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独我論を乗り越える方法

 ( 哲学掲示板 )
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すぴのざ ★0gLpHaJ.DeM

【レスする前に】
このスレで使う言葉の意味は辞書、wikipediaに記述してあるものを使用してください。2つに記述されていない意味を使用する場合は、どのように定義しているかを明示してください。

【独我論とは(wikipedia「独我論」から転載)】
概念

「客観的存在に対する常識的見解」
私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。


「独我論からの反論」
これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。

このような客観的事物の認識の不可能性は、バークリーやカントなどの観念論に代表される(もっとも、カントは、このようなの不可能性を認めた上で、あえてそのような認識前の存在(物自体)を肯定する。バークリーも、他者や神の存在を認める以上、独我論者であるとは言えない)。

ウィトゲンシュタインにおいて、自己と他者の非同一性の考察から出発した、世界の人間のうち、一人だけ本当の私がいて、他の人間は意識的な存在者ではあっても、この私ではない。すなわち、本当の私は自分一人のみであるという主張。また、彼においては「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現される。

バートランド・ラッセルによれば、非演繹的推理によって自己の直接的経験を超え出ることを認めない限りは、瞬時における自我だけが存在するとする瞬間の独我論を容認することは避けられないといわれる。

古来はその世界観(世界の存在を通して)を批判されていたが、現代ではその「私」とは何であるかという形で批判を受けている。


【本題】
独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
出来るとしたら、その方法は?
あなたの独我論に関する考えを教えてください。

参考書籍などを記載してもらえるとありがたいです。

2007/08/23 10:38 No.0
ページ: 1 2 3 4 5 6

 
 
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★30JjgxOVKX_ZFe

『知覚の現象学』の訳者の中山元氏はこんなことを言っているよ。

「私は私であって決して他人にはなれない。他人の実存は私にとって、私の実存と等しい近さ、密度をもつことはありえな。他者の心性は私にとって想像の対象でしかありえぬ。しかし私と他者とのこの距離は、メルロにおいては他者の存在を疑わしいものにすることでも、独我論の論拠でもなかった。むしろ、他者の私からの距離こそ、他者を他者たらしめる根源的経験の事実なのであり、私にとって想像はできても絶対に直接経験しえぬものであればこそ、他者の世界経験は私のそれと補いあい移行しあることができるのである。私の他者経験は派生的なものではない。私にとって世界経験がコギトと同等であり、むしろコギトを媒介するように、他者経験も根源的なものなのである。世界経験が不可疑であっても事物の知覚が錯覚、誤謬にさらされているように、他者一般の存在は確実であっても、個々の他者について私はいろいろな思い違いをすることがあろう。しかし私自身の感情についてすら、錯覚的意識の危険にさらされているのである。そしてこのような誤謬の可能性、経験の不十分性こそ、私と私をとりまく諸事物、ならびに他者の存在の厚みを証するものなのである。訳者は他者との「共存」(coexistence)の経験こそ私の存在根本事情であることを、本書より学んだのである。デカルト的コギトは、世界と他者とに向って超えられなければならない。」

わたし、こっちのほうが自然な感じがするんだけど。

2ヶ月前 No.468

★30JjgxOVKX_ZFe

>468ごめんなさい。訳者の名前間違えちゃった。

中島盛夫氏です。

大変失礼しました。

2ヶ月前 No.469

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

うさぎさん

 こんばんわ。

>独我論についてのスタートから間違っておられるのでは?


 私は、哲学の専門教育を受けた人間ではありません。素人にすぎませんが、 >>427  で書きまたように、永井さんの本を読んで、独我論の議論に興味を持ちました。

 本スレでは、原則、下記の定義を用いるということ( >>0 )で、自分なりに考えてきました。 >>427  -  >>453

>>0 から抜粋】
「客観的存在に対する常識的見解」
 私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。

「独我論からの反論」
 これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

【本題】
 独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
 出来るとしたら、その方法は?
 あなたの独我論に関する考えを教えてください。

 で、いまの時点では、 >>427  という考えなのですが、私は、独我論を「乗り越える」という意味がわからず、特に不可解な「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」を論破できないかと思っています。そのためのとっかかりの問いが、 >>453  だったのです。

 このスタート、やっぱりまずいですか?('◇')ゞ ご指導ください。

2ヶ月前 No.470

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

 こんにちは。いろいろご教示いただければ幸いです。

 ザビビのふくろうさんが >>461 で述べられている

>客観的世界というのも、この〈私〉の思考する世界であることに何ら変わりはない。

>人は物心ついてから死ぬまで、〈私〉の世界以外の世界を知ることも考えることもできない。

>客観的世界が認識されるにせよ、それは主観による認識によってしか認識されえない。


 など、私もそう思います。(ただ、私の低レベルの理解とザビビのふくろうさんの理解が同じであるか定かではありませんが。)

>あなたが死ぬとき、あなたの世界は、そして、あなたにとってのすべての世界は消滅するだろう

>いや、そんなことはない。自分が死んでもこの客観的世界は存在する

>あなたは、あなたの死後、客観的世界が存続しているということをいかにして知りうるのか。そう信じているに過ぎないではないか


 人間は一生のうちに、歴史を学んだり、テレビや新聞で見たり、自ら体験したりして、多くの人の死を見ます。そして、それらの人の死後、〈私〉が認識する客観的世界が存続していることを経験し、認識します。
 自分が死んだ後のことは体験できませんが、このように自分以外の人が死んだあとのことを経験的に学んだ認識のもとで、いま生きている他者や自分の死後について、「客観的世界」が存在するという経験を適用し、そう推測し、確信しているということだと思います。
 なぜなら、人間は、他者の死後、〈私〉が認識する客観的世界が存続することは経験できますが、その〈他者〉が認識していた客観的世界が消滅したのかを確認する術がありません。

>直接経験できないものについて、あなたは、ある・ないとなぜ言えるのか。


 ここで「言える」が問題となります。
 直接経験できなくても、「物理学が描出する素粒子論のミクロ世界のように、直接知覚することができなくとも、我々人間主観が間接的にせよ、とにかくいかなる仕方でか認識可能なもの」は、物理法則という言語の他者との共有のもとで、強い推測として、ある・ないと言う言語表現をするのだと思います。
 また、人間は、サピエンス全史/ユヴァル・ノア・ハラリによると、言語の獲得による認知革命で、虚構を共有できる能力を持ったといわれていますが、そのような能力を活かして、物事が「存在」するという概念を持ち、共有してしまったのだと思います。ただ、思考するのも、共有するものも、ツールは日常言語です。
 例えば、「江戸時代とよばれている時代があった」、「ブラックホールが発見された」、「北極の氷が年々縮小している」も普通に使われている表現を人間は使います。

>いかなる主観によっても認識不可能なら、それは端的に存在しないということを意味する。


 「存在しないということを意味する」は、「存在するとは言えないことを意味する」というニュアンスで捉えます。
 科学のフロンティアが広がることで、存在を認識できる可能性が広がることがあります。
 この「認識不可能」と「認識しない」は別だと思いますが、独我論では、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」という世界観を持っていますので、認識可能でも、認識していなければ、実際に存在しないというのです。
 この「認識」という言葉があいまいなのかもしれませんが。

>つまり、それが存在すると言える限り、認識可能でなくてはならない。


 ここで、「認識」の定義ですが、
  ・寝ているとき、人は認識可能な状態でしょうか。
  ・テストを受け、解答に集中しているとき、認識されていない自分の身体は存在しているでしょうか。
  ・「認識可能」でも、存在するかどうかは、「認識」の状態次第ということでしょうか。

>あなたが死ぬとき、あなたの世界は消滅し、何も残らない。そして、このことはあなた一人についての事実ではない。それがだれの世界であろうと、それがいかなる世界であろうと、それは唯一存在する主観的世界、すなわち“〈私〉の世界”であり、それ以外に世界は存在しえないから。


 唯一存在する主観的世界、すなわち“〈私〉の世界”が、自分以外にもあることを示す言葉だと思います。
 この認識は、上の >いや、そんなことはない。自分が死んでもこの客観的世界は存在する のところで述べたこと ― 自分の経験によって、他者にも〈私〉の世界”であることを推測すること ― が前提となっていると思います。

 私が、独我論について、 >>427  で述べました、「人類は、各人が認識を止めると、リンゴが消滅するといった物理現象を観測した経験を持っていませんので、推測ではありますが、私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当」という場合の「認識」は、「認識可能」ではなく、現に「認識」している、という意味で、本スレの下記定義に従ったものです。
「独我論からの反論」
これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。

 そして、人間は、それぞれ、“〈私〉の世界”の中で生きているが、他者にも他者の〈私〉の世界”があると推測することが、自分の経験上、妥当であることから、そう推測するのだと思います。

2ヶ月前 No.471

マジカルモンキー ★IkTe7dpHmE_uKh

超越論的自己

なろほど、確かに【自分】とはなんですか?と問われれば、

サラリーマンの男ですになるだろう。

しかし、サラリーマンを辞めた場合、自分じゃないと言う事になるよね。

サラリーマンを貫く、すると、私は良く働く男です。となる。

良く働くを抜くと、他人様に貢献、ボランティアする事を好む男になる。

じゃ、男を抜くと、他人様に貢献し、お金をもらって、女型が好きな人間です。となる。

じゃ、他人様に貢献すると抜くと、先祖の教えをまもっている女好きな人間、となる。

さらにさらに、抜いていくと、道に迷って、その道が正しいと決めている人間、となる

人間を抜くと、道に彷徨って、その道が正しいと決断する性質をもった生命となる。

じゃ、さらにぬく、なにもわからないモノになる。

さらに抜くと、わからない事がわかっている何か?となる。

抜きまくると、理解しようとする意思をもった何か?となる。

何かしらを意思をもった何かになり、生まれた時から意思を持つ何か?になる。

とどのつまり、意思である。じゃ、意思を抜くと、芽である。芽を抜くと、予感である。

予感を抜くと…、未来であり、未来を抜くと…、1秒後が理解できる何かである。

ウム

自分とは何なのかで有力なのは、意思と予感と未来であり、無表情、無関心、過去・現在でもある。

難しいですね。

2ヶ月前 No.472

★30JjgxOVKX_ZFe

独我論では、

「リンゴを見たり、触わったりすること」を、どう「論」じているのかしらね?

2ヶ月前 No.473

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

游さん

>独我論では、

「リンゴを見たり、触わったりすること」を、どう「論」じているのかしらね?

 独我論者の方から直接聞いたわけではありませんが、本スレの  >>0  の定義では、

「リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。…これが独我論の基本的な世界観である。」とのことです。

 そうじゃないだろうと思って、 >>427  を問いました。でもこの問いに最終的な決着をつけることは意外と困難、というか、無理のようです。ただ、私は、独我論者の方の意見を聞いてみたいのです。

2ヶ月前 No.474

★30JjgxOVKX_ZFe

>474

えぴめてうすさま

「そうじゃないだろうと思って、〉427」のところに、わたしの問い〉473のことについて、どこに記されているのか教えて?

あ、それと、「認識」と「触ること」との関係を記してもらえるとりがたいんだけど。

「無理」だったら、いいよ。

2ヶ月前 No.475

★gqdIifD3jF_c1Z

>>427  えぴめてうすさんへ

> これは、1つの立場であると思いますが、認識を止めると、例えば、リンゴが消滅するといった事態を説明する根拠が示されていないと思います。


その認識を止めている時には、一体何を認識しているのでしょうか。リンゴを認識していた時にはリンゴは存在し、その認識を止めた時には、そのリンゴは存在するとは言えないと思いますよ。通常そのように言えるのは、先ほどまでリンゴはあったのだから、今も(多分)ある(だろう)と言う事だと思います。記憶には、あるという事だけでしょう。

アインシュタインの「我々が見ていないときに月は存在するのか?」と言った問いかけが、ふとよぎりました。

> 推測ではありますが、私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だと思います。


通常では、妥当だと思います。それで日常会話をしているのですから。ですが、多分、独我論の人がいたとすれば、それはないのではないでしょうか。

独我論の人には「私」と言う一人称が無いのだと思います。一人称がありませんので、対する二人称もありません。あるとすれば、仮の私、仮の表現としてのあなたと言う事になるのでしょうか。ですので、「独我論からの反論」と言う表現も、一体、誰が誰に反論しているのか?と言うものになると思いますね。

2ヶ月前 No.476

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

時さん

 こんばんわ。

>その認識を止めている時には、一体何を認識しているのでしょうか。リンゴを認識していた時にはリンゴは存在し、その認識を止めた時には、そのリンゴは存在するとは言えないと思いますよ。通常そのように言えるのは、先ほどまでリンゴはあったのだから、今も(多分)ある(だろう)と言う事だと思います。記憶には、あるという事だけでしょう。


 何を認識しているのでしょう? 何も認識していないか、気を失っているのか、他のことに認識を集中しているのか、ぼーっとしているのか?

  >>436  で書きましたが、つぎのように考えています。

 「独我論では、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」となりますが、他人が何かを探していて、その人は見えていないが、私には見えているということが経験としてあります。そのとき、他人が見つけた瞬間に、探し物が生じたということや、他人が視線をそらした時に消滅したという経験がありません。そのような現象は観測されていないと思っています。
 私自身、見ていないとき、そのものが存在するとなぜ言えるのかということに対し、積極的に存在することを示すことができないことが歯がゆく思いますが、記憶を繋ぐことで、存在すると考えることが、「私が認識を止めると、消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」と考えるより妥当だと思うのです。そういった水準のことです。」

 時さんのおっしゃった「その認識を止めた時には、そのリンゴは存在するとは言えない」は、どの程度の確度で、ものを言うかにかかっていると思います。
 ただし、独我論の世界観である「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」というには勇気がいりませんか?

>「独我論からの反論」と言う表現も、一体、誰が誰に反論しているのか?と言うものになると思いますね。


 まさにそうですよね。 >>449  で書きましたように、

 「具体的に言うと、その人は誰に向かってそのことを言っているのでしょうか、すべて一人言なのでしょうか、自分の親も否定するのでしょうか、それなら、自分の存在の起源をどう考えているのでしようか、自分が生産してもいない食べ物を食べて生きていることを不思議に思わないのでしょうか、科学理論(物理や化学や)をどう考えているのでしょうか、という疑問です。「私の言っていることはうそである」に匹敵しそうな奇妙さがあります。
 「夢」がまさにそういう状態(独我論の世界)に近いような気がしますが、現実の世界では、人間としての社会性を欠く(一人だけなのですから、他者を全く気にする必要はないはずです)か、自分をずっとだまして(社会性を装って)生きていかなければならないのではないかと思います。自分をだます必要性はないように思いますが。」

 だから、そんな独我論者の方に  >>453  を聞いてみたいのです。(*´∀`*)

2ヶ月前 No.477

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

 「独我論」は実証も反証もできないという点に、究極の真理が有るように思います。殆どの人が、実証も反証もできないにも拘らず、「独我論」は「正しい」か「間違い」かどちらか一方に決まっている、と考えているように見えます。しかし、「正しい」と断定する場合も、「間違い」と断定する場合も、真理を片方だけに限定する訳ですから、それを「証明」する必要が生じます。そして現実には「証明」不可能です。
 「独我論」は「正しい」のか「間違い」なのか? ここでも答は、a「正しい」+b「間違い」(aとbは不明)…※だと思います。※は、「正しい」でも有り得るし、「間違い」でも有り得るし、片方でも有り得るし、両方でも有り得ることを示しています。何一つ真理を限定せず、すべての可能性を網羅してその中のどれかが正しいと主張しているので、「証明」の必要も無く恒真(トートロジー)です。こう理解することこそ、「独我論を乗り越える」ことだと思われます。 >>403-404

2ヶ月前 No.478

★gqdIifD3jF_c1Z

>>477  えぴめてうすさんへ

こんばんは。

>  何を認識しているのでしょう? 何も認識していないか、気を失っているのか、他のことに認識を集中しているのか、ぼーっとしているのか?


はい、ですのでこの瞬間には、リンゴは認識していませんね。認識(存在)していたリンゴがその瞬間に存在(認識)しなくなったと、そういう事だと思いますが。

>  「独我論では、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」となりますが、他人が何かを探していて、その人は見えていないが、私には見えているということが経験としてあります。


はい、これは独我論の人ではない、えぴめてうすさんのご認識ですね。

>そのとき、他人が見つけた瞬間に、探し物が生じたということや、他人が視線をそらした時に消滅したという経験がありません。そのような現象は観測されていないと思っています。


はい、これも独我論の人ではない、えぴめてうすさんのご認識ですね。独我論の人の視点では、その瞬間に消滅していると表現するのではないでしょうか。(表現するとすればですが)

>  私自身、見ていないとき、そのものが存在するとなぜ言えるのかということに対し、積極的に存在することを示すことができないことが歯がゆく思いますが、記憶を繋ぐことで、存在すると考えることが、「私が認識を止めると、消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」と考えるより妥当だと思うのです。そういった水準のことです。」


はい、通常の会話や生活においては妥当だと思います。仰るように「見ていない時に、月は存在する」と言う事の証明は難しいと思いますよ。そして、たとえこれを証明できたとしても、独我論の人にとっての意味はないですね。

「ほら、やはり見ていなくても月は存在するじゃないか。あなた(独我論の人)の言っていることは間違いだ」と表現したところで、独我論の人にとっては、これもまた心の中のワンシーンとしての現象だと捉えるのではないでしょうか?

>  時さんのおっしゃった「その認識を止めた時には、そのリンゴは存在するとは言えない」は、どの程度の確度で、ものを言うかにかかっていると思います。


独我論の人の視点を考えると、100%の確かさでしょう。

>  ただし、独我論の世界観である「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」というには勇気がいりませんか?


勇気がなぜ必要なのかわかりませんが、通常の人との通常の会話でも十分に成り立つ場合があると思いますよ。ただ、独我論の人の場合には、その会話が成り立っているシーンも、一つの心の現れだと捉えるのではないでしょうか。

>  「具体的に言うと、その人は誰に向かってそのことを言っているのでしょうか、すべて一人言なのでしょうか、自分の親も否定するのでしょうか、それなら、自分の存在の起源をどう考えているのでしようか、自分が生産してもいない食べ物を食べて生きていることを不思議に思わないのでしょうか、科学理論(物理や化学や)をどう考えているのでしょうか、という疑問です。「私の言っていることはうそである」に匹敵しそうな奇妙さがあります。

>  「夢」がまさにそういう状態(独我論の世界)に近いような気がしますが、現実の世界では、人間としての社会性を欠く(一人だけなのですから、他者を全く気にする必要はないはずです)か、自分をずっとだまして(社会性を装って)生きていかなければならないのではないかと思います。自分をだます必要性はないように思いますが。」


>>独我論の人には「私」と言う一人称が無いのだと思います。一人称がありませんので、対する二人称もありません。あるとすれば、仮の私、仮の表現としてのあなたと言う事になるのでしょうか。( >>476


独我論の人の視点では、通常はあるであろう「私」と言う概念がないと思いますので、「自分の〜、自分が〜、」等々の疑問はないのだと思いますが。独我論の人の視点では「独り言だ」とは思っていないと思います。(私がありませんので)ですが、その事を独我論ではない人の視点で表現すると心の中で行われている「独り言」のように映るのかもしれません。(例えその瞬間の会話が独我論ではない人と成立したとしてもですが)

例えばですが、科学理論(物理や化学や)をどう考えているのか?は、そういった現象が沸き起こった。だけのような気がします。

多分ですが、独我論の人がいるとすれば、果てしなく自由のような気がします。社会性に囚われても囚われなくても良いのですから。そして、他者からの質問にたいしてもそのシーンが心の現れとして映っているだけだと思いますので、質問されるというワンシーンに対して、答えようが答えまいが、全く違った風に表現しようがスルーしようが、独我論の人とって何も意味がそこにはないように思います。

2ヶ月前 No.479

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>471  えぴめてうすさん

前もってお断りしますが,私はあなたが真面目な人だと思っているし,バカにするつもりもありません。
私がエラそうに思えたなら,それは私の人格の欠陥によるものですから,気にしないでください。
ただ,あなたが自身で認めているように,あなたは哲学についての知識がほとんどなく,独我論や観念論の基本的・根本的なところが理解できていない,というのが私のいわば診断です。
なので正直,説明したところでちゃんと理解してもらうのは難しいだろうとは思っています。
ですが,あなたにレスした以上責任があるので,これからあなたのレスを読んで思うところをズラズラ述べますが,そして私なりにはわかってもらえるよう努めますが,限界があるだろうことは了承ください。
それともうひとつ,あなたが独我論を理解できにくくしている要因は,あなたがもともと心理的に独我論的傾向のある人ではなく,素朴な形での物理主義的世界観を自然に受け入れている人のようだからです。
そもそも普通に物理主義的世界観で世界を把握している人は,独我論的世界観を理解することが困難というか,トンデモ話に聞こえがちだと思います。
独我論というのは,もともと心理的に独我論的傾向にある人にとって直感的に理解しやすくても,そうではない人にとってはいわば自分の自然な性向に反して知的にのみ理解しなければならないので,どうしてもハードルが高くなるわけです。

繰り返しになりますが,私があなたのレスでまず思うのは,独我論,また観念論が理解できていないということです。
同意,反対するにせよ,当然,まずは基本的に理解することが前提として必要ですが,
それが決定的に不足していると思います。

それがどこに現われているかというと,とにかく〈私〉と私の区別がついていない,混同しているということ。
独我論的自己というのは,あくまで〈私〉であって,私ではありません。
したがって,独我論の言う「自己意識」もあくまで「〈私〉の意識」であって,
心理学的意味等の,通常理解される意味でのものではなく,たとえば現象学では
「超越論的意識」と言われるものです。
あなたが独我論を「ジコチュー」と思っている間は,全くこのことがわかっていないのです。
「ジコチュー」の「自己」は独我論的自己=〈私〉ではありません。
「ジコチュー」の「自己」は,それと同等な資格の「他者」の存在を前提として,
にもかかわらず,自己のみを中心にとらえる観方を絶対化しようとするから「ジコチュー」なわけです。
しかし,〈私〉はいわば定義上,最初から現に比類のない存在・並び立つもののない存在が存在するので,それを〈私〉としているだけであって,何も自分だけを特別扱いしているわけではありません。

あなたはとにかく自分が認識しないとリンゴが消滅するということを繰り返し言いますが,
このときあなたが前提しているのも,〈私〉ではなく,単なる私です。
そんなふうに理解したら,そりゃおかしな話だということになるでしょう。
いやいや,あなたが意識を失おうと,死のうと,認識していなかろうと,リンゴも私も世界も消滅しませんよ,ってね。
あなたが自分の考えを述べるとき,前提となっているのは,明らかに客観的世界の存在であり,その上にリンゴも私も(私の意識も)他者も置いて考えているわけです。
だからこそ,次のような発言となるわけです。

>人類は,各人が認識を止めると,リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験を持っていませんので,


とあなたは書いていますが,物理現象のわけないですよね。
独我論の主張は全くそういうことではありません。
このような発言をするということは,全く独我論的に世界を見ることができていないのです。
独我論の世界観では,
「唯一の実在は主観的世界である」
となります。
この「主観的世界」というのは,「観念世界」「表象世界」「現象世界」「知覚世界」「直接経験の世界」「自己意識の世界」などと言い換えても,それぞれニュアンスはもちろん異なるものの,基本的なところでは大きくは異なりません。そして,次が成り立つわけです。
実在=〈私〉の世界=主観的世界
客観的世界はその中で言語的に構成され,検証方法を規定してその主観的世界での意味を得ているのであって,最初から説明の順序が逆なのです。
そしてそのことの正当性は,いかなる主観であろうと徹頭徹尾〈私〉の世界しか知りえない,ということに示されているのです。
独我論の主張は,このことを前提として成り立っています。
客観的リンゴですら,この意味での自己意識の内部に存在するものです。
ふくろうも,あなたの意識世界の中の存在です。
こういったことを,あなたのように客観的・物理的世界を前提して,その枠組みで解釈したら,バカみたいな話になってしまいます。
だから,あなたの解釈は的外れになってしまっているのです。
さしあたり,「心の哲学まとめWiki」で,「水槽の脳」を読んでみたらいいと思います。

それと,私の言う「認識不可能」は「論理的不可能性」を意味しており,能力的に認識不可能なのではありません。
それゆえ認識不可能⇔存在しない,ということです。
あなたの「存在しない」の定義はなんですか?

私の書き方が不正確でミスリーディングなのかもしれませんが,
あなたにとっての〈私〉の世界と,私にとっての〈私〉の世界は,別のものではなく,
それぞれの〈私〉の世界があるのではありません。
それぞれの〈私〉の世界があるのなら,独我論になりません。幾つもの主観的世界があることになってしまうから。
あなたは誤解しています。
ここでも,あなたは〈私〉を私と解釈しているわけです。
そうではなく,それは唯一,同一のものです。
ラフにたとえて言うと,あなたにとっての「私」という言葉と私にとっての「私」という言葉は,同じ言葉です。
同様に,あなたにとっての〈私〉の言語と,と私にとっての〈私〉の言語は同一です。
あなたにとっての〈私〉の世界と,私にとっての〈私〉の世界は同一,唯一の実在世界です。

なんかまとまりのない文章になってしまって,すみません。
結局〈私〉と私は異なることが理解できていない,と繰り返してますね(笑)。
とりあえず,先に述べた「水槽の脳」についての解説やサイトを読んで,現象主義,観念論,表象主義といった立場がどういうものであるかを,理解するよう努めたほうがいいと私は思います。
あるいは映画『マトリックス』を観て,あなたが今持っている実在という観念について改めて考えてみたらいいと思います。映画作品としても面白いし,哲学的にみても興味深いと思いますよ。
その立場が,荒唐無稽なお話ではなく,興味深い問題であることが分かってからでないと,たぶんあなたの言うことはとんちんかんの域を出ないんじゃないかと思います。

2ヶ月前 No.480

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

時さん

 ご返信ありがとうございました。

>この瞬間には、リンゴは認識していませんね。認識(存在)していたリンゴがその瞬間に存在(認識)しなくなったと、そういう事だと思いますが。


 これは、「リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。これが独我論の基本的な世界観である。」に当てはまるような気がするのですが……

>はい、これは独我論の人ではない、えぴめてうすさんのご認識ですね。

>はい、これも独我論の人ではない、えぴめてうすさんのご認識ですね。独我論の人の視点では、その瞬間に消滅していると表現するのではないでしょうか。(表現するとすればですが)

>はい、通常の会話や生活においては妥当だと思います。仰るように「見ていない時に、月は存在する」と言う事の証明は難しいと思いますよ。そして、たとえこれを証明できたとしても、独我論の人にとっての意味はないですね。

>「ほら、やはり見ていなくても月は存在するじゃないか。あなた(独我論の人)の言っていることは間違いだ」と表現したところで、独我論の人にとっては、これもまた心の中のワンシーンとしての現象だと捉えるのではないでしょうか?

>独我論の人の視点を考えると、100%の確かさでしょう。


 おっしゃるとおりだと思います。
 ご指摘いただいて思ったのですが、独我論者が「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」と考えている以上、「心の中のワンシーンとしての現象だと捉える」のだとすれば、他者の存在を認めておらず、主体間の会話としては本当は成り立たない状況にあるということだと思います。何をいまさらとおっしゃるかもしれませんが。
 そうであればなおさら、独我論者の人に、 >>453 を問うてみたくなりました。別に問うた私のことを、心の中のワンシーンとしての現象だと捉えられてもかまいません。それらの問いをどのようにお答えになるかが知りたいのです。

 すこしだけお付き合いください。
 こんな感じでしょうか?答えてくれればの話ですが……

私:あなたに問いかけている私は、あなたの意識の中にのみ存在する人物ですか。
独我論者:そうだよ。どうでもいいことだけど。

私:あなたが、日常において、会話する家族や仲間は、あなたが認識しているときだけ存在し、認識をやめると消滅し、再び認識すると存在するのですか。
独我論者:そうだよ。それがなにか。

私:あなたの認識とは無関係な事物は存在せず、認識した時にいきなり存在が現れるという世界に生きているという実感がありますか。
独我論者:もちろん、それが僕の世界さ。

私:あなたは、どのようにして生まれたのですか。
独我論者:ぼくがどのようにして生まれたかに関心ないね。認識しているこの世界がすべてなんだから。

私:あなたが知っている科学や歴史の知識は、あなたの意識が創造したものですか。
独我論者:ぼくの意識の中で起こる出来事だよ、全部。意識の中で、勝手に情報として得られるけど、創造したと言えばそうだろうね。

私:このあなたへの問いかけは、私の認識の中のみの出来事でしょうか。
独我論者:ぼくにとっては、僕の認識の中の出来事以外の何物でもないさ。

私:つまりあなたは私と同じ認識する主体ではないのですか。
独我論者:私のみが認識する主体なんだよ。

 通常の人間、この定義は微妙ですが、精神病などではない、普通に仕事をし、友達や家庭を持ち、社会生活を営んでいる人で、このような考えの人がいるでしょうか。
 いる可能性を否定はしませんが、それなら、独我論を論破できないのは、問いかけも、議論も、証明も有効ではない、同一の地平で意思疎通ができないことに原因があるように思いました。独我論者の強い思い込みになす術がないといった感じでしょうか。結局、この話はそんな話なのでしょうか。

 SumioBabaxyさんの  >>478  「「独我論」は実証も反証もできないという点に、究極の真理が有るように思います」と、このことがもし同値なのであれば、やはり疑似問題として処理するということでしょうね。

2ヶ月前 No.481

★gqdIifD3jF_c1Z

>>481  えぴめてうすさんへ

>  すこしだけお付き合いください。

>  こんな感じでしょうか?答えてくれればの話ですが……


> 私:あなたに問いかけている私は、あなたの意識の中にのみ存在する人物ですか。

> 私:あなたが、日常において、会話する家族や仲間は、あなたが認識しているときだけ存在し、認識をやめると消滅し、再び認識すると存在するのですか。

> 私:あなたの認識とは無関係な事物は存在せず、認識した時にいきなり存在が現れるという世界に生きているという実感がありますか。

> 私:あなたは、どのようにして生まれたのですか。

> 私:あなたが知っている科学や歴史の知識は、あなたの意識が創造したものですか。

> 私:このあなたへの問いかけは、私の認識の中のみの出来事でしょうか。

> 私:つまりあなたは私と同じ認識する主体ではないのですか。


お書きいただいた答えでも問題ないと思います。強いて表現するのであれば(何かを言われるとすれば)、独我論の人と独我論ではない人の主観の世界を混同しています。と言う事を言われるのではないでしょうか?詳しくは、 >>480 のザビビのふくろうさんのレスの「〈私〉と私(上記引用部の質問者)」の違いの理解を進められればよいのではないでしょうか。

レスをありがとうございました。

2ヶ月前 No.482

★Xk4oS3iR5E_c1Z

>>482  追記です。

>  通常の人間、この定義は微妙ですが、精神病などではない、普通に仕事をし、友達や家庭を持ち、社会生活を営んでいる人で、このような考えの人がいるでしょうか。


おられると思いますよ。呼び名は忘れましたが、確か、タバコ屋を営んでいたインドの聖者がいたと思います。

>  いる可能性を否定はしませんが、それなら、独我論を論破できないのは、問いかけも、議論も、証明も有効ではない、同一の地平で意思疎通ができないことに原因があるように思いました。独我論者の強い思い込みになす術がないといった感じでしょうか。結局、この話はそんな話なのでしょうか。


例えばですが、タバコ屋を営んでいる聖者と同じくインドの聖者であるラマナ・マハルシと呼ばれる聖者がいましたが、この聖者も集まった人々の質問に答えたりしていたようです。

「貴方は、何者か?」から始まり、「貴方は真我である」と言った内容です。

この事の理解が、質問者に直観的にでも起これば、マハルシの言う真我が、〈私〉の事だろうと思えると思います。

ですが、彼は「あなたは、独我論者ですか?」と言う問いには多分答えません。そもそも論を持ちません。ですので論者ではないですね。ですので、論破はできませんね。できると思っているのは、彼の言う真我の理解が起こっていない存在(私・私・私・私・・・)達でしょう。

問いかけはできますね。彼もその各種問いかけに対して答えていたのですから。証明は意味をなしません。同一の地平で意思疎通ができないことに原因があると言うのは、同じ次元での会話ができないと言う意味に捉えると、多分、彼ら聖者が語る時には、相手の立場(次元)までできるだけ降りてきて、同じ次元での説明はすると思います。そこで理解が起こらないのは、誰の責任でもないでしょう。「質問者に理解が起こらないのは、今はその時ではないからだ」というだけです。

独我論の強い思い込みについては、基準が「私」にあり、「私」が思い込んでおらず、独我論者が思い込んでいるんだという風な表現に受け取りましたが、今の例えでいう所の聖者から言わせると、それは逆でしょう。〈私〉が実存で、その実存に理解が至っていない「私」が、幻想世界で「生きている」と思い込んでいるのです。となるのではないでしょうか。

では、なぜに一部の聖者達がそのような(彼らにとっての)無意味な質問等に答えるのか?ですが、それが沸き起こる慈悲からの行動だからです。答えない聖者も多くおられると思いますよ。それは、答えるべき聖者が、答えるべき時に答えているだけです。そこに理由はありません。

しかし、えぴめてうすさんが「インド聖者が独我論者なのだ。」と記憶してしまうと、大きく間違うと思いますよ。

話が少しずれたかもしれませんが、以上です。

2ヶ月前 No.483

マジカルモンキー ★IkTe7dpHmE_uKh

話の流れから推測するに、『 我の世 』ってことかなと思う。

そうなると、独我論なんて存在しないんじゃないじゃないのかね。

だって、世をコントロールするシステムなんて、相当難しいでしょ?

2ヶ月前 No.484

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>> >>480


>ただ,あなたが自身で認めているように,あなたは哲学についての知識がほとんどなく,独我論や観念論の基本的・根本的なところが理解できていない,というのが私のいわば診断です。


 申し訳ありません。いずれこのようなご意見、お叱りがくるのではと思っていました。
 と同時に、私の主張の根本的なところに対して、ご意見をいただいたことを大変ありがたく思います。これだけでも、投稿の価値はあったという思いです。

>それともうひとつ,あなたが独我論を理解できにくくしている要因は,あなたがもともと心理的に独我論的傾向のある人ではなく,素朴な形での物理主義的世界観を自然に受け入れている人のようだからです。

そもそも普通に物理主義的世界観で世界を把握している人は,独我論的世界観を理解することが困難というか,トンデモ話に聞こえがちだと思います。

 自分でも哲学的議論の前提となる基礎概念を踏まえない、子どもっぽい主張をしていると自覚しています。
 言い訳になりますが、これは、永井均さんの「〈子ども〉のための哲学/講談社現代新書」でいう〈子ども〉の主張をしているつもりなのです。
 言い訳ついでに、このスレで、何にこだわっているかといいますと、すぴのざさんが、 >>0  で、設定されているこのスレでの定義を、〈子ども〉の心で受け止めたうえ、独我論として定義されている内容のうち、「リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」ということについて、哲学の専門的な理解を前提にではなく、普通の言葉の意味でもって、この内容のおかしさを提起したいという思いをもっています。

 繰り返し繰り返し、 >>0  の定義のこの部分を引用しているのは、そのためです。
 それと、抽象的な概念を議論する場合では、人によってキーフレーズの捉え方や言葉の定義が異なることがあり、かみ合わない原因になると思い、 >>0  を常に意識して、内容を考えています。
 ただ、その定義の理解が間違っていないか、ズレていないかについては、このスレでご意見をいただき、修正をしていきたいと思っています。
 哲学的素養と専門的知識がない私にとっては、とりあえず、これが哲学する姿勢になると思っています。
 それらをお持ちの方にとって、私の投稿に付き合わされるのは大変迷惑なのだと思います。お付き合いいただいている方には申し訳ない気持ちです。

 ご指摘いただいたように、「素朴な形での物理主義的世界観」で、私にとっては、日常の常識的感覚で、あえて(自覚して)論を進めたいと思っています。(かといって、もっと他の進め方ができる能力があるわけではありません。戦略としての評価は低いかもしれませんが。)

2ヶ月前 No.485

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>>480

>それがどこに現われているかというと,とにかく〈私〉と私の区別がついていない,混同しているということ。


 私とは、だれもがみんな自分であり、私であるというときの私であり、〈私〉とは、他人たちとは全然似ていないこの唯一の私ということでよいでしょうか。ご指摘のように、この二つを区別していませんでした。

>独我論の世界観では,「唯一の実在は主観的世界である」となります。


 私も、限定なしの客観的世界があるとは思っていません。
 「認識の性質として、私が感覚器官を通じて「認識」することの限界がある」( >>427 )と思っており、「人間の思考は、ある範囲に限られるというのが、私の感覚です。まず、情報は感覚器官を通じて獲得されますが、見えるのは可視光の範囲、聴覚も範囲がある、嗅覚も他の動物より能力が低い(ことが多い)、計算力も個人差はあるものの、コンピュータのCPUにはかなわない などなど。それが人間であり、人間を規定している要素だと思います。」(「存在論を問う」の >>281
 あくまで、私という主観が認識する世界と理解しています。

 そういう意味では、非独我論的世界観(独我論ではない、いわゆる通常の世界観)も、主観が認識する世界だと思っています。
 一方、独我論の世界観は,定義に従い、「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」と考えます。 時さんが、私へのレスとして、 >>479  でおっしゃっておられる独我論者の反応のような世界だと思います。

 独我論的世界も非独我論的世界も、〈私〉の世界であるものの、永井均さんの「〈子ども〉のための哲学」でいう「任意の主観性」を非独我論では認めるが、独我論では認めず、自分の「現実」認識をすべてと考え、その中から絶対に出ないところに、独我論たるゆえんがあるように思います。

>あなたにとっての〈私〉の世界と,私にとっての〈私〉の世界は,別のものではなく,

それぞれの〈私〉の世界があるのではありません。
それぞれの〈私〉の世界があるのなら,独我論になりません。幾つもの主観的世界があることになってしまうから。

 この「あなたにとっての〈私〉の世界と,私にとっての〈私〉の世界」を認めるのが、私の世界だと思っており、この非独我論的な立場から、自分の「現実」認識の中から絶対に出ない独我論者に問いかけているということは、自覚しています。
 このやり方が適切でないのかもしれませんが、今の私にできることは、あえて、〈子ども〉の主張をし、前を向いて進むことだと思うのです。
 そこで、壁に当たったり、迷路に入ったら、軌道修正やUターン、仕切り直しなどを迫られるだろうことはある程度承知しています。

>それと,私の言う「認識不可能」は「論理的不可能性」を意味しており,能力的に認識不可能なのではありません。

それゆえ認識不可能⇔存在しない,ということです。
あなたの「存在しない」の定義はなんですか?

 この世界そのものではなく、ある物が「存在しない」という場合は、「認識されない状態にあること」とでも言ったらよいのではと思います。この「認識されない状態」には、記憶による補足によって、推測される場合は除かれます。

  >>427  で書きましたように、先月、永井均さんの「<子ども>のための哲学」を読んで、独我論に興味を持ちました。
 永井さんが、「哲学とは、何よりもまずするものである」、「哲学というものは、最初の第一歩から、つまり哲学なんてぜんぜん知らないうちから、何のお手本もなしに、自分一人ではじめるのでなければ、けっしてはじめることはできないものだ」と書かれているのを都合よく解釈し、私の議論をはじめようと思った次第です。

 ご指摘の数々、まだ咀嚼しきれていないものと思いますが、少し空が明るくなってきた感じがします。

2ヶ月前 No.486

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>>480

 ご教示いただきました「水槽の脳」についての解説やサイトをとりあえず、斜め読みしました。
 その中で、「われわれが自分の表象しか認識できないなら、なぜ世界に多数の人々がいて、それぞれ自分の表象だけで生きているのに、人々は高度な水準でコミュニケーションを成しうるのか、というものである(この場合、他人の意識は不可知であるとするなら独我論になる)。」とありましたが、このかっこ書きの前までが、私が独我論に対する反論材料と考えている内容です。

 そして、次のかっこ書きの文章に違和感を覚え、「独我論」のページに行ってみてわかりましたが、ジョン・R・サールの独我論の三タイプ分けのうち、「1、心的状態を持つのは自分だけであり、他者とは私の心に現れる現象に過ぎないとする立場」のみを独我論とみなしていました。
 認識主体として、他人を認める「2、他人も心的状態を持っているかもしれないが、それを確かめる事はできなとする立場」や「3、他人も心的状態を持っているとしても、その内容は私と違っているかもしれないという立場。例えば私が赤いりんごを見ていたとしても、同じりんごを見ている他人にはそれが青く見えているかもしれないということで、これは逆転クオリアの思考実験として知られている。」は、上記の私の主張では非独我論を意味していたことがわかりました。

 また、永井均さんの独我論も載っていました。
 「永井均は独我論を二つに分ける。ひとつは「認識論的独我論」であり、これはある一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないとする考え方であり、普遍化できる独我論である。もうひとつは「存在論的独我論」であり、これは世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均が「この私」なのかという問題であり、普遍化できない独我論である。これは意識の超難問と類型である。」
 この「存在論的独我論」は、〈子ども〉のための哲学にも書いてありましたが、永井さんが「奇跡」といっておられる、この私はなぜ永井均なのかという驚きを私は理解することはできていません。

 マトリックスは、以前見たことがありますが、今度そんな感覚で見てみたいと思います。

 ただ、水槽の脳や「マトリックス」のバーチャルリアリティーの世界から直感的に想起されるのは、検証不能を問題にしている疑似問題ではないか、きっぱりとした答えを出すというより、状況証拠からそう考えた方が妥当だというしかないのではという漠然とした気分です。

2ヶ月前 No.487

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

時さん

>>483

 丁寧にご教示いただき、ありがとうございました。ただその内容に少々戸惑いを感じております。

 ご教示いただいたことを踏まえると、これまで私は、ある1つの「信念」に対し、それは常識的におかしいだろうと言っているだけではないかというような気がしました。

 私の勝手な思い込みですが、独我論を巡る思想界の風景を、たとえば、経済学上のケインジアンとマネタリスト、マネタリストでも、古典的な貨幣数量説、さらに合理的期待形成学派、あるいは政治的な主張の面ではコミュに立リアニズムやリバタリアニズムという学派・学説にわかれているようなイメージでとらえていました。

 でも、そういう学派・学説があるのではなく、それぞれ個人個人でそういう思考を持つ独我論に与しない人がいて、その思考の是非について、学派間の論争として成り立っているのではなく、どちらかというと、哲学する側から、その「信念」たる思考をネタにゲームをしている感じになりました。

 あらためてですが、結局、この話はそんな話なのですね。

 いや、「一部の聖者達がそのような(彼らにとっての)無意味な質問等に答える」のは、「沸き起こる慈悲からの行動だから」で、この「「インド聖者が独我論者なのだ。」と記憶してしまうと、大きく間違う」とご忠告いただいたことからすると、聖者はたしかに独我論的な思考をしている人だが、まったく無自覚であり、よって、その人は独我論者ではなく、この哲学的な議論を踏まえて、自覚的に独我論を肯定する人こそが独我論者であるといえるということでしょうか?

 もしそうならば、その自覚的に独我論を肯定する人にこそ聞いてみたいのです。 >>453

2ヶ月前 No.488

マジカルモンキー ★IkTe7dpHmE_uKh

仮にこの世が私のものならば、いったいどんな力が必要なのか?と考えた。
魔法がいるのか?呪術がいるのか?そういった魔性を帯びたものを取り除いて、
剛力(パワー)で考えとき、制圧・抑制などの制の力が必要になると思う。

この世が制御できないのならば、我の世とはいえない。
しかし、空間を狭めていけば、例えば、自分の部屋だけならば、制御は可能だろう。
ようは、範囲が問題になっていく。
範囲が大きくなれば、制御ができないので、我の世とはいえない。
範囲が小さくなれば、制御ができるので、我の世と言える。
空間は無限に広がっている故、この世は、我のものではないのである。
しかし、限定的に、我のものであると言える。

宇宙のどこからから、私を見た場合、私には何に見えるのか?
私が私を見た時に、私は何に見えるのか?

2ヶ月前 No.489

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

>480 ザビビさん 哲学の貴方のレベルは知っています(笑

そもそもが、辞書・辞典・字典・哲学辞典等々の「独我論」の翻訳が間違っているのですね。
すべての辞書、辞典では「独我論」とひいたら、自己中、自己中心的なわがまま、、、、とか

自分勝手な考えの人と書いてある。これでは哲学の基礎もスタートも無理ですわ。(大爆笑
独我論とバークリーをごちゃまぜにして、トンチンカン論になっていますねえ。

やっぱり日本人ですねえ、あきれてしまいます。(大爆笑 ( 私)の意味もわからんって?

2ヶ月前 No.490

★FUAXyAj2Fl_c1Z

>>488  えぴめてうすさんへ

>  ご教示いただいたことを踏まえると、これまで私は、ある1つの「信念」に対し、それは常識的におかしいだろうと言っているだけではないかというような気がしました。


私の捉え方では「信念」ではなくて「状態」でしょうか。

>  私の勝手な思い込みですが、独我論を巡る思想界の風景を、たとえば、経済学上のケインジアンとマネタリスト、マネタリストでも、古典的な貨幣数量説、さらに合理的期待形成学派、あるいは政治的な主張の面ではコミュに立リアニズムやリバタリアニズムという学派・学説にわかれているようなイメージでとらえていました。


>  でも、そういう学派・学説があるのではなく、それぞれ個人個人でそういう思考を持つ独我論に与しない人がいて、その思考の是非について、学派間の論争として成り立っているのではなく、どちらかというと、哲学する側から、その「信念」たる思考をネタにゲームをしている感じになりました。


独我論学派と言うものがあるのかないのか、私は知りません。昔から続く哲学と言う学問の分野の中で、各人の哲学が進められ、その中の一つとして、現在「独我論」と言われるものが表現されただけではないのでしょうか。そしてこのスレでは、それの表現として

「独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。」

「このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。」と言う内容でのお話合いだと認識しています。

そしてこの内容を私なりに思い描いた時と、えぴめてうすさんの >>481 でのご発言の「通常の人間、この定義は微妙ですが、精神病などではない、普通に仕事をし、友達や家庭を持ち、社会生活を営んでいる人で、このような考えの人がいるでしょうか。」と言うお話の内容の意味合いが一致しましたので、(私の思う)実例での例え話として「タバコ屋のインド聖者」のご紹介をしました。

ですので、哲学の分野での「独我論は、独我論」として議論されればよいのではないでしょうか。

>  あらためてですが、結局、この話はそんな話なのですね。


ですので、多分、違うと思います。

>  いや、「一部の聖者達がそのような(彼らにとっての)無意味な質問等に答える」のは、「沸き起こる慈悲からの行動だから」で、この「「インド聖者が独我論者なのだ。」と記憶してしまうと、大きく間違う」とご忠告いただいたことからすると、聖者はたしかに独我論的な思考をしている人だが、まったく無自覚であり、よって、その人は独我論者ではなく、この哲学的な議論を踏まえて、自覚的に独我論を肯定する人こそが独我論者であるといえるということでしょうか?


聖者のお話を出しましたのは、上記の通りです。そしてその「独我論者」と言うものが何を意味するのか私には分かりませんので、(悪気はなく)何とも言えません。が、もしも「独我論こそ唯一正しいのだ」と主張する人がおられたのであれば、その方と議論されればよいのではないでしょうか。

2ヶ月前 No.491

マジカルモンキー ★IkTe7dpHmE_uKh

私は心のない人間ですので、今から描くのは頭脳で考えた事。

結論を書く。

『 この世が我が世ではないのなら、独我論でないほうが良い 』

理由

独我論は、自分が制御できる適用範囲で発揮できることであり、空間のスケールが大きくなるに従って
この世は我が世ではなくなっていく。

(1) 外部と内部の観点から矛盾を抽出する。

思考は美しい。けど宇宙は崩壊する。外部の外には外部がある。その外部に外部があり、内側は絶えず影響を与えています。
すなわち、内側にいる我々は外部に影響を与える事がなく、絶えず予期せぬ変化にさらされている。
しかし、私たちの思考は、常に美意識に縛られていて、その全貌は認知できない。

(2) 完全と不完全の観点から矛盾を抽出する。

思考は美しい。それは宇宙が完全な形をしているからである。
しかし、人間自体が不完全で、下手したら崩壊の人間の可能性がある。

せいぜい独我論が通じるのは、我が家だけであり、
形作る神などいなく、つねに確率論を操る神しかないということになる。

以上

2ヶ月前 No.492

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>えぴめてうすさん


まず、あなたは自分が永井の言う〈子ども〉の立場で考えていると言っていますね。
私は永井の正確な意図もよくわからないし、どれだけ意味のある捉え方かわかりませんが、哲学の知識をもたないことが〈子ども〉なのではない、のは確かだと思います。
いずれにしても、あなたの捉え方は、あきらかに〈おとな〉の立場からの捉え方です。
あなたの答えは、「なぜ僕は生まれてきたの」という子供の問いに対して、「両親が成功(←誤字)したから」と答える大人とかわりません。
>>481 に示された問答を見れば明らかであり、独我論者をあなたは自己チュー人間として説教する大人の立場に立っています。
実際にも、発達心理学でいう「心の理論」をもつ前の幼児の生きている世界は、かなり私の主張している独我論的世界に近いと私は思います。
むしろ、あなたはすっかり〈子ども〉の心を失ったおとなです。

私がすすめた『水槽の脳』のサイトを読んでくれて、『マトリックス』を観ていたというのは議論をする上で非常によかったと思います。
それで、
>人類は,各人が認識を止めると,リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験を持っていません


という発言がまったくの的外れだということは理解できましたか?
あなた自身が,今現在『マトリックス』の主人公の立ち位置,すなわち,仮想現実(表象)の世界内存在であると,そして,その仮想現実が,コンピュータによってあなたの脳が見させられている幻覚であると想定可能ということ。
この想定においては,物理現象もまた仮想現実の中の現象にすぎません。
したがって,マトリックスの世界の中のあなたが物理的・客観的対象と信じているリンゴも,そのコンピュータによる仮想現実の外には存在せず,その仮想現実が消滅すると,その中のリンゴも世界も他者もみんな消滅します。
つまり,あなたが念頭においている心的現象と物理的現象の区別自体,表象世界の中での区別にすぎないのです。
とにかく,あなたは自分がマトリックスの仮想現実にいると想定して,独我論者に聞きたいと言っていた質問をたとえばマトリックスの主人公に尋ねることを考えてみてください。

えぴめてうす「このリンゴはあなたが認識していなければ存在しないのですか?」
ネオ「そうです。私が認識している世界=私の世界=この仮想現実の存在ということですから。私がリンゴを認識していないというのは,この世界に存在しないということですよ。」

ネオがこのように答えたとすれば,
この場合の,ネオの「私」は〈私〉を意味しています。
現在想定している仮想現実内存在であるあなたと同じように,その世界内に存在するネオに尋ねたとしても,そのときネオは世界内存在としてのネオとして答えるのではなく,この世界全体が自分の幻覚=仮想現実であるという意味で答えているわけです。
すなわち,仮想現実=〈私〉であるような主観のことです。
つまり,この世界は〈私〉の世界である,という立場,すなわち独我論者として語っているわけです。
理解してもらえるかな?

こういった思考実験の核心は、世界の本質的表象性を顕わにする点にあります。

>徹底した現象主義を前提にして水槽脳仮説を考究すれば、意味論的外在主義がナンセンスな主張であることがわかる。そもそも「内在的なもの」も「外在的なもの」も、われわれの意識に現れる表象の分類に過ぎないからだ。たとえば、今は私は確かに「パソコン」を操作しているが、その「パソコン」とは論理的に一個の表象(クオリア)なのであり、その表象を超えて、意識外部に「本物のパソコン」があるかもしれないと考えるのは、論理的でなく、根拠の欠如した単なる空想なのである。 (『心の哲学まとめWiki』「水槽の脳」より引用)


という点に関して、私はおおまかにはこのサイトの著者と一致した意見です。
各主観の表象世界の外に、実在としての客観的世界や物自体界など存在しません。
表象そのものが唯一の実在である、ということです。
あなたは、客観的世界としてのマクロコスモスの中に、主観的・表象世界としての各ミクロコスモスが、宇宙空間の中にいくつもの惑星世界が存在するような描像で解釈していますよね。
逆に言うと,心的現象世界としてのミクロコスモスの外に,物理的・客観的実在世界があると考えていますよね。
こういった描像がナンセンスであることを,水槽脳仮説などが示しているのです。
表象世界の外などありえません。
ミクロコスモス⊂マクロコスモス
ではなく、
ミクロコスモス=マクロコスモス
なのです。
つまり、独我論では、
世界=〈私〉の世界=〈私〉
です。

>「われわれが自分の表象しか認識できないなら、なぜ世界に多数の人々がいて、それぞれ自分の表象だけで生きているのに、人々は高度な水準でコミュニケーションを成しうるのか、というものである(この場合、他人の意識は不可知であるとするなら独我論になる)。」とありましたが、このかっこ書きの前までが、私が独我論に対する反論材料と考えている内容です。


と,あなたは述べていますが,この反論は、前述したように,
主観的(表象)世界(ミクロコスモス)が客観的世界(マクロコスモス)の中にいくつも存在するという図式を前提しています。そして,その上で,それに反論しようとしています。
たしかに,このような捉え方では、窓のないモナドのように、閉じられた心的世界としての個人的主観世界が、いかにして他の主観的世界とコミュニケーションをとるのか、ということが問題になるでしょう。
だからこそ,この反論は,まさにあなた自身が捉えている世界の図式が間違っていると主張するものであって,自己論駁なのです。
世界が唯一である独我論では、問題になりません(これは先のサイトの著者と異なる考えです)。
つまりあなたが独我論への反論の論拠と考えているものは,独我論の批判ではありえず,あなた自身が独我論として誤解している解釈の否定にしかならないのであって,それゆえまったく的外れでしかないのです。

あなたのいう自分の表象世界というのは、客観的世界の中の存在、すなわち「世界内存在」でしょう。
独我論の言う表象世界は、「全体としての世界の存在」です。
『マトリックス』で言えば、最初登場する主人公のネオは仮想現実の世界中の登場人物、すなわち世界内存在です。
しかし、この世界そのものが、コンピュータによって見させられているネオの〈私〉の幻覚世界=仮想現実の世界なわけです。
いわば,この仮想現実の世界内存在としてのネオの私と、世界そのものとしてのネオの〈私〉を区別しなければならないのです。
この映画では外の実在世界が想定されていますが、哲学的核心は、そこにはありません。
一旦こういった仮想が可能であることがわかってしまえば、どこまで行ってもその世界が仮想現実の世界であることを否定することはできない,というところにあります。
いわば、夢から覚めたと思ったら、それもまた夢だった・・・と、無限に続きうるわけです。これが夢(仮想現実の世界・表象世界)ではないと、いつまでも否定できません。
つまり、こういった仮想世界が可能であることが、仮想現実(表象)の世界と外在するリアルワールド(実在)との区別そのものが不可能・ナンセンスであることを示しているのです。

まとめておきましょう。
私が繰り返している,あなたが〈私〉と私を混同している,というのは,
〈私〉の世界の存在=全体としての世界の存在
なのに,えぴめてうすさんは,
〈私〉の世界の存在=世界の中の存在(世界内存在)
と解釈しているということ。これが一点。
そしてもう一点,この解釈に基づいて,主観同士のコミュニケーションが可能であることの説明困難さなどを論拠にして独我論に反論しようと考えているが,
それは自分の解釈する世界図式への批判となりえても,独我論への批判ではありえない。

ところで一応断っておきますが,
今ここで私は一独我論者の立場から述べています。
本当は言うまでもないことですが,初心者ということで念のために言っておきますが,
独我論と言っても,唯一の説があるわけではなく,論者によって異なったタイプがあります。
誤解を避けるために述べておくと,私は一応あなたが読んだ『論考』の独我論を念頭においています。ただし,注意してもらいたいのは,永井均の考えとは全くことなるということ。『論考』解釈に関しても,永井の解釈とは全く異なります。

1ヶ月前 No.493

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

<私>は存在しない。現象をいくら見渡しても<私>を見つけることはできない。ただ、現象あるのみ。

1ヶ月前 No.494

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_c1Z

<私>が実在としての私だとするならば、(議論を読んでいないので、一文から予想した)
現象を見渡して<私>を見つけられないのならば、何故あなたは<私>について語ることができるのだろうか?
<私>がもしちょっとさんにとって語りえぬものであるならば、なぜあなたは沈黙しないことができるのか?

1ヶ月前 No.495

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_c1Z

答え:あなたが独我論者だから

1ヶ月前 No.496

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

>494 ちょっと、まってよ    さん

私は存在しない。現象を・・・いくら・・・見つけることはできない。→ もうすこし説明してくださいな。

なぜ、そうなのかという理由が全然わからないじゃないですか? 面白そうな見解だけど?

常識では(わたし)が現象を見い出し、見つけて、感じるものだと思うのですが?

1ヶ月前 No.497

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

<私>は観念である。観念について語るのは容易だ。幽霊について語れるように。実在するかどうかは関係ない。現象内に<私>が存在しないのは明らか。私の手はあっても<私>はない。私の足はあっても<私>はない。鏡に映る私の顔はあっても<私>はない。<私>は観念である。

1ヶ月前 No.498

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

時さん

>>491

>ですので、哲学の分野での「独我論は、独我論」として議論されればよいのではないでしょうか。


このことが、
  >>488  で書いた「でも、そういう学派・学説があるのではなく、それぞれ個人個人でそういう思考を持つ独我論に与しない人がいて、その思考の是非について、学派間の論争として成り立っているのではなく、どちらかというと、哲学する側から、その「信念」たる思考をネタにゲームをしている」ということではないのだろうかと思った次第です。(「信念」は、時さんは「状態」とおっしゃっていますので、そこは違いますが。)

>もしも「独我論こそ唯一正しいのだ」と主張する人がおられたのであれば、その方と議論されればよいのではないでしょうか。


 お恥ずかしいですが、いずれにしても、独我的世界に生きる人=インドの聖者のような人 とは基本的に議論が成立しないことがわかりました。
 そういう意味では、おっしゃるように、「独我論者」という言葉が急に意味不明になってきました。
 「独我論者」を「独我論を肯定する人」という意味にとらえれば、そもそも独我的な世界に生きる人なら、他者はすべて自己の意識の中に存在するため、あえて肯定する必要も、動機も、意味もないはずですし、独我的な世界にいきていない、他者を認める人であれば、むしろ独我論を肯定すること自体が矛盾していると思われます。
 ただ、独我的な世界に生きていない人が、独我的な世界に生きている人がそういう考え方をしていることを指摘したり、議論したりすることは可能だと思います。
 結局、ご指摘のように、哲学の分野での「独我論は、独我論」として(思考実験のようなイメージで)議論するということになるのかもしれません。そういう独我論者は存在せず、独我的な世界に生きていない人との議論しかないことになるのかなと。

 レベルの低い話で恐縮です。お手間を取らせてしまいました。

1ヶ月前 No.499

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_c1Z

>>498

>>494 で<私>が実在ではなく観念として扱われていたのなら、俺の誤解だった。
観念であれば存在しないということはできるね。

1ヶ月前 No.500

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_c1Z

観念について存在するとかしないとか、そんなことを言うことに意味があるとはとても思えないがね。

1ヶ月前 No.501

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>493


ご丁寧なレスをありがとうございました。

>まず、あなたは自分が永井の言う〈子ども〉の立場で考えていると言っていますね。

>哲学の知識をもたないことが〈子ども〉なのではない、のは確かだと思います。

>いずれにしても、あなたの捉え方は、あきらかに〈おとな〉の立場からの捉え方です。


 永井さんは、〈子ども〉の哲学について、「子どもの哲学は何もよきものをもとめない」、「解かれたときに、何かよい結果や効果が得られるというようなものでもない。しいていうなら、ただふつうの大人になれるだけ」、「大人になるとは、ある種の問いが問いでなくなることなのである。だから、それを問い続けることは、大人になってもまだ〈子ども〉だ。そして、その意味で、〈子ども〉であるということは、そのまま、哲学しているということなのである」と述べてます。

 この意味では、〈子ども〉による問いを発していると自覚しています。
 ちなみに、永井さんは、実際に子供の頃、「なぜ僕は生まれてきたの」という問いに対して、友達が「両親が成功(←誤字)したから」と答えられてがっかりしたと書いています。ただ、永井さんは、なぜ、他の人ではない、”僕” が生まれてきたのかに関心があったそうです。あと、青年の哲学、大人の哲学、老年の哲学についても書かれていますが、省略します。

1ヶ月前 No.502

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>>493

 つづきです。

>人類は,各人が認識を止めると,リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験を持っていません

という発言がまったくの的外れだということは理解できましたか?
あなた自身が,今現在『マトリックス』の主人公の立ち位置,すなわち,仮想現実(表象)の世界内存在であると,そして,その仮想現実が,コンピュータによってあなたの脳が見させられている幻覚であると想定可能ということ。
この想定においては,物理現象もまた仮想現実の中の現象にすぎません。
>したがって,マトリックスの世界の中のあなたが物理的・客観的対象と信じているリンゴも,そのコンピュータによる仮想現実の外には存在せず,その仮想現実が消滅すると,その中のリンゴも世界も他者もみんな消滅します。

つまり,あなたが念頭においている心的現象と物理的現象の区別自体,表象世界の中での区別にすぎないのです。

 このお話で、思いましたのは、いま掲示板でやりとりしている自分がリアルなのかどうか、夢と現実の区別も難しくなるなあということです。(あとででてきますね。)
 もうひとつは、「消滅する」を「現に認識できなくなる」と理解すべきではと思いました。「認識していないものを存在していると言えるのか」ということについて、存在していると言えないですが、消滅が確認できたわけではない、知覚できなくなったということかと思います。
 そのうえで、バーチャルとリアルの区別ができないということは、確かなものとは何もないということになるのかもしれません。

 ただ、「このような仮想現実の想定ができる」ということから、「人類は,各人が認識を止めると,リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験を持っている」というふうには考えにくいのですが、いかがでしょうか。
 ここで、「物理現象」とは、あくまでリアルとみなされる状況下で起こることという意味です。そして、だれもが現実と思っていたこの世界が、実はマトリックスだったことがわかったり、現実世界と行ったり来たりといった経験そのものがないということです。独我的世界に生きる人には、通じないことだとはわかっています。
(実際のところ、人類すべての人が、リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験を持っていない、マトリックスから現実世界に行った人がいないと断言することもまたできないということになるのかもしれません。)

>とにかく,あなたは自分がマトリックスの仮想現実にいると想定して,独我論者に聞きたいと言っていた質問をたとえばマトリックスの主人公に尋ねることを考えてみてください。


 ネオが現実世界がコンピュータに支配されていると知った後で、私が、仮想現実の世界(これまで現実と思っていた世界)において、「このリンゴはあなたが認識していなければ存在しないのですか?」とネオに聞いたら、「それは、この仮想世界のリンゴさ。でもほんとうの現実世界は別にある。ぼくが現実世界に行っているとき、このリンゴがそのままあるかどうかはわからないけど。食べたいから、向こうに行ってまた戻ってきたとき、だれも食べずに残っていることを望むよ」とでも答えるのではないかと思います。
 仮想現実の世界は、人間の精神のみが生かされている世界らしいので、物の質感や食欲などの生理的・肉体的な感覚がどうなのかわかりませんが。まったくの仮想なら、武術を練習し、あれだけ戦っている意味がよくわかりませんが、ネオは、意識として、他者を認めているあるようにも思えると、コンピュータに支配されている現実世界でも、独我論的な認識の仕方をしていないように思います。(想像ですが。)

>現在想定している仮想現実内存在であるあなたと同じように,その世界内に存在するネオに尋ねたとしても,そのときネオは世界内存在としてのネオとして答えるのではなく,この世界全体が自分の幻覚=仮想現実であるという意味で答えているわけです。

すなわち,仮想現実=〈私〉であるような主観のことです。
つまり,この世界は〈私〉の世界である,という立場,すなわち独我論者として語っているわけです。

 その場合の独我論は、1ではなく、2か3のような気がします。
【ジョン・R・サールによる独我論の三タイプ分け】
1、心的状態を持つのは自分だけであり、他者とは私の心に現れる現象に過ぎないとする立場。
2、他人も心的状態を持っているかもしれないが、それを確かめる事はできないとする立場。3、他人も心的状態を持っているとしても、その内容は私と違っているかもしれないという立場。        「心の哲学まとめWiki」独我論より

1ヶ月前 No.503

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>>493

 つづきです。

>徹底した現象主義を前提にして水槽脳仮説を考究すれば、意味論的外在主義がナンセンスな主張であることがわかる。

>表象そのものが唯一の実在である、ということです。


 「徹底した現象主義を前提にして水槽脳仮説を考究すれば、……、意識外部に「本物のパソコン」があるかもしれないと考えるのは、論理的でなく、根拠の欠如した単なる空想なのである」というのは、ある意味当然で、そこに何らかの疑義をはさむ余地はないように思います。
 私の問いには、「徹底した現象主義」をどうしてとれるのかという疑問が含まれています。

>あなたは、客観的世界としてのマクロコスモスの中に、主観的・表象世界としての各ミクロコスモスが、宇宙空間の中にいくつもの惑星世界が存在するような描像で解釈していますよね。


 私自身が、「客観的世界としてのマクロコスモスの中に、主観的・表象世界としての各ミクロコスモスが、宇宙空間の中にいくつもの惑星世界が存在するような描像で解釈していること」は、一応そうだと言えると思います。
 主観が認識する世界がすべてであり、人は絶対に主観の入らない客観的世界というものを認識することはできないわけですが、ただ、主観がすべてを生み出しているのではなく、世界を主観的に認識しているとだけ思っており、それであるが故、主観の外にある本質的な事物、物自体といったものを、みんなが分かる形で指し示すことは無理だとも思っています。
 私の最初の問いである  >>427  で、「推測ではありますが、私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だと思います」と書いたのは、そういう事情からです。

>たしかに,このような捉え方では、窓のないモナドのように、閉じられた心的世界としての個人的主観世界が、いかにして他の主観的世界とコミュニケーションをとるのか、ということが問題になるでしょう。

だからこそ,この反論は,まさにあなた自身が捉えている世界の図式が間違っていると主張するものであって,自己論駁なのです。

 独我論からするとそのような主張になるのだと思います。
 そもそも「人々は高度な水準でコミュニケーションを成し」ているように見えるだけで、それも含めて自分の世界だけの話だということになるのでしょう。
 ただ、サールの分類の1(これまで私が念頭に置いてきたもの)ではそうですが、2や3では、他者(他者の世界)を認めますので、また別の議論になりそうですね。

>つまりあなたが独我論への反論の論拠と考えているものは,独我論の批判ではありえず,あなた自身が独我論として誤解している解釈の否定にしかならないのであって,それゆえまったく的外れでしかないのです。


 「あなた自身が独我論として誤解している解釈」を、ご指摘いただいた「客観的世界としてのマクロコスモスの中に、主観的・表象世界としての各ミクロコスモスが、宇宙空間の中にいくつもの惑星世界が存在するような描像で解釈していること」として、サールの独我論1からすると、そうなのだと思いのす。
 独我論1に対しては、いくらどんなことを言っても、〈私〉の世界しか存在せず、他者は自己の世界の登場人物に過ぎないのですから、むしろそんな登場人物からの問いを受ける自分の意識がどうかしているのかなと思われるぐらいかもしれません。
 ただ、それでも、そのような人に対し、 >>453  のような実生活での感覚や自己認識についての問いを聞いてみたいと思うのです。

>しかし、この世界そのものが、コンピュータによって見させられているネオの〈私〉の幻覚世界=仮想現実の世界なわけです。

>一旦こういった仮想が可能であることがわかってしまえば、どこまで行ってもその世界が仮想現実の世界であることを否定することはできない,というところにあります。


 仮想世界と現実世界が相対化しますね。
「世界そのものとしてのネオの〈私〉」は、両世界を通じた〈私〉ということでしょうか。

>〈私〉の世界の存在=全体としての世界の存在


 〈私〉の世界がすべてであって、それ以外には、客観的世界も、他者の主観的世界も一切存在しないと理解しています。

>それは自分の解釈する世界図式への批判となりえても,独我論への批判ではありえない。


 独我論1の立場からは、どこまでいっても、他者との会話は十分に成り立たないと理解しています。

>ところで一応断っておきますが,今ここで私は一独我論者の立場から述べています。


 ほんとうにお付き合いいただき、ありがとうございます。

 上の2つが独我論1のスタンスであることは自覚しているのですが、 >>453  の問いがどういう答えになるのか聞いてみたいのです。その関心は、その人が自分を生きる上で、特にA〜Dについてどう思っているかを知りたいという気持ちです。
 たしかにそれは直接的に哲学的問題を探求するための議論ではないかもしれませんが、独我論1においては、人生との整合性をどう図っているのか、人の生や死、生き方についてもどう考えているかといった情報も含めて考えてみたいと思っています。

1ヶ月前 No.504

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

>498 ちょっと待ってよさん


興味のある面白い見解ですが、なぜ私自身が観念であって、私はいないと思うのですか?「私は散歩して風景をみる

風景を見るのは私だし、右目が痛いゴミが入った・・・痛いのは私でしょ?」なぜ私自身が観念なのですか?

とても興味がありますねえ。

1ヶ月前 No.505

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>えぴめてうすさん


〈子ども〉の問いかどうかについては,私としてはそんなに重要なこととも思えないので措きましょう。
あなたの言いたいのが,自分の素朴な直観にこだわりたいというのなら,それはそれで結構なことだと思います(違っていたらスルーしてください)。
私が言っているのは,要するに,あなたの世界観は全く哲学的ではない,ということ。
哲学病人(もちろん独我論者も含まれます)の思考ではなく,全く健全なふつうの大人の思考であるということです。
ちなみに,私は永井均の著作については,いずれもずいぶん前に読んで細かいことは忘れてしまいましたが,『〈子供〉のための哲学』を含め一般向けの著作,専門の論文集,独我論関係のもの,ウィトゲンシュタイン哲学研究のもの,を含め比較的初期のものを中心ですが相当数読んでいます。

>ただ,「このような仮想現実の想定ができる」ということから,「人類は,各人が認識を止めると,リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験をもっている」というふうには考えにくいのですが,いかがでしょうか。


この質問,及び,その後の文章の意味・意図が私にはよくつかめないので,私も独我論もそんな経験を持っているというようなバカげたことを主張していないので,なんでそのような質問をされるのかわからないとしか答えようがありません。

サールの分類であなたが考えようとするのはわかりますが,問題は「心的状態」「他人」といった語の意味をどうとるかによって,全く意味が異なるので,注意が必要なんですよ。
「意識」「認識」といったものも,客観的・一般的,すなわちふつうの意味、心理学的などの意味で理解をするのと,哲学的、すなわち超越論的、現象主義や現象学的にとらえるのとでは異なるわけです。
で,あなたはこれまでのところ,これらを独我論的な意味に理解しているようには思えないということです。

世界を独我論的に観る,というのは,1つの世界の捉え方です。
例えば,同じ対象でも,科学的に観ることもあるし,数学的観点,芸術的観点から見ることもあるでしょう。
花を植物学的に捉えるのと、画家の目でとらえるのとは異なりますよね。
たとえば,身体だったら,医学的,生物学的,動物学的,物理学的,化学的,美的観点から,といったさまざまな観点からとらえることができますよね。
もっと卑近な言い方をすれば,身体も異性の目でとらえるのと,医者の目で捉えるのと,画家の目で捉えるのとでは全く捉え方が異なりますよね。
独我論的に観る,あるいは超越論的に世界を観るという哲学的観方というのも,そういった観方の1つと考えれば理解しやすいのではないでしょうか。
日常世界においては,自分を他者と区別せず,一般的に他の中の1人としてとらえ,客観的対象が存在することを前提にして,生活しています。
もちろん,主観的にものを見ることも,あなたがしているように,マクロコスモスの中の各個人の心的世界=ミクロコスモスとして,解釈もしているでしょう。
哲学は,そういったあなたが信じているような常識的世界像に対して,その信憑・確信を一旦ストップして,それは本当にそうだと言えるのか,その信憑はいかにして成り立っているのか,といったふうに反省的に検討するわけです。
そうして日常疑うことなく確信している世界像というのが,違ったものとして見えてくるわけです。
そのもっとも顕著な例が(ラフに言います),実在としての客観的世界がまずあり,そこに主観が意味を付与することによって主観的世界が成立するという世界像から,
主観的世界がまずあって,そこから意味や価値,いわゆる主観的性質というものを捨象して客観的性質を抽象し,客観的世界をそれらによって論理的に構成する,といった世界像への転換が語られたりするわけです。
そういったひとつの立場が独我論で,独我論的主観の目で世界を眺めるわけです。
そのとき,世界は異なった姿を現すということであり,この立場からすると,これこそ世界の実相である,ということになります。

>私の問いには,「徹底した現象主義」をどうしてとれるのかという疑問が含まれています


本当に確かだと言えることを考えていけば,必然的にそうなるだろう,という話です。
何度も言うように,客観的世界など誰一人見た人間も生物もいません。
認識可能なのは,主観による認識世界であって,当然主観的世界,すなわち現象世界のみです。
誰一人として,現象世界,自分の意識の外の世界など見たことはないのです。
あなたが本当に知っていると言えるのは,あなたの意識世界に登場したものでしかありえません。
客観的世界というのは,それがどんなにうまくいこうと,1つの方便にすぎません。
日常世界がそういった世界像を前提して成り立っていることは事実ですし,独我論者もまた日常世界をうまく生きていっている人なら,そういった世界像を理解し,それに基づいて言動が行える人でしょう。
しかし,その常識的世界像は真実在の像ではない,というのが独我論の主張です。

あなたの反論が自己論駁であるという私の主張に対して、
>独我論からするとそのような主張になるのだと思います。


とあなたは言っていますが,違います。
論理的にそうなのです。独我論の立場に立てばそうなるのではありません。全く関係ありません。
あなたの主張はいわゆる「わら人形論法」というやつです。

>>453

上から,順番に,独我論者として答えましょう。

@ Yes.
A Yes.
B Yes.
C 記憶にないのでわかりません。
D 違います。時折,世界内存在としての私と,独我論的主観〈私〉を区別するために,一人称で語られる小説の作者と,登場人物としての私を比喩に用いますが,世界を創造するという点は違います。明らかに〈私〉の世界は〈私〉が創造したものではありません。『マトリックス』では、コンピュータによって見させられていますよね。意識現象であるということは、意図的に主観が創造したということを含意しません。
E Yes.
F 「つまり」は無視します。「認識する主体」が世界内存在としての主体なら常識的に考えてNo. 認識主観が独我論的主観を意味するなら,Yes.

今,私があなたに言えることは大体言ったのじゃないかと思います。
既に繰り返しも多いですしね。
議論しているわけですから,どうにかして納得させたいと思うものですが,まあ,いろんな意味で無理だと思います(笑)
私からすると,あなたが理解していないと不満に思うことはもちろんあるのですが,あなたが自分の納得できないことに対してわかったふりをしないという姿勢は,哲学する上で最も重要なことだと思いますので,あきらめます。

それでは、とりあえず、このへんで。

>>505
うさぎさん

とても良い質問だと思いますよ^^

1ヶ月前 No.506

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

>>505

<私>を現象内に見つけることができないから、と答えておこう。ちょっと、考えてみよう。散歩している私は<私>なのだろうか?「散歩している私」とは、「実在の私」なのではないだろうか?風景を見ているのは<私>なのだろうか?ただ、風景が現象内にあるだけではないだろうか?右目にゴミが入って、<私>が痛みを感じているのだろうか?右目に相当する部位に、痛みという現象が生じているだけではないだろうか?

って書いてみたけど、俺が独我論者というわけじゃないからね。むしろ、仮想独我論者に対して、「お前、そう言って、全て<私>の世界とかなんとかいって「実在」を否定するけどさ、お前の考え方からすると、その<私>ってのも「実在」同様に論理的構成物なんじゃないの?現象主義を徹底すればなんていってるけどハンパなんだよ。」ってナンクセつけたつもりだったんだけどね。その意味で「<私>は観念」なんだね。

ま、俺自身が大きな誤解をしている可能性もあるし、俺が独我論者的にあれこれ書くのもあさっての方向だから、これ位にしておこう。

1ヶ月前 No.507

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

>507   ちょっと   さん


ご説明をありがとうございます。 実を言うと私もよく似た考え方を2〜3年持ち続けているのです。

原野を歩くとき、180度のコースがありますが、貴方は右のコースを歩いているが、私も大体は貴方のコースに近いですね。

同行者がおられて安心しました。唯物・観念の解釈からいくと、結局は独我論は観念論の行きつく先に近いとおもいます。

自分は「私の中に私は二人居る」という考えです。AとBの二人です。あなたはAは観念であるが根源的自我であるBについては

語っていないのでは?

1ヶ月前 No.508

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

>507   ちょっと  さん

<私を現象内に見つけることができない>   ←ちょっとさん。ちょっとじゃなくて、長々と書いてくださいな。

ベルグソン等なども「見る者と、見られた物の区別がなくなる事態が持続的視覚である」とのべている。

つまり、私は対象に融解する・溶け込む・私の不在・私は居ない   と、解釈するのですか?ちょっと さん

1ヶ月前 No.509

★30JjgxOVKX_ZFe

>509
うさぎ様、割り込んじゃってごめんんさいね。でもちょっと気になったので。

「見る者と、見られた物の区別がなくなる事態が持続的視覚である」において、

誰が言っているのか知らないけど、ベルグソン等って書いてあるけど、等って誰?ーーま、これはいいわ。

「見られた物」は書き間違えじゃないよね?

1ヶ月前 No.510

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

>>508,9

根源的自我なんて難しいことを言われてもよくわからないが、このスレは、独我論をどう乗り越えるかというスレで、俺としては、独我論的手法に乗っ取って、独我論の<我>を破壊することが最も適切と思ったから、ああいう風に書いただけのことなわけで、私の中に二人いると書かれてもよくわからないし、ベルクソンなんて書かれても、よく知らないし、妥当なことが書けるとは思わないけど、俺が<私>が存在しないと書いたのは、そのような、例えば、美しい風景を見て我を忘れる的なそんな意味ではないし、西田先生が書いたような、音楽の楽器を弾く際に、楽器と一体化する的な意味ではなく、きわめてシンプルに、現象の中に<私>を見出せない、いくら現象を見渡しても<私>は存在しないという、ただ、そういう意味においての<私>否定なのであって、それ以上、それ以下ではなく、持続的ななんとかはなんていうか、筋違いというか、スレ的には、独我論の<我>破壊で、まあ、だいたいOKかな的な部分もあるので、そっちに行くと、まあ、ちっと違うかななんて思う次第なわけで、長々と書いてみたけど、伝わるかどうかも微妙かなと思いながら書いてみた次第なわけで、まあ、そうそう意味では、そのような「私は対象に融解する・溶け込む・私の不在・私は居ない」的な意味で「<私>はは存在しない」と書いたわけではないということなのであるのであります。

1ヶ月前 No.511

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ザビビのふくろうさん

>>506

 お手数をおかけしています。

>>ただ,「このような仮想現実の想定ができる」ということから,「人類は,各人が認識を止めると,リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験をもっている」というふうには考えにくいのですが,いかがでしょうか。

>この質問,及び,その後の文章の意味・意図が私にはよくつかめないので,私も独我論もそんな経験を持っているというようなバカげたことを主張していないので,なんでそのような質問をされるのかわからないとしか答えようがありません。


 これは、
>人類は,各人が認識を止めると,リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験を持っていません

という発言がまったくの的外れだということは理解できましたか?
>あなた自身が,今現在『マトリックス』の主人公の立ち位置,すなわち,仮想現実(表象)の世界内存在であると,そして,その仮想現実が,コンピュータによってあなたの脳が見させられている幻覚であると想定可能ということ。

この想定においては,物理現象もまた仮想現実の中の現象にすぎません。
したがって,マトリックスの世界の中のあなたが物理的・客観的対象と信じているリンゴも,そのコンピュータによる仮想現実の外には存在せず,その仮想現実が消滅すると,その中のリンゴも世界も他者もみんな消滅します。
 というコメントに対して、述べたのですが、
 仮想現実の世界も現実とされた世界も相対的だということだと思いますが、そのいずれにいるにしても、ある観察者(自分)から見て、「人類は,各人が認識を止めると,リンゴが消滅するといった物理現象を観察した経験を持ってい」ないと考えるのです。ここでいう各人には、いずれかの世界にいる自分以外の人を含んでおり、いずれかの世界で、自分は、それらの人が認識を止めた(部屋を出た、テレビに集中している、死んだなど)ことを観察できますが、そのとき、リンゴが消滅しているのを目撃した経験がないということを述べています。
 そのような意味で、「考えにくい」と書きました。

 各人が見ているリンゴ、それだけでなく世界すべてが各人固有のもので、他人は見ることができない、あるいは他人は存在しないとすれば、そうは言えないわけですが、そうであれば、他人が見ることができず、存在もしていないかもしれないのですから、認識を止めると消滅するかどうかは検証不能です。

>世界を独我論的に観る,というのは,1つの世界の捉え方です。 (中略) そうして日常疑うことなく確信している世界像というのが,違ったものとして見えてくるわけです。


 私のために懇切に教示いただき、ありがとうございます。
 そのようなことに同感しながら、それと、「客観的世界など誰一人見た人間も生物もい」ないし、「認識可能なのは,主観による認識世界であ」ることを理解して、独我論を眺めているつもりなのですが、なかなかお教えのところが理解できないのは、ご指摘いただいたように、「心的状態」、「他人」、「意識」、「認識」などの言葉の意味の認識がズレているからかもしれません。


>>私の問いには,「徹底した現象主義」をどうしてとれるのかという疑問が含まれています。

>本当に確かだと言えることを考えていけば,必然的にそうなるだろう,という話です。


 「存在論を問う」のスレで、我思う我を疑ってみました。
         http://mb2.jp/_tetsugaku/927.html-302
 独我論では、「我」は安住の地にいますが、もっと「我」そのものを疑う余地があるのではないでしょうか。

>「われわれが自分の表象しか認識できないなら、なぜ世界に多数の人々がいて、それぞれ自分の表象だけで生きているのに、人々は高度な水準でコミュニケーションを成しうるのか、というものである(この場合、他人の意識は不可知であるとするなら独我論になる)。」とありましたが、このかっこ書きの前までが、私が独我論に対する反論材料と考えている内容です。

>独我論からするとそのような主張になるのだと思います。

とあなたは言っていますが,違います。
>主観的(表象)世界(ミクロコスモス)が客観的世界(マクロコスモス)の中にいくつも存在するという図式を前提しています。


 私はその前提で論を展開しようとしています。
 この世界の図式そのものが正しいかどうかを説明することはそれはそれで難しいこととは思いますが、独我論に対する問いにおいて、独我論と違う前提に立って主張・反論することが否定されるならば、あるいは自分の意識の中だけしかないといった独我論が採るのと同じ前提に立って議論するならば、議論の意味がないように思えます。

 独我論から見ると、私が言う前提が間違っているということでしょうから、彼から見て、私にとっては自己論駁になるという言い方ができることは理解できます。そして、「ところで一応断っておきますが,今ここで私は一独我論者の立場から述べています。」とおっしゃっておりましたので、「独我論からするとそのような主張になるのだ」と申し上げた次第です。
 このような前提に立たない独我論への問いとはどのようなものかわかりません。

>今,私があなたに言えることは大体言ったのじゃないかと思います。


 あいかわらず、レベルが低いことを申し上げており、恐縮です。
 ひょっとして、もうご教示いただけないかもしれませんので、これまでお手間と時間を私へのレスに費やしていただいたことに率直にお礼申し上げます。

1ヶ月前 No.512

マジカルモンキー @orunatexi ★IkTe7dpHmE_uKh

後悔後に立たず。

自己中心的思考が客観的思考に変換しざる得ない状態は、『 失敗や後悔 』である。

成功をし続ける人間は、おそらく、自己中心的思考からは逃れられないと判断する。

つまり、『 本物の失敗の味 』を知ることが大事である。

成功するために、わざと失敗する人もいる。それはいけない。
余裕があるからといって、失敗しても何とも思わないのもいけない。

何事も背水の陣で、臨まなければいけない。その時に『 本物の失敗の味 』を知る。


たとえ話。

私が、高度な知識をひけらかしても、目の前の民衆に全く通用しない場面があるとする。

『 なぜ、私の言う事が通用しないのか? 』と考えて、ふと考える。

『 こいつらは頭が悪いからだ 』と考えるのは、自己中心的だろう。

そして、私が熱心に、諦めず、高度な知識を言い続けるが、ある日、突然、よろしくない状況に堕ちいる失敗する時がある。

そういう時は、かならず、孤立している。

『 ああ、そう言えば… 』と…



自分が他人している事が、他人が自分にしてくれていない場合、たいてい、客観性を失っていて、自己中心的になっている。

1ヶ月前 No.513

マジカルモンキー @orunatexi ★IkTe7dpHmE_uKh

『 1人で生きていける 』というのは、自己中心的思考なのだろう。

なぜなら、人間社会の全ては、命と置き換えることができるからだ。

そうなると、私は、『 命の中(内)で生きている 』事になり、1人で生きていけるというのは幻である。



自己中心的な人というのは、まず、物を大事にしない。なぜなら、物が命である事に気づいていないからだ。

1ヶ月前 No.514

マジカルモンキー @orunatexi ★IkTe7dpHmE_uKh

『 客観性 』を科学的にいうのならば、個性はいらない事になる。

個性があるから、特別な存在になってしまう。
個性があるから、他のモノとが違う事になってしまう。

他のモノが絶対しない事を、個性がしてしまう。

人生は団体戦である。団体の中で、自分だけがしていない事に気づき、あとはそれをするだけである。

1ヶ月前 No.515

★30JjgxOVKX_ZFe

主観と客観が同居する人間の観の存在に気づくことは、意味あることだと思うけど。

1ヶ月前 No.516

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

独我論を否定することは無理なのでは?もしも全人類の体と心が一体であるのなら、独我論は否定されるだろうが・・・
人それぞれで別々に分かれているならば「私にとって」「その人にとって」が成立しても不思議ではない。

29日前 No.517
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