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主観の個別性

 ( 哲学掲示板 )
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ピーポー ★kvXTIQWGZn_rRN

私は私であり、あなたはあなたである。私はあなたではなく私は私である。
こういった二つの異なった主観が生まれるのはなぜでしょうか?

3年前 No.0
ページ: 1

 
 

死体の蝿改め蝿 ★iPhone=HlJ2JlAFDg

私とあなたが主観的実体として考えられるため。

3年前 No.1

宿題 ★iDmzDk5Pdf_rRN

主観は、直接的な現存在の環境に関係づけられた生物学的な内的世界のものです。
この特殊な知覚世界は、知覚の世界と作用の世界を止揚して
つまり生物学的現存在と歴史的現存在を全一の世界へと止揚していく道程が真実です。

3年前 No.2

死体の蝿改め蝿 ★iPhone=HlJ2JlAFDg

宿題さんは、主観は端的には何だと思いますか?私は自己だと思うのですが。

3年前 No.3

宿題 ★iDmzDk5Pdf_rRN

>>3
確かに自己の利己的知覚だと思います。

3年前 No.4

死体の蝿改め蝿 ★iPhone=HlJ2JlAFDg

>>4
利己的…知覚?その二つの結合は私には想像がつきません。主観が知覚であると断言されるのは面白いと思いますが。

3年前 No.5

★KpJlOIs1Hp_KPj

〈私は私であり、あなたはあなたである。私はあなたではなく私は私である。〉は、〈異なった〉ではなさそう。

3年前 No.6

宿題 ★iDmzDk5Pdf_rRN

私という領域と、あなたという領域に
共通項があるのでしょうか?
まったくの別次元でしょうか?

3年前 No.7

死体の蝿改め蝿 ★iPhone=HlJ2JlAFDg

その共通項が >>0 では「主観」と呼ばれているのだと思います。

3年前 No.8

宿題 ★iDmzDk5Pdf_rRN

本末転倒とは、重要なことを些細なこととトラやることですが、
主客転倒とは、主人と客が立場が反対になることなんですね・・

主観とは、自我の思い。
客観とは、第三者の思い。

確かに、主観が共通することも共感することもあると思います。

3年前 No.9

宿題 ★iDmzDk5Pdf_rRN

些細なこととトラやる→些細なことととらえる。と訂正します。

3年前 No.10

★KpJlOIs1Hp_KPj

〉6、〈私は私であり、あなたはあなたである。私はあなたではなく私は私である。〉は、〈異なった〉ではなさそう。の続き。

「私」は「他者」の存在があって「私」となる。と同じように「主観」は「客観」と対になっている。「私」と「あなた」、「主観」と「客観」は、あたかも「右手」と「左手」との関係のようです。「私」は「私」だけでは存在しえない、っていう意味で〈異なり〉ではなく”同一性”。関係によって成立する物事って話。〈共通〉ということでいえば、両者において共通しているのは「関係性」ということになるのかも。

3年前 No.11

宿題 ★iDmzDk5Pdf_rRN

哲学的根源から発出する心理学的理解において言表による客観化は
さまざまな可能性が企画されます。
その他にも論理的な規定において抽象的な思想により可能的な実存が言表されます。

時間性と永遠性
孤独と交わり
自由と隷属
自我の思惟の中でこの対立が一つになることが出来るかどうか・・・

3年前 No.12

★iPhone=HlJ2JlAFDg

>「私」は「他者」の存在があって「私」となる。
本当ですか?というのも、「我は他者がいなくても存在する」というドクサ(?)を蝿は持っているので。
あと、「私となる」とはどういうことでしょうか?というのも、私がいつぞや私となったということの記憶を蝿は持っていないので(大雑把な経験論)。

3年前 No.13

★KpJlOIs1Hp_KPj

〉12、私が彼女を抱いたのは15日前の夜だった、とい時間。私が彼女を抱いた、という永遠性。孤独がもし”私をわかってもらえない”という状況ならば、私が彼女を抱くという交わりは、わかってもらうためなのか。孤独からの解放は可能なのか。私はひとりで死ぬ。私は、私が彼女を抱いた、といった。しかしそうだろうか。そのとき、私は彼女から自由を奪われ彼女の隷属となり、じつは私は彼女に抱かれたのかもしれないのだ。〈思惟の中〉では対立が発生するのかもしれないが、身体の関係性においては互いに包みこまれているようにも私には思われてる。

〉13、自己と他者は対で存在するのではないかって思っています。無人島にただひとり、の場合、自己が発生するだろうか。他者を人間という種としたとき、他者は多数いる。私はただひとり(しかし、「私」は一人称にもなりうるし不定名詞ともなりうる。ではなぜ私は多数になりうるのか、が問題。これはさておき)。もし他者をトカゲ、ヘビ、ネズミ、トリ、サカナ、なども含めるとすると、そのなかで自己なるものも発生するかもしれないが、自己と他者を人種の内での区別とするのと異なる自己のようにも思われる。私は「私」を「自己」と同義語としているが、この場合人種(人類)の内においての自己でありこれは特に私とし、私はみずから私と言うことになるかもしれないし、私はそのなか(人間同士、他者という多くの人間という環境の中で、その関係性のなか)でつくられるという要素を含んでいるようにも思われる。

「私となる」、何故私がこのような表現をしたのか、について私の表象を辿ってみると・・・。
カントは「諸君は、わたしから哲学を学ぶのではなくて、哲学することを学ぶでしょう。思想を、たんに口まねするために学ぶのではなくて、考えることを学ぶでしょう。」と言っているらしい。この文を、「諸君」を私に、「わたし」をカント(他者)に置き換えて読む。
また彼は「みずから考え、みずから探求し、みずからの脚で立て」とも言っているらしい。
ニーチェにおいては「本来の人生とは、自己超克の過程そのものにほかならず、これによって、本来あるべきとことのものに実際に成りゆくことこそが、人間各自にとっての最高の課題なのである。」また「汝があるようなものになれ」とのこと。やはり私はこの文の「汝」を私と置き換えて読む。すなわち「私があるようなものになれ」となる。
デカルトは「私は思う」と言った。何度も書いているので略して「私は幼少の頃・・・」のなかにデカルトの「私」が登場したのではなかろうか、とも思われている。
「私となる」というのはこんなところからきているのかな?とも思われるがさだかでない。

ちょっと話がズレてしまっているかもしれないので、ピーポー様の〈私は私であり、あなたはあなたである。私はあなたではなく私は私である。こういった二つの異なった主観が生まれるのはなぜでしょうか?〉にもどろうかと。
〈この二つの異なった〉の〈この二つ〉とは何と何を指して言っているのだろうか?

3年前 No.14

★iPhone=4NqYDhBjIb

私は1人の他者である(ランボー)

3年前 No.15

★KpJlOIs1Hp_KPj

「たがいに外的で、因果の諸関係によって結ばれた多様な出来事」これをポンティは「自然」と呼ぶ。

3年前 No.16

★iPhone=IeoSJPVnRc

ポンティも馬鹿なこと言うんだな。

3年前 No.17

★KpJlOIs1Hp_KPj

だから、私に興味が湧き、なんとか捉えようとしているのかもしれない。

私はあなたになり、あなたは私になる。私もあなたもなくなる、っていう主観もありえるかも。

ところで、今読んでいる本においてもそうであるが、例えば「われわれが目的論を否定するのも、その議論のよりどころになっている事実を知らないからではなくて、その事実を目的論以上に理解しているからである。」というような表現(日本語訳であるが)において、「われわれ」と表現しているのを見る。しばらく前かふと思ったのではあるが、彼らの書において、「わたしは」という表現ではなく、なぜ「われわれは」なのだろうか、と。

3年前 No.18

宿題 ★iDmzDk5Pdf_nb8

存在論は、一切者から真に個別的なものへ達することが出来ない。
個別的なものから一切の一者に達することもできない。
それに比べ実存は、客観としても客観化された主観としても存在せず
どこまでもどこまでも主観性と客観性に訴えつつ開明していく存在です。

われわれは、とは、客観性にかかわった実在論では?


客観性は形而上学的で、主観性は観念論的・・・?

3年前 No.19

★KpJlOIs1Hp_KPj

哲学者が使用する語やその意味(概念)の領域や、ナントカ論なるものは私にはチンプンカンプン。
ごめんなさいね。

私の場合、
形而上学的なものは主観的であり、観念を語る場合には客観的になっていると観されている。
存在(存在論ではない)は私であり、実在(実在論ではない)は私の外の存在、としている。

3年前 No.20

宿題 ★iDmzDk5Pdf_8QL

解らない言葉は、辞書で調べないと
反対の意味のことがあります。
確証のない自分だけの言葉は、錯覚されます。

ちなみに観念を辞書でお調べになると私さんの勘違いが見つけられます。

3年前 No.21

宿題 ★iDmzDk5Pdf_8QL

わがままと言う言葉は
自分の子供を思い通りにしようとするママのことです。

3年前 No.22

宿題 ★iDmzDk5Pdf_8QL

本当にアメリカは先をいきますね・・

ヒラリークリントンさんの言葉です。
「新たな困難を選択する時がすぐそこまで来ている。」

あたしも来年の4月から今までにない困難が待ち受けています。

しかし老後の困難からするならば、この苦しみは・・・序の口ですが・・

3年前 No.23

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

50億人の人々が、同じ一枚の絵を見た場合に、同じ主観は一つもない。

つまり、主観は個別的である。

1年前 No.24

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

最近、不思議に思うことがある。つまり、事物(それ)は私が見るから在るのか? それとも、在るから見るのか?

のことで悩んでいる、、、、。問題は、それは見なくても有るのかどうかだ。ところが、有るかどうかを確認する場合

わざわざ、見にいかなければならない、やっかいなことだ。

11ヶ月前 No.25

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〈私が見るから在るのか? それとも、在るから見るのか?〉は、なぜ見るのか、が、?、である。 志向性という語もある。

知覚されたものは、在る。しかし、知覚されないものが在るか否かを確かめるすべはない。在るから志向性が発動し、在るしかない。

異なった主観がある、ということにおいて、主観が共存在するということになろうが、異ならない主観はない。異なるから主観が存在することになる。

問題は間主観性。

11ヶ月前 No.26

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

間主観性とは何か、私は知らないが、主観と主観のあいだには客観があるように思える。
しかしながら、なおも「私の視像」は他の誰とも共有しない、たとえ親兄弟であっても、という事実は

認めざるをえないでしょう。私はそこに時間性(今論)を登場させたい。色のクオリアなんかはきわめて主観的
な概念であって、超個人的といえるのでは?

11ヶ月前 No.27

天地創造 ★nHo6vC4Gj3_M0e

ピーポーさん
>>0


「吾を排列しおきて尽界とせり、この尽界の頭々物々を、時々なりとしょ見す」るなら、「時々の相礙せざるが如」く、「物々の相礙せ」ません。
「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」、これを道元は「有時」と呼び、「自己の時なる」事も説明しています。
そして、「尽地に万象百草あり、一草一象おのおの尽地にある」が故に、「一草一象なり、会象不会象なり、会草不会草なり」、「有草有象ともに時な」のです。

詰まり、《(私)⊇(貴方)》でもあり《(私)⊆(貴方)》でもあるのです。

“《私》の全て”を《私》が自覚していません。
“《貴方》の全て”を《私》が自覚していません。

《二つの異なった主観が生まれる》のではなく、その観方自体が一つの主観なのだと思います。

11ヶ月前 No.28

わたし ★30JjgxOVKX_ZFe

〉27、「間主観性」という語はフッサールの語です。意味は違うかもしれませんが、

〈主観と主観〉における〈と〉を言っているのだと思います。これは客観にあたらないと思います。
これは、主観か客観か、主体か客体か、という見方から脱して、っていう感じじゃないかなー。って思っています。

「わたしとあなた」の間にある「と」を意味してるのだと思っています。

うさぎちゃんは、わたしとうさぎちゃんの間にあるものって何だと思いますか?

11ヶ月前 No.29

天地創造 ★nHo6vC4Gj3_M0e

>>28 の補足又は続きです。)

有時とは、存在と時間を同一のものとする場合の語です。

現在は自己に内包される有時、即ち吾有時なのですが、吾有時も亦た、衆有時の各々が尽力する事で成立する有時なのです。
又、現在には、過去も未来も内包されています。
詰まり、世界そのもの、或いは、その内なる事物一切が、自己に内包されたものであり、その自己も亦た、他の自己に内包されているのです。

更に、衆有時とは、何も、生命体に限ったものではなく、一切存在を指す為、当然、無生物の有時も含まれますし、事象の有時も含まれます。
故に、衆有時の各々の吾有時が、一斉に認識をしなく成る時、初めて、その者は、無に成れるのですが、その様な条件が簡単に揃う事は、考え難いのです。

因って、主観の問題は、存在の問題及び時間の問題に、即ち、有時の問題に直結するのです。

観測者は同時に被観測者であるので、両者が、自身の主観から切り離された客観を覚える事は不可能です。
客観的な事柄に影響を与えているのは、個々人が客観的な事柄と信じている主観的な事柄であり、これも亦た事象であるので、個々人を観測し、その有時を成立させてしまいます。

詰まり、二つの異なった主観が生まれるという事象は半有時及び又は錯有時なのです。
然し乍ら、半有時及び錯有時も有時なるが故に、その観測対象としての有時を成立させます。
因って、二つの異なった主観という主観の中の世界を観測する有時が成立するのです。

11ヶ月前 No.30

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

>30天地さん

すぐれた内容だとおもいます。私も有時を勉強したことがありますが難解ですね。

時間性に関しては哲学的というレベルです。しかし、一般人にもわかりやすく書いてほしいですね。

対象と自己に区別がなくなってしまうというものですかねえ?

11ヶ月前 No.31

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

物は有るから見るのか、見るから有るのか考えたら不思議です。見なくても有るのか?

私の主観は、経験上有るだろう、有るはずだと思うが「私は見たわけではないので」、、、、、。

無いかもしれない、は成立するのでは?

9ヶ月前 No.32

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

存在と「無い」を決めるのは誰だろうか?教科書か、多数決か、常識か・・・

私は個人だろうと思う。有ると無いは「その人にとって」有ると無いなのである。

8ヶ月前 No.33

今日人 @shrapit ★0FtEoBvIOA_qxX

人間が死んだら世界はどうなるのか?私が死んだあとも世界は存在するのか?私が生まれる前には世界は存在したのか?
一度も自分が在ったことのないりんごはこう答える。「私は在ったこともないし、無くなることもない。世界もそのとおりだ。」

私が在ると「言う」こととはどういうことか?私が自分が生きているということを知っているということだ。
では私は無いと言うこととはどういうことか?私が自分が生きているということを知ることができなくなるということを知っているということだ。
では自分が生きているということを知ることができなくなるということはどういうことか?私が考えられなくなるということだ。
したがって、私は自分が生きていることを知ることができないということを考えることができない。
つまり、私が無くなるということは知ることはできない。世界もなくなるということも同様に知ることはできない。

知ることができない世界は存在するのか?
知ることができないあなたの存在について私は知ることができないのと同様に、知ることができない世界について私は知ることができない。
知らない世界に私が在ったことは一度もないのだ。だから私が知らないあなたの世界においては私はりんごなのだ。
「私は在ったこともないし、無くなることもない。同様に、あなたが在ったことはないし、あなたが無かったこともない。」

8ヶ月前 No.34

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

世界存在の二重性・二面性により限界状況の目眩に陥り二者択一を躊躇する懐疑しか残らない・・

在るべきか・・在らざるべきかに究極に追い込むなら超越するにはあまりに困難な道筋があると思います・・

8ヶ月前 No.35

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

二重性・二面性ってなんのことですか? どこかに書いてあったのでしょうが、「超越するには」・・・?

何のことですか、貴方はそれらの意味が分かっているのですか? コピペはいいけど、意味がわからないで

コピペするのは、流行主義とか権威主義とかポピュリズムとか言われますよ?

8ヶ月前 No.36

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

うさぎさん

善悪・醜美・表裏・本音と建て前・などの二価的判断・・あれかこれか

倫理社会の基礎知識です。知らないのですか?

8ヶ月前 No.37

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

そんなら、最初からそういえばいいだけ。 単にね。  通勤電車に乗ってる誰にでもわかる文言で願いたい。

超難解な仏教経典を自分でもわからないのに、書くものではないですよ。 コピペじゃあるまいに。

コピペだろうけど。

8ヶ月前 No.38

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

新しい言葉は新しい思想だ・・

難しい言葉は難しい思想だ・・

子供には解る訳がない・・

8ヶ月前 No.39

わたし言葉で ★30JjgxOVKX_ZFe

概念に語記号を付着し、これまでにない概念が見えたときにこれまでにない語を作るしかない。
難しいのはそのひとにおいてこれまでにない概念が登場したとき。難しい言葉ではなく単にそのひとにおいて理解しようとしない概念でしかない。

〈子供には解る訳がない〉は、子供にも解る概念を言葉で表現できる能をもちえない大人であることを意味する。

8ヶ月前 No.40

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

>>40

子供どころか大人だって微分積分をどんなに説明したって解らない人は解りません・・

概念の中には、微分積分以上のむずかしさがあります・・

8ヶ月前 No.41

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

日本のような社会では、「主観だの個別性だの」と考える人も述べる人もきわめて少数だとおもう。
科学や数学を探究したり医学や政治を考えるばあい、唯物・客観・実在・常識等がほとんど大半で

あるとおもう。学校社会国家村町は客観で成り立っており、それに疑義を唱える人はきわめて少数
だろう。何も考えなければ誰でも実在唯物で死んでいく。

8ヶ月前 No.42

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

うさぎさんの文章は、社会を鼻で笑っていますね・・

8ヶ月前 No.43

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_v2j

素朴な疑問なのですが、まず私がいて、物があり、あなたがいるのでしょうか。それとも、物やあなたがいてはじめて、私がいるのでしょうか。ここで尋ねたいのは、観念論対実在論ではなく、主体を出発点として世界を構成する方法的態度です。間違っているかもしれませんが、超越論的自我しかり、世界内存在しかり、そういった項を用いる方法的態度は、ある種の主体を起点としているのではないでしょうか。そう主張するのは、私の理解の浅さゆえにかもしれませんが、超越論的自我というのは志向する意識を起点として掘り下げているし、世界内存在というのは、それが世界内部的存在者の存在を漠然とではあれ了解する現存在の存在に帰せられている、と思うからです。私が思うのは、むしろ間主観的な世界の側から主体が導出されることはないのだろうか、ということです。逆に主体の側から間主観的な世界を構成しようとすると、たとえば私との差異ゆえに他者が生じ、そこから共同性と他性の両立が問題となってくるような気がします。その時点ですでに、それは主体性を覆っているのではないでしょうか…?私には、主体性というのは、主体に固執しないという点が重要な契機となっているように思われます。とすれば、主体という項から出発して、他者や世界を考えるかぎり、主体性はずっと覆われたままに留まるのではないでしょうか。むしろ間主観的な場の側から出発すれば、思考する意識の存在や存在を理解する存在に重心が置かれることはなくなるのではないでしょうか。…間主観的な場がそもそも、そういうものなのでしたっけ…?しかしそうだとしても、その間主観的な場を超越論的自我から解明しようとするかぎり、やはり私にはそこが腑に落ちません。

2ヶ月前 No.44

うどん粉 @levinas ★iPhone=umzLamz8eQ

いや、やっぱりもうちょっと自分で掘り下げてみます。失礼しました。

2ヶ月前 No.45

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

実在唯物のデメリットはあくびと時間の浪費と空費と虚しさだろうね。観念・主観・個人では充実と美と喜びだと

思う。結局は日本人は唯物で人生を終える。観念論の主人はわたしである。我・個人・自分・・・・これはメリット

1ヶ月前 No.46

地下水 ★lHRYPNADL9_Vx8

 主観がいかに形成されてきたのか、主観形成について述べる必要がある。

オオカミに育てられた少女は、話すことも無く、お粗末で人間性も無く、人間社会に入れず、短命に終わった。

私達の主観は、親に育てられて、3歳程度で、凡そはっきりと自己の主観を意識し、周りを見、主観的に自己学習を行う様になる。
ここで私達のと、ある程度複数で言うのは、主観であれ、主観形成の段階では、ある程度の共通性があるからである。

私達の脳神経細胞は、数千億個ある。主観形成の後半では、この神経が連関して、主観的な経験を記憶し、主観的なものの見方が形成される。
物の見方には必ずしも共通性の無いことがあり、主観的な特徴を生じる事も多くなってくる。

学習した言語の基本が共通であり、共感を覚える事も、他者の間で多々あり、紅葉を見るなどの人間として基本的な事柄では、主客の融和を感じる事もある。

燕が柔らかに羽を翻して輪を描いて素早く飛ぶ様を見ると、燕の主観と、私の主観には、大きな隔たりを認めざるを得ない。

1ヶ月前 No.47

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

なぜ「意識=主体」が当たり前となったのか!

意識は客体と捉えられてもせいぜい、脳の中の研究対象である。

なぜ私たちは招かれないのだろう。

…と、深夜に眠れず、思います。

21日前 No.48

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

世界がたくさんあると、イメージしている世界は一つ。

原理は正当化するばかりで、営みを息づかせない。

21日前 No.49
ページ: 1

 
 
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