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理解とはなにか

 ( 哲学掲示板 )
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解体

理解とは何か?
その定義に迫ろう

2006/01/15 09:30 No.0
ページ: 1 2 3

 
 
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百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

子供の時絵本で読んだ話で

目の見えない人々が

白い象を触って・・平べったかった(耳)・細長かった(鼻)・円柱の様(足)など一部分しか感じることが出来ないでいる・・

私はこう思う・こう聞く・・という佛教の童話・・

無明についての理解力・・などなど

8ヶ月前 No.197

★KYgFOJK2NU_dB9

>>176,178,184,195,196

今回は「道理」について考察してみます。

ネットで調べると・・道理とは、物事の筋道。とあります。つまりは、物事の道筋の事を道理と表現しているようです。

例えば、 >>176

@「Aの世界観での話をBがBの世界観での道理に照らし合わせて取り込む。ないしは、Aの世界観での話をBがBの世界観とは違う道理で取り込む」

と書きました。この文脈での「BがBの世界観とは違う道理で取り込む」と言う所の「道理」とはどのような意味を持つのでしょうか。

ある地点から目的のある地点に至るまでの行程(道筋)の事を道理と言うのであれば、ある話題においてのBの世界観での出発点から、その話題を主体的に語るAの世界観における主張内容の結論が到達点です。勿論、この場合は「BがBの世界観とは違う道理で取り込む」と言う所の「道理」についての考察です。

例えば、Aが主体的に話を進める場合に、Aはその話題においての道筋(筋道)がそのAの世界観の中でしっかりと繋がっているはずですね。そうでないと、Bにその到達点である結論に至る道筋(道理)を説明する事が出来ません。そしてBの世界観ではどうでしょうか。「BがBの世界観とは違う道理(道筋)で取り込む」以前には「道理」としてのAの世界観における道筋(筋道)がまだ完成していません。ですので「不理解」となるのですね。つまりは「BがBの世界観とは違う道理でAの道理(道筋)を取り込む」事が出来ていない状態です。

そしてBは、このBの世界観の中でAの話す内容の道理(道筋)を、Bの世界観の中に浮き上がらせる為に「質問」等をします。

真摯にBが質問をし、それに対して真摯にAが答えます。それをBが取り込めればBの世界観の中でのAの話の道理(道筋)は繋がります。この場合に、Bの世界観における道理とは別のAの世界観においてAが描いている道理(道筋)を取り込めたという事で、Bの世界観の中で2つの道理が成立します。この時、BがAの話を理解できたという事です。

道理(筋道)とは、進化論で言うのならばミッシングリンクを埋めて、出発点から目的地点までの進化の過程をスムーズに繋げた行程の事であり、道路で言うのならば、穴ぼこだらけで車が進めなかった道路を綺麗に舗装工事をして車がスムーズに進めるようにした道の事と言えるでしょうか。

何かを学び理解するために必要な事柄は、到達地点・自身の現在の地点・それら2点を繋ぐ道筋です。
そして何かを学ぼうとする時、大切なのは真摯な質問姿勢であり、何かを伝えようとした場合に大切なのは、真摯な返答だと思われます。つまり、これは言葉使いや態度に通じます。

なぜならば、知らぬ者が知るであろう者に知りたい事を聞く時、知る者が知らぬ者に知りたいであろう事を伝えようとしても、伝えなければいけない理由などどこにもないからです。そして知る者が答えない場合には、このままで、知らぬ者は、知りたい事を知らぬままで終わります。

8ヶ月前 No.198

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>176,178,180,184,195,196,198  時さんへ

 非常に解り易い説明で、全面的に「理解した上で賛同する」です。このスレッドのテーマは「理解」ですが、時さんの文章は大変理解し易く、読み易いです。一文一文、「うん、よく解った、異論なし」と実感しながら読むことができます。時々そうでない人もいて、何を言いたいのかさっぱり理解できず、そういう場合には読む気力を失い、2〜3行読んだだけで断念してしまいます。やはり「解り易く説明する」というのが、「理解」してもらうために最も重要なことですね。

 ある命題Pの真偽を考察するとき、A氏は「真理体系A」(公理A1、公理A2、公理A3、…、および、真理a1、真理a2、真理a3、…)で考えるのに対し、B氏は「真理体系B」(公理B1、公理B2、公理B3、…、および、真理b1、真理b2、真理b3、…)で考えます。そして「真理体系A」と「真理体系B」とは、必ず微妙に異なります。
 A氏が命題Pを証明する時に、「真理体系A」の中の公理A3を使用していたとしましょう。ところが「真理体系B」の中には、この公理A3に相当するものが含まれていない、ということも有り得ます。そして命題Pは、「真理体系A」では真だと証明できますが、「真理体系B」では真だと証明できない、という差異が生じます。
 こういう場合には、「真理体系A」と「真理体系B」との間で何が異なるのか?、というメタ分析が重要です。そのために、A氏とB氏との間で、紳士的な質疑応答が要求されます。今の場合、公理A3の有無が、A氏とB氏の間で生じた意見不一致の原因だった訳です。公理A3を認めれば、確かに命題Pは証明できることを、B氏は理解できるでしょう。と同時に、「公理A3を公理として定めるのは、適切か?、不適切か?」という新たな問題が提起されることになります。

8ヶ月前 No.199

★07QNjHEYbO_dB9

>>199  馬場さんへ

> 非常に解り易い説明で、全面的に「理解した上で賛同する」です。


ありがとうございます。

> こういう場合には、「真理体系A」と「真理体系B」との間で何が異なるのか?、というメタ分析が重要です。


理系の話は不得意なのですが、その通りだと思います。メタ視点を持つ者がメタな分析ができるのですね。そしてこの世での最高のメタ視点が、人でありながら人視点ではない、神視点だと言う事でしょう。「私=神」の視点ですね。

> こういう場合には、「真理体系A」と「真理体系B」との間で何が異なるのか?、というメタ分析が重要です。そのために、A氏とB氏との間で、紳士的な質疑応答が要求されます。今の場合、公理A3の有無が、A氏とB氏の間で生じた意見不一致の原因だった訳です。公理A3を認めれば、確かに命題Pは証明できることを、B氏は理解できるでしょう。と同時に、「公理A3を公理として定めるのは、適切か?、不適切か?」という新たな問題が提起されることになります。


例えば、誰もが知るであろう「浦島太郎」と言うおとぎ話があります。

科学者な視点では「人間は海中では呼吸できません。少なくとも呼吸する為の補助装置が必要ですが、それの記載がありません。よって、この話は事実に反します」といった分析になるのでしょうか。

一方、人類学者の視点では「昔、琉球の漁師が海に出た時に海流に流されて南国に流れ着いたのです。そこは異文化ですので見るものふれるもの全てが初めての経験をしました。時が過ぎ、その漁師は琉球に帰りたくなり、一か八か、再度、海に出て海流に乗り、運よく故郷である琉球に流れ着いたのです。浦島太郎と言うおとぎ話は、このような一人の漁師の実体験を物語にしたものです」

なんて話になるかもしれませんね。しかし、こんな事で論争しても仕方ありませんね。(笑)

この世界では、ちょっとした違いで論争が起きているようですが・・・メタ視点、持てれば良いですね。

8ヶ月前 No.200

一京無限 ★YbYhTPu8yV_mgE


理解には、知識の仮止めと知識の鵜呑みと腑に落ちる智慧の三つがあるように思います。

過去の修行時代は、真理知識の鵜呑みと努力を要するギブ&ギブの精神の経験による腑に落ちる智慧としたい願望があり、
いかにしたら、真理知識を悟りの智慧になるのかを考えたものです。

大悟をした現代においては、ギブ&ギブの精神は苦も無く、心の悦びを感じながら霊的実践経験を積んでいます。

ギブ&ギブの精神による霊的実践経験をとおして、腑に落ちる智慧となって行ったと同時に、その霊的実践経験をとおして、
真理書籍の読書においても、創意工夫や真理の小さな発見の積み重ねが、腑に落ちる智慧としてストックできていったと思い
ます。

そこには、観えざる背後の大悟した方々の高級霊達の支援する仲間達の無数の智慧の引き出しの応援があったからであると思
います。

それは、主なる勅命により光の使命としての世界教師としての自覚が深まるごとに、観えざる背後の大悟した方々の高級霊達
の支援は増えて行ったと思います。

大悟をしても光の使命の自覚が薄い方の場合は、観えざる背後の大悟した方々の高級霊達の支援する仲間達は、高次元霊界で
遠目に眺めているように思います。

現在は、大悟のあとの後悟の修行の自戒として、「常光心」の継続に心掛け、理解の認識において仮止めをしています。

それは、知識の仮止め方法を大別して二つあると思います。

@嘘の情報であったと解かった時の心のショックの傷を、限りなく小さく受け止める工夫が可能であると思います。

 大事件を中事件に、中事件を小事件に、心のショックの傷を限りなく小さく受け止める工夫が可能であると思います。

A後際断の工夫で、仮止めの記憶の落とすのに、側頭部の上あたりから、仮止めの付箋紙を外す気持ちで手で払い落すことで、
 他者からの悪心の思念を入れられたときに、瞬時に無心にする方法です。

 単に、マニアルどおり側頭部の上あたりから、仮止めの付箋紙を外す気持ちで手で払い落すことだけでは、無心になれない方
 は多かろうと思います。

 段階的に創意工夫することが、マニアルどおり無心になる秘訣であります。

 あくまでも、霊的な方法でありますが、数秒で瞬時に無心の状態に切り替える方法であります。

 数秒で瞬時に無心の状態に切り替える方が増えて、「常光心」の継続に心掛けで、真の幸福の持続に繋がると思います。

8ヶ月前 No.201

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_pxp

時様は、天邪鬼のようなお方ですね。
正法を知りながら邪法を語り、
邪法を知りながら正法を語る。

8ヶ月前 No.202

★wdm3mOp1pE_dB9

>>202  ヒコ太郎さんへ

簡単な言葉で難しい表現をされますね。

仰る「正法」が仏教での正法の事ならば、正法以外が悪法になりますが、そう言った意味合いならば、両方を知ってはいますが、そういった意味合いだったのでしょうか。・・天邪鬼とは、初めて言われました。興味深いレスをありがとうございました。

8ヶ月前 No.203

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_pxp

時様

昔、阿弥陀如来に興味があって、浄土真宗の寺に説法を聞きに行ったことがあります。
そのとき、話のはじめに、話に興味を持たせるためでしょうか、
坊主の身の上話を聞かされました。
その中で、飛行機に乗ったときに、左に岸が、右に海があって、その中間を飛んでいる、極楽とはこのような場所だろうと思ったという話がありました。
私はそれを聞いて、理解し、なるほど、いい話を聞いた、と思いました。
しかし、本題の阿弥陀如来の話はわけがわからず、ほとんど覚えていません。

飛行機のことは当然経典には書いていないはずなので、坊主は、その話に興味を持つと知っていて、経典に書いていないことを話したことになります(正法を知りながら悪法を語る)
しかし、皆が本題に興味をもつのであれば、そのような話をしませんから、坊主は、本題には皆興味がないとわかっていて、
本題を話したことになります。(悪法を知りながら正法を語る)

さて、結果として私は本題のほうは覚えていなくて悪法の方を覚えています。
この坊主は、天邪鬼とは言えないでしょうか?

時様のお話を聞いて、そのように思ったので、僭越ながら、申し上げた次第です。

8ヶ月前 No.204

★MiRWm6ed1z_dB9

>>204  ヒコ太郎さんへ

今回のレスを拝見して「正法を知りながら邪法を語り、邪法を知りながら正法を語る。」と言う意味と、「天邪鬼」と表現された意味が理解できました。ありがとうございます。

そのように表現されれば、その通りですね。私(時)はこの掲示板において、正法を知りながら邪法を語り、邪法を知りながら正法を語っています。

ご存知かもしれませんが、仏教(仏陀の教え)で正法と表現されているものは、如来(仏陀)の教えの事です。この教え以外を邪法や不善法や悪法と表現しています。そして、この正法は、基本的には当時の出家者に対してのみの法とされていたようです。

・かくのごとき法話は、白衣の在家者達の為には明かされません。かくのごとき法話は、出家者達の為に明かされるのです。

と、とある経典に記載があります。(この言葉は、ある出家者が在家の修行者に対して語った言葉です)

この出家者の基準に当て嵌めるのであれば、正法を知る者は、このような掲示板等での発言は控えた方がよいという事になります。そして同時に正法で言うのであれば、基本的に質問された事には答えますが、聞かれていない事は語りませんので、ここも含めた掲示板等での発言は、全て邪法になるでしょうか。(悟りスレでも、ほぼ教えについての質問はありませんでした)しかし私自身が、仏陀不在の現代において、出家者でもありませんし、心の中で正法を見つめつつ、表に邪法や正法を表現しつつ、再度、正法を見つめつつと言った状態です。

そして今まで「悟りスレ」等に書いていましたが、正法についてのみ書いているとなんだか堅苦しくなってしまうでしょう。漢字だらけでね(笑)正法を知っているゆえに、そのままの表現以外できないのです。なぜならば、正法以外の表現で正法を表現してしまうと、教え自体が歪むからです。ですので悟りスレ等で語った内容は、ほとんど全てが私が学んだ教典内に根拠があるのですよ。

これは大そうな事でもなく、私は出家者でもなく、在家信者でもなく、ただただ仏教の経典を読み、内容を理解し、実践し、当時の仏陀の教えを知っただけの者です。ですので、普通の人ですよ。

> 時様のお話を聞いて、そのように思ったので、僭越ながら、申し上げた次第です。


いえいえ、再度、心の状態を見つめる良い切っ掛けになりました。ありがとうございました。

8ヶ月前 No.205

★VwIrwRtVUr_dB9

>>205  少し補足しておきます。

不善法とは「殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見」の事だという記載がありますが、この不善法の別呼称を「悪法」と表現します。

仏典内での記載がない事を僧侶が語れば「悪法」なのかと言う問いかけがあります。

仏典内では多くの「例え話」が記載されています。これは例え話を用いる事によって、仏陀の話の理解できる人が現れるからですね。同じ事柄に向けて、一つの表現だけではなく、より多くの視点からの話をするという事です。これを多用しますので当時は多くの人々(弟子達)が話の内容を理解したものと思われます。これを別視点で「対機説法」と現代では表現しますね。

ヒコ太郎さんは、僧侶が「極楽とは・・飛行機・・」と言う話をしたが、飛行機等は仏典内には記載がないだろうという事で、その僧侶は正法を知りつつも「悪法」を語ったのではないかと言う解釈ではないかと思います。

現代において「飛行機」等と言う表現は「例え話」として問題なく、私が問題視したのは僧侶が語った「極楽や阿弥陀如来」と言う表現です。勿論、大乗教典を否定しているのではありませんが、原始仏典には「極楽や阿弥陀如来」等の日本語訳は、見た限りありません。つまり大乗仏典よりも古い経典(原始仏典)には記載がない表現が、後世の大乗の経典には記載がある(記載されているのならばですが)と言う事です。

上記、不善法(悪法)の中の「妄語」とは「嘘」の意味です。もしもその極楽や阿弥陀如来の事を仏陀が語っておらず、現代のその僧侶が仏陀の言葉として語ったのであれば、それは不善法(悪法)を語る者として不善人となります。

この場合、その僧侶は、はたして本当に「正法」を知っていたのでしょうか?と言う所に疑問符がつきますね。

8ヶ月前 No.206

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi

時様、私の知っている悪法に「不在正法」というものがあります。
正法にのみ正法が存在するならば、
正法は正法をもとにして書かれたものではないので、正法に正法は無い、という考え方です。
仏陀が正法を広める前には正法は無かったのですから、仏陀はどのようにして正法を知ったのでしょうか?
もし悟りそのものが正法であるならば、正法というのは悟りそのものであって経典に書かれた言葉ではないはずです。
これが私の考える不在正法です。ちなみに造語ですのであしからず。

8ヶ月前 No.207

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi

この悪法には別名があって、「不立文字」といいます。

8ヶ月前 No.208

★teAuUXT5Lu_dB9

>>207  ヒコ太郎さんへ

> 私の知っている悪法に「不在正法」というものがあります。

> 正法にのみ正法が存在するならば、

> 正法は正法をもとにして書かれたものではないので、正法に正法は無い、という考え方です。


「不在正法」が造語である事を了解した上で、「正法」とは仏陀の教え全体の事を言います。ですので、正法(仏陀の教え)の中には、善と悪・正と邪等々の二つの分類で成立しています。

例えばですが「正道と邪道」この二つの理解で正法です。「善法と不善法(悪法)」この二つの理解で正法です。

・いかなるものが邪道なのでしょうか。
無明に縁って諸行があり、諸行に縁って識があり、識に縁って名色があり、名色に縁って六処があり、六処に縁って触があり、触に縁って受があり、受に縁って渇愛があり、渇愛に縁って取があり、取に縁って有があり、有に縁って生があり、生に縁って老死が、愁悲苦憂悩が生じます。かくのごとくが、この全ての苦蘊の生起です。これが邪道と言われるのです。

・では、いかなるものが正道なのでしょうか。
無明の離貪による残余なき滅尽ゆえに諸行の滅尽があり、諸行の滅尽ゆえに識の滅尽があり、識の滅尽ゆえに名色の滅尽があり、名色の滅尽ゆえに六処の滅尽があり、六処の滅尽ゆえに触の滅尽があり、触の滅尽ゆえに受の滅尽があり、受の滅尽ゆえに渇愛の滅尽があり、渇愛の滅尽ゆえに取の滅尽があり、取の滅尽ゆえに有の滅尽があり、有の滅尽ゆえに生の滅尽があり、生の滅尽ゆえに老死が、愁悲苦憂悩が滅します。かくのごとくが、この全ての苦蘊の滅尽です。これが正道と言われるのです。

上記は、経典内に記載のある十二支縁起と現代では呼称されているものですが、正道と邪道の事が説明されていますね。この場合は「苦蘊の生起」の道理と「苦蘊の滅尽」の道理、この二つの道理を合わせての理解が正法(仏陀の教え)の一部です。

> 仏陀が正法を広める前には正法は無かったのですから、仏陀はどのようにして正法を知ったのでしょうか?


これは仏陀自身が、多くの死ぬかと思われる直前までの苦行や瞑想、二人の師を仰いでのそれら師の説く境地等のマスター等々から、仏陀自身が出したもののようです。

>>208
> この悪法には別名があって、「不立文字」といいます。


「不立文字」を調べると「禅宗の教義を表す言葉で、文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味。」とありました。

後世の人々による「解釈の違い」により、多くの宗派が出来たようですね。個々人で好きなように解釈すればよいと思いますよ。

8ヶ月前 No.209

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi

時様、なるほど、ありがとうございます

8ヶ月前 No.210

★ejGpWOGjfZ_dB9

>>209  少し補足しておきます。

「正法」とは仏陀の教え全体の事を言います。ですので、正法(仏陀の教え)の中には、善と悪・正と邪等々の二つの分類で成立しています。

例えばですが「正道と邪道」この二つの理解で正法です。「善法と不善法(悪法)」この二つの理解で正法です。正精進と邪精進・正念と邪念・正定と邪定・・・等々と言う組み合わせで「正法」は成立しています。

では何に対しての「正しい法」なのでしょうか?

仏陀が説いたことは、仏典内に記載されています。

・比丘達よ、私は昔も今も、苦と苦の滅のみを説いています。

と言う事ですので、正法の正しさとは「苦の滅尽」に役に立つことが仏陀の視点での正しさです。ですので、如来(仏陀)の教えは正法と言うのでしょう。各「正と邪」を説き、その内での苦の滅尽へ向かうべく正しい道理を説いています。その方法が四聖諦の中の道聖諦である「八支聖(正)道」です。

正法をまとめると
正を知るには邪も知らないと正を知ることが出来ません。そして、正と邪を知った上で「苦の滅尽」に向かうべく道理を説いています。その方法が八支聖道であり、その先にある苦の滅尽の境地が、涅槃や解脱や寂静等と表現されています。


>>207  を再考してみます。

> 正法にのみ正法が存在するならば、正法は正法をもとにして書かれたものではないので、正法に正法は無い、という考え方です。


正法は「正と邪」で構成されています。

> 仏陀が正法を広める前には正法は無かったのですから、仏陀はどのようにして正法を知ったのでしょうか?


仏陀説いていたのは「苦と苦の滅尽」に関してのみですので、苦行や瞑想の末に見つけた「苦の滅尽」に至る道理だという事で、その方法が八支聖道です。勿論、仏陀が正法を広める前には、この正法は無かったという事ですね。

8ヶ月前 No.211

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi

時様のお話の私の理解は、
正道=苦の滅尽すなわち大晦日
邪道=苦の生起すなわち元日
というものです。
この2つは紙一重でしかありません。
しかし、正道を経て邪道が生まれるのですから、正道の正道たるゆえんはあるのでしょうか?
邪道は正道によって生まれるのですから、邪道の邪道たるゆえんはるのでしょうか?
これを、私は不在正法とします。

8ヶ月前 No.212

ヒコ太郎 ★DJaTy1qGJW_XWi

仏教の数々の宗派、すなわち悪法を生んだのは、
仏陀のつくった正法に他なりません。
ゆえに不在正法なのです。

8ヶ月前 No.213

★ejGpWOGjfZ_dB9

>>212  ヒコ太郎さんへ

> しかし、正道を経て邪道が生まれるのですから、正道の正道たるゆえんはあるのでしょうか?

> 邪道は正道によって生まれるのですから、邪道の邪道たるゆえんはるのでしょうか?


正道からは、邪道は生まれません。邪道を邪道と認識した時、初めて正道への方向性を認識するのですよ。

通常、人々が生活する上で、喜びや悲しみ、悩み等々が入り混じっていますね。この状態が「苦しみ」であり、仏陀視点での「邪道」です。この通常の心の中の状態をあえて十二に分別し、その発生メカニズムを道理として説いたものが「十二支縁起」の内の「邪道」と呼称されているものです。

・いかなるものが邪道なのでしょうか。
無明に縁って諸行があり、諸行に縁って識があり、識に縁って名色があり、名色に縁って六処があり、六処に縁って触があり、触に縁って受があり、受に縁って渇愛があり、渇愛に縁って取があり、取に縁って有があり、有に縁って生があり、生に縁って老死が、愁悲苦憂悩が生じます。かくのごとくが、この全ての苦蘊の生起です。これが邪道と言われるのです。

それぞれの言葉の意味を書くと、かなり複雑になりますので書きませんが、ざっとした何がしかの流れがあるという事は分かると思います。十二支縁起(無明・行・識・名色・六処・触・受・渇愛・取・有・生・老死)と言う十二項目の流れになります。

そして上記仏典内の「邪道」の中の八番目の「渇愛」が欲望や煩悩の事で、これが日常生活の中での「苦の原因」だという事です。(渇愛(欲望)がある時、取(執着)があり、取(執着)がある時、有(三つの世界)があり・・・と続きます。)

ですので、当時の仏陀の教えを正しく学べれば、通常の生活が邪道(苦しみの発生する道理)で形成されているという事が分かります。つまりは「苦しみが生起し続けている状態」だという事です。これが分かれば、正道「苦しみの滅尽」の方向性が分かるという事です。通常の家庭を持ち、家に住み、商売をしての生活自体が、邪道の発生する場と言う事で、その場から離れた出家者にしか「その法」が明かされなかったと言う事です。ですので、かなり特殊な教えですよ。

>>213

>仏教の数々の宗派、すなわち悪法を生んだのは、仏陀のつくった正法に他なりません。

>ゆえに不在正法なのです。


なるほど。ヒコ太郎さんはこのように思われるのですね。了解しました。

・未来の時には、比丘達はまさにそのようになるでしょう。およそ如来により説かれた、深く、義甚深の、出世間の、空性に関する諸経典、それらが語られても、聞こうとせず、耳を傾けず、諸々の了知を心に確立させず、それら諸法を把持されるべきもの、学得されるべきものとして考えない事でしょう。
・しかし、およそ詩人によって作られた、詩歌たる流麗な字あり、流麗な苦ある、外教の弟子によって語られた諸経典、それらが語られたならば聞こうとし、耳を傾け、諸々の了知を心に確立させ、それら諸法を把持されるべきもの、学得されるべきものとして考える事でしょう。
・比丘達よ、このように如来によって説かれた、深く、義甚深の、出世間の、空性に関する諸経典の隠没があることでしょう。

上記は、相応部経典因縁篇20-01-07に記載があるのですが、現代では、この仏典内の仏陀の言葉通りになっていますね。

冒頭で「正道からは、邪道は生まれません。」と書きましたが、仏陀の説いた正道を正道として「そのまま理解」できれば「邪道」は生まれようがないという事です。後世の人々の「思い込み」による解釈の違いで、正道の教えが歪んで伝わってしまい、これが現代の悪法群だと考察します。

ですので、私個人は悪法が生まれた原因は、仏陀の教えへの後世の人々(僧侶たち)の理解力の欠如だと思いますが、同時に個々人で好きなように解釈すればよいとも思っています。

8ヶ月前 No.214

★ejGpWOGjfZ_dB9

>>214  失礼しました。追記です。

>同時に個々人で好きなように解釈すればよいとも思っています。


なぜならば、理解は、それぞれ個々人に委ねられるからです。

8ヶ月前 No.215

ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_XWi

時様

どうもお話をうかがったかぎりでは、正道、邪道の他に邪道以前というものもあるようですね。
私は仏典を読んだことがないのですが、それは長いですか?あまり時間が取れないので短ければ読んでみたいのですが

8ヶ月前 No.216

ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_XWi

しかしひとつだけ違和感を感じるのは、
邪道が苦しみの生起なのであれば、生起する前は苦しみの滅尽された状態なのではないか?ということです。
すでにあるものを生起する事はできません。
もしその苦しみのない状態が、正法によって生み出されたものではないとするならば、
一体何が苦しみのない状態を作っていたのでしょうか?

8ヶ月前 No.217

ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_XWi

誤解を恐れずに言えば、正法によって苦が滅尽されるから、苦が生起し悪法が栄えることができるのです。
苦がもし滅尽されないのであれば、悪法が栄える事はできません。
ゆえに不在正法なのです(何回もすみません。とにかくこのセリフが言いたいのです)

8ヶ月前 No.218

ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_XWi

>しかし、およそ詩人によって作られた、詩歌たる流麗な字あり、流麗な苦ある、外教の弟子によって語られた諸経典、それらが語られたならば聞>こうとし、耳を傾け、諸々の了知を心に確立させ、それら諸法を把持されるべきもの、学得されるべきものとして考える事でしょう。

時様、あなたは空腹で苦しんでいるときに、流麗なものを求めますか?
人間というのは、苦しいときには尿でも飲み、人を食らいます。
そんなときに、流麗なものに出番はありません。

それなのに、腹が満たされれば、尿を飲むな、人を食らうなとわめきます。

一体どこに、正法があるのですか?

8ヶ月前 No.219

ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_XWi

私はまだ仏典を読んでいないので、今のうちにできる限り妄想によって批判しておきます。(妄言によって)

仏教では不殺生というものをいいものとしていますが、(違ったらすみません)
はたして生き物を殺さずに、生きた人間はいたのでしょうか?
生き物を殺さないという事は、死ぬという事です。
だから私は不殺生というのは妄言だと思います。(という妄言を私は言った。)

8ヶ月前 No.220

ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_XWi

妄言その2:
仏陀が死の苦しみについて語ったとき、彼はまだ死んでいません。なぜ、死の苦しみについて知っているのですか?

8ヶ月前 No.221

ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_XWi

時様に教えていただいてばかりでは悪いので、仏典を自分で読んだ方がよさそうですね。
書いていて思いました。失礼をお許しください。

8ヶ月前 No.222

★bK7Lc8MkV8_dB9

ヒコ太郎さんへ

多分、普通に読めばかなり長いと思われると思いますが、もしもご興味が湧くようでしたら、現在の日本の仏教と呼ばれるものの本当の原点である「仏陀の教えとはどのようなものだろうか?」と言う事を解き明かす事が楽しくなりますよ。そうなれば、短いと感じられると思います。原始仏典には、仏陀自身の教えが全て記載されていますから。

もしもそれが解き明かせたのならば「2500年前にお釈迦様は、全ては空だと言いました。」とか「お釈迦様は、生まれてすぐに天上天下唯我独尊」と言いました。なんて話が嘘だとはっきりと分かるはずです。(大乗の経典を否定しているのではありませんが)

そして、仏陀の教えを学ばれたいのであれば「原始仏典」の中部経典152経と長部経典34経の合計186経典を学ばれればよいと思います。そこに仏陀の教えのほとんどが書かれていますよ。

>>217

> 邪道が苦しみの生起なのであれば、生起する前は苦しみの滅尽された状態なのではないか?ということです。


違います。逆ですよ。
苦しみの生起のメカニズムを「邪道(苦の生起の法)」と表現しているのですよ。ですので、我々凡人が、泣いて笑って怒ってと言う普通に生活している状態を仏陀の視点で「邪道」=「苦が生起」している状態だと表現しているという事です。ですので、邪道が生起する以前と言うのは、ありませんよ。

>>218
> ゆえに不在正法なのです(何回もすみません。とにかくこのセリフが言いたいのです)


(笑)ヒコ太郎さんは、楽しいお方ですね。何度でもどうぞ。(笑)

>>219

意味を理解されていないようですよ。その経典のその部分は、将来、私(仏陀)自身が説いた「苦の滅尽に導くための教え」が忘れ去られ、これとは別の耳障りの良い、他の教えを皆は好むようになるでしょう。(実際に日本での仏教でいうのであれば、衆生済度の大乗等の仏教徒が多いでしょ?)つまりこれは、苦の滅尽に導くために、私(仏陀)自身が説いた教えの諸経典の隠没を意味します。と言う事だけです。

>>220
> はたして生き物を殺さずに、生きた人間はいたのでしょうか?


仏典内では、仏陀自身や周りの出家者たちがそうですよ。ただ別の話ですが、三つの条件を備えれば、仏陀は肉を食べたとあります。

> だから私は不殺生というのは妄言だと思います。(という妄言を私は言った。)


はっきりとした妄言、確かに聴きました(笑)

>>221
> 仏陀が死の苦しみについて語ったとき、彼はまだ死んでいません。なぜ、死の苦しみについて知っているのですか?


仏陀は、死の苦しみと言う限定的な事について語っていませんよ。多くの人々が死に直面した時の心情を知っていただけだと思います。

>>222
> 仏典を自分で読んだ方がよさそうですね。

> 書いていて思いました。失礼をお許しください。


失礼ではありませんよ。興味が湧くというのは、素晴らしい事だと思います。そして「自らで確認する」事は大切な事ですね。人の言う事(話)を鵜呑みにしない事です。

では、この辺で、終わりましょうか。また機会がありましたら、よろしくお願いします。
お付き合いありがとうございました。

8ヶ月前 No.223

ヒコ太郎 ★agBjffSqMl_XWi

時様、妄言に付き合っていただきありがとうございました。

8ヶ月前 No.224

★GyqjepO2xu_dB9

>>176,178,184,195,196,198

>>184 にて 理解の基本は

> ・子供の頃に親から言われた「人の気持ちを考えなさい」と言う事です。

> ・言い換えると「人の立場になって考えて発言する」と言う事です。


>>178 にて
> 読み手の世界観が大きくその理解に関わることが分かると思います。


>>196 にて
> 理解は、それぞれの人に委ねられるからです。


等と書きました。では、実際にこの「理解」は、個人の意思で出来る事なのでしょうか?今回はこの「個人の意思で理解する」と言う事について考察してみます。

分かるという事を言い換えると、理解する(出来る)になりますね。通常使われている表現です。「この問題を分かる人ー?」「ハイ!ハイ!ハイ!」と、子供の頃の授業風景にあったと思います。

「ハイ!」と手を上げる行為、これは「私は分かる・私は理解してる」と言う自己表現ですが、仮に「私」と「理解」と「する」に分別します。つまりは「私はする」「何をか?」「理解」となります。

ある問題について最初は理解できない人物が、それを学んだ後に理解できるようになる場合があります。これは一般的には「学び」と言われますね。学んだ結果の理解だと言う事です。

ある問題について最初は理解できない人物が、その後もなかなか理解できない場合があり、終には理解できる場合があります。これは一般的に「努力のたまもの」等と言われますね。努力の結果の理解だという事です。

そして後二つ。ある問題について最初から直観的に理解できる場合があります。もう一つは、いくら学んでも理解できない場合があります。

これらは一般的には「頭の良し悪し」等と言われる場合がありますが、果たしてそうなのでしょうか?

もしもこの理解できる出来ないという事が「頭の良し悪し」であるのならば、これはもう自らの意思により「理解が出来る」と言う事にはならない事を意味します。なぜならば「頭の良し悪し」は、自らの意思で決定されるものではないからです。逆に「努力」によって「理解」が決定するのであれば、その努力自体も、自らの意思で出来る事だろうかと言う事に疑問符を付けてみます。「努力は、自らの意思で出来る事だろうか?」と言う事です。

上記の「理解できる」と同じ構図で

これは「私は努力する・私は努力してる」等と言う自己表現になりますが、仮に「私」と「努力」と「する」に分別します。つまりは「私はする」「何をか?」「努力」となります。

ある問題について最初は努力できない人物が、それを学んだ後に努力できるようになる場合があります。これは一般的には「学び」と言われますね。学んだ結果の努力だと言う事です。これは「理解」の後の努力と言う事です。

ある問題について最初は努力できない人物が、その後もなかなか努力できない場合があり、終には努力できる場合があります。これは一般的に「継続のたまもの」等と言われますね。継続の結果の後の努力だという事です。これも大枠で分類すれば「理解」の後の努力と言う事です。

そして後二つ。ある問題について最初から直線的に努力できる場合があります。もう一つは、いくら継続していても努力できない場合があります。

上記の「継続」についても同じ構図です。

人と会話する時、または、何かの文章を読んだ時、・・理解するのではなく、理解は起こるものです。これは自らの意思とは別領域・無関係に、起こる場合と起こらない場合とがあるという事を意味します。

最初に戻り、自らの意思での「理解」の実現は不可能だと結論します。つまり「理解」は、自らの意思とは無関係別に突如として「起こる」からです。

8ヶ月前 No.225

恋愛学者 ★hgO5uy70ri_PGu

>>225

確かに、そう思います。

8ヶ月前 No.226

★Wd1b9b13tx_dB9

>>176,178,184,195,196,198,225

今まで「理解」とは何か?理解の仕組みについて等の考察を書いてきましたが、今回は、人同士の会話を通じての理解を繋ぐものを考察してみます。

会話等において、その世界観を繋げるツールとして表現する代表的なものは「言葉・文章」ですね。

ではこの「言葉・文章」をツールとして使った場合の会話において、何故、相手に語り手Aの世界観を自らの言葉や文章として表現する場合に、このツールを使えばその世界観が聞き手Bに伝わり易いのか?ですが、これはもう、ツールとしての「言葉・文章」が、会話する者同士での共通要素のツールであるからです。つまり、日本人ならば日本語がツールとしての要素を満たします。ですので、通常は、日本人同士ならば日本語で通じ合えるのですね。当たり前の事です。

これは、語り手Aの世界観を、共通の「言葉・文章」と言うツールを使って聞き手Bに表現します。Bは、その「言葉・文章」(ツール)の意味合いをBの世界観に合わせて理解に至るという事です。

その場合、語り手Aの世界観と聞き手Bの世界観がまるで違った場合には、同じ日本語であるはずのツールがツールとして機能しません。ですので結果、不理解となります。つまり、同じ日本人同士でも、その世界観がまるで違った者同志の会話であったのならば、その両者の間で交わされる「言葉・文章」は、同じツールである「日本語」であったとしても、そのツールでの表現である「言葉・文章」を介して、話し手Aが伝えたいAの世界観の「それ」は伝わりません。つまり、不理解が起こるという事です。

例えば、語り手Aが、Aの世界観においての「何か」を聞き手Bに対して「言葉・文章」で表現します。この表現されたものは、Aの世界観では「それ」に当たるものです。この時、聞き手のBの世界観が、Aの世界観とその部分での同じ世界観を描いているのであれば、Aの表現した「それ」が何を指しているのかが、Bの世界観の中に浮き上がります。そしてこれは、A、B双方での共通の世界観での「それ」に対しての共通の意味となります。

例えばですが、Aが「そろそろアノードの交換だな」と言う「言葉・文章」をBに発したとします。Bはそのツールとしての表現である「言葉・文章」を聞き(或は見)、そのBの世界観に取り込み、照らし合わせて「アノードの交換」の話だという、Aの話した「それ」の意味をBの世界観に浮き上がらせます。これが上記で書きました、AとBのその部分での共通の世界観での「言葉・文章」と言うツールでの表現を通じての意味の理解だと言う事です。

これがAとはまるで違った仕事をしているCの場合、または違う表現をすると、Aの世界観とは全く違う環境下にいるCに発せられたとすると、同じ日本語と言うツールを介しての「言葉・文章」の表現であっても、そのAの発した言葉の意味合いを、CはそのCの世界観に浮き上がらせることができません。つまりCには不理解だという事です。これも当たり前の事ですね。

同じ趣味や同じ職場環境等、同じような環境下においての会話での言葉や文章の意味は、その共有されている世界観においての共通部分でのみに、そのツールがツールとしての機能を果たしているという事です。つまり、その意味が通じるという事ですね。

では、一般での会話の場合はどうでしょうか。

日本人であるならば、基本的に日本語がその意思の伝達としてのツールですね。しかし、その地域や家族構成、育った環境、男女の別、現在の環境等で、同じツールとして表現されたはずの「言葉・文章」を発しても「同じ意味合い」にはならない場合が多くあります。例えばの、方言がそうですね。勿論、ほぼ同じ意味合いのものも多くあります。つまりは、同じような環境下において描かれている個々人の世界観の中での共通項のみにおいて、発せられた「言葉・文章」の意味が相手に通じると思われます。そして賛否や返事を返す返さないは別として、同じ「それ」についての相互の意図する意味合いが通じ、理解に至るものと思われます。

順番で表現すると、日本語において「こんにちは・いらっしゃませ・駄目」等はほとんどの日本人が理解し、その意味合いも理解できるでしょう。次には「方言・専門用語」等のある一定の特殊な環境下でのみ通じるような「言葉・文章」です。この場合は、専門職等以外の個々人には、同じ日本人同士のツールとしての日本語であっても、その意味することろは、ほぼ通じないと思われます。

そして最後に「造語」です。これは個々人の世界観において最も適したと思われる表現として、語り手の世界観の中で語り手が同じ日本語と言うツールを介しながら「言葉・文章」以前の「単語」を自ら造って発せられます。この場合は、語り手がその「単語」について説明するか、聞き手が想像するか、説明を求めるしか理解の方法がないと思われます。

冒頭で、会話においてその世界観を繋げるツールとして表現する代表的なものは「言葉・文章」ですね。と書きましたが、もう一つ特殊なものとして「言葉・文章」以外にも意思の疎通である意味の伝達方法があると思われます。

それは「言葉・文章」を交わさずに「態度」を見る・見続けると言う事で、あるいは、感じ取る事によりその意図する意味合いが通じる場合があります。いわゆる「以心伝心」の事です。いずれにしても「それ」に対する同じ世界観を対話する両者が描けていれば、その意味するところは通じると思われます。そしてその両者の世界観をつなげるためのツールとして表現するものが「言葉・文章」と個々人の「感性」等だと思われます。

>>226

ありがとうございます。

8ヶ月前 No.227

★pQ9dEwc2Xj_dB9

>>176,178,184,195,196,198,225,227

「理解とはなにか」と言う事に色々とついて考察してきましたが、

「人と呼称される世界に、何の意図もなく、突如として沸き起こる閃き」だと結論します。以上です。

8ヶ月前 No.228

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

主観性と客観性の同一化により心が生まれます。

8ヶ月前 No.229

ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_dB9

理解とは、理解したいという願望とその達成感である。

使い方が限定された道具、完成されたロジックが相手だと
使い方、反復的な実証実験によって成功、失敗という結果が得られ、理解度が判定可能である。
相手、時間によって形が変わる人相手では理解度の判定は不可能である。
しかし、一時的に得られた達成感によって理解した、と勘違いする。
これが理解の正体。

実生活での個人的感想では、理解という願望とその達成はおおむね価値がない。
価値があるのは、成果であり、成果の安定した出力の最低条件が理解であるため。
正しくは、理解という願望とその達成で止まってしまうことに価値がない。
例えば、野菜の育て方を理解していても、実際には、食い扶持を確保し、最低限の実りを確保し
次につなげていけないと死ぬ。

8ヶ月前 No.230

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

野菜を育てるには、野菜の季節の種類によって育て方が百種百様です。

一口に野菜の育て方と言うものは、水と日光と肥料が大切と言う・・幼稚園児の基本だけでは育つことは出来ません。

ゆにこさんは、このレスを読んでもらいたいです・・

8ヶ月前 No.231

ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_dB9

野菜の育て方を理解したものが、野菜を育てようとして失敗したとき
失敗したのだから、野菜の育て方を理解が足りないからだ、と評価されることがある。
これは正しいか、考えてみる。

理解が足りないということは、対比として十分な理解があるが、十分とはどれだけか。
単純に十分イコール全てとして考えてみると
水の成分、野菜毎の必要量、野菜の状態ごとの必要量、土壌との相性など対環境の考慮というように詳細レベルまでを
日光、肥料、温度変化、野菜の種類、状態、種の良し悪し、間引き方法などなどそれぞれのカテゴリについて理解し
かつ、時間経過とともに変化するものについても理解をしていかなければならず
無限縮退を引き起こし、いつまでたっても全てに到達しない。
従って、どんなに理解が足りない、を補っても、無限に新たな値、関係項目との関係性が発生し、
いつまでたっても成功には到達しない、と考える。

では何が足りなかったのか、というとことを私なりに考えてみると
己の知っている野菜の育て方と、現状の何が違うのか知覚できない、あるいは判断できなかったということと、
現状の差分と己の知ってる野菜の育て方に近づけるためにはどうすればよいか、考察し実現できなかったからであり
知覚、判断、考察、実現は、理解とはあまり関係がないように思う。
論理的思考能力に優れ、知覚、判断、考察、実現能力が高い人物が、
専攻ジャンルとは全くの別ジャンルでも力を発揮する、という現象があるためだ。

8ヶ月前 No.232

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=3PdnMelSEl

あなたの言う理解の意味は納得でしょ。

小祝政明『有機栽培の基礎と実際』「序章 なぜ有機栽培で失敗するのかーー思い違いから探る」ではいくつかの「思い違い」が紹介されており、そのなかで実際に相談を受けて解決した例を紹介している。その一つのナスでの事例を挙げると、
ボカシ肥料の使用により作物の根が活性化して吸肥力が増大。しかし元肥にしかミネラルを施用していなかったため(追肥はボカシのみ)、根が成長しているのに土壌がカルシウムとマグネシウムの欠乏を起こしていたため、栽培初期の収量より収量が減り、品質も低下していた。栽培初期は土壌のもともとのミネラルがあったからこそ収量が良かったわけだ。土壌分析により不足しているミネラル(マグネシウムとカルシウム、つまり苦土と石灰)を確認。それらをこまめに追肥していくようにしたところ、栽培当初のような品質に戻ってきたとある。

あなたの話は抽象的すぎる。どのような失敗をしたのか、どのように育ててきたのか、そこらへんを度外視してるから、「いつまでたっても全て(十分な理解)に到達しない」となる。素朴に「理論」と「実践」を分離させている。
「野菜の育て方に失敗したとき〜」と言っているのに、それがどのような失敗だったのかの理解についてはまったく言及されてないんだから。

論理的思考能力がどうこう言ってるが、勉強することの意義は、長い時間をかけないと得られない体系的な知識を得ること、およびそれを得るまでの長い時間に耐える力。いくら論理的だろうが定義がどうたらやってるだけじゃなんにもならん。論理的思考能力とやらがあろうと、行き当たりばったりでやってんならしょうがない。

論理的思考能力と言うより、わからない状態からとにかく早く抜け出たい(納得したい)っていうのを押し留めたり、さらには自分じゃどうにもできなさそうだと認めて教えを乞うことができる、そういうのが大事。

納得すなわち理解ではないってんならそりゃそうだけど、あなたの話は、論理的思考能力とか言って、対象への理解を度外視してる。「失敗したとき〜」と言っているのにどういう失敗かを書いていないように。そりゃ書けないでしょ。どういう失敗があって、その失敗は何によるのかを理解してないから。
ボカシ肥料を多用しているところでは、窒素過多と苦土石灰をはじめとしたミネラル不足による症状ーーたとえば葉の過大生育(葉が大きくはなるが色つやが悪く、光合成による炭水化物生成が不十分になり、実がうまく生育しない)が起こる、といったことを知らなけりゃ、そりゃそうなる。まるで論理は万能バサミみたいな主張に。

8ヶ月前 No.233

ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_dB9

>あなたの話は抽象的すぎる。どのような失敗をしたのか、どのように育ててきたのか、そこらへんを度外視してるから、「いつまでたっても全て(十分な理解)に到達しない」となる。


>>230 引用
理解とは、理解したいという願望とその達成感である。
この場合成功パターンを理解したいという願望とその達成感
だが、明日その成功パターンで成功する必然は存在しない。
でも、洗練された成功パターンであるため事実上、「問題ない。」
だから、それが理解だ、それ以外何があるのか。「何も問題ないだろう?」
すなわち、理解とは、理解したいという願望とその達成感である。

8ヶ月前 No.234

哲人 (T.Oishi) ★CQ2jRNgyzl_M0e

>>理解とはなにか


理解とは、物事を道理にて解くことを指します。

8ヶ月前 No.235

★iPhone=eGyshOj2Ms

>>230
「理解とは、理解したいという願望とその達成感である。
使い方が限定された道具、完成されたロジックが相手だと
使い方、反復的な実証実験によって成功、失敗という結果が得られ、理解度が判定可能である。
相手、時間によって形が変わる人相手では理解度の判定は不可能である。
しかし、一時的に得られた達成感によって理解した、と勘違いする。
これが理解の正体。
実生活での個人的感想では、理解という願望とその達成はおおむね価値がない。
価値があるのは、成果であり、成果の安定した出力の最低条件が理解であるため。
正しくは、理解という願望とその達成で止まってしまうことに価値がない。
例えば、野菜の育て方を理解していても、実際には、食い扶持を確保し、最低限の実りを確保し次につなげていけないと死ぬ」

さて、 >>234 はどっから「引用」してきたのかわからないが、どうやら野菜うんぬんはなかったことにして、しょうもない帰納法批判じみた話に移ったわけだ。あなたが言いたかったことをあなたがあらためて書き直したものだ、と見なしておこう。
>>230 には「価値があるのは、成果であり、成果の安定した出力の最低条件が理解であるため」
とあるわけだが、「成功パターン」ってんだからknow-whatではなくknow-howの話をあなたはしてるわけだ。そのさい、人間の選好とその選好充足によって「理解」について語っている。

ところで、「大根を綺麗に育てるために畑に石をたくさん埋めましょう」なんて方法は存在しない。大根の伸長する先に石があったら大根は変形してしまう。大根の種を植えたところによっては上手い具合に石がないこともありうる、なんて言っても、伸びるさきに石があったら大根が変形するのは否定できていない。
大根が伸びる先に石があったら大根は変形する、もしさらに詳しく述べようとするなら、土に比べて石が硬くて重いとか瑣末なものまで挙げていくことになるが(大根の伸びる先に土があっても大根は綺麗に伸びる、とか、石ではなくともその土壌に粘土質の塊があれば石があるときと同様に大根は曲がってしまう、とか)、あなたの言う抽象的な「成功パターン」とやらで片付けられはしない話だ。
あなたの心理的な話からではあからさまな失敗も、それについての考察も、対象についての理解と無縁だとなるし、「たいていの人は納得のことを理解と言ってるんだ。世の中がそうなんだから、理解ってのはそういうもんなんだ」みたいに言ってるなら、素朴な多数派論証にすぎない。
知覚だ考察だともあなたは言っていたが、たとえば失敗例の研究って考察の一様だろうけど、その失敗はなぜ起こったのかを考察するわけで、それを「理解」と「あまり関係がない」と言う意味がわからん。考察で失敗の意味を理解したうえで施肥設計を修正するんだから。

「洗練された成功パターンであるため事実上、「問題ない。」
だから、それが理解だ、それ以外何があるのか。「何も問題ないだろう?」」
あなたの主張と言うより、あなたが想定しているありうべき考え(「問題ない」)に反して、同じく小祝政明の『有機栽培の基礎と実際』では、「有機栽培だから収量は低くても仕方がない」という或る人が問題視していないことを問題視する人がいることや、その人の考えにはどのような問題があるのかの指摘も書かれている。
トマトに与える水を制限することで糖度を高めるという手法だって、普通にトマトを売ってりゃ食い扶持は稼げるのにそこで「なにも問題ないだろう?」で済ませない人がいたから広まった手法。雨量の少ない年のトマトが甘かった、みたいな経験がきっかけだったのかもわからんけども。
「理解が足りない」と言われて不快になった経験でもあるのかな。理解と「知覚」「判断」「考察」もろもろを分ける意味がまったくわからない。
そりゃあ『おもひでぽろぽろ』のお姉ちゃんみたいに、算数で躓いた女の子に対して「こうすりゃこうなるんだからいいの」みたいに言う人がいて、その人が「なんでこんなのが理解できないの? わからないの?」という言葉遣いをすることはありえる。円周率がどういうもんか私はろくに理解しちゃいないが、もし普段の生活でそれに関連する話が出てきたら(クイズ番組かなにかを見ているときとか)、ついつい「知ってる」とか「わかる」とか言っちゃうだろう。まだまだ言葉遣いがなってないわけだ。その意味ではあなたが言うように、「とりあえず解ける」という「成果」があることから「理解してる」と言う人はたくさんいる。あなた風に言えば、「解けるんだからいいじゃん。何か問題ある?」みたいに。
だから、理解という言葉はそういう風に使われることが多いってんならそりゃそのとおりだし、どうでもいい話だ。

さておき、野菜関連だけで言っても接木とかまだまだ色々あるし、他分野でもカップヌードルの誕生やデカルトに対するフッサールの批判やなんやかやあるが、自分や家族の食い扶持を稼げているんだからそれでなにも問題はないと言うなら、それはそれで立派なことだし(このご時世なら尚更だ)べつにそのままでいいんじゃないの。
ただ、上掲書の著者が講演会で接してきて得られた農家の要望として、
「その要望というのは、「作物の収量・品質をよくしたい」というだけでなく、「なぜ収量・品質が高まるのか」「作物の体のなかではどんなことが起こっているのか」「作物が生きているとはどういうことなのか」「では人間(農家)は何ができるのか」」
といったものが挙げられるように、あなたが想定した返答「問題はない」で済ませない人もいるわけだ。
あなたの話が、現状でそれなりに成果がある(成功している)ことこそが失敗の素だ、と言うなら、それは正しい。成功は失敗の母だと言うならば。すでに述べたナスの件では、栽培開始初期(なかなかいい成果)の土壌のコンディションとしばらくたってからの土壌のコンディション(成果は下降曲線)の変化を把握できていなかったわけだし。
必然どうこうで言えば、トマトやキュウリに適時に支柱を供えてやらなけりゃ地熱や実への圧によって実がダメになるのは必然。失敗は必然、と言ってもよい。その場合、大根のところで述べたようなまぐれや幸運による「成功」をもちだして否定しようとしても、まぐれ「成功」に胡座かいていたらまた失敗するわけだ。失敗していても食い扶持を稼いでいけているというから看過できる程度の失敗だとしても。

まだ言えることがあんならどーぞ。

7ヶ月前 No.236

百理 ★5z6bVAmgS3_dB9

ほっといても育つイモや玉ねぎに比べ・・虫よけや病気予防で手間暇かかる野菜や素人ではまともに収穫できない人参・・

おとなしい野菜だけでも千差万別

これが動物ならもう七転八倒・・

7ヶ月前 No.237

ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_dB9

>>236

>まだ言えることがあんならどーぞ。


全体として己の考えを述べたいだけなのか、「まだ言えることがあるなら」というのが論破したと述べたいのか
表現がよくわからないので、この部分は無視する。

>ところで、「大根を綺麗に育〜


>あなたの言う抽象的な「成功パターン」とやらで片付けられはしない話だ。


>考察で失敗の意味を理解したうえで施肥設計を修正するんだから。


完全性を求める場合、設計は完了しない。
成功パターンとして片づけられない話を限定し、そのうえで設計を行うことによって成果を確認し、改善を経て完成させる。
この限定範囲は精度になる。ここでいう精度とは阿さんのいう理解に置き換えることができる。
設計した成果の成功、失敗によって精度が見直されるが、最終的には人間の選好とその選好充足によって精度が決定される。
そこには、人、もの、金(時間)などの理由はあるが、その決定は対象についての理解とは無縁であるし
こことで完了とする、以上の意味はない。
ゆえに、改善された手法、別の手法が生まれてゆく。

>理解と「知覚」「判断」「考察」もろもろを分ける意味がまったくわからない。


知覚、判断、考察によって理解がもたらされるとするなら
理解が前提になくてもそれらは有効で、別物である。
また前述のように理解を精度と言い換えるなら、精度は常に見直しが必要だ。
実生活、つまり相手も状況も変化する場ではかならず見直しが必要になるといっても過言ではない。
このとき、精度よりも見直しや精度があっていない、と気づくことの方が重要である。
なんらか違う、と気づきさえしていれば、得られた結果を鵜呑みにすることはないからだ。

7ヶ月前 No.238

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=eGyshOj2Ms

「完全性を求める場合、設計は完了しない」
改良および収量や質の低下を防ぐために計画してるんだよ。なんだ「完全性」って。

「設計した成果の成功、失敗によって精度が見直されるが、最終的には人間の選好とその選好充足によって精度が決定される」
何に対する選好? 何の精度?
野菜の出来の改良や収量の増加ってんならそりゃそうだよ。出来のよい野菜がたくさん作れるようになった、根腐れが少なくなったとか葉の黄化が少なくなったとか、そりゃ農家が求めることの一つだ。いい野菜をたくさん作れるようになることを求めてるわけで、ボカシや土壌の養分の分布や作物の生長の仕方などの知識know-whatからの作り方know-howが、経験則や当て推量とは異なる安定性をもっているわけだ。

「その決定は対象についての理解とは無縁であるし、こことで完了とする、以上の意味はない。ゆえに、改善された手法、別の手法が生まれてゆく」
対象についての理解の話じゃなく満足や納得の話でしょ、それは。朝三暮四と同じ話で、納得が生じるには理解と関係ないって話。だからなんだ。
あなたの話は、「理解とは理解したいという願望と達成感だ」ってものでしょ。なのになんで「その決定」や「ここで完了とする」という「達成感」が「理解とは無縁だ」なんて言ってんの?
「ここで完了とする」って「これで完成した。達成した」ってことでしょ。生活するに十分な収入を得られるようになったから、とか。そりゃ十分な収入どうたらは野菜と関係ない。
しかしあなたは、そうした達成感を「理解である」と言ってるじゃん。
ここであなたは「対象についての理解」をもちだしているわけだが、あなたによれば、
「自分の収入が望んでいる額になったがゆえにここで(野菜についての自分の理解が)完了した・達成された・完成されたとする」
となるわけだ。「金」だなんだはそういうことでしょ。
自分の望む収入以上の収入を得ることができるぐらいには野菜を作るための知識を理解した、ってだけであって、野菜を「完全に」理解したことにはならんでしょ。あなたの知り合いにそんなこと言っている人がいるならその人が間違ってるだけだ。「一時的に得られた達成感によって理解した、と勘違いする」と言ってるように。自分で否定してるじゃないか。勘違いしてる、理解してない、と。
「理解という願望」っていう変な日本語から指摘しなきゃだめなのか。野菜や野菜の作り方を理解することを望む、それにより収入を稼ぐことを農家は望むわけでしょ。だから、自分が望む収入を得る程度には「十分に」野菜が作れるようになったという(さしあたりの)目標達成と、その達成による満足から、「自分は野菜や野菜の作り方を「完全に」理解した」と見なすならおかしい、「勘違いだ」ってんならそりゃそうだよ。そりゃそうだ。
なのになぜ、「理解とは理解という願望およびその達成感である」 >>234 みたいな話になるのか。 >>238 では出てきてないが、「勘違いしてる奴らにとっては」という話なら捨ておこう。

で、あらためて >>238 だ。
「知覚、判断、考察によって理解がもたらされるとするなら
理解が前提になくてもそれらは有効で、別物である」
小学生でもトマトは野菜だとわかっているように、野菜についてどういうものかってのは或る程度はすでに理解されてるじゃん。
で、私が言っているのは、
「知覚だ考察だともあなたは言っていたが、たとえば失敗例の研究って考察の一様だろうけど、その失敗はなぜ起こったのかを考察するわけで、それを「理解」と「あまり関係がない」と言う意味がわからん。考察で失敗の意味を理解したうえで施肥設計を修正するんだから」 >>236
だよ。キウイの樹を知覚することも、そのキウイの様子からキウイの樹の調子が悪くなったと判断することも、キウイの調子が悪くなったのは樹齢によるものだと判断することも、そりゃ可能だよ。あなたの言う「有効」の意味がわからんけど。
で、とあるキウイ農家が小祝にそれを相談したところ、キウイの樹齢ではなくこれまたボカシのやりすぎで苦土石灰が欠乏していたことがわかった。それをもとに樹の調子の悪化(葉の変色による光合成不良)は苦土石灰不足が原因だと小祝は考えた。
あなたの言うように理解度が低くても判断や知覚は可能だが、その判断の是非に理解度は深く関わっている。誤った判断もあるように。だから「知覚、判断、考察、実現は、理解とはあまり関係がないように思う」 >>232 を批判したんだよ、私は。この箇所の「理解」は「達成感」だか「願望」だかのほうかな? どうでもいいが。

「また前述のように理解を精度と言い換えるなら、精度は常に見直しが必要だ。実生活、つまり相手も状況も変化する場ではかならず見直しが必要になるといっても過言ではない。このとき、精度よりも見直しや精度があっていない、と気づくことの方が重要である。なんらか違う、と気づきさえしていれば、得られた結果を鵜呑みにすることはないからだ」
施肥設計はちゃんとやるなら作付けから収穫までを1サイクルとしてサイクル毎にやるもんだよ。土壌の状態を確かめたうえで。作付けの数を増やしてみて上手くいったならそのぶん土壌の養分も減るんだからどのぐらい増やすかとかを考える。
毎回毎回、考えることはある。毎回毎回、同じ数の種を植えるって決まってるわけじゃない。新しい野菜に挑戦してみようってのも起こる。道の駅や料亭などの仕入先の要望で、「こんなのがあったらいいな。出来ない?」ってのとか色々だ。ミカンを使って作った肥料を試してみようという試みもあったし、勉強会や講習会も閑散からは程遠いものだ。

で、「理解という願望と達成感」とやらの話はあなたが自分で「勘違い」だと批判してるから、これはあなたの本当の主張ではないんだろうとして(「なにが問題だ?」の鉤括弧からしても)、「知覚〜考察は理解とあまり関係がない」も批判したわけだが、レスがあるとするなら後者かな? べつに「理解という願望と達成感」を主張してもいいけど、死路だしなぁ。

7ヶ月前 No.239

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

モノを考える視点をいくつ持ち合わせるか?

上から目線・下から目線・同じ高さの目線・斜め目線・・目線ごときでは解らないものもあると思いませんか?

7ヶ月前 No.240

ttt @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★7HA1lcZT5t_dB9

>で、とあるキウイ農家が小祝にそれを相談したところ、キウイの樹齢ではなくこれまたボカシのやりすぎで苦土石灰が欠乏していたことがわかった。

>それをもとに樹の調子の悪化(葉の変色による光合成不良)は苦土石灰不足が原因だと小祝は考えた。

>あなたの言うように理解度が低くても判断や知覚は可能だが、その判断の是非に理解度は深く関わっている。誤った判断もあるように。


小祝氏の判断の是非は、「理解度」によって決定されるのではなく結果によって決定される。
小祝氏は理解しているからよりよい判断ができるのではなく、類似の結果を求めた(知覚〜考察)からである。
小祝氏は理解しているからより良い判断ができるのだ、とするならば、同氏は、いったいいつから「理解」したのか
また、いつ「理解」したことになるのか、について述べなくてはならない。
話は戻って、小祝氏の判断と相談者の理解度が異なるならば、類似の結果が求められたかどうか(知覚〜考察)が異なる。

このとき理解度とはおそらく知覚〜考察を包括した用語として用いられており
理解そのものとは何なのか、に触れていない。
なので、知覚〜考察は理解とあまり関係がない、としている。

7ヶ月前 No.241

百理 ★5z6bVAmgS3_dB9

エイプリルフールでパラドックスは修正されます。

「クレタ人は、いつも嘘をつく」今日はエイプリルフールです。

いつも嘘をつくは、嘘ということで・・クレタ人は本当のことを言うときがあるのです。

今日はすべてがパラドックスになんかならない日です。

7ヶ月前 No.242

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=rUm247hEcy

「小祝氏の判断の是非は、「理解度」によって決定されるのではなく結果によって決定される。小祝氏は理解しているからよりよい判断ができるのではなく、類似の結果を求めた(知覚〜考察)からである」
>>230
「価値があるのは、成果であり、成果の安定した出力の最低条件が理解であるため」
とあなたは言っているわけだが、あなたな言うとおり、「結果」だけで物を言うならまぐれ当たりとまぐれではない当たりとの区別がつかなくなる。 >>241 の書き出しは粗雑な成果主義を思わせるが、「小祝氏の判断と相談者の理解度が異なるならば、類似の結果が求められたかどうか(知覚〜考察)が異なる」という言い方で、あなたは粗雑な成果主義が自分の支持する思想とは異なることを明らかにしている。

さて。「類似の結果を求めた」という表現だが、「求めた」を「求めて行動した」とするなら、農家の「この樹は樹齢だから葉色も実付きも悪いんだ」という解釈にすでに現れているように、農家はその農家としての経験および日常的な経験から、「植物ないしは生物は加齢によってパフォーマンスが落ちる」ということを前提にしているとわかる。つまり農家もまたそのキウイの樹以外の「類似の結果」を知っている。小祝より高齢かつ農家である男のことだから、小祝より「類似の結果」をたくさん見聞きしていておかしくはない。

とすると、あなたが挙げた考察が両者の差異の根源であるわけだが、あなたによれば両者の違いは「類似の結果を求めたか否か」だと言われている。しかし私の引用元の著作には植物の生育における炭水化物の重要性に関する論述や、植物の生理や、豚ふんや牛ふんの特徴などが事細かに記されている。あなたは私による引用に依存せざるをえないためか、「類似の結果を求めた」という表現をするわけだが、「考察」抜きに「類似の結果」を集めることはできる。「老齢になるとパフォーマンスが以前より落ちる」という一般的判断の是非はさておき、これと「類似の結果」は年寄りが早く走れないことや老朽化による道具の損壊など、考察と呼ぶに値しない経験的事態への解釈から補強される。
だから「小祝氏は理解しているからよりよい判断ができるのではなく、類似の結果を求めた(知覚〜考察)からである」は間違い「類似の結果を求めた」という表現が意味する事態には「考察」が入る余地はない。

「小祝氏は理解しているからより良い判断ができるのだ、とするならば、同氏は、いったいいつから「理解」したのか。また、いつ「理解」したことになるのか、について述べなくてはならない」
んなこたない。

「このとき理解度とはおそらく知覚〜考察を包括した用語として用いられており
理解そのものとは何なのか、に触れていない」
「なので、知覚〜考察は理解とあまり関係がない、としている」
「なので」とか言ってるが、あなたは私がレスをする以前から「理解」を納得や満足としても語っていたんだから(他方で「安定した出力の最低条件」や「勘違い」という表現に見られるように「理解」を納得や満足とは異なる仕方で書いているが)、そのうえで「理解と知覚や判断や考察や実現はあまり関係ない」と言っていたんだから、その「なので」は間違い。
さて、今回のあなたの要求は「理解そのもの」とやらだ。ここで言う「理解そのもの」とは他のものから孤立した「理解単独」だが、理解はつねにすでに何かに対する理解であるため、はじめから無理な要求でしかない。そしてそのことは「理解は存在しない」を意味するのではなく、理解に関して今回あなたが要求していることが誤りであることをも意味しうるというのは、多少なりとも論理がうんぬんを言うんだったらわかるだろう。
さて、ではどうなのか。
鶏ふんの効用と牛ふんの効用の違いに対する理解を言うとき、鶏ふんや牛ふんの成分の違いを理解することが重要になるが、それに関しては様々な観察をもとにしなければならない。さしあたりはその牛や鶏がなにを食っているのか、になるかな。となると知覚(たとえば牛ふんを見ること)や知覚判断(たとえば「これは牛ふんだ」「この牛ふんは乾燥している」など)が牛ふんに対する理解から不可分のものとなる。あなたによればこれだけで「知覚〜実現」と理解はあまり関係がない」となるらしい。なぜならあなたによれば牛ふんと鶏ふんの違いに対する理解については「理解そのもの」を語ることができないから。
となると、失明してからでもオイラーは数学を研究できたように、たとえば数学のようなものであればあなたは「理解」が「あまり関係ない」とは言わなくなるのだろうか。いや、数学には「考察」があるので、あなたによれば「理解そのもの」とやらが語りうる領域として数学も相応しくない。
ここまで言われて自分の要求こそが馬鹿げていたと、「単純に十分イコール全てとして考えてみると」 >>232 という前提こそが馬鹿げていたと、つゆほどにもよぎらないだろうか。それならそれでかまわないが、 >>232 に遡って言えば、「理解が足りない」とは「目標に到達するに適うadequate程度の理解をできていない」ぐらいのものだ。あなたの気ままな仮定はなんにも関係ない。あなた自身、「などなど」と言っているように、あなたの言う「十分な理解」について「十分なfull」記述をできていない。そのことはあなたの落ち度ではないが、そんな仮定に依拠しつづけることはあなたの落ち度。もっとも、あなたの言う「十分なfull理解」だって気候や地質など知覚や知覚判断と不可分なものであったのだから、あなたの言う「十分な理解」も今回のあなたのレスによれば「理解とあまり関係がない」となるわけだが。

「理解そのもの」という抽象化された概念ではなく、「何かを理解しているとは、その何かに関してできることがある、ということだ」というように、現実に即して「理解」を語ることができるかどうかが重要。誰だって乾燥した紙片に火を近づければ紙片に火が燃えうつることを理解している。素朴な理解だが、この理解のゆえに、放火というそれまでしたこともない行為もできるようになっている。コップに入った水を火で燃やそうとか、タバコに蛇口から出る水道水で火をつけようとか思いつきさえしない程度には、すでに火や水について理解してしまっている。それが理解の事実的な在り方だ。

7ヶ月前 No.243

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

「コップに入った水を火で燃やそうとか、タバコに蛇口から出る水道水で火をつけようとか思いつきさえしない程度には、すでに火や水について理解してしまっている。それが理解の事実的な在り方だ。」

って、ゆうけどさあ、そうゆうのって、「理解」ってゆうのかな。むしろ「本能的」な反応って気がする。ポイントは「思いつきさえしない程度に」ってことだ。「理解してる」っていうのと、「わかってる」ってゆーのはチガウ。どーよ?

7ヶ月前 No.244

ttt ★nBd65TRlMY_Vx8

>>243

>「類似の結果を求めた」という表現が意味する事態には「考察」が入る余地はない。

あなた述べる考察の入らないアクションは結果を集めたという表現になるように考える。
AIのために結果を時間をかけて集めても、意味をなさないケースがあるのと同じことである。
また、求めることは考察なしには行われない。このとき、その考察があなたが満足する考察かどうかは別問題である。

>んなこたない。

論破することが目的となっているためか、ほかの説明で補足できているように読み取れない。

>理解はつねにすでに何かに対する理解であるため、はじめから無理な要求でしかない。


あなたがこの定義をするとき、あなたは理解とは納得や満足であると語っていることになる。
なぜならば、あるひとつの「何か」を追及するとき、その果てはないが
時間的制約などによって訪れる到達点は、これ以上追及する意味があるか?という損益分岐点であり
その根本は納得や満足である。

鶏ふんの効用と牛ふんの効用の部分については、何かを追求するときの、よりよい損益分岐点の求めかたの話をしているのであって
理解が納得や満足であることを否定できていない。

>>244 のような指摘はよりよい損益分岐点の求め方の話と理解そのものを分離して語らないことによる指摘だと思った。

4ヶ月前 No.245

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

こういうの、あったわね。

「理解」の「理」、これ、「損益分岐点」を導き出すよね。

だからといって、本能を持ち出すの、哲学放棄ね。

「火や水について理解してしまっている」―――「理解」じゃないよね。

3ヶ月前 No.246
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