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時間

 ( 哲学掲示板 )
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ぶっちゃん

そもそも時間とは?
俺は定期的な周期のリズムを数字で表したものだと考えた。
所以に時が止まれば人も止まるとは考えにくい。それは対象の動き運動が停止したと考える。
時はない、あるのは連続される運動としたい。

みなさんは時間について、どう認識してますか?

2006/06/15 09:50 No.0
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うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

追記   では時間とは一体全体何なのか? 「時間とは変化」である。 これでおしまいです。

これ以上何も付け加えるものはない。しかしながら、変化の知覚という意味では、一秒前のガラス玉の変化を誰が

認めるであろうか? そこにあるのは「あり続ける存在」と「凝視する私」であります。ゆえに、人々の視像は

時間であると思う次第です。

7ヶ月前 No.624

今日人 @shrapit ★Android=EYNWzMb3kY

change of the glass という。しかし
time of the glassは適切なのか。ガラス玉の変化とはガラス玉の時間のことである。
時間は果たしてそのガラス玉のものなのか。
ガラス玉が変化せずとも時間はある。
私はりんごが腐っていくのも見えるからだ。

ならば
change of my worldと言うべきか。

しかし例えば
change of the grassがなく(ガラスは変化しにくい)
change of the appleがあるときはどうなるのか。

変化とは個別のものだが、時間は私の世界のものであり、変化と時間の成り立つ条件は同じではないのではないだろうか。

7ヶ月前 No.625

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

うさぎさん
レス遅くなり申し訳ありません。
うさぎさんの考え方を理解するのに時間がかかってしまいました。
そして、うさぎさんの考え方に従って時間について考えてみると、「連続性」と「変化」という語がキーワードになると思いました。
つまり、連続するとはどういうことなのか、変化するとはどういうことなのか、そこが個人的に課題かなと思いました。
今日人さんも問題提起されているように、時間の成り立つ条件と変化の成り立つ条件は違くて、その違いはなんなのか、ということがまだ明らかになっていないように思います。

7ヶ月前 No.626

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

>626さん

物質とは、存在するとは「変化」のことだと思います。変化の速度は関係ありません。したがって、ガラス玉や

金塊とリンゴやバナナの変化も同じく変化しているといえます。(万物は流転する)

では、物質(存在)が変化しないとはどういうことか?それは、「無い」という意味です。物質が「無い」場合

時間はないといえる。したがって、存在とは時間であり「在る」といえます。

ついでに、おもしろい話ですが、「見る」と「見える」です。「見る」には時間が感じられるが、「見える」には

時間は流れていない、というものです。

7ヶ月前 No.627

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

「独我論と時間」

時間は誰に属するか? 誰にも属せず、時間は公共的で同時性のあるもの、、、常識だよ。

私の死後に宇宙は消える(消滅)という説がある。その説を奉じるなら、時間はわたしに属する

ことになりはすまいか?

7ヶ月前 No.628

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_Nu2

>>628

うさぎさん、こんばんは。
問題意識に共感するところがあり、投稿させていただきます。

ぼくたちが「時間がある」というとき、それはたいてい、
「手が空いている」とか「余裕がある」ということを意味しますよね。

だから、哲学で問題としたほうがいいのは、
「公共性で同時性のある」時間(物理における時間のようなことと解します)よりもむしろ、
ぼくらが実際にそこで生き、馴染んでいる時間ではないかと思います。

均等に切り刻まれ死んだ時間ではなく、
生活世界において体験される生き生きとした時間こそ、
哲学しがいがあるのではないか。

これをシンプルに問いのかたちで定式化すれば、
「時間がわたしに属するとはどういうことか」、
「時間をもつとはどういうことか」になると思います。
しかし、そもそも「属する」「もつ」とはどういうことか。

うさぎさんの言う「私の死後に宇宙は消える(消滅)という説」について、
きっとここで問題となっているのは「宇宙」ということばの内実だと思います。

ここで暗に前提とされているのは、宇宙と時間が切り離せない関係にあることだと思われます。
これは当たり前のようで、大事なことだと思います。

こういった問題意識にとって、ひとつキーワードとなるのは、「内部性」だと思います。

内部性ということばで意図されるのは、
けっして「箱の中にボールがある」といった意味での内部ではありません。
ぼくたちが宇宙の「うちに」、世界の「うちに」生きているということは、
同時にそこに住んでいることを意味します。
それはつまり、そのもとに馴染み、安らいでいることでもあります。

時間が「わたしに属する」あるいは「もつ」ということの内実を探求するのであれば、
まずはここに立脚しないといけないと思います。

あるいは、むしろもっと推し進めて、
内部性に立脚しない時間論と比較してみるのも面白いかもしれません。
それによって、ぼくたちの住まう時間と自然世界的な時間との連関に対する理解が、
もっと豊かになるかもしれません。

7ヶ月前 No.629

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

(時間の長さについて)

時間の長さは誰でも共通だろうか?大概の大人(10歳以上)はこぞって、時間のたつのは早い、20年なんてアッいう間

だよと口をそろえていう。もう3月かよ?アッという間だな、そして死に際に「人生なんてアッという間だった」と言う。

ところが、3歳〜5歳の幼児はそう思わない、なぜか?彼らは時間を細かく分割しているからだ。(無限分割)

15歳を超えて3000年間生きても、それは幼児の6年間に匹敵するにすぎない。円を微分したら直線になるに、

似ている。

6ヶ月前 No.630

天地創造 ★toa0OvHgjd_M0e

時間感覚障害という概念があります。
自閉スペクトラム障害もこの仲間です。
自閉スペクトラム障害では、発達障害は明確な境界無くして、健常者と連続的であるとされます。
各個体が、己の時間を持つ事が出来るのは、脳の個体差に起因しているのかも知れません。
脳の個体差が、時間の長さの個体差の一要素と成り得ると考えられるのです。

又、神経系の関係で、時間は意識に浮上する迄に時差が生まれます。
これは、過去を現在として知覚し、未来を無意識の内に捉えているのです。
神経系の個体差も、時間の長さ、及び又は、時間の始まりの個体差に成り得ると考えられます。

有時とは、存在と時間を同一のものとした場合の呼称です。
存在と時間を切り離す事は出来ないのです。
この考え方では、全ての時間と存在が吾有時に内包されると同時に、衆有時にも内包されます。
自己とそれ以外の境界が曖昧に成るのです。

天然物理には、時間の潜象素粒子として、トキがあります。
トキはアマの複合粒子で、トコロ、イカツミ、マクミ、カラミという潜象素粒子と可逆的に相互変化します。
アマは、潜象素粒子で、潜象界の最小物理単位であるカより生じます。
詰まり、時間というのは、相対的で断続的なんですね。

断続的時間の中に含まれる、時間と時間の間は、刹那滅と呼ばれる縁の働く場です。
上述から、空間、電気、磁気、力とも、時間は深く関係し、それ等から切り離す事は出来ません。
縁の働く場は、時間が崩壊して還元し、時間でなく成る場と考えられます。
詰まり、存在も相対的で断続的と考えられます。

有時は相対的で断続的で、他の有時と境界が曖昧なのです。
それは、潜象素粒子であるイツツミの間での可逆的な相互変化に起因している可能性も考えられます。
併し、潜象界に対する認識は、観念論の立場からすれば、空に帰す訳です。
実在論的な唯心論なのか、観念論的な唯識論なのか、難しい処です。

時間及び存在は相対的で断続的だとするならば、縁の働く場は潜象界であると考えられます。
従って、因果律は潜象界と現象界の相互作用の一例と見做す事も可能かも知れません。

6ヶ月前 No.631

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★tC3lf28Gel_lAP

>>0

時間とは酷なもので、楽しい時間は速く感じます。苦しい時間は遅く感じます。人生が遅いのは、至極残酷な人生なのかもしれませんが。

6ヶ月前 No.632

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

ご臨終ですと言われたとき、自分なら一日10万円は安い、100万円は?  でも、そういわれたら、交渉する。

1か月で100万ならどうですかね、。   それで、交渉が成り立たず、神は1週間あたり1000万円と言ってきた。

さあさあさあ、生の値段はいくらか?時間は日時はいくらか??  私なら1年間を800万円なら喜んで払う。

1600万円でも苦しいが、払い続ける・・・・生きるか死ぬかの生と死の時間の値段でした。   以上

6ヶ月前 No.633

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

『時間とはサンスである。(ここにサンスとは、水の流れの方向、一つの文章の意味、織地の向き、臭覚といわれる意味でのサンスである)クローデル
現存在の意味は時間性である。ハイデガー「存在と時間」』(知覚の現象学より)

わたし、未だ意味わからず。

6ヶ月前 No.634

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>634  悪魔ちゃん

以下述べることは、木村敏が書いてたと私が記憶していることをもとにして書くんだけど、曖昧な記憶に基づくものだから、情報としての正確さは信用しないで欲しい、むしろふくろうの勝手解釈とみなしたほうがよいかもしれない、ということをくれぐれも注意喚起の上、参考まで。

離人症のある種の症状で、「私は私である」という同一性が成り立たなくなって、「自分が今ここに存在する」という実感が失われるものがあるらしい。
すなわち、彼らは現存在としての自己を喪失してしまうのだ(物理的存在としての自己は認識できる)。
たしかに「私1は私2である」と考えたり言ったりする時、私1と私2の間に時間差があるので、その意味では私1と私2は別物だが、普通はそこに同一性が成り立ち、流れる時間を通じて自分という同一なるものが存在すると実感しているみたいなんだね。
ところが、そこに同一性が成り立たなくなると
 「私1≠私2、私3≠私4、・・・」
となり、「私1」「私2」…の、それぞれの指示対象である別々の私がその都度存在しても、
私1,私2,私3,私4,…
という感じで差異しかなくなって自分がバラバラになり、同一なるものとしての自分の存在(現存在)の実感が失われる。
するとそれと相即して、例えば、なんと音楽もバラバラの音としてしか捉えられずメロディーとして聴き取れなくなり、物語も場面と場面のつながりがわからなくなり物語の意味としてのストーリーをつかむことが困難になる。
パラパラマンガがなめらかな動画に見えなくて1枚1枚別々の絵を次々に見るだけみたいなね。
いわば生世界が連続性を失って離散化してしまい、ゲシュタルトとしてのまとまった意味をもちえなくなってしまうわけだ。
そして生き生きした生の実感も失われる。

興味深いのは、このとき自分の生世界の流れる時間(デジタル時計時間ではなく)も失われるそうなんだ。
今1,今2,今3,…
というふうに点としての今の継起があるだけで、今が幅をもった時間の流れる場として成り立たなくなる。そして時間の流れが感じられなくなる。
つまり、自分という同一性を有する存在(現存在)を喪失するとき、時間の流れ(時間性)も失う(ちなみに時刻としてのデジタルな時間は時計で認識できるので日常生活は送れる)。
そして例えば、オーケストラが演奏しているコンサートホールに身を置いていても、楽器が奏でる音をメロディーとして認識できず、空気の振動としての騒音が鳴り響く物理的空間の中に物理的身体としての自己が存在するということをただ認識できるだけで、今ここに生起する意味としての音楽世界に内存在する自分(現存在)は失われてしまう。
すなわち、
 自己の同一性(現存在)喪失=時の流れ(時間性)消失=生世界(ゲシュタルトとしての意味世界)の消失
そうすると、次のように表現することもできるだろう。
現存在としての自己の喪失は、世界から時間性・有意義性(サンス)が失われることを意味する。

そこで次のような解釈を与えてみよう。
現存在(Dasein)とは「自分は今ここにいる」と自覚して存在するもののことであるが、この現存在を規定する三契機の意味を次のように解釈する。
 「自分」性=Def. 私は私であること=同一性
 「今」性=Def. 時間性(時の流れ)
 「ここ」性=Def. 生世界内性
すなわちこのような意味的存在として現存在を定義する。

しかし、さらに直観的にもう少しわかりやすく解釈すれば、次が言えるのではないだろうか。
 時間(性)こそ、現存在及びそれが内存在する有意義な生世界を可能ならしめるもの、存立条件である。

(註:ここでは簡単に時間性=時の流れとしたが、もちろん本来これでは全然不十分というか不正確だと思う。詳しい人突っ込まないでね(笑))

以上はハイデガーや木村敏ほかの思想を手掛かりに、ふくろうが考えたこと、解釈したことをわかりやすさを意図してまとめたものであり、ハイデガー、木村敏の思想とどれほど一致しているかというのは全く不明だし、責任持てない(笑)。ちょっとここのところ調子が悪くて気分転換のため気楽に書いたものなので、くれぐれも信用しないように。
それでも、「同一性と差異」スレでもこのへんをやってるみたいだし、少しでも参考になればいいんだけどね。

6ヶ月前 No.635

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_Nu2

>>635

こんにちは、ザビビのふくろうさん。

同一性に関心がありまして、興味深く拝見させていただきました。

>離人症のある種の症状で、「私は私である」という同一性が成り立たなくなって、「自分が今ここに存在する」という実感が失われるものがあるらしい。
すなわち、彼らは現存在としての自己を喪失してしまうのだ(物理的存在としての自己は認識できる)。

自己同一性は、「私は思う」という統覚のように、
揺らぎようのない形式だと思っていましたが、
離人症という実際のケースがあることを加味すると、そういうわけでもなさそうです。
きっと肉体において、物理的存在としての自己は認識できるのでしょう。

>自己の同一性(現存在)喪失=時の流れ(時間性)消失=生世界(ゲシュタルトとしての意味世界)の消失

同一性が名前に由来するとしたら、
きっと生世界の喪失は無名の世界に投げ出されるようなことなのかな、
と考えてみました。

そこで仮に、自分の身の回りから名前すべてが欠落した様を想像してみます。

するとこれまで分節されて、固有の意味を帯びていた世界が、突如その意味を失い、
残るのはただ、どこにも切れ目のない、「ただある」という事実だけになります。
「切れ目のない」というのは、時間的というよりは、空間的なニュアンスです。

そこで何よりも怖いのは、このかろうじて残る「身体」と呼ばれる場所にも、
名前がないということです。
それはすなわち、誰からも呼びかけられないことを意味します。
つまり、私は「ただある」という生世界の喪失に取り残され、孤独になります。

結論。
やっぱり、名前って大事だなぁ。
親からの最大の贈り物は名前のような気がします。

やや雑感を綴っただけのかたちとなってしまいましたが、
思うところがあったのでコメントさせていただきました。

失礼しました。

6ヶ月前 No.636

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

うどん粉さん

レスをどうも。
あなたのレスで思い浮かんだことを少し。

>同一性が名前に由来するとしたら、

きっと生世界の喪失は無名の世界に投げ出されるようなことなのかな、
と考えてみました。

「同一性」と「名前」の関係についてですが、発達心理学的な意味での自我同一性の成立を問題にする場合に、名前の果たす役割がどのようなものかという問いは、それ自体として興味深いものだと思います。
しかしそれとは別に、いったん成立した現存在としての自己における「自分は自分である」という同一性と名前の関係を考える場合、また違う問題になるのではないかなと思うんですよ。
例えば、記憶喪失で自分の名前を忘れた人でも、自分は自分であるということは理解できるのではないか。その限り自分の名前を失っても、私は私である、という同一性は成立し、現存在も生世界も失われないのではないだろうか。
つまり、「現存在としての自己」というのは、「ふくろうはふくろうである」という名前を用いた同一性文によって表現される同一性ではなく、あくまで「私は私である」「自分は自分である」という一人称語を用いた同一性文によってしか表現できないのではないのか、と思うわけです。
例えば私が記憶喪失になり、周りの人がおまえの名前は「ふくろう」だと教えてくれたとして、「ふくろうが私なのか?」と私は思うのではないだろうか。
そして「私がふくろうである」ということと、「自分が自分である」ということは、異なることを意味しており、現存在の成立はこの後者の同一性によるものであって、前者のそれではない、と思われるということです。
というのも、離人症の人はある意味逆で、名前がこの物理的身体をもったものとしての自分のものであることは理解できるので、自分が例えば「ふくろう」と呼ばれるものであることを理解し、日常生活は可能であるということだったと思うんですよ。

それと、
>そこで仮に、自分の身の回りから名前すべてが欠落した様を想像してみます。


と述べた後あなたが描くいわば世界のカオス化のイメージは、昔、記号論や丸山圭三郎の思想が流行ったときに、ヤコブソンの失語症の研究などをもとに、通俗化された拡大解釈もあったと思うけど、よく語られたものです。
そういえば言葉を失って世界が崩壊していく男を描いた寺山修司の『さらば箱舟』という映画もありました。

ただ、今後厳密に考察を進めていくのであれば、やはり固有名と一般名、あるいは言語一般とは、ちゃんと分けて考える必要があるんじゃないでしょうか。
そういえば知ってるかもしれませんが、レヴィナスの訳者でもある熊野純彦さんが、昔雑誌で書いた固有名についての連作論文がありますね、本になっているかはわかんないけど。

ところで私はレヴィナスの思想に関心があるんですが、なかなか自分では読みこなせないので、ズルしてあなたが書くもので勉強できたらと思ったりしてます^^。ブログも期待していますよ。

あれ?今読み返したら何かエラそうかな?ご容赦くださいね。

6ヶ月前 No.637

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_Nu2

>>637

ザビビのふくろうさん、こんばんは。

ブログを拝見していただきありがとうございます。
「期待している」というコメントは、大変励みになります。

今はレヴィナスの、苦しみと死の分析を理解して記事にするのに奮闘しています。

現状報告はさておき、
ザビビのふくろうさんのご指摘、大変興味深く読ませていただきました。

要旨として、
「私は私である」という自己同一性の定式と名前とにはあまり関係がないのではないか、
というご指摘であると理解しました。

痛いところをつかれたと思います。

というのも、一連の同一性の考察で、
ぼくが暗に明示を避けたところを指摘された気がするからです。

ぼくが明示を避けたのは「自己への回帰についての解釈」です。

同一性とは「AはAである」という定式で表せますが、
それがたんに「A」という表現だけにならないのは、
Aが自己から出発して自己へと帰る動きが同一性には不可欠だからでした。

自己から出発する動きをぼくは、「名前を呼ばれること」と表記しました。

しかしでは、自己へと帰る動きは何を契機とするのか。

実はその点をサボりました。

まさにザビビのふくろうさんが、

>例えば私が記憶喪失になり、周りの人がおまえの名前は「ふくろう」だと教えてくれたとして、「ふくろうが私なのか?」と私は思うのではないだろうか。

とご指摘してくださったように、名前を呼ばれても、
それを私自身が認めなければ、同一性が保証されないことになります。

それはおそらく、自己への回帰の説明が不十分なことに由来すると思いました。

ただこれで、名前と同一性の連関というテーマを捨てたわけではなく、
まだこのテーマは保持しておきたいと思います。

尊敬する熊野純彦先生に、固有名に関する論文があったことは知りませんでした。
教えていただきありがとうございます。

ちなみに、
同一性は「AはAである」という自己完結とも取ることができ、
たとえば苦しみにおける圧倒的な現在への縛りつけの定式であるとも捉えることができるので、
時間と無関係ではないです。

その見通しで、ブログの記事を書けないかと考えています。

長文失礼しました。

6ヶ月前 No.638

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉635 ふくろうさま、ありがあとうございます。

わたしは、木村敏の『関係としての自己』を読んだことがあります。
木村氏と関係しているブランケンブルグの『自明性の喪失』も読んでみました。
この本では、精神病理学と現象学を結びつけようとしているとのことでした。

このような側面でもわたしの物語りを進めようとも思っていますが、
いかんせん、ここは「病」についての記述は削除されてしまうようです。
この続きはオ◯◯ナ◯哲学で。

6ヶ月前 No.639

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

ふくろう さん も  うどん粉 さん も私にとって、二人の内容が難しすぎてついていけません。
時間に関する私の見解は下記のようなものです。ベルクソニックになりますが、、、

時間(当然公共的)とは空間であり、空間とは時間である。なぜなら、自分を語る場合、両方が交互に相手を
利用するからである。ところが時間のなかの「持続」は空間ではない。なぜなら、時間と持続は違うからである。

もっと話を飛躍すると、時間には同時性があるが、持続には同時性がないというものです。その理由は
時間は測定でき、繰り返しが可能だが、持続は繰り返し不能だからです。

5ヶ月前 No.640

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

うさぎさん

わたしが >>635 で述べた離人症患者の失う時間は、ベルクソンの言う持続としての時間のことです。
持続としての時間=流れる時間=時
彼らは点時刻の総和としての空間化された時間(客観的時間)は理解できても、持続としての時間=流れる時(主観的時間)が感じられなくなるのです。

興味深いのは、それに伴い、次のものを失います。

@自分が自分であるという自我同一性の実感、自分が存在するという感じ。
Aメロディーや物語のストーリーのような時間的ゲシュタルト。

「ゲシュタルト」はネットでWikipediaなどで調べて欲しいのですが、
簡単に言うと、インクのシミの集りを、ただその総和ではなく、人の顔の絵として見るように、それ以上の意味をもった一つのまとまりとして知覚されるものです。(「ゲシュタルト崩壊」で調べたら、私の言ってるのと関係あるのがあります)

そうすると、持続としての今現在も、点時間の総和以上の意味のまとまりとしての時間、すなわちゲシュタルトとしての時間と考えられるでしょう。

したがって、以下のような同等関係が考えられます。

自分⇔時(持続)⇔意味(ゲシュタルト)

つまり、自分が存在するときは流れる時も意味も存在するけど、自分が存在すると実感できなくなると、同時に流れる持続としての時間も意味も感じられなくなってしまうわけです。

これらが成立するために必要なのが、同一性なのですが、この説明はやっぱり少し難しいかな.

5ヶ月前 No.641

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>641

一つ注意を。

私が説明の中で述べた「ゲシュタルトとしての時間」という語は、分かりやすいかと思って使った私の造語です。正式な学術用語ではありません。(たぶん(笑))
その他にも同様なのがあるかもしれませんので、お気をつけ下さい。

5ヶ月前 No.642

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_Nu2

>>640

>もっと話を飛躍すると、時間には同時性があるが、持続には同時性がないというものです。その理由は
>時間は測定でき、繰り返しが可能だが、持続は繰り返し不能だからです。

この話を聞いて、
「どうして時間は繰り返し可能で、持続は繰り返し不可能なのだろう」と思い、
ずっと考えていました。
そこで思ったのは、「両者を区別するのは平行性ではないか」というものです。

ここに言う平行性とは、文字通り交わることのない性質ですが、
何と交わることがないかというと、私の生とです。

私と平行な線を辿る放物運動は、単に眺められるだけであり、
私の生と交わることはありません。
だからのんびりと観察して、測定もできると思います。

しかし、もしもその放物運動が私に向かってくるのであれば、
それは他人事ではなく、私はそれを避けるなり受け取めるなりしなければなりません。
このような運動に通底する時間は、もはや私の生にくい込み、
ときに脅かしたり、ときに間延びしたりするような、
伸び縮みする時間となります。

思うに、この私の生との平行性を破るような時間こそ、持続ではないでしょうか。

ベルグソン的な意味での持続は、不勉強なためよくわかりませんが。

5ヶ月前 No.643

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_Nu2

雑感。

・・・

持続とは老いではないか。

死へと向かう歳月の折り重なりとしての老い。

そう考えると、世界が延長ではなく、独特の肉感とでもいうような厚みを帯びてくる。

たとえば、カップ麺にお湯を入れて待つ三分は、
ぼくの老いてゆく生から汲み取られ、食へと割り振られた三分である。
その意味で、無世界的に流れる秒針の三周とは内容を異にする。

・・・

ぼくは「呼ばれる私」と「応える私」の二面性を持つ。
その一致するところの代表例が「ぼくの名前」である。
その意味で「自分の名前」とは自己同一性の場である。

しかし、「呼ばれる私」と「応える私」のあいだには、どうしても時間差が生じてしまう。
始点と終点の一致しない円運動、つまり螺旋を描いてズレてゆくようなものだ。

このズレたすき間に、老いという持続が浸透するのだろうか。

…保留。

5ヶ月前 No.644

うさぎ ★TTcLo8rHAi_UHY

>643  うどん粉さん・・・(笑)  時間に関する貴方の思考の深さが感じられます。「私の生」とか


「伸び縮みする時間」とか「平行性」とか、、、、ここまで言えたら、十分にベルクソニアンですよ?

5ヶ月前 No.645

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_Nu2

>>645

ベルグソンは読んだことはありませんが、ずっと気になっています。

また読んでみます。

5ヶ月前 No.646

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

うどん粉さんの時間観念に対する洞察の深さには一目置きます。
最近、私の気になっている言葉に「生の1回性」があります。人生は一度きりだから、、、、、、。
と、中学生からよく言われたものです。人生訓や格言集には、一度しかない人生だ、後悔しないよう
思い切り楽しく生きるべきだ、と何処でも言われ、何処にも書いてあります。

私がおもうに、生の1回性とは、「それは、初めて見る」だと思うのですが?大概の人は「それは、
何回も見て知っている」でしょ? つまり、ちっとも一回性ではないのですよ。

5ヶ月前 No.647

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

>>647

うさぎさんの「生の一回性」のことばの意味が、うまく汲み取れませんでした。

「それは、初めて見る」の「それ」には、何でも当てはまるのですか。

何でも当てはまるとすれば、生の一回性とは、見る主体の一回性のことですか。

5ヶ月前 No.648

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

ありがとうございます。うどん粉さん、それ、というのは存在する全てです。ただし、見るからに

変化しつつあるものは、除きますが。茶碗とか自転車や電柱や山 や 月や金星も含みます。

5ヶ月前 No.649

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

人生は一度きりだから、、、、というのは、有る意味で時間の本性・本質だと思います。
時間は未来から過去へとたゆまず流れつづけます。科学と常識は「一回切り」の側にたつでしょう?
ところが、我々は「動かない物質や無機物」を観るとき、何回も見た、初めてでない。一回切り
じゃないのじゃないか?という疑問です。

5ヶ月前 No.650

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

>>649

とすると、生の一回性とは、うさぎさんにとって、型通り受け取れば
「存在する全ては、初めて見る」ということになりますが、
やはり結局、ことばが洗練され過ぎていて、ぼくの力ではうまく意味を汲み取れません。

>大概の人は「それは、
>何回も見て知っている」でしょ? つまり、ちっとも一回性ではないのですよ。

というところから推測するに、きっとうさぎさんの主張したい生の一回性は、
存在の全ての新しさのようなもの?なのかと、ひとまず解釈してみました。

5ヶ月前 No.651

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

>651 うどん粉さん

やっぱり、深いするどさがあります。存在の全ての新しさのような・・・・。私も50%は同じ意見です。
残りの50%は、実存とかクオリアや純粋持続の概念と関係づけています。何年何月何日何時何分何秒
という時刻は一回のみで一回切りであると。

5ヶ月前 No.652

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_lU1

>>650

おそらくですが、読んでいるかぎり、
「生における時間」と「物理的な時間」の和解する地点が問題ではないか、と思いました。

仮にこの二つの側面から時間を眺めるとすれば、
死に至って終わりを迎える「生における時間」は一回きりですが、
一方で「物理的な時間」は私が死に至っても、なお流れ続けるように思えます。

>ところが、我々は「動かない物質や無機物」を観るとき、何回も見た、初めてでない。一回切り
>じゃないのじゃないか?という疑問です。

という文を読んでも、やはり
「生における時間」と「物理的な時間」を区別しつつもその和解点が見出せないところが、
問題となっているように感じます。

5ヶ月前 No.653

うさぎ ★Tablet=Jz4o2V6epA

>653

ありがとうございます。おっしゃることは、その通りだと思います。今後はなんでも新しく

初めて見るようにしたいと思います。すみませんでした。

5ヶ月前 No.654

一京無限 ★mmXbeVmJKi_mgE

時間は、私達を心の向上へと導きもし、私達の心の堕地獄へと堕ちることもある、光の当たる温かみのある水の流れがあり、
澱みの穢れた冷たい影の水の流れもあると思います。

時間を一本の河川と捉えるならば、浮き沈みのなかで、やがては、大海原に流れる大河でありたいものと思います。

5ヶ月前 No.655

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

「時間とはなにか」で、また自分はある発想が生まれました。「時間とは私の眼である」というものです。

なにもせず、時間がもったいない!という場合、わたしは物や事物を見ていないか、見られていない

ということ。つまり、「時間とは私の視像である」 と。独断と偏見ですが。

5ヶ月前 No.656

うどん粉 @levinas ★gVURwKBNCQ_R9r

暴力の繰り延べという点で、時間と言説は共同関係にある。
時間とは死ぬまでの猶予である。
その猶予を生み出すのが思考であり言説である。
言説とは来たるべき沈黙の暴力を明るみにもたらすことである。
明るみにもたらされるかぎり、沈黙の暴力はその到来を延期される。
ここに生まれる猶予が時間である。

問いは答えに対して、ある種の直接性を有している。
問われるものが何であるかを”漠然と”理解していなければ、問うことがそもそもできないからである。
つまり、問いはすでに答えを”直接的に”内包している。
ただそれは明るみにもたらされていない。
答えは到来という形でもたらされる。
しかしそれが直接的であれば、正体すらわからないのだから、
得体のしれない何かの到来であり、それは暴力的とも言える。
その到来が理解されるには時間が必要である。
もっと言えば言説が必要である。
その言説とは、到来するまでの言葉という意味で、優れて前置きと呼ばれるものである。
問いにもまた、時間と言説の共同関係が働いている。

存在の問いが存在論的差異を要請するのは、一見、自明なことでありながら、
そこには考察に値する事柄が潜んでいる。
存在の問いはすでに、ある種の直接性を有している。
それはあまりにも直接的な問いである。
しかしそれが問いであるかぎり、その答えは到来としてもたらされなければならない。
そのためには差異が要請される。
したがって、存在の意味が時間を地平として出来することは、根本的な事態である。
その出来と問いとの間隙に、言説が満たされなければならない。
優れた意味での前置きが必要となる。
それがなければ、存在はあまりにも”日常的”で当たり前のものとなるだろう。
存在の思考は存在を、日常性から際立たせつつ、到来させる。
その到来が暴力とならないためにも、言説が繰り延べられねばならない。
しかし言説が繰り延べられるかぎり、その到来は永遠に延期される。

ところでこの、時間と言説の共同関係はすなわち、歴史である。
歴史はたえず、何かの到来を繰り延べている。
言いかえれば、歴史は、何かの到来の暴力性を緩和するための予見に資する。
この何かは、一度到来すれば、時間と言説の一切の有効性を損なうだろう。
その何かが何であるかはわからない。
だからこそ言説を通じて時間を生まなければならない。
問いに対して問いを重ねなければならない。
無限の時間が必要なのである。

3ヶ月前 No.657

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

Mr.Childrenの「未来」という曲には「未だない」という意味での未来が表現されている。「未だない」とは「希望がない」ということであり、単調な毎日が続いていくことの嘆きといってもいい。このようなことはどうして起こるのだろうか、と考えた時、私たちが子供から大人にへと成長する時に感じるようになる、時の流れの単調さに関わっている。それはなんなのかというと、言葉で言い表すのはなかなか難しいのだが・・・
私たちは子供の時は「一年」という時間をとても長く感じていたはずだ。春がやってきて夏が来て秋に入り冬へと移り変わる季節は、とても濃密な季節感の連続として経験される。しかし大人になっていくにつれて、時間の体験は一風変わって濃密な季節感の「反復」として経験される。これは子供にとっての「季節」の意味と、大人にとっての「季節」の意味とが、「楽しまれた」ということから「楽しかった」ということへと変わっていくからである。
大人になると、時間はあっという間に過ぎ去っていく。その有限性の中に価値が見出されることを、私は「楽しかった」と表現している。それに対して子供の時間はとても有意義だ。それは無意義などうでもいい時間であっても、有意義であるような充実感である。

Mr.Childrenの曲の中で、「生まれたての僕らの前にはただ果てしない未来があった」と表現されている。そしてこの歌詞の後に「そして今僕の目の前に横たわる先の知れた未来」と続いていく。

2ヶ月前 No.658

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

「楽しかった」という時間意識は、「愉しかった」と表現されるものになる。
それは玉置浩二の「メロディ」で歌われているようなものに近い。
この曲は「あの頃の思い出」が現在において愉しまれている。
Mr.Childrenの「未来」の中では、まだ「過去を愉しむ」ということまでには至っていない。
私たちは「過去を愉しむ」ということができるようになってから、あっという間に過ぎ去っていく時間の有限性の価値を発見することができる。しかしこれはおっさんになってからの時の楽しみ方だ。おケツの青い子供にはまだ早い。

2ヶ月前 No.659

一京無限 ★EBZ0gRjox3_mgE

時間は、多様な黄金の幸せの時間ともなり、幸せの時間は、無心の幸せの時間を過ごせたか、透明な幸せの時間を過ごせたか、
純粋な幸せの時間を過ごせたかであると思います。

そして、大悟による霊的宇宙的幸せの時間を過ごせたか、となると思います。

能動的には、無心の幸せの時間から透明な幸せの時間へ、透明な幸せの時間から純粋な幸せの時間へと過ごすことになると思い
ます。

心の維持継続とさらに心の向上の幸せの時間となると思います。

強制力の押し付けではなく、自発的なものです。

それは、能動的無心の幸せの受動的時間から、利他の祈りの能動的無私無償の実践から、受動的相対的無我の透明な幸せの時間
となると思います。

そして、受動的から能動的止揚の一即多、多即一の純粋な幸せの時間となると思います。

降魔成道により大悟する方と、降魔成道無しに大悟する方により、地球霊界を俯瞰し、地球外の霊的太陽系を俯瞰する霊的宇宙
的幸せの時間を過ごせたか、となると思います。

霊的太陽系は暗闇ではなく、明るい大慈悲光により、観えていたものであると思います。

暗闇の宇宙は三次元のこの世の宇宙ですが、あの世の宇宙は明るいので、暗闇こそ悟りという方は、あの世の地獄界に堕ちた求道
者等であります。

一から初じまり、全てに貫かれているのは、創造主の光であります。

1ヶ月前 No.660

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

空間の歪みが宇宙であり物質で、その表面張力的な性質が重力であり、重力を任意の主体が認識する時に、それは時間となる。

1ヶ月前 No.661

百理 ★5n9Jhh5DYh_P5K

光のない所にも時間は存在するでしょうか?

1ヶ月前 No.662

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★irWfAAwagt_J3L

科学の始まりは神域違反の第一歩を踏みしめたところから起きた。タブーは破られ、科学は不気味に産声を上げた。其の瞬間から人類滅亡の第一歩を歩みだしたと申し上げて過言ではない。

人類は何を間違えたのですか?

宗教の虚偽を暴いて、信仰を捨て、苦しむことを忌み嫌い、少しでも利己的に少しでも楽な生活をしたいという欲求は強いては世界を破滅させるのだと思う。

そうなんですか?

日本人の多くがそうでしょうが。

あなたは、罪深い人です。と指摘したら、激怒する人が圧倒的でしょうね。

1ヶ月前 No.663

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

時間とは何か? 「無限の時間」とか「アッという間の時間」とか言われる。

私は時間とは測定も計測もできない「伸縮する流動」だと考える。無ではなく在ることには

間違い無いのだが、唯物でもなく観念でもない無限分割的な動き(変化)と考える。

1ヶ月前 No.664

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

もし、時間が連続的なモノなら、例えば、時間が停止状態に向かって進む時、

@物理量的な1時間…現在の地球上で経過する1時間の長さ
A体験的な1時間…物理量的な1時間を体験するのに要する時間
B時間の流れの速さ…時間を連続的な流れと仮定した場合の速さ…B=@÷A

例えば、通常の時間の速さで、1時間過ごすと、物理量的な時間経過は1時間で体験的な時間経過も1時間です。
ところが、通常の時間の流れが1/2の速さになると、体験的な1時間は物理量的な時間経過では2時間経過しています。

つまり、BとAとは反比例の関係にあって、Aキ0 また Bキ0

時間は止まらないのでしょう。
また、元々と云う底が無い過去から、時間は有ったと云う事でしょうね。
そして、今後も無くならないと云う事でしょう。

しかし、時の流れがたくさんの宇宙を伴って、無始の過去から終わりの無い未来に続くものでも、私にとっては私が生きている時間・ほんの100年弱だけが宇宙の存在した時間です。
そして、私が死ねば、どんなに無限に時が流れ、宇宙にいろんな出来事が起こっても、無限一100年の時間は虚無なんですね。

1ヶ月前 No.665

百理 ★5z6bVAmgS3_P5K

哲学の思惟における存在は、時間や空間を超越した存在です。

つまり存在に時間や空間は関係ないのです・・

1ヶ月前 No.666

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

ある種の空間を締めるという時間を有するモノが存在だと、思うのですが・・・。

1ヶ月前 No.667

百理 ★5n9Jhh5DYh_P5K

存在と非存在のはざまで物質化されない超越的なものがあるそうです・・

1ヶ月前 No.668

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

物体やエナージの為にフォーマットされた空間もまた存在でしょうし、無以外には何もない空間も周囲との関係性で無が空間を占めていると言えるでしょう。

1ヶ月前 No.669

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

もしかしたら、ダークマターと云うのは、物質やエナージの為のフォーマットの無い空間で、つまり無の空間かも知れません。
フォーマットしていない空間には、物質もエナージも存在できないから、無の空間が増えれば、物質同士が引き離されたような状態になり、無の空間は広がっても空間の要素が無で零だから、密度の薄まったり高くなったりしないよね。

1ヶ月前 No.670

百理 ★5z6bVAmgS3_P5K

一般意識では認識できない領域の存在と非存在のはざまで現れる現象において・・

言語としてのみの表現の中では幻想と現実の区別のつかない論理の崩壊を招くかもしれないような境目・・の微妙な・・

1ヶ月前 No.671

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

時間とはなにか? 私の独断と偏見では、時間とは私の観念であると思う。つまり私自身の観念であるが故に

それは他の誰とも共有しない。クオリアみたいに・・・

1ヶ月前 No.672

うさぎ ★HJ6YNK7WFD_UHY

もう一つおまけがあります。時間とは科学・常識の領域か?それとも宗教か芸術の領域か?です。

私は時間とは、我の意識の領域だと思いますがいかがでしょうか?

1ヶ月前 No.673
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