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独我論を乗り越える方法

 ( 哲学掲示板 )
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すぴのざ ★0gLpHaJ.DeM

【レスする前に】
このスレで使う言葉の意味は辞書、wikipediaに記述してあるものを使用してください。2つに記述されていない意味を使用する場合は、どのように定義しているかを明示してください。

【独我論とは(wikipedia「独我論」から転載)】
概念

「客観的存在に対する常識的見解」
私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。


「独我論からの反論」
これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。

このような客観的事物の認識の不可能性は、バークリーやカントなどの観念論に代表される(もっとも、カントは、このようなの不可能性を認めた上で、あえてそのような認識前の存在(物自体)を肯定する。バークリーも、他者や神の存在を認める以上、独我論者であるとは言えない)。

ウィトゲンシュタインにおいて、自己と他者の非同一性の考察から出発した、世界の人間のうち、一人だけ本当の私がいて、他の人間は意識的な存在者ではあっても、この私ではない。すなわち、本当の私は自分一人のみであるという主張。また、彼においては「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現される。

バートランド・ラッセルによれば、非演繹的推理によって自己の直接的経験を超え出ることを認めない限りは、瞬時における自我だけが存在するとする瞬間の独我論を容認することは避けられないといわれる。

古来はその世界観(世界の存在を通して)を批判されていたが、現代ではその「私」とは何であるかという形で批判を受けている。


【本題】
独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
出来るとしたら、その方法は?
あなたの独我論に関する考えを教えてください。

参考書籍などを記載してもらえるとありがたいです。

2007/08/23 10:38 No.0
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ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>420

最後に反論について検討した際、私の用いた論点が、 >>419 で述べられている論点とかぶっていました。
一言断るべきでした。すみません。

7ヶ月前 No.421

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

ところで、少し議論とは違う話をしたい。
ただ、スレタイ「独我論を乗り越える方法」には一応かなっていると思う。

今回少しやりとりした、うさぎさんや、ちょっとまたんかいさんは、自分の実感としては独我論に共感するというか、独我論的世界観がしっくりくるみたいだ。
私は哲学説としての独我論自体は、人生論・人生観とは別物であり、独立であるともちろん考えているが、どのような哲学説を支持するかということについては、個人の人生観が影響することは言うまでもない。
上記の二人は、自分の人生観に照らせば、少なくとも実感として独我論が納得がいく、あるいはしっくりくる、ということだろう。
私について言えば、十代のころは独我論志向タイプであったことは間違いなく、世界はそうであるはずだし、そうでなくてはならない、と考えていた。
ところが二十歳前後から、独我論的世界にこもっていたくてもいられない現実に直面し、いわば自分の独我論的世界と外部世界との境界線を―これはまた自らの世界を守る防波堤でもあるわけだが―拒否しようもなく越境してくる他者なるものによって、私の世界は引き裂かれ、崩壊してしまった。
つまりは、私は他者を自分の世界に取り込むことに失敗し、逆に自分の居心地のいい居場所を失うという憂き目にあってしまったわけだ(笑)
この私の遭遇した他者、あるいは遭遇せざるを得なかった他者は、けして独我論的世界には取り込めない、むしろ独我論的世界の根拠そのものを脅かす、ある意味暴力的な存在だった。

で、思うのだが、上記の二人はこういった〈他者〉に遭遇していないのではないか。
そこで、本人たちは望んでいないかもしれないが、スレタイにしたがってこの人たちが独我論を乗り越えるべく、まずは独我論には取り込めない〈他者〉というものの存在を大きなお世話でお教えしたい(笑)
しかも、小難しい理屈ではなく、直観的に訴えかけるもので。
もちろん、これは〈他者〉とは何か?という問題意識を有すみなさん誰にもおすすめしたいのだが、一番それをわかりやすいと私が思う映画を挙げたい。

ということで、なんといっても次の二人の偉大な映像作家を勧めたい。
ともに〈他者〉、〈外部〉をテーマにした映画監督。
一人目は、先ほど私が言ったような、独我論的世界の境界を乗り越えてやってきて脅かす強烈なインパクトをもつ映画作品『シャイニング』の監督、S・キューブリック。この人の作品はいずれも他者性、外部性が恐ろしい形で描かれている。

二人目は、独我論的世界にあきらめがついたとき、外部性を認めざるをえなくなったとき、あるいは外部を希求するようになったときにはじめて観るべきかもしれないが、映像詩人A・タルコフスキー。私はこの監督はレヴィナスと同じものを見ていたと思っている。レヴィナスとの関係で言えばまずは『サクリファイス』を、そして『ノスタルジア』。が、すべての作品がおすすめ。(うどん粉さん、これを読んでいたら、いつか『サクリファイス』をぜひ観てください、あなたには絶対のおすすめです)。
二人の映画監督とも、私の意見はともかくとして、偉大な芸術家であることは間違いなく、その意味では観て絶対損はない。

ただし、注意が必要なのは、二人の作品はいわゆる難解な映画というものに属するので、こういった類の映画に慣れていないと、わけわからん、よく眠れた、といった感想しか持てない危険性があるかもしれない(特にタルコフスキー)。
だが、ここで私が述べた〈他者〉〈外部〉を描こうとしているということを念頭に置いて観れば、観れるかも。
そういった意味でも、最初は、これは誰でも観れるであろうキューブリックの『シャイニング』がおすすめ。
皆さん、これを観て、独我論を乗り越える第一歩を踏み出しましょう!^^

7ヶ月前 No.422

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

独我論のメリット? それは、笑いと安心感の獲得です。全宇宙で最も重要な人物は私で

ある、という思考は外界に対する観想においてすべてが可笑しみをもって見ることができる。

なぜなら、対象を笑う人物は私自身のみであるからである。その意味においては、キリスト教徒

のほうが笑いには寛容である。

4ヶ月前 No.423

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

独我論を信奉している人々対して、独我論を乗り越える必要はないのでは?

観念論の一種ではあるが、認識主体の観点から言えば「宇宙の中心は私だ」も成立する。

2ヶ月前 No.424

一京無限 ★QsBo2rqjdu_mgE

独我論は、自分の認識のみ肯定し、他の存在認識を否定していますので、存在認識の狭い考え方であると思います。

言い換えれば、心の外にある鏡の世界であり、心の外の水たまりの世界であると思います。

それを仮に、心の外にある鏡の世界を心の内に参入しても低次な認識の世界観であり、心の外の水たまりの世界に
心の内に参入しても、低次な認識の世界観であると思います。

他者の方の認識の世界観は、多分において認識の外にあるので他者の認識に関心はないと思います。

2ヶ月前 No.425

百理 ★5z6bVAmgS3_Y9V

私の憧れのトルコのイスタンブール・・観光地・・

独裁者と呼ばれるトルコの長があらゆる階級にテロリストがいると・・以下略・・怖すぎます・・トルコ・・

1ヶ月前 No.426

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

最近、永井均さんの「<子ども>のための哲学」を読んで、独我論に興味を持ちました。

最初にすぴのざさんが示されている独我論の意味の記述では、「私の認識とは無関係な事物の存在を否定する」もので、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」といい、「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」というのが、基本的な世界観となっています。

これは、1つの立場であると思いますが、認識を止めると、例えば、リンゴが消滅するといった事態を説明する根拠が示されていないと思います。

「客観的存在に対する常識的見解」では、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあることを認めますが、自分の経験や他者を見ることによって推測できるという意味で一定の根拠があると考えられます。

自分の経験としては、寝ている間に、就寝前の状態が変わっていないこと、植物や動物が成長することを認識すること、物理的な何かを探しているとき、実際にそれが見つかること(見つからないこともある)などです。

他者のことでは、他者と物理的な事物についてコミュニケーションが可能であること、他者が寝ていても、死んでも、私が事物を認識できることなどで、これらによって、推測できると考えます。

認識の性質として、私が感覚器官を通じて「認識」することの限界があると思います。
ただし、人類は、各人が認識を止めると、リンゴが消滅するといった物理現象を観測した経験を持っていませんので、推測ではありますが、私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だと思います。

こういう次元の議論は的外れでしょうか?

1ヶ月前 No.427

★30JjgxOVKX_ZFe

「独我論」、わたしの場合、独我主義。

独我論を乗り越える必要があるかどうか、独我論のすべてを否定しなければならないかどうか、という問題はさておき。

わたしの場合、>0におけるような「独我論」は、〔存在〕を、「認識」のなかに閉じこめてしまっているように見えます。

わたしの参考書はメルロの現象学ね。

1ヶ月前 No.428

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_Y9V

>>427

えぴめてうすさん

>植物や動物が成長することを認識すること、物理的な何かを探しているとき、実際にそれが見つかること(見つからないこともある)などです。

それらが成長していることが認識できない場合でも、それらは成長しているといえますか?
物が見つからなくても、その物は存在しているといえますか?


>私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だと思います。

リンゴが見つからないのに、リンゴがあると考えるのは妥当だと言えますか?


>こういう次元の議論は的外れでしょうか?

次元は合ってるが内容がひどい
独我論に陥っているのは他ならぬあなただ

1ヶ月前 No.429

あまる ★Android=lc67bhieEP

これってリンゴで考えると、めちゃくちゃ難しいですね。。

別の場合。
例えば、ビルとビルの間に橋があると思えば実際に無くてもそこに橋が存在する事になるんですよね?
渡らせれば良いんじゃないんですか?
有りもしない橋を。
もちろん落下しちゃうでしょうからそこに橋は確実に存在しない事になります。

これで独我論ての否定できませんか?

1ヶ月前 No.430

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_Y9V

>>430
あまるさん

殺人によって論説を否定するという誤った方法はとるべきでないというのは、
サイコパスでなければ理解できるはずだが・・・。

あまるさんは、ゆにこさんと根本的なところで似ていますね。
つまり、あなたは何らかの洗脳を受け、正常な判断ができていないと考えられます。

人命を尊重し、殺人という誤った方法を取らないように努めてください。
それが、あなたが独我論から抜け出る唯一の方法です。

LOVE&PEACE

1ヶ月前 No.431

あまる ★Android=lc67bhieEP

ヒコ太郎さん


思考実験なので、、^_^;
トロッコで人ひいたり
箱に猫閉じ込めたりは許されるんですね笑

とりあえず、気分を害したなら謝ります。
大袈裟に表現しちゃうのは悪い癖でして。
訂正しますね。

ではビルを高さ1メートルの台に変えましょう。

これで否定はできますか?

1ヶ月前 No.432

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>432
あまるさん

やはりサイコパスでしたか・・・。


>トロッコで人ひいたり
>箱に猫閉じ込めたりは許されるんですね笑

トロッコ問題は倫理的な問いですが、今回は違いますよね。
そして、猫は人ではないですよね。


>ではビルを高さ1メートルの台に変えましょう。

それでも人は落ちちゃいますよね。


>これで否定はできますか?

できません。それどころか、あなたがそれを証明しています。


>気分を害したなら謝ります。

謝るといいながら、全く反省しないところも、ゆにこさんと一緒ですね。

あまるさんの一刻も早い更生を望みます。以上。

1ヶ月前 No.433

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

>>429

ヒコ太郎さん

 私の投稿にレスいただきありがとうございました。
 ご質問いただいた件、

>>植物や動物が成長することを認識すること、物理的な何かを探しているとき、実際にそれが見つかること(見つからないこともある)などです。
>それらが成長していることが認識できない場合でも、それらは成長しているといえますか?
物が見つからなくても、その物は存在しているといえますか?

 植物や動物が成長していることが認識できない場合、それらは成長しているといえないと思います。また、物が見つからなければ、その物は存在しているかどうかわかりません。

 植物や動物が成長していることが認識できる場合とは、連続的にずっと見ていて成長を認識するという場合だけでなく、ある時点で見たときの印象の記憶と、そのあとの時点で見た印象を比べて、大きくなっていると認識できる場合だと思います。しかしながら、先の記憶の植物や動物とあとの記憶の植物や動物が同じ生物であるということは、推測の域をでない話ではありますので、「推測ではありますが、私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だと思います」と書きました。
 また、「(見つからないこともある)」と書きましたのは、「物理的な何かを探しているとき、実際にそれが見つかる」というと必ず見つかるという意味にとれてしまうので、100%見つかるわけではなく、そうでない可能性もあるが、見つかった場合は、存在が認識できるという趣旨です。

 独我論は、冒頭の定義(すぴのざさんいわく)では、「私の認識とは無関係な事物の存在を否定する」もので、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」といい、「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」というのが、基本的な世界観となっているようですので、例えば、長年使っている(という記憶がある)めがねを探していて、それが見つかったときに、独我論によれば、そのときにめがねが生じ、目を離すと、いったん消滅し、また見て認識すると生じるという理解になるように思いますので、記憶や過去の写真などの物的証拠などから認識していなくとも、推測ではあるが、存在していると考えることが妥当と思います。

>>私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だと思います。
>リンゴが見つからないのに、リンゴがあると考えるのは妥当だと言えますか?

 リンゴが見つからないのであれば、リンゴがあると考えるのは妥当ではないと思います。

 ただ、みつかった場合、そのときにリンゴが生じたのではなく、探していない期間や探している最中も存在していたと考えるのが妥当であると思います。(私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当)

1ヶ月前 No.434

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>434

えぴめてうすさん

人々の労働の上に、ワインを片手に胡坐をかき、宴に興じる人たちがいます。彼らは口々にこう言います。「彼らの苦しみは私たちの認識とは無関係なのだ、と私たちが考えようと、それを彼らが否定することはできないし、妥当ではない」
独我論者ほど、独我論の否定を試みる。その根拠はいつも粗末なものになる。なぜならば、彼らにとっては、自分にとっての世界は絶対的なものであり、「独我論」というくくりに入れるような、自分だけの考え方ではなく、絶対的で一般的な(「妥当な」)考え方だと信じているからだ!


>みつかった場合、そのときにリンゴが生じたのではなく、探していない期間や探している最中も存在していたと考えるのが妥当であると思います。(私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当)

ということは、あなたは、「探していない期間や探している最中も存在していた」と認識することなく、「探していない期間や探している最中も存在していた」と考えることが可能ということですね。素晴らしい!

1ヶ月前 No.435

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん

>>みつかった場合、そのときにリンゴが生じたのではなく、探していない期間や探している最中も存在していたと考えるのが妥当であると思います。(私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当)

>ということは、あなたは、「探していない期間や探している最中も存在していた」と認識することなく、「探していない期間や探している最中も存在していた」と考えることが可能ということですね。素晴らしい!

 ご指摘のとおりです。
 それは、 >>434 で書きましたように記憶に依存します。残念ながら、そう考えるしかないというのが、私の考えです。
 独我論では、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」となりますが、他人が何かを探していて、その人は見えていないが、私には見えているということが経験としてあります。そのとき、他人が見つけた瞬間に、探し物が生じたということや、他人が視線をそらした時に消滅したという経験がありません。そのような現象は観測されていないと思っています。
 私自身、見ていないとき、そのものが存在するとなぜ言えるのかということに対し、積極的に存在することを示すことができないことが歯がゆく思いますが、記憶を繋ぐことで、存在すると考えることが、「私が認識を止めると、消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」と考えるより妥当だと思うのです。そういった水準のことです。

 こんなことは、直接人に聞いたことがありませんので、少しドキドキしますが、ヒコ太郎さんは、「探していない期間や探している最中も」認識することなく、「探していない期間や探している最中も存在していた」とは考えず、認識を止めると、消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)と考えられているのでしょうか。

1ヶ月前 No.436

★30JjgxOVKX_ZFe

「いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在する」

ということは、「認識後には、いかなるリンゴも存在する」ということでよいのかしら?

「認識」って、「リンゴの経験」ということでよいかしら?

ところで、独我主義では、「歴史」っていうの、どう見てるのかしら?

1ヶ月前 No.437

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>436

えぴめてうすさん

>他人が視線をそらした時に消滅したという経験がありません。

それは、そのものが消滅する/しないというのが、あなたの認識に依存しているからです。
これはつまり、独我論です。


>記憶を繋ぐことで、存在すると考える

それを、「認識する」といいます。


>ヒコ太郎さんは、「探していない期間や探している最中も」認識することなく、「探していない期間や探している最中も存在していた」とは考えず、認識を止めると、消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)と考えられているのでしょうか。

私はえぴめてうすさんのような超常的な力を持っていないので、認識しなかったものを存在すると考えることはできませんし、認識したものを存在しないと考えることはできません。しかし、えぴめてうすさんのような優れた力をもった方々が、一定割合存在するのもまた事実です。私には、それらの偉大な力を奪うことは、恐れ多くてできません。


>>437

およぐちゃん

>独我主義では、「歴史」っていうの、どう見てるのかしら?

独我主義者にとって、歴史とは「私」と一致します。しかし、不思議なことに、彼らが生まれたのは歴史の中でもずっと最近のことです。彼らは時の旅人であり、神のアヴァターラ(化身)です。

1ヶ月前 No.438

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん

>>他人が視線をそらした時に消滅したという経験がありません。

 と他人を私が見ている例を挙げたものの、他人にとって 消滅した=存在しなくなった ものでも、私には、認識される=存在するということがいえるかもしれません。私にそういう経験(消滅した)がなくても、そのとき、他人は、「存在しなくなって」いると考える余地はあります。がしかし他人にとっての存在と私にとっての存在がズレることになります。日常的に他人とコミュニケーションで、存在している/していないで、あまりズレは感じないのですが。(二人で目の前のリンゴの存在についてしゃべったあと、別の話題となり、相手の意識から、リンゴが消えたとき、相手にとってリンゴの存在自体は消えているが、私はまだリンゴを認識しているとき。ただ、相手の意識から、リンゴが消えたとき、相手にとってリンゴの存在自体は消えていることは、検証不可能のようです。)

>それは、そのものが消滅する/しないというのが、あなたの認識に依存しているからです。
>これはつまり、独我論です。

 「そのものが消滅する/しないというのが、あなたの認識に依存している」のことですが、消滅する/しない(存在しない/する)と考えるには認識作用が必要と思います。という意味で、消滅した経験がないのは、私の認識のなせる業だと思います。認識作用なしに消滅したという経験を得ることも消滅しないという経験を得ることもできないわけです。

>>記憶を繋ぐことで、存在すると考える
>それを、「認識する」といいます。

 認識していない間でも、あるものが「記憶を繋ぐことで、存在すると考える」の方が、「私が認識を止めると、消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)と考える」より妥当だと言っておりましたが、この文章の中の「記憶を繋ぐことで、存在すると考える」を「認識する」に置き換えると何かおかしいようです。
 私が「認識」と使っていた意味が適切でなかったかもしれません。私は、「認識する」を、ほぼ「現に見て、意識される」という意味で使っていました。
 その意味で「記憶を繋ぐことで、存在すると考える」とは、ある時点で見たときのもの(の記憶)と、そのあとの時点で見たものが整合的であれば、そのものは、ある時点とそのあとの時点の間の認識していなかった(現に見ておらず、意識されていない)間にも存在していると推測するとしていました。

>>私はえぴめてうすさんのような超常的な力を持っていないので、認識しなかったものを存在すると考えることはできませんし、認識したものを存在しないと考えることはできません。しかし、えぴめてうすさんのような優れた力をもった方々が、一定割合存在するのもまた事実です。私には、それらの偉大な力を奪うことは、恐れ多くてできません。

 独我論のお立場ですね。「認識を止めると、消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」とお考えでしょうか。

 本投稿を書いて感じましたが、私の「認識」という言葉の使い方、理解に問題があるのかもしれません。

1ヶ月前 No.439

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>439

えぴめてうすさん


> と他人を私が見ている例を挙げたものの、他人にとって 消滅した=存在しなくなった ものでも、私には、認識される=存在するということがいえるかもしれません。私にそういう経験(消滅した)がなくても、そのとき、他人は、「存在しなくなって」いると考える余地はあります。がしかし他人にとっての存在と私にとっての存在がズレることになります。日常的に他人とコミュニケーションで、存在している/していないで、あまりズレは感じないのですが。(二人で目の前のリンゴの存在についてしゃべったあと、別の話題となり、相手の意識から、リンゴが消えたとき、相手にとってリンゴの存在自体は消えているが、私はまだリンゴを認識しているとき。ただ、相手の意識から、リンゴが消えたとき、相手にとってリンゴの存在自体は消えていることは、検証不可能のようです。)

それならば、何の問題もないので、独我論を乗り越える必要もないわけです。
ただし、検証不可能であるのに、独我論を否定することは、普通できませんよね?
なので私は、えぴめてうすさんのような方々は、それを否定できるだけの、何か素晴らしい力をお持ちだと推測しています。


> 「そのものが消滅する/しないというのが、あなたの認識に依存している」のことですが、消滅する/しない(存在しない/する)と考えるには認識作用が必要と思います。という意味で、消滅した経験がないのは、私の認識のなせる業だと思います。認識作用なしに消滅したという経験を得ることも消滅しないという経験を得ることもできないわけです。

消滅した経験がないからといって、消滅しないということは、普通できません。
例えば、あなたは恐らく死亡した経験は(当たり前ですが)ないでしょう。それは、あなたが不死であることを意味しますか?(このような話が苦手であれば、この例えはスルーしてください)


>独我論のお立場ですね。「認識を止めると、消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」とお考えでしょうか。

いえ、私は独我論者のような超越した力はもっていません。
私が認識をやめると、その対象はもともと存在しなかったことになり、その意味で、もともと存在したものがなくなった、という消滅とは異なります。
独我論者の驚くべき能力のひとつは、認識をやめながらなおそれを認識し、消滅をしりながらなおその存在を記憶(認識)しているということです。
独我論者はこのような神に匹敵する力をもっていますが、私はもっていないので、独我論の立場にたつことはできません。

1ヶ月前 No.440

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん


>それならば、何の問題もないので、独我論を乗り越える必要もないわけです。

 テーマである独我論を「乗り越える」の意味がもうひとつわかっていません。おいおいにわかってくればいいのですが。

>ただし、検証不可能であるのに、独我論を否定することは、普通できませんよね?

 おっしゃるとおりです。
 独我論の評価において、認識の外に存在があること(私が示したいこと)も、認識の中がすべてで、外に存在がないこと(独我論者の主張)も、検証不可能なので歯がゆく思っております。そのようなことから、>427 で述べましたように、「推測ではありますが、私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だ」としか言いようがないと思っています。

 >427 の時点から現時点までで、独我論の肯定/否定ということで言えば、どちらもできないのではというのが感想です。
 「否定できる」(あるいは肯定できる)とすれぱ、それは意思だけだと思います。しかしそれは意思を表明しているだけで、根拠を示すには至りません。
 余談ですが、表明された他人は、私の認識の中だけにあって、「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」という独我論の立場に立てば、私の意識の中にのみ存在する他人に何かを根拠を説明する意義があるのかと思ったりもします。
 戻って、私も含め、独我論を検証して肯定や否定できる人は、私の意識の中にも、意識の外にもいないのではないかと思っていますが、このスレで出会えればうれしいです。
 よって、>427 で申し上げた私の考えは、独我論について、そう考えるより、そう考えない方が妥当ではないかという範疇です。妥当ではないかと考える理由は、>427 で述べたとおりです。
【独我論の定義を再掲します。】
 「私の認識とは無関係な事物の存在を否定する」もので、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」といい、「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」という世界観

>消滅した経験がないからといって、消滅しないということは、普通できません。
例えば、あなたは恐らく死亡した経験は(当たり前ですが)ないでしょう。それは、あなたが不死であることを意味しますか?(このような話が苦手であれば、この例えはスルーしてください)

 まったくおっしゃるとおりで、不死であることを意味しないと思います。
 ところで、戻って恐縮ですが、

「>>他人が視線をそらした時に消滅したという経験がありません。

 と他人を私が見ている例を挙げたものの、他人にとって 消滅した=存在しなくなった ものでも、私には、認識される=存在するということがいえるかもしれません。私にそういう経験(消滅した)がなくても、そのとき、他人は、「存在しなくなって」いると考える余地はあります。がしかし他人にとっての存在と私にとっての存在がズレることになります。日常的に他人とコミュニケーションで、存在している/していないで、あまりズレは感じないのですが。(二人で目の前のリンゴの存在についてしゃべったあと、別の話題となり、相手の意識から、リンゴが消えたとき、相手にとってリンゴの存在自体は消えているが、私はまだリンゴを認識しているとき。ただ、相手の意識から、リンゴが消えたとき、相手にとってリンゴの存在自体は消えていることは、検証不可能のようです。)

>それは、そのものが消滅する/しないというのが、あなたの認識に依存しているからです。」

 の「それ」は、どの部分についてご指摘いただいているでしょうか。
 「他人が視線をそらした時に消滅したという経験がありません」に対してのご指摘と思い、

>> 「そのものが消滅する/しないというのが、あなたの認識に依存している」のことですが、消滅する/しない(存在しない/する)と考えるには認識作用が必要と思います。という意味で、消滅した経験がないのは、私の認識のなせる業だと思います。認識作用なしに消滅したという経験を得ることも消滅しないという経験を得ることもできないわけです。

 と申し上げたところです。
 「そのものが消滅する/しないというのが、あなたの認識に依存している」と思います。まさに私の認識作用のなせる業です。ここでも「認識」は、≒「現に見て、意識されているかどうか」という意味です。

>私が認識をやめると、その対象はもともと存在しなかったことになり、その意味で、もともと存在したものがなくなった、という消滅とは異なります。

 「私が認識をやめる→もともと存在しなかったことになる≠消滅=もともと存在したものがなくなった」とお考えになっているということでしょうか。

>独我論者の驚くべき能力のひとつは、認識をやめながらなおそれを認識し、消滅をしりながらなおその存在を記憶(認識)しているということです。

 独我論者は、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」というらしいのですが、「認識をやめながらなおそれを認識し、消滅をしりながらなおその存在を記憶(認識)している」とは、これと同じ意味を述べておられるのでしょうか。

 質問ばかりで恐縮です。
 ヒコ太郎さんは、独我論の立場ではないとおっしゃっていますが、スレの定義に沿った独我論から見た見解をお教えいただけるようでしたら、ありがたいです。

1ヶ月前 No.441

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

>>441

えぴめてうすさん

私はえぴめてうすさんが独我論を乗り越えることに意義を見出せませんし、
私が独我論について何らかの意見を述べたところで、「釈迦に説法」でしょう。
私はすでに独我論の立場をとることは能力的にできないということを申し上げました。
あなたは、独我論を唱えるキリンやゾウを、見たことがありますか?
・・・彼らが、存在が消滅するとはどういうことかということを知る機会は訪れないでしょう、そして、私にも。

1ヶ月前 No.442

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん


>あなたは、独我論を唱えるキリンやゾウを、見たことがありますか?
・・・彼らが、存在が消滅するとはどういうことかということを知る機会は訪れないでしょう、そして、私にも。

 私は、独我論を人間に限定した話だと思っていました。
 動物に拡げるとしても、人間と動物では認識の内容やレベルが異なりますので、別の議論が必要かなと思います。
 独我論について話すとき、「存在する」や「存在が消滅する」について、さまざまな意味の捉え方があるように感じました。
 私は、おそらく、ヒコ太郎さんからのレスで使われていた「存在が消滅」や「認識する」という言葉の意味を、ヒコ太郎さんが使った意味で理解していなかったのかもしれません。

 ただ、「存在」の有無は、「認識」を通じた判断とならざるを得ず、客観的認識は原理的に不可能に思いますので、独我論の立場が真か、そうでない立場が真かは、回答不能の問題、つまり、「独我論が正しいかどうか」は、疑似問題ではないかという気がしています。
 ヴィトゲンシュタインの言っている「人間には言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、何かが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない、われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ」(シュリック家での談話、ハイデガーについて)ということに共感する次第です。

 そこで、また「私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だ」という答えに戻ってしまいます。要は、独我論の正否の哲学的な解決としてはギブアップし、しかし、このスレのように意見を交換したり、投票したり、食事をしたり、仕事をしたりするうえで、モノについて、過去の体験、あるいは歴史などについて、認識するしないとは無関係に存在すると解しないと、そういった人間の営み自体が成り立たないことを良しとしないといった心境です。結局、私が >427 で表明したのはこのようなことでした。

 哲学的議論の場である「独我論を乗り越える方法」のスレでは、かなり本筋から外れた内容だったかもしれません。今から思えば、永井さんの本を読み終わり、少々高ぶっていたことから、思わず投稿したのなかと思います。

27日前 No.443

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

えぴめてうすさん

>人間と動物では認識の内容やレベルが異なりますので、別の議論が必要かなと思います。
>独我論について話すとき、「存在する」や「存在が消滅する」について、さまざまな意味の捉え方があるように感じました。

おっしゃるとおりで、まさにこのことは、私が動物の例で言いたかったことです。
つまり、あなたと私では認識の内容やレベルが異なるので、別の議論が必要だということです。
ここで考えてみていただきたいのは、「別の議論が必要だ」というのは、原理的なことなのかということです。
どちらかというと、経験上そうだと言えるので、そう言えるということです。
それを追求していくことで、独我論を私たちがどのように扱うことができるのか、ということが見えてくると思います。
例えば、海外に移住することを考えてください。日本での生活があって、それで満足していれば、わざわざ海外に移住する意義というのは、少ないと思います。高い壁・・・言葉の壁、文化の壁、人種の壁、様々な壁があることでしょう。
独我論も、いわば、そのような高い壁です。そして、あなたがそれを乗り越える意義を私には見出せません。
そして忘れてはならないのは、乗り越えてしまうと、戻ることもまた難しいということです。



> 哲学的議論の場である「独我論を乗り越える方法」のスレでは、かなり本筋から外れた内容だったかもしれません。今から思えば、永井さんの>本を読み終わり、少々高ぶっていたことから、思わず投稿したのなかと思います。

本筋から外れている、というのはその通りだと思います。少々高ぶったところで、乗り越えるにはまだまだ高い壁ですからね。
そして忘れてはならないのは、乗り越えてしまうと、戻ることもまた難しいということです。
このように考えていくと、ヴィトゲンシュタインの引用文におかしなところがあることに気が付くはずです。(おかしなところといえば、いくつもありますが、本題からそれるので、それらには触れません。)

>「人間には言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、何かが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない、われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ」

無意味なのは、「アプリオリ」な問題ではなく、「われわれ(ヴィトゲンシュタインたち)にとって」という問題であるはずです。
彼は意味についてよく考察しましたが、独我論というのは、こういうところが杜撰なのです。
しかし、彼らがそれを乗り越える意義というのはあるでしょうか?彼は哲学についていくつかの影響力のある成果を残しているので、最早そのようなものは必要ないでしょう。(つまり、生活に満足しているから移住する必要がない)

27日前 No.444

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん

>「別の議論が必要だ」というのは、原理的なことなのかということです。どちらかというと、経験上そうだと言えるので、そう言えるということです。

 人と人では、それぞれ経験と現状の満足に差異があり、そのことが、「「存在する」や「存在が消滅する」について、さまざまな意味の捉え方」をさせていることは確かにそうだと思います。
 そして、ヒコ太郎さんのおっしゃる「別の議論が必要だ」とは、意味が違えば、違いを確認するとか、お互いに同じ意味であることが見い出すことができず、したがって、「同じ議論はできない」≒「意味が通じない」という含意でしょうか。

>それを追求していくことで、独我論を私たちがどのように扱うことができるのか、ということが見えてくると思います。

 「独我論」を考える(他の人と話す)にあたって難しい宿題ですね。経験の違いによって別の議論が必要であるとすれば、それはむしろ原理的なことのように見えます。さらに、意味の差を埋められない原理的な問題が横たわっているということ、もっと言えば、別の議論の可能性さえも怪しいように思えます。
 そもそも「独我論を考える」ときは、一人で考えるべきという原理的な要請があるのかもしれません。確かに、ヒコ太郎さんと私では経験が異なっていますので、同じ地平にいないでしょう。その場合、意味の差を埋める術は、同じ経験をすることを除いては見当たらないですね。

 なお、動物については、「私は、独我論を人間に限定した話だと思っていました。動物に拡げるとしても、人間と動物では認識の内容やレベルが異なりますので、別の議論が必要かなと思います」と書きましたが、動物が自我、自意識を持っていないと考えていますので、人間と同じ「独我論」(このスレの定義にあるような)の余地がないと考えています。ただ、キリンやゾウも外界を認識し、反応するという行動をとっているようですので、キリンやゾウが世界をどう認識するかといった生物学的な議論としてはあり得るかもしれないと思います。

>乗り越えるにはまだまだ高い壁ですからね。

 私は、ヒコ太郎さん自身からもおっしゃっていただいているように、乗り越える意義を見出していません。というより、「独我論」そのものに強い疑念があるのと、それを肯定も否定もすることはできないという考えです。さらに、「乗り越える」理由ではなく、意味そのものが分からないのです。

>(つまり、生活に満足しているから移住する必要がない)

 これは、私にも当てはまると思います。「独我論が正しいのか、独我論を乗り越えるべきなのか」という考えなくてもよいようなことを考えてしまう「衝動」がわき、それを解こうとして、検討するものの、解けるなんて幻だと気づくのです。
 海外生活に興味があって、テレビを見たり、雑誌をめくったりするけれど、海外生活なんてする意義はない、今の生活を肯定しようという感じでしょうか。
 このことが、>427 で、「推測ではありますが、私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だと思います」と書いたことと符合します。

>無意味なのは、「アプリオリ」な問題ではなく、「われわれ(ヴィトゲンシュタインたち)にとって」という問題であるはずです。

 私もたぶんそうだと思います。彼自身が「衝動」を抑えきれずに、突進しようとし、無理筋の話と気づいたということでしょう。
 私もそのような「衝動」を感じがちな方ですが、そうでない人にとっては、人それぞれに意味があるよということにもなるのでしょう。『論理哲学論考』では、「序」の冒頭に「おそらく本書は、ここに表されている思想―ないしそれに類似した思想―をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう」と書いていたりしますので、当然、「われわれ」は、すべての人ではなく、「衝動を持つ人」=「ヴィトゲンシュタインたち」というような意味でしょう。

26日前 No.445

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

えぴめてうすさん

あなたが人間であり、「自我」や「自意識」があるのなら、是非それらを使ってみてはどうでしょうか?
そうすれば、猪や牛でも持っている「衝動」や「感情」ではなく、「理性」によって物事を考えることができるはずです。
私には、これ以上のことは言えませんね。
お付き合いありがとうございました。

26日前 No.446

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん

>あなたが人間であり、

 独我論では、自分しか存在していないようですので、「あなたが人間であり」ということも言えないわけです。これが不思議なところです。
 また、一人だけの世界では、「自我」や「自意識」もうまく形成されないように思います。場合によっては「衝動」や「感情」も芽生えるかどうか。私の独我論への疑問です。

>「自我」や「自意識」があるのなら、是非それらを使ってみてはどうでしょうか?
そうすれば、猪や牛でも持っている「衝動」や「感情」ではなく、「理性」によって物事を考えることができるはずです。

 「自我」や「自意識」はむしろ無自覚的に精神の中で、人間の感情や理性の働きに影響を及ぼしていると思います。
 それを使いたくないといっても、なかなかそうできるものではありません。むしろ、「自我」や「自意識」が前面に出ない方が理性がよく働くように思います。

 10月のはじめ、片道10時間以上船に乗って、ある離島に行きました。その船の中で読んだ永井さんの本で、独我論に興味を持ち(正確には復活し)、この掲示板に行き当たって、ヒコ太郎さんにいろいろとレスをいただきました。
 こちらこそ、お付き合い大変ありがとうございました。

21日前 No.447

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

えぴめてうすさん

>独我論では、自分しか存在していない

とは、誰が言ったのでしょうか?
>>0 を字面通りに受け取るならば、独我論において存在するものとは自分の認識するものであり、
「自分」も「自分が認識する自分」によって存在しうるということです。


>一人だけの世界では、「自我」や「自意識」もうまく形成されないように思います。場合によっては「衝動」や「感情」も芽生えるかどうか。

これは本当に独我論について述べられていると言えますか?
あなたは、独我論を自閉症と勘違いしていませんか?


・過ぎたるは猶及ばざるが如し(『論語』)

>「自我」や「自意識」が前面に出ない方が理性がよく働く

「自我」や「自意識」がない理性はありません。「自我」や「自意識」が働きすぎる理性もありません。
例えば、あなたが化粧をするとします。(もしかするとそれは、髭剃りかもしれません)
何のために?それは、化粧をした結果としての自分を意識しているからです。
自意識なしに、鏡を見て自分の顔に手を加えることができるでしょうか?
これが理性における「自我」や「自意識」の必要性です。
しかし、「自我」や「自意識」が強すぎると、今度は人の目を気にせずに、自分をよく見せようとするという行為が生まれます。
これは、理性的とは言えませんね。えぴめてうすさんは、こちらの方を想像されていたのではないでしょうか。
いわゆる片手落ちです。

>それを使いたくないといっても、なかなかそうできるものではありません。

ではなぜ、あなたは「衝動」や「感情」で動くのですか?
それらが、「自我」や「自意識」とどのように関わっているのですか?


無駄なことだとわかりつつも、正しく伝わっていないようなので書きました。

17日前 No.448

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん

>>独我論では、自分しか存在していない

>とは、誰が言ったのでしょうか?


 別スレ「存在を問う」(  http://mb2.jp/_tetsugaku/927.html   >>274 )でいただいたレスの中で、
 「独我論とは、「私だけが存在する」言い換えると、「存在するのは私だけである」と主張する思想です。」
 というお話を受けて、「「独我論では、自分しか存在していない」ようですので」と私が言っている言葉です。

ちょっと長いですが、引用しますと、

>独我論とは、

>「私だけが存在する」

>言い換えると、

>「存在するのは私だけである」

>と主張する思想です。


 私が独我論について、強い疑念をもっているのは、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」といい、まさに「じこちゅー」的な見方で、「私が認識している範囲の世界がすべてである」ということになり、ご指摘の「存在するのは私だけである」になってしまうことなのですが、具体的に言うと、その人は誰に向かってそのことを言っているのでしょうか、すべて一人言なのでしょうか、自分の親も否定するのでしょうか、それなら、自分の存在の起源をどう考えているのでしようか、自分が生産してもいない食べ物を食べて生きていることを不思議に思わないのでしょうか、科学理論(物理や化学や)をどう考えているのでしょうか、という疑問です。「私の言っていることはうそである」に匹敵しそうな奇妙さがあります。
 「夢」がまさにそういう状態(独我論の世界)に近いような気がしますが、現実の世界では、人間としての社会性を欠く(一人だけなのですから、他者を全く気にする必要はないはずです)か、自分をずっとだまして(社会性を装って)生きていかなければならないのではないかと思います。自分をだます必要性はないように思いますが。

>私の死=世界の終わり

>ということも含意します。


 そうなりますよね。そこで上記に加えてですが、この「私」とはだれか、1人しかいないのでしょうか。何人かいるのでしようか。複数いるなら、世界も複数あり、それらの世界同士は独立しているのでしょうね。マルチバースでしょうか。しかし、1つの世界には1人しかいないのですから、科学や哲学の知見や論点もあまり意味はないように思います。もっと言えば、「私が認識を止めると」、自分の足や手もまた「消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」であれば、もはや生命であるとも言い切れない存在。それが、「私」ということに。ほんとうに独我論の世界は不思議です。

以上、引用終わり

15日前 No.449

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん

>  >>0 を字面通りに受け取るならば、独我論において存在するものとは自分の認識するものであり、


 「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。」とのことについて、「独我論において存在するものとは自分の認識するものであり」とおっしゃっているのだと思います。私もそう思います。

>「自分」も「自分が認識する自分」によって存在しうるということです。


 これはなかなかむずかしいですね。この3つの「自分」は、それぞれ意味内容がどのように異なるのでしょうか。また、「自分が認識する自分」とは存在のことでしょうか、認識のことでしょうか。

 はたして、「自分」は存在しているのでしようか。また、認識を止めると、存在しなくなるような「他者」を存在しているというのでしょうか。

 「リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」。←この文章の「リンゴ」を「私」や「他人」に置き換えたとき、「私」の場合、認識しつづける限り、私は
存在できますが、「他人」のことを認識し続けることには限界がありますから、「他人」は「私」が認識していない間、存在しなくなるということになります。
 結局、私の認識が唯一絶対なもので、それ以外は、私の認識が作り出す幻想の世界に過ぎなくなってしまうと思われるのです。
 私が私を認識しないことができるのでしょうか。寝ているときや気を失っているときは認識していないときなのでしょうか。

15日前 No.450

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_zRM

えぴめてうすさん

長々と書いてきましたが、これで最後にします。

>別スレ「存在を問う」(  http://mb2.jp/_tetsugaku/927.html   >>274 )でいただいたレス

を読みました。この中では、正しい部分として見受けられる点と、誤っている部分として見受けられる点が1つずつあります。これらについては、このレスの後の部分で記述します。


> これはなかなかむずかしいですね。この3つの「自分」は、それぞれ意味内容がどのように異なるのでしょうか。また、「自分が認識する自
>分」とは存在のことでしょうか、認識のことでしょうか。

それは、ご自身で独我論についてよく勉強してください。そうすれば明らかになるはずです。

>「自分」も「自分が認識する自分」によって存在しうる


ひとつめの「自分」は、独我論における「存在」、
みっつめの「自分」は、独我論における「認識」にあたります。
ふたつめの「自分」は、独我論において「真に実在する」という表現をされる「自分」です。

えぴめてうすさんが受けたと言われる
> 「独我論とは、「私だけが存在する」言い換えると、「存在するのは私だけである」と主張する思想です。」
> というお話
に出てくる「存在」は、「真に実在する」ということを誤って理解していたために「存在」と書かれてあるものだと思われます。

では、「真に実在する」というのは、どういうことでしょうか?
これは、独我論者たちが「存在」だと誤認するのも無理はありません。なぜならば、これは独我論の枠組みでは表現できないものだからです。
どういうことかというと、この表現は「実在主義的な「客観的実在」はない」ということの別表現として生じたということであり、独我論の定義に相当します。もっと詳しく言えば、独我論的な「存在」は疑うことができるのに対して、「真に実在する」とは「疑うことができない」、確固たるものだということです。

独我論の枠組みで捉えられないというのは、次のような理由によります。
あなたは、
>独我論では、自分しか存在していない
といいながら、
>独我論において存在するものとは自分の認識するものであり
とも思うと書きました。これらは矛盾することに気づかれないでしょうか?
例えば、あなたが机を認識すると、それは独我論的には机の存在を示しています。しかし、自分しか存在しないといっているのですから、その机も自分の一部ということになります。あなたは、あなたの一部として(手や足のように)机を持っているのでしょうか?「理性」があれば、そのような誤りにはすぐに気づくことでしょう。
どうしても納得できませんか?ではこう考えてみてください。「自分」というのは疑うことができない(われ思う、ゆえにわれあり)としても、机の存在は疑うことができる。(これは同じことを上で書きました)だから、両者は異なるものである。


>別スレ「存在を問う」(  http://mb2.jp/_tetsugaku/927.html   >>274 )でいただいたレス

において、「正しいと思われる部分」とは、

>知ったかぶりしか能のない人(すめんさんではありません)を相手に時間を無駄にする

という部分です。私は何度も申し上げているように、あなたが独我論を乗り越える必要はないと思っておりますし、このような話し合いを続けることは、あなたにとって「時間の無駄」そのものでしょう。
あなたは、

>別スレ「存在を問う」(  http://mb2.jp/_tetsugaku/927.html   >>274 )でいただいたレス

における「独我論では、自分しか存在していない」という文章の一部を自分の認識と一致するという理由で受け入れ(独我論的な「存在」)、「時間を無駄にする」という一部を自分の認識と一致しないという理由で無視しています。(独我論的な「消滅」)。
まとめると、私の結論は次のようになります。
「独我論とは片手落ちの別表現」。考えてもみてください。なぜ、「疑うことができる」という理由だけで、「存在を否定」することができるのでしょうか?「独我論」では、このような極端な考え方をするということです。(えぴめてうすさんも、「独我論」を疑うことができるという理由だけで否定しようとしました。これがまさしく独我論的なのです。)しかし、そのような考え方をするかどうかというのは、思想的なものであり、それに問題がある場合も、ない場合もあります。えぴめてうすさんの場合は、問題ないです。
以上。

14日前 No.451

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

ヒコ太郎さん

 丁寧なご説明ありがとうございました。
 十分咀嚼できるかわかりませんが、これからも、独我論を乗り越えるのではなく、論破する方向かもしれませんが、考えていきたいと思います。

【本題】
 独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
 出来るとしたら、その方法は?
 あなたの独我論に関する考えを教えてください。

>独我論では、自分しか存在していない
といいながら、
>独我論において存在するものとは自分の認識するものであり
とも思うと書きました。これらは矛盾することに気づかれないでしょうか?

 それぞれ別の文脈で使っていますので、抜き出して解釈するには、不十分な日常言語の表現になっていると思います。
 まず、「独我論では、自分しか存在していない」については、自分しか存在していない(認識する主体としての他者を認めない)がゆえに、認識するのは自分しかいないという独我論の帰結に対して、疑念を表明している文脈です。
 つまり、他者の存在を自分の認識の中にしか認めない点について、>449 の「ご指摘の「存在するのは私だけである」になってしまうことなのですが、具体的に言うと」のあとで、疑念の内容を述べていますので、ご参照ください。
 一方、「独我論において存在するものとは自分の認識するものであり」は、>448 で、ヒコ太郎さんが、「 >>0 を字面通りに受け取るならば、…」とおっしゃったことについて、独我論の定義にある「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。」のことをそうおっしゃっていると解釈し、同意したもので、こちらは、単に「独我論」の定義を確認している箇所です。
 あえて言うなら、「独我論では、自分しか存在していない」を問題にした場面で、自分と他者、認識の主体について問題にしていることを明確にすべきであったかもしれませんが、文脈からご理解いただけるのではと思っていましたが、少々甘かったようです。
 ということで、もともと、私ではなく、独我論者が、机を認識した場合、「その机も自分の一部ということになり」、彼の「一部として(手や足のように)机を持っている」と言っているわけではないのです。

>なぜ、「疑うことができる」という理由だけで、「存在を否定」することができるのでしょうか?「独我論」では、このような極端な考え方をするということです。(えぴめてうすさんも、「独我論」を疑うことができるという理由だけで否定しようとしました。これがまさしく独我論的なのです。)


 私の現時点での主張は、「推測ではありますが、私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考えるのが妥当だと思」うということです。これは、哲学的な言説になっていないと自分で思っています。
 私は、独我論を乗り越えるというより、独我論を否定又は論破したかったわけですが、「疑うことができる」という理由で否定するのであれば、「私の認識と無関係に存在するリンゴがあると考える」ことも否定しなければなりません。
 私としては、独我論の世界観に、私の感覚で、かなり無理があると思うことがらについて、ひたすら問い、答えを求めていただけなのです。
 そして、本論である独我論の否定か、肯定かという点については、>443 の繰り返しになりますが、
「ただ、「存在」の有無は、「認識」を通じた判断とならざるを得ず、客観的認識は原理的に不可能に思いますので、独我論の立場が真か、そうでない立場が真かは、回答不能の問題、つまり、「独我論が正しいかどうか」は、疑似問題ではないかという気がしています。」
 ヒコ太郎さんが、「そのような考え方をするかどうかというのは、思想的なものであり」とおっしゃっていることからも、論理的に真偽が判定できないということかもしれません。

 お付き合いありがとうございました。

14日前 No.452

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

独我論者の方に、お伺いします。

あなたに問いかけている私は、あなたの意識の中にのみ存在する人物ですか。

あなたが、日常において、会話する家族や仲間は、あなたが認識しているときだけ存在し、認識をやめると消滅し、再び認識すると存在するのですか。

あなたの認識とは無関係な事物は存在せず、認識した時にいきなり存在が現れるという世界に生きているという実感がありますか。

あなたは、どのようにして生まれたのですか。

あなたが知っている科学や歴史の知識は、あなたの意識が創造したものですか。

このあなたへの問いかけは、私の認識の中のみの出来事でしょうか。

つまりあなたは私と同じ認識する主体ではないのですか。

12日前 No.453

★30JjgxOVKX_ZFe

>453

えぴめてうすさま

わたし、独我主義者じゃなけど、

あなたと私は同じ認識ではない、としたなら、いかがします?

11日前 No.454

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

游 さん

>454

>わたし、独我主義者じゃなけど、

あなたと私は同じ認識ではない、としたなら、いかがします?

 独我論者でない人が、私とあなたで違う認識を持っているということは普通だと思います。
 私(えぴめてうす)が、ある人の意識の中にのみ存在する人物だというのでなければ、問う内容はありません。
 ただ、「あなたと私は同じ認識ではない」ということを違う意味で仰ってますか?

7日前 No.455

★30JjgxOVKX_m9i

>455

ぴめさま

もし、独我主義者が、「あなたと私は同じ認識ではない」と言ったら、ぴめさまはどう返答するかな、って思っただけです。

「私が、ある人の意識の中にのみ存在する人物だ」っていうの面白い。

6日前 No.456

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

游さん

 ご真意図り切れず申し訳ありませんでした。

 もし、独我主義者が、「あなたと私は同じ認識ではない」と言ったら、あなたが独我論者だったら、「あなたと私は」の「あなた」は、あなたの意識にしか存在しないんですよ、あなたが認識を止めたら、この私である「あなた」は消滅するのですよ、そんなあなたの創造物(意識の中だけの存在)に「同じ認識ではない」なんて言って、何の意味があるの?と聞いてみたいです。
 なにか私、おかしいでしょうか?

6日前 No.457

★30JjgxOVKX_m9i

>457

ぴめさま

もし、独我主者が「あなたと私は同じ認識ではない」と言ったなら、

わたしだったらこう聞いちゃうね

「あなたの認識の存在と、わたしの認識の存在を認めてることになりません?」

ってね。


独我主義者は、「あなたは私と同じ認識する主体」や「「あなたと私は同じ認識ではない」とは(自己を)言えなくしちゃたし、
そもそも「あなた」が使えない立場をとちゃったんじゃないかしら? 閉じ系で、かわいそうね。


独我主義は「ナンセンス」なのよ。人間の探求をやめたんじゃない?


もうちょっと書くのあるけど、今日は疲れちゃった。

わたし、あなたはおかしくない気がするよ。

6日前 No.458

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

游さん

>458


 このスレ以外で、もし独我論者からその答え(又は反応)が聞けたら、教えてくださいね。
 まさかあなたは、私の認識の中にのみ存在する人じゃないですもんね。

6日前 No.459

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

>453 >458 えぴめてうす さん

独我論についてのスタートから間違っておられるのでは?独我論は観念論の一種ではあるが、そういう考え方
もありうる、つまりそう考えることも可能であるというものです。一匹の蠅がブンブンとうるさく飛んでいます。

その蠅「自分が死んだら全宇宙は消えるよ」 人間「一匹のにすぎん君が死んでも、この世はなんの変化も無い」
独我論者「その蠅にとっては、死後にすべては消滅するだろう」

現実に自己が認識しないものは存在しない、という主張はすべての独我論ではない。バークリー風な観念論
ではそうだろうが、独我論の原点は「私とあなたは違う」だと思う。

4日前 No.460

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

今ちょっと煮詰まり気味なので、ちょっと気晴らしにザーッと書いてみました。
思索の刺激になれば幸いということで。
あと、今回のとは内容的に少しかぶり、かつ、ずれてもいる独我論のひとつの形態を、
>>407-411 で示しているので、そちらもよければ参考に。

【或る独我論者の逆襲】
一般に同じひとつの物事でも、それを客観的に捉えるのと、主観的にとって捉えるのとでは、その物事の意味は異なる。
たとえば「自分の死」について考えれば、このことは明らかだろう。

自分の死を客観的にとらえるとは、それを特別視しないであくまで他人の死と区別することなく、一般的に捉えることであり、その意味で客観的・一般的に捉えられた自分の死は「ありふれた死」だ。
この観点からは、私の死も、他者の死と同じく、客観的に捉えられた世界の中のひとつの出来事にすぎない。

しかし主観的に捉えられた自分の死、つまり、あくまで「自分にとっての自分の死」は、明らかにありふれた死ではなく、特別なものだ。この観点からの自己は、いわば「私の物語」を語る語り手の位置にある者であって、他人はその物語の登場人物にすぎない。その意味で他人の死は自分の世界における一出来事にすぎないが、自分の死はそうではない。自分にとって、自分が死ぬことは、世界(私の物語)が終わることといわば同じことである。つまりこの意味では、私の死は「比類なき死」であると言えるだろう。

自分の死についてのこのふたつの捉え方は、自分の死というものが「自分という存在が存在しなくなること」に他ならないゆえに、まさに、自己の存在の二つの捉え方と相即している。

客観的には(一般的には)… 私は世界の中の多の中の一存在者、ありふれた存在
        私の死は世界の中の出来事のひとつ、ありふれた死
主観的には(私にとって)… 私(の存在)=世界(の存在)、比類のない存在
        私の死=世界の終わり、比類のない死

以後、この主観的に捉えられる自己を
 〈私〉
と表記する(ちなみに、永井均の思想内容とは無関係)。これは、ごく大づかみには、伝統的に超越論的主観、形而上学的主観と呼ばれてきたものであって、カント、ショーペンハウアー、ウィトゲンシュタイン、フッサールの思想などと基本的に近い考え方である。
いわば、「世界は観念である」というとき、それは「世界は〈私〉の観念である」し、
「世界は表象である」というとき、それは「世界は〈私〉の表象である」し、
「世界は意識世界」であるというとき、それは「世界は〈私〉の意識世界である」。
この〈私〉は世界内の一存在者を意味しない。
例えば、世界内の一存在者としての私は当然生物であり、いつかは死ぬだろう。
そして、私は私の死後、私の存在しなくなった世界を想像することが容易にできる。
しかし、その想像された世界は、まさに〈私〉の想像世界である。
すなわち、想像されうる世界は、「〈私〉に想像しうる世界」のみである。
私が思考し、知覚し、信じ、想像しうるのは、〈私〉の世界のみである。
逆に言うと、この〈私〉の世界以外の世界を思考することは論理的に不可能である。
なぜなら、任意の事実pについて、命題pが有意味である限りにおいて、「私はpということを考える」という命題も有意味であり、そうでなくてはならないからだ。
それゆえ、私の存在しない世界もまた、〈私〉の世界なのである。
人は物心ついてから死ぬまで、〈私〉の世界以外の世界を知ることも考えることもできない。

客観的世界というのも、この〈私〉の思考する世界であることに何ら変わりはない。
つまり、通常の「主観vs客観」という枠組み自体、〈私〉の世界を前提としている。
科学的命題の検証も、主観的認識であり、「誰かの検証」「誰かの認識」であり、それは〈私〉の世界の中の一出来事でしかない。
客観的認識によって得られる客観的世界そのもの、などというものは、ありえない。
客観的世界とは無視点記述された世界であり、認識はいかなる認識であろうと主観による認識であって、主観的認識である。
客観的世界が認識されるにせよ、それは主観による認識によってしか認識されえない。
主観によって認識された世界は、当然有視点的記述によって描写されるものである。
それ以外に、世界が知られることはありえない。
世界は、主観による認識によってしか知られえない。
認識とは、すなわち、主観による認識なのだ。
したがって、主観によって認識されえない世界などというものはナンセンスである。
その意味で、客観的世界というのは、多様な主観的認識をひとつの図式へとまとめあげる世界記述の枠組みである。
ひとつのりんごをさまざまな角度・位置等々から見るとき、その認識そのものは写生画のように、常に有視点的な記述となる。
それをひとつの客観的対象のある角度・位置から見た部分的見え姿として記述するとき、客観的対象という存在が措定される。
もちろん、それによって世界はうまくとらえられるのであるが、だからといって、誰もその客観的対象を知覚できないことに変わりはない。

誰も見たことがない、知覚できないということであえて言えば、客観的世界はひとつの論理的虚構、あるいは仮構である。
その意味で、我々が語り、思考し、存在すると考えている世界は、第一次的に〈私〉の世界であって、それは主観的世界である。
我々が直接経験でき、知っている世界とは、パースペクティブ世界であり、色・味・硬さ・におい・音等、五感によって得られるクオリアの満ちた主観的・有情の世界であって、科学(物理学)の記述する無味無臭無音の客観的・無情の世界は、あきらかに主観的世界からその主観的性質を捨象し、いわゆる第一性質によって論理的に構成されたものである。
客観的物世界がまず存在して、その後で主観が意味を付与するのではない。逆だ。
我々が直接知覚可能な唯一の存在である有意義な主観的世界から意義を捨象し、論理的に構成されるのが客観的世界なのである。
動物も、昆虫もデカルト的空間の中の住人ではなく、徹頭徹尾、彼らにとっての環境世界は、価値づけられ分節された有意義世界である。彼らは客観的世界を持たないと言ってもいいだろう。

独我論を理解できない人の典型は、客観的世界の存在を前提し、すべてをその枠組みの下で解釈することによって、観念論、独我論の主張をナンセンスとみなすものだ。
では、客観的世界とは何なのか?
「客観的世界」という語で我々人間が意味し、それについて思考可能なものだろう。
それは例えば物理学が描出する素粒子論のミクロ世界のように、直接知覚することができなくとも、我々人間主観が間接的にせよ、とにかくいかなる仕方でか認識可能なものでなくてはならない。
いわば、何等かの方法で〈私〉の知るこの唯一の主観的世界へと、その情報はもたらされねばならない。
いかなる主観によってもいかなる方法によっても認識不可能な世界が存在するなどということはナンセンスでしかない。
いかなる主観によっても認識不可能なら、それは端的に存在しないということを意味する。
つまり、それが存在すると言える限り、認識可能でなくてはならない。
そして認識とは即ち主観による認識である。
主観によって認識可能であること、それがいかなる存在者であろうと、それが存在者である限り有さねばならぬ形式的性質であり、それが存在者の、そしてその全体としての世界の限界・条件である。
ゆえに客観的世界もまた、主観的に認識されるものでしかないのであって、その意味では、
 客観的世界⊆主観的世界
なのだ。
いわば、客観的世界もしょせん主観的なのである。だからこそ、映画『マトリックス』や『水槽の中の脳』のような思考実験が想定可能なのだ。

あなたが死ぬとき、あなたの世界は、そして、あなたにとってのすべての世界は消滅するだろう。
いや、そんなことはない。自分が死んでもこの客観的世界は存在する、とあなたは言う。
では、問おう。
あなたは、あなたの死後、客観的世界が存続しているということをいかにして知りうるのか。
そう信じているに過ぎないではないか。
直接経験できないものについて、あなたは、ある・ないとなぜ言えるのか。
死後の世界が存在するか否かを、生きている限り経験できないのだから知りえないのと同様、あなたが知覚経験していないものがあるかどうかについて、知ることは不可能である。
主観的にそう信じているだけである。

あなたは、あなたにとっての〈私〉が死ぬとき、「世界が存在する」ということに意味を与えることはできない。
それはあなたには検証不可能なことであり、あなたには無意味でしかない。
世界とは徹頭徹尾〈私〉の世界だからである。
念押しで付言すると、それは“えぴめてうすの世界”とか、“hiroの世界”といった個別の世界が有する特質ではない。
あなたが死ぬとき、あなたの世界は消滅し、何も残らない。
そして、このことはあなた一人についての事実ではない。
それがだれの世界であろうと、それがいかなる世界であろうと、それは唯一存在する主観的世界、すなわち“〈私〉の世界”であり、それ以外に世界は存在しえないから。

3日前 No.461

★30JjgxOVKX_m9i

或る独我論者は、〈主「観」的世界〉から、身体をどのように見ているのかしら?

3日前 No.462

マジカルモンキー ★IkTe7dpHmE_WcJ

このテーマにそって、自分を考えると、俺は相当な独我論者である。

じゃ、客観的に考える事ができない理由はなんなのか?

『 他人と自分の境がない方が、なにか安心をするから 』だ。

例えば、アイドル、チームのリーダーなどは、境がないから。成立する存在なのだ。

ある日突然、アイドルをやめ、リーダーをやめると、一気に、他人と自分の境がない方が、利点が多くなり、

『 客観的な思考になる 』

しかし、不思議なことに、客観的な思考は、孤独を生み出すのに、この世界では上手くいくのである。
逆に、主観的な思考は、孤独から解放されるのに、この世界では上手くいかないのである。

この世界は、孤独と言う前提で、友達と仲良くなっているのだね。

3日前 No.463

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>462

質問を少し変えるけど、
超越論的主観の観点から自分の身体をどう見るか?
という問いであれば、答えは次。

身体的自己であり、世界内存在として自己。

あくまで身体に即して言えば、
それは主体でもあり客体でもある、両義的なるものだ。

>>458
全然わかっとらんね(笑)

3日前 No.464

★30JjgxOVKX_m9i

>464

独我主義って、超越論的主観のことなの?

2日前 No.465

★30JjgxOVKX_m9i

>460
「一匹の蠅がブンブンとうるさく飛んでいます」

うさぎちゃん

「一匹の蠅がブンブンと飛んでいます」っていうのはいいんだけど、
「うるさく」ってうのはどういうことなのかしら?

1日前 No.466

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>465

ここで私が採っている独我論は、

独我論的自己=超越論的自己

とする立場ってこと。

んじゃ。

1日前 No.467

★30JjgxOVKX_ZFe

『知覚の現象学』の訳者の中山元氏はこんなことを言っているよ。

「私は私であって決して他人にはなれない。他人の実存は私にとって、私の実存と等しい近さ、密度をもつことはありえな。他者の心性は私にとって想像の対象でしかありえぬ。しかし私と他者とのこの距離は、メルロにおいては他者の存在を疑わしいものにすることでも、独我論の論拠でもなかった。むしろ、他者の私からの距離こそ、他者を他者たらしめる根源的経験の事実なのであり、私にとって想像はできても絶対に直接経験しえぬものであればこそ、他者の世界経験は私のそれと補いあい移行しあることができるのである。私の他者経験は派生的なものではない。私にとって世界経験がコギトと同等であり、むしろコギトを媒介するように、他者経験も根源的なものなのである。世界経験が不可疑であっても事物の知覚が錯覚、誤謬にさらされているように、他者一般の存在は確実であっても、個々の他者について私はいろいろな思い違いをすることがあろう。しかし私自身の感情についてすら、錯覚的意識の危険にさらされているのである。そしてこのような誤謬の可能性、経験の不十分性こそ、私と私をとりまく諸事物、ならびに他者の存在の厚みを証するものなのである。訳者は他者との「共存」(coexistence)の経験こそ私の存在根本事情であることを、本書より学んだのである。デカルト的コギトは、世界と他者とに向って超えられなければならない。」

わたし、こっちのほうが自然な感じがするんだけど。

14時間前 No.468

★30JjgxOVKX_ZFe

>468ごめんなさい。訳者の名前間違えちゃった。

中島盛夫氏です。

大変失礼しました。

14時間前 No.469

えぴめてうす ★81zd2OkS4C_BqV

うさぎさん

 こんばんわ。

>独我論についてのスタートから間違っておられるのでは?


 私は、哲学の専門教育を受けた人間ではありません。素人にすぎませんが、 >>427  で書きまたように、永井さんの本を読んで、独我論の議論に興味を持ちました。

 本スレでは、原則、下記の定義を用いるということ( >>0 )で、自分なりに考えてきました。 >>427  -  >>453

>>0 から抜粋】
「客観的存在に対する常識的見解」
 私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。

「独我論からの反論」
 これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

【本題】
 独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
 出来るとしたら、その方法は?
 あなたの独我論に関する考えを教えてください。

 で、いまの時点では、 >>427  という考えなのですが、私は、独我論を「乗り越える」という意味がわからず、特に不可解な「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」を論破できないかと思っています。そのためのとっかかりの問いが、 >>453  だったのです。

 このスタート、やっぱりまずいですか?('◇')ゞ ご指導ください。

10時間前 No.470
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