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少って顔に見えね? 思索スレだよ!

 ( 哲学掲示板 )
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つぎの思索スレはきっとうまくやってくれるでしょう。市民、やっちまいな!
文字数が少なすぎるだってお。AAでもぶちこんでやろうかと思ったがさすが賢明な阿さんはそんなことしなかった。賢明なのか。賢明なのだろう。そういうことになった。世はすべてこともなし。

4年前 No.0
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ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

百理様
しかし自分自身を足場にすることはできません・・・

3ヶ月前 No.1354

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

ヒコ太郎さん

対象の価値や、理念を足場にします・・

3ヶ月前 No.1355

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

なんやて?「数学は犬にも食わしておけ」だとお〜?ちっとまてや、これはワシらの数学に対する侮辱やろ。ん?そこまで言っといて、ただですむと思うなよ、まずは、謝○そして、誠○を形にしてもらおうか、口だけじゃなんとでもいえるからな。ワカルよな。(これは、決して脅迫ではありません、単なる言葉遊びです。ちょっとした冗談です。ご理解の程、賜りますよう、何卒、よろしくお願いいたします。)

さて、その書き方だど、「椅子そのもの」は物自体の一例のようだが、『「椅子を認識するという経験」を椅子と認識している』というのは重要な指摘と思われる。だが、次の根拠はあまり、入ってこなかった。別に、貴方をカントの二番煎じと思っているわけではないし、あまり詳しくないなら、「カントはこうこうこういう考えで、こんなことをいった」的なことを書くのは、あまり、意味がないと思う。だけど、仮に不正確であったとしても、この手の話は、読んでいて、結構面白い。

最後に、「我が数学は、永久に不滅です。」とダメ押しで書いておこう。(ワカルかな?有名だからワカルよね。)

3ヶ月前 No.1356

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

適当だと思われると入らないようなので、引用しておきます。

>我々のあらゆる知識が経験から始まることは疑いがない。
「認識が経験から始まる」と書いてある部分。

>しかし、判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている>「物体」の概念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めて>いた「空間」は物体そのものが消え去ったあとでも残る。諸君はそれを取り除くことはできないのである。
概念から椅子を「取り除く」ことが示される部分

>いったい、経験にも感覚的印象にも依存しないような知識が存在するのだろうか。そのような知識は、経験によって後天的に生まれた知識である>経験的知識とは区別して、先天的知識と呼ばれている。
アプリオリが経験に依存しないと書いてある部分

>我々の認識能力は、対象となるものに出会わないで、どうして働き出すだろうか。
>対象が我々の感覚に働きかけて、一方でそのイメージを作らせ、一方で知性の活動を喚起してその様々なイメージを比べさせたり、組み合わさせ
>たり、分離させたりして、その結果、感覚の印象から来た生の素材を知識に作り変えるのである。この知識こそは経験と呼ばれるものである。
経験を椅子と認識しているという部分

私は最初の方しか読んでないので、詳しくないというのは事実ですが、
書いてあることしか言ってません。

3ヶ月前 No.1357

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

引用元は全て
『純粋理性批判』序言
Tomokazu Hanafusa様による翻訳  http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-element.html
です

3ヶ月前 No.1358

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

詳しくないと書きましたが、
カントはドラえもんの読みすぎでこうなったという、
誰も知らない部分まで知っているという意味では、
詳しかったですね。

3ヶ月前 No.1359

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>1356
>まずは、謝○そして、誠○を形にしてもらおうか、口だけじゃなんとでもいえるからな。
すみません。謹んでお詫びします。犬のエサに・・・。
数学書を食っても下痢になるだけでしたね。自分の浅慮を恥じるばかりです・・・。

3ヶ月前 No.1360

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

私は数学は完璧ではないと思います。

まず0の扱い方に不信感・・

1+1ごときに解が二通りもあるっていう不満足・・

どうしてくれるんですか? この不完全さ・・

3ヶ月前 No.1361

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>693,724,921

自分史上の大発見は、「自己にとっての非-自己の異他性とは、(…)同化・吸収の欲望を亢進させるものに他ならない」ということだった。

私は「回収」と言い、「綜合」と言い、「経験」と言い、「想起」と言い、「未知を既知とする」と言い続けてきた。私がドイツ観念論から学んだことは、このような未知-既知であった。この回収運動には名前があるらしい。いわく『全体性を志向する私』である。

私は未知が既知に転じる瞬間を貴重とした。

>過去とは、未だに思い出されていない隠されたもの。未来とは、やがてその「意味」が判明するであろう伏線の、判明してしまったところのもの。( >>724

>訪れる判明の瞬間は、転機であるが、これは「未来」が「過去」になる瞬間である。もっと正確に言うと、未判明が既判明になる瞬間。


このように、未知が既知に転じる瞬間を「想起」ないし「伏線回収」として、素晴らしいものだと私は百回ほど主張してきた。

>私が判明の瞬間を、自分の人間的な都合に合わせて改良することはできない。すなわち、私は私が分かりたいような内容を分かるのではないし、そういった風な、私が前もって望んでいた理解を、その判明の瞬間を機会に、分かったということに私が自らするのでもない。反対に、私は、相手を自分の都合に合わせて解釈するのを止めざるをえなくなるのであり、言い換えると、そこで語られているものの「都合」に合わせて自分の考えが変わってしまうのだ。


私は自分の在り方を変えられてしまう瞬間を、やはり貴重で幸福なものだと力説してきた。

この変身について、内田樹『レヴィナスと愛の現象学』では:未開の状況に適応すべくすみやかに自己変容を遂げることは「自己」のもっとも好むところである。…と言及されている。私が強調する「変身」ないし「適合」という事態も、『全体性を志向する私』にとって本質的である。

そして私はこの回収-綜合-想起-変身-経験を、快楽を伴うものだと何度も述べた。知的快楽や読解の快楽などと述べてきた。

>「自己」とは世界の未知性に魅惑され、「世界という他なるもの」…との出会いを通じて、快楽と満足を見出すような主体のあり方のことなのである。


・・・私はこの1年半ほど、こういう『全体性を志向する私』についてただただ語り続けてきたと言ってもいいほどだ。

この全体性を志向する私は『オデュッセウス的主体』とも呼ばれる。

>オデュッセウス的主体は自分があらかじめ事物に授与しておいた意味を再発見してみせるという仕方でしか意味に出会うことがない。この「光の孤独」が全体性のうちに生きることを選んだものの宿命である。


ちなみに合田正人は「會域/ロクス・ソルス」の冒頭で荒川修作と中村雄二郎との対話の一部を引用している:

>中村 (…)哲学者のハイデッガーが、なにか自分のやっている哲学の方法に対して晩年に疑問を表明したとかいう話がありましたね?

>荒川 自分の哲学は自分だけしか使えない、といったのです。彼としたら爆弾発言です。


未知を既知へと転じてゆき、自分の能力が及ぶ範囲を増大させてゆき、自分の支配圏域を広げてゆくことには快楽が伴う。
ゆえに私は、『私は快楽のために読書する』と断言したことがあった。というのは、私にとって、前は読めなかった箇所が今では読めるようになっているという経験が、自分の生活に決定的に影響を与えたからだ。何度も言っているが、私は『小さい器』である。小さい器に基づけば、未知を既知へと転じさせる『伏線回収光』こそ快楽の源泉であり、この快楽自体が目的であるほどなのだ。

賭けることによって言葉が整合的になり、その賭けは理解を勝ち取る。分かるというのは、複数的なものがより整合的に噛み合うことであり、真相をこれと考えれば事態がまとまったものとして理解可能になるということである。しょせんは理解可能性の範囲に留まるというのが、すなわち、知の話に限るということの意味である。この複数的なものの噛み合いが身体レベルになると、これは泳げるようになるとか自転車に乗れるようになるとか、或いは歩けるようになる、立位保持できるなどのことである。ただし、知的レベルでの整合と、身体レベルでの整合が、果たして同じものか、全くの別物であるかは、少々考えてみなければなるまい。

何にせよ、こうした理解は賭けであり、言うなれば「自分があらかじめ事物に授与しておいた意味を再発見してみせる」ということに見える(実際には、全然違うのだが。…すなわち、こうした批判は、理解をあまりに粗雑化している)。

荒川修作は、自然をもとに考えるという従来のやり方を捨てて、自然を作るという方向へ行く。
「日本人は富士山が好きなのに、なんで東京に富士山を作らないんだろう?しかも東京に新たに作る富士山はオリジナルのよりも高いのに」という発想である。

これはもっと別な賭けだ。

私の知的快楽は、低レベルなものだった。それは引きこもりを解消させたが、…そもそも引きこもりがスタートラインであるということが既に低レベルなのだ。
自分は低レベルだという意識は、意識が高くなければ生まれない。プライドがなければ生まれない。

救済に逃げることも出来ず、現実に高レベルに移行することも出来ず、結果として、私は「ただ死へ向かって日々を過ごすのみ」だ。

高レベルな人間を生み出すために、自分は何の訳にも立たない…むしろ邪魔だ…こういう絶望がある。
高レベルな人間を支えるための柱となる…こういうのは人間の誇りを損なわせる。しかし、生まれただけで尊いという思想も、人間の誇りを無意味にする。

幼稚園の時点でカントの道徳論をマスターするのが望ましい。
幼稚園の時点で「全ては許されている」と自覚するのが望ましい。

なぜなら、こういう段階は出来るかぎり早く踏破しておいてほしいものだからだ。いいだけ大人になってようやくこの段階に至っても遅すぎる。

※警告に同意して書きこまれました (マナー/リアクション)
2ヶ月前 No.1362

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

私が東京に受験に行った時父親とその友達(早稲田大出身)の方と食事をしましたが帰り際にお尻を撫でられました・・

東京にはそれ以来行ったことがありません・・

アメリカのニュースのその辺の一流の人たちが売はるを買いをする人たちだと言うニュースは本当だと思います。

私はまだ壊れかけたアメリカの、マスコミを少し信頼しています。・・ニュースによるとネットですごいことになっているらしいです・・

学歴の優秀な人には近寄らないことです・・

2ヶ月前 No.1363

ひふみん ★qPhkY5LHky_Ew9

>>1362

>知的レベルでの整合と、身体レベルでの整合が、果たして同じものか、全くの別物であるかは、少々考えてみなければなるまい。


身体レベルでの整合(歩く泳ぐ自転車に乗る)は、脳機能においては複雑な処理の単純化によって為されます。複雑な処理を何度も反復する事によって脳内に新しいネットワークを構築して処理を単純化し、一つ一つの動作を意識的に想起することなく行うことができるようになります。(自動化)
知的レベルでの整合も同じような過程なのではないですか?

2ヶ月前 No.1364

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

私が習った哲学の授業内容が京都大学の大学院生さんの西田幾多郎さんの関係のネット論文に近いのですが・・もっと習った範囲は論文より広いです・・

知覚体験により意識の中味が満たされていくとは習ったのですが・・

2ヶ月前 No.1365

操壊 @tukimonoda ★dK50itABrg_hWO

私の死とは
私の史の死である
とは言えないだろうか
私の歴史の死
それが私の死
私の未来の死というのは
よく分からない
やはり死とは過去を対象にする
私が歩んできた道
私に染み付いた習慣
私が思いを巡らせる物事
私が選んできたあらゆる選択肢
その積み重ね
それが形成する私という形
中身
形と中身は表裏一体
その私の歴史
その死が私の死なのではないだろうか

2ヶ月前 No.1366

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

普遍なるものは経験主義者が考えるような心的ものでない・・

心的世界・物的世界とは別の世界・・

時間や空間の限定を受けない世界・・

2ヶ月前 No.1367

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>645,664,693,695,724,725,807,868,921
>>743,745,800,813,883,897,1078
>>1243,1253
http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-1421,1422#a
http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-547#a
>>1193
http://mb2.jp/_tetsugaku/971.html-153,212,281#a

>非隠匿性は、隠匿と隠れからどうにかして手に入れられて(abgerungen)存在する。苦闘(Ringen)がなければならないのか?(『性起』第13節)


ステレーシス(強奪)やエントヴィンデン(もぎとること)

暴力

まずはじめに「分からない分からない」という悪戦苦闘がある。何かが隠されているという予感のもと、意味不明なものを軽々しく自分流に料理してしまわず、耐える時間がある。或るきっかけが得られて意味が分かったとき、同時にはっきりするのは、やはり隠されていたものがあったのだということだ。こうして現実的な『もはや隠されずに明かされた真意』の一例がある。霧が晴れた。非-隠匿だ。

ところで、どうして悪戦苦闘が始ったんだったっけか。今まで分かり切ってると思ってたことが実は分からないということに気づいたからだったな。そうだった。でも今では、分からなかったことが分かるようになった。隠匿じゃない。非-隠匿だ。

けど…もしも今の状態が『今まで分かり切ってると思ってた』という状態と一緒だとしたら、どうだろうか?
今の判明状態は、いずれ発覚する、『知ってると思い込んでいる』という状況なのではないか?

現在は、将来の過去ではないか?つまり、分かっているという今の状態は、いずれ再び、あれは実は分かっていると思い込んでいただけの状態だったと判明する状態なのではないか?一難去ってまた一難。分かる事は、分からない状態からの離脱であると同時に、分からない状態への帰還である。この循環は、堂々巡りだというわけではなく、この回転運動によって現存在(Da-sein)は走行する。

苦闘の円環(der Ring des Ringens)。

この円環が瞬時瞬時に回転運動しているとはとても思えない。もちろん、理論的にはそう言えるが、話を認識に限定すれば、その回転はギシギシとスムーズでなく、まさしく苦戦している様を見せるだろう。もちろん理論的には、回転が自覚されるのは判明がはっきりしたときであり、本当は瞬時瞬時回転しているのだと言える。そして、『この苦闘の円環が恒常的なのだ』というテーゼは、まさしく瞬時瞬時の回転を思わせる。しかし、私はそれを比喩に過ぎないと思う。

分からないということに気づくということは、隠されているという予感が得られたことに基づく。ということは、分かっていると思い込んでいる状況というのは、隠されているという事自体が隠されているという状況である。ただし、今からしたら、分かっていると思い込んでいるだけだという事は気づかれていない。隠されている事自体隠されているのだとしたら…という想定の時点である。この想定は予感に基づく。予感がないあいだは、現実的に「分かっていると思い込んでいたのだ」と思うことができない。

強いて予感しようとするとき、自分には分かり切っていることをどうにかして分からないものと見ようとするとき、ここに強引さが生じる。

予感は、今が謎であるという事に賭けることであり、いずれその謎がどのようにかして解けるという事に賭けることである。謎は膠着状態にみえるが、様々な要素が謎を謎たらしめる要素として可変的に組み立てられうるものとなるという意味で、流動的である。むしろ、判明や理解が、言葉や概念等の(それらが有意味になるような布置における)位置の固定である。謎が残るということは、布置が動きうるという、動きの可能性である。苦闘の円環は、動きつづけるものを見つめつづけることである。或いはもっと正確に言うと、語られるべく出現しているものを聞きうる状態にしつづけることである。

円環について、あることが分かってもどうせまた不明状態へ逆戻りだと思うとしたら、この人は虚しく思うだろう。こういう人は円環の繰り返しを、マイナスからプラスへ、プラスからマイナスへ、マイナスからプラスへという往復運動だと思っている。しかし円環の内実は、真理を指し示す固定されたものを壊して、真理に立ち戻り、この真理から再び固定された言説を組み立てるという事の繰り返しである。そして内実的には、一度作られた同じ構築物が壊されてまた全く同じ構築物を作るということではない。内実的には、全体が全体として謎になる。だが全体が全体として完全に元の木阿弥ということでもないのだ。

円環は端的な事実であり、ひとは流動可能性のなかで、固定したものを頼りに生きている。

2ヶ月前 No.1368

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1368

分からないという状態が分かるという状態へと転じる経験のうち、ありきたりなものは、思い出すという経験です。忘れていた状態(不明状態)から思い出した状態(判明状態)へと転じる経験です。

目の前の状況、自分が置かれている状況において、現われている様々な物事がどうしてそのようになっているのかが判明するひとつのきっかけは、記憶です。

私のパソコンの横にはお茶の空き缶が置かれている。「なんでここに空き缶が?」「ああそうか、自分で冷蔵庫から出してここに置いたんだった。」自分で置いたから、空き缶がここにある。これを言い換えれば、記憶が媒介となって、現在の状況における事物の意味が明らかになった…ということです。

ここでちょっと反省を働かせてみます。ただただ裸で単独の固定的・点的現在のみを考えるならば、空き缶がなぜここにあるのかということの意味は判明し得ない。空き缶は点的・静止的現在のみを考えるならば、ただとにかくそこにある。しかし実際には、空き缶が無意味・無根拠にただそこにあるということはない。誰かが置いたから、どこかから運ばれてきたから、そこにある。しかし、空き缶がそこに置かれる経緯があったというだけで、空き缶がそこに置かれていることの事情が判明するということでもない。もしそうだとしたら、空き缶がどうしてここにあるか分からないという状態は生じ得ないことになるでしょう。すなわち、「どうして空き缶がここにあるんだっけ」という忘却の状態はあり得ないことになるでしょう。私は先ほど「記憶が媒介になって、現在の状況における事物の意味が明らかになった」と言いました。記憶は、ただ存在するだけで物事の意味を明かすのではなく、媒介となることによって物事の意味を明かす。意味判明のためには記憶の媒介化というものが必要です。

空き缶は、静止的現在のみを考えれば、無根拠にとにかくそこに存在している。記憶が媒介とならない限り、空き缶はどういうわけか分からないがそこにあるという状態である。媒介というのは、それを介して私たちが物事を有意味なものとして見るようになるようなものです。「ひどいね」「ひどいひどい」という会話を聞いただけでは、まだ何がひどいのかははっきりしません。その「ひどさ」というのが、道徳的非道のことなのか、天候的激甚のことなのか、災害的凄惨のことなのかも分かりません。そのひどさが何のひどさであり、どういった種類のひどさであるかが分かるのは、話す者達が踏まえている媒介を察知したときです。

「媒介」という言葉は適切でしょうか?会話する人達が踏まえているものは、状況・文脈・その場のノリ・話の流れ・展開です。そして記憶は媒介のひとつである。記憶は、しかし、状況・文脈・展開等々の範疇に入るでしょうか?ここで「記憶」という言葉が適切かどうかも疑わしくなってきます。

空き缶がどうしてここに置かれているのか分かるきっかけは記憶だと言いましたが、記憶はただ脳内に存在するだけで因果的に私たちに意味判明を与えるわけではありません。むしろ記憶の媒介化が必要だと言いました。この「記憶の媒介化」というのは、その記憶に思い当たることです。これはひとつの経緯が理解のベースに滑り込んでくるということです。例えば、「ひどいね」という会話を聞いて、今朝聞いた陰惨な事件のニュースに思い当たったならば、「ひどい」という発言の意味を理解するためのベースにはそのニュースが滑り込んできます。しかし、「ひどい」という発言を聞き取ったことそれ自体がそういったニュースの想起を因果的に引き起こしたわけではありません。私は聞くともなしに「ひどい」という発言を耳にして、大あれ小あれ、何の話かなと気にするからこそ、「今朝のニュースのことかな」などと思い至ります。そういった関心と無関係に、音声が脳に因果的作用を及ぼしてひとつの記憶が意識にのぼったということではないのです。

何の話かなという何となくの(或いは意識的な)関心が空けたスペースに、媒介ないし経緯ないし想定される話題が、滑り込んできます。もしくは、関心のスペース(空白)を自分で埋めてみて、何の話であるか予想してみるということもできます。

「何だろう?」「云々のことだろうか」という関心、その関心のスペースに入って来る具体的経緯、そしてそういった関心・経緯とは無関係にとにかく存在する事物全体。こういった要素が考えられますが、関心が単体で存在するということはなく、経緯だけが存在するということもなく、完全中立の事物全体と現在状況のみが存在するということもありません。とは言っても、点的・静止的現在の状況全体について言えば、これは関心や経緯と関係なく、それだけで絶対的に存在するように思えます。ただここで問題になるのは、はたして静止した無経緯的で無関心的な現在が一瞬でも存在しうるか…ということです。もちろん、そういった瞬間的に切り取られた世界全体を考えることはできるでしょう。しかし問題は、こういった静止世界の存在身分です。世界全体を余すとこなく同時に写真に撮る装置があるとしましょう。しかしそれが写真である限り、その写真は再び存在するもの全体のなかのどこかに位置することになり、その時にはもはや現在は、その全体写真を含むものとしての全体になってしまいます。するとその写真は明らかに欠陥を持っていることになります。というのも、その写真自体が、その写真には含まれていないからです。

また、空き缶がどうしてここに置かれているのか分からない状態であっても、とにかく空き缶が置かれているということは分かっています。すなわち状況は、少なくとも、空き缶が置かれている状況として、そのようなものとして明らかになっています。すなわち、空き缶が置かれた経緯が不明の状態であっても、関心の空けるスペースは完全な白紙ではないのです。

2ヶ月前 No.1369

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1368

>SB量子神学は暴力です。それは、自分のやり方を全ての独特な対象に無理矢理あてはめるという意味での、暴力的な話です。

http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-1138#a

>論理学というベッドに寝かせるプロクルステスは、特定の仕方で人間によって仕上げられた特殊な方法を強制する。それは論理学的方法の強制であり、論理学的でない方法の否定である。別様な在り方の可能性を奪う強盗なわけだ。

http://mb2.jp/_tetsugaku/801.html-1213#a

「暴力」という言葉が適切かどうかについて、後づけの補強。

>理に合わないことを、理に合わないままみとどけようとする思考の可能性もある。思考のそうした諸可能性を排除し一つにきりつめ、すべてをせまっ苦しい規則に隷属させることが、合理主義にすぎない。合理主義とはその意味で、理に合わないことを〈無理〉に理に合せようとする過度の合理化であり、知の暴力。

(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』)

そう、すべてを論理学的方法へと還元するのはひとつの「暴力」です。

しかし古東先生も私も、こういう発想を得るに至ったのは、ハイデガーの後追いをしたが故であると思う。なので厳密には古東先生の文章を持ってきても私の語用法の適切さを補強することはできない。結局ハイデガーという同じものがソース(源泉)であるからだ。

2ヶ月前 No.1370

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

「存在と時間」

存在と時間は同位概念ですか?

存在と時間とを並列に同等扱いにしてもいいのでしょうか?

2ヶ月前 No.1371

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1371、

「存在と時間とを並列に同等扱いにしてもいいのでしょうか?」

 いいのよ。モモたん。

2ヶ月前 No.1372

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>1372
悪魔ちゃん

時間があれば存在しているといえるけど、存在していても時間を持たないものがある。
「光」とか、悪を滅ぼす系のものには時間がない。
過去、現在、未来ではなく、光には「今」しかないのよ。
光を見る人が、過去の栄光だとか、すぐれてときめきたまふ光源氏だとか、未来予知だとか勝手に言っているだけ。
ハイデガーの考える存在って、そういうものじゃないかな。
人間が「死へ臨む存在」だなんて、それじゃまるで救いようのない存在じゃないか。
その意味で、彼は悪魔にとりつかれているともいえる。

2ヶ月前 No.1373

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1373
天使ちゃん、〈光には「今」しかないのよ〉の「今」は時間よね。

〈彼は悪魔にとりつかれているともいえる〉の〈彼〉って、わたしが言うモモりんのこと?

だとしたら、モモりんは、「死へ臨む存在」、そんなこと考えてないわ。
まして悪魔にとりつかれているのだとしたら、まだマシだけど、そうじゃないから、厄介ね。

わたしが、ちょかい出して発散するのに弊害ないよだし、っていう感じ。でも遊び相手じゃないね。

モモりんは、少が顔に見えない人ね。

2ヶ月前 No.1374

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>1368-70

古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』で私が今のところ受け入れない意見がある。

存在は瞬間であるという意見だ。

これをまだ受け入れないのは、試みてから受け入れようと思っているからだ。この見解からハイデガーを読み返す価値があると感じる。というのもこの見解は、ハイデガーが「Anwesen」という言葉に込めたものを考え直す機縁となるからだ。

>ただただ裸で単独の固定的・点的現在のみを考えるならば、空き缶がなぜここにあるのかということの意味は判明し得ない。

>空き缶は点的・静止的現在のみを考えるならば、ただとにかくそこにある。

>しかし実際には、空き缶が無意味・無根拠にただそこにあるということはない。( >>1369


私たちは実際には何らかの意味連関に入り込んでおり、そこに没入しており、その意味連関から物の意味を理解している。
この意味連関を自覚しつつ、そこから『 流 れ 』を取り除き、瞬間的現在だけを考えてみる。
そうすると、事物は全く無意味に・無根拠にただとにかく存在している相をみせるかに思われる。

かつての私は人生論的な「どうせ死ぬのに」という感情についてこう言っていた:

>不思議なさみしさはときどき問題にされることではなく、そこにおいて何かが問題にされる基本条件であって、それを俎上に上げることことじたい、そのさみしさを対処可能なものとして改変することであるように思われる。( >>538


どうせ死ぬという虚しさは、処理すべき問題ではなく、人生の基調である。

ハイデガーは根拠律(Nihil est sine ratione. )を「何ものも根拠なくしては存在しない」と解釈せず「無は根拠なしに存在する」と解釈する。

存在者の性格としての根拠必然性ではなく、存在の性格としての無=無意味を話題にしていると強引に解釈する。

こうした存在=無へと突き当たらせるひとつの反省が、存在するのは瞬間瞬間の起滅であるというイメージだ。

瞬間的現在は思考の産物であるかのようにみえるが、それは、反省の果てに突き当たる現実である。

♯デカルトの「cogito, ergo sum」も、反省の果てに突き当たる現実である。

哲学は現実に突き当たらせるものだ。

現実に突き当たってから後のことは、各人に委ねられている。

したがって、一言で言って、哲学は人間を自由にする事である。

一、哲学は人間を先入見から開放する。
一、哲学は人間が現実に即するのを助け、現実に即して自律するよう仕向ける。
一、哲学は人間が現実に襲いかかられた後のことは各人に任せる。
こういった意味で、哲学は『 自 由 化 』である。

ハイデガーは「死への存在」とも言うし「死への自由」とも言う。

>死へむかって開かれた自由のみが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性のなかへ突きいれる。(ちくま学芸文庫版『存在と時間』下巻324頁)


>先駆しつつおのれのうちに死の威力をたかめるとき、現存在は死にむかって打ちひらかれて自由になり、その有限的自由にこもるおのれの超力において自己を了解する。(同上325頁)


死への自由は、有限性(Endlichkeit)と目標にかかわる。それは力を与えるものである。

基調のところに無がある。では生きていても意味がないのか?無に突き当たると、生きることに意味がないということに気づく。どんなことをしても、反省的に考えれば、無意味である。あらゆる時間に無が浸入してきて、全てを虚しくする。しかしそれでもやはり様々なことには意味がある。それは現実(底なし)によって無限の意味を与えられることはないが、そのときそのときの意味を持っている。この意味があるということが、無を基底に据えると、不思議なことになってくる。無が基底であり現実であるからといって、意味が全て消失するわけではないということ。本当に無があらゆる行為を虚しくして、私たちのやる気を削いでいるのか?むしろ無は、過渡期において、これまで自分が本当だと思ってきたことがいかに無意味に自分を制限してきたかを知らせる。自分の行為の虚しさに気づくということは、端的に、その行為の無意味な支配に気づくということである。それは次いで、その行為が支配権を持つ有限な範囲を予感させる。本当は有限なものを無限だと見なしていたと気付き、本当に無限であるものに気づいていなかったと気づく。これは即ち、絶対的無を根源とすることが出来るということだ。無としての現実に頼る事を覚えることが、人に力強さを与える。

絶対的な無を頼りにしたからといって、自分の行為の責任を無に押しつけることはできない。無は特定の行動を命じることはない。無なのだから。

無を頼るということは、行為の責任を全て有限的に自分に負わせるということだ。この際にも、何か永遠の無限な責任が幽霊のように目にはみえないが私に生涯とりつくということではない。死を覚悟したら何でもしていいということでもない(無は行為を正当化しない)。端的に何でも出来るということ、何でも出来るのだから、行為の責任は全て自分にあるということ、すなわち、無に頼るということは端的な自由である。

私がハイデガーの「Gewaehren」という言葉に注目する所以である。

1ヶ月前 No.1375

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

可変的な物的世界でない・・不変の世界があると言う・・

1ヶ月前 No.1376

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1375

『知覚の現象学』に「神秘」という語が登場する。ちょっと触れたので、抜粋してみますね。

『合理性ということは、一つの「問題」ではない。つまりその背後に未知のものがかくれていて、このかくれたものを合理性から出発して演繹的に規定したり、帰納的に証明したりしなければならない、ということではない。われわれは諸経験の連絡という奇蹟にたえず立ち会っているのであり、またわれわれこそ諸関係の結び目なのだから、この奇蹟がどのようにして生じるのかを、われわれ以上に知っている者はいないのである。世界も理性も問題とはなりえない。もしお望みなら、これらは神秘的であるといってもよい。しかしこの神秘こそそれらを定義しているのであって、何らかの「解釈」によってこれを追い払うことは、問題にならない。この神秘はいっさい解決の手前にあるものなのだ。真の哲学とは世界をみることを改めて学ぶことである。そしてこの意味では、説話体の歴史記述も哲学論文と同じほど深く世界を示すことができる。われわれは反省によってばかりでなく、われわれの生涯を賭ける決断によってまた、自分たちの運命を掌握しており、自分たちの歴史の責任を担っている。そしていずれの場合にも、実行によって自己を立証する有無をいわさぬ行為が問題となるのである。』

『「問題」の訳注
probl□meとは恐らくマルセルの用語の借用であろう。マルセルは「問題」と「神秘」myst□reと対立させた。合理的に解決の求められうる客観的な事象に関する問いが「問題」であり、ここでは問う主体は「意識一般」で問われる事象から分離されている。これに反して「神秘」と呼ばれるものは、「客観」ではなくて、「臨在」「現前」pr□senceであって、問うものと問われるものとは、「愛」とか「信」といった実存的靭帯によって結ばれねばならない。しかし「神秘」は全く理解不能ということではなく、むしろわれわれは直接これらの「神秘」に「参与」しているのであり、暗い「直観」をもっている。この「参与」「直観」を概念の助けによって理解せしめるのが、哲学の役目である。』


わたし、「直観」は感覚・知覚の領域としている。

わたしの問題は「概念の助けによって」のところ。

概念って、どこで、どのように、生まれるのかな?

1ヶ月前 No.1377

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>1377
>概念って、どこで、どのように、生まれるのかな?
どこにも生じていないから概念なのではないだろうか。
どこかに生まれているなら、それは既に「現前」であって、「神秘」であるが、
概念はそのような神秘性を持たない。

1ヶ月前 No.1378

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>1377 の『知覚の現象学』というのは誰かの詩だろうか?
抜粋部分は突っ込みどころが多いが、詩などの文学(literature)に冷静に突っ込みを入れるのは
マナー違反なのでやめておこう。

1ヶ月前 No.1379

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

思惟の中の意識を形にしたものが概念・理念現実化しようとすると歪められる・・

理想国は現実化しない・・

1ヶ月前 No.1380

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1379
天使っちゃん、なにいってるの!

ねえ、ねえ、もうちょっと、悪魔の言うこと勉強した方がいいんじゃない?

でも、

「マナー違反なのでやめておこう」ー?ーーそろそろ天使のところに戻る時期が来たのかもね。

さよなら、天使ちゃん。

1ヶ月前 No.1381

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

悪魔ちゃんはいま天使に育てれれているけど、

人間はね、幼い時に、愛と信がないと、大きくなってからグルっちゃうのよ、って教わった。

将来悪魔になる悪魔ちゃんは、これを利用しない手はない、って思うのね。

1ヶ月前 No.1382

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>1382
悪魔ちゃん

天使の語る愛や信なんてただの概念だよ

>この奇蹟がどのようにして生じるのかを、われわれ以上に知っている者はいないのである。

プラトニックな愛を経験したからといって、
愛がどこから来るかなんて、わかるはずないんだよ。
でも、詩だから許されてしまうんだよね。
天使はとても詩が好きなのさ。

1ヶ月前 No.1383

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

好きという関心について。

気になる女の子がいたとして…

ストップ。

まず、「気になる女の子」って何なんだ、という話から。

「頭に浮かんで離れない異性」という現象がある。或いは、急にその人の表情・姿・仕草・外貌が思い浮かんできてしまう(特にきっかけもないのに・特に忘れていたというわけでもないのに、その人のことを思い出してしまう)という現象。本当にベタな話、「あの人はいま何をしているんだろうか」という風に、今という何でもない時間がその人に関係づけられてしまうような現象。ぼんやりとした時間(ぼーっとしている時)が、その人が何をしているかという関心によって占められるという現象。このとき、今という時間は「その人が何かをしている時間」である。

何かを「気にする」とき、例えば汚れを気にするとき、「汚れてるなあ」と、ものは汚れているものとして見られる。汚れというものが見ることにおいて主題になり、そのときには(例えば服が汚れているならば)その服の素材は何か等の関心は、汚れに基づいている。すなわち、汚れが落ちやすいか落ちにくいか、どういう風に洗浄するのが適切な素材であるか等々の問題がその時には生じる。問題が生じる根底に「気にしている事柄」が存する。気になるものというのも、問題が生じる根底にあるものだ。気になるものを中心にして、そこから色々と問題が生じてくる。気になるのが特定の人である場合には、例えば、あの人と仲良くなるにはどうすればいいんだろう等が問題になってくる。ところで、気になる人は、私が意図的に気にしたから問題の根底に据え置かれるとは限らず、むしろ、私の関心空間に入って来る。私たちは常に何かを気にしている。その気にされるところに、その人は隙あらば入って来る。「気になって眠れない」というのは、いわば、色々と考える事が増えるからだ。

♯何か問題にでくわしたり、何かイベントがあったとき、「あの思想家ならどういう答えを出すだろうか」とか「あの思想家ならこれをどう考えるだろうか」とかいう風に、その思想家が出すであろう個別的対処法・思考法を問題にするならば、おそらくあなたは、その思想家が好きである。出来事は、その思想家がそれをどのように考えるかという点で関心の的になり、同時に、その思想家は、その出来事を以下以下のように考えてゆくであろう思想家として、その可能な一面を見せる。「あなたはどう思う?」という問いかけは、対象が「あなた」から見たらどういう対象であるか、「あなた」はその問題をどのように考える「あなた」であるか、を気にするという風に、二面的である。これは、私にとって「あなた」もまたひとつの対象に過ぎないということではない。この問いかけは、大あれ小あれ、「あなた」の見方から世界を見てもいいかもしれないという好意であり、その際質問者は、「あなた」の世界を気にしている。

気になる人は、様々な問題を私に思い浮かばせるが、これが何を意味するかというと、その人に関しての様々な可能性が私に浮かぶということだ。明日その人と会ったときにどうしようという何でもない事が、憂慮すべき問題になってくることがある。「普通にいつも通り話せばいい」という、考えるまでもない答えでは満足できないような気がしてくる。そこで、明日その人と会ったときに普段とは違うことをしてみようか、ということが何故だか問題になってくる。余計な問題だと思われるが、そうした余剰が生活の中に現われてくる。こうした事情の背景には、その人との関係を変えたいとか、その人と何かをしてみたいとか、その人が私に対して今までとは別な言動をしてくるようになればいいとか、そういった願望がある。この時点で既に、私の生活が、その人との対人関係を基準にして解釈され直されている。私は自分の生活状況全体に対して、その人との関係というものを基軸にした変化を求めているのだ。すなわち、例えば、その人と仲が良い生活状況を求めている。

この生活状況は、漠然とした他人から見た自分の状況にも関わっている。周囲が私たちを見る目を変えるということも、気にされている。特別「最近あいつとあいつが仲良くなったなあ」という感想を周囲の人が抱く可能性が考えられているわけではない。人との関係というのは、周囲の人がその関係をどのように見るかということも込みで、考えられるものだ。特定の感想や疑いや噂話の個々の可能性が考えられているのではない。これはどうでもいいことではない。自分とその人との間の関係だけが単体で問題になるという方が非現実的だ。自分とその人が別な関係になることで(現実的に変わるかどうかはともかくとして)連動的に変わる可能性がある周囲との関係も、同時に問題になる。この問題意識は例えば「周りがどう見ようと関係ない!」という、周囲との関係を考慮することへの強い拒否にも現われている。こうした拒否が好きな人との関係の優先を強調しうる(そういう効果が見込まれる)のは、周囲との関係・周囲にどう見られるかという事が重要であるということの証である。

・時間が気になる人の姿やその人への関心で占められる。
・気になる人は、生活において問題(の根拠)になる。
♯事象と人との相互反照(あの人ならそれをどう考えるだろう?)
・気になる人との関係の変化の願望は、その人との関係が周囲からどう見られるか、その変化が周囲との関係にどう影響を及ぼすかと、無縁ではない。

1ヶ月前 No.1384

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-875#a

具体的に考えてみたいので、かなり遠回りをすることにする。

「力が」と「出ない」は互いに接合する。

私には「力が出ない」という日本語に「明日は」という意味を持たせることが出来るように思われる。例えば、私が「力が出ない」と言った場合、それを常に「明日は」という日本語に翻訳して聞いてくださいと頼むことによって。「力が出ない、雨が降る」「力が出ない、予定がある」「力が出ない、無理」といった発言はそれぞれ「明日は雨が降る」「明日は予定がある」「明日は無理」といった日本語と同じ意味を持つということにして下さいと頼むことは出来る。しかし「雨が降明日はる」と言って、「明日は雨が降る」という意味にはならない。もちろん同じ様に頼んで、「雨が降明日はる」という発言を常に「明日は雨が降る」と変換してもらうことは可能である。同様に「無明日は理」を「明日は無理」と変換してもらうこともできる。つまり、発言の最後の一字と前半の文字の間に「明日は」を挟んだ文章を、常に、「明日は」が冒頭に挿入され最後の一字と前半の文字との間に入っている「明日は」を削除してもらうようなお願いをすることはできる。

「力が出ない」と言ってもいいし、「出ない、力が」と言ってもいい。「力が湧く」と言ってもいい。「力が眠る」というのは少し分かる。「力が巻き起こる」も、まあ、分かる。だが「力が踊る」と言うと微妙である。「力が閉まる」も微妙。「力が咲く」も微妙。「力が飲む」これは丸で分からない。「力が座る」これも分からない。

「力が眠る」と「力が座る」に実体的な違いがあるとは思えない。しかしファンタジーゲームでは「神秘の力が眠る剣」などと言う。『眠るというのは、覚醒する以前の大人しい状態であって、神秘の力は自らが発揮されるのを待っている、という意味だから、このような表現が意味を持つのだ』と言えるだろうか。もしそう言えるならば『座るというのは、立ち上がって行動を始める前の状態であって、力は自らが起動されて発揮されるのを待っている、という意味だから、このような表現は意味を持つはずだ』と言えるだろうか。そしてそうは言えないというにしても『座るというのは既に何らかの行動を始めているのだ。例えば座りながら辺りを見回すなど。だからそんな意味は持ち得ない』と言えるだろうか。…こういった言い訳は的はずれだ。

「力が座る」という表現を「肝がすわる」という表現の類似物として考えてみるとどうなるか?ちなみに「肝が据わる」が正しい。すなわち、「力が座る」は「力が据わる」であると考えてみる。据わるというのは、置かれて動じないことだ。肝が据わるというのは、何ごとにも動じないことだ。では力が据わるとはどういうことだろうか。慣性のことではないか?ただし、仮に「力が据わる」が慣性の働きを意味するのだとしたら、それは慣性が「力が据わる」という表現で説明されてきたという経緯を必要とするだろう。

「力が出る」と言っても、身体の中から力が出てゆくわけではない。もちろん無理して「力が出るとは身体から力が抜けてゆくことを意味する。だって、力が入ると力が消費されるから」などと説明してもいい。(だが「力が出るときには力が入っている。こんな矛盾が可能だなんて身体は不思議だ」なんて言う人がいたら、私は無視するだろう。)だが、「力が抜ける」という表現は「力が消費される」という意味ではなく、「脱力する」という意味である。「いや、力が抜けるというのは、身体に貯まっている力が少なくなることだから、力を使うという意味なんだ。脱力とは逆の意味だ」と言ってもかまわない。脱力は筋肉の弛緩だが、力を抜くときに使われるのは精神的集中力であり、気持ちを集中することで筋肉を弛緩させるのだ」と言えるからだ。…だがこういった言い訳はすべて無駄なことに思える。

もちろん、私は「力を抜く」という表現で「力を使う」を意味するのだと主張することはできる。だがひとつ考えてほしいのは、私たちが言葉の意味を理解するとき、常に言葉を別な言葉に言い換えなければならないなんことは無い、ということだ。

「力を抜く」というのはひとつのイディオムである。「力」と「抜く」は組み合わされて使われ、やがてこの表現が定着した。「表現が定着する」という表現もまた、歴史的に定着したものだ。「歴史的に定着する」という表現、これは、はたして世に定着しているだろうか?あまり定着していないとしてみよう。では私が使った「歴史的に定着する」という表現の意味はどのようにして分かるだろうか。この表現の意味は「人々が『歴史的』と『定着』という言葉を組み合わせて使うという発想で発言を繰り返していった結果、そういう組み合わせがありなんだと認知されていった」という意味だと説明してはじめて分かるのか?いや、説明されなくても、なんとなく分かる…なんとなく分かるが、よく考えてみるとあまり分からない。

例えば、ドイツ観念論では、「自己」と「自由」と「意志」が結びついている。これらの組み合わせは定着した。「自己は自由だ」と言われると、何となく分かるが、よく考えてみるとこの言葉の意味がよく分からない。「自己は自由だ」うん、そうだけど、自由じゃないときもあるよね、仕事中とか…と思ったりすると、よく分からなくなってくる。もちろん私たちは自己と自由との関連性を後からいくらでも説明できる。自由というのは「自分発で」という意味であり、自由には「自己」がすでに含まれている。自己というのは「自分であること」だが、これは「自分によって自分であること」であって「他人によって何ものであるかが定められていること」とは逆だ。すなわち、他人によって自己の在り方が決められているとき、その人は「自分ではない」という感じを持つ。「自分である」とは、自分が自分で自分であることであって、これは他者からの束縛とは逆のこと、自由である…などと説明できるかもしれない。だがこういった説明はたいして訳に立たない。

ハイデガーは、最初の原初においては存在は現前性として経験されたと主張する。「存在」は「現前」だという見方が定着した。

定着した表現が支配的になり、支配的になった表現が話の内容を左右する。

問題はここだ。

定着した表現が、或る話題について話すときの話し方(話す方法の幅)を固定的に決めてしまう場合がある。定着した表現を使わなければ話が通じないので、話を通じさせようと思うと定着した表現を使うことになり、表現が定着しているということは、それらの表現が意味することが限定されるわけだから、「どこかで聞いた話」しかできなくなる。というか「どこかで聞いたことのある話」以外に何が理解可能だろうか。しかし、じゃあ、最初に或る話題の意味が分かったという経験はどうして起こるのだろう。

自分の中で定着する、といった現象がある。言語において表現が定着するというのと、自分の中で表現が定着するというのは、違う?

例えば「現前」なんて日本語は無い…と言ってしまってもいいかもしれない。「現在」とか「現存」とかはあるが、「現前」なんて無いと言ってもいいかもしれない。もちろん、本当はある。「いや、あるよ」などという反論は聞きたくない。ハイデガーが存在のひとつの種類として述べる意味での「現前」は「Anwesen」でしかない。「現前」というのは「現在前にあること」だろうからこれは「Gegenwart」でもいいんだということはない。もちろん、「Gegenwart」を「現前」と訳してもいいだろう。しかしその場合「Anwesen」を「現前」と訳してはならない。これは、してはならない。同様に「力を抜く」という表現で「力を使う=力を入れる」という意味だとしてもいい。だがこの場合「はい、力を入れて〜…はい、力を抜いて〜」という発言は、二度力を入れるということを意味してはならない。このときには「力を入れる」という表現は「脱力」を意味しなければならない。そしてそれがそれを意味しうる理由はいくらでも説明できる。

迷走。

1ヶ月前 No.1385

百理 ★5z6bVAmgS3_P5K

太陽の力とは力の作用する相手次第で千差万別の変化をもたらします・・

1ヶ月前 No.1386

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

こんにちは!

今日、言いたくなったこと!

「投げられて‐下にある」のは辛い。
それよりも「ホスト‐ゲスト」でいこう!

ってねぇ。

おしまい、です。

w。

18日前 No.1387

★30JjgxOVKX_ZFe

阿さま、「市民、やっちまいな!」っていうことだから、  あ、わたし市民じゃないけど、やっちゃう。
もっとも、すでに阿さまの思索も麻痺しちゃったみたいだけどね。

場所を移してここで物語ろっと。

『世界におおける(への)存在である私』の、『私』は人間のことね(もうわたし悪魔になったんだから)。

物語りのテーマはひとまず「人間の仕業(しわざ)」ってしとく。内容(人間)は私と世界との関係かな?

まず、いくつかの言葉の意味をネットで調べたのを書き写しておく(削除でもいいよ)。

13日前 No.1388

★30JjgxOVKX_ZFe

【歴史】

『*人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,またそれらの事実に関する調査と記述をいう。過去の探究とその叙述とを意味する。過去に生起した事実はすべての出来事であるが,そのすべての事実が歴史となるのではない。一定の関心,価値判断に基づいて選択された過去の事実が歴史を構成する。「歴史は書き換えられる」という言葉があるように,問題意識の違いに応じて,選択される過去の事実もその記述も異なってくる。その問題意識を規定するものは現在であり,その意味では「あらゆる歴史は現代の歴史である」。
*人間社会が経てきた変遷・発展の経過。また、その記録。ある事物・物事の現在まで進展・変化してきた過程。』

「事実」であるかどうかをどのようにして判断するのだろうかね。勝手に規定してして事をすまそうっていうっていう手もあるけどね。

あ、それから、人間の判断には4つあるみたい。
true positive,true negative,false positive,false negative
かな。trueとfaiseだけじゃないのね。

13日前 No.1389

★30JjgxOVKX_ZFe

【暴力】

『*(1)政治学的には,物理的強制力の行使一般をいう。 (2) 法学的には,不当ないし不法な方法による物理的強制力の使用をいう。 (1) の政治学的および社会学的意味における暴力の概念には,単に法的考察によって定義される不当不法な力の行使をいうのではなく,いわゆる革命集団による国家秩序の暴力的転覆 (武装蜂起) や暴力団による腕力などの行使から,国家が合法的かつ正当的に所有する軍隊や警察のいわゆる実力行使までも内包されるのが普通である。 (2) の法学的見地の暴力は,法によって許容されない力の行使をいう。したがって軍隊や警察の実力行使は,それが法に依拠しているかぎり,正当化され暴力とは呼称されない。また正当防衛のような場合,個人による実力の行使であっても,それは法の許容内と考えられ,暴力とは呼称されない。
*乱暴な力・行為。不当に使う腕力。「暴力を振るう」
*合法性や正当性を欠いた物理的な強制力。』

これによると、わたしから見れば、暴力って、人間の人間の身体へのしわざって見てるから、「物理的」っていうことは、これを書いた人は人間身体を「物」って見ているっていうことになる。おそらく人間の精神は物って言わないだろうから、暴力は精神への人間のしわざからは除外されているのかな?
この点については多々あるけど、ひとまずここではこのくらいにしておこっと。

13日前 No.1390

★30JjgxOVKX_ZFe

最後に、

【道徳】

『人間として守るべき行動の規範・ルールを身につけること。「道」は人間として歩むべき道筋であり、「徳」は「得」という字に通じ、その道筋を身につけ、体得することである。英語のmoral(道徳)もethics(倫理)と同じように習俗や習慣という言葉に由来し、習慣の中から生まれた社会の規範という意味を持つ。広い意味においては道徳は倫理と同じであるが、倫理が社会や共同体の客観的な理法をあらわすのに対して、道徳はその理法を身につける主体的な態度をあらわす。倫理学の創始者ソクラテスは、「ただ生きるだけでなく、善く生きることが大切である」と言っている。道徳や倫理によって人間の生き方を学び、正義・友愛・勇気・寛大などの徳を身につけ、みずからの人間性を磨いて人格を形成する努力をすることは、人生の大切な課題である。』

人間の道徳って、よくわかんないけど、物語りになんか関係しそうなので、ひとまず記しておくね。

以上、こんなところかな、辞書的にはね。

前置きはこのぐらいにしておいて、さて、物語を始めましょうか。

13日前 No.1391

★30JjgxOVKX_ZFe

人間の歴史、すごいじゃん!

暴力は、話題としてことかかないね。

13日前 No.1392

★30JjgxOVKX_ZFe

ここ、哲学的な場だから、哲学者のを書いていかなくちゃね。

ヘーゲルの人倫は以下のようなものみたいよ。

『一般には、人間が社会生活を営む共同体やその秩序・習俗を意味するが、ヘーゲルによれば、自由な精神が客観的な社会制度や組織となって具体化されたものをさす。人倫は、人間の社会関係の抽象的な形式である客観的な法と、個人的な道徳とを統一したもので、精神の自由の理念が、具体的な社会生活において、生き生きと実現されたものである。人倫は、家族・市民社会・国家の三段階をへて発展する。』

ほら、ここにも「道徳」出てきている。

ヘーゲルの弁証法の通りになっているのかしらね?

他にも誰か「道徳」について語ってる人がいたら、誰か教えて。

13日前 No.1393

★30JjgxOVKX_ZFe

あ、それから、

ヘーゲルは、「それぞれの意識は、他者の死を追求する」って言っているみたいだけど、

彼のいう「他者」は「他人」のことじゃないと思うね。

13日前 No.1394

★30JjgxOVKX_ZFe

>1393のつづき

ヘーゲルについて、わたしの教科書には、以下のように書かれている。

ヘーゲルによると、『「家族」は、人倫の出発点で、愛情によって結ばれた共同体である。ここでは、個人の人格の独立性はまだ自覚されてない。「市民社会」は、家族から独立して自由で平等になった個人が、自己の欲望を満たすために利益を追求する経済社会。各自が欲求を満たすために経済活動を行うので、欲望の体系と呼ばれる。個人は、物質的・経済的に相互に依存しながらも、自己の利益を獲得するために競争して互いの利害が対立するので、家族の結びつきが失われた人倫の喪失の状態におちいる。「国家」は、市民社会で失われた統一を回復する、人倫の完成の場。家族の共同性と、市民社会の個人の独立を止揚した共同体で、共同体の普遍性と個人の個別性が共に保たれた人倫の最高の完成形態である。個人は、国家の法や制度を自己自身の根源(実体)である理性の表現とみて、これに従うことによって国家の成員として自由で理性的な自己を実現する。』とのこと。

ヘーゲルによれば、市民社会の人間たちは「欲望の体系」として捉えられているようだけど、大衆は本能を所有している、っていうということかな?

ここでは、人間の「愛情」と「欲望」に言及してる、って見ることもできるかも。

12日前 No.1395

★30JjgxOVKX_ZFe

メルロはこんなことを書いている。

『人間の行動の法則とは、未来に向かって現在をまたぎ超え、他人に向って自己をまたぎ超えることである。この闖入は、政治的な生の事実であるだけでなく、私的な生においても起こる。恋愛においても、愛情においても、友情においても、わたしたちはすべての瞬間において絶対的な個人性を尊重できる「意識」に直面しているのではなく、規定された存在――「わが息子」「わが妻」「わが友」――に直面しているのである。そしてわたしたちは彼らを共同の企図に巻き込む。ここで彼らは(わたしたちとともに)一定の権利と義務のある規定された役割を引き受ける。同じように、集団的な歴史においても、〈魂をもつ原子たち〉は、背後に固有の歴史を引きずっているのでえあり、互に自らの行動の糸によって結ばれているのである。それだけではない。彼らは意図して行動するかどうかを問わず、自分が他者と世界に対して行う行動の全体と自分を同一視する。主体の複数性が存在するのではなく、間主体性が存在する。』

メルロは人間の行動についても考えているようよ。実際の行動は身体が行なっているのね(音声語も文字語も身体によるも)。

現象学は間主観性を問題としてる。ここでは「間主体性」って書かれている。わたしの場合、「相互間性」っていうけどね。

また、メルロはこんなことも書いている。

『他者がわたしの意識に直面することがないように、わたしは他者の意識に直面することもない。他者にとってわたしは純粋な対自存在ではないし、他者もわたしにとって純粋な対自存在ではない。わたしも他者も、互に位置づけられた存在であり、人間と世界とのある種の関係によって、一定の活動によって、他者と自然を取り扱う一定の仕方によって、位置づけられた存在である。』

この場合の『他者』は、わたし、「他人」って見てる。

メルロは『身体の媒介というのは、たいていのばあい、私によって見のがされているものなのである』って言っている。
人間どうしの相互間には身体が横たわってるっていう認識はずせないんじゃない?

そう、人間どうしが直面しているのは意識じゃなくて、身体ね。そして、受肉され(した)人間は、人間社会のなかでは、互いに「規定された、位置づけられた存在」として生きている、っていうことじゃないかしらね。

12日前 No.1396

★30JjgxOVKX_ZFe

暴力を、ひとまず、人間による人間身体的強制力、って見て置く。身体的暴力には直接的と間接的がある。
ま、わたしの意味はこれぐらいにしておいて。

メルロは暴力について以下のように記述してる。

『他者を尊敬しない人物を尊敬するということは、結局は他者を軽蔑するということである。暴力に対する暴力を控えるということは、暴力の共犯となるということである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である。誘惑なしの説得というものはない。すなわち結局は、軽蔑なしの説得というものはないということだ。暴力は、すべての体制に共通した出発点である。生も、議論も、政治的な選択も、この土台の上で行なわれるのである。重要なこと、そして議論する価値のることは、暴力そのものではなく、暴力の意味とその未来である。』

また、

『すべての暴力を断罪するということは、正義と不正の存在する領域の外に出るということであり、世界と人間性を呪うことである。これは偽善的な呪いである。』

とのことよ。

8日前 No.1397

★30JjgxOVKX_ZFe

「モナド」って言ったらライプニッツらしいけど、もとはギリシア語の1を意味する語monosらしいいよ。

ところで、哲学者が言うこと信じます?

8日前 No.1398

★30JjgxOVKX_ZFe

人間一個人を「モノス」って呼ぶことにするね。モナドじゃないよ。

ところで、神はどうしちゃたのかしらね。

7日前 No.1399

★30JjgxOVKX_ZFe

メルロはこんなこと言ってる。

『いわゆる原始的な文明においては、集団的な生はある部分では想像的なものであり、経済的な解釈が可能な事実の間に、間隙と〈世界の間〉が存続し、これを神話が満たす。この神話は「イデオロギー」ではなく、発見すべき経済的な現実を覆い隠すものではなく、固有の機能をそなえている。こうした社会はまだ自然と社会を結ぶ「臍の緒」を断ち切っていないからであある。資本主義の社会は、この臍の緒を切ったのであり、これによって社会的なシステムの統合が実現される。社会システムは、脱神話化され、脱魔術化され、資本主義の社会として、そして資本主義によって、さまざまな力の単一の場に組織される。そして、その社会の総体をその真理のうちに知ってる解釈が、自ら提示される。しかし社会の現実化は、ある内的な障害によって妨げられる。システムは社会全体の生を理論的にも実践的にも制御できない。これによって全般的な判断が下されるのを避けるために、このシステムは自らを社会の動力学の過渡期な状態としてではなく、社会的な世界の永遠の構造として提示する。そして社会についての意識の土台となってきた客観的な知へと向かう運動も、客観主義と科学主義へと凝固してしまう。社会科学の挿話(エピソード)は、資本主義的な文明をその人間的な起源から切断する「物象化」の一般的なプロセスの一つの側面にすぎない。』

唯物主義者は、物象化、すなわち、人間を物にしやうのかもね。

6日前 No.1400

百理 ★5z6bVAmgS3_Y9V

知恵袋より・・

●ゲゼルシャフト=利益社会

メンバーが各自の利益的関心に基づいて結合する社会

大都市、国家、社会など

●ゲマインシャフト=共同社会

メンバーが互いに感情的に融合し全人格をもって結合する社会

家族、地域の村落など

テンニースの社会学のキーワードで社会構造はゲマインシャフトから

ゲゼルシャフトへと変遷すると考えた。

現在は、愛より経済らしい・・

6日前 No.1401

★30JjgxOVKX_ZFe

>1401
ももちゃん

〈現在は、愛より経済らしい・・〉

って、客観者、たいみたい。

6日前 No.1402

★30JjgxOVKX_ZFe

今、二つの訳を見比べようとしている。
メルロの「問いかけと直観」っていところのね。

@「un sit」とA「quid sit」
ちなみに、ふたつの本では、@は「それは…だろうか」「…は存在するかどうか」、Aは「…は何であろうか」「…は何であるか」などと訳されています。

いまいち、わたしこの日本語じゃわからない。わたし、外国語ニガテなんで、誰か説明してもらえるとありがたいんだけど。

4日前 No.1403
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