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独我論を乗り越える方法

 ( 哲学掲示板 )
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すぴのざ ★0gLpHaJ.DeM

【レスする前に】
このスレで使う言葉の意味は辞書、wikipediaに記述してあるものを使用してください。2つに記述されていない意味を使用する場合は、どのように定義しているかを明示してください。

【独我論とは(wikipedia「独我論」から転載)】
概念

「客観的存在に対する常識的見解」
私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。


「独我論からの反論」
これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。

このような客観的事物の認識の不可能性は、バークリーやカントなどの観念論に代表される(もっとも、カントは、このようなの不可能性を認めた上で、あえてそのような認識前の存在(物自体)を肯定する。バークリーも、他者や神の存在を認める以上、独我論者であるとは言えない)。

ウィトゲンシュタインにおいて、自己と他者の非同一性の考察から出発した、世界の人間のうち、一人だけ本当の私がいて、他の人間は意識的な存在者ではあっても、この私ではない。すなわち、本当の私は自分一人のみであるという主張。また、彼においては「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現される。

バートランド・ラッセルによれば、非演繹的推理によって自己の直接的経験を超え出ることを認めない限りは、瞬時における自我だけが存在するとする瞬間の独我論を容認することは避けられないといわれる。

古来はその世界観(世界の存在を通して)を批判されていたが、現代ではその「私」とは何であるかという形で批判を受けている。


【本題】
独我論は論破または乗り越えることができるのでしょうか?
出来るとしたら、その方法は?
あなたの独我論に関する考えを教えてください。

参考書籍などを記載してもらえるとありがたいです。

2007/08/23 10:38 No.0
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ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1042,1043,1044,1045,1046

>今回は、けっこうたくさん書いてしまったんだけど、論点を分けて、それぞれある程度独立したものとして述べます。いや、ちょっと書きすぎて、整理がつかないというか。系統立てるのが難しいので、勘弁してください。


長いね、長すぎるね。こんなに長いのは、勘弁できないよ。よく、書けるよな。どう、応答せいというのだろうか?途中までは、もしかして、こういうことかなという感じもあったのだが、補足でやっぱり分からなくなった。シカタがないので、のんびり応答しようと思う。ソコんトコ、ヨロシク。

4日前 No.1055

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1042

>まず言っておくと、前も指摘したと思うが、あなたのここでのような「抽象」「具体」という語の使用は、通常の辞書的意味とは異なる。なので、私の「具象⇔抽象」の辞書的意味とは、全く逆。このことの是非は、問うても意味がなさそうだし問わない。しかし、以下の私の発言は、「具象」「抽象」を通常の意味で用いるので、あなたとは逆だということに留意して読んでほしい。


そのようなことが書けるのは、日頃から言葉の意味を突き詰めて考えていないことの証左である。ま、貴方がそういった言葉を「通常の意味」で書こうと、決して俺が書いている意味とは「逆」とはならないよ。補足の内容から、かなり、素朴実在論的な意味だと解釈している。(補足を読むまでは違ったが)俺が書いてる言う具体あるいは具象は、独我論的あるいは現象論的意味、つまり、「俺が見ているこれ、聞いているこれ」が具体的何かのことだ。カバーする範囲や視点はは違うかも知れないが、逆というほとでない。それくらい分かりそうなもんだが。ま、シカタがない。

4日前 No.1056

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1056

ん?

>そこは、まさに、抽象の共有(西田先生の書いた文章の共有)はできるが、具体の共有(西田先生が何を考え、思想して、あの文章を書いたか)はできないということを書いている。


私だったら、この「抽象」を「具象」、「具体」を「抽象」って書く、ってな意味だよ?

4日前 No.1057

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1042

>ここで私が言ってるのは、「完全な三角形」は具象的対象ではないから、見れるわけがない、ということ。見れるのは、具象的対象であるところの、その記号表現。幾何学的対象はイデア的対象、すなわち抽象的対象であり、これの共有は、具象的記号表現として与えられた(知覚可能な)定義・規則に従って、実際に幾何学ゲームを行いうることによる。このゲーム行為は現実に行われる行為であり、書かれた証明は知覚可能である。【補足説明】私は、ピタゴラスが行ったのと同じ三平方の定理の証明を、具象的な記号表現を用いて自分でも実際に行いうるようになることによって、三平方の定理という幾何学的真理(抽象的・イデア的真理)を、ピタゴラスと共有できる。


まあ、そりゃ、そうだろうな。完全な三角形など「存在」しないからな。だが、その概念は共有している。もう、死んじまったピタゴラスと共有できると信じられると思えるほど共有できる。俺が、「抽象的なものは共有できる」に与するのは、このようなことに依拠するのである。あなたは、具象的なものは共有でき、抽象的なものは共有困難という「立場」(何度も繰り返すが、俺は立場って言葉は嫌いなんだ)らしいが、この書きぶりを見ると、俺の言わんとすることは、だいたい、理解できてるということが分かるよ。

4日前 No.1058

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1057

まだ、書いてる途中なんだがな。ま、いいや、そういう意味ってことで理解してるから大丈夫だよ。だが、逆ではない。また、「西田先生が何を考え、思想して、あの文章を書いたか」は抽象ではない。我々が直接的には知りえない他者の思想である。その「他者の具体」は、我々は推定するしかない。(もちろん、ふくろうさんが、他者の思考を「直接的」に感知できる能力をお持ちなら、これは違うがね。少なくとも俺にはその能力はない。)

4日前 No.1059

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1059

ちょっとねさんが、そういう意味でそれら概念を使っていることは、こちらも了解しているから、とりあえずOKってことで。

4日前 No.1060

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1058
えへへ、書いてる途中で悪いんだけどさ、

>だが、その概念は共有している。もう、死んじまったピタゴラスと共有できると信じられると思えるほど共有できる。


これがわかっていなんだよな。
概念なりイデアは、ピタゴラスの頭の中にあるんじゃないのよ。
私の言っているのは、まさに具象的証明においてのみそれはあるってことだよ。
だから、信じる必要なんてないの。

このイデアに対する考え方の、ちょっとねさんと私の考え方の違いは、
ほぼ、プラトンとアリストテレスのイデアに対する考え方の違いに近いんだよ。

4日前 No.1061

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1042

>1+1=2という数学的(抽象的)真理を私が多くの人と共有しているということの必要十分条件は、私が具象的な形で実際にこの計算を行いうることである。

多くの人が、ある計算のやり方を共有していると言えるのは、その人たちが実際にその計算を行って、具象的に同じ答えを書ける(言える)ときである。知識を共有しているかどうかを確かめるためには、他人の頭の中をのぞく必要は全くない。それゆえ、推定する必要もない。一致は、実際に、具象的レベルで直接的に確認できる。A:「目の前にりんごがある」B:「うん、目の前にりんごがある」この語られた(表現された)具象的テキストの一致が、すなわちAとBの判断の一致であり、判断を共有している、ということである。そして、この具象的テキストの一致は、直接知覚できる。具象的なものとは、直接知覚可能なものである。

そこら辺は俺とは見方が違うかな。「具体的な計算ができる」ことがそのまま「数学的真理を共有している」ことにはならないよ。なぜなら、公式を「暗記」すれば計算は可能だから。暗記しさえすれば、その中身を理解してなくても、計算は実行可能であり、その意味では数学的真理を共有しているとはいえないのである。そのような方法では不十分だから、通常は口頭試問という手も使用される。ところが、これでまともに答えられないとしても必ずしもそれを共有していないとは限らない。相手が、そのようは数学的真理に対して、言葉を与えていない可能性もあるから。これは、「言語明瞭、意味不明瞭」なやつと、「しどももどろのくせになぜか分かってるぽい結果を出してくる奴」の違いだね。だから、そのようなことは、やはり、推定の部類に属するのである。「テキストの一致」が「判断の一致」のわけがないでしょう。これ、ジョーシキ。哲学のての字も知らない人だって分かってるよ。

最後の一文

>「完全な三角形」「イデアとしての三角形」は具象的ではなく、抽象的対象であり、知覚できない。思考の対象ではあっても、知覚対象ではない。


は、そのとおりだから、それでいいでしょう。だからといってその前の文章が正しくなるわけではない。

とここまで書いて、やっと >>1042 に対する応答が終わった。 >>1043>>1044 が本丸のはずなんだがな。その側に来るだけで、くたびれたよ。ちょっと休憩。

4日前 No.1062

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

ザビビのふくろうさん

>>985

>知覚可能なのはあくまで知覚像・表象・現象であって、客観的対象(実在)そのものではないということ。

>で、私は、その立場に立つのであれば、他者と何一つ共有可能なものがない、とするのが整合的主張であると考えます。


 何をもって、共有というかが問題ですね。
 たとえば、こういうのはどうでしょう?
  テレビのつけ方を取扱説明書で読んで、つけたらついた。
  他者も同様に読んで、つけたらついた。(と私には見えた。)
  これは、他者とテレビのつけ方を共有したということである。

>つまり、あなた方の立場=認識論的独我論の立場だと、〈私の世界〉という現象世界をのみしか主観は知りえないのであるから、その外部存在者である他者と共有可能なものなどあるはずはない。

>端的に言えば、あなた方の世界に他者は存在しないのだから。

>あなたがたが思い描く他者は、あなたの表象する他者というイメージにすぎないのだから。

>要は、言葉のやりとりだって、完全にモノローグの世界であって、自己満足しかないはずです。他者との共有などありえない。


 私が典型的と思う独我論の主張です。ここ(完全モノローグ)がおかしいんじゃない?とずっと言っているわけです。
 ちなみに私の二元論では、実在を認めますから、イメージに過ぎないわけではなく、他者は実在です。実在が私にはそう見える、そう聞こえる、そう感じられるのです。
 だから、私のまわりは、他者を含む実在で埋め尽くされています。
 共有する他者も存在し、その他者と共有も可能です。ただし、悪魔に欺かれていない限り。

4日前 No.1063

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1043

>これで、私はちょっとねさんと、哲学におけるテクスト解釈についての考えが全く違うということを改めて認識した〜だから、「どう整合とるかは西田先生に聞いてよ、って感じ。」になるのである。決して、安易ではない 〜いや、まさにそれをこそ、「安易」と私は言っている。「俺の解釈」などと呼ばれているのは、私に言わせれば、思考を放棄するための理由付けにすぎない。


でたね〜、テクスト解釈。なんで、この手の人たちは「テクスト」言いたがるかな。「安易」や「思考の放棄」もこの手の人たちがよく使用するタームだね。そんなことだから、理解が得られないんじゃないのかなあ。


>これまで、この違いについての認識が不十分であまり意識していなかっため、私の文章もミスリーディングな表現が多々あった可能性がある。それを訂正する意味でも、以下では、この点について掘り下げたい。


可能性?何を書いてるか分かんないね。どうして、素直に「私の書いてきたことは全くトンチンカンでございました。誠に申し訳ございません。今後は、態度を改め、真摯に対応して参りますので、ご容赦頂きますよう宜しくお願い申し上げます。」と書けないのか。


>我々の考えがどう違うかを説明するために、便宜上、上記引用文に示されたちょっとねさんのテクスト解釈についての考えを、「浅薄なテクスト解釈論」、私ふくろうのテクスト解釈についての考えを「深いテクスト解釈論」と呼ぶ。たぶん、ないとは思うが、このネーミングにもし抵抗があるとしても、あくまで「便宜上」なので、気にしないようにね^^


便宜上?はあ?ま、俺は浅薄かも知らんが、自分の考えを「深いテクスト解釈論」って書いちゃうなんてどうよ?なんて、ずうずうしく、傲慢なふくろうなことでしょう。ヤキトリにしちゃうよ。ふくろうっておいしいのかな?


>で、ちょっとねさんの浅薄極まりないテクスト解釈論では、『善の研究』を解釈することは、「西田先生が何を考え、思想して、あの文章を書いたか」を推定すること。だが、それは原理的に西田本人にしか知りえない。だから、いくら解釈しても、それが当たっているかどうかなんて、どうせわからない、と考えるわけだ。この意味で、「解釈にすぎない」と言われている。


それは、本質的な部分なんだよ。解釈は解釈にすぎないということは強調しすぎても強調しすぎることはない。(なお、解釈をテーマにする際に、これを強調することは場違いなものだ。だが、解釈を生業にするなら、その根本はしっかりと捉えておかなければならない。)


>他方、私ふくろうが依拠する深いテクスト解釈論では、解釈とは、そのテクスト自体が含み持っている意味、あるいは作品が示す意味を解釈することである。この立場で云う「西田の思想」とは、まさに『善の研究』という作品そのものが表しているものであり、西田本人の頭の中にあるものではない

〜テクスト読解とは、その作品そのものが蔵している志向的意味を解明すること、顕わにすること、である。たとえば、モーツアルトの作品を演奏すること、それもこの意味で作品を解釈することである。

まだ、深いテクスト解釈論などというかな、この、ふくろうは。重要な考え方は、「解釈とは、そのテクスト自体が含み持っている意味、あるいは作品が示す意味を解釈することである。この立場で云う「西田の思想」とは、まさに『善の研究』という作品そのものが表している」ってことである。この考え方そのものは、かなり脆く危なっかしい点を含みながら、解釈する人が西田先生でない以上、シカタない部分もあるようにも思う。だが、哲学的著作を芸術作品の評価のようにアナリーゼしてよいものかどうか。また、志向的意味と書いているということは現象学的な感じもするが、その「志向的意味」とは何を意味しているつもりなのか。俺は「志向」って言葉も嫌いなんだ。その手の連中が、得意になって使うタームだからな。

結論としては >>1043 も本丸ではなかったな。

4日前 No.1064

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1044

>以下で、深いテクスト解釈論の説明もかねて、この立場を前提して少し話をする。


まだ、「深い」ゆうか、この、ふくろうは。


>芸術作品について、「完成度の高い作品」といった評価がなされることがある。

これは、作品自体が示しているそれ自身の意図(志向的意味)――それが作品の存在意義――を見て取り、それを表現するのに、必要十分の形を作品が有している、ということを意味する。逆に、「完成度が低い」というのは、作品自体が志向するその意図を見て取り、現段階の作品がその意図の表現として、未だ不十分であること、無駄・欠如等があることを意味する。

概論として、素直に受け取っとくよ。


>例えば、テレビでも見たことがある人もいるのではないかと思うが、俳句や生け花の師匠は、初心者である生徒の作品の意図・意味を、その作者である生徒本人以上に見て取って、それへとむけて完成度を高めるという方向で手直しする。つまり、これは生徒自身の頭の中の考えを推定しているのではなく、作品そのものが有している志向的意味を師匠が見て取り、手直ししているのである。だからこそ、場合によっては、師匠によって手直しされた作品を見て、生徒自身が「ああ、そうそう。自分が表現したかったのは、まさにこれだ!」と気づくことさえありうるのだ。


アンタ、プレバトの視聴者、だねえ。それも、夏井先生のフリークだ。


>以上のような意味で、『善の研究』もまた、「完成された作品」ではない。そこには矛盾も含まれ、不必要・欠如した部分もあるだろう。


そりゃ、そうだろうな。


>前レスでも述べたが、一方で判断を純粋経験ではないと言い、他方ですべてが純粋経験だとする一元論的世界観は整合的ではないのではないか?ということは、誰でも思うことだろうし、藤田正勝によれば、こういった趣旨の批判を早くも高橋里美が行ったらしい。西田はそれに答えたが不十分だったと藤田は書いている。そして、こういった問題意識が西田のそれ以降の思索の進展に関わっていたということも間違いないと思うし、実際、西田自身がこの点について『善の研究』を書いた当時、自覚的には明確でなかったと言えるかもしれない。


そういうこともあるだろうな。


>私が言いたいのは、だからと言って、この問題を自分なりに解明しようとすることは、しょせん正しいかどうかわからない解釈にすぎないのではなく、まさに『善の研究』という作品自体の意味の解明という、哲学的には重要な意義を有する、ということだ。つまり私のテクスト論からは、極端に言えば、芸術事の師匠が本人以上に作品の意義を理解して手直しできるように、私の『善の研究』についての意味解釈のほうが、西田のそれ以上に正しい可能性が原理的にはある、ということ。だからこそ、私は高橋里美の批判に対する答えを、私みずからだそうとしている、あるいは西田に代わって擁護しようとしているとも言えなくはない。先に示した私の解釈は、そういう意図も含むものだ。


否定はしないよ。著作が何を言わんとしてるかを明確にすることは大事な研究だ。だが、そのことそのものが、「テツガクすること」とは俺は思わない。しかし、それが、「テツガクすること」を導かないとも思わない。そういった意味でも大事なことだ。異論はない。


>再度、書き直してみる。「このりんごは赤い」このように主語‐述語形式(人工的仮定)で語られた(思考・判断された)世界(事実)は、対象化・客体化された世界(事実)であり、既に純粋経験の世界(実相)ではない。しかし、この語り(思考・判断)そのものは、純粋意識における現象という意味で、純粋経験である。その意味では“〈私〉の語り(思考・判断)”である。しかし、この思考について、再び対象化し、「私は“このりんごは赤い”と思っている」と語るなら、この語られた限りの思考は対象化されており、“「私」の思考”となる。これは純粋経験ではないのだ。しかしながら他方で、この語り自体はやはり純粋意識における現象、すなわち純粋経験である。以下、続く。というような、いわば矛盾をアウフヘーベンする、弁証法的論理構造があるのだよ。


ふくろうさんの思想は、よく分からないな。必ずしも、判断は純粋経験ではないと思ってはいないということか。俺は、「アウフヘーベン」とか「弁証法」とか言葉は嫌いなんだ。そんな簡単に矛盾を解消できることなんかできるわけがないだろう。矛盾は矛盾のまま、抱え込まなければならぬ。それが生きるということ。矛盾なく、世の中を渡っていけると思うほど、お目出たいことはないじゃありませんか。そして、そういうことと、腹に落ちれば、矛盾も決して矛盾ではないのであります。(小林秀雄風に)

4日前 No.1065

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1045

>「そんなこと言うけど」ってちょっとねさんは言うけど、言ってるのは私じゃなくて、西田だからね。 >>973 で引用した箇所では、はっきり判断は純粋経験ではないとみなされているのは事実だ。あなたは、自分の引用した部分を根拠にして、判断も純粋経験だって言いたいわけだけど、実際「判断は純粋経験ではない」とされているところについて、きちんと解釈を示せない。


テクスト解釈してるのは貴方でしょう。だったら、その解釈に対して貴方が責任とらないと。「言ってるのは私じゃなくて、西田だからね。」な〜んて逃げてないでさ。「はっきり判断は純粋経験ではないとみなされている」ってのは貴方の解釈でしょ。西田先生が何を考えていたかではない。俺的解釈は、判断は純粋経験でないとするのは、導入の話、あるいはジェームズの純粋経験の話である。そういう話をしないと純粋経験を理解できないからな。その上で、「如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡(すべ)ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。」 がズドンとくるのである。これこそ、西田思想。マチガイない。


>いや、どういう意味よ?(笑)「判断のようだが、そうじゃない」と言っておきながら、三つの文のあとで、「だが、判断でもある」って、ただの論理的矛盾じゃんこんなもの、なんの説明にもならないよ。三つの文、これが説明なのか?例えば、次のようなのなら説明って言えるけどさ。

「円柱は円でもあり円でもない」「矛盾じゃないの」「矛盾ではない」「なぜ、どういう意味で矛盾じゃないの?」「上から見たら円。横から見たら長方形。この意味で、円柱は円であり長方形である。ゆえに、円柱は円であり、かつ円でない、のだ」「了解」だけど、あなたのは、なんの説明にもなっておらず、ただの矛盾発言にすぎない。

繰り返しになるが、「矛盾なく、世の中を渡っていけると思うほど、お目出たいことはないじゃありませんか。そして、そういうことと、腹に落ちれば、矛盾も決して矛盾ではないのであります。」と書いておこう。


>ちょっとねさんが言っているのは、西田の次のような発言があるからなんじゃないの?「判断が漸々に訓練せられ、その統一が厳密となった時には、全く純粋経験の形となるのである。例えば技芸を習う場合に、はじめは意識的であったこともこれに熟するに従って無意識となるのである」技芸における行為が無意識的に行われるようになった段階では、純粋経験としての判断と言いうるかもしれない。しかし、これは、意識的判断によりなされる技芸(行為)は、未だ純粋経験とは呼べないということを前提している。したがって、その意味では、不整合性を完全に払しょくできているとは言い難いだろう。


それはある。だが、それも導入に過ぎない。最終的には、「しかし余は凡(すべ)ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。」が来るのだから問題ないのだ。これは、純粋経験なる概念を経験し、深化させる過程を示している。中途と、最後では不整合があるのは当然だ。その意味では、「純粋経験は判断を含まない」が誤り、あるいは、純粋経験深化途中の方便である。これが俺の解釈。不整合などない。

4日前 No.1066

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>0 「独我論からの反論」への反論、そして、独我論を乗り越える。

>これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。

>このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。


 「認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない」のである。そのとおりだ。
 よって、「私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)」とも言うことはできない。認識していないものについて、言及することはできないわけで、当たり前のことである。消滅するのではなく、言及できなくなるのである。

 それに従うと、 >>0 「独我論からの反論」は、次のように書き換えられる。

 私の認識とは無関係な事物の存在「への言及可能性」を否定する。リンゴが存在する「と言える」のは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた「存在すると言えなくなる(存在するかどうかわからない)」。全ては私の意識の中「で」のみ「認識可能とされ」、私の意識を離れては何物も存在「するとは言えない」。

 同様の観点で、「客観的存在に対する常識的見解」も次のとおり修正すべきである。

 私たちが事物を認識するとき、何らかの「直接認識できない物自体」が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、『私はリンゴを見ている』というとき、「リンゴ自体」があり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。
 「そして、リンゴを認識していないときは、リンゴが存在しているとも、していないとも言えない。私が見ていないが、意識しているリンゴがほんとうに存在しているのかどうかは、知識と経験により一定の確度で存在しているであろうと推測できるのみである。」

 かくして、 >>0 の独我論は、二元論に統合されるのである。

4日前 No.1067

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1046

>ちょっとねさん、補足しておきます。


実はね、この補足は、俺的理解からは、余計なものだった。


>【認識についての私の立場からの説明】

認識とは、主観外部の存在者(実在・具象的対象)である認識対象を、主観が知覚し、それによって認識内容(知覚像・一人称記述された情報)を得ることである。
しかし,この認識内容は,主観内部に知覚像あるいは情報として取りこまれ記憶されるだけでなく,言語モデルとして具象化=表現され,物理的(具象的)データ化もなされうる。このとき、次が成り立つ。
 認識対象=知覚対象=実在(具象的)
 認識内容=知覚像=現象(表象)
 認識内容=言語モデル=物理的データ
たとえば、目の前のリンゴを認識するとき、知覚対象のリンゴは実在のリンゴそのものである。知覚によって得た認識内容である情報、知覚像は、主観内部の現象である。また、リンゴの赤い色を知覚するとき、その知覚対象である赤という色は、実在のリンゴが有している性質である。それが主観内部に色の視覚イメージとして受け取られるのが認識内容であり、これは表象(現象)。以上を前提して、次のちょっとねさんの見解にコメントする。

おれは、てっきり、これまでの、ふくろう的深いテキスト解釈論で、共有を説明するのかと思っていたよ。具体的対象(あるいは具象的対象)は認識内容であり、表象もしくは現象であって、直接知覚できるもので、その意味で「A:「これは、リンゴだね」B:「そうだね、これはりんごだ」」も直接知覚可能なものであり、「共有している」とはそのようは現象のテキスト解釈として成立する。その意味で、この共有は具象的共有である。(俺的には、それは解釈を通じてのものだから、抽象的共有となる)そうだったら、まあ、理解できるかなと思っていたが、具象とは実在のことだって書いているじゃないか。それじゃ、とても、認められないね。認識が実在の影である可能性は否定しないが、(俺自身もそういう見方をしてるが)、それがホントにそうかどうかなんて、認識内容からだけじゃ、証明できないでしょう。というわけで認識対象=知覚対象=実在(具象的)は不要で、認識内容=知覚像=実在(具象的)としさえすればよい。西田先生だって、「意識現象こと実在である。」って書いてるじゃないか。そんなこと前提するなよって話だね。


>ここでは、認識対象と認識内容の区別がなされていな〜認識の一致が直接知覚確認される。


上記の理由により、ゴタクである。

以上

4日前 No.1068

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1057

> >そこは、まさに、抽象の共有(西田先生の書いた文章の共有)はできるが、具体の共有(西田先生が何を考え、思想して、あの文章を書いたか)はできないということを書いている。


>私だったら、この「抽象」を「具象」、「具体」を「抽象」って書く、ってな意味だよ?


字義と逆じゃん。(笑)

「西田先生の考え」を抽したものが「西田先生の書いた文章」じゃん。
「西田先生の考え」を「象」とするなら、それを抽したものが「抽象」

4日前 No.1069

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1051

>これはただの条件反射であって、純粋経験ではない〜精神現象全般が純粋経験に含まれるという意味であれば、上記条件反射も純粋経験に含まれるのだろう。そういう意味であれば全てが純粋経験であると言える。そこに自覚があるかないかの違いでしかない。純粋経験は特殊な経験ではない。我々は純粋経験に於いて成立しているのだから、全ては純粋経験である。そのことに無自覚であるからこそ、この経験は「私」が経験していることだと言えるのである(もちろん、自覚した上で会話をするためにあえてそのように語ることも可能だ)〜“無自覚に純粋経験を遂行している”という意味は、全意識現象が純粋経験であるということを意味しているだけではなく技芸者が無自覚に純粋経験を遂行するとき、それは単に全意識現象の場(純粋経験)に在るというだけではなく、その場としての純粋経験の本質に近づいていることを意味する。これは、フィクションが現実の中に存在していることに無自覚ということと、フィクションの中からそのフィクションそのものを創出している現実の本質に無自覚に近づいていくことの違いである。


純粋経験を自覚しているか、自覚していないかが、純粋経験の有様に与える影響について、どのような差異があるのか詳しく語ってみようか。俺的は自覚しようがしまいが、純粋経験は純粋経験なんだね。だが、思惟すら純粋経験とするには、構図の変更が要請されると思っている。貴方の「自覚」がそのような構図の変更に該当しうるかどうかが目下の興味である。

4日前 No.1070

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1061

>概念なりイデアは、ピタゴラスの頭の中にあるんじゃないのよ。私の言っているのは、まさに具象的証明においてのみそれはあるってことだよ。


これは詳しく書いて欲しいところである。

4日前 No.1071

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

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4日前 No.1072

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>985 を再読し、齟齬箇所を調べてみる。

>あなた方の立場=認識論的独我論の立場だと、〈私の世界〉という現象世界をのみしか主観は知りえないのであるから、その外部存在者である他者と共有可能なものなどあるはずはない。


「外部存在である他者」… ここがおかしい。 私のいう他者は、〈私の世界〉に現れる現象の一つ。
この「他者という現象」は、リアクションする。
例えば、私の中で「机の上に置かれたりんご」という現象が現れているときに、「そこにりんごがあるね」と言うと「あぁそうね」とか「それがどうした?」とかリアクションしてくる。
私のいう「共有」とは、このリアクションの「素直さ」のこと。


>端的に言えば、あなた方の世界に他者は存在しないのだから。

>あなたがたが思い描く他者は、あなたの表象する他者というイメージにすぎないのだから。


この2行は、全くそのとおり。I agree.


>要は、言葉のやりとりだって、完全にモノローグの世界であって、自己満足しかないはずです。他者との共有などありえない。


「モノローグ」というのは、比喩としては適切ではない。モノローグでは相手のセリフは喋らない。(この点は あまり重要ではない。)


>私は、その立場に立つのであれば、他者と何一つ共有可能なものがない、とするのが整合的主張であると考えます。


ふくろう氏が言う「他者」が「外部存在としての他者」なら、『そもそもそんなものは存在しない(不明)』とするべきではないか?
「他者と何一つ共有可能なものがないとする」という言い方は、「他者が存在する」のが前提ではないか。
だとすると、それは「外部存在としての他者」ではなく、「内部現象としての他者」と解釈すべきだろう。


>ところが、ちょっとねさんもMobiusさんも、抽象的なものは共有可能だと認める。

>これが不整合であると私は言っているのです。


この不整合は、ふくろう氏が「他者」という言葉を不整合的に使っていることからくる齟齬である。
ふくろう氏の表現をまねるなら、「ふくろう氏の指摘はナンセンス(無意味)である」ということになる。

以下同様。「他者」の意味が間違ってるから、意味の通じない“無意味”な文章になっている。

>「あ、あそこにりんごがあるね」「うん、確かにりんごがあるね」と共有したとしても

とちょっとねさんは書いているが、この言葉のやりとり(テキスト交換)だって、ちょっとねさんにとっては、あくまで〈俺の現象世界〉の現象にすぎないはずで、当然他者にとってのこれら言葉、すなわち「他者の現象世界の現象としての言葉」は知りえないはず。
>したがって、他者と言葉(テキスト)を共有できているかどうか、けして知りえないもののはずだ。

>共有できているかどうか知りえないもの(言葉のやりとり・テキスト交換)によって、(抽象的観念・情報)を共有できているかどうかを確かめることはできない。

4日前 No.1073

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1073

>「モノローグ」というのは、比喩としては適切ではない。モノローグでは相手のセリフは喋らない。


いや,一人芝居の場合,複数の人物のセリフをしゃべるでしょ?
例えば,「デカルト」のセリフも,「幾多郎」のセリフも,「ふくろう」,「Mobius」のセリフも私一人でしゃべるという意味で,モノローグって言えるんじゃないですか?
そういう一人芝居に喩えているわけです。

>この不整合は、ふくろう氏が「他者」という言葉を不整合的に使っていることからくる齟齬である


いや,これもどうもよくわからないな。
私が言っているのは,ごく単純な話です。
何事かを他者と共有できるためには,前提として,他者が存在しなければならない。
だから,他者と共有できるって主張するなら,他者の存在を認めることが必要条件になるわけですよ。
だけど,あなたは次のように,他者は存在しないと言ってるじゃないですか。

>>端的に言えば、あなた方の世界に他者は存在しないのだから。

>>あなたがたが思い描く他者は、あなたの表象する他者というイメージにすぎないのだから。

>この2行は、全くそのとおり。I agree.


つまり,Mobiusさんは一方で他者と何事かを共有できると主張し,
他方で,他者は存在しないと主張している。
ゆえに,これは矛盾だと。
こう私は言ってるわけです。
これ,何か,おかしいですか?

3日前 No.1074

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Xdn

>>1074

論理学(ザビビのふくろう)と哲学(Mobius)の違いです。

ここは哲学掲示板です。

3日前 No.1075

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1069

>字義と逆じゃん。(笑)

>「西田先生の考え」を抽したものが「西田先生の書いた文章」じゃん。

>「西田先生の考え」を「象」とするなら、それを抽したものが「抽象」


【抽象的】
1 いくつかの事物に共通なものを抜き出して、それを一般化して考えるさま。「本質を抽象的にとらえる」
2 頭の中だけで考えていて、具体性に欠けるさま。「抽象的で、わかりにくい文章」⇔具象的/具体的。
【具象的】
[形動]直接それとわかるようなはっきりした形をもっているさま。「具象的な絵画」⇔抽象的。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
思想が、西田の頭の中で考えているだけでは具体性に欠け、誰にでも知覚できるものではないという意味で、抽象的。
その思想が、客観的に知覚可能な言語表現として表現され、「直接それとわかるようなはっきりした形」をもった作品は具象的。要は、『善の研究』は、西田の思想が具象化されたもの。
という意味で私は言っています。
字義どおりと思うけどな^^

3日前 No.1076

空の光 ★0lAwBkNNa5_m9i

独我論

この世の中には我一人しか存在しないの?
じゃあ、我はどうやって誕生したのでしょうか?

この答えを持っているのは創造主だけでしょうね。
この答えが出ない限りは吾は一人じゃない。
誰かから誕生したという事だから。

それは人類の始まりは?という問い立てにもなる。
人類になる前となった時の違いは?
これらは科学では答えが出ないかも?

目に見える答えがないから・・・
だから独我論も否定ができない。
目に見える答えしか信じられない人達。
目に見えない答えも信じられる人達。

形になって現れたら信じられるだろう。
奇跡というものがある。
実際に経験してみれば分かるだろう。

網膜剥離になったことがある。
経過がすこぶる良かった。
医師が「神様がついてるのでしょう」と言うほどだった。
実際に奇跡だったのだろう。
神様を信じる人が奇跡を現しに来てくれたのだから。

目に見えないものを目に見える形にする奇跡。
そこから得られるものはどれくらいあるのだろう。

3日前 No.1077

空の光 ★0lAwBkNNa5_m9i

人は体も意識も自分のものだと思ってきた。
じつは体も意識も大きな意識の元に返す日が来る。

体は大地を通して、意識は大きな意識へ、水分は空気中を通して。

大きな存在に許しを受けて帰りゆく。
自分という存在を意識しつつも、大きな存在にゆだねる。

夢と違うのは・・・ある法則が働いてる。
この世では気づかなかった法則。罪の重荷による法則。
罪が多ければ多いほど下へ・・・
あの世の上は幸せ、下は不幸せ、中間は中程度。

もしも好き勝手でしてきてたら・・・全部、自分に返ってくる。
「自分で自分を罰してるんだ」という人はいないだろう。
もし、善悪のはかりの結果、幸せの世界へ逝ったとしたら。
「自分で自分を褒めてる」という人はいるかもしれない?
いや、そんな人はいないかも?
なぜなら、あの世での第一関門は講話を聞くことだから・・・
その話を心の奥底から分かったら?幸せの世界へ逝けるかも?

3日前 No.1078

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1062  ちょっとねさん

個別に言っても、どれだけ意味があるのかわからないけど、少し時間ができたので。

>なぜなら、公式を「暗記」すれば計算は可能だから。暗記しさえすれば、その中身を理解してなくても、計算は実行可能であり


んーと、よくわからん。
公式を暗記するって、途中の計算をすっ飛ばして答えだけ暗記するってことじゃないの?
だったら、計算をしないってことになるから、「計算できる」ってのはどういうこと?ってことになるんだけどな。

ま、しかし、このへんは意図を伝えるには、確かに表現がラフすぎるかもね。
とは言え、もっと正確に書いても到底理解されるとは思えないので気が進まんな・・・

>>1064
>可能性?何を書いてるか分かんないね。どうして、素直に「私の書いてきたことは全くトンチンカンでございました。誠に申し訳ございません。今後は、態度を改め、真摯に対応して参りますので、ご容赦頂きますよう宜しくお願い申し上げます。」と書けないのか。


だって、そんな意図で書いているのじゃないからさ。
理解が深ければ、アバウトに書いていても大事な区別を混同することはないから大丈夫だが、
浅薄な理解しかしていない人は、違いがわからないから誤解するってこと。
もうちょっとわかってると思ってたんだけどさ。買いかぶりだったみたい。残念!!

>便宜上?はあ?ま、俺は浅薄かも知らんが、自分の考えを「深いテクスト解釈論」って書いちゃうなんてどうよ?なんて、ずうずうしく、傲慢なふくろうなことでしょう。ヤキトリにしちゃうよ。ふくろうっておいしいのかな?


だめ?だったら「深遠なテクスト解釈論」でもいいよ。
しかしこれはま、私自身の考えというより、解釈学のテクスト論が元ネタにある、ってことを示唆しているのよ。ハイデガーの真理論とかね。読む人が読んだらわかると思うけど。
鳥のふくろうがうまいかどうかは知らんが、「ザビビのふくろう」がうまいかもしれんと思えるのなら、あなたの頭はどうかしていると思うな(笑)

>>1065
>アンタ、プレバトの視聴者、だねえ。それも、夏井先生のフリークだ。


いや、誤解してる。たぶんあなたの言っているその番組だとは思うんだけど、実家で夕飯か何かのとき、1、2度少し見たことがあるだけ。番組名も知らなきゃ、その人が誰かも知らん。

>テクスト解釈してるのは貴方でしょう。だったら、その解釈に対して貴方が責任とらないと。「言ってるのは私じゃなくて、西田だからね。」な〜んて逃げてないでさ。「はっきり判断は純粋経験ではないとみなされている」ってのは貴方の解釈でしょ


いやいや、ここで言っているのは解釈というレベルではなく、国語力、読解力の問題。
やれやれ。これでもわからないかな?

「純粋(=純粋経験:引用者注)というのは、〜(中略)〜判断すら加わらない前をいうのである。」
「これは赤いというのも既に判断である。直接経験(=純粋経験:引用者注)の事実ではない」
「種々の意味とか判断とかいうものは経験其者(=純粋経験:引用者注)の差別より起こるので、後者(=純粋経験の差別:引用者注)は前者(=種々の意味とか判断:引用者注)によりて与えられるのではない、経験(=純粋経験:引用者注)は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。」
「要するに経験の判断とか意味とかいうのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者(=純粋経験:引用者注)の内容を豊富にするのではない。」

ほぼ字義通り読めれば、純粋経験は判断じゃないって言ってるのがわかると思うんだがな。

>これこそ、西田思想。マチガイない。


あ、そ。
まあ、そう思いたいならべつにいいけどさ、少しは解説書とか研究書も参考にすることをおすすめするよ。

まあ、こんなとこかな。
「かかってこいや」なんて言うからには、せめて理詰めできてくれなきゃ、反論もできないわね。そんな考え方は嫌いだって言われても(笑)
要は、そう思いたいだけなんだってことでしかないわけだしさ。

3日前 No.1079

宿題 ★eM1n2yJmTo_sNF

源氏物語も翻訳で読んだ方が理解しやすいそうです・・

理解出来ない本は翻訳で読んだら解りやすいかもしれません・・

西田幾多郎さん・・あくまでも西洋の論理を追求しながら,根底に東洋の思考,日本人の心性を踏まえた我々の哲学であった。らしいです・・

3日前 No.1080

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_zZL

>>1074 ザビビのふくろうさん、

初めて話が通じそうな予感がするので、続けさせて戴きます。(モノローグの話は措きます。)

> >この不整合は、ふくろう氏が「他者」という言葉を不整合的に使っていることからくる齟齬である


>いや,これもどうもよくわからないな。

>私が言っているのは,ごく単純な話です。

>何事かを他者と共有できるためには,前提として,他者が存在しなければならない。

>だから,他者と共有できるって主張するなら,他者の存在を認めることが必要条件になるわけですよ。

>だけど,あなたは次のように,他者は存在しないと言ってるじゃないですか。


> >>端的に言えば、あなた方の世界に他者は存在しないのだから。

> >>あなたがたが思い描く他者は、あなたの表象する他者というイメージにすぎないのだから。

> >この2行は、全くそのとおり。I agree.


>つまり,Mobiusさんは一方で他者と何事かを共有できると主張し,

>他方で,他者は存在しないと主張している。

>ゆえに,これは矛盾だと。

>こう私は言ってるわけです。

>これ,何か,おかしいですか?


何がおかしいのかと言うと、上記の文脈では「他者」という言葉が二通りの意味で使われているにもかかわらず、それらを一緒くたにして「矛盾だ」としているところです。
上記の文脈には「存在しない他者」と「存在する他者」があります。
・「存在しない他者」は 存在しないので、「共有可能かどうか」について問うことは無意味です。
しかし、
・「存在する他者」は 存在するので、「共有可能かどうか」について問うことは有意味です。

ここでいう「存在しない他者」とは、ザビビのふくろうさんのおっしゃる「外部存在者である他者( >>985 )」のことです。
一方、「存在する他者」とは、私の内に現れた「内部現象としての他者」のことです。

例えば、
>>740
>ザビビのふくろうさんと私とでは、見えている世界が全然違うと思います。抽象的なレベルでしか世界を共有できていません。

この「ザビビのふくろうさん」は、「私の内部現象として現れた他者」の一例です。

3日前 No.1081

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_zZL

>>1076

>【抽象的】

>1 いくつかの事物に共通なものを抜き出して、それを一般化して考えるさま。「本質を抽象的にとらえる」

>2 頭の中だけで考えていて、具体性に欠けるさま。「抽象的で、わかりにくい文章」⇔具象的/具体的。

(中略)
>字義どおりと思うけどな^^


字義は、「象を抽したもの」または「抽した象」なので、1の意味の方です。
2は「転じた意味」なので、字義どおりではないです。(抽いてませんから。)


>思想が、西田の頭の中で考えているだけでは具体性に欠け、誰にでも知覚できるものではないという意味で、抽象的。

>その思想が、客観的に知覚可能な言語表現として表現され、「直接それとわかるようなはっきりした形」をもった作品は具象的。要は、『善の研究』は、西田の思想が具象化されたもの。

>という意味で私は言っています。


あなたがそういう意味で言っているのは理解しました。
しかし、その言葉の使い方は「おかしい」と思います。

「西田の考え」を抽して著したのが「西田の著書」ですから。前者を「抽象」としてしまうと混乱します。

「西田の著書は抽象的で(西田の考えが)わかりにくい」というのであれば、正しい言葉の使い方だと思います。

3日前 No.1082

宿題 ★eM1n2yJmTo_sNF

Mobiusさん

ハイデッカーさんの世界内存在・・主−客関係をこえる新しい認識論的基盤の発見である。・・と言いたいのでしょう?

2日前 No.1083

宿題 ★sicIy89Ne4_sNF

りんごを認識しても私の中の構成要素ではありません・・

私が存在しなくてもりんごは存在します・・

2日前 No.1084

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1082  Mobiusさん

一般に、AがB(の本質)を抽象したものなら、BはAの具象化したものです。
普通に「アイデアを具象化(具体化)する」って言いますよね。
具体化されたものからすれば、そのアイデアは本質であり,抽象化したものでしょう。
たとえば、『善の研究』の日本語オリジナルと、その翻訳とは、
具体的テキストとしては異なるけど、その言語の違いを非本質的として捨象し、
それらが表現している共通の内容を本質として抽象したものが、『善の研究』の“思想”です。
つまり,表現される前,すなわち作者の頭の中にある段階の思想・アイデアは,かたち(象)を具えていませんよね。
それが,表現され,かたち(象)を具えたものが作品である『善の研究』です。
これがいわゆるアイデアの具象化です。
この具象化は,日本語のテキストとしてでも外国語のテキストとしてでも,可能です。
それは,これら具体的テキストの個別性を捨象した本質=表現内容である思想が同一だからです。
逆に言えば,日本語で表現されるか異なる言語で表現されるかということは,思想にとって必然的(本質的)ではないので偶然的性質として捨象して,その本質である表現内容だけを抽象したものが思想だということです。

>「西田の考え」を抽して著したのが「西田の著書」ですから


Mobiusさんの「抽象・具象」の使い方こそ、はっきり言って間違っていると私は思いますよ。
Mobiusさんの言い方では,『善の研究』は、西田の思想の何を捨象し、何を抽したものなの?
日本語と外国語の翻訳ではどういうことになるんです?
『善の研究』が思想を抽象したものなら、『善の研究』を具体化・具象化したものが西田の思想ってことになるわけですよ。
そんな使い方しないと思うけどね。
「抽象」「抽象化」の意味を辞書で調べてみたほうがいいですよ。

まあ、これ以上言っても水掛け論だし、この話はもう,おしまいにしましょう。

2日前 No.1085

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1081

>初めて話が通じそうな予感がするので、


いや〜、しないけどな(;^_^A

他者とは、言うまでもなく、他者そのもののことです。
そして、他者の知覚像とは主観内部の心的現象であり、他者そのものではなく、当然、他者ではありません。
カメラ・モデルで言えば、知覚像は、撮影によりカメラ内のフィルム上に感光してできる像に相当するものです。

認識論的独我論とは、対象(他者)そのものはけして認識しえず、
知りうるのは、その知覚像にとどまる、とする考えです。
その根拠の錯覚論法は、例えば、目を押さえると対象そのものはゆがまないが、見ているものはゆがんで見えるので、
実際に見ているのは対象そのものではなく、知覚像だってする考え方なんだから。
したがって、あなたの主張では、
自分の知覚世界には、他者そのものは存在しなくて、他者の知覚像しか存在しないってことになるはずです。

>・「存在する他者」は 存在するので、「共有可能かどうか」について問うことは有意味です。

>一方、「存在する他者」とは、私の内に現れた「内部現象としての他者」のことです。


ここで、Mobiusさんは、他者そのものではない、すなわち他者ではない、他者の知覚像にすぎないものを、
「内部現象としての他者」というふうに、すり替えを行っています。

>あなたがたが思い描く他者は、あなたの表象する他者というイメージにすぎないのだから。


これを認めたということは、「あなたの表象する他者」とは心象(イメージ)にすぎず、他者(そのもの)ではないということを認めたことになります。
すなわち、「内部現象としての他者」は他者ではなく、「心象としての他者」、要するに、「他者のイメージ(心象)」にすぎません。
 他者≠他者のイメージ
これを不当にすりかえ,ごまかしているのですよ、Mobiusさんは。

そしてこの「内部現象としての他者」というのは主観が表象する心象にすぎませんから、
本質的に妄想と区別がつきません。
その意味では、「内部現象としての他者」とは「妄想としての他者」(と本質的に同じもの)なのです。
ですから、その意味で、Mobiusさんが何事かを共有できるのは、自分の妄想としての他者とでしかありえないわけです(もちろん、ここで私は『意図的かつ正当なすり替え』を行っています)。

>例えば、私の中で「机の上に置かれたりんご」という現象が現れているときに、「そこにりんごがあるね」と言うと「あぁそうね」とか「それがどうした?」とかリアクションしてくる。

>私のいう「共有」とは、このリアクションの「素直さ」のこと。


このMobiusさんの会話は、自身の妄想としての他者との会話です。
Mobiusさんにとって,妄想としての他者の素直さが、妄想としての他者との共有なのですね。
ですが、それもしょせんMobiusさんの妄想にすぎません。

まとめておきます。
自分の認識世界に,物自体としての対象(他者・他者の心を含む)は存在せず,
自分の世界=自分の表象であるとする考えは,本質的に,いわば「世界は幻想である」とする幻想一元論だと言えます。
私はMobiusさんの立場をそういうものであるとみなし,
その説の論理的難点を指摘・批判してきたつもりですが,理解を得ることは無理だったようです。
Mobiusさんの立場が,今私が幻想一元論としてレッテル化したものと本当に一致するかどうかといったことは,確証があるわけではありませんが,議論するにあたり,論点を明確にするための仮説と受け取ってもらえればいいかと思います。
そのほうが,たとえばMobiusさんにしても,いや,そこは違うんだ,といいやすいでしょうし,それが仮に私の的外れな部分であると指摘もしやすいと思いますから。

いずれにしても,私の言いうる内容はほぼ言ったと思いますし,あとは繰り返しになると思いますので,一応私としては,Mobiusさんとの議論は潮時と考えます。
Mobiusさん,よろしいでしょうかね?
もちろん,終了するにしても,Mobiusさんが言いたいことを言ってからでかまいませんよ。

ああ,それと,ロムしている方どなたでも,ご意見がありましたら,よろしくお願いします。
ただし,いただいたコメントがレスするに値しないと判断した場合は,私のほうからはレスしないかもしれませんので,ご承知おきください。

2日前 No.1086

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1086

>他者とは、言うまでもなく、他者そのもののことです。


あなたの価値観など、どうでもいいのです。まず、相手の発する言葉の意味を理解することが入口です。
はい、読み直し。

以上

2日前 No.1087

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_keJ

>>1087

>あなたの価値観など、どうでもいいのです。まず、相手の発する言葉の意味を理解することが入口です。

はい、読み直し。

その価値なし。

以上^^

2日前 No.1088

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>1079

>んーと、よくわからん。公式を暗記するって、途中の計算をすっ飛ばして答えだけ暗記するってことじゃないの?


俺が書いているのは「知識を共有しているかどうかを確かめるためには、他人の頭の中をのぞく必要は全くない。それゆえ、推定する必要もない。」ってことに対する反論だよ。公式を暗記することは答えを暗記することではない。計算の手段を暗記することだ。(はあ、こんなこと書かなきゃダメか?)故に、それぞれの問いに対して答えを出すことが出来ることをもって、必ずしも知識を共有していることを示すことにはならない。覚えてさえいれば、分かってなくても答えはだせるからだ。なら、公式を導けって問いなら、知識を共有していることを確認できるか?それも、無理。なぜなら、解法(導き方)を暗記してるだけかも知れないから。だが、これは、理解していることの蓋然性を高める。では、もっと、ちゃんと理解してるかどうかを試すには?も、少し、ひねった問いを出すことだね。だが、どこまでいっても共有を確かめることはできない。もしかすると、貴方より、よっぽど才能があるのかもしれない。分かってるけど、計算間違いしてるだけなのかもしれない。それらは全て蓋然性の範囲内(つまり、推定)の話なのである。意図を伝えたければ、もっと、まともに書くんだね。(俺は既に、その伝える意図なる何かを疑い始めている。)


>しかしこれはま、私自身の考えというより、解釈学のテクスト論が元ネタにある、ってことを示唆しているのよ。ハイデガーの真理論とかね。読む人が読んだらわかると思うけど。


仮にそんなものがあるとして、貴方がそれを応用できる実力があるとは限らない。むしろ、読解力という意味においては疑わしくなってるよ。そこまで言うなら、ハイデガーの真理論なるものを説明してごらん。それが、うそっぱちでも、まっとうな説明なら、俺は納得するだろう。(調べるけどな)


>いやいや、ここで言っているのは解釈というレベルではなく、国語力、読解力の問題。やれやれ。これでもわからないかな?


それは、特定のセンテンスを抜き出してるだけ。それらのセンテンスが現れたあと、それを包括するような西田の見解が「善の研究」の中では現れている。「国語力、読解力の問題」は、ふくろうさんにそのまま降りかかるんだよ。一部を抜き出すだけじゃなくて、全体を通して読まないとね。国語力って文脈をどうとらえるかってところで差がでるんだよ。

これ以上やると、西田先生論になってしまう上、独我論から離れてしまい(西田先生に語ることは必ずしも独我論との接点がないとは思わないが)、単なる言い争いになってしまう。俺的には、Mobiusさんの方が独我論との接点を保ってる立場だと思うよ。だいたい、「認識対象=知覚対象=実在(具象的)」っていう構図を出してくることがよく分らん。ふくろうさんなら分かるだろうに。俺も、あえて、その線の路線で話をしようとしていたんだが、あれやこれや書かれて、うにゃうにゃになってしまった。俺的意見は、「認識対象=知覚対象=実在(具象的)」っていう構図においても、独我論は生きているってことなんだ。それ(独我論)が、認識の根本的構図だから。それは、実在があると信じて生きていくとしても変わらないのである。

2日前 No.1089

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

私が書いた >>1081 に対し、 >>1086 のようなリアクションが来たが、これは私の妄想なのだろうか?
まぁ、私に現れた現象の一つには違いないけど。

私に現れた現象 ⇒ 妄想 という発想は、とても短絡的に感じられる。

2日前 No.1090

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1088 おぉぅ、脊髄反射!! 珍し〜。

2日前 No.1091

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1089

>俺が書いているのは「知識を共有しているかどうかを確かめるためには、他人の頭の中をのぞく必要は全くない。それゆえ、推定する必要もない。」ってことに対する反論だよ。


ってことは、やっぱり、頭の中をのぞけなければ、理解したかどうかを確かめることはできないってことが言いたいの?

>意図を伝えたければ、もっと、まともに書くんだね。(俺は既に、その伝える意図なる何かを疑い始めている。)


ちょっとねさんが疑っても屁でもないけど、まあそりゃそうなんだよ。
でもなあ、まともに詳しく説明したからって、じゃあ理解してもらえるかっていうと、むしろよけいに難しいのよね。
だから、アバウトに言ってるのでさ。ま、難しいところだね。

>仮にそんなものがあるとして、貴方がそれを応用できる実力があるとは限らない。むしろ、読解力という意味においては疑わしくなってるよ。そこまで言うなら、ハイデガーの真理論なるものを説明してごらん。それが、うそっぱちでも、まっとうな説明なら、俺は納得するだろう。(調べるけどな)


ひょっとして、ちょっとねさんは誤解してんじゃないかと思ったんだけど、私はさ、知識をひけらかす趣味は別にないんだよ。
言ったように、手の内を見せておくと、例えば「志向性」という概念を用いたら、現象学について知識をもってる人には理解しやすいか、あるいは逆に、パズズさんのように、突っ込むこともできるわけよ。
でも、そういう場合の突っ込みは、そういった知識をある程度前提にできるから、より詰めた議論ができる可能性があるから有意義なのよ。
まあ、「クオリアとか志向性って言葉、嫌いなんだよね」「けっ、テクストだってよ、何でテキストじゃねえんだよ」って言いたいレベルの人には関係ないからほっといてもらって全然かまわん。
「ハイデガーの真理論」と言ったのも、そういう意図がある。
具体的には、ここにはてじさんて人がいるから、仮に彼が読んだら、言わなくても「意識してるんだろうな」ってわかるような表現をとっている。そういったことは、あなたには関係ないから、ほっておいてもらって結構だし、気づかない人にわざわざ説明する気もさらさらないよ。
なので、納得させる気もないし、私の知識を疑ってもらって全然OK。
具体的に突っ込んでくれたら、なお結構なんだけどな。

>これ以上やると、西田先生論になってしまう上、独我論から離れてしまい(西田先生に語ることは必ずしも独我論との接点がないとは思わないが)、単なる言い争いになってしまう。俺的には、Mobiusさんの方が独我論との接点を保ってる立場だと思うよ。


これに関して、どうもちょっとねさんは、私の立ち場が全然わかってないような気がするので、改めて、私の立場の全体を大枠で書くから少し待っててください。

2日前 No.1092

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1090

>私に現れた現象 ⇒ 妄想 という発想は、とても短絡的に感じられる。


あなたの心象なんか、どうでもよいのである(笑)

>>1091
ふふ、たまたま見たら、レスがされたとこだったのだ。

2日前 No.1093

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>ちょっとねさん、Mobiusさん、気まぐれさん


なんか、現在、ちょっとねさんやMobiusさんの独我論的立ち場を私が否定しているので、
たしか西田を超越論的独我論とか言って肯定的評価をしていたはずなのに、どういうことなのか?
ふくろうは、いつ、実在論になったんだよ?
今、おまえの言ってるのは独我論じゃないだろ、なんて疑問もなきにしもあらずかと思うので、大まかな私の立場を説明しておきます。

私の立場では,素朴実在論も独我論も,世界に対する態度です。
すなわち,素朴実在論的世界が,現象学で言う自然的態度で捉えられた世界であり,
そのように捉えられる自己のあり方がハイデガーで言う頽落した生のあり方。
(超越論的)独我論的世界が,世界=純粋意識としてとらえられた世界であり,純粋経験の世界に相当します。
もちろん,現象学や西田の純粋経験などに相当するというのは,ラフな言い方であって,細かな異同はもちろんあります。しかし,大枠を共有していると言ってもよいだろうということです。
というか,『善の研究』はいわば純粋経験一元論で,私のはそうではない,という意味では本質的にも異なる立場だと言うべきかもしれません。

私の立場では,この素朴実在論的世界か超越論的独我論的世界か,そのどちらか一方だけが正しいということはありません。
ただし,どちらも世界像として,完全に相対的である,というわけでもありません。
以下では,これまであまり述べてこなかった,この点について,少し突っ込んで,とは言えなるべく単純化して説明したいと思います。

発達心理学的な自我形成の過程という観点からとらえると,自我とは,これまでの私の考えを前提していうと,主語的な「私」であり,その成立をもって完成します。
この自我=「私」の形成に,成長過程で何らかの障害が起きることがあり,自閉症の場合などはそういうふうに解釈可能かと思います。
いわゆる健常者であれば,自我形成が完成した後は,自分を「私」としてとらえることも可能ですし,〈私〉としてとらえることも可能です。
またそれに相即して,世界をいわゆる主観的にも,客観的にも捉えることが可能です。
これを,世界の天動説的把握と地動説的把握に喩えて説明したこともあったかと思います。

このように,素朴実在論(以下,「実在論」と略記)と超越論的独我論(以下「独我論」と略記)を世界把握の態度みなすということは,世界観の違いは世界記述の方式の違いとする立場であるとも言えます。
ラフに言うと、自然言語で表現された世界が素朴実在論的世界であり,独我論的言語(現象言語),あるいは詩的言語で表現された世界が独我論的世界である,ということ。
ここで私の見解は,これら言語が双方独立に同等の資格をもって成立するものなのではなく,あくまで,ベースは自然言語であるということ,それに相即して,世界のベースは素朴実在論的世界にある,ということです。
例えば,詩的言語は自然言語の論理を越えることによって,いわゆる「語り得ぬもの」を表現しますが,詩的言語の成立は,あくまで,自然言語の成立に依存しているということです。

重篤な統合失調症の患者は,ある意味自然言語の論理を越えた言葉を語るようになります。逆に言うと,自然言語の論理にしたがって語り,世界を観ることが不可能になるのです。
すなわち,素朴実在論的世界を他者と共有することができなくなるわけです。
いわゆる妄想世界を語り,見るようになり,コミュニケーションが不可能となっていきます。
したがって,いわば,健常な人間は自然言語の論理を共有し,コミュニケーションしている者であり,それが素朴実在論的世界を他者と共有するということだと考えます。
病者の言葉は、ウィトゲンシュタインが想定した私的言語であり、本来言語とは呼べないのではないか。

認識論的独我論の立場に立てば,主観の外部に,客観的素朴実在論的世界は存在しません。
それは,単により多くの主観がたまたま同じ知覚像を共有していて,個々人がそれに基づいて言動するとうまくコミュニケーションをとれるということになります。
病者とされるのは,たまたま世界像が、その他大勢と異なるというだけです。
つまり,いわば誰もが幻想としての世界像を有していて,たまたま多くの人が共有している世界像が客観的世界像と呼ばれ,独自の世界像を有している者は妄想を見ていると言われるというだけ,ということになります。
それゆえ,健常者と病者の世界像の違いは,本来どちらが正しいというわけではなく,それを共有している人の数の多い少ないにすぎない,というわけです。
それは、素朴実在論的世界の、上に述べた意味の一種の特権性を否定するものであり、自然言語が特権的言語であることの否定と相即すると思われます。
要するに,今述べた意味で,認識論的独我論の世界観は,相対主義的世界観である,ということが言えると思われます。
私はそれを否定します。
我々は素朴実在論的言語を共有すること、すなわち、自然言語によって他者とコミュニケーションをとることにおいて、世界を共有しているのです。
それが不可能となり、自然言語の論理を逸脱する本人しか理解しえない・使えない言葉、いわば幻想言語を語るようになると、主観世界が妄想世界となってしまうのです。

なので、安易な言い方ではあるが、とりあえず図式的に言うと、
実在論 vs 独我論
の対立を「正‐反」として、それを止揚する「合」の立場、すなわち、
実在論と独我論を止揚する立場が、私の立場である、ということになります。
ですから、私の立場は、その意味で、独我論の乗り越えをテーマとする趣旨に一致する見解なのです。

以上なんじゃ(笑)

2日前 No.1094

気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_Xdn

>>1094

ザビビのふくろうさん

あいかわらず、わかりやすい説明ですね(超越論的独我論と認識論的独我論の区別が適切に伝わるかちょっと不安だけど)。

西田幾多郎のスレで議論したからわかってもらってると思いますが、私は超越論的独我論の方から止揚出来ると思っています。
私としては、ちょっとねさんとMobiusさんは認識論的独我論にとどまっており、超越論的独我論的に見れていないと感じます。
部分的に認識論的独我論からはみ出ているところもあるような気もしますが…。

また私は、純粋経験を文法的に解釈するから西田が超越論的“独我論者”に見えるだけ(まあ、ふくろうさんは、ここでは便宜上、西田を超越論的独我論としているだけかもしれないけど)とも思っています。
このあたりのことは、いつかどこかで書いてみたいとは思ってますが、まだ書ける気がしないので(生涯書けないかもしれないけど)、やめときます。

1日前 No.1095

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1095  気まぐれさん

レスをどうも。
同意するかどうかは別として、理解してもらえる人がいるというのは、やっぱりほっとしますね(笑)
西田スレで、頑張ってやりとりした甲斐がありました。

>超越論的独我論と認識論的独我論の区別が適切に伝わるかちょっと不安だけど


いや、とうてい無理でしょう(笑)

>西田幾多郎のスレで議論したからわかってもらってると思いますが、私は超越論的独我論の方から止揚出来ると思っています。


はい。もちろん、わかっています。

>私としては、ちょっとねさんとMobiusさんは認識論的独我論にとどまっており、超越論的独我論的に見れていないと感じます。


そうです。二人とも、「いわゆる独我論」なので、論理的難点を抱えているのですが、そのことを理解できないんですよ、まあ、知識がないので仕方ないのかもしれませんが。
あるいは気まぐれさんの言うように、本当は立場としては一貫しない、はみ出した考えがあって、そのために難点がないと思っている可能性もありますね。
だから、乗り越えなきゃいけないなんて思わないとか。

>また私は、純粋経験を文法的に解釈するから西田が超越論的“独我論者”に見えるだけ(まあ、ふくろうさんは、ここでは便宜上、西田を超越論的独我論としているだけかもしれないけど)とも思っています


うまく言えないんですけど、西田哲学の場合に限らず、私の解釈は、一応「(作業)仮説」と言うのが当たらずと言えども遠からずではないかと。
とにかく、解釈においては、できるだけ整合的で明確な像を構築することを目標とする。
それができれば、それを足場として再検討、あるいは解釈をすすめ、どうもそれで説明つかないところがあれば、それを解消するために、場合によってはその仮説解釈を一から構築しなおしたりするわけです。
なので、 >>1094 も、自分で完全にしっくりいってるわけではないんです。
書いてみて、やっぱり足らないなと、そういうこともはっきりするから書いたってこともあります。

気まぐれさんは、実在論と独我論は、究極一致すると考えているんでしたっけ。
今回の指摘も、意図をよくつかめるわけではありませんが、
ひょっとしたら、あなたにも参考になるかもしれないので、少し今述べた、 >>1094 できちんと捕まえられていないことについて、少し述べてみます。

これでわかるかどうかは心もとないですが、現象学的に言うと、超越論的還元と形相的還元の区別が私も重要だと思っているんですが、 >>1094 では、まだその区別ができていないんですよね。
別の言い方で表現します。
(1) 無視点記述    → 有視点記述
(2) 客観記述     → 主観記述
(3) 素朴実在論的記述 → 現象主義(独我論)的記述
これらを同じものとみなし、この「→」で表した態度変更を、現象学で言う超越論的還元、これまでの言葉で言えば、純粋意識への還元であるとします。
これは、さらに、比喩としては、次がイメージしやすいでしょう。
(4) 地動説的宇宙記述 → 天動説的宇宙記述

問題はですね、これらの変更されるふたつの記述方式は、それだけをとってみれば、むしろ論理的に同等であり、その意味では、相対的なんですね。
したがって、これ、論理は共通しています。
だからこそ、『論考』の時代、ラッセルやウィトゲンシュタインはこの現象主義的言語に、実在論的言語を分析還元することにより、いわば実在論=独我論を示そうとしたと言えるわけです(注:わたしの解釈を前提にしています)。
それゆえ、逆に言うと、この現象主義的言語で記述された世界というのは、本質的に素朴実在論的世界と同一なるものであって、語りうるもののわけです。
詩的言語が表現する“語りえぬもの”ではないのです。
で、すっ飛ばして言うと、この語りえぬものを表現するためには、さらに態度変更して、「永遠の相の下で」世界を捉えることが必要なのです。
これが、現象学で言う形相的還元に相当するものですが、実は、わたしとしては、これをこそ「超越論的還元」と呼びたいものです。

 素朴実在論的世界 → 独我論的(現象主義的)世界 → 超越論的独我論的世界

だから、その意味で、超越論的独我論の〈我〉って、「超越論的主観」なんですね。
しかし、「超越論的主観」というと、カント的イメージがあるので、「意味を付与する主観」みたいな先入観が働くと思って避けてきたんです。
ほら、超越論的主観と言うと、スクリーンに映像を照射する映写機の光源のようなイメージがあって、ショーペンハウアーもそうなんですが、こういった自我を『論考』では絵で否定していますよね。
でも本来は「世界の限界」という意味で、やはり超越論的主観ではあるんです。
そういう意味では、次のようにも図式化可能かと思うのです。

 客観的世界 → 主観的世界 → 超越論的主観世界

でね、これは永井均の純粋経験の解釈にも関係しますが、永井の解釈では、純粋経験の世界とは、別に特別な世界ではなく、我々が普通に知っている世界であると言いますよね。
私はこれ、ちょっと違うように思うんですよね。
永井は、上に述べたいみで、現象主義的世界、いわゆる独我論的記述された世界とみなしているように思うのです。その意味では、永井の解釈する純粋経験の世界は、語りうるものということになるような気がするわけです。わかりませんが(笑)
しかし、私はそうは思わないわけです。
純粋経験は、詩的言語のような、命題言語を超える表現でなくては、やはり表現できないように思うわけです。
それで川端ではなく(避けて)、意図的に芭蕉をもってきているのです。
これは主語をたてない日本語の、西欧語との違いの問題が関わりますから、安易に断定はできませんが、とにかく、こういった点は、重要であると思います。

まあ、あと、尻切れトンボですが、この超越論化というのは、ある種の絶対化ですので、ひょっとすると、気まぐれさんの問題意識とも関係あるかも、と思った次第です。
それと、実在論から独我論への態度変更(意識への還元)を「認識論的態度変更」、独我論から超越論的独我論への態度変更(超越論化)を「存在論的態度変更」と呼ぶのがよいのでは、と思ったりしています。まあ、アイデアですが。
何かヒントになれば幸いということで。
このへんにしておきます。

1日前 No.1096

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

我々の空間認識を考えるとわかりやすいかもしれない。
我々は、夜空を見上げて金星や木星の動きを見て、「あぁ地球が太陽の周りを回っているんだなぁ」って感じることはまずない。相変わらず、太陽は東から昇って西に沈む。天体の動きから考えて地動説の考えを支持しているものの、普段の生活では天動説的に空間を把握している。
我々は立ち姿勢から仰向けに寝そべるとき、「空間が90度回転した」と認識することはまずない。「自分自身が地面に対して90度回転した」と認識する。
生まれたての赤ん坊の場合はどうなのだろう?
我々は振り向くとき、「空間が180度回転した」と認識することはまずない。「自分自身の視点が180度回転した」と認識する。
逆にVRなどで 自分が見ている映像を垂直軸回りにクルッと回転させられると、まるで自分自身が180度回転したように錯覚してしまう。
我々は、自分の棲み家を平面上に固定された点として考え、そこを原点に空間移動して暮らしている(と認識している)。自分自身の周りを空間が移動しているとは認識しない。
なぜだろう? 完全に自分中心というわけでもなく、かと言って地面が動いているとまでは意識できない。
さすがに航空機操縦士は地球の丸みや自転を意識せざるを得ないと思うが。
宇宙飛行士はまた違った空間把握をしているのだろうか。

結局、自分の生活習慣に応じて適切に空間把握しているだけではないのか。

23時間前 No.1097

気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_Xdn

>>1096

ザビビのふくろうさん

レス、ありがとうございます。
後でもう少し考えてみたいと思います。

>永井の解釈では、純粋経験の世界とは、別に特別な世界ではなく、我々が普通に知っている世界であると言いますよね。

>私はこれ、ちょっと違うように思うんですよね。

>永井は、上に述べたいみで、現象主義的世界、いわゆる独我論的記述された世界とみなしているように思うのです。その意味では、永井の解釈する純粋経験の世界は、

>語りうるものということになるような気がするわけです。わかりませんが(笑)


これについてですが、私は、永井の意図を私が >>1051 で書いたような意味なのかと思っていました。
>>1051 についても違和感がありますか?
なお、 >>1051 に書いた「自覚」は西田用語の「自覚」を意識せずに使っています…。

23時間前 No.1098

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1094

>認識論的独我論の立場に立てば,主観の外部に,客観的素朴実在論的世界は存在しません。

>それは,単により多くの主観がたまたま同じ知覚像を共有していて,個々人がそれに基づいて言動するとうまくコミュニケーションをとれるということになります。


「多くの主観」というのがわからない。認識論的独我論の立場に立てば、主観は自身の主観ただ1つではないのだろうか?

23時間前 No.1099

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1098  気まぐれさん

>>1051 で用いられている「自覚」の概念には、違和感があるんですよ。
私としては、まだよく考えておらず確信があるわけではないのですが、一応、無である「場所」が、そのノエシス的働きによって自身を対象化・有化すること、つまり自己限定が、「自覚」ということではないのではないかと思っています。
その理解だと、どうも >>1051 の表現はしっくりこないんですけどね。
気まぐれさんは「自覚」をどのように理解しているんですか?
まあ、あまり突っ込むと、西田スレのほうがいいかもしれませんが。

私も、 >>1096 で述べたことを、もう少しきちんと考えないとたいしたことを言えそうにないので、とりあえずペンディングにしておきましょうか?

11時間前 No.1100

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>1099

>「多くの主観」というのがわからない。認識論的独我論の立場に立てば、主観は自身の主観ただ1つではないのだろうか?


認識論的独我論が、「論」である限り、それは単にMobiusさん個人の特殊な精神状態についての記述ではなく、主観一般に成り立つことを主張するものです。
とすれば、認識論的独我論が正しいのなら、Mobiusさんにとってのみ成り立つことではなく、同じことは、ふくろうにとっても、気まぐれさんやちょっとねさんにとっても成り立つはずです。
すると、Mobiusさんの独我論的世界、ふくろうの独我論的世界、ちょっとねさんの独我論的世界、…というふうに、マクロ宇宙の中に、窓のないモナドのようないくつものミクロコスモス(独我論的世界)が存在する、そんな世界像になるわけです。
ちょうど、宇宙の中に無数の惑星世界が存在するようなイメージ、と言えばわかりやすいかもしれません。
これが認識論的独我論から帰結する世界像だということです。

11時間前 No.1101

気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_Xdn

>>1100 ザビビのふくろうさん

>気まぐれさんは「自覚」をどのように理解しているんですか?


>>1051 で書いた自覚は西田用語の自覚とは違うかもしれません。まだ検討していないのでどの程度同じでどこが違うかわからないという意味で。
>>1051 に書いた「自覚」の意図は >>1096 の態度変更(→)のような意味で使用しています。それも超越論化ですね。
もっと簡単に言えば、「気づいている」という意味ですかね。
私的には全てが純粋経験であると気づいているか否かということになりますが、「全てが純粋経験である」という見方もできるということに気づいているか否かと読み替えることも可能でしょうね。
(永井が言っているのは)気づいていようといまいと、起こっていることは同じという意味で、純粋経験は誰もが普通に知っている経験ということだと私は考えています。
気づいた者にとっては純粋経験にほかならないが、気がつかない者にとっては(その者が実在論者であれば)実在論的経験であり、(その者が認識論者であれば)認識論的経験であるということです。
気づいた者にとっては、それに気づいた「私」自体がフィクションであると気づくので、その意味で「私」と「他者」は対等な存在となり、上述のように純粋経験に気づいてない者にとっては…と対象化して語れるのです。

>私も、 >>1096 で述べたことを、もう少しきちんと考えないとたいしたことを言えそうにないので、とりあえずペンディングにしておきましょうか?


了解です。
自覚に関しても、不明点等あればレスしていただいてもいいですし、スルーでも構いません。
私の方も何か考えをぶつけてみたいと思ったら、適当なスレに書き込みさせていただきたいと思います。

9時間前 No.1102

ひこた @hikonyan ★okoJqS73Jn_inN

哲学偏差値速報☆

偏差値 名前
59 マジカルモンキー
58 ホントウの真理を発見したもの
55 shinwood
53 百理
52 てじ
51 ちょっとね
50 (平均的な哲学能力)
48 Mobius
(健常者の限界)
20 ザビビのふくろう
10 SumioBaba

(敬称略)

8時間前 No.1103

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>1101

>認識論的独我論が、「論」である限り、それは単にMobiusさん個人の特殊な精神状態についての記述ではなく、主観一般に成り立つことを主張するものです。


「一般に成り立つ」というのは、「もし私と同じような存在が居たとしたら、その人についても適用可能」という意味でしょう。
「私と同じような存在」というのは、「この世に存在する唯一の主体」のことですから、ザビビのふくろうさんがおっしゃったような「もしこの世に複数の主体が存在するとしたら 」という前提は考慮する必要が無いように思えます。
というか、「この世に複数の主体が存在する」という前提は、認識論的独我論の前提と矛盾するような気がしますが、如何でしょうか?

2時間前 No.1104
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