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 ( 哲学掲示板 )
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のほほん ★Android=ONTpEx39C3

みなさん、哲学的な言葉ってありますよね。ふだんの生活でも聴いたりします。


そこで、ここは自分でも考えたり読んだり、いろいろ書いたりする人が、自分で考えた哲学的な言葉・文章を投稿できる場所です。

哲学的だったらなんでも自由!
みんなも、つくって!ワクワク〜!

3年前 No.0
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悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

ここ、そうみたい。

4ヶ月前 No.1483

うん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_v2j

悪魔さん、かまっていただきありがとうございます。
引用箇所、とても勉強になりました。

ぼくにとって表象は、それほど特別な意味はなく、
ただ思考の起点となるような素材という、素朴な意味で捉えられているのみです。

ただぼくはそれがとても重要な気がします。

ぼくたちにとって、思考しえないものに直面する事態は重大事だと思います。
だからこそ、それを十分に包み込むための表象を与える必要があり、
それを与える機能が作話だと思います。

ぼくたちはみんな、自分なりの物語をもって生きていますが、
それは少なからず、人生において想定外の出来事に直面したときの産物です。

ぼくたちはしばしば、その想定外の、自分のボキャブラリーでは言い表せない何かに対して、
その背後に超自然的な理念を思い描くことで作話を駆動させ、不完全な表象を拡充します。

現在とは英語でプレゼントですが、まさに現在とは贈り物のように、
その得体のしれない何かを表象ですっぽりとラッピングしてしまい、
未来の予期や過去の記憶へと送り届けたり、
そこから受け取ったりできるようにしたもののことだと思います。

意味とは十全な表象のことであり、しばしば不完全な表象が意味を帯びるのは、
理念に息吹を与えられた作話がその表象の不完全さを補うからだと思います。
理念がしばしば、意味の意味となるのは、これを言い表してのことと思います。

こんな「話」、聴いてくれる人は誰もいないので、少々口が走ってしまいました。

失礼しました。

4ヶ月前 No.1484

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

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4ヶ月前 No.1485

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

ここ、「身体」ないよね。

4ヶ月前 No.1486

うん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_v2j

悪魔さん、こんにちは。

>>1486 の投稿を私の意見に対する指摘として受け取らせていただけば、
むしろ表象なるものは身体を通して与えられるものではないでしょうか。

もっといえば、
肉という感性的な基体をもとにして、身体性という形式を介して、
私たちは現前に触れる、手触り(テクスチャー)を感じるのではないでしょうか。

たとえば、手で彫刻に触れるとき、
「手」というある種の世界とかかわる構造を携えた肉が、彫刻に「触れる」ことになります。
目で彫刻を見るとき、
「目」という身体性を骨組みにした感性的基体である肉が、彫刻に「触れる」ことになります。

肉それ自体のみでは、たんなる過敏な塊にすぎません。
絶えまない現前に晒され、ただ恐ろしいほどの刺激を受け続けるだけです。

それが皮膚に覆われることで、
現前との間にスペースが生まれ、その肉塊は場所を持つことができます。

さらに、その皮膚で覆われた肉が、
手や目、足、耳、背中といった形式的な構造、すなわち身体性を帯びることで、
単なる刺激の受容物であった肉が、それを表象として、さらに俗っぽく言えばデータとして、
受け取ることができるようになります。

たとえば、一つの彫刻が現前していたとして、
そこから手を介して与えられる非十全的な表象と目を介して与えられるそれは異なる表象です。
つまり表象は、肉という共通のベースメントを介して与えられるにもかかわらず、
その構造によって内容が異なってきます。

その部分的な表象を、それを制約するコンテクスト(状況や文脈の意)を頼りに、
漠然とした全体のイメージ(理念)に動機づけられつつ繋ぎ合わせることで、
その表象がその現前を十全に覆うことが可能になり、
その現前が「女神像」という意味を伴うようになります。

手から与えられた表象だけでは、その手触り(テクスチャー)があるのみで、
それ自体意味を帯びることはありません。
しかし、たとえば他の目によって与えられた部分的な表象と組み合わさることで、
その全体像が理解されることによって、
「この手触りは女神像の腕である」という意味を帯びるようになります。

>>1484 で述べた
「意味とは十全な表象のことであり、しばしば不完全な表象が意味を帯びるのは、
理念に息吹を与えられた作話がその表象の不完全さを補うからだと思います」
という考えはこのことを意味します。

作話という機能を、より比喩的に捉えるのであれば、
もしかしたらそれは、頭のなかの処理に留まらず、
身体の次元で行われているのかもしれません。
作話がどのレベルで行われているか、
どの程度まで意味を拡張できるかは、まだはっきりしませんが。

4ヶ月前 No.1487

うん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_v2j

すごく個人的な思想を身勝手に振りまいて、
悪魔さんの思弁を妨害してしまい申し訳ありませんでした。

私はいったん、このスレを退きます。

失礼しました。

4ヶ月前 No.1488

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

わたし、perceptとrepresentとconceptを、いちおう区別して見ているけど、わたしの問題のひとつにこの関係もあったわね。

4ヶ月前 No.1489

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

ano〜

(m55)の『言葉』には、「パロール」っていうルビがついていたの、書き忘れていたわ。

ごめんね。

4ヶ月前 No.1490

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1473と〉1474で(m55)って、同じのをつけちゃった。〉1474の方を(m57)に訂正します。

悪魔ちゃん物語り、つづき。

ソシュールは、langage(言語活動)をparole(言行為)とlange(言語)に分け、signe(言語記号)は分離不能なsignifie(記号内容)とsignifiant(記号表現)の2側面で構成されてる、としているよう。

この頃、わたし、身体から「語」を見直して見ている。

1.語は、身体においては、聴語、口語、視語、書語に分けられる。
2.語を「音声語」と「文字語」に区別して見た。
3.聴語・口語は音声語、視語・書語は文字語。
4.paroleを音声言語として見る。

(m57)において、

『言葉(パロール)は身振りである』の「言葉」は、音声語のことで、文字語のことではないと見る。こう見ると、言葉を身振りとすることは、わたしに了解される。

そして『身振りがその意味を含んでいるように、言葉もまたその意味を含んでいる。』。「音声語(言葉)⊂身振り」はシニフィアンで、意味をシニフィエとして見て、身振りに意味が宿るのと同じ仕方で音声語にも意味が宿るって思うんだけど、どのようにしてかを、わたし、考え中。

一方、文字語は身振りではないとして見たとき、文字語の意味は、音声語に意味が宿るのとは異なる仕方ではないかな、って思てる。いまのところ。

わたしは、どのようなものに意味という語を当てているのだろうか?

3ヶ月前 No.1491

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

悪魔ちゃん物語りの遠い遠い話題だけど、

「○○人」っていうこと、どういことなの?

日本人とかアメリカ人とかフランス人、パレスチナ人、アラブ人、ユダヤ人、・・・・、っていう○○人っていう人の分類のことね。

3ヶ月前 No.1492

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 哲学は知るということをごちゃごちゃ考えるのに対して、
倫理というのは食べることを基準に考えるんだなと思いました。
食べるというよりは差別を基準に考えるんですよ。
差別の根源は領土に由来して、領地から食べるものをとる、領土というのは縄張りです。
縄張りは食べることに対する死活問題だから、倫理というのは食べることに帰着する。
何か知るということは知らないとどこに餌があるのかわからないということだから、
哲学的な理屈を輸入してはこれが正しいんだというわけです。
 知れば食べることに必ずしもたどり着くわけがないので、信じても裏切られるというか、
建前が通じないことで問題が発生するわけです。
みんなが丸くご飯のテーブルにたどり着けるなら誰も文句言わない。
椅子取りゲームみたいになってるから理屈をつけてはお前ご飯抜きというゲームを
してるわけです。ちょっと考えれば、人に馬鹿されて腹が立つのは当然だということが、
変だと分かるんですよ。というのも、小難しい哲学書、わからないやつを読んで、
わからないとしても何も腹なんて立たないんですよ。バカも無知も意味としては同じはずです。
その違いは何かということです。難しい数学書でもいいですよ。理解できないから、
人にそれで難癖つけられても腹たたないはずなんですよ。興味ない法律書でもいいですよ。
わからないから人にこけにされてなんで腹立つんだろうということです。
難しいということに対して理解できないことに対して人に言われて腹立つのはそもそもが
おかしいんですよ。

 この話はこれぐらいにしておきます。

今はちょっと本読んで、思ったんですけど、キリスト教って魂が不滅なんだねって
仏教は異端ですね。あれは輪廻転生するけど最後には完全に霊魂を死滅させて宇宙の外に、
飛び立とうと言う話ですし。まあ、500年ぐらいで魂が摩耗して消えちゃうなら、
キリストどっか言っちゃうわけだから、教会どうなっちゃうんだよとなりますよね。

3ヶ月前 No.1493

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

人間身体存続という原初的視点から、政治・経済・宗教などなど…の、文化的存在を見、考えるという、仕方は意味ないのだろうかね?

3ヶ月前 No.1494

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1491のつづき

(m17)言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見し、そしてこの沈黙を破る身振りを描き出すこと。

1.「言葉」とは、音声語のことで、これをパロールとして見る。音声語による言語活動を「言葉」とする。
2.言葉は身振りのひとつ。
3.「原初的な沈黙」を〈0〉、「この沈黙を破る身振り」を〈1〉と表記する(字数へらすためね)。
  一般的に、生後6カ月ぐらいには味・嗅・聴・視感覚はほぼ完成し、12カ月を過ぎるころには、ひとりで立って歩けるようになったり、
  “ワンワン”“ママ”などと言葉を発するようになるようね(わたし、覚えてないけど)。
  「原初的」というのはこの時期のことをいっているのだと見ている。
4.「下」は、presenceね。
  Presenceは、ある〔いる〕こと、存在、出席、人前、などという意味のようで、MPでは臨在、現前と訳されている。

このように見て(m17)は以下のようになる。

身振りのひとつである言葉のざわめきに臨在し、現前する表現されているものの〈0〉における現象を再発見し、そして〈1〉を描き出だすこと、となる。

ここで見ているのは、〈01〉のpresence。
言語は、最初、文字語からじゃなくて、言葉(音声語による言語活動)から覚え、その意味が形成されるよね。〈01〉においては、表現されてるものとその意味は、presenceにおいて捉えられている。

presence――臨在し、現前する表現されているものには以下のようなものが考えられる。
a.時空間的presence全体の雰囲気
b.身振り(身体表現)――身体、行為(体動・音声語)、表情、仕草、生理的変化
c.物
d.文字語

身振りにおける行為を体動と音声語に分けて見た。体動というのは、例えば、走ったり、踊ったりするような体の動きのことで、一応、音声語や他の身振りと分けて見た。また、行為という身体表現には、直接的な表現と表現されているもの、間接的な表現と表現されているものがある。前者を直接的行為、後者を間接的行為とする。身振りは直接的行為の方ね。間接的行為は、例えば、絵を描いたり、文章を書いたり、何か物を作ったりするような行為のこと。

哲学書は、間接的行為によって、文字語を使って表現されているもの。それを読むという行為も間接的行為と見られる。
いづれにせよその意味が問題ね。

この場所は、presenceがなく、文字語による言語活動しかないよね。これが〉1486の意味のひとつね。

この頃の悪魔ちゃんの物語りは、presenceにおける意味の発生の仕方。

〈01〉において、身振りの意味はどのように発生してくるのであろうか。

3ヶ月前 No.1495

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

MP
(m58)『身振りの意味は与えられるのではなくて了解される、つまり、目撃者の作用によって捉え直されるのである。この作用を正しく理解し、それを認識作用と混同しないことが肝心で、問題のすべてはここにかかっている。意思伝達、あるいは身振りの了解は、私の志向と他人の身振りとの間の、私の身振りと他人の振舞いのなかに読みとられている志向との間の交互性によって獲得される。それはあたかも他人の志向が私の身体に住まい、私の志向が彼の身体に住まうが如くである。私が目撃している身振りは志向的対象の輪郭を大ざっぱに描きだしている。私の身体の諸能力がこの対象に適合し、それと一致するとき、この対象は現実的となり、完全に了解されるのである。身振りは私の前に一つの問いとして現れ、私に世界の若干の感覚的な点を示して、この点をたどって身振りに追いつくようにと私を誘うのである。私の振舞いがこの道のなかにおのれ自身も道を見出したとき、伝達が成し遂げられる。私による他人の確認と他人による私の確認とが同時に行われる。』

メルロは身振りの意味を、「理解」じゃなくて、「了解」ってしてる。
あ、正確には訳されてる、っていう感じね。

3ヶ月前 No.1496

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

presenceって、打ち込むのめんどだから、「臨前」ってすることにした。

そして、臨前に表現されているもの(顕在)を「臨前現」とでもしようかしら。

とすると、臨前現における脳の現象は、「臨前現象」ってなる。

3ヶ月前 No.1497

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

悪魔ちゃんの物語りを書くのにしばらく語を探していた。

MP(m59)『運動機能の研究の結果あきらかになったものは、要するに、「意味」(sens)という言葉の新しい意味である。主知主義の心理学、ならびに観念論哲学の強みは、知覚と思惟とが内在的な意味をもったものであって、たまたまあい伴って現れる内容どうしの外的な連合によっては説明されうるものではないということを、難なく明らかにすることができたことにある。コギトはこの内面性の自覚であった。しかしまさにそのために、すべての意義は思惟作用として、純粋な自我の働きとして理解されるに至った。そして主知主義が経験主義を制することは容易ではあれ、主知主義がわれわれの経験の多様性、われわれの経験の不合理なものや、内容の偶然性を説明することができなかったのである。身体の経験は、普遍的な構成的意識によるのではない意味の賦課、つまりある内容に付着した意味を、われわれに認めさせる。私の身体こそ、一般的な機能として行動しながら、しかも実存し、疾病にも侵されうる、かの意味的な核心なのである。私の身体においてわれわれは本質と実存の結びつきを知ることを学ぶのであるが、この結びつきは一般に知覚の内にも見出されるであろうし、その際いっそう完全に記述されねばならないであろう。』

「sens」は英語の「sense」だとすると、senseは〈感覚・意味・意向〉などと訳されてる。このようなニュアンスのものをわたしは日本語で〈センス〉と呼ぶことにする。

『意味」(sens)という言葉の新しい意味である』は、わたしにおいては、「センスという音声語による言語活動の新しい意味である。」となる。

つづく

3ヶ月前 No.1498

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

MP(m60)『われわれは周知の区別に従って、諸言語(langarges)、すなわち既成の語彙と統辞法の諸体系、経験的に存在する諸「表現手段」は、発言(parole)行為の沈積、沈殿であり、まだ言葉に表されていない意味は、この発言の行為において単に外部に向って自己を言い表す手段を得るだけでなく、またこれにおいて初めて自己自身に対する存在を獲得し、真に意味として創造されるのだということができるであろう。あるいはまた、語る言葉(parole pariante)と語られた言葉(parole paril□e)とを区別することもできるであろう。語る言葉とは、意味志向がその生まれつつある状態においてそこに見出されるような言葉のことである。ここでは実存は、自然的対象によって定義されえぬある「意味」を極として、それに向かう。実存が再び自己に追いつくのは存在のかなたにおいてであり、それだからこそ実存は自己自身の非存在の経験的な支柱として言葉を創造するのである。言葉は自然的存在に対するわれわれの実存の超過である。しかし表現の遂行は言語的世界と文化的世界とをつくりあげ、存在のかなたに向っていたものを再び存在に引き戻す。ここから、既成の諸意義を取得された財産のように意のままに使用する。語られた言葉が生ずる。』

presenceする〈0体〉において、FDで『意味を通じて対象と関わる』というその「意味」を考えているなかで、m59とm60をきっかけに、わたしの内に“2つの意味”が見えてきたんだけど。

今の段階では、“それら”を文字語でうまく物語ることができないけれど、“そのような”2つの意味を表すのに近い語をしばらく捜していた。

ひとまず「意味」を、「意」と〈味〉とに分けて見た。

雰囲気的に〈味〉はsensに近い。ただ味は感覚の一つであるため、味に限らず他の感覚をも含めた感覚と、意味、意向というようそのようなものに〈センス〉という語を当てることした。

「意」は何だろうと、ネットで検索してみた。そこで見つけたのが「manas」未那(まな)これを日本語で〈マナス〉とすることにした。ただし、わたしの場合、概念から出発しているので、そのわたしにおける概念に近い思われる既存の語というだけで、manasの意味においてわたしが採用したということではない。だから日本語で〈マナス〉という語記号を付けることにした。必ずしも意味的に〈マナス〉は「manas」と一致しているわけではない。わたしに浮かんできた区別された2つの意味をセンスとマナスとひとまず命名した、ということ。

わたしは、センスとマナスという2つの意味をうまく物語れるかな? ってね。

3ヶ月前 No.1499

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

悪魔ちゃん

「私達」って「私」と「他者」だっけ?それとも「私」と「私以外の私達」?

3ヶ月前 No.1500

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

ヒコさま

「私達」って、私が複数いるっていうことじゃない?

3ヶ月前 No.1501

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_FWA

なるほど。

3ヶ月前 No.1502

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

自立した自我が無ければ他者の中に埋没し自身を見失います・・

3ヶ月前 No.1503

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

自立した自我って、独善のことかしら?

3ヶ月前 No.1504

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

悪魔ちゃんさん

真の共同体を建設するなら自己存在は没我的だという人がいます。(shinwoodさんみたいな人)

人格的存在とは服従することではありません・・

自立した自我とは、孤独と交わりとの緊張の中で自由な選択を持つ哲学的存在です。

3ヶ月前 No.1505

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1505

あ、それじゃ、わたし、自立した自我はないわね。

ところで、おばあちゃまは自立した自我、あります?

3ヶ月前 No.1506

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

悪魔ちゃんさん

私は家業を終え・・(親から)自立した自我があります。

3ヶ月前 No.1507

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

おばあちゃま、

家業を終えられ、ご苦労様でした。

3ヶ月前 No.1508

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

悪魔ちゃんさん

家業は苦行でした・・若い時にしかできないことってあります・・もう無理・・

3ヶ月前 No.1509

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1499のつづき

アリストテレスは『すべての人間は知ることを欲する』という。

ところで、私は何を「知る」というのだろうか?

あれ?循環してる。
でも、メルロは『現象学とは、いつも最初からやり直すという態度で、初歩的な状態にとどまり続けてる。』って言ってるし、いいよね。

「表現されている(した)もの」を「サイン」と呼ぶことにした。
ソシュールの言う、signe(signifie+signifiant)にならって、わたしの場合、signifiantをサインとし、signifieを意味として見た。ただ、これは言語に限らず、表現されている(した)ものとその意味、という見方をする。たとえば、〉1495に記した臨前するものは、時空間的臨前全体の雰囲気のサイン(ちょっと長いのでこれをムードサインとする)、身体サイン、物サイン、文字語サインなどと表言される。また、身体サインには直接身体サインと間接的身体サインとに分けられ、物サイン・文字サインは間接的身体サインに含まれる。

私にはこのような諸サインしか見えていない。意味はどうなっちゃてるの?っていうのがわたしの問題。


ここではひとまず、「知る」とは、この「サインとその意味」を知ること、として見た。・・・けど。

3ヶ月前 No.1510

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

メルロは、認識に先だつ世界を、身体と知覚を考察している、とわたしは見てる。

MP(m61)『われわれはタイプの文字盤のどこに単語を組み立てる文字があるかを示すことはできなくても、タイプが打てるようになることができる。タイプが打てるということは、したがって、それぞれの文字の文字盤上の位置を知っていることではないし、いやそれどころか、われわれの眼前に文字が現れると同時に誘発される条件反射を、それぞれの文字について習得していることですらないのである。認識でも自動機制でもないとしたら、そもそも習慣とは何であろうか。手のなかにある知、つまり身体的努力に対してしか与えられず、客観的な指示によってはいい表すことができない一種の知が問題なのだ。手足の一つがどこにあるかをわれわれが知っているように、タイピストは、文字盤のどこに打つべき文字があるかを知っているのであるが、それはなじみの知によるものであって、客観的空間における一つの位置を数える知識に基づくものではない。タイピストの指の移動は、客観的に記述されうる空間的起動としてタイピストに与えられているのではない。彼女にとっては、それは表情によって他の運動から区別される、運動機能のある転調を意味するのだ。あたかも書かれた文字の知覚が同じ文字の表象を呼び起こし、これがまたこれで、文字盤上の文字を打つのに必要な運動の表象を喚起するかのような、問題のたて方がしばしばおこなわれている。だが、こうしたいい方は神話に類するものだ。』

わたしは、いま、こうして、パソコンの文字盤の上ににわたしの手を置き、指を使って打ち込んでいる。

わたしは、たまに、あれ?「J」はどこにるの?ってしばらく探すことがある。

3ヶ月前 No.1511

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

(m62)『運動を「捉え」(kapiet)「了解」するのは身体なのである。・・・・。
私が差し出されたテキストを一覧するとき生じるのは、表象を呼びさます知覚ではない。典型的な、もしくは親しい表情をもった、もろもろのまとまりがその場で自然と出来上がるのである。私がタイプライターの前に座ったとたんに、私が読んだものをやがてそこにおいて演ずることになる運動的空間が、私の手の下に広がるのだ。読まれた単語は視覚的空間の一つの転調であり、運動の遂行は手の空間の一つの転調である。・・・・。
了解することは、われわれがめざしているものと与えられているものとの間の、つまり志向と実現との間の、一致を体験することであり、――そして身体とは一つの世界のなかへのわれわれの投錨である。・・・・。
タイピストが文字盤の上で必要な運動をおこなうとき、この運動は一つの志向によって導かれているが、しかしこの志向は文字盤のキーを客観的な位置として措定するのではない。タイプを学ぶということは文字盤の空間を身体的空間に統合することであるといわれるが、これは文字通り真実である。』

Kapietはドイツ語らしい。英語では、savvy:知る、わかる、ということになるのな。

メルロは『私が差し出されたテキストを一覧するとき・・・・自然と出来上がるのである。』って言ってるけど、わたしの場合そうじゃない。彼が哲学者でわたしが悪魔ちゃんだからだね。わたしが哲学書を読むとき、それはフレムト的存在として現れている。理解するのが大変っていうことね。

3ヶ月前 No.1512

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

今、私たちはどのような世界に生きているのだろうね。

周囲生活世界なんだろうか、臨前世界なのだろうか、って、ね。

3ヶ月前 No.1513

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_7zY

ぼくたちが日ごろ安らいでいる生活世界には、
その背景に存在(presence)の残響とでも呼べるようなものが
こだましていると思っています。

思うに、その残響が理念の理念性、
すなわち思考に息吹を与える力になるのではないかな、と。

というのも、存在は世界を欠いては、衝撃だからです。

世界を欠けば意味すら付与できないから、
いかなるコンテクストにも乗せることができず、
存在は前にも後ろにも流れず出口さえない。

さし迫りという現象は、
存在のこの特性に由来すると思います。

世界を欠いては言葉にできないから、
存在を自分の人生という歴史に回収することはできない。

だから存在は、それ自体では衝撃であり、
身を引いてくれなければぼくたちは
無‐意味(sense)かつ無‐方向(sense)の闇に突き落とされます。

しかし存在が、追跡できるように表象という名の痕跡を残して、
身を引くことで、存在は裸を覆い謎として立ち回るようになります。
謎はエロス的な魅力を伴って解明する営みを活気づけます。
この謎に伴う衝動こそが理念の理念たる所以をかたちづくると思います。

たとえば自由という理念は、
つねに束縛された今ここの彼方で輝いています。
それが輝くのは、自由になった世界が束縛された今ここにとって、
つねに未知の部分を含んでいるからです。

仮に「檻が解かれれば日の光を浴びられる」という知識があっても、
その日を浴びるという経験の感触が未知数の部分を含まなければ、
そう思うことによって思考が生き生きとはしてこないでしょう。
日に当たる喜びが”想像を絶する”からこそ、自由という理念は輝くのだと思います。

かくして、存在の身を引き隠れるという動性が
理念の理念性を形づくり、思考に息吹を与えるのだと思います。

存在が身を引いてくれるからこそ、語りは活気づき、
生活世界に垣間見える単調さが単なる苦痛に終わらなくなるのだと思います。

しかしなぜ存在が身を引くのかはわかりませんが。

3ヶ月前 No.1514

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_7zY

すいません、スルーしていただいて結構です。

3ヶ月前 No.1515

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

和訳ですか。

3ヶ月前 No.1516

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_7zY

・・・ぼく? 悪魔さん?

3ヶ月前 No.1517

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1517
すめんちゃん、悪魔の世界わかってないね。

〉1514、これじゃ、悪魔の世界では落第よ(おそらくね)。
あなた、人間? じゃ、いくら努力しても限界あるわね。

ちょっと教えてあげましょうか。

悪魔になるために、幼少のころには天使に育てられるのよ。そこでまず「愛」を教わるの。人間の愛とは何かについてね。
そのあと、悪魔のもとで勉強することになるんだけど。

人間社会でいえば、中等、高等っていうかもしれにけど、悪魔世界でははっきり分かれていない。

わたし、今、いわば中等科ね。
また、人間で言えば大学っていうのあるけど、それは魔王候補生ね。でも、わたし、いまのところ、魔王を狙ってないから、どうでもいいんだけどね。

中等科では、いくつかの科があるのね。
必須科目は、「界科」「人間科」「生科」「心科」「物科」「語科」「神科」「信科」「天使科」「魔科」ね。

実は、今、中等科の卒業試験で忙しいの。

2ヶ月前 No.1518

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_15y

はい、了解です。失礼しました。
試験がんばってください。

2ヶ月前 No.1519

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1519、ありがとうございます。お勉強がんばりま〜す。

ちょっとひと休みして、もうちょっと話しちゃおっと。

中等科の卒験はちょっとした実践の報告と一つの論文だけ。各科ごとの試験じゃなくて、科を統合したものが要求されていて、テーマは自由。

んで、これまでのわたしの物語りを整理して、それを提出するつもり。悪魔は人間が対象(神なんて目じゃないわ)。中等科は基礎の段階。人間とは何かについて考察しているメルロの現象学はうってつけの題材。

まだ構想を練ってるところだけど。ちょっと卒論の一部を書いてみますね。

「人間は世界のサイン(表現されているもの、見えるもの)を体−知覚している。諸サインは、別々の体感覚器官によって、いわばバラバラな感覚として知覚域に入り、知覚作用によって、それらが統合される。 体―知覚作用によって、世界は、私において捉え直されている。脳の機能によって〈捉えること・捉えられたもの〉を「セプト」と呼ぶことにする。認識作用とそれによって捉えられたもの(セプト)を「知」と呼ぶ。そして、体―知覚のセプトも一種の知として見る。ここで、認識のセプトと体―知覚のセプトを区別するために、前者を「知」、後者を「覚」と呼ぶことにする。簡単に表すと、セプト(覚・知)。意味とう面から見ると、覚をセンス、知をマナスとして見る。覚という意味をセンス、知による意味をマナスとして見る。諸サインの統合、すなわち体・知覚作用によってセプトされているもの(覚)自体が一種の意味(センス)なのである。臨前においては、可能的身体の感覚器官のすべてを使って臨前の全てが知覚されている。メルロは知覚を地と図とする。全ての臨全が「地」でありそのなかにあるサインが浮かび上がる、これが図。この図はその人間の志向性によるものである。」

メルロはこのような人間のセンス(意味)に志向し、それをマナスしようとしてる。おおかたの人間はこれに気づいてないんじゃない?ってね。自明なものとして、すでにそこにあるものとして、スルーしてるね。そこ、悪魔は利用するのね。これって、何かわくわくしない?

高等科になれると悪魔として認められ、出発できる。そして実践応用を学ぶことができる。でも、高等科に進めないと悪魔にはなれない。悪魔になれないと、ただの人間の魔となってしまう。魔にはなりたくない。わたし、立派な悪魔を目指してる。

もし合格できたら、悪魔ちゃんも卒業ね。

2ヶ月前 No.1520

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

ここにも、話相手いないのかしら。

2ヶ月前 No.1521

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_vDC

悪魔ちゃん

人間は処理能力の限界がすぐきてしまうので、
新しいことを一度に大量に目にしたとき思考停止するんだ。
わからない人には一生わからないよ。

2ヶ月前 No.1522

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

天使ちゃん

メルロは、「哲学とは、世界を見ることを学び直すこと。」って、言ってる。

このわたしが、これまで生きてきた、私の世界を見ることを、その、根本から、

じゃない?


ところで、天使になるのに、わたしたちの悪魔試験とは違って、簡単みたいね。
だって、人間の愛のテクストどおり書けば、たいてい受かるって聞いてるよ。

違うの?

2ヶ月前 No.1523

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

幸福について。

主体はもしかしたら、
場所を開いて招いた客体に肉を裂かれることで、
場所を喪失するかもしれない。

だから主体は、
気配としてさし迫りつつ退く存在を前に、
場所を閉ざす。

客体はもしかしたら、
場所へと飛び込んでまったく表情に欠く主体と対面することで、
場所を喪失するかもしれない。

だから客体は、
気配としてさし迫りつつ退く存在を前に、
場所を尋ねない。

これによって
主体は客体を存在と同一視し、
客体は主体を存在と同一視する。

ここに主客の断絶が生じ、存在は闘争と化す。

主体が存在へと身を開くこと、
ないしは客体が存在へと身を投げること。
この未曾有の冒険において、
存在は主体にとっての客体、客体にとっての主体として、
自らを打ち明け、場所は連なり広がってゆく。

主体は客体を招き、
その客体は主体として別の客体を招く。
客体は主体を尋ね、
その主体は客体として別の主体を尋ねる。

この動性はいずれ円環に至りうる。
円環においてもはや主客は問題とならず、
一切がありのままで互いに依存し調和が生まれる。

ここに主客の調和が生じ、存在は幸福と化す。

最小限の円環は二つの場所において成る。
互いが互いを主客とする完全に調和のとれた融即。

永遠の誓いが幸福と呼ばれる由縁である。

2ヶ月前 No.1524

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

ようは冒険しないと幸せになれない。

人間の愛のテクストどおりの、
生きられねば意味のない話。

2ヶ月前 No.1525

百理 ★5z6bVAmgS3_Y9V

すめんさん

ドイツ語で話すときとフランス語で話すときの気持ちの変化がヨーロッパにはあると思います・・

2ヶ月前 No.1526

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_zI8

>>1523

悪魔ちゃん

俺が見ている世界、そして世界を見ているものとしての俺は、俺にとっては、神によって与えられたものであるのだが、
それは与えられるものではあっても、教えられるものではない。
人間はよく、それを学んだといって自分のものとしようとするが、それを誰かに教えられたとするのならば、
それを教えるのは悪魔だけだ。
そのような悪魔と人間の関わりについて、神による介入があるとしても、それは遅れてやってくるのであり、
人間が見ることを学びなおすというときは、学ぶということの本性が、全くその姿を変えてしまう。
その意味では、世界を見るということのあり方は、その根本から変わるといえるだろうね。



>ところで、天使になるのに、わたしたちの悪魔試験とは違って、簡単みたいね。
>だって、人間の愛のテクストどおり書けば、たいてい受かるって聞いてるよ。

簡単といえば簡単なんだけれども、ふたつの試験は、とても似ているよ。
違いといえば、悪魔のためのテクストというのは、比べると詳細に、そして根源的な部分が書かれていて、
それを手に入れることから、試験が始まっているということだろうね。
とにかく、すごく似ているから、天使が間違えて悪魔の試験を受けてしまうことがあるんだ。
サタンという有名な悪魔も、もとは天使だったそうじゃないか。

2ヶ月前 No.1527

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

>1527
あら、天使ちゃん
幼少の頃に悪魔から教わったこと、勉強したのね。失礼しました。

試験が終わって、あとは結果待ち。で、ちょっと物語っちゃおかな。


サタンは、人間の認識に入っちゃののね。「サタン」って、人間が名づけた名前ね。人間がいうその悪魔は悪魔界では、魔っていう扱い。
いわゆる落ちこぼれね。だって、人間に知られちゃんだもの。

サタンについて話すね。

サタンは、本来、天使になるはずだった(人間で言えば体による凹凸による性別っていうのあるでしょ、そんな感じかな?でも悪魔や天使は人間のような体ないから、わかりにくいかもしれないけど)のね。幼少のころ、悪魔に育てられたんだけど、なぜか人間の魔になるんだと思いこんじゃみたい。そこで、サタンは、悪魔の試験を受けたの(天使ちゃんがいうように、「もとは天使だったそうじゃないか」、「天使が間違えて悪魔の試験を受けてしまうことがあるんだ」)ね。

当然、不合格。

でも、サタンは目的を達成したわ。魔になれたのよ、天使じゃなくてね。

でも、いい迷惑だわ、悪魔ちゃんにとっては。

2ヶ月前 No.1528

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

合格しちゃったもんね〜!

これで、悪魔ちゃんの物語りも終わりね。

人間ちゃんたち、大いに、お悩み。

ウフフ・・・

2ヶ月前 No.1529

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

この掲示板は教えの宝庫であることに気がつきました。

みなさん、……大変に感謝です。

どうかみなさんに知恵が行き渡りますように…。

謝謝。

2ヶ月前 No.1530

★30JjgxOVKX_ZFe

これは素直に通る?

(D我)
『第二省察  人間的精神の本性について。精神は身体よりも、より良く識られるということ
私はそこで、私の見るもののすべてが偽である、と想定する。当てにはならぬ記憶が表象[ナイシハ、再現]するもののうちにはかつて存在していたものは何もない、と信ずることにする。何らの感官も私は全くもっていないことにする。物体、形状、延長、運動、ならびに場所は、幻影であることにする。それでは、何が真なのであろうか。おそらくは、確実なものは何もないというこの一事[のみ]であろう。
  しかしながら、今も今私の列挙したところのすべてとは別箇のもので、それについては疑う事由のそれこそほんの少しもないようなものが、全然ないというわけではないかもしれぬではないか、神、あるいは[神と言っては悪ければ]どのような名でそれを呼ぼうと、何かそういったものがあって、私〔の精神〕にそういう[すべては疑わしいという]考えそのものを送りこんでいるのではないか。なにゆえに[実は]しかし、私はそう考えるのか、たぶん私自身がそういう考えの創作者でありうるというのに。そうならば少なくともこの私は何ものかであるのではないのか。しかしながら、すでに私は私が何らかの感官や身体をもつことを否定したのである。私はしかし[それでも]踏み切れない、いったい何がそこからは〔帰結されるのか〕、と。私は、身体や感官に繁がされていて、それらなしにはかくてありえないのであろうか。しかしながら私に私は、世界のうちには、天空も、大地も、精神も、物体も、全く何一つとしてないということを、説得したのである、が、そうとすれば、また私もないと、説得したのではなかったであろうか。いな、そうではなくて、何かを私に私が説得したというのであれば、確かに[少なくとも]この私はあったのである。しかしながら、誰かしら或る、この上もなく力能もあればこの上もなく狡智にもたけた欺瞞者がいて、故意に私を常に欺いている。彼が私を欺いているならば、そうとすればこの私もまたある、ということは疑うべくもないのであって、彼が力のかぎり〔私を〕欺こうとも、彼はしかし[それでも]けっして、私が何ものかであると私の思惟しているであろうかぎりは、私が無である[アルイハ、何ものでもない、全然あらぬ]、という事態をしつらえることはできないであろう。かくして、すべてを十分にも十二分にも熟考したのであるから、そのきわまるところ「われあり、われ存在す、」という言明は、私によって言表されるたびごとに、あるいは、精神によって概念されるたびごとに、必然的に真である、と論定されなければならないのである。』(『省察と反論と答弁』デカルトより)

これは旧姓「悪魔ちゃん」だよ。

2ヶ月前 No.1531

★30JjgxOVKX_ZFe

私、悪魔になったんで、名前変えたわ。
これからは、あまりしゃべれなくなっちゃたけど、
(D我)に実は魔と悪魔が現れているの知ってた?
デカルトは悪魔の策略にまんまとはまったひとりね。

2ヶ月前 No.1532
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