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レヴィナス『全体性と無限』を読む

 ( 哲学掲示板 )
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すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX

Wikipedia「エマニュエル・レヴィナス」より抜粋。

>エマニュエル・レヴィナス(1906 - 1995)は、フランスの哲学者。独自の倫理学、エトムント・フッサールやマルティン・ハイデッガーの現象学に関する研究の他、タルムードの研究などでも知られる。

思想

>ハイデガーの暴力的な存在論を排し、非暴力的な存在論の構築を目指して『全体性と無限』を著す。

>レヴィナスは、第一哲学を倫理学としている。

>私が倫理的に他者に対して振る舞うかぎり、私は他者への了解を課題とする。そのかぎりで、私は他者に対して常に暴力的な関係を結ばざるを得ない。他者とは、絶対的に私とは同化されえないもの(存在者)、所有されえないものとしてある。したがって、私が他者を他者として了解するとき、そこには必ず私の了解しえないものが存している。つまり、他者が他者であることをやめることは、ただその死・他者が存在者であることをやめることによってのみ可能である。

>すなわち、他者の否定とは、殺人としてのみ可能となる。「他者は、私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである」。そして、私は他者を殺しうる。しかし、それは他者の顔と対面しないときにおいてのみ可能となる。殺人への誘惑、他者の否定への誘惑は同時に顔の誘惑でもある。存在の拓けのなかで出会われる「顔」を人は殺すことができない。そしてそのような対面は言葉・言説において可能となる。

他者論――全体性と他者

>「他者」とは、「自分とは異なる存在」である。単に「私」(自己)以外の人間が「他者」であるとは限らず、「私」によって支配も回収もされることのない、「絶対的に他なるもの」も「他者」である。『全体性と無限』という書名が示すように、レヴィナスの哲学では「他者は決して全体性に回収されることのない無限の存在」とされている。

>あるいは、「無限の責任を課す他者」こそが「他者」だと言う。「私」(自己)とは、「他者に対し無限の責任を負う」者であり、「私」と「他者」は非対称で不公平な関係にある。

他者論――成立過程

>ユダヤ人だったレヴィナスは、第二次世界大戦中ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺により、家族・親族・友人のほとんど全員を失っている。人間未満の扱いを受けたレヴィナスは、人間がどれほど無残に死んでも、「世界」が何事もなかったかのように続いていく事実を恐怖するようになった。レヴィナスが恐れたのは、明日自分が殺されるかもしれない事実、および、死と無関係に存在し続ける「世の中」だった。「世界」は、目的も意図もまったく理解不能なまま存在している恐ろしいものであり、そこにレヴィナスは絶対的な「他者」を見出した。

抜粋は以上。

 『全体性と無限』の主要なテーゼは「分離」に集約されるように思える。全体性に収まることのない他者を示すためにも、同は他と分離していなければならない。しかしその、同と他の対立が、論理的対立であってはならない。なぜなら、論理的対立であるかぎり、それは全体を俯瞰する視線に供されるからである。すなわち、同と他が共に全体性に回収されてしまい、そこに他者は現れないことになる。
 とすれば、他者を示すためには、「私」から出発して「他者」へと向かうことが必要である。しかもその際の「私」は、生まれて戸籍登録され、死んだら死亡届を出される、その間の記録ではなく、実際に生活を営む生きた心性として、描かれなければならない。このエゴイズムを生きる、あるいは無神論を生きる私を描くことによって、はじめて他者を示すことができるようになる。つまり、論理的対立に回収されることなく他者を示すためには、分離を具体的な相のもとで捉えなければならない。

 分離に関する以上の記述は、『全体性と無限』に通底している内容である。しかしこの書は、それに留まることなく、多様な内容を含んでいる。それを読解することに挑戦したい。
 なるべく、読んだことのない人でも参加できるように、難解な記述を敷衍するよう心がける。

メモ2019/06/30 21:13 : すめん @levinas★iPad-yobASV48iU

参加者:

・すめん

・ザビビのふくろう

・下手人

・Mobius


(今誰が参加しているか忘れないためにメモしておきました)

ページ: 1 2

 
 
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ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

私も細かい点ではよくわからないとこだらけなんだけど、
大枠というか図式的に捉えるとこんな感じなのはないかということです。

私の説明が納得いかないなら、スルーしとけばよいですよ。

4ヶ月前 No.82

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>81 ザビビのふくろうさん、

>〈他者〉自体の存在を、共存在あるいは存在一般の存在と〈同〉化することは、〈他者〉の他者性を排除捨象することである、ってことです。


「共存在あるいは存在一般の存在」と書いていますが、「共存在」と「存在一般の存在」では意味が違うのではないでしょうか?

私も同じことを単に繰り返して述べることしかできませんが、山竹伸二の心理学サイトの記述によると、「他者(つまり共存在者)への気遣いは道具的存在者への気遣い(配慮的気遣い)とは大きく異なる面がある」と書かれており、
ふくろうさんのいうような「〈他者〉の他者性を排除捨象するような〈同〉化の仕方」とは異なるようです。
大事なポイントを強調すると、「他者(つまり共存在者)は、“視線を持つ存在”として認識される」ということです。


山竹伸二の心理学サイトより (再掲)
―引用開始―
>共存在と世人

>ところで、他者への気遣いは道具的存在者への気遣い(配慮的気遣い)とは大きく異なる面がある。それは、他者の代わりに何かをしてあげたり、他者に手本を示すような気遣いである(顧慮的な気遣い)。ここで現存在は、他者(共現存在)と共にある社会的な存在(相互共存在)であるという意味で、「共存在」と呼ばれることになる。

>事物は人間によって対象化されるのだが、他者は対象化されるだけでなく、こちらを対象化するような存在である。他者の視線は私を気にさせたり、恥ずかしがらせたり、怯えさせたりすることもあるだろう。そのため、私たちは他者との違いを気にし、優越感や劣等感を抱いたり(懸隔性)、社会の世間的な価値観を無自覚に受け入れたり(平均性)、あるいは変わった人を排除してみんなと同じであろうと思いがちになる(均等化)。

4ヶ月前 No.83

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>83 承前
山竹伸二の心理学サイトより
―引用開始―

>事物は人間によって対象化されるのだが、他者は対象化されるだけでなく、こちらを対象化するような存在である。他者の視線は私を気にさせたり、恥ずかしがらせたり、怯えさせたりすることもあるだろう。そのため、私たちは他者との違いを気にし、優越感や劣等感を抱いたり(懸隔性)、社会の世間的な価値観を無自覚に受け入れたり(平均性)、あるいは変わった人を排除してみんなと同じであろうと思いがちになる(均等化)。

>そして、このような世間(他者)の評価に身を委ねるあり方は、自分自身で判断する責任から免れ、本来の自分固有の在り方を隠蔽することになるのだ。ハイデガーはこの状態を「頽落」と呼び、他者への非本来的気遣いによるあり方(世人のあり方)だと述べている。

―引用終了―

「他者(共存在者)は、“視線を持つ存在”として認識される」という部分(コンスタティブな部分)は、ハイデガーとレヴィナスで共有しているが、ハイデガーはそれを「頽落」「非本来的」と評価したの(パフォーマティブな部分)に対し、レヴィナスはそれを批判している ということか?

それなら理解できるが。

4ヶ月前 No.84

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>84 承前

それとも、ハイデガーは「共存在であっても道具存在と同様に〈同〉化可能」と言っているのだろうか?
「他者視線に対する遠慮」を「頽落」と表現する ということは、「頽落してなければ可能」と間接的に言っているということになる。

それに対してレヴィナスは、「〈他者〉には、一般存在に対する隔たり( >>78 でいうところの“隔たりA”)の他に、超えられない“隔たりB”があるので、一般存在のように〈同〉化することはできない」と言っているのだろうか?

だとすると「可能/不可能」というコンスタティブな次元で違っている ということになる。

そういうことか?

4ヶ月前 No.85

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

Mobius さん

う〜ん、全然伝わってないな(笑)

いやだから、細かい違いはあっても、存在論は存在一般の学だから、いずれにしてもその一般化によって〈他者〉の他者性が排除されてしまうってことなんですけどね。

〉それに対してレヴィナスは、「〈他者〉には、一般存在に対する隔たり( >>78 でいうところの“隔たりA”)の他に、超えられない“隔たりB”があるので、一般存在のように〈同〉化することはできない」と言っているのだろうか?

その隔たりB を生むのが〈他者〉の他者性ってことですよ。
〈他者〉の他者性は全体性に〈同〉化出来ないわけです。

4ヶ月前 No.86

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

熊野訳 下巻 表紙 より、
ー引用開始ー

>下巻では,他者の「顔」をめぐる著名な議論が展開され,「同」に対する「他」の優位,存在論に対する倫理学の優位が説かれる。

ー引用終了ー

とあるので、そっちを読んでみよう。

4ヶ月前 No.87

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>86 ザビビのふくろうさん、

>う〜ん、全然伝わってないな(笑)

>いやだから、細かい違いはあっても、存在論は存在一般の学だから、いずれにしてもその一般化によって〈他者〉の他者性が排除されてしまうってことなんですけどね。


「伝わっていない」というより、「理解不能」。
あえていうなら、「ザビビのふくろうさんがそういっている」というのは理解できるが、それだと「自分(Mobius)が理解している『共存在』の概念と矛盾する」ので、受け入れ困難、ということ。

おそらく「〈他者〉の他者性」が示す範囲の解釈違いの問題だろうと思うが。

4ヶ月前 No.88

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>88 承前

{存在論一般は、その作用(一般化)によって「〈他者〉の他者性」を排除する}のだとすると、
{存在論一般では「〈他者〉の他者性」を扱えない}ということか?

一方、形而上学はそれを扱える(?)ってことか?

4ヶ月前 No.89

ザビビのふくろう ★CZPpJSpIQU_TnX

>>88,89

>{存在論一般は、その作用(一般化)によって「〈他者〉の他者性」を排除する}のだとすると、

>{存在論一般では「〈他者〉の他者性」を扱えない}ということか?

>一方、形而上学はそれを扱える(?)ってことか?


少なくとも私はずっとそういうようなことを言ってるつもりなんだけど(「存在論一般」とは言ってませんが)。

ただ形而上学が「扱える」というより、存在一般の学である存在論の排除する〈他者〉の他者性(〈他者〉の他者性の排除=暴力)こそが倫理の根拠であり、それを問題にするのが形而上学だというのがレヴィナスの主張だと、私は理解しています。

まあ、とにかく先にいきますか?(笑)

4ヶ月前 No.90

ザビビのふくろう ★CZPpJSpIQU_TnX

【ふくろうの解釈メモ】

全体性と無限=独我論と他者

ま、私はこんなふうに解釈できると思って読んでいます。

4ヶ月前 No.91

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>90

> >{存在論一般は、その作用(一般化)によって「〈他者〉の他者性」を排除する}のだとすると、

> >{存在論一般では「〈他者〉の他者性」を扱えない}ということか?


>少なくとも私はずっとそういうようなことを言ってるつもりなんだけど(「存在論一般」とは言ってませんが)。


いや、あなたがそう言ってるのはわかるけど、「それは不合理だと思う」というのが私の意見なのです。

「共存在」という概念は、「他者性」を排除してしまったら成立しないと思うからです。
「他者性」を排除してしまったら、「他者の視線」も「単なる道具」になってしまい、「道具存在」との違いがなくなってしまうからです。

だから、
>>81
>〈他者〉自体の存在を、共存在あるいは存在一般の存在と〈同〉化することは、〈他者〉の他者性を排除捨象することである、ってことです。


>>86
>いやだから、細かい違いはあっても、存在論は存在一般の学だから、いずれにしてもその一般化によって〈他者〉の他者性が排除されてしまうってことなんですけどね。


が飲み込めないのです。

4ヶ月前 No.92

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>92 承前
「共存在」とは、自分と同様に 「世の中の事物に『道具性』を見出す能力を持った存在」である。この能力を仮に「視力」と呼ぶことにする。
「共存在ではない存在」を仮に「一般存在」と呼ぶとすると、「一般存在」には「視力」がない。

この「視力」の有無が「一般存在」と「共存在」とを分ける特徴である。

(「視力」の有無は、「視線」で判断する。)

4ヶ月前 No.93

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>93 承前

仮に自分の周囲の人間が「ゾンビ」だったとしたら、
私が 周囲の人間を「みなゾンビだ」とみなしていたら、
私は、その人間たちから「視線」を感じないだろう。

「視線を感じる」ということは、「相手は『ゾンビ』ではなく、『人間』だ」ということなのだろう。

4ヶ月前 No.94

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>94 承前

「他者」から「視力」を奪ったら、「ゾンビ」になる。
私は、ゾンビでない。
従って、「視力を奪われた他者(ゾンビ)」は「(私と)共存在」ではない。

「共存在」は「視力」を持つから「共存在」なのだ。

--- --------

私は世界に一人だけだ。

ということは「他者」も、それぞれ「世界に一人だけ」なのだろう。

もし、「他者」は「その他大勢」で、私だけが「一人」なのだとすると、「他者」と「私」は性質を異にするので「共存在ではない」ということになる。

「共存在だ」ということは、他者も「一人だけ」なのだ。一人ひとり特別な存在なのだ。

-------- ---

このように「共存在」の概念には「他者であることを特徴づける性質(他者性)」が含まれている。これらを排除すると「共存在性」がなくなる。

4ヶ月前 No.95

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>92  Mobiusさん
じゃあ、まあとにかく私の意図は伝わっているけど受け入れられない、というのがMobiusさんの意見なのであれば、私としてはこれ以上、私の解釈を押しつける気はありません。

そもそも参考になればってことで述べたことだし。納得できないものは仕方ないわけで。

なので >>93,94 については、わたし的には違うように思うんだけど、Mobiusさんの考え・問題意識として、今はコメントはやめておきます。

4ヶ月前 No.96

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>96 ザビビのふくろうさん、

>なので >>93,94 については、わたし的には違うように思うんだけど、


「どう違うのか聞きたい」と頼めば、教えていただけますか?

(違う理由がわからず、モヤッとしますので。)

4ヶ月前 No.97

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>97 承前

まずひとつ考えられるのは、「『共存在』とは そういう意味(Mobiusが言ったような意味)ではない」というもの。

「共存在」とは「他者」を説明するものではなく、「現存在」を説明するもの
と考えるなら、「共存在性」の中には「他性」を含まないことになる。あえていうなら、「共存在性」とは「者性」である。(「他者性」から「他」を抜いた造語)

4ヶ月前 No.98

ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ

Mobiusさん

じゃあ、簡単に。

私からするとMobiusさんの言っているのは、要するに、

他者が共存在であるとは、私と同じ共同主観であるということだ

ということのように思うんですね。

だとしたら、これは他者を全体性に〈同〉化する捉え方だと私には思われるということです。

まあ、これが私の誤解なら気にしないで(笑)

4ヶ月前 No.99

下手人 ★FullBrowser=LBWhCyDg6c

>>70 続き

第一部A二「全体性の破産」,(合田訳,pp34-42)
p40,4行目

「絶対的<他>、それが<他者>である。<他者>は私と数的関係を持たない。」

自我の外にある他者は、「私と君とで二人」の様に数えられるものではない。
そもそも自同者たる私の認識は<他>なくしてそれ自身を自覚出来ない。
章題にある全体性とは自同者の持つ認識とも言えるだろうか。

p41,7行目
「もともと存在の論理的規定としてあった<同>と<他>がたまたま形成された自我のおかげで、はじめて思考内に反映されるのではない。存在内に他性が生起するためにこそ、「思考」が必要であり<自我>が必要なのだ。」

自我はもともと自分の中にあるものではなく、認識する力、即ち自同性と、それを圧倒する<他>とが出会うことによって、その他性を意識の対象として捉えるために初めて発生するものである・・・うーん、しっかりと説明出来てないですかね。

p41,12行目
「『思考』、『内面性』は存在の裂け目そのものであり、超越の生起(超越の反映ではない)なのだ。」

ここでの存在は、認識する力、あるいは全体性と言い換えることもできるでしょうか。

p42,5行目
「思考の操作が全体性を破産させるのではない。 (中略) 思考は全体化と俯瞰を不可避的本性としている。それにも関わらず、全体性を破産させる空虚がこのような思考に対して維持されるためには、範疇に組み込まれることなき<他>の面前に思考が定位される他ない。」
この章の肝ですね。
認識の裂け目である思考が、捉えることの出来ない<他>に釘付けにされる時にだけ、全体性は破産する。

続き
「思考はこの<他>を対象と見なしたうえで、対象としての<他>と共に全体を構成するのではない。思考は発語することをその本性としている。」

そのままですね。


第一部A三「超越は否定性にあらず」,(合田訳,pp43-45)
引用無しで概要だけ

否定することにより<同>を超越することはできない。
否定は<同>の中で行われていることであり形而上学とは一致しない。

形而上学的関係は<他>と会った時の思考、自我の発生と同時であり、否定肯定する以前に先行している。

そんな感じでしょうか。

4ヶ月前 No.100

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

>>100 下手人さん

>第一部A二「全体性の破産」,(合田訳,pp34-42)

>p40,4行目

>「絶対的<他>、それが<他者>である。<他者>は私と数的関係を持たない。」


熊野訳では、以下のようになっています。
「絶対的に〈他なるもの〉とは〈他者〉である。〈他者〉は〈私〉に加算されることがない。」(熊野訳 上 p.52)

原文は以下。
「L'absolument Autre, c'est Autrui. Il ne fait pas nombre avec moi.」

英語訳(Google翻訳をちょっと変更)は以下。
「The absolutely Other is Other. It does not number with me.」

だからどう、ということはないのですが...

3ヶ月前 No.101

嫌われ霊夢と嫌われ魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

他者論――成立過程

>ユダヤ人だったレヴィナスは、第二次世界大戦中ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺により、家族・親族・友人のほとんど全員を失っている。人間未満の扱いを受けたレヴィナスは、人間がどれほど無残に死んでも、「世界」が何事もなかったかのように続いていく事実を恐怖するようになった。レヴィナスが恐れたのは、明日自分が殺されるかもしれない事実、および、死と無関係に存在し続ける「世の中」だった。「世界」は、目的も意図もまったく理解不能なまま存在している恐ろしいものであり、そこにレヴィナスは絶対的な「他者」を見出した。


私はこれがレヴィナスに与えた影響が一番大きいと思いますが・・・・

3ヶ月前 No.102

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

みなさん、また難読箇所のヘルプをお願いします。

熊野訳 上 pp.85-86

>「分離は、具体的な道徳的経験の名のもとでも省察を強いるものである。たとえば、私が私自身に要求することのできるものは、私が〈他者〉に対して正当に要求できることとはくらべようもない、といった経験である。こうした道徳的経験はありふれたものでありながら、」


合田訳 p.65
>「〈自我〉の分離は具体的な道徳の体験として省察に課せられる。具体的な道徳の体験とはつまり、私が自分自身に対して要求しうるものは、私が〈他者〉に対して正当に要求しうるものとは比べようもないほど大きいということである。実にありきたりな体験ではあるが、」


原文
>「Elle s'impose a la meditation au nom d'une experience morale concrete ce que je me permets d'exiger de moi-meme, ne se compare pas a ce que je suis en droit d'exiger d'Autrui. Cette experience morale, si banale,」


英訳(Google翻訳に加筆)
>「It imposes itself on meditation in the name of a concrete moral experience, which I allow myself to demand of myself, not to compare myself with what I am entitled to require of Others. This moral experience, so banal,」


ここでいう「具体的な道徳的経験」「具体的な道徳の体験」「experience morale concrete (concrete moral experience)」って、具体的にどんなものでしょうか?

説明では、「私が私自身に要求することのできるものは、私が〈他者〉に対して正当に要求できることとはくらべようもない、といった経験」「私が自分自身に対して要求しうるものは、私が〈他者〉に対して正当に要求しうるものとは比べようもないほど大きいということ」「ce que je me permets d'exiger de moi-meme, ne se compare pas a ce que je suis en droit d'exiger d'Autrui (which I allow myself to demand of myself, not to compare myself with what I am entitled to require of Others)」と書いてあるのだけど、それが具体的にどんな経験なのかがわかりません。
みなさんにそういう経験があったら、教えて下さい。

「こうした道徳的経験はありふれたもの」「実にありきたりな体験」「Cette experience morale, si banale (This moral experience, so banal)」と書かれているので、ありふれた、ありきたりな経験なのだと思うのですが、自分には心当たりがありません。
(言われれば「な〜んだ そうか」って思うかもしれませんけど。)

3ヶ月前 No.103

宿題 ★eM1n2yJmTo_n3h

>>103

お店で万引きする人や買いたいものをねだっている人がいますが・・

私はお店に欲しいものが何もない。何も欲しくないと内面にまで思いを制御しています・・

3ヶ月前 No.104

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

>>104 宿題さん、わかりやすい説明、ありがとうございました。

3ヶ月前 No.105

宿題 ★eM1n2yJmTo_n3h

ついでにもうひとつ・・

抜け目のない人は有給めいいっぱい使って旅行・・一度辞めて又勤めて失業保険を何回も貰うずるさがあります。

私は個人事業の時はもちろん・・父親の所でも有給は無し・・最期は無給のボランティア(次の経営者にマイナンバーを知らせないため)

そして失業保険も貰わず・・ハローワークにも行かなかったです・・

3ヶ月前 No.106

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

第一部B二「真理」(熊野訳 上 pp.102-111)

「〈無限なもの〉の観念」は、「〈同〉と〈他〉のあいだの関係」を示している。

「分離された存在の無神論的な自存性」は、「〈同〉と〈他〉のあいだの関係」を可能にする。

「無神論的な分離」は、「〈無限なもの〉の観念」によって要請される。

「〈無限なもの〉の観念」は、「分離された存在」を弁証法的に生じさせるわけではない。

「〈無限なもの〉の観念」によって「分離」が無化されることはない。

「分離」は「超越」によってあかされている。

「〈同〉と〈他〉のあいだの関係」を可能にするのは、「真理の探究(という危ういこころみ)」を冒すことによってだけである。



「分離された存在の無神論的な自存性」が「真理の探究(という危ういこころみ)」をさせる。(?)

(ただの読書メモです。)

3ヶ月前 No.107

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>107 承前
ちなみに 私は、「分離された存在」とは、永井均のいうような「私」、独我論の「我」のようなものをイメージしています。

3ヶ月前 No.108

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

(#今回も単なる読書メモです。)

第一部A五「〈無限なもの〉の観念としての超越」(熊野訳 上 pp.73-84)

第一部B二「真理」を読み進めるうちに「〈無限なもの〉の観念」の意味がよくわからなくなってきたので、一旦戻ります。

「デカルトにおける第一の明証性」は「両義的」である。
なぜならば、それは、
「〈私〉と神とを混同することなく、」
「両者(〈私〉と神と)がたがいに基礎づけあう明証の、ことなったふたつのモメントであることをひとつずつあきらかにするからだ。」

「デカルトにおける第一の明証性」は「ことなったふたつのモメントであることをひとつずつあきらかにするものだから」「両義的」である。

訳註66:「デカルトによれば、「真なる観念」のうち「第一の、かつ主要なものは神の観念」であり、私が感覚に惑わされていなかったなら私は第一に「神」を認識したはずである(第一のモメント(?))。「いっさいの知識について、それが確実であり真理であることはもっぱら真なる神の認識に依存している(第二のモメント(?))」」

3ヶ月前 No.109

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

(読書メモ)
「無限なものについての観念」とは?

熊野訳 上 p.75

>「デカルトによれば、「私は考える」は、どのようにしてもそれが内包することができず、じぶんがそこから分離されている〈無限なもの〉と、関係をとりむすぶ。その関係が「無限なものについての観念」と呼ばれるのである。(68)」


熊野訳 上 p.401 訳註68
>「デカルトによれば、「神」とは「無限で独立の、全知全能な」、「私自身」を含むすべてを創造した「実体」であり、「無限なものの本質」には「有限な私」によっては把握されないということがぞくしている。こうして、「私が存在する」こと、無限なものとしての神についての「一定の観念が私のうちにあること」から神の存在が論証されることになる。(『省察』三)。」


例えば、「『有限な私によっては把握されえないもの(無限なもの)』のような観念が私のうちにある」として、その「『私』と『無限なもの』の関係」が、「〈同〉と〈他〉のあいだの関係」ということか?

3ヶ月前 No.110

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

(読書メモ)

(Wikipediaより)
主知主義(しゅちしゅぎ、英: intellectualism)とは、人間の精神(魂)を「知性・理性(理知)」「意志・気概」「感情・欲望」に三分割する見方[1]の中で、知性・理性の働きを(意志や感情よりも)重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場のこと。

融即律(ゆうそくりつ、principe de participation, loi de participation)とは、別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理をいい、フランスの哲学者レヴィ=ブリュル(Lucien Levy-Bruhl)がその著書『未開社会の思惟』において、未開民族の心性が文明人と本質的に異なることを示すために導入した概念である。神秘的融即(participation mystique)とも呼ぶ。日本語で「融即」はparticipationの山田吉彦による訳語だが、この語には参加や出席という意味があり、推論抜きに2つのものが同一のカテゴリーの中に入る、直結するというニュアンスを含ませている。また哲学では、プラトンのイデア論の用語で「分有」と訳されるものに相当したために「分有の法則」と言われることもある。

3ヶ月前 No.111

★CFXKt7ug6y_Zos

おじゃまします。ちょっと物語りが浮かんだので。


あの時あの場所で
超越な他者はイリアな人に呼びかけていた。

あなたがこれからガス室におくろうとしている人たちの〈顔〉を見なさい。
わたしは、死の恐怖におびえているこの人たちの顔にあらわれ
あなたに呼びかけているのです。汝殺すなかれ、と。

でもイリアな人は、その〈顔〉は見えなくなってしまっていた。
自己を中心に全体化した存在に固執してイリアを生み出していた人たちは
他者の呼びかけに耳をふさいでしまっていた。


「倫」というのは〈まなかま〉という意味みたい。

3ヶ月前 No.112

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>112
質問:
・「イリア」もしくは「イリアな人」とは?
・「まなかま」とは?

3ヶ月前 No.113

★fAwJzCWc0h_Zos

>113
・あれ、レヴィナスさん、「イリア」っていう概念、使ってないの?もし使ってなかったとしたらわたしの勘違いでごめんなさい。
・「なかま」とは、じゃなくて、なかまとして見るかどうかじゃない?「倫理学」っていうから。

3ヶ月前 No.114

ザビビのふくろう ★CZPpJSpIQU_n3h

「まなかま」は単なるミスで、「なかま」が正しいんでしょう。

「イリアな人」っていう表現は、適切じゃないと思うが、

>>112 が全体として言わんとすることは、悪くない、と思うな。

3ヶ月前 No.115

★fAwJzCWc0h_Zos

ふくろうさま
ありがとうございます。

3ヶ月前 No.116

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

読書会参加者の皆さん
暑中お見舞い申し上げます。

私、故あって投稿制限をしばらく受けておりました(^o^;)

どうも、解除されたみたいなので、またボチボチ投稿します。

制限を受けている間に、合田訳本を手に入れたのですが、私にはこちらのほうが分かりやすいです。
これからは両方を参考にしながら読み進めるつもりです。

私にとっての目下の敵は、読み始めたとたんに遅い来る睡魔と、夏バテです(笑)

少しずつでも頑張りたいと思います。

3ヶ月前 No.117

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>114,115
すみません、「イリア」ってなんですか? 教えて下さい。

3ヶ月前 No.118

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>118

「il y a」は、「ある」のことで、

言ってみれば、レヴィナス流の「ある」です。

これはレヴィナスと言えば「イリヤの夜」が出てくるというぐらいのキー概念だと思いますが、
理解ははっきり言ってむずかしい。

だから、責任をもって答えるのは、私には無理。いや、責任問われなくても無理(笑)

解説書の類なら必ず出てきますし、「ある」という論文が『レヴィナス・コレクション』にありますので、それらに自分で当たったほうがいいかも。

3ヶ月前 No.119

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>117,119 ザビビのふくろうさん、お帰りなさい。

「イリア」はフランス語の「il y a」だったんですね。教えていただき、ありがとうございます。

3ヶ月前 No.120

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

(読書メモ)
イリヤの他者― レヴィナス的倫理の出発点 宗教学研究室紀要 vol. 10, 2013 根無一行 より

>まず、『実存から実存者へ』で提示される「イリヤ」について簡単に見ておきたい。レヴィナスは以下のように述べている。

> >事物であれ人であれ、あらゆる存在が無に帰したと想像してみよう。無へのこの回帰をあらゆる出来事の外部へと置くことはできない。ではこの無自身はどうだろうか。夜や夜の沈黙であるとしても、何かが生起している。この「何かが生起している」の不確かさは主語(sujet)の不確かさではないし、実詞を指示してもいない。この不確かさが示しているのは、動詞の非人称形における第三人称代名詞のようなものであり、それは、行為しているのが誰なのかよく知られていないということではなく、いわば行為者のいない行為、匿名であるこの行為そのものの特徴である。存在の非人称的で匿名な、しかし消すことのできないこの「焼尽(consumation)」、無自身の奥底でざわざわするこの「焼尽」、これを我々はイリヤという語で書きとめる。(EE93-94)

(引用終わり)

3ヶ月前 No.121

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

(読書メモ)
投企:

>マルティン・ハイデッガーによって提唱された哲学の概念。被投という形で生を受けた人間は、常に自己の可能性に向かって存在している。これが投企である。人間というもののあり方というのは、自分の存在を発見、創造するということである。そのために、我々は現在から未来に向かって進むということであり、そのために自分自身を未来に投げかけていくということが投企というわけである。(Wikipediaより)

3ヶ月前 No.122

空の光 ★ACLOxX4HYZ_m9i

全体性と無限・・・

全体を見ようとする場合。全体が無限だったりどうなるか。
無限の中には自分も入っているのだろうか?

自分の目で自分を見る。自分の心で自分を感じる
それが全体の一部でなく,全体を見る事にもなるのかも?

全体が無限、自分も他者も無限。個々を含む全体が無限。
それなら、個々も無限。つまり自分でありながら他者なのだろうか。

自分と他者が区分されるなら。全体性は無限ではないと言う事・・・

3ヶ月前 No.123

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

>>27-30
熊野訳 上 第一部A一 p.38

>「「ほんとうの生活が欠けている」。それなのに私たちは世界内に存在している。」

>「≪La vraie vie est absente.≫ Mais nous sommes au monde.」

(→ 「「ほんとうの生活が欠けている」。しかし、私たちは、(ハイデッガーのいうところの)“世界内存在”である。」)

ランボーの原文は、
>「La vraie vie est absente. Nous ne sommes pas au monde.」(ほんとうの生活が欠けている。私たちは世界の内にいません。」


つまり、“洒落”なんだけど、

ここでランボーのいう「欠け」は、レヴィナスにいわせると「満たしうる欠乏」のような気がする。だから、まぁ ここは深く考えずに“洒落”ということで流して次に行った方がいいような気がする。
(もっと深い意味があるのかもしれないけど。)

3ヶ月前 No.124

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

>>124

>ここでランボーのいう「欠け」は、レヴィナスにいわせると「満たしうる欠乏」のような気がする。


いや、やっぱり違うか?
ただこの(ランボーの詩中の)女性を満たすものは、他の男性でも代替可能なものだから、「満たしうる欠乏」なのだろう。
しかし、その男性を他の男性と取り換えないのであれば、満たされない状態が続くので、そういう意味では「満たされない欠乏」なのだろう。

3ヶ月前 No.125

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

(読書メモ)
現在の進捗:
先頭:第一部B三「語り」の途中(p.120)まで。
よくわからなくなってきたので、最初に戻って、第一部A三「超越は否定的なものではない」を読んでいる最中。

3ヶ月前 No.126

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

第一部A3「超越は否定性にあらず」(合田訳 p.45)

>「形而上学的関係は否定的関係にも肯定的関係にも“先行”しており、この関係によってはじめて、諾と否を最初の言葉とすることなき言語が創設されるのだ。このような関係を記述すること、それが本論の主題にほかならない。」(ダブルクォーテーションは、私が付けた。)


ここでの“先行”の使い方が「4 形而上学は存在論に“先行”する」の“先行”の使い方と構図が似ていると考えると、私が抱いていた疑問が解消するかもしれない。

3ヶ月前 No.127

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

(読書メモ)
現在の進捗:
先頭:第一部B三「語り」の途中(p.121)
14日前から全然進んでいない。そろそろ再開せねば...

デュルケーム「宗教生活の原初形態」「社会学的方法の規準」
ガブリエル・マルセル「形而上学日記」
マルティン・ブーバー「我と汝(私ときみ)」
フォイエルバッハ「将来の哲学の根本命題」
プラトン「パイドロス」

(熊野訳 上 p.124)

>「表出とは、現勢的なものをこのように現勢化することである。」

>「L'expression est cette actualisation de l'actuel.」


「現勢的」「現勢化」という言葉をあまり使わないので、意味がよくわからない。「現実化」に近い意味かな?

p.125
「統御(maitrise)」(Domination incontestee. 議論の余地のない支配)

ヘーゲル「精神現象学」

-- 一旦、ここまで --

2ヶ月前 No.128

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

(読書メモ)
現在の進捗:
熊野訳 上 第一部B5 語りと倫理 p.142 まで読了。

キーワード:裸形、外傷、カタウト(καθ’αυτο)、貨幣、ヌーメン、ヌミノーゼ、ヌーメノン

(一旦休憩)

2ヶ月前 No.129

宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE

存在とは満たされないものなのです・・

常に捕食して生きていかねばならないように・・

思惟は神や超越者という満たされた存在に飛躍したがるものです・・

1ヶ月前 No.130

悪魔ちゃん ★E6vycvPYvN_pzR

レヴィナスの抜粋の中で、
「他者」「私」「殺人」という語で、レヴィナスさんがこの語で言い表しそうとしている意味がどんなのかしらねン。

1ヶ月前 No.131
ページ: 1 2

 
 
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