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現象学について一緒に勉強しましょう

 ( 哲学掲示板 )
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6面 ★efQcIspQ25_Dcn

なかったので立てました。
現象学的なことについて質問したり主張したり議論したり勉強したりメモ書きしたりしましょう。

このスレッドで言う現象学とは、現実の現象、特に自分自身の体が体感しているような身近な現象、を哲学的に解明しようという試みです。


既に現象学という専門用語をご存知の人は、その意味を狭義の現象学と考えて、ここではより日常的、時には素人的に、そしてその分、より広義に現象学というものを広げて捉えて参加していただければいいかと思います。もちろん、専門的な現象学の話がメインになることが私(スレ主)としては望むところですが、専門用語が素人への配慮なしに飛び交うような形は避けたいところであります。

現象学とは、学問的にはハイデッガー、サルトル、メルロー=ポンティ、レヴィナス等の携わった学問という風に位置づけられているようです。
ここでは、そのような学問的実情に関係なく、幅広い意味で「現象学」という言葉を使っています。
ですから、ここでは、哲学者としてデカルトやヘーゲルやアルキメデスなど誰を持ってきて議論しても問題ありません。このスレのテーマの範囲内である限りは。
たとえば、医学や解剖学的な話なども歓迎です。

ではどうぞ。

9年前 No.0
メモ2010/11/03 21:01 : 6面★efQcIspQ25_Dcn

・ちなみに現象学で扱うテーマは、直接的には知覚や意識や感情などです。間接的には、この世界、時間、空間、物などということになります。

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宿題 ★eM1n2yJmTo_khR

およぐちゃん

ある人が大好物の食べ物はお婆ちゃんのその前の江戸時代から続いた伝統の食べ物だと思わず

たまたま食べて偶然美味しかった私にぴったりの出会いの食べ物・・

こんな風に思うわけでしょう? ただの現象って・・

3ヶ月前 No.701

宿題 ★eM1n2yJmTo_khR

光明という色文字はいまいちなので・・

黄金という色の文字を使うと・・

ちなみに私は赤色文字に突っ込みを入れたくなる・・

この色の持つ特徴も現象学では遺伝子の歴史的な積み重ねだとは思わないのでしょう?

牛が赤に突進するのも・・その時だけなのでしょう?

3ヶ月前 No.702

★E6vycvPYvN_pzR

>701
「こんな風に思う」「わけ」について、が、現象の学なんじゃないかしら?  おばあちゃま。

ひとによって、「哲学」については、さまざまだと思てるから、いいんじゃない?  わたしの思向を書いてるだけ。
こうじゃなくちゃいけない、とか、こうあるべきだ、なんて思ってないし、そうするつもりはないよ。

・・でも、なんで赤字なの? あら!?まさか生理? そんなわけないよね。

3ヶ月前 No.703

宿題 ★eM1n2yJmTo_khR

誤解しないように・・

後光の指す文字を試してみただけです・・あしからず・・

3ヶ月前 No.704

★E6vycvPYvN_pzR

>704
明るい光ね、でも、どうしてその色なのか、やっぱわかんない。
わたし、どうやら素朴(単純で発達してない)みたい。
ま、これはいいわ。

>702で、「遺伝」が出て来たので、>699の現象学についての書(以後この書をTYとします)のなかで次のよなことが書いてありました。

盲目的とはいいながらも、ほとんど衝動志向性は、習慣として形成される。しかし、幼児の世界では、いまだ、このような習慣的な衝動志向性はできあがっておらず、まずもって、周囲世界と本能との間の対化現象によって、本能そのものが覚醒し、それが、習慣となる衝動志向性の準備をしている。ここでは、本能の漠とした「空虚な予感」と、衝動的志向性の習慣化したはっきりした空虚表象とは区別されなければならず、その意味でフッサールは本能志向性を主張するときには、表象という明確な意味の枠組みが成立する以前の、周囲世界を周囲世界として漠として方向づけ、区分けするような、遺伝資質と周囲世界の相互の覚醒という事態が示唆されている。

やっぱ、「ひとの本能」という問題は重要ね。

3ヶ月前 No.705

空の光 ★0YrI73dKRf_m9i

子供の眼 大人の眼

成人と子供では受け取り方、想像力が違うかな?なぜ違うのか?
子供の時は大人になるまでに手に入れたものがない。
その分、目の当たりにしたものをそのまま受け止められる。
手品を見てなぜそあまり驚かないか?
この世の中で何が当たり前かを知らないからだ。
大人になると、これは当たり前とか、この世を知る事になる。
でも、果たしてそれがいいのか?
日常生活に浸かってしまって一安心?

哲学者は、そこにとどまらない。
なぜ?どうして?が頭の中を巡ってる。
常に真理(?)を追求していく。

私の存在、何者か?目の前の存在、どこから来た?
目の前の存在がアルのかナイのか?
目に映る存在がどんなものなのか。私や世界の存在の意味は?

人も存在も、真善美(真理、善意、美化)を追求していると思う。
それは人も存在も天国を目指そうしているのかもしれない。
真理に近づき、善い振る舞いをする。美しくあろうとする。
それらは心言行(思い、言葉、行為)になって表されていく。

子供も真善美を求めている。形成されてない。だから吸収率が高い。
その時にどれだけ真善美に近づけるか?
白紙だから、どんなものでも色づけされてゆく。
大人が「信じられない?!」と思うものも信じられてゆく。
神社参り、サンタ、てるてる坊主、七夕、クリスマスなどなど。
大人になっても信じるものがある人も。神様、仏様、イエス・・・

子供の思いは環境によっても違ってくるかな。
親が信じるものを信じていくようになる?
逆に強制されて嫌な思いだけが残ったりする?
子供にも自由はあるはず。
楽しい思い出がなければ・・・いずれはやめていくだろう。


大人はどうだろう?楽しい思いがあって続けているか?
それとも習慣となってしまったか。
人が幸せになっていくのを見るのが楽しいか?
みんな仲良く、友達みたいな感覚で・・・
自分らしさをもっていれば大丈夫かな親も子供も。みんなも・・・
もちろん相手も自分も傷つけない範囲で・・・

3ヶ月前 No.706

★E6vycvPYvN_pzR

現象学について
(この書き出しいいかも)

「対になること」については、FDの訳注にこういうのもありました。

Paarung:「対(Paar)にすること/なること」を指す。後にのべられるように、フッサールはこれを「受動的綜合の一つの根源的形式」として考えており、その意味で、「対にする」より「対になる」としたほうが適切と思われる。また、このあと、「対になること」は「連合と呼ばれる受動的綜合の一つの根源的形式」とされるが、「連合は受動的発生の原理である」(本書第39節)とも言われており、フッサール自身ここで論じているのは「静態的な分析」(本書第48節)であると断りながらも、発生的現象学に属する問題圏に踏み込んでしまっている。

「受動的綜合」っていう概念、現象学の本を読んでいない人には意味分かんないかもしれないけど、
メルロはこんなこと言ってる。

人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならない。

おそらく”この領分”のことなのかも?

「対になること」は、>705のTYにあるように、「対化」っていう言い方をするのかも?

「志向性」、これ、何かが何かに志向する性(さが)、って見てるから、「対になってる」って見ている。
わたし、「志向性」を〈aがbに志向する〉って見てるけど。わたしのぴろぴろでは、この志向性の最小単位は〈a□b□c〉って、いまのところ見てる。
ここんところはまたあとにするとして。



空光さまも、「現象学について」って書いてから書き始めればいいのにね。
「人はうまれた時から,善を持っている」「心の奥(魂)を磨くというか綺麗にする」「人も存在も、真善美(真理、善意、美化)を追求していると思う」「子供も真善美を求めている。形成されてない。だから吸収率が高い」っていう、空光さまの判断、どこからきてるのかしらね。あ、判断じゃなくて「信念」かな。空光さま、デカルトの『省察と反論と答弁』読んだことあります?

3ヶ月前 No.707

★E6vycvPYvN_pzR

ちょっと現象学から離れるのかもしれないけど、

空光さま、

「虐待」って誰かが命名した、親と子の間の、この「と」(対)における関係、どう見ます?
(あ、これ、まさまのオリ哲の話題かな?)

現象学って、メルロが言う>425にあるように、

人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するしかないと考える哲学でもある。

って、あるから、ちょっと聞いています。


でも、ここ「現象学について「」だから、返信はいいよ。空光さまの言から、ふと思っただけ。

3ヶ月前 No.708

宿題 ★eM1n2yJmTo_khR

およぐちゃん

現象学でも・・

知覚Wahrnehmungには二通り

@現実的ヴィルクリヒカイト. Wirklichkeit.

A確信的確実性・信憑性 glaubensgewissheit(ちょっとつづりが違っているかも)


そして意識される心とは私が私であるとか外界を確かに理解しているという@とAが五感と統一されたものです。

3ヶ月前 No.709

空の光 ★0YrI73dKRf_m9i

遊さん

自分の哲学の素は「ソフィーの世界」になってます。

だくら詳しいことになると点で駄目です。

それでも哲学が知りたくてここへ来てます。

2ヶ月前 No.710

★E6vycvPYvN_pzR

>710
空光さま
『ソフィーの世界』、わたしも読んだことある。
たしか「あなたは誰ですか?」から始まるんじゃなかったけかな?
わたしも哲学に興味があって、ここに来てます。


>709
おばあちゃま、わたし、外国語苦手(もっとも日本語もおぼつかないのかもしれないけど)。
FDの訳注にこんなのがありました。

Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。もとはライプニッツが、対象を判明に知覚するとき、その知覚作用自体にもわれわれは気づく、このことを「統覚」と呼んで哲学的概念として定着させた。その後、感性的直観の多様が悟性により結合される場合の、統一を形成する主観の根源的働きを「統覚」と呼んだ。フッサールは、カントの用法を踏まえながらも、或るものの端的な把握としての「知覚」と区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。

なんか、これと似てる感じ。

2ヶ月前 No.711

★E6vycvPYvN_pzR

「対になること」

もう一つ訳注にあったわ。

「或る物体〔他者の身体〕」と「私の身体」が「対になること」によって、「私の身体」の意味が「その物体」へと被せられる。これが、他者経験の基礎となるわけだが、そのことは、その裏で同時に、「その物体」の意味が「私の身体」にも被せられ、「私の身体」も同様に一つの「物体」として捉えられることが可能になることでもある。この「私の身体を他の物体と同様なものとして捉えること」についてもフッサールは様々な考察をしている(『間主観性の現象学』)


わたし、「存在する」って言うこと、〈“対になって”存在している〉って見るようになった、っていうこと、かな?

2ヶ月前 No.712

空の光 ★0YrI73dKRf_m9i

游さんへ

おお、遊さんもソフィーの世界見ましたか?確かに始まり方がすごい。


>わたし、「存在する」って言うこと、〈“対になって”存在している〉って見るようになった、]ということ、かな? <

わたしが存在する=対になって存在する。
つまり見えて存在する自分と同じだけど見えない存在があるって事なのかな?
それを霊と呼んだり、心と呼んだり、魂と呼んだりするのかな?

2ヶ月前 No.713

★E6vycvPYvN_pzR

>713 空光さま

「私が存在する」っていうことは、「他の人」と「私」、っていう対で見る、っていうことよ。

2ヶ月前 No.714

空の光 ★0YrI73dKRf_m9i

遊さん

「他の人」と「私」・・・違いが分かる。
分かった違いをどう感じるか。
自分が正しいかどうか?
そんなのは分からないと思う。
では、なんのための対なのか。。。

「霊、心、魂」の自分との対なら?
神からのカガミを持っていれば・・・
つまりゆがんでなければ・・・自分の善悪をはかれるかも知れない。
自分の鏡がゆがんでいるかどうか知る方法は?
自然美、高い芸術に触れた時、どう感じるか・・・かな?

2ヶ月前 No.715

★E6vycvPYvN_pzR

>712の「或る物体〔他者の身体〕」に関連して、
FDの訳注にこんなのありました。

ラテン語とフランス語で思考・執筆したデカルトにとって物体と身体はともに一語(ラテン語ではcorps、フランス語ではcorps)で表される。デカルトの著作の邦訳を見ると、文脈によって「物体」と「身体」が訳し分けられているが、原語は一つなのである。それに対し、ドイツ語には、ラテン語・フランス語と言語を同じくする「物体K□rper」(これも「身体」を表す場合もあるが)とは別に、「身体Leib」」という語があり(これは、「生きる(leben)」と言語を同じくしており、その意を汲んで、「生ける身体」と訳すこともできる)、フッサールは早い時期から(1907年の講義録『物と空間』)、両者を使い分けていた。因みに、仏語では、K□rperには corpsを、Leibにはcorps organique(有機的物体または生体)を、英訳では、前者にbodyを、後者にはanimate organique(生きた有機体)をそれぞれ当てている。

デカルトの時空では、ひょっとしたら、物体と身体の区別があんまりまかったんじゃないかしら?(だから訳す人がきをきかせて訳し分けていた?)

わたし、「身体」を「物体」って思ったことない。

FDでは、物体(ケルパー)と身体(ライプ)を区別して、例えば身体を物体として見るとき「物体的身体」って、身体の前にわざわざ物体っていう語をつけていたり、「生きられた」とか「生き生きとした」って言ってる。わたし、物体的身体は「形相」とも見てる。


こんなこと考えているうちに、ふと、

ひとって、ふつう”みため”から入るんじゃないかしら? って。

2ヶ月前 No.716

★E6vycvPYvN_pzR

>715 空光さま、
わたしが716を思ってる間に、これを送信してたのね。
現象学における「対になる」(志向性)っていうことから離れて、ちょっと、聞くね。

赤ちゃんは、神からのカガミ、持ってます?
もし持っているとして、そのカガミ、ゆがんでいます?
そして、あなたの言う、自然美、高い芸術に触れた時、どう感じるか・・・かな?

2ヶ月前 No.717

★E6vycvPYvN_pzR

>715、もちょっと、

>「他の人」と「私」・・・違いが分かる

っていうことが、どうして可能になるなるのか、っていうことを思考してるのがフッサール現象学なのかも、って、わたし、見てる。

2ヶ月前 No.718

空の光 ★0YrI73dKRf_m9i

遊さん

赤ちゃんですか・・・どうなんだろう?
自分がない存在かなだとすると、真っさらな心って言葉通りかな。
つまりゆがんでないと思いたい。

でも、幹たる存在の親がゆがんでたら・・・
子供は親の性質を受け取るんなら、ゆがみも受けてるかな?

なんでも、独り立ちしないうちは親と共同らしいから。

2ヶ月前 No.719

★E6vycvPYvN_pzR

>719
ねえ、わたしと“同じ“ あなた、赤ちゃん″だった″よね。
ここにくるひと"すべて”、かつて、赤ちゃんだった、っていうこと、これ、疑いの余地がないことよね?
”いま”生きてる、いわゆる「おとな」になった”すべて”の人々に、これ、認めてもらえるって思うんだけど?
(違う、っていう人、ぜひ!)


空光さま、赤ちゃん―「自分がない存在」って、どこからきたの?

2ヶ月前 No.720

空の光 ★0YrI73dKRf_m9i

遊さん

「赤ちゃんの来たところから来たんしょう」たぶん。
「自分を知ろうとしない自分」

しかし、いつからか欲が芽生えてくる。

白紙な「魂、心、霊」を埋めていく。
そこから自分を創り上げて行くんだろう。

2ヶ月前 No.721

★E6vycvPYvN_pzR

>721
空光さま
>白紙な「魂、心、霊」を埋めていく
タブラサラ?「生得観念」については哲学的に問題になってる(いた?)みたい。

ところで、空光さまにおいて、
「魂、心、霊」と、「精神」とか「意識」とは違うの? あるいは同じ意味で使ってるの?

赤ちゃんの時にはまだ「自分が存在しない」いって、わたしも思ってるから、ちょと聞いてみました。
わたしのは、
「自分が存在しない」は、〈自がまだ分化してない状態〉、赤ちゃんの時はまだ、自と他の区別ができてない、って見ている、っていうこと。

2ヶ月前 No.722

空の光 ★0YrI73dKRf_m9i

游さん

そうですね。精神、意識と「魂、心、霊」・・・自分の中ではまだハッキリしてないです。

心が近い存在かなと。。。魂は潜在意識、霊は表層意識かな。心はつなぎ役・・・かな?

赤ちゃん・・・確かに自我がなさそう心の奥(魂)から確立していくのかな。
魂の奥はつながり合ってる・・・神様とも・・・かな?

だから自我が確立しない。つなぎ役の心が達成された時、つまり、自我かな?
その奥とは滅多につながらない事になると思う。
神秘体験も,インスピレーションも魂まで到達するのかも知れない。

その魂の奥は神と繋がってる部分、霊界(あの世)につながっている部分もあり?
夢枕に故人が出てくるのも神秘体験かな?
究極は,臨死体験をする事かな?
魂が、つながりを持ってる一番の証だろう。
昔はみんな純粋な心だったから。。。
日常生活の中に神を感じたのだろう。

2ヶ月前 No.723

★E6vycvPYvN_pzR

このごろは、わたし、フッサールの『デカルト的省察』。
>484から「私の分節」の仕方について、フッサールのを見よとして、>485にフッサールの「我」「私自身」「自我」「自我自身」「自分」「自己」「自身」の意味を、わたし、ぴろぴろしようとているんだけど。

現象学とわたしにおいて、わたしのなかに、「感性的意味」っていうのが浮かんできってる。これ、「記述的意味」と区別するようになってる。

前にもどっかで書いたと思うけど、たとえば、「私は、○○について、こう思う」って言うように、「私」「思う」って、ふつう、わたし、使ってるけど(もっとも日本のいいまわしでは「私は」は省略されるばあいがおおいとおもうけど)、「私」とか「思う」っていうことどういうこと?って、自問したとき、言葉で記述できない、っていうの、”ふつう”じゃないかしら?(違う、っていうひとぜひ!)

>精神、意識と「魂、心、霊」・・・自分の中ではまだハッキリしてないです。
っていうこと、でも、空光さまのうちではそれぞれの言葉の意味(感性的意味)の区別はあるように、わたしには思えるんだけど。

ま、これはいいわ。

んで、

空光さまの使う「魂」「霊魂」って、「死」と連関してます?

2ヶ月前 No.724

空の光 ★C0RcD6Cmxl_m9i

遊さん

「魂」が体に宿ったり離脱したりする。
つまり,この世で生きる。霊界へ旅立つ。帰幽する。
魂がないと生も死もない。魂は幾人分あるか分からない。
でも、それは一つ一つの魂とつながりあってる。
もちろん、一神教で言う神様にも。多神教で言う神々にも。
それはどういうことか、魂は一神にして多神・・・つまり元は一つだけど分身する。
それらは一瞬にして一神に立ち返る事もある。

人の魂も一神と共有している。でも、一人一人に自我があり神を感じない。
神は人が魂を自分のものとするであろう事を知っていた。
だから、霊界に逝く時、神に許しを請う。赦しは既に行われていた。
でも、けじめはいるからお許し下さいと・・・

2ヶ月前 No.725

★E6vycvPYvN_pzR

>725
空光さまの「魂」「霊魂」の意味がなんとなくわかった感じ。
「神」と関係してたのね。
カントは「神」について考えると必ず仮象に陥る、って言ってるみたいだから、
魂、霊魂、神についてはこれ以上考えないことにします。

2ヶ月前 No.726

★E6vycvPYvN_pzR

現象学とわたしにおけるわたしのぴろぴろをつづけます。これ、人間についてのね。
いまは、フッサールの『デカルト的省察』(FD)について。

>484、485に戻ります。
「私」の分節の仕方、これに関する部分をFDから抜粋してみたけど、
フッサールの言う「我としての私に特有なもの」「私に固有な領分」「自分固有なもの」「原初的な我」っていうの(意味)はわたしにとっては問題。これらは、私の精神に関わる(分節された)領分って見てる。わたし、これらを〈原初的自然(身体)的(精神の)領分〉って呼ぶことにして、長いから〈自〉って呼ぶことにしました。

>485の「我」「私自身」「自我」「自我自身」「自分」「自己」「自身」の“意味”にわたしがこだわるのは、訳注に以下のようなのがあったから。

Ich, dieser Mensch,bin.:デカルトも、「我あり、我存在する」と述べたあと、それではその「我とは誰か」と問い、これまでは「人間」と考えてきたが、しかし、その答えはいっそう困難な問題へと落ち込むことになるとして、「思う〔思惟する〕我」へと導いてゆく。フッサールにとっても、「人間」というのは「世界」を前提としており、ところがこの「世界」を括弧に入れたのだから、ここで使われた「人間としての我がある」という言い方が、本書第4省察以降では、「人間としての自我(das Mensch-Ich)」と略されて使われることになる。

哲学者の、こういうとこ、おさえてないと上手に理解できなんじゃないかって。
そこ、探すの、やっかいだけど。

2ヶ月前 No.727

空の光 ★C0RcD6Cmxl_m9i

遊さん

「魂、心、霊」が神とつながっている。
それは、神の意識と人の意識がつながってるから。
意識とは何か「魂、心、霊」を中心となすものだろう。

「吾思うゆえに吾あり」という言葉でカントは表した。
吾(カンド)は意識を発見したという事かな。
その意識が神とつながっている。神の創造の一つともいえるかな。
だから吾とは神でもありカントでもあるとすると

「神思うゆえにカントあり」
なぜ神があるゆえにカントがありなのか?
最初に意識が存在したから、それを神と呼んだかな。
そこから神の創造が始まる。目的は天国を創造する事。
そして、いよいよ地上に天国を創る存在を創造した。人間。
人間は生きる事が創造の一つになる。
だから,考えたり,直感を受け取ったりする

2ヶ月前 No.728

空の光 ★C0RcD6Cmxl_m9i

>728


訂正 ×吾(カンド)は意識を発見したという事かな。

   〇吾(カント)は意識を発見したという事かな。

2ヶ月前 No.729

★E6vycvPYvN_pzR

>728
空光さまの言う「神」と、吾(カント)との関係について、
「神」は意識をもつ。
そして、吾(カント)は、その”神の意識”を発見した。
わたし、こんな感じに捉えたんだけど、あとのところは意味がわかりませんでした。

わたしのばあい、スピノザのいうように、「神」の別名を「自然」ってしてます。
「自然」の外に「神」を想定してない、っていうこと。
だから、神(自然)に意識があるとか、神(自然)の意志、って言うのは、わたしから見たら、ヘン。

2ヶ月前 No.730

★E6vycvPYvN_pzR

「自然」について

現象学では、「自然」と言うのをふたつに区別しているみたいです(前にもどこかで書いたと思うんだけど)。

「自然とは、たがいに外的で因果の諸関係によって結ばれたさまざまな出来事」(メルロ)っていう自然と、「自然科学が対象とする自然」。
わたし、かんたんに、〈出来事としての自然〉と〈対象としての自然〉ってしてるけど、>730で言った「自然」っていうのは、前者の。


また、FDの訳注には「自然」についてこんなことが書いてあります。
(15) ここに言う「自然研究者の主題となるような自然」とは、『イデーンU』の冒頭で、「自然科学的態度」の相関者として、「意味述語の排除」によって得られる「単なる自然」(「単なる」の原語blo□は、「裸の」と訳すこともできる)と呼ばれていたものである。
(16) 前注で触れたように、同じ「単なる自然」という言葉が使われながらも、フッサールがここで行おうとしている「自分固有の領分への還元」という「独特の主題的判断停止」によって得られる「単なる自然」と、「自然研究者の主題となるような自然」としての「単なる自然」とは異なり、前者での「抽象」の意味と後者での「抽象」の意味とは異なる。


わたし、「意識」って言うの、人間の範疇だと思う。

2ヶ月前 No.731

空の光 ★C0RcD6Cmxl_m9i

遊さん

自然=宇宙=神 とすると神は生まれた時から意思がある。
なぜならこの世界を創造したのだから。創造するには意識がいる。
創造なのだから自然が勝手に出来上がったのではない。
そして創造し続けてる。創造が終わらない限り意識も止まらない。
いや、意識が創造をやめない限かな?終わらない創造。

2ヶ月前 No.732

★E6vycvPYvN_pzR

>732
空光さま

哲学者と言われているデカルト、スピノザ、カントには「神」という語が出てきているようですが、わたしが読んだ限りでの現象学の本のなかには、「神について」の記述がありません。

>703で言ったのは、もし、誰かが「神」という語を使ったとしたら、わたしのばあいは、(スピノザのように)それを「自然」って、置き換えて見て見る、っているということです。そして、現象学における「自然」といのはこういう意味じゃないか、っていうの書きました。

「創造」をネットで調べて見ました。
1.新しいものを初めてつくり出すこと
2.神が宇宙・万物をつくること。
とのことです。1と2は意味が異なると思います。どちらの意味で「創造」っていう語を使っていつのかはわたし問題だと思ってます。

空光さまの場合、「創造なのだから自然が勝手に出来上がったのではない」から、「創造」という語を2の意味として使っているように見えます。だから、自然=宇宙=神ではなくて、自然は神の内に位置づけられているように思えます。

空光さまのばあい、〈宇宙・万物をつくりだしたのは神である〉あるいは〈宇宙・万物をつくるものがあり、それを「神」という語で呼んでいる〉、そして〈この私は神がつくりだした〉で、よろしいですか?

2ヶ月前 No.733

空の光 ★m7zTdIDA4w_m9i

遊さん

全ての初めである創造。。。

作り出すには,どのように始めるか?
それがこの世の初めての意識だと思う。

意識があるとすると神=自然でも良いと思う。
その創造は目に見えてる。生き物の一生、万物の移り変わり。
ただ外からは創造の働いた結果しか見えない。

すべての存在の内なる変化、生き物では成長していく体、人間では心の成長もある。
つまり、神は自然の内側にも,生命の内側にも存在している。

創造を続けていくとはそういう事かな。

2ヶ月前 No.734

★E6vycvPYvN_pzR

>734
空光さまの場合、「全ての初めである創造」っていうことだから、「創造」とは、「全ての始め」である。ーーで、いいよね?
じゃ、何がどのように、全ての初め(創造)を続けていくのでしょうか?「この世の初めての意識」?   何言ってるのかわかりません。

どうしても「神の意識」に結びつけたいの?

>728に、空光さまが、吾(カント)を持ち出したので。
中島義道さんは以下のように言ってます。

カントはこのランベルトの構想を一部引き受け、『純粋理性批判』をはじめ『現象学』というタイトルにしようとしたほどほどである。しかし、この構想をカントは大きく変容させ、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。仮象には経験的仮象と超越論的仮象がある。前者は、昇る月の大きさを対象としての月の大きさと錯覚するとき(月の錯視)や、岸の上に海が見えると、対象としての海が対象としての岸より上にあると判断するときなどに生ずる。そして、後者こそカントがもっとも注目したものであり、理性そのものが有する本性であって、本来可能な経験の範囲内で有効なカテゴリーを、経験を超える領野にも使用し、「世界全体の量は有限あるいは無限である」「魂は実体(不滅)である」「神は存在する」等々の誤った結論を導き出してしまうことである。

これ、どう思います?

2ヶ月前 No.735

★E6vycvPYvN_pzR

もうちょっと。ここ、「現象学について」だから、>735の中島ちゃんの、前の文を書き写しておきます(まえにもどこかで書いた気がするけど)。

ランベルト(1728-1777)は「現象学」(Ph□nomenologie)という用語をはじめて使用したとされるが、彼の現象学とは「仮象の学」にほかならない。この場合、仮象という概念に「真」に対する「偽」という意味合は含まれていない。仮象とはあくまでも真偽以前の「中間物」であり、何ごとにせよ見えるがまま・現れるままの事柄であって、これはドイツ語の“Schein”の意味を忠実に保っていると言えよう。こうした基本的態度のもとに、彼は「超越的仮象」「生理的仮象」「道徳的仮象」「病理学的仮象」「天文学的仮象」等々詳細な分類を施している。彼のプランは、こうした見えるままに記述する「仮象の言語」と、物に即した「物理学の言語」との間に翻訳規則を作ることであった。

ここに書いてる中ちゃんの題は「現象・仮象」です。全部書き写すのはどうかと思われるので、空光さまとのやりとりのなかで、わたしが関係するかなって思ったとこだけ抜粋してます。

2ヶ月前 No.736

空の光 ★y3rtLgDSlJ_m9i

遊さん

「現象」だから、人によって見え方は色々・・・かな。
ということがぼんやりわかったような気がします。

見えるものへのとらえ方も色々ある・・・かな?
自然の中へ現れるものの見方もそれぞれ。

そう考えてくると広い大きなものに手を付けてしまった。
そんな気がします。

遊さんへのどんな返事を返してよいやら・・・悩みます。
現象の中に潜むもの・・・それを神とすれば汎神論?

ただ、そこにあるだけでなく、形を色々変えて現れる。
日常の中、人の心の中も神様の現れ・・・。
これは神がいくつにもなって現れる多神論とも言えるかな。
そんな中で一神論をとなえる宗教もある。

どっちも正しいとすると一神にして多神かな。
ある時は全てを統括する神である。
ある時は小さな事も逃さない神でもある。
つまり、ただ存在するだけで無く、いろんな方面に働きかける。
それには意識が必要・・・かな。
その意識は人間一人一人にも間配られてる。

そんな意識を持たせられてるのに気付かない。自分達。
それを神は赦されてるから、生きていられてる自分達。
いつか神に謝らなければ、ならない時が来るまで。。。

2ヶ月前 No.737

★E6vycvPYvN_pzR

>737 空光さま

<「現象」だから、人によって見え方は色々>
「現象学」って、わたし、そういうものじゃないと思う。

<いつか神に謝らなければ、ならない時が来るまで>  ん? 誰が?  <自分達>ね。
空光さまは、わたし(游)も含めちゃうの?

あなた(空光さま)は、(あなたの言う)「神」によって「つくられた」(人間?)っていうことでいいのかしら?


ちょっと聞いていい? 空光さま。

1.カントに関する解説書ないしカントが書いた書物読んだことあります?
2.現象学についての解説書ないし、フッサールや、ハイデガー、メルロが書いた書物読んだことあります?
3.あなたが言う「神の意識」って、どこ(誰)から得ました?

1,2に関してはわたしにとってはあまり問題じゃないけど、わたしにとって問題なのは、3です。

いかが? 3については記憶にございません?

2ヶ月前 No.738

空の光 ★y3rtLgDSlJ_m9i

遊さん

1.2は読んだ事がありません。唯一の元は「ソフィーの世界」
3.については以下の通りです。

神の意識だから神からもらう。
いや、神が宿るのだと思います(信仰しててもしてなくても)

ただ、それは人には認知できない。
なぜか?宿るのは誕生の時。瞬間から・・・
その時「神の意識」を自分のモノにしてしまうのかな?

つまり、つながりがあるのにとらえようとしない。
自分の思ったもの、経験したものの結果で埋めていく。
自分から神にさよならを告げたかな?

神は手を離さなかったのかも。
いや、宿ったまま。いつか気付く日を待ってるかな。

気付いた時・・・何が起きるのか。
神にさよならを告げなかった者と同じく、思いを共有するかな。

たとえ本人が意識してなくても・・・直感という形で。。。
だから直感は大事なんだと思う。
神と自分の間が澄んでる。それが第一条件だと思う。

2ヶ月前 No.739

★E6vycvPYvN_pzR

>739 空光さま
わたしの問い3について書いてもらったけど、聞き方がまずかったのかな。
わたしの3の問いはそういうことが聞きたかったんじゃなくて、もっと”素朴的な”質問ね。

わたしも「神」っていう「語」、いまは知ってる。正確には「神という語」を知ってる。
それはわたしがこれまで生きてきた中で、いつどこかで誰から教わった(知った)のだと思う。

生まれたばかりの赤ちゃんが「神には意識がある」なんて喋ることないよね。

わたしは、たとえば、「神」っていう「語」、いつどこかで”誰か”が言っている(あるいは書いてある)のを聞いて(読んで)知ったんだと思う。
でも、わたしのばあい、それがいつどこで誰から、っていうのよく覚えていない。

こんな感じの質問だたのね。だから「記憶にございません?」ってしました。

2ヶ月前 No.740

★E6vycvPYvN_pzR

なんか、>740を書いてるうちに、なんか思いだしました(前にもどこかで書いたと思うんだけど)

ミシェル・フーコーはこんなことを言ってる(じつはわたしメルロの前はフーコーだったのね)。

a.〔西洋の近代の資本主義社会は、経済的・社会的条件において、人間に分裂を強いている。人間は言語をもち、言語において生きているが、その言語は他者の言語である。言語を語る人間は、言語において自己を見出すことができない。人間は労働して生産物を作るが、それは他者の労働に依拠し、他者による消費を目的とする。人間は自己の生産物に、自己を見出すことができない。このように分裂的な文化に生きている人間は、分裂病的な在り方以外の道を選ぶことができない。〕

資本主義社会がどうなのかはわからないけど。


b.〔近代の思考は、もはや〈相違性〉のけっして完成されることのない形成にではなく、つねに完遂されなければならならぬ〈同一者〉の解明に向かう思考である。こうした解明は、〈分身〉の同時的出現、さらに、「と」のなかにある、わずかだが克服しえぬあの偏差、そうしたものなしにはおこなわれないであろう。〕

「と」は、なんかフッサールの言う「対」に似てる気がする。すなわち、「あいだ」ね。


ふと、場所ちがうけど、独我主義者は、領見せまいのかも?
メルロの言う「身体の媒介というのはふつう私によって見逃されている」みたいで。

2ヶ月前 No.741

★E6vycvPYvN_pzR

現象学を理解しようと思っているなかで、わたしに浮かんだもの。

ひとの「知性」って、〈見えているもの〉だけじゃなくて〈見えていないもの〉や〈見えないもの〉を、見たい、っていう知欲があるんじゃないか、って。
そして、それによって〈思われたもの〉に「意味」って名づけたんじゃないか、って、ふと。

でも、メルロは「sensという新しい意味」っていう見方もしてる。

「受動的綜合」と「能動的綜合」、前者が「sens」後者が「思考」かな?
そして問題はその両者のあいだ、なのかも?

2ヶ月前 No.742

空の光 ★y3rtLgDSlJ_m9i

遊さん

受動的総合と能動的総合・・・その間。

両者のあいだ・・・受動と能動が相反するものだとその中間があるのかどうか?

天使のささやきと悪魔のささやき?

2ヶ月前 No.743

★E6vycvPYvN_pzR

>743
ねえ、空光さま
>741にわたしが書いたフーコーのaについて、どう思われます?

これ聞いてからじゃないと〈その中間があるのかどうか?〉とか〈天使のささやきと悪魔のささやき?〉について、っていう「?」は考えられないんだけど。

わたしが読んだ『ソフィーの世界』では、「フロイト」で終わってる感じ。
同時代を生きたハイデガーについては「あとまわし」で書いてないし、フッサールについてはいっさい書いてないなかったんじゃないかしら。

無理に「現象学について勉強しましょう」に来なくてもいいんじゃない?

2ヶ月前 No.744

空の光 ★y3rtLgDSlJ_m9i

遊さん

自己を見いだせない世界ですか?
それは自己の評価を出来得ない世界でしょうか?
なぜ、そんな社会になったのでしょうか?
目に見えない主義や思想は、目に触れない所なら何をしても・・・いいんだ。
そんな思いが起きやすい。なぜか?
見えない存在を迎ようとしないから?なぜ迎えようとしないか?
見えないものへの畏怖か?
目に触れない存在を信じない。
そこから他人も目に見えないところでは信じられなくなる。
だから、他者から見える範囲での働き。他者のためへの働き?
言語も見えないところで本音をはく、見えるところでは・・・
つまり、他者のための言語かな?
そんな自己だから評価したがらない。

2ヶ月前 No.745

★E6vycvPYvN_pzR

>745
空光さま
<自己を見いだせない世界ですか?> ?
>741のaの〔自己を見出すことができない〕っていうとこじゃなくて、
フーコーが言いているaは、
〔分裂的な文化に生きている人間は、分裂病的な在り方以外の道を選ぶことができない〕
っていう判断に至った理由についての記述だと思うんだけど、わたし。

空光さま、霊魂とか魂とか神によって、盲目的なってません?

あなた、現象学について勉強する気あります?

2ヶ月前 No.746

空の光 ★y3rtLgDSlJ_m9i

遊さん

>分裂的な文化に生きている人間は、分裂病的な在り方以外の道を選ぶことができない<

分裂的な文化それですね。何でも分裂してしまう。
病も一つ一つに分けてる.体という全体の中の一つなのに。

人の存在も宇宙の中の地球に存在してるのに・・・
問題を大きな観点で見付ける事の出来ない社会。
本当は一つ一つの細胞に、体の真が描かれているかも。
それを知るために
・・・細かく刻んでいってるけどこれ以上細かくなったら。
見える範囲を超えてるかも無機質、素量子、微粒子とね。
そこまでいったら、物質的に変化させるのは無理?かな。

現象学に惚れるまで続けます。

2ヶ月前 No.747

★E6vycvPYvN_pzR

現象学について、にもどりましょっと、
>699、705にTYに書いたので、もちょっと書いて見ます。

〔映画を見て、もらい泣きしたり、スポーツを観戦して面白いのは、身体性の等根源性を生きているからだし、それと同時に映画俳優とスポーツ選手は、やっぱりこの自分ではないことはわかりきったことで、そこでは自分と他人の個別性(異他性)も同時に生きられている。〕

「等根源性」とか「異他性」っていう語は、TYではじめてお目にかかりました。
FDの、類似のうちで比較する(類比)、っていうことなのかも、って思ってます。
現象学の見方で、「同時に」っていうところが重要なんだと思てる。メルロの言うキアスム的な見方が。

つづく

2ヶ月前 No.748

★E6vycvPYvN_pzR

>748のつづき(TYの記述より)

私達の現代の日常生活は、自然科学的世界観の中で生きる生活ともいえる。客観的時間と空間が、共有されて生きられる時間と空間に由来している、と聞いて、心底納得する人が何人いるだろうか。勝手に生きられている主観的時間や空間など、せいぜい、そうあったらとロマンティックに願望している個人の感情生活のひとコマにすぎない、当の個人の感情生活さえマスメディアによって計算し尽くされているのは常識だ、といった反論が、まさに常識になっているようだ。

しかし、この常識は、「愛は関わりであり、当事者に持たれる感情ではない」「その持たれる感情でさえ計器で計ることはできない」といった人間関係を生きる常識にどう対処しうるのだろうか。

数量化できない感性を客観的学問から追放したガリレイに対して、フッサールは、感性の規則性を数量化によらない、しかも数量化よりさらに厳密な方法によって解明して、日常生活を生きる常識が、どのように常識として成り立っているかを、問題とすることができた。これがフッサールの「生活世界」という問題領域だ。



科学の進歩によって、人の身体の欲望(快楽と外界知)の手段も、進展してきている感じ。
だから、考えることなんて、必要なくなっやってきてるんじゃないかしら。哲学なんかより科学的知の方がよっぽど価値があるみたい。

つづく

2ヶ月前 No.749

★E6vycvPYvN_pzR

>749のつづき
現象学について、メルロは以下のように言ってる(これここで前に書いたけど748、749に関連して思い出したので)。

現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識本質などを定義することによって解決されるはずである。しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。

現象学では、「生活世界」っていうのを問題としているみたい。

2ヶ月前 No.750

空の光 ★y3rtLgDSlJ_m9i

遊さん

遊さんの言う >>699   >>700 を見て思ったのですが・・・

作った服を着る時、それが自分に似合ってるかどうか。
人が見てどう見えるか、作った人の気持ちが「どう見える」である。

服そのものの意見はない。じゃあ服の真理はどこにあるか。
生地かデザインか、モデルの着こなしか?

それらは作った人の気持ちに一番近い。
これは作った人の思いが真理だと見た場合の結果。

作った人が直感、インスピレーションから得ていたら。
哲学で言えば流れに乗ったと言う事が真理に近い?

直感は最初の思い。元を消せない.消すと「別なもの」になるかな。
受け止める人の感性に寄るかな。
受け取ったモノをどれだけ表現しつつ思いを出すか。自分らしさ。

2ヶ月前 No.751

★E6vycvPYvN_pzR

>751
「作った服を着る時」ん?

2ヶ月前 No.752

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

遊さん

たとえ話です・デザイナーが作った服にたとえました。

2ヶ月前 No.753

★E6vycvPYvN_pzR

>753
デザイナーが作った服と私との関係、そのデザイナーによってされたもの(服)とそのデザイナーとの関係、そしてわたしがその服を選んだことと、それを着たときのそのわたしを見る他の人との関係。

このような「と」を見ようとするとき、やっぱ、現象学の「志向性」っていうのは関係してくる感じ。

「直観」と「直感」は区別されると思うんだけど、このごろは、「直観」を意識(精神)のなかのどこに位置づけようか、って思案中。
(ちょっと手間取ってる)

ところで、デザイナーが作った服をデザイナーが”見せようとする”とき、スタイルのいい人(モデル)にしか”着せない”ようにしてるようにお見受けするんだけど。

2ヶ月前 No.754

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

游さん

デザイナーはモデルにしか着せないとしたら・・・
どんな人にでも似合うのは無理だから。だと思います。

買った人が自分に合わせようとする。そんな事の出来る服ならいいな。
デザイナーの夢かも、似合う人が現れるのが・・・
でも、モデルさんと体系の違う人が着こなせたら・・・
デザイナーのイメージと違ってしまうかな?

人の体を作ったのが神だったら?
宿った魂に近い形に仕上がるかな?

魂すら神が生み出したのなら・・・
魂にどんな形の体が似合うか分かるかな?

2ヶ月前 No.755

★E6vycvPYvN_pzR

>755
〈「人」という存在に対して、万物(すべて―ー当然人間も含まれるけど)を創造し全知全能である存在を、「神」という名で呼ぶ。〉
空光さまの言う「神」の意味、これでいいかしら?

2ヶ月前 No.756

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

游さん

おおかた合ってると思います。
ただ神は唯一のの神でない。

日本の古神道のように多神でもある。
つまり一神にして多神であるようです。

最高神の働きの時もあり、
多くの中からの一神の働きの時もあるようです。

その区別は人には分からないかもしれないけど。。。
神に願う時、神によって違う願い事を変えるかな。
そうでないと多神の意味がない.

直感・・・・神様によって直感が違うのか。
神にも位があるとすると、受け取る側にも位もあるかな。

デザイナーの直感・・・
モデルの直感・・・
実際に買った人の直感・・・

三つに別れる直感

神からの直感、魂が受けで発する直感、人の判断付の直感。

2ヶ月前 No.757

★E6vycvPYvN_pzR

>757 空光さま(ちょっと打ち込むの面倒だからこれからはお嬢さまってしちゃう)

「おおかた合ってると思います」っていうことだから、「万物を創造した全知全能である存在」を基本として。

お嬢様の神って、「感覚」を持ってる、っていうことでいいのかしら?

2ヶ月前 No.758

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

游さん

ええ?!お嬢様・・・嫌だって言ってもされちゃうのかな。
でも、言ってみよう「お嬢様」は嫌だって。。。

神様が「感覚」を持ってる?よく分からないです。
確かに色んな「感覚」を持っていそうですけど神様だから。。。

2ヶ月前 No.759

★E6vycvPYvN_pzR

>759
あら?「お嬢さま」って呼ばれるの、お嫌い?
わたしだったら、うれしいんだけど。


<神様が「感覚」を持ってる?よく分からないです> について、

「直観」について、意識(精神)のなかでどう位置づけを考えているなかで調べていたら、こんなののがあったので、聞いて見ようとしてます、お嬢さま。


日本語では紛らわしいが「直観」は直感ではない。しかし、この紛らわしさには難しい問題がひそんでいる。「直感する」とは、これが何であるかを説明しようとする場合に、感覚について言及せざるを得ないような事態を言う。しかし、目の前の本を読むことを「直感する」とは言わない。机の表面がなめらかであることを手で確かめる場合、「机の表面のなめらかさを直感する」とは言わない。身体器官のどれと特定することなしに、じかに何かを感じ取ることを、普通には「直感」という。推論や、推理の結果、知るに至ったということを対比的に「直感する」と言われる。そのように「直感」は感じ取るのであるが、しかし、目とか耳とか皮膚などの器官で感覚するということを、この言葉は示していない。

ヨーロッパの哲学においてもちいられる用語としての「直観」は、上の語源が示しているように、感覚への言及を含んでいない。だが、「感覚(あるいは感性)的直観」と言われる場合には、ことがらとしてじかに感じ取るということと重なる。「直観」はそのような広がりをもつが、むしろ知性的な直観に言葉の故郷をもつ。このような事情があるので、「直観」は直感ではないということ忘れないようにしなければならない。この紛らわしさを避けるために「直覚」という訳語が選ばれることがある。


で、ひとまず、神様は、<色んな「感覚」を持っていそうです> って、しておきましよう。
じゃ、次の問いは、神様における<色んな感覚>ね。

2ヶ月前 No.760

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

游さん

「ちょっかん」といえば自分の中では「直感」です。
「インスピレーション」ともいえますね。

「直観」という事が場あるのは知っていましたが使った事はありませんでした。

直観、物事を直感で把握する事かな?

2ヶ月前 No.761

★E6vycvPYvN_pzR

>761
お嬢さま

「直観、物事を直感で把握する事かな?」って、あなたの問いだから、なんか思いついたら教えて。

>760で、ある人が言ってる直観と直感の見方(こういう見方もあるっけどって)を提示したまでよ。
そこから、>758のお嬢様の神って、「感覚」を持ってる、っていうことでいいのかしら?がわたしのうちにおもいついただけ。
あまり気にしないで。

お嬢さまのいう「神」、「感覚」を持っているっていう感じからすると、その感覚をもたらす「感覚器官」を持っているっていうことになるんじゃない?
人間の場合「身体」ね。あ、これは人間を基準にして見た場合ね。
人間を基準にしない場合の、<"神の"色んな「感覚」>が問題ね、っていうことを>760で問題としてるの。
この問いに答えられます?お嬢さま。

人間では「感」と「観」は”違う語”を使ってる。「人間」と「蛆虫」って”違う語”よね。意味、違うんじゃない?
違う語を使う意味があるんじゃない?でもそれと同時に、人間と蛆虫、同じところあるよね。

「万物を創造し、全知全能の存在」=「神」を前提としたとき、人間に浮かんだ問いに対してなにがしらの答えを導き出そうとする人間の努力は、
結局、次の一言で答えが導き出せちゃうのね。

「神のみぞ知る」 はい!終了。

ってね。

2ヶ月前 No.762

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

游さん

神様も持ってる感覚。それは人間のように肉体がなくても感じ取れる。

人も霊界に逝っても「感覚」はある見たいです。

そうじゃないと霊界(天国、地獄、中間)がある意味がないような・・・

2ヶ月前 No.763

嫌われ霊夢と嫌われ魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

宿題さんが現れない

とうとう死んだか・・・・・

香典は100円札を1枚で十分だ

2ヶ月前 No.764

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

嫌われ霊夢と嫌われ魔理沙さん

もう飽きて来ないっておっしゃってませんでしたか?

うちは現象学興味あらしまへん・・

こんな所までチェックしてメビに未練どすなぁ・・

2ヶ月前 No.765

★E6vycvPYvN_pzR

>763
お嬢さま
「人も霊界に逝っても「感覚」はある見たいです」っていうところの、

「人が逝って」って、〈人の死〉のことを意味してます?

2ヶ月前 No.766

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

遊さん

はい、そのつもりででした。
変換しましたら出てきましたので・・・

2ヶ月前 No.767

★E6vycvPYvN_pzR

>767
「変換しましたら出てきましたので」ーー意味わかんない。
ま、これはいいわ。

お嬢さま、
じゃ、次の問題は、〈人の死〉って、どういうことなの?
っていうことね。

2ヶ月前 No.768

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

遊さん

「人の死」ですか・・・

一般的に言うよと・・・それは魂が体を離れるって事ですね。
離れて霊界・・・あの世に逝く。

哲学で言うとどうなるんだろう?
哲学には人の死の先はありますか?

イデアの世界があるって・・・誰が唱えたんでしたって?

2ヶ月前 No.769

★E6vycvPYvN_pzR

>769
「哲学で言うとどうなるんだろう?」「哲学には人の死の先はありますか?」って、お嬢さまの問いだから、わかったら教えてね。
「イデアidea」って、ネットで検索したら、すぐ出てくるんじゃない?

「一般的に言うよと・・・それは魂が体を離れるって事ですね」
あなたの言う「一般的」(これ、わたしにとってとっても問題なのね)っていうのがわからないけど、ま、これはいいわ。

お嬢さまの言う「魂」と「体」は、あなたのうちでは”区別されている”っていうことでいいのかしら?

2ヶ月前 No.770

空の光 ★CRtLHhQWin_m9i

遊さん

死ぬイコール魂の離脱だから。
お葬式して、お位牌、お墓をつくる。
何回忌とかってするんじゃないかと・・・
そして、最後は神様?になる?
いや、仏様かな。

これは、魂が体に宿ってる事じゃないかと・・・

2ヶ月前 No.771

★E6vycvPYvN_pzR

>771
ねえ、お嬢さま

「お葬式して、お位牌、お墓をつくる。何回忌とかってするんじゃないかと・・・そして、最後は神様?になる?いや、仏様かな。」
これの意味を探してるの?

「魂が宿ってる」のは「人体」でいいのかしら?
そして、「死」=「魂の離脱}としたとき、そのとき、人体はどなってるの?

人の体、言い換えると、わたしの体に(お嬢さまのいう)「魂」が宿っちゃうのね。
何か、えたいのしれない、不気味なものが、わたしの体には住みついちゃう。
恐ろしくて、ひとりでトイレに行けなくなっやう。

空光さまの言う「神」とか「魂」とか「霊」って、わたしを生かすためじゃなくて、殺すための存在だったのね。

了解しました。

2ヶ月前 No.772

★E6vycvPYvN_pzR

>716に記した、
〔「身体Leib」」という語があり(これは、「生きる(leben)」と言語を同じくしており、その意を汲んで、「生ける身体」と訳すこともできる)〕
のように、現象学は、生ける身体を問題としているんじゃないかって。

わたし、このごろ、「現象学」の「現」って、〈現在〉って見ている。

だから、現象学って、いま生きているっていことにおける現われの学、ってなってる。

でも、現象学を”はなから排除する”人(誰かの解説に言い含めあられたか、まじめにその解説を信じてしまったか、盲目的なのか、その解説が自己正当化を刺激するものであったのか…)は、このような見方、ヌケちゃって、ノエマに対してのノエマで終始ことが運ばれている、っていう感じ。
略して、まぬけ。

2ヶ月前 No.773

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

游さん

大丈夫委ですよ。一度死んだ体は。土に還元されていきます。土葬にしろ、火葬にしろ。
「神」は人に命(魂、心。霊」を与え寿命になったら「神」の元へ帰る。

人を殺すなんて、とんでもない錯覚です。自分で寿命を短くする人はいるけど・・・

2ヶ月前 No.774

★E6vycvPYvN_pzR

現象学について

いまは、フッサールの『デカルト的省察』です。本文の一部抜粋をして見ます。
フッサールの「直観」について、と、わたしに思われるところの抜粋ね。


a.このようにして、世界に向かう生のあらゆる出来事は、その端的な存在の定立、基づけられた存在の定立、および、それに相関的な存在の様相――確信を持って存在する、可能的ないし蓋念的に存在する、さらに、美しくまたよく存在する、等々といった存在の様相――のすべてを含めて、観察者のいかなる付帯的思念や予備的思考からも〔汚染されることなく〕純粋に、記述可能となる。このような純粋性において初めて、それらは、一つの哲学へ向かう私たちは、究極に至るまで疑いの余地なく基礎づけられた、普遍的な学問としての哲学という、デカルトの理念がもっていた徹底主義を思い出す。

b.このような理念は、絶対的で普遍的な批判的吟味を要求するが、このような批判はさしあたり、何らかの存在者をあらかじめ与えるような態度をすべて差し控えることによって、絶対に先入観から免れているような世界を、つくり出さなければならない。これを可能にするのは、超越論的な経験とその記述がもつ普遍性である。しかもそれは、世界の経験がもつ普遍的な「先入観」が気づかれないままあらゆる自然さを貫いている(それゆえ、世界信憑が絶えず貫いている)にもかかわらず、この「先入観」を禁止し、自我論的な存在の場が、先入観から純粋に免れていることへ還元された思念の場として、いまや絶対的で無傷のまま残っているなかで、普遍的な記述に努めることによって可能となる。いまや、このような記述が、徹底的で普遍的な批判的吟味の基礎となる資格をもつことになる。

c.もちろん、この記述の絶対に「先入観から免れていること」を厳密に維持し、純粋な明証としてあらかじめ立てられた原理を満足させることに、すべてはかかっている。それは、超越論的な反省が純粋に与えられたものに結びついていることを意味している。それゆえ、これら与えられたものは、端的な明証において純粋「直観的」に与えられるがままに受け取られ、また、純粋に見られたものを超えるような、あらゆる付加的な解釈から自由になっているのでなければならない。


cの「明証」と「直観」については訳注があるので、後で記します。

現象学って、こういう世界の解明(描き出すこと)を目指しているんじゃないかって、わたし、思ってる。

2ヶ月前 No.775

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

およぐちゃん

「直観」という言葉は、直接何かを観(み)るという視覚に根ざした認識のあり方を示し・・

実際に物事の本質を奥深くまで見抜いて示す概念と

両者の認識のあり方の本質は互いに大きく異なっている・・

2ヶ月前 No.776

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

宿題さん

直観:直接ものを見る・・・自分の思いやまわりの思いを抜きにして見る?

直感:直接感じ取る?・・・自分の思いやまわるの思いを抜きにして感じとる?

2ヶ月前 No.777

私のこと ★Android=qOPrZDwYci

現象学は幻だな。
人間が考える知性は幻だよ。
しんり

2ヶ月前 No.778

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

空の光さん

直感の正反対が論理です・・

2ヶ月前 No.779

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

私のことさん

一瞬が永遠になる念じね力を信じませんか?

時間の無い世界の存在は無いと思いますか?

2ヶ月前 No.780

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

宿題さん

c
触感の反対=論理

直感を見直してみよう。
説明、証明によらず感覚的にすぐ真相を感取すること

直観を見直してみよう。
推理、経験によらず直接に対称の全体・本質をつかむこと

どちらも、本質を知るには白紙の吾になれと言ってるようですね。


手元の辞書「角川新国語辞典」より 1994年1月20日 107版発行

>>777 の説明は論理じゃなかったですね。


ここの説明は辞書引き出し。

2ヶ月前 No.781

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

空の光さん

私の第六感は落ち武者の魂でいっぱいです・・

2ヶ月前 No.782

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

宿題さん

落え?!ち武者・・・誰と戦われました?

宿題さんなら、第六感は怖いものなしでしょう。

2ヶ月前 No.783

宿題 ★sicIy89Ne4_vZE

空野光さん



敵から逃げ延びる夢を多く見ましたが

一番強烈な印象に残った夢は鎧を着て逃げる時川に飛び込んだ夢です・・

5年ほど前から安倍晴明神社の初詣で買ったお札や塩を鬼門やあちこちに置いたら夢を見なくなりました・・(摩訶不思議)

2ヶ月前 No.784

★E6vycvPYvN_pzR

夢(寝ているときのね)って、経験したこと以外のことは出てこないのかしら?

わたしが言う「経験」っていうのは、体験のようにその時空で実際に体で感じた(知った)こと以外にも、これまで生きてきたなかで、誰かから聞いた話とか、本で読んだこととか、・・・も含めてねのことね。


>778
「人間が考える知性は幻だよ。」
「知性」を、人間が考えること、って決めつけちゃうと現象学は、幻に見えるのかもね。
事実性から見ると人間の「知性」は「考えること「」だけじゃないって見てるけど、わたし。

2ヶ月前 No.785

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

およぐちゃん

安倍晴明陰陽師の塩とお札で毎晩苦しめられていた夢を全く見なくなったというのが・・不思議でたまりません・・

2ヶ月前 No.786

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

宿題さん

家の霊界、宿題さんの霊界が上がったのかも。

落ち武者の霊も近寄れなくなった?

2ヶ月前 No.787

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

空の光さん

5年前までは・・たまに瞑想するとお釈迦様の修行が浮かんでいたのに

今はたまに瞑想すると・・大平原や・・天使さんたちが飛んでいる姿が浮かびます・・

家には・・聖書が置いてあるようになりました・・

2ヶ月前 No.788

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

宿題さん

不思議な体験をなさる方ですね・・・

霊界の様変わり・・・聖書の中に天国でしょうかね?

2ヶ月前 No.789

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

空の光さん

聖書の第一部の書き出しは・・「・・地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、・・神は仰せになった光あれ・・」

この文章を一目見て『只者ではない』と

ははぁーと聖書に膝を曲げ頭を下げます。

2ヶ月前 No.790

空の光 ★Z7VEMggjrv_m9i

宿題さん

ふさわしい場所に置かないと?
我が家もなぜか聖書があります。。。置き場所は他の雑な本と一緒。だめかなぁ?

2ヶ月前 No.791

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

空の光さん

本はいつも手に取れる所に置いておかないと・・

2ヶ月前 No.792

★E6vycvPYvN_pzR

あら、ここ、”老人クラブのつどいの場”的だったのね、わたし勘違いしてたみたい。ごめんなさい。

ほか、さがします。

2ヶ月前 No.793

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

およぐちゃん

死んでいった先輩の人たちの一言一言が今沁みてるわ〜

2ヶ月前 No.794

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