郎さん
>2chやTwitterにはあらゆる情報は飛び交ってないですよ。
>他にない情報があるからといって、あらゆる情報があるというのは拡大解釈だと思います。
>社会的な問題に対しては強みがあるかもしれませんが、学問的にみて有用な情報は少ないです。
指摘は受け止めますが、私は「情報があること」に価値があるとしています。
その真偽は問うていません。必要に応じて自らが検証すればよいと考えているからです。
一方で、既に体系化、検証済みの情報を有用な情報であると定義するならば
Wikipediaの価値は素晴らしいものと思います。
・Wikipedia:児童・生徒の方々へ 外部参照
ただ、上記をみたとき「お互いが傷つかず、賢くなれる」とは程遠いな、とは思いました。
つまり、ヒコ太郎さんの仰る倫理観と別の方が仰っていた「お互いが傷つかず、賢くなれる」は異なるように感じており
どちらかというと、傷つくような人間は価値創出できない、と述べているように感じます。(表現が悪ければ申し訳ありません)
つまり、私とは用いる手段が異なるだけなので、特に反論はありません。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
>>1219
重要視することと、それに応える事は違います。
時様も、言ってもわからないと思うから言わないのであって、軽んじるといっているわけではないと思いますよ。
重要視しても応えないという事は、それが表出しないということです。
価値あるものが表出しないという事は、掲示板の質が落ちるということです。
相手が重要視しているか、していないかははっきり言ってどうでもよくて、相手が価値あるものを落とすかどうかです。
相手から盗むようなやり方ではなく、
あくまでも倫理にのっとって、価値あるものを得ていくべきです。
それが、長い目でみて得だからです。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
そうすると、
>私は「情報があること」に価値があるとしています。
>その真偽は問うていません。
これに矛盾した状態が生まれてしまいます。
相手がどうでもいい情報ばかり落として、重要な情報を落とさないのですから。
欲しいものがあれば、ジャンクをあさってあるかないかもわからない中探すより、店にいって買いますよね?
相手が偽者ばかりを選別しているのですから、いくら
>検証
したところで、真実が入っていないことの方が多いです。
ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_qxX
>>1220
若干かみ合っていません。
指摘があったとき、既に回答があり、調べればわかることや、過去ログを探れば似たような回答があることに対して応じることは
当然、重要ではありません。
しかし指摘があったとき、回答が作成できないとします、つまり不明な点が生じているとき。
このときは学ぶチャンスであると捉えるのではないでしょうか?
いずれにしても表現の問題ではなく指摘の本質が重要である、ということであると思いますが
このとき、価値の創出は許容範囲(気持ちの問題)によって左右されてしまうのでは?ということです。
wikipediaは、そのようなブレは許容していない、と読み取っていますし
そのストイックさにより、価値が創出されている、という認識です。
ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_qxX
>>1221
例えばですけど、1221においてヒコ太郎さんが書いた文章は
1220で私が投稿した時点では、私はその情報をもっていないのです。
しかし、1221で新しい情報が発生しました。
それのように情報が生まれていくこと、情報が「ある」状態になっていくことが、価値があるとしています。
内容の問題ではないのです。
例えば、ある人が勘違いを書き込んだとします。
すると、その人は勘違いをしている、ということが明らかになります。
書き込まれなければわからないことです。
その情報があれば、その人への対処は変わってきます=その情報には価値がある、ということです。
こういうのまとめているのがビックデータ活用だと思っています。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
tttさん、あなたの言ってることはおかしいですよ。
情報が「ある」状態になっていくことが、価値があるんですね。
じゃあ、特別に適当にポエムを書いてあげるので、買ってください。
価値があるんなら買えますよね?
御託はいいので、さっさと倫理観を身に付けてください。
現状ではとてもじゃないが、話にならない。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
>例えば、ある人が勘違いを書き込んだとします。
>すると、その人は勘違いをしている、ということが明らかになります。
>書き込まれなければわからないことです。
>その情報があれば、その人への対処は変わってきます=その情報には価値がある、ということです。
勘違いに価値があるみたいなアフォなことを普段から考えているのであれば、
根本から考え方を変えた方がいいですよ。
適当こくのはやめましょう。読むのが、辛い。
ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_qxX
>>1225
>じゃあ、特別に適当にポエムを書いてあげるので、買ってください。
インターネットのいいところは、情報の価値が過度に低くても記録が残ることにあります。
ある個人のポエムは金銭を払うほどの価値がなかったとしても
ヒコ太郎さんという人間が記載したポエムという情報の価値はあるかないかでいえばあります。
適切なスレッドがあるのではないでしょうか。投稿してみてください。
というのはともかく
別のスレッドで哲学とは?内側と外側という話もあるように思いましたが
自分の1目的だけに合致する情報だけでなく、様々な情報があることによって
ある1目的の情報が際立つ(反証みたいなもの)もあります。
情報はたくさあればあるほどよいです。
>勘違いに価値があるみたいなアフォなことを普段から考えているのであれば、
もともとは「お互いが傷つかず、賢くなれる」でした。
思考の罠、というのはたくさんの人間がいても、同じようなポイントがあります。
思考の罠が修正されていく情報があれば、それは賢くなれる情報である、と考えています。
もっとも、いずれ現れる誰かのために自分はそこまでしたくない、ということであるなら
「お互いが傷つかず、賢くなれる」とは、自分にとって都合の良い小集団を作りたい、ということになるかと思います。
それが一般的に共有できる倫理観という言葉で表現されている、ということなのかもしれません。
それ自体は思いとして問題ないかと思います。しかし、もともとは下記のように書かれていました。
>ここがインターネットの強みでもあり、弱点でもあるわけですが。
>でもこの強みを生かそうと思ったら、果たしてどういうスレの雰囲気が、他人に対していい影響を与えてくれるのでしょうか?
小集団を形成することを目的としたときにインターネットの強み、からは逸脱するため
目的と手段が合致していない、ということになります。
ただし、インターネットは物理的距離をゼロに等しくできますので、小集団であっても現実よりはよっぽど集まりやすい
となるとは思います。
>読むのが、辛い。
義務はない、という話がありましたが
私の書き込みによってヒコ太郎さんが読まなくてはいけない義務は発生しないはずです。
放っておくのがよい、という話もありましたが、読まなくてはいけない義務は発生しないので
放っておこう、と判断しなければならないのは、例えばヒコ太郎さんです。
勝手に書き込んでいるだけだ、という話があったように、誰かに私の表現の自由を制限する権限はありません。
もちろん、管理人のルールに従う必要はありますが。
私が強い立場を強調している、と受け止められる可能性があるかもしれませんが
投稿者(今は私)と読者(ほかのだれか)の立場が逆転しても同じです。
私の書き込みによって〜と記載しましたが
価値観の応酬とは、自分の内面をさらけ出し、相手と共有できないことは
自らの価値観を否定されたかのように受け取ってしまう場合があります。
それは自然なことであり、制御するようなものでもないでしょう。
しかしそれを倫理観で何らかの制約をかけ、是正しようというのであれば、あなたのいう学問的価値ですらその価値を阻害されることになります。
例えばwikipediaで、その記事は間違っている、という指摘があったとき
本当に間違っているのに、読むのがつらい、倫理観が〜などと言っているようでは、
あなたが述べるような素晴らしい価値を外部に提供することはできないでしょう。
つまり、「お互いが傷つかず、賢くなれる」には、自分自身を正しく把握し、
人と人との距離感を図れること、が自分という参加者にこそ必要だ、と考えます。
であれば、掲示板の理想の形、という外に何かを期待するような論調にはならないだろう、とも思っています。
ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_pxp
>「お互いが傷つかず、賢くなれる」とは、自分にとって都合の良い小集団を作りたい、ということになるかと思います。
>それが一般的に共有できる倫理観という言葉で表現されている、ということなのかもしれません。
tttさんは、自分にとって都合の悪い集団に所属したいという、Mさんだったのですね。
どうりで、話が噛み合わないわけだ。
いいと思いますよ。いいご主人様を見つけてください。
>放っておくのがよい、という話もありましたが、読まなくてはいけない義務は発生しないので
>放っておこう、と判断しなければならないのは、例えばヒコ太郎さんです。
tttさん、あなたのために書いているのに、何も伝わっていないみたいですね。
倫理観が欠如しているので、本来因果関係がないところに、因果関係を根拠無く見出して、詭弁をかたり、その場の勝利を得ようとする。
なるほど、この議論はあなたの勝ちだ。
自由が価値あるものだというのは、私も異論はありません。自由を謳歌してください。それでは。
ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_qxX
>>1228
>自分にとって都合の悪い集団に所属したいという、Mさんだったのですね。
Mさんって誰だ?としばらく悩んでしまいましたが、マゾヒストということですね。
なるほど。つまり不同等は苦しいから、倫理観という点で同一化しようとしている、ということなのか、と思いました。
それによって苦から解放される理想郷を目指す、と。
理想郷になびかない私は、よっぽど恵まれていて、苦しみを知らない人間か
苦を苦と思わない変人、ってところでしょうか。(これは私の感想なので悪しからず)
>自由を謳歌してください。
ただ、どちらかというとこちらのほうが的を射ていて
理想郷だろうが、それを否定しようが、そのすべてがあること(自由)が大事、と思っている立場です。
自由がないと理想郷を選ぶことさえもできないので。
>あなたのために書いているのに、何も伝わっていないみたいですね。
自由な書き込みをなさっているとの認識でしたので、指摘の認識はありませんでした。
しかし私のために書き込んでいただくよりも、上記のように自由に意見をぶつけていただくほうが
実際、ためになりました。
操壊 @tukimonoda ★dK50itABrg_dB9
ダブルトートロジーで「〜の視点に立てば〜」で「〜の視点に立てば〜」で謎は何もない、
少し早計なのではないか。
例えば人間はコウモリにはなれない。この言葉がどのような意味で使われているのかは知らないが、
勝手に使わせてもらえば、コウモリが出せるような超音波を人間は出せないし、
コウモリが感知出来るような超音波の感知を人間は出来ない。
人間にはそのような身体的機能がないからだ。
人間はコウモリにはなれないという時、謎がある。
人間はコウモリの視点には立てないから。
馬場さんは物理的な話を度外視し過ぎている。
観念的な話に寄りすぎていて。
例えば人と人との場合にしても。
あの人の視点に立てば、という論法を使う時、そんな簡単にあの人の視点に立てるのか?
という疑問もわいてくる。
実際に馬場さんはここで量子神学を提唱し、それに反対する人とたくさん論じてきたわけで、
ある人の視点に立とうとするには、例えば対話を要することがある。
そこが馬場さんの理論には足りない気がする。
「〜の視点に立てば」というトートロジーを二つ使ったところで、
謎が明らかになるわけではない、何も詳らかにされていない。
何かの視点に立つには、それなりの努力を要するのでは?
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>1230 操壊さんへ
久しぶりです。喜んでお答えします。
>ダブルトートロジーで「〜の視点に立てば〜」で「〜の視点に立てば〜」で謎は何もない、
>少し早計なのではないか。
>例えば人間はコウモリにはなれない。この言葉がどのような意味で使われているのかは知らないが、
まず、SumioBabaの視点に立っていた【私】が、単に視点を変えるという意味でコウモリの視点に移ったと解釈することは、簡単にできますよ。ただし、コウモリの視点に移った【私】は、一瞬前までSumioBabaの視点に立っていたという記憶は持たないので、生まれて以来ずっと自分はコウモリだった、と実感することになります。
本当はたった1つの【私】が、…→SumioBaba(t6)→コウモリ(t13)→操壊さん(t4)→トランプ米大統領(t51)→…のように、存在し得るすべての刹那的な心M0、M1、M2、M3、…をデタラメな順序で体験している、と考えることができます(科学的には、実証も反証もできませんが)。この【私】が「神」です。「神」は全知全能なので、どんなMiからどんなMjへも、Mi→Mjという時間の流れを、ある確率で実現し、ある確率で実現していない、と考えることになります。
>勝手に使わせてもらえば、コウモリが出せるような超音波を人間は出せないし、
>コウモリが感知出来るような超音波の感知を人間は出来ない。
>人間にはそのような身体的機能がないからだ。
人間の心は「空」M0ではなく、「色」M1、M2、M3、…の方に属します。「神」は全知全能なので、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則にも、「縛られない」と「縛られる」の両方を実現できます。ただし、「縛られない」の方はすぐに矛盾が生じてしまい、そうするとあらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が証明され、何一つ状態が定まらない「空」M0の方になってしまいます。人間の心である「色」M1、M2、M3、…は特定の有意識状態であり、それが自己同一性を保って存在するためには、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に「縛られる」ことが必要です。人間がコウモリのような超音波を出せないのは、この物理法則に縛られているからです。
もっとも「神」は全知全能なので、人間にコウモリのような超音波を出させることも可能ですが、そうすると物理法則が破れる恐れが有ります。物理法則が破れてしまうと、その世界は消滅します。例えば、現在の自分が住む世界ψaは、本当は物理法則に縛られてψa→ψbという時間発展をする確率はわずか0.000…001に過ぎず、物理法則を無視したψa→ψcという時間発展をする確率が0.999…999だと仮定してみます。ただし、ψa→ψcの方は物理法則が否定されてしまうため、ψcの一瞬後の状態は全く定まらず、あらゆる物理状態ψp、ψq、ψr、…、および、-ψp、-ψq、-ψr、…の重ね合わせとなり、(ψp-ψp)+(ψq-ψq)+(ψr-ψr)+…=0で消滅すると考えます。その結果、人間が観測できるのは確率1で物理法則に縛られたψa→ψbの方だけになり、これが【物理法則の自然発生説】です。
量子力学の面白い実験が有ります。光路Aを通って来た1個の光子(光波)を、確率1/2ずつで光路Bと光路Cに分岐させます。どちらを通って来るかを観測する実験を200回行うと、約100回ずつ、光路Bまたは光路Cのどちらか一方を通って来るのが判明します。そこで少し実験を変え、光路Cの方をさらに半分ずつ光路C1と光路C2とに分岐させ、両者を半波長ずらして重ね合わせるという操作を追加すると、光路Cの方は波が打ち消し合い消滅します。光路Bの方はそのままです。こうした上で、光子が光路Bと光路Cのどちらを通って来るかを200回観測すると、今度は確率1で200回すべて光路Bの方を通って来るのが判明します。不思議でしょう? 光路Aを通っていた光子は、確かに確率1/2ずつで光路Bと光路Cとに分岐させたはずなのに、光路Cの方はその先で消滅します。こういう場合、光子は、初めから確率1で光路Bだけに進み、光路Cの方は選ばないように見えてしまう訳です。
>人間はコウモリにはなれないという時、謎がある。
>人間はコウモリの視点には立てないから。
「人間はコウモリになれない」は特に謎ではないと思います。人間は「色」の視点に立っているので、「「無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に縛られる」と認識する視点に立てば「無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に縛られる」」と認識するだけです。もちろん「神」は、「「無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に縛られない」と認識する視点に立てば「無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に縛られない」」の方も実現しているのですが、こちらは「空」になるので認識できないということです。
>馬場さんは物理的な話を度外視し過ぎている。
>観念的な話に寄りすぎていて。
どういう点でしょうか? 物理的な話は十分に考慮しているつもりですが?
>例えば人と人との場合にしても。
>あの人の視点に立てば、という論法を使う時、そんな簡単にあの人の視点に立てるのか?
>という疑問もわいてくる。
>実際に馬場さんはここで量子神学を提唱し、それに反対する人とたくさん論じてきたわけで、
>ある人の視点に立とうとするには、例えば対話を要することがある。
>そこが馬場さんの理論には足りない気がする。
>「〜の視点に立てば」というトートロジーを二つ使ったところで、
>謎が明らかになるわけではない、何も詳らかにされていない。
>何かの視点に立つには、それなりの努力を要するのでは?
そういう意味ではないのです。本当は全知全能の「神」が、…→SumioBaba(t6)→コウモリ(t13)→操壊さん(t4)→トランプ米大統領(t51)→SumioBaba(t2)→猫の心(t132)→犬の心(t55)→SumioBaba(t79)→…のように、存在し得るすべての刹那的な心M0、M1、M2、M3、…をデタラメな順序で体験していると考えることができる、という意味です。どんなデタラメな順序もすべて、確率的に「実現している」でもあれば、確率的に「実現していない」でもあります。これはもう、「時間の流れ」と呼べるようなものではありません。「神」は「時間の流れ」を超越している、と表現できます。そして、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕という線形の重ね合わせのまま、すべての刹那的な心M0、M1、M2、M3、…を同時に一瞬体験しているだけ、というのが最もシンプルな定式になります。「時間の流れ」は、個々の心の中に観念として存在し得るだけであり、実在するものではない、という意味です。
操壊 @tukimonoda ★dK50itABrg_dB9
しばらくそういうものの考え方をしていなかったから、
あーなるほどと思ってしまったけど、まだイマイチよく分からないところもある。
僕が言いたいことをもう少し強調して言うと、
神にとってはダブルトートロジーでなんの謎もない、
しかし依然として人には謎は残されているのではないかということ、です。
なるほど神と人の心は一体であるということを認めよう、
だとしても馬場さんはコウモリである体験を出来ないし、
コウモリであるという体験や、その感覚を説明出来ないはずです。
そこに謎は残されているのではないかと。
そこがダブルトートロジーで謎がない、というのが観念的な話に寄りすぎていて、
物理的な、その説明を要する身体的な話が明らかにされていないと、
僕はそう言いたいわけです。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>1232 操壊さんへ
>しばらくそういうものの考え方をしていなかったから、
>あーなるほどと思ってしまったけど、まだイマイチよく分からないところもある。
>僕が言いたいことをもう少し強調して言うと、
>神にとってはダブルトートロジーでなんの謎もない、
>しかし依然として人には謎は残されているのではないかということ、です。
「人間視点」に立つと謎の存在を感じる、というのは事実です。現在の自分の心をM1とします。自分は1人の人間であり、体験しているのはこのM1だけだと考えてしまうと、《状態選択の謎》=「なぜ自分の心は他のM2、M3、M4、…ではなくこのM1なのか?」、《存在選択の謎》=「なぜ自分の心M1は「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」、といった謎を感じてしまいます。
そこで「神視点」に立ってみます。真の自分は全知全能の「神」なのであり、本当は存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について、それが「存在する」と「存在しない」の両方を平等に体験しているのだ、と考えます。こう考えると、真の自分である「神」は、M1だけを体験しているのではなくM0、M1、M2、M3、…すべてを平等に体験しているのですから、《状態選択の謎》は事実誤認だったこととなって消滅します。真の自分である「神」は、「M1は存在する」と「M1は存在しない」の両方を体験しているので、《存在選択の謎》も事実誤認だったこととなって消滅します。
>なるほど神と人の心は一体であるということを認めよう、
>だとしても馬場さんはコウモリである体験を出来ないし、
>コウモリであるという体験や、その感覚を説明出来ないはずです。
「神と人の心は一体」というより、「「SumioBabaの心」も「コウモリの心」も「神」の分身」ですね。「神」は「SumioBabaの心」も「コウモリの心」も、平等に体験しています。どちらか一方に注目するためには、そちらを選ぶことが必要です。「SumioBabaの心」を選べば「SumioBabaの心」が選ばれます。「コウモリの心」を選べば「コウモリの心」が選ばれます。これがダブル・トートロジーです。
「SumioBabaでありながらコウモリの体験をしている心」なるものが無矛盾であれば、「神」はこれも体験しています。矛盾が有るなら、これは「空」M0になってしまいます。
>そこに謎は残されているのではないかと。
>そこがダブルトートロジーで謎がない、というのが観念的な話に寄りすぎていて、
>物理的な、その説明を要する身体的な話が明らかにされていないと、
>僕はそう言いたいわけです。
自分は1人の人間だと考えるなら、当然《状態選択の謎》や《存在選択の謎》は残りますよ。人間は、「○○○である」と「○○○でない」のうち片方だけ、例えば「○○○である」の方だけしか認識できないので、《選択の謎》=「なぜ「○○○でない」の方ではなく「○○○である」の方だけが選択されているのか?」を感じてしまいます。
そこで、真の自分は全知全能の「神」なのだと考えると、自分は「○○○である」と「○○○でない」の両方を平等に体験していることになります。そして、片方だけに注目するためには、そちらを選ぶ必要が生じます。「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識します。「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識します。これがダブル・トートロジーで、謎はすべて消滅します。
「観念的」か、「物理的」か、の違いというよりは、「神視点」に立つか、「人間視点」に立つか、の違いではないのでしょうか? そして、「人間視点」に立つと謎が生じ、「神視点」に立つと謎は消滅します。納得できない点が残るようでしたら、いくらでも指摘して下さい。もしかして、永井均氏の「独在論の<私>」?
ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi
馬場さん
>平等に体験している
の「平等」は、どういう点で「平等」なのですか?確率が等しいということ?
例えば、民主主義は多数決原理に従いますが、これは「平等な決め方」ですか?
もし、多数決原理によってAが議決されれば、それは「Aが議決された世界」です。
一方、「平等性」からいうと、「Aが否決される世界」もあります。しかし、多数決なのでそれは起こらない・・・
ダブル・トートロジー(?)の、どこが「平等」ですか?
ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi
コインを百枚投げて、全部「表」である場合も、他の場合、例えば3枚だけが表で97枚が裏の場合と「平等」に起こりますか?
「平等」のゴリ押しは、確率論の否定ではないですか?
ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi
以上の理由から、私は馬場さんが量子論について理解している、とは到底思えないのですが。
純粋哲学としては、可能なのでしょうが、もはや量子論が関係ないです。
ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi
仮に、「少数決原理」というのがあって、Aの議決を審議したとします。
そのとき、Aを達成させたい人間は、Aに反対票を入れ、Aを否定したい人間は、賛成票を入れます。
結果として、「多数決原理」の時と同じ結果になります。
さて、「Aが議決される世界」と、「Aが否決される世界」は平等に起こりうるでしょうか?
操壊 @tukimonoda ★dK50itABrg_dB9
>>1233
うーん、どうも。
馬場さんは繰り返し >>1233 で神視点で考えるならば、と言っていますよね。
体験するならば、とは言っていない。
人間視点は神視点を体験はしていない。
仮に体験しているという主張であっても、
何度も言いますが、コウモリであることを体験していることを、
馬場さんは説明出来ませんよね。コウモリであることの感覚をどのようなものであるかというのを説明出来ない。
聴覚で空間把握するというのは、こういうようなもので……、人間の空間把握との違いがこうで……、
こんなに驚きがある、という風には説明出来ない。
神視点になって考えれば、”コウモリにもなっている”としか言えていない。
コウモリの視点での世界の見え方が謎だらけじゃないですか。
神視点になって考えればコウモリにもなっている、と言うだけでこの謎がどうやったら消えるんでしょう。
操壊 @tukimonoda ★dK50itABrg_dB9
あー、でも人間視点になれば謎は残るって言ってますね。
人間視点と神視点の話、確かにそうなるかも。
しかしそれであっても、いやそれだからこそ、人間視点の私たちと神視点が結ばれるところ、
そしてそれはどのくらい可能なのか、ということを答えて欲しいです。
まあ、ただ >>1238 へのレスポンスでいいんですけど。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>1234 ヒコ太郎さんへ
>>平等に体験している
>の「平等」は、どういう点で「平等」なのですか?確率が等しいということ?
ナイスコメント、有難うございます。
「神」が、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験する確率を、仮にそれぞれP0、P1、P2、P3、…としてみます。これらの値は、どれも0から1までの値のどれでもあり、特定の値に決まっていない、という意味で「平等」です。
>例えば、民主主義は多数決原理に従いますが、これは「平等な決め方」ですか?
>もし、多数決原理によってAが議決されれば、それは「Aが議決された世界」です。
>一方、「平等性」からいうと、「Aが否決される世界」もあります。しかし、多数決なのでそれは起こらない・・・
多世界解釈を採るので、「Aが議決された世界」も「Aが否決される世界」も両方が起きるのではないでしょうか。
>ダブル・トートロジー(?)の、どこが「平等」ですか?
「「○○○である」と認識している心」と「「○○○でない」と認識している心」の両方を、「神」は確率不明で両方体験している、という意味で「平等」かと思われます。
>>1235 ヒコ太郎さんへ
>コインを百枚投げて、全部「表」である場合も、他の場合、例えば3枚だけが表で97枚が裏の場合と「平等」に起こりますか?
>「平等」のゴリ押しは、確率論の否定ではないですか?
量子コインを100回投げて「表」〇か「裏」●かを観測する実験を行うとします。多世界解釈では、世界が、そして自分の心が、2^100種類に分裂し、全部が線形の重ね合わせのまま存続すると考えます。それらの中には、「表」〇ばかりが100回連続して出たのを観測した自分〇、「表」〇と「裏」●とが約50回ずつ出たのを観測した自分〇●、「裏」●ばかりが100回連続して出たのを観測した自分●、の3人も必ず含まれます。そして「表」〇が出る確率を、自分〇は「ほぼ1」、自分〇●は「ほぼ1/2」、自分●は「ほぼ0」だと推定するでしょう。しかし、3人のうち誰が「客観的」に正しいかを知る方法は無さそうなのです。つまり、3人とも「主観的」に正しい。
「「表」〇が出る確率Pは、P≒1なのか、P=1/2なのか、P≒0なのか、客観的に決まっている」とする考え方を【確率の実在論】と呼びます。「「表」〇が出る確率Pは、自分〇にとっては「ほぼ1」、自分〇●にとっては「ほぼ1/2」、自分●にとっては「ほぼ0」であり、どれもが正しい」とする考え方を【確率の観念論】と呼びます。たとえ【確率の実在論】を選び「客観的なPの値」なるものを考えても、それが「ほぼ1」なのか「ほぼ1/2」なのか「ほぼ0」なのかを知る方法が無いので、無意味だと思います。それゆえ「SB量子神学」では【確率の観念論】を採ります。つまり、「神」にとって自分〇と自分〇●と自分●の3人は、どれが確率大でどれが確率小かという区別が無意味となり、どれも「平等」と見なされます。→
>>118,206 >>1236 ヒコ太郎さんへ
>以上の理由から、私は馬場さんが量子論について理解している、とは到底思えないのですが。
>純粋哲学としては、可能なのでしょうが、もはや量子論が関係ないです。
多世界解釈は量子力学の合理的な解釈として登場した訳ですが、これを突き詰めていくと、確率の意味が不明となり、量子力学自体を越えてしまいそうなのです。恐らく、多世界解釈の方が量子力学以上に本質的なのだと思います。実際、多世界解釈で考える無数の世界の中には、量子力学に従わない世界を含めることもできます。そうすれば「なぜ量子力学に縛られるのか?」という謎も消滅します。「縛られる」と認識する視点に立てば「縛られる」と認識する、「縛られない」と認識する視点に立てば「縛られない」と認識する、ただのダブル・トートロジーさ、です。
それに、全知全能の「神」が量子力学に縛られるはずも有りません。「神」が体験している無数の心M0、M1、M2、M3、…の中の1つを、現在の自分の心M1だとすると、このM1が住む世界W1では量子力学が成立しているように認識する、というだけです。そして、人間の立場では、取り敢えず自分が住む世界の物理学や数学を使って「神」を記述することしかできません。つまり、「神」を記述するのに、半分は量子力学を利用するけれど、最終的には量子力学もまた超越する必要が有る訳です。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>1238 操壊さんへ
>何度も言いますが、コウモリであることを体験していることを、
>馬場さんは説明出来ませんよね。コウモリであることの感覚をどのようなものであるかというのを説明出来ない。
はい、その通りです。SumioBabaは、「コウモリであることの感覚をどのようなものであるかというのを知らない」という視点に立っているので「コウモリであることの感覚をどのようなものであるかというのを知らない」と認識します。一方コウモリ自身は、「コウモリであることの感覚をどのようなものであるかというのを知っている」という視点に立っているので「コウモリであることの感覚をどのようなものであるかというのを知っている」です。これもダブル・トートロジーです。
>聴覚で空間把握するというのは、こういうようなもので……、人間の空間把握との違いがこうで……、
>こんなに驚きがある、という風には説明出来ない。
はい、もちろんできません。
>神視点になって考えれば、”コウモリにもなっている”としか言えていない。
>コウモリの視点での世界の見え方が謎だらけじゃないですか。
>神視点になって考えればコウモリにもなっている、と言うだけでこの謎がどうやったら消えるんでしょう。
なるほど、疑問点がよく解りました。2〜3年前に比べると、文章による表現力が格段にアップされているようで何よりです。操壊さんは勉強家のようだから、成長著しいのだと思います。
「何が真で何が偽かは、自分が知らなくても客観的に確定している」とする考え方を【真理の実在論】と呼びます。「何が真で何が偽かは、自分が知らないとき、自分にとっては何も確定していない」とする考え方を【真理の観念論】と呼びます。「SB量子神学」では【真理の観念論】を採ります。
SumioBabaの心をM1、コウモリの心をM2とします。M1はM2がどんなクオリアを持つ心なのかを知らず、M1にとってM2の状態は、M2a、M2b、M2c、…という無数の可能性が有ります。もし【真理の実在論】を採ると、《謎》=「コウモリの心M2は、M2a、M2b、M2c、…のうちのどれなのだろう?」が発生し、これに答えようが有りません。しかし【真理の観念論】を採ると、《答》=「自分の心M1はM2の状態がM2a、M2b、M2c、…のどれなのかを知らないので、M1にとってM2の状態は必然的にM2=M2a+M2b+M2c+…という重ね合わせのままである」と答えれば良いのであって、《謎》は存在しません。もちろんM2の視点に立てば、自分がM2a、M2b、M2c、…のうちのどれか1つに確定していると認識できるでしょう。
【真理の観念論】によれば、自分が知らないことは自分にとって何も決まっていないのですから、「M2a、M2b、M2c、…のどれが真なのか?」という謎自体が存在しないのです。【真理の実在論】は、「自分は知らないけれど、真理はどれか1つだけに客観的に確定しているはずだ!!」と勝手に思い込み、存在してもいない謎を捏造しているだけ、ということになります。いかがでしょうか?
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>1242 ヒコ太郎さんへ
>>特定の値に決まっていない
>のは、平等ではなく、「平等なのかどうかわからない」ではないですか?
これもナイスコメントですね。その通りで、まずは「平等なのかどうかわからない」です。そして、無数の可能性を全部考慮すると、メタ的に「平等」になるのです。
こういうのは、三浦俊彦氏が得意とされる領域で、自分もだいぶ影響を受けました。例えばコインを投げ、「表」〇が出る確率Pも「裏」●が出る確率Qも不明だとします。従ってまずは、「PもQも不明」です。P=1/2、Q=1/2かもしれません。P=9/10、Q=1/10かもしれません。逆にP=1/10、Q=9/10かもしれません。そしてこれらの可能性すべてを考慮すると、メタ的にP=1/2、Q=1/2になるのです。「PとQの値は不明だが、その平均値<P>と<Q>は、<P>=1/2、<Q>=1/2になる」と表現する方が正確かもしれません。
「空」M0=「????????…」の「?」も同様です。面倒なので、ついつい「?」=(1/√2)「0」+(1/√2)「1」と書いてしまうのですが、これだと「?」は「0」と「1」とを確率1/2ずつで重ね合わせたものに確定してしまい、それ以外の状態を含めません。そして、この「空」M0の場合、M0=M0は成立しますが、「色」M1、M2、M3、…については、M0≠M1、M0≠M2、M0≠M3、…になってしまいます。
ここでも正確には、「?」=a「0」+b「1」(aとbは不明。ただし|a|^2+|b|^2=1。)と表現すべきです。そしてaとbの平均値が<a>=1/√2、<b>=1/√2なのだと見なします。a=1/√2、b=1/√2ならば、「?」は「0」と「1」とを確率1/2ずつで重ね合わせたものになります。a=1、b=0ならば、「?」は単独の「0」になります。a=0、b=1ならば、「?」は単独の「1」になります。つまり「空」M0=「????????…」の「?」を「?」=a「0」+b「1」(aとbは不明。ただし|a|^2+|b|^2=1。)で定義すれば、個々のビットにおけるaとbがどんな値を取るかで、M0=M0、M0=M1、M0=M2、M0=M3、…のどれにも成り得ることが表現できます。
ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi
馬場さん
>これらの可能性すべてを考慮すると、メタ的にP=1/2、Q=1/2になるのです。
なぜ、1/2になるのですか?統計的に、丁度1/2になる場合の方が圧倒的に少ないのですが。
また、次のようにして馬場さんのいう平等に平等性のないことを示せます。
コインを投げて当てる賭博をするとき、コインの裏表が1/2になると妄想することはできます。
しかし、現実の人間はしばしばイカサマをします。
そのとき、コインの表裏が「100回中50回が表で合計で1/2」という結果になっていても、
資金の移動を見れば、イカサマをした人間の方が資金が多いので、「平等」ではありません。
だから、統計的に確率が等しいからといって、平等とは限りません。
まあ、ぐちゃぐちゃと言い訳するのはいいですが、自分の非が認められなければ、成長はありませんよ。^^
>孔子がおっしゃいました、
>「生まれつきの物知りは最も良い。学んで物知りとなった者は次に良い。努力して学んでいる最中の者は次に良い。努力もせずに学びもしない者は人として最低だ。」
(「論語」季子篇 第十六の九)
ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi
三浦俊彦さんという人は知りませんが、
その方がもし同じことを言ったのならばその人が間違っているし、
もし違うことを言ったのならば、馬場さんが三浦さんを誤解しています。
操壊 @tukimonoda ★dK50itABrg_dB9
なんか長い議論も面倒なので、最後にまとめて。
結論から言うと人間視点だと謎が残ることは馬場さんも認めてて、
で、僕はその人間視点の謎はこれからも明らかにしていくべきなんじゃないかということは思うんです。
馬場さんも分かってるとは思うんです、だってダブルトートロジーにより謎がないということを、
延々と明らかにしていってるんですから。
論じていってるんですから。
でもそれと同時に終わらせようとしてるところもあるんじゃないかと思うんです。
神視点になれば問題はないよー、謎はないよー、と言って終わらせようと。
でもそれでも馬場さんはこのスレで延々とそのことについて詳しく論じ他の人に明らかにさせようとしてます。
コウモリにはなれない、という例を出しましたが、なる、というのをどのレベルで言うのかは分かりませんが、
例えなれないとしても、近づくことは出来ると思います。
ただコウモリを見て飛んでる不気味な生き物だと見ていた時代に比べれば、
超音波を出し聴覚によって空間把握をしている、と知っている時代の今は明らかにコウモリに近づいています。
そうやって謎を明らかにする、何か分からない時に近づこうとする、詳細を知ろうとする。
それを神視点に立てばダブルトートロジーで全て解決すると言ってしまうと、そこで止まってしまうと思うんです。
だけどそうじゃないだろうと、謎はこれからもずっと出てくるだろうと、
でもだからと言って止まったり、諦めたりするんじゃなくて、
近づいていったり、考え続けていきましょうよと、僕の言いたいことは大体こんなところですかね。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>1245 ヒコ太郎さんへ
>三浦俊彦さんという人は知りませんが、
>その方がもし同じことを言ったのならばその人が間違っているし、
>もし違うことを言ったのならば、馬場さんが三浦さんを誤解しています。
ヒコ太郎さんだけが絶対的に正しくて、それに反する人はみな間違っている、ですか。やれやれ。コインを投げ、「表」〇が出る確率Pも「裏」●が出る確率Qも不明であるとき、「PもQも不明」から「P=1/2、Q=1/2」がなぜ言えるかは、『多宇宙と輪廻転生』(三浦俊彦、青土社、2007)を読めば理解できると思います。理解した上で反論されるのなら、喜んで答えます。理解できない人には、これ以上説明しても無駄です。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>1246 操壊さんへ
>結論から言うと人間視点だと謎が残ることは馬場さんも認めてて、
>で、僕はその人間視点の謎はこれからも明らかにしていくべきなんじゃないかということは思うんです。
それで良いのですよ。それをやっているのが科学です。自分の心M1が住む世界をW1とすると、「W1は、一体どんな設定になっているのだろうか?」という謎が生じます。これを研究・解明しているのが科学です。大いに価値の有る研究だと思います。
ただし、科学には限界が有ります。W1が「○○○である」という設定になっている事だけは判明したとしても、「なぜ「○○○である」の方であり、「○○○でない」の方ではなかったのか?」という謎が残ります。存在する世界がW1だけだと考えてしまうと、「そんなの知るもんか。なぜかそうだからそうなのさ。」で終わってしまいます。だから多世界解釈を採り、「○○○である」という設定になっている世界W1だけでなく、「○○○でない」という設定になっている世界W2も存在すると想定すれば、ダブル・トートロジーで謎は無くなる、と考える訳です。
>馬場さんも分かってるとは思うんです、だってダブルトートロジーにより謎がないということを、
>延々と明らかにしていってるんですから。
>論じていってるんですから。
>でもそれと同時に終わらせようとしてるところもあるんじゃないかと思うんです。
>神視点になれば問題はないよー、謎はないよー、と言って終わらせようと。
>でもそれでも馬場さんはこのスレで延々とそのことについて詳しく論じ他の人に明らかにさせようとしてます。
よく理解されています。その通りです。「人間視点」と「神視点」とが完全に分離しているのですね。「神視点」を想定すれば、謎は完全に消滅し、科学も哲学も終了します。
>コウモリにはなれない、という例を出しましたが、なる、というのをどのレベルで言うのかは分かりませんが、
>例えなれないとしても、近づくことは出来ると思います。
>ただコウモリを見て飛んでる不気味な生き物だと見ていた時代に比べれば、
>超音波を出し聴覚によって空間把握をしている、と知っている時代の今は明らかにコウモリに近づいています。
>そうやって謎を明らかにする、何か分からない時に近づこうとする、詳細を知ろうとする。
そういうのが科学の研究であり、その価値を否定しているのではありませんよ。
>それを神視点に立てばダブルトートロジーで全て解決すると言ってしまうと、そこで止まってしまうと思うんです。
科学で解明できない謎は、ダブル・トートロジーで解決する以外に方法は無い、ということですね。そしてダブル・トートロジーを使えば、本当はすべての謎が謎ではなかったことになり、それが「神視点」です。
>だけどそうじゃないだろうと、謎はこれからもずっと出てくるだろうと、
>でもだからと言って止まったり、諦めたりするんじゃなくて、
>近づいていったり、考え続けていきましょうよと、僕の言いたいことは大体こんなところですかね。
的確な指摘だと思いますよ。「神視点」に立てば、実はすべてがダブル・トートロジーであり、謎は何も無い訳です。一方「人間視点」に立つということは、言わば「神」が夢を見ているような状況であり、その夢の中に出て来る1人の人間として「自分の心M1や自分の世界W1は、どんな設定になっているのだろう?」という謎が生じます。これを熱心に研究しているのが科学者です。人間の心は、こういったゲームを楽しむために存在しているのだと思いますから、ゲームが楽しい人は思いっきり楽しんで良いのだと思います。
ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr
例えばなんちゃらフェスティバルが行われる予定にあるとき、晴れの場合は開催、雨の場合は中止、としましょう。このときフェスティバルが開催されるかどうかの判断は、神視点では1\2であり、ダブルトートロジーを満たせると考えます。
では、仮にフェスティバルが開催された場合において、つまり、今日の天候は晴れでフェスティバルが終わったと仮定した場合、「フェスティバルが開催された」という事実は、「フェスティバルが開催されなかった」という事実とダブルトートロジーですか?
もし仮にそうなら、フェスティバルが開催されたのに、開催されたという事実はなかったということになってしまいます。
自分は開催された事実をどう頑張っても、開催されなかったと考えることができません。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>1250 ひろさんへ
>例えばなんちゃらフェスティバルが行われる予定にあるとき、晴れの場合は開催、雨の場合は中止、としましょう。このときフェスティバルが開催されるかどうかの判断は、神視点では1\2であり、ダブルトートロジーを満たせると考えます。
はい。Ma=「「フェスティバルは開催された」のを認識した人間の心」、Mb=「「フェスティバルは開催されなかった」のを認識した人間の心」とします。全知全能の「神」は、MaとMbの両方を体験しているので、ダブル・トートロジーが成立しています。つまり、「フェスティバルは開催された」と認識する視点に立てば「フェスティバルは開催された」と認識する、「フェスティバルは開催されなかった」と認識する視点に立てば「フェスティバルは開催されなかった」と認識する、の両方を「神」は体験しています。
>では、仮にフェスティバルが開催された場合において、つまり、今日の天候は晴れでフェスティバルが終わったと仮定した場合、「フェスティバルが開催された」という事実は、「フェスティバルが開催されなかった」という事実とダブルトートロジーですか?
MaとMbとは矛盾しており、<Ma|Ma>=1(MaにとってMaの存在確率は1) 、<Mb|Mb>=1(MbにとってMbの存在確率は1)ですが、 <Ma|Mb>=0(MaにとってMbの存在確率は0)、<Mb|Ma>=0(MbにとってMaの存在確率は0)です。
Maの視点に立てば、存在するのはMaだけであり、Mbは存在していないので、実現したのは「フェスティバルは開催された」の方だけであり、ダブル・トートロジーは成立していません。
Mbの視点に立てば、存在するのはMbだけであり、Maは存在していないので、実現したのは「フェスティバルは開催されなかった」の方だけであり、ダブル・トートロジーは成立していません。
>もし仮にそうなら、フェスティバルが開催されたのに、開催されたという事実はなかったということになってしまいます。
>自分は開催された事実をどう頑張っても、開催されなかったと考えることができません。
MaにとってもMbにとっても、存在するのは自分の方だけであり、相手は存在していないのですから、自分の方だけが実現した、で良いのではないでしょうか。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
2019年3月31日をもって、SumioBabaはこの掲示板を卒業させて頂きます。皆さん方といろいろ議論ができて、とても楽しい4年間でした。この掲示板を利用させて頂いた管理人さんと、議論相手をして下さった皆さんに、心より感謝致します。有難うございました。…とか言って、忘れられずにすぐ戻って来るかもしれませんので、その時はまたよろしくお願い致します。以上