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独我論を乗り越える方法

 ( 哲学掲示板 )
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すぴのざ ★0gLpHaJ.DeM

【レスする前に】
このスレで使う言葉の意味は辞書、wikipediaに記述してあるものを使用してください。2つに記述されていない意味を使用する場合は、どのように定義しているかを明示してください。

【独我論とは(wikipedia「独我論」から転載)】
概念

「客観的存在に対する常識的見解」
私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。


「独我論からの反論」
これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。

このような客観的事物の認識の不可能性は、バークリーやカントなどの観念論に代表される(もっとも、カントは、このようなの不可能性を認めた上で、あえてそのような認識前の存在(物自体)を肯定する。バークリーも、他者や神の存在を認める以上、独我論者であるとは言えない)。

ウィトゲンシュタインにおいて、自己と他者の非同一性の考察から出発した、世界の人間のうち、一人だけ本当の私がいて、他の人間は意識的な存在者ではあっても、この私ではない。すなわち、本当の私は自分一人のみであるという主張。また、彼においては「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現される。

バートランド・ラッセルによれば、非演繹的推理によって自己の直接的経験を超え出ることを認めない限りは、瞬時における自我だけが存在するとする瞬間の独我論を容認することは避けられないといわれる。

古来はその世界観(世界の存在を通して)を批判されていたが、現代ではその「私」とは何であるかという形で批判を受けている。


【本題】
独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
出来るとしたら、その方法は?
あなたの独我論に関する考えを教えてください。

参考書籍などを記載してもらえるとありがたいです。

2007/08/23 10:38 No.0
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ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1150

>まあ、あんなもので反論となっていると思うとは、なんと都合のいい脳みそを持っているふくろうだことでしょう。


こういうのを反論とは呼ばないんだよ。わからないかなあ。

>マットウなエビデンスを出すんだな。客観的事実などというならな。

>エビデンスを出すように。


わからない人だなあ。
私は、 >>1125 については >>1131 で自分自身の反論をきちんと提示したから、私の主張は、学界で素朴実在論が今でも生きた選択肢であることに依拠してなどいないのよ。
ちょっとねさんが、素朴実在論について根拠なく「既に否定されている考え方」などと言っているから(だから反論する価値・必要はない)、そんなこと言えるのは無知だからにすぎないよと、教えてあげているだけなの。ま、利他的動機に基づく行為ってこと。何でエビデンスなど私が提出する必要があるのよ、あほらしい。
エビデンスっていうなら、「既に否定されている考え方」だってことの根拠、エビデンスをちょっとねさんが示しなよ。

>>心のまとめWikiの『実在論論争』のとこを読みなさいよ。

>だったら、そう書けよ。ちなみに、そこも読んでみたが、対独我論として素朴実在論が有効であるという記述はなかった。

>既に読んでましたけど、それが、何か。


いや、だから、アカデミズムでは、素朴実在論は「既に否定されている考え方」ではない、ってことだよ。無知なあなたがそう思い込んでいるだけで。
つまり、いわゆる実在論論争において、今でも生きた選択肢の一つとして、支持する論者がいるってことだよ。
私の言うことが信用できないなら、信用しなきゃいいじゃん。
勝手にそう思い込んでいたらいいよ。

>あれほど詳しく書いたのに、読解力、日本語力がないんだね。ま、ふくろうだからシカタがないか。


なるほど、これがちょっとね流「逃げ口上」なんだね(笑)
「あれほど詳しく書いた」って、どこのことを言ってるのかもわからんわ。
こちらは不整合を指摘しているのに、ごまかすことしかできないわけだ。
ま、当然だろうね。

>既に読んでましたけど、それが、何か。そういう文脈なら、そういう捉え方もありだよね。我々が使う言語というのは、素朴実在論的観念に基づくものが基本だから、日常言語のようなものの分析にあたっては、素朴実在論的な見方も有効だ。だが、そのいった見方を否定する対独我論にあたっては?下らぬ立場を強調し、「世界の在るがままを自分が知覚できる」ということを前提として押し付けることしかできてないね。適用のセンスを疑う。

>別に、日常言語の分析にあたって素朴実在論的見方を見直すってのは、別に変な話を思ってないよ。それはそれ、これはこれ。独我論者に日常言語が通じるとでも思っているのか。


「そういう文脈」ねえ(笑)
これを読めば、ちょっとねさんが『素朴実在論の普遍性』という論文の主旨を全く理解できていないことがよくわかる。まあ、学術論文なので、仕方がないか。
あなたにでもわかるように、ウルトラ換骨奪胎して当該論文のポイントを言ってあげよう。
論文の最後のほうで、孫悟空とお釈迦様の手のひらの譬えが出てくるでしょう。
素朴実在論というのは、この比喩のお釈迦様の手の平に相当し、他の独我論でも科学的実在論でも、それらは孫悟空に相当する。
つまり、あなたが独我論でも科学的実在論でも主張したところで、それらはすべて素朴実在論という釈迦の手の平の上から出るものではないと、そういうこと。

 『素朴実在論は他の存在説明論への下剋上ではない。人が生きる基層の実在論であってここから離れることはできない実在論であり普遍性を持つ。』(『実在論の普遍性』(木之下恒雄)より)

このように言われていることの意味を、ちょっとねさんは理解していないから、次のように言うわけだ。

「我々が使う言語というのは、素朴実在論的観念に基づくものが基本だから、日常言語のようなものの分析にあたっては、素朴実在論的な見方も有効だ。だが、そのいった見方を否定する対独我論にあたっては?」

素朴実在論を独我論は否定などできないのだよ。これらは対立(下剋上)するものではないから。
独我論は、素朴実在論の手の平の上にあるのだ。なぜ、そう言えるのか?
独我論もまた、自然言語を用いてしか主張できないからだよ。

>>独我論的世界像も、科学的実在論的世界像も、同じ事物事象の異なる記述方式による記述ってだけだよ。そしてこの「同じ事物事象」というときに前提になるは、素朴実在論的言語、すなわち日常言語の存在論だってこと。

>あなたがそう主張してることは分かってる。なんで?ってとこがないんだね。

>別に、日常言語の分析にあたって素朴実在論的見方を見直すってのは、別に変な話を思ってないよ。それはそれ、これはこれ。独我論者に日常言語が通じるとでも思っているのか。


いいかな。「なんで」ってとこを、もう一度言うから。
自然言語=日常言語を理解・前提せずして、独我論も科学的実在論もありえないからだよ。例えばだよ、

>その「止揚」が同じ事物事象の異なる記述方式による記述ってだけだよってことなら、話にならないな。世界の有様は、観測者の観念により定められる。独我論者と素朴実在論者では、仮に同じ現象を見たとしても、もはや、同じ事物事象にはなりえない。


という、ちょっとねさんの独断的主張も、自然言語を用いてなされている。
前にも述べたが、詩的言語も、科学的言語も、自然言語がベースにあるのだ。
学問的に厳密な公理系を構成するにせよ、それは自然言語において/よって、なされていく。
現象言語を構成するにせよ、自然言語を制限したり拡張したりといった定義を行い、構成されるのだ。
つまり、哲学論的言語であれ、科学の理論言語であれ、それらを対象言語として規定・構成するのは、メタ言語としての自然言語において/よってなのだ。
このことが、す な わ ち、素朴実在論がいかなる哲学説にも先立って普遍的である理由なんだよ。
自然言語によるコミュニケーションをとれない人間に独我論は語れない。
そして自然言語によるコミュニケーションをとることのできる人間は、素朴実在論的世界を理解し、そのルールに則って生きている、ということを意味する。
たとえば、ちょっとねさんだって、Mobiusさんだって、目に見えないドアの向こうが何も存在しないとか、「りんごどこか知っている?」と聞かれたら、「冷蔵庫の中だよ」と答えることができるだろう。目に見える地面が存在するということを信じていなければ、一歩も歩けない。
実際、 >>1114 で、ちょっとねさん自身、こう言っている。
>ま、俺は、本来、そして今でも、バリバリの素朴実在論者だから心配するな。


そんなことはわかっているんだよ、孫悟空くん。当然だからだ。Mobiusさんだって、同じこと。
そうでなくては、ここで議論なんてそもそもできない。
だから、
「独我論者に日常言語が通じるとでも思っているのか。」
という問いには、当然、イエスと答える。
ちょっとねさんは、これら言語が同じレベルにあると考えているから、木之下恒雄の言葉を借りれば、「日常言語などに独我論者が下剋上を許すわけがない」と言いたいわけだ。
しかし、これは日常言語=自然言語というものを根本的にわかっていない。
日常言語が通じないものに、独我論を語ることはできない。
それゆえ、日常言語の通じない独我論者など、存在しえないんだよ。
このことは、物理主義的実在論者であろうと、何論者であろうと同じこと。
これが、素朴実在論が普遍的であることの理由なのだよ、わかったかな?

2ヶ月前 No.1159

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

え〜とね、投了

2ヶ月前 No.1160

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

ありがとうございました

2ヶ月前 No.1161

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1157

>あなたは誤解しているが、

> >ちょっとねさんのいう「認識や知識の共有を直接的に確認すること」とは「相手のアタマの中を覗くこと」

>ってことは、もちろんわかっている。私はその考えを否定しているのだからさ。


>>1113 を読んだが、『「ちょっとねさんのいう『認識や知識の共有を直接的に確認すること』に相当する『相手のアタマの中を覗くこと』」ができないこと』を否定する材料は何一つ書かれていない。
>>1113 には「直接的」という言葉が一切書かれていない。ちょっとねさんは「直接的」という表現を使って意味限定をしている。それが「相手のアタマの中を覗くこと」だ。
>>1113 を読む限り、あなたは「相手のアタマの中を覗くことはできない」ということには同意していると思われる。
だから、それに対して「同意しない」と答えたら、伝わらないのは当たり前。


>>1042
>一致は、実際に、具象的レベルで直接的に確認できる。

>A:「目の前にりんごがある」

>B:「うん、目の前にりんごがある」

>この語られた(表現された)具象的テキストの一致が、すなわちAとBの判断の一致であり、判断を共有している、ということである。

>そして、この具象的テキストの一致は、直接知覚できる。

>具象的なものとは、直接知覚可能なものである。


「直接」と書けばよいというものではない。
この例では、A氏とB氏がテキストを媒介して共有しているに過ぎず、知覚を直接共有しているわけではない。
これを以て「知覚を直接共有している」とみなすのは、無理筋というものだ。

2ヶ月前 No.1162

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

ここでの対話を見る限り、自然言語による意味内容の共有ができているとは とても言い難い。

同じテキストを読んでも それと紐付いている内容が人格毎に異なるのだから止むを得まい。

見えている世界が同じだとは信じられない。

きっと それぞれが「全く違った世界」に住んでいるのだろう。

「あなたとわたしとでは、見えている景色が違う」これは当然のことだ。

http://mb2.jp/_tetsugaku/1090.html-25#a

>他者とは

>自分という精神の内に宿る外諸存在である。

>過去の自分も他者。


「過去の自分も他者」まさにそうだ。昨日と今日とで見え方が違う。

2ヶ月前 No.1163

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1160,1161  ちょっとねさん

ようやく了承いただけたようで。
こちらこそありがとう。

>>1162  Mobiusさん

あなたの見解によると、私の主張は無価値ってことになるだろうし、
私から見ると、Mobiusさんのレスは、こちらからレスするだけの価値があるとはとうてい思えないんだよね。
どうせ議論の決着なんてつかないだろうし、少なくとも私のほうは言うべきことは言ったので、このへんで潮時にしましょう。
ちょっとねさんも投了宣言したことだしね。

2ヶ月前 No.1164

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

独我論を述べるにしても、自然言語によらざるを得ない。
しかし、この自然言語をどうやって獲得したかというと、外界とのやりとり(入出力)においてだ。
入力同士 或いは 出力と入力の関係の再現性から、再現性の高いパターンを言語として獲得する。

要は、入力の再現性があればよく、それらの源泉が“実在”でなくてもよい。

ある種の再現性のパターンを「実在」と呼びたきゃ呼んでもいいと思うが、それは本来の“実在”という意味ではない。

2ヶ月前 No.1165

宿題 ★eM1n2yJmTo_tVR

私本当に生きてるのかわからない・・

私生きてるの?

私が生きてるなんて・・あなたたちには解る訳ない・・

みたいな感じの議論ですね・・

2ヶ月前 No.1166

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

私が生きているかどうか(つまり、私に主体が宿っているのか、それともいわゆる「哲学的ゾンビ」なのか)は、私にしかわからない。

#ただ、最近思うのは、「他人の主体を何らかの形で捉えることができる存在」が居るのではないか? ということ。

私は、「人間」と「哲学的ゾンビ」を区別することができない(つまり“いわゆる他者”に主体が宿っているかどうか判別できない)けど、それを判別する能力を持った存在がいるのだとすると、世界観が変わる。

独我論が克服できない(反論不能)なのは、この世で“主体”を持った存在が自分ひとりしか感じられない(捉えられない)からである。これに同意する限り、独我論からは逃れられない(回避できない)。

2ヶ月前 No.1167

宿題 ★eM1n2yJmTo_tVR

自己中心→自我の発達→社会性の発達→円満な人格の完成

自我の未発達は独我論ことでしょう?

2ヶ月前 No.1168

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>1167  Mobiusさんへ

>私が生きているかどうか(つまり、私に主体が宿っているのか、それともいわゆる「哲学的ゾンビ」なのか)は、私にしかわからない。

>#ただ、最近思うのは、「他人の主体を何らかの形で捉えることができる存在」が居るのではないか? ということ。

>私は、「人間」と「哲学的ゾンビ」を区別することができない(つまり“いわゆる他者”に主体が宿っているかどうか判別できない)けど、それを判別する能力を持った存在がいるのだとすると、世界観が変わる。

>独我論が克服できない(反論不能)なのは、この世で“主体”を持った存在が自分ひとりしか感じられない(捉えられない)からである。これに同意する限り、独我論からは逃れられない(回避できない)。


 これはすごく面白い発想であり、SumioBabaも考えたことが有ります。しかし、結局「独我論」は反証できないのではないか?という結論になりました。

 SumioBabaの心M1が認識する世界W1には、他者と思われる人間がたくさん居ますが、それらの人間の心M2、M3、M4、…が本当に存在するのかどうかを、M1は決して知り得ません。
 そこで仮に、ある心Mxが、Mxにとって他者の心であるM2とM3の存在と状態を認識できたとします。Mx=「M2とM3の存在と状態を認識している心」です。しかしこの場合もMxは、「本当はM2もM3も存在せず、実在するのはMxだけではないのだろうか?」と疑えるように思われます。つまり、他人の心を覗き込んでいると実感している心Mxでさえ、あるいはもっと一般的に、Mxがどんな意識状態であろうと、「実在するのはMxだけではないのか?」と疑う「独我論」を乗り越えることは、決してできないのではないでしょうか?

2ヶ月前 No.1169

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1169 SumioBabaさん、

> そこで仮に、ある心Mxが、Mxにとって他者の心であるM2とM3の存在と状態を認識できたとします。Mx=「M2とM3の存在と状態を認識している心」です。しかしこの場合もMxは、「本当はM2もM3も存在せず、実在するのはMxだけではないのだろうか?」と疑えるように思われます。つまり、他人の心を覗き込んでいると実感している心Mxでさえ、あるいはもっと一般的に、Mxがどんな意識状態であろうと、「実在するのはMxだけではないのか?」と疑う「独我論」を乗り越えることは、決してできないのではないでしょうか?


おぉぅ、そこまで気が回りませんでした。SumioBabaさん、さすがです。
むしろ、逆にMxの方が却って独我論に至りやすいかもしれませんね。Mxは、M1,2,3,… と同列でなく、1つ上の存在ですから。

2ヶ月前 No.1170

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

一介のMnに過ぎない私には、Mxの存在など感知できない。
でも「Mxは居るのではないか?」という感覚はどこから来るのだろう?

やはりその感覚は、環境からの反応の再現性から来るのであろう。

素朴実在論において、
「『環境からの反応に対して“ある種の再現性”を持つもの』を『実在』と呼ぶ」のだとすると、
「Mxは実在する」、「神は実在する」ということになるのだろうか?

2ヶ月前 No.1171

気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_3wf

独我論における我は一人称の私ではない。
独我論の我を一人称の私に置き換えるから世界が複数化する。または「他者とは本質的に異なるなる私」と捉えてしまうことになる。
独我論が依拠する直接経験の主体が一人称的な私なのではない。
直接経験の分析により私が生ずるに過ぎない。
私と他者は対概念である。
私が生じれば他者も生ずる。私が生じなければ他者もまた生じない。
直接経験の主体を私と措定し、他者と区別し、直接経験が生じている方を私、生じてない方を他者とするから、私しか存在しない。他者は私の表象である。となる。
在るのは直接経験だけである。それを認識する形式として主客・自他に分離するに過ぎない。

このように捉えたとき、我・私は語としての意味を持たない。なぜならば、それ(我・私)は主体ではなく、上記で言うところの直接経験そのままの意味でしかないのであり、それ(我・私)の他には何も無いからである。我・私は他と対になってはじめて意味を持つ概念であり、それしかないのであればそれを我・私と捉えることはできない。逆にそれを我・私と捉えてしまえば不可避的にそれ(我・私)と対をなす他とセットで捉えられてしまい、その本質を失う。

独我を徹底すれば、それは我・私でさえ無くなり独我論は消失する。

2ヶ月前 No.1172

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

世界には「儘なるもの」と「儘ならないもの」が存在する。「儘なるもの」を「自分」と呼び、「儘ならないもの」を「環境」と呼ぶとすると、世界は「自分」と「環境」とに分離する。

「独我論」という呼び方は、「普通の世界観(人それぞれに主体が宿っているとする考え方)」に対して区別をするために特徴的なネーミングをしたもの と考えられる。


>独我を徹底すれば、それは我・私でさえ無くなり独我論は消失する。


そうだろうか?
「儘なるもの」と「儘ならないもの」の分離は残るのではないか?

2ヶ月前 No.1173

気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_3wf

>そうだろうか?

>「儘なるもの」と「儘ならないもの」の分離は残るのではないか?


それが独我論と何の関係があるのですか?

>世界には「儘なるもの」と「儘ならないもの」が存在する。「儘なるもの」を「自分」と呼び、「儘ならないもの」を「環境」と呼ぶとすると、世界は「自分」と「環境」とに分離する。


これは独我論固有の捉え方ではなく、実在論でも同じではないですか?

2ヶ月前 No.1174

ひこた @hikonyan ★okoJqS73Jn_I0j

>>1155
偏差値10さん

レスをありがとうございます。

>これって偏差値Xではなく、逆偏差値Y(=100−X)ではないんかい?

すみません、思わず、笑ってしまいました(笑)
残念ながら、逆偏差値と主張するのには、無理があります。

偏差値表をよく見てください。
(健常者の限界)とわかりやすく書いてあります。
これが逆偏差値だと主張するということは、偏差値50の平均的な人間は、障碍者だというわけですね。
いや、そこまで考えてらっしゃいませんよね。
だからこそ、笑えるんですが。
偏差値10さん、このサイズの表なのですから、よく見ましょう(笑)
言葉は通じないでしょうから、この辺でやめておきます^^



>>1161
偏差値51さん

>ありがとうございました

障碍者の方をいじめるような遊びを続けていては、偏差値が下がりますよ。
潮時でしょう。正しい判断です。

2ヶ月前 No.1175

ひこた @hikonyan ★okoJqS73Jn_I0j

>>1121
Appちゃん

きみの発言は言葉を覚えたての子供と同じレベルだな。
偏差値社会にはやく順応できるよう、親や先生の言うことをしっかり聞いて、ちゃんとした大人になれよ。
間違っても、(健常者の限界)を下回るような奴らにはなるな。
俺からきみにいえるのはそれくらいだ。



百理様

>>1122
>百理こと宿題の偏差値が低すぎます・・

百理様、偏差値に囚われるなど、らしくないですねえ。
偏差値とは、客観的な評価にすぎないもので、あなたの人間としての価値を決めるものではありません。
この世界には、哲学以外にも様々な分野があります。ご安心ください。
人間性の偏差値がもしあれば、もう少し高くなると思いますよ。

また、百理様は文章が短く答えの出る過程まできちんと書かれていないので、
採点者にはあなたがどの程度の考えを持っているのか、伝わりにくいかと思います。
私からの個人的な評価であれば高いのですが、偏差値はもっと客観的なものです。
文章を長めに書き、文章の論理性や結論の妥当性を客観的に評価できるようにすれば、
百理様の主張が正しく評価され、偏差値はすぐに上がると思いますよ。

>>1166,1168
流石のご慧眼です。

2ヶ月前 No.1176

宿題 ★eM1n2yJmTo_tVR

ひこたさん

ユーモアのセンスが無かったので・・返答に困りました・・

私もユーモアのセンスが無いのですが・・

相性が合わないと上手く返答できません・・

申し訳ありません・・笑わせられなくて・・

2ヶ月前 No.1177

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_zZL

>>1172 の最後の「独我を徹底すれば、それは我・私でさえ無くなり独我論は消失する」に対して、 >>1173 で「そうだろうか?『儘なるもの』と『儘ならないもの』の分離は残るのではないか?」と反応したら、 >>1174 にて「それが独我論と何の関係があるのですか?」という反応が来た。

ちょっと言葉を省略し過ぎたきらいがあるので、もうちょっと丁寧に説明を試みる。

>>1172 の中段に「私と他者は対概念である」と書かれているが、まずこれを疑ってみる。

>>0 から引用する。

>独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。


ここには「他者」は登場しない。ここに登場するのは「私」と「私が認識する対象」の二者だけである。
(ここでは「他者」は「『私が認識する対象』の中に含まれる一要素」という位置付けであり、二次的な扱いである。)

気まぐれ氏は >>1172 にて「私と他者は対概念である」と言っているが、 >>0 に述べられる独我論における「私」は、「他者との対概念としての『私』」ではなく、「(外界を)認識する存在としての『私』」である。

言うまでもなく、「他者との対概念としての『私』」は、「(外界を)認識する存在としての『私』」よりも意味限定されており、狭い意味である。

彼の言う「他者との対概念としての『私』」は、「私が生じれば他者も生じ、私が生じなければ他者もまた生じない」という性質のものなのであろう。
しかし、 >>0 で語られる私(我)は、そのような「狭い意味の私(我)」ではない。

>>1172 で語られるとおり、「独我を徹底すれば、狭い意味の『我』は消失する」のであろうが、独我論で語られる「我」は「広い意味の我」なので、それを以て「独我論が消失する」という結論は導けない。

--------------------------
補足:
>>1173 の「儘なるもの」とは >>0 の「私」、 >>1173 の「儘ならないもの」とは >>0 の「私が認識する対象(例えば りんご )」のことである。

2ヶ月前 No.1178

気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_3wf

>>1178

Mobiusさん

我・私という語はあなたの言う狭い意味を示す語であり、あなたの言う広い意味を示さない。狭い意味の我・私を広い意味として誤用することにより
他は私の表象であるという解釈が生ずるに過ぎないということ。
そのような見方ができるというだけのことであり、独我論は問題にはならない。
独我論の我は、独我なのだから全一的であり、それしかないはずである。それにもかかわらずそれを我と捉え、特定の主体と結びつけてしまうことによって、他の全一という不整合が生じるように錯覚する。
その錯覚した不整合を解消するための方法として、全一性と特定の主体の結びつきを解消せずに対称となる他の方を特定の主体の認識の基に回収するという方法が独我論である。
全一性と特定の主体との結びつき解き、他の全一という不整合を生じさせなければ独我論的問題は生じない。

2ヶ月前 No.1179

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1179 気まぐれさん、

>狭い意味の我・私を広い意味として誤用することにより

>他は私の表象であるという解釈が生ずるに過ぎないということ。


>>0 の独我論の説明は、間違っている」と言っていますか?

2ヶ月前 No.1180

気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_3wf

>>1180

>「 >>0 の独我論の説明は、間違っている」と言っていますか?


そんなことは言っていません。
正しいとも間違っているとも言っていない。

2ヶ月前 No.1181

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>きまぐれさん、Mobiusさん

>>1172,1173,1174,1178,1179,1180,1181

>>0 に示されている独我論的「私」の理解としては、Mobiusさんの解釈は間違っている。
Mobiusさんの誤りは次の点にある。すなわち、
世界を
「儘になるもの」=自分
と、
「儘にならないもの」=環境(認識対象)=自分ではないもの
に分離したこと。この分離だと、当然
世界を「自分」と「自分ならざるもの」に分離してしまったことになる。
であるから、
「私(自分)=世界」
とする独我論ではなくなってしまうのである。これは当然。
ゆえに、 >>1174 の気まぐれさんの疑問は、もっともなんだな。

Mobiusさんの考えをさらに、
 儘にならない存在=自分から独立した存在
と解釈すれば(これは自然な解釈と思われる)、
 環境(認識対象)=自分から独立した存在
であることになり、
この分離は、要するに主客分離と実質同じことになる。
とすれば、独我論どころか主客二元論ってことになってしまうのだな。

2ヶ月前 No.1182

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>気まぐれさん

あなたの見解は、次の文章(及び前後の解説)を念頭に置いて書かれていませんか?

『心の哲学まとめWiki』
【無主体論】より
>「私の直接経験」と言っても「私の」には示唆的な機能はない。「この痛みは私のものである」というような言葉は意味をなしていない。「痛い」とだけ言えばよい。直接経験は「誰の」ものであるか検証の必要が無いからだ。従って「私の」と記す必要もない。つまり独我論的な「私」は、言語において無主体であることと等しくなる。


当否はわからないものの、とりあえず、ここに示された考えと気まぐれさんの考えが同じものとして私見を述べます。
その際、『論考』についての私の解釈を前提します。

ウィトゲンシュタインの考えでは、
「この痛みは私のものである」
という言葉が無意味なのは、例えば、次のような言明が無意味なのと同様です。
 「赤は色である」
 「2は数である」
これらは、そうでないことが論理的にありえないがゆえに、無意味です。
なぜそうでないことがありえないかというと、「色」は赤の本質であり、「数」は2の本質であるからです。つまり、本質は語りえないのです。
むしろ、そういう意味では「赤は色でしかありえない」「2は数でしかありえない」。
ここで留意すべきは、このように語ることが無意味であるからといって、「赤は色ではない」「2は数ではない」ということを意味するのではない、ということ。
つまり、直接経験についても、
「この痛みは私の痛みである」
と語ることが無意味だからといって、
「痛みが私のものでないわけではない」
のです。
なぜなら、 「この痛みが私のものである」というのも、そうでないことがありえないから、
すなわち、「自分のもの性」が、「痛み」の本質であるからにほかなりません。
むしろ逆なわけです。そうでしかありえぬからこそ、語りえないのです。
「本質」とは、「それがそれであるための条件」であり、「形式的性質」です。
論理的記号法で書かれる場合は、変項表示されるべき概念です。
この「自分のもの性」は「直接経験一般」に言えます。
すなわち、直接経験とは、イコール、「私の直接経験」である、ということです。
この「自分のもの性」は、直接経験の本質であり、条件であり、形式です。
したがって、直接経験の全体=世界としますと、
世界=私の世界
このときの「私の世界」は、そうではない世界が論理的にありえないという意味で、対立項を持ちえません。
それゆえ、「世界は私の世界である」ということは、語りえません。ナンセンスです。
しかし、「2は数である」「赤は色である」等がナンセンスではあるが、その言わんとすることは正しいように、この世界が「自分のもの性」を有すること、すなわち、「世界は私の世界である」ことも、やはり正しいのです。
この意味で、私はこれまで『論考』の独我論は、超越論的独我論であると述べてきました。

無主体論の「主体」が、「私」を指す限り、気まぐれさんの言うとおりで、異論はありません。
しかし、これを「非人称」と言ってしまうと、私は違和感があります。
「私の世界」である限り、やはり「主観的世界」であり、その意味では「人称世界」であると言うべきではないかと思うからです。

以上、私見を述べましたが、ひょっとしたら、気まぐれさんは、以上のことを理解した上で、あくまで「乗り越えられるべき独我論」「解消されるべき独我論」について批判されたのかもしれませんね。
そうかもしれないとも思いつつ書いたので、それはそれで構いません(笑)
ただ、気まぐれさんの意図はともかく、 >>1172,1179 で「私」という概念について述べられたことは、そのまま受け取れば、超越論的独我論に対する批判にもなりうると思いましたので、この立場からの反論を一応提示してみた、というところです。

2ヶ月前 No.1183

気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_3wf

>>1183
ザビビのふくろうさん

レスありがとうございます。

>あなたの見解は、次の文章(及び前後の解説)を念頭に置いて書かれていませんか?


その記事は読んだことはあると思いますが、どちらかというとその記事の引用元の入不二さんの著作ですかね。
確かに無主体論が念頭にありました。

超越論的独我論の場合、自分のもの性はすなわち存在性であり、それを自分のものと言う意味がないと考えていました。
存在性が自分のもの性の本質であると。

>無主体論の「主体」が、「私」を指す限り、気まぐれさんの言うとおりで、異論はありません。

>しかし、これを「非人称」と言ってしまうと、私は違和感があります。


私は逆に<>を<私>としてしまうことに違和感を感じています。
ここは、以前からザビビのふくろうさんと異なるところですね。


私は >>767 で以下のように書きました。

>それとも、修行を積めば 他人の認識を(その他人が認識するのと同様に)認識することができるようになるのだろうか?

それができたら他者はいなくなるから、独我論そのものが無くなり、乗り越えるというか消失するのではないでしょうか。

この時、同時に私もその意義を失うと考えています。
それしかない、全一性を“私”とする理由がないように思えるのです。
それは“私”を経由して全一性に至ることによる名残のようなものではないかと。

私の考えは6年間変わっていないようです。検索していたらハンドルネーム「初心者」として書いたレスを見つけました。
>>318

私は脱皮したいと思っていて、そのために現時点での考えを晒したのです。
ウィトゲンシュタインを中心に言語哲学をもう一度ちゃんと勉強しようと思ったからこそ、自分の思考を再整理するために >>1172 を書いたのですから。

2ヶ月前 No.1184

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_keJ

>>1184  気まぐれさん

>私は逆に<>を<私>としてしまうことに違和感を感じています。

ここは、以前からザビビのふくろうさんと異なるところですね。
>この時、同時に私もその意義を失うと考えています。

それしかない、全一性を“私”とする理由がないように思えるのです。
それは“私”を経由して全一性に至ることによる名残のようなものではないかと。

そうですね。
それを何とか説得しようと、余計なおせっかいを繰り返しております(笑)

まあ、私もあなたを相手に再整理したという感じでもあります。
とことん、自分が納得するまで考えるしかないですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【他者問題に関するメモ】


「あなたを失うことは世界を失うことだ」(J.カラックス『汚れた世界』より)

〈我〉=〈汝〉

関係としての我と汝。
存在論的同一性と差異。

2ヶ月前 No.1185

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>1185

訂正

× 『汚れた世界』

○ 『汚れた血』

2ヶ月前 No.1186

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>0 には、

>全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

と書かれている。

すでに「私の意識」と「意識を持つ『私』」とに分離している。これが前提。
「私の意識」と「意識を持つ『私』」を一緒にしてしまうと論が成り立たない。

2ヶ月前 No.1187

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

仮に私が水槽脳だったとして、私が見ている世界は私なのか?
いや違うだろう。私が見ている世界は、あくまで「私が見ている世界」であって「私そのもの」ではない。

独我論は、「私が見ている世界」に対する解釈の話ではないのか?

2ヶ月前 No.1188

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

仮に私が「現実の肉体を持った私」であっても「水槽脳」であっても、その形態には関係なく、「私の意識に浮かんだ世界」だけが存在している ということか?

「意識を持つ媒体」としての私は、「肉体を持つ私」なのか「水槽脳」なのか、あるいは「それら以外」なのか 知りようがなく、在るかどうかすらわからない。
故に、在るとわかるのは「私の意識」だけ ということか?

2ヶ月前 No.1189

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

水槽の脳の思考実験は、そういうこと(現象から実在は演繹されない)を言ってると思う。しかし、同様に、現象から『私』も演繹されない。『私』は現象内には現れない、つまり、観念であり、論理的(いや、直観的というべきか)構築物だ。「存在する」という言葉に値すべき実質は、現象のみなのであり、だからこそ、「意識現象こそ実在である」という西田先生のお言葉が重要なのだ。独我論での「我」は、それが否定する「実在」の有様と同様な有様をしている。独我論が実在を否定するロジックは独我論の前提である我を否定するロジックを含んでいるのであり、だからこそ、独我論は、自己論駁的なのである。

そういえば、昔、「心」が有るかないかで、ある人(多分、初心者なるハンドルネームの人;記憶違いだったらメンゴ)と議論したことがあったな。当然俺は、「心など存在しない」側だ。俺にとっては、この「心」なるものは、ほぼ、「我」とおんなじなのである。

なお、俺が存在するというとき、それらは、事物(実在)として存在するということである。俺は、バリバリの素朴実在論者なのだ。誤解のなきよう。

2ヶ月前 No.1190

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

あゝなるほど。わかりやすい。

ここでふと疑問に思ったことがある。「意識現象はなぜ1人称的なのだろう?」と。
私は「ある日突然 別の人に乗り移っていた」という経験をしたことがない。
また「ある日突然 神の視点に立っていた」という経験もしたことがない。
あくまで「私は私」で、「私以外の視点」に立てた試しがない。
なぜ私は私に固定されているのだろう?

誰か「別の人に乗り移れる」という人、居ませんかぁ?

2ヶ月前 No.1191

宿題 ★eM1n2yJmTo_tVR

東洋の狐憑き

西洋のエクソシスト

イタリアに悪魔祓いの魔法の道具があるらしい

2ヶ月前 No.1192

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Oem

http://mb2.jp/_tetsugaku/1116.html-9#a」のとおり、 >>1140 を滅尽した。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Oemにより、投稿者の判別を願う。)

2ヶ月前 No.1193

ROM ★hkhqX1fWRs_fud

>>1191  >誰か「別の人に乗り移れる」という人、居ませんかぁ?
独我論の議論から、オカルトに移りつつある。独我論から離れて
頭を冷やすことをお勧めする。

2ヶ月前 No.1194

うさぎ ★Tablet=YyF7oGwALk

我の死を主観的にとらえたら、独我に向かうであろうが、我の死を客観的にとらえるならば
反独我・逆独我に向かう。大概は客観的にとらえるだろうが・・・・・・

2ヶ月前 No.1195

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

やっぱりおかしい。私が遠方に意識を向けても その遠方が一向にフォーカスされない。
一方、近距離の場合は 意識を向けた部分がフォーカスされる。
これはいったいどういうことだろう?
私の意識には「儘になる部分」と「儘にならない部分」があるということか?
なぜ「儘になる部分」と「儘にならない部分」があるのだろう?

2ヶ月前 No.1196

宿題 ★eM1n2yJmTo_tVR

意味(意識の中味)を満たす方法は知覚によってしかないのでしょうか?

2ヶ月前 No.1197

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>Mobiusさん


竹田青嗣や西研らがやっている現象学研究会のメンバーで、
山竹伸二という人がいます。

この人の「山竹伸二の心理学サイト」で、哲学研究のページに
『現象学とは何か〓フッサールを読む〓』という文章があります。

ひょっとすると、Mobiusさんに近い考えかもと思いますので、
よければ参考までに読んでみてください。

今回は、以上ということで。
では、また。気が向いたら^^

2ヶ月前 No.1198

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1198 ザビビのふくろうさん、情報ありがとうございます。行ってみます。取り急ぎお礼まで。

2ヶ月前 No.1199

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

相手が哲学的ゾンビであっても、アンドロイドであっても、VRであっても、自分や周囲の人(と私が認識するもの)がそれらを「人間」とみなすのであれば、それは「主体(心)を持つ」ということなのだろう。自分以外の主体は、このように「輪郭」で判断するしかない。だって、「輪郭」しか見えないのだから。

大幅に飛躍するが、この考え方を延長していくと「汎神論(汎心論?)」に至る気がする。

2ヶ月前 No.1200

宿題 ★eM1n2yJmTo_Hhd

>>1198

ヤスパースさんが理解出来なかったフッサールさんを翻訳する訳者が伝えられる力量でしょうか?

1ヶ月前 No.1201

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Oem

>>1193 を滅尽した。

ただそうなっただけである。

そしてこれをもって、投稿を終える。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Oemにより、投稿者の判別を願う。)

1ヶ月前 No.1202

うさぎ ★cANdpgHY5g_UHY

独我論というのは観念論の一種じゃあないのですか?例えば遺言がありますね?
私が死んだら私の財産すべてを○○に譲るというものです。孫とか犬や猫です。

でも、私が死んだらこの世は消滅して消えてしまうのであれば、遺言書の意味がないではないか??
これも、独我論の喜劇的な解釈だと思いますね。

1ヶ月前 No.1203

うさぎ ★vcR2lcm1Sd_UHY

「私が死んだら、この世は消えるよ?」という主張には幸福感があふれている。そんなことはない
交通事故・事件で毎年に何万人も死んでるよ?  でも、この世は変化せずに存在しているではないか?

私は、私にとって全宇宙が消滅すると言っているのであって、他人の死ではない。

1ヶ月前 No.1204

空の光 ★JlR8pGUyRO_m9i

「ものそのもの」と「わたしたちとってのもの」をカントは区別した・・・

1ヶ月前 No.1205

空の光 ★JlR8pGUyRO_m9i

「ぼくたちはけっしてものをそのものとして知ることはできない。
 ただ、ものがぼくたちにどう現れるかがわかるだけだ」

by ソフィーの世界

1ヶ月前 No.1206

地下水 ★lHRYPNADL9_Rb6

>>1206  しかしぼくたちが良く調べれば、ぼくたちには極小の原子があることまで、確かに解るんだよ。目に見えない電波があることもわかるんだ。生命のもとである遺伝子があることまでもわかるんだよ。けっして知ることをあきらめちゃいけない。いつまでも認識論だ、現象学だ、独我論だと、あきらめちゃいけないんだ。ぼくたちががんばれば神様は神秘のベールを少しだけ解いて、真理を見せて下さるんだ。そのものがわかるんだよ。

1ヶ月前 No.1207

空の光 ★JlR8pGUyRO_m9i

>>1207

人の心が神の願いに近づけばかな?

つまり天国がこの世に出来る。そんな思いがみんなに広がればいいかも?
悪用する人がいなくなれば、神様の宝物をくれるかも?
どんなものかは、今の自分には判らないけどね。

1ヶ月前 No.1208
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