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現象学について一緒に勉強しましょう

 ( 哲学掲示板 )
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6面 ★efQcIspQ25_Dcn

なかったので立てました。
現象学的なことについて質問したり主張したり議論したり勉強したりメモ書きしたりしましょう。

このスレッドで言う現象学とは、現実の現象、特に自分自身の体が体感しているような身近な現象、を哲学的に解明しようという試みです。


既に現象学という専門用語をご存知の人は、その意味を狭義の現象学と考えて、ここではより日常的、時には素人的に、そしてその分、より広義に現象学というものを広げて捉えて参加していただければいいかと思います。もちろん、専門的な現象学の話がメインになることが私(スレ主)としては望むところですが、専門用語が素人への配慮なしに飛び交うような形は避けたいところであります。

現象学とは、学問的にはハイデッガー、サルトル、メルロー=ポンティ、レヴィナス等の携わった学問という風に位置づけられているようです。
ここでは、そのような学問的実情に関係なく、幅広い意味で「現象学」という言葉を使っています。
ですから、ここでは、哲学者としてデカルトやヘーゲルやアルキメデスなど誰を持ってきて議論しても問題ありません。このスレのテーマの範囲内である限りは。
たとえば、医学や解剖学的な話なども歓迎です。

ではどうぞ。

8年前 No.0
メモ2010/11/03 21:01 : 6面★efQcIspQ25_Dcn

・ちなみに現象学で扱うテーマは、直接的には知覚や意識や感情などです。間接的には、この世界、時間、空間、物などということになります。

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宿題 ★eM1n2yJmTo_Hhd

およぐチャン

無を感じたことがありますか?

2ヶ月前 No.422

うさぎ ★ZRdTZlsZt7_UHY

>421 さん


現象学は全く知りませんが、現象学の主語は「みんな」ではなく、「個人」とか「私」じゃないかと何となく思いますね。
現象とか実存(今・ここ・私)という言葉は主人公がワタシ ですよねえ? みんなとか国家・集団ではなくてね?

そこんとこ、どうなんでしょうか?

2ヶ月前 No.423

★4bCZtdgyrf_M0e

>422 おばあちゃま、

無は感じることはできなんじゃないかしら



>423ウサギちゃん、

そうかもしれないし、そうでもないかもしれない。

国家や集団は人々だし。根源を見つけ出そうとするとき、やっぱ人間そのもの。
でも、わたしが考えている「私」の内には他者がいるし。

『知覚の現象学』から次に書き出してみます。

2ヶ月前 No.424

★XoklxuXO0S_M0e

『知覚の現象学』 序文

「現象学とは何か。フッサールの最初の諸著作が世に出てからもう半世紀もたつのに、今なおこんな問いをたてねばならないことは、一見、奇妙なことと思われることかも知れない。しかしこの問いはいまだ解決されてはいない。現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識の本質などを定義することによって解決されるはずである。しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するしかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生じるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だって、破棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。・・・」

1945年の書物です。

2ヶ月前 No.425

★XoklxuXO0S_M0e

わたしの物語のつづき

なんども書いてるけど、「言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見し、その沈黙を破る身振りを描き出さない限り、人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。」というメルロの指示にしたがって、いろいろなものを調べてみたなかから、



人の一般的に生れてから3年間の世界

0〜1歳
1)進化の過程で獲得してきた古い脳の記憶を思い出す期間
2)脳に自分の身体の使い方を覚えさせてゆく
3)脳は自分がこれから生きてゆくこといなる外界を確かめてゆく
4)脳に外界との関係をインプットしてゆく
  ーーこうすればこうなる、という関係を楽しむかのように
*生後5ヶ月頃に感覚が完成する。

1〜2歳
*1歳になるとひとりで立ち、歩けるようになる。
1歳3ヶ月頃
*「ママ」「マンマ」など、一語文(言語第一期)
*カテゴリー化始まる。
*時間的順番の理解。
*語の理解(語の生産より3ヶ月先行)
1歳6ヶ月
*歩行は完成し、自由に歩き走る。
*ものの分類から命名へ(言語第二期)
 ものに名前があることを知り単語が増える。
*名詞・動詞・形容詞の区別ができる。

2〜3歳
*「コレ ナニ?」「ナンデ ソウスルノ?」という疑問形をてがかりに語彙を自ら増加する。
*過去・現在・未来の区別ができるようになる。
*文章は単文(言語第3期)
*助詞の使用で主文と従属文を語る(言語第4期)
 「寒いから火にあたるの」
*3歳になるとエピソード記憶始まる。


情緒や社会性などは省略して、ざっと、こんな感じみたい。

これらは事実性だと思うし、これらの能力は誰からか教わったものじゃないよね。
先験的、ア・プリオリ的よね。ここに「私の意志」というものがどこにあるのかしら。

人間の身体よね。

2ヶ月前 No.426

宿題 ★eM1n2yJmTo_Hhd

およぐチャン

知覚の現象学の抜粋部分は・・他の本でも読んだような・・

私は2歳で私と祖父を映像化できました・・私が私を外から認識出来理解出来ました・・

2ヶ月前 No.427

銀貨 ★Android=xp41AM4B2k

 男と女でも違うと思う
 俺わ保育園で先生が鬼のお面で俺らを追い回す
 イベントで弟が狙われた時に俺も恐かったけど
 立ちふさがったよ
 自慢気にうる覚えている
 それって恐怖を乗り越えるって事象だから
 関係ある話?

2ヶ月前 No.428

宿題 ★eM1n2yJmTo_Hhd

銀貨さん

父親は初めての記憶は近所の人に飴玉を貰ったことだそうです・・

私は祖父の死に際・・

初めての記憶が差が有り過ぎます・・

2ヶ月前 No.429

duradura910 ★Android=xp41AM4B2k

 俺わジャンキーで価値観変わってしまったらからな
 婆ちゃんの式と友達の式{出れてない
 感覚が違う こんな人でなしまかり通る社会
 日本の崩壊スイッチあったら即ポチる
 ジャンキー離婚多いや?そゆこと

2ヶ月前 No.430

宿題 ★eM1n2yJmTo_Hhd

duradura910さん

アメリカからコンピューターが入り込んで2度目の敗戦です・・

日本・・心の焼け野原状態でしょう・・

2ヶ月前 No.431

venom彗星 ★Android=ewD0YmG8LT

 戦争わ起こり得ないそのハッキング
  ライク宮殿バッキンガム

 本能ストレスですね
 事故につながる・・・全体集合号令いつかな?

2ヶ月前 No.432

★zIftTYWp51_M0e

>425、ちょっと間違えちゃいました。
「超越的な哲学」じゃなくて、「超越論的な哲学」です。(ちょっとどこじゃなかったみたい)

>426に連関して、

「超越的」というのは〈キリスト教的神や、死後の魂の永遠などになど、人間の認識をこえるものに関すること〉のことで、
「超越論的」というのは〈神のうちでの人間の理性の限界のうちで、人間が神を認識しようとすると誤った現象となっちゃって、また人間が物理学的真理を認識することができるのはどうして?ということに関すること〉みたい。

中島ちゃんのカント(N-K)についてのをちょっと書き写して見ます。

N-K1
カントの問いをやや普遍化して言い換えるならば、「物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが「超越論的」なのである。

これの、わたしの見方は、

カントは「物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができる」とし、そこから「それははなぜか」、と問うていて、このような問いに関わることが「超越論的」なのである。

ってなります。

2ヶ月前 No.433

★zIftTYWp51_M0e

>427
ねえねえ、おばあちゃま、

私が私を外から認識するのって、どうやってやったの? で、理解出来たその私ってどんなのだった?

わたしの場合、あのころの私、よく覚えていない。

2ヶ月前 No.434

宿題 ★eM1n2yJmTo_Hhd

およぐチャン

2歳の自分をビデオ録画しているみたいに

その祖父の死に際の祖父と私が頭に画像で生々しく記憶として浮かびます・・

2ヶ月前 No.435

venom☆cIR17jqV7HQ ★Android=6wCp7V6xQ9

 物にわ形がある それになんらかの影響
  形が変化する!ということが超越論
 でわないのですか?
  予想通り事が進まないことも超越論かな

2ヶ月前 No.436

★fWfia4HHbr_M0e

>425のつづきをもうちょっと書いときます。

現象学は、「厳密学」たろうとうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を願慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようという試みである。

2ヶ月前 No.437

★fWfia4HHbr_M0e

ここ、ずーっと、とっといてくれるから、いいね。

わたしの物語は、わたしの思いつきのお話。これを〈ぴろぴろ〉っていいます。これからは物語じゃなくて、ぴろぴろってします。

このなが〜いお休みのときにいっぱいぴろぴろしたので、今日はちょっと長めに。


わたしのぴろぴろの資料になっているものに記号を付けておきます。

メルロの書物を、M、
『行動の構造』−MC
『知覚の現象学』−MP
『見えるものと見えないもの』−MV
フッサールの『デカルト的省察』−FD
小牧氏の『カント』−KK
中島ちゃんのカントをNK

いちいち書くのめんどうだからね。


>435
おばあちゃま、
それって、いまでしょ。

2ヶ月前 No.438

★fWfia4HHbr_M0e

FDのなかには、「超越論的」っていう語がいっぱい出てきます。ちょっと抜き出してみると、
超越論的現象学、超越論的還元、超越論的経験、超越論的感性論、超越論的観念論、超越論的構成、超越論的自我、超越論的主観性、
なんか、お経を唱えているみたい。

「超越論的」って言うの、言いだしっぺはカントみたいだけど、フッサールはこの語をカントとは違う意味で使っているのよ。
このふたりの「超越」の見方が違うのね。(ところで、超越的がなくなると超越論的自体、なくなるよね)

まったく、フッサールも他人の言葉だけ借りて、意味が違うんだから、話をややこしくしちゃって、こまったもんだわ。

わたし、フッサールの「超越論的」を「原初的自然的」って言い直して見ている。
たとえば、「超越論的現象学」は、「原初的自然的現象学」って。

「原初的自然的」ってながいから、このごろ、これを〈ぷりぽん〉って呼んでいます。
ぷりぽん現象学ね。

ぷりぽん現象学は、私を遡って(現象学的還元して)、ぷりぽんの世界を見ようし、それを描き出そうとすることね。
メルロの「言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見し、そして、その沈黙を破る身振りを描き出すこと」ね。
これ、何度も書いてるから、これにも〈M03〉って言う記号をつけておきます。

ぷりぽんは、ぷりぷりとぽんぽんに分節されるんだけど、ぷりぽんについてはまた後で。

ここで、ちょっとカントをのぞいて見ます。

2ヶ月前 No.439

★fWfia4HHbr_M0e

KKより、中島ちゃんのカントと現象学について  (どっかで書いた気もするけど)

(1)ドイツ語におけるErscheinung「現象」には「真」という意味は含まれておらず、またSchein「仮象」も「仮」という意味を特に担っていない。Phanomenologe「現象学」という用語をはじめて使用したとされるのがランベルトである。彼の現象学というのは「仮象の学」にほかならない。この場合、仮象という概念に「真」に対する「偽」という意味は含まれていない。仮象とはあくまで真偽以前の「中間物」であり、なにごとにせよ、見えるがまま・現れるままの事柄である。

(2)カントは、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義語である。

(3)ドイツ観念論は、ヘーゲルによる「意識の経験の学」としての「現象学」を含み、科学的認識を取り入れた。正しい現れ(=現象)と誤った現象(=仮象)という、カントの現象と仮象の区別を受け継いでいる。

(4)フッサールによる「現象学」は、現象という地平を獲得する方法論を洗練させながら、「Shein=現れ」すなわち「中間物」であるランベルトの視点を取り戻している。

(5)カントにおいて、現象はわれわれには未知の物自体の「現れ」として捉えられているが、現象学において、現象とはわれわれに未知のXが「現れる」ことではない。われわれにみずからその通りに告知する作用である。

(6)現象学にとって、現象と現象の背後世界との関係が問題となるのではなく、むしろいったんあらゆる(物理学のような)事実学を遮断して、こうした「現れ」の世界を記述し、次にこうした現象学による事実学への関係づけが問題なのである。

(7)すなわち、カントが物理学のうちに認められるア・プリオリな総合判断をみずからのうちにも含むような学として形而上学を目指すのに対して、フッサールははむしろ物理学などの事実学を排して、「現れ」(Schein)に戻ることにより開かれる現象学的地平を目指していると言えよう。

中ちゃんはこう見ているよ。

わたしがちょっと気になったのが「中間物」っていう表現。中間物って言うかぎり、何と何の中間物として見ていたのかしらね。

2ヶ月前 No.440

★fWfia4HHbr_M0e

ア、ごめんなさい、>440、KKじゃなくて、NKのまちがいです。
きょうはもちょっとぴろぴろしたのを。

KKより、
カント(1724~1804)が生きた空時ーー当時のキリスト教的信仰、形而上学、自然科学の関係 (これもどこかで書いたきがするけど)

若き学研の徒カントは、自然研究ないし自然哲学者として出発した。初期の論文のほとんど数学、物理学、天文学、自然地理学などに関するものであった。それは当時の学界の風潮そのものであった。

近代になって、自然科学は著しい進歩をとげてゆく。
当時の自然科学は、数学や物理学などを学の模範とし、自然現象を機械的・力学的・科学的に捉えようとする。経験的な実験や実証を用い、数学を適用してゆく。(蒸気の利用に関する発明は、やがて産業革命の大きな力となっていった)

自然科学の発達は、キリスト教的信仰にとって、また形而上学にとって、大きな脅威となっていった。
(キリスト教的信仰は、自然ないし自然現象を神によって説明しようとし、哲学も信仰をよりどころとしていた)

哲学も学である以上、自然科学の影響を受けずにはいられなかった。学の典型というべき方法が哲学にも適用された。

・デカルト(1596~1650)は、「われは考える、ゆえにわれあり」として、考える我を根本において、考える我をもとにして神を考えた。
・スピノザ(1632~1677)『幾何学的な方法によって論証された倫理学』。彼は自然そのものを神とみなした。自然の秩序そのものを神とし、自然の外にそれと異なった神を考えなかった。それゆえ彼は自分の属するユダヤ教からは破門され、無神論者とされ、『倫理学(エチカ)』は生前に刊行することはできなかった。
・ニュートン(1643~1727)『自然哲学の数学的原理』
・ライプニッツ(1646~1716)は、互いに無関係な無数の単子(モナド)によって世界を説明し、その単子の間における神の予定調和説を説いた。

このように哲学者たちは、自然科学との調和・統一を考え、神、霊魂、世界全体など、形而上学的なものを、たとえば数学的な方法などを用いて、合理的に説明しようとした。つまり、合理的な形而上学を目指した。


ざっと、このようなことだったみたい。

ここでわたしが気になるのは、どうして哲学者たちは自然科学を脅威と感じたのかしら、っていうとこ。
massの価値?


ちょっと疲れてきちゃった、今日はこくらいにしておこっと。

2ヶ月前 No.441

宿題 ★eM1n2yJmTo_Rb6

およぐちゃん

哲学の始まりからしたら面白いですよ・・

いきなり完成形をドーンと出されても・・

世の中が現象?   原始哲学の地球は亀と象が支えている位のお伽噺ですね・・

2ヶ月前 No.442

★UfwmAiZVAD_M0e

>442

世の中が現象?

そうなのよ、おばあちゃま。



>439で、わたし〈ぷりぽん〉っていったけど、〈こんぷりぽん〉もあったから、〈あぷりぽん〉にしておきます。

わたしのぴろぴろを続けます。
えーっと、カントの覗き見ね。

1ヶ月前 No.443

★UfwmAiZVAD_M0e

カントのtranszendental,「超越論的」、抜粋、まとめ

NKより、
(1)「超越論的」は「超越的」transzendentと不可分の概念である。
(2)「超越的」とは、神や死後の魂の永遠など、人間の認識を超えるものに関すること。
(3)この基本構図を残したまま、
a.人間の認識の限界を定める。
b.その限界の内で、夢、錯覚、妄想、印象から、客観的な実在世界を区別する。
c.超越的なものを捉えようとすると、人間理性は必ず仮象に陥る。
(4)人間理性の内から、経験を可能にする諸条件を見いだし、それによって、可能な経験(客観的な実在世界)を構成する、という手続きに関するすべてが「超越論的」と呼ばれる。

KKより、
(1)普遍的・必然的な真理(科学的な先天的総合判断)は、われわれが外のものを、正しく模写するところに成り立つのではなく、逆に、われわれが、みずからの先天的な形式によって、自発的につくりあげたものについての判断なのである。
*「先天的」とは、経験的ではなく、経験を超えて、という意味。
*「総合」とは、分析ではなく、性質の異なったものをあわせ結びつける、という意味。
(2)みずからの能力による自発的な構成であるかぎり、その構成は主観的であると言えよう。しかし、経験の対象が存在するかぎり、いつでも、そこに、形式的な総合が作用していなくてはならないとするならば、それは同時に客観的である。
(3)経験や真理を可能にする人間の先天的な能力、先天的な形式とはいかなるものか。〈それ〉によってどのようにして対象や経験を構成してゆくのか。対象の素材とは・・・・
  [この先はカントの現象へと続くのですが、ここでは省きます]

FD(訳注)より、
(1)transzendental:元来カントが『純粋理性批判』で用いた語である。カントにおいては、「対象にではなく、対象を認識する私の認識の仕方に、この認識の仕方がア・プリオリに可能であるはずであるかぎりにおいて、これに一般に関与する認識」が「超越論的」と呼ばれる。それは「超越的transzendent」の対概念として使われるので「超越論的」と訳されるが、同時に「経験的empirish」の対概念としても使われるため、「先験的」と訳されることもある。
(2)「超越論的」と「超越的」とは、対をなす相関的な概念である。「世界の超越性」に属するのは「超越的」と呼ばれ、その根拠に関わる問題が「超越論的」と呼ばれる。


みたい。

小牧氏は「超越論的」という訳ではなくて「先天的」ってなってる。
カントにおける「transzendental」って言う語は、日本では「超越論的」または「先験的」であるらしい。
わたし、神は想定していないから、神の根拠に関わる意味での日本語の「超越論的」はナシね。残るは、「先験的」あるいは「先天的」って言う意味でのもの。

1ヶ月前 No.444

★UfwmAiZVAD_M0e

ぴろぴろつづき

わたしの課題は「私とは何か」。
「あなたはだれですか?」って聞かれたときの、「わたしはだれ?」っていう、わたしがわたしに問うこと、これね。
わたしがわたしを、イデーン。
これって、けっこう難い。

つぎに、わたしの課題からの視点でまとめてみたのを

1ヶ月前 No.445

★UfwmAiZVAD_M0e

「私」についての流れ

(1)デカルトは、私を発見した。

でも、
FDより、
デカルトは、せっかく発見した「我」を「世界の小さな末端」とみなしてしまった。デカルト自身「私が事物の総体(宇宙)の部分をなすに過ぎないということを否定することはできない」と述べている。
MCより、
〈我思う〉によって開示された意識の世界、〈知覚〉さえも統一のなかに含むはずと思われた意識の世界は、思考の世界にすぎなかった。


(2)カントは、私の外にあるものものは、私の内の現れであるとした。

kkより、
「われわれの外にわれわれから独立して自然の対象があるのではなく。われわれがそういう対象をつくりあげてゆくのだ。われわれの先天的(ア・プリオリ)形式が自然の対象を、経験をつくりあげてゆくのであって、その逆ではない。」

FDからのわたしのぴろぴろ
P1.カントが言う「経験」とは、あくまでも自然科学者における経験のこと。だから、現れもそれに沿うように志考してゆき、外感・知覚の領域に理・考の働きである悟性(カテゴリー)を挿入しちゃった。
 kkより、「実は、感性の時間・空間的形式によって感覚が整理されてゆく際、すでに悟性が働いていたのである。」
p2.カントが自然科学者におけるそれを考えていたのに対して、フッサールは自然的人間における現れについて考えている。
p3.カントの「超越的」を、私や私の外にあるものものの”外に”おいていたのに対し、フッサールは「超越」を私の”内に”おいている。
ーーこれじゃ「超越論」も当然変わってくるわけね。
p4.フッサールの超越は、外感・知覚の世界。


(3)フッサールは、自然的人、一般における、生(なま)の私(自分自身)へと志考する。


 現象学のキーワードは、
 志向性における地平と、エポケーのうちに還元。

 わたしは、現象学的還元によって、あぷりぽんの世界へ、
 そして、メルロは、わたしに身体性をぴろぴろさせる。


メルロも、カントについて言っているけど、それはまたね。

1ヶ月前 No.446

宿題 ★eM1n2yJmTo_dzt

およぐちゃん

時間と空間を超越した・・永遠はあると思いますか?

1ヶ月前 No.447

うさぎ ★qftddWBuSo_UHY

>446  游 さん

現象学についてのおもしろい見方ですね? まったくの素人ですが現象学は観念論によく似ていてまったくの

イコールかと思うくらいですねえ?私は日ごろメガネをかけていますが(近視)雨降りの日に眼鏡のレンズに泥がついてしまった。

この場合に私が見るものすべてが歪んで見えてしまいますねえ?  これも現象の一種でしょうか? でしょうね(笑

わたし一人の現象?

1ヶ月前 No.448

★co6MOM2Qgd_M0e

>447
おばあちゃま
いつ、どこで、だれにでも、っていう普遍性ていうのはあると思う。
ところで、永遠って、始まりあるの?

>448
うさぎちゃん
現象学って、観念論だったり、実在論だったりするみたい。
現象っていうのは現前の現れ、、学っていうのは見えるようにすること、ってしてる。
ところで、メガネかけていなかったら歪んで見えるのかしら?
メガネはずしたらぼやけちゃうけど。

1ヶ月前 No.449

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

およぐちゃん

カントさんで問題の部分です・・

始まりがあれば終わりがありますが・・

永遠には始まりも終わりもありません・・

1ヶ月前 No.450

★co6MOM2Qgd_M0e

ぴろぴろのつづき

「超越論的」について、カントののとフッサールのとを見てきたけれど、
ひとまず、カントのを「神的」って見、フッサールのを「原初的自然的」って見、
カントの「超越論的観念論」は「神的観念論」、フッサールの「超越論的現象学」は「原初的自然的現象学」ってなる(ちょっといいかも)。

メルロもカントについて書いている。

で、KKとMCで、「机」や「三角形」について書いてあったところがあったので、比較してみます。
もっともKKのは、小牧氏のカントについてだから、まったく比較はできないんだけど。

1ヶ月前 No.451

★co6MOM2Qgd_M0e

「机」について(1)

kkより抜粋

@いま、現前にある机は、われわれに見られ、感じられ、触れられている数々の所与をもとにして、われわれがまとめあげて、机として確認している対象である。われわれにとって捉えられた机という姿であり、現象である。したがって、それは机そのものではない。

Aわれわれに与えられている素材がどこからくるのか、いわば机そのものとはどういうものなのか、机の本質というべきものは何であるのか・・・それらは、われわれ人間にはわからない。それは。われわれ人間の知的能力(科学的な知的能力)のおよびえぬところなのである。

[人間には素材そのものまでもつくりあげることは許されていない。人間は、人間に与えられてくる材料をまとめあげる(総合する)働きをするのであり、それだけであり、それ以上ではない。]

Bわれわれの知的能力のおよびうる範囲は、経験的世界についてだけである。したがって、その世界を超えて考えることはできない。

[経験によって与えられくる素材をくみたて、まとめあげ、まとまりのある経験的世界や自然的対象をつくりあげてゆく。経験的世界ないし、自然に関する人間の知識、判断は、真理であり、先天的総合判断であることができる。このような真理ないし判断は確かに経験的なものではない。しかし、経験をはなることはできない。経験から生いじるのではないが、経験をはなれ、経験なくしては成立しない。したがって自然科学的な真理は経験の範囲をこえることはできない。]

Cこの世界を超えて天がける思考は、空想や妄想でありえても、真理であることはできない。


@、Aは、カントの自体存在、物自体の思想とされ、フッサールは、これに騙されちゃだめよ、っていってるみたい。
もた、ここのところは、>440-(5)のことだと思う。

Cは、>444のNK-(3)-cのことだと思う。


次にメルロの机について、だけど、ちょっと疲れちゃったから、またいつka.

1ヶ月前 No.452

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

およぐちゃん

意識にこだわっていたらトンネル掘っているような・・哲学的に飛翔はできないでしょう?

1ヶ月前 No.453

★JfQ2EcEm57_mgE

>453
意識にこだわってるんじゃなくて、どちらかというと、身体のほうよ
おばあちゃま。

1ヶ月前 No.454

★TZrqGoGOFX_mgE

>452のつづき

メルロの机について  MCからの抜粋

もし直接的意識の告げるところに従うならば、私がその上で書いている机、私がいまいる部屋、私の感覚の向こう端でぐるっと私をとりまいて閉じあわされているいる壁、路地、街、最後の私の空間的地平ーーこういったものは、私がそれらにもっている知覚の〈原因〉としてーーつまり、私のなかにそれら諸対象の印を刻みつけたり、あるいは一種の他動詞的作用によって、対象そのものの象を生み出す〈原因〉としてーー私に現れるのではない。

むしろ、私の知覚は、対象をその在る場所に開示し、それまで潜伏していた対象の〈現前〉を顕にする光の束のごときようなものであるように思われる。(光の束ルーミナ:この言葉の単数ルーメンlumenは、もともと〈光〉の意味。その複数ルーミナは〈目の光〉〈目)の意味)

もちろん、その机についての私の現在の経験は完全ではなく、机はおのれのいくつかの局面しか見せないものだということを私は知っている。色であれ、形であれ、大きさであれ、それらは照明とか、観点とか、私の位置とかを変えるにつれて変わるものである。けれども、直接的意識においては、私の認識のこうしたパースペクティヴ的性格が、意識とって偶然的的なもので、〈私の身体〉や〈意識の固有な観点の存在〉にからむ不完全性として受け取られることはないし、「射映」による認識のも、対象の可能的局面の全体を一目で捉えるような〈真の認識〉の堕落形態として扱われることはないのである。


常識の見解、つまり、知覚的経験との区別ーー話された知覚と生きられている知覚の区別ーーぐらいはしておくべきであろう。かわりに私が話すことも、反省することもなく、ただ対象のなかで生きるときに、私に現れるがままの諸対象に立ち返って、そのあり方を忠実に記述しようと努める。


メルロは、
直接的、原初的、感覚的、素朴的、初発段階のーー意識
原初的、直感的、直接のーー認識
などと言っている。
このような意識や認識が問題ね。

1ヶ月前 No.455

宿題 ★sicIy89Ne4_l7r

およぐちゃん

存在とは闇の中にスポットライトが当たった所だけではないでしょう?

1ヶ月前 No.456

★TZrqGoGOFX_mgE

>456
おばあちゃま

「存在」っていうのよくわからないけど、
存在する、っていうことは〈闇の中にスポットライトが当たった所だけ〉じゃないと、わたしも思う。

現象学でいえば「地平」かな。

白いTシャツに付いているオレンジ色の染み。
あ、昼にナポリタン食べたんだっけ。

こんな感じ。

1ヶ月前 No.457

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

およぐちゃん

存在は歴史という継続の背後や空間を超える・・までがあるから

少なくとも現前だけでは無いでしょう?・・

1ヶ月前 No.458

ズルい彗星 ★Android=R6tRrggY3i

>>オヨグちゃん

はじめまして{ペコリ

>>姉さん

哲学スレわ個性が強くて が全読み勉強したいのですが
やはり元気が出ないぜーーーーーーーー

1ヶ月前 No.459

★bIYvuKMaGO_Zos

おばあちゃま
>458、よくわかりません。
「存在は、・・・少なくとも現前だけでは無い」っていうことをいいたいのかしら?
それとも、「存在は経験できない」っていうこと?
そもそもわたし、「存在」については考えない。
「存在する」についてはいろいろ考えてるけど。

1ヶ月前 No.460

★bIYvuKMaGO_Zos

>455のつずき
今度は三角形ね

KKより抜粋
「三角形の内角の和は二直角である」という判断を考えてみよう。この場合、三角形、内角、内角の和などの主語をどこを分析してみても、二直角という述語はでてこない。これは、主語にまったく新しい意味内容を付加し、主語の含む内容を増加したのである。こういう判断を、カントは「先天的総合判断」とよび、これこそ真の真理的な判断であるとなした。
そこで、普遍性と必然性をもった真理はいかにして可能であるのか、という問いは、「先天的総合判断はいかにして可能であるか」という問いとなる。いま、ここで自然科学的な真理が問題であるとするならば、問題は「自然科学的な先天的総合判断はいかにして可能であるか」ということになる。

カントは『純粋理性批判』では、まず、自然科学での知識の正当性、真理性(正しいゆえん、真理であるゆえん)、自然科学的真理の性格の批判・検討からはじまった、そしてその性格を、普遍性あるいは一般性(いつ、どこで、だれにも通用する性格)と、必然性であるとした。

ということです。
KKでは「超越論的」じゃなくて「先天的」ってなってるけど、transzendentalの訳だと思う。


メルロの三角形では、
MCより抜粋
私が三角形を「見る」とき、〈私はある感覚与件について、三角形というものを概念的に表象し、あるいは理解しているのだ〉と言うならば、それは私の経験をきわめて、不正確に記述していることになろう。そもそも意味というものは、〈受肉〉しているものだからである。概念作用は、三角形を永遠の存在として、つまりデカルトが言ったように、私がそれを知覚しているという〈事実〉には何ものをも負わせないような〈意味と特性〉をもつ存在として私に与えるのに対して、私はまさにいま、ここで、三角形そのものを知覚しているのである。

って、ありました。
〈受肉〉っていうのがいまだ捉えられていないけど。
肉ずけ?太っちゃうっていうこと?

1ヶ月前 No.461

★bIYvuKMaGO_Zos

たまたま、机と三角形についてカントとメルロがかいてあったので、比較するために抜粋してみました。

ここで、カントの「超越論的」についてわたしの見方を整理して見ます。

1.「超越」を〈神〉とし、「超越論的」を〈神論的〉って言いかえて見る。
2.カントの「現象」は、あくまでも「正しい現れ」「自然科学的真理の現れ」のこと(カントは誤った現われを「仮象」としているから)。
3.カントの「経験」は、「自然科学的経験」のこと。
4.(>444にあったように)<「世界の超越性」に属するものは「超越的」と呼ばれ、その根拠に関する問題が「超越論的」と呼ばれる>とすると、神的なものの根拠に関する問題について論じること、これが「超越(神)論的」っていうこと。
5.「超越(神)論的」は、神に対する人間の認識という構図の上に、人間の、自然科学的認識を真理と見なし、そこに神の仕業を見ている。

ま、こんな感じでいいかも。わたし哲学者じゃないし、ふつうのひとから見るとこうなるのね。

ぴろぴろ
カントは、神に対する、人間の自然科学的経験的認識(真理)は、”アプリオリでなくてはならなかった”んじゃないかしら。
だって、神論的だから。

もうちょっとカント「超越論」についてぴろぴろしておくつもり。
でもね、これはあくまでもメルロを知るための寄り道。

1ヶ月前 No.462

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

およぐちゃん

多くの哲学書は他の哲学者の悪口がいっぱい・・悪口と言っても・・批判なのです・・

カントさんもヘーゲルさんもデカルトさんも一杯批判されています・・

1ヶ月前 No.463

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

私の生きるためのイデーを探す。『キルケゴール、日記』

1ヶ月前 No.464

★WQ2RkXE8F9_Zos

>463
「批判」:鵜呑みにせずよく吟味すること、よね、おばあちゃま
どう批判するか、がもんだいよね。

1ヶ月前 No.465

★8N0x2wxuZ1_Zos

>462のつづき
わたし、カントについての本を読んだことあるけど、カントの本は読んだことないので、よくわからないんだけど。
もちょっと、カントについて、

カントの「超越論的感性論」について、FDとMCの訳注から抜粋してみます。

FD訳
A.カントは、空間と時間を「直感の形式」または「感性の形式」と呼び、それらは「こころのうちにア・プリオリに備わっている」とか「主観の性状として、主観のうちにその座を有する」とか述べていた。しかし、他方で、それらは「現象に関しては客観的である」とも言う。つまり、「経験的実在性」と「超越論的観念性」を同時に主張しているわけである。

MC訳注
B.カントにとっては、〈空間〉と〈時間〉とは、人間精神の主観的構造に属するものであり、感性(=対象受容能力)が働くばあいの基本形式である。したがって、それらは、認識主観を離れた〈物自体〉の性質や関係ではない。そこで、空間・時間は、われわれに〈経験〉されるいっさいのもの(=現象)に関しては客観的であり、空間・時間のなかに存在しないような対象は経験のなかにはないことになる。その意味で、それらは〈経験的実在性〉を持つと言われているが、他方、それらがわれわれの感性を離れて実在するものではないとすれば、経験を超えた実在性は持たないわけであり、そのことが、空間・時間の〈超越論的観念性〉と言われるのである。そこでカントは自分の立場が観念論ではあるにしても、それはあくまでも〈超越論的〉観念論であって〈経験的〉実在論ではないと主張している。

また、MC訳注で、カントの有名な言葉らしいけど、
C.「直感に与えられる多様な表象が、綜合されて〈ひとつの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられなくてはならない。」
みたい。

A,Bについては、いっぱいいっぱい考えたんだけど、
この辺に詳しい方がいらっしゃたら何かお願いします。

1ヶ月前 No.466

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

およぐちゃん

カントによれば、外部感官の形式は「空間」、内部感官の形式は「時間」である。

「空間」は、そのなかに外界のさまざまな事物が包摂されて存在するように認識することを可能にする形式である。

この時間と空間の認識形式で無い対象は受け入れられませんか?

1ヶ月前 No.467

★4zlaRUNn2g_Zos

おばあちゃま
〈カントによれば、外部感官の形式は「空間」、内部感官の形式は「時間」である〉ーー知りませんでした。
外部感覚って、たとえば、わたしがいまパソコンのキーボードを触っているっていうことで、内部感覚って、たとえば、おなかが痛いっていうときのことかしら。

〈無い対象〉っていうのも、わかんない。


今日は、>466の続きを書くつもり。
その前に訂正です。「直感の形式」って書いちゃいましたけど、「直観の形式」です。ごめんなさい。

17日前 No.468

★ElrayhRUCO_Zos

>466のA,Bをぴろぴろするまえに、彼らが使う語のわたしの意味をちょっと書いて見ます。

(1)subject主観・object客観

@わたしのテクストから、
1)主観は、対象を認識する主体の意識の働き。
2)主観の意識の作用が向けられたものが客観。
3)常識では、意識の外に客観が独立してあることが前提とされ、主観が客観に一致して認識が成立するとされている。しかし、カントは外界からの多様で無秩序な感覚的素材が、主観の理性的な認識法則によって統一され、主観の思考法則を基準にして、客観的対象が構成されると説いた。
4)唯物論では、物質的存在としての客観は、意識から独立して存在し、主観はそれを反映する二次的なものであると説かれる。

とのことです。ところで唯物主義では、身体をどう見ているのかしら?

A英語辞典から、
sub-:下、下位、次
subject:支配される、従属する。[哲]主体、主観、自我、原因。
subjective:主観の、主観的な、個人的な。
object:物体、もの、対象、目的(物)。[哲]客観、対象、実在、物質的な。
objective:客観的な、実在の、物質的な、外的な。

subjectの支配される、従属する、が最初よくわかんなんなかったんだけど、「神」を「主」としている人たちにとっては、私は神に支配される存在になるのねーーこれで意味がわかった感じ。たぶん。

Bわたしの見方
「主」は〈するもの〉、するもの(主)に対して〈されるもの〉あるいは〈させるもの〉が「客」。
「観」を観念とし、「観念」は〈思・考されたもの〉〈思・考したもの〉。
ちなみに、「認識」は〈思・考〉〈思・考すること〉。だから「観念」は〈認識された(した)もの〉とも。
これから、「主観」とは、〈するものに思・考されたもの〉〈するものが思・考したもの〉。「客観」とは、〈されるもの(させるもの)に思考されたもの〉〈されるもの(させるもの)が思考したもの〉ってなる。

ここでももんだいなんは「私の外にあるもののは、私のうちの現れ。」ね。この見方では、客観も主観の内に存在するっていうことになる。そこでわたしはこれを〈主(客)観〉って言うことにしてる。これ、フッサールの「間主観性」からきちゃってるのかも。

ここで、たとえば、「主」を〈私、個人、人〉としたとき、主観は私観ってなり、〈私(個人)に思・考されたもの〉〈私(個人)が思・考したもの〉ってなる。「客」を私に対してされるものとして〈他のもの〉とすると、客観は他観ってなり、〈他に思・考されたもの〉〈他が思・考したもの〉ってなる。主(客)観で見て見ると、私(他)観だから、〈私の内で、他が思考されたもの〉〈私の精神の内で、他が思考されたものが、思考されたもの〉〈他が思考したものが、私の精神の内で思考されたもの〉〈他が私の内で思考されたもの〉〈他を私の内で思考したもの〉みたいな感じにんる。

ちょっとながくなっちゃたので。このつづきはあとで。

17日前 No.469

★ElrayhRUCO_Zos

もうちょっと用語の意味を

(2)対象
「対象」は〈aと言うものに対するbと言う象〉として見る。こんばあい対象はb。
「象」は〈精神のうちに現れているもの〉って見ると、「対象」は私の外にあるものじゃなくて、私の内にあるもの。

(3)直観、感性
直観と感性とは区別しておき、「感性」を〈外感-知覚>のことして見る。

(4)形式
「形式」を<法則>として見る。
*形式については別の見方もあるけど、それはあとで。

(5)ア・プリオリ
ア・プリオリは先天(生まれつき)的、とか、先験的、って訳されているけど、わたしのばあい<いつ、どこで、だれにでも>という普遍的とか一般的を含めることにする。だから「ア・プリオリ」とは<一般的・先天的なもの>。人・一般に、生まれつき備わってる、経験しなくても、誰かに教わったわけでもないのに、誰からも教わらなくても、自然と、できちゃうこと、っていう意味で、ア・プリオリ。
ある個人にしか生まれつき備わっていないものっていうのもあるかもしれないけど、これを個ア・プリオリとして、わたしの意味でののを人ア・プリオリとしてとりあえず区別しとく。


これで、>466のA,Bについてわたしがぴろぴろするのに、だいたい役者がそろったみたい。

17日前 No.470

宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX

およぐちゃん

何故主観は対象と分裂しているのですか?

思惟しない事によって思惟する無の豊満さは超存在と非存在と言う対照的な側面を持ちます・・

4日前 No.471
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