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哲学史上難問中の難問

 ( 哲学掲示板 )
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がたり ★m4L1Zc020iQ

「個体化の原理」(principle of individuation)といわれる問題は、哲学史上難問中の難問とされてきた。このもたらしめる「究極的現実性」が何であるかがわからなかったからである。

以下引用含む



AとBという二つの肉体を想定するとしよう。(Aが私の肉体とする)。
Aは、たとえば庭園のような、ある特定の景観の見える外的状況におかれているとする。と同時にBは暗室にいるとする。さてA暗室に押し込められて、代わりにBが、Aのそれまでいたところと同じ状況へと押し込まれたとしたら、庭園の景観は消えて真っ暗の世界になる(なぜならAが私の肉体であり、Bはだれかの肉体だからである)―これは歴然とした矛盾である。
というのは一般的、総体的に考えてみた場合に、この現象には十分な根拠がないからである。
すべての肉体の中でその内一つの肉体を、これら諸所の特性(=私の肉体であるという特性)を総合することによって、他の全ての肉体から如何にして区別することができるのか?

また、何故唯一しかない主観的世界がAという類的存在に一致するのか?

*類的自己(類似する肉体の中で私が私であること)

と、東邦大学の渡辺さんがシュレーディンガー的独我論を解説してます。

途中俺が色々まとめたり変えたりしましたが
なんかこの辺考えてみましょ(*´ー`)=3

2006/11/22 17:23 No.0
ページ: 1 2

 
 

がたり ★m4L1Zc020iQ

書いてから思ったがこれ問題の意味を掴むことが先ず難しいなw
思ったより難しいわw

2006/11/22 18:21 No.1

がたり ★m4L1Zc020iQ

とりあえず俺が考えたこの問題の重要点は

体という一ファクターが本当に意識を作り出しているのか?
またそれが自分の意識との整合性はどのようにして取れるのか?
他者との境界線はどこにあるのか?ってとこか・・・

そのためには意識を深く探らないといけないのか。
体の機能も考える必要がありそうです。

体というゲシュタルト質が意識を作り出す物ではなく、意識を受けとめるという古典的な考えもすてれないということか・・・

2006/11/24 13:01 No.2

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

AとBの体がまったく同じクローン人間のものであったと仮定する。
Aの体が庭園に置かれている。Bの体が暗室に置かれている。
体というファクターと意識の関連を探るために、より単純化してAとBの体は首から上がないとしよう。
Aの首なしの体は涼しいそよ風の吹く庭園の風景の中におかれている。
Bの首なしの体は大暗室に閉じ込められるようにして暗黒の風景の中におかれている。
首から上の部分が無くとも体が感覚受容器として周辺環境の情報を全身で受け取っている。AとBの体の感覚受容器の受ける感覚の量とその質が一過性であれば可逆的であり、体に変化は起こらない。しかし、ある閾値を超えるときに感覚を受容する以上のことが体に起こる。その変化とは全身に広がる感覚受容器の分布やその反応性までも変化させることです。AとBの体は感覚受容器が異なってしまったのでもはや同じではない。
Aが庭園に置かれている時間にAの感覚受容器はそよ風の庭園に反応するものとなった。
Aを暗室に置くとAの体は感覚受容器に十分な感覚を得ることができなくなり、激しいストレス状態になる。
意識とは感覚をもとにして作られる。全身の感覚受容器が受けた感覚量を無視することやシャットアウトはできない。感覚量は本人が望む望まないに関わらずに意識へと変換される。

2006/11/25 01:06 No.3

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

>>0にある話は、例えば、コンピューター脳と身体とに分離し、心と身体がそれぞれ独立して相互に交流がないデカルト的心身二元論世界での話というなら歴然とした矛盾といえるのかもね(私は無論、脳一元論者ではないよ)。
現実世界ではこの現象には十分な根拠があって、矛盾が無いんじゃないのかな?
類的自己とか、シュレーディンガー的独我論ってのは今まで知らなんだ。
まず>>0にある話をちゃんと把握してるかどうか判らんので以下の文は間違ってるかもしれん。自信はない。

人間において、人間の個体化とは、個々の肉体に個別具体化するということであり、それ即ち、“個性化”するということな訳です。ここにおいて、「類的自己」が現出する余地が生じます。即ち、個性化した人間は、ここで初めて、他者と“類似する肉体”を持ちながらも、同様に個性化した個体である(他者)との「差異」を意識することで“自己”を意識する「意識主体」となります。この自己意識の主体である個性化した個々の人間にとって、最早、個々の自己意識が形成する主観も同様に個々に様々なものとなるのであり、仰る様に、形成されるのは「唯一しかない主観的世界」なのですから、主観も“個性化”を遂げた、ということができ、また、その様に個性化した(自己)主観は、“個性化した個体である(他者)を意識する”ことにより、次に“類的自己”を認識、他の肉体から識別、
即ち、他のすべての類的存在から私の類的存在の区別をすることができることになります。

この考えに基づくならば、A(私の肉体)が暗室に閉じ込められて、逆に、暗室にいたBがそれまでAがいた景観の見える外的状況に置かれたとしても、Aという類的存在は、
以上のことから個性化した(自己)主観を持つ故に、まさに「庭園の景観は消えて真っ暗の世界になる」という事実をもって、唯一しかない自己意識が形成した主観的世界が、
Aという類的存在の持つ自己主観と一致したことを知り、Aにおいて類的自己をみることが可能となるのです。

2006/11/26 00:43 No.4

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

自己の肉体が受けた経験が自己の意識として再構成されたもの以外で、他者がその肉体から受けて経験して得た自己意識を本当に理解するということはできないと思います。
他者の自己意識に自分の自己意識を重ね合わせることで、共感という意識の一致、あるいは自己の肉体の経験の及ばない領域への外挿によって意識の共感を得るということはできるが、同じものを見ているわけではない。

2006/11/26 07:58 No.5

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

>自己の肉体が受けた経験が自己の意識として再構成されたもの以外で、他者がその肉体から受けて経験して得た自己意識を本当に理解するということはできないと思います。


できないでしょう。

>他者の自己意識に自分の自己意識を重ね合わせることで、共感という意識の一致、あるいは自己の肉体の経験の及ばない領域への外挿によって意識の共感を得るということはできるが、同じものを見ているわけではない。


そうでしょうか?“同じもの”(同一の対象)を見ている、より厳密にいうなら、同一の対象を志向する、とただ単にいうだけならば、可能ではないのでしょうか。
同一の対象を“同じ様に”見ている、ということは無論、不可能でもね。
因みに、Aは暗室に閉じ込められて、真っ暗の世界で視界からすべてが消えた、即ち、“見る対象”、志向する対象の喪失により、仰る、共感という意識の一致、あるいは自己の肉体の経験の及ばない領域への外挿によって意識の共感を得るということは、更に尚いっそう容易となった筈です。

2006/11/26 11:42 No.6

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

人間は肉体の経験、感覚を通してしか意識を構成することができない。
岩が置いてある。重さの経験があるからその石を持ち上げるにはどのくらい
の力が必要か、独りで持ち上げることができるかどうかというその石に向けられた
意識が存在する。その岩が大きくて自己の肉体のかって経験した感覚量を超えたもの
であったとしても重さについての感覚の経験の外挿をすることでその岩に対する意識
が構成される。
もし、それが岩ではなくうまく岩に似せて作られたイミテーションであったとしても
それが岩と信じて構成された重さの意識は岩でないと気づくまでは確たるものである。
岩でないと気づくのも岩の重さについての自己の感覚量に基づく。岩にしてはあまりにも軽いとか重いということです。

2006/11/27 01:16 No.7

どすこい喫茶ジュテーム ★LHA2gfAOLLQ

んー、つまり
AとBは肉体的には移動したが、それに精神がついていくのはなぜか?

前出の通り、クローンのように同じDNAを持つ似たような体があったとしても私が私であるのはなぜか?

シュレディンガー的ってのはなんでしょう、私が私であると認識したがゆえに私が私であるみたいな話でしょうか。哲学はさして慣れていないので違ってたら全く以って申し訳ない。


まあ、肉体は別に脳だけで動いているわけでもなく、外部からの影響を体という受容器と効果器というフィルタを通して脳で理解して、また、それに付随し各種ホルモンやらが脳だの甲状腺だの副腎だのいろんなところからでることによりまた様々に情報の質やらが変化するわけです。
そして当然のことながら受容器と効果器が違えば入ってくる情報も違いますし、そのたありとあらゆる環境因子によりDNAが同じであったとしても肉体的には確実に差異がうまれます。バタフライ理論でしたっけ。
どれだけ同じ歩みをさせようとしたところで、現実世界がイデアの影であるとするならば完全に同一の歩みは不可能ですし、そこら辺からこの唯一無ニの個というものが生まれるんじゃないでしょうか。

うーん、というより、同一ではなく類似である以上その主観的世界が唯一であるということになにかもんだいでもあるのでしょうか。


そして論点の経験外の物事にたいする共感などですが、例えば痛みという存在を知らないひとは先天性無痛覚症といい、痛みという存在を理解できないようです。骨折や脱臼を繰り返し、痛みが無いので受身も取らないという感じで。最終的に大人になると落ち着くようなのですがそのころには無理がたたってかなり骨格がやられるそうです。つまりこれも痛みではなく自分自身の動作の制限を不快感とした経験に基づく反応であって、経験外のものではないということなんですが、ならば外挿とはなにかと思ったときに、結局自身の経験を再構築して近似を作り上げるだけに過ぎず全く異質な存在には対応できないのではないかと考えました。
なので外挿による意識の共感を経た近似によって個というものが脅かされる心配は無いのではと思ってみました。

うーん、これで多少議論はかすりましたですかね。

2006/11/27 02:44 No.8

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

脳も肉体の一部に過ぎない。
脳をいくら調べてもそこから意識がどのように作り出されるかということはわかっていない。脳科学ではそれには最終的には答えることはできないと私は思う。脳のどの部分がどのような生理機能と関連しているかということはニューロンのレベルでまでわかっても意識が何であるか?そこまではわからない。ある人の脳に存在する特定の意識と記憶をそのまま取り出して別の人の脳に移植なりして再現させることはできない。ニューロンのネットワークの上を電気信号が走るときにそこに意識が存在するという仮説があるようだが、脳のネットワークの張られ方というのは個人個人で異なっている。とすればその上を電気信号が走ったときに起こる軌跡も異なるということだ。つまり一つとして同じ意識は存在しないはずである。意識の共感など不可能である。存在し得ないはずである。しかし、現実の人間には意識の共感が存在しているではないか。


2006/11/27 09:09 No.9

がたり ★m4L1Zc020iQ

ブレネリ、がそーる、どすこい カキコサンクス
頼れる人が集まってよかったです(*´ー`)

>>3、4

問題はまさにその以前のところにあるんです。
結局の話し、体が意識を作り出すと盲目的に仮定するときに、体が作り出した意識は
ブレネリ、がそーるがいうとおり確かに唯一無二、ユニークなものになるでしょう。

しかしそこが問題じゃないんです。
体が作り出した意識は一つ。ならば何故その意識は何故自分だと、一致しているのだといえるのか?
おそらくそこが問題なんです。
で、この問題が難問として最大の壁を提示するのは「精神と体の一致」
体Aが経験で得た物をデータとして脳に送信する。送信された物の集積体はAに宿る意識として統合される。
視点、主観、感覚器官の差異が必ず意識をユニークにする。そこまではおそらくここに書き込んでいる誰も
が異論はないと思います。
だがその再構成された意識を仮にαとするなら
どうして「α=私の意識」が成立するのかがわからない。

>>5の他者の自己意識に、自己の自己意識を重ねる

という表現には違和感を感じましたが、ブレネリの志向性の一致という表現にでおれは賛成です。
意識は重ねあわせれません。重ね合わせるのは経験から導き出した自己の対象への志向性です。

無論この問題は体なくして意識が発露するとはいっていません。
あくまでも体と意識の関係性は認めているものの、意識が体に一致することの確からしさに関して問題提起がなされています。

この問いを俺が提起したのには理由があります。
このメビリンの掲示板で実はこの手のスレが一番多い。
調べてみたところ統計学的に見て12才頃から14歳をピークにしてこの超現実性に対する問題を
ほぼ同時期に日本人の子供が抱くそうです。
では我々はどうかというと、大人になる過程で現実は受け止めねばならない(懐疑性を問いただすために他人を殺害して自己が自己であることの確証を得ることは人道的にも量的にも不可能だからである。→確認しようとすれば人類を壊滅させた後自分が自分であると確認せねばならないから)

誰もが一度は通る問題なのにもかかわらず回答不能の問題が実は身近に転がっている。
この危険にたいする危惧と好奇心からこの問題を持ってきました。

1.さし当たって最初に突破せねばならないのは体が意識を作り出す確証

2.それが自身の意識と一致すると言う確証

3.他人の意識と体とどのようにして差別化されているのか?

俺は今のところこの流れで問題を考えていますよっと。2、3は前後すると思います。
独我論だから関係ないとせずに皆さんの得意分野で独我論を包括する形でこの問い挑んで見ませんか?w
解決するのは全然先だろうけど面白そうな気がします。

ちなみに日本人の一部の哲学者はハイデガー(主体性の形而上学参照で)、モナド論でこの問いに挑んでいるようです。
どれもしっくりはきませんでしたが。
おれがりかいできてないだけ?w

2006/11/27 11:49 No.10

ハル次郎 ★yKpM395eRb2

ぇと、思想が哲学から大きくはずれちゃったのですが、
僕は意識を形成するものはゲシュタルト的な液体だと思ってます。

骨髄液かな。
鼻の後ろの空間にあるやつ。



長いこと無人島に通ってたから、言葉で埋め尽くすのは、
苦手になってしまった。

2006/11/28 00:35 No.11

どすこい喫茶ジュテーム ★e5HFpHF.rcg

たとえば成長というものがあるならば時々刻々と変化していく存在である以上 α=αという証明をするよりはα≠not α以外には証明しようが無いと思うんですよね。つまり「自己が自己であるのは、他者が自己で無いがゆえに、自己は自己である。」みたいな。少なくとも自分から見て別個の肉体である存在は自己ではなく、結局自分が自分であるという正の確証を得るならばその他を滅ぼさなければならないですねやっぱり。

例えば子供のころにおもちゃを買ってほしいとねだったり、ご飯が食べたいとわめいたところで親が許してくれない場合、子供が親は自分の意識の外にいる存在であると認識するのでは?と、仮に考えてみました。そして結局目の前にいる人間は自己ではなく、今まであってきた人間も自己ではない。よって私は私でしかないという、まあ経験に基づく推論でしかないような気もしますが。

体が意識を作り出す確証というものでは、少なくとも体というよりは物質っていう感じなんでしょうか。どの程度までを含んでいるのか判らないので少しコメントは控えておきます。
関係あるかどうか判りませんが、思いっきり頭を殴ったらかなり重篤な精神的な障害が現れますがこれは少なくとも体が意識を作るもしくは維持することの証明では?と思ってみました。

モナド論っていうのは、万物は全て異なるモナドから出来ているみたいな話で、まあ、それなら同一というものが存在しないし〜みたいな感じになるんでしょうか、ちょっと良くわかりませんでした。なんかアインシュタインがなかまとか書いてありました。

ちなみに脳脊髄液、略称CSFは別に特に何もしていないような気もしますが、頭骨折したら鼻やら耳から流れ出ますしね。

2006/11/28 02:44 No.12

がたり ★m4L1Zc020iQ

>たとえば成長というものがあるならば時々刻々と変化していく存在である以上 α=αという証明をするよりはα≠not α以外には証明しようが無いと思うんですよね。つまり「自己が自己であるのは、他者が自己で無いがゆえに、自己は自己である。」みたいな。

ああ、なるほどね差延ね。
でも外の世界も同じく差延によって誤差が出てる世界だし、認識の誤差もあるからもはや信用ならない。
むずかしいね〜w

2006/11/28 19:12 No.13

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

2.それが自身の意識と一致すると言う確証>No.10

確証は不条理の感覚だ。
意識しながらそこに現存在として存在しているのが他人ではなく自分であることを
確認する時がある。


1,3は適当な答えがまだない。


2006/11/29 10:54 No.14

がたり ★m4L1Zc020iQ

>>14

それは自分が世界に存在していることを間接的に言い換えただけで「自分の体と『一致』して」実存していることまでは言い表せていない。
我々が存在しているのはこの際保留でもいい。

自己という意識が自分という存在とどのように一致しているのかが問題。
そこに物理的な体という概念が関連するところにこの問題の難しさがある。

俺なりの言い方だと
俺を取り囲む情報があり、俺とそれらの関係性が織り成す総体として唯一無二の俺が限界に制約されることで世界内存在としての自身を認識は可能。

だがその限界に集約された私が私という体に一致するのはどうしてか?

2006/11/29 12:05 No.15

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

そこに意識の地平として広がっているものが自分のものであるということ、自分の意識にもどって来るときに当然存在しているものとして了解している。

2006/11/29 13:10 No.16

どすこい喫茶ジュテーム ★e5HFpHF.rcg

一致ですか。
生きている限り存在し、死とともに急速に形を変える、ってのでダメですかね。

例えば自由になる存在が自分だとして、そこらへんの道に落ちている石も一応自由には動かせますしねある程度。ですが、死というものによって維持が出来なくなる存在こそ、一致している証明にはならないんでしょうか。(でもまあ、自分が死んだ後は判らないのでなんともいえなさそうですけど。

2006/11/29 13:17 No.17

がたり ★m4L1Zc020iQ

>>16

>>自分のものであるということ

うん。だから、それがどうしてかってのが問題なのよ。
がそーるはそこから先の話をしてるのよ。

肉体Aが展望する世界はもしかしたら肉体Bの物かもしれない。意思は認識する機能を持ち合わせていない。
なぜならば意識とは形而上に想定される物であって形而下の肉体のような現前に対する受容体ではないから。

>>17

死という現象によって確かに肉体Aの寿命だからとはいえない。なぜなら肉体Aが私の意志を生成しているとは限らないから。

2006/11/29 14:43 No.18

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

>>>15

俺を取り囲む情報があり、俺とそれらの関係性が織り成す総体として唯一無二の俺が限界に制約されることで世界内存在としての自身を認識は可能。
だがその限界に集約された私が私という体に一致するのはどうしてか?



現存在が、身体を持ってこの世界に存在するということ自体、限界に制約されることでもあり、限界に集約されていることでもあります。人間は生まれ落ちた瞬間から、仰る如く、様々な人間や情報に取り囲まれ、それらとの関係性を身体を通して自らをもそれらの構成要素のひとつとしつつ、これまで生を営んできた訳です。だから、ここにおいて、
限界に制約された世界内存在としての自身の認識、ということができます。しかし、その限界に制約された世界内存在が、身体を持ってこの世界に存在するということとは、
その当の世界が、そもそも、この存在を世界内に存在することを認め、支え、許しているからに他なりません。当然、これは、主観を超えた客観的事実として成立しています。それは、人間は身体を有することで、限界に制約されているけれど、逆説的に、世界は、その様に、人間存在を限界において集約するという形でまさに自身を現したのであり、それ即ち、私は、私の身体をもって〈私〉が“承認”されているのだ、と考えることが出来るのです。

2006/11/30 00:29 No.19

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

肉体は感覚受容器である。他者の痛みは本当にはわからない。
対岸の火事を見物していて、爆発が起こって火粉が飛んで自分
の服が燃え出したら無意識にでもまず自分の火の粉を払うでしょう。
隣の人の服が燃え出したのを助けるのは自分のが終わったあとでは
ないか。
反射的に自分の肉体と他者の肉体は区別されている。

2006/11/30 11:11 No.20

がたり ★m4L1Zc020iQ

>>19

いいたいことは分かります。
ただしその場合、客観的事実であるのは私が私であることではなくて私の体が「何らかの意思」によって動いているということしか分からないのです。
「なんらかの意思」=「私」
とは客観的事実は成り立たない。のは前提を参照。

>>20

これも前提を参照してください。
それを言い出したら私が私であるために世界に存在する人間をとりあえず全員殺すか、火の粉をつけるかしなければ話が前に進みませんし、果たして、私という意思が体という枠だけに帰着していいものかという疑問までは解決できません。

我々が知っているのは人間という生き物はどうも何らかの意思によって動いているようだ。それだけしか分からないです。
意思が宿っているのはみんな知ってるんです。
その言い回しは哲学者によってそれぞれです。

では、「なぜその意思が私なのか」は客観的事象に基づいて説明可能かでしょうか?

2006/11/30 12:13 No.21

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

>ただしその場合、客観的事実であるのは私が私であることではなくて私の体が「何らかの意思」によって動いているということしか分からないのです



ふーむ、何らかの意志、ですか。では、なるべく、それに沿って話を進めてみましょう。
私の体が「何らかの意思」によって動いている、或いは、意志が宿っている、というと、
主観的に聴こえますが、これって主観を超えた主観としての客観的事実、大いなる主観のことかな。では、ここから、もう一つの客観的事実である「私」が、=「私」という様に、導かれるのはどうしてかということになりますね。
漸く、前レス最後で「自己承認」の可能性について触れたわけです。
では、この自己承認とは、一体どう可能か。
それは、「他者による承認」です。それが先述した、「限界に制約された世界内存在が、身体を持ってこの世界に存在するということとは、その当の世界が、そもそも、この存在を世界内に存在することを認め、支え、許しているからに他ならない」ということ。
“私の体が「何らかの意思」によって動いているということしか分からない”との部分。
寧ろこれも、1つの主観といえるものです。身体を持ってあなたが生まれる、という事実は、少なくとも、産む母親、手助けする助産婦等、周囲の人々、更に、出産を可能とした瞬間の、時空間を超えて存する万象という広義の世界、それら全ての「他者」に、まさに“その主観”が内在し、それら全ての主観(即ち、新しい存在へと向かう意志であり、他者による承認)が新しい存在であるあなたを作り出したということです。
つまり、存在する存在者とは、それら全ての主観に支えられて存在するのであり、それを超えた処に成立する客観的事実です。ならば、この(私という存在の)客観的事実とは他者からの(存在の)承認を内在するのです。即ち、現存在は、まず、
「他者承認」によって存在を認められて存在しているのですから、この“客観的事実”を受け入れることで、自己を承認し、私が私であること、への認識の道が開くのです。この認識の出発点となる自己承認とは、一主観でありながら、全ての主観を超えて存在する客観的事実としての主観(大いなる主観)と繋がっている訳です。
よって、他者と自分は肉体は区別されていますが、この繋がり故に他者の痛みをまるで自らの痛みの如く感じ、同時に私が私であるための確証も得ている、即ち、
世界に存在する人間を全員殺さなくても、体が作り出した1つの意識は自分だと、一致しているのです。
宿っている意志とは何か。強いていうなら、あらゆる客観的事実を存在せしめる全ての主観を超えて存在する客観的事実としての〈主観〉、という他ないでしょう。
この〈主観〉こそは「私」という一主観の原存在だと考えられます。

2006/12/01 01:14 No.22

がたり ★m4L1Zc020iQ

それはわかる。
だが繰り返し言っているように、客体からの制限というのは自己という枠組みを縁取るための必要十分条件だが、それは意識レベルにおける「私」が「私」である。私は存在する。という事実を導くための手法で、『「私」が「私」の肉体に属している』ということまでは言及できない。

私が他人の意思が他人に宿っていることを説明できないように、私という肉体に私がいるという事実は客体からは確認ができない。

故にそれは客観的事実から弾かれている。意思が肉体のどこで生まれているかが依然として不明であることがいい例です。

なんか俺否定ばかりしてて申し訳ない気がしてきたな^^;

2006/12/01 09:44 No.23

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

だから、この〈主観〉こそは「私」という“一主観”の原存在、だといっているのですが。
この「私」というものは実体がない。実体がないとは、不断に変化している、という意味ですが、その実体のない「私」が「来歴としての記憶の総体」の身体における“蓄積”として〈私〉を形成してゆくのです。その様な〈私〉とは常に、“身体を有することによって”限界に制約されてきた存在、ということが同時にいえるのです。前に仰ったように、様々な人間や情報に取り囲まれ、それらとの関係性を身体を通して自らの自己同一性を確保してゆくということです。

サルトルはこのような私についての「意識」を「自分があるところのものであらず、自分があらぬ ところのものである」と説明し、これを「対自存在」と呼んだでしょ。これ有名ですね。
がだり殿はお若い方でしたかな?若い時分にこのような疑問を抱かれるのは極自然のことなのです。『「私」が「私」の肉体に属している』ということまでは言及できない、ってね。私もそうでした。でも、これ、よく読むと、既に“「私」の”肉体って、言っちゃってますから、貴殿も何らかの仕方で先験的に「私」が貴殿の肉体に属していることを“知っていて”言及している、ということになりますね。

2006/12/01 11:44 No.24

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

【訂正】
この「私」というものは実体がない(誤)
  ↓
この原存在というものは実体がない(正)

2006/12/01 11:48 No.25

がたり ★m4L1Zc020iQ

いや、俺としては別に何も問題はないんですよ。
ただ、解決できていない問題としてこの問題が出されていたのでそれをみんなで考えてみようかなと思ってるんですよ。
でもなかなか問の意図が伝わらなくて。

私のというのは便宜的に>>0の私を使用しているだけです。

経験が私に蓄積されるのは私が私の肉体に属していることが前提です。
そして、私が私であることに関しては特に問題ないんです。

問題の意図が美味くつた輪手tなければ俺のミスです。
みなさんからアイデンィティーに対する回答を得ているのですが、そこではないのです。

私があなたかもしれない。
はブレネリの回答で妥当します。

精神がどこで生まれるかそしてどのようにして経験を重ねる肉体と一致しているのか。

普通に考えれば経験を重ねる私がいてそれを反映する私がいる。
私の肉体は常に一意に決定されるがゆえにそこに生まれる意思は一意に決定され、それが私である。
でいいのですが、意思は他によっても生成されるのであるからしてそれがどうしてあなたの物で私のものだとは必ずしもいえない。

2006/12/01 12:25 No.26

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

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2006/12/01 13:01 No.27

がたり ★m4L1Zc020iQ

×私のものだとは必ずしもいえない。
      ↓
○私のものではないとは必ずしもいえない。

2006/12/01 14:12 No.28

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

>意思は他によっても生成されるのであるからして、それがどうしてあなたの物で、私のものではないとは必ずしもいえない。


当然、これは仰るとおり。しかし、この様に“意志”からのアプローチでは、
戦略的に論じきれないと考えます。「私」という単なる一主観を形成するのは意志のみという訳ではなくて、それは「自己意識」と同様、まったく実体のない、あらゆる客観的事実を存在せしめる全ての主観を超えて存在する客観的事実としての〈主観〉という原存在なのだ、ということが先に述べたことなんですよ。そして、

>精神がどこで生まれるかそしてどのようにして経験を重ねる肉体と一致しているのか。

という問い。

これは、問いとしてかなり洗練されてきた問いだと思います。
しかし、このように問われますと、結局のところ、
これに対する私の回答は、【殺人】人間の本性とは【欲望】〜NO2〜の>>31>>37に既にあるものなんです。
「心より上に位置付けられる「精神」とは、まさしく、この霊的現実のことをいうのであり、心理的現実をいうのではない(>>32)」、そして、それ以降の説明にあるとおりです。
この点、がそーる殿の、精神というのは異質な要素を弁証法的に統合する働きがあり、一つ上の次元のもの、とのご指摘は大変鋭いです。

2006/12/01 14:45 No.29

がたり ★m4L1Zc020iQ

しかしながら独我論者に対して客観的事実を論拠とするのは通用しません。
俺はそこを指摘しているんです。

俺はそうではないからブレネリが言うことも十分理解しているしむしろ賛成なのだが、客観的事象を懐疑的に捕捉する独我論者を納得させるには通用しないのです。

俺がここに書き込みした真意はそこにあります。シュレーデンンガー的独我論はやはり独我論で、或いはそれを内包する他視点でもってしか完成されないのです。

懐疑論者とはどれほど話しても所詮水掛け論だとは誰か偉い人の言葉にありましたが、この問はまさにそれの代表格だと俺は思いますよ。

関係性を提示してもそれらを構成する根拠がエポケーされている以上これ以上前に進めません。

2006/12/01 15:33 No.30

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

確認したいのですが、東邦大学の渡辺さんがいう、シュレーディンガー的独我論とは、類的自己(類似する肉体の中で私が私であること)のことでいいのですね。
検索してみたら、
渡辺恒夫・金沢創 (2005)想起された<独我論的な体験とファンタジー>の3次元構造:独我論の心理学研究へ向けて 質的心理学研究
というのがありましたが、これに関してのことでしょうか?
もし、このことでしたなら、私はこれについて何も知らないので、
がたり殿、先ず、情報のご提供をもっとお願いしたいのですが。
もしかしたら、貴殿、独我論者をなんとか論破したい、ってな意向がありません?
(だとしたら、お止めになった方がいいかも。仰る様に、水掛け論だから。独我論者は、自分の言いたいことを言うことが最早出来ないんですよ。何故なら、彼らは、彼ら自身を指示する「私」という言い方で、決してその「私」が理解されてはならないからです^^)

2006/12/01 16:28 No.31

がたり ★m4L1Zc020iQ

独我論者の論破・・・は考えてないといえばうそになりますねww

自分自身がそのような立場をとっていた期間が長いだけに未だ興味は絶えませんがw
渡辺氏のことは正直全然知りません。

ただ、ここの哲学を語る人たちと話題が持ちたくて難問と呼ばれるものを持ってきたんです。

以前にもアキレスやクレタ島、ラッセルパラドックス 等ネタを持ってきてるんですがいまいちウケが悪くてwww
この問題は若い人が多いメビリンに少しはウケルかなと思ってもってきたんです。

最初に言うべきでしたが、そもそも懐疑的手法の権化である独我論なるものを突き崩すのはナンセンスですかねやっぱり^^;

ただ、渡辺氏は心理学の研究もされているようで、若年層に最も多発するこの問題が保留されているのはどうしてか?
見たいな事が書いてあって興味をもったんですよ

2006/12/01 17:28 No.32

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

>ただ、渡辺氏は心理学の研究もされているようで、若年層に最も多発するこの問題が保留されているのはどうしてか?見たいな事が書いてあって


え、若年層に最も多発するこの問題とは、なんですか?

2006/12/01 23:02 No.33

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

若年層に独我論者が多くって(ホント?)、渡辺氏が心理学の研究を通じて、
その問題に関わってるってこと?

2006/12/02 00:03 No.34

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

シュレーデンンガーと言えば波動方程式というのがある。
波動方程式は独我論的ということですか?

2006/12/02 11:13 No.35

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

量子力学と古典力学(ニュートン力学)との違いは何か?
目線が微視的か巨視的かということだけであるだけで対立するものではない。ニュートン力学で我々の知るほとんどの現象説明可能であるが、わずかながら説明できない現象がある。それを説明可能にしたのが量子力学である。
両者に矛盾はない。量子力学でニュートン力学の全てが巨視的平均値として導き出せる。
哲学で言えば、キルケゴールとヘーゲルは対立する思想を展開したように見えるが、
実はキルケゴールは忠実に彼の人生においてヘーゲルの理性の弁証法の実践者たろうとした。しかし、ヘーゲルの理性の弁証法では解決できない問題が人生にはあるということにキルケゴールは気づいた。それは実存の問題であり、キルケゴールは衝突の弁証法により解決の道を探った。今日、キルケゴールに発する思想を理性に反対して実存とか感性を重視する思想と捉えられているが、キルケゴール自身はヘーゲルの精神現象学から出発していると思える。

2006/12/03 14:34 No.36

解体 ★m4L1Zc020iQ

>>34

この掲示板を見て思ったし、渡辺氏の調査によると若年層の独我論者は増加傾向にあると。俺もそう思います。
実はこの問題提起の後に心理学的な考察が続いてたのですが俺は心理学わからないのではしょりましたw

>>35

波動方程式ありますねー。独我論的とかではないでしょうwwwただ科学者、数学者が哲学論文を発表することは珍しくなかったしいいのでは?

>>

2006/12/04 12:37 No.37

がたり ★m4L1Zc020iQ

>>36

何故にいきなり量子力学?ww

2006/12/04 12:39 No.38

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

波動方程式と言えば量子力学。主題外れでした。

2006/12/05 10:29 No.39

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

現実世界での2者の“対面による”会話なら、「顔」が見えるから、相手の気持ちを忖度し、推し量って言うことが、相手の顔の表情から容易に可能だが、掲示板上では「顔」が見えないだけに、相手の言葉のみから、相手の気持ちを忖度し、推し量って言うことは非常に困難となる。他者の体験の経験、我が身のことのように感じられるようになるには、人生の酸いも甘いも経験し、ある程度の期間を生きた年長者でないと難しいことかもしれない。しかし、若年者だからといって、必ずしもこれが出来ない訳ではない。生後から老若男女の豊かな人間関係のなかで成長が育まれることで、他者への共苦や感情移入は容易となる。しかし、都市化により核家族化、共同体と共同体的価値観が崩壊し、これが困難となり、逆に自己意識だけが鋭敏化していった。なるほど、今日の深刻ないじめ問題をみれば、若年層の独我論者は増加傾向にあるという調査結果は充分に頷ける。


実在するのは自己とその意識内容だけ、事物や他我は自己の意識内容に過ぎないという徹底的独我論者にしろ、自己意識の外には心を持つ他我など存在しないという消極的独我論者にしろ、若年層に多発しているというのは一定の説得力があると思われる。ただ、そのような独我論者でさえ、レヴィナスのいう〈顔〉の経験は、彼らの意識の対象としては現れ得ないものの現前だろう。物的対象の現出とは異なる、この他者という存在の現象をレヴィナスは〈顔〉と捉え他者の他者性を主張した。すべてを包含する西洋形而上哲学の中で他者は「外部」として無限に現れ、他人の〈顔)の内に「痕跡」を残して過ぎ去った何ものかとして、他人の〈顔〉の〈彼方〉としてしか経験されることはないという。ここに、自己を原点とした時に他者に対して自己が持っていた非対称性が、寧ろ他者の方から主張されることになる、徹底的独我論がここで絶対的な他者性の主張へ反転したといえるのであり、他者によって初めて自己足りうる自己がある、といえるのである。ただ単に独我論者を論破するだけなら、このレヴィナスの〈顔〉で十分だろう。しかし、
これが冒頭述べた昨今の諸問題を解決する鍵となるものでないことは言うまでもない。独我論者を“生み出す”要因である根本的な部分や背景には少しも触れることはないからである。寧ろ必要なのは哲学がこの問題を突き止めることではないか。ネット媒介コミュニケーションは、「顔」が見えない、見えても捏造が容易い、こう考えると、先に述べた如く、共同体的価値観の崩壊に拍車をかけ、自己意識を鋭敏にし、独我論者を増やしていった張本人の一つの要因とも考えられるでしょうね。

2006/12/06 00:03 No.40

がそーるのゴハン ★d.InQcYNddo

他者を見分けるのは顔というのはよくわかります。人の顔を憶えておいて
知り合いかどうかを判断するということですね。誰も他者の手とか足でその人を
憶えるという人はいないのではない。人間の肉体の部分において顔の持つ意味は
他の部分とか決定的に重要度が異なる。

2006/12/06 09:28 No.41

誰かさん ★m4L1Zc020iQ

>>40

おkです。レヴィナスまでもってきてもらってすんません。
でも俺が言いたいことが伝わったようで大変嬉しいです。
さて、その記号の話しなんですがその記号という概念を支えるのが反復という概念じゃないですか。
なので反復スレで救済の一助になりえるのではと思ったのです。

でも、まぁびみょうなのかな〜現実から乖離した独我論に対してイデアを感じてくれというのはどこか現実味がないだろうね。

2006/12/06 17:41 No.42

がたり ★m4L1Zc020iQ

>>40

おkです。レヴィナスまでもってきてもらってすんません。
でも俺が言いたいことが伝わったようで大変嬉しいです。
さて、その記号の話しなんですがその記号という概念を支えるのが反復という概念じゃないですか。
なので反復スレで救済の一助になりえるのではと思ったのです。

でも、まぁびみょうなのかな〜現実から乖離した独我論に対してイデアを感じてくれというのはどこか現実味がないだろうね。

>>42はミスです。

2006/12/06 17:46 No.43

LAN ★c89w2CB2au.

意識って、そもそも何なんでしょう?
反応するってことじゃ、AIロボットにも意識があるのか?ってことにもなります。
教えてください。

2006/12/06 19:12 No.44

誰かさん ★m4L1Zc020iQ

さぁなんでしょうねw
俺の見解を正としていってしまっていいものかw

でもまぁ一ついえるのはAIと人との決定的な違いは蓄積された情報から新たな関係性を作り出す「発想」がある点。

又、ロボットは現状を維持することによって自己を自己たらしめようとするが、人間は変化することで自己たらしめようとする点。

そして、ロボットは人間とは違い存在意義が完結している点。


意識とは物事を再構成する力(世界に対する営為)のベクトルを「決定」する観点(世界内における現存在(人間)が他者と自分との境界線(だがあくまでも他者と自己との結線上にはプロットされている)に移動させる)のこと・・・と俺はとらえてますよ。

短く書くと大変分かりづらいので具体例を書きます。
ハサミというのは確かにハサミであるかもしれないが、「ハサミ」という「紙を分断する」という他者を再構成するという働きをもつ(意思を持つ)道具を我々が使用しようとするときに「初めて」ハサミとして我々の元に現れる。これは我々の意思(注意点、出発点としてもよいかもしれない)が自分ではなく
「自分と世界」の間に「紙を切る」という漠然とした或いは「ハサミ」というイデア(理想形)に対して志向性(この場合、焦点を合わせるとしてもかまわない)を向けた状態に変化し投げ込まれることで可能となる。
後、ハサミを手に入れた我々の意識はハサミを背景の一部分ではなく「紙を切るもの」として理解(再構成)し(この場合意識は自分という記憶の累積、自分の機能に立ち返る)自分を紙を能動的に切断するという新たな存在へと変化する(アフォード)

なんかややこしくなりましたなwww


スレ違いになってしまうので別スレ立てましょうか?

2006/12/07 09:43 No.45

がたり ★m4L1Zc020iQ

>>45

俺です。

2006/12/07 09:47 No.46

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

【1】 少々長くなりますが宜しいでしょうかね。LAN殿の問いにもお答えします。

>>
ハサミというのは確かにハサミであるかもしれないが、「ハサミ」という「紙を分断する」という他者を再構成するという働きをもつ(意思を持つ)道具を我々が使用しようとするときに「初めて」ハサミとして我々の元に現れる。これは我々の意思(注意点、出発点としてもよいかもしれない)が自分ではなく「自分と世界」の間に「紙を切る」という漠然とした或いは「ハサミ」というイデア(理想形)に対して志向性(この場合、焦点を合わせるとしてもかまわない)を向けた状態に変化し投げ込まれることで可能となる。

この説明は、まさにハイデガーのいう『立て組み』ですね。即ち、技術(この例では「ハサミ」がそう)の持つ本質が世界の存在論的構造を“用立てて”しまうということ。とすると、今度は人間のほうが技術によって逆に、用立てられる可能性が当然、考えられることになる訳ですが、続く文(下記参照)ではそれが示唆されていますね。

>>
後、ハサミを手に入れた我々の意識はハサミを背景の一部分ではなく「紙を切るもの」として理解(再構成)し(この場合意識は自分という記憶の累積、自分の機能に立ち返る)自分を紙を能動的に切断するという新たな存在へと変化する(アフォード)

今日の巨大化した科学技術、先端技術と一体化し、人間が自己自身との間に“仕切り”を入れ、“分節化”することによって、この“新たなやり方”で自己改造する可能性が現に現実のものとなっている。それは医学等の領域では場合によっては恩恵を齎す反面、軍事転用可能な脳コンピューターやネット犯罪等、ヴァーチャルな世界に住む人間、リアリティを喪失した人間をみれば、それによる人間自身の人間否定、自己喪失の危さも孕んでいる訳です。(マルクス主義 超国家主義スレで、『ハイデガーが「技術」に関して言っているのは、端的には、世界を再構成する「技術」を持つ上で、人間にとってはそれは諸刃の剣だということ、即ち、西洋形而上学の存在忘却の上に立つ技術がニヒリズムの端緒』といったのは以上の点に関してです)

人間に似たAIロボットに意識があるか。心や感情が生まれるか、といった問いはよくされてきました。一体、心や感情の元とはなんでしょう。どうして、それらは生まれるのでしょうか。「自分と世界」の間に「紙を切る」という他者を再構成するという働きをもつ道具であるハサミはそもそも無いのですから、その代わりになって紙を切るものはなんでしょう。

それは「言葉」です。言葉が、その道具、我々自身を新たな存在へと変化させる道具だということです。

ヨハネの福音書の「始めに言葉があった」「言葉は神と共にあった」。
ここに、この名句の意味を見い出せそうです。がたり殿が言われたハサミを「言葉」に置き換えれば、「この場合意識は自分という記憶の累積、自分の機能に立ち返る」と言われた箇所は、“神と共にあった”という部分に合致することにまさに納得がゆく筈です。何故なら、自分(自己)は常に、“他者と共にあった”のですから。つまり、言葉を道具として自身を新たな存在へと変化させるには、その時に記憶した〈他者の言葉〉を自己自身に伝えればいいのです。

2006/12/12 23:32 No.47

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

【2】

ところで、伝える相手であるこの自己とは、残された者、のことです。この残された者を“残した者”とは、例えば、「死者」であり、「離散者」といった不在の他者です。残された者は世界に現在するとしても、残した者である死者や離散者にとって今や、残された者は同一の位相には「不在」です。不在であるが故に、この残した者たちは、最早、言葉を、伝える相手である残された者に伝えることが出来ない。よって、その言葉も存在しないに等しいとはいえる。ただ、明らかなことは、残された者たちには、残される以前に存在した残した者達の言葉の記憶、残した者たちの生存の時の、離散する以前の記憶が存在する。残された者たちは、不在の他者である残した者たちに向かって、彼らをれっきとした「伝える相手」と見做し、言葉を放つ時、“その言葉”は存在するでしょう。例えば、先祖に手向ける言葉の如く、それは「祈りの言葉」として別の他者にも生き、そして何よりも自己の中に存在する。或いは、歴史の生き証人、語りべは不在の他者(死者)である残した者たちの記憶と言葉を、後世の残された者達という伝えるべき相手が存在するからこそ再び甦らせ、“その言葉”を存在させる責務がある。まさしくそれは、イデアの世界に働きかけ、残された者達の精神世界に作用し、残した者である不在の他者の存在を生起します。聖書も同様に、数々の言葉を残した者であるイエス・キリストが後世の残された者に伝える為にある伝道の書な訳です。

しかし、これは非常に厳しく辛い現実ですが、残された者達の記憶に残した者たちが存在しない場合があります。それは、特に近年の家族関係の崩壊、離婚や災害孤児、死別など、両親がいない子供で、或いは、それが生まれた時から、物心つく前から親がいない等です。残された者達の記憶には、“残した者”による言葉の記憶が存在してもごく僅かか、存在しない。そこではじめて意味を帯びてくるのが、聖書のヨハネの福音書がいう、「はじめに言葉があった…」「言葉は神と共にあった…」ではないでしょうか。残した者の言葉の記憶が僅かでもあれば、それは残された者の内に生きる。“その言葉”は、残した者、すなわち、“神”と共にあったのです。また、まったく残した者の言葉が存在しないとしても、それは、言葉が全く存在しない、と同義ではないのです。何故なら、我々は、“社会”という「人間による愛」を至る所で機能させているからです。これで、他者の言葉を内在させることができるし、その限りにおいて、たとえ記憶が存在しない残された者であっても、他者=残した者の言葉を十二分に想像できるようになるのです。このようにして誰もが成熟できる。人間は唯一、愛(神と共にある言葉)によって人間となる、とはこの所以ではないかと考えます。

「霊的な愛」=霊的な現実において、霊的(geistlich)とは聖書では、神から来るもの、上からのもの、としましたが、それは、人類誕生から連綿と続いた不在の他者(死者)である残した者たちの記憶と言葉の膨大な蓄積に裏付けられるが如く、その厳然たる《他者》の存在のことなのです。
こうした霊的現実(精神)を背景に、その過程において霊的現実(精神)によって存在する存在者が“人間”であれば、ロボットとはこうした霊的存在足りえない訳です。よって、心とはまさにそれより上位にあるこの霊的現実(精神)があって初めて発露するところのものなのですから、ロボットには心の発露はあり得ません。
しかしながら、現代の脳科学者とロボット工学者らの一部は、この「霊的」な部分を度外視し、なにかその部分が心理的技術(記憶装置、AI)に取って替わることが可能な、そして替わりさえすれば人間のような“心”や“感情”が生まれるものと錯覚しているよう。人間が霊的に存在するか否かは、技術的背景からでなく、霊的現実を背景とする以上、人間存在の“出自”に関わる部分に非常に深く関わっているのです。この部分を無視し、クローン技術で人間をコピーしてみたところで、そもそもそれは霊的存在としての「人間」である筈がない。AIは記憶と言葉の膨大な蓄積は遥かに人間より優れているが、デジタル化された信号に過ぎないそれは残された者が記憶する〈他者の言葉〉なのではなく、ただの無味乾燥な“神と共にない言葉”なのです。即ち、AIロボットやクローンとは霊的存在足り得ず、「人間」以外の“モノ”でしかないのです。

2006/12/12 23:34 No.48

ブレネリ ★0Gn3OqwpZII

【3】

さて、意識とは何か。ここで、ようやく、LAN殿の問いに答えることが出来ます。
以前、私は、コマ回しの独楽と軸に喩えて説明したことがあります。再度、それを以下に。

形而上と形而下、精神と物質、心(意識)と身体、この2つの捉え方の問題ですが、この2つは、相即不離だと私はいいました。逆円錐形のコマの胴体にあたる部分が、物質・身体です。勿論、コマは、手で軸を持って勢いよく廻さなければ立ち上がらない。立ち上がるには、この胴体部分が回転することによって働く遠心力が必要な訳ですが、その時、はじめて、今まで横に倒れていて見えなかった軸が真っ直ぐに立ち上がり、見えるようになる。この、コマが回転してはじめてくっきり見えるようになった軸こそ“心”、“精神”ということ。
即ち、軸である精神(心)は、物質からなる身体(コマの胴体)なくしては存在し得ないのだが、
それは決して、物質や身体そのものが精神(心)なのではなく、それらがフルに作動して存在するものだということです。
胴体に遠心力が働き、コマが立ち上がって勢いよく廻ると軸が現れる如く、“生きる身体”には心が現れるのです。回転する勢いが強ければ強いほど軸のブレは減り、軸(意識)は中心を鮮明としますが、速度が落ちるにつれて、意識が朦朧となるように、軸の姿も中心を暈かし、停止すれば、消えるのです。

ただ、以上の説明だけなら、人間以外の生命、植物や昆虫、動物にまで拡大して適用できてしまい、それでは人間とまったく同様の心や意識が人間以外の生命にも発生するとの説明が当て嵌まってしまいます。
つまり、人間は、記憶は脳に蓄積されていますから、この脳をフル活動させるには“生きる身体”である必要がある。しかし、人間という生命体は他の生命体とは違い、ただ単にコマの胴体を廻せば、即ち、“生きる身体”であれば、軸(意識)が中心を鮮明とし、即、「人間」となる訳ではありません。オオカミに育てられた少女は、オオカミでしかないのです。自他は未分化のままの状態です。つまり、“自己”という意識がある為には、まず、“他者”がなければならなかったのです。そして、この自己意識が他者を意識するようになります。しかし、自己が自己である為には、即ち、「私」や「他者」を意識し、それらを自在に思惟する自己である為には“残された者”として、残した者である(不在の)他者の言葉が絶対に必要なのです。これが、まずはじめにことばがあった、ということ、そして、これが畢竟、「人間の意識」の起源ではないかと考えるのです。
これは、別スレ「人の定義」にもピッタリ言えることです。

2006/12/12 23:39 No.49

がたり ★m4L1Zc020iQ

俺は思うのだが、人は皆一度はこの問を心に秘めるにもかかわらず何故誰しもが生きていく仮定でそれを了解或いは解決しているのだろうか?

答えは誰もが知っている、或いは知る運命にありながら、無論知るとはその実践をしている、出来るという意味であるかり、誰もそれを成文化できないということか。
誰もが答えを知っている。
知っているのに言葉に出来ない。

ポイントはいつの間にか知っているということ。

ずっと考えて少し前に進んだ気がする俺でした。

2006/12/19 19:21 No.50

ひろ ★t3ILw8b5SZE

すいません、どうも投稿させてもらいます。
哲学を体系的に勉強していないのでそれらしいかわからないのですが。
個体化の原理として重要になるのは
以下の点であると思われます。
1:他人との境界はどのようにして発生するのか。
このことについて書きたいと思います。
他人と私の区別の原理は
(差異の認識)であると思います。それはまず物が存在しその関係性が考えられる時をさします。
そのものを区別する際になんらかの対象に何らかのを固定化をしなければならないと考えられます。
たとえば言葉です。言葉は対象になんらかの意味を与えます。(このことを固定化とします。)この固定化の対象には具体的存在性のあるものはすべてそうなりますから。当然自分も存在するわけですから。この過程から逃れられない。
よって自分という存在に自分となずける固定化を通じて他者を認識するのだと思います。
もし人間が何らかの実体を持たないとするとこの個体化は起こらないかもしれません。
つまり具体的に物としての存在がないのならば・・・。
実体があってこその精神かもしれません・・・・。
ところでどうして個別化が起こるかということになると
それはカオス的な状態だと人間はその存在を認識できないのではないかと思うからです
言葉によって規定するというのも秩序的になりがちな?人間の思考的特性かもしれません。

2007/12/17 01:28 No.51

杉 太郎 ★eDfNs5mr2kQ

ガタリってとても哲学と(今は)いうことできない人ですよね
その難しさというか迷路のような思考は新しい哲学の基盤の一つとなるような予感のする心理学です
言語学者に先を越され、心理学者に先を越され、数学者に先を越され、不甲斐無い哲学者達がいますね

良く分からない言葉や人が出てきて勉強になります
なにわともあれ、個体化は個体であることを前提としてます
個体である存在が個体化を意識する
意識するには個体であるという条件があります
その意味では、個体化の原理はア・プリオリな原理で、
その原理を認識する我々は既にア・ポステリオリな存在になってる
とかテキトーなことを述べます
おもしろそうなんでお邪魔しましたm(__)m

2007/12/17 01:51 No.52

★5S/jOFTUYLw

なにやら難しい会話ですが、一口にすると・・・
人は死んだら、魂はどうなるの?
幽霊って、存在するの?
心って、なに?
・・・・って、ことですか?


2007/12/17 21:40 No.53

ヨチ ★lJxmyvyD/8A

私、「薄」識でありながら、この難問に挑む。

私は、AとBの「体」だけを切り離して考えてみる。頭はあっちの方に置いておく。

Aの体に、熱したフライパンを当ててみる。体はビクッとする。
体を椅子に座らせ、膝の前辺りを叩いてみる。足が上がる。
「反射」ってヤツですかね?脳が考えなくても、自立神経などの働きにより、生命を維持しようとするためのものです。この時、あっちの方に置いておいた頭は、まだ何も感じない。だが、体は単独でも、生命を維持する機能を備えている。

さて、Aの体にAの頭を付けてみる。すると、熱い事も分かり、その痕を見て火傷している事も認識出来る。
Bの体には何もしなかったので、Bの体にAの頭を付けると、何事も無かった様に感じる。

この事から、意識や認識は体からの後付的要素も考えられる。Aの体無くしては、火傷した認識に至れなかったですからです。Bの体は無傷なので、そこには「差異」もある。


続いて、乳飲み子を考える。

乳児が母の乳房から乳を得る行為は、本能だと思っていたのですが、どうやらあれは「反射」に分類されるようで・・・ショックです。(余談です)

もし0の「矛盾する」と言う考えが正しく、この世に存在するとすれば・・・乳飲み子がいきなりフランス語などを話し出したりする事があってもおかしくない!と言えると思います。その体(乳児の体)が、私(渡辺さん)のモノであってもおかしくないのですから。
でも実際にそんな事は無いので、やはり固体1つ1つに意識や精神があるのでしょう。

乳児は凄いです。初めて見たものを判別することが出来ます。
父親の写真と、他人の女性Aの写真を見せると、女性Aの写真に興味があるのか見ます。続いて、女性Aと女性Bの写真を見せると、女性Bの写真に喰らいつきます。コレははじめて見たからです。次に女性Bの写真と、女性Bによく似た女性Cの写真を見せます。大人でもどっちか判別するのに迷う様な写真なのに、乳児は一瞬で女性Cの写真を見ます。
乳児は、頭で考えるよりも先に、新しいものを認識・判別していると言う事です。



意識・精神・心とは、体と共にあって、個々に分別出来るモノでは無いんではないでしょうか?それを矛盾と言うならば、矛盾も含まれて、やっと人なのではないでしょうか?


ここまで考えて、結局答えは解りません。


50のがたりさんの意見なんですが。

所謂思春期の頃までは、『万能感』と言うものを持っているそうです。「自分には未来がある」「なろうと思えば何にでもなれる」等です。でも現実社会に晒されて、「理想の自分」と「現実の自分」にギャップを感じてしまう。ほとんどの人が、「現実の自分」を受け入れて生きるそうです。これは、この問題とよく似ていることではないでしょうか?

一方で、捨てきれない人も居て、「社会は理想の自分しか受け入れてくれないのではないか?」と言う妄想に駆られ、不登校や引きこもりになっていってしまう。少年マガジンの受け売りですが・・・

スレ汚し失礼しました。

2008/01/17 14:59 No.54

ヨチ ★DOCOMO-ghruTEnJIdU

あ!そして脳です!

精神とはドコで生まれるのか?ですが、脳+様々な事です。
そーなると、脳は体に由来してますので、αはその体に属している。と考えられないですかねぇ?

2008/01/17 15:51 No.55

夢@研究 ★pKR7OJlXPK.

意識とは、『記憶そのもの』であって一種の錯覚です。

何かを決めるとき、あたかも今その瞬間閃いている様に感じる事が在りますが
実は、現状に対し過去の記憶が『反応』しているだけに過ぎません。

これを踏まえ、個体について考えると
個体の境界は、書き込まれた記憶で決まるといえます。

もし仮に、A氏の記憶がB氏の記憶と常時共有した場合
A氏とB氏は、「一つの個体」的錯覚が起こると考えられます。

2008/01/17 16:27 No.56

147852 ★1SAeLOjwOIE


アプリオリなものを否定することで発生する弊害が乗り越えられていません。
よって中盤から後半が宙に浮きます。

17世紀の経験論に似た印象を受けます。

2008/01/18 10:32 No.57

ヨチ ★DOCOMO-ghruTEnJIdU

アプリオリな知識って、例えばどんな事ですか?
本能とか?

2008/01/18 18:10 No.58

ごまみそ ★A/NLYsZO/z2

究極的現実性がナンであるか分からないのは、究極と現実の定義が曖昧だから。
もしくは、はっきりしているにも関わらず、それをわざわざ曖昧と捕らえるため。
この問題を難関足らしめるのは、それを取り上げる人間が欲張り故。

2008/01/22 16:33 No.59

ヌコっぽいバス ★AU=bOEdkdYGsug

何か読むのが面倒だから、とりあえず>>0
意識がその身体を抜け出すことが出来るならば、矛盾は生じるのだろうけど、Aの意識はAの身体にしか存在しないのだから、Bの身体が感じたことを、Aの意識が感じること自体考えられない。
だから、矛盾は発生しないと思われ…
そりゃ、他人の痛みを想像することはできるし、理解はできるだろうが、そこから生じた意思が、その他人の意思になろうはずもなく、また、『この自分の意思がその人の意思だ』と断定することも不可であるのだから、『Bの意識がAの意識であるかもしれない』というのは『想像の産物である』としか言い様がない。
このレスが、既存であったり、気分を害していたら失礼。

2008/07/22 16:52 No.60

貴志@kisisiki☆vncgH6X4QDo ★Enito8W2UNk_gw

自分は矛盾を否定しません、矛盾こそが正しく、またそれこそが矛盾だからです。

存在は他人の意志でのみ存在を決定できるものなんだと思います。

多因子存在確率があるのなら、例えAがBであろうと存在するはずのないCであろうと、そこにある存在は変わらないと思います。

自分が何者でどんなものであるかなんて信用に値しません。

そこにいる者がAであるからこそ、みえるものであり、A以外にその存在が認識できるという保証はありません。

Aもそこにいないからと言って景色が変わるのかどうかは、Aの見ている景色次第なので見えるものが変わらないということは考えられます。

今現在自分がパソコンに向かっている時でさえ、認識できていないが周りから見れば空を飛んでいたり、むしろパソコンではなく別のものを操作しているかもしれない。

店で買い物をしたときに、財布から出した500円玉がたまたま、店員と自分の中で同じ存在として扱われているだけに過ぎない。

もしかすれば、他人がみればそれが1円玉かもしれないし、今まで見たことのない、例えば10万円札なのかもしれない。

そういうものなんだと思います。

これから先、違う認識のものが出てくるとすれば、どうなるでしょうね

2010/08/23 18:48 No.61

ねこなバス ★AU=sPRKuWblVn

意識Aが動かせる体は体Aだけだから、意識Aは体Aに宿っていると言えるのでは?

7年前 No.62

ねこなバス ★AU=sPRKuWblVn

逆に、体Aは意識Aによって動かされているので、体Aは意識Aの体であるとも言えるのでは?

7年前 No.63

ねこなバス ★AU=sPRKuWblVn

どうして体Aに宿る意識が意識Aと言えるのか?

体を動かす意識は生まれてから死ぬまで同一の意識体であることを意識体が意識しているため、体Aに宿る意識を意識A(つまりはAをつけることによって意識が同一あることを示している)としているだけではないでしょうか?

7年前 No.64

パック ★Tablet=jQPCnYoG2X

>>3 と同じことをむかし考えた。二つの同じ個体が東京と大阪に存在したら?首はつながっている。

3ヶ月前 No.65

★E6vycvPYvN_pzR

おじゃまします。「肉体」−−こんなのあたのね。

フッサールの『デカルト的省察』の訳注にこんなのあります。

空間的場所としては、私が動くことによって、先ほどまでそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそことなる。ところが、「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこなることはない。それをフッサールは「絶対的なここ」と呼んだ。

この見方、疑いの余地のないこと、って、わたし、見てます。

3ヶ月前 No.66

パック ★Tablet=jQPCnYoG2X

>>65 混線、二重映像のようなことは? ないと言い切れる?

3ヶ月前 No.67

パック ★Tablet=yFrJoxCsCU

頭と身体とを切り離すって決定的な意味があるのでしょうか。

1ヶ月前 No.68

宿題 ★eM1n2yJmTo_o53

五感を超えた所に存在の根幹はある・・

1ヶ月前 No.69

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

五感に存在の根幹はある

1ヶ月前 No.70

宿題 ★sicIy89Ne4_dNU

悪魔ちゃん

霊感・山勘・第六感ってご存知でしょうか?

1ヶ月前 No.71

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>71
おばちゃま
「霊感・山勘・第六感」って、聞いたことあるけど、
それって、〈五感を超えた所〉(超えてるかどうかは別として)にあるんじゃないかしら?
五感は身体に属しているけど、霊感・山勘・第六感は身体に属していない気がする。
そして、その所が、存在の根幹なのね。

>0
〈庭園の景観は消えて真っ暗の世界になる(なぜならAが私の肉体であり、Bはだれかの肉体だからである)〉
は、肉体によって景観が左右されてる、いいかえると、景観は肉体に依存している、っていう前提のもとに物語は出発している。
「身体としての私」っていう「絶対的なここは」考慮されていない。ん、その必要はない?

1ヶ月前 No.72

宿題 ★eM1n2yJmTo_o53

悪魔ちゃん

五感なんて錯覚ばかりよ・・

1ヶ月前 No.73

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>73
おばあちゃま

(1)「五感」を、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・体性覚、ってしますね。
(2)そして、これらの「異種感覚情報の統合」を、知覚されたもの、ってしますね。
(3)そして、それによって思考する、って、しますね。

で、
おばあちゃまがある本を読んで、いろいろ思考したとします。
このとき、五感が錯覚ばかりだとしたら、それによって思考されたものはどういうものになるのかしら?

1ヶ月前 No.74

宿題 ★eM1n2yJmTo_o53

悪魔ちゃん

見る物は正しく見えない・・

鏡と写真はどちらも同じでは無い上に立体を平面としてとらえます・・

聞くものは正しく聴こえない・・

これも物理学関連・・

臭いも長くいると感じなくなる・・

味覚って人それぞれ・・

みたいな・・

1ヶ月前 No.75

★E6vycvPYvN_pzR

>75
「見る物は正しく見えない」
ヤスパースさんの本(見る物)は正しく見えない、っていうことでいいかしら?

1ヶ月前 No.76

地下水 ★KATHFaYqOw_dNU

>>73 五感を確かにする事が大切なのですよ。考えに浸って、妄想を膨らませて、認識を誤る事の方が問題ですよ。だから正しい考え方を身に付けて、正しい第六感を磨く事が必要なのですね。

1ヶ月前 No.77

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>77
地下水さま、わたしの>74の(1)(2)(3)を読んでくれたんですね。ありがとうございます。

おばあちゃまは無視ね。つかれる〜

1ヶ月前 No.78

地下水 ★KATHFaYqOw_dNU

>>78 ギリシャで、一番大事なものはプロティオスと言うんだって。プロテインの事なんだって。だからもっとハッキリと身体から考えて、妄想に囚われない事が大切かもしれないね。

1ヶ月前 No.79

宿題 ★eM1n2yJmTo_o53

悪魔ちゃん

悪魔ちゃんは五感で思考するのでしょうか?

1ヶ月前 No.80

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

おばあちゃま
「哲学史上難問中の難問」はどうなってるの?

1ヶ月前 No.81

宿題 ★eM1n2yJmTo_o53

人間は、幼稚な状態にある間は、自分の環境から突然切り離されると、自分の存在意識を全く喪失することがある。

自我は、自我ならぬ他者、その中に自我がおかれた世界、との関係においてのみ自らを把握する。

自我は自らをば、我思うとしてのみ把握する。主観の自分を一度客観化したうえで止揚し同時に自己同一となる(二にして一)・・

1ヶ月前 No.82

★E6vycvPYvN_pzR

>82
No0では、「肉体」っていう語が出てくるけど、>82のなかに、「肉体」っていう語を入れるとしたら、どういう、ものがたりになるのかしら?

1ヶ月前 No.83

宿題 ★eM1n2yJmTo_o53

肉体は仮の身体です・・

肉体は時間のうちで私を支えてきたように、時間のなかで現存在としての私を滅ぼします。

どんな場合にも、肉体をば本来の意味での自分自身とは考えない方が良い・・

1ヶ月前 No.84

★E6vycvPYvN_pzR

>84
「肉体は仮の身体です・・」
ヤスパースさんも同じ見方?

1ヶ月前 No.85

宿題 ★sicIy89Ne4_dNU

およぐちゃん

ヤスパースさんの本を抜粋しました・・難問は頭がパンクしないようにヤスパースさんの本に頼ります・・

1ヶ月前 No.86

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>84、86、あら、そうだったの。
ここ、「肉体」に関係するところだから、話続けるね。

No84は「ヤスパースさんの本を抜粋しました」っていうこと、そのまま抜粋したっていうことでいいよね?
って、したとき、

ヤスパースさんの言う「肉体は仮の身体です・・」から、ヤスパースさんは「肉体」という語の意味と「身体」という語の意味を区別してる、ってわたしには見えるんだけど。って、すると、「仮ではない身体」っていうのもヤスパースさんのなかにはあるんじゃないかって。

どう? このような見方、 ヤスパースさんの「身体」はどうなのかしら? おばあちゃま。

ちなみに、

ラテン語とフランス語で思考・執筆したデカルトにとって物体と身体はともに一語(ラテン語ではcorps、フランス語ではcorps)で表される。デカルトの著作の邦訳を見ると、文脈によって「物体」と「身体」が訳し分けられているが、原語は一つなのである。それに対し、ドイツ語には、ラテン語・フランス語と言語を同じくする「物体K□rper」(これも「身体」を表す場合もあるが)とは別に、「身体Leib」」という語があり(これは、「生きる(leben)」と言語を同じくしており、その意を汲んで、「生ける身体」と訳すこともできる)、フッサールは早い時期から(1907年の講義録『物と空間』)、両者を使い分けていた。因みに、仏語では、K□rperには corpsを、Leibにはcorps organique(有機的物体または生体)を、英訳では、前者にbodyを、後者にはanimate organique(生きた有機体)をそれぞれ当てている。(『デカルト的省察』フッサール(訳注)より)

から、現象学では「身体」の意味を「物体」としてだけじゃなくて「生きる(leben)」っていう意味も含めて見てるんじゃないかって、わたし、思ってる。
ヤスパースさん、本当に現象学から決別したのかしら?

1ヶ月前 No.87

宿題 ★eM1n2yJmTo_o53

悪魔ちゃん

ゲルマン語派の仲間はドイツ語。英語、オランダ語、スウェーデン語など。

ロマンス語派(いわゆるラテン語の子孫)の仲間はフランス語。イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語など。

発想が違うと思います・・

日本なら身体・体・肉体・生命体・有機体・・微妙に言い換えられないような・・

1ヶ月前 No.88

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

わたしも翻訳語って確かに原書の語やその意味そのものとは違うと思う。

で、外国語で書かれた本の訳本からの情報、すべて、「なし」にしますね。
わたしが読んだ外国の哲学者が書いた本の訳本、おばあちゃまが読んだ訳本、さらに原本を読んだすべての日本人のその語とその意味は、「なし」ね。
当然、No86Noもなしね。

明確で "いいね!"

ギリシア哲学は、日本の語・その意味で生まれ育ち生きてきた人にとっては存在しえない。
西欧哲学についてもここでは存在しえないのよ。当然、東洋哲学、日本の哲学は存在しえないことになるなるよね。
っていうのは、そもそも日本では、「哲学」「フィロソフィア」が存在しえないのだから。
こういうことを言いたいのよね、>88は。
おばあちゃま、了解よ。

>85は、「肉体は仮の身体です・・」が、たとえヤスパースさんの言葉だとしても、おばあちゃまの”信念”を聞きたかっただけだから。
だから、もういいわ。

1ヶ月前 No.89

ひこた @hikonyan ★c6lsBVMaHM_o53

>>66
およぐちゃん

およぐちゃんが鼻息を吹きかけられたとき、
鼻息を吹きかけられたという感覚は「私の身体」によってここにあるのだけれども、
それは絶対的なものだといえるかな?
そのとき、鼻息を吹きかけられたという感覚は「絶対的なここ」となる。
そして、いずれにしても鼻息を吹きかける人には注意しなければならない。

1ヶ月前 No.90

宿題 ★eM1n2yJmTo_o53

悪魔ちゃん

訳者の後書きに・・種々の専門学域の疑問に援助を与えられた数多くの人々、校正や目次集成他の協力をされた編集部の方々・・

多くの時間を費やし訳業が困難を極めたと書かれています・・

素人の独学での翻訳は無理でしょう・・

本の内容が一番ヤスパースさんに近いはずです・・

当たらずとも遠からず・・重箱の隅を楊枝でつつくような枝葉末節にこだわるのでは無く大まかな本質をつかんだ方が・・

1ヶ月前 No.91

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