Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(305) >>

『存在と時間』

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(3033) - いいね!(2)

三九郎 ★xmuk0gs4yo_FvW

『存在と時間』(そんざいとじかん、"Sein und Zeit"、1927年)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの主著。「ものが存在するとはどういうことか」というアリストテレス『形而上学』以来の問題に挑んだ著作であるが、実際に出版された部分は序論に記された執筆計画全体の約3分の1にすぎない。『存在と時間』は実存主義や構造主義、ポスト構造主義などに影響を与えた。(wikiより。)


というわけで、ハイデッガーの『存在と時間』について議論したいと思います。



【【【尚、日本語訳でいいので『存在と時間』を読んできてください。】】】
(無理!!と言う方は入門書でOKですので読んできてください。)
※原本ドイツ語版や英訳版に絡めて言及してくれる方がいると嬉しいです。
※ニーチェやキルケゴール、フッサールに絡めて言及してくれる方がいても嬉しいです。
※日本語版が原本より解りにくいのは仕様なのでしょうか?

6年前 No.0
ページ: 1 2 3 4

 
 
↑前のページ (255件) | 最新ページ

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

雑感。

「先駆(Vorlaufen)」は老いという持続を看過して
性急に死を本来的存在へと位置づけ過ぎではないか。

それが看過されるのはきっと、
肉の存在論における位置づけが不十分だからである。

ハイデガーの「存在」は老いを知らない、と思う。

1年前 No.256

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

うどん粉さん

ちょっと質問があります。

私の今の理解では、イリヤの「ある」と、現存在の「ある」とは違うと思うんですよ。

前者は名前をもたないものの「ある」だし、後者は名前を持つものの「ある」ではないんでしょうか。

つまり、現存在とは名前を持つもののことではないかと思うんですよ。

そうすると、現存在の存在=実存と、イリヤの「存在(ある)」は違うと思うので、

レヴィナスの『存在から存在者へ』の著作の意図が、もし

 イリヤの「ある」から、「現存在」のあるへ

という意味なのであれば、これを

 『実存から実存者へ』

と訳すのは誤訳になるのではないかと思うんですが、どうでしょうか?

というのも、上の理解が正しいとすれば、まあ訳としては『存在から存在者へ』が妥当とは思いますが、

『存在から実存者へ』

という表現が、内容的にはより適切ということにならないでしょうか。

ついでに言えば、日本語的には、

「『こと』のある、から、『もの』のあるへ」

って感じでしょうかね。

どう思いますか?

1年前 No.257

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>257

訂正です。

著作名は
『存在することから存在するものへ』
です。
こちらの訳のほうが、私はいいと思うってことです。

1年前 No.258

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

>>258

ザビビのふくろうさん、こんばんは。

もし『実存から実存者へ』という邦題に不満があるようでしたら、
ぜひ、筑摩書房から出ているその本
[E・レヴィナス(西谷修訳)(2005)『実存から実存者へ』、筑摩書房]の
序章訳注(2)を参照してみてください(pp.28-30)。
訳者自身がその訳語を選出した理由が詳しく述べられています。

レヴィナスはハイデガーのSein(存在)とSeiendes(存在者)の訳語に
etre(存在)とetant(存在者)ではなく
exister(実存)とexistant(実存者)をあてていますが、
それは単に「音の響きがいいから」とレヴィナス自身、断りを入れています。
(『時間と他なるもの』や『存在の彼方へ』の冒頭にあります)

しかし、話はそんな単純ではありません。

そこには、存在の動詞性を強調する意図と、
脱自主義を軽視する意図が含まれていると、西谷は言います(詳細は割愛)。
しかし彼は、翻訳の際は、慣例的に「実存」と「実存者」と訳したと言っています。
その点に注意してもらいたいために、訳注が盛り込まれているのでしょう。

ちなみに『実存から実存者へ』の原題は、DE L'EXISTENCE A L'EXISTANTです。

つまり、イリヤ(il y a)は含まれていません。

本文のexisterとexistantを「実存」と「実存者」と訳すならば、
そのまま邦題も『実存から実存者へ』で問題ないと思います。

ただ、「イリヤ(il y a)」を「実存(exister)」の別の表現と捉えるなら、
ザビビさんの

>レヴィナスの『存在から存在者へ』の著作の意図が、もし

>イリヤの「ある」から、「現存在」のあるへ

>という意味なのであれば、

という解釈は正しいと思います。

だからぼくも、
『存在することから存在するものへ』という訳のほうが、
ニュアンスとしては近いと思います。

以上のことをまとめると、
原題がDE L'EXISTENCE A L'EXISTANTとなっているけれど、
それを通常訳す際の「実存」や「実存者」という語には、
それほど現存在の存在というニュアンスが含まれていない、
ということに注意して、訳語に不満があれば適宜原文を参照しつつ、
柔軟に解された方がいい、
ということになります。

1年前 No.259

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=rUm247hEcy

>>256
レヴィナスが言っていることをなぞっているだけ。

1年前 No.260

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

うどん粉さん

レスありがとうございます。

また、的確・丁寧な説明をありがとうございました。
大変参考になりました、感謝です!

あなたの原書云々についてもその通りなんですが、いかんせん語学力等諸般の事情があり(笑)
とりあえず…

「西谷さん、ちゃんと読みもせず、エラそうなこと言ってすみませんでしたっ!m(__)m」

それと、ブログ読みました。
私には残念ながらまだ「わかった!」って感が得られませんが、参考にさせてもらってます。


それと、私、今回レヴィナスの復習を始める前に、
「独我論を乗り越える方法」スレで、
http://mb2.jp/_tetsugaku/436.html-407#a
「或る独我論者のモノローグその1〜5」っていうので、
まあ、昔持っていた問題意識を簡単にまとめてみたんです。
今回、復習を少ししてみて、やっぱりレヴィナスの問題圏なんだと思いました。
あと、レヴィナスに関してタルコフスキーという映像作家についても触れたものもあります。
よかったら、時間のあるとき、また見てください。

1年前 No.261

うどん粉 @levinas ★iPhone=i8iYr2iIPT

>>260
阿さん、ご指摘ありがとう。
気づきませんでした。

1年前 No.262

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=mdtjLNZb79

レヴィナスがブーバーの「私-あなた」に依拠しつつ「対面」について述べており、ハイデガーの共現存在などの「ともにmit」を批判しているのに、その由来である現-存在がレヴィナスの言う「実存者」だなんておかしいでしょ。『時間と他なるもの』で感性的な事態の強調が(ハイデガーの現存在との違いを強調するために)再三にわたり繰り返されていることからしてもそれはわかる。ハイデガーの現-存在の現daとは空き地Lichtung、開かれてあるところであって、そこにはさしあたり名前だの匿名だのは関係ない。さらに言えば、Lichtungの意味合い、つまり森林において光Lichtが差し込んでいる空き地というニュアンスからしても、レヴィナスの言うかぎりでの夜の不眠の体験は、少なくともレヴィナスの意図としては対置されているものだ。ハイデガーの言う現存在はレヴィナスにとって存在という基底fondを媒介した関係、つまり「mit」しか語れていないというのがレヴィナスの批判でしょ。そうではない実存者として、ブーバーの「私-あなた」に依拠した対面をレヴィナスは言っている。

さらに、どうやら『レヴィナスコレクション』をもっているらしいが、なぜそれに所収の『ある』から引用してこないのか。「これやあれは存在しない」「万物の不在じたいは不可避の現存である」みたいなことを書いてたはずだ。レヴィナスは「(匿名の)何か-が-ある」ことを「ある(イリヤ)」と言っていたのではない。「何か」という主格(匿名であれなんであれ)から分離した「ある」の体験について書いていた。そこを指摘しないのもおかしい。いわば実存することじたいの匿名態であって、匿名のものの実存することではない。

あなたがハイデガーどころかレヴィナスさえろくに読んでないのはわかってたが、学部生だか院生だか知らんが、レヴィナスをちゃんと読めよ。

1年前 No.263

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

>>263

阿さん、
丁寧な指摘と未熟さの叱咤という二重の意味で、勉強させていただきました。
ありがとうございます。

1年前 No.264

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

ぼくは今、学部生ですが、阿さんの

http://mb2.jp/_skj/372.html-1445#a

のスレに励まされました。

もっと語学も学んで、レヴィナスもきちんと読み直します。

失礼しました。

1年前 No.265

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

>>263

阿さん。

たしかに、ハイデガーの「現存在」(Dasein)を
レヴィナスの「実存者」(existant)と同一視するのは間違っています。
それはご指摘にある通りです。
しかし、ハイデガーの「ともに」(mit)を批判する形で導入した対面が
ブーバーの「私‐あなた」に依拠していると言ってよいのでしょうか。
むしろレヴィナスは、
ブーバーの「私‐あなた」とは「べつの視界」から対面を導入しており、
決して依拠しているわけではないのではありませんか。

>さらに、<私‐きみ>関係はブーバーにあって、形式的な性格をなおとどめている。その関係は、人間と人間をむすぶものであるとともに、人間を事物にむすびあわせることも可能なのである。<私‐きみ>の形式的構造(フォルマリスム)によっては、どのような具体的構造も規定されない。<私‐きみ>はできごと(Geschehen)、衝撃、理解である。けれども<私‐きみ>によっては、友情以外の生のかたちを説明することはできない(説明されうるとしても、逸脱、堕落、病理としてにすぎない)。つまりエコノミーを、ものとの関係を代表する、この幸福の追求を説明することができないのである。そうした関係は、一種の尊大な精神主義のなかでは探求されず解明されない。本書には、こうした点についてブーバーを「訂正する」という嗤うべき主張は含まれていない。本書が置かれているのはべつの視界、<無限なもの>の観念から出発するべつの視界にほかならない。
(E・レヴィナス(熊野純彦訳)(2005)『全体性と無限』、岩波書店、pp.122-123)

したがって、阿さんの

>つまり「mit」しか語れていないというのがレヴィナスの批判でしょ。そうではない実存者として、ブーバーの「私-あなた」に依拠した対面をレヴィナスは言っている。

という指摘は半分正しくて、半分間違っているのではないでしょうか。

また、これは批判ではありませんが、阿さんは、

>さらに、どうやら『レヴィナスコレクション』をもっているらしいが、なぜそれに所収の『ある』から引用してこないのか。「これやあれは存在しない」「万物の不在じたいは不可避の現存である」みたいなことを書いてたはずだ。

とおっしゃいますが、
なぜ、『ある』から引用してこないことが指摘の対象となるのでしょうか。
『ある』から引用してこなければならない必然性が
十分に説明される必要があるのではないでしょうか。

というのも、『実存から実存者へ』においても、
阿さんの意図に適う引用すべき箇所が見受けられるからです。
一連の投稿において、
むしろ文脈に妥当する『実存から実存者へ』から引用してきた方が適切なのではないですか。
なぜ突拍子もなく『ある』が言及され、
そこから引用してこないことが指摘の対象となるのですか。

ここまで来て、阿さんの

>あなたがハイデガーどころかレヴィナスさえろくに読んでないのはわかってたが、学部生だか院生だか知らんが、レヴィナスをちゃんと読めよ。

という指摘は、阿さん自身にも反照されるのではないですか。

1年前 No.266

★iPhone=r6HP5YLzUZ

「ブーバーの「私‐あなた」に依拠していると言ってよいのでしょうか」
言ってよい。「依拠」が気にくわないなら起点と言いかえてもいい。俗に言う「批判的に継承」とかのほうがお好みかな。
そして私はブーバーのそれとレヴィナスの言う「顔」や「対面」を同一とはしてない。

「なぜ、『ある』から引用してこないことが指摘の対象となるのでしょうか。『ある』から引用してこなければならない必然性が
十分に説明される必要があるのではないでしょうか」
必然性? なんの話してるかさっぱり。

『ある』から引用してきてないうんぬんより、「慎重な」留保をしつつデタラメを言ってあることが私の指摘の本丸。こういうのは「エヴィデンス」がどうたらと同じく、なまじ「慎重な」留保のせいでそれっぽく見えるぶんタチが悪い。
『レヴィナスコレクション』もってんだから、ふくろうの質問に対して同書所収の『ある』から造作もなく答えられるはずだのに(ましてや「ある」なんていかにもな言葉だ)、なんでそんな「自分で考えて」デタラメを言うんだって話だ。レヴィナスの「自発性」批判も「パンキョー」じみたものとしてしか受け止めてないのか?
レヴィナスの思想の是非以前の話。文脈なんかどうでもいいっしょ。

「なぜ突拍子もなく『ある』が言及され、そこから引用してこないことが指摘の対象となるのですか」
なにが突拍子もなくだ。レヴィナスの話をあなたはしてて、そのなかに「ある(イリヤ)」が出てきてて、『レヴィナスコレクション』における『時間と他者』の近所に『ある』があったはずでしょ。

ださくて女々しい難癖だ。似たもん同士で懇ろにしときゃあいいじゃん。

1年前 No.267

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

『存在と時間』の実存論的分析論から
心的外傷を解釈する試みは許されるのだろうか。

1年前 No.268

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>268

中身次第だろうに!!

1年前 No.269

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

サルトルさんは「存在と無」と言う正統的名付け方を存在に対してなされていらっしゃいますが・・

ヤスパースさんは、鬱病に悩まされたりして・・ヤスパースさんの精神病理学をフランス語に翻訳されるほどの方です・・

『存在と無』は副題に「現象学的存在論の試み」と打たれているとおりにフッサール現象学、精神分析学、そしてマルティン・ハイデッガーの存在論に色濃く影響されている。・・らしいです。


存在と時間より存在と無の方がより正しいような気がします・・

1年前 No.270

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

>ヤスパースさんは、鬱病に悩まされたりして・・


申し訳ありません。

サルトルさんは、鬱病に悩まされたりして・・に訂正します。

1年前 No.271

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

中身で評価しないでください…という予防線だとしたら、その予防線を私は見逃さないゾ。

そういう解釈をしたという事実だけで評価を下さい…という意図があるならば、私はその怠惰を見逃さないゾ。
しかもパクりだし。精神病理と実存分析って擦られまくったネタなのだから。



『実存論的分析論から心的外傷を解釈する試み』という出来事を起こすだけでも難しいことだと思います。

それとも、そういう出来事がそのような試みとして起こっていないとしても「そういう試みをしたんです!」と主張するだけで、そういう試みをしたことになるとでもいうのだろうか?内容がどうであっても、「これは実存論的分析論から心的外傷を解釈する試みです。」と言って、それにそういうタイトルを付ければ、それがそういうもので『ある』ということになるのだろうか?ならない!

ここで『ある』とは何であるかが問題になってくる。

どうすれば或る試みが『実存論的分析論から心的外傷を解釈する試みで』『ある』か?

これは、こういうのを『実存論的分析論から心的外傷を解釈する試み』と呼んでもよいものか…という人間にとっての「Gelten」の問題に過ぎないのではないですが、しかし明らかに人間的呼称にも関わる問題です。カントが『道徳の形而上学の基礎づけ』で言及している「尊敬」という感情は、これに近いと思います。この尊敬は、(私の行為の格律が普遍的法則であるべきだと)欲することが出来るという感情です。この「Wollen-koennen」は、単なる恣意でもなく単なる可能性でもありません。

この「意志-可能」は、『存在と時間』における「覚悟性」と同じ事態を名指している…という予想を立ててみてもよい。というのも、覚悟性(Entschlossenheit)という実存論的概念が実存的に見られるのは「良心を持とうとする意志」においてであるからです。「das-Gewissen-haben-wollen」も「Wollen」です。そして「Wollen」すなわち「意志」は、この良心を持とうとする意志の方から、捉え返される。この「良心を持とうとする意志」は、呼びかけに備えることであり、自分を開けておくこと(sich selbst offenzuhalten)であるのですが、これがカントの実践的自由概念とかぶります。(cf. http://mb2.jp/_tetsugaku/971.html-238#a

「或る試みが・実存論的分析論から心的外傷を解釈する試みで・ある』という存在の出来事が起こるのは、これならば『実存論的分析論から心的外傷を解釈する試み』で『ある』と言ってもよいだろうという、「意志-可能」が関わってくる。こういう意味で、人間の自由が存在の出来事に関与するものだという予測が立ってくる。

この予測は、ハイデガーの自由概念に基づいている。ハイデガー→予測→ハイデガーという風に、ハイデガーに始りハイデガーに帰るという循環がみえてくる。この帰行において、ハイデガーの言葉が尊敬に値するかということが試される。それと同時にハイデガーの言葉にその本来の(そして有限的な)重みが回復されてくる。

さて、これが「反復」と呼ばれているものなのか?
これに「Verwindung」が関わってくるか?

私のなかで「なんで存在なんだよ」という疑問が少しずつ解けてきた。

『存在・と・時間』の『と』が人間を意味するという冗談みたいな話もある。

1年前 No.272

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

独立と言う自由は、一般意識の形式的自己の反抗、もしくは経験的個体の頑固な自己主張・・

絶対的な現存在の安全性と唯我独尊の見せかけの独立である。

1年前 No.273

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

卒論のテーマが定まらなくて。
調べてみても似たような題がなく、
自分でも冒険しすぎのような気がして、それで不安になりました。

ひとまず自分の関心のある暴力をテーマに、
今まで一番親しんできた哲学書を軸にして書きたいな、と。

そんな折、これまで自分なりに考えてきたつもりのことも、
実は『存在と時間』の中をうごいているのだな、ということに気づき、
ひとまず自分の考えをきちんと置き換えてみよう、と。

・・・

漠然とした見通しとしては、
「傷は実存論にどのように位置づけられるのだろう」という疑問からはじまった。

当たり前だけど、
傷は目の前にある(Vorhandenheit)のでも、手もとにある(Zuhandenes)のでもない。
だから当然、道具(Zeug)でもない。ましてや記号(Zeichen)でもない。

だから世界内部的な存在者ではない。
それはいわば、現存在に”くい込んでいる”ようなものではないか。

としたらそれは、世界内存在の世界の側にあるのではなく、
どちらかといえば内存在の側にあるのだろうか。

しかし、経験上わかるのは、
負った傷が大きければ大きいほど、
世界のもとに住まっている場合ではない、ということである。

とすれば、内存在でもないかもしれない。

傷は世界内存在に位置づけられるのだろうか。

・・・

実存論的には治療よりも負った経験、負うている事態が問題となる気がする。

傷は負った原因がわかれば、
まだ「次からは気をつけよう」となるなりして、それほど問題ではない。

問題は負った原因がわからない場合である。

身体的な傷では、そんなことはあまりないかもしれないけれど、
心の傷は大概、暴力に由来するから、
その暴力の理由がわからない、という事態は起こりうる。

存在了解はこうした、理由のわからない、思考できないものも
「ある」ということがわかるという意味で、
こういったことを論じる可能性を開くのではないか。

負った理由がわからないとき、
私は不安(Angst)である。

このいわれのない傷は、世界そのものを前に不安を駆り立てる。

一切が可能性のままに留まるとしても、それらは私の心を締めつける。

現実化せずとも、まるで死のように、
純然たる可能性に留まりながらも、私の心を締めつける。

その意味で理不尽な暴力は、死の実存論的意味における諸性格を帯びる。

・・・

それでも私は、頽落の動性にしたがって、傷を説明づけようとする。

しかしそれが明かすのは、私の負い目である。

負い目において、私は非力さ(Nichtigkeit)を思い知らされる。

このとき心に反響する言葉は自虐としてはたらく。
しかし言葉を述べ続けなければ不安で仕方がない。

ここにいたって、主体性の喪失は加速する。

したがって主体性を確保するには、
沈黙しつつ不安に耐えて負い目へと自己投企する必要がある。
すなわち決意性(Entschlossenheit)である。

これが困難な道であることは言うまでもない。

・・・

ひとまず、思うところは書いてみた。

1年前 No.274

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>272

>有と時――こういう標題の本が存在する。しかしこの本の標題そのものは他の多くの標題と同じく重要ではない。このような標題を付された本は他の本と同様に重要なものではないが、重要なことは、読者が西洋形而上学の、つまり我々の全現有の形而上学の根本的生起――つまりそれについては個々の本は〔あれこれ〕決定してはならず、我々がその前に何は扨て措いても跪かねばならないような生起であるが――に気づかせられるということである。有と時は一つの新情報とか一つの所謂哲学的立場とか、それどころか現在の青年の冒険的な革命的気分から生れて来るであろうような一つの特別な哲学とか、とは全く別物なのである。それは決して新情報なのではない、殊にどうみても既に古代の人々が時の本質を問うて来たのであり、同様にカントもヘーゲルも、どんな哲学者も問うたのであるから。それどころか、他ならぬかの偉大な人物たるプラトンとアリストテレスは哲学の主導的問を本来の最初の覚醒へ齎らし、実有(ousia)を指摘しているのであり、彼等は初めて、殊にアリストテレスは自ら時とその本質を問うたのである。それにも拘らず、有を、そして又時を問うことはまだ「有と時」という問題を理解していることを意味しないのである。有と時という二つのものはそれらの最も内的な親近態の中に隠されたままであったのであり、問題として経験されなかった、将来的にもそうであろう。確かに有は経験され、時も経験されるが、しかし有と時はどうか。両者を一緒になるように強いる、この「と」は問題の本来の指標なのである。有るものは何であるのか、という主導的問は、有と時とのもつこの「と」を問い、かくして両者の根底を問うところの、根本の問に変らなければならない。根本の問は、有が時に根差しており且つこの地平において形而上学の主導的問題としての有の問が展開され得るし又展開されねばならないところからすると、時の本質とは何であるのか、ということになる。(GA31, §11)


『ニーチェ』講義でも出て来る主導的問と根本的問との区別(cf. http://mb2.jp/_tetsugaku/971.html-116#a)。

主導的問(Leitfrage)は「存在者は存在しているものとしては何であるか」という風に定式化される。

根本の問(Grundfrage)は、ここでは以上のように定式化されているが、ひとつの設問であるというよりは、経験される出来事である。

>我々が人間を他の有るものの中の一つの有るものと見做す場合には、我々は主導的問の枠の中で(im Rahmen der Leitfrage)人間を問うているのである。我々が有と時を問い、時の本質を問うことにおいて、問いながら人間を眼差しから離さないならば、その場合には我々は主導的問の枠内で問うているのではなくて、根本の問の根底から(aus dem Grunde der Grundfrage)問うているのである。(GA31, §12)


>我々はむしろ初めから、我々が時を有の理解を可能にする根拠として、換言すれば、人間の本質の根拠を可能にする根拠として洞察するという風に、時を問わなければならない。…有の本質(有の理解)への問〔と〕時の本質への問――この二つの問は人間を問うこと、一層厳密には、人間の本質の根拠を問うことである。我々がそれのみか有と時との共属性、つまりこの「と」を問うならば、いよいよ以て且つ最終的に人間の本質の根拠を問うことになるのである。(GA31, §12)


>また現存在の形而上学の問題性が「存在と時間」の問題性と呼ばれるならば、いまや基礎存在論の理念の解明から明らかにされえたことは、この表題における「と」が中心的問題を内蔵しているということである。「存在」も「時間」も従来の意味を放棄する必要はないが、しかし恐らく一層根源的な解釈によってそれらの権能と限界とが根拠づけられなければならないであろう。(選集19, 260頁)


ん〜…注目したいのは

・「限界」が「根拠づけられる」というところ。(有限性/根拠づけ)

・「存在と時間」の「と」を問うことで、人間の本質の根拠が問われるようになるということ。(この「と」自体が単純に人間であるという話ではない。)

・存在了解…二重襞

・「時間と存在」

ん〜…

1年前 No.275

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>274

>「傷は実存論にどのように位置づけられるのだろう」という疑問からはじまった。


私は寡聞ながらハイデガーが「傷」を論じた論文等を知らない。
「裂け目」とか「痛み(Schmerz)」について語っているのを読んだことはありますが。

「ハイデガー Wunde」とかで調べると、トラークルの詩の中に「Wunde」という文字が出て来たのはあったらしい。ハイデガーのトラークル論のなかでもしかしたらハイデガーが「傷」について論じた箇所があるかもしれない。知らないけど。『言葉への途上』かな。でも、うどん粉さんの関心からは離れるかもしれん。

ちなみに…
小泉義之の『生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー』っていう本、たぶん読んでると思いますが…
そこに「傷の感覚、肉の感覚」っていう文章があるらしい。

「痛み」という点では河本英夫先生の「痛みのシステム現象学」っていう文章もあるらしいですね。

>当たり前だけど、

>傷は目の前にある(Vorhandenheit)のでも、手もとにある(Zuhandenes)のでもない。


いや、傷は目の前に見られて観察されるし、止血などの配慮(besorgen)において「手もとにある」のでは?
持っていきたい話の流れは分かります。
ただ、明らかに、傷って目の前にありますよね。そこを譲歩しないとおかしなことになると思います。

>それ〔傷〕はいわば、現存在に”くい込んでいる”ようなものではないか。


???

>としたらそれは、世界内存在の世界の側にあるのではなく、

>どちらかといえば内存在の側にあるのだろうか。


???

>実存論的には治療よりも負った経験、負うている事態が問題となる気がする。

>傷は負った原因がわかれば、

>まだ「次からは気をつけよう」となるなりして、それほど問題ではない。


これは経験的な問題であって、実存論的な問題ではないですね。


>身体的な傷では、そんなことはあまりないかもしれないけれど、

>心の傷は大概、暴力に由来するから、

>その暴力の理由がわからない、という事態は起こりうる。


「身体的な傷」と「心の傷」を無造作にひとつの概念の下に包摂していいんですか?
言葉が一緒なだけで、事態(Sachverhalt)は違うかもしれません。


ちなみに…ブランケンブルクの『自明性の喪失』は読んでますよね?
精神病理学とハイデガーの実存分析を結びつけるという発想は(ビンスワンガー等に始り)ブランケンブルクに引き継がれているそうですよ。

あと、
野間 俊一(京都大学)『病みつつ在るということ― 人間学的精神病理学を超えて』
は読んでみましたか?参考になるかどうかは知りませんが、検索したらまっさきに出て来ました。



>負った理由がわからないとき、私は不安(Angst)である。


「不安」は『存在と時間』においては術語(Terminus)なので、慎重に使用した方がいいかもしれません。

>このいわれのない傷は、世界そのものを前に不安を駆り立てる。


「世界そのものを前に不安を駆り立てる」って日本語は意味不明だと思います。
あと、「不安」という根本気分は、現存在を世界内存在としての自己自身へと突きつけるのではなかったかな?
「世界を前に」というより、「世界内存在を前に」ではないか?

>一切が可能性のままに留まるとしても、それらは私の心を締めつける。

>現実化せずとも、まるで死のように、

>純然たる可能性に留まりながらも、私の心を締めつける。


???

無理矢理ですね。

>その意味で理不尽な暴力は、死の実存論的意味における諸性格を帯びる。


「実存論的な死」は、「心を締めつけるもの」だったっけ?


>それでも私は、頽落の動性にしたがって、傷を説明づけようとする。


頽落って何ですか?

>しかしそれが明かすのは、私の負い目である。


『存在と時間』では「負い目あり」を告げるのは「良心」でしたね。
頽落の動性(動性ってなに?)に促された説明が告げるのではないと思うなあ。

ちなみに「良心」の位置に「傷」が来るってことは説明できますか?(そもそも説明の必要性を感じますか?)

>負い目において、私は非力さ(Nichtigkeit)を思い知らされる。

>このとき心に反響する言葉は自虐としてはたらく。

>しかし言葉を述べ続けなければ不安で仕方がない。

>ここにいたって、主体性の喪失は加速する。


『存在と時間』における「Nichtigkeit」って何か?
単なる経験的な概念としての「非力さ」ではない。そして、非力な自分を自虐するというのは、経験的な話であって、実存論的な問題ではない。

「主体性の喪失」という言葉も、ちょっと危ない。

例えば…「被投性」って「主体性の喪失」ではないんですか?
自分の負い目に直面させられることが「主体性の喪失」で、この事態が避けるべきものなのだとしたら、「被投性」とか「事実性」って解消すべきものなんですかね?




>したがって主体性を確保するには、

>沈黙しつつ不安に耐えて負い目へと自己投企する必要がある。


この「したがって」はこの文章において何ら役割を果たしていない。
「何が「したがって」なの?」という突っ込みを受けることは避けられないでしょう。

あと、「主体性を確保する」ために「沈黙しつつ…自己投企する」わけではない。
投企(Entwurf)は、実存論的には、何らかの特定の目的のためにそのつど行われる行為ではなく、現存在自体に備わっている構造みたいなものです。
だから「主体性を確保するために」って言うのは、おかしいと思う。

>すなわち決意性(Entschlossenheit)である。


決意性だから何なの?
傷の話はどこに行った?この話において傷ってそこまで重要な役割を果たしているかな?
少なくとも、もう一回傷の話に戻らないと、傷って何だったの?ってなっちゃうと思いますね。

1年前 No.276

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

>>276

丁寧にご指導いただきありがとうございます。

詰めれるところまで詰めてみたいと思います。

1年前 No.277

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>277

絶対に反論があるはずだけどな。もしもあなたが何かについて語っているのだとしたら。

反論がないってことは…

何についても語っておらず、ただ文章の体裁だけ『存在と時間』風味に整えただけ…って評価が下るけど、よいの?

1年前 No.278

うどん粉 @levinas ★iPhone=i8iYr2iIPT

正直、論文を書くのは初めてなので、本当にどう取り組んでいいか、手探りの状態です。もちろん指導教員と相談しつつ、進めていきますが、この一件でも、なおのこと難しさを痛感するばかりです。

それとは別ですが、調べてみたら、木村敏という先生が現象学的精神病理学をやっているとのことで、少し興味を持ちました。

1年前 No.279

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

村上靖彦先生の『傷と再生の現象学 ケアと精神医学の現場へ 』って知ってます?

この先生はブログに
「レヴィナスの主観性は、実際にさまざまな苦痛に脅かされているなかでの主体の発生・再構成の仕組みです。ここで精神病理学との構造的な連関が生じます。この議論は、心的外傷とそこからの治癒の可能性を組み込んでいます。ただし、本書での考察では、心的外傷ではなくブランケンブルクの症例アンネ・ラウを事例として用いました。」
と書いている。

ブランケンブルクの名前がはっきり出ている。
ブランケンブルク『自明性の喪失』を翻訳したのが、木村敏先生。

1年前 No.280

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

自分がずっとやりたいと思ってきたことに名前がつきつつあるような気がします。

本当に、ありがとうございます。

1年前 No.281

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

大学も知り合いがいるのと居ないのでは大違いでしょう・・

実力をつけて倫理的でなかったら小保●さんみたいに陥れられるでしょう・・

一番出世するタイプは奥様が学費から面倒見て下さるような方々です・・

私が今までで一番面白かった授業は引退最後の一年の教授の授業です。その先生がドイツ留学の中での現象学を少し講義されました。

その先生が1+1について考えて見るようにおっしゃったのです・・答えを一切言われませんでした・・

私事ですが・・哲学の前に私は1+1に答えが二通りあることになんとなく何か感じています。ヤスパースさんに答えのヒントがありました・・

1年前 No.282

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉272、

てじさま、

フーコーはこんなことを言っている。

「近代の思考は、もはや〈相違性〉にけっして完成されることのない形成にではなく、つねに完遂されなければならぬ〈同一者〉の解明に向かう思考である。こうした解明は、〈分身〉の同時出現、さらに、「と」のなかにある、わずかだが克服しえぬあの偏差、そうしたものなしにはおこなわれないだろう。」

たしか、フッサール、ポンティは、生きた時間がフーコーと重なっているところがあると思う。

わたしにとって、滑稽なことは面白い。興味あるし、openなことだと思う。

この「と」は、間主観性のこととして見ているし、「と」を見ようとし、「と」で見ようとしている。わたしの場合。

1年前 No.283

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

§26で、相手の苦労を取り除いてやる待遇は、相手を依存状態にして支配しがちであると言われている。

>>280 は、そういう待遇だ。

>>283
う〜ん、分からない。

1年前 No.284

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>272

良心を持とうとする意志と、自由が結びつくというのは、『存在と時間』でも述べられていることです。

>…良心の呼びかけをまともに聞くことは、ひとごとでない自己の存在可能においておのれを了解すること、すなわち、ほかならぬ自己が本来的に負い目を負って存在しうることへむかって自己を投企すること…に帰着する。この可能性へむかって呼びだす声に了解的に応ずることは、現存在が良心の呼び声にむかって開かれた自由を得ること、呼びかけを受ける可能性にそなえている用意、をうちに含んでいる。(ちくま下138頁)


>…良心を持つこと、すなわち、ひとごとでないおのれの負い目ある存在へむかって開かれている自由存在…(ちくま下139頁)


また、覚悟性と、自由が結びつくということも、読めば分かります。

>死へむかって開かれた自由のみが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性のなかへ突きいれる。みずから選びとった実存の有限性は、さまざまに誘いかけてくる安楽さや気軽さや逃避などの手近かな可能性の限りない群がりから現存在をひきずりだし、それを自己の運命(Schicksal)の単純さのなかへ連れこむ。ここで運命というのは、本来的覚悟性のなかにひそむ現存在の根源的経歴のことであって、そこで現存在は死へむかって自由でありつつ、相続され、しかもみずから選びとった可能性における自己自身へと、おのれを伝承するのである。(ちくま下324-325頁)


『道徳の形而上学の基礎づけ』を読むなかで経験できる「普遍的立法」の概念及び自律としての自由から、ハイデガーの「死への存在」を解釈することが可能です。

同時に、『存在と時間』における「良心を持とうとする意志/自由/先駆的覚悟性」を理解すれば、そこからカントの道徳論の(有限的な)重みが分かってきます。

こういった経験から、哲学が言葉遊びや高尚な空想ではなく、まったく「現実的」な「我がごと」であると分かってきます。

カントの道徳論に眠っている爆発的インパクトを目覚ませるきっかけのひとつが、『存在と時間』です。



これから『存在と時間』を読もうという人は、カントの『道徳形而上学原論』(『道徳の形而上学の基礎づけ』『人倫の形而上学の基礎づけ』)も併せて読んでみると、理解が捗りますよ(経験談)。

同じこと(das Selbe)について、ハイデガーとカントが、別な仕方で語っているからです。ハイデガーとカントの2パターンを、同じこと(=自由)を参照しつつ、比較することが可能です。自由を参照しつつハイデガーとカントを往復することで、より自由の内実にむかって自分を開くことができます。自分を開くということは、向こうからのメッセージがこちら側に入って来れるようにするということです。そしてこれがとりもなおさず「…に対して自由であること」なんですけどね。

ここまで来ると、これまでの自由概念とは別な自由概念が手に入っています。これまでは「なににも縛られないこと」が自由だと思っていました。すなわち、無限に束縛されない在り方が自由だと思っていました。無制限(un-endlich)に拘束されないのが自由だ…と。しかしここにいたって、自由というのは、有限性(Endlichkeit)を引き受けることなんだと分かってきます。

>先駆しつつおのれのうちに死の威力を高めるとき、現存在は死にむかって打ちひらかれて自由になり、その有限的自由にこもるおのれの超力において自己を了解する。(ちくま下325頁)


無限の自由ではなく、有限な自由。

『カントと形而上学の問題』で

>「存在」も「時間」も従来の意味を放棄する必要はないが、しかし恐らく一層根源的な解釈によってそれらの権能と限界とが根拠づけられなければならないであろう。( >>275, 選集19, 260頁)


と言われているところでも、ここでも、「限界」ということが言われている。限界は終り(Ende)です。

放棄しなくてもいいが、それの限界を見定めようという態度。
この態度は、哲学者達との対決にも見られる( http://mb2.jp/_tetsugaku/971.html-240#a)のですが、それが「存在」に対しても見られるのではないか。

例えば、存在者が存在するのではなく、存在が存在するのだという、「Isten」の話。この「Isten」は、存在を意味する動詞「sein」の三人称単数の「ist」を更に動詞化したもの。本当にistするのはdas Sein selbstだみたいなことを言い始める。なんでここまでするのか…「存在の超克」を狙っているように思えるんですよね。「別な原初」とか「別な運命」とかと同じです。ousiaとなった存在を、ousiaになった存在の根底(時間)から相対化して、「存在・と・時間」を開放させようとしているように思えます。

ハイデガーが「存在批判」みたいなことをしているのだと仮定してみます。そうしたら、私が次に向かうべきは、たぶん、ハイデガーのパルメニデス論です。というのも、「別な原初」と対になるのが「最初の原初」であり、『哲学への寄与』などで最初の原初といったら古代ギリシャの思索者についての論であるからです。アナクシマンドロス・パルメニデス・ヘラクレイトス…ハイデガーが彼らとどう対決しているのかを、まず見ておかなければならないでしょう。

1年前 No.285

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

>>285

『続・ハイデガー読本』の日下部吉信先生の論稿を読んで、軌道修正。

ハイデガーは存在批判しているんだってことは、ないだろう。

いずれにせよ「原初の思索者」3人についての論へ向かう。

1年前 No.286

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

存在の二通り


究極の実体を個体ないし個物と考えるか・・普遍ないし一般者とするか・・

個体主義と普遍主義という二通りがあります。

1年前 No.287

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

「Sich-vorweg」を「己に先立つ」と訳してもよいのだが、私はこの日本語の意味不明さが気にかかる。

己に先立つということは、先走る自己と、遅れをとる自己のふたつがあるということだ。

このふたつの自己がどう違うのか、そしてこのふたつの自己が「実存」や「気遣い」や「理解」や「投企」とどう連関しうるのか。

これを明示できない限り、本当にSich-vorwegというのは己に先立つことであるのかが分からない。

だが、もしこれが己に先立つことであるならば、この概念から先駆という言葉を解釈できるだろう。

そうならば、先駆というのは、先立つ自己であることであって、先立たれ遅れをとる自己で『ない 』ことである…といった展開が予想できる。

この解釈によって「-weg」という字のニュアンスを汲み取れるようになるかどうかは未だ不明である。

1年前 No.288

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

記憶がSinn(意識)を通して予期します・・

知覚には現実的なモノと信憑性のあるものとの二通りあります。

やはり意識とは・・?


全然関係ない言葉遊びですけどSich-vorwegとちょっと似てる文字でdie Schweiz(スイス)はイギリスやドイツと違って中性名詞ではないのだろう・・


私にはドイツ語などの名詞の区分けが男性名詞とか女性名詞とか中性名詞とか全く意味不明な感覚です。

たぶん言葉によって思考方法が全く違うのかもしれません・・

1年前 No.289

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_sgs

「気配について」

 ものすごく大胆な読みですが、ぼくには『存在と時間』でハイデガーの言おうとしていることが「気配」という現象から紐解ける気がします。たまたまかもしれませんが現存在の存在である「Sorge」は日本語で「気配り」とも訳されますし。ともかくここで言いたいのは「気配」という現象の解釈から導ける帰結がハイデガーの遂行した現存在分析に酷似するということです。以下、その解釈を端的に記します。
 気配はつねに「何か」がいる気配です。その「何か」は残された痕跡から推測されますが、その「何か」の正体が確定するにはその出現を待たねばなりません。この「何か」がいる気配は存在者というより存在、存在するものというより存在することと言えるのではないでしょうか。なぜなら存在者であるならばその「何か」はその正体が明確になっているゆえに、気配としての性格を喪失してしまうからです。つまり、存在者という形で明確に存在するのであれば、それは気配としての居心地の悪さを喪失するからです。たとえばカーテンという存在者に気配は伴いません。しかしそれが暗闇でカサカサと揺れる「何か」であったならばそれは気配を伴います。
 「存在は存在者ではない」という主張から読み取れるのは、存在そのものに不気味さ(Unheimlichkeit)が伴うことであり、それはまさに安心できる場所としての家(Heim)の喪失を意味することになりますが、それは上に示したように気配という現象の解釈から導くこともできます。つまり存在者のもとで頽落している日常的現存在は気配を退けて安心できる場所に落ち着いている事態を指すことになります。
 さらに現存在の存在意味が時間性となる点も気配の解釈から導くことができます。「何か」の気配に居合わせるとき、私にはそれが出現するまで「まだ時間があ」ります。かといってのんびり余裕で構えているわけにもいきません。私には「もう時間がない」とも言えます。このように「まだ時間がある」という形で到来するものから取り置かれた間隔と「もう時間がない」という形で過ぎ去ったものから来る焦りとが気配に居合わせている状況を形作りますが、このとき時間的に優位があるのは決して現在ではありません。むしろ到来するものの領域の側に優位がある、すなわち将来に優位があるのです。到来するものの側から解釈された過ぎ去ったもの(痕跡)が瞬間を構成することになります。これはまさに本来的時間性の構図そのものです。
 それだけではありません。被投性として気分が重視されるのも、理解がつねに投企という形をとるのも気配だからこそ言えることではないでしょうか。
 「気配」なんて『存在と時間』のどのページを探しても書いてありません。それゆえこれは大胆すぎる解釈になるのかもしれません。もちろん読みの浅さがこれで露呈してしまったと言われても返す言葉はありません。なんら知的でない解釈ですが、私はこのように思います。

4ヶ月前 No.290

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_sgs

ハイデガーの功績は気配の出所を実存に結びつけたことである。
ふつう気配はその背後の「何か」から醸し出されると考えられる。
しかしその「何か」は発見されれば存在者として提示される。
そこで気配を醸し出すのは存在者であると思い込む。
しかしハイデガーは存在者を発見する手前に踏みとどまることで、
気配が実存そのものから立ち昇ってくることを示した。
それがハイデガーの功績である。

気配がその背後の「何か」から醸し出されると思い込むとき、
その気配の正体は実在的(外的)である。
一方で気配が実存そのものから醸し出されるとすれば、
その気配の正体は実存的である。
そこで後者の場合に問題となるのは
気配の正体が「何(Was)」であるかというより、
「いかに(Wie)」あるかのほうである。
なぜなら気配の充溢する状況に居合わせる不安を根本的に解決するには、
その正体が「何」であるかを突き止めても仕方ないからである。
それならばまた次の不安が訪れ苛まれるのみである。
気配の充溢する状況に居合わせる不安は
自己が「いかに」あるか次第であるとハイデガーなら言うだろう。

気配の出所が実在的な「何か」ではなく実存であると主張することで、
存在の全体性が兆すことになる。
気配の出所が実在的な「何か」であるとき、
形而上学はつねに存在者に原理を求めることになる。
そしてその原理から存在の全体性を求めようとすることになる。
しかし気配の出所が実存であるとき、
存在の全体性は他ならぬ自己が「いかに」あるか次第となる。

4ヶ月前 No.291

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_XGK

ぼくの読解が間違っているのかもしれない。けれど、どうもハイデガーほど、現前性に捉われた哲学者はいないように思える。現前性とは文字通り、現に目の前にあることを意味するけれども、ハイデガーはそれをただちに現在と同一視して、古代以来、哲学は現前性に支配されていると断罪する。しかしでは、なぜ現存在の開示性は気分づけられているのだろうか。なぜ不安が根本的な気分なのだろうか。なぜ苦しみではなく不安なのか。なぜ本来の時間性は将来から時間化するのだろうか。このように問うのはひとえに、ハイデガーが現存在を分析する際に、苦しみをまったく考慮に入れていないことがひっかかるからである。たしかに私たちにとって将来は一次的である。だから将来を思って不安になったりわくわくしたりする。しかし、私たちが現在を起点として時間を考えてしまうのは、決して頽落しているからではない。むしろ労働などをつうじて苦しみを味わっているからである。苦しみは現在の最たるものである。苦しみは現在への束縛であり、もっと言えば肉体への束縛である。この現在へ釘づけにされる苦しみを起点として時間化するから、時間性は現在を基準に過去、未来となるのではないだろうか。たしかにハイデガーは現前性を現在から解き放ち、存在に将来を読み取るという画期的な仕事をしている。しかし他ならぬ存在に将来を読み取ることほど、現前性に支配された見方はない。なぜなら将来、すなわち「それは未だ到来していない」ということは、まだ現に目の前にあるのみであり、私の肉体へと到達していない、ということだからである。やっぱりぼくが間違っているのかもしれない。ここの部分の解釈がまだ解きほぐせていないので、着目点だけ、ここに記す。

4ヶ月前 No.292

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

すめんさん

現存在の限定的な時間と空間での考察でしょうか?

4ヶ月前 No.293

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_XGK

>>293

宿題さん

現存在の”限定的な”時間と空間というのは?

4ヶ月前 No.294

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

すめんさん

歴史的継続的存在であったり

ある場所だけの現在の存在を超えた(時間と場所を超えた)絶対意識が作用するような超越的な存在・・とか・・

4ヶ月前 No.295

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_XGK

 限定的な時間や空間について、ぼくは考えているのかもしれません。”限定的”というのは、言いかえれば歴史や場所に依存している、ということでしょう。たぶん宿題さんもそういう意味で使っているのかな、と。
 ぼくのなかで宿題さんは形而上学者ということになっているのですが、宿題さんは「超越的な存在」をどう捉えていらっしゃるのでしょうか。

4ヶ月前 No.296

宿題 ★5z6bVAmgS3_zRF

すめんさん

形而上学者じゃなくて形而上学学生です。

超越者はもったいぶって語ると何時間もかかります・・

4ヶ月前 No.297

★30JjgxOVKX_ZFe

>297
おばあちゃま、もったいぶらないで語ってみたら?
ここには、時間がないから、大丈夫よ。

4ヶ月前 No.298

宿題 ★5z6bVAmgS3_zRF

およぐちゃん

およぐちゃんは神様にもなれるんだから超越者なんていまさら・・

4ヶ月前 No.299

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_XGK

>>297

宿題さんにとって超越者は
語ることができるものなのですね。

ぼくは語ることができるものなのかどうかで今、悩んでいます。

仮に語ることができたとして、
語りつづけるうちに、口まねだけになって、
その本当の勢いみたいなものが色あせていくような気がするからです。

それはきっとぼくの体験が模造品だからなのかもしれませんが。

4ヶ月前 No.300

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

すめんさん

すめんさんは、神秘体験をしたことが無いのですか?

4ヶ月前 No.301

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_XGK

ありますが、それは狂気として片づけられました。

4ヶ月前 No.302

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

すめんさん

科学で説明のつくことだったのですね・・狂気で片づけられたという事は、誤作動やバグとして片付けられたのですね・・

4ヶ月前 No.303

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_A7b

現前性について。

現前性とは何か、ネットで調べたら、どうもハイデガーにおいては「現在という時間的な基準点から意識が成立していることが存在の条件」になってしまっているとして批判の対象になるものが現前性で、そこから影響を受けてデリダが、現前としてのパロールに特権が認められそれが形而上学の基盤になっている点を指摘し、エクリチュールに優位を認め直す試みが成されたとありました。(「『グラマトロジーについて』Wiki調べ」)

そこで素朴な疑問なのですが、ふつうパロールとしての現前には音声(話された内容)以外にも、それを語る者がいて、私たちはその者に語りかけられることによって、彼に対し無関心ではいられない事態がつきまとうと思うのですが、それを無視してエクリチュールに優位を見とめてしまうと、形而上学はひたすら体系を拡張して最終的に語る者である他者を呑み込んでしまい、その無関心ではいられない事態が放逐されてしまうのではないでしょうか。そうすると結果的に形而上学を抑制する者がいなくなってしまうのではないでしょうか。形而上学は他者をも呑み込んで無限に突き抜けてよいのでしょうか。

ぼくは端的に現前性を現在と認めていいのか、疑問を感じています。というのも現前とことばがつねに不可分であることに疑問を感じているからです。ネットで調べたかぎり、デリダはパロールを現前と見なしているそうですが、現前とことばは分離できないものなのでしょうか。仮に分離したとしたら、跡には沈黙しつつ無表情で見つめる他者が残りますが、それこそ純粋な現前なのではないでしょうか。だとしたらそこには、現在として歴史に組み込まれる以前の不安定な「何か」が残るような気がします。

ぼくは『グラマトロジーについて』が買えないので、デリダが何と言っているか詳細はわかりません。ぜひ教えてください。お願いします。

(yahoo知恵袋にも掲載)

4ヶ月前 No.304

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

カントさんの先験的に対抗したのかと思われます・・

カントさんは時間は内観の形式。空間は外観の形式。と端的です。

しかし現象学になると・・

存在意識は時間によって成立していくような感じになり・・

肝心なのは意識が入るとその意識は前者になり消えると言う・・現在完了形。

パロールだのエクリチュールだの?

呪文を唱えて神様仏様を感じることと写経したりして神様仏様を感じることとどちらが真実だと思いますか?

4ヶ月前 No.305
ページ: 1 2 3 4

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる