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少って顔に見えね? 思索スレだよ!

 ( 哲学掲示板 )
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★iPhone=7N1B8VaW5W

つぎの思索スレはきっとうまくやってくれるでしょう。市民、やっちまいな!
文字数が少なすぎるだってお。AAでもぶちこんでやろうかと思ったがさすが賢明な阿さんはそんなことしなかった。賢明なのか。賢明なのだろう。そういうことになった。世はすべてこともなし。

5年前 No.0
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百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐちゃん

現象学がしたいの?

人の道を探しているのではなさそうだけど・・

1年前 No.1444

★30JjgxOVKX_ZFe

いま仕事から帰ってきたところ。缶ビール飲んで書いてるよ。

>1444
「現象学がしたいの?」 意味わかんな〜い。
人間について、メルロの現象学を手がかりに、勉強しているところよ。何言ってるの、おばちゃま。

「人の道」ってなあに?

1年前 No.1445

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐちゃん

説明するのはちょっと長くなるから今日見たテレビで・・

お医者さんが「病気を診ているのではない。人をみている。」って病気の話以外の雑談もするらしいです・・

私はおまわりさんとお坊さんとお医者さんにかかわる時はよほど悪い時だと思います・・

お医者さんにかかわりたくないから・・

自分で自助努力してより良く生きる人間の道・・人道を歩いていきたいです・・

1年前 No.1446

★30JjgxOVKX_ZFe

>1442のつづき

『哲学的な問は純粋な観察者にとって、わたしたちのうちに立てられるのではない。哲学的な問とは、まず純粋な観察者
がどのような方法で、またどのような根拠に基づいて、自己を確立するのか、どのような深い根源から問いを汲み出して
いるのかを知ることである。』

『本質とは存在や世界のあり方やスタイルにすぎないし、「存在」(Sein)そのものではなく「このようにあること」(Sosein)
にすぎない。』

『哲学が本質への問いに還元される傾向があるが、本質への問いとは、それ自体では哲学的なものではない。また場合に
よっては事実への問いも、本質への問いと劣らず哲学的なものとなることがある。哲学の次元は、本質の次元と事実の次
元を交差させる。時間と空間の本質について問うことは、まだ十分に哲学をすることではない。それに続いて時間そのも
のと空間そのものが、それぞれの本質とどのような関係をもつかを問う必要がある。』

現象学に関心がない人には関係ないね。

あー疲れた。きょうはこのぐらいにしておこっかな。

1年前 No.1447

★30JjgxOVKX_ZFe

>1446

「より良く生きる人間の道」?
なによ、それ。

ボケちゃったのかしら。

1年前 No.1448

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐちゃん

ギリシャ哲学をしないでいきなり現象学の一面だけしても・・一側面でしかありません・・

ギリシャ哲学は深い深い根っこが一味も二味も違います・・

1年前 No.1449

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

本質を問うこと、
つまり「〜とは何か」と問うことは、
存在からさし迫りという性格を放逐することである。

・・・

時間を欠いた存在は、
身を引くことなくさし迫る。

存在は存在者となることがなければ、
さし迫るばかりである。

たとえば急に真っ暗闇に放り出されて、
何かの動く気配がしたとしよう。

そのとき私は、
その気配の切迫に息が詰まりそうになり、
居ても立ってもいられなくなるわけだが、
しかしそれでもなお、
私はその場所にいることができる。

このとき暗闇の気配は具体的なかたちをとることがない。
言いかえれば存在者として現れることはない。

しかしそれでもなお、たしかにそれは”存在する”。
つまり暗闇の気配は存在者なき裸形の存在なのである。

ただそれでもなお、その気配は現前することなく、
暗闇のなかに退いて息をひそめている。

それは「いつか」到来するかもしれないし、
到来しないかもしれない。

それは「いつ」なのか。
気が気で仕方ない。

この「いつ」に気をかけられる状況こそ、
他ならぬ”時間がある”ということである。

つまり、暗闇の気配の正体は、時間のもとで退いてもいるのである。

このとき、私のうちで固有のドラマが展開することになる。

「この気配は何だろうか」
「幽霊だろうか」
「そういえばこのあいだも、部屋に幽霊が出たな」
「そうか、この気配は幽霊に違いない」
「ひょっとしたら、この暗闇も幽霊の仕業かもしれない」

この語りのうちで繰り広げられる場面展開は、
”時間がある”からこそ可能である。

このようにして、
次第に状況を明らかにしていった”つもりの”私は、
段々と落ち着いてくるようになる。

やがて部屋に再び明かりが灯り、
私は我に返る。

そこで懐疑に目覚める。

「いやでも、幽霊なんて本当にいるのだろうか」

冷静になった私は究極的にこう問う。

「そもそも何をもって幽霊と言うのだろう」

つまり幽霊という存在者の本質を問うのである。

このとき、存在は完全に、
その裸形のさし迫りという性格を喪失して存在者と化している。

時間のもとで存在が完全に存在者となるのである。

しかしここで問われる本質に対応しているのは、
本当はあのときの暗闇の気配の正体である。

しかし今や、それは気配のまま問われることなく、
「幽霊」という存在者を通して問われる。

気配のまま問われるとき、
まさに問いはさし迫りにおけるドラマであった。

しかし今や、
本質への問いはドラマたりえない。

なぜならすでに、存在は存在者として、
さし迫ることがないからだ。

つまり本質への問いは、
さし迫りという性格を完全に放逐して存在を問うのである。

その問いはすでに、
十分安心できる場所から問われているのである。

・・・

はたして哲学は、
本質を問う学問と捉えられていいのか。

これに対し、
「そもそも何をもって哲学と言うのだろう」
と問うことは封じられている。

・・・

しかしなお、
「さし迫りとは何か」、
もっと言えば「苦しみとは何か」と問うことはできないだろうか。

苦しみというさし迫りを問うことは、
存在を裸のまま明け渡す。

存在者を介することなき本質への問いは、
苦しみを問うことそのものではないだろうか。

苦しみとは何か。

なぜ苦しみがあるのか。

この問いもまた時間を前提としているのだろうか。
あるいは
時間のほうがこの問いを前提としているのだろうか。

答えを与えることなくこの問いに耐え、
問いつづけることこそが、
本当の意味での時間であり哲学たりうるのではないだろうか。

1年前 No.1450

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

人間は幸福になるためには不幸を体験するのが早道である・・あえて逆説でしか感じない・・

幸福だけがあるのなら・・まどろみのなかであるだけ・・

実存が無においてもなお本当の意味で存在することが出来れば無力の征服者となる。

人間を超越すると言う限界状況は、未曽有の苦痛と確信を・・

まずは伝統の歴史的に明哲なギリシャの哲人のような冷静な人間性の尊さを知らねばならない・・

1年前 No.1451

★30JjgxOVKX_ZFe

>1451


「不幸を体験する」「人間を超越すると言う限界状況」「未曽有の苦痛」
この体験をした、限界状況であったのだろうけど、結局は生きているのよね。

「実存が無において」の「無」ってな〜に?
「存在することが出来れば」っていう仮定を前提としてません?

「伝統の歴史的に明哲なギリシャの哲人のような冷静な人間性」って、どのようんして知ったのかしら?

1年前 No.1452

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐちゃん

ギリシャ哲学を御存知ですか?

1年前 No.1453

★30JjgxOVKX_ZFe

>1453
「ギリシア哲学」? わたし、よくわかんな〜い。

おばちゃまは、御存知?

1年前 No.1454

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

およぐちゃん

満月でお外が危ないので隠れます・・食欲の秋・・

1年前 No.1455

★30JjgxOVKX_ZFe

>1455

おばちゃま、「言葉」さがしましたね?

1年前 No.1456

★30JjgxOVKX_ZFe

わたしの教科書の中に次のような記述がある。

『ボールが飛んできて思わず手を出そうとしてしまうとき、その状況には「運動的意味」がある、とメルロ=ポンティは言う。かれにとって意味とは知的解釈の対象ではなく、生きられる次元変換回路である。「笑う」という字を見たとき、われわれは自然にひとの表情を思い浮かべるが、漢字を知らない外国人はは「人が踊っているような形だね」などと言う。外国人が視覚的形状に気がつくのは、視覚次元に変換する回路すなわち言語的意味をもたないからだ。…』

っていうのがあった。「笑」という顔と「少」という顔。アルファベッドでの意味と日本語での意味、人間は経験によって意味を通じて共存する。
かな?

場所を変える。

1年前 No.1457

★EQHsy1rblF_A7b

180527 宗教、哲学、科学の世界を超えて。

何故、教えようとしたのでしょうか?何故、誹謗中傷されつつも伝え続けようとしたのでしょうか?

自らの望む平和の獲得の為なのでしょうか?きっと、そうだろうと思います。

ではこの平和は、自己中での平和なのでしょうか?いいえ、違います。平和ではない者たちへの平和の獲得の方法を伝えているのです。

しかし、それに気づけない者たちは、理屈をこねまわし、常に反発し、したり顔で誹謗中傷を繰り返し、自己正当化を図りつつ、また次の自己中な言動に終始します。そして彼らは、自らが自己中であることに気づけないでいます。愚かな事です。

何故に、個々人の世界観を認め合えないのでしょうか。何故に、愚かなその個人の価値観を押し付けようとするのでしょうか?両者は、似て非なる事だという事が理解できないのでしょうか?

できないのでしょうね。2000年前と同じことが現代でも続いています。愚かな事です。

10ヶ月前 No.1458

★nVtxSBhC9W_A7b

>>1458

> 宗教、哲学、科学の世界を超えて。


以前にどこかで書いたと思いますが、この宗教、哲学、科学はそれぞれ分野が違います。ですが、これらはスペクトラム状の連続体であり、その濃淡により分類されているだけですね。その明確な区切りの線は存在しません。

ですが、その濃淡の濃いところ(例えば、科学)だけを一部切り取ると、それ以外はその分野ではないという判断もできてしまいます。つまり、宗教、哲学、科学はそれぞれ分野が違うというのは、連続体の一部分(例えば、科学)を切り取った場合に、それ以外(宗教、哲学)は、科学ではないという判断をするという事です。

これを虹に例えると、虹というのは基本多くの色が連続したものですが、その一部分の色を切り取ってそれを基準にすると、これは黄色ではない。これは赤ではない、という判断になってしまうという事です。

世間でいう専門莫迦が、時として大局での判断を誤るのはこの為だと思われます。おまけに、欲望や怒り、見栄や慢心等が絡んでくると、もう正しく進む道理はありません。

では、この宗教、哲学、科学の世界を超えることはどうすれば可能なのでしょうか?

これを文字で綴る事も、至極、簡単です。専門莫迦から抜け出せばよいのですね。

その方法は、各個々人での得意分野で知識や経験を積みつつも、他分野の知識や情報を否定せずに、その知識や情報を取り込めばよいのですね。つまりは「思い込み」という本当は存在しない境界線を自らが取り払うという事です。というよりも、その境界線という幻想を見抜く事です。本来はそのような境界線は、存在しないのですから。

しかし、その幻想を真実だと思い込んでいる人には、他分野の情報は受け入れられないかもしれません。そうなると、よくて専門莫迦の世界だけで、一生を終えることになるでしょう。

10ヶ月前 No.1459

久住哲(てじ) @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-798#c

なぜ時間はもとにもどらないのか。

それはひとつの経験にもとづく。

たとえば、英語を聞きとれるようになったあとには、英語を聞くと意味がわかってしまう。言葉は、語られていることをあらわにするようになった。そのあらわされたものに、いやおうなしに、気持ちが引きつけられてしまう。言葉を聞きながすことはできるけれど、英語がわからなかった以前の聞きながしかたとは、やり方が変わった。すなわち、もはや、意味がわからなくあることが不可能。

英語がわからない・聞きとれない・不明瞭(inarticulable, unartikulierbar)である、そんな時期がある。

自転車に乗れない時期、泳げない時期がある。かなづちは、その生涯が、泳げない時期と重なる。

もしかすると、カントを読めない時期などというものもあるかもしれない。すなわち、ひとにとって、ある時を境にカントが読めるようになるという、経験があるかもしれない。

ある時を境にして、何事かを出来るようになると、それを出来なかったかつてのありかたを失う。

「出来ない、かつてのありかた」にあっては、多少複雑な身体運動が、複雑なままになっている。いっぽう、その運動をマスターすると、その複雑な運動は、ひとつの脳内回路として完成されている。そうなるとひとは、その単純化された複雑な運動を、あらたな単位として、さらに高度な複雑な運動を行うようになる。

ある時、分かる。

分かると分かれるをうまく結びつけるならば、分かるとは、それまでは処理できないひとかたまりの雑音でしかなかったものが、音節に区切られ、区切られたそれぞれが、ひとつの意味をあらわすようになる、ということだ。

それまではごちゃっとした無意味な身体動作だったものが、身体のそれぞれの位置の運動および相互の運動の関係が根拠あるものとなり、それぞれが別々になるとともに、その別々な運動がひとつの行為意思から統一感を受けとるようになり、それぞれの動作が意味ある理由あるものとなることだ。

細部について、なぜそれがそうあるのか、分かるようになる。そのようにしてはじめて、それら細かい部分は、他の部分とは異なるものとして認識されてくる。そうして、真に分かれる。あたかも、読書において、これまで「よく分からない箇所」としてまとめて読み飛ばされていた箇所が、それ自体においても中身が分節されて読まれるようになり、その箇所自体も、文章のなかで有意義な位置を与えられるように。

この、分かれながら統一されるという経験。これは、理解・発見・習得・克服・覚悟の経験だ。この経験を経て、もはや状況が一変してしまったと自覚する経験をする。そして、もはや前のようには戻れないと悟る。

この発見が、「時間はもとにもどらない」という発想の根源になる。時間がもどらないとは、時間というなにやら実在的なものが、なにやらぐんぐん進行していて、それは常に一方向に進行するしかなく、逆方向には行かない、という意味ではない。それは確認された事実ではない。かといって、実在的な時間が逆行しうると言いたいのでもない。

「時間はもとにもどらない」という言葉の意味は、そもそも実在的な意味ではなかった(のに、今ではそういう意味にしか解釈されない)と言いたいだけだ。

それは知の状況についての言葉であれば、誰もが経験したことを意味する言葉である。この言葉は、俺たち自身のあり方をあらためておしえてくれる言葉になる。

時間はもとにもどらない、だから、いまのこの状態は貴重だから、変わらないように守らねばならない…というより、いまのこの状態それ自体も、もはやもとにもどれない、取り返しのつかない状況なのだ。

俺たちは、今後起こりうる決定的な変化にさらされる危険を前にしているだけではなくて、すでに起こった決定的な変化以後を暮らしているのだ。それならば、取り返しがつかなくならないように身を守り閉じこもるというのは、錯誤でありうる。なぜなら、もはやいまが、取り返しがつかなくなった以後の時間であるからだ。

4ヶ月前 No.1460

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

てじさん、復活っすか

なら、俺からも、ひとつ、「貴方がたは『時間はもとにもどらない』という言葉で、一体何を言おうとしているのか?」

モチ、パクリっす

ハイデガー大せんせーの存在がどうしたこうしたってやつに書いてるとかいう一文っすね

あれ?、元はギリシャ時代のなんとかさんでしたっけ?

4ヶ月前 No.1461

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

ちょっとさん、お久しぶりっす

もう5年くらいになりますね

4ヶ月前 No.1462

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

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4ヶ月前 No.1463

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

大澤正人先生は『サクラは何色ですか?』において、

「あるものはあるものから生じる」という常識に揺さぶりをかけるところからはじめる。

結果には原因があり、その原因にも原因があり、その原因にも…というふうに無限につづく。その出発点に“ある”ものは、はたして、存在するといえるのか。

>花が咲くとはどういうことか。


花はどこから出てきたのか。つぼみのなかに花はあっただろう。しかし、では、つぼみの前にはどこにあったのか。そのようにして無限に続く。
しかし、花を咲かせるはたらきはあるだろう。
サクラは、春に咲きほこり、すぐに散りはてる。これがたいてい毎年つづく。こうしたはたらきが循環持続している。このはたらきにおいて花が現れて、ひとはその場に居合わせる、花見する。

ところで、はたらきもあるだろうけど、そのはたらきの結果でてきた「花」もまた「ある」だろう。あるものを生じさせるあるものが、究極的にはあるのかどうか、これはすこし疑わしくなった。しかし、とにかくはたらきから生じたあるもの、結果というものは、存在するだろう。

>その結果としてそこにある花なるものは確実に「ある」と言えるのだろうか。

>何を言っているんだ。サクラの花はそこに「ある」じゃないか。それは確かなことじゃないか。

>はたしてそうか。そう見えるだけかもしれない。

>それなら触ってみれば間違いないじゃないか。どうしてそうまで疑わなくてはいけないんだ!

>確かにしっとりした花びらの感触はある。しかし、それとてデカルトのようにどこまでも疑うことができる。触覚という感覚に欺かれているのかもしれない。


サクラの花も、座っている椅子も、ヒトの感覚器官によって感知される限りにおいて、その感知される仕方におうじて「ある」。
ある種の昆虫は紫外線を見る目をもっているが、そのような昆虫からみてはサクラはまた別様な世界において別様に「ある」。

>そういう立場で考えれば、確実にそこにあると思っているものは、われわれの感官がとらえる限りでの現象でしかないということができる。


俺たちの外部にあるものの存在は疑うことができる、確かに存在するとはいえない。では、確かな存在は俺たちの内側にあるのだろうか?外部に存在するなんらかの多様なものから触発されて、俺たちの内部にサクラの表象が生じるのだろうか。例えば、夢にサクラが出てくることもある。外部に花のようなものが存在していなくても、俺たちの頭のなかにはサクラの表象が存在しているのだろうか。しかし、つぼみから花が現われるように、サクラが頭のなかに現れることはない。俺たちが目覚めているときにサクラを見知り、それが夢にも出てくるのだ。

サクラは、外部に確かに存在するとも言えず、頭のなかに確かに存在するとも言えない。

では、確実にあるといえるのは、何なのか。

われ思うゆえにわれあり。

我こそ、疑っても疑っても疑えない、本当に確かに存在するものだ!

ものの存在を疑っても疑っても、疑っている自分自身を疑うことはできない。

しかし、悪魔のようなものがいて、「俺はものの存在を疑っている」と思わせているのかもしれない。俺は疑っていると思い込んでいるが、実はそのように思い込んでおらず、疑ってもいないのかもしれない。しかし、もしそうなら、そのような思い込ませる魔術の対象として、俺は存在することになるだろう。と、思っている自分もまた、そのように思うようにさせられており、本当はそう思っておらず、存在していないかもしれない。しかし、もしそうなら、やはり俺はそう思わさせられる対象として存在していることになるだろう。しかし、これもまた…

すなわち、

>「我思う、ゆえに我あり」と我思わされる、ゆえに思わされる我あり」と我思わされる、ゆえに思わされる我あり」と我思わされる、ゆえに…

>俺「いつまで続くのですか?」

>デカルト「無限に続くよ。


と、ここまでは、「ある」ということにこだわっての思考法である。
真に「あるもの」というのは、「確実に存在するもの」だ。
確実性が、存在の基準である。
だからこそ、「疑う」という行為が、存在証明のために採用されたのだ。

そういう考え方をやめてみよう。

>…見て、触れて、「ある」と思えるものは「ある」でいいじゃないか。


サクラは本当に存在するのか、などと問わなくてもいいじゃないか。
仮にこの世が現象だけの世界でも、その現象がとにかく現れているってことでいいじゃないか。

けど不思議なことが残る:

どういう風にしてサクラはこのように現れているのか?

サクラが現われるためには、サクラが現われる場所が「ある」のでなければならない。

私がサクラを見るとなると、主客の対立が生じる。これらの対立を包みこむ場所がある。

>見るものと見られるものが同一であるところ、それが西田の言う「場所」だ。


>デカルトのように意識が「われ」の意識である限り、内と外の対立は解消できない。この矛盾する「われ」の意識をも映す場所がある。

4ヶ月前 No.1464

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1463 の一文において「全て」という字が鉤括弧で囲まれたことについての注。

>関係が友達関係として安定してしまったあと、その関係において「全て」が滞りなく進行するようになってしまったあと、その関係を崩す(以下略)


俺たちの時代において、友達だけど関係をもつという関係は考えられる。俺たちの一部の者は、切り離して考えることができる。
しかし、一般的に、友達だけど関係をもつということは語義矛盾みたいなものであって、友達関係において滞りなく進行する「全て」のなかに、それ は含まれない。「友達以上」という言葉はそれを仄めかす。それ は友達関係における「全て」の外側にある。全てを超える余剰である。もしも友達同士が関係をもつならば、それは、違う関係への移行であるのだ。違う関係における「全て」にそれ は含まれる。



全てが滞りなく進行する。

ここでいわれる「全て」とはなにか?

そのとき統べるものに統べられる統べてのものである。



友達とすることで、思いつくことは沢山ある。友達と会い、遊ぶとき、何をしようかと話すとき、色々なことが思い浮かぶ。話のなかに様々な話題がでてくる。それらの話題は集められる。集めたてることを、総べるという。総べての、その結果のもの、それが「すべて」だ。「加工してのもの」とか「潰してのもの」とか「乾かしてのもの」というのと同じように、全てというのは「統べてのもの」である。

友達関係が総べる結果、すなわち、友達関係が総べてのもの、ここにおいて「あり」なものと「ない」ものがある。

関係において、「あり」と「ない」が分かれ、「全て」が決定される。

ないものははじめから問題にされない。

ないものが問題になるということは、それは、別な関係への移行が予感されている場合だ。

何が全てであるか、それが揺らぐ。
何が「あり」で何が「なし」かが揺らぎ、気まずさがたちこめる。

友達としては「ない」行為がなされることで、関係は移行を開始する。

「友達」の「意味」が変わるか、友達でなくなるか。

「そういうふうに見られない」とか「そういうつもりじゃなかった」という言葉が発せられる。

そういうふうに見れないということは、そういうふうに現われないということ。
そのような見地すなわち「場所」に立っているということ。

「つもり」というのは積もりであり、見積もりであり心積もり。投企のこと。
それは相手をどのように見るかにかかわるとともに、相手にとって自分はどのようにあるかということにもかかわる。
「そういうつもりじゃなかった」というのは、自分は相手の“望む”あり方になれないということであり、別なつもりだったということ、すなわち、
別な場所に立っていたということ。

人間関係は、「あり」や「ない」が現れてくる場所である。

合意とは、人間が同じ場所に立つこと。
「合」とは、言動がくいちがわないことである。言動は、お互いに「そのつもり」ならば、くいちがわない。
「意」は意味であり、そこにおいて「あり」と「ない」があらわれる、積もられるもの(場所)である。
同意も同様で、「意」が「同じ」ということは、立つ場を同じくする(一緒)ということだ。

「無理」とは、理が無いことであるが、理とは、「あり」として現れるということだ。
無理とは「あり」ではないこと。
「かんがえられない」ということ。
或いは「理解できるためには、別なつもりでのぞまなくてはならない。すなわち、投企する先を変更しなくてはならない。別な場所に立たなくてはならない」ということだ。相手と自分との関係を実際とは別なふうに頭のなかで考えなおすことは論理的には可能なのだが、しかし俺たちは、いまじぶんが考えている実際のありかたへと「投げられて」いる。
気持ちとして、無理なのだ。き も ち わ る い のだ。

なので「スクリーニング」が重要だといわれる。そのつもりでないものをはじき、また、しっかり考えていない者を、「同じつもり」すなわち「同意」へと誘うために。全てが滞りなく進行するために、すなわち、全てのなかにはじめからそれ が含まれるように、仕組むのだ。
そこには、相手の価値観操作も含まれる。また、明言によって相手の立ち位置を操作することも含まれる。これは「言い訳する余地をあたえる」と呼ばれる。

そうして、滞りすなわち「グダ」を回避しようとする。
グダはたいてい形式グダである。しかしだからといって、この逡巡拒絶を無視するならば、それは「無理やり」となる。
形式グダは、関係がそのようにあることになっているという常識と、欲望との、矛盾の時間であり、移行の揺らぎの時間である。
欲望の先は原始的なものだが、しかし欲望の結果は、保守的なところからの逸脱である。すなわち、どこか新しい。

声かけによって、声をかけられたものは、いつもの日常から離れ、ぼんやりとした一般的な場所を予感させられる。
連れ出しによって、連れ出されたものは、ぼんやりとした場所から、対面の場へと移る。場所は主に、会話の場へと「限定」されてくる。
なごみがあり、相手と親しくなり、自分と相手とのキャラクターの関係が生じ、場所はより一層限定されてくる。
共感が、言葉の意味と力とを強めていく。「分かる」が繰り返され、この「理解」の根拠(場所)がつくられてくる。
そしてぎらつく。つくられて間もない場所において、打診が自然なものであるという印象がうまれる。
ためらいはある。
そして、やがて言葉はなくなり、動作が神秘的意味をもつ場所にでることになる。
俺たちは言葉が噛み合うことを確認することでフィードバック的に同じ場にいることを確認しあっていたのだが、いまや、ひとつになって、ひとつの場所(時間)になる。
俺たちの身体が場所になり、舞台になる。



>存在への視向において存在による連帯を授かるやいなや、人間は自分を超えて立ち出で、いわば自分と存在との間に展開され、こうして脱自的に存在するようになる。このように自分を超え出て高められ、存在そのものへ惹きつけられることが、すなわちερωs(エロス)なのである。存在が人間への関わりにおいて《エロス的》な威力を揮う力をそなえているかぎりでのみ、人間は存在そのものへ思いを致して存在忘却を克服することができるようになる。


ハイデガー『ニーチェ』より。

4ヶ月前 No.1465

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

哲学的というか、心理学的というか微妙。これは、俺の無責任な批評。これじゃあんまりかと思うので、ハイデガーの『ニーチェ』の一節について考えてみる。

「存在への視向において」
これは、一体、何を言っているのだろうか?ハイデガーは存在という言葉で一体、何を意味しているつもりなのか。「視向」という言葉で、存在は視ることができる何者かとして語られている。(このあたりは、俺の無知のせいかもしれないが)一体、どういうつもりなんだろう。視ることができるということは、それが現象であるということだ。現象は「存在」に値するものではない。理由は簡単。目を瞑れば、消えてしまうから。「存在」という以上、その有様の確実性が、そのような儚いものであってはならないはずだ。にも、かかわらず、「存在への視向」などという言葉が使用されている。これは、俺には晦渋なものだ。視線の向こうにある「存在」を見通しているとでもいうのか。ず〜っと前にも書いたけど、これは「自然的態度」としか俺には思えない。屁理屈書き並べても同じだよ。

「存在による連帯を授かるや否や」
連帯?存在に対して、連帯?ハイデガーは存在という言葉で一体、何を意味しているつもりなのか。連帯できるのは、自然的意味では「他者」以外にありえない。ハイデガーは「存在」を「他者」の意味で使用しているのだろうか。それなら、話は分かる。「現存在」とか言っても、要は自分のことだから。

「人間は自分を超えて立ち出で、いわば自分と存在との間に展開され、こうして脱自的に存在するようになる。」
過剰な表現である。心理的に眺めると分かりやすい。要は、相手の立場になって考えるようになるってことだろう?この辺りに、俺は、ハイデガーの怪しさを感ずる。哲学的装飾を纏いながら、ごく、当たり前の人間心理を語っている。俺は訝る。結局、そういうことなんじゃないのか。そういうことがあるから、そこに流され、ナ〇への加担にもつながるのではないか。

「存在そのものへ惹きつけられることが、すなわちερωs(エロス)なのである。」
ここまで書かれると、俺には、ハイデガーが「存在」という言葉で「他者」を言っているとして思えない。いやいや、モノマニアってもあるからな。言い過ぎいけない。よく見るよろし。

「存在が人間への関わりにおいて《エロス的》な威力を揮う力をそなえているかぎりでのみ、人間は存在そのものへ思いを致して存在忘却を克服することができるようになる。」
文学的レトリックである。哲学的意味を見出すことができない。心理的にとらえれば、「存在忘却」とは自己自身のみに関心があること、つまり自己愛であり、「自己自身以外」に愛情を感ずることによって、そのような状態を抜け出すことが抜け出せるって書いてるわけで、それなら、大したことは書かれていない。ここに、何か特別な哲学的意味があるのか?(哲学的意味とはなに?なってイジワルなこと聞かないでね。)ニーチェもそうだが、心理的な感じ。ここで、ハイデガーをブッタ切るきれのよいアホリズムを書ければかっこいいのだが、適切な表現が思い浮かばないのは、残念なことである。

4ヶ月前 No.1466

メドベ ★bO2ykqzlUV_Ew9

>>1466

>現象は「存在」に値するものではない。


ハイデガーは、存在を現象と捉えている。かといって、存在してるもの(ハイデガーはこれを「存在者」という)が、眼を瞑れば消えてしまうもの、と考えてるわけではない。
この辺のわかりにくさは、ボクらが何気なく、「なにかがあること(存在)」を、当然のこととして受け入れてしまっているという事情に原因がある。「なにかがある」なんて当然のことなんだから、「存在」については今まではあんまり深く考えられてこなかった。
ハイデガーは、「存在」について考えてるんだけど、いざ「存在とは何か?」という問いを立てようとしても、それは長いあいだ深く考えられてこなかったもんだから、ほとんど手探りな状態から始めないといけない。「存在」を、どのように考えたらいいのか、どこから考えたらいいのか、どう捉えたらいいのか、このあたりから考えないといけない。「存在とは何か?」という問いを立てるために、まずはいろいろな方法を新しく「開発」しなきゃいけない。新しく開発したもんだから、「存在と時間」には、新しく開発された聞いた事がない言葉がたくさん出てきます。言葉だけではなく、その考え方、道筋、捉え方、これらも馴染みのないものばかりで、この本はすごくわかりにくい。
その一つが「存在を現象と捉えている」というものだろうと思います。

存在を現象と捉えるとはいったい?
それを手がかりに存在の謎を解明できるのか、はたまた…
マルティンハイデガー著「存在と時間」 全国のけっこう大きめの書店とかで絶賛発売中!



「ニーチェ」講義については、ニーチェの思想をハイデガーが読み解くということですから、その内容は、基本的にはニーチェの考えなのだと思う。

ニーチェは、「存在者(存在してるもの)」を「力への意志(力)」というふうに解釈していて、「力への意志」=「芸術」=「えろす」という図式で捉えており、ニヒリズムを克服するためには「創造(芸術)」が必要だと考えている。
「えろす」とは「愛すること」であり、愛するということは、物欲しそうに何かを「視向」するものだ。
「愛する」=「何かを欲する」=「力への意志」
ニヒリズム克服のために必要なものは、「創造」であり、創造とは「芸術」であり「えろす」であり「力への意志」である。
芸術に酔いしれている状態、何かを愛するという状態、何かを欲するという状態が、「自分を超え出ている」、つまりニヒリズムの克服になる、というのがニーチェ思想として、ニーチェ講義で言われてたようなきがする。

ここに示した構図で引用箇所を読めば、違った感想になるのではないでしょうか。

4ヶ月前 No.1467

メドベ ★6GwQYswZZ9_Ew9

>>1467
1467のニーチェについての記述は全削除!!
よく見たら、久住哲さんの1465の引用箇所はニーチェ思想とほぼ関係ないわー。
引用箇所は、ハイデガーの「存在」についての考え方だね。
「エロス=愛すること」 ←これだけで充分

混乱させてごめんなさい

4ヶ月前 No.1468

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

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4ヶ月前 No.1469

メドベ ★6GwQYswZZ9_Ew9

>>1466

<ノートのコピペ(出所不明)>

【脱自的】 「本来的時間性」の特性。「己の外に抜け出して立つ」ということ。
【時間性】 「己を時間化する働き」のこと。
【己を時間化する】 現在に差異が生じ、未来とか過去とかよばれている次元が開かれ、時間という場が繰り広げられる事態。
【本来的時間性】 将来は究極の可能性である死への「先駆」、既在はあったがままの己を再び取り戻しそれに意味を与え直す「反復」、現在は先駆し反復する事のうちで開かれる「瞬間」。「非本来的時間性(目の前に現れてくる事物との関わりに没頭する)」と対比される。

>現存在には存在了解が具わっているだけではなく,この存在了解が現存在自身のその時々の存在形相に伴って発達したり崩壊したりする。(「存在と時間」より)


【現存在】 存在が働く場は「人間」で、存在作用の場となっているという意味で、人間のことを「現存在」という。
【存在了解】 人間(現存在)のうちで起こる一つの働き。その働きによって、「あるもの(存在者)」として見えてくる。

>〈存在とは何か〉という問いは、現存在の〈存在了解〉へ向けて問いかけられねばならない。

>現存在のあり方に応じて存在了解のあり方も変わる。「本来的な」あり方をしている現存在の存在了解に問いかけなくては、存在の真の意味をとらえる事は出来ない。

>現存在の存在構造を確定し、本来的なあり方をしている現存在の存在了解に問いかけて、はじめて存在の真の意味をとらえる事が出来る。



1465の引用箇所の解読に少しは役に立つかも?
いやいやお代はけっこうですよ


>>1469
...見えない たぶん18禁だな (来年までにはがんばってアカウントとるぞお)

4ヶ月前 No.1470

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

ふむふむ、「存在」の前に「存在了解」が先立つというわけだな。それは、納得できる話だ。

4ヶ月前 No.1471

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

なぜ懐疑するのか?



哲学ゲームを戯れるためだ。
言葉遊びですね。



いっぽうで、「俺に生きている意味なんてない」などと思い、実際に行動不可能になることはある。このとき「なんで俺は存在する?」と思うが、これは戯れではない。しかし、これはまた「質問」でもない。この痛々しい自問から連れ出してくれるものが、神だ。神は突然ひとを許す。



あるいは、謎にぶちあたったとき、ひとは問う。
「なんでだ?」と。



>「存在への視向において」

>これは、一体、何を言っているのだろうか?ハイデガーは存在という言葉で一体、何を意味しているつもりなのか。


言葉が事柄を覆い隠す。

ほんらい言葉は、起こっていることを伝えるためのものなのに、その同じ言葉が、起こっていることが何なのかを分からないようにしている。

何を言ってるんだ?という質問にたいして、
「『存在への視向において』と言ってるんですよ」
と答えても、答えになっていない。

そこで俺は
「有るものが有るということの不思議に、目を奪われている、そういう意味ですよ」
と答える。

すると
「なんでそんなこと言える?」
「有るものが有るということの不思議って何?」
「目を奪われる」ってどこから出てきた?
という問いが生まれる。



いや、少し待って…ときほぐしてゆくと…

まず「存在への視向」という字をみると、「存在を見るの?なにそれ?」という疑問が浮かぶ。

そこで「視向」という言葉で、存在は視ることができる何者かとして語られていると断言する余地があたえられる。
「存在への視向とは、なにか可視的な物が見られていることだな」と解釈される。

「存在への視向」と語ったのはハイデガーであり、ハイデガーが「存在」と「視向」を結合させた。この2つを結びつけるとしたら、存在というものを、見ることができるもののなかに数え入れればいい。犬、壁、空、映画、ひと、木など、可視的な物はいろいろあるが、存在もそのうちのひとつだ。

(しかし、存在なんて見たことないけどな。なんでそれを目に見えるというんだろう。ああ、そうか、犬、壁、空…こういう目に見えるものたちを、ハイデガーは「存在」と呼んでるんだ。すなわち、「存在は現象一般の名前」なんだな!そのようにして、この哲学者は、発想を転換させてるんだな!俺は存在なんて見たことないと思ってたけど、いつも見てる犬、壁、空…が、実は存在だったんだ!以下略)

つまり問題はあくまでも呼称方法であり、言語内の問題なんだ。



しかし、ここでまた「存在を見る?なにそれ?」という問いにもどる。別な回答パターンはないかな…?

そこで俺がプラトンの話を思い出させる。

魂が地上の肉体にやどるまえ、魂はイデア界を旅して、ある魂はぜんぶのイデアをしっかり見るけれど、ある魂はちゃんと全部のイデアを見ない。ぜんぶのイデアを見たからといって、その魂が肉体にやどるときには、たいていの記憶をうしなってしまうんだ。

ところで、「イデア」って「真実在」のことだよ。つまり、「本当に存在するもの」のこと。移ろいゆく現象は仮象であり、本当には存在しないものだけど、イデアは真に実在するんだ!

そして、それはイデア界で魂によって見られる。人間は、地上で物をみたとき、かつてイデア界で見たことがあるイデアを想起するんだ。だから、真の存在についての知識は、生まれる前から俺たちの魂のなかにあるんだよ!!その元からあるものを思い出すだけであって、地上で新たに得る知識は、厳密にいうと、無いんだよ。

「存在への視向」は、「魂がイデアを見ること」を意味している。あるいは、イデアの想起のことを言ってるんだ!

つながった?

「存在」と「視向」は、イデア論でつながる。

見るというのは、心の目で見ることであって、肉体の目で見ることじゃないんだ。



そしてハイデガーはプラトンを批判する。

プラトンが「存在者の存在」を「イデア」という言葉で言ったことにより、存在者の存在は忘れられて、イデアは「最も存在的なもの」になった。すなわちこれまた「存在者」になった…と。

そしてこの見られるものは、現象となり対象となり、最後には用象(Bestand)となり、人間のビジネスの一品になりさがる。



しかし、存在は存在者ではない。


という風に、話はつづく。



ハイデガーは、プラトン哲学が「頽落」する前の段階でのプラトン哲学を使用しようとしている。イデアは現代ではくだらないものに成り下がってるけど、その元々の素晴らしさを回復させようってかんじ。

プラトン自身はイデア経験をしており、それを言葉にし、しかし、その言葉が事態を覆い隠していった。けど、覆い隠していくまえ、その言葉は生き生きと意味をたもっていた。なぜなら、プラトンは自分の真理経験を完全に念頭において語っていたんだから。すなわち具体的だった。



しかし、またまた「存在を見る?なにそれ?」という問いにもどろう。

たしかここではερωsが話題になっていた。
これは惹かれるってことだ。
惹かれることの一種として、見る、があるのではないか?
美しい人とすれ違うと二度見してしまう。
見とれてしまう。
ここでの見るってそういう意味では?

だから「見るとは、目を奪われること」だ。



しかし、問題はこれの哲学的意味だ。

かんたんな話。

目を奪われる美しいものを愛する、フィロソフィア。
しかし、知が美しいのではなく、
知は、目を奪うという点で、美と共通しているのだ。

4ヶ月前 No.1472

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

なぜ、フィロスじゃなくてエロスなんだろうな?

4ヶ月前 No.1473

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>1473

『パイドロス』では、エロース(愛の神)に物語が捧げられる。そういう外部的な事情でしょう。

4ヶ月前 No.1474

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

いまいち、ピンとこないけどね。ま、いいか。例の一節は、ざっくり言うと「<存在>について考えることが哲学なんだ」って言ってるってことね。<存在>とは何だろう。存在(Sein)、存在者(der Seiende)、現存在(Dasein)と並べて、現存在は要は(今を生きる)人間のことだから、ま、いいとして、存在と存在者の違いがよく分からないから、Seiendeを調べてみると、なんと「人間」と出てくる。この辺りのドイツ語の語感というのは、よく分からないところだが、(そう思うと「人間」という日本語の語感もよく分からないが、「人」と「人の間」が同じ意味(ホントは微妙に違うと思う)なんだ)、存在(Sein)が何かを示唆しているように思われる。SeinとSeiendeの違いは人と人間の違いのようなものか。解説書によると「存在しないもの」でも存在者とされるらしいから、そういう喩えはどうかという気もするが、なんだか、存在(Sein)とは人間のことなんじゃないかという疑念がわいてくる。俺のカンなんだけどね。人間なくして存在了解はなく、存在了解なくして存在はないと思えば、大外しはしてないんじゃないかな。

4ヶ月前 No.1475

久住哲 @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>例の一節は、ざっくり言うと「<存在>について考えることが哲学なんだ」って言ってるってことね。

俺は分からない。
そういう結論で気持ちよければ、それでいいんじゃないかな?
ちょっとさんが哲学にたいしてどういう考えかは分からないし、聞かせてほしいけど、
俺は判明の快楽を求めて、読書している。気持ちいい解釈ができれば、俺はそれでいいんだ〜。

俺はその答えではもやもやして気持ちよくないので、まだ答えは出さないんだ。
「これで全部がつながった!!」という感動を味わいたい。

>解説書によると「存在しないもの」でも存在者とされるらしい

それは「無は無で〈ある〉」からですね。〈ある〉んだから〈あるもの〉であり「存在者」だろっていう。
だからハイデガーは「無は無する」と「Das Nichts nichtet. 」という。
はいこれで「存在する」しません、っていう。無理矢理だけど、ひとつの手段ではありますよね。

ハイデガーはこう言うんです:
>Aber einmal 《ist》 das Seyn uberhaupt nicht, sondern west. (BP255)


でもこうも言う:
>das 《isten》des Sens, das allein《ist》. (E265)


最初の文では「存在は『ist』しないんだ、westするんだ」と言っているのだが、別な文では「存在だけが『ist』するんだ、westというのは存在のistenなんだ」と言っている。
istについてる括弧が、鍵かな〜とも思うんだが、はたして・・・

ハイデガーは「ist」を怪しんでいる。そしてこのSeinの三人称単数を更に動詞化して「isten」という存在しない動詞をつくっている。日本語で言えば、「ある」という動詞から「あるする」という動詞をつくるようなものだ。

なんなんだろう・・・?



>存在と存在者の違いがよく分からない

俺もです。



>存在(Sein)とは人間のことなんじゃないかという疑念がわいてくる。俺のカンなんだけどね。

その想定(投企)でもって、ハイデガーを読んでいけば、その想定が正しいか間違いかは検証されてくるでしょうね。
けど、存在(Sein)は人間のことだとして、それでなにか人生が変わるのかって、俺は思ってしまう。
俺はプラグマティストだからね。

>今もし一つの観念が他の観念よりも真であるとしたならば、実際上われわれにとってどれだけの違いが起きるであろうか?もしなんら実際上の違いが辿られえないとすれば、その時には二者どちらを採っても実際的には同一であることになって、すべての論争は徒労に終わることになる。

>真の観念とはわれわれが同化し、効力あらしめ、確認しそして験証することのできる観念である。

ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』より

その想定によって、ハイデガーをよりよく読めるようになったり、ハイデガーなんて全然読まずとも、その想定が自分の世界認識を少しでも変えるならば、そう想定すればよいけれど、なにも変わらないならば、「仮にそれが正しい解釈だとしても」それは無と同じになるだろうな。

なので
>人間なくして存在了解はなく、存在了解なくして存在はないと思えば、大外しはしてないんじゃないかな。

というのが正しい(それほど外していない)のだとしても、それでなにも変わらないならば、
何も起こっていないのとちがわないのではないかと、俺は思ってしまう。

けど、ある観念を採用して、違いが起こるか起こらないかっていうのは、実際に違いが起ってくるまでは分からないっすよね。
たとえばジェイムズはヘーゲルとかドイツ観念論を静的真理観だとして批判しているんだけど、ヘーゲルって人生を変える力をもっているんですよ。でも、自分の考え方などがヘーゲルを読むことで一新されるまでヘーゲルの文章につきあってやらないかぎり、そういう変化って起こらないっすよね。ただヘーゲルを読むだけの根気がないんじゃないかっていう(…そこはなにも言えないけれど…)
こういうプラグマティズムは、ドイツ観念論っていう難しいものを解き明かす仕事をサボる口実になる、すなわち、すぐに成果(変化)が出るものに当たることこそ、真理への従事だという見かけをひきおこしますよね。

けど俺も自称プラグマティストだから、例えば、「isten」っていう動詞を造語して、何が変わるの?と問いたい。
そして、違いが目に見えるまで見届けたい気持ちがあります。

ちょっとさんはいかがですか?

4ヶ月前 No.1476

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>> >例の一節は、ざっくり言うと「<存在>について考えることが哲学なんだ」って言ってるってことね。

俺は分からない

あれ?読み誤った?てっきり貴方の例の一説に対する解釈がそうだと思ったんだが。他に読みようなさそうだけどなあ。


>ちょっとさんが哲学にたいしてどういう考えかは分からないし、聞かせてほしいけど


ワタシが哲学に対してどういう考えなのか私は言わない。(アベさんの「靖国に行くか行かないか私は言わない」を思い出してみよう。)


>俺は判明の快楽を求めて、読書している。


そうか。俺はちと違う。しかし、私は言わない。


>istについてる括弧が、鍵かな〜とも思うんだが、はたして・・・


istて英語のisだよね。ざっくり言ってそうだよね。英語では「有」はbeingらしい。なんか不便な言語だな。


>俺はプラグマティストだからね。


え、そうなの?と信用してみる。ジェイムズ重要、あの西田先生の純粋経験の元となり、あのラッセル先生が、「(なんも分らんかった)昔はちがったけど、今はジェイムズに同意する」的なことを書いてたからね。ジェイムズの純粋経験を読んでみたことがあるけど、さっぱり、分らなかった。


>正しいのだとしても、それでなにも変わらないならば、何も起こっていないのとちがわないのではないかと、俺は思ってしまう。


そうかも知れない。そうでないかも知れない。俺的は存分に何かが起こっている。以前とは、だいぶん、世界に対する見方が違うよ。けど、何も起こらないでも構わないと思う。それで、何が問題なのか。

3ヶ月前 No.1477

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

言わなくていい 聞かなくていい 知らなくていい 知らせなくていいぜ

>istて英語のisだよね。ざっくり言ってそうだよね。英語では「有」はbeingらしい。

たぶん、そうでしょうね。そして、日本語には「is」に当たる言葉はないと思う。

>あれ?読み誤った?てっきり貴方の例の一説に対する解釈がそうだと思ったんだが。

うーん、「<存在>について考えることが哲学なんだ」と俺が俺自身に解釈づけたとしても、俺は、自分の解釈案が「証明」されるまでは、その解釈案はあくまでも予感にすぎないと思っている。カン、みたいな…?カンをはたらかけるまでは行っても、そのカンが当たったことを確認するまで、俺は「分かった」と思わない。だから、分からないと言いました。

>何も起こらないでも構わないと思う。それで、何が問題なのか。

俺は快楽を求め、ちょっとさんは、言わない。俺たちは違う。俺たちが違うことに問題はない。俺はそう思う。お互いを尊重するってこととも、少し違うかも。

俺は書く、引用する、リンクを貼る、楽しいな〜。書くために読む、そして読み、書く。書くとまた読みたくなる。俺はできるだけ健やかにこの道を行くぞ〜(^○^)

あなたの世界の見方の変化が、あなたをより元気にしたなら、俺は嬉しい。もしもその変化があなたを憂鬱にしたなら、俺は、しかし、ただ俺の道を行くのみ!俺には何もできない!他人を変えることはできない。他人に期待もしない。かといって完全無視というわけでもない(*´-`)

>他に読みようなさそうだけどなあ。

それは、俺の文章に問題があるんだと思う(−_−;)

俺はあくまでもあの一節はプラトン読解だと思う。

プラトンの『パイドロス』をこういう風に読めるぜ!すごいよなあ!プラトンは!!ついでにそう読める俺もすごくない?っていう尊敬と喜びを感じる。

あと、やはり、エロースって喜びだと思うんです。でも喜びってなんだろうなと、思うんです。そして俺は、俺が求めると自称する快楽とはなにか…?と思うのです。

3ヶ月前 No.1478

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

矛盾は、ひとつのことについて真面目に語っていると、起こりにくい。この事情が何故であるかは、これから調べてみてもいい。

相手の言葉に矛盾はないかと調べることは、相手がひとつのことについて真面目に語っているかどうかを調べるためになされてよい。もしも相手が同時に2つのことについて語っていたら、それは相手が俺を騙そうとしているということだ。もしも相手が真面目に語っていないならば、なにか俺と戯れようとしているのかもしれない。

言い訳に矛盾が混じることがある。言い訳に混じる矛盾を指摘し、矛盾を修正させることによって、真実どうであったかを知ることができるだろう。そして真実に即して裁定することができる。俺たちはどのようにして、言葉に混じった矛盾に気づくのだろうか。それはこれから調べてもいいかもしれない。

起こったことについて何も知らない状態で相手から言葉を聞かされるとき、相手の言葉から事情をさっする。そうして俺のなかに認識がけいせいされてくる。あるとき、その後に続いた相手の言葉に矛盾があると思う。そういうときは「ちょっと待って。さっき…と言ったよね。ということは◯◯◯だよね。だとするといまの発言はそこと矛盾しない?」このとき相手は
・え?さっきそんなことは言わなかったよ。
・え?なんで◯◯◯になるの?
・どこが矛盾なの?
・そっか、言い方が悪かったな。えーと…
・さっき…と言ったのは△△△って意味だよ。だから矛盾しない。
・…ばれた?
などとリアクションするだろう。しかし、相手のリアクションの種類はこれに尽きるだろうか。それを調べてみてもいいかもしれない。

さっきそんなことは言わなかったと主張することは、言い間違いであるか、ガスライティングであるか、である。言い間違いであれば、どのように言い間違えたか指摘することによって、その場が収まることがある。無論、指摘したからといって、記憶にないと言われてしまう場合がある。相手がこちらを騙そうとしていて、その騙す意図が今回でバレそうになったとき、「そんなこと言ったか?」とトボけることにより、先に述べたことを、相手の想定した状況から除外し、新しく述べたことに想定を移してほしいのかもしれない。この場合、先に述べたことにより示された事情にあっては受け入れられたことを、騙される者は受け入れており、受け入れたあとで、今度は別な(その事情なら先ほどのことを受け入れられないような)事情に立たされ、矛盾した認識状況にさせられる。

あることを受け入れることは、それに伴って色々なことを受け入れることでもある。お金を貸すといってお金を貸し、後日返してと言ったとき、「君は貸すと言ったけど、俺がそれを返すとこまでは話がなかった」などというと、おかしいだろう。貸すということは、いずれ返してもらうことを含んでいる。
「君は俺からお金を借りたよね。ということは返さなきゃならない。しかしいま君はお金を返す必要はないという。これは矛盾してるね?」
「え?なんで返さなきゃならないの?俺はたしかに『借りる』と言ったけど、『いずれお金を返す』とは言っていないよ」
こう言われる場合はある。このとき、返金を逃れようとする者は、何をしているのだろうか。

【つづく】

3ヶ月前 No.1479

コウモリ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

過去とはなにか
過去はわたしに語りかけてくる。過去の意味することは現在とつながっているからだ。では、過去を振り返ることの大切さとはなんだろうか。

それは、自分自身を見つめ直すことにある。しかし、どこまで見つめなおしたらいいのか。
まず、振り返ってみるべきは日頃の自分の行動だろう。ヘマをした自分はどうしてヘマをしたのか、たとえば仕事で失敗してしまったときに注意が足りなかったとか、とちったことをいってしまったのなら考えが足りなかったとか、そういうふうに人間は過去を振り返るだろう。

いわゆる、学習の基本と言われる人間のあり方とは、過去を振り返り自分を修正していくという成長のあり方である。しかし、この「成長」とは生き長らえるという意味での「生長」に過ぎないのか、なるところのものになる「成長」なのかによって意味は変わってくる。ただ、失敗したくないという思いで過去を振り返るのであるならそれは反射的に怒られるのを逃れる動物と似ている。一方、成長とはある目的がありそのための手段として失敗を捉えていることである。

では本当の意味での成長とはなんなのだろうか。「ただの成功」は生長であるのに対し、成長とはわたし自身を高める。なるところのものになるとは、いいかえればなりたいものになるということである。つまり、ある目標があって、その目標を達成した自分になるために努力することが成長のプロセスである。従って、前提として目標がたてられなくてはならない。そして、それはある目的があることでたてられるものである。目標とはある一つの目的に向かっていく過程を細分化したものだからだ。

人間が唯一動物の中で計画的に行動できる。いや、もしかしたら動物はその必要がなくても生きていけるのかもしれない。むしろ、動物にとって目標をたてることができないということは強みである。だが、人間は自然界において肉体的に劣っている存在である。だからこそ、その弱さを認識しその弱さを克服しなければいけないのだ。

それゆえ、目的を持つということは人間にとって重要であり、これができることこそまさに生きることそのことである。

結論
1過去を振り返ることは学習の基本
2過去を振り返るのは成長のため
3成長のためには目的がなければならない

3の「目的がなければならない」とは、未来を見ていなければならないということだ。つまり、未来があるからこそ過去を振り返ることの意味が生まれてくる。もし、私たちに「明日」がないのなら昨日のことなど振り返る必要などないだろう。

疑問
成長のため以外の過去とはなにか
未来と過去はどういう関係にあるのか

2ヶ月前 No.1480

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

記憶のない・・刹那に生きたらどうなりますか?

2ヶ月前 No.1481

コウモリ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

ラッセル 哲学入門
要約
第1章
現象と実在は区別される。
現象とはあるものが感覚される時に与えられる。現象と呼ぶとき、ラッセルは感覚のデーターとほぼほぼ同じ意味で使ってる。
感覚のデーターとは赤いや黄色いや滑らかであるといった感覚の情報のことである。それに対して、実在はこの感覚の情報とは独立して存在している。見かけによらず机は存在しているし、見かけによらず青い空は存在している。しかし、「青さ」は実在するだろうか。例えば、青さは酸素の集まりか。
だが、酸素は青さを構成する原因であっても、それ自体は青さではないだろう。それゆえ、実在するものは感覚によらず存在している。ラッセルはそのように区別する。

第2章この章では本当に物は私たちの見る通りに存在しているのかということが問題にされている。夢の懐疑からはじまり、距離によっても見え方の異なる例が挙げられている。しかし、絶対確実な知覚があるとは言えない。とはいっても、私たちは幻を見ているのだということを信じる理由も持ってはいないだろう。そうすると、私たちは実在するものを実在するものとして認識するとき、実在することに関してなにを知っているのだろうか。

第3章
物はいかにして知られているのかが問題になっている。
私たちは物が存在するということを確認することなく知っている。しかし、どうして確認することなく知っているのか。私たちがコンビニを見ていないときにコンビニがあるといえるのはいかにしてなのか。
ラッセルは空間と時間の話をする。物の独立性が知られているのは空間に関する知識があるからだ。空間は私的空間と公的空間に区別できる。私的空間は身の廻りの範囲に限られるから、遠くにあるものの正確な位置はわからない。
公的空間は遠くにあるものがどこにあるのかという位置を特定できる空間だ。例えば、地図がそれである。
私たちはこの私的空間と公的空間を使い分けながら物の存在を認識している。位置情報を知っていれば、方向を決定できるし、どのようなものがあるのかということを体験から得られることによって、他人にその場所についての具体的な知識を共有できる。
しかし、必ずしもそのような使い分けは正確であるわけではないだろう。というのも、地図は具体的な景観を示さないし、私の目で見ているものは客観的な位置情報を示さないからだ。
だが、「地図」と「見ること」は私たちに蓋然性を与える。実際、私たちは地図と見ることが関わりあっているのを知っているからだ。ではこれらはどう関係しているのだろう。

第4章古典的な哲学者の考えを述べている。(主に観念論)
感覚によらず存在している存在Xをモナドと言ったり神の心の中の観念と言ったりしている。しかし、どれもトンデモ理論に過ぎない。だが、少なくともどの主張者も存在Xとの関わりを意識していることは間違いない。だから、問題となるのは実在するものそのものの正体より、実在するものの知られ方である。

第5章
人には物の知り方がある。一つは面識による知り方で、これは直接的な知り方である。もう一つは記述による知り方である。これは間接的だ。
面識は例えば満月を知覚しているときに、それを見ている私自身を意識しているということと、過去に満月を見たことがあるという事実の実在のことである。これらは直接に私に知られる事柄である。
しかし、月と面識による知識との関係はどうなっているのだろうか。これが記述できなければ、確実に満月を見ていることを保証できない。
今までそういう話であった。だが、満月が知られていることに関する記述は必ずしも確実である必要はないとラッセルはいう。
例えば、大谷選手に関する確定した記述などできないだろう。大谷を若手のメジャーリーガーというときもあれば、豪速球の選手というときもあるし二刀流と言ったりすることもある。
しかし、大谷選手にが今までどういう苦労をしてきたのか、子供の頃はどういう子供であったのか、色は何色が好きかなどの事柄を知らなくても、このように記述可能でありさえすれば知識と呼べるだろう。しかし、大谷選手の本質を記述可能でなければならない場合もある。要は、記述可能であるということと面識されることとには違った知り方があるというのをここでは伝えたいのだろう。

とりあえず、第5章まで

2ヶ月前 No.1482

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

ラッセルの哲学入門は面白いよね。語り口が明快で分かりやすいのがよい。ホントのところは難しいんだろうが。第一章、もう一回、じっくり読んでみるといいよ。ラッセルには、現象から実在を示すことはできないという諦観がある。その上で、実在はあると思って生きていてもいいんだよという楽観論も示される。そういったノンシャランスは、けっこう、いい味だ。

2ヶ月前 No.1483

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

ラッセルの哲学入門・・哲学を研究する態度・精神が書いてある・・観念的に走らず身近な例で例えてある・・

真理の真摯なる追求者・・

2ヶ月前 No.1484

コウモリ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

明晰でわかりやすく、思考を追っていくのが楽しかった著作でした
また読み返してみようかと思います

2ヶ月前 No.1485

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

コウモリさん

ラッセルさんは物足りないです・・形而上学の深みがありません・・

2ヶ月前 No.1486

コウモリ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

宿題さん
そうですか・・・物足りないですか・・・
わたしはラッセルの哲学入門でお腹いっぱいになりました

2ヶ月前 No.1487

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

コウモリさん

物理学をされたことがありますか?

2ヶ月前 No.1488

コウモリ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

宿題さん
物理学はしたことないですね・・・

1ヶ月前 No.1489

コウモリ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

ベルクソン「笑い」
要約

笑いとは社会的新人いじめである。私たちは笑いでもってお互いが柔軟であるための賞罰を与え合う。社会は円滑な状態が望ましい。その状態にとって望ましくないものをなくしていく必要がある。

私たちが笑う対象は機械的な固さである。機械的固さは私たちの本来の生の活動において異質なうつけ状態である。しかし、私たちはそれを笑う。なぜなら、笑われる対象が異質でないことを知っているからだ。異質でないものを笑うということは、あたかも異質であるかのようにみなして笑うということである。それが、機械的固さの正体だ。

笑いは知的である。私たちはある対象を何かに似せて笑ったりする。また、服の似合わない人をあたかも変装しているもののように笑う。
その笑い方は一定の規則性に基づいている。色々と表現の仕様はあるが、私たちは非現実的な事態を表現する規則を持っている。

笑いは相互に屈辱感を与え合う。これが、社会性の欠如を修正させる。だが、時にそれは偏見を生むこともある。しかし、人間はそういう反道徳の可能性には御構い無しに他人を笑う。

疑問点

・他人の気持ちを和らげるために笑うというコミュニケーションにおける気遣いも、社会的新人いじめでありえるか。

感想
今まで何度も人に笑われてきたが、それを許せるような気がした。人が人を見下して笑うのは正常性を確認するために必要なことなのだと思えたからだ。
ベルクソンを読む前までは、相手を見下す笑いは嫌いであったが、ベルクソンを読んでからそのような笑いに対して寛容に振る舞える気がした。

1ヶ月前 No.1490

宿題 ★eM1n2yJmTo_8Ou

コウモリさん

物理学者は一流の哲学者になる人が多いです・・

知恵袋に質問がありますよ・・↓

哲学者プラトンが自分の学校の入り口に「幾何学を知らざるもの、この門をたたくべからず」と書いたそうですが、
この言葉は正しいと思いますか?

1ヶ月前 No.1491

コウモリ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

宿題さん
「幾何学を知らざるもの、この門をたたくべからず」

正しいと思います。英語の動詞の使い方わかってないのに関係詞をうまく使いこなせるわけないですからね。

1ヶ月前 No.1492

宿題 ★eM1n2yJmTo_8Ou

コウモリさん

理系って冗談が通じません・・これは答えが間違わないように・・

1ヶ月前 No.1493
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