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時間

 ( 哲学掲示板 )
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ぶっちゃん

そもそも時間とは?
俺は定期的な周期のリズムを数字で表したものだと考えた。
所以に時が止まれば人も止まるとは考えにくい。それは対象の動き運動が停止したと考える。
時はない、あるのは連続される運動としたい。

みなさんは時間について、どう認識してますか?

2006/06/15 09:50 No.0
ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9

 
 

恋愛学者 ★IQKA7SxTNt_XaU

>>99

いえ、実在はしませんが存在はしますよ。

でないと我々はそれを認識できないじゃないですか。

存在してないと認識しているなんておかしい。

6年前 No.101

★pVcBPhOqOx_Jmw

私の日常では、極端な表現として「存在しない」と言う表現を使いますが、もっと正確に表現しようとするのならば、御指摘の通り「実在しない」が正解でしょうね。

なぜなら、存在とは無常だからですね。

6年前 No.102

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

時間が存在しない
なら時間は共通の妄想なんだ

6年前 No.103

★pVcBPhOqOx_Jmw

双葉さん

日常では、時間を基準に行動しますね。でもある時、私は思ったのです。時間自体はあるのか?って。

確かに時間はあるように思えるんですが、時計の針が動いているだけではないのか?それをあたかも時間が有るように錯覚しているだけではないのかと・・・

時計を見なくても、日は昇り日は沈みますね。だからと言って、時間があるとは思えなかっただけです。

そこで出た私なりの答が、時間は概念としては存在するが、時間自体は存在(実在)しないと言うものでした。

6年前 No.104

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

ないものに意味と名前を 無神論者にとっての神みたいなもの?
ないものに縛られてるとしたら人類はどれだけ愚かなんだ

6年前 No.105

★pVcBPhOqOx_Jmw

その自らが作り出している縛りから開放されれば。自由ですね。(笑)

と言うより、その縛り自体が実在しないものと言う理解でしょうか。

6年前 No.106

StraySheep ★JLiWZwYjW5_EP8

時は、存在しているものがそれぞれ持っているものじゃないかなぁ。
人間は人間の、蟻は蟻の、象は象の、芋は芋の、桜は桜の、星は星の・・・。
人間も一人一人が時を持っているかも、吾は吾の、汝は汝の・・・。
それは生まれた瞬間から持っているんだと思われる。
体内時計っていうものがあると言われてるし・・・。
そして、もちろんいつか時が来る。この世を去るという時が。
去る瞬間に、そのものの時は終わる。
そして、別世界に行くとすれば別世界で時を持つだろう。たぶん。
つまり、時からは離れられない。
なぜなら、時が全てを握っているから。
一つの大きな世界を動かす時に乗れるか乗れないか・・・。
それによって違ってくるかも。

一般的な時間に縛られない生活をする・・・それは一つの時を作ってるかも。

一般的な時間に追われつつ生活する・・・あまり勧められない気もする。

一般的な時間を追いつつ生活する・・・それは一つの時に乗っているのかも。

何が時を動かしているのか・・・それぞれかもしれない。
個人は個人の中心が・・・心かな?。国は国の中心が。世界は世界の中心が。
中心とは何か?それぞれを動かしている中心かもしれない。
それぞれ中心が時を作り出し、時が動き出す。
一つの大きな世界の時に乗るかどうかは個々人しだい。
乗る事ができれば便利かも知れない。

こんな考え方はどうだろう?

6年前 No.107

★zZh1VuCYP6_EP8

時に関して、ほとんど貴方のいうとおりかもしれない。すると、時って観念なのか客観的実在的なもの
なのか?  考えたら不思議です。そこにも観念・唯物がからんでくる。

6年前 No.108

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

時間は存在しないの仮定があって
時間は持っているものつまり在るものの仮定があって
はたしてどちらかしらん
一般的時間とは何を指すのかな?

6年前 No.109

StraySheep ★JLiWZwYjW5_EP8

たぶん、一つの大きな世界の時があって、
それに呼応する如くすべての存在に時があるのかも。
普段の生活の中では自分の時に乗っていて、
ある程度自由から時間的に束縛されてる。
大きな世界の時に乗れた時、自分の持つ時から放たれて、
大きな自由になれるのかも。

6年前 No.110

わらじ ★dJAz5e79uA_06e

寄り道をしながら、時間について考えてみます。

初めに、りんごという人が作った言葉です。
しかし、りんごは何処にも有りません。
リンゴという言葉が指し示すものが有るのです。
ここでは、その指し示されたものを存在すると考えることにします。

では、次に時間です。
時間は何処にも有りません。
時間という言葉が指し示すものが有るのです。
でも、そうでしょうか。
貴方は、時間と聞いて、何を指し示すのでしょうか。
保留にしておきます。

では、時間という言葉の含示する範疇性とは何でしょうか。
私の途上的な時間の定義は、
『時間とは、(重力)加速度と速度に拠って物体及びエネルギーが変化する可能性の指標である。』となります。
(重力)加速度が、物体を変化させる直接の因だと考えます。
そして、その物体の速度が(重力)加速度の影響力を左右しているように考えています。
まあ、時間を説明するのに、その述語に時間を含んでいますね。

さて、私なりの時間の定義をしたところで、もう一度先に示した問いに戻ります。
つまり、時間という言葉が何を指し示すのか、です。
(重力)加速度、速度、物体、これらの一つを指し示しても、或いはどのように組み合わせてそれらを指し示しても、時間を指し示す事が出来ません。
即ち、時間はリンゴの様な存在ではないという事です。

それでは、時間とは何でしょうか。
私は機能だと考えています。
例えば、壷があります。
壷には水を溜めるという機能が有ります。
その機能は、指し示せるでしょうか。
その機能は、壷でも入っている水でも、水の入った壷でも、壷の内側の空間でもありません。
つまり、機能とは存在ではなく、働きなのです。

この様に考えてくると、時間もまた存在ではなく、機能の一種であることが解って来ると思います。
では、時間にはどのような機能が有るのか。
例えば、出来事の起こった順序を明かします。
まあ、あとは皆さん方が好く承知しているからこそ、どなたも時計というものを利用されているのだろうと思います。

この時間というのは、最も基本的な世界の機能だと思います。
また、時間の定理からの感想ですが、もし、秩序を作った神が居ると仮定した場合、『縛りを解いて運動せよ。もし、光の如く運動した場合には、永遠の命を与えよう。』と、神の声が聞こえたかのように思いました。

6年前 No.111

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

うわっりんごと違うだけで随分難しい言い方があるんだ 物と混同 一致させてる人でもいたのかしらん

6年前 No.112

わらじ ★dJAz5e79uA_ubW

時間は、そうした物が有るのではなく、物に備わっている働き・機能という事です。
すべての物には、変化するということ、また変化をする可能性が有ります。
そのことを仏教では諸行無常と言いますね。
そういう意味では、時間とは物事の変化する程度の尺度、とも言えます。

更によく調べてみると、重力加速度の大きい所に居ると、時間は速く進みます。
重力加速度というのは物理学では力と同じ単位を持つので、物に力が働けば、変形したり壊れたりしますね。
それと同じ様に、物を変化させる因は重力加速度なのです。
つまり、重力が地球の1/6の月に居るよりも、地球上で暮らした方が僅かに時間は速く進んで、まあ単純に云えば命が短くなるという事です。

今度は逆に、速度の大きい乗り物に乗って速く移動するほど、重力加速度の影響を受け難くなるようで、物の変化が起こり難くなり、時間がゆっくりと進むようになります。
例えば、光の速さに近付いていくと、時間はゆっくりと進む様になり、光の速さになってしまうと時間は止まってしまいます。
例えば、私たちの宇宙の歴史は137億年と言われていますが、ビッグバン直後に放たれた光が、今地球に届いています。
この光は、その誕生以来ずっと137億年時間が止まっていました。
私がこの光になってみると、生まれて、同時に死んでしまったということです。
137億年の経験も記憶も何にも無いんです。
光の悲しみ、想像がつきません。

この様に、物に(重力)加速度が働き、それを変化させます。
また、(重力)加速度の働きを調整するような働きをその物の速度が持っています。
ただし、量子力学の適用範囲については、私自身不明な所も多く、尚一層の研究が必要です。
ただし、素粒子の世界でも相互作用によって影響しあう事は知られていますから、物事に変化を齎すのは相互作用と認識しても好いと思われます。
それで、こうした相互作用を空と捉えています。

そうすると、物事の変化は無常という語に、その無常は物事の相互作用である空という語によって説明出来そうです。
つまり、『世界は空という働きで動き続けるその全体が無常という大時計なのです。』
人類は、世界の無常という大時計の太陽や月や地球にも注目して、年・月・日を定め、更に日を細分化して時・分・秒を作ってきました。

広義の時間という概念には、まず時間を流れと観た時の流れの長さ・時間と、流れ上の一点・時刻に注目する場合の2通りが有ります。
これらは、厳密に言った時に誤差は有っても、基本的には太陽や月や地球の位置に対応して決められているのです。・・・(セシウム)
つまり、時間が抽象的な概念であると考えることこそ、時間が一人歩きをして迷子になった状態なのです。
大辞林、あんなものは馬鹿者ですね。

そして、時間自身の定義としては、
『時間とは空による世界の無常であり、一般的には等時性を持つ現象に基準(点)を設けて時刻を定め、その周期を用いて更に時刻の配分を行っています。ただし、時間の内実は世界の無常であり、時間は見かけの概念です。』

さて、時間という世界に備わった最も基本的な機能が理解できたでしょうか。
そして、既に世界が無常という大時計であるのに、多くの人々は人間が自ら作った時計と自ら作った時間の誤謬に振り回されてしまったように思います。

問題は、時間は物事の推移を示す指標でしかないですが、その指標に過去や現在や未来はまだしも、それらが存在する・しない、時間は流れる、タイムとラベルなどの誤謬を生んでいった事です。

人には知性が有って思考する。
石や草花にその様なものは無いでしょう。
しかし、人が知性で誤謬に至れば、石や草花にも劣るという事です。
石や草花は、世界の無常に身を委ね、在るが侭に過ごしています。

6年前 No.113

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

じゃあ突然りんごが出てくるのはより不思議 間違える要素がない
時間は存在する説
時間は流れるものでいいのかな?流れるなら流される元がある?速度により流れら変わる

6年前 No.114

わらじ ★dJAz5e79uA_ubW

ケムンパスには、知性がない。

6年前 No.115

ちょっと寄ってみました。 ★gthhn2CbXA_nXr

ジカンなんか見たことないでやんす

6年前 No.116

わらじ ★dJAz5e79uA_ubW

無機質な時計の針に踊らされて、

最後には、銀色のはりが身を貫いている。

と警告しても、人はひと。

我は、無常の時に気付かされて、生きて逝く。

・・・独り言2

6年前 No.117

★HfyTwVHanz_EP8

よく出来た詩です が

時間はそう悲しいものでもないかもしれない。創造的な・・・生に満ち溢れた

6年前 No.118

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

時間を見たなんて誰も言ってないよね

6年前 No.119

★HfyTwVHanz_EP8

>119さん

どういう意味なのか解りませんが。わたしは、時間は見るものと信じております。

6年前 No.120

ちょっと寄ってみました。 ★gthhn2CbXA_KMC

おごれる人も久しからず

只春の夜の夢のごとし

たけき者も遂にはほろびぬ

偏に風の前の塵に同じ

6年前 No.121

ちょっと寄ってみました。 ★gthhn2CbXA_nXr

>>119

116の投稿は単に、知性のないケムンパスになって書いただけなのだ。

6年前 No.122

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

いやいや,見るものと言う人がいるからその言葉は活かされてる
見るっていうのは見えるもの?自分には見えないのは何故?

6年前 No.123

わらじ ★dJAz5e79uA_ubW

それでいいのだーーーー。じゃ、短いってさ。

6年前 No.124

ちょっと寄ってみました。 ★gthhn2CbXA_nXr

俺にはちょっと分からないのだ。

6年前 No.125

★HfyTwVHanz_EP8

時間というものが無ければ存在は無いわけで、存在とは時間のことに他ならない。
物体が見えるということは、そこに時間が見えると言い換えられる。

無限の流動(継起する)とともに過去から未来に時間は流れていく。時計の秒針は単に
人々の同時性をあらわしているにすぎず、時間を見るのは正に個人的な行為なのだ。

「存在するとは時間もそこに同時にある」ということ。

6年前 No.126

わらじ ★dJAz5e79uA_ubW

時間っていうのは、地球が自転したり、公転したりする事だし、雪が溶けて舗装が見えること、
種が土から芽を出す事、楽しい30分番組が終わること、お腹がすく事、あくびが出そうになること。

そうした、ありとあらゆる事が起きたり、納まったりするのが、時間。
それ以上、難しく考えると、かえって時間の本当から離れると思う。

人が生きているのが時間。
死んで、居なくなるのが時間。
悲しみのが時間、それを思い出さなくなるのが時間。

何しろ、時間の内実は無常だかね。

6年前 No.127

★HfyTwVHanz_EP8

科学的・常識的時間と哲学的・心理学的時間とは違うと思う。後者は測定可能で分割可能な時間
であり、同時性も当然あり、日常生活をする上で当たり前の時間です。

ところが、科学的時間では、時間測定のA点とB点のみが対象となり、その間は無視されるわけです。
15分間の中身が問題なのです。15分間は測定できるが中身は測定できない。

6年前 No.128

★HfyTwVHanz_EP8

後者⇒前者  間違えました

6年前 No.129

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

哲学的心理的時間?
物を見るのも時間を見るのも同じ?
時間って感覚的なものと思ってた

6年前 No.130

なーる ★iPhone=wUtlFCJsJW

たしか、時間とは
「ある事象がある事象へと変遷していく過程の始点と終点の間の感覚的認識。」
だった筈

6年前 No.131

StraySheep ★JLiWZwYjW5_EP8

時空において、基礎となる片方が欠ければ見えないって事かなぁ。
時間と空間が揃って初めて、そのものをとらえられる。
つまり、時を見るというのは空間も一緒に見ている?
だから時が見えていると言ってもかまわない?

6年前 No.132

わらじ ★dJAz5e79uA_ubW

時間の受け止め方と時間そのもの。

知識からが、哲学のスタート・・・ >>131

6年前 No.133

ちょっと寄ってみました。 ★gthhn2CbXA_nXr

時間について考えてみる。「時間って何だ?」そう思いながら部屋の中を見渡す。机、テレビ、電話、パソコン、本棚、時計・・・様々なものが目に入る。しかし、時間は目に入らない。部屋の外を窓から眺めてみる。家、屋根、電線、山の緑・・・様々なものが目に映る。しかし、時間は目に映らない。俺はそっと呟いてみる。「いったい、時間はどこにあるんだ。」

視線を窓から下に移す。道路を車が走っている。真下を通過した車があっという間に遠くに過ぎ去っていく。もう、見えなくなった。さっき、車が真下を通過した「今」は、もはや、過去になっている。決して、二度と、誰も、辿りつくことの出来ない過去だ。俺が生きている「今」は、こうして、下らぬ言葉を並べている間にも、絶えることなく過去になっていっているのだ。そして、常に俺は「今」にしかいない。

アルバムをめくってみる。子供の頃の俺が移っている。なかなか、可愛らしく、かつ利発そうな子供だ。この子がこんな風になってしまうとは。時の移ろいとは容赦なく残酷なものである。「あの頃に戻りたいのか?」自問してみる。それ程でもないな。恐らく、昔のことは記憶の中にあるだけの方が美しいのだ。様々な出来事は、記憶の中に薄らぼんやりと埃をかぶって折り重なっている。しかし、決して、二度とこの眼前に現れることはない。

時間とは、「今」と過去の、あるいは「今」と未来、過去とそのまた過去との「間隔」だ。この言葉は、「今」に存在しない時との間を意味するのだから、いくら「今」を見渡してみても時間が見つからないのは当然だ。「今」となっては、過去はもはや存在しない。時間は存在するのか。「存在する」という言葉の適用を「今」に限定してしまえば、「時間は存在しない。」と結論することは容易だろう。

「何を馬鹿なことを言っている。お前は、毎日、時計に追われて生活しているではないか。」そんな、反問が脳裏をよぎる。その通りなのだ。より受け入れやすい表現をするなら、「時間は概念としてしか存在しない。」となるのであろう。人間の肥大した脳髄は、現実と仮想を直結させているのである。

6年前 No.134

★L1OEf0cDze_EP8

目の前の机の上に一本の鉛筆がある。ジッといくら見ていても3分の間ながめていても、どこにも時間は
みあたらない。ところがその鉛筆は流動(過去から未来へ)しているのです。

湧出といえるかもしれない。つまり、鉛筆そのものが(存在が)時間なのですよ?
宇宙(様相は)は勝手に存在するのか、時間は勝手に流れるのか?

時間とは客観的(社会的に)に共通なのか?個人的なものなのか? 20世紀哲学を二分した大問題
であったのです。 動かない(物質)に流動という動く語彙をあてはめると、??と思うかもしれ

ない。ところが、実は鉛筆は次々に湧いてくる(1秒前の未来から今へ)のです。有る意味、動きです。

6年前 No.135

わらじ ★dJAz5e79uA_ubW

人の認識作用にとって、時間は変化だけど、鉛筆を3分観察しても変化らしきものは見られない。
だけど、微視的には鉛筆は変質なり、微小な破壊が起こっている。
そして、やがては目に見える大きな変化も起こる。
そうした人の認識作用に映る大きな変化は、断続的だから、何も変化が無いように思える状態は、変化する可能性が増大している状態という事だ。

だから、時間を変化だけじゃなく、変化する可能性のことも書いたんだけだなぁ。

不確定性原理っていうのが有ったけど、観測する影響がその対象物に働くんだけど、まあ、相対論の世界じゃ無視しているが、その世界でも認識する人間の思い入れが、時間を物語の主人公にしているように思うな。

6年前 No.136

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

鉛筆そのもの物体が時間?
物語の主人公が時間?
ないとあるに続きまた新たな解釈何でしょうね

6年前 No.137

★L1OEf0cDze_EP8

双葉さん


今から100年以上前の哲学論争話をこんなとこで平成25年の今にするとは思わなかったが、
結論をさきに言うと、観念論と実在論の違いです。時間を意識(観念)でとらえるか、実在で

とらえるか、の違いです。観念時間は「楽しい時間とイヤな時間の個人的な長さ感覚」でしょうか?
それは個人的時間であり測定不能です。一方、科学的時間・社会常識的時間は客観的な測定可能な

時間といえます。

6年前 No.138

わらじ ★dJAz5e79uA_ubW

物体は光速に近付くと、それ自体の占める空間が変形したり縮小すると記憶していたのだが・・・。
つまり、(重力)加速度の影響を受けて破壊されていく・変化していくのだが、物体が空間ごと縮小するので、その物体を通過しながら働く(重力)加速度の絶対量が減少するため、時間が遅れるように思われる。

まだ、研究の余地は有るが、これで変化の起因とその速さの長短の訳が判ったように思われる。

6年前 No.139

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

100年前の議論なんて知らないし自分は尋ねてるだけで議論してないし 普遍的疑問は持ったらおかしいのかしらん

6年前 No.140

StraySheep ★JLiWZwYjW5_EP8

時間について詠んでみました。和歌とか分かんないって人はスルーで。


時流れまわりが流れる残された
    思う自分も流されてるか

流されてどこへつくやら分からない
    そもそもどこから流れ来たのか

流れ来た自分を見れば刻まれし
    時を仄かに見ゆる今かな

見ゆる今流されていく今を見る
    瞬間流れ今はもうなき

今はなき何を見てるか謎詠むか
    今は過去なり未来が今か

未来見る永遠なのか限られる
    時間の中で永久のあるのか

永久にある神か宇宙か謎残る
    みじかき今には理解不可能

理解なき信じるのみか謎の種
    みじかき今を救いたもうか

不可能を可能にするか奇跡呼ぶ
永久に救われ永久を生きる

6年前 No.141

★L1OEf0cDze_EP8

どう考えても物質は時間だろう。なぜなら「物質は存在する」というより「存在し続ける」から。
時計を度外視しても、物体は1秒の何兆分の1(もっと無限分の一)ずつ現在が前進していく。

そこには時間が介在するというよりも時間そのものなのである。時間が主観的なものにせよ客観的なもの
にせよ、過去・現在・未来がその物質上に現れてくるからなのである。

6年前 No.142

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

空間じゃないの?
物質の上?物質が前進する?

6年前 No.143

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

物質が時間イコール?なら生物は?気体は?液体は?
物を見てそれは時間だなんて言える勇気はない

6年前 No.144

14歳 ★Tablet=VojwDOCLKY

物質が時間の経過によりできたものってことですかねぇ。

6年前 No.145

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

時間の経過を物の経過? 物には自然から成るもの 人工的に造られるもの あれど 時間にも自然や人工があるの?

6年前 No.146

14歳 ★Tablet=VojwDOCLKY

そもそも、人工的という概念自体が間違っているのではないでしょうか。
人工の、人はもともと自然から生まれたものと考えられますが、そうかんがえると人工という概念は、成立しなくなります。
次に自然というものは、何を以て自然というのでしょうか。
一応、非人工であるもののことと定義ずけられますが。

6年前 No.147

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

人は物じゃない 生物です 身の回りには工場で造られた人工物で溢れてるでしょう

6年前 No.148

14歳 ★Tablet=VojwDOCLKY

死体はせいぶつですか?

6年前 No.149

★jYz5UriazZ_EP8

時が止まれば物体は消えるのでは? よく解らないけれど。未来がやってこないとしたら。・・・

6年前 No.150

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

物体の存在する条件が時が経過すること?

6年前 No.151

なかさ ★Android=mUB7LNov5Y

エネルギーが時間だと思う

6年前 No.152

★KOpRSLCvk6_KMC

時はその物体が受けたエネルギーをその物体に反映させているものだと考える

もし時間の止まった物体があったなら、それは一切のエネルギーを反映させない=一切の干渉を受け付けない物体になっていると思う

6年前 No.153

凡人 ★kgh2v6rw48_U7y

相対論では、エネルギー=四元運動量における時間の運動量成分×光速(E=p0*c)だから、時間方向の運動量が止まった物質がもしあれば、エネルギーはゼロになりますが、そんな物質は存在したという話は聞いたことがないですね。
ただし、ブラックホールの地平面上の物質は、遠方の観測者から見て時間が停止しているので、実際にはあり得ない話ですが、外部運動も内部運動も相互作用も全て古典論で表現可能だとすれば、「一切のエネルギーを反映させない=一切の干渉を受け付けない物体」となるといえるかもしれませんが、量子論を加味すると、ブラックホールの地平面上の物質は、ホーキング放射によって消滅する事になります。
このへんのところは、 http://mb2.jp/_tetsugaku/316.html-187,188http://mb2.jp/_tetsugaku/753.html-190,194,281,282をご覧ください。

6年前 No.154

町民 ★CFMXxhYzlE_siw

時間そのものは無意味でしょ。一日を24の枠に区切り時間と名付け、分・秒はそれを更に60に細分化しただけのものとの感じですかね。

6年前 No.155

★7zhgzbnSrg_EP8

いつもの公園で(貧乏なおっさん)と雑談してきた。「金と時間はどちらが大事か」で
おっさん曰く「金ないと何も出来へん、時間は金で買える。やっぱ金やで!」

俺「時間こそ金で買えない」「金は何とかなるが、時間は二度と戻らん」
で、二人の結論は「人によりけり」だった。

6年前 No.156

凡人 ★kgh2v6rw48_U7y

すみませんが、 >>154 については、 http://mb2.jp/_tetsugaku/650.html-238,261もご覧ください。

6年前 No.157

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

ホーキングが哲学的なこと言うの?

6年前 No.158

凡人 ★kgh2v6rw48_U7y

ホーキング博士は、神様が嫌いで、神様がビッグバンを起こしたというようには考えたくなかったので、ビッグバンによる特異点を消去するために、ビッグバンが起きた瞬間に、宇宙がユークリッド時空からミンコフスキー時空に遷移したと仮定し、ビッグバンの前は宇宙は虚数時間が流れていたとする「無境界仮説」を発表しました。
この理論は、わかりやすく言うと、ミンコフスキー時空のビッグバン時の特異点部分を切り取って、ユークリッド時空を付け足した形になっていますが、この理論の元となったアイデアは、量子力学におけるウィック回転のようです。

6年前 No.159

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

理論は要らない 哲学には論理があればいいホーキングが神が嫌いもまるで関連関係のない話

6年前 No.160

凡人 ★kgh2v6rw48_U7y

理論と論理の違いは、 http://mb2.jp/_tetsugaku/650.html-171にて、

>論理は、人間が認識や思惟活動の基本要素とする事を目的として作り出した知識形態であり、理論は、人間が何らかの具体的、または抽象的対象の分析や加工や変革を系統的に行ってゆく事を目的として、一定の論理を統合して作り上げた知識形態です。多分。

と書いてみたのですが、いかがでしょうか?

6年前 No.161

★KOpRSLCvk6_KMC

理論…個々の現象に適用し得るものとして組み立てられた、普遍的かつ体系的な説明・概念・知識の総体。
論理…1.与えられた条件から正しい結論が得られるための考え方の筋道  2.現象を合理的・統一的に解釈する上に認められる因果関係。

6年前 No.162

わらじ ★dJAz5e79uA_Dxl

理論を成立させているのは、総ての物事には自然法則等と言われる法則性が常に成り立つという歴史的な了解が有るからでしょうね。
そして、こうした理念によって貫かれた世界だからこそ、色々な相互関係が論理によって説明し得るのだと、思います。

しかし、上下左右逆転スコープの実験のように、総てが観念のものとした場合、その世界の理念に破れが起こる事例も有ります。
唯物論的立場を執れば、この問題は回避できると思いますが、理念・論理を成り立たせる態度は、唯物論的であることを自覚しておく必要は有りますね。

6年前 No.163

★L4t1LcU4h4_EP8

唯物的時間とは常識・生活・測定・量的・日常的な時間概念だと思う。時計があり、ストップウォッチがある。

それに引き換え、「待ち遠しい時間」「イヤな時間」は個人的時間(質的時間で、量ではない時間)だと

思います。時間の測定は時間直線の点から点で何の疑問もない。哲学はその点と点の間を考える。

6年前 No.164

わらじ ★dJAz5e79uA_Dxl

茶さんの言わんとしている所も判るように思いますが、茶さんが唯物的時間と言っているのは、哲学的な時間の捉え方ではなく、時間を計ろうとする道具の取り扱い上の知識みたいなもので、時間そのものの捉え様ではないように思います。

もう一つの方は、体感時間のように思いますが、「待ち遠しい時間」が長く感じられるのは、唯物的時間で自己の状況を量るからでしょう。
例えば、愛しい人を待っている時、「早く会いたい・まだ来ない・早く会いたい・まだ来ない」を心の中で何度も繰り返していれば、自分では随分長く待っている気持ち・体験になるのは当然です。
ところが、唯物的時間の道具・時計を見れば、3分しか経過していません。

或る心情で過ごす時間を時計の時間に還元するのではなく、本来の無常として過ごせば好いだけの話だと、私は思います。
人間は、時間という概念の一面・等時性に執着し過ぎて暮らしているように思います。
まるで、女子高校生が一日中携帯を手遊びしているかのように。

6年前 No.165

★L4t1LcU4h4_EP8

わらじ さん

わらじさんの説明は全面的に解ります。そのとおりだと思います。>等時性と無常の言及がおもしろい
ですね。

本当に時間って不思議だと思います。主観的時間と客観的時間は違うものでしょうか?

6年前 No.166

双葉 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

時間などないと言う仮定 案が消されてしまったようで少数派だったのね
時間は物であるの断定とも違う流れもせき止められたまま

6年前 No.167

わらじ ★dJAz5e79uA_Dxl

茶さん、今晩は。

主観的時間と客観的時間ですが、まずその両者の捉え方から難しいと思います。

んん。
主観的時間は、主観を有する個人としての時間の捉え方ですから、記憶的には、自分が認識できた自己と世界の変容の有り様・過去の記憶、その総てでしょうか。
また、想起した未来の有り様の総てだと、思います。
現在については、色々な段階での時間差が有りますが、意識された時には総てが過去のものになっているので、過去の記憶に含まれるのだろうと思います。
つまり、主観的時間というのは、意識自体に還元できるものだと思います。

また、この主観的時間を時計的な時間と対比した時、人はアニメの1秒間のコマ数のように意識を絶えず更新しているのだと考えています。
この事は、先程の体感時間にも関係すると思いますが、のんびりとしている時と緊張しているときなどは、意識を更新する時計的な時間間隔が異なると思います。
つまり、緊張などして意識の更新間隔が短い時には、時計的な時間よりも長い時間感覚を経験しているのではないでしょうか。
私の武道では、2/100秒間が決めてで、身近な時速200km以上の動きが見えたり見えなかったり、集中力に掛かっています。

更に、自己と世界の変貌を無常と捉え、余儀を排すれば、時間の概念は消去されてしまいます。

さて、客観的時間ですが、多くの主観によって共通理解の成立するものと考えれば、時計的な時間ではないでしょうか。
自然現象の中で、等時性を持つとされる地球の公転周期やセシウムの崩壊速度など、それらを元に月日や時刻などを定めたのが時計的な時間ですね。

まあ、ここまで書いてきたことが、両者の相違点だった様に思います。

6年前 No.168

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

時間をどう問うべきか?
時間の定義を、いつか?という問いの答えになるもの(いつか)だとしておく。
今、「(受験勉強を)いつやるか」「今でしょ」というのが流行っている。
問いかけは「いつか?」と時間を尋ね、「今」と答えている。だから、今は時間である。
この問いへの、怠惰な答えはどういうものかというと、「まだやんなくていいよね」だ。だが「まだ」は答えを告げない。
問いは問い直す「じゃあ、いつやるの?」「うーん来月かな」来月は時間であるが、来年も、明日も時間である。
この問いが無意味になるような答えは、「もう大学合格したんだよ」だ。「もう」は答えになっていない。
問いはこう問い直す「じゃあ、いつやったか」「去年」去年は時間だが、十年前も遠い昔も二週間前も時間である。

なぜ「今」か?やるべきことは「もうやらなくていい」のでも「まだやらなくてもいい」のではなく「いまやるしかない」からだ。
ここで「今」と答えることにより「やる」ということの意味が変わってくる。
どう変わるかというと、この「やる」は実行としてのものとしか解されなくなる。
「明日やるよ〜まだやらなくていい」の「やる」は、「やることにする」である。
だが「今」「やる」とすれば、すでにやっていることになる。つまり、端的に「やる」のだ。
だから、実行としての「やっている」としての「やる」の「いつか?」は「今」でしかありえない。
つまり、「今」人がやっていることは「もう」人がやり始めたことのほかない。
だから「もう」、「いつやるか」という問いは無駄である。「もうすでに」やりはじめて、やっているからだ。
この流行の問いは、それに答えた人にとっては問いとして無意味になる。この問いは感謝されながら捨てられる。

この意味での「今」には、「もう」すでにはじまったという契機がある。しかしこれだけでは「今」にはならない。
(あるときに)試合が始まったとしよう。なら、「今」は試合中か?
そうだとは限らない。試合がもう終わったのだとしたら、「今」は(その)試合終了後である。
つまり、「今」には、「まだ」おわっていないという契機がある。
ここで注意しておくことは、今がサッカーの試合中だとすれば「もうゴールあった?」と尋ねられるが、試合後には「もうゴールあった?」とは問わない。もし試合が終了しているなら、その試合は「もう始まった」ではなく、「もう終わった」のである。その試合の始まりについて語るときには「そのときにはもう試合は始まっていた(のだった)」などと語られる。

だから、「今」という時間のなかにあることについてのみ「もう〜した」と言える。さらに「まだ〜してない」と言える。つまり、もう終わったことについて「もう」や「まだ」と言えない。
「今」は、もう始まったとまだ終わっていないの間の時間である。開始が終り終結が始まっていない間の時間が今である。

6年前 No.169

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

だが、時間は「いつか?」の答えとしてのいつかだけではない。
時間は「かかる」し「かけられる」。さらに時間は「経つ」。「つぶされる」。「無駄にされる」。
時間は「ある」ときと「ない」「足りない」ときがある。

ところで、「時間」はいつもつねに「かかっ」ているのではない。
時間がかかるのは、たとえば、どこかに行くときである。「家から駅まで二十分かかる。」
この「十分」も「今」や「来年」と同じ時間である。だが、「今」がかかることはない。「二十分」と「今」は別の時間である。
だが共通点はやはりある。
行くとき、やはり始まりと終りがあるのだ。たとえば、家は行くことの始まるところで、駅は終わるところである。
この作業には二時間かかるというときにも、やはり作業開始から作業完了までという始まりと終りがある。
だからこそ時間はつねに「かかっ」ているのではないと言える。いつでも始まりがあり終りがあるとは限らないからだ。
本当に?いつか世界は始まり、やがて終わるのではないのか?
だとすれば、いつもつねに世界生成に時間がかかっているのではないか?
この言い方は不自然だが、「世界の始まりから終りまでずっと時間は過ぎてゆく」とか「流れる」と言うと、自然な言い方に思える。でも今はこれを無視する。

「時間がかかっている」と言うとそれだけで、作業や進行が長く続いたこと、そしてそれが完結していないことが示される。そして、「今」あまり終わるめどがついていない。いつ終わるか定かではない。「もう終わったも同然」とは言えない。こう言えるときには、「ああ、時間がかかったけど、なんとか時間中に終わりそうだ」などと言う。「かかっている」ときには、それにともなう作業について働かなければことが進まない。「かかる」ことには、何らかの働くことがともなう。「かかったけど終わる」と言うときには、もう全く働かなくてもいいわけではないが、あとは「楽な」作業である。楽とは、特に自分が何もがんばらなくてもことが進んでゆくことだ。逆に、時間がかかることは辛い。自分が働きかけなければ物事が進展しない。この働きかけは、時間をかけることでもある。
世界の始まりから時間が「かかる」とは言えないとはっきりした。この時間が「流れる」には、自分には何の苦労もいらない。それにかんしては非常に「楽」なのだ。
だからこうも言える:時間がただ流れていって過ぎ去ってゆくのは、暇なときである。暇なときは、べつに働いておらず、楽にしている。仕事が無いことを暇とも言う。暇を出されるとは、仕事を、一時的かそれ以降か、無くすることだ。

だから、時間は仕事か暇かで性格を変える。暇なときには、特に始まりも終りもなく時間は「ただ流れる」が、時間がかかるときには「まだ終わらない」という感じになる。このとき、始まりは「どれくらいかかったか」にかかわるだけで、終りよりは重視されない。「二十分かかる」とは、二十分で終わるということだ。逆に始まりが強調されるのは「時間が経つ」ときであり、「もう二十分も経った」というのは、始まって二十分だということだ。
ここからも、時間にかんしては始まりと終りが重要であると分かる。だからこそ時間は時「間」なのだ。

6年前 No.170

かなぶん ★YTp0ckX6if_dbX

今、存在を構成する最小の単位を、仮に単物体と呼ぶ事にする。

複数の単物体はそれぞれに或る一定の空間を占めるが、それらを含んでそれらの単物体が占有可能な余地としての空間が有る場合にのみ、それらの単物体は変化を可能とする。
つまり、単物体の変化は、余地としての空間によって保障されている。
ただし、変化は単物体間の相互作用に拠って生ずる為、単物体は複数必要である。

このように、存在の変化が時間という概念の本質であるが、それを成立させる条件としては、最小単位の存在が複数在る事、単物体どうしは相互作用を及ぼし合う事、それらがそれらの占有を可能とする余地の空間を介して存在する事などが有る。

例えば、複数の物体が存在し、それらの物体が重力などによって極小の空間に閉じ込められると、変化を保障する余地としての空間が無い為、それらの物体は運動も変質なども出来ない。
即ち、時間は停止する。
同様に、或る物体が高速度で運動すると進行方向に空間が潰れる為、物体には変化が起こらず時間が停止する。

勿論、こうした時間の有無だけではなく、重力や速度の程度によって時間の流れには伸縮が有る。

6年前 No.171

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

>>171
>このように、存在の変化が時間という概念の本質であるが
おかしい。これより上の文章のどこで「時間という概念」について言及されていたか?
むしろ「この変化が時間の本質である」と言われ、その根拠の説明がなされるのが普通の展開ではないか?
無条件には、上述の「存在の変化」が「時間の本質」であると言えるはずがない。

この条件・根拠は何ですか?

6年前 No.172

かなぶん ★YTp0ckX6if_dbX

てじさん、或ることの本質や内実、または存在というようなことに言及して定言をする時は、ほぼ無条件な判断であるべきなにです。

何故なら、それらの概念を命題と捉えた時、主語に代わる主語は無く、述語に代わる述語が無いからです。
もし、時間の本質を存在の変化以外で規定した場合には、少なくとも一方は本質を定言していなくなります。

ですから、私の定言が言えるはずがないと、無条件にいうこと事態が誤りなのです。
そして、否定する為には、反例を提出しなければなりません。

6年前 No.173

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

>>173
>否定する為には、反例を提出しなければなりません
まず、私は「存在の変化が時間の本質である」ということを否定していません。
ただ、まだ不明な論点があると、批判しているだけです。・・批判と反論・異論は異なり、批判だけしても構わないと思うのですが?
私はこう言った:無条件にはそう言えるはずがない・・と。
つまり、何か条件があってこそ、そう言えているはずだと言っているのです。そしてこの条件は何か?と訊ねている。
私は、かなぶんさんの定言を否定していません。(だからまだ反証もしません。)
ただ単に、そう言えるのはなぜか?と質問しているだけです。

もちろん、何を前提・定言しても構いません。
ですが、なぜ「そういう前提をした?」という質問は当然ありえますよね。

6年前 No.174

かなぶん ★YTp0ckX6if_dbX

てじさん、

本質、云わば底の話です。

究極の底まで行ってしまえば、その底には底が無いのです。

この説明も、似たような物で、それ以上の説明は出来ません。

本質という言葉は、この言葉の持つ概念によって、そうした特別なものだと思います。

ある種、言葉の例外だと認識しています。


でも、てじさんの突っ込み、私が考えていたことより、
深い方へ流れたと思いますよ。

6年前 No.175

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

>>175
なるほど。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」みたいなものですか。
この無根拠という本質、デカルトでいう「我」は、そこから全てが始まっているものであり、それにさかのぼることはできない。
こういうものがある、ということは頷けます。
しかし、あの時間規定(存在の変化)が、こういった無根拠の本質であることには疑問を覚えます。
・・・
無根拠、底がない無間奈落は、底が無いがゆえに、そこから無限に多様な言葉が生まれることができると思いませんか。
有底ということは、深さが決まっていて、その深さからは有限にしかものが出てくることができない。
しかし、無根拠の無底ならば、その深さは無限であり、汲んでも汲んでも尽きない。
たとえば、一つの言葉・・「神」など・・に、実感を持ちながら深い意味を込めて、その言葉を確信とともに使用するとき、その言葉を使うものにとっては、それは無底に思える。
しかし、本当に或る事柄がこのような無限の深さを持つ(つまり底がない)ならば、それを無限の多様さで言い換えることができ、それについて永遠に語りつづけることができるほどでしょう。
私はむしろ、この無根拠さは「もう時間が無い」などの日常の「時間」にあると思います。ただし、この発言に底が無いのではなく、この発言が底の無い無限の深さから生じたということです。
この発言には、時間は何々である、という立言がそもそも要らない。なぜなら、別に時間を論じていないからです。
時間を論じるならば、当然こういった日常の時間把握や、哲学的な時間の捉え方の常識などを明示する必要はあると思いますね。
・・・
たとえば:時間がはじめて変化を可能にしている・・とか。
もちろんこれでは、変化の本質が時間だということになってしまいます。逆なんですね。
存在が変化してはじめて時間が可能になる。

だが、存在とは何だろう?かなぶんさんによれば、こういうものは底が無く他の言葉では説明できないんでしたね。
ですが、究極的には単物体が存在を構成しているということは分かる。そして、単物体は一つの存在であるはずです。そしてこの単物体という存在は、あらゆる存在を構成するものなのだから、最初の存在であるはずです。つまり、この単物体こそが無根拠の本質なはずです。だとすると、本当の存在は単物体であるはずだ。

本当は単物体しか存在せず、他のものは存在するとは言われているが実は単物体の集合したものにすぎない。そして時間も、この単物体の相互作用による変化によってはじめて生じる。もちろんここには、デモクリトスのケノン(虚無)のような「空間」という隙間がなくてはならないが。
この「空間」と「単物体」が可能にする「存在の変化」が、時間概念の本質である。

6年前 No.176

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

空間には複数の単物体が存在しており、空間に余地があるところでは単物体が相互作用して、単物体が構成しているものに変化が生じる(存在の変化)。
ところで、この変化が時間の本質であった。
これは時間を客観的に見ている。このこと自体には問題はない。問題はこのことで時間を説明できるか、である。

代表的な例は、楽しいときには時間が早くすぎるが、人を待っているときなどは時間が遅く感じられる。
これは、客観的な単物体の相互作用による存在の変化によって説明できない。
つまり、どちらかである。
1. 時間は必ずしも存在変化ではない。
2. この主観的な時間への態度(早い/遅い)は、真の時間概念を捉え損ねている。

時間は、物体的な理由によって「流れに伸縮が生じる」。つまり、ゆっくり流れたり、急に流れたりする。
この物体的な流れの緩急が、人の「楽しさ」や「退屈さ」と対応するはずがない。
だとすると、「時間が経つの早いね〜!」というのは、実は時間について何も言っていない。
なぜかというと、こう言う人がこう言うのは、つねに時間が過ぎ去った後である。つまり、今過ぎ去っている時間を感じているのではなく、もう過ぎた時間を思い出しているのだ。こう思い出すとき、それを時間の流れとして思い出すことはできない。思い出すときには・・例えば友人と談笑していた場合には・・「一つの」「楽しい会話があった」ことを思い出すのだ。つまり、たった一つのことを一瞬で思い、いまだ新しい記憶を一気に「楽しかったとき」へとまとめてしまう。だから「早い」と思うのだが、実はただ単に思い出すのが早いのであり、会話中には一度も思い出すことがなかっただけだ。もし何度か会話をそのつど回想していたら、第一会話、第二会話などと、思い出す要素が増えてゆくだろう。こうすると、時間があまり早くなく、いくつもの段階があって長かったように感じるだろう。
では、待っているときは時間にかかわっているのか。ちがう。時間はただ流れてゆく。これを長いと思うのは、例えば、まだ待っている人が来ていないからだ。つまり、思い出すのとは逆である。まだ来ていなく、いつ来るかも決まっていないから、いくらでも可能性が想像できる。この可能性に一つ一つ注意を向けていけばどうなるか。いくつもの要素が見つかり、いくつもの段階が見つかり、しかも無限に可能性があるので、いつまで経っても終わらないという気がするだろう。だから、まだかまだかと苛立つ。この人は遅いと思っている。つまりこの人自身は早いのであり、どんどん先に行ってしまっている。しかも、まだ来ていない時(未来)にまで来てしまっているのだ。つまり時間が遅いのではなく、「自分が早い」だけなのだ。自分が先回りしているから、つまりフライングしているから、遅いと思うが、しかしまだレースはスタートしていない。まだ時は来ていないのだ。

つまり、時間が遅いのではなく、思考のしかたによって感じる感情の性格が異なるだけなのだ。・・・と言える。

6年前 No.177

かなぶん ★YTp0ckX6if_dbX

てじさん、

底の無い底は、不可知や地平に近接するものということです。
底の無い底を無限に近いほど言い換えたとしても、
言い得ているということとは違います。

地表に掘った穴なら、その底について、地表からの深さや底の形状などを記述して言い換えが可能です。

>この「空間」と「単物体」が可能にする「存在の変化」が、時間概念の本質である。

・・・この定言は、下記の方が適切です。
<この「空間」と「単物体」が構成する「存在の変化」が、時間概念の本質である。

どちらにしても大差がありません。
「単物体」が可能にする・・・という修飾部分を取り除いても、この命題の意味は変わりません。
何故か、私が仮定したように、単物体の本質が存在だからです。

つまりは、てじさんの定言は、私のと同じになりますよ。

6年前 No.178

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

根拠を与えなくても、自分勝手に主張する権利は誰にでもあります。
しかし、根拠を与えることができないなら、それは単なる平面でしかなく、深みもなにも無く、その意味で「底の無い底」でしょう。というのも、その理論には高さも低さも無いのだから。

たとえ、底の無い底を無限に言い換えてもそれを結局は言い得ないとしても、そもそもそれを丸ごと言おうとするのがそもそも矛盾しているのだから、無理なのは当たり前です。問題はただ一つであり、底の無い底という実在している真実に触れたかなぶんさんの考えが他人に伝わるか否か・・これだけでしょう。

「単物体」概念にすら、哲学史ではメリッソスなどの「あったものは何であれ、つねにあったし、またあるだろう」という無消滅の思想を前提にして、消滅や変化を、これのみ真に存在しつづける四元から説明するエンペドクレスの天才のおかげではないですか。

つまり、単物体が時間のおおもとだとすれば、時間の最も深い本質は不滅の永遠だということになる。ですが、この不滅は非時間・無時間ということではないですか。不滅の底にはさらに時間があるのでは?

私がかなぶんさんと同じ定言をすると思いますか(それはパクりになります)。いつのまにかなぶんさんが真理の天秤になったのですか。私の「定言」で最も大事な「単物体が可能にする」というのを削るということは、そういうことである。
私が言いたいのは、この「単物体」こそが、最初の前提であり、この「単物体」にはさらに根拠があるということです。
この根拠は、哲学史と、一言で言ってもいいでしょう。なぜ、デモクリトスやエンペドクレスの名が出ないのか不思議です。

6年前 No.179

かなぶん ★YTp0ckX6if_dbX

私にとっては、存在の変化は時間という概念、そのまんまなんです。
そうとしか捉えられない認識、特別な根拠の無い定言、そうしたものは本質にほぼ迫ったものだということですよ。

内実や存在は既に書きましたが、真理や全体なども、哲学で扱う用語としては特殊なものでしたね。
他の語句と同様に捉え様とする事自体が誤りだと思います。

こうした特殊な用語と一般的な語句の認識が無く表現するなら何ら高さも深みもないものになるのでしょうが、地平の位置を認識して発した表現としては哲学的に充分な価値が有りますね。

>この「空間」と「単物体」が可能にする「存在の変化」が、時間概念の本質である。

この定言で、「存在の変化」を修飾している語句を省くと、下記の私の表現と同様です。
てじさんの言葉を借りれば、明らかにパクリですよ。
<存在の変化が時間という概念の本質である。

修飾語は蛇足です。
存在の変化には、単物質、空間、相互作用ということが既に含意されていますからね。
てじさんの表現では、相互作用のことが逆に不足しています。
「可能にする」という曖昧な語で表現するより、わざわざ書くのなら、より適切に相互作用という語を用いて表現しなければなりません。
だから、無駄な修飾語を付したのに、そこの表現が不十分で、定言を台無しにしています。
これを、私は蛇足と表現したのです。

6年前 No.180

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

「存在の変化」には「単物体」「空間」「相互作用」が含意されている。
そして「存在の変化」は「時間という概念」そのものである。
・・間違っていると思います。
「存在の変化」には「時間」も含意されている。
違いますか?
変化するということは、時間が関与していないと無理ではないですか?

でもこう反論なさるでしょう:そうでなく、存在が変化することがそのまま時間であるのだ、と。
つまり、時間とは存在の変化であると言いたいのでしょう。
普通は、私のように、ものの変化と時間を区別して考えてしまう。時間が経つから、ものも変化できるというように思ってしまう。でも、この二つは同じものなのだ。と言いたいのでしょう。

つまり、存在が変化することは、「時間する」ことでしょう?

ところで、「存在の変化」とは何ですか?
「氷が水になる」これは時間することですか?つまり「存在の変化」ですか?
それとも「存在の変化」はこういったつまらない日常のことではなく、哲学的な真理についてだけの話なのですか?

6年前 No.181

かなぶん ★YTp0ckX6if_dbX

時間の本質は、存在の変化。
本質が存在の変化なら、時間というのは仮の概念だということです。
つまり、消去できるもの。
人間なりの思考によって創られた概念で、その概念と対応する実体など有りません。

本質が捉えられれば、何が誤謬なのか分かると言うことです。
ですから、私は少なくとも時間するというような誤謬を更に拡張するような事はしません。

6年前 No.182

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

その答えでほとんどの謎は解けました。
時間は、対応する物体がないのだから、思考が勝手に作った観念にすぎない。
その本質であるのは、本当に存在している存在の変化である・・と。

でもこれ、時間について語ったことになるんですか?
これは単物体や存在の変化について語ったのであって、人間なりがつくった時間という作りものについて語ってないですよね。

猿は哺乳類ですね。カンガルーは哺乳類ですね。
時間は存在の変化ですね。氷が溶けるのも存在の変化ですね。
猿とカンガルーをどう見分けるか?見かけや習性や遺伝子ですね。
時間と、氷が溶けることはどう見分けているのですか?
見かけではないですね。時間は見えない。

つまり、時間はどのような存在の変化であるか?
時間はどのように存在の変化が誤解された結果、人間によって創られることになったか?
これが新しい問いです。

6年前 No.183

かなぶん ★YTp0ckX6if_dbX

時間は、そうした物が有るのではなく、物に備わっている働き・機能という事です。
すべての物には、変化するということ、また変化をする可能性が有ります。
そのことを仏教では諸行無常と言いますね。
そういう意味では、時間とは物事の変化する程度の尺度、とも言えます。

更によく調べてみると、重力加速度の大きい所に居ると、時間は速く進みます。
重力加速度というのは物理学では力と同じ単位を持つので、物に力が働けば、変形したり壊れたりしますね。
それと同じ様に、物を変化させる因は重力加速度なのです。
つまり、重力が地球の1/6の月に居るよりも、地球上で暮らした方が僅かに時間は速く進んで、まあ単純に云えば命が短くなるという事です。

今度は逆に、速度の大きい乗り物に乗って速く移動するほど、重力加速度の影響を受け難くなるようで、物の変化が起こり難くなり、時間がゆっくりと進むようになります。
例えば、光の速さに近付いていくと、時間はゆっくりと進む様になり、光の速さになってしまうと時間は止まってしまいます。
例えば、私たちの宇宙の歴史は137億年と言われていますが、ビッグバン直後に放たれた光が、今地球に届いています。
この光は、その誕生以来ずっと137億年時間が止まっていました。
私がこの光になってみると、生まれて、同時に死んでしまったということです。
137億年の経験も記憶も何にも無いんです。
光の悲しみ、想像がつきません。

この様に、物に(重力)加速度が働き、それを変化させます。
また、(重力)加速度の働きを調整するような働きをその物の速度が持っています。
ただし、量子力学の適用範囲については、私自身不明な所も多く、尚一層の研究が必要です。
ただし、素粒子の世界でも相互作用によって影響しあう事は知られていますから、物事に変化を齎すのは相互作用と認識しても好いと思われます。
それで、こうした相互作用を空と捉えています。

そうすると、物事の変化は無常という語に、その無常は物事の相互作用である空という語によって説明出来そうです。
つまり、『世界は空という働きで動き続けるその全体が無常という大時計なのです。』
人類は、世界の無常という大時計の太陽や月や地球にも注目して、年・月・日を定め、更に日を細分化して時・分・秒を作ってきました。

広義の時間という概念には、まず時間を流れと観た時の流れの長さ・時間と、流れ上の一点・時刻に注目する場合の2通りが有ります。
これらは、厳密に言った時に誤差は有っても、基本的には太陽や月や地球の位置に対応して決められているのです。・・・(セシウム)
つまり、時間が抽象的な概念であると考えることこそ、時間が一人歩きをして迷子になった状態なのです。
大辞林、あんなものは馬鹿者ですね。

そして、時間自身の定義としては、
『時間とは空による世界の無常であり、一般的には等時性を持つ現象に基準(点)を設けて時刻を定め、その周期を用いて更に時刻の配分を行っています。ただし、時間の内実は世界の無常であり、時間は見かけの概念です。』

さて、時間という世界に備わった最も基本的な機能が理解できたでしょうか。
そして、既に世界が無常という大時計であるのに、多くの人々は人間が自ら作った時計と自ら作った時間の誤謬に振り回されてしまったように思います。

問題は、時間は物事の推移を示す指標でしかないですが、その指標に過去や現在や未来はまだしも、それらが存在する・しない、時間は流れる、タイムトラベルなどの誤謬を生んでいった事です。

6年前 No.184

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

はっきり分かったのは、かなぶんさんの「時間」が物理学の用語としての「時間」だということですね。
だから、前提・根拠もはっきりしました。つまり(おおまかに言って)物理学ですね。「存在の変化が時間概念の本質である」のはなぜか?と問うたとき、物理学の体系でそう定められているからと、なぜ早く言ってくれなかったんですか?

なら「時間概念」は定義されているはずです。議論の余地もなく。
それが根拠であるはずです。なぜ、科学を神秘のベールで覆ったりするのですか。

「私にとって」とかなぶんさんは言ったが、これは「物理学にとって」でしょう。

たとえば「時間を無駄にした」という日本語の表現で、この時間って何?と問われたら、物理学は、それはそもそも時間じゃないと答えるでしょう。
でも私は思う:いや「時間」は時間だ、と。
同一律もどきですが、これもやはり真だと思います。

6年前 No.185

かなぶん ★YTp0ckX6if_dbX

残念ながら、物理学では時間を計る道具、つまり、その道具で時間を定義しています。
それは、セシウムの崩壊を利用してです。
ですから、未だかつて、何処の学際を探しても時間の本来的な定義は成立していません。

私が物理学的に書いたのは、私のオリジナルですよ。

6年前 No.186

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

もちろん、オリジナリティを否定しているのではない。
ただ明らかに、物理学を全く知らない私にでも、その時間概念は物理学を前提にしていると目につくだけです。

秒とは「セシウム百三十三の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の九十一億九千二百六十三万千七百七十倍に等しい時間」

これは、セシウムと時間に関係してそう。wikipediaからコピペしてきました。
わけが分かりませんが、つまりは「遷移に対応する」という性格が時間にはあるようです。この「遷移」が「存在の変化」というものでしょう。
この定義を見ると、秒がものすごく「長い時間」だということが分かります。
おそらく、「最短の時間」は「〜の間の遷移に対応する放射の周期」だと予想できます。
たしか、「時間がゆっくり進む」とは「物の変化が起こりにくくなる」ことでしたね。これはつまり、「放射の周期」が長くなることではないですか?(分かりませんが)
つまり、(大辞泉に頼ると)エネルギーが一定である「時間」が長くなるということですが、しかし「時間」が長くなるのではなく、時間は止まるのですね。
というのも、遷移がはじめて時間をもたらすのだから、この遷移が起こらないならば、時間は止まるわけです。

時間とは、周期である。時間がゆっくり進むとは、周期が長くなることである。
たとえば日は、日常的には、太陽が昇ってから次の太陽が昇るまでの周期である。もちろんこれだとおかしいのですが、周期は周期。
年、月、分も同様ですね。でも時間は必ずしも繰り返すものばかりではない。
サッカーの試合「時間」も時間です。40分でしたっけ?これはすでに分を前提しているので、結局は周期としての時間に還元されます。
でも野球の試合時間は?これは、不正確ですが、試合開始から九回裏が終わるまでではないでしょうか。これは厳密な周期ではない。始まりから終わりまでの間の時間ということです。

時間は、何らかの始まりから終わりまで、である。ということになる。
時間はものではない。ものが、何かの始まりから終わりまでの間で、あったり起こったり動いたりする。

6年前 No.187

茶坪 ★6XBe6SOe9V_EP8

横からすみません。
そもそも、時間に点は打てるものでしょうか?動いている動体に点は打てない、つまり瞬間は無い
と思いますが? ということは時間は測定できない。と

6年前 No.188

てじ ★ZkiDndseok_Kz5

時間はものではない。そこに点は打てません。
時間は動いていませんし、動点でもありません。
事実として、時間は測定できているみかけがあります。

瞬間とは何ですか?

6年前 No.189

茶坪 ★u6pjpoEwtj_EP8

瞬間とは一般的に「ある」と思われている、カメラのシャッターのようなものでしょうね。
ところが、時間が流れる「動き」である以上は、そこには瞬間は「ない」といえる。

瞬間って「流れ・動き」を止めた停止だからであるが、動きに静止はあるだろうか?

6年前 No.190

空の光 ★ESHlcbwEpj_EP8

時とは点でもなく連続性でもない?そうなのか?
モノ動きははひとつひとつが継続されてゆく。
その流れを時というかな。

人が走っている時、その走り始めと走り終わりを特定来出る。
だとすると、始点から終点へという点で捉えられる事になる。
しかし、その点を捉えた瞬間からも流れゆくので、どこを点とするのか?
それによって誤差が生じる。

点を捉えられるから、写真、画、像などが作製できるのだろう。
連続性があるから、一コマ一コマを撮影すると流れを捉えられ得るのだろう。
それも時という共通した流れがあるから、可能なのだろう。

時が速く動いたり、遅く動いたり、止まったり、逆流したり、そんな状態ではどうなるか?
客観的な動きを捉えるのが、不可能になるかも知れない。
いや、それどころか大混乱を生じるだろう。

6年前 No.191

茶坪 ★u6pjpoEwtj_EP8

光さん

素直な意見で好ましく思います。全世界の常識人はそういう見解どころか、それが正常人です。

ところが、哲学ではそうではないでしょうね!? もしも、瞬間があるのなら、あの「アキレスは亀を」永久に

追い越せないでしょうね?

6年前 No.192

茶坪 ★u6pjpoEwtj_EP8

追加

写真、CDを見ていたら瞬間は「ある」と錯覚する。それは錯覚で、「円周の微分は直線である」という

に等しい。     ひねくれ者の意見ですが。

6年前 No.193

ちょっと寄ってみました。 ★K0guASo2s6_jJA

もしも、瞬間があるなら、アキレスは亀を永久に追い越せないって、なんで?
(これは、興味。ご説明頂けたら幸いである。)

もしかして、「滑らかな曲線の微分は直線となる」は錯覚だって言ってる?なんで?
(これは批判のつもり。「瞬間があると思うのは錯覚だ」との対応関係も不明瞭である。)

6年前 No.194

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

そういう意味でなら瞬間は無いでしょうね。
というか、誰もあるなんて思っていない。
瞬間が、いつかのときに、あるんじゃない。
何かが、いつかの瞬間に、起こる。
この瞬間は、正確じゃない。
「家を出た瞬間に家が崩れた」
どこまでが「出ている」でどこから「出てしまった」か?なんてどうでもいい問題ですよね。
ここで言ってるのは「ギリギリだった。危なかった」ということだから。

点から動きを考えるのは・・ベルクソンの例か忘れたが・・現実が映写機から出てきたと考えるのと同じくらいとんちんかんです。
ベルクソンはこうも言っている。現実は鏡像に肉体がくっついたものではない。そうではなく、現実の人間が鏡の前に来たら、鏡像がそこに映るだけ。この現実からしか現実の時間は考えられない。『思考と動き』ベルクソン(平凡社ライブラリー)
これは茶坪さんと同じ考えだと思いますが、動きから考えると、どこからが始まりですどこからが終わりか特定できない。
この動きを、図に書いて線にして、そこに点を打ち込むから、はじめて時間の始まりと終わりが考えられるようになる。
そもそもアキレスと亀はスタート地点にまで歩いて来れたんだから、動くことができなきゃおかしい。世界が始まった瞬間、そこにアキレスと亀がいた・・そんなはずないのだから。
アキレスと亀は徹底的に正しい。でも現実の話ではない。

瞬間はない。でもある。眼と眼が会った瞬間に目の前の世界が一変した。一目惚れでしょうか。・・こういう瞬間もある。この瞬間と言うのは時間か?というのは、また別ですが。

6年前 No.195

茶坪 ★u6pjpoEwtj_EP8

時間の定義は普通物理的に定義される。しかし、像(ゾウ)の時間感覚と2ミリの蟻(アリ)の時間感覚

は同じだろうか? とか、数千年の寿命の杉と30日の寿命の昆虫の時間感覚は同じだろうか?

とか不思議に思う。 犬でも17歳は高齢だが、人間は17歳では成人にも達しない。

時間って公共的(人間用)時間のみではない。時間は感じるもので測るものではない。

6年前 No.196

空の光 ★ESHlcbwEpj_EP8

瞬間・・・それは動体視力のことでしょうか?
ものの動きがスローに見えるとかって言いますよね。
人間、生き物、鉱物、それぞれが時を持っているとして、
自分の持ってる時が、一瞬、まわりより速くなる?
訓練すると出来るのか、それともその人の持ってる特性なのか。
それは意識が時を超えることなのか?
じゃあ、意識とは何か?
時を超えられるとすると、時は一定の速度で動いているのか?
なぞが多すぎて、一つ一つ考えていくとしても答えは出るのか。

5年前 No.197

匿命係 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

時間は物理学?その物理学の時間を哲学で考えるってこと?

5年前 No.198

テジ ★iPhone=HlJ2JlAFDg

ときめく瞬間ってもう死語ですかね・・
パッと見てハッとする。
ひらめく瞬間もある。ハッと。
この一瞬は物理学では分からない。ドキッとする瞬間だって分からないだろう。
ある重大な意味が急速に「心」に刺さってくる。
この心は、内面にある実体などではない。
言葉が衝撃になって襲うときの、その襲われるところだ。
ギョッとする。ゾッとする。
瞬間は「ッ」の感じだ。ヒュッとか、バッとか。
つまり、突発してすぐに静止する。ただし一瞬だけ止まる。最初の動きの素早さと、急激な停止の凄さが瞬間を瞬間たらしめる。
一様に流れる時間の一つの部分に点を打って、それを瞬間と呼ぶとき、小さい「ッ」を見失っている。

5年前 No.199

匿命係 ★SOFTBANK=lyNybNdfuq

その瞬間は0,〇秒の感覚世界 時間は平等? 感覚によっては不平等では?

5年前 No.200


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