Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(765) >>

唯物論 観念論

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(6013) - いいね!(101)

操壊 ★jUpoNly98S_Fsl

唯物論と観念論という議論があるそうな。
唯物論というのは全ては物質で出来ているという立場だそうな。
観念論とは、観念論とはよく分からないけど、
例えばプラトンのイデア論なんかがそれにあたるそうな。

イデアというのは、例えば花なら、花とは何か?という問いに答える花が花のイデアだそうな。
他にもこの世のあらゆるものにイデアはあるそうな。善のイデアとか。

プラトンの観念論というのは感覚世界は真の世界ではなく、
イデア界(どこにあるかは分からない)が真の世界だとしたそうな。
イデアというのは例えば花とは何かなら、実際に咲いてる花に普遍的なものはないわけで、
花のイデアというのは観念的なものになるそうだ。
だからプラトンのイデア論は観念論とされているそうな。

それっで唯物論と観念論の議論というのは、
世界の根源を物質に置くか観念に置くかという議論だそうな。

これはネットの情報だから間違っているかもしれないけど、
日本の西田幾多郎という哲学者は、
新たなに物質と精神を一つにする中立的一元論という立場を作ったそうな。

それではよろしくお願いします。

5年前 No.0
ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9

 
 
↑前のページ (715件) | 最新ページ

白猫 @kec ★n1iSzXUWLB_cYm

人間の意識は環境の産物だと思います。

観念論は迷信だと思います。

4ヶ月前 No.716

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

意識はまだ科学では謎です。

4ヶ月前 No.717

うさぎ ★Jz4o2V6epA_OmA

これは私の独断と偏見だが、唯物論と観念論の比較で、観念論の方側に独我論に似た

「それは、私にとって無いかもしれない」という考えを払拭することができない。

ここで、大事な点は(私にとって)と(かもしれない)です。無いかもしれないと思う

事は、自由ではあるが、私にとって生きる上で大きなバネになっているのを否定できない。

4ヶ月前 No.718

凡人 ★aOOSAsoLkR_NHn

でで、 >>651,653,654,667,671 についてはいかがですか?

4ヶ月前 No.719

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

「私の外部(外界)に事物(物質)は勝手に存在して、それは私と関係なく在り続ける」という思考は

私にとって、損な気がする。人それぞれだろうが、それら(事物)は「私の心である」と考えた方が得した気になり

幸福が得られ、いい気分になる。

4ヶ月前 No.720

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

存在(もの)を見る時に、唯物・観念という二つの見方はおもしろい。部屋に入ってテーブルが一つある。

椅子が二つ右と左にある。唯物と観念はどちらの椅子に座るかだけの違いであるのに、日本人は大騒ぎする。

4ヶ月前 No.721

百理 ★5z6bVAmgS3_jAc

唯物論者には見るものすべてがコピペに見えるのでは?

私には、コピペでさえも日々違う見え方がいたします・・

4ヶ月前 No.722

凡人 ★aOOSAsoLkR_NHn

観念論者は >>651,653,654,667,671 をクリックする勇気がないのでは?

4ヶ月前 No.723

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

観念論者というような人はいないだろう? ただ、こういう考え方(見方・認識法)もできるというのみである。

建築物を見る場合に、こちらから見るのと、あちらから見るのでは、見え方が違うと言っているだけ。ただ単に!

そのビルの周りをぐるりとまわったら、何千何万という見え方があらわれる。しし、真理はこちら側だけではないよ。

4ヶ月前 No.724

百理 ★5n9Jhh5DYh_jAc

あめとむちのお方には近寄りがたい・・むずかしさが・・

4ヶ月前 No.725

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

この世の現象を、唯物と観念のどちらかで捉える人は少ないのでしょうね。

ここのスレもあまり人が来ないね。わたしは、観念論という立場は面白いと思うのだけれど、、、。

つまり、現実とその様相を「私の観念とする」立場だと、なんでも美しく感動してみられるのだが。

3ヶ月前 No.726

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

私の外側(外部)に物質はあるのかそれとも、私の内側(内部)にその同じ物質はあるのか? 「内部にある」という

のは私の心の現れだといえるが、私と関係なくそれらの映像・視像は勝手にあるのだろうか?それとも

私が居るから(見るから)存在するのだろうか?どちらなんだろうか?

3ヶ月前 No.727

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

唯物論は、それは「ある」だろう? 観念論は「それは、私があらしめている」どう違うのだろうか?

メリットデメリットは?

3ヶ月前 No.728

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉728

メリット、デメリットで、物事見ます?

3ヶ月前 No.729

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

悪魔ちゃん

哲学なら損得勘定は抜きにして真か偽かを探します。

詭弁を見抜かなければ哲学ではありません・・

2ヶ月前 No.730

七瀬 @kec ★n1iSzXUWLB_jCr

量質転化の法則とか、対立物の相互浸透とか、ああいう理論は役には立つと思います。

2ヶ月前 No.731

凡人 ★aOOSAsoLkR_0GX

で、 >>651,653,654,667,671 についてはいかがですか?

2ヶ月前 No.732

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

私の外部に、私と関係なく物質は存在するーーー A

物質は私が見るから、存在するーーー B

Aの場合は、時間が点から点に向かうので、時間の量は公共的な時間に左右されるが、Bの場合には

流動的な時間となり、その流動の主体は私になる。つまり時間は私に属することになる。これは観念である。

2ヶ月前 No.733

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_VuR

>>733  ウサギさん

八ッ場ダムの白兎は反日左翼、八ッ場ダムの亀を騙してダムを渡ろうとしているから、みんな騙されるなwww

まあ、サヨクというのは、ちと頭が足りないから反日になるのだ。宮崎駿も内田樹もサヨクだから思想が足りない、奴らの作品には深みがないのだ。

左翼で人生終わるのもかわいそうに思うが、致し方ないな。改心しろよ、改心、共産党の幹部も改心したらまともな顔になったぜwww

2ヶ月前 No.734

魔術師 @newmemphis ★tsOPNBWU32_CN8

唯物論を主張するならば、まずは「物質」とか「物理現象」の定義をはっきりしてほしい。

それらの定義ができないならば、せめて「物質・物理現象とはこういうものだ」という説明をしてほしい。

定義も説明もできないのであれば、唯物論を主張できないはず。

唯物論者でなくても、物質や物理現象の存在を認めない観念論の立場に立たない限り、

そうした定義も説明もできないことは問題である。


「精神しか存在しない。究極的には、一つの精神しか存在しない。」

そうでないと、何事も説明がつかないと、私は考える。

22日前 No.735

凡人 ★aOOSAsoLkR_4fx

で、 >>651,653,654,667,671 についてはいかがですか?

21日前 No.736

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

一者への飛躍は神性のごときもの・・これは永続的な平安になり得ない・・現存在の多種多様さに帰っていく・・

19日前 No.737

凡人 ★aOOSAsoLkR_4fx

>唯物論を主張するならば、まずは「物質」とか「物理現象」の定義をはっきりしてほしい。

「物質」は、現段階ではクォークとレプトンで出来ているものであり、「物理現象」は、クォークとレプトンと相互作用を担う素粒子(光子、グル―オン、ヒッグス粒子、重力子等)の振る舞いで説明しうる現象であると言えましょう。


>「精神しか存在しない。究極的には、一つの精神しか存在しない。」

>そうでないと、何事も説明がつかないと、私は考える。

とりあえずひとつだけでいいので説明してみてください。
まあ、満足な説明は期待していませんが・・・

18日前 No.738

魔術師 @newmemphis ★RTQ6F5YqsU_CN8

説明にはなっていると思います。その意味では、参考になるご回答です。定義にはなっていないと思いますが。


>「物質」は、現段階ではクォークとレプトンで出来ているもの

クォークとレプトンは、物質ではなく物事の一つです。現時点で最小単位の素粒子を列挙しても、物質を定義したことになりません。


>「物理現象」は、クォークとレプトンと相互作用を担う素粒子(光子、グル―オン、ヒッグス粒子、重力子等)の振る舞いで説明しうる現象

現時点で最小単位の素粒子を用いた定義は、言葉としての「物理現象」の定義ではありません。もっと普遍的で根本的な定義であるべきです。

また、物理学を問題にするならば、時空やエネルギーは要らないのですか。


>とりあえずひとつだけでいいので説明してみてください。

他のスレッド「唯物論はダメではないか。」で論考を進めているのですが、

以下のような説明をしています。


我々の精神は、認識内容を想像・創造の力で作り出すことができる。(例:空想)

精神には、能動的な力がある。

我々が体験している認識内容(客観)は精神内部の出来事である。

鏡に映像が写っている場合、映像は鏡の中にある。

精神には、能動的な創造作用があるのだから、

客観(認識内容)は、「大きな精神」が我々の精神の中に作り出していると考えるのが自然。

我々が体験している肉体(感覚器官・脳神経等)という客観を物質なるものが生み出していると考えるのは、

精神が物質を認識するという、非合理なことを前提しなければならない。精神と物質は、どうやって接触するのか。


物質ではなく、「大きな精神」が、我々の認識内容(客観)を作り出している。

我々は、肉体という認識内容を通して、世界を体験する。

「大きな精神」が我々の精神の中で客観を創造できるからには、

我々の精神と「大きな精神」はつながっており、実は一つであると考えるのが道理である。

我々の精神は、「大きな精神」の分身とか出先機関なのではないだろうか

14日前 No.739

百理 ★5z6bVAmgS3_P5K

何故人間は、意識を表現できたのでしょうか?

13日前 No.740

魔術師 @newmemphis ★RTQ6F5YqsU_CN8

百理さん。

>何故人間は、意識を表現できたのでしょうか?


私は、「大きな精神」がはじめにあって、それが多くの分身(個々の精神)を作っていると考えています。

我々人間の精神は、それらの個々の精神なのです。動物などにも精神は宿っていると考えます。

分身である個々の精神と大きな精神は分離しておらず、つながっているのです。

大きな精神が、自らの作用によって分裂しているのですが、

一つの大きな精神しか存在せず、それが個々の精神にもなっているのですから、離れていないと思います。

13日前 No.741

百理 ★5z6bVAmgS3_P5K

チェスの駒・将棋の駒では無い・・勝手なそれぞれの自由があると思いませんか?

12日前 No.742

魔術師 ★RJd8rqTVpR_CN8

>742


>チェスの駒・将棋の駒では無い・・勝手なそれぞれの自由があると思いませんか?


難しい問題ですね。

個々の精神は、大きな精神の単純な操り人形ではない、と考えます。

個々の精神は、大きな精神の分身とか出先機関だとしても、

精神間の統一性は低めてあって、分裂状態にある。

大きな精神に自由があるのであれば、それの現れである個々の精神にも自由があるとも考えられます。

11日前 No.743

魔術師 ★RJd8rqTVpR_CN8

私が述べているような観念論は、少なくとも形式的には、バークリの思想に近いと思う。

アートマン=ブラフマンのインド古代哲学や、モナド論を展開するライプニッツも観念論であろう。

ライプニッツは、ニュートンと並んで、近代科学・数学が確立される過程の功労者である。


『ライプニッツ<試論>』(井上龍介氏)より

「ライプニッツは宣言する。モナドの他には、またモナドを超えては、実体は考えられず、他の一切はモナドによって表出された形象であり、「現れ」の領域に属する、と。たとえば、ここにあるこのコーヒーカップが今「私」の精神に現れているのは、精神の外部にあるなにか物理的実在が「私」の感官を刺激/触発した結果なのではなく、精神自身が、まさにこのようにコーヒーカップを表象/表出しているからこそ、それは今ここに現れているのである。だから、この現実的形象の内的構造は、そのまま、それがそこにおいて現象しているところの、精神の、表出の構造にほかならない。ここには、色彩、硬さ、芳香、熱などが存在しているが、それらは皆精神の内にのみある。それらは「明晰だが乱雑な」表象の様式であって、精神の恒常的活動である無数の「微細表象」(petites perceptions)の集合的効果である。」

11日前 No.744

魔術師 ★RJd8rqTVpR_CN8

ドイツ古典哲学は、ライプニッツ的な観念論に近い観念論だったのではないか。

私はライプニッツの著作は読んだことがあるが、ドイツ古典哲学は、きちんと学んだこともないし、あまり興味もない。

ただ、ライプニッツはドイツ人なので、そう考えただけである。


マルクス主義はドイツ観念論を土台の一つとしているが、それを批判・否定した上で確立される。


エンゲルスの晩年頃から、バークリ思想に近い「マッハ主義」的な思想が科学者も巻き込んで有力になる。

レーニンがマッハ主義的潮流に脅威を感じたのは、それがバークリ思想と同型のものであり、物質の存在を否定するものだったからだ。

物質を否定されたら、マルクス主義の土台が崩され、革命が困難になってしまうと考えたのだろう。


現代人には、観念論は分かりやすくなっていると思う。

コンピュータゲームの中のバーチャル世界でゲームができるからだ。

ゲームの中の登場人物にとっては、周囲の事物も空間の実在しているとしか思えないが、

コンピュータの外の我々には、それらは一つのCPUが計算して生み出しているだけであることがわかる。

バーチャル世界の事物がいかなる素粒子からできていようとも、それは物質でできているわけではない。

バーチャル世界の住人が壁を叩いたら弾かれても、電子顕微鏡を作って原子を眺めても、物質はない。


唯物論には、3つの後ろめたさがある。


@認識、体験という事態をどうしても否定できず、それを物や物質では説明できないこと。

A「認識内容(客観)→物質」という物質を導出する過程に根拠がないこと。

B物質は、認識という事態から導出されているので、物質の根拠は認識にあること。


日独伊防共トリオ [記念歌]
https://www.youtube.com/watch?v=LpoucYFTazY

11日前 No.745

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

唯物観念の比較で、ゲームとバーチャル世界をもってくるとは面白い発想ですね。
まあつまり、物質は外的か内的かの違いなのでしょうが、もっとおもしろい質問がある。

私と(私の身体)は内的か外的かという疑問です。禅問答みたいですが、、、、、。

11日前 No.746

凡人 ★AF3oJMMBTq_4fx

で、 唯物論的に思惟を進めて行くと、 >>651,653,654,667,671 のような主張を行わざるを得ないと思うのですが、観念論的反駁をお願いします。

10日前 No.747

魔術師 ★RJd8rqTVpR_CN8

>746


うさぎさん。

「内的、外的」とは何を意味しているのですか?


物事について道理にかなうように自然に考察を進めていけば、観念論になるのです。

唯物論、もしくは「物質はある」という考え方は、根拠のないものをあると決めつける無理なものです。


近世に入る頃、ライプニッツやバークリが観念論的な世界観を提示したのは、

無理のある根拠ない唯物論的な世界観が目立ち始めたに対する反動という面もあるかもしれません。

それ以前は、物質を前提にした世界観は、西洋でもさほど強力でもなかったのではないでしょうか。

西洋哲学においても、ヘーゲルあたりまでは観念論が優勢だと思います。


客観(認識内容)はあるのです。我々の体験です。

しかしそれは、心(精神)の中にあるのです。これは、ロックでも同じはずです。デカルトでも同じでしょう。

問題は、その客観が、精神の外にある「物質」なるものから引き起こされると考えるのか、

精神によって引き起こされると考えるかです。

ここで仮想される「物質」なるものには、根拠がないのです。ただ、「ある」と主張されるだけです。

我々の体験内容においては、我々の意志や予想通りではない要素が強いことが、物質のような考え方が出てきた原因だと思われます。

精神の作用の全てがいつでも意識されるわけではないとか、

精神が複数的な現れ方をすることもでき、その場合、(ある意味で)「他の」精神の作用を受けることもありうる、

というような発想をすれば、客観に不随意性があっても、精神だけで無理や飛躍なしに考察できるのです。


我々が体験しているのは、体です。脳神経や感覚器官等です。世界を直接体験しているわけではありません。

体は、客観(体験内容)であり、それは精神の中での出来事です。

精神は鏡に、体験内容は鏡に映された映像に例えることができると思います。

しかしこの場合、鏡の外に映像のもととなる何かがあると言いたいのではありません。


>禅問答

「臨済録」を読むと、クオリアの問題や、バークリ、ライプニッツの思想に関わる話が書かれているように感じられます。

だから、表現が古代インド哲学的になっているところもあると思います。

道元はあまり臨済を評価しなかったという説がありますが、仏教失格(スレスレ)みたいなところはあるでしょうね。

10日前 No.748

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

観念論の内包は唯物のルールで規定され、唯物論の外延は観念に回収されています。

つまり、観念論と唯物論とは互いに相容れぬ対立する概念ではなく、世界、或は宇宙を人類が捉えた時の内包と外延であって、それらは一なる概念の外側と内側をそれぞれに表現したに過ぎません。

10日前 No.749

百理 ★5z6bVAmgS3_P5K

つみれさん

哲学も最終的には基礎の論理を飛躍しなければならないと思います。

アウフヘーベンのような飛躍の仕方も一部にはありますが・・

10日前 No.750

魔術師 ★RJd8rqTVpR_CN8

>749


つみれさん。


>観念論の内包は唯物のルールで規定され、唯物論の外延は観念に回収されています。

内包・外延とは何ですか。


私は、そもそも「物質」という概念そのものに、根拠がないと言っているのです。

体験内容(客観)の背後にあって、それを支えているものとして考えられていますが、

道理の上からも、実際の観察上も、根拠がないのです。

我々にとっての色々な物事・法則が発見されていくことはありますが、物質そのものはいつまでも仮想に過ぎません。


精神の外にある「何か」を考える根拠はないし、そうしたものは道理にかないません。

複数の精神の間での認識内容の整合性については、認識内容が一つの精神によって生み出されているとか、

もともと精神は(複数に現れても)一つしかないと考えれば、説明ができます。

バーチャル世界が一つのCPUで生み出されているので、世界内の出来事に統一が取れているようなものです。

客観は、精神の想像だと考えるのが自然です。

9日前 No.751

凡人 ★AF3oJMMBTq_4fx

で、 >>651,653,654,667,671 の観念論的反駁をお願いします。

9日前 No.752

魔術師 ★RJd8rqTVpR_CN8

「大きな精神」を「神」、「個々の精神」を「霊」と言い換えても良いと考える。


心を意味する「精神」という言葉に、「神」という字と、純粋なもの・優れたものを意味する「精」という字が入っている。

「霊」という文字には、天にある水源から落ちてきた水のしづくである「雨」という字が入っている。

認識やその内容を表す「体験」という言葉には、身体を表す「体」という字と、

「あらわれること」や「しるし」を意味する「験」という字が入っている。


日本語は、観念論の視点から見ても、なかなか奥が深いようだ。

9日前 No.753

魔術師 ★RJd8rqTVpR_CN8

>752


凡人さん。


放射線や電波は、光と同じ電磁波ですが、

客観である感覚器官に直接捉えられるものではなく、思考を通して理解され、概念になっています。

「物事」として実際に存在すると考えられます。もちろん、精神の中のものですが。

あらゆる物理的な法則は、「大きな精神」が「個々の精神」に客観を写す時のパターン・ルール・秩序です。

人間の視点から捉えられた人間にとってのルール・パターンです。


コンピュータの作る仮想世界の中の住人は、自分たちに起こる出来事のパターン・ルール・秩序を見つけ、

それを法則として数式化することもできます。

CPUはプログラムやそれに基づく計算を通して空間や物事を生み出していますから、

仮想世界の中に統一性と秩序があるのは当然ですね。


観念論的な世界観においては、(一つの)精神が客観を作っていますから、距離は関係ありません。

「遠隔作用」や「時間なしに情報が伝わること」、「ワープ」は、当たり前であって奇妙ではありません。

「物質」を前提にすると奇妙で理解しがたい物理学上の法則も、

「大きな精神」が「個々の精神」に客観を写す時のパターン・ルール・秩序の一例にすぎなくなり、奇妙さはなくなります。

また、物理学に意識(個々の精神)を組み入れることも、問題がなくなります。

9日前 No.754

凡人 ★AF3oJMMBTq_4fx

すみませんが、 >>651,653,654,667,671 の観念論的反駁をお願いします。

9日前 No.755

魔術師 ★RJd8rqTVpR_CN8

>755


それは、私には「唯物論 観念論」の議論から外れていると思われます。

9日前 No.756


悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

bonntyann,nannndekokoniiruo?

8日前 No.758

魔術師 ★KgOv9HIvWG_M0e

>757


凡人さん。

マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』ですか。考えさせられますね。

>フォイエルバッハを含めたこれまでのすべての唯物論の主な欠陥は、対象・現実・感性が単なる客体の、または傍観者の形式のもとでだけとらえられていて、人間的な感性的活動・実践として、主体的にとらえられていないことである。


客観は客観ですよ。認識内容です。客観を主体扱いするのは間違っています。客観→主体→主観みたいな形で、無理やり客観を主観の座に置こうとしているのでは?

能動的な力は、精神(主観)の作用です。客観は鏡の映像のように映し出された(体験された)認識内容です。


>ゆえに、能動的側面は、唯物論に対立して観念論によって展開されることになった。しかしただ抽象的に。なぜなら、観念論は現実的・感性的な活動を、まさに現実的・感性的な活動としては知らないからである。


現実的・感性的な動きは、大きな精神の作用によって起きる客観の動きです。自分の脳や筋肉は、自分の精神で動かしているところもあります。

意志もまた、精神の作用です。「活動」という概念を使って、ここでも客観を主体(主観)扱いしているようです。


>フォイエルバッハは、人間の頭に映った客体とは現実的に区別された、現実の客体を求めているのだが、しかし、人間的活動そのものを対象的活動としてはとらえようとしない。


認識内容(客観)の後ろに、精神ではない「真の何か」を求めるというのは、「物質」という仮想概念が発生する起源です。対象的な活動を人間的な活動として扱うのも、客観を主観に転換する強引なロジックではないでしょうか。


>人間の思考が対象的真理を手に入れる力を持っているかどうかという問題は、観念的な問題ではなくて、実践的な問題である。実践の中でこそ、人間は自分の思考の真理性、すなわち現実性を証明しなくてはならない。


客観の背後・基盤に「物質」なる無根拠なものを置かなければ、対象的な活動(客観)としての人間的な活動が行う実践において物質に対する理解が深まり、それが対象的な真理の獲得過程である、というような考え方をしなくて済みます。


私には、マルクスが観念論とまともに向き合って乗り越えたとは思えません。詭弁じみた強引な論法で人を騙そうとしたのか、自分が錯覚に陥ったのか、という感じすらします。

8日前 No.759

凡人 ★AF3oJMMBTq_4fx

>>651,653,654,667,671 の何処がどの様に「詭弁じみた強引な論法」なのか教えていただけますと助かります。

8日前 No.760

凡人 ★AF3oJMMBTq_4fx

>>654

>そういえば、これからはスマフォやスマフォの電波局の電磁波で脳腫瘍や癌になる人が加速し、それも人口減少を加速させる一因となるでしょうね。

は、
>そういえば、これからはスマフォやスマフォの電波局の電磁波で脳腫瘍や癌になる人が加速し、それも人口減少を加速させる一因となると私は考えていますよ。

に訂正させていただきます。

8日前 No.761

魔術師 @newmemphis ★F6UoanoCVw_CN8

>761


凡人さん。

>そういえば、これからはスマフォやスマフォの電波局の電磁波で脳腫瘍や癌になる人が加速し、それも人口減少を加速させる一因となると私は考えていますよ。



そうかもしれませんね。私は、その真偽を考察するための情報を持っていません。

もし、スマホにそういう害悪があるのだとしたら、意図的に誰かが人口を減少させるために仕掛けたことかもしれませんね。


そのことについての議論は、「唯物論 観念論」というテーマから外れていると私には思われます。

8日前 No.762

魔術師 @newmemphis ★F6UoanoCVw_CN8

この投稿はフィルタされています。表示するにはアカウントにログインして下さい。

7日前 No.763

百理 ★5z6bVAmgS3_jmr

哲学とは観念と言う意味です・・

4日前 No.764

魔術師 @newmemphis ★oz2NJhSwMN_EHG

>764


哲学とは、観念論を学び、観念論について議論し、観念論を発展させることではないでしょうか。

12時間前 No.765
ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる