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心は物理法則に従わない?

 ( 哲学掲示板 )
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SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

 物理法則は「局所的」であるのに対し、心理法則の方は「非局所的」だという本質的な違いが有ります。それなのに、《心・脳同一説》(心は脳の機能である)を正しいと仮定すると、深刻なパラドックスが生じ、自分が心を持つのかどうか、自分でも判断できなくなることが導かれます。なお、ここでいう「心」とは、「心を持つかのような機能・行動」ではなく、「主観的体験」「クオリア」を意味します。

    物理法則は「局所的」
 脳Bは物質であり、物理法則に従うと思われますが、物理法則を一言でいうと「局所的」です。物質は小さく分解していくと分子・原子・素粒子になり、これらの粒子が相互作用する時は、光速以下で移動し、距離0まで接近してぶつかったときに初めて影響を及ぼし合うことになります。ぶつからない粒子からは、何も影響を受けない訳です。ニュートンは重力を、距離が離れている2個の物体間で距離の2乗に反比例する遠隔作用だと理解していたようですが、相対性理論によるとそうではありません。重力は重力子という素粒子が、電磁気力は光子という素粒子が、やはり距離0まで接近して吸収・放出されることで初めて起きる近接作用だと見なされます。

    心理法則は「非局所的」
 一方、この脳Bに発生すると考えられている心Mが従う心理法則の方は「非局所的」です。脳Bは約10^27個くらいの素粒子B1、B2、B3、…、Bn(nは約10^27)で構成されていますが、それに随伴する心Mの方は、B1だけに随伴するM1、B2だけに随伴するM2、B3だけに随伴するM3、…、Bnだけに随伴するMnの独立した総和ではありません。いわばそれらM1、M2、M3、…、Mnが融合して複雑な1つの固まりのような心Mとなり、B全体に随伴する、という状態になっているようです。

    左脳B1と右脳B2とにまたがる心M
 「局所的」な物理法則と「非局所的」な心理法則。このギャップを突いたのが、「右脳不在のパラドックス」です。→ http://mb2.jp/_tetsugaku/843.html-5#a。自分の脳をB、左脳をB1、右脳をB2とします。B1とB2とが接続されたB=B1+B2という正常な状態において、自分の左腕に針を刺すと、自分の心MはB2で左腕の痛みを感じつつ、B1で「左腕が痛い」と言語表現できます。つまり、B=B1+B2全体に、心M=「右脳B2で左腕の痛みを感じつつ、左脳B1で「左腕が痛い」と言語表現している心」が随伴することになります。

    右脳不在のパラドックス
 ここで、奇妙な操作を考えます。B=B1+B2から右脳B2を切り捨て、それを人工的装置D1で置き換え、B1+D1という状態にします。もはやB2は存在しないのですが、B2が左腕の痛みを訴えていたときと全く同じニセ情報を、D1からB1に送り込んでやります。するとB1は、B2がD1に置き換えられていることなど知り得ず、「左腕が痛い」と言語表現してしまうことになります。これが「右脳不在のパラドックス」です。もはや自分の心Mは、左腕の痛みなど感じていないはずなのに、左脳B1が「局所的」な物理法則に従っていると考える限り、それに気付けず「左腕が痛い」と言語表現してしまうことになるのです。

    自分でMとM’の違いが判らない?
 しかもこのパラドックスは深刻です。B1+D1という特殊な状態ではなく、正常な脳B=B1+B2という状態で左腕に針を刺され、「左腕が痛い」と言語表現しているときでさえ、本当に自分の心は、M=「右脳B2で左腕の痛みを感じつつ、左脳B1で「左腕が痛い」と言語表現している心」なのかどうか、判らなくなるのです。もしかしたら、正常なB=B1+B2の場合でさえ、自分の心はM’=「左脳B1だけに随伴し、右脳B2で左腕の痛みなど感じていないのに、感じていると錯覚して「左腕が痛い」と言語表現している心」ではないのでしょうか? 「いや、自分の心はMであって、M’なんかじゃない。自分の心だもん、そのくらい確実に違いが判るよ」と主張したいところでしょう。しかし、こう言われる可能性が有ります。→「はい、残念でした。貴方は自分がB=B1+B2状態だと思い込んでおられるようですが、実は貴方が眠っておられる間にB1+D1に変えておきました。すでにB1+D1の状態なのだから、Mであるはずが無いのですよ。ほら。」…そして証拠を見せられ、愕然とするかもしれません。

    あらゆる主観的体験も錯覚?
 さらにこれは、左腕の痛みだけでなく、他の体験にも適用できます。「自分は今、テレビの映像が見えていると思い込んでいるけれども、本当は見えておらず、見えていると錯覚しているだけではないのか?」「自分は今、美味しいラーメンを食べていると思い込んでいるけれども、本当は食べておらず、食べていると錯覚しているだけではないのか?」…等々。こうして、自分の心が本当に存在しているのかどうか、自分でも判断できなくなってしまうのです。デカルトが主張していた「我思う、ゆえに我あり」さえ疑問が生じます。

    解決策は?
 問題は、どこに有るのでしょう? 心は錯覚であり、本当は存在しないのでしょうか? 心は霊魂の機能であり、「左腕が痛い」と言語表現するとき、霊魂が脳に物理的作用を及ぼしているため、脳は物理法則に従っていないのでしょうか? そもそも、物質世界の方が実在しておらず、心だけが唯一の実在であり、いわば自分が見ている夢の中で、特定の物理法則が成立しているかのように錯覚しているだけなのでしょうか?

メモ2019/10/05 20:31 : SumioBaba★A5wHmsjWwP_yoD

 SumioBabaがいう「心は物理法則に従わない」は、「心M(≠0)が発生している時の脳Bは、物理法則に従っていない」という意味であり、「心は物理法則で説明できない」という意味ではありませんので、誤解の無いよう注意して下さい。


 「心は物理法則で説明できない」だったら、今さら主張するまでもなく、とっくに周知となっている事実です。物理法則による因果関係を、「X(物理状態)→Y(物理状態)」のように書くと、「原因」Xも「結果」Yも、「心理状態」ではなく「物理状態」です。だから、脳Bのある「物理状態」を「原因」Xと見なし、それに物理法則を適用しても、「結果」Yとして導けるのは「物理状態」だけであり、なぜそこに「心理状態」(色・形、音、匂い、味、手触りなどの五感、喜怒哀楽の感情、時間感覚や空間感覚、…などの主観的体験・感覚質クオリア)が発生するのかを、物理法則は決して導けません。「物理状態」を「原因」Xとし、「心理状態」を「結果」Yとして導くためには、「X(物理状態)→Y(心理状態)」という形をした法則を新たに発見し、定式する必要が有ります。かつて大森荘蔵氏は、これを「キメラ法則」と呼びました。


 「心は物理法則で説明できない」だったら、誰もが受け入れると思われますが、これだけでは、「心も物理法則に従う」のか「心は物理法則に従わない」のか、どちらとも言えません。もし「心M(≠0)が発生している時の脳Bも、物理法則に従っている」であれば、「心も物理法則に従っている」になります。もし「心M(≠0)が発生している時の脳Bは、物理法則に従っていない」であれば、「心は物理法則に従っていない」になります。


以上(SumioBaba)

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ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

<情報とは何か>

「たとえばこんな思考実験」で、球Aに球Bは物理作用を及ぼすことはなかった。
では、球Aと球Bの間に何があったのか。

球Aには「認識能力」があった。たとえば視覚。
球Aが持つ視覚によって、球Bが接近してることを、認識した。
つまり、認識能力によって「情報」を獲得した、となるだろう。

それでは「情報とはいったい何だろう」と、ふんにゃは考えるのだった。テヘヘッ(*゚ー゚)>

1ヶ月前 No.30

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

「たとえばこんな思考実験2」

人類が滅亡して数百年後・・・
非常に科学の発達した宇宙人が、UFOで地球に調査にやってきた。
サンプルとして小さな紙片を回収する。
なにやら記号らしきものが印刷されていた。
宇宙人たちは紙片を徹底的に分析した。
物質的組成などは完璧に調べることができた。
しかし、記号の意味を解読することはできなかった。

そこには「広瀬すずは朝ドラ『なつぞら』の主演女優である」と書かれていたのだが・・・

どんなに進歩した科学であっても、意味を知ることはできなかった。


結論「情報の意味は、自然科学の対象ではない」

1ヶ月前 No.31

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

「情報の、物的側面と意味的側面」

情報とは何か、と考えてみると・・・

あらゆる情報には、物的側面と意味的側面がある、と判る。

「たとえばこんな思考実験2」の、小さな紙片、をみれば、
紙片の物質的組成は、情報の物的側面、である。
そこに書かれた「広瀬すず」は意味的側面である。

日常的な会話も情報交換だ。物理的には声は空気の振動。
会話の意味内容は、物理法則の対象ではない。

視覚は我々に映像情報を与えてくれる。
物理側面としては、光、であり、その映像の意味的側面は物理学の対象ではない。

あらゆる情報は、物的側面と意味的側面から成る。

1ヶ月前 No.32

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

認識能力とは情報獲得能力である。

人間の感覚は五感と呼ばれる。
「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」
視覚・聴覚は情報獲得能力である。

それでは、臭覚・味覚・触覚は情報獲得能力と言えるのか。


よーく考えてみると、脳は、匂いや味、触覚を直接感知できるわけではない。
神経の電気信号を経て脳に伝わる。
つまり、脳が感知するのは電気信号であり、匂いや味、触覚を直接に感知することはない。

そう考えると、すべての感覚は、結局は、神経の電気信号に変換される。
脳が直接的に感知できるのは電気信号である。

電気信号の電気は、情報の物的側面である。それは物理学の対象である。
電気信号の意味するところは、情報の意味的側面である。それは物理学の対象ではない。

ここでは、臭覚・味覚・触覚も情報の獲得、と考えよう。

1ヶ月前 No.33

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

主観がなければ情報は存在しない。

情報は物的側面と意味的側面から構成される。
物的側面は物理学の対象である。
意味的側面は物理学の対象ではない。

では、情報の意味的側面とは何なのか。

「たとえばこんな思考実験1」の紙片に書かれた「広瀬すず」は、物理的に調査しても解読できない。
解読するのは、主観、である。対してその紙片は客観的存在である。

主観だけが「広瀬すず」の意味を解読することができる。

情報は、物的側面と意味的側面から構成される。

言い換えれば、情報は客観と主観の間に存在するのである。

1ヶ月前 No.34

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

「主観内辞書」

主観が情報の意味的側面を解明できるのは、主観が主観内辞書を持っているからである。
主観内辞書に「広瀬すず」が載っているとき、紙片の「広瀬すず」の記述を理解することができる。


共通する主観内辞書を持つとき、コミュニケーションが成立する。
私の主観内辞書に「広瀬すず」があり「広瀬すず」と発言し、他者の主観内辞書にも「広瀬すず」があるとき、私の発言は理解される。

日本語の主観内辞書を持つもの同士であるならば、日本語のコミュニケーションが可能になる。

1ヶ月前 No.35

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

「主観は客観世界に直接触れることはできない」


主観は情報の物的側面に直接触れることはできない。

認識能力で脳が直接触れることができるのは、神経内の電気信号のみになる。

だから、客観世界に存在するもの、机だとかコーヒーだとか他人だとか彼女だとか、脳はそれらに直接触れることはできない。

脳が直接触れるのは電気信号である。

人間は客観世界に直接接触することはできない。

1ヶ月前 No.36

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

では、「こころ」とは何なのか。

仮説として、情報の意味的側面の集合体が「こころ」である、と考えられないか。
だとすると、「脳」は情報の物的側面の集合体となる。


仮説:脳は情報体であり、物的側面としては細胞の集合体であり、意味的側面の集合体としては「こころ」である。

1ヶ月前 No.37

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

脳は生命として生体活動があり、それが「こころ」の思考や感情・感覚などになる。

・・・、で、結局。

「こころ」は物理法則に従うのか従わないのか・・・

脳の物的側面としての生体活動により、意味的側面として「こころ」の動きがあるとすれば、「こころ」は物理法則に従う。
しかし、「こころ」が直接触れるのは神経の電気信号であり、その意味的側面であるとすれば、意味的側面の活動は物理法則に従わない。

・・・、よーな気がする。

うーん、わからん・・・w

1ヶ月前 No.38

ふんにゃ @sorairono ★bXqlVCKD2A_vZE

こころは物理法則に従うのか従わないのか。

結論は「わからん」で、・・・

結局、・・・、私の哲学的考察は挫折したヾ(≧▽≦)ノあははは!

1ヶ月前 No.39

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

存在はあらゆる自我が沈んで消えていく光の海です。心は自我より上位格です・・

自己存在としての存在は、永遠の今において相互に横たわる諸々の霊の相互的な反映です。

自我とは本来の私では無く性格を与えられた・・

親から命を与えられそこから受動→能動へと自己生成していきます・・

どんな霊性・心になるかはあなた次第・・

1ヶ月前 No.40

地下水 ★KATHFaYqOw_vZE

>>26 量子もつれや量子テレポーテーションの他にも、原理的に物理にはカオスもありますね。ニュートンはこの簡単な実例を隠してプリンキピアを書いたわけですが、ポアンカレが明らかにした様に、要素数の極小の二関節振り子や三体問題で既にカオスが発生し、結果が予測できず極小の外乱で結果が大きく変化します。人間の心の持つ選択の自由が、量子もつれやカオス軌道に由来するのであれば、物理法則の中にも選択の自由が内包されていたと言わねばなりません。

1ヶ月前 No.41

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

脳科学的に考えて、ショパンの幻想即興曲は演奏可能か?
右手を1音0.1秒、左手を1音0.133...秒間隔で鳴らすとして、リズムと音程を制御するためには、0.033...秒間隔で刻まなければならないが、脳にそんな仕事ができるのだろうか?(神経系の伝達速度から考えて、可能な速度なのだろうか? という疑問)

指が勝手に動いて演奏しているのではないのか。
(心は脳に偏在しているのか? という疑問)

1ヶ月前 No.42

すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw

>>0 から >>14 まで読んで。

心はどこにあるのか。もし脳にあるとしたら、「右脳不在のパラドックス」が起きてしまう。つまり、外界の事実とは独立に、脳の状態のみに依存して体験が生じてしまう。これを「プラネタリウムの原理」(脳への刺激が同一であればプラネタリウムの星と実際の星は識別されえないこと)にしたがって拡張していけば、『ある脳の物語』のように、ニューロンレベルまで分解して、各部分の状態を調整するだけで、実際と同じ体験を再現できてしまう。そう考えると、心はいったいどこにあるのか。物理法則から独立した「霊魂」のようなものを考えないといけないのか。はたして心は物理法則に従うのだろうか。

かなり複雑に書いてあるのと、自分の読解力が低いことから、理解が十分にできていないかもしれないけれど、とりあえずわかる範囲で問題を整理して要約してみました。

以上のことを踏まえて、ぼくは「心は物理法則に従うか」という問いに対し、「従わない」という回答を出したいと思います。もっとラディカルに主張すれば、「心」とは単なる「言葉の表現」でしかないから、「それがどこにあるのか」という問いはナンセンスだと思っています。

つまり、ぼくの主張は、「心とはいろいろなことを説明するのに役立つ装置である」というものです。

もっとラディカルに、科学的な見方が成り立つ以前の、意識に対する現れ方そのものを考える対象としてみたら、心の所在は問題ではなくなると思います。たとえば、「心は脳にある」という考えも、「じゃあ、実際に見せてよ」と言われると、困ってしまうと思います。要するに、心という装置をいろいろなことから独立してあるものと考えると、奇妙なパラドックスが生じてしまうと思われます。だから、心を独立させるのではなく、心に現れる対象と心そのものの働きとの間にある関係を紐解いていくほうが、奇妙なパラドックスに足止めされる必要がないので、考えを進めることができるのではないでしょうか。

要するに、「心」という「言葉の表現」に惑わされてはならない。もっとありのままの現実を見よう、というのがぼくの意見です。

1ヶ月前 No.43

すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw

>>43 に投稿した自分の意見のつづき

では、 >>43 に書いた「心に現れる対象と心そのものの働きとの間にある関係を紐解いていく」とは、具体的にどういうことを言うのか。もしも心を単なる説明装置でしかないと言い切るなら、他の概念もすべて、そうなんじゃないか。だとしたら、唯一あると言えるものは何なのか。

問題は、心という説明装置を、それが周りと結ぶ関係から切り離して、独立させてしまうことです。では、周りの関係を保ったまま心を考えるにはどうすればいいでしょうか。

それはきっと、関係そのものが成り立っている「場所」を問題とすればいいのではないでしょうか。

たとえば、心を独立して存在するものと考える場合、まず心は、体が感じたものを受け取って、そのイメージを、過去の経験や習慣にしたがって考えることで、「あ、これはペンだ」と知ることになります。でもそれだと、ペンのような客観的に存在するものと、心のような主観的に存在するものとの対立が生まれてしまい、どちらか一方に「より存在するもの」というステータスを与えて、残った片方をそっちに取り込むしか、対立を解消する方法がないことになってしまいます。しかしそれでも、奇妙なパラドックスが生まれてしまいます。

そこで逆に、心を独立させずに、それが周りと結ぶ関係を保ったまま考えると、どうなるでしょうか。

心を独立したものと考える場合、必ず、外側から何か受け取らないと、心は何も知ることができません。したがって「体が感じたもの」が必要になってきます。そしてそこから順に「イメージ」とか「考えること」という説明装置が必要になってきます。

でも、心を関係のなかで見たとき、私がいるのは書斎であり、椅子の上であり、机の前であり、広がっているノートの前であり、その傍らに転がっているペンであることになります。そして私は今、何か書こうと思って、ペンに目をやったことになります。もしこの所作を、心を使って説明しようと思うと、直観とか、表象とか、感覚とか、意志とか、欲求とか、そういった様々な言葉が必要になってきます。でも実際の所作は、シンプルに、「何か書こうと思ってペンを手に取ろうと目をやった」というだけです。この説明に、心のようなややこしいものは入ってきません。

そう考えると、あまりに素朴な考え方なので、全然、意味がない、と思われるかもしれません。しかし、ぼくは逆に、心のような得体の知れないものを「実際にあるもの」と考えて、その所在を追求することに比べたら、この素朴な考え方のほうが、余計なことに拘わずに済むので、よっぽど有益なんじゃないかな、と思います。

あるいは、「場所」という考え方は、単純に具体的にそのままを言い表しているだけで、考えを進めているわけではないのではないか。つまり全然、哲学をしていないのではないか。そう思われるかも知れません。

でもぼくは、単に素朴な見方を難しい哲学に対置して、「哲学はバカらしい」と言いたいのではありません。これまで主観的なものと客観的なものとの対立に陥りがちだった考え方を、その分かれ目となる根元から見直して、関係が結ばれているところの全体を保ったまま考えることで、対立そのものを解消しようというのが、ぼくの言おうとしていることです。

はじめにこのスレで立てられていた問題意識からズレていると感じられるかも知れませんが、それはぼくの意見が、「心は物理法則に従うか」という問いに対し、ラディカルなものだったからだと思います。いずれにせよ、このスレを見て思うことがあったので、投稿させていただきました。

ちなみに、「場所」についての、より立ち入った考えは、スレ違いとなりかねないので、別スレの「現前の研究( http://mb2.jp/_tetsugaku/1073.html )」に書きたいと思います。

失礼します。

1ヶ月前 No.44

モノポリー ★Smart=n0VFN7Wh5V

小学生レベルのモノポリーにも理解できるように問題設定を簡単にして考えてみたいと思います。

お猿のおもちゃがあります(シンバルを持ったやつ)。

スイッチを入れると電気が流れてモーターと繋がっている手が動きます。そうすると、手に持っているシンバルがぶつかって音が鳴ります。

世界はこれだけだとしましょう。

〈音が鳴っているということ〉を心があるということだと考えてみましょう。あるいは、私の嫌いな言葉で言えば「クオリア」がある状態だと。

この猿のおもちゃが物理法則に従っているのと同じように、音の方も物理法則に従っていると言えるでしょうか?

そう簡単にはいかないように思います。

※警告に同意して書きこまれました (マナー/リアクション)
1ヶ月前 No.45

マジカルモンキー ★P3D5Dv0xlZ_LFo

500%従わんだろうな。

1ヶ月前 No.46

モノポリー ★Smart=n0VFN7Wh5V

私の理科の知識が正しければ音は空気の振動であるから、この世界に空気があるのであれば、おもちゃの運動と発生する空気の振動との間にある種の法則性が、例えば物理的、数学的に何らかの関数として記述できるかもしれません。

では、真空の場合はどうか。

1ヶ月前 No.47

モノポリー ★Smart=n0VFN7Wh5V

2つの場合が考えられる。たまたま真空の場合。
この場合では、先程の関数記述が適応可能かもしれない。仮に空気があるとするならば。

もうひとつは空気の概念や存在そのものがない世界の場合。
この世界においては、〈音が鳴っている〉という可能性そのものがあり得ない。

1ヶ月前 No.48

モノポリー ★Smart=n0VFN7Wh5V

これが小学校低学年の問題設定。

では、上記のおもちゃの世界は〈私たちの現実世界〉に類比的だ言えるでしょうか?

全然違う!

そもそも、〈音が鳴っている〉か否かということは、ある種の意識とか認識能力を持った存在者によって認識されて初めて言及可能となるはずだ。

次に、小学校高学年の問題設定へ移行しよう。

つまり、おもちゃに自我を与えてやるわけだ。

でも、一体どうやって?

1ヶ月前 No.49

モノポリー ★Smart=n0VFN7Wh5V

その前に、先程の世界について。

心的なものを、物質的なものに対応させようとか、還元しようとする考えは、おそらく先のおもちゃの世界のような世界把握に似た方法によるアプローチなのでしょう。

行動主義とか、言語的還元主義がその典型かもしれませんが、私の見方では、そのような考えはあまりに素朴的だという印象があります。

もちろん、利点もありますが、そこで見過ごされてしまう点も多いのではないでしょうか。

1ヶ月前 No.50

モノポリー ★Smart=n0VFN7Wh5V

自我、というよりも端的に「私」と言った方がいいかもしれないが、当然それにまつわる困難が、すなわち私と他者の非対称性とも呼べる難点がおもちゃ問題にも関わってくる。

さて、おもちゃを2つにしよう。
ひとつは、永井均的な〈私〉がおもちゃであるとしよう。誤解を覚悟で言えば、モノポリーの〈魂〉が宿るおもちゃと言えよう。当然ながら、今後はこのおもちゃが観測者を兼任する。

もうひとつは他者としての「私」を持つおもちゃだ。当然、このおもちゃも「音が鳴っている」ことを知覚、あるいは認識できる。音を知覚、認識している時には、おでこにある「音」と書かれたランプが点灯するとしよう。

ついでに、〈私〉のおでこにも同じランプがあるとしよう。

1ヶ月前 No.51

モノポリー ★Smart=n0VFN7Wh5V

「私」の方のおもちゃを「M1号」と呼ぼう。

さて、〈私〉がM1号を観察する時、M1号の「何」が物理法則に従うか否かと問われているであろうか?

スイッチを入れる。
M1号が動いて、シンバルがぶつかる。
音が鳴っていることを知覚したので、M1号のランプが点灯する。

こう言った方がいいか。
M1号は先の低学年の問題設定のおもちゃと何が違うというのであろうか?

ランプの有無か?

しかし、〈私〉はランプが「心的過程」だなどと言うであろうか。

1ヶ月前 No.52

すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw

SumioBabaさん、こんにちは。

前々から疑問に思っていたのですが、SumioBabaさんにとって、「ある」ってのは、「ない」と同列なのでしょうか。つまり、コインの裏表の関係のように、「ある」をひっくり返したら「ない」に、「ない」をひっくり返したら「ある」になるだけなのでしょうか。言い方を変えれば、「ある」は「1」、「ない」は「0」というだけなのでしょうか?

1ヶ月前 No.53

マジカルモンキー ★P3D5Dv0xlZ_LFo

人間には無駄な事を100%真似できる能力がある。

なぜ、このような能力を身に着けたのか?

仮に人間が、宇宙の法則を目の前にして、どんな反応をするのか?

1ヶ月前 No.54

★E6vycvPYvN_pzR

SumioBaba さま

<B=B1+B2から右脳B2を切り捨て、それを人工的装置D1で置き換え、B1+D1という状態にします。>

どうして、<B=B1+B2から右脳B2を切り捨て>ちゃうの?
右脳B2を切りてちゃったケース見たことあります?その実例を示してもらえません?

フーコーによると、「ロボトミー」っていうの、実際に施していたことがあったみたいだけど。

1ヶ月前 No.55

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>53  すめんさんへ

>SumioBabaさん、こんにちは。


 こんにちは。久しぶりです。

>前々から疑問に思っていたのですが、SumioBabaさんにとって、「ある」ってのは、「ない」と同列なのでしょうか。


 「同列」とはどういう意味なのでしょうか。「同列である」と「同列でない」の違いが、今一つ解りません。

>つまり、コインの裏表の関係のように、「ある」をひっくり返したら「ない」に、「ない」をひっくり返したら「ある」になるだけなのでしょうか。


 時と場合に依るとは思いますが、「ある」と「ない」とが互いに相手の否定になる場合は多いですね。
 数学で未解決な《ゴールドバッハの予想》=「2より大きい全ての偶数は2つの素数の和として表せる」の場合、反例は「ある」か「ない」かのどちらかです。「ある」が証明できれば、「ある」が真で「ない」は偽に確定します。「ない」が証明できれば、「ない」が真で「ある」は偽に確定します。
 「神は存在するか、否か」のような問題だと、「ある」と答える《有神論者》と「ない」と答える《無神論者》の他に、「不可知」と答える《不可知論者》と呼ばれる人もいます。この場合、《有神論者》と《無神論者》とは同列で議論しているのに対し、《不可知論者》は議論する事自体を無意味だと拒絶しているのだとすれば、《不可知論者》だけは同列に立っていない、と見なすこともできるでしょうか。

>言い方を変えれば、「ある」は「1」、「ない」は「0」というだけなのでしょうか?


 二値論理ならばそうです。量子論理まで拡張すれば、a「0」+b「1」(aとbは様々な値を取る)ということで、三値以上の多値論理にもなり得ます。

1ヶ月前 No.56

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

「物」と「心」の「理」ね。それでいいかも。それししか思いつかないんだから。

1ヶ月前 No.57

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    BとMの不一致

 心・脳関係について、SumioBabaがこのスレッドで問題提起しているパラドックスは、「脳の健全性」(脳は物理法則に厳密に従っている)と「心の健全性」(心は自分の状態を正しく自己認識できる)とが両立しない、という点です。

    「脳の健全性」(脳は物理法則に厳密に従っている)
 脳Bの物理状態の時間発展が、現在正しいと思われている物理法則に忠実に従っている、とする考え方。
 Bの任意の一部をB1、残りの部分をB2とし(B=B1+B2)、B1をすっぽり包み込む微小厚さe(→0)の外部表面膜領域(無限小近傍)をBe、B2からBe部分を除いた領域をB2-Beで表す時、B1の物理状態の時間発展(時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定し、残りの部分B2-Beの物理状態には無関係、という内容を指す。
 B2-Beを、全く異なる物理状態B2’-Be(あるいは人工的装置D1-Be)で置き換えても、B1の「初期状態」(時刻t0)および、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つが全く同じなら、B1の物理状態の時間発展(時刻t0からt1まで)は同じものになる、という意味。e→0の極限で、B2-BeはB2になり、BeはB1とB2との境界面になる。
 「脳の物理状態の時間発展は、局所的物理法則に従う」と表現しても良い。

    「心の健全性」(心は自分の状態を正しく自己認識できる)
 「1つの心」Mの内部では、Mの視点に立つことで個々の部分M1、M2、M3、…の視点に同時に立つことができ、個々の部分M1、M2、M3、…がM全体の状態に影響を受けつつ、内部矛盾が無いかどうかを自己認識しながら、Mの心理状態が時間発展していく、という自分の心の無矛盾性を保証する性質。
 物質世界や自分の心の状態を正しく知覚・認識し、論理的に物事を考え、哲学や科学を議論するために、必然的に要求される仮定。自分が左腕の痛みを感じていれば「左腕が痛い」、感じていなければ「左腕は痛くない」と正しく言語表現できる、など。
 もし、M1の心理状態とM2の心理状態とが互いに影響を及ぼし合うことなく、M1とM2とが矛盾した状態にあることをM1やM2が認識できない場合、M1とM2とはもはや「1つの心」Mの部分ではなく、独立した2つの心であり、それゆえ互いに相手の存在も状態も知り得なくなっている、と見なすことになる。
 「心の心理状態の時間発展は、非局所的心理法則に従う」と表現しても良い。

 さらに、脳Bが従う物理法則と心Mが従う心理法則が、全く異なる事実を強調するために、[BとMの不一致]という表現を用います。

    [BとMの不一致]
 脳Bが現在の物理法則に厳密に従っているとすると、任意の一部B1の物理状態の時間発展(時刻t0からt1まで)が、B1の「初期状態」(時刻t0)および、B1がBe(無限小近傍)から受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定し、残りの部分B2-Beの物理状態には(それがB2-Beのままなのか、それとも人工的装置D1-Beに置き換えられているのか、といった違いには)依存しないはず。
 ところが、B1に随伴する心M1の状態は、この2つだけでは決定せず、残りの部分B2-Beの物理状態にも影響を受けており、その結果B全体に随伴する心Mは、B1だけに随伴するM1でもなければ、B2だけに随伴するM2でもなく、そのようなM1とM2の独立した和でもない状態になっている。(まるで脳B=B1+B2全体に「霊魂」が宿り、B1が持つ情報とB2が持つ情報とが「霊魂」の中で混ざり合い、編集された結果、B全体に随伴する心Mが発生しているように見える)。

 「脳の健全性」の方は、現代科学の常識に従い、[A]=「「非局所的相互作用」は存在しない」と[B]=「非物質的実体「霊魂」は存在しない」を正しいと仮定することから生じます。
 もし「脳の健全性」を支持するなら、脳Bをn個の部分B1-Bnが接合されていると解釈した時、個々のB1-Bnに随伴する心M1-Mnは独立していることになり、B1-Bnの2個以上にまたがる大きな心の固まりは発生できなくなります。B1-Bnを、個々のニューロン(nは約140億)、個々の分子・原子・素粒子(nは10の27乗くらい?)、にまで小さく取れば、個々のB1-Bnに随伴する心M1-Mnはどれも「無」でしょう。脳Bに随伴する心Mは、個々のニューロン、個々の分子・原子・素粒子に随伴する心M1-Mnにまで分裂し、消滅することになります。つまり、「心の健全性」が否定され、それは心Mの存在そのものを否定してしまいます。

 逆に「心の健全性」を支持するなら、脳Bの一部であるB1の物理状態の時間発展(時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけでは決定しない、と考えることが必要です。これは「脳の健全性」を否定することになり、[A]または[B]を否定することになります。[A]を否定するとは、「B1がB2-BeからBeを飛び越えて「非局所的相互作用」を受けている」と考えることです。[B]を否定するとは、「B=B1+B2全体に「霊魂」が宿っており、「霊魂」がB1やB2との間に物理的相互作用を及ぼし合っているため、心M(≠0)が発生しているときの脳Bは、物理法則に従っていない」と考えることです。

1ヶ月前 No.58

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    心の最大の謎は多数の事物の存在と関係を認識できること

 1枚の風景画が有るとします。この絵は、自分が風景画だと自己認識しているでしょうか? NOだと思われます。自分の状態を自己認識できる「心」など、絵には発生していないと思われます。

 その理由として、こう考えます。この絵をタテ1000×ヨコ1000くらいの画素に分けて考えるとき、どの画素も自分の色だけは自己認識できると仮定しても、自分以外の画素が何色なのかを認識できません。つまり、どの画素も、たかだか「自分は自分の色しか知らない」です。2個以上の画素の色を知る視点は有りません。この絵が風景画であることを知るためには、この絵の中の多数の画素の色を知り、それらの関係を認識する必要が有りますが、この絵のどの画素にも、そういう機能は有りません。従ってこの絵には、自分が風景画だと自己認識できる「心」など発生していないだろう、と推測できます。

 にも拘わらず、人間は、この絵を見て風景画だと認識できます。一体どうやったら、そんな事が可能なのでしょう? 科学者はこう答えるでしょう。「それは人間の脳が素晴らしい情報処理機能を持っているためだ」。しかし、これでは全く説明になっていないように思います。

 脳は、三次元空間内では、直径10cmくらいのほぼ球形をしており、時間の厚みとして1分間の機能を考えるのであれば、「直径10cmの球」×「1分間」という四次元時空内の広がりを持っています。これをV4と呼び、その中の異なる2個の点をP、Qとします。一般にPとQは、物理状態として異なる自由度を持っています。つまり、Pの物理状態を特定のPaであって他のPb、Pc、…ではない、と定めても、Qの方はQa、Qb、Qc、…と様々な可能性が有り、どれなのか確定しません。つまり、Pは自分の物理状態がPaであることだけは知り得ても、Qの物理状態がQa、Qb、Qc、…のどれなのかを知り得ません。逆に、Qは自分の物理状態がQbであることだけは知り得ても、Pの物理状態がPa、Pb、Pc、…のどれなのかを知り得ません。

 先ほど、1枚の風景画は、自分を風景画だと自己認識する「心」など持ち得ないだろう、と考えました。その理由は、「個々の画素が自分は自分の色しか知らないから」であり、「2個以上の画素の色を知り得る視点が存在しないから」でした。しかしそれは、脳のV4にも言えてしまいます。このV4は「風景画を見ているときの脳状態」なのか、それとも「美味しい食事をしているときの脳状態」なのか、V4自身は自己認識する「心」など持ち得ないはずです。なぜなら、「V4内部の個々の点P、Q、R、…はどれも、自分は自分の物理状態しか知らないから」であり、「2個以上の点の物理状態を同時に知り得る視点は存在しないから」です。

 「ホムンクルス無限後退のパラドックス」と呼ばれるものが有ります。ホムンクルスとは、脳の中に入るくらいの小人を意味します。自分が風景画を見ているとき、自分の脳B0の内部で、様々な点P0、Q0、R0、…の物理状態の関係性の中に、この風景画の情報が配置されます。しかし、これだけでは、風景画はまだ誰にも見えていません。点P0、Q0、R0、…のどれもが「自分は自分の物理状態しか知らない」であり、それらの関係性を認識できないからです。風景画を見るためには、脳B0の中に小さなホムンクルス@がいて、点P0、Q0、R0、…の関係性を認識する必要が有ります。ホムンクルス@が点P0、Q0、R0、…の関係性を知覚すると、ホムンクルス@の小さい脳B1の内部で、様々な点P1、Q1、R1、…の物理状態の関係性の中に、この風景画の情報が配置されます。しかし、これだけでは、風景画はまだ誰にも見えていません。風景画を見るためには、脳B1の中にもっと小さなホムンクルスAがいて、…という無限後退です。

 実際には、自分の脳Bには風景画を知覚・認識している自分の心M(≠0)が随伴しているのを実感します。これが、いかに不思議なことか。脳Bには「霊魂」が宿っていて、「霊魂」こそが脳Bの内部で、点P、Q、R、…の物理状態の関係性の中に配置された情報を読み取り、風景画のクオリアを実感しているかのようです。ではこの場合、「霊魂」にはどのような性質が要求されるでしょうか? 物質のような「粒子」の集合体ではダメだと思います。どの粒子も「自分は自分のことしか知らない」となり、全体の状態など知り得ないはずですから。「霊魂」とは、個々の部分が自ずと全体の状態を知るような何かなのでしょうか?

1ヶ月前 No.59

混沌 ★Android=CiZjwupSFo

例外のない法則はある

例外があるとする 例外のない法則はないはある 真

例外がない 真

よって例外のない法則はある。

仮想世界も例外ではないので例外のない法則に従っている。

例外のない法則がないという世界も例外のない法則はあるという法則に従っている。

例外のない法則は現実世界 仮想世界含めた根底の過去にある。

よって現実世界 仮想世界含め未来にある。

となれば同じ時間 違う空間に現実世界と仮想世界が存在する。

1ヶ月前 No.60

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    M1とM2の「独立」と「融合」

 2つの異なる心をM1、M2とします。両者を併せたものを、M=M1+M2と表現してみます。M1とM2とが「独立」していて、どちらも「自分は自分の存在と状態しか認識できない」という場合も有ります。(例えば、M1が自分の心、M2が友人の心である場合)。M1とM2とが「融合」していて「両者の視点に同時に立てる」という場合も有ります。(例えば、自分の脳Bを左脳B1と右脳B2とが脳梁で接続されたB=B1+B2という状態だと見なし、B1に随伴する心をM1、B2に随伴する心をM2とした場合。自分は自分の心M=M1+M2全体の視点に立つことができ、M1とM2の意識内容を両方同時に認識できる)。この「独立」と「融合」とは、一体何が異なるのか?

 「MによるMの認識」を量子力学を真似して、<M|M>のように表現してみます。M=M1+M2だと、こうなります。
   <M|M>=<M1+M2|M1+M2>
       =<M1|M1>+<M2|M2>+<M1|M2>+<M2|M1>   …※
各項の意味は次の通りです。
 <M|M> … MによるMの認識
 <M1|M1> … M1によるM1の認識
 <M2|M2> … M2によるM2の認識
 <M1|M2> … M1によるM2の認識
 <M2|M1> … M2によるM1の認識

 ここで問題となるのが、※の第3項と第4項であり、一般に「干渉項」と呼ばれるものです。量子力学では、干渉が有る場合と無い場合とが有ります。そして、「干渉が無い状態」こそが「独立」した状態であり、「干渉が有る場合」こそが「融合」した状態だと見なせます。

   【M1とM2とが「独立」した状態】
 干渉項が<M1|M2>=0、<M2|M1>=0であり、無視できる場合です。※は次の(1)になります。
   <M|M>=<M1|M1>+<M2|M2>   …(1)
《解釈》「MによるMの認識」は「M1によるM1の認識」と「M2によるM2の認識」の和に等しい。

   【M1とM2とが「融合」した状態】
 干渉項が<M1|M2>≠0、<M2|M1>≠0であり、無視できない場合です。※は次の(2)になります。
   <M|M>=<M1|M1>+<M2|M2> +<M1|M2>+ <M2|M1>   …(2)
《解釈》「MによるMの認識」は「M1によるM1の認識」と「M2によるM2の認識」の和ではなく、さらに「M1によるM2の認識」と「M2によるM1の認識」とを加えたものに等しい。

   【M1とM2の「独立」の具体例】
 M1を自分の心、M2を友人の心だとすると、この場合は(1)の方です。M1が認識できるのはM1の存在と状態だけであり、M2の存在も状態も認識できません。M2が認識できるのはM2の存在と状態だけであり、M1の存在も状態も認識できません。つまり、「M1によるM1の認識」と「M2によるM2の認識」だけが存在し、「M1によるM2の認識」と「M2によるM1の認識」は存在しない場合です。だから、M1とM2の意識内容は「独立」してしまい、両方の意識内容を同時に体験することはできません。
 逆に言うと、もし<M1|M2>や<M2|M1>が0でなければ、自分の心M1と友人の心M2とがテレパシーで「融合」してMとなり、Mの視点に立つことでM1とM2の意識内容を同時に認識できるかもしれない、ということです。

   【M1とM2の「融合」の具体例】
 自分の左脳B1に随伴する心をM1、右脳B2に随伴する心をM2とすると、この場合は(2)の方です。M=M1+M2全体の視点に立ち、M1とM2の意識内容を同時に認識できます。例えば、M=「左腕の痛みを感じつつ、「左腕が痛い」と言語表現している心」の場合、Mの視点に立つことで、M2=「左腕の痛みを感じている心」とM1=「「左腕が痛い」と言語表現している心」の両方を同時に体験しています。これは、M1とM2とが「独立」せず「融合」していることを意味します。つまり、M1はM1の存在と状態を認識できるだけでなく、M2の存在と状態をも認識しています。M2はM2の存在と状態を認識できるだけでなく、M1の存在と状態をも認識しています。だからM1とM2とは「融合」してMとなり、Mの視点に立つことでM1とM2の両方の意識内容を同時に体験できるのです。

1ヶ月前 No.61

空の光 ★0UltYc42Xq_m9i

心・・・

心は単独で存在できないのかも知れません。

人に宿ったからには。人の悲しさ、嬉しさによって体も影響を与える。

嬉しいときにはたいていのことを言われても笑って過ごします。

悲しいとき、不機嫌なとき、些細な事でも言われる。
そんな時は気分を害します。それは、表情、態度に表れる。。。かな。

人が人と一緒に居るためのシグナルなのかな。
これが心理法則なのでしょうか。


外から体に害をもたらす、それを痛みとしてとらえる。
そこから怒りの感情が、あるいは悲しみの感情がわき起こる。

それが物理に対する心の反応と考えられるかな。
体と通じあってる心だから、物理にも関係あるのかな。

1ヶ月前 No.62

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    左脳と右脳のジョセフソン接合?

 量子力学で「ジョセフソン接合」という面白い現象が有り、これが「分割脳」の現象と酷似しているように思われます。

 超伝導体Xを用い、N個の電子をボース・アインシュタイン凝縮させると、N個の電子すべてが超伝導体X全体に広がる同一の波動関数で表現される状態となります。(電子は「フェルミオン」なので、まず2個ずつペアにした「クーパー対」という状態にすると、「ボソン」として振る舞い、同一状態に多数の電子が入れるようになる)。この時、N個の電子は全部で1個の巨大粒子のように振る舞い、N個が互いに区別できない上、巨大粒子の存在位置も超伝導体X全体となり、位置を特定できません。さらにもう1個、超伝導体Yを用い、N個の電子をボース・アインシュタイン凝縮させると、やはりN個の電子は全く同じ巨大粒子状態になります。ただし、超伝導体Xに存在するN個の電子と、超伝導体Yに存在するN個の電子とは、はっきり区別できます。つまり2個の巨大粒子は、互いに区別可能です。

 次に超伝導体Xと超伝導体Yとを十分接近させると、面白い変化が生じます。今度は2N個の電子すべてが、超伝導体Z=(超伝導体X+超伝導体Y)全体に広がる同一の波動関数で表現される状態となり、2N個の電子から成る巨大粒子状態になります。この時、2N個の電子は互いに区別できない上、2N個の電子から成る巨大粒子の存在位置も超伝導体Z=(超伝導体X+超伝導体Y)全体となり、位置の特定はできません。電子N個から成る巨大粒子2個が融合し、電子2N個から成る巨大粒子1個になった訳です。

 以上が「分割脳」現象によく似ています。

 まず、左脳B1と右脳B2とが分割されている時です。B1に随伴する心M1は1つの固まりであり、かつ、B1全体に広がっていて、B1内部での視点の位置を特定できません。B2に随伴する心M2は1つの固まりであり、かつ、B2全体に広がっていて、B2内部での視点の位置を特定できません。しかし、M1とM2とは独立しており、どちらの視点に立っているのかは、はっきり区別可能です。つまり、M1とM2のどちらか一方の視点には立てても、両方の視点に同時には立てません。

 次に、左脳B1と右脳B2とが接合された、正常な脳B=B1+B2の状態になると、B全体に「1つの心」Mが発生します。B=B1+B2全体に随伴するMは1つの固まりであり、かつ、B=B1+B2全体に広がっていて、B=B1+B2内部での視点の位置を特定できません。つまりMは、M1とM2のどちらの視点に立っているのかという区別さえできず、両方の視点に同時に立っている状態です。M1とM2とが融合して「1つの心」Mになったのです。

 (とは言え、超伝導体は、特殊な物質を絶対零度に迫るくらい低温にするなど、かなり条件がそろわないと効率良く起こらない現象です。常温の脳にそのまま適用するのは難しく、あくまで例え話の域を超えないかもしれません。)

 量子力学以前の古典物理学では、1個の素粒子は広がりを持たない点粒子であり、距離ゼロまで接近して衝突して来た他の素粒子の影響だけを受ける、と考えれば十分でした。ところが量子力学が絡むと、話が面白くなります。脳Bを構成している全素粒子の数をn個とし、その中の1つをB1、他のn−1個をB2としてみます。
 量子力学では、素粒子B1はただの粒子ではなく、空間内に非局所的に広がる波動関数で表現されます。しかも波動関数の形は、周囲のポテンシャルの影響を受けます。素粒子B1の波動関数の形は、他のn−1個すなわちB2(B=B1+B2)の物理状態にモロに影響を受けます。つまり、「素粒子B1の波動関数の形の中に、脳B=B1+B2全体の物理状態についての情報が入っている。」「素粒子B1は、ある意味で、脳B全体の物理状態を知っているかのように振る舞う。」までは確かに言えるのです。

 しかし、1個の素粒子であるB1が、直接触れてもいない他の素粒子たちB2の影響を受けるとは、一体どういう事でしょうか? ここで、それを観察している第三者としての人間の存在が浮かび上がります。人間がB2の状態をB2aだと認識すれば、それを用いてB1の波動関数の形B1aを、シュレディンガー方程式で計算できます。人間がB2の状態をB2bだと認識すれば、それを用いてB1の波動関数の形B1bを、シュレディンガー方程式で計算できます。人間がB2の状態をB2aかB2bか観測せず、B2a+B2bという重ね合わせの状態のままであれば、B1もB1a+B1bという重ね合わせのままです。B2がB2a+B2b、B1もB1a+B1bという重ね合わせの状態にしておいて、人間がB2の方をB2aかB2bか識別する観察を行い、B2aだという結果が得られると、観測していないB1の方も、B1a+B1bという重ね合わせの状態からB1aという片方だけに、波動関数が収縮します。これが「量子もつれ(絡み合い・entanglement)」ですが、これを媒介しているのが、観察している人間の心だと理解できます。

 あるいは、多世界解釈がうまい説明を与えます。1個の素粒子B1は、位置を正確に観測すれば、広がりを持たない1個の点粒子になりますが、位置を観測せず、その波動関数が脳全体に広がっている状態というのは、脳内部の様々な位置r1、r2、r3、r4、r5、…にこの素粒子B1が存在している様々な世界W1、W2、W3、W4、W5、…を重ね合わせのままにしたW=W1+W2+W3+W4+W5+…だということです。この世界Wこそ、素粒子B1の波動関数が脳全体に広がっている世界であり、この状態では文字通り、素粒子B1は脳全体のあちこちに確率的に存在していて、他の素粒子たちB2の多くと距離0で相互作用する可能性を持っている訳です。言わばB1は、1個の素粒子でありながら、自分の分身を脳全体にばらまき、それらが他の素粒子たちB2の存在と状態を感じ取ることにより、世界Wにおける素粒子B1の波動関数という形で、「自分は脳B=B1+B2全体の状態を知っているよ」と振る舞っているかのように見える訳です。

18日前 No.63

混沌 ★Android=R1dkd2Ntco

Sb量子力学的には何者にも縛られない

何者にも縛られないにも縛られない

何者にも縛られないにも縛られないにも縛られない

この3つの形態を持つ これ等は0 1 0と1の重ね合わせに対応するのではないか?

14日前 No.64

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    現象報告のパラドックス

 「現象報告のパラドックス」と呼ばれるものが有ります。脳Bが既存の物理法則に忠実に従って機能しているとしましょう。脳Bの物理状態すなわち「客観的面」に物理法則を適用しても、「客観的面」としての脳Bの物理状態の時間発展が説明できるだけであり、そこに心M、すなわち「主観的面」が発生しているのかどうかが、何も導けません。それゆえ、「客観的面」すなわち脳Bの機能だけは正常な人間と全く同じでありながら、「主観的面」すなわち心M(クオリア)が何も随伴していない「哲学的ゾンビ」なるものを考えても、何一つ物理法則には反しません。

 しかし、「哲学的ゾンビ」というのは、何とも変な存在です。「客観的面」の機能は正常な人間と全く同じなのですから、「自分は心(クオリア)を持つ」「クオリアは不思議な存在だ」「なぜ脳にクオリアが発生するのだろう?」と現象報告し、クオリアについて他人と議論する「客観的面」の機能を持ちながら、それでいて本当は「主観的面」(クオリア)を持たないのが「哲学的ゾンビ」です。「哲学的ゾンビ」の脳は、「主観的面」(クオリア)を発生させる機能は持たないくせに、いかにも「主観的面」(クオリア)を持つかのように考え議論する機能は持つという、どう考えても矛盾した状況が生じます。
 脳が「主観的面」(クオリア)を発生させる必然性を持たないのであれば、脳は「主観的面」(クオリア)について現象報告する機能も持たないと思われます。「霊魂」のような脳以外の何かが存在し、脳に物理的作用を及ぼし、脳を操縦して「主観的面」(クオリア)の存在や状態を現象報告していることになるのではないでしょうか?

 さらに一体何のために、クオリアなどというものが脳に発生したのでしょう? 「正常な人間」(「客観的面」と「主観的面」とを併せ持つ)と「哲学的ゾンビ」(「客観的面」だけを持ち「主観的面」を持たない)とを比較しても、「客観的面」の方は全く同じ機能なのですから、生物としての生存競争において「主観的面」の存在は何の役にも立っていないことになります。進化論的に考えてもそんなものが発生するはずが無いし、むしろ退化して消滅するはずです。にも拘わらず、「正常な人間」には「主観的面」(クオリア)が発生しています。だとしたら、逆に「主観的面」(クオリア)の存在は、無いよりも有る方が生存競争に有利だから、と考えられます。ということは、人間は、「主観的面」(クオリア)を持たない「客観的面」だけの状態よりも、「客観的面」に「主観的面」(クオリア)が随伴している状態の方が、より賢く振る舞え、生存競争に有利だったことになります。これは、「主観的面」(クオリア)が「客観的面」の機能に物理的影響を及ぼしていることを意味し、心M(≠0)が発生している時の脳Bの物理状態の時間発展は、既存の物理法則に従っていないことを示唆します。

 【物理主義】という言葉がよく用いられるようです。それに反するものとして、【反物理主義】という言葉を用いましょう。

   【物理主義】
(1) クオリアという現象は、脳(物質)に「物理的な作用」を与えることはない(随伴現象説)。
(2) 脳の活動(物質的な動き)は、すべて既存の物理学の範囲で説明可能である。
   【反物理主義】
(1) クオリアという現象は、脳(物質)に「物理的な作用」を与えている。
(2) 大前提(1)を想定しないかぎり、脳内にクオリアの現象を報告するシステムがあることの合理的な説明ができない。(=そんなシステムが自然発生するわけがない)
(3) 脳の活動(物質的な動き)は、既存の物理学では説明不可能である。

14日前 No.65

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>65

SumioBabaさま、おはようございます
私には難しすぎて、的外れなこと言ったらすみません。

私は、3つに分けて考える例もあるかな〜、と、思いました。

1.未知のエネルギー、X。
2.脳。
3.意識。

未知のエネルギーX、が、身体物質(脳を含む)を道具として使って意識を生じさせてる。

身体も、意識も、Xにとっての道具である。
何のための道具か?

例えば、Xの存続のためのエネルギーを得るための道具とか。
そんなことを考えてみました。

ところで、SumioBabaさまは、オートポイエーシス論をご存知ですか?

『カントとオートポイエーシス』という山下和也先生の本を購入したのですが、私には難しすぎて、理解できてないことが大量にあります。(^^;;
SumioBabaさまは、いろんなことご存知そうだから、ご存知かな?と思ってお聞きしました。m(_ _)m

13日前 No.66

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>66

山下和也さんの論文がネット上にありました。
読んでみたい方へ、題名のご紹介いたします。
検索では、『カントとオートポイエーシス』でヒットするかと思います。

『システム論的自我論 ーカントとオートポイエーシスー』
『超越論的観念論再考 ーカントとオートポイエーシスー』

私は、、、これから読むことにチャレンジするかな?
印刷くらいはしておこうかなと思ってます(^^;;

13日前 No.67

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>66,67  pipitさんへ

 こんばんは。コメント有難うございます。

>ところで、SumioBabaさまは、オートポイエーシス論をご存知ですか?


 いいえ、知りませんでした。Wikipediaで引いてみましたが、難しい概念のようですね。「工場」で「自動車」を作る場合は、《作る側》の「工場」と《作られる側》の「自動車」とが全く別です。一方、生物の身体のようなシステムでは、身体そのものが《作る側》でもあれば《作られる側》でもあり、言わば「工場」が「自動車」を作り出すだけでなく、「工場」自身を成長させたり修復する機能を備えているようなものであり、そういうのを「オートポイエーシス」と呼んでいるのかな?と思いました。
 もし、「脳Bの「客観的面」としてのシステムに「オートポイエーシス」の概念を適用すると、自ずとそこに「主観的面」としての心Mが発生することになる」、と言えるようだったら面白いと思いますけど、どうなのでしょう?

13日前 No.68

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>68

SumioBabaさま、コメントありがとうございます

全然勉強できてないので間違えてたらごめんなさい。↓

自動車工場では、外部から部品を調達して、車を組み立てますよね。
それに対して、細胞は、その構造を維持し続けるように、細胞自身の構成要素となるものを、絶えず生成または分解してますよね。
比喩的に言えば、細胞は、自分が自分の構成要素を生み出し続けていて、そのシステムのことを、オートポイエーシス(自己産出)と言ってるのかと、今の所考えていて、
ここまでの考え方だと、SumioBabaさまの工場の後半の例があてはまるかと思うのですが、

また、さらに追加される概念がオートポイエーシス論にはあって、

システムにとっての自己、と、自己以外(環境)に分別し、
環境からの決定性のない影響関係が生じることを『撹乱』としてるようです。

つまり、環境からシステムはある意味閉じた領域にある、ということだと思います。

車工場の場合、車の構成要素は外部からそのまんま取り入れられてますよね。
自己産出はされてませんよね。
工場は環境から閉じられてはいない。

オートポイエーシスの場合、環境からの影響を受けてそれが引き金となってたとしても、構成要素は自己産出、システムとしては環境から閉じられた域を生成してる、ということかと今の所考えています。

それから、まだ、追加概念がありまして、、、
システム(作動や機能としての)として閉じられた域、を、システムの自己、とし、
それとは別に、構成素が作るシステムの構造(目に見える形)も、もう1つのシステムの自己として、オートポイエーシスには二重の自己があるとされてる研究者もいるようです。

※※※※※※※※

というような、
オートポイエーシス論から考えてみると(オートポイエーシスもSumioBabaさまの記述も誤解してたらすみません)、

心Mも脳Bも、自己というシステム、の、自己産出による構成要素、ということになるのかな??
と思いました。


または、脳Bを環境と考えれば、
心Mを生じさせてるシステムと互いに決定性のない影響を与えあっている、つまり、ある言い方で言えば、脳Bに撹乱されて心Mが閉域システム内で生じた、と言えるのかな??
と思いました。

勘違いしてたらすみませんm(_ _)m

(オートポイエーシス論自体もまだまだ定義付けがしっかりなされていない概念のようですね。)

11日前 No.69

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>69
脳Bと心Mのことを、考えてみました。

生きる、ということを、オートポイエーシス・システムとして捉えたらどうかなと思いました。

『私』の構成要素の産出の連鎖によって、『私』が『私』であり続けるシステム、が、生きるというオートポイエーシス・システムと捉えた時、
脳Bも心Mも、『私』というシステムの構成要素の連鎖の中に組み込まれると考えることが可能なのではないかと思いました。

構成要素は、次の構成要素へと繋がっていきます。
仏教概念で言えば、『依りて』という単語が当てはめることが可能かも、と、思いました。
十二因縁で『無明に依りて行が生じる』の『依りて』です。

脳Bに依りて心Mが生じる。
心Mに依りて心M2が生じる。
心M2に依りて脳B2が生じる。

心に依りて脳も生じる、も可能、
脳に依りて脳が生じる、も可能、
脳に依りて心が生じる、も可能、
心に依りて心が生じる、も可能、
しかも、その単位1つ1つがワンシステムの構成要素の産出連鎖内での、構成要素という考え方です。

顕在意識だけが心ではなく、顕在意識以外(例えば無意識)も心に含めるなら、
受動意識仮説のように、顕在意識を受動と考えることも可能ではないかと思いました。

生きる、というシステムが稼働する。
目的が、生きるというシステムの維持となる時、
システムの維持に有利になるとの判断(客観的に妥当か否かは別問題)から、ストーリー性まで持ち得る意識を生じさせたとしたら、
その意識に依りて、脳の変化はあり得る、と思いました。

私が今考えてることは、パソコンで考えたら、整理しやすいかなと思いました。

顕在意識(心M)はモニターの映像とします。
パソコンの内部でいろいろガチャガチャして、モニター画面を変化させます。
パソコンの内部が物理的な脳、そしてパソコンの前にいてパソコンを操作してるのが、心。

心M(顕在意識)はパソコン(脳・物質)の結果だけど、
心M(顕在意識)に対する心の反応で、次にパソコン(脳・物質)に影響を及ぼす。

私が今考えてることは、心と物質の二元論かな、と、思いました。

※パソコンのモニターだと結局は物質になるけど、私の今考えてることは、意識は、心の変容、という捉え方もできるかな、ということです。
そうなると、、、そう考える時は、物自体としての物質は直接知ることができない、となってしまうな

自分で今何を考えているのか整理するために書き込みました。
失礼いたしましたm(_ _)m

10日前 No.70

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>70

いや、違うな。

顕在意識としては、物自体としての物質は見れない、ということかな

もう少し、『カントとオートポイエーシス』という本を、理解しようと努めながら読んでみます。

10日前 No.71

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>71

心、が、腕(物質)を動かせる、とした時、
心、は、脳(物質)も動かせる?

でも、腕(物質)の可動範囲の規制はある、としたとき、
脳(物質)の働かせ方も規制はある?

10日前 No.72

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>72

心は、腕を、動かせない、なら、


何が、腕を、動かしている ?

10日前 No.73

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

「エイリアンハンド」っていうのもあるみたいよ。

10日前 No.74

pipit ★iPhone=OXdznfxiJz

>>74

悪魔ちゃんさん、教えてくれてありがとう

チックとかもありますもんね

話は単純にはいかないんだな、と、思わされました。

10日前 No.75

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

>75
pipitさん、ありがと。

10日前 No.76

地下水 ★KATHFaYqOw_KEr

心の現象は、脳の特に大脳新皮質の神経網の電気信号の中で起きているので、物理的な現象なのですが、一般に主体的な選択が起きているので、物理法則に従っていない様に見えます。

5日前 No.77

地下水 ★KATHFaYqOw_KEr

>>77  しかし条件分岐という一種の選択は、情報処理では根源的な基本動作ですので、心は情報処理に従っている、と言うのがより適当かなと思います。

5日前 No.78

空の光 ★1auucRGTx2_m9i

心がどういうものかを知る必要が・・・

心は人が生きてる間だけの存在。
死と共にこの世には存在しなくなる。

あの世という世界に旅立つと言う人もいる。。。
死と同時に体からの信号を受け付けなくなる。
つまり、心のままにだから自由なんだろうと思う。

生きてる間は自由ではない?
宿ってる体の特徴に左右されるかな?

4日前 No.79
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