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時間

 ( 哲学掲示板 )
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ぶっちゃん

そもそも時間とは?
俺は定期的な周期のリズムを数字で表したものだと考えた。
所以に時が止まれば人も止まるとは考えにくい。それは対象の動き運動が停止したと考える。
時はない、あるのは連続される運動としたい。

みなさんは時間について、どう認識してますか?

2006/06/15 09:50 No.0
ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9

 
 

佐々木 ★iPhone=wEWe7kkB6U

ずっと太陽の真下におったら
ずっと昼

5年前 No.201

かりん唐 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

白夜のことじゃなくて?

5年前 No.202

佐々木 ★iPhone=wEWe7kkB6U

へぇー
白夜ってすげーなぁー
今初めて知ったわ
でもこれは太陽傾いてるやろ
海外行ったら時差うまれるけど
ずーーっと太陽の真下におったら
ずーーっと正午の紅茶やろ

5年前 No.203

空の光 ★ESHlcbwEpj_EP8

「っ」は見失われやすい言葉か・・・。
言葉で表されるんだから、現実になくても瞬間は、
人間の中で感じ取られるんだろうか?
人間の中に現れる現象なのかな?

動体視力による一瞬、スローも人間の中に表れるんだろうか?
でも、その瞬間に行動できるとしたら、やはり客観的に捉えられる?

5年前 No.204

茶坪 ★u6pjpoEwtj_EP8

てじ さん

瞬間・一瞬についてはまあまあ、いいでしょう。では物理的時間って公共的でしょうか?個人的なもの

なのでしょうか? 考えてしまいます。

5年前 No.205

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

公共的だと思います。
私は物理のことは何も知らないので、物理的時間も分からない。
でもこれは私の認識力不足のせいであって、時間が個人的だからではない。

Wikipediaが公共的なら、物理的時間も公共的でしょうね。

5年前 No.206

かりん島 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

明るいから全部が昼だって?人は時間で区切っ生活するから
明るくたって夜の行動しますが?時間の話ですよね?

5年前 No.207

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

「「存在」は十全かつ完全なものとして「イデア」の不動の体系のうちに決定的に与えられていると考えていた。したがって、私たちの眼前に展開する世界は、もはやそこに何ものをも付け加えることができなかった。それどころか逆に、この世界は減衰もしくは堕落にすぎなかった。(中略)「時間」がすべてをだめにしたというのである。」(H. ベルクソン『思考と動き』原章二訳)

「同様に、そしてとりたててこともない人生の来る日も来る日も、時間がぼくらをささえている。だが、ぼくらのほうで時間をささえなければならぬときが、いつかかならずやってくる。(中略)ある一日が訪れ、ひとは自分が三十歳だと自覚し、あるいはそう口に出す。こうやってかれは自分の若さを確認する。だがそれと同時に、かれは時間との関係に身を置くのだ。かれは時間のなかに位置する。自分がある曲線上の一点にあることを認め、以後その曲線を辿ってゆくことになると告白する。かれは時間に従属しているのであり、そうして恐怖に襲われることで、時間こそ自分の最大の敵だと気がつくのだ。」(カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳)

「敵」としての時間。憎むべき時間。

カミュは、余命五日と宣告された患者が五日待てずに自殺したという話にも、別のところで、言及しているらしい。

感じられる時間、つまり、待たれる時間は、恐ろしかったり、邪魔だったりする。

時間を「物理学的に」考えたいのも頷ける。つまり、時間を永遠に帰するのも頷ける。

5年前 No.208

かりん島 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

年齢の自覚 病でなく身体的変化を自覚させられる時 時間の経過らしきものの自覚 ?

5年前 No.209

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

カミュの文章は、このあとこう続いています:
「明日になれば――それまでのかれは、明日になればというふうに、明日を願っていた、」
この文章より少し前に、こう書かれていました:
「ぼくらは未来を当てにして生きている、「明日」とか、「あとで」とか、「あんたに地位ができたら」とか、「歳をとればお前にもわかるさ」とか言いながら。ともかくいつかは死ぬのに(・・・)」
さて、最初の文章に戻ると:
「――現実にはかれの全存在が明日になることを拒んでいたはずなのに。こういう肉体の反抗(・・・)」

明日を願うのは、明日になると「望み」が叶うかもしれないからだ。あるいは、願わなくとも、明日には時間があり、その時間を有効に使えるかもしれないからだ。
例えば、「あんたに地位ができたら」相手と結婚できるかもしれない。
このとき、ひとは余裕を持っている。つまり「時間がぼくらをささえて」くれているからだ。未来はずっとあり、その未来の時間を色々と使える。
このとき、いわば時間の直線を目の前に見て、明日のこの時間はあれをしよう、この時間はこれをしようと、計画を立てている。

だが、「ぼくらのほうで時間をささえなければならぬとき」とはいつか?
「時間との関係に身を置くとき」つまり、時間の「曲線」の一点に自分がなるときだ。
なぜ「曲線」なのか?と言うと、自分はまっすぐ進むばかりではないからだ。つまり、目の前にある曲線の一点を外から眺めて計画するのではもはやない。
そうではなく、自分自身がこの曲線上の一点「で」「ある」のだ。自分が「進む」と、この曲線はそのカーブを描くのだ。つまり、今までは引かれた直線を上から見ていたが、今や自分が曲線を引くペン先「で」「ある」。私が「曲線を辿ってゆくことになる」。目で辿るのではない。肉体で辿るのだ。

なぜ、恐怖するのか?
自分に全てが掛かっているからだ。しかも、曲線を肉体で辿っている最中の、現在の私に時間が掛かっている、つまり担われているからだ。
このプレシャーによる圧迫感が「恐怖」と言われている。「歳をとればわかる」ということは無意味になる。時間を上から、前から、直線として眺めることはもはやできない。自分が時間の最先端にあり、つまり、むきだしにさらされている。
ある意味で「未来はない」。まだ線が引かれていないから。引かれた線はあるのだから、ある意味で「過去はある」。だがこう言うとき、もはや時間を外から、曲線として眺めている。こういうことはもはやできない。時間は正当に、自分の「後ろ」と「前」になる。

こうしてメビウスリングに文を書いているとき、私はそうすることでこの曲線「で」「進んでいる」。今のこの行為は、曲線の「形」を当然左右するものでしょう。この行為にいたったのは、当然そこにまで線が引かれてきたからであり、そしてこの行為から、さらに先に私は線を引いてゆく。たとえば、なんでこんなに書いたんだと後悔したり、など。

まさに、「時間の経過の自覚」にほかなりません。「自」分が「時間の経過」であると「覚」ること。

5年前 No.210

なめこ汁 ★Android=8uSd7YVLCL

佐々木さんの感性凄く素敵だなあ。
こういう発想をしたいなあ。
ずーっと正午の紅茶って、滅茶苦茶良いですね。


なんか、地下で長い時間生活する実験やったら、体内時計滅茶苦茶狂ったそうですね。逆にずーっと昼ならそれはそれで狂うかもしれないwww
生物としての人間の時間感覚は曖昧なんでしょうね。
文化や制度が時間を決めてるだけですからね。。
一日が30時間だったらあなたと会える時間が増えるのに、とかっていうセリフ、ずっと不思議だったんですけど、どうしてそうなるんですかね。睡眠時間も伸びるだろうし仕事時間も伸びるんじゃないかな。比率は変わらないんじゃないかな。どうして会える時間だけが延長されるんだろう。伸びるじゃなくて延びるだなこれ、誤字。

5年前 No.211

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

時間は、本当に存在するのだろうか?

いやいや、問いを変えよう。時間は実在するのだろうか?

時間が実在するならば、過去や未来も実在しなければならない。なぜならば、時間は、過去と今と、あるいは過去と未来の時系列的な間隔だから。しかし、過去や未来は実在しない。実際に有るのは今だけだ。今しか実在しないのであれば、時間は実在しないと言わなければならない。

未来や過去を考えることは出来る。そういう意味では、未来や過去は、観念として、概念として、あるいは想念として存在している。そう考えれば、時間は概念として存在することには異論はない。ところが、実在するのが、今だけならば、時間を実在といえるかどうかは全く判然としないのだ。

連続する運動が時間の本質だとスレ主はいう。なるほど、運動は知覚できるからな。別の人は、時間の本質は無常だという。これは、結局のところ、運動、変化を別の言葉で言い表したに過ぎない。しかし、運動や変化は実在しているといえるのだろうか?変化とは、今と少し前の過去との差異だ。変化が実在するならば、過去が実在しなくてはならない。しかし、過去は実在しない。従って、変化も実在しない。なぜならば、常に今だからだ。

今だけが唯一の実在だ。

そう考えれば、時間も変化も無常も概念、観念であり、実在とは言えないということになるのではないか。自分の中では、「飛んでいる矢は止まっている。」という、昔の人が言ったというパラドックスは馬鹿げたことなのだが、上記のように思うと、必ずしも馬鹿げたことではないなと思えてくるのだ。

5年前 No.212

茶坪 ★ErbKXP7NfM_EP8

わたしは、時間というものは議論の余地がないほど明確に実在すると思う。
(ただし、考え方により時間を観念的にとらえたなら、実在するかどうかは不明であると思う)

つまり、その人(各人)の思考形態により、現れたり消えたりするものなのである。

5年前 No.213

空の光 ★ESHlcbwEpj_EP8

時間・・・過去、現在、未来。

 実存しているのが今だけ、だとすると。。。未来という無から今が生まれ、過去という無に帰する。
 無から生じ無に帰る。人間を含む、ありとあらゆる生き物も宇宙を含む、あらゆるものも。。。かな。

 ただ、過去は記憶や記録によって一部見ることができる。経験から学ぶためだろうか。
 未来が見られないのは、過去の経験、記憶、記録から予測を立て判断力を養うためだろうか。

 でも、未来を見たという人もいる。預言者。。。他の人には見えないから、信憑性は分からないが。
 もし、預言が真実だとすると、未来は実存しているという事になる。

 よく未来を知る者が、過去を操作し、未来を変えようとする映画などあるが、
 本当に変えられるとしたら、それでは未来は確実性がない事になる。
 変えられるというシナリオもあるし、変えられないというシナリオもある。
 いくつか選択肢のようなものがあったりするのだろうか?

5年前 No.214

akirai ★z9n949Bqa1_jJA

>>212

ここでの「実在」とはどう言う意味ですか?

別のスレで

>人間の認識は、常に、実在に至ることはできないから、実在は人間にとって存在でない。


とおっしゃっていますけど、今は実在するのですか?

今は概念ではないのですか?
実在する今はどの今ですか?
「い・ま」と言うとき、「い」と言い終わって「ま」と言い始めたとき「い」と言った瞬間は過去に移行していませんか?

5年前 No.215

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

ああ、それはそれ、これはこれだ。

その実在はその実在として考えたい話だが、今、ここで書いているのはそこは主眼ではない。

一貫性という観点では、それも含めてやるべきなのだろうが。

ここでの、実在は、実際に触れることができるもの、実際に存在するもの位の意味だ。

また、今は概念でないとは書いてないし、前の話では、今を厳密にとらえているわけではなく、未来、過去に対比する意味で、とりあえず大雑把に考えている。

そこを厳密に言い始めると、それはそれで長々しい。「い」と言った瞬間どころか、「ま」の頭のmも過去だ。俺たちが「今」と思うとき、その瞬間、「今」は過去となって通り過ぎる。俺たちは、「今」に留まることができず、其れでいながら、常に『今』にいる。

ここで、「今」は時間軸に固定された見方の今であり、『今』は時間の推移とともに時間軸を俺たちと時を同じくして移動していく今だ。

今について厳密に考えるのは、時間スレのスレ違いとはならないし、面白い対象だと思うが、まずは、ざっくり考えたい。

5年前 No.216

茶坪 ★FMHjbS31ET_EP8

「今」は実在すると思いますね。常識的に誰でも「時間」や「今」はあると思っているし、事実ある。

問題は「流れた時間」なのか「流れるであろう時間」なのか「流れつつある時間」なのかということ。

この「つつある時間」は今として有るのだから仕方が無い。だれに文句をいっても有るのだから・・・

5年前 No.217

akirai ★z9n949Bqa1_jJA

大雑把だとしてもよくわからない。

私は「今」にも『今』にも実際に触れたことがないので、今が実在だという意味がわからない。

私は時間は今も含めて人間が認識する際の形式でしかないのではないかと思う。
『今』という表記で示したいことはなんとなくわかる気はする。しかしそれは時間という概念を足がかりにして至っただけで、「そこ」との対比における『ここ』や「他者」との対比における『私』と大差なく、過去現在未来という時系列における今性を失っているため、それを“今”ということにあまり意味がないように思う。

興味があればググってみたらよいが、『今』という表記で示したい『』は入不二基義のいう無内包性のように思われる。

5年前 No.218

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

なるほどね。

そう言われてみると、なぜ今が実在なのか俺にもよく分からなくなった。

前に「今だけが唯一の実在だ」と書いたのは、過去や未来との対比であった。

過去の事物に触れることはできない。未来の自分にも合うことはできない。何かに為すことができるのは、常に今だけだという意図だった。決して時系列における今性を失った記述をしているわけではない。

ちなみに、『今』や「今」の『』には意味がない。単に別の記号として書いただけで、ダランベールの見方(流れる流体に乗った人から見た記述)とオイラーの見方(定点観測)をアナロジーで記述しただけなのである。

しかし、今という概念が時間概念に含まれるのだから、時間の実在を疑問視しながら、今が実在だというのもおかしな話だ。

そうだな、「実在に相対することができるのは今だけだ。」なら、未だ意味を成すかな?

5年前 No.219

茶坪 ★FMHjbS31ET_EP8

私のレベルが低いからかもしれないが、今(いま)って、そんなに難しく考えるものなのですか?

時計の秒針の動きの先端が今(いま)だと思うが?見る見える。見られる対象が今(いま)でしょ?

5年前 No.220

佐々木 ★iPhone=wEWe7kkB6U

例えば人生の三分の一は寝てるという
例えば『あーーー暇やなぁ』と思う
時間だけか唯一万人に平等に与えられたモノとしても
使い方によってコレもまたかわる
結局、平等なモノを与えたところで
与えられた人間側は平等やと思う奴もいれば平等じゃないと思う奴もおる
もうこの際
時間を売れるシステムをつくろう
時は金なり
10年1億円
じゃあ1年で1000万稼いでんのかって言われたら稼いでない
年代によっても値段はわけよう
例えば60歳〜70歳の10年と10歳〜20歳年の10年じゃあ価値が違う
ただし、売った時間はケツからになるんで、本来の寿命より10年早く死ぬだけ。自分の実際の年がいきなり10歳老けるワケじゃない
このシステムに早い年で入れば入るほど得って事。

年収プラス?%(その人間のビジネスセンスに応ずる)
社会貢献度やどれだけ周りに良い意味で影響を与えるかも
そして一番大事な寿命がいつか
とくに持病がなくても常に命を削るような生活や、単に命知らずの人間はその分を独自の割合で引く
そうして算出された自分だけの時間の値段を先に受け取れるようにしよ
ほんで回収された時間は子供をおいて癌で先立つような『生きたい』人間にまわしてやろう

5年前 No.221

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

今にまつわる具体例をいくつか。

敵はだんだんとこちらに近づいてくる。こちらは隊列を組んで、隠れながら銃をたずさえている。指揮官は言う:
「まだ・・まだだ・・まだ・・もう少し・・今だ!」(好機が来たので「今」と命じた)

電話を掛けたとしよう。
「(お前)今なにしてんの?」
「えー?今?・・テレビ見てる」(電話してるだろ)

ただ今試合中。
「今、試合が終わりました!!」(ある瞬間に試合は終わった。というのもルールで定まっているから)
「え?ああ・・あなたは遅かった。今はもう試合は終わっています」(「今」とは、ここでは、終わったあとの時間である。だがこの試合から一年後はまた別の時間だ)

「今、欠伸したでしょ、あんた。あたしの話つまんないの??」(「さっき」ではなく、「今」。いわゆる「たった今」)

5年前 No.222

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

たとえば「過去の事物に触れることができない」のは、真であるように見える。
これが真であるのは、どういう前提があるのか?
今、私はパソコンに触れている。
私の触れているのは「今のパソコン」と言うものだろう。私は「過去のパソコン」に触れていない。
ところで「過去のパソコン」とは何か?このような表現は、日常ではみかけない。
目の前に横線を引いてみよ:
―――――――――――――+―――――――――――――→
「現在」が「→」であるとしよう。
たとえば、「過去のパソコン」は「+」のところにある(つまりあった)。
これが「過去のパソコン」だが、見ての通り、「→」はもう先に進んでしまっているではないか。
ほら、「過去のパソコン」に触れないのは、明らかであろう。
では「過去のパソコン」と「今のパソコン」は違うパソコンか?
いや、これは私のパソコンで、「昨日のパソコン」も「今のパソコン」も同じ私のパソコンだ。それとも違うのか?
ところで、同じパソコンに私は触れているのに、どうして「昨日のパソコン」には触れていないのか?同じならば、どちらにも触っているではないか。
時間が違う!そこが論点ではないか。
では、このパソコンに「昨日」とか「今」とかの「属性」が属しているわけではないのだな?時間はまた、事物とは別にあるのだな?
もしそうなら、「昨日のパソコン」と「今日のパソコン」は別のパソコンになってしまう。これは矛盾になるからなあ。
ん?・・・でもある意味では、たしかに別のパソコンかもしれないな。
ある意味って、どんな?
「昨日のパソコン」は、昨日存在していた。だから、このパソコンという基体には「昨日」という属性も属していたはずだ。
しかし、「今のパソコン」には、「今」という属性が属している。だろ?だから、違うパソコンだな。
じゃあ、瞬間瞬間、パソコンが変化してるのか?
いやいや、何でそう考える?お前だって瞬間瞬間「今のお前」だ。万物が「今の」ものなんだよ?じゃあ、その変化に気付きはずない。何と比べて変化したと確認するんだ?
記憶じゃないか?いや・・「今」というものを記憶したことなんてないな。
そう。ありとあらゆるものには「今」という性質が付いており、過去のものには「過去」という性質が付いているわけさ。だから「過去の事物」に触れられるはずないだろ?

じゃあ、「過去の遺産」にはどうして触れられるんだ?
ばか・・それは過去から受け継がれてきた「今の」文化だろうに。

5年前 No.223

茶坪 ★FMHjbS31ET_EP8

心配しないでください。今のPCに触れているだけじゃなく無限の過去のPCにも触れているのです。
今のPCには過去のPCもトウゼン含まれる。5分前のPCはそこにあるし、7分後のPCも、それ

でしょう?変化はするが、現在は過去を吸収していく。今はドンドン前へ前へと進み続ける・・・・

5年前 No.224

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

>>224
それが「永遠」というものでしょうね。
「じゃ、じゃーよ、作られる前のPCはどうなんだよう?それは、ねーだろ?」
「ははは、あなたは『作られる前の』PCっておっしゃっている。ほら、作られる前にもPCがあるでしょう?」
「は?・・・あ、あ、ほんとだ!」
「『世界が始まる前にまだ作られていないPC』もやはりあるでしょう?」
「す、すげー。無限の過去にもPCがあるのか!」
「『もう壊れてリサイクルされたPC』も、やはりPCであるのです」

5年前 No.225

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

す、すげー。そうだったのか。

じゃ、じゃーよ、生まれる前の人間はどうなんだよう?

死んだ後の人間も、やはり人間なのか?

つまり、人間の存在は、永遠だ。

そういうことだろ?

5年前 No.226

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

ははは。
もうあなたは「生まれる前の人間」と言っている。
それも「人間」ではないか。

5年前 No.227

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

目からウロコが落ちたようだぜ

5年前 No.228

akirai ★z9n949Bqa1_jJA

今だと思うときその瞬間は既に過去になっているのではないか。
何かを為すときそれは今だと意識していないのではないだろうか。
今という概念(を含むあらゆる概念)は反省的に成立のではないだろうか。つまり概念が成立するときそれは既に一瞬過去になっている。
今自体というものは存在せず、今という概念のみが存在するのではないか。
それなら、概念である今は概念ではない実在には相対することができないのではないか(概念としての実在には相対することができるとしても)。




日常生活を送る上では今が実在するかどうかなどは考える必要はないと思う。
その意味では秒針の先端の動きが今だとしても何ら問題はない。
しかし、それは日常生活を営む上で問題がないというだけで、疑問視することが不可能なほど自明ではないとは思う。

5年前 No.229

茶坪 ★FMHjbS31ET_EP8

>229

何となくニュアンス的にわかります。そうかもしれないが、宇宙のある星に行って、見たこともない
大きな生物に出くわしたときに、目を皿のように凝視するでしょう? 「みたこともない!」

これは既視感ではない。ジッと凝視する。  これは今でしょ?? 過去ではない。見たこともない!
概念でもない。知性でもない。

5年前 No.230

茶坪 ★FMHjbS31ET_EP8

今について、それほど疑惑を生じせしめているのは、「知っているよ」「何回も見た」「ああいつもの・・」

「明日も明後日もずっと見るよ」等々   これは過去だね。つまり大抵は今は過去だ。

5年前 No.231

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

別に、「今」と思う瞬間のことを考える必要は一切ない。
お菓子のことについて考えるとき、お菓子を食べながら考えなくてもいいのと同じだ。
しかし、お菓子の話をしているとき、何か例を出すなら、お菓子の例を出したくなる。
「i-ma」の発音の例は、その程度の意味しかないだろう。
この発音の例のせいで、あたかも概念は思われているときに同時に「存在する」と考えてしまう。

とりあえず、「存在」という言葉に注意してみる。
>今自体というものは存在せず、今という概念のみが存在するのではないか
今自体が存在しないと言って、何を言っているのか。
まず、今は物ではない。たしかに今を目的語にすることはできる。「今を生きる」など。これはかなり詩的な言葉だ。
しかし、やはり「生きる」ということは、時間を通して過ごすことが含まれている。
やはり、今というのは時間の一種である。
「え?物じゃないのに、なんで『一種』なんてあるの?種類があるってことはそれ物じゃないの?」
ここで時間は、概念として言われている。「休憩時間に休む」と言うときの「時間」とは別だ。
時間も物ではない。時間だ。もっと言うと、「とき」である。「休憩時間」も「練習の合間の練習していないとき」だ。
「とき」は、非常に限定されてしか目的語にならないし、主語にもならない。
「とき」は過ぎる。「とき」は止まる。だが「とき」は野球しない(詩は除く)し「とき」はギターを弾かないし、そして「とき」は存在しないのだ。
だが「とき」も名詞である。だから、文法的には、「ときが存在する・時間が存在する」と言っても何もおかしくない。しかし、これは何を言っているのか?
「時間がある」とは、確かに言う。でもこれは「利用できる時間が残っている」ということであり、時間が存在するということではない。
「ときが流れる」と言う。「ああ時が流れるのは早いね。もうこんな時間」この「流れる」というのが「存在する」ということか?そうかもしれない。
「ときは流れるものだ」と言えそうだ。ただし、これは「とき」の特徴を言っているのだ。「人は誘惑に負けるものよ・・」などと言うように。

時間は、時間としては、「もの」でも「こと」でも「ところ」でもない、「とき」だ。
この四つの、日本語的な種類において、存在するのは「もの」だけなのだ。ただしこれら四つは全て「ある」ことができる。
野球場は、野球する「ところ」だが、野球場は存在するではないかと思われるかもしれない。
たしかに。具体的に考えよう:「日本にも野球場は存在します」と言うとしよう。
どういうイメージを持つだろうか。たとえば日本地図を見て、「ここにも野球場が存在している」とか言うだろうか。
日本を旅して「ほらここにも野球場が存在しています」と言うだろうか。
このとき、日本という「ところ」において野球場という「もの」が存在しているのではないか?
つまり、場所としての野球場ではなく、施設や建物や公園という「もの」が存在すると言われているのではないか?
野球場で野球するとき、もちろん野球場は存在するだろう。だが、誰が「野球場が存在する」などと思っているのか?私だ。
私が例を出して、野球にまつわる要素を想像して、場所っていう「もの」もあるしー選手っていう「もの」(「ひと」ではない)もあるしーと想像している。
だが、野球場で遊ぶ人にとってみたら、彼らはそこで遊んでいるだけだ。
野球は、野球場が「あっ」てこそ、できる。(ここでの「ある」は「存在する」と同義ではない)
野球する「ひと」は、野球場を使って、野球している。
「ところ」が「ある」とは、「ところ」が何かに使われることができるということではないか?
時間も、使われる「もの」ではないか?(ここでは時間は「もの」である。え?「とき」じゃないの?「時間と言うもの」である。)
これは、時間の一側面でしかない。「時間が経つ」こともある。このとき、時間は使われているわけではない。

5年前 No.232

akirai ★z9n949Bqa1_jJA

伝えるのは難しいが私が言いたいのは、仮に凝視している瞬間は今だとしても、凝視している瞬間を今だと自覚した瞬間に「今」は概念と化し、そのような概念という形態でしか今は存在しないのではないかということ。

ちなみに私は時間に関してあまり疑問を持ってはいない。
今を含む時間は概念として確実に存在すると思っている。逆から言えば概念としてしか存在しない。

5年前 No.233

茶坪 ★FMHjbS31ET_EP8

<233

そしたら、誰が「今」をとらえるのだろうか?

2歳までの赤ちゃんとか犬・ねこ・牛・羊・等々はひょっとして「今」を見ているという
ことですか? つまり、時間の看取は本能であるとか。

5年前 No.234

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

>>233
私も「今が実在すること」がないと思います。
ところで、概念とは何でしょうか。論点はここにあると考えます。
>今を含む時間は概念として確実に存在する
もし時間一般が「概念として」存在するなら、概念は時間にとっても、とても重要なものでしょうから。

5年前 No.235

茶坪 ★FMHjbS31ET_EP8

<<233

たしかに、そのような意見は厳密にいえば正しいでしょうね「瞬間はない」と同様に。
しかし、我々が寝ている場合の事象はどうでしょうか。やはり、今は無いとでも?

5年前 No.236

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

どうやら、時間は実在しないということのようだな。

しかし、自分で言い出しといて何だが、いまひとつ釈然としないところもある。

それは、時間が実在ではないというとき、恐らくは、日々の移ろい、変化も実在ではないとなる点である。カンチガイかも知れないが。

ま、俺たちの認識が、いつも『今』に置いてけぼりにされて、『今』の残像と記憶のみを感じながら、それでいて、俺たちが『今』生きているということには変わりはない。

5年前 No.237

akirai ★z9n949Bqa1_jJA

>>235

私は概念とは何かについてはよくわかっていません。
ここでは、ちょっとさんの実在の意味「ここでの、実在は、実際に触れることができるもの、実際に存在するもの位の意味だ」を元に、実際に触れることができないもの(実在ではないもの)でありながら、確かに存在すると思われるものとして、扱っています。


>>236
寝ているときという表現で言いたいのは意識がないときと解釈します。
意識がないときというのは本人にとっては意識を取り戻してから意識がない時があったと反省的に知ります。
意識がないその瞬間は本人にとっては時間などありません。しかし、意識を取り戻したとき、意識を失っていた時も時間は流れていたというように遡及的に時間は流れていたことになると思います。

>>237

移ろったものや変化したものには実際に触れることができますが、移ろいや変化自体には触れることはできませんので、実際に触れることができるもの=実在という意味では、移ろいも変化も実在しないと思います。

5年前 No.238

とら ★MVlf6pxQMN_jJA

時間を認識する
その能力が大切

5年前 No.239

茶坪 ★COYZOl0s4H_EP8

ものごとを観念的にとらえたら、時間の実在は無いでしょうね。そのとおりだと思います。

しかし、電車のなかで「色即是空」と言っても、回りの人はキョトンとするでしょう。

では、唯物的(物だけ)に考察すれば? A=A 円の定義と同じ明白に時間(今)は有ることになる。

5年前 No.240

akirai ★Hq8nczwZMb_jJA

人によるでしょう。
下記のように考える人もいると思いますよ。

この世界には物しか実在しない。それらの物が変化しているだけだ。時間なんてものは観測者である人間が物の集合である自然を観測し記述するため、あるいは生活上の必要に駆られて便宜的に取り入れたシステムにに過ぎない。とかなんとか。

5年前 No.241

佐々木 ★iPhone=wEWe7kkB6U

今この瞬間は二度とやってこないと言う
果たしてホンマにそうか
今この瞬間に自分がしている行動と明日全く同じ場所で同じ事をしてる自分は違うか
厳密に言うと全然違う
何が違うか?
細かく言うとキリがないから一言で言うと劣化している
じゃあ鉢植えに球根を植えたとしよ
明日になれば芽が出ていた
これは劣化か?
一般的にはそーゆー事に対して『劣化』と言うとおかしいやろ
でもこれも劣化や
時間は足し算じゃない、引き算
有限という事は常にカウントダウンされてる
全てのモノはその個体の破滅にむかって時間をすり減らす
その時間の中で問う
命や時間の意味を
ホンマはそんな事全然どーでもいいのに
不安で時間を持て余した自分が問う
時間てなんなん
お前は平等なフリして全然平等ちゃうな

5年前 No.242

とら ★MVlf6pxQMN_Xty

時間をはじめとする数学的認識に比べれば宗教など妄想でしかない
世界は数学の原理で動いている

5年前 No.243

佐々木 ★iPhone=wEWe7kkB6U

ムシン消えたやん

5年前 No.244

かりん島 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

時間は実在しない?じゃ共有の妄想?幻想?

5年前 No.245

akirai ★rahVZ1jnWP_jJA

実在(じつざい、英: reality)は、認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの(wikipedia)

この意味では時間は実在するかも。

5年前 No.246

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

色は、認識主体から独立して客観的に存在するか?

道具は、認識主体から独立して客観的に存在するか?

数学は、認識主体から独立して客観的に存在するか?

過去は、認識主体から独立して客観的に「存在する」か?

未来は、認識主体から独立して客観的に「存在する」か?

今は、認識主体から独立して客観的に存在するか?

そして、時間は?

5年前 No.247

akirai ★rahVZ1jnWP_jJA

それらは、認識主体から独立して客観的に存在すると「みなされている」と思いますよ。

5年前 No.248

akirai ★rahVZ1jnWP_Xty

>>246 で実在は妄想や幻想などと対比されていると考えます。
その意味では、 >>247 で挙げられたものは全て実在すると思います。

5年前 No.249

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

そうみなしてるのは誰なんだろう?

「実在」に対する「認識主体から独立して客観的に存在するもの」という表現が適切でないということかな?

「妄想や幻想ではないものが実在の定義なのである。」なら、分かるけどね。

例えば、色に関して考えてみよう。色盲の人は、色を知覚できない。

ということは、色は認識主体と独立ではないとならないか?

5年前 No.250

akirai ★rahVZ1jnWP_jJA

誰ということはないと思います。
ここは時間のスレですので時間に関して言うと
時間という認識を持つ者全てにとってそうであるということになると思います。
認識の形式が共通しているために、時間は客観的になる(客観的に存在するとみなされる)のだと思います。

私が言いたかったことは、ここでは、実在=妄想や幻覚(認識主体に依存するとみなされているもの)でないもの=認識主体から独立して客観的に存在するとみなされているものとなっているため、例として挙げられたものは実在になると思いますということです。

色盲の方は色を見ることができない。だから、例えば、何かをその方の前に持っていきこの色は何色ですかと尋ねてもわからないと思います。
しかし、色という言葉が示す意味がわからないということはないと思います。
色盲の方は自身が色を知覚できないからといって色など存在しないなどとは言わないと思いますよ(何らかの理由で自分に色が知覚できないことを強調するために色は存在しないと主張する可能性はあると思いますが)

それに、実際に認識主体から独立して存在するかどうかは問題ではないと思います。
認識形式を共有していることにより、特定の認識者が認識していなくても存在しているとみなされていれば、それはその認識形式を共有している者の間ではそれは客観的に存在するものとなり、定義上、実在になると思います。

5年前 No.251

空の光 ★ESHlcbwEpj_EP8

時間・・・流れに乗るという言葉が使われる事もある。時の流れ。
流れに乗るためには、客観的に見た時間というものがあるという事になる。
それに自分の中にある時間のタイミングを合わせなければならない。
つまり、普段は認識しないが、個々の時間と、全体的な時間があるのかも。
そして、無意識のうちに流れに乗せられている。
ところが、時計が全体的な流れと違ったら?
仕事を懸命にやっているうちに、いつの間にか日が暮れたとか、かな?

5年前 No.252

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>251

認識形式を共有することが実在することなら、Wikiに記載の実在、即ち認識主体と独立して客観的に存在するものとしての実在とは異なる意味になる。なぜなら、その実在は認識主体に従属しており、幻覚や妄想とも区別できないからだ。その定義なら、共同幻想も実在だということにならないか?

Wikiの記述が妥当かどうかはとりあえずおいておくとして、その実在(認識主体と独立して客観的に存在するもの)を頭に持ってきた以上、それに即して、実在かどうかを書くのが筋ってもんだろ。それを持ってきておきながら、「実際に認識主体から独立して存在するかどうかは問題でない」と書くのは不適切だし、そのあとの「定義上」っていう記述ともつながらないね。

貴方は、「時間は実在する。」と言いたいばっかりに、実在の定義を、自らが持ってきたWikiの定義から、「認識形式を共有するもの」に勝手に書き換えてしまったのだ。それは、欺瞞ってやつなんじゃないの?

5年前 No.253

佐々木 ★iPhone=wEWe7kkB6U

秒、分、時間、日、週、ヶ月、年

5年前 No.254

akirai ★rahVZ1jnWP_jJA

定義を書き換えたつもりもないし、欺瞞だとも思っていません。
なぜそんことを言われるのか理解できません。

1.実在とは認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの。
2.特定の認識者が認識していなくても存在しているとみなされていれば、それはその認識形式を共有している者の間ではそれは客観的に存在するものとなる。
3.特定の認識者が認識していなくても存在しているとみなされてるものは、実在である。

と言ったのですが、何が欺瞞なのでしょうか?

また、

>実際に認識主体から独立して存在するかどうかは問題ではないと思います。


これは、実在は認識主体から独立して客観的に存在する“とされるもの”(この強調はwikiの意図にはないと思いますが、この点は >>248 で表明したつもりです)なので、実際に認識主体から独立して客観的に存在するかどうかは問題ではないという意味です。

私は実在とは認識主体から独立して存在する“とされるもの”という定義なら時間は実在するかも。と言ったのであって、実在が認識主体から独立して客観的に存在するものという定義なら時間は実在するかもといったわけではありません。

5年前 No.255

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

2,3はWikiに書いてあるのかい?

付け足しだし、認識主体からの独立性が失われている。

「みなされてる」というから、「誰によって?」って聞いたのさ。

貴方によって、「みなされる」なら何だって言えるだろ?

常識によって、「みなされる」なら、常識から一歩も抜け出ることはできない。

5年前 No.256

akirai ★rahVZ1jnWP_jJA

ではこう書けばよかったのでしょうか?


1.実在とは認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの。
2.時間は認識主体から独立して客観的に存在しているとされる。
3.時間は実在している。

これでも2.3はwikiには書いていないから付け足しになるんでしょうね。
だとしたら、何も言えませんね。
どうしてwikiに書いてないといけないんでしょうか?

認識主体からの独立性については、「特定の認識者が認識していなくても存在しているとみなされている」ことで成立すると思います。


>>「みなされてる」というから、「誰によって?」って聞いたのさ。


>誰ということはないと思います。

>ここは時間のスレですので時間に関して言うと

>時間という認識を持つ者全てにとってそうであるということになると思います。

>認識の形式が共通しているために、時間は客観的になる(客観的に存在するとみなされる)のだと思います。

5年前 No.257

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

色は存在するのではなく、見える。
色は、その色が見えている人と無関係に見えるということがない(明らかな矛盾である)。

色というものは、しかし、存在する。
もし色というものが存在しなければ、どうして私たちが色というものについて話したりできるだろうか、いやできない。

ところで、色というものは、(発言のさいに)「色」と(一緒に)言うものである。
つまり、色というものは「というもの」である。
色は見えるのであって存在はしないが、色というものは見えないが存在はする。

私には色が見えている。だが色を見ているのではなく、iPhoneの画面の字を見ている。

だが、たとえば私が色鉛筆のうちから赤鉛筆を探すときには、私はそれぞれの色鉛筆の色を見る。
つまり、何色かを見るのだ。
しかしながら、私には様々な色が見えている。
ここでは、二つの「色」という言葉が使い分けられている。
見える色(映像)と、見られる色(何色か)である。
「見える色」はおそらく今あなたにも見えている様々な色のことであり、「見られる色」は赤色や青色や黄色や紫色のことである。
色というものは、この二種類の色の意味である。この二種類の具体的な色の「イデア」である。
イデアこそが「存在する」。


時間も同じで、時間というものは存在するが、時間が存在するかどうかは不明である。
時間というものは「時間」という語と一緒に言われる何かであり、この何かが何であるかが問題である。
そしてこの「何か」は、存在するというよりはむしろ経つ。
しかしながら、時間というもの・時間というイデアは、存在をする。

5年前 No.258

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>257

ここは、哲学掲示板で、時間スレだ。

哲学的雰囲気があれば、何を書いても構わないだろう。

だからといって、「認識形式の共有」みたいな元の定義と異なるものを導入して、結論を導いても説得性がないだろ?

257にはそういったものはない。

しかし、Wikiの記述(257-1)を元にするなら、検討の対象は、257-2が妥当かどうかだ。

それと、認識主体って「特定の認識者」ではない。その他の認識者も認識主体だろ?

認識主体って、具体的に、何のこと?

あるいは、「認識主体から独立である」とは、具体的にはどういうこと?

その辺から始めんじゃないの?

5年前 No.259

akirai ★rahVZ1jnWP_Xty

なるほど、そうですか。
では認識主体とは何かから始めることにしましょう。

認識主体とは自己のことだと考えます。
また、認識主体自体がすでに一般化されていると思います。
一般化されていなければ認識主体はwikiのそのページを作成した人の自己になると思いますが、そうではなくより一般化された自己一般になると考えます。

5年前 No.260

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

そうしてもらうと助かる。

さて、認識主体は、一般化された自己である、か。俺には未だ抽象的過ぎて分かりにくいな。

俺の中では、俺は、俺の視点から世の中を認識する主体、一つの認識主体だ。貴方も、貴方の視点から、世の中を認識する主体、一つの認識主体だ。あの人も、この人も、みんな認識主体だ。みんな、それぞれの視点から世界を認識してるからな。

ということは、ざっくり言って、認識主体とは、要するに人間のことだ。もう少し書くと、人間の意識のことだ。

「え〜、赤ん坊は認識主体といえるの?赤ん坊が何かを見たって、それが何だと認識できないんじゃないの」とか、「猿も、夕日を眺めてうっとりすることがある」とか「猫の、夜間認識能力なめんなよ」とか色んな声が聞こえてきそうだが、細かいところはおいておこう。

この、人間の意識は、特定の個人の意識ではなくて、各個人の意識をみんな含めた人間の意識だ。貴方の一般の用法をまねると、人間の意識一般となるけど、それでは煩わしいので、特定の個人の意識ではない、意識一般であることを了解した上で、「人間の意識」としておけばよい。

どうだろう?

5年前 No.261

かりん島 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

意識してないと時間を認識しない 無意識下に時間を意識出来ない 時間を意識するは人だけ 猫?夜は認識しても時間も解るの?

5年前 No.262

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

なかなかスルドイね。今は実在について何とか分かろうとしてる段階で、時間については、とりあえず、横においてるのだ。

猫の能力をなめてはいけない。奴らには、確かに精神があるし、時間感覚もある。あろうことか、集会までやってのける連中なんだ。

5年前 No.263

かりん島 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

生態知らないけど猫って単独行動だと思ってたよ

5年前 No.264

akirai ★ntvMoesuzu_jJA

>この、人間の意識は、特定の個人の意識ではなくて、各個人の意識をみんな含めた人間の意識だ。貴方の一般の用法をまねると、人間の意識一般となるけど、それでは煩わしいので、特定の個人の意識ではない、意識一般

>であることを了解した上で、「人間の意識」としておけばよい。


確認です。

認識主体は各個人の意識をみんな含めてた人間の意識。ということは個人の意識は認識主体ではないということですか?
>>261 には「一つの認識主体」と「認識主体」という言葉が出てきますが、「一つの認識主体」が個人の意識、「認識主体」が各個人の意識をみんな含めた人間の意識、ということでしょうか?
それで、「実在とは認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの」の認識主体は「一つの認識主体」の方ではなく、「認識主体」の方であるということでしょうか?

5年前 No.265

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

個人の意識も認識主体だろう。それは、貴方が、「一般化されていなければ、認識主体がwikiを作成した人の自己となると思いますが・・・」と書いているのと対応する。個人の、つまり、俺の、あるいは貴方の意識は、それぞれ人間の意識で、それぞれ一つの認識主体であるが、それは、個別の認識主体である。しかし、貴方が「自己一般」と書いたように、wikiに記載の認識主体は、そのような個別の認識主体ではなく、一般化されたものだ。俺の書いた、各個人のみんな含めた人間の意識とは、一般化をなるべく具体的に書こうとしたものだ。しかし、改めて自分の書いたものを読んでみると、あたかも、個人の意識を集めた集合意識みたいな感じの書き方になって、かえって分かりにくい感じがするな。それは、一般化されたものを意味すると思ってほしい。つまり、俺の解釈は「実在とは認識主体から独立して客観的に存在されるもの」の認識主体は、「一つの認識主体」ではなく、「認識主体」の方だ。そこは、貴方と一致していると思う。

5年前 No.266

茶坪 ★4EPZRmQzTg_EP8

時間論については、それを観念的にとらえるか、唯物的にとらえるかによって雲泥どころろか根本的に

まったく全然違う。つまり四角い大テーブルがあってこちら側に座るか、あちら側に座るかで天と地の

違い以上の、存在不存在に匹敵する以上の違いがある・・・・・・

仏教徒で日本人で島国人で神国で集団志向の民族にとって、唯物以外に何があるでしょうか?

5年前 No.267

akirai ★mW2IwZeajD_jJA

>>266

では次に「認識主体から独立である」とは、具体的にはどういうこと?の方に移行していきたいと思ったのですが、その前にもう少し一般化された認識主体について確認したいと思います。
くどいと思われるかもしれませんが、この部分のすり合わせは重要だと思われますので。
一般化された認識主体は誰の認識主体でもないですが、同時に万人の認識主体でもあると考えるのですがいかがでしょうか?
代数のように任意に個別の認識主体を代入できるようなニュートラルな認識主体ということです。

5年前 No.268

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

そいつは、正直、俺にはよく分からない。貴方が、そうだと思っている分には問題ないよ。実際、その「代入」という操作を行う際に、妥当かどうかを考えればよいと思う。

5年前 No.269

茶坪 ★QLsokLqri1_EP8

>247 ちょっとさん

247は実に興味ある羅列で、メモをしました。こういう書きかたなら、私は「存在する」と思いますね。
唯物・観念・二元論を問わず、そこに「変化」がある以上、時間の実在・存在は疑いようがない事実だと。

過去・現在・未来があって今が絶えず流れていくという構図から我々は逃れようがない。

5年前 No.270

akirai ★xlL6sEVdQX_jJA

そうですか。では「認識主体から独立して客観的である」とはどういうことかに移りたいと思います。

私は、任意の認識主体(X)の認識に依存せずに存在するものと捉えています。
任意の認識主体(X)の認識に依存するものはいわゆる主観的に存在するものです。

例えば、私の感情は私にしか感じることができず、私の認識に依存した主観的な存在になるため、私という認識主体から独立して客観的であるとは言えません。
一方、例えばりんごは、私がそのりんごを見ていようといまいと私の認識には関係なく、私の認識から独立して存在します。
またりんごが私の認識から独立して存在することは私に限ったことではなく、私以外の他者にも言えることだと思います。
ゆえに、この場合りんごは「認識主体から独立して客観的である」に該当すると考えます。

5年前 No.271

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>270

なら、俺の247は失敗だな。247は、実在するかどうか微妙(俺的にはネガティブ)だなと思うから、疑問形で書いたんだ。

5年前 No.272

茶坪 ★SpLnq0mnVo_EP8

〜〜〜客観的に存在するか? は認識は、意識(知覚)をもって語らざるを得ない以上、存在非存在を

決めるのは貴方でしょ?  と言わざるを得ない。 他人が何と言おうが・・・! NO247の疑問文

は面白いが、結局は「私が死んでも時間はそのまま流れていくのか?」の問いに帰する。

5年前 No.273

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>271

認識主体と独立に存在するされるとは、結局のところ、人間の意識なるものに依存せず、つまり人間の意識が存在しなくても存在するとされるものだ。「xxとは独立に」とは「xxに関係なく」とか「xxに依存せず」と意味に俺は考えているが、その意味では、貴方と一致しているようだ。

しかし、俺は「認識主体と独立」ということには、実に居心地が悪い意味合いがあると思う。それは、全てを消してしまうような働きだ。俺は、そこには、二つの陥穽があると思っている。

一つは、貴方があると言っているその目も前のものは、貴方が見ている、貴方が認識したりんごであることだ。貴方の認識世界にあるりんごだ。貴方がりんごをどのように見ているかは知らないが、それが貴方が認識しているりんごであり、俺が貴方の認識しているものを見れない以上、その同一性、つまり客観性が担保できない。

もう一つは、それを「りんご」と呼ぶことだ。なぜ、それをりんごと認識できるかというと、それは人間の意識の側にりんごの概念があるからだが、認識主体との独立性を要求するとき、認識主体側の概念の適用ができなくなってしまう。概念がなければ、その対象を語ることはできない。つまり、俺たちは、俺たちから独立なものの前では、黙り込むしかない。

俺的には、現実の事物(恐らく、貴方のりんごもその一例だ)は実在だと思ってはいるんだが、それを語るとき、定義上それをしてはならない方法で語らざるを得ないような、そんな気持ち悪さを感ずるのである。

5年前 No.274

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>273

俺の中では、俺自身の死と時間はあんまり関係ないね。時間はあるか、あるいは時間は流れているかの問いの方がしっくりくる。

5年前 No.275

akirai ★xlL6sEVdQX_jJA

>>274

どこまで分かってもらえるかはわからないけれど、私はwikiの定義による「実在」という事態はそこまで厳密なことを言っていなと思うんですよね…。

>一つは、貴方があると言っているその目も前のものは、貴方が見ている、貴方が認識したりんごであることだ。貴方の認識世界にあるりんごだ。貴方がりんごをどのように見ているかは知らないが、それが貴方が認識して>いるりんごであり、俺が貴方の認識しているものを見れない以上、その同一性、つまり客観性が担保できない。


この部分を読むと、あなたは私とあなたの認識の同一性を客観性と同一視しているように読めるんですが、客観性と私とあなたの認識の同一性は関係ないと私は思っています。
一つのりんごを私とあなたが見ているとした場合でも私が見ているりんごとあなたが見ているりんごは同じではないかもしれません。厳密にはそれは確かめようがないと思います。
しかし、私は私が見ることをやめたからといってあなたの前からりんごが消えるとは思っていませんし、あなたもそう思っていると思っています。これだけでりんごは私の認識に依存せず客観的に存在すると言えると思います。私の認識に依存していると思われているのはりんごのクオリア的なものだと思います。

また本題からは少し離れるような気がしますが、私はあなたの認識しているものを見ることができない。この差異性が自己性を形成しているのではないかと思います。
もし全く同じ認識をしていたらあなたと私の差異性は消失するのではないでしょうか?


>もう一つは、それを「りんご」と呼ぶことだ。なぜ、それをりんごと認識できるかというと、それは人間の意識の側にりんごの概念があるからだが、認識主体との独立性を要求するとき、認識主体側の概念の適用ができな>くなってしまう。概念がなければ、その対象を語ることはできない。つまり、俺たちは、俺たちから独立なものの前では、黙り込むしかない。



「認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの」
私にはこの記述から概念からの独立を読み取ることができない。
認識主体から独立して客観的に存在するというのは、主観から独立して存在するということではないでしょうか。
客観的とは、人間の側にある概念に適っていることを指すのではないかと考えます。
もしそうであるならば、「独立して客観的に存在する」とは客観的に存在する以上、概念からの独立ではないと思うのですが。

5年前 No.276

茶坪 ★SpLnq0mnVo_EP8

時間の存在は疑い得ようのない事実(但し、生きている限り)。我の死後も同様に時間は流れ続ける

であろうという観念、これは実在論じゃないのか?客観的存在とは「我と関わりなく物質は存在し、勝手に

時間は流れる」という観念。つまり、公共的時間・科学的・常識的時間の存在を承認すること。

我(われ)の関わり(主観)がなければ、存在も時間も無いといえる。つまり、空無だな!

日本的集団的流行的発想によるならば、日本人のほぼ全員は「空無に堕ちる」。個は否定される。

5年前 No.277

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>276

客観性が成立するためには、他者の視点が必要だ。そして、その他者の視点からと自己の視点からの認識の一致をもって初めて客観性が得られる。つまり、客観性とは認識主体の、人間の意識の側にある言葉だ。ところが、ある存在が認識主体から独立であるという時、つまり、人間の意識と関係なく存在するというとき、それが、客観的であろうがなかろうが、存在することに(実在することに)変わりはないのである。恐らくは、俺が客観的にという言葉に感じている違和感はそこだ。

その一方で、いかなる事物においても、各個人の認識は一致することはありえない。そこには、認識の不一致を乗り越えて、ある事物があるとの合意がなされる必要がある。つまり、各人の認識からの飛躍がそこにはある。また、実在が認識主体と独立である以上、そこにも大きな飛躍がある。このような実在とは、俺たちの実感(つまり認識)から、実に離れた存在なのだ。

以前は(数日前は)、俺は、「認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの」という定義で、概念を仕分けするようなイメージでいた。しかし、認識主体が一般的なものであるとするならば、つまり人間の意識一般と切り離されるならば、やはり、実在は、概念から引き離されてしまうのである。語るためには、概念がどうしても必要なのだが。この辺りは、ある種の人たちを念頭において書いているので、俺的にはその矛盾を(本当に矛盾なのかどうかは分からないが)踏み越えていくことはどうということはないのだ。

認識主体を主観とすることには、同意しないな。主観というのは、個人の意識で、一般性が失われてしまうから。しかし、俺の同意は貴方にとっては必要なものではないし、そこが、意見の相違点と認識されるだけでも十分なのだ。

5年前 No.278

akirai ★xlL6sEVdQX_Xty

>>278
意見の相違点として受け入れて終わりにすることは簡単だが、やはり納得がいきません。

あなたは、 >>253

「認識主体と独立して客観的に存在するもの」に即して、実在かどうかを書くのが筋だと言って私を批判し、そこから認識主体とは何かという議論が始まりました。

>ある存在が認識主体から独立であるという時、つまり、人間の意識と関係なく存在するというとき、それが、客観的であろうがなかろうが、存在することに(実在することに)変わりはないのである。


このように仰っていますが、「客観的であろうがなかろうが実在することに変わりはない」ということは定義に反しています。
ここでは、(「実在は認識主体と独立に存在するもの」と定義されているのではなく)「実在は認識主体と独立して客観的に存在するもの」を定義とする以上、実在は客観的でなければなりません。

私たちが検討しているのは、「1.実在とは認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの」を前提とした場合に「2.時間は認識主体から独立して客観的に存在しているとされる」が妥当かどうかではなかったでしょうか?

「ある存在が認識主体から独立であるならばそれが客観的であろうがなかろうが実在することに変わりはない」と考えることも可能だと思いますが、今はそのように考えるのではなく認識主体と独立して客観的に存在するとはどういうことかを考え、その考えからすると時間は実在することになるか否かということを議論していると思っていたのですが違いますか?

>認識主体を主観とすることには、同意しないな。主観というのは、個人の意識で、一般性が失われてしまうから。


しかし、私が個人の意識は認識主体ではないのですか?と確認した際、個人の意識も認識主体だろう。と仰っています。
確かに定義として用いたwikiの記載における「認識主体」は一般化されたものですが、 >>268
>一般化された認識主体は誰の認識主体でもないですが、同時に万人の認識主体でもあると考えるのですがいかがでしょうか?

>のように任意に個別の認識主体を代入できるようなニュートラルな認識主体ということです。

確認した際、
>貴方が、そうだと思っている分には問題ないよ。実際、その「代入」という操作を行う際に、妥当かどうかを考えればよいと思う。


と言って頂きました。認識主体に個人の意識を代入したのですが、まずかったでしょうか?

5年前 No.279

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

>>277
>我の死後も同様に時間は流れ続ける
>であろうという観念、これは実在論じゃないのか?

どういうことでしょうか?よく分からないのですが・・気が向いたら教えて下さい。

5年前 No.280

茶坪 ★IfFhTs9oAS_EP8

観念論の先には唯我・唯識があるけれど、それらは「我の死とともに全宇宙の物質は存在することをやめる」

という考え方。それによると、自己の死後全宇宙に流れている時間というものは終了するという思考だな。

逆に言うと、上記の反主張・反概念はすべて客観的な実在論になってしまう。つまり、唯物だな。

しかし、前者の考え方は簡単に成立しうる。だが、心中でそう思うのなら大いに結構だが、友人達の間で

そんなこと言ったら間違いなく、○○病院へ担ぎ込まれるであろう(笑

5年前 No.281

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>279

ちょっと、先走り過ぎたね。

定義の検討をしていたのだから、客観的という意味もきちんと確認すべきだった。俺は、客観的に見るとは、第三者的に眺めるということで、そのことが可能となるためには、第三者における認識の一致が必要だと思っていたわけだが、客観的を調べてみると、

「主観または主体を離れて独立に存在するさま」

と、書かれていた。ありゃま。客観的という言葉で強調されていたのは、主観や主体からの独立性であり、第三者的な視点は日常用語で使用される際の付随的な意味だったのである。上記の意味を眺めてみれば、認識主体つまり人間の意識からの独立は、客観的という言葉と整合したものとなっている。

すると実在とは、俺の言葉と貴方の言葉をまぜこぜで表現すると

「任意の自己や人間の意識に依存することなく(認識主体と独立に)、主観や主体を離れて独立して存在するように、存在するとされるもの」

となる。逆に、同語反復の嵐になってしまったが。

この意味でもやはり、認識主体を主観とすることには同意しないな。頭の言葉(認識主体から独立に)の存在意味がなくなってしまい、単に「客観的に存在するとされるもの」が実在になってしまうから。

代入という操作は、「任意の認識主体についてxxである」ので「一人の認識、例えば俺の意識についてもxxである」と言えるという意味だと考えている。いきなり、認識主体を単に主観として考え始めるのは、代入ではなく、定義の変更になると思う。

5年前 No.282

茶坪 ★cayBaLLFBq_EP8

時間については色々な意見があっていいと思う。だが、「時間とは一体、量なのか質なのか」に

帰すると思う。(科学 常識 測定 集団 社会 現実)からみると時間は量とされ、質ではない。

5年前 No.283

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

>>281
観念論を粗末に理解していませんか?
我の死とともに全宇宙の物質が存在するのを止めるということの意味を分かっていますでしょうか。

私が死んでも、遠く離れた宇宙にある何らかの岩が消滅しないということは、分かりますね。
しかし、私が今テキトーに言った「遠く離れた宇宙にある岩」というもの、これは存在しなくなるのですね。この微妙な違い、分かりますか。

だとすると、遠くの物質が私の死によっては変化をこうむらないと分かります。
しかし、これはどの立場からものを言っているのでしょうか。これは、問題でありつづけるでしょうね。

5年前 No.284

akirai ★xlL6sEVdQX_jJA

>>282

なるほど。では認識主体を個人の意識とするのはやめることにしましょう。

「任意の自己や人間の意識に依存することなく(認識主体と独立に)、主観や主体を離れて独立して存在するように、存在するとされるもの」

これを下記のように表現することは同意していただけますか?

実在とは「あらゆる人間の意識に依存することなく、主観や主体を離れて独立して存在するように、存在するとされるもの」

私がこの記載からイメージするもの、つまり(wikiの定義に基づく)実在の例としては物質が挙げられます。
物質は人間が誕生する前から存在し(あらゆる人間の意識に依存することなく)、人間が意識するとしないとに関係なく存在する(主観や主体を離れて独立に存在する)とされていると考えるからです。

5年前 No.285

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

同意するよ。物質なる概念は実在ではないが(ここは、拘っているのだ。)、物質は実在すると思う。

5年前 No.286

akirai ★xlL6sEVdQX_jJA

>>286

>物質なる概念は実在ではないが(ここは、拘っているのだ。)


これが気になりますが、とりあえず同意されたので、次の段階に行きたいと思います。

2.時間は認識主体から独立して客観的に存在しているとされる。

時間は人間が誕生する前から存在し(あらゆる人間の意識に依存することなく)、人間が意識するとしないとに関係なく存在する(主観や主体を離れて独立に存在する)とされていると思いますが、いかがでしょうか?

5年前 No.287

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_Xty

それは、一種の飛躍だね。時間とは何かを分析する必要があるだろう。

分析の仕方の例としては、「時間 実在」で検索するとすぐに見つかるマクタガートの時間論が参考になると思う。彼の結論は「時間は実在しない」であり、貴方が彼の手法をそのままトレースする必要はないと思うけどね。

俺は、今のところ、時間は実在でないと思っているが、以前から形を変えてそれについて書いてきたものを、今回は、俺たちの実在の定義に則して書いてみることにしよう。

時間について考えるとき、その分析の基点となるのは、過去、現在、未来の分類である。時間とはそれらの総体だ。ここで過去は実在といえるだろうか?過去とは既に過ぎた現在であって、過去を考えるとき必ず記憶を必要とする。記憶は、人間の意識の働きであって、人間の意識がなければ、過去なるものは消えてしまう。即ち、過去は人間の意識、つまり認識主体に従属であって、実在ではない。同様に、未来は予期であって、人間の意識に従属であり、実在ではない。従って、時間は実在ではないもので構成されているため、実在ではない。

これをたたき台に使ってもらえばよいかと思う。

5年前 No.288

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

たとえば、私の部屋のエアコンも、私が意識するしないにかかわらず私(主観)から独立に存在するとされている。
「誕生以前から存在していた云々」と言うのは、主観からの独立を確保するための方法であって、実在の必要条件ではない。
「物質」はかなり抽象の度合いが高いので、一応、上の定義がそのへんの花やリモコンにも当てはまるのだということを、確認だけしておく。

5年前 No.289

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

>>288
過去は変わらない。
たとえば、犯した過ちは、それを犯してしまったという事実については、変わらない。
これはまさに過去が主観の干渉を許さないということでしょうね。
過去は意識から独立しているとされています。

5年前 No.290

akirai ★xlL6sEVdQX_jJA

>>289

>過去とは既に過ぎた現在であって、過去を考えるとき必ず記憶を必要とする。記憶は、人間の意識の働きであって、人間の意識がなければ、過去なるものは消えてしまう。即ち、過去は人間の意識、つまり認識主体に従属>であって、実在ではない。同様に、未来は予期であって、人間の意識に従属であり、実在ではない。従って、時間は実在ではないもので構成されているため、実在ではない。


現在についての記述がないのが気になりますが、概ね同意できます。
過去現在未来という時系列は人間の意識に依存していると思います。

しかし、ここは「時間」のスレなので、時間についてもう少し検討してもいいかと思います。

>過去とは既に過ぎた現在であって、過去を考えるとき必ず記憶を必要とする。


現在が過ぎ去るから、記憶が成立するのでしょうか?
それとも、記憶があるから現在が過ぎ去るのでしょうか?

前者なら、記憶は過ぎ去るという現象に依存して成立しているのであって、過ぎ去るという現象自体は記憶に依存していないとなり、その過ぎ去るという現象は時間に依存していると考えることもできると思います。
そうなると、時間は人間の意識に依存しているもので構成されていると言えなくなると思いますが、いががでしょう?

5年前 No.291

akirai ★xlL6sEVdQX_jJA

番号を間違えました。
>>291>>288 に対するレスです。

5年前 No.292

茶坪 ★Rn0lRAWVCs_EP8

実際に現実として、時間について言及するばあい、多くの通行人や満員電車の利用者を

納得させなければならない。円の定義や三角形の定義は大多数を納得させられる。だが、時間に関して

は常識として、大多数の一般人を納得させなければならない。「時間は無い」「空間は無い」こんな

話が受け入れられるとは到底思えない。時間論では万人が納得するものにしてくれ!  と

5年前 No.293

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>289

それは、それらを呼ぶのに便宜上、その言葉を使用しているのならそのとおりと思うよ。でも、例えば、エアコンやリモコンに道具的意味を持たせるなら、それは既に認識主体に従属した概念の適用だと思う。

5年前 No.294

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>290

過去は変わらない。そうだね。しかし、俺には、認識主体と独立に存在できるとは思えない。なぜなら、過去は既に「ない」現在だから。

貴方の話し方にのっかるとすると、未来はどうだろう。未来は人間の意識によって変えることができる。(とされていると思われる。自由意志などないと思えばそうではない。)つまり、主観に従属だ。故に時間は、認識主体に従属で、実在ではないとなる。

ちょっと、乱暴かな?

5年前 No.295

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>291

俺が示したのは、たたき台だ。時間について検討すべきと思うからこそ、あのような事例(俺の意見でもあるが)を出したのである。ボールは貴方の側にある。貴方はどのような時間概念を描き、どのように実在を示すのか。俺は、そこにとても興味がある。

記憶は過ぎ去るという現象に依存していると言うが、それは、認識主体の認識が実在に依存するということを言っており、逆に過ぎ去るということが認識主体の認識に依存しないということを言っていない。

恐らくは、過ぎ去るということ(俺は、この表現は時間に対して適当とは思っていない。)は何であり、何が実在にあたるのかという感じで、実在とされるもの(俺たちの間では既に物質は実在だ)を増やす方がよいと思う。

たとえば、物質の世界がある。それは静止しているか。俺たちが認識しないと物質の世界は動かないのか?認識主体と独立なのは物質だけではないと思う。その材料を増やしていけば、貴方もロジックを組み立てられるのではないか?俺が、時間に対して分析すべきと書いたのは、そのような意味もある。

5年前 No.296

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>293

別に、万人に受け入れられなくたって構わないさ。こんな話、会社の飲み会でやったら問題だろう?(但し、同好の士は除く)

ちなみに「空間は実在でない。」という話は出てきてないと思うけど。

5年前 No.297

茶坪 ★8bNQbjRcH3_EP8

「時間は実在せず、無い」は「空間は実在せず、無い」に等しい。

「瞬間は無い」は科学的な考察の範疇だけれども、「時間は無い」は新興宗教の管轄に属することになる。

つまり、宗教の領域だな!?

5年前 No.298

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

>>295
その通りです。「認識主体と独立に『存在できる』」のではない。
私は「独立している」と言いました。この点は、認めてもらえると思います。起こった事実は変わらない・・というしかたで、ですね。
しかし、「独立に存在する」となると、これは疑わしい。過去は、過ぎ去ってしまって、もう「ない」ですからね。
だからここでは「独立に・・・」よりも「存在する」が問題であると分かります。
さしあたり、これだけの話でした。

「未来は人間の意識によって変えることができる」
ここが「乱暴」ですよね。
小学生が「今日」宿題をやらなければ「明日」先生に宿題を提出できない。しかし、宿題をやることで、提出できるようになる。
これは、未来を変えること(?)ですが、意識ではなく行為によって未来の行為(提出)のありかたが変わっている。
意識ではなく行為で変わっている。しかもやるやらないで決定的に変わっています。
また・・・意識に関わらず明日は来る。この来る明日は、意識から独立です。
でも、何か違うんだよねという気がする。たとえば、明日が来るのは、「主体」が朝を迎えるからこそではないか・・などですね。

何にせよ、意識にかかわらずも時間は流れて「しまう」という点があることは確かだと思います(そうでなければ時間よ止まれなどという表現は生まれなかったでしょう)。
このことと、時間の主観からの独立との折り合いをどう考えるかも、問題ではないでしょうか。

5年前 No.299

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

>>299

分からんな〜。

5年前 No.300


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