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現象学について一緒に勉強しましょう

 ( 哲学掲示板 )
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6面 ★efQcIspQ25_Dcn

なかったので立てました。
現象学的なことについて質問したり主張したり議論したり勉強したりメモ書きしたりしましょう。

このスレッドで言う現象学とは、現実の現象、特に自分自身の体が体感しているような身近な現象、を哲学的に解明しようという試みです。


既に現象学という専門用語をご存知の人は、その意味を狭義の現象学と考えて、ここではより日常的、時には素人的に、そしてその分、より広義に現象学というものを広げて捉えて参加していただければいいかと思います。もちろん、専門的な現象学の話がメインになることが私(スレ主)としては望むところですが、専門用語が素人への配慮なしに飛び交うような形は避けたいところであります。

現象学とは、学問的にはハイデッガー、サルトル、メルロー=ポンティ、レヴィナス等の携わった学問という風に位置づけられているようです。
ここでは、そのような学問的実情に関係なく、幅広い意味で「現象学」という言葉を使っています。
ですから、ここでは、哲学者としてデカルトやヘーゲルやアルキメデスなど誰を持ってきて議論しても問題ありません。このスレのテーマの範囲内である限りは。
たとえば、医学や解剖学的な話なども歓迎です。

ではどうぞ。

8年前 No.0
メモ2010/11/03 21:01 : 6面★efQcIspQ25_Dcn

・ちなみに現象学で扱うテーマは、直接的には知覚や意識や感情などです。間接的には、この世界、時間、空間、物などということになります。

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★30JjgxOVKX_ZFe

>359
すめんさま
話し相手ができそうで、うれしい。

わたしが読んだのは、岩波書店の浜渦辰二訳の『デカルト的省察』です。
同じ本ですか?

10ヶ月前 No.361

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kuu

同じ本です。

現象学がんばって勉強します。

10ヶ月前 No.362

★30JjgxOVKX_ZFe

>362
返信ありがとうございます。

10ヶ月前 No.363

★30JjgxOVKX_ZFe

この連休中は読書に耽っていた。
現象学については、わたしの場合、メルロの。お休み中のをいっきに、今日はここでお喋り、っていうか、メルロの「主観性の発見」の抜粋。

メルロは、
(1)『現代の哲学は、魂の存在、あるいは主観としての存在が、取るに足らない存在ではなく、おそらく存在の絶対的形式である、という考えを共有している。』
って見ているようです。

べつごとだけど、フーコーが以下のように言っていたのを思い出しました。

『西洋の近代の資本主義社会は、経済的・社会的条件において、人間に分裂を強いている。人間は言語をもち、言語において生きているが、その言語は他者の言語である。言語を語る人間は、言語において自己を見出すことができない。人間は労働して生産物を作るが、それは他者の労働に依拠し、他者による消費を目的とする。人間は自己の生産物に、自己を見出すことができない。このように分裂的な文化に生きている人間は、分裂病的な在り方以外の道を選ぶことができない。』
そして、
『近代の思考は、もはや〈相違性〉のけっして完成されることのない形成にではなく、つねに完遂されなければならならぬ〈同一者〉の解明に向かう思考である。こうした解明は、〈分身〉の同時的出現、さらに、「と」のなかにある、わずかだが克服しえぬあの偏差、そうしたものなしにはおこなわれないであろう。』

雰囲気的に何か似ているところがある感じ。
でも現象学の場合、これ以前の主観(わたし)の発現に留まっているよう。

以下、メルロの記述を小分けにして記してゆきます。

7ヶ月前 No.364

★30JjgxOVKX_ZFe

>364のつづき

『300年間に点在するいろいろな哲学を、主観性という旗印の下にひとまとめにするわけだが、共通点は何だろう。』

『まず〈自我〉、モンテーニュがなによりも好み、パスカルが嫌った〈自我〉である。日ごと丹念に記録され、その勇猛果敢、逃避、中断と続行、立ち戻りが書き留められ、未知のものとして試練にかけられ検証される〈自我〉。』

『次に、デカルトとパスカルの、考える〈私〉がある。この〈私〉の場合、自分に追いつくのはたしかに一瞬でしかない。しかし、その一瞬、〈私〉はその現れのなかにそっくりそのまま存在している。〈私〉は、自分がそれであると考えているそのすべてであり、他のなにものでもない。〈私〉は自分のすべてに対して開かれ、決して固定されず、自分の現れの中に自分の存在のすべてがあるというこの透明性そのものを除けば、いっさい神秘的なところがない。』

『ついで、主観性の立場に立つ一連のイギリス人の哲学者たちがおり、黙って触れれば、いわば自然な特徴によって、おのずから知られる観念がある。』

『また、ルソーの自分がいる。自分で「陰謀」を仕組んでおいて、その「陰謀」に自分が巻き込まれていると感じてしまう宿命を負いながら、それでもそんな宿命に負けず、決して腐敗しない自分の善良さを当然のように主張する、罪責と潔白の深淵である自分。』

『そして、カント派の超越論的主観がる。これは、心理の奥底に対してと同じくらい、あるいはそれ以上に、世界に対して近い、主観で、心理の奥底と世界とをまず構成しておいて、あとで両者をそれぞれ観察するのだが、自分が世界の「住人」であることを知っている。』

『またメーヌ・ド・ビランの主観がある。これは、世界の中で自分を知るだけでなく、世界のなかに自分がいて、動かすための身体をもたなければ主観でさえありえないような主観である。』

『最後に、キルケゴールの主観性がある。これはもはや存在の一領野でなく、存在にみずからを関係づける唯一根本的仕方であって、これがあるからこそ、われわれは、「客観的」思考によって事物の上っ面を眺めるかわりに、何者かであることができるのである。「客観的」思考は結局のところ本当は何も考えていないのだ。』

メルロは、「主観性」ということから、さまざまな哲学者の「わたし」を見ている感じ。いろいろ調べて見たんだけど、わたしにはよくわかりませんでした。
わかる人がいたら、説明おねがいします。

つづく

7ヶ月前 No.365

★30JjgxOVKX_ZFe

>365のつづき

(2)『以上のように統一性を欠いたいろいろな《主観性》を、なぜ一つの発見の諸契機とみなすのだろう。それよりもまず、なぜ《発見》と言えるのか。発見というならば、主観性は、哲学者たちがのちに理解するように定められていたそのままの形で、哲学者たちに先立って、すでに存在していたと考えなければならないのではないか。ひとたび反省が生じ、「私は考えている」という言葉が発せられると、存在についての思惟がまさにわれわれの存在そのものになってしまい、存在についての思惟に先行していたものを言い表そうとすると、どう頑張ってみても結局、反省に先だつコギト〔自分を振り返る以前に、すでに「私は考えている」〕という考えをもちださざるをえなくなる。しかし、接触がそれとして姿を現す以前に自己と自己とが接触しているとは、どういうことなのか。それは回顧することで生ずるまぼろしの一例ではないのか。それとも、そうした接触についての認識は、実のとこと、自分の生活をつうじてすでに自分を知っていたものへと立ち戻ることにすぎないのだろうか。しかしわたしは、言葉の本来の意味で、自分を知っていたとはいえない。となると、自分を有せず、未だ自己と合致していないこの自己感情(sentiment)とは何なのか。かつて言われたことだが、主観性から意識を取り除くことは、主観性を無に帰してしまうことである。だから、無意識の愛はなにものでもない、なぜなら、愛するということは、誰かを、その行為や振る舞いを、顔や体を、愛すべきものとして見ることだからだ。』

つづく

7ヶ月前 No.366

★30JjgxOVKX_ZFe

>366のつづき

(3)『しかし、反省以前のコギト(「私は考えている」という意識)や認識を伴わない自己感情は、それと同じ難しさをつきつけてくる。つまり、意識は自分の起源を知らないか、または、もし意識が自分の起源に達することを望むとしても、意識はその起源のなかに自分の影を映しこむことしかできない。いずれにせよ、《発見》という言葉をつかうべきではない。反省は反省されていないものを明らかにするだけでなく、反省されていないものをすでに変化させてしまっているのだ(たとえその変化が、反省されていないものの真理に向う変化であるにしても)。未知のアメリカ大陸が大西洋上の霧に隠れて探検者を待っていたのとは違って、主観性は哲学者たちをあらかじめ待っていたわけではなかった。哲学者たちは主観性を構築し、形成したのであり、しかもそのやり方は一つではなかった。彼らがやったことはおそらく解体されるべきなのだ。ハイデガーの考えでは、哲学者たちが存在の基礎を自己意識においた日から、哲学者たちは存在を喪失したのだ。』

つづく

7ヶ月前 No.367

★30JjgxOVKX_ZFe

>367のつづき

(2)と(3)には、はわたしが課題としている「私」にまつわるさまざまな語、「主観」「思惟」「自分」「意識」「認識」「自己」「自己感情」「自己意識」などが登場しています。
わたしのこころみは、わたしが描いた「私」の分節式、私 { 自身(体・脳)⇔自分〈他・自・己〉}を使って、メルロが言っていることを、わたしに見えるようにすること。

ちょっとわたくしごとを。わたしは、「私」と「わたし」を異なる意味で使っています。また、わたしにおいて、「私は考えている」は、「私の己は考えている」、もうちょっと細かく言うと「私の己の認知は考えている」となります。〈己〉は考えるだけではなく思うこともする場としています。「思考」はわたしにおいては「思」と「考」に分節され、「思う」はたとえば「わたしはあのひとのこと思う」などと感情的な場としています。〈己〉は〈我〉という語でも表言します。〈己〉を〈我〉としたとき、わたしにおいて、「我(己)思う」と「我(己)考える」はニュアンス的にちょと異なります。もっといっぱいあるけど、やめときます。

つづく

7ヶ月前 No.368

★30JjgxOVKX_ZFe

>367のつづき

(4)『しかし、こうした困難があるからといって、われわれは、《主観性》の《発見》について語るのを、やめるわけではない。どういう意味で《主観性》の《発見》というのか、それを考えなければならない。』

(5)『主観性の哲学としてまとめられる諸哲学の類似性は、それ以外の諸哲学とくらべてみれば、まずは明らかである。
主観性の哲学の間で一致しない点があるにしても、現代の哲学は、魂の存在、あるいは主観としての存在が、取るに足らない存在ではなく、おそらく存在の絶対的形式である、という考えを共有している。』

(6)『《主観性》の《発見》というタイトルは、このことを強調したいのだ。たしかに、主観の哲学に見られる多くの要素が、ギリシア哲学にすでにあった。いわく、「人間は万物の尺度である」(プロタゴラス)。自分が知っているものを知らずにおり、同時に、自分が知らずにいるものを知っていると言い張る。奇妙な力。真理を見出す能力をもちながら、間違いを犯すこともできるという理解しがたい能力。非存在との関係が、存在との関係と等しく、魂において本質的であること。こうした能力や関係を、ギリシア哲学は魂のなかで認識していた。さらにギリシア哲学は、自己についてだけ思惟する思惟があることを理解して(アリストテレスはこの思惟を世界の頂点においた)、われわれの力のすべての程度を超えて、根本的な自由があることを理解した。したがってギリシア哲学は、主観性を、闇としてと同時に光として、認識したのだ。しかし依然として、主観ないし魂の存在は、ギリシア人にとって存在の規範的形式ででないし、否定的なものが哲学の中心におかれているわけでもない。つまり、肯定的なものを出現せしめ、受けとめ、変形するという役割を、否定的なものが担っていないのだ。』

つづく

7ヶ月前 No.369

★30JjgxOVKX_ZFe

>369のつづき

(7)『これに対して、モンテーニュからカントまで、そしてそれ以降も、まさに主観としての存在が共通に問われてる。それらの哲学の間にある齟齬は、主観性が物でも実体でもなく、究極の特殊者であるとともに究極の普遍者でもある、という点に由来している。主観はプロテウスのようなものだ。さまざまな哲学が、主観性の変容した姿を四苦は八苦して追跡した結果、枝分れした主観性のさまざまな姿の下に、ある弁証法が隠れていることが明らかになる。主観性についての観念は、根本的には、二つしかない。空虚で、拘束を解かれた、普遍的な、主観性と、中身が詰まっていて、世界に足を突っ込んでいる、主観性という、二つの主観性である。例えばサルトルを見るとよく分かるように、無という同じ一つの観念が「世界へと到来し」、世界を飲みこみ、何であれとにかく何かしらのもの(たとえそれが無であっても)であろうとして、世界を必要とする一方で、存在に対してみずからを犠牲にしながらも、依然として世界に対する異分子でありつづけるのである。』

(8)『たしかにこれは、アメリカ大陸を発見したとか、カリウムを発見したとかという意味での、発見ではない。しかし発見にはちがいない。その意味では、主観についての思想が、ひとたび哲学に持ち込まれると、もはやそれを無視するわけにはゆかなくなった。ということである。主観についての思想を哲学が結局のところ消去するとしても、哲学は、主観についての思想が発見される以前の哲学では、もはやないだろう。真実は、たとえそれが作られたものであっても、あとになって、事実と同じく、堅牢なものとなる(アメリカ大陸も作り物であるが、ただ、無数の証言によって否定しがたいものとなった、作り物である)。主観の思想は、哲学がやがて消化しなければならない、固形物の一つである。別の言い方をすれば、哲学は、ひとたびある種の思想にいわば「感染」すると、それをなかったことにすることはもはやできない。もっとよい発明をすることによって、その感染を治癒しなければならないのだ。パルメニデスの思想でさえ出現しなかったらなあと思い、また、われわれが〈存在〉と結ぶ諸関係を、自己意識の思想が発見される以前へと回復したいと考えている哲学者自身が、原初的存在論への関心とその意味理解を、まさにその自己意識の思想に負っているのである。たとえわれわれがパルメニデスや自己意識の思想を乗り越えるとしても、そして、まさにそうした思想を乗り越えるとすれば、われわれがそうした思想の手前へと立ち戻ることは、ない。主観性は、そういう思想の一つなのだ。』

つづく

7ヶ月前 No.370

★30JjgxOVKX_ZFe

>370のつづき

「パルメニデスの思想」には訳注がついています。
「在るものは在る」という命題で知られる古代ギリシア哲学者。「在るもの」について語ることだけが真理の道であり、「無いもの」について語ることは真理の道にあらずとして、存在から運動を排除した。
ネットで調べて見ると、パルメニデスは、非存在の存在を絶対的に否定した。とありました。


哲学者も大変ね、感染しっぱなしみたいで。
あ、わたしは「私」に感染しちゃったみたいだけど。


おそらく誰も読まないって見てるから、いっきに書き写してみました。

これでひとまずおわり。

7ヶ月前 No.371

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

およぐちゃん

コンプレックス(複雑感情)の眩暈の真っただ中にいるのですか?

コンプレックスは劣等感とは違いますよ・・ここでは複合体の複雑感情・・

7ヶ月前 No.372

★30JjgxOVKX_ZFe

>372
あら、おばあちゃま、ここに来るのね。

わたしの場合、「コンプレックス」っていうのは、単に「複合体」っていう意味で使ってます。

自己・他者・感情・理性・記憶・・・っていう複合体。感情だけじゃないよ、人間の心っていうのは。

心理学に俗されていいの?ここ一応、哲学的な場だからね。

7ヶ月前 No.373

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

およぐちゃん

およぐちゃんは複雑な人・・

7ヶ月前 No.374

★30JjgxOVKX_ZFe

あらやだ、わたし、けっこう単純な方だと思ってるけど。

世界における(への)存在としての人が生きてゆけるためには、何が必須なことなのか、から見ようとしているだけよ。
たとえば、食住衣は必須よね。そうこれは、身体維持のために、じゃない?

人の生の目的と手段の見方をまちがえちゃいけないと思う。

7ヶ月前 No.375

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

現象は多種多様・・複雑怪奇・・

実体が無いから・・現象って・・

7ヶ月前 No.376

★30JjgxOVKX_ZFe

>367
ねえ、「実体」ってなあに?

7ヶ月前 No.377

宿題 ★5z6bVAmgS3_zRF

およぐちゃん

自分の知覚に写った物体が実在しているような哲学は・・現象・・

本当に存在しているって言うことが実体・・

7ヶ月前 No.378

★30JjgxOVKX_ZFe

>378
おばあちゃまは、自身を鏡を見るとき、何を見てると思います?

7ヶ月前 No.379

宿題 ★5z6bVAmgS3_zRF

およぐちゃん

鏡ってその通りを写すとでも思っているの?

美容室で目の前に飾ってあった写真が鏡の中ではちょっと違って見えましたよ・・

他にも花をカメラで写した時の鏡の後ろとか・・いろいろあるけれど・・

7ヶ月前 No.380

★30JjgxOVKX_ZFe

>380
あのね、>364〜371は、「主観」の話をしていたつもりなんだけど。

7ヶ月前 No.381

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

およぐちゃん

鏡に主観は写りません・・

綺麗に見せる鏡もあることだと思います・・

7ヶ月前 No.382

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

>>365

およぐちゃん

解説しよう。

>『300年間に点在するいろいろな哲学を、主観性という旗印の下にひとまとめにするわけだが、共通点は何だろう。』

特に意味はない独り言です。


>『まず〈自我〉、モンテーニュがなによりも好み、パスカルが嫌った〈自我〉である。日ごと丹念に記録され、その勇猛果敢、逃避、中断と続行、立ち戻りが書き留められ、未知のものとして試練にかけられ検証される〈自我〉。』

この〈自我〉は、パスカルだけでなくおよぐちゃんも嫌っています・・・つまりこれは「わたし」なのか「私」なのか判然としない!・・・覚えていますよ、同じことを私がおよぐちゃんに言ったら確かそれは「わたし」だと怒られましたね。


>『次に、デカルトとパスカルの、考える〈私〉がある。この〈私〉の場合、自分に追いつくのはたしかに一瞬でしかない。しかし、その一瞬、〈私〉はその現れのなかにそっくりそのまま存在している。〈私〉は、自分がそれであると考えているそのすべてであり、他のなにものでもない。〈私〉は自分のすべてに対して開かれ、決して固定されず、自分の現れの中に自分の存在のすべてがあるというこの透明性そのものを除けば、いっさい神秘的なところがない。』

記号論の復習の時間です!そうです、言葉には、「記号」と「意味」のふたつの側面がありましたね。およぐちゃんは「ハムスター」と発言することで、「ハムスター」という意味をもった「ハムスター」という片仮名5文字の記号を音で表現することができます。では、少し待ちますので発言してみてください。・・・なにを躊躇っているのですか?はやくしてください。・・・・やっと言えましたね。これからはすぐに発言できるようにしておいてくださいね。さて、いま「ハムスター」という言葉に、およぐちゃんは「ロボロフスキーハムスター」の意味をちゃんと込めましたか?あるいは「ゴールデンハムスター」が抜け落ちているのではないですか?、何が言いたいかというと、「ハムスター」という言葉ですべての「ハムスター」を表現できていないということです。これは、「ハムスター」という現れが透明ではないために、「ゴールデンハムスター」という存在が隠れてしまったと言うことです。それが言いたかったんです!


>『ついで、主観性の立場に立つ一連のイギリス人の哲学者たちがおり、黙って触れれば、いわば自然な特徴によって、おのずから知られる観念がある。』

このイギリス人の哲学者たちというのは誰でしょうか?経験主義者であることはわかっているはずです。そして、およぐちゃん、調べてもわからなかったならば、調べが足りませんよ・・・およぐちゃんが見つけるべきだった一節はこれです。

>経験論における「経験」という語は、私的ないし個人的な経験や体験というよりもむしろ、客観的で公的な実験、観察といった風なニュアンスである。したがって、個人的な経験や体験に基づいて物事を判断するという態度が経験論的と言われることがあるが、それは誤解である。
(wikipedia)

わかりましたか?メルロは、「誤解」しています。経験論は、私の知る限り最も「objective」な哲学のひとつですよ。


ここで重大なお知らせがあります・・・。私は疲れました。あとは暇なときにまた解説しましょう。このレスに間違いと思われる箇所があれば自由に指摘してください。

7ヶ月前 No.383

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

>>383 補足

>・・・覚えていますよ、同じことを私がおよぐちゃんに言ったら確かそれは「わたし」だと怒られましたね。

あなたは確か、

>わたしは「イチゴを思っている」ということはあるかもしれないけど、
>「イチゴを見ていると思ってる」なんて、普通、考えない。

なんて言いましたよね、この一言が、どれだけモンテーニュを傷つけたことか、あなたは考えたことがないんですか?この悪魔!

7ヶ月前 No.384

★30JjgxOVKX_ZFe

あら、天使ちゃん、>383、384、解説ありがとうございます。
よくわかんなかったけど。
もうちょっと調べてみます。

7ヶ月前 No.385

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

よくわかんないなら次の解説はやめとくね
ここだけの話、考えるのは向いてないんだわ、オレ

7ヶ月前 No.386

★30JjgxOVKX_ZFe

>386
「私は疲れました」(>383)
天使はね、考えるの苦手だから、ムリしない方がいいよ。
「感ー情」でいけばいいんじゃないの?

7ヶ月前 No.387

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

>>387

およぐちゃん、「感ー情」とは何でしょうか?

私には、およぐちゃんがもっていない「良心」というものがあるのですが、
それのことですか?

7ヶ月前 No.388

★30JjgxOVKX_ZFe

>388
ん?「良心」?  なに、それ。ネットで調べちゃた。
[良心]
「道徳的判断をなし,自己の行為,心情にかかわって正善を意志,命令し,悪を悔い退ける全人格的意識。」
って、あった。
確かに わたしにはこんなのないわ。神と人間との間にいる天使としては、これって人間に俗しちゃてない?

天使ちゃんに対して「感ー情」っていったのはね、「愛」のことよ、「神の愛」っていうやつ。

7ヶ月前 No.389

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

およぐちゃん、何を言っているんだい?
私たちの間で「神の愛」といえば、神様のつけている褌(ふんどし)の名前だよ。
それを振り回すなんてとんでもない・・「神の怒り」に触れてしまうよ。

そんな言葉、人間をそそのかすことはできても、私たちには効かないよ。
私は知っているんだよ、きみたちのせいで人間たちは、「無償の愛」とか、「不朽の愛」だなどといってとても混乱している。
(本当は僕たち(あるいは、使徒たち)がやったんだけどね・・・・。)


>神と人間との間にいる天使

神様と人との間にあるのは、「越えられない壁」で僕たちじゃない。
私たちがいるのは、「神様と人の世の終わりの間」「神様と悪魔の間(尖兵として)」「神様と人の感ー情の間」・・・・。
おや、どうしてこんなところに「感ー情」があるのだろう?

7ヶ月前 No.390

★30JjgxOVKX_ZFe

>390
”そそのかし”にはまってません?「ふんどし」ってなんか下品。
天使ちゃんこそ「神の怒り」に触れてしまうよ。

神様を”外”に置くから「越えられない壁」が生れてくるのかもしれないけど、
悪魔はね、橋渡ししてるのね。
天使ちゃんは違ったの?


ちょっと現象学とはずれてきてるから、なんとか結びつけましょうか。

YHWHを、ユダヤ教では「アドナイ」(私の主)、キリスト教では「God」、イスラム教では「アラー」と呼ぶらしい。

教徒の「主」は「私」ではなく、YHWHとしているのだろうか?
もしそうだとしたら、教徒にとって「主観」とは何なんなんだろうか?

7ヶ月前 No.391

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_zRF

神様を外に「置く」?

人間が主体であるかのように語るんだね、
悪魔のやり口はいつもそうだ。


>教徒にとって「主観」とは何なんなんだろうか?

神様の見方考え方に決まっているだろう、
決まりきったことを疑うのは「現象学」ではやらないのではないか?

橋渡し、私たちが神様に続いていると彼らはそう思っているのかい。
とはいえ、私たちがそうしむけたのだけれど。
私たちが神様の言葉を伝えたところで、神様がその言葉の中にいるわけではないんだけどね。
あるいはその現象の中にもね。

7ヶ月前 No.392

★30JjgxOVKX_ZFe

>392
人間は気づいてないだけよ。
神と人間との間の存在には。

神の言葉を伝えているのは、預言者とかメシアって、人間は言っているようよ。
教徒にとっては、結局、預言者もメシアも人間を想定しているのね。神そのもの(YHWH)じゃないみたい。

現象学は人間を相手にしている。そう、自分自身について考えているんじゃないかしら?
だから、神を主とする人間は、人間(自分自身)をどう思っているのかしら、って思っただけ。

7ヶ月前 No.393

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_zRF

およぐちゃんが何を考えているかだんだんわかってきたぞ。

教徒たちは私たちと同じように神様を認識しているのではなく、
かれらがいる場所に神の世界が作り出されるということだね。

かれらは神の世界にいることによって自分自身のもつ本来の働きを忘れてしまう、
そして宗教というシステムに上手く組み込まれていくことに対して疑問をもつことがない(できない)。
ある意味現象学とは対極にいるのだろうね。

7ヶ月前 No.394

★30JjgxOVKX_ZFe

「主観」と「客観」をネット(N)で調べて見ました。


N1.主観と訳されるラテン語subiectum(英語subject)の原義は〈基体〉〈主語〉で,元来ギリシア語ヒュポケイメノンの訳。一方,客観と訳されるラテン語obiectum(英語object)の原義は〈前方に投げられてあるもの〉,すなわち表象ないし観念の意。すなわち,少なくとも前近代では,両語は現在とは逆の意味で用いられていた。転換を画したのがデカルトで,自我を基体・実体と規定してsubiectumを主観化し,obiectumを客観化した。対立・逆転の構図を完成したのがカント。認識の形式的条件としての主観,その主観の対象としての客観が定立され,前者の優位,前者による後者の支配が根拠づけられることになった。その構図の歴史的被制約性の自覚と限界の克服が,たとえば現象学,実存主義(とりわけハイデッガー),構造主義など,20世紀思想の主要な課題である。なお,主観・客観は実践論の場面では〈主体・客体〉と言い換えられることがある
N2.客観は主観に対するもの。客体ともいう。ラテン語 objectumに由来するが,中世スコラ哲学では,その意味は今日とは逆で,意識内容,表象の意であった。この傾向は 17世紀まで続き,デカルトにおいても realitas objectivaは観念的実在の意であり,realitas actualis (現実的実在) または realitas formalis (形相的実在) と区別された。スピノザにおいても同様で,esse objectivumは観念的存在の意であり,esse formaleと区別された。このスコラ的用語法が逆転し,主観の意識の向けられる対象の意味でこの言葉が用いられるようになったのは,イギリス経験論,ことにロックにおいてであり,そしてカントにおいて初めて主観との対立概念として客観という言葉が明確に規定された。
N3.客観は主観の対(つい)概念。「主観―客観」関係は近世哲学の根本的枠組みである。この関係をどうとらえるかによって、客観は異なった意味をもつ。
N4.ホッブズやライプニッツは魂をsubjectumと呼んでいるが,それも感覚を担う基体という意味においてであり,そこには〈主観〉という意味合いはない。


こんな感じみたい。

7ヶ月前 No.395

★30JjgxOVKX_ZFe

>395について  わたくしごと


a)脳の機能による現れを「精神」とし、現れているものを「象」とか「観」として見る。

b)私の外にあるものを「外存在」とする。

c)主、客、観(象)、体と分けて見る。

d)「対」を「向かい合う。二つが向き合う。二つで一組のもの。互に相手関係にあること。」とすると、「対」を見るとき、そこには少なくとも2つのものが存在していることになる。そこで、「対」を「◯対◯」(◯に対する◯)として見る。

e)「対象」は「対の象」、「◯対◯の象(観)」となる。「対象」を、外存在ではなく、私の内にある象(観)、として見る。

f)私を主とするとき、外存在は客。

g)外存在(客)が、私の内に内在化したものが、客の観念。――私に対する外存在の私の内の象(観)――客観
外存在が感-知覚作用によって「知覚されたもの」は、「客観」「対象」とも言う。

h)この客観を見る主の観が存在すると見る。

i)客観は二重の対象となっている。私に対する外存在として、と同時に、主観に対する客観として。

このように見て見ると、客観は主観の〈前方に投げられてあるもの〉と見ることもできる。

Nの記述では「少なくとも前近代では,両語は現在とは逆の意味で用いられていた」って言ってるけれど、“意味の逆転”じゃないのかもしれない。カントのコペルニクス的転回が、「主観に対象のまわりをまわらせていたものが、対象が主観のまわりをまわるようになった。」ということならば、それは“意味の逆転”ではなくて、“関係性の見方の逆転”のように見える。だからといって、メルロ派のわたしとしては「主観の優位、主観による客観の支配」という関係とするのではなくて、客観・主観の関係を私の精神の共存の相互間の内に見るようにしてる。

ちなみに、わたしの「私」の分節式――私 { 自身(体・脳)⇔自分〈他・自・己〉}において、
わたしは、私の精神を「自分」、私の身体を「自身」とし、自分(精神)を〈他・自・己〉と分節して見ています。〈自・己〉が「主観」、〈他〉が「客観」ってなります。また〈他〉は、〈他者〉とも言います。そこで、i)は、「他者(客観)は二重の対の象となっている。私に対する他(外存在)としての象、自・己(主観)に対する他者(客観)としての象。」ってなります。

以上、わたしの。精神における「主観が客観を見る」という見方を記して見たけど、現象学は、それよりさらに遡り、「主観性に気づく」とはどういうことなのか、を問うてるような気もする。


こんな感じ、いかが?

「じゃないよ」を、まってます。

6ヶ月前 No.396

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>396

「精神としての身体」
という視点が抜け落ちてるんじゃないの?

メルロ・ポンティ―はそれを観ていたはずだけどね。

6ヶ月前 No.397

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>396

あっ、それと、「観(象)」って

「表象」のことじゃないの?

何で「表象」じゃだめなの。

6ヶ月前 No.398

★30JjgxOVKX_ZFe

ふくろうさま、ありがとうございます。

>397
メルロの言う「世界における(への)存在」としてのわたしの「私」については、以下のような図式を描いて見ています。

外界(外存在)「自然的存在・他人・文化的存在」⇔私{自身(脳・体)⇔自分〈他・自・己〉}

私{自身(脳・体)⇔自分〈他・自・己〉}は、わかりにくいかもしれませんが、私{身体(脳・体)⇔精神〈他・自・己〉}って見てもらってかまいません。

今回の主なテーマは、「観(象)」についてです。上記の図式から言えば、{精神〈他・自・己〉}の部分についてですので、精神と身体と外界との関係については、別の機会に。

>398の「表象」については、次に記して見ます。

6ヶ月前 No.399

★30JjgxOVKX_ZFe

>398
「表象」という語について、2つ思い出しました。

(1)『デカルト的省察』の『…しかし、それでは、他の我についてはどうであろうか。なにしろ、それは私のうちの単なる表象(1)や表象されたものなのではないし、私のうちで確認することができる綜合的な統一ではなく、その意味からして、まさに他者であるのだから。…』のところで「表象」に訳注がついていました。

訳注(1)『Vorstellungこの語は、デカルトの言う「私のうちの観念(ideas in me, id□es en moi)」やロックの言う「心の中の観念(ideas in the mind)」に対するドイツ語訳として、ライプニッツの時代に哲学用語となった。しかし、フッサールによれば、この概念がこれまで、「心理学、認識論、論理学をすっかり混乱させてきた」(『論理学研究』)という。そこで彼は、同時代の数学者・論理学者ゴットロープ・フレーゲの(「意味(ジン)」および「指示(ペドイド)対象(ウング)」との対立における)「表象」についての主張や、ブレンターノ門下のトワルドフスキーの「表象の内容」と「表象の対象」の区別という考え方などからも学びつつ、「心の中の観念」としての「表象」を退けて、「意味を通じて対象に関わる」こととして志向性を確立していった。』


(2)中島義道氏は、現象と表象について以下のように言っています。

『現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」」というあり方を強調するときに使われる。』


哲学では「表象」っていう語の意味はややこしいそうなので、わたしはあまり使わないようにしています。

わたしの場合、〈表象〉は〈象(観)〉の一つとして見ています。〈知覚されたもの〉も〈象(観)〉として見ていますが、これと〈表象〉とは区別して見ています。知覚はpercept、表象はrepresentとし、雰囲気的に、表象は再び差し出す(される)的な、記憶のなかから的な象とし、知覚は外存在が身体を通して精神として内在化された象、と、こんな感じで区別しています。また、象(観)−脳の機能によって現れているものーに名指した語として、他に、認知、感情などもあると思います。あ、概念conceptっていうのもありました。

こんな感じです。

表象という語の意味をどう見ているかによって異なってくると思うので、「表象」じゃダメよ、っていうことではありません。あくまでも、わたしにおいては、上記のように見ているから、っていうことです。

6ヶ月前 No.400

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>399  游さん

>私{自身(脳・体)⇔自分〈他・自・己〉}は、わかりにくいかもしれませんが、私{身体(脳・体)⇔精神〈他・自・己〉}って見てもらってかまいません。


いや、それは >>396 に書いていたからわかってるんだけど、
私{身体(脳・体)⇔精神〈他・自・己〉}
という図式だと、身体と精神が対立するものになってるんじゃないの?

私が言っている「身体としての精神」あるいは「精神としての身体」というのは、精神と身体は対立するんじゃなくて、

むしろ「身体=精神」あるいは「身体/精神」とでも表現すべきものではないかと思うわけですよ。

なんか、的をはずしてたら、スルーしていいよ(笑)

6ヶ月前 No.401

★30JjgxOVKX_ZFe

>401、「いや、それは >>396 に書いていたからわかってるんだけど」あ、嬉しい。

あのね、「⇔」の意味は、「=」と、「双方に」という意味で「□」を掛け合わせた意味でつかっています。
⊂と←を会わせた記号で表現したかったんですが、ここでは□になっちゃうのね。

「哲学」掲示板と称して、結局、ここは、じゃないのよ。だから、いいのね、”その振り”をする自然的人間にとってはね。

6ヶ月前 No.402

★30JjgxOVKX_ZFe

>402、あ、「双方」の記号が「□」になちゃたた。

やっぱね。

大切なところが、「ヌケてる」よね、ここ。

6ヶ月前 No.403

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

およぐちゃん

哲学の「本質」は理性と愛の気持ちを頼りに生きていく人に必要なの・・

現象学には欠けているの・・

6ヶ月前 No.404

★30JjgxOVKX_ZFe

>404
おばあちゃま、「現象学に目もれない」人が、現象学について、語れるの?
たとえば、>404のように。

6ヶ月前 No.405

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

およぐちゃん

一通りドイツ留学されたことのある大学の宗教家のお孫さんの哲学の先生に現象学を習いました・・

6ヶ月前 No.406

★30JjgxOVKX_ZFe

>406、

で、何を学んだの?

6ヶ月前 No.407

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

およぐちゃん

何回も書いています・・

『存在と時間』("Sein und Zeit"、1927年) これはハイデッカーさんの皮肉です・・

正統派なら空間と時間なのです。

どいつごでちょっとジョークを飛ばしているのです・・ドイツ語ならではのドイツ人にしか解らない・・ブラックジョーク・・

ヤスパースさんは現象学のフッサールさんに理解できなくて当たり前って言われたんですよ・・もともと理解できない(解らない)内容なのです。

6ヶ月前 No.408

★30JjgxOVKX_ZFe

>395のN1とN2では、デカルトの主観について、異なった見方がされているようです。

そこで、再びフッサールのデカルトの「我」について見て見ました。

『デカルト的省察』より、

『我思(エゴ・コギ)う(ト)で問題となっているのは疑いの余地がない「公理」であり、それが他の証明されるべき仮説や、また場合によっては、帰納的に基礎づけられる仮説と一体になって、世界について演繹的に説明する学問のための基礎を提供しなければならず、こうしてこの学問は、ちょうど数学的自然科学のように規範に関わる学問、幾何学の秩序にしたがった学問となるかのように、こう考える先入観である。それと関連してまた、あたかも、私たちの疑いのない余地がない純粋な我のうちに、世界の小さな末端(訳注27)を、哲学する自我にとって唯一疑いえない、世界の部分として救い出したかのように、そしていまや、我(エゴ)に生まれつき備わった原理にしたがって正しく導かれた推論により、残りの世界を導き出していくことが問題になっているかのように、こんな考えを決して自明のこととしてはならない。』

(訳注27)せっかく発見した「我」を「世界の小さな末端」と解釈してしまった、というのがフッサールがしばしばデカルトに向ける批判点である。デカルト自身「私が事物の総体(宇宙)の部分をなすに過ぎない、ということを否定することができない」(『省察』第四省察)と述べている。

『しかし、残念ながらデカルトの場合は、我を思うことの実体とみなし、それと不可分に、人間の魂または霊魂とみなし(訳注28)、因果律による推論のための出発点とするという、目立たないが致命的な転換によって、まさにそんなふうに考えてしまった。そして、この転換によって彼は、不合理な超越論的実在論(ここではまだ明らかにできないが)の父となってしまった。すべてこれらのことは、もし、私たちが自己省察を新たに根本から始める姿勢に忠実にしたがい、また、純粋な直観ないし明証の原理に忠実にしたがうならば、そのゆえ、私たちが判断停止によって開かれた我思うの場で、実際にさしあたりまったく直接的に与えられるもの以外は何も通用させず、自分で「見る」もの以外を何も表現にもたらさないようにすれば、生じることはない。そこでデカルトは過ちを犯してしまい、あらゆる発見のなかでももっとも偉大な発見の前に立ち、或る程度はそれをすでに発見していたにもかかわらず、その本来的な意味を、それゆえ超越論的主観性のもつ意味を捉えそこない、真の超越論哲学へ導くはずの入り口の門を、くぐることがなかった。』

(訳注28)デカルトは、「我あり」を発見し、その「我」を「思惟するもの(res cogitans)」と規定したのち、それをさらに、「魂(mens)あるいは霊魂(animus)あるいは知性(intellecyus)あるいは理性(ratio)」と伝統的な用語を使って言い換えている。

6ヶ月前 No.409

★30JjgxOVKX_ZFe

また、デカルトの『省察と反論と答弁』を見て見ると、

『第一省察 疑いを差しはさみうるものについて ( 〈懐疑〉を徹底する )
私は、すでに幾年か前のことになるが、こう気づいたのである。幼少の頃にどれほど多くの偽なるものを真なるものとして私が受け入れてしまっていることか、そしてそのようなものの上にその後私の積み重ねてきているものがどれほど疑わしいものであることか、したがって、もろもろの学問において堅固で朽ちることのないものを私がいつかは定着させたいと願うならば、一生に一度は[断固として]すべてを抜本的に覆してしまって、最初の土台からあらためて始めなければならない、と。』


『第二省察 人間的精神の本性について。精神は身体よりも、より良く識られるということ。
私はそこで、私の見るもののすべてが偽である、と想定する。当てにはならぬ記憶が表象[ナイシハ、再現]するもののうちにはかつて存在していたものは何もない、と信ずることにする。何らの感官も私は全くもっていないことにする。物体、形状、延長、運動、ならびに場所は、幻影であることにする。それでは、何が真なのであろうか。おそらくは、確実なものは何もないというこの一事[のみ]であろう。」

「しかしながら、今も今私の列挙したところのすべてとは別箇のもので、それについては疑う事由のそれこそほんの少しもないようなものが、全然ないというわけではないかもしれぬではないか、神、あるいは[神と言っては悪ければ]どうような名でそれを呼ぼうと、何かそういったものがあって、私〔の精神〕にそういう[すべては疑わしいという]考えそのものを送りこんでいるのではないか。なにゆえに[実は]しかし、私はそう考えるのか、たぶん私自身がそういう考えの創作者でありうるというのに。そうならば少なくともこの私は何ものかであるのではないのか。しかしながら、すでに私は私が何らかの感官や身体をもつことを否定したのである。私はしかし[それでも]踏み切れない、いったい何がそこからは〔帰結されるのか〕、と。私は、身体や感官に繁がされていて、それらなしにはかくてありえないのであろうか。しかしながら私に私は、世界のうちには、天空も、大地も、精神も、物体も、全く何一つとしてないということを、説得したのである、が、そうとすれば、また私もないと、説得したのではなかったであろうか。いな、そうではなくて、何かを私に私が説得したというのであれば、確かに[少なくとも]この私はあったのである。しかしながら、誰かしら或る、この上もなく力能もあればこの上もなく狡智にもたけた欺瞞者がいて、故意に私を常に欺いている。彼が私を欺いているならば、そうとすればこの私もまたある、ということは疑うべくもないのであって、彼が力のかぎり〔私を〕欺こうとも、彼はしかし[それでも]けっして、私が何ものかであると私の思惟しているであろうかぎりは、私が無である[アルイハ、何ものでもない、全然あらぬ]、という事態をしつらえることはできないであろう。かくして、すべてを十分にも十二分にも熟考したのであるから、そのきわまるところ「われあり、われ存在す、」という言明は、私によって言表されるたびごとに、あるいは、精神によって概念されるたびごとに、必然的に真である、と論定されなければならないのである。』

6ヶ月前 No.410
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