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独我論を乗り越える方法

 ( 哲学掲示板 )
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すぴのざ ★0gLpHaJ.DeM

【レスする前に】
このスレで使う言葉の意味は辞書、wikipediaに記述してあるものを使用してください。2つに記述されていない意味を使用する場合は、どのように定義しているかを明示してください。

【独我論とは(wikipedia「独我論」から転載)】
概念

「客観的存在に対する常識的見解」
私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。


「独我論からの反論」
これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。

このような客観的事物の認識の不可能性は、バークリーやカントなどの観念論に代表される(もっとも、カントは、このようなの不可能性を認めた上で、あえてそのような認識前の存在(物自体)を肯定する。バークリーも、他者や神の存在を認める以上、独我論者であるとは言えない)。

ウィトゲンシュタインにおいて、自己と他者の非同一性の考察から出発した、世界の人間のうち、一人だけ本当の私がいて、他の人間は意識的な存在者ではあっても、この私ではない。すなわち、本当の私は自分一人のみであるという主張。また、彼においては「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現される。

バートランド・ラッセルによれば、非演繹的推理によって自己の直接的経験を超え出ることを認めない限りは、瞬時における自我だけが存在するとする瞬間の独我論を容認することは避けられないといわれる。

古来はその世界観(世界の存在を通して)を批判されていたが、現代ではその「私」とは何であるかという形で批判を受けている。


【本題】
独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
出来るとしたら、その方法は?
あなたの独我論に関する考えを教えてください。

参考書籍などを記載してもらえるとありがたいです。

2007/08/23 10:38 No.0
メモ2019/09/27 05:22 : SumioBaba★A5wHmsjWwP_yoD

【ザビビのふくろうによる独我論入門】

独我論とはそもそもどういうものか、の理解のために参考まで。

@>>461

A>>407-411


【SumioBabaによる独我論を乗り越える方法】

 「独我論」は実証も反証もできません。なのに多くの人々は、「独我論」が「真」か「偽」かは、どちらか一方に客観的に確定していると思い込んでいます。しかし、論理の飛躍をして「偽」だと仮定しても、論理の飛躍をして「真」だと仮定しても、アポリア(解けない謎)が残ってしまいます。そこで、量子力学でいう重ね合わせの考え方を用い、《問》=「独我論は「真」か?、「偽」か?」に対し、《答》=「a「真」+b「偽」(aとbの値は不明)である」と答えてみます。「真」かもしれない、「偽」かもしれない、「両方」かもしれない、「片方」かもしれない、という意味です。すると、すべてのアポリアを解消することができます。しかも《答》は、何一つ真理を限定せず、すべての可能性を網羅した上で正しいのはその中のどれかだろうと主張するだけなので、決して外れることは無く、証明不要のまま恒真(トートロジー)となります。これこそ最も合理的な答だと思われます。


    「独我論」を「偽」だと仮定した場合

 論理の飛躍をして「独我論」を「偽」だと決め付け、「物質世界は「存在しない」ではなく「存在する」の方に、客観的に確定しているのだ」と考えてみます。すると、《謎1》=「なぜ物質世界は「存在しない」ではなく「存在する」の方だけが選ばれているのか?」というアポリアが発生します。片方が選ばれねばならないという論理的必然性が無いため、「かくかくしかじかの理由で「存在する」の方だけが選ばれたのだよ」という答は存在しません。従って、「そんなの知らないよ。なぜかそうだからそうなのさ。」と諦めるしか有りません。


    「独我論」を「真」だと仮定した場合

 論理の飛躍をして「独我論」を「真」だと決め付け、「実在するのは自分の心M1だけであり、物質世界も他者の心M0、M2、M3、…も自分の心M1の中の観念に過ぎず実在しない」と考えてみます。すると、《謎2》=「なぜM0、M1、M2、M3、…の中からM1だけが選ばれて実在するのか?」というアポリアが発生します。これも、論理的必然性が無いため、答は存在せず、「そんなの知らないよ。なぜかそうだからそうなのさ。」と諦めるしか有りません。


    「独我論」をa「真」+b「偽」だと仮定した場合

 「独我論」は実証も反証もできないのだから、何一つ論理の飛躍をしないため、a「真」+b「偽」(aとbの値は不明)と答えてみます。a=1、b=0とおくとこれは「真」となり、実在するのは自分の心M1だけであり、物質世界や他者の心M0、M2、M3、…は実在しないことになります。a=0、b=1とおくとこれは「偽」となり、物質世界や他者の心M0、M2、M3、…も実在することになります。a≠0、b≠0とおくと、「真」と「偽」が重ね合わせのまま、片方に確定してさえいないことになります。つまり物質世界や多数の心M0、M1、M2、M3、…は、どういう視点に立つかで、確率的に「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在しない」、のどれにも成り得るような在り方をしていることを意味します。つまり、物質世界もどの心M0、M1、M2、M3、…も、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」、「存在する」+「存在しない」と認識する視点に立てば「存在する」+「存在しない」、というトリプル・トートロジーが成立しているだけです。そして、《謎1》も《謎2》も事実誤認だったこととなり消滅します。


《参考文献》>>403,404

http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-650,651,652,653,654,662,663,664,665,711,750,751,973,1000#a


【なぜ独我論は実証も反証もできないのか?】/SumioBaba

 独我論者は、自分が住んでいる世界W1を、「自分が見ている夢かもしれない」と疑います。しかし、世界W1の中では、自分が数多い人間の中の一人である「私」という設定になっていて、時間や空間や様々な物体や多くの他人たちという「外在1」が存在することも認めています。法律に反する行為をすれば逮捕されて自由を奪われるので、法律には従おうと考えます。物理法則に反する行動をしようとすると大怪我する危険性が有るので、物理法則を考慮した行動をしようと考えます。他人たちの心を認識することはできませんが、他人たちがいかにも心を持つかのように振る舞うのは確かであり、自分と他人の間に愛情や友情も立派に成立するし、嬉しいときは手に手を取り合って喜ぶことも有るし、愛する人と死別するときには涙することも有ります。

 それでいて独我論者は、この世界W1を、「自分が見ている夢かもしれない」と疑います。その場合に想定される真の自分、つまり世界W1とは全く別の世界W0に住んでいて、世界W1という夢を見ていると想定される私が<私>です。世界W0がどんな世界なのかは、何一つ知る方法が無いため、時間、空間、物質が有るのかどうかも判らないし、物理法則も世界W1とは全く異なるかもしれません。時間も空間も物質も物理法則も無く、ただただ<私>という意識だけが唯一実在している可能性も有ります。世界W0については何一つ知ることができないため、<私>の外部としての「外在0」が存在するのか否かは、実証も反証もできません。世界W1と世界W0、「私」と<私>、「外在1」と「外在0」を混同しないよう、注意して下さい。

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えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 検証できないという意味では、断定的には何にも言えない。独我論の当否とは、そんなこと?

*******************************

>>0 のメモより(抜粋)

あなたが死ぬとき、あなたの世界は、そして、あなたにとってのすべての世界は消滅するだろう。
いや、そんなことはない。自分が死んでもこの客観的世界は存在する、とあなたは言う。
では、問おう。
あなたは、あなたの死後、客観的世界が存続しているということをいかにして知りうるのか。
そう信じているに過ぎないではないか。
直接経験できないものについて、あなたは、ある・ないとなぜ言えるのか。
死後の世界が存在するか否かを、生きている限り経験できないのだから知りえないのと同様、あなたが知覚経験していないものがあるかどうかについて、知ることは不可能である。
主観的にそう信じているだけである。

あなたは、あなたにとっての〈私〉が死ぬとき、「世界が存在する」ということに意味を与えることはできない。
それはあなたには検証不可能なことであり、あなたには無意味でしかない。
世界とは徹頭徹尾〈私〉の世界だからである。
念押しで付言すると、それは“えぴめてうすの世界”とか、“hiroの世界”といった個別の世界が有する特質ではない。
あなたが死ぬとき、あなたの世界は消滅し、何も残らない。
そして、このことはあなた一人についての事実ではない。
それがだれの世界であろうと、それがいかなる世界であろうと、それは唯一存在する主観的世界、すなわち“〈私〉の世界”であり、それ以外に世界は存在しえないから。

********************************

 死とは物理的、肉体的な死を意味するとすれば、多くの他人の死を見ていても、自分の死を見た人はいないだろうが、そのような認識は、その人の知見に過ぎないことになる。自分の死を見る人が、今後現れないとは言えない。あの世や臨死体験…、そんなものも否定できない。また、証明もできない。
 結局、直接認識できないことについて、実在論であろうが、独我論であろうが、断定的には何事も言えないということか?
 そうであれば、独我論は乗り越えるべきものでも何でもなくなる。

1ヶ月前 No.1858

ななし ★Tablet=yFrJoxCsCU

昔、本で目にしたイタリアのことわざでこんなのが。「あなたが死ねば世界も消える、ブタさえも」。なにもかも一切ということでしょう。ネットで探りましたが引っかかりません。

1ヶ月前 No.1859

ななし ★Tablet=yFrJoxCsCU

えびめてうすさんに一票です。

1ヶ月前 No.1860

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

わたしが死ぬとき、わたしの世界は無なる。

でもこれは、独我主義のことじゃない。

死(身体の全停止)の後どうなるかは、わたし、知ることはできない(だって、死んだことないから)。
「私」を身体と精神に分節したとき、身体の全停止(死)の後、精神はどうなっちゃうの?っていう問いは当然生まれる。
精神(ないし心)は魂って呼び名を変えて存続し続ける、っていう見方もあるけど、結局、死んだことある人、存在しないから、当てにならない。

わたしが死ぬとき、身体の全停止となったとき、もうそのときにはわたしはわたしでは無くなる。

わたし、「独我論」の問題は「我」の意味だと思う。

1ヶ月前 No.1861

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

悪魔ちゃんさま

>>1861

>わたし、「独我論」の問題は「我」の意味だと思う。


 とすると、「我」=ありふれた「我」なのか、唯一無二の「我」なのかってこと?

1ヶ月前 No.1862

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

久しぶりに議論を拝見しました。もういろいろな意味で「破綻」している独我論に関して議論がいまだに続いているのが不思議である。

1ヶ月前 No.1863

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

もういろいろな意味で「破綻」している独我論に関して議論がいまだに続いているのが不思議である。

1ヶ月前 No.1864

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

「久しぶりに議論を拝見しました」 ん?
破綻してるのは「論」ね。
「独我」じゃない。

1ヶ月前 No.1865

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 人間の認識の方法と限界から、哲学が生じるのは必然。哲学が生じたことは答えの出ない問いが存在することの証。独我論もそれを説明する一つの物語に過ぎない。

26日前 No.1866

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

そうです。「論」としては最早、破綻は明らかです。ということは「独我」という「人生観」のことになります。それならいくらでも議論は果て無いでしょう。もはや「独我論」を強制される根拠はないでしょう。しかし、「独我」的あるいは「独我論的人生観」を選ぶのは自由でしょう。私は採用しません。深い理由はなく、実生活で支障が、損が多すぎるからです。昔出した「虫歯の治療」や「カウンセリング」も大変ややかしくなってしまうからです。もちろん誰にも強制も賛同も求めません。

8日前 No.1867

うさぎ ★PZZP2JcqaB_UHY

1858さんのえぴめてうすさんの論には感動するところがある。  哲学の目的は幸福の追求であって、コピペや

雑談や真理の探究ではない。。何百という哲学的立場・方法・方向があるにせよ、哲学の目的はメリットデメリットで

ある。独我論ごときで、、、勝手に自由に、、、考えたらいいだけ。  個人主義ですよ?

3日前 No.1868

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

「哲学はメリットデメリットである。」の意味をもう少し分かるように説明してください。「個人主義ですよ?」の主語は何ですか。本当にうるさくてごめんなさい。たぶんに私の性格から来ていると思います。

3日前 No.1869

うさぎ ★97Tbk92WD6_UHY

簡単すぎてあきれはて申し訳ないが、個人主義の主語は全人類でしょ?  そこには自由があるが。

メリットデメリットは役に立つかどうか。私にとって、、、だろうね?  唯一の我ですね?  簡単?

3日前 No.1870

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

ちょっと待ってください。「全人類が個人主義ですよ?」ということは途方もないことを言っていますよ。はっきり言って失礼ですね。「哲学は私にとって役立つかどうか」かあるいは「役立つ」だろう。第一、自分が個人主義でないと思っている人が一人でいれば、ひっくり返る。どうも「公平な第三者」がこの人の中には欠けていると断言できる。きついが事実だ。言い換えれば「独りよがり」だ。

3日前 No.1871

ヴィランのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_pzR

別スレですが、下記リンク先に、独我論と超越論的哲学との関係について述べました。

よければご覧ください。

http://mb2.jp/_tetsugaku/933.html-1464#a

2日前 No.1872

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>安齋昌宏さんへ

>>ヴィランのふくろうさんへ


>久しぶりに議論を拝見しました。もういろいろな意味で「破綻」している独我論に関して議論がいまだに続いているのが不思議である。( >>1863 、安齋昌宏さんの発言)

>もういろいろな意味で「破綻」している独我論に関して議論がいまだに続いているのが不思議である。( >>1864 、安齋昌宏さんの発言)

>そうです。「論」としては最早、破綻は明らかです。( >>1867 、安齋昌宏さんの発言)


 多くの哲学者たちの間で、「独我論は実証も反証もできない」という点で意見が一致しています。つまり独我論は、正しいと実証はされていないけれど、間違っていると反証されてもいないので、「破綻」はしていないと思います。それを「破綻している」と決め付ける人の方こそ、論理の飛躍をしていると思われます。

 安齋昌宏さんはキリスト教の信者なのでしょう? もちろん信仰の自由が有るので、それを非難するつもりは有りません。しかし、キリスト教を信仰してしまうと、独我論のような思想は全くもって受け入れられなくなるだろうことは、容易に想像できます。仏教やインド哲学だったら独我論と相性が良いと思いますが、さすがにキリスト教だと独我論はナンセンスかつ神を受け入れない罰当たりな思想になりそうですね。

 要するに、キリスト教という宗教を信仰してしまうと、偏った価値観に縛られてしまい、独我論のような哲学的に重要な問題を考察する思考力を失ってしまうという、典型的な具体例ではないのでしょうか。

2日前 No.1873

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>安齋昌宏さんへ

>>ヴィランのふくろうさんへ


 「「キリスト教」と「独我論」とは両立できない」は確かに言えそうです。「キリスト教」の教えである「神を愛しなさい」も「隣人を愛しなさい」も、自分の心以外に「神」や「心を持つ隣人」の実在を大前提にしているため、「キリスト教」を信じているということは、「独我論は間違っている」と信じていることになります。逆に「独我論」を正しいと考えると、実在するのは自分の心だけであり、「神」の存在も認められないし、「心を持つ隣人」の存在も否定されてしまい、「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」という「キリスト教」の教えは根底から否定されてしまいます。では、どう考えるべきか?

 SumioBabaは、論理の飛躍を一番嫌います。「独我論」は実証も反証もできないので、「真」と「偽」の両方の可能性を考えます。「キリスト教」の教えもまた、実証も反証もできないので、「真」と「偽」の両方の可能性を考えます。

 一方、安齋昌宏さんは「キリスト教」の信者ということで、実証も反証もできないはずの「キリスト教」なのに、偽である可能性を無視し、真だと決め付けるという論理の飛躍をしておられるように思います。「キリスト教」を真だと決め付けてしまうと、両立できない「独我論」の方は、実証も反証もできないはずなのに、偽だと決め付けることになり、これもまた論理の飛躍をしてしまうことになります。

  つまり、SumioBabaの診断は以下の通りです。
● SumioBabaは論理の飛躍をしないので、「独我論」も「キリスト教」も、「真」と「偽」の両方の可能性があると判断する。//
● 安齋昌宏さんは、「キリスト教」の信者であるため、実証も反証もできないはずの「キリスト教」を真だと決め付け、実証も反証もできないはずの「独我論」を偽だと決め付けるという、2つの論理の飛躍をしてしまっている。//

2日前 No.1874

きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj

SumioBabaさん

あまり興味のある話題ではないですが、独我かつキリスト教徒も可能ではないでしょうか?
私は神であり、キリストであり、隣人でもあるとすれば、神を愛することも隣人を愛することも自己愛となる気がしますが。

2日前 No.1875

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

 少し整理しましょう。私も認めることは「独我論」は差し当たって「真でも偽でもないという「論理計算」は正しいと思います。しかし、「実際生活」とか「言語の用法」とか「生」という観点を導入すると行き詰ってしまうことも確かです。特に言語の用法に照らすと「独我論」だけに限定すると普通の言葉の用法ができなくなります。つまり独我論を理論として採用することは「自由」で許されることです。しかし、「実際の生活」、「言語活動」でも独我論の立場をとると不可能なので「乖離」が生じ、それを「破綻」と言ったのです。ただ私に過ちがあるとすれば、独我論の方々にこの「乖離」があるかないのかを一方的に決めつけてしまったことだと思います。
 信仰についても論理計算、真理値の立場ではまた論理的経験的検証手段は厳密にはなく、「真偽は問えない」でしょう。「信仰」とは「人間が神に知性と『意志』を奉献し、神からの啓示されたことがらを受け入れて、己を神にゆだねること」です。「啓示」に関しては知識という観点からは「ドグマ」を含んでいます。私は自分なりの人生の歩みの中でそれを主体的意志で「受け入れた」のです。問題は実生活との関係ですが、動揺や挫折はありますが、「破綻」や深刻な「乖離」は幸いありません。実際には「幸福」だと思っています。試練の経験が時々あり、その時は「幸福」と実感できなくとも今のところ、とにかく「幸い」だと思いますし、感じています。そういう意味で神に感謝していますし、信仰を持ってよかったと思っています。また「人生に意味が与えられたことが最大の幸い」と私は思っています。

2日前 No.1876

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

SnioBabaさんにお聞きしたいのはあなたの「命題」の帰属する領域と観点です。例えば「知識、認識の観点」から「哲学の立場で論じる」のか、「信仰の立場」で「神学を論じる」のではまったく違います。区別しないと言語の使用として混乱が生じてしまうでしょう。お願いですが、今まで語られたことをこのことを踏まえて整理していただくとありがたいです。

2日前 No.1877

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

理論的反論ではありません。例えば独我論的な言語を使用していけないと仮定します。日常言語をその前提で使用としたら何が起こるでしょう。まず「人称」の問題で困難にぶつかります。全部「一人称」しか使用してはいけないとすれば単純ですが、「実際的」にやってられないと思います。したがって次善策は「一人称に翻訳する」ことになると思います。例えば虫歯の治療では「患者を自分の意識の中の登場人物として立てる」とかです。実在する他社ではなく、一人称の唯一の「我」が登場人物としてみなすことが不可避です。こんな面倒くさいことを正直、やってられないと思います。日常言語で「二人称や三人称」があるのは「適当に実在として扱った方が生において有効であるから」だと思います。理論的には不徹底かもしれませんが、生活稼働の「道具」としてはこっちの方が便利なのは明らかでしょう。

2日前 No.1878

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

SumioBabaさんへ。理論的にはあなたの「証明も反証」もできないで何も問題がありません。私の観点は「生活」や「日常的生活実践としての道具」としての言語という観点です。もちろん、言語のすべてがそうだと言っているわけではありません。しかし、これはかなり言語の実際の本質的機能の一つでしょう。
「各人には自由がある」、「各人には生きる目的がある」、「各人の人生は有限である」とかもほぼ例外のないことだと思います。
ぶっちゃけた話、「独我論」を主張している人も「実際生活」で独我論を採用しているか、という疑問です。採用しない自由もあります。独我論が、正確には独我論的な言語活動が如何に「不便」かの証明は簡単すぎると思います。もうくどいのでしません。「反証も論証」もできない理論をそんなデメリットの多いのに「私は採用したくない」ということです。特に賛同も、他者に強制もしていません。ビジネスパーソンたちならこの議論をどう評価するでしょう。これも失礼な言葉かもしれません。しかし、正直な感想です。

2日前 No.1879

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

結局、私は一人の人間として、一人の日本国民として当然の「思想、良心の自由、言論の自由」を行使しているだけだと思っています。乱用には注意してます。ただ独我論は理論としては「証明も反証」もできないことが「証明」されているということとは明らかです。しかし実際生活で「独我論」で生きること、活動するとこ、言語活動をすることが「とても不便である」ことも間違いないと「私は」思っています。だから「独我論」を採用される方にその採用する理由を伺いたいだけです。これは権利の乱用でしょうか?私は自分と他の皆さんがなるべく幸福であってほしいと願っています。だから、お聞きしたいのです。

2日前 No.1880

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

一番気になるのは「独我論」に反対したり、疑義を言うと「必ずお前は哲学がわかっていない。無知だ」と断定されることです。そうでないことはいくらでも証明できますが、物理的制約で不可能ですね。私は違和感を感じます。もっと生産的で丁寧な議論をした方が「私は」いいと思います。

2日前 No.1881

ヴィランのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_pzR

ほお。

じゃあ、哲学だと思って、独我論について真面目に議論している者たちに向かって、

>もういろいろな意味で「破綻」している独我論に関して議論がいまだに続いているのが不思議である。( >>1864 )

>「論」としては最早、破綻は明らかです。ということは「独我」という「人生観」のことになります。それならいくらでも議論は果て無いでしょう。


このように言うことと、「きみたちには哲学的センスがない」ということと、いったいどれほどの違いがあるというんですか?
自分はいきなり現れて、独我論について議論することの「哲学的議論としての意義そのもの」を否定しておいて、次のようなことをよく言えるなと私は思いますね。

>もっと生産的で丁寧な議論をした方が「私は」いいと思います。

1日前 No.1882

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

私は相手の「哲学的センスの有無」など問題にしていない。正しいか、間違っているかだけです。人生観を語ることに限界を定めることは相手の言論の自由を侵害することになるでしょう。「哲学的議論の意義そのもの」を否定していない。過敏な反応の失礼だが「不審感」や「違和感」を覚える。

1日前 No.1883

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

独我論とは「自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神のみであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識は信用できない」という思想的立場である。他方、実在論とは「自分の意識や主観とは独立の実在を認める」思想的立場である。明らかに「自分の存在以外のもの」に関して「実在性」に関して両立しない。

1日前 No.1884

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

従ってヴィットゲンシュタインが明らかにした「超越論的独我論の実在論への必然的転換」は「ないと思っていたもの」が「あると思う」ことになり、対立の解消ではなく、アポリアと捉える方が我々の共通感覚からすると自然だと思う。

1日前 No.1885

宿題 ★eM1n2yJmTo_po8

フッサールさんは「自分の眼で確かめない限り信じない」という態度でした・・

この場合・・地球が回っていることを確かめられなかったので天動説でしょうか?

1日前 No.1886

ヴィランのふくろう @owlman ★CZPpJSpIQU_po8

あなたは独我論が既に論理的に破綻しているのは明らかと言った。
それが正しいなら、我々の独我論についての議論は、哲学的にはナンセンスだということになる。
だから、我々が哲学的議論だと思ってやっているのは、実際には人生観の強制にすぎないと言うわけだ。

これが本当なら、我々は昨日降った雨でできた水たまりで魚釣りしている愚か者と変わらない。
こんなことを言われて、うれしい者がいると思うんですか?あなたは。

しかも、その根拠が、 >>1884 で書かれているような、表面だけの極浅の独我論理解なのだから話にならないと言っている。
あなたがここにいる人たちと誠実に議論する気があるのなら、メモ欄に私がリンク先を示した文章と、700番台の議論を読んでからです。
あなたに言うべきことは、えぴめてうすさんとパズズさんという独我論否定論者に対して、私とSumioBabaさん、そして気まぐれさんなどが述べたこととほとんど被ることになるから。
少なくともそれからでないと私は議論しません。
この哲学板の良心であるSumioBabaさんに相手してもらってください。

1日前 No.1887

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>1875  きまぐれさんへ

>あまり興味のある話題ではないですが、独我かつキリスト教徒も可能ではないでしょうか?

>私は神であり、キリストであり、隣人でもあるとすれば、神を愛することも隣人を愛することも自己愛となる気がしますが。


 はい、とてもナイスなご意見だと思います。実は、SumioBabaがまさにそう考えます。SumioBabaの考えだと、「神」はあらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現しています。「キリスト教は正しい」も「キリスト教は間違いだ」も、両方実現しています。そして、「キリスト教は正しい」と考えるとき、上の記述のような解釈になります。これはインド哲学でいう「梵我一如」ですね。しかし、一般の「キリスト教」信者には、「梵我一如」は無理だと思われます。

 「キリスト教」は、「旧約」→「新約」と進化しました。「神」と「人間」との関係は、「旧約」では「主人」と「僕」でしたが、「新約」では「父」と「子」に変わりました。もう1つ進化すれば、「旧約」→「新約」→「梵我一如」となるだろうと思います。しかし、「キリスト教」が「梵我一如」にまで進化することは決してできないと思われます。なぜなら「キリスト教」は、「堕落」「原罪」などという余計な概念を取り入れてしまったから。もし「キリスト教」が「梵我一如」を主張したら、「堕落」したのも「神」自身、「原罪」を背負っているのも「神」自身、というメチャクチャなことになってしまい、「キリスト教」は崩壊してしまうでしょう。

 「キリスト教」が「キリスト教」であるためには、「自分」(1人の人間)と「神」とは絶対に他者であることが要求されてしまい、当然「自分」と「隣人」も他者になります。「堕落」「原罪」という考えが間違いだったと訂正しない限り、「キリスト教」が「梵我一如」にまで進化することは有り得ないと思われます。このように、「堕落」「原罪」などという余計なものを取り入れてしまった点こそ、「キリスト教」の大失敗だったと思います。

1日前 No.1888

地下水 ★KATHFaYqOw_0zR

>>1888  助け合えば豊かな世界になります。しかしその豊かな世界を強者が乗っ取ったらどうなるでしょうか。それを防ぐ方策も必要です。その仕組みが問題なのです。

1日前 No.1889

地下水 ★KATHFaYqOw_0zR

>>1888  例えば、その豊かな世界を、強者が食べようとすると、毒にあたって死ぬとしましょう。その毒は、助け合う人々には、むしろ糧であり、効かないとしましょう。助け合いの豊かな世界は、例えばその様にできていないとイケナイのです。

1日前 No.1890

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>1876  安齋昌宏さんへ

> 少し整理しましょう。私も認めることは「独我論」は差し当たって「真でも偽でもないという「論理計算」は正しいと思います。


 じゃあ、「もういろいろな意味で「破綻」している独我論に関して議論がいまだに続いているのが不思議である。」( >>1863 、安齋昌宏さんの発言)は撤回されるのですね?

>しかし、「実際生活」とか「言語の用法」とか「生」という観点を導入すると行き詰ってしまうことも確かです。特に言語の用法に照らすと「独我論」だけに限定すると普通の言葉の用法ができなくなります。つまり独我論を理論として採用することは「自由」で許されることです。しかし、「実際の生活」、「言語活動」でも独我論の立場をとると不可能なので「乖離」が生じ、それを「破綻」と言ったのです。


 貴方は根本から「独我論」を誤解されています。55mさんと同じ誤解です。SumioBabaが >>0 の後の「メモ」に書いている【なぜ独我論は実証も反証もできないのか?】の通りです。貴方は、「私」と<私>、「外在0」と「外在1」、「世界W0」と「世界W1」を混同してしまっているのです。

 独我論者とて、自分が住む世界W1の中では、自分が1人の人間である「私」という設定になっていて、時間・空間の広がりや様々な物体という「外在1」が存在し、心を持つかのように振る舞う他人も大勢存在することは、十分認めているのですよ。だから、世界W1で生活するときは、法律は守ろうとするし、物理法則にも従おうとするし、友情も愛情も立派に成立します。つまり、人間としての「実際生活」は立派にできます。

 それでいて独我論者は、この世界W1を、「自分が見ている夢かもしれない」と疑うのです。その場合に想定されるのが、全く別の世界W0に居て、世界W1という夢を見ている<私>です。そして独我論者は、「実在するのは<私>だけかもしれず、<私>の外部としての「外在0」など何も存在しないのかもしれない」と疑うのです。つまり独我論者は、「外在1」の方は存在を認め、「外在0」の存在を疑っているのです。

 なのに貴方は両者を混同してしまい、「「外在」を認めないと、人間としての実際生活などできなくなってしまう」と言ってしまっています。それは「外在1」の方でしょう? 独我論者が疑っているのは「外在0」の存在の方であって、「外在1」の方は存在を認めているのですから、独我論者が立派に「実際生活」できるのは当たり前じゃないですか。

1日前 No.1891

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>1877  安齋昌宏さんへ

>SnioBabaさんにお聞きしたいのはあなたの「命題」の帰属する領域と観点です。例えば「知識、認識の観点」から「哲学の立場で論じる」のか、「信仰の立場」で「神学を論じる」のではまったく違います。区別しないと言語の使用として混乱が生じてしまうでしょう。お願いですが、今まで語られたことをこのことを踏まえて整理していただくとありがたいです。


 ここは哲学を議論する場なのだから、「「知識、認識の観点」から「哲学の立場で論じる」」の方に決まっているではないですか。もしかして安齋昌宏さん、ここは哲学を議論する場なのに、「「信仰の立場」で「神学を論じる」」の方をやっちゃってるのですか?

1日前 No.1892

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>1880  安齋昌宏さんへ

>ただ独我論は理論としては「証明も反証」もできないことが「証明」されているということとは明らかです。


 はい、ここまでは共通認識に至れたようで幸いです。

>しかし実際生活で「独我論」で生きること、活動するとこ、言語活動をすることが「とても不便である」ことも間違いないと「私は」思っています。だから「独我論」を採用される方にその採用する理由を伺いたいだけです。これは権利の乱用でしょうか?私は自分と他の皆さんがなるべく幸福であってほしいと願っています。だから、お聞きしたいのです。


 かつて、ふくろうさんが的確な表現をされていました( >>778 )。「素朴実在論」と「独我論」とは、譬えると「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」のように、公理系そのものが異なるのであり、臨機応変に使い分けるべきものであって、どちらか一方だけが正しいと言えるものではないのです。

 世界W1において、自分は1人の人間である「私」という設定になっており、時間・空間の広がりや、様々な物質や、心を持つかのように振る舞う他人たちが存在しているのを認識します。この世界W1でどう生きていくかを考えるときは、「素朴実在論」を証明なしに真だと仮定して「公理」に定めた《素朴実在論的言語》を用いれば良し。

 「実在するのは<私>だけであり、世界W1は自分が見ている夢かもしれない」と疑って「独我論」を論じてみる場合には、「独我論」を証明なしに真だと仮定して「公理」に定めた《独我論的言語》を用いれば良し。

 ただこれだけの事です。なのに貴方は、両者を区別できずに混同してしまっています。
>例えば虫歯の治療では「患者を自分の意識の中の登場人物として立てる」とかです。( >>1878 、安齋昌宏さんの発言)

 医者が患者の虫歯を治療するというのは、「世界W1において、1人の人間である「私」としての医師が、他者である患者に対してどう振る舞うか」という問題なのですから、当然《素朴実在論的言語》を用いれば良いだけの話です。なのに貴方は《独我論的言語》を持ち出してしまうという混乱をしています。これって、「ユークリッド幾何学」を議論している真っ最中に「非ユークリッド幾何学」の公理を持ち出してしまい、矛盾が生じて何が何だか分からなくなっているのと同じ状況です。

 《素朴実在論的言語》を用いて考慮すべきときには、《独我論的言語》を持ち出してはいけません。《独我論的言語》を用いて考慮すべきときには、《素朴実在論的言語》を持ち出してはいけません。ただそれだけの事です。

1日前 No.1893

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

SumioBabaさんへ。おっしゃる通りです。私も随分、誤解を招くようなことを書いてしまったと反省しています。最後の結論には賛同します。我々の日常言語では、一人称があります。ということは「独我論」的な使用もしていることになると思います。だから実際には我々は「臨機応変」に実在論と独我論を「使っているという」のは現実、真実に近いと思います。したがって、実在論的使用をすべて排除するという意味での「独我論の採用」は私はできないと言いたいのです。

1日前 No.1894

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

ヴィットゲンシュタインの「言語の意味は用法」である、という主張の効果がこの議論で再確認できたと思います。用法とは具体的には文法になると思います。人称構造を文法が持っている以上はわれわれはSumioBabaさんの言われる通りに「臨機応変」に用いていることになると思います。この「あいまいさ」、「臨機応変さ」を正当化するのはやっぱりヴィットゲンシュタインの「生の形式の一致」だと思うます。我々の「生の営み」であり「生の活動」だと思います。我々は生きていますし、生きていかねばなりません。そのためにはこのような臨機応変な使用が必要だということだと思います。

1日前 No.1895

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

私は釈尊の「毒矢のたとえ」が好きです。虫歯を治すのに「独我論」か「実在論」かを議論はほとんど意味がないと思います。一番、大事なのは虫歯を治すことでしょう。

1日前 No.1896

ヴィランのふくろう @owlman ★CZPpJSpIQU_po8

だったら哲学しなければいいのです。

あなたは哲学的議論の意味を否定している。

つまり、哲学の意味が理解できないのだ。

だから、哲学的センスがないと私は言うのです。

16時間前 No.1897

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>>1896
安齋昌宏さま
虫歯は治せないと思う。

>>1897
ヴィろうさま
「哲学的センス」って、わたし、気に入ってる。
「哲学的議論」っていう、哲学に議論をもちだすことって、哲学的センスは封じられてしまってる感じ。

あ、ここ独我論について、だったね。

「それ」に誰かが「リンゴ」って名付けた「語」。

15時間前 No.1898

ヴィランのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_pzR

>>1898  悪魔ちゃん

お願いだから、「びろう」って呼ぶのはやめて。

び‐ろう【尾籠】 の解説

[名・形動]《「おこ(痴)」に当てた漢字「尾籠」を音読みしたもの》
1 不潔であること。また、そのさま。「食事中、尾籠な話になるが」
2 わいせつであること。また、そのさま。
3 礼儀をわきまえないこと。また、そのさま。無礼。


私は今、こっち
 ↓
【ヴィラン】
ヴィラン(Villain)とは、英語における「悪党」や「悪者」を指す言葉。また「悪役」の事も意味する。

よろしくお願いしますm(__)m
ま、ふくろうでもいいし^^

議論のことだけど、そうは言っても、哲学はソクラテスの最初から、議論で始まったようなものだからねえ…

15時間前 No.1899

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>>1899
ヴィランのふくろうさま
わたしが略した「ヴィろう」の意味、わかってもらえたのね、ちょっとうれしい。

わたし、「議論」って言う語の語の意味を
1.互いの意見を述べて論じ合うこと。
2.思いつくままに口から言葉が出てくる日常の会話とは異なり、専門的な議論方法では、思考を論理的に組み立てる必要が生じてくる。
ってしてます。

ソクラテスは、「議論」しようとしていたんじゃなくて、「問答」していたんじゃないか、って、わたし見てます。
当時、いわゆる知識人と呼ばれている人たち(a)に問います。そしてSは答えます。そしてそのsの答えに対してに問います。
これを続ける。
これが「問答」って、見てます。

ソクラテスは「無知の知」って言っているみたいです。
彼はこのような問答を通じて〈私たちは実は何も知ってはいないのではなかろうか〉って思ったんじゃないかしら?

「私は何もしらない」ってしちゃうのは簡単。それで「考えること」を終わりにできる。
でも、「私は何を知っているのか」って自問したとき、考えることを終わりにすることができなくなる。


あ、ここ独我論だったね。
「リンゴ」ってわたしが「それ」に名付けた「語」じゃない。
でもわたしは「それ」を「リンゴ」(「apple」でもいいよ)って言う。

14時間前 No.1900

ヴィランのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_pzR

>>1900  悪魔ちゃん

>わたしが略した「ヴィろう」の意味、わかってもらえたのね、ちょっとうれしい。


なんやと?意図的やったんかい?


議論じゃなく問答ね。

問うことには哲学的センスが必要だってことかな。

それが議論になると封じられると。

なるほど。

ちょっと面白かったんで、かんべんしといたるわ。

14時間前 No.1901

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>>1900 ちょっと間違えちゃった。訂正します、
「そしてSは答えます」は「そしてaは答えます」です。

このことについてもうちょっと書くと、
sが言っていることに対してソクラテス(S)が問います。そしてaはそれについて問います。aはSの問いに答えます。・・・これを続けるのです。
すると、ある時点でaは答えることができなくなる。
これが「無知の知」ってこと。
aがこの無知の知を”知った”かどうかは、わたしにはわからいけど。

13時間前 No.1902

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>>1900, また間違っちゃとこ見つかっちゃた。
「私は何もしらない」じゃなくて、
「無知の知」って、「私はなにも知らないことを知っている」っいうこと、ってわたし、見てる。

ごめんね、すぴのざさま、ブルーリボンが表示されているなかで。もうここへの書き込みやめるね。

13時間前 No.1903

安齋昌宏 ★IpEO77cCOU_fud

わたしが躊躇し、戸惑うのは「哲学的センス」の意味がよく分からないからです。私に問題があるのかもしれません。しかし、そのセンスの有無はどうやって判定するのか、よくわかりません。

6時間前 No.1904

安齋昌宏 ★Android=z7AcRBMmQC

失礼だが、私が哲学する自由まであれこれ言うのは論外の越権行為であり、権利の乱用ではないか?

1時間前 No.1905

安齋昌宏 ★Android=z7AcRBMmQC

真面目な話、釈尊が素晴らしい哲学的思惟をしたのは真実です。彼がそれを成し遂げたのは「意味を持つことと持たないこと」を明確に区別したからです。私の言いたいことも本質的に同じです。哲学は「哲学的真理」を求める言語活動です。独我論を批評したら哲学するなは、この活動の保証する言論の自由の侵害、それは大袈裟でもその観点からおかしく、逆に哲学的活動を否定することにならないだろうか?

1時間前 No.1906

安齋昌宏 ★Android=z7AcRBMmQC

私が少し愚かだった。ネット上では「独我論は特に否定する必要はない。」が大多数の意見だった。時間の無駄だった。

1時間前 No.1907
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