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西田幾多郎

 ( 哲学掲示板 )
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操壊 ★pKB8O3c8RY_mRn

西田幾多郎のスレです。
スレ主である私は「善の研究」しか読んでませんし、しかもまだ途中です。
それから私は西田幾多郎の考えを参考にしつつ、西田はここを直した方がいいんじゃないか、
とかそういう意見も言いたいと思うので、完全に西田幾多郎の解釈のみというスレにはならないです。
それで今から始める初心者さんとの意見交換の始まりは哲学に関する質問のスレで始まったので、
興味がある方はそちらから見てください。

8年前 No.0
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ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ

>>626

同じことかもしれないけど、

メロディーとか絵のような、ゲシュタルト的意味は純粋経験に含まれると思いますね。

「判断と意味」の「意味」は、要するに「真偽可能性」あるいは「真理値」とみなせばいいんじゃないかな。

1ヶ月前 No.627

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>626
>数カ所引用して気づいたのだが、西田は「意味と判断」を並べて用い、それを純粋経験の対義語のようにして扱っている。

お気づきいただけて良かったです。

1ヶ月前 No.628

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

☆解釈と感想

すこし試みるようなことを言ってみます。

純粋経験は案外簡単なもので、俺たちはほとんど常に純粋経験していると言えるでしょう。これは、俺たちが常に現在においてある、というのと同じことです。メロディーを聴くときにとどまらず、たとえばお鈴をちーんと鳴らすときも、純粋経験していると言えるでしょう。ただ、ちーんと鳴らした余韻のなかで、「いまの音は、何秒続いたのか」と考え、もう一度今度は音の持続時間を数えながらお鈴を鳴らすとき、「即ち他との関係に入った時、」その経験は純粋でなくなる。なぜなら、音に対する注意と、数える行為に対する注意と、複数のものが入り混じっているからです。しかし、このような簡単な行為であれば、不統一が生じるまでもなく、これまた統一された行為となりうるかもしれません。さあれば、音の持続を数えるという行為も、それが集中したものであれば、純粋経験といえるでしょう。

観点:
純粋経験するのが簡単な行為と、純粋経験するのが難しい行為とが、ある。

例えば、ちーんというお鈴の音を、ちーん…というひとつの音として聞くことは簡単。むしろ、それを複数の音として聞くのが難しいほどです。しかし例えば、ちーん…という音のあとに木魚のぽくぽくという音がするとします。ふたつの音。俺たちは、ちーん…という音をふたつの音として聞くより、ちーん…ぽくぽくという音をふたつの音として聞くほうが、たやすい。注意の転換がしやすいからです。逆に、どちらかといえば、ちーん…ぽくぽくを《ひとつのもの》として聞くのは、比較的難しい。しかし、さほど難しくはない。俺たちは全く違う音をひとつの旋律として聞くことがある。旋律は、複数の楽器があったとしてもたいてい音が重なっており、調子をひとつとしており、なめらかに演じられます。ところが、また比較的難しいことは、ふたつの旋律をひとつの曲として聞くこと、そして、ふたつの曲をひとつの組曲として聞くこと、複数の楽曲をひとつのコンサートとして聞くこと、です。しかし、演奏会がトラブルなく進行し、かつ俺がその音楽会を楽しんでいれば、それは《ひとつの集中した時間》としてあっという間に過ぎ去ることでしょう。

観点:
純粋経験には幅があり、集中度合い等によって変動する。「意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる」。

俺たちがほとんど常に純粋経験していると、言いましたが、これはひとつには、時間幅が短い純粋経験は容易だということです。例えば、「時間幅」という単語を黙読するとき、その黙読のあいだになにか思想を交えることは、かえって難しいほどです。文をすこし長くしても、やはり黙読のあいだに思想を交えることは難しい。ところが、何節か読んでるうちに「ん?これ、前の文章と後の文章にどんな繋がりがあるんだ?」と考えはじめると、黙読というひとつの行為が途切れます。わかりやすく思想が交えられます。読者が真剣な読者であれば、ここで意識的な解釈や分析がなされるでしょう。この分析行為のなかで、いままで読んできた文章は、ひとつのまとまったものではなくなり、複数の言葉の組み合わせとしてみえてきます。そして、例えば「この文章は原因をいっており、その後の文章は結論をいっている」というように、個々の文章がそこに組み込まれた意義が読み取られます。純粋経験という考え方においては、こうした反省によりひとつの単純な話から複数の言葉の意味が読みとられるとき、こうした事後的判断が後になってはじめて話に「差別相」を与えるのではなく、話はそれ自体で統一されつつも分節をもっているという意味で、純粋経験自体が差別相をもっている。あたりまえです。体操の統一した演技も、動作のなめらかな連続であり、すなわち複数の動作の組み合わせであり、すなわちそれ自体において異なる動作をもっている。あたりまえではないのはむしろ、こうした複数の全く異なる動作が、どうして統一されるか、そちらのほうが問題でしょう。もちろん、日常においては、何の問題もありませんが。

が、しかし、読むとき。哲学書を読むときには、この統一が問題になる。なぜなら、哲学書は難しいからです。難しい。すなわち、一段落であっても、それを統一したひとつの文章のまとまりとして見なすのが難しい。ましてや一節をひとつの文章のまとまりとして見なすのは難しい。しかし、読むからには、それらをまとめなければ、意味が分からない。すなわち、ひとつの段落に複数の全然相互に関係のない複数の話がなされているかのように思えてしまう。そして、なぜ関係ない話がひとつの段落でなされているのかと、理解に苦しむ。しかしおそらく、この困難は読者の無理解に由来している。すなわち、例えばよく分からない例などに出くわしたときなどは、その例が厳密にいって何の例なのかが分かっていない。何の話かが分からない。そして、文章に統一を与えているのは、その《何の》という、ひとつの話題です。ひとつのことについて、複数の観点から語っている、その複数の言葉は、そのひとつの話題に関連づけられて、ひとつのまとまった文章としてみられる。しかし、その《ひとつのもの》に想到しないならば、文章をまとまったものとしてみることができない。逆に、文章全体をカバーするひとつの同じ経験にいたったならば、その文章に正当になにかを書き加える権利すら得られるでしょう。このとき、元々の文章に、不足や表現不適切さが目につくようになる。そして批判が成る。例えばデカルトの『省察』を全部読んだら「神の存在証明」がなされていたのだが、デカルト論破の議論では神の一文字も出てこないのは議論として片手落ちだと、指摘することは批判である。もっとも、批判者が「我思う、故に我あり」と「神の存在証明」とをひとつの経験として考える能力をもっているのか、それとも、ただデカルトが同じ本のなかに「我思う、故に我あり」の話と「神の存在証明」の話とを書き記したという文面上の事実のみから(特に自らの批判の意義など思慮せず)そう言ってるだけなのかは、批判者から話を聞いてみないと分からない。

複数のものが纏まる。一緒になる。一所に集まる。集まる所が場所である。或いは、場所がそれらを集める。場所は、例えば、個々の文章が置かれるところ(コンテキスト)である。文章は文脈において読まれる。読むとは、文章を文脈に置くことだ。すなわち、複数の文章を、ひとつの文脈に置くこと。実質的には、複数の文章から、ひとつの文脈を探ること。文章は概念はそこに集っている。視覚的にも時間的にも近接しているという意味で集っているのもそうだが、観念も近接した時間に集まっており、時間が近いことで互いに連想され、相互に組み合い、それらが組み合うところに想到させる。逆の方向をいえば、ひとつの文脈から、様々な観念が連想されてくること。そのようにして、文脈への思いが、様々な観念を心に呼び込むこと。そのように観念は心に集まってくる。集まる所が場所である。だから心は場所である。心を読まなければならない。心は裏だ。裏は見えない。見えないものが見えるものを集めている。見えないものは、書かれていない。話されていない。しかし、話の本体は、心だ。心は見えない場所。語れない文脈。その本質は、統一・集中・集合だ。

1ヶ月前 No.629

うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY

時間とは何か?を説明することはむずかしい。純粋経験とは一体なにか、はもっとむずかしい。でも、それを
正確に答えてくれる人々が世界にはたくさんいます。 日本人の中にも何万人も居ます。

それは誰か?ベルクソンや西田よりも有名人か??答=それは、2歳までの幼児です。1歳までの方が妥当でしょうが。
人はだれでも生後1歳までは純粋経験を経験しているのですよ?

1ヶ月前 No.630

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>626

>例えば、西田のここで使う「意味」は、ハイデガーでいえば「Aussage」であり、決して「Sinn」ではないだろう。


ハイデガーではわからないけど、やっぱりフレーゲ的にはSinnで良い気がする。

赤で言うと、知覚される赤ではなく、概念としての赤、観念(イデア)としての赤と言ってもよいのではないか。
現実に知覚される(直接経験される)赤は、一様ではない。様々な質感を伴った赤があるだろう。
そこから、そういった個々個別の赤の差異の捨象=抽象化(自ずからの差異化)により、一様な“赤”という概念が成立する。
それにより、「この赤もあの赤も同じ赤である」という判断がなされうる。
この「赤」という語の意味としての“赤”と言えるかもしれない。

1ヶ月前 No.631

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)によれば、

自己中心化(<いま・ここ(指示語)>【“うち”の視点】)

脱自己中心化(言語の習得=デカルトの「我」=意味【“そと”の視点】)

二次的自己中心化(脱自己中心化した“そと”の視点から自己中心化しようとすること)

という図式によって哲学的アポリアのすべてが説明できるのである。


中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)

p31
「このときS1(有機体)は「私」という言葉を理解し適切に使用するようになるのだが、ここに重要なことは、S1は言葉を習得することによって、その固有の身体が自己中心的なシステムを保持しているにもかかわらず、それに反逆して身体を脱自己中心化することを学ぶということである。このことが、デカルトに顕著に見られるように、自己中心的な身体とは別に自己を身体から独立の「心=魂」という存在者とみなす方向に追いたてる。だが、言語の習得が自己中心的身体に反逆して脱自己中心化のシステムを切り開くといっても、だからといってそこの「考える実体(res cogitans)」が認められるわけではない。むしろ、ここには言語習得以前の自己中心化するシステムと言語習得後の脱自己中心化するシステムとのぶつかり合いが生じているのだ。」

p37−p38
「S1は脱自己中心化した成果を踏まえ、その言語をもって自己中心化した世界を記述しようとする。」

p38
「こうして二次的自己中心化したS1においては、一方では、言語を習得したことによる脱自己中心化した視点を維持しつつ、他方では、S1が「現に体験する」こととSf(他の有機体)が体験すること、すなわちS1が「現に体験しないこと」とが共存しながら対立している。この互いに重なり合わない世界像(ピクチャー)こそがあらゆる哲学的問題の源泉であると言っていいであろう。」


自己中心化(語り得ない刺激)→脱自己中心化(「赤」という意味の付与)→二次的自己中心化(なぜ「赤」は“赤”なのか?←言語習得以前に戻れないためアポリアが生じる)

1ヶ月前 No.632

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

http://mb2.jp/_tetsugaku/1103.html-76#a

>>気まぐれさん

>ふくろうさんは「<私>の哲学を哲学する」は読まれましたか?


いえ、読んでいません。読んでいたとしても覚えていません(笑)

ちなみに言っておきますと、入不二さんの著作は『ウィトゲンシュタイン』を始め幾つか読んでいて、〈私〉についての論文も読んだことがあります。
それと、これ、ちょっと今の議論と関係して一応頭に入れておいてほしいのですが、
私、永井均は嫌いです(笑)しかも、かなり嫌いです。
独在論については、初期のものを中心に結構読んでいますし、ウィトゲンシュタインに関するものも、最近のは読んでいませんが、昔のやつはかなり読んでいます。
で、私見では、永井のウィトゲンシュタイン解釈も、独我論についても、全然間違っています(笑)
だいたい、ひとりよがりな論の進め方というか運び方自体嫌いです。
なので、『西田幾多郎』についても、議論についていけない部分が結構あります。
参考にもしますし同じ解釈のところももちろんあると思いますが、
〈私〉という私(ふくろう)の表現は、便宜上用いていますが、永井的な〈私〉を意図しているわけでは全然ないんです。被る点はあるかもしれませんけどね。
入不二さんは嫌いじゃないですが、ウィトゲンシュタインについての解釈については同意できない点もあったと思います。
ただ、私の考えが進んだらというか変化したら再度読み返していますが、しばらく読んでいなかったので、入不二さんの考えがどんなものだったか忘れてしまっています(笑)

なので、ここで私が用いている〈私〉を、永井のそれと同じと前提すると、不整合かもしれないので、一応私があくまでここで示した限りの意味で理解してください。

それとの絡みで言うと、
〈私〉はむしろ、気まぐれさんはご存じかわかりませんが、木村敏の「ノエシス的自己」に近いものであると思っています。
これ、後でもう少しふれます。

>< >と「私」と「他」があるだけなのではないかと。

< >は純粋経験、「私」と「他」は対象化された意識です。
世界は純粋経験であり、純粋経験に於いて自と他が差別化される。
我々は純粋経験に於ける自己限定同士であるがゆえに、言語ゲームが成立する。なぜならば、自己限定を手引きするのが言語だから。
<私>と捉えるとき、既に自己限定の第一歩が踏み出されている・・・。

で、あなたのおっしゃる純粋経験を〈 〉とする、ということについては、上の記述を読む限り、やはり、「言語習得以前」を想定しているんじゃないでしょうかね。
純粋経験の世界は「言語ゲームの成立以前」とみなしているみたいなので。
私の考えはそうじゃなく、純粋経験の世界も、あくまで人間の世界、既に言分けされた世界であると考えます。その意味で純粋経験の世界も言語ゲームの内部にあります。
純粋経験の世界内部に立脚して語る限り、外は端的に語りえません。
純粋経験が直接経験でもあり、単なる事実でなく「経験」である限り、それは「主観の経験」だということです。ただ、この「主観」は特定の、限定された主観に置換不可能なのです。置換したとたん、それは対象化された経験に変わってしまいます。

いわば世界に対する二つの態度があり、
ひとつは世界を対象化して捉えるのと、もうひとつはそうではなく、いわば自分が対象そのものになる、つまり普通の言い方では「没入する」捉え方です。
純粋経験の世界はこの後者の捉え方、普通に我々が夢中で物事に熱中しているとき意識に立ち現れているそのままの世界であろうと思います。
例えば、黙読で読書に夢中になっているとします。
文字は単なる無意味な紙の上のインクのしみ、図形ではありません。
意味をもった言葉、シンボルとして受け取られています。
しかし、そのことは全く意識にのぼりません。
ただひたすら小説の物語世界(これなどは明らかに言語的世界)に没入している、ということがあります。
また、例えば、
 閑さや岩にしみ入る蝉の声
という芭蕉の句は、純粋経験の世界を描出していると思います。
永井が『西田幾多郎』の最初で川端康成の『雪国』の冒頭の文章についてのべていますが、あれと要は同じことだと思います。
これは、固有名に置き換えられない、しかし、あきらかに〈私〉の世界です。
「閑さ」も「しみ入る」も明らかだと思いますが、「主客未分」の表現です(私の感じていること?or客観世界の状態?)。
「主語―述語」形式の命題では語りえないもの、すなわち対象化された主観と客観の世界ではないものがここでは表現されています。
また、日本画の風景画も一般に、心象風景とも実在の風景とも、どちらか一方に決められないもの、むしろ「心象=実在」風景なのではないでしょうか?

「すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴わねばならぬ、自覚が経験的判断の述語面になるのである。」

ここで言われている経験(的知識)の条件としての「私の意識である」性が、〈私〉性であると私は考えています。
述語としての〈私〉ですね。「こととしての自分」「自分ということ」。
この〈私〉の限定されたものが対象としての「私」、名前と交換可能な「ものとしての私」「私というもの」になるのだと思います。

何かまとまりなくなってきましたが(笑)、
最初に述べた木村敏の「ノエシス的自己」について述べます。
これは「述語的自己」に対応するもので、「自分ということ」です。
実は、離人症のある種の患者で、「ものとしての自分」は理解できて、何とか日常生活をおくることはできるけど、「自分ということ」その実感が失われて、「自分があるということ」が実感できなくなってしまう人があるらしいのです。
このとき、ものとしての自分がバラバラにあるだけで、自分ということが実感できなくなると同時に、時計時間は認識できても、時間の流れが感じられなくなり、空間的広がりも感じられなくなり、音楽もバラバラの音としてしか聴こえず旋律として聴こえなくなる、ということです。
いわばパラパラ漫画が、動画として認識できなくなるわけです。
つまり、ここでは、対象化された自分を含めて、対象として知覚されたものを、「自分のこと」として統一することができなくなってしまっていると考えられるわけです。
そしてそれが「自分の存在が実感できない」ということが相即しているわけですから、
このとき失われる「自己性」こそが「自分が自分であること」なのではないかと考えられるわけです。
そしてそれこそが〈私〉で表現しようとしているものです。
つまり、私が述べている〈私〉とは、この述語的統一を可能とする〈自分性〉のことです。

1ヶ月前 No.633

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>633

ザビビのふくろうさん

木村敏は知りませんでした。面白そうですね。おすすめの書籍はありますか?

「自分ということ」その実感が失われている離人症患者は“痛み”をどのように捉えているのでしょうね。ノエマ的対象に生じた事として捉えるのでしょうか?それとも<痛い>がただ在る?
興味深いですね。


>私の考えはそうじゃなく、純粋経験の世界も、あくまで人間の世界、既に言分けされた世界であると考えます。その意味で純粋経験の世界も言語ゲームの内部にあります。

>純粋経験の世界内部に立脚して語る限り、外は端的に語りえません。


これはつまり、まず言語的に成立した世界がありその世界に於いて、その世界を対象として捉えるのではなく、その世界に、あるいはその世界に於ける事象に没入した捉え方が純粋経験である。
ということでしょうか?
いわば、ウィトゲンシュタイン的立場に立脚した上で西田の立場を取り込んでいる…?

もしかしたら最初からそう言っていると言われるかもしれないですが、そう読めてなかったので確認させてください(笑)

お察しの通り、私は(ウィトと西田の立場が)逆の考えです。
以下はミュトスです。

<純粋経験>に具わった言語という力で<純粋経験>自体が分化していくことにより、事物が限定・差異化され分化発展していく(そのため言語は超越論的にも先験的にも語りえない)。
最初期に意識という分化が起こり、分化された<純粋経験>=意識は自他を差異化する。自他を差異化するとは超越論的主観を獲得するということ。超越論的主観に分化した<純粋経験>は他の分化された<純粋経験>を対象として扱い、それらを構成し世界を成立させる。

う〜ん、眉唾。でも、こんなイメージ。

<私>とは、超越論的主観と<純粋経験>(の内部感)を重ね合わせて捉えてる感じがする。
だから、私(気まぐれ)的には、<私>は<純粋経験>の内で分化した意識の視点に立っているということを指す。


送信するの怖い…、それこそボロクソ言われそう(笑)

29日前 No.634

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

言語化されたと言うことは語り得たと言うこと・・

28日前 No.635

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>634  気まぐれさん

>送信するの怖い…、それこそボロクソ言われそう(笑)


あのね、あなた私を誤解してるよ(笑)
いやいや、だんだんいい感じに問題が明確化してきてるんじゃないですか?

>いわば、ウィトゲンシュタイン的立場に立脚した上で西田の立場を取り込んでいる…?


というより、ウィトゲンシュタイン的立場で西田を解釈していると言ったほうが近いかな。
要するに、ともに言語ゲーム一元論、純粋経験一元論ということで、その一元論を重ねて解釈しているって感じですかね。
徹底的に内側の視点から捉える、ということとも言えると思います。
それが適切な解釈、捉え方だと思っているっていうこと。

大前提として、この我々が今行っている哲学的考察自体言語行為であって、意識現象についての哲学的思考、すなわち言語ゲームなわけです。
その限り、ここで行われている考察、この議論における思考は〈私〉の思考です。
またその限りで、さしあたり〈私〉を言語主体と考えてもよいと思います。
〈私〉が誰であろうとも、その外に出ることは不可能です。
これが最も大きな枠組みで、思考の限界です。
それは、自分の生まれる前を自分が何一つ知らず、したがって当然自分の視点からは自分の誕生前を語れないのと同様だし、たとえて言えばビッグバン以前の宇宙を語りえないのと似ています。
ですから、この〈私〉以前を語るとすれば、既にその〈私〉が対象化されている、自分の外の視点に立っているということです。
そして気まぐれさんは明らかにこの〈私〉(これが何であるにせよ)成立以前を語っているわけですから、それは既に対象化されており、したがって、外の視点から語っていて、西田のあくまで純粋経験の世界に立脚した捉え方ではなくなっている、と私は考えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで確認の質問です。

>最初期に意識という分化が起こり、分化された<純粋経験>=意識は自他を差異化する。自他を差異化するとは超越論的主観を獲得するということ。


という文章を読むと、最初に分化した「意識」と「超越論的主観」とは概念的には区別されているように読めますが、その理解でいいんでしょうか?
つまり、「意識」が自他を差異化することによって、対象化された世界と超越論的主観が生まれると。

http://mb2.jp/_tetsugaku/1103.html-76#a
>< >と「私」と「他」があるだけなのではないかと。

< >は純粋経験、「私」と「他」は対象化された意識です。
世界は純粋経験であり、純粋経験に於いて自と他が差別化される。
我々は純粋経験に於ける自己限定同士であるがゆえに、言語ゲームが成立する。なぜならば、自己限定を手引きするのが言語だから。
<私>と捉えるとき、既に自己限定の第一歩が踏み出されている・・・。

この記述とも考えあわせれば、次のようなイメージで理解できると思うのですが、よろしいでしょうか?
つまり、喩えると、
自他未分化なナルシス的世界=独我論的世界が自己差異化して、自己ならざるものとしての対象世界と、言語的主体である超越論的主観が誕生すると。

それと、もうひとつ質問。
あなたの考えでは、芭蕉の句の表現するような世界は、純粋経験の世界と言えるのでしょうか?
もし言えるのなら、やはり純粋経験の世界は言語主体としての〈私〉の世界であることを前提することになると思うのですが。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
木村敏さんは、私としてはオススメです。
現在の主題と必ずしもドンピシャというわけではないのですが、最初に読む著作としては
『時間と自己』(中公新書)
が絶対おすすめの名著です。これは読んで損はありません。
他に文庫でもいろいろ主要著作が出ていますが、専門の論文集はやはり現象学やハイデガー哲学についての予備知識がある程度なければ少し難しいかなとも思います。
現象学やハイデガーについての知識はありますか?
しかし、とにかく、あれば、ものすごく面白いですよ。
精神病理学は、西田・現象学・ハイデガーの哲学の実践的応用とでも言うべきもので、
哲学だけを学んでいると抽象的な議論に終始することが、具体的な精神疾患として現れているから、無茶苦茶面白いので、現象学やハイデガー哲学を勉強する意欲もわきます。

28日前 No.636

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>636

ザビビのふくろうさん

>あのね、あなた私を誤解してるよ(笑)


それは失礼しました。
でもたぶん、あなたを誤解しているとかそういうんじゃなくて、単に自信がないだけです(笑)

>いやいや、だんだんいい感じに問題が明確化してきてるんじゃないですか?


それなら良かったです。


木村敏さんのおすすめ書籍を教えていただきありがとうございます。
面白そうですね!
今度時間を作って読んでみたいと思います。

現象学やハイデガーの知識はありません。
数年前に入門書を数冊読んだ程度です。

さて、本題については少し時間をください。
今週末までは時間が取れそうにありません。

27日前 No.637

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

ふと思ったのだが、あなた達は哲学をやっているのだろうか、それともミステリー小説を楽しんでいるのだろうか?

27日前 No.638

凡人 ★eJER71w7mO_qY9

それで、 >>611,613,614,616,620,623,624 はいかがですか?

26日前 No.639

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

shinwoodさん

謎解きは同じ心境です・・


It's not magic, it's logic.

伝統本格推理小説・・エラリィクイーン名言・・

26日前 No.640

ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ

>>637  きまぐれさん

>現象学やハイデガーの知識はありません。

 数年前に入門書を数冊読んだ程度です。

入門書を読んだのなら、面白そうなものから試してもよいかもです。
『自分ということ』(ちくま学芸文庫)なんかはどうかな?

ま、とりあえず最初は『時間と自己』を私は推しますけど^^

>さて、本題については少し時間をください。

 今週末までは時間が取れそうにありません

了解です。
気になさらないでください。

26日前 No.641

削除済み ★rdiOR01yVt_Qi5

【この投稿は”管理者-kotori-”により削除されました】 削除者: ことり☆リーダー ( 2019/02/02 16:44 )  削除理由: 迷惑行為(文字羅列・無断転載・AA・チェーン・宣伝など)

22日前 No.642

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

http://mb2.jp/_tetsugaku/1111.html-2#a】のとおり、 >>642 を滅尽した。

すべては意味の付与である。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により、投稿者の判別を願う。)

22日前 No.643

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>636

ザビビのふくろうさん

>要するに、ともに言語ゲーム一元論、純粋経験一元論ということで、その一元論を重ねて解釈しているって感じですかね。


そのようですね。
なので、この部分については「確信の違い」なのでしょうけど、ひとつだけ聞いてみたいことがあります。
すごく単純な意味で、言葉にならない想いを感じたりしませんか?「言葉にならない想い」として言語ゲームになってしまう前の内実というかそういうものです。
その内実(「内実」として言語ゲームになる前のもの)が無意味なものとは思えないのですが…。
その辺はどのように考えているのでしょうか?

>〈私〉が誰であろうとも、その外に出ることは不可能です。


外にでるのが不可能というか、端的に外など無いのだと思います。それゆえに<>を私と呼ぶ必然性がない。<>しかないからです。“私”は何かと比較対象されることで意味を持つと考えます。
入不二さんの言葉を借りれば<私>は隣接項を持たない。独我と無我は極限において一致するがゆえに“私”の語は意味を持たないと思います。

>そして気まぐれさんは明らかにこの〈私〉(これが何であるにせよ)成立以前を語っているわけですから、それは既に対象化されており、したがって、

>外の視点から語っていて、西田のあくまで純粋経験の世界に立脚した捉え方ではなくなっている、と私は考えます。


それは確かにその通りですね。何かを語れば、その何かは対象化されてしまいますからね。それを承知の上であえて語ったのです。
現に今遂行されているかもしれないことを自覚的に騙れば(騙れてないかもしれないけど、あえて騙ると表現しましょう(笑))このようになことになるのではないか、ということです。
そういう意味では、ミステリー小説を楽しむのと似ているかもしれないですね。

>という文章を読むと、最初に分化した「意識」と「超越論的主観」とは概念的には区別されているように読めますが、その理解でいいんでしょうか?

>つまり、「意識」が自他を差異化することによって、対象化された世界と超越論的主観が生まれると。



意識と超越論的主観を区別したのは、可能世界と現実世界の区別を意識したからです。
複数の超越論的主観の内、“この”超越論的主観だけが、現に在る超越論的主観であるということ。
現に今、他者の存在を認識しているから、複数の超越論的主観の内、“この”超越論的主観だけが、現に在る超越論的主観であると言える。
それを<純粋経験>の分化として、自他の分化前から分化後という時系列で騙ったとすれば、このようなことになるのではないか、と。

>自他未分化なナルシス的世界=独我論的世界が自己差異化して、自己ならざるものとしての対象世界と、言語的主体である超越論的主観が誕生すると。


そのように理解してもらって良いと思いますが、上述したように、“私”に意味はないという意味では独我論=無我論的世界を想定しています。

>あなたの考えでは、芭蕉の句の表現するような世界は、純粋経験の世界と言えるのでしょうか?


言えると考えています。

>もし言えるのなら、やはり純粋経験の世界は言語主体としての〈私〉の世界であることを前提することになると思うのですが。


どうしてそうなると思うのかわからないので、もう少し説明して頂けますか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

木村敏さんの『時間と自己』を購入しました。
これから時間があるときに読んでみます。

21日前 No.644

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>644


ちょっと訂正。

意識と超越論的主観を区別したのは、可能世界と現実世界の区別を意識したからです。 →意識と超越論的主観を区別したのは、現実世界と可能世界の区別を意識したからです。

現実世界と可能世界という記述の順番を訂正します。意識:超越論的主観、現実世界:可能世界という類比です。

訂正しなくても文脈でわかると思いますが、正確を期すために訂正します。
感覚的に書いているので、こういうミスは多々あると思いますのでご容赦ください。

21日前 No.645

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

>>611,613,614,616,620,623,624 はいかがですか?

21日前 No.646

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

純粋経験と身心脱落の世界の違いはお解りですか?

区別がつくなら教えてもらいたいです・・

20日前 No.647

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>644,645  気まぐれさん
幾つか質問してくれていますが、それはペンディングということで了承願って、
今回は、確認の質問をさせてください。

>意識と超越論的主観を区別したのは、可能世界と現実世界の区別を意識したからです。

複数の超越論的主観の内、“この”超越論的主観だけが、現に在る超越論的主観であるということ。
現に今、他者の存在を認識しているから、複数の超越論的主観の内、“この”超越論的主観だけが、現に在る超越論的主観であると言える。
それを<純粋経験>の分化として、自他の分化前から分化後という時系列で騙ったとすれば、このようなことになるのではないか、と。
>意識と超越論的主観を区別したのは、可能世界と現実世界の区別を意識したからです。 →意識と超越論的主観を区別したのは、現実世界と可能世界の区別を意識したからです。

>現実世界と可能世界という記述の順番を訂正します。意識:超越論的主観、現実世界:可能世界という類比です。


今回のこの説明と、前回の次の説明が、どうも整合的に理解するのが少し困難なんですよ。

>>634
<純粋経験>に具わった言語という力で<純粋経験>自体が分化していくことにより、事物が限定・差異化され分化発展していく(そのため言語は超越論的にも先験的にも語りえない)。
最初期に意識という分化が起こり、分化された<純粋経験>=意識は自他を差異化する。自他を差異化するとは超越論的主観を獲得するということ。超越論的主観に分化した<純粋経験>は他の分化された<純粋経験>を対象として扱い、それらを構成し世界を成立させる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
最初に気まぐれさんの表現でわかりにくいのは、
純粋経験=意識
というもので、
純粋経験=意識現象
ではないんでしょうか?
純粋経験の世界=意識
なら、まだわかるんですけど…。

気まぐれさんの考えでは、
〈 〉…純粋経験
ですが、これ自体、西田によると意識現象ですよね?
しかし、
「最初期に意識という分化が起こり、分化された<純粋経験>=意識は自他を差異化する。」
という記述では、意識は分化された〈純粋経験〉であることになり、
そうすると、最初の分化が起こる前、すなわち意識以前の純粋経験=〈 〉があるように読めます。これ、おかしくないですか?
それと、この説明においては、私(ふくろう)の言っている〈私〉は、最初期に〈 〉に分化が起こって生まれたとされる意識のことでしょうか?

また、今回の説明では、可能な超越論的主観の世界(ミクロコスモス)のうち、
現実化したこの自分であるミクロコスモスこそが意識であるように読める(修正込み)のですが、それは前回の説明と違っていませんか?
「分化された<純粋経験>=意識は自他を差異化する。自他を差異化するとは超越論的主観を獲得するということ」
という前回の記述では、意識のほうが超越論的主観に先立っていますよね。
超越論的主観は、意識による自己差異化の結果得られたもののように読めるからです。

どうも、このへんがわかりにくいんですよね。
とくに「意識」ですか。
それと、気まぐれさんの考えでは、超越論的主観というのは、デカルト的な実体としての自我ではないんでしょうか?

たとえば、次のようにあらわした場合、

(1) 第一段階:〈 〉
(2) 第二段階:〈私〉 …意識(ノエシス的自己)
(3) 第三段階:超越論的主観…(思考する主観、世界を表象する主観)
(4) 第四段階:自我(主客の主観、ものとしての主観、主語としての主観、ノエマ的自己)

気まぐれさんの説明とどう対応しますかね。
それとも、この段階分け自体が適切ではないでしょうか?
もしそうなら、わかりやすく、このような段階分けをして説明してもらえませんか。

20日前 No.648

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>644  気まぐれさん
ひとつ質問にお答えします。

>>あなたの考えでは、芭蕉の句の表現するような世界は、純粋経験の世界と言えるのでしょうか?

>言えると考えています。

>>もし言えるのなら、やはり純粋経験の世界は言語主体としての〈私〉の世界であることを前提することになると思うのですが。

>どうしてそうなると思うのかわからないので、もう少し説明して頂けますか?


ごく簡単に答えます。
芭蕉の句が表現する世界は、命題によっては「語りえぬ」世界ではあるものの、
紛れもなく言語表現された(示された)世界です。
表現世界である限り、言語主体である〈私〉の表現世界です。
それが表現である限り、表現主体の表現でしかありえません。
それは経験が経験主体の経験でしかありえぬのと同様です。
ただし、この言語(表現)主体もまた、実体としての私ではなく、あくまで意識現象の場としての〈私〉です。
というのも、表現もまた〈私〉=意識における顕れ(現れ=表れ)だからです。

こんなんで、どうでしょう?

20日前 No.649

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

>純粋経験と身心脱落の世界の違いはお解りですか?

日本人なら、「心身脱落の世界」とは言わずに、「虚脱感が支配する世界」とか「茫然自失状態」というと思いますが、これらは単純に自らの感覚を素直に表現した言葉に過ぎないですが、「純粋経験」と言うのは、ファシズムイデオロギーを大衆の帝国主義に汚染された即自的な感覚に重ね合わせて受け入れやすい様にオブラートをかけて捏造した概念に過ぎません。
この件については、 >>611,613,614,616,620,623,624 からご覧いただけると助かります。

20日前 No.650

宿題 ★sicIy89Ne4_Tbw

凡人さん

凡人さんはどうして日本人なら〇〇と言う考えに固執するのですか?

私がヤスパースさんを薦めるのがそんなに気に入らないのですか?

私はセサミストリートやゲゲゲの鬼太郎のようなテレビ育ちで・・谷崎潤一郎や森鴎外のような変態日本文語は大嫌いなだけです・・

20日前 No.651

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

「心身脱落の世界」というのは仏教用語だったのですね。
済みませんでした。

>凡人さんはどうして日本人なら〇〇と言う考えに固執するのですか?

現時点では、宿題さんが良い意味で日本人離れをしているからだと思っていただけると助かります。
米原万里さんも考え方は良い意味で日本人離れしていましたよね。
因みに、米原万里さんをご存じない方は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%8E%9F%E4%B8%87%E9%87%8Cをご覧ください。

20日前 No.652

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

凡人さん

私は遙かに凡人さんより日本に詳しいですよ・・夢の中の心は戦国時代の武士です・・

20日前 No.653

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>648
ザビビのふくろうさん

>(1) 第一段階:〈 〉

>(2) 第二段階:〈私〉 …意識(ノエシス的自己)

>(3) 第三段階:超越論的主観…(思考する主観、世界を表象する主観)

>(4) 第四段階:自我(主客の主観、ものとしての主観、主語としての主観、ノエマ的自己)


(1)に具わった言語という力で(1)自体が分化していくことにより、事物が限定・差異化され分化発展していく(そのため言語は超越論的にも先験的にも語りえない)。
最初期に(2)という分化が起こり、(2)は自他を差異化する。(2)が自他を差異化するとは(3)を獲得するということ。(1)に於いて(3)を獲得した(2)は、自身および他の(3)を獲得した(2)を(4)として扱い、それらを構成し世界を成立させる。
複数の(3)の内、“(2)化した”(3)だけが、現に在る(3)であるということ。
現に今、他の(3)の存在を認識しているから、複数の(3)の内、“(2)化した”(3)だけが、現に在る(3)であると言える。
それを(1)の分化として、自他の分化前から分化後という時系列で騙ったとすれば、このようなことになるのではないか。

>「最初期に意識という分化が起こり、分化された<純粋経験>=意識は自他を差異化する。」

>という記述では、意識は分化された〈純粋経験〉であることになり、

>そうすると、最初の分化が起こる前、すなわち意識以前の純粋経験=〈 〉があるように読めます。


はい。そのように書いています。

>それと、この説明においては、私(ふくろう)の言っている〈私〉は、最初期に〈 〉に分化が起こって生まれたとされる意識のことでしょうか?


そのように捉えていました。自信はありませんでしたが。

>気まぐれさんの考えでは、

>〈 〉…純粋経験

>ですが、これ自体、西田によると意識現象ですよね?


私は西田を研究しているわけではないので詳しくはわかりませんが、西田が純粋経験を意識現象と捉えていたのは
善の研究までではないのでしょうか?
善の研究9pの版を新たにするに当たってにそのような記載がありますよね。


>また、今回の説明では、可能な超越論的主観の世界(ミクロコスモス)のうち、

>現実化したこの自分であるミクロコスモスこそが意識であるように読める(修正込み)のですが、それは前回の説明と違っていませんか?

>「分化された<純粋経験>=意識は自他を差異化する。自他を差異化するとは超越論的主観を獲得するということ」

>という前回の記述では、意識のほうが超越論的主観に先立っていますよね。

>超越論的主観は、意識による自己差異化の結果得られたもののように読めるからです。


確かにこの部分は十分に考えられておらず、自分の中でも考えがまとまっていない感じがします。
けれど、あえて直感的に書くならば、私は「<>の内部に全ての可能世界の素材が存在し、差異化によって可能世界が成立し、その内の任意の一つに現実性が与えらる」と考えています。

>>634>>644 では、ふくろうさんが整理してくれた(1)〜(4)についての語り方が逆になっています。

>最初期に意識という分化が起こり、分化された<純粋経験>=意識は自他を差異化する。自他を差異化するとは超越論的主観を獲得するということ


は仮想的に(1)の視点に立ち(1)→(2)→(3)と分化していく流れを記載しています。

一方で

>複数の超越論的主観の内、“この”超越論的主観だけが、現に在る超越論的主観であるということ。

>現に今、他者の存在を認識しているから、複数の超越論的主観の内、“この”超越論的主観だけが、現に在る超越論的主観であると言える。


は(4)の視点から自身が(3)を自覚し、他者もまた(3)であることを認めた上で複数ある(3)の内の一つが<私>であるという方向で語った上で
複数ある(3)の内の一つが<私>である理由は、唯一である(1)が分化する過程で(3)が(2)に宿られる(「(2)が(3)を獲得する」を逆から表現したいだけ)ことで<私>性を獲得する
ということを表現したかったのです。

20日前 No.654

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

西田哲学の階級性を理解されていないようですが、 >>611,613,614,616,620,623,624 からご覧いただけると助かります。

20日前 No.655

ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ

>>654  気まぐれさん

ふむふむ、だいたいわかったような気がします。

今日は時間がないので、また改めてレスします。

19日前 No.656

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>644,654  気まぐれさん

以下述べること全体の趣旨を明確にするために、最初に断っておきたいと思います。
また重く受け止め過ぎてショックを受けないでもらいたいんですが(笑)、
私は、気まぐれさんと私の考えは異なると言っているだけでなく、気まぐれさんの解釈は、西田解釈としても、また、哲学的見解としても間違っている、という立場で意見を述べています。
ただし、気まぐれさんのような見解は専門家でもありうると思いますし、私の考えが正しくて気まぐれさんの考えが間違いであることをきちんと論証するには、専門レベルの議論が必要だと思います。
しかしこのような場でそのような専門的議論は無理ですし、したがって意図を明確にするために気まぐれさんの見解を「真っ向否定」して一応その理由は述べますが、本来必要となる十分な論証とまでは言えません。
なので気まぐれさんとしては、今も述べたように私の批判を重く受け止め過ぎず、頭の隅にでもおいて、以後のご自分の考えを点検するなり鍛えるのに役立ててもらえれば、私としてはここで述べる甲斐があることになります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※ちょっと脱線します。
 ここで仮に私が気まぐれさんに「議論で勝った」としても意味はありません。
 私があなたと今こうして議論しているのは、あなた相手に復習したりいろいろ考え議論を組み立てたりすること自体に意義があるからやっています。
柔道で言うといわゆる乱取りってやつですかね、気軽な哲学的実践トレーニングというか。
あなたはこの掲示板の参加者では哲学をよく勉強されているほうだと思いますし、結構ひどいことを言われても、きちんと考えてレスをできる方なので、おかげで我々の話の内容はだんだんまともなレベルになってきたと思います。
考えが整理できているか、それをきちんと表現できるかということは別にしても、当初思っていた以上に、気まぐれさんがちゃんと“考えて”いらっしゃることはわかりました。
ふだん、ここでは基本的に私は自分の記憶だけで議論を組み立てて、あまりテキストをわざわざ確認したりしないんですが、今回はこれをよいきっかけに復習して役立っています。
だから、私とのここでの議論が、気まぐれさんにとっても、自分の考えを組み立てたり、刺激になったりするとよいと思っています。
で、真っ向否定されたら、くそっ、何とか反論せねばっ!って思いませんか?(笑)
これ、一番トレーニングになると思うんですよね。
ということで、以下は、ヴィランのふくろうでいきます(笑)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ということで、遠慮なく言いますね(笑)

>>要するに、ともに言語ゲーム一元論、純粋経験一元論ということで、その一元論を重ねて解釈しているって感じですかね。

>そのようですね。

なので、この部分については「確信の違い」なのでしょうけど、

単に確信の違いではなく、正しい解釈と、誤った解釈の違いです。

>>そして気まぐれさんは明らかにこの〈私〉(これが何であるにせよ)成立以前を語っているわけですから、それは既に対象化されており、したがって、

>>外の視点から語っていて、西田のあくまで純粋経験の世界に立脚した捉え方ではなくなっている、と私は考えます。

>それは確かにその通りですね。何かを語れば、その何かは対象化されてしまいますからね。それを承知の上であえて語ったのです。


「承知の上で」語られるのは、そのように語ることが間違いであることに気まぐれさんが無自覚であるからです。
〈私〉というのが語りえないものであるということは、それが実体=存在者ではない、ということです。
それについて語るということは、存在者でないものを存在者とみなすことですから、的はずれ以外の何ものでもありません。
単なる藁人形制作のナンセンスです。

で、これから気まぐれさんと私の見解の違いを述べながら、気まぐれさんの考えが間違いだと述べますが、その根本原因は、上に述べた、語りえないものを語りうるものにしてしまっている、つまり、藁人形をつくってしまっていることによる、ということを前もって言っておきたいと思います。

(1) 第一段階:〈 〉
(2) 第二段階:〈私〉 …意識(ノエシス的自己)
(3) 第三段階:超越論的主観…(思考する主観、世界を表象する主観)
(4) 第四段階:自我(主客の主観、ものとしての主観、主語としての主観、ノエマ的自己)

この四段階の説明は、気まぐれさんの見解を理解するために整理したものですが、私の見解とは異なります。
私(ふくろう)であれば、自己については、次の二段階しかありません。

@ 第一段階:〈私〉…ノエシス的自己(“こと”としての自己)
A 第二段階:「自我」…ノエマ的自己(“もの”としての自己)

この私と気まぐれさんの違いが生じるのは、私があくまで内在的視点に立っており、気まぐれさんが外の視点で捉えているからです。
自分もおっしゃっているように、時系列的に語っており、いわば発達心理学の自我発達のモデルと類比的な捉え方です。
しかし、私の捉え方は異なり、内在的観点からであり、ですから、現在でも(2)から(1)へと遡行できます(可逆)。
また、であるから、私の立場からは例えば、気まぐれさんの(3)超越論的主観というのは、『論考』で「思考し、表象する主観」と言われているもので、存在しません。

また、(1)の〈 〉というのは、要するに西田が後に言う“場”のことであろうと思いますが、気まぐれさんは、これに無主体説を含意させているわけですね。
私はこれまで基本的にここで考察の対象となっているのは『善の研究』の解釈と思ってきたのですが、気まぐれさんはそれ以後の考えも考慮しているわけです。
それはよいとしても、場の思想を無主体説とするのは西田解釈としても私は疑問です。
というのも、西田は「真の自己とは何か?」という問題が最後まで主要問題であったと思いますし、行為的直観の世界として捉える後期でも、行為である限り、主体性は含まれます。
場についても、これを基体とみなしますが主語的実体と混同されるのを畏れ、述語になって主語にならないものというように表現しており、それでこれを木村敏は「述語的自己」として「ノエシス的自己」と同じものとみなします。
その意味で「場」とは、「ものとしての自己」ではなく「こととしての自己」なのです。
つまり、木村敏の見解でも、場は“こと”としての自己とみなされており、〈 〉と〈私〉の区別はない、と言ってよいと思います。

実を言うと、このあたりはプロの永井や入不二さんでもけっこうややこしいところだと思います。
入不二さんも『ウィトゲンシュタイン』での記述はややこしくなっています。
ですが、実は、簡単に説明できるんです、私見ではね(笑)
要するに、気まぐれさんが言いたい〈 〉っていうのは、
 (T1)SはPと考える
のSなんです。
つまり、これは主体の一般項であり、変項です。
気まぐれさん的に書けば、
 (T2)〈 〉はPと考える
ってなりますね。
この(T1)と(T2)は、本来同じです。
つまり、気まぐれさんは、(T2)のように捉えているから、
 (T3)〈私〉はPと考える
が既に限定されたものだと考えるわけですよね。
その意味で、これは本質的に次のものなどと同じであると。
(T4)〈あなた〉はPと考える
(T5)〈デカルト〉はPと考える

私(ふくろう)が意図している〈私〉は(1)のSなんですが、これを気まぐれさんは(T3)として解釈してしまう。
それは〈 〉はあくまで無主体であるという前提があるからです。

しかし、気まぐれさんが理解していない重要なことは次です。
(T2)が有意義な表現(思考現象の表現)である限り、〈 〉に代入可能な値は、主体表現でなくてはならない、ということです。
つまり、特定の誰のものであるかは無規定でも、とにかくそれが思考である限り、主体の思考でなければならない、ということが、この〈 〉への代入可能性によって示されているのです。
どういうことかというと、例えば、「緑」という語を代入し、Pを「この花は赤い」としましょう。
 (T6)緑は、この花は赤い、と考える
という文ができますが、この場合、「緑」は色の名ではなく、人物名、すなわち主体であるものを指示する表現でなくてはなりません。
ですから、例えば、「三角形」を代入することはできません。
つまり、わかりやすく言うと、〈 〉という表現は、何も規定されていないのではなく、(T2)が〈 〉への代入可能性・条件を含み持っているのです。
このことは、たとえば意識において「この花は赤いな」という判断(or思い)が生じたとき、
それが誰の意識であるかは無規定(未限定)であるにしても、それが誰か主観の意識、つまりS(に代入可能)であるもの(=〈 〉に代入可能なもの)でなくてはならない、ということを意味しているのです。
それゆえ、気まぐれさんの言う(T2)の〈 〉は、無主体ではなく、(T1)と同じ、「自分性」、つまり、主体の本質を含んでいるSでなくてはならないのです。
この「S」は、「主体」という概念の論理的表現であり、一般項・変項で表されます。
変項であり、代入されるべき名が代入されておらず、したがって未限定です。
しかし、その代入可能性は既に(T2)に含まれています。
私の考えでは、『論考』の形而上学的主体は、このSであり、超越論的独我論的主観(超独我論的主観)と言えば、区別できるかもしれません。
Sは、主体を表す表現ですが、並び立つ他の表現をもちません。
「私」であれ「あなた」であれ「デカルト」であれ、このSに代入されるべき定項です。
Sは唯一の主体=主観です。
西田は、現代論理学的表現方法をもっていなかったので、独自の表現でこれを表現しようとしたと考えられます。
「述語になって主語にならない基体」のような。

それと、
 S=〈私〉
とした〈私〉は、気まぐれさんのように、
〈 〉≠〈私〉
とできない、ということについて述べます。

気まぐれさんの考えに立つと、
例えば、思い(表象)が立ち現れる意識(現象)としての私というのは、いわばスクリーン上に映し出される動画映像に、そして、その意識(現象)の場としての〈 〉はスクリーンに喩えることができるのではないでしょうか?
私は意図してこの比喩は避け、意識をモニターに比しました。
というのは、モニターの場合、それは映像が映し出される場であると同時に、映像はそのモニターの活動であると言えますよね?
映画の場合は、スクリーンは映像が映し出される場であるけれども、その活動とは言えませんね。
だから、意識をスクリーン上の映画に比さなかったのです。

ついでに、この点を明確にするべく、さらに比喩を付け加えておきます。
思考と意識の関係を、手話と身体の関係に比します。
手話という表現は、身体という場において、その活動として生じますね。
思考(表象)もまた、意識という場において、その活動として生じます。
手話と身体が不可分なのと同様、思考と意識(自分)は不可分です。
すなわち、
思考とは、意識現象=私の活動(私=意識、活動=現象)

私が二段階と言ったのは、要するにこういうことです。
@ 第一段階:〈私〉=S(自己)
A 第二段階:「自我」…(Sに代入される「私」「あなた」「デカルト」の指示対象etc.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上、長々と説明しましたが、どうですかね?
受け入れられるかどうかは別にして、私の言っていることは大体理解してもらえたでしょうか?
繰り返しますけど、これは何ら権威あるプロの哲学者の見解を述べているのではなく、
まったくの私の、つまり、どこの馬の骨とも知れない自称ウィトゲンシュタイニアンであるふくろうの私見にすぎません。
もちろん、私としてはアバウトとは言え、一応きちんと述べたつもりで、論拠もあります。
なので、もっと議論しようと思えば詰めて行えるのですが、まあ、あなたにとってそこまでする意味もないでしょうし、やるとなると大変なので、このへんでいいと思います。
ですから、もし、今述べたことをわかった上で、さらになお、「間違っている」「ナンセンスだ」と言われたのが納得いかず、議論を続ける意思があるのであればもちろんかまいませんが、一応議論をこのへんで打ち止めにするということでどうでしょうか?
ただし、今回のレスについては、一応どう思われるか意見をいただきたいので、それについてはレスお願いします。
もちろん、質問、反論、何でもけっこうです。

18日前 No.657

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

哲学の階級性というものを理解されていないようですが、 >>611,613,614,616,620,623,624 についてはいかがですか?

18日前 No.658

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

絶対無は心理学の領域ではありません・・

時間も空間も超えた限定不可能な根底です・・

18日前 No.659


宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

凡人さん

日本語で簡潔に書いてもらえませんか?

16日前 No.661


宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

凡人さんは何人いるのですか?

私はクリック箇所は踏まないのです・・もう何十回も書いているのに・・前の凡人さんは踏まないことを理解していました・・

別人の凡人さんですね・・

16日前 No.663

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

宿題さんの引き継ぎが完璧なのが良くわかりました。

16日前 No.664

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

凡人さん

引継ぎがうまくいかなかったのですか?

16日前 No.665

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

最近生まれ変わった時に引継ぎがうまく行かなかったようですが、 >>611,613,614,616,620,623,624 についてはいかがですか?

16日前 No.666

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

ところで、自己を限定する事によって初めて有を創造できると思いませんか?

16日前 No.667

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>657

ザビビのふくろうさん
ヴィランのふくろうさん

ありがとうございます。

ふくろうさんの言っていることは大体理解できたと思います。
正直に言いますと納得は出来ていませんが、反論や有意義な質問をできる程
消化できていないような気がするので、ゆっくり考えてみたいと思います。

私としても、ふくろうさんとの議論は有意義なものでした。
むしろ、ふくろうさんよりも私の方が断然得をしました。
なぜなら、今まで漠然と持っていたイメージを表現する機会を与えられ、その上
私の稚拙な表現をわかりやすく整理してもらった上で反論まで頂いたのですから。
感謝しかありません。

またなにかの機会に議論する際はよろしくお願いします!

16日前 No.668

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>668  気まぐれさん

そう言ってもらって少し安心しました(笑)

気まぐれさんの思索の明確化に役立ったとすれば、議論した甲斐がありました。

私もこれまで何度か西田には取り組んだことがあったのですが、ピンときたというか、府に落ちた気がしたのは今回が初めてです。ま、誤解かもしれませんが(笑)

投げ出さずに議論に付き合ってくださり、ありがとうございました。

こちらこそ、またよろしくお願いしますm(__)m

14日前 No.669

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

>>611,613,614,616,620,623,624,677 についてはいかがですか?

10日前 No.670

宿題 ★sicIy89Ne4_Tbw

意識の根源には絶対無(形にならない)が存在していてすべての意識存在を支えている・・

10日前 No.671

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

http://mb2.jp/_tetsugaku/742.html-859,860,862を御覧ください。

10日前 No.672

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

>>667

魂(無の領域)を肉体(有)に押し込めると自己が出来るということでしょうか?

9日前 No.673

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

宿題さんは、魂を売る=自己実現だと思っていませんか?

6日前 No.674

凡人 ★eJER71w7mO_SsI

済みませんが、

>魂を売る=自己実現だと思っていませんか?

の「魂を売る」と言うのは、主に知らず知らずのうちに「魂を売る」という意味です。

6日前 No.675

宿題 ★eM1n2yJmTo_8Ou

凡人さん

日本語の用法が間違っています・・言い方が違います・・意味が違ってきますよ・・

日本語が解らないので私を誤解されているのでしょう・・

私は「魂をさらしています」

さらす
【晒す】

1.外気に当てたり水につけたりして(余分なものを取り除くために)放置する。

2.だれの目にもつく、むき出しの状態に置く。「人前に恥を―」「身を銃火に―」「危険に―・される」。さらし首にする。□「首を―」

6日前 No.676
ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8

 
 
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