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独我論を乗り越える方法

 ( 哲学掲示板 )
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すぴのざ ★0gLpHaJ.DeM

【レスする前に】
このスレで使う言葉の意味は辞書、wikipediaに記述してあるものを使用してください。2つに記述されていない意味を使用する場合は、どのように定義しているかを明示してください。

【独我論とは(wikipedia「独我論」から転載)】
概念

「客観的存在に対する常識的見解」
私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。


「独我論からの反論」
これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。

このような客観的事物の認識の不可能性は、バークリーやカントなどの観念論に代表される(もっとも、カントは、このようなの不可能性を認めた上で、あえてそのような認識前の存在(物自体)を肯定する。バークリーも、他者や神の存在を認める以上、独我論者であるとは言えない)。

ウィトゲンシュタインにおいて、自己と他者の非同一性の考察から出発した、世界の人間のうち、一人だけ本当の私がいて、他の人間は意識的な存在者ではあっても、この私ではない。すなわち、本当の私は自分一人のみであるという主張。また、彼においては「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現される。

バートランド・ラッセルによれば、非演繹的推理によって自己の直接的経験を超え出ることを認めない限りは、瞬時における自我だけが存在するとする瞬間の独我論を容認することは避けられないといわれる。

古来はその世界観(世界の存在を通して)を批判されていたが、現代ではその「私」とは何であるかという形で批判を受けている。


【本題】
独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
出来るとしたら、その方法は?
あなたの独我論に関する考えを教えてください。

参考書籍などを記載してもらえるとありがたいです。

2007/08/23 10:38 No.0
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宿題 ★RbvL5VVr1p_FIP

疑問文さんの言い方がいやらしいのでカチンと来ます。

2年前 No.377

うさぎ ★kTn622sHGL_ZFe

もしも、その人が独我論により幸福感を感じるならわざわざ独我論を否定したり、乗り越える必要はないのでは?

日本では独我論とは自己中だと誤った解釈をしている逆に、唯物と実在論者こそが自己中なのに・・・

1年前 No.378

うさぎ ★Tablet=4eXp3DTTdG

客観的唯物論とは一体なにか? 私の身体、私の土地、私の財布、私の評価、私の所有物等々がすべてで

欲望と権利意識だけが唯物論といえる。独我論とはなにか??? myのない観念論なのです。

自己中とは唯物論者の必要で十分な条件 。日本では独我論と逆に勘違いされている。

1年前 No.379

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

事物(木やビルやリンゴ)を知覚、認識する時、それを外的にみるか内的にみるかで大きな違いが生ずる。

無知な人々は独我論を自己中だと勘違いしている。むずかしいが、独我論とはイエス・釈迦的な利他主義

をあらわしている。私自身を大事に思うことは「他人も私である」というのが、独我論の真の意味なのです。

つまり「自分の外側に事物がある」と「その事物(人も)は私の心である」の違いである。内的・外的ネ

11ヶ月前 No.380

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

お釈迦様は「天上天下唯我独尊」と言われた。お釈迦さまは有名人だから感動するが、現代ホームレス

の橋の下で空き缶集めのオッちゃんが、「世界の中心は我だ」といったら、「おめえは自己中だ!」と

唯物論者は叫ぶだろう。  権威好きとか流行好きとか多数意見思考とかこれに書いてあるとかアレに書いてある

とか、お釈迦さまは有名人だから・・・

10ヶ月前 No.381

百理 ★5n9Jhh5DYh_DpT

「余がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスでありたい」
ギリシアを傘下においた大王のもとに様々な大臣や哲学者が挨拶に訪れたのに、シノペのディオゲネスだけは自分の住処から一歩も動こうとしなかった。
出典
読書・研究日記: 大王と哲学者
アレクサンドロスがこの地に赴いた際、日向に寝そべっていたディオゲネスを見かけて、「何か欲するものはあるか」と尋ねると、この奇人は「そこをどいてくれ、日が遮られるから」と言ったという。
出典
読書・研究日記: 大王と哲学者
悠揚せまらぬこの態度に王はむしろ感服し「余がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスでありたい」とまで言い放った
出典
読書・研究日記: 大王と哲学者

10ヶ月前 No.382

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

ようやく貴方は真理とは何かがわかったみたいですね?  コピペだけれども。

10ヶ月前 No.383

わたし ★30JjgxOVKX_m9i

〉381、うさぎちゃん、

彼(彼女)らは、〈唯物論者〉じゃないよ。

あなたやわたしと同じ実存者だよ。

10ヶ月前 No.384

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

独我論というのは、観念論の最終目的地であるが、普通・常識で考えられているのは理想主義とか自己中とか無知な人
たちの定義であって、実際は、独我論者とは利他主義で世界を内的にとらえる主義の人であって、利己主義とは真逆なのである。自己および他者を内的にとらえるとは、まさに平和主義といえる。

8ヶ月前 No.385

池田剛 ★jikH2yagti_OSy

自分が考えた独我論論駁です。

まず、「永井均の意識しか存在しない」という独我論をN独我論と呼ぶことにします。

N独我論は、僕に意識があることから偽とわかります。

残りの独我論で真である可能性があるのは池田剛の意識だけが存在するという、I独我論です。


わたしは、脳の構造が人間同士で似ていること、人間の行動も人間同士で似ていること、から、自然にわたし以外の人間にも意識があると推定できるとおもいます。

これについては、帰納の懐疑などの別の独我論が立ち向かってくるかもしれません。帰納の懐疑などの懐疑論は、実践理性(実践の中で真がなにかを判定する能力)によって解決されると考えます。つまり、行動の中で生じてくる常識です。

実際には、懐疑論というのはそもそも人間の行動の「つねにすでに」のなかで存在しないものです。はっきりしたなにが真であるかを知るという総合的能力があって人間はいきられ、懐疑論すら、その地平の中で行われています。(本当に懐疑論を徹底するなら懐疑論そのものが構築できないはずである。)

その他、多重人格の人間は、自分の意識の外に自分の別人格を抱えていますが、多重人格が解決するとそれら人格は融合します。ここから人格というのはある主観の外に成立しうるということが経験的にいえるとおもいます。

8ヶ月前 No.386

今日人 @shrapit ★0FtEoBvIOA_qxX

>>386
そりゃ、アキレスと亀の問題を、「実際やってみたら、ほら」と言うようなもんじゃないか。
根本的な問題解決にはならないのでは。つまり、理論の問題は理論のなかで解決しないと、意味がないんだ。
もちろん現実があるからこそ、理論はおかしいんじゃないかってことが推定されるわけだけど、
じゃあその理論のどこがおかしいのか、ということを考えるのが哲学じゃないのかな。
理論が、論理的に間違ってないのなら、我々の使っている論理学に何か綻びがあるというわけで、
実際あるのかもしれないが、それを改めて考える必要があるんじゃないのかな。
結論を持ってるわけじゃないんだけど、懐疑論は懐疑論のなかでは成立しない、というのは面白いかもしれない。

8ヶ月前 No.387

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

アキレスが亀に追いつくのに要する時間は lim tちょっと数式を表現できませんn→∞ =S/V-v

みたいなかんじで物理学の難しい回答があります。

手続の一回の数が無限大と言うこと時間無限大と言うことと同次元ではないのです。

割り算と足し算といっしょにするようなものです・・

8ヶ月前 No.388

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

アキレスと亀は解決されてるのかよく知りませんがね、ようはそういうことです。理論を現実で反駁しようとするのはナンセンスだということです。どんなに現実的な事柄とかけ離れた議論でも理論によってそのまちがいを証明しなければならない。独我論はとくにそうやって現実によって反論を試みやすいでしょうからね。

ところで蛇足ですが、その数式は自分がなんとなく考えてきたことと近い気がします。つまりあれは近づくまでの過程を無限に切断する作業なんですね。たしかな言い方ではありませんが。

8ヶ月前 No.389

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

式に表すと解りやすいのです・・

limαのn乗=0だからです。nが無限大になった極限が追いつく時間です・・

8ヶ月前 No.390

池田剛 ★PrkAVK3YOd_OSy

独我論は理論的反駁可能だとぼくは考えます。

理論と言っても、論理的部分と実証部分からなります。実証的部分のない理論というものはありません。

なので、「僕に意識がある」という観察は理論を支える決定的証拠です。

観察や検証も「理論」だということでもう一度検討していただけませんか?


アキレスと亀のパラドクスについては、物理学的未解決問題だとおもっています。非常に小さいミクロの世界について、運動がどうなっているかについて、物理学が究極的解決にいたっているか、相当調べましたが、決定的解答にはいたりませんでした。プランク定数が運動にも効いてくるのかどうか、調べた限りでわかりませんでした。

プランク定数(プランク長さ)が運動にも及ぶのならば、アキレスと亀のパラドクスは、最小単位の存在ということで決定的に解決されるとおもいます。さらに分割可能な場合は、さらなる物理学的探求ということになるとおもいます。

僕の見解では、このような問題は純粋物理学的に解決されることはあるが、哲学的形而上学的に解決されることはほぼないという経験です。(たとえば宇宙に果てがあるかどうか、という問題に近い)

8ヶ月前 No.391

池田剛 ★PrkAVK3YOd_OSy

観察や実証も理論という部分については、科学哲学的知識が必要かもしれないので補足しておきます。

論理実証主義者が分析したところによれば、科学理論というのは「センスデーター命題」+論理学+数学という構成をもっています。

つまり、

「この林檎は赤い」(正確にはこれはセンスデーター命題ではないのですが、あるセンスデーターの集合が、「この林檎は赤い」という命題を構成します。)

「次のりんごも赤い」

「次のりんごも赤い」

ここから、「すべてのりんごは赤い」という法則を帰納する。こうして法則知がセンスデーター命題と帰納によって得られ、この法則の集合が理論です。

したがって、すべての理論は、観察命題とそれから帰納された法則命題の集合であります。

したがって、観察を無視した理論というのは物理学としても哲学としても成立しえないのです。

なので「独我論を理論ではなく、観察によって反駁したが、理論は理論によって反駁されねばならない」というご意見に対しては、「観察も理論を構成する一部分である」ということをもって応えたいとおもいます。

8ヶ月前 No.392

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

色彩の見本を提示する。

この色を赤とするという見本の赤色。

果たしてみんな同じように感じているのか・・

建設した理論を破壊しながら建設していく理論なのです・・

8ヶ月前 No.393

池田剛 ★PrkAVK3YOd_OSy

懐疑論に「建設的」要素があるとは自分はおもいません。

科学的に健全な立場からは、ロケット技術なり、遺伝子技術なりが生まれえますが、当然になりたつ真理にたいして、「成り立たないかもしれない」という詭弁をふっかけて不安を煽るだけの懐疑論に建設的な力など持ちえるわけがないとおもいます。(実際懐疑論から建設的な結果が出たということを僕は知りません。)

建設的かどうか以前に懐疑論は「まちがった議論」であるというのが僕の考えです。つまり、懐疑論者が「ひょっとしたらそうかもしれない」と思っていることは、偽であると僕は考えます。

たとえば、独我論であれば、「脳のようなものがあっても、意識がない可能性がある」、可能性があるというだけならまだ許せますが「意識がない可能性があるということを消すことはできない」とまでいうとまちがってくるとおもいます。

たとえば他の人の意識であれば、脳をその人と接続することによって、その人がなにを見ているか、どのように見ているかはっきりするかもしれません。「意識がない可能性があることを消すことができない」という主張は強すぎるのです。

懐疑論が生じる理由は、思弁ばかりにとじこもって現実をみなくなるからです。それは非常に危険なことなのです。

8ヶ月前 No.394

池田剛 ★PrkAVK3YOd_OSy

コンビニに行きながら考えていたのですが、永井均の「独我論」は、普通の意味での「わたし」の心の存在しかわからないという意味と、特殊な意味の<このわたし>しか存在しないという意味があったとおもいます。

前者はたんなるつまらない懐疑論で無意味だとおもいますが、後者はなにかあるかもしれません。後者のテーゼは単純な懐疑論とはちょっと違うので、偽ではないかもしれないし、意味があるかもしれません。そこは区別しないといけないとおもいます。

(正確にいうと<このわたし>というのが特別な形而上学的哲学的存在なのか、すべての存在者がもっている、「そのものがそのものであること」というトリビアルな事柄なのかは判然としません。)

8ヶ月前 No.395

百理 ★5n9Jhh5DYh_qxX

まだまだ理論が脆弱なのです。強固な理性があればなぁと思います・・

8ヶ月前 No.396

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

りんごが認識されている限りにおいてしか存在しないということは、観察が理論の一部として認識されていないということと同じですから、
独我論を否定したことにはならないと思います。

8ヶ月前 No.397

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

観察が理論の一部として認識されている限りにおいてしか「観察」が存在しない、に訂正します。失礼。

8ヶ月前 No.398

池田剛 ★PrkAVK3YOd_OSy

観察が理論の一部としてしか「観察」が存在しないとして、

だから、理論を反証する観察が存在しても、理論が反駁されない、という論旨でしょうか?

まず、そのばあい、その理論は、いかなる理論を反駁する観察が存在しても、理論が反証されないので、科学理論の条件である「反証可能性」が存在しないので、そもそも学問知や理論と呼べないですよね?

観察が理論の一部としてか存在しないので、理論を反証する観察が存在しても理論が反証されないというのは、懐疑論を支える重要な一部なのでしょうが、そもそも「知」と呼べる代物ではないとおもいます。懐疑論の欺瞞性がここに現れているとおもいます。

つまり、なにか理論のようなものを提示しているつもりになっているけど、そもそも理論とか知と呼べるようなものでなく、たんなる妄言うわ言のようなものに見えます。

つまり、懐疑論者はうわ言をいっているのであって哲学などではないのです。

7ヶ月前 No.399

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

昨日見たりんごと今日見たりんごが、「同じりんご」として帰納的に帰結されるからといって、明日見るりんごも同じりんごだとは限りません。
「観察」を、単純に「類似していること」と捉えてみましょう。
そう捉えてみると、昨日見たりんごと今日見たりんごが似ているということから、明日見るりんごも同じであると言い切れるでしょうか?
りんご」を「赤くてあまいもの」とするならば、「カビの生えたりんご」は「りんごではない」と言えますよね?
しかし実際はそうではない。「カビの生えたりんご」も昨日見たりんごと特徴を有していて、私に「りんご」と認識せざるを得なくさせるからです。
ですが、なぜ「りんごと認識せざるを得なく」させるのか?
それは、「昨日見た赤くて甘いもの」と今日見た「青みがかってまずいもの」が似ているからなのか?
だが、似ているのは、丸いところだけではないのか?

従って、どんなに「観察の理論」を確からしく唱えたとしても、独我論を「理論じゃない」「知っているとは言えない」と批判したとしても、独我論が否定されることはないでしょう。

7ヶ月前 No.400

池田剛 ★PrkAVK3YOd_OSy

世の中には、懐疑論というのがある。哲学的懐疑論。

自分がじつはマッドサイエンティストがつくった桶の中の脳(マトリックスのような)とか、他人には意識がないのではないか(哲学的ゾンビ、独我論)、とか、天がふってくるのではないか?(杞憂)、宇宙が突然終わるのではないか(科学的仮説としていわれている。)

数学の答えは、日にちが変わると変わるのではないか(クワスのパラドクス)、
論理法則は実はたんなる極め付けで、証明がなく、正しいという保証がないのではないか?(論理法則の無限背進)
記憶はすべてでたらめなのでは?
世界は五分前につくられたのではないか?(ラッセルの五分前世界創造仮設)

たくさんあるのである。桶の中の脳は映画にもなり、哲学でも有名なので、知恵袋などで実際にそうではないかと恐れる人までいるのである。

自分も懐疑論にはまってしまって、独我論とか論破するためにずっと考えてきた。

今日やっと論破できたとおもう。

まず、懐疑論と、健全な世界観を両方科学的・学問的・哲学的仮設とみる。

仮説と考えると、仮説を支持する根拠を比べて、もっともたしからしい仮設を採用するべきである。

いま、「明日重力の法則が変更されてしまう」かもしれない、という懐疑論を考える。

たしかに、可能性としては、明日重力の法則がかわってしまうという世界を描き得る。なので、論理的思考的には、そういう仮説は可能である。

そして、明日も重力の法則は今日と同じであるという健全な仮設(常識や科学)がある。

健全な仮設を支持する根拠を考えよう。

まず、重力の法則がなりたつというのはいつでもどこでもなりたってきた。思考すら、脳のなかの重力があるから可能である。

つぎに、科学的総合判断として、今までの科学理論を検討して、重力が突然変更されるということを示唆するようなデーターや理論はまったくない。科学的総合判断から、重力は変わらないだろう、といえる。

次に、哲学的直観。時間は物理的属性としては、物理法則を変えない、という哲学的直観、および、いままで時間が無力だった、だから、それを自然を未来にも延長すべき、という哲学的直観がある。

それから、実践のなかでは、重力が変わらないということは自明である。実践しているとき、重力が変わらないということを自然に人間は知っている。

それから、常識。常識的に当たり前。

最後に信仰。神様が存在するから、突然重力の法則を無意味に変えることによって人間を混乱させることはしないだろう。

これらの根拠が「重力法則は明日も同じである」という仮説を真理と信じる根拠である。

一方懐疑論のほうの仮設「重力法則が明日突然なくなってしまうかもしれない。」

これを支持する根拠は、科学のなかにも哲学のなかにも、常識でも、実践の中にも信仰の中にもない。

よって、健全な仮設のほうを真理とみなすべきである。


知性を可能にする原理、そして懐疑論が標的としてきた可能性。

斉一性の原理(法則がいつでもどこも同じようになりたつ、未来にも。時間にかかわりなく)
論理法則の正しさ(論理学の法則がただしいこと)
数学的計算の正しさ(加算の結果がいままでしたことのないものだったら、突然結果が変わるというような仮説)

独我論は斉一性の原理を用いて、脳状態が同じようであれば、意識状態も同じだろうということと、脳を接続したら他者の意識が見えるだろうという科学的推測によって、他者も存在する(哲学的ゾンビでない)ということのほうがもっともらしい仮説であるといえる。

世界を五分前に創造したということを支える考古学的、物理学的、宗教的、日常的、実践的根拠はなにもない。


懐疑論の根は、新奇な説、いままでの常識を覆す説、われわれが当たり前とおもっていることをはねのけるような説、それへの驚きから、それが真理であるのではないかという迫力に押されて、怯えてしまう。そして、慎重にその懐疑的仮説を支える根拠を検討することを怠ってしまう、ここにあるとおもう。それは哲学者でも一般人にもあてはまるとおもう。

だから精神的健全さも懐疑論をはねのけるためには必要であって、科学や常識、実践すること、も真理を選択するために必要であるといえる。(懐疑論者は実践的課題にあまりいどんでいないし、科学的思考にもあまりなじみがないのだろうとおもう。)


これで、斉一性の原理(帰納による法則の証明に使う)
論理法則
数学法則
記憶のたしからしさ
他者の意識の存在
概念を記号が指し示すことの一義性(グルーのパラドクスにたいして)

これに現象学的センスデーターの真理性を加えて、すべての知識の基礎とできるはず。

が基礎づけられた。これによって再びすべての学問と人間知を哲学が基礎付けるという基礎付け主義の構想が可能になるとおもう。むかしの論理実証主義のように、すべての学問を公理化するという目標も復活させてもいいとおもう。

7ヶ月前 No.401

十方地蔵 ★YbYhTPu8yV_mgE


「独我論」については、唯我独尊の方向に向かうのかな?

「懐疑論」についても、行く手を閉ざされたドアがたくさんある感じかな?

7ヶ月前 No.402

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    [1] 独我論は否定する方が合理的
 まず現在のところ独我論は、科学的に実証も反証もできない状況ですから、「真か?、偽か?」と問うても答は出ません。だとしたら考慮すべき問題は、「どう考えるのが合理的か?」だと思われます。その場合「合理的」とは、「謎を残さないこと」だと考えてみます。
 仮に独我論を真だと仮定します。すると早速、汚い謎がいくつか出てきます。《謎1》=「なぜ多数の人間すべてが心を持つのではなく、たった1人だけが心を持つのか?」、《謎2》=「心を持つたった1人の人間は、なぜ他の人たちではなくこの自分なのか?」、…等々。
 逆に独我論を偽だと仮定します。すべての人間はみな心を持つと考えてみましょう。すると《謎1》も《謎2》も消滅します。明らかに独我論は、肯定するよりも否定する方が合理的だと見なせます。

    [2] 心は「半存在」
 では、「すべての人間は心を持つ」と考えるのが一番合理的でしょうか? それも違います。もしこう考えると、《謎3》=「なぜすべての人間は、「心を持たない」ではなく「心を持つ」の方なのか?」という新たな謎が生じてしまうからです。
 ところが《謎3》を消滅させる上手い方法が有ります。「存在する」「存在しない」という区別は、誰にとっても共通する客観的なものだ、という常識を捨てます。そしてどの心も、どういう心の視点に立つかで「存在する」にも「存在しない」にも、その中間にも成り得るもの、と解釈します。実際、自分の心にとって自分の心は確率1で「存在する」ですが、他人の心にとって自分の心は「存在しない」と解釈することもできるのです。
 このような在り方を「半存在」と呼びます。こう考えると、「なぜ存在するのか?」「なぜ存在しないのか?」という謎も無くなります。どの心Mi(i=0、1、2、3、…)も、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」、のダブル・トートロジーが成立しているだけになります。

    [3] シュレディンガーの猫
 具体例として、量子力学の多世界解釈におけるシュレディンガーの猫の話が有ります。猫の生死を観測し、「生」だと認識した心をMi、「死」だと認識した心をMjとし、観測する前の心MkをMiとMjの重ね合わせだと解釈してMk=(1/√2)Mi+(1/√2)Mjで表します。すると、こうなります。<Mi|Mi>=<Mj|Mj>=<Mk|Mk>=1(Mi、Mj、Mk、どの心の視点に立っても、自分にとって自分の存在確率は1)。<Mi|Mj>=<Mj|Mi>=0(MiとMjのように互いに排他的関係にある場合、一方にとって他方の存在確率は0)。<Mi|Mk>=<Mk|Mi>=<Mj|Mk>=<Mk|Mj>=1/√2(MiとMk、MjとMkのように、半分一致し半分矛盾する場合、一方にとって他方の存在確率は1/2)。Mi、Mj、Mk、どの心の視点に立つかで、Miの存在確率は、1、0、1/2、と変わっています。これが「半存在」です。

    [4] 基底の直交・規格化
 最大でNビットの情報を持つ心の集合を考えます。Mx=「abcde…」が一般形です。N個の変数a、b、c、d、e、…が独立して「0」と「1」を取り得るとすると、2進法で表した「00000…」〜「11111…」という2^N=k種類の心が存在し得ることになります。これらを「基底」と呼び、m1〜mkで表します。そして、k次元空間を考えます。この空間は、k本の互いに直交する座標軸で構成されており、それぞれの軸方向の長さ1の単位ベクトルこそが、m1〜mkであると見なします。
 mi(i=1、2、…、k)はどれも長さ1であり、「miにとってmiの存在確率は1」であることを意味し、これを<mi|mi>=1と表現します。一方、これらk個の「基底」のうち、異なる2つをmi、mjとすると(i≠j)、miとmjとは必ず第1〜Nビットのどれかにおいて、一方は「0」、他方は「1」という矛盾した情報を持っています(第1〜Nビットのすべてに矛盾が無ければmi=mjになってしまう)。1つでも矛盾した情報を持っていれば、miの視点に立つ時、同時にmjの視点に立つことはできません。つまり、「miにとってmjの存在確率は0」であり、これを<mi|mj>=0と表現します。i≠jのときmiとmjとは直交しているのだから、ベクトルmiとベクトルmjとの内積<mi|mj>が0だと理解できます。
 この2つをまとめてこう表記します。【直交・規格化条件】<mi|mj>=δij〔i=jのとき<mi|mj>=1、i≠jのとき<mi|mj>=0〕。δijは「クロネッカーのデルタ」と呼ばれる記号です。

    [5] 一般形Mxの規格化
 では、存在し得るすべての心Mxの一般形はどう表されるか。答は、これらk個の「基底」mi(i=1、2、…、k)に特定の重みai(i=1、2、…、k)を付けて線形結合させたものになります。aiは複素数にまで拡張できますが、ここでは実数としておきます。Mx=a1・m1+a2・m2+a3・m3+ … +ak・mk=Σ(ai・mi) 〔i=1、2、…、kについて和を取る〕。
 重みa1、a2、…、akは独立して任意の値を取れます。k次元空間内の任意の点をP、原点をO=(0、0、0、…、0)とし、Pの座標をP=(a1、a2、…、ak)とすると、MxとベクトルOPとが対応します。つまり、存在し得る様々な心Mxの全集合と、k次元空間内に存在するすべての点Pの集合とが、一対一対応します。
 ただ、Mxは特定の心の状態ですから、「MxにとってMxの存在確率は1」すなわち<Mx|Mx>=1は満たしておくべきです。これを満たすための条件は、|a1|^2+|a2|^2+|a3|^2+ … +|ak|^2=1 で与えられます。この時<Mx|Mx>=1が保証され、これをMxの「規格化」と呼びます。

    [6] 「神」はヒルベルト空間に住む
 2つの心MaとMbとは、k次元空間内でそれぞれ特定の向きを持つ長さ1の単位ベクトルであり、それらの間に角度が有ります。MaとMbの角度がθである時、その「内積」は<Ma|Mb>=cosθになります。そしてその2乗である<Ma|Mb>^2こそが、「MaとMbとが一致する確率の平方根」あるいは「Maの視点に立つ時、同時にMbの視点にも立っている確率の平方根」を与えます。
 シュレディンガーの猫の話で、「生」を知覚した心Mi、「死」を知覚した心Mj、観測する以前の心Mk=(1/√2)Mi+(1/√2)Mj、の3つを考えました。<Mi|Mi>=<Mj|Mj>=<Mk|Mk>=1でした。これは、MiとMi、MjとMj、MkとMkが平行なので、θ=0度であり、cosθ=1を意味します。<Mi|Mj>=<Mj|Mi>=0でした。これはθ=90度であり、MiとMjとは直交していて、cosθ=0を意味します。MiとMk、MjとMkとはθ=45度に傾いており、cosθ=1/√2だから、<Mi|Mk>=<Mk|Mi>=<Mj|Mk>=<Mk|Mj>=1/√2でした。
 個々の心が持つ情報量がN→∞のとき、k次元空間のk(=2^N)もまたk→∞です。この無限次元空間を「ヒルベルト空間」と呼びます。無限次元ヒルベルト空間内のすべての点Pを考えると、存在し得るすべての心Mxが網羅されます。これらすべてのMxを、解り易くM0、M1、M2、M3、…と書き、これらすべてを要素とする集合を{M}とします。そしてこの{M}を、全知全能の「神」と定義します。すると「神」は、存在し得るすべての心についてそれが「存在する」と「存在しない」の両方を体験していることになり、「神はヒルベルト空間に住む」と表現できます。

    [7] 「神」のすべてがトートロジー
 人間の心はM1、M2、M3、…の中のどれか1つであり、特定の情報(意識)を持っています。1人の人間としての現在の自分の心をM1とすると、M1が認識できるのはM1の存在と状態だけであり、他の心の存在や状態は認識できません。だから、自分は1人の人間であって、「神」などではないと思い込んでいます。しかし本当は、存在し得るすべての心M1、M2、M3、…を線形の重ね合わせのまま平等に体験しているのであり、自分こそが他ならぬ「神」なのだと解釈できます。M1、M2、M3、…の間には相互作用が無いので、互いに自分以外の存在に気付けないのです。
 人間は、「○○○である」と「○○○でない」の片方だけしか認識できないので、「なぜ片方だけが選ばれて実現しているのだろう?」という謎の存在を実感してしまいます。しかし全知全能の「神」の視点に立てば、すべての謎が消滅します。「神」が体験しているすべての心M1、M2、M3、…の中には、あらゆる○○○について、「○○○である」と認識している心と「○○○でない」と認識している心の両方が含まれます。そして、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、というダブル・トートロジーが成立しているだけです。「神」に謎は何も有りません。
 もちろん、これこそが真だという科学的な証明はできません。こう考えると謎がすべて消滅する、という意味です。逆にこう考えないと、謎が残ります。実在するのが{M}の真部分集合{Ma}だけだと考えてしまうと、《謎4》=「なぜ他の真部分集合{Mb}、{Mc}、…ではなく、この{Ma}なのか?」という謎が生じてしまいます。そして、「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ」と諦めるしか無くなります。この謎を消滅させるためには、全集合{M}の要素すべてが確率的に「存在する」でもあれば「存在しない」でもある「半存在」だ、と考えれば良い訳です。

    [8] 実在論か?、観念論か?
 もう一つ重要な論点として、「実在論」(心が知覚・認識していない時も、物質世界は特定の物理状態を持って客観的に実在している)と「観念論」(物質世界の存在や状態は、心の中に観念として存在し得るだけである)の真偽が有ります。これもまた、科学では実証も反証もできないと思われます。従って、謎を残さない方をより合理的な解釈だと見なすべきです。
 「実在論」は、我々の住む世界が誰にとっても特定の物理状態で実在していることを主張します。つまり、「存在する」と「存在しない」のうち「存在する」の方だけが客観的に選ばれていると考えます。そうすると、《謎5》=「なぜ「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」、《謎6》=「なぜ他の状態ではなく、この状態なのか?」が残ってしまいます。
 「観念論」だと、これが超越できます。どんな世界も、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」、というダブル・トートロジーが成立します。だから合理的な方として、「観念論」を選びます。客観的物質世界なるものは実在せず、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}だけが実在する、と考えるライプニッツのモナドロジーの立場に立つことになります。

    [9] 法則に縛られることの必要性
 「神」もまた、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に「縛られる」でしょうか? もし「縛られる」と考えると、《謎7》=「なぜ「縛られない」ではなく「縛られる」の方なのか?」という謎が残ってしまいます。そうならないために、「神」は「縛られない」と「縛られる」の両方を実現していると考えます。
 ただし「縛られない」の方は矛盾が生じてしまい、自己同一性が保てず、あらゆる○○○について「○○○である」でもあれば「○○○でない」でもあって、何一つ状態が定まらない「空」M0になってしまいます。
 「縛られる」の場合にだけ、個々の心M1、M2、M3、…は自己同一性を保つことができ、特定の状態に確定した「色」になることが可能です。人間の心はこの「色」の方に含まれます。

    [10] M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕
 M0=「??????????…」(「?」=(1/√2)「0」+(1/√2)「1」ばかりがN個並ぶ)が「空」であり、完全な無意識(無情報)状態です。M1、M2、M3、…が「色」であり、例えば「01?0?110??…」や「??10???0??…」や「11?00010?1…」のように、少なくとも1ビットは「0」または「1」に確定した特定の有意識(有情報)状態です。すべての「色」M1、M2、M3、…を同じ重みで線形に重ね合わせると、すべての情報が打ち消し合って消滅し、「空」M0になります。これが、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕です。
 M0は完全な無意識(無情報)状態なので、数の0と同様、「存在する」=「存在しない」が成立しています。
 M0はM0でありながら、確率的にM1、M2、M3、…でもあります。Mi(i=0、1、2、3、…)がnビットの情報を持つ心であれば、<M0|Mi>=(1/√2)^nが成立します。例えばM1が3ビット、M2が5ビット、M3が10ビットの情報を持つ心であるならば、M0の視点に立つということは、M0の視点に確率<M0|M0>^2=1で立つと同時に、M1の視点にも確率<M0|M1>^2=1/8で立ち、M2の視点にも確率<M0|M2>^2=1/32で立ち、M3の視点にも確率<M0|M3>^2=1/1024で立ち、…を意味します。「色」M1、M2、M3、…の方も確率的な存在ですから、「存在する」でも「存在しない」でもある「半存在」になります。

→量子神学概論(多世界解釈で記述する全知全能の神)
http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html

7ヶ月前 No.403

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>403

 すみません。訂正です。

そしてその2乗である<Ma|Mb>^2こそが、「MaとMbとが一致する確率の平方根」あるいは「Maの視点に立つ時、同時にMbの視点にも立っている確率の平方根」を与えます。
    ↓
そしてその2乗である<Ma|Mb>^2こそが、「MaとMbとが一致する確率」あるいは「Maの視点に立つ時、同時にMbの視点にも立っている確率」を与えます。

7ヶ月前 No.404

ごう@魔窟ゲーム総合プロデューサー ★00cR4KcrX2_OSy

いま、自分で考えて、独我論を考察したのです。

外界も他者も自分の経験から思考(無意識含む)で析出した観念であって、直接経験ではない。

そして自由意志で動かせる範囲も自分の身体と心しかない。

そうすると自分にとって重要であるのは、自分の経験と行動しかない。

シュティルナーの徹底して自分を問い詰めていく哲学だとおもいます。

しかしまあ、経験、発見は自分一人でみているよりは他者と共有できればさらに、よい経験になる。

なので意見を発表することは意味があるとおもいます。

ただし、意見が共有されるかどうかは、偶然による。人間は自分の感性や価値観によってよいとおもうものとしかよいとおもえない。そして他者はそれぞれの感性と価値観あるから。

そうすると、最終的に自分のこころと身体と環境を整え、高めていくということに尽きるとおもいます。

7ヶ月前 No.405

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

独我論を完璧に論破することは無理だと思う。なぜなら、私の死後この世が存続しているかどうか、障子やふすまの穴から覗けたら

独我論は成立せず否定されるだろうが、我の死後には一切の宇宙は確認されない以上、独我論もあり得るのでは?

6ヶ月前 No.406

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

或る独我論者のモノローグ(その1)

客観的世界って何だろう?
それは虚構に過ぎないんじゃないだろうか。
誰もそれを実際に見たことなんてありえないから。
誰にとっても実際に知っているのは自分の見る、さわる等、知覚可能な世界だけだ。
つまり、自分が生まれてから死ぬまで、知りうるのは自分の見ているこの主観的世界だけ。

或る独我論者のモノローグ(その2)

この自分の世界は、自分の死とともに消滅する。
自分の死=世界の終わり。
この自分の世界は自分だけの世界。
自分以外の誰も、この同じ世界を見ることのできる人はいない。
自分の目に見える水平線は、自分だけに見える。
他人の目に見える水平線は同じではありえない。
同じ視点に立てば同じ水平線を見られるだろうか?
それが同じって、いったい誰が見比べ、確認するのか。
その人に見える水平線も、その人だけのものにすぎないのに。

        つづく

6ヶ月前 No.407

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

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6ヶ月前 No.408

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

フィルターがかかったので再度投稿。
>>407 の続き。

或る独我論者のモノローグ(その3)

結局、誰もがそれぞれ自分の世界=ミクロコスモスを見ているのだ。
そして自分にとって、他人はすべて自分の主観的世界の登場人物にすぎない。
誰も自分のミクロコスモスの外を見ることはできず、
ミクロコスモス同士に交通手段はない。
昔の流行歌の歌詞に「おとことおんなのあいだには、深くて暗い河がある」というのがあるが、
その河には橋をかけることが絶対にできないのだ。
一緒に眠る恋人同士であっても、同じ夢はけして見られない。
からだあわせることは、同じ夢を見られるという幻想を抱かせるごまかしにすぎない。
それはただ、「そうご(あいたがいに)ジイ(みずからをなぐさめる)行為」にすぎないのだ。
すべての「私はあなたを愛している」という言葉は嘘なのだ。
よって、他者に愛を語る者は全員嘘つきである。
彼らが愛するのは自分の思い描く他者像にすぎない。
すなわち、愛とは自己愛にほかならないのである。

6ヶ月前 No.409

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>409

独我論者のモノローグ(その4)

私は他者の存在を否定しようとは思わない。
その意味で私は「存在論的独我論者」ではなく、「認識論的独我論者」だ。
死が生の限界の向こう、私の生の外部として存在するように、他者も存在するだろう。
昔の哲学者は言った。

我々にとって死は何ものでもない。
我々が現に存在する限り、それは存在せず、
死が現に存在するときには、もはや我々は存在しないからである。

確かに私はあの世を、死を知りえない。
天国であろうと地獄であろうと、私に思い描きうるのはそれが私にとってのこの世になったときの像のみである。
私が現に存在しないなら、私は天国も地獄も思い描くことはできないのだから。
私が到達できるのは地平線のこちら側のみであり、どこまで行っても地平線は遠くに存在し、向こう側、外へ行くことはできない。
私が生きている限り私はこちら側にあり、あちら側を知ることはありえないのである。
私に描きうるのはこの世の天国と地獄のみである。
したがって哲学者に続けて我々はこう言わねばならない。
それゆえ、我々は死を思い描くことすらできないのである、と。

しかし、地平線の向こうを見ることができないからといって、地平線の向こうが存在しないことにはならない。
私の知りうる円周率の最終桁が、そして私の知りうる最大の素数が有限でしかないにせよ、その向こうがあることを私は知っているのである。
私が進むとき、私の未知だったことどもが次次と私の世界の中に姿を現す。
それは向こう側からくる。あちら側からくる。地平線の彼方からくる。
それは未だ知らざる場所から、私の知る唯一のこの世界へと越境してやってくるのである。
かつて詩人はこううたった。

 あなたは未来です 永遠の平野の空に広がる
 大いなる朝やけです
 あなたは時の夜明けを告げる鶏鳴
 露 朝のミサ 乙女
 見知らぬ男 母 死です

6ヶ月前 No.410

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>410

独我論者のモノローグ(その5)

それでもやはり、私は私の外を知りえない。知ったとき、それは常にすでに内にあるものであり、外ではないからだ。
知るとはすなわち内へと取り込むことだから。
汚すことによってしか知りえぬ私には、無垢なるものを手に入れることはけしてできない。
私は私の世界の外へでることはけしてできないのだ。
私は私の死を知りえない。知りうるのは、常に私の生の内部だけであり、生の外部としての死を知ることはできないから。
私は他者を知りえない。私が知りうるのは、私の身体の知覚器官が構成して私に見せる他者像のみであり、知ったと思っても、他者自身は常に外部に存在するからである。
私が見ているあなたは、私の意識というスクリーンに映し出されたあなたの映像であってあなた自身ではない。
私にとってのあなたは、私が目を閉じれば消えてしまい、私が意識を失えばその存在の記憶さえ消えてしまう存在なのである。
永遠に一致しえぬもの、届きえぬもの、知りえぬもの、それが他者であり、死であり、外部である。
それは到達不可能な場所、無限に隔てられた遠い場所に存在する。

あるいはそれさえも、虚妄なのだろうか?
今その光を見ている星が、2万光年の距離を隔てた宇宙のどこかで死に絶え、既に存在しないかもしれないように。

6ヶ月前 No.411

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>407-411

は、別の掲示板で、昔哲学を知らない人に向けて書いた文章に、気分転換に少し手を加えたものです。
いわば、「青春の門としての「独我論入門」」て感じです。
楽しんでもらえれば嬉しいです。

6ヶ月前 No.412

うさぎ ★Jz4o2V6epA_OmA

>412

ザビビさん、おもしろい内容で楽しいです。エピクロスもそのようなことをいっていました。
独我論は否定できないでしょうね。

6ヶ月前 No.413

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>413  うさぎさん

楽しんでもらえたようでよかった^^
ちなみに、その4で言葉を引用した哲学者はそのエピクロスですよ。
ただ、誤解があるようなので補足しておきます。

私がここに書いた文章は、あくまであるタイプの独我論の解説文であって、
私がこのタイプの独我論を支持しているわけではありません。
なので、少しきちんと哲学を勉強した人には明らかにわかる、弱い論拠の主張もあからさまに含まれています(たぶん、そういう人には私が意図的に「あからさまに」その弱い議論を用いていることがわかってもらえるんじゃないかな)。
端的に言うと、私はこのタイプの独我論は成り立たないと考えています。
もちろん、これをちゃんと議論するとすればそれなりに大変ですが。

しかし、ここに示した世界観は、むしろ >>410 で少し示唆した他者論への通路として意義があると私は思っています。
つまり、このタイプの独我論は、それを徹底することによって、否応なく逆にいわばその世界の裂け目として、境界線をその外部性、他者性が超え出てくると思うのです。
これはうどん粉さんがやっているレヴィナスの思想圏と関わってくる領域で、私はこちらのほうに関心があります。
まあ、うさぎさんは前から独我論にこだわっているようなので、これ以上は言わないでおきましょう。

とりあえず、読んでくれてありがとう。
フィルタがかかって苦労したけど、その甲斐はあったのでよかったよかった^^

5ヶ月前 No.414

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

なるほど〜、すると、俺は、ほとんど「認識論的独我論者」ってことになるな。もし、良ければ、その「弱い論拠の主張」が、どの辺に使われていて、どう弱いのか、書いてもらえるとうれしいな。

ちょっとだけ感想。

(1)モノローグ(その1)
   全く、そのとおり。っと思う。

(2)モノローグ(その2)
   死について、そういう風に語るのは、どうか。

(3)モノローグ(その3)
   前半は、ふむふむである。でも「愛とは自己愛にほかならない」ってのはどうか。

(4)モノローグ(その4)
   死に関する記述はちっとしっくりこないけど、だいたい、そうだなあと思う。

(5)モノローグ(その5)
  「私の体の知覚器官が構成して」ってくだりが引っかかる。外を知りえないと書いてるけど、「私の体の知覚器官が」ってのは外ではないのか。だが、しかし、そのようなナンクセは、あまり本質的でない、常識を慣用して分かりやすく記述しているだけのとこにそういうふうに突っかかるのは、言わんとするところの大事なところをはずしてる、って気もする。

ひとつ、よろしくお願いします。

5ヶ月前 No.415

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>415
おー、読んでくれたんですね、感想をどうも^^

>その「弱い論拠の主張」が、どの辺に使われていて、どう弱いのか


という点について、せっかくなので調子の悪い頭のリハビリを兼ねて説明します。
場所は大体あなたがひっかかってるところあたりで、私がいかにもというつもりで書いたところだから、あなたが感じている怪しさの直観は大体間違ってないのではないかと思います。
で、論拠の弱さについて説明するんだけど、その前に少し注意を。
私がここで行っている/行うのは、てじさんがやっているような正確・丁寧さを意図したテクストの読解なり思想解釈ではなく、あくまで、そういった研究というか思想に対する取り組みをするための足場となるような仮の枠組みを、ざっくりとした絵というか見取り図として、わかりやすく描く、組み上げるということなので、正確さについてはあまり保証できません。
多少ガタつきがあっても、思索の段階を深めるためにも、そこを規準としてまずは自分の理解との距離を測ったりできるような、自分が自由に動ける足場をまず組むことを目的とするので、その目的に照らして有用であれば、通俗的解釈も躊躇なく採用するし思い切った乱暴な単純化もするので、そのへん、納得いかない点、十分に議論がつくされてない点などあるかと思うけど、前もって了解願います。

で、始めますが、あなたは「純粋理性批判」のスレでてじさんと少しやりとりしていたようなので(私は議論をフォローしてないけど)、カントについてはある程度知識があると前提して説明します。
このモノローグで「認識論的独我論」として語られた「私の世界とその外部」の一種の二世界説は、言ってしまえばカントの現象界・物自体界という二世界説の焼き直しです。
私が知りえぬ世界の外部というのは、物自体界のいわば変奏(ヴァリエーション)に過ぎないってことですね。
で、このカント的な二世界説を前提にした不可知論は、はっきり言って現在それを本気で支持するプロの哲学者はいません(じゃないかな、たぶん(笑))
このタイプの認識論的不可知論というのは典型的な哲学的問題で、それ自体は面白く重要な解決されるべき問題でしょうが、まあ、アキレスが本当にカメを追い越せないと本気で言う哲学者がいないのと同様、たとえば目の前のコップを不可知であると主張するものはいないと思います。
この不可知論の弱さについては後述するとして、では二世界説は現在どうなっているかと言うと、20世紀になって以降、物理学を始めとする自然科学が描出するいわゆる科学的世界像と、クオリアに満ちた主観的経験世界との折り合いをどうつけるかという問題と、あとひとつ、心の哲学として心と身体との関係の問題として変奏されているとざっくり言えると思います。
ここでは心の哲学のほうは措くとして、単純化して言えば、科学的世界像に主観的世界像を還元するのが科学的実在論、逆に主観的世界像に科学的世界像を還元するのが現象主義、観念論ということになります。
もちろん、立場はいろんなヴァリエーションがあり、大森荘蔵が提案した重ね描きという概念による説明も日本ではよく知られていると思います(受け入れられているか否かは別に)。
ですが、どんなの立場にせよ、認識可能な現象の背後に認識不可能な領域があるとするような不可知論は採用されません。むしろ、ある立場からこういった不可知論が帰結するとしたら、その立場の欠点とみなされることになるでしょう。
いかにしてこの世界そのものを我々は知覚しているか(現象学のモットー「事象そのものへ」)ということを説明できるのかが、むしろそれが立場として認められる条件、試金石となると思います。

        つづく

5ヶ月前 No.416

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>416

本気で主張する人がいなくなったという意味では既に過去のものとなった観のあるこのタイプの不可知論ですが、とは言え今も述べたように典型的な哲学的問題であるし、竹田青嗣らの一般向け哲学入門書や、昔の硬い廣松の入門書、あるいは哲学科学生向けの教科書なんかでもよく取り上げられるものです。
なので、そういったものを読んでもらったほうがいいかもしれないんですが、信頼度は落ちることは我慢してもらわないといけないけど、モノローグの話ともつながりやすいよう、あえて私がここでこの議論を自分なりに再構成して、それがなぜ成り立たないかを説明してみます。

まず私の目の前にA:コップがあり、私はそれに目を向けています。
このとき、私は、自分とコップの位置関係、光の状態等の条件下でのコップの見え姿A’:視覚像を知覚内容として知覚している、見ているとします。
簡単に言うと、私はコップAを、視覚像A’として認識しているわけです。
このとき、私がもしサングラスをかけたり、まぶたをぎゅっと強く押したりしたら、私に見えているコップの視覚像は色がついたり、ゆがんだりするでしょう。
ここで明らかなことは、色がついたりゆがんだりするのは、コップそのものではなく、あくまで私が現に見ているコップの見え姿、視覚像のほうだということです。
ですが、そうすると問題が生じます。
では、私は今見ているコップAの見え姿A’が、コップ実物の本当の見え姿であると、どのようにしたら知ること、確かめることができるのか?ということ。
ところが、見ることによってそれを確かめることが不可能なのは明らかではないだろうか?
例えば確かめのためもう一度しっかり見直してみたところで、その2回目もまた認識できるのは視覚像A’’にすぎないわけですから、見直した視覚像A’’が最初の視覚像A’より正しい、見直したほうが実物Aと一致しているといえる保証はないわけです。
確かさの保証のない視覚像A’’によって他の視覚像A’が実像か否かを決定することはできないでしょう。
つまり、結局、どうやったって、私は認識内容であるコップの見え姿、視覚像同士を比較できるだけなので、コップの本当の姿を知ることなんてできっこないのです。

ということで、哲学的謎(アポリア)がうまく構成できたかな?
モノローグその5で書いた議論とも合わせて理解してもらえればわかりやすいかも。
ちゃんと表現するのは結構大変なんですよね。あー、ほんと野矢さんがうらやましい。
まあ、いまいちだなーと感じたら、似たような議論はいろんな本に出ていますので、そういったものを参考にしてください。
とりあえず以上の私が再構成した議論をもとに、今度は、なぜこの議論が成り立たないのか、論拠として弱いのか、ということを述べます。

つづく

5ヶ月前 No.417

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>417

ここから述べるのも私なりの考えです。
まず、類比するために、カメラでコップを撮影し、その撮影に得られた画像とコップとの関係をモデルにします。
撮影の際、レンズを色付きのものに換えたり、レンズがゆがんだりしたものを使って撮影すれば、撮影された画像は色がついたり、コップの形がゆがんだりするでしょう。
このとき、当然ゆがんだのは撮影された写真の画像であって、コップそれ自体ではありません。
そして、普通に我々はこう言えるでしょう。
 「コップを撮影したけど、レンズに細工したから画像が変形したのであって、撮影対象であるコップそのものが変形したのではない」
ここでこう言っても何ら不自然でも不適切でもありませんよね。
さて、次に、この今述べたカメラ・モデルにおける自然な文の中のいくつかの語を、次のように置き換えます。
「撮影した」⇒「見た」、
「レンズ」⇒「目」
「画像」⇒「視覚像」
「撮影対象⇒「視覚(認識)対象」
すると、次の文が得られます。
「コップを見たけど、目に細工したから視覚像が変形したのであって、視覚(認識)対象であるコップそのものが変形したのではない」
補足を加えると。
「コップを見たけど、目に細工(まぶたをギュッと強く押)したから視覚像(認識内容)が変形したのであって、視覚(認識)対象であるコップそのものが変形したのではない」
これ、全然おかしくありませんよね。カメラ・モデルと視覚モデルは類比関係が成り立っています。
つまりは、
「認識の過程で何か細工し、認識の内容がゆがんだのであって、認識対象そのものが変化したのではない」
と述べている。
これを異なる角度から次のように言い直すことができるでしょう。
「私が見ている(認識対象)はコップそのものであるが、まぶたを強く押したので、認識内容である視覚像がゆがんだのである、」

そうすると、謎が生じたトリックがわかります。
この謎を生じさせるために、コップそのものが変化していないのに自分に見える視覚像が変化したことから、自分が見ているのがコップそのものではなく視覚像である、ということを導いています。
つまり、自分に見える視覚像(認識内容)が変化したことから、認識対象がコップそれ自体ではなく、視覚像である、ということ、すなわち、「認識内容=認識対象」を導いているわけです。
この導出が明らかに無理なのです。
それはカメラ・モデルに類比して考えれば明白です。
カメラによる撮影対象(∽認識対象)であるコップに変化がなくても、カメラのレンズに細工がなされれば、撮影によって得られた内容(撮影画像)(∽認識内容(視覚像))に変化があっても不思議はありません。
そして、このことから、撮影対象がコップそのものではなく撮影画像であるというばかげたことなど導かれるはずもありません(撮影対象≠撮影画像)。

つまり、こういうこと。
撮影によって得られた内容=撮影画像がゆがんで、コップ自体はゆがんでいなくても、撮影対象が撮影画像であることにはならない。
∽(のと同様に)
認識(見ること)によって得られた内容=視覚像(認識内容)がゆがんで、コップ自体はゆがんでいなくても、認識(見ている)対象が視覚像であることにはならない。
ゆえに、コップそのものを認識することはできないという論証は失敗しており、次の主張を否定することはできない。
 私がまぶたを強く押して視覚像がゆがんだとしても、私が見ているのは端的にコップそのものであって、コップの視覚像を見ているのではない。

以上が、一応私なりのいわゆる「認識論のアポリア」に対する論駁です。
繰り返すけど、これが唯一の定式化でもなく、唯一の論駁の仕方でもなく、例えば現象学には現象学のやり方、大森荘蔵には大森の、廣松渉には廣松のやり方、etc.、いろんなやり方があると思います。
ただ、とにかく、対象そのものを知ることは不可能であるとするカント由来の不可知論、その根拠となる認識論のアポリアは、論駁・解消されるべきものであって、その議論は成り立たない、したがってこの不可知論は根拠薄弱、というのが、現代ではほぼ共通認識になっているのではないか、と思うのです。

以上によって、「或る独我論者のモノローグ」が提示した世界観を完全に論駁したわけではないと思いますが、少なくとも、この認識論的独我論の対象不可知論がその中心論拠としている認識論的理由というのは実は理由にならないということ、自分が認識できるのは現象だけであって対象そのものではないという論証は誤りであることを示せたのではないか、と思います。

まあ納得できたかどうかはわからないし、うまく説明できているかもわからないが、少なくとも私の哲学思考のリハビリ・トレーニングはなったな(笑)
私の述べたことは自分としてはそれなりに根拠があると思っているんだけど、確認したわけでもないし、信用はせず、まあ参考程度にして楽しんでもらえれば幸い^^

5ヶ月前 No.418

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

結構、スイスイ、入ってくるのでちょっと驚き。(ここは、とっても難解(あるいは、意味不明)な、カキコがあふれているからね。)

カメラ・モデルの論駁は、そのような常識(あるいは科学的知識)を前提にすれば分かりやすいのだろうが、認識論はその立脚点自身を問題にしているのであるから、そういう点を一切無視してくる人(俺に頭には、遠くの星が小さく見えるのではない、遠くの星は小さいと見えれば小さいのだ(正確なトコロは忘れてしまった)などと「善の研究」で書き散らし、俺をブチキレさせた西田大先生が思い浮かぶ)に、はたして通じるのかなとは思いました。

自分の考えをいえば、俺自身は、例えばカントが「物自体は知りえない」なんていうと「じゃ、お前は「物自体」を知らないくせに、なんで、それが「知りえない」なんて分かるんだよ」と突っ込みたくなるにもかかわらず、やっぱり「物自体(実在)って知りえないよな、知ってるのは現象(経験)だけだ」と思う感覚にも支配されてるのである。そういう意味では、俺は、カント派(認識論的独我論派?)になるかも知れないが、「本気」ではそう思っていない点では、やっぱりジョーシキ派(独我論だって?はあ?派)なのです。

死等に関しては、また、機会がありましたら。(とりあえず、終了です。回答ありでした。)

5ヶ月前 No.419

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>419

長い文章を読んでくれてありがとう。
哲学の議論においてわかりやすさは価値だと私は信じているので、「結構、スイスイ、入ってくる」というのは、実は素直にそれだけでもうれしい。
とは言え、またその一方で、スイスイ入る場合、スイスイ抜けていって何も残らないとか、調子よすぎてなんかだまされてるというか、腑に落ちない、って感じることも多々ある、ってのも知ってる(笑)
それで、次のあなたの感想、

>カメラ・モデルの論駁は、そのような常識(あるいは科学的知識)を前提にすれば分かりやすいのだろうが、認識論はその立脚点自身を問題にしているのであるから、そういう点を一切無視してくる人に、はたして通じるのかなとは思いました


これはあなたが自分の感じる疑問を述べただけで、その意図はないんだろうけれども、あえて批判と受け取って、先の私の議論を再検討、修正してみることにする。
便宜上あなたに向けて書く形になるけど、あなたは終了と言ってるので、仮に読んでくれたとしても無理してレスしてくれる必要はないのでそのへんヨロシク。

私が批判の対象とした論証を、
『対象認識の不可能性についての論証』
と以下では呼ぶ。

私がこの『対象認識の不可能性についての論証』を批判する議論において「カメラ・モデル」の類比の果たした役割が、ここでの問題。
まず結論を述べておくと、
結論:私の『対象認識の不可能性についての論証』は論証に失敗しているという議論は、何らカメラ・モデルを前提にして導くものではない。
前の私の議論できちんとそれを表現できているかどうかは自信ないけど、いずれにせよ、ここではその意図をもう少し明確化したい。

私が『対象認識の不可能性についての論証』に対する批判においてとった議論の構成は次のようなものではない。(少なくとも意図としては)

@カメラ・モデルでは、レンズに対して細工し撮影画像がゆがんでも、撮影対象のコップそのものは変化しない、と言える。つまり、撮影対象がコップそのものであることは動かない。
Aカメラ・モデルと視覚認識モデルは類比的である。
B @およびAにより
視覚認識モデルにおいて、目に対して細工して視覚像がゆがんでも、認識対象のコップそのものは変化しない、と言える。つまり、認識対象がコップそのものであることは動かない。
Cよって、認識対象が視覚像であって、対象それ自体を認識不可能とする主張は誤りである。

つまり、私は@とAが成り立つことにより、そこからBを導いてその真であることを論証して、『対象認識の不可能性についての論証』の誤りを導いているのではない。

私の主張は次。
@カメラ・モデルでは、レンズに対して細工して、コップの画像がゆがんでも、コップそのものは変化しない、と言える。
A視覚認識モデルにおいて、目に対して細工して、コップの視覚像がゆがんでも、コップそのものは変化しない、と言える
Bカメラ・モデルと視覚認識モデルは類比的である。
C@が成り立つことから、カメラの撮影対象はコップそのものではなく、撮影画像であるということは帰結しない。すなわち、この場合、@により撮影対象はコップそのものではなく撮影画像である、と主張したらばかげているし、明らかな誤りである。
DBおよびCによりわかるのは、Aが成り立つことから、認識対象がコップそのものではなく視覚像であるということは、けして論理的には帰結しない、ということ。よって、コップが変化していないにもかかわらずその見え姿=視覚像が変化したという事実から、自分の見ているのが実はコップそのものではなくコップの視覚像であるということは導けない。それゆえ『対象認識の不可能性についての論証』は論証に失敗している。

解説を加えよう。
我々は、内省の視点でこの『対象認識の不可能性についての論証』を追うとき、コップが変化していないにもかかわらずその見え姿=視覚像が変化したという事実から、自分の見ているのが実はコップそのものではなくコップの視覚像であるということが、あたかも〈必然的に帰結する〉と思ってしまう。
カメラ・モデルを類比として用いる意図は、これにより内省の視点から離脱させるという異化効果をもたらすことにある。
視覚認識モデルをこの類比の視点から捉えることにより、コップが変化していないのにその視覚像が変化したという事実からは、自分の見ているのが実はコップそのものではなくコップの視覚像である、ということがけして論理的には帰結しないこと、すなわちそこに何ら必然性は存在しないということが明らかになるのである。
そして重要なのは、この「論理的に帰結しない」という事実そのものは、カメラ・モデルの類比と独立であり、何ら依存していないということである。
つまりカメラ・モデルによる類比は、あくまでこの「論理的に帰結しない」という事実に気付かせるため、内省の視点に異化作用をもたらすものであって、そこからこの事実を導出しているわけではないのである。
よって、私の『対象認識の不可能性についての論証』は論証に失敗しているという議論は、
何らカメラ・モデルを前提にして導くものではない。

「異化作用」についてちょっと解説を。
例えば、自分がものすごくかわいいと思っているアイドルがいたとする。
ところがあるとき友人が、そのアイドルが通常オモロ顔とみなされているおっさんお笑い芸人と似ている、と言う。
それを聞いたときは「そんなBAKAな!」と言ったのだが、そう言われれば、どことなく確かに似ているところもある気がしてしまう。
すると、それ以降、そのアイドルを見るたびにお笑い芸人と重なって見え、以前思っていたようにはそのアイドルの顔をかわいいと思えなくなってしまう。
・・・みたいな感じ?(笑) 違うかも(笑)この場合依存するか?
ま、言いたいのは、とにかく異なる視点をもたらす作用ということね。

あと、考えられる反論を一つ検討しておこう。
上で「内省の視点から離脱させる」というが、そもそも、そんなことは不可能であるというのが独我論的立場なので、私の議論は成り立たないのでは?という反論。

問題は、『対象認識の不可能性についての論証』自体が、見たこともない、知りえるはずもない「コップそのもの」が変化していない、ということを論証の中に含めていることだ。
これにより、論証の構造が事実として、カメラ・モデルと類比関係が成り立つような、そういう構造になってしまっているのだ。
そのために、内省の視点にあくまでとどまろうとしても、このカメラ・モデルの場合と同様に、コップが変化していないのにその視覚像が変化したという事実からは、自分の見ているのが実はコップそのものではなくコップの視覚像である、ということがけして論理的には帰結しないこと、このことが「論証の構造上、論理的に成り立ってしまう」のである。
したがって、カメラ・モデルの類比の異化作用とは、内省の視点から、論理的視点へと、視点の移動をうながす作用、と言うべきかもしれない。

5ヶ月前 No.420

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>420

最後に反論について検討した際、私の用いた論点が、 >>419 で述べられている論点とかぶっていました。
一言断るべきでした。すみません。

5ヶ月前 No.421

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

ところで、少し議論とは違う話をしたい。
ただ、スレタイ「独我論を乗り越える方法」には一応かなっていると思う。

今回少しやりとりした、うさぎさんや、ちょっとまたんかいさんは、自分の実感としては独我論に共感するというか、独我論的世界観がしっくりくるみたいだ。
私は哲学説としての独我論自体は、人生論・人生観とは別物であり、独立であるともちろん考えているが、どのような哲学説を支持するかということについては、個人の人生観が影響することは言うまでもない。
上記の二人は、自分の人生観に照らせば、少なくとも実感として独我論が納得がいく、あるいはしっくりくる、ということだろう。
私について言えば、十代のころは独我論志向タイプであったことは間違いなく、世界はそうであるはずだし、そうでなくてはならない、と考えていた。
ところが二十歳前後から、独我論的世界にこもっていたくてもいられない現実に直面し、いわば自分の独我論的世界と外部世界との境界線を―これはまた自らの世界を守る防波堤でもあるわけだが―拒否しようもなく越境してくる他者なるものによって、私の世界は引き裂かれ、崩壊してしまった。
つまりは、私は他者を自分の世界に取り込むことに失敗し、逆に自分の居心地のいい居場所を失うという憂き目にあってしまったわけだ(笑)
この私の遭遇した他者、あるいは遭遇せざるを得なかった他者は、けして独我論的世界には取り込めない、むしろ独我論的世界の根拠そのものを脅かす、ある意味暴力的な存在だった。

で、思うのだが、上記の二人はこういった〈他者〉に遭遇していないのではないか。
そこで、本人たちは望んでいないかもしれないが、スレタイにしたがってこの人たちが独我論を乗り越えるべく、まずは独我論には取り込めない〈他者〉というものの存在を大きなお世話でお教えしたい(笑)
しかも、小難しい理屈ではなく、直観的に訴えかけるもので。
もちろん、これは〈他者〉とは何か?という問題意識を有すみなさん誰にもおすすめしたいのだが、一番それをわかりやすいと私が思う映画を挙げたい。

ということで、なんといっても次の二人の偉大な映像作家を勧めたい。
ともに〈他者〉、〈外部〉をテーマにした映画監督。
一人目は、先ほど私が言ったような、独我論的世界の境界を乗り越えてやってきて脅かす強烈なインパクトをもつ映画作品『シャイニング』の監督、S・キューブリック。この人の作品はいずれも他者性、外部性が恐ろしい形で描かれている。

二人目は、独我論的世界にあきらめがついたとき、外部性を認めざるをえなくなったとき、あるいは外部を希求するようになったときにはじめて観るべきかもしれないが、映像詩人A・タルコフスキー。私はこの監督はレヴィナスと同じものを見ていたと思っている。レヴィナスとの関係で言えばまずは『サクリファイス』を、そして『ノスタルジア』。が、すべての作品がおすすめ。(うどん粉さん、これを読んでいたら、いつか『サクリファイス』をぜひ観てください、あなたには絶対のおすすめです)。
二人の映画監督とも、私の意見はともかくとして、偉大な芸術家であることは間違いなく、その意味では観て絶対損はない。

ただし、注意が必要なのは、二人の作品はいわゆる難解な映画というものに属するので、こういった類の映画に慣れていないと、わけわからん、よく眠れた、といった感想しか持てない危険性があるかもしれない(特にタルコフスキー)。
だが、ここで私が述べた〈他者〉〈外部〉を描こうとしているということを念頭に置いて観れば、観れるかも。
そういった意味でも、最初は、これは誰でも観れるであろうキューブリックの『シャイニング』がおすすめ。
皆さん、これを観て、独我論を乗り越える第一歩を踏み出しましょう!^^

5ヶ月前 No.422

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

独我論のメリット? それは、笑いと安心感の獲得です。全宇宙で最も重要な人物は私で

ある、という思考は外界に対する観想においてすべてが可笑しみをもって見ることができる。

なぜなら、対象を笑う人物は私自身のみであるからである。その意味においては、キリスト教徒

のほうが笑いには寛容である。

2ヶ月前 No.423

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

独我論を信奉している人々対して、独我論を乗り越える必要はないのでは?

観念論の一種ではあるが、認識主体の観点から言えば「宇宙の中心は私だ」も成立する。

7日前 No.424

一京無限 ★QsBo2rqjdu_mgE

独我論は、自分の認識のみ肯定し、他の存在認識を否定していますので、存在認識の狭い考え方であると思います。

言い換えれば、心の外にある鏡の世界であり、心の外の水たまりの世界であると思います。

それを仮に、心の外にある鏡の世界を心の内に参入しても低次な認識の世界観であり、心の外の水たまりの世界に
心の内に参入しても、低次な認識の世界観であると思います。

他者の方の認識の世界観は、多分において認識の外にあるので他者の認識に関心はないと思います。

4日前 No.425

百理 ★5z6bVAmgS3_Y9V

私の憧れのトルコのイスタンブール・・観光地・・

独裁者と呼ばれるトルコの長があらゆる階級にテロリストがいると・・以下略・・怖すぎます・・トルコ・・

1日前 No.426
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