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時間

 ( 哲学掲示板 )
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ぶっちゃん

そもそも時間とは?
俺は定期的な周期のリズムを数字で表したものだと考えた。
所以に時が止まれば人も止まるとは考えにくい。それは対象の動き運動が停止したと考える。
時はない、あるのは連続される運動としたい。

みなさんは時間について、どう認識してますか?

2006/06/15 09:50 No.0
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mina @mina21 ★dWIa1WvV0K_M0e

00100さん

>過去は既におきた事象ですから見返したり調べたりができます。
>未来は未だおきていない事象ですからそれができません。

見返す作業も、調べたりする作業も現在でする作業です。

その行為自体、歩くという行為と何が違うのでしょうか。

8ヶ月前 No.739

00100 @00100 ★iPhone=NxaBU8I489

>>739
A君が時速何kmで歩き何時にA君が何処にいたのかが事実です。
A君が何時に何処にいたのかについては調べて分かる過去の事実です。
未来の何時にA君が何処にいたのか(いるのかではない)は調べても分かりません。

8ヶ月前 No.740

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

>737  さん   カメラとかCDやビデオがあれば表現できるでしょうね。ただ、未来については決定論に


従わざるを得ないでしょうね?(自由意志論ではなく

現在はすぐに過去になり、未来もいずれ過去になります。結局はすべては過去であると言っても過言ではない。

8ヶ月前 No.741

mina @mina21 ★dWIa1WvV0K_M0e

うさぎさん

その過去とは人間の意識が作り上げたものであり、実際には行く事も出来ない、戻すことも出来ないのです。

その過去とはいったい何なのか、それは人間の記憶の中にしかないのでは。

過去の存在を証明できるのか?

という事です。

少なくとも過去の存在が証明されなければ、時間が流れているという事は言えないのではないか。

8ヶ月前 No.742

ハンドル ★WCCXM8xEFN_yoD

時間は物理量です。現実に在るモノだと思います。時間は観念ではないと思います。時間が観念であるならば、我々は存在しません。時間と共に実在があり、実在があって観念があると思います。

8ヶ月前 No.743

宿題 ★5z6bVAmgS3_t5r

時間は移動・・

8ヶ月前 No.744

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

時間は主観的時間と客観的時間とに分けられる。客観的時間は時点に区切られた時間のことであり、主観的時間とは我々が日常経験している流れのようなものである。

マグダガートやカントもそうだが、時間は主観的には実在しないといった。言い換えれば、「実在」としての時間は存在しないといっている。その点を考えるなら、「時間は物理量だから時間は現実に存在する」ということは時間の非実在性の意見に対して答えれているとはいえない。「現実に存在する」とは必ずしも「流れが存在する」と言う事を意味しないからだ。というかはなから「流れ」というものを考える必要性が物理学にはない。物理学における時間とは微細な生物を見るための顕微鏡のような役割しか担っていないからだ。

8ヶ月前 No.745

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

ひろさん の見解はまったくそのとおりだと思う。

私は四つの単語を並べたいです。(存在と時間)と(私とみんな)です。
時間とは存在(すべての物質)だし、存在(私を含む)とは時間である。

存在と時間は「私」と「みんな」では違うのです。時間を論ずる場合スポットライトは私に当たっているのです。
みんなの時間は「真の」時間ではない・・・・と。

8ヶ月前 No.746

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

うさぎさん
時間を問うということは死を問うということである。
今を生きる私も過去を生きる私も、結局は何のために生きているのか、ということを考えさせられるからだ。だからこそ、「流れ」としての時間の見方は考えるに値する。

8ヶ月前 No.747

mina @mina21 ★dWIa1WvV0K_M0e

ひろさん

死とは?

自分の死ですか?他者の死ですから?すべての死ですか?

死んで後は?この個体にとって時間はなくなるのでしょうか?

物質が全く同じ座標に存在できないことと同じように、時間も全く同じものを共有することはできないということでしょうか?

8ヶ月前 No.748

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

minaさん
「流れ」としての現在は私自身に時間の有限性を認識させます。何事においても、時間には区切りがあり、一定のスパンで始まりと終わりの完結があるからです。この一定のスパンでの始まりと終わりがないところには、「流れ」はないでしょう。そのことが「私にとっての死の問題」を考えさせられるきっかけを与えています。つまり、有限な生物であり、かつ永遠を志向することができる人間だからこそ問える問題だということです。だから、私は時間を問うことは死の問題に接近していくのだと考えました。

>死んで後は?この個体にとって時間はなくなるのでしょうか?


例えば、魂という存在を前提に考えてみましょう。意識が完全になくなった状態でかつ身体が消滅した状態であっても、魂だけは残り続けると考えるならば、時間は存在しているのではないでしょうか。魂は意識が限りなく低い状態で自らを自己認識できないだけで、記憶の残骸みたいなものは取り止めもなく溢れているというふうに想像できるからです。まぁ、あくまでも「想像上の話」ですが。

>物質が全く同じ座標に存在できないことと同じように、時間も全く同じものを共有することはできないということでしょうか?


例えば、ボクシングをしている時の時間とボクシングの話をしている時の時間とでは流れ方が違っている。それゆえ、ライブ中継で同じ時刻に複数人の視聴者が同じボクシングの中継を楽しんでいるものと前提とするならば、同じ時間を共有していると言えます。しかし、この同時刻に「ボクシングをしている人」とライブ中継を見ながら「団欒している人」とでは、時間の流れ方は違っていますから、そういった意味で「同じ時間は共有できない」ということになるでしょうね。

8ヶ月前 No.749

mina @mina21 ★dWIa1WvV0K_M0e

ひろさん

>例えば、ボクシングをしている時の時間とボクシングの話をしている時の時間とでは流れ方が違っている。それゆえ、ライブ中継で同じ時刻に複数人の視聴者が同じボクシングの中継を楽しんでいるものと前提とするならば、同じ時間を共有していると言えます。

同じ事象を同時に確認していれば時間は共有されるということですか?

>しかし、この同時刻に「ボクシングをしている人」とライブ中継を見ながら「団欒している人」とでは、時間の流れ方は違っていますから、そういった意味で「同じ時間は共有できない」ということになるでしょうね。

これは同じ観戦者は時間を共有できるがプレイヤーと観戦者では共有できないという事でしょうか?

その違いがいまひとつ理解できないのですが、どうして共有できるとできないに分かれるのでしょうか?

8ヶ月前 No.750

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

いつも、ひろさん  の意見は分かりやすくて、内容がきわめて深い。(笑

>749からひろさんは時間感覚をほぼ知っておられると思う。私は今日、ぶらっと散歩しながら考えたのですが、

睡眠中の時間はどうなるのだろうか?という愚かな疑問です。90年間生きた場合に実際に時間が流れたのは

50年間じゃないのか?という愚問です。存在と時間と意識と時間が脳裏に浮かびました。

「睡眠中の時間」についてはどの哲学書にも書いてありませんし、誰も述べていない。やはり時間とは存在である

と同時に時間とは意識でしょうね?主人公は「わたし」「我」であるのは分かりますが・・・・

8ヶ月前 No.751

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

minaさん

>同じ事象を同時に確認していれば時間は共有されるということですか?


「同じ事象を同時に確認している」という事が条件であるならば、ボクシングの中継を見ていない人にとってはボクシングの試合が行われている時間が存在しないということになってしまいますね。
あくまでも、時間を共有している、ということは「何時何分何秒の出来事」という時点的認識が成立していることの条件を必要とします。

>これは同じ観戦者は時間を共有できるがプレイヤーと観戦者では共有できないという事でしょうか?


ボクシングプレーヤーは一瞬一瞬の瞬間の中で生きています。相手は次にアッパーかフックか、それともボディブローかということを考えながら選手はリングの上に立っているからです。私はこのような時間意識を「ボクシング的時間」と定義します。
それに対し、そのようなやり取りを外から見ている人にとっては、これは個人差がありますが、ボクシングをゆったりとした雰囲気で見ている人にとっては「ゆったり」とした時間が流れています。これを「団欒的時間」と定義します。
ボクシング的時間は一点集中的であり、そこには忙しさが付き纏います。対して、団欒的時間には緩さが付き纏います。従って、ある事象の変化に対する感じ方という点では両者は同じ時間を共有していません。もっとも、これは主観的な時間においての話であって、誰もが試合を観戦していて、選手はボクシングをしているという事象は客観的には時間は共有されています。

共有されてないのは、「今をどう生きているのか」と言った点です。なぜなら、「どうしてボクシングを見ているのか」ということと「どうしてボクシングをしているのか」ということとには各々経緯があり、各々の行動の結果に至るまでの過程には主観的な違いがあるからです。

「今ここ」でボクシングをしている人はこのリングで試合を行うまでの間にどれだけ苦しい思いをしてきたのかということを想像するならば、ボクシングをしている人にとってその試合に対する意識には重みがあります。それに対して、たまたまテレビを付けてボクシングを見ている人にとっては「ボクシングを見る」ことにはそれほどの重みのある理由は考えられないのではないでしょうか。もっとも、ボクシングをテレビで観戦している人がボクシングの試合に出ている人の親御さんだったり、友達だったりする場合は話は変わってきますが。

うさぎさん
例えば、200年の人類補完計画というものが計画されていて、そこでうさぎさんが被験者に選ばれたとします。うさぎさんは突然誘拐されてしまい、冷凍保存機の中に強制的に閉じ込められたとしましょう。そして、200年後にうさぎさんが目を覚ましました。さて、うさぎさんにとってのこの200年という時はなんだったのか、という思考実験をしてみたら理解が深まるのではないでしょうか。

客観的には200年という時が経ったが、うさぎさんにとっては(誘拐された時30歳であったのなら)200年も20年も2年も、区別もついていないような状態なのではないでしょうか。

ということを考えると、冷凍保存機に眠らされている時の時間というのは誘拐された時から何ら進展していないような時間の流れの中にいるのだと思います。

このことからわかることというのは、時間は「寝ている時」と「目が覚めている時」との比較が可能である状態としての現在、すなわち、「目が覚めた時」が基軸となって時間が「生成してくる」ということです。「目が覚めた私」が眠っていたことを思い出して、「眠っていた私」を発見するということが起きているということですね。
しかし、特別な事情がない限りそんなことはまず起きません。なぜなら、「私がこれから眠ること」は「私の眼が覚める」ことを前提とし、「眠る」ということと「目が覚める」ということとはイコール関係で結ばれているからです。ですから、日常的には「私」という存在は時間に対して結構鈍感なのですよね(笑)
というのも、無理くり考えれば眠った後に私が目覚める確実性なんてどこにも保証されてませんから。だからこそ、人間は自らの主観的な時間を「客観的な時間」で管理しなければならないのだと思います。客観的な時間とは主観の中で生きられる時間に対して抽象的であるような時間のことで、数値化された時間がそうです。この数値化された時間が私に「忘我の意識」を与えます。

8ヶ月前 No.752

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

忘我の意識とは日常性への埋没のことです。ハイデガーが確か同じようなことを言っていたのを記憶しています。

8ヶ月前 No.753

mina @mina21 ★Tablet=LsADUPKYuX

ひろさん
実に面白いですね。

時間に対する、経験というファクターが重みという干渉でここに変化する。

これは、ニューロンにおけるシナプスの結合にも同じことが言えると考えられています。

個体におけるニューロンの差はさほどないが、シナプス結合における重みは個体差が大きく、それが精神や思考、記憶の取り出し保管にも作用することで個体の意識をもつかさどっているのではと言われています。

それと時間が同じ理論で繋がれば、記憶と時間、思考と時間、意識と時間が同一の理論で説明できるかもしれません。

実に興味深いですね。

8ヶ月前 No.754

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

minaさん
「重み」は「情報の豊富さ」と言い換えることができます。例えば、アニメは高画質で見た方が映像のありありとした感じが与えられます。ですから、記憶としても残りやすい。しかし、「どのような情報」が記憶として残りやすいのかということは、個体の主観的な傾向に左右されることもあります。例えば、ダウンロードアプリでダウンロードした音楽よりも、CDの方が、中身を開けたらどんなものがあるのだろうといった期待感だったり、CDという形あるものによってよりコレクション意識が刺激されたりする現象は、個体の経験してきたことに依存している面もあります。それゆえ、情報とは量的にも規定されますし、質的にも規定されます。

意識と時間、思考と時間との関係を仲介している「情報」という概念を明瞭化していくことで、より「時間とはなんなのか」ということへの理解を深めていけるのではないかと思いますね。

8ヶ月前 No.755

mina @mina21 ★dWIa1WvV0K_M0e

ひろさん

私の言った重みの意味はシナプス間における情報の伝達抵抗というか、どのシナプス間の伝達を優先するかの重みのことです。

時間から次の時間に繋がる場合、その繋がりに重みという事象が添加されることでその重みが変化し、それぞれの次なる時間軸が変化する。その変化を未来と呼ぶなら、人間が脳により物質や言語、画像などを認識する意識の差によって個々の時間軸も変化するという、ことが考察されるのではない。

意識において個人が個々に存在するとするなら、時間もそれと同じで個々に存在するものであって共有はしない。

共有している時間とは見せかけの共有であり、相対的に比べることで共有しているかのように見えているだけで、実際は時間は個々の意識により変化し、ここの意識と同じ次元に存在するものである。

この事実が、時間を長く感じたり、短く感じたりする個人差の意識によるものである。

その感じている時間は実は感じているのではなく、本当に長くなっていたり、短くなっているのだとしたら面白いですよね。

8ヶ月前 No.756

バン ★2w5GB3qXiV_cjE

そもそも時間なんていう概念は勝手に人が作り出したものじゃないのか?
もしかしたら、他の世界では存在しえないものなのではないのだろうか

8ヶ月前 No.757

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

確かに、時間の概念というものはその通りだと思う。しかし我々は人間で常識的には科学とか物理
で時間というものを知っている。我が家のオス犬が時間を知っているかどうかあやしいものですね。

所詮、時間って人間の言葉なのかもしれませんね?

8ヶ月前 No.758

★30JjgxOVKX_ZFe

いつ、どこで、だれが、なにをした。

言い換えると、

時間、空間、私が、○○をした。

これは、すでに存在している。

8ヶ月前 No.759

品川 美勇士 ★iPhone=jGDAOrPfY7

空間は、定まった流動的な次元。

時間は、各個体に存在する流動的な次元。

^_^笑

8ヶ月前 No.760

俺様 @mina21 ★Tablet=LsADUPKYuX

各個体に存在するということは共有な存在ではないと言うことで。
存在しないという解釈も可能では?

8ヶ月前 No.761

品川 美勇士 ★iPhone=jGDAOrPfY7

時間という次元は共通しているのですが、今我々が使ってる時間は、地球の自転からある原子の振動数で時間を認識しています。

しかし、原子だって異なる振動数があります。
惑星だって、質によって周期が異なります。

例えば人間は80年は生きられるが犬や猫は、10数年です。
つまり、空間的次元は3次元に対し時間的次元は個体の中に無数にある。
といった所です。

8ヶ月前 No.762

@mina21 ★dWIa1WvV0K_M0e

>>762

それは時間というももは概念のみであるということになりませんか?

例えば、目の前にあるリンゴは個体として存在しています。

そして、リンゴは世界中に存在し、それぞれ、リンゴとして存在します。

しかし、はじめのリンゴはそのリンゴを指し、誰しもが認識できる固有のリンゴですが、後に出てきたリンゴは

どのリンゴの事を言っているかは判らず、誰しもが認識できるリンゴではなくなっている。

この場合の後者のリンゴは、リンゴそのを指すのではなく、リンゴと言う存在の概念的な総称に変わっています。

それを時間に置き換えて考えると、時間には前者が存在せず、後者しか存在しえません。

その事から、時間の存在は概念であり、実際には存在しないものではないでしょうか?

8ヶ月前 No.763

品川 美勇士 ★iPhone=jGDAOrPfY7

例えば、目の前にあるリンゴは個体として存在しています。
そして、リンゴは世界中に存在し、それぞれ、リンゴとして存在します。
しかし、はじめのリンゴはそのリンゴを指し、誰しもが認識できる固有のリンゴですが、後に出てきたリンゴは
どのリンゴの事を言っているかは判らず、誰しもが認識できるリンゴではなくなっている。

解:同種を混ぜれば、そうなりますね。
個体、個々に無数にあるとは、リンゴという種の中の同じ個体や同位体でも、個々に無数に存在するんです。
環境の変化によって個体の時間の変化もあります。

時間の存在の有無は、時の流れを認識する為にこの事象を時間と言う概念としているだけです。
だから、今は時間に関して科学的根拠はありません。
空間だって、まだありません。
まだ、目に見えない概念のレベルでしかありません。

8ヶ月前 No.764

mina-asobo @mina21 ★Tablet=LsADUPKYuX

まだまだ、未知の領域と言うことでしょうね。

8ヶ月前 No.765

品川 美勇士 ★iPhone=jGDAOrPfY7

未知は楽しいモノです。

いつも、つまらない日本社会の話題を見聞きするから、息抜きになります。

8ヶ月前 No.766

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

時間の本質って何だろう?と考えると面白いです。腕時計の短針か長針か秒針かカレンダーなのか等々・・・

私は秒針の動きが最も時間の本質に近いのじゃないかと思います。存在は時間だが、「時間とは秒針である。」  です

7ヶ月前 No.767

ハンドル ★p4qiG2AEOp_mgE

時間とは、記憶することが出来る生物が、在ると思える感覚ではないのか。生命(いのち)の死によって、記憶の仕組みは無くなり、時間の感覚も無くなってしまう。生命(記憶の仕組み)があって創めて、時間が在ると感知できる。記憶の仕組みにより、現在から過去を想像することができ、時間が在ると感知できる。一瞬一瞬で生きることは、記憶をしないで生きることであり、時間を感知しないであろう。生物の死によって、記憶の仕組みを有する生命(いのち)が無くなり、それと同時に時間を感知できなくなる。

記憶の仕組みにより、現在から過去を想像することによって、時間が在ると感知できる。生命(いのち)があっても、記憶しないで一瞬一瞬で生きることは、記憶をしないので、時間を感知しないであろう。死という生物としての物体の崩壊によって、生命(いのち)が無くなれば、記憶の仕組みが無くなり、時間感覚も無くなってしまうだろう。

生命(いのち)のない物質だけの世界では、物質は刻々と変化し、過去が現在に内包されてゆく。過去は、現在のモノと一体になる。物質だけの世界では、過去と現在を比較することが出来ないから、物質だけの世界では、「時間は知り得ないこととなる」。しかし、物質がある限り、時間は在るはずだ。だが、生命(いのち)が有する記憶の仕組みで感知する時間は、「今」しかない存在しない時間だと考えれば、生命(いのち)が有する記憶の仕組みで感知できる時間は、『幻影』かもしれない。

6ヶ月前 No.768

ハンドル ★PJlXBtax92_mgE

>>768 の改訂版

時間とは記憶の仕組みを有する生物が、在ると感知できる感覚ではないのか。生命(いのち)の死によって、記憶の仕組みも無くなり、時間を感知することができなくなる。記憶の仕組みがあって初めて、時間を感知することができる。記憶の仕組みにより、現在から過去を想像することができ、時間が在ると感知できる。一瞬一瞬で生きることは、刻々と変化する時間そのモノとなり、時間を感知することはないであろう。死という生物としての物体の崩壊によって、生命(いのち)が無くなれば、記憶の仕組みも無くなり、時間を感知することはできなくなる。

生命(いのち)のない物質だけの世界では、物質は刻々と変化し、過去が現在に内包されてゆく。過去は、現在と一体のモノとなる。物質だけの世界では、過去と現在を比較する記憶の仕組みを有し時間を感知できるモノが存在しない。しかし、物質がある限り、時間は存在するはずだ。時間は刻々と変化するモノだ。たとえ、生命(いのち)が記憶の仕組みを有していても、時間が「今」の瞬間のみのモノであるならば、過去は現在と一体である現在に内包されたモノだから、過去はもはや存在しないことになる。

記憶の仕組みを有する生命(いのち)が感知する時間は、『幻想』かもしれない。

生命現象は生命(いのち)の発生とともに生じ、生命(いのち)の死とともに消滅する。同様に、時間現象は物質の生成とともに生じ、物質の消滅とともに無くなる。何を持って生命(いのち)とするのか。何を持って物質とするのか。両者ともに不明である。しかし、生命(いのち)も時間も現象という意味においては同じであろう。物質の存在とともに生じる時間は、生命(いのち)を内包している。

6ヶ月前 No.769

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_A7b

「祈りは時間の中になく、祈りの中に時間がある。犠牲は空間の中になく、犠牲の中に空間がある」
(M・ブーバー『我と汝・対話』(植田重雄訳)、岩波書店、1979年、pp.15-16)

5ヶ月前 No.770

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

時間は生きてきた長さに比例します・・

長く生きれば生きるほど速く時間が過ぎます・・

小学生でも習いますよ。

道のり÷時間=速さ

生きてきた時間の長さ÷普通の一定の時間=生きていく速さ

5ヶ月前 No.771

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

某法律のできる相談所の元司会者がいうには、時間が過ぎるのを速く感じるようになるのは既知のことが増えるからだそうです。つまり、経験を積んできた分大体のことがわかるようになったということですね。

5ヶ月前 No.772

ハンドル ★USOxj9mhCc_mgE

>>769 の訂正。

文章の中程の終わりの部分。

>・・過去は現在と一体である現在に内包されたモノだから、・・


・・過去は現在に内包されたモノだから、・・
に訂正します。

文章の最後の部分。
>何を持って生命(いのち)とするのか。何を持って物質とするのか。


上記文章の「持って」は誤字でした。正しくは、「以て」です。

5ヶ月前 No.773

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

ハンドルさん

時間も地球が軌道を正確に回っているので規則正しいです。

意志が自己意識を円環すれば自分の軌道を確保して自己から放り投げだされることは無いと思いませんか?

5ヶ月前 No.774

ハンドル ★fmlxftV1fu_mgE

☆ジャネーの法則☆
子供の頃の時間は長かったのに、大人になってからの時間はとても速く過ぎ去ってしまう」と感じている人が、多いのではないだろうか?
この原因について、一例をあげてみよう。10歳の子供の1年間は、10歳の年齢からすると、10分の1の長さである。一方、100歳の人の1年間は、100歳の年齢からすると、100分の1の長さでしかない。この比率が心理的な時間の評価になっていると主張するのが『ジャネーの法則』だ。

その他、新しい体験の量が時間を長くし、過去の体験と同じようなことが多いと、あとで回想しても記憶の量が実質的に少なくなり、時間を短く感じてしまう。

あるいは、心理的な時間と記憶との関連は、「海馬(脳の中で記憶の形成に関係する部位)の中を、どれだけ記憶すべき情報が通過していったかが、私たちが思い出す時間の長さを決めると指摘する人もいる。

5ヶ月前 No.775

ハンドル ★BxEdMYBRno_mgE

『月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして 行きかふ年も また旅人なり』

松尾芭蕉(奥の細道)より。

The moments and days are the travellers of eternity. The years that come and go are also voyagers.

5ヶ月前 No.776

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

ハンドルさん

時は金なり・・しかし光陰矢の如し・・

お金より時間が大切だと思います・・

余計なお金のために時間を失っていると思います。

5ヶ月前 No.777

ハンドル ★10xIjM27lV_mgE

>>777 宿題さん。

ブラボー ブラボー フィバー。ボナンザ。大当たりの番号ですね。

5ヶ月前 No.778

宿題 ★hxYn2UbX46_08J

ハンドルさん

気付きませんでした・・

ここで幸運を使い果たすわけにはいきません・・

天国も地獄も見ないで淡々と・・

5ヶ月前 No.779

ハンドル ★10xIjM27lV_mgE

>>779 宿題さん。

Time is money.

5ヶ月前 No.780

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

 時間にとって本質的なのは「待つこと」である。もしもこの「待つこと」に欠いて時間を捉えるならば、それはベルグソンの言う持続に欠いており、空間的なイメージのもとで時間を捉えていることになるだろう。「待つこと」は空間的なイメージ、すなわち数直線上で表されるような時間のイメージには還元されない。そこには人の生きた営みがある。一方で空間的なイメージのもとで捉えられた時間から、人の生きた営みが見い出されることはないだろう。「待つこと」を本質とする時間は「生きた時間」とでも呼べるものである。そしてこの「生きた時間」から見れば、空間的なイメージで捉えられた時間は、「死せる時間」とでも呼べるものだろう。
 時間にとって本質的なのは「待つこと」である。すべては一挙に与えられない。人間的な真理にはつねにドラマが伴う。無機質な流れをベースに多様なものがつけ加わるのではない。あたかも劇のように、多様なものが場面を展開していく、その営みそのものが時間なのである。だから時間には独特な緊張と弛緩が伴う。

4ヶ月前 No.781

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

時間の本質を待つことと言われたが、私には分かりません。私は途切れなく経過し続けることだと思うの

ですが?時間には過去現在未来がありますが、私は時間には自由があるではないかと思っています。

4ヶ月前 No.782

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

 時間は無感動な現在の堆積ではない。したがってつねに、過去現在未来と数直線上に投影できるイメージのように流れるとはかぎらない。「待つこと」とは可能的なものが現実に到来するまでの「間がある」ということである。

4ヶ月前 No.783

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

数直線上・・・限らない。  到来するまでの間がある・・・。  面白い見解ですよね

でも、それは理解できます。私は他に「自由の定義」というものを時間に求めたわけです。

私は時間というものを「流れつつある」ものと理解しています。

4ヶ月前 No.784

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

 自由には有限なものと無限なものがある。有限な自由とは社会的なものであり、ある一定の制約のもとで自由であることを意味する。一方で無限な自由とは無差別なものであり、何らの制約も受けることなく好き放題に自由であることを意味する。この二つの自由の差異は、たとえば、目の前にいくつかの選択肢がある場合に顕著となる。有限な自由とは、選ぶ自由であり、同時にそれは他のものを選ばないという自由である。だからそこには責めが伴いうる。「なぜあのとき、私は他のものを選ばなかったのか」という責めが伴いうるのである。一方で無限な自由とは、どの選択肢も根こそぎ選びうるという自由であり、そこには他のものを選ばなかった責めなど存しないことになる。
 有限な自由は責めを伴いうるかぎり、それは自由の主体である私を唯一性、すなわち「かけがえのないもの」として目覚めさせうるものである。なぜなら、私に対し代えが効くのなら、私は何も責めを負う必要などないからである。その意味で責めとは、私が私から逃れられないことにもとづいている。この逃れられなさが唯一性を構成することになる。
 一方で無限な自由の主体は、このような唯一性に欠くかぎりで、まったく宙に浮いて孤立した、抽象の産物にすぎないことになる。つまり、無限な自由の主体である私は、代えの効くものであるということになる。このとき私を私たらしめる唯一の契機は、欲求であり、しかもそれは一般的な欲求である。無差別に選択しうる自由のもとで、欲求は無限に高まることになる。なぜなら、欲求が欠如にもとづくものであるかぎり、この無限な自由の主体である私には、代えが効くという意味で、全否定が適用可能であるので、全面的な欠如が私に属しうることになるからである。この全面的な欠如によって、欲求は他ならぬ自分自身を穿ち深めることになる。

 時間を「待つこと」として捉えるとき、その待っている間が、他ならない責めのための時間へと転じうる。言いかえれば、可能的なものが現実化するまでの間が、責めへと転じうるための時間として与えられる。もしも仮に、この「待つこと」を無視して時間を捉えれば、責めへと転じうるための時間があらかじめ排除されることになり、残るのはただ、無限な自由の主体、すなわち代えの効く抽象の産物としての主体による、無差別な根こそぎの選択のみであることになる。この根こそぎの選択は「今」の連続として現象することになる。すなわち何かを待ちわびる未来や悔いる過去が現象しないのである。それによって、未来や過去が本質的には現在と等質なものとなり、待ちわびることや悔いることとしての現象が単調な流れに還元され、挙句の果てに、そのような実存範疇は記述の対象にならないとまで主張されるに至ることになる。

 問題は時間が現象に付随するものにすぎないのか、あるいは時間とはあらゆる現象の根底に位置し、それを現象たらしめるものなのか、ということである。前者の、時間が現象にとって付随的なものにすぎない、という立場に立てば、「待つこと」という現象は、時間によらずとも、他の概念の助けを借りて、十分に記述することができるだろう。しかし、この「待つこと」を他ならない時間の範疇と捉えるならば、これを記述するには、単調な流れとしての時間、数直線上に還元しうる時間というイメージを破棄しなければならない。つまり等質な空間上に時間のイメージを布置するのではなく、私たちの生きた営みにおける歪な場に時間のイメージを布置し直さなければならないのである。
 自由にとって時間が問題であるのは、時間が自由を与える間だからである。言いかえれば、「時間がある」、つまり時間が残されていることにおいてはじめて、自由が主題として浮上してくるからである。さらに問題なのは、この自由の名のもとで、本来なら自由の前提にあるはずの時間が新たに、空間的なイメージに布置され直されるということである。時間の本質に「待つこと」があると主張することは、この時間を新たに空間的な、つまりは数直線上のイメージに抽象化し直す試みが、行き過ぎた抽象化ではないかと疑義を唱えることに等しい。この時間の平板化によって、たとえば希望といった躍動感のある現象までもが平板化されてしまい、人間的なものが経済的なものにまで還元されてしまうのではないか。というのも、人間的なものは希望にもとづいているからであり、逆に平板化された経済的なものは、ひたすら欲求にもとづいて自らの「領土」を拡張していくことに本旨があるからである。

4ヶ月前 No.785

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj

時間も空間も人間も「間」なんだよな。

間、つまりはスペースなんだよな。

スペースであるかぎり、何かとの間隔なんだよな。

その空隙を満たすものはいろいろあるけれど、

その実態は空隙なんだよな。

3ヶ月前 No.786

宿題 ★hxYn2UbX46_a2e

今日のニュースです・・

アインシュタインは、音波の波長が伸び縮みすることで通過する列車の音の高さが変化するように聞こえるのと同様に、

大きな重力によって光の波長が伸びる可能性があると予測していた。


今回の実験で・・これが正しいらしい・・

時間の伸び縮み?

3ヶ月前 No.787

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

「時間がある」とは、意識がある、ということであり、まだ消失すべき自己が残っている、ということではないだろうか。

このように考えると、ぼくの時間観では、時間は円を描いていることになる。時間は自己の消失への気づきへ向かって、様々な人生経験をつうじて流れ、ある地点で「得体のしれない何か」との和解、すなわち自己の消失へと至る。でもまた、その無になる瞬間から、迷いや願望が生じ、ふたたび人生が始まる……

今ぼくはこの固定観念に縛られています。

レヴィナス『全体性と無限』の一節にこうあります。

>知の最終的な意味は、<他者>の現前をまえにして自己を問いなおすことであり、自己以前へと回帰することなのである。

この一節が好きです。

10日前 No.788
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