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レヴィナス『全体性と無限』を読む

 ( 哲学掲示板 )
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すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX

Wikipedia「エマニュエル・レヴィナス」より抜粋。

>エマニュエル・レヴィナス(1906 - 1995)は、フランスの哲学者。独自の倫理学、エトムント・フッサールやマルティン・ハイデッガーの現象学に関する研究の他、タルムードの研究などでも知られる。

思想

>ハイデガーの暴力的な存在論を排し、非暴力的な存在論の構築を目指して『全体性と無限』を著す。

>レヴィナスは、第一哲学を倫理学としている。

>私が倫理的に他者に対して振る舞うかぎり、私は他者への了解を課題とする。そのかぎりで、私は他者に対して常に暴力的な関係を結ばざるを得ない。他者とは、絶対的に私とは同化されえないもの(存在者)、所有されえないものとしてある。したがって、私が他者を他者として了解するとき、そこには必ず私の了解しえないものが存している。つまり、他者が他者であることをやめることは、ただその死・他者が存在者であることをやめることによってのみ可能である。

>すなわち、他者の否定とは、殺人としてのみ可能となる。「他者は、私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである」。そして、私は他者を殺しうる。しかし、それは他者の顔と対面しないときにおいてのみ可能となる。殺人への誘惑、他者の否定への誘惑は同時に顔の誘惑でもある。存在の拓けのなかで出会われる「顔」を人は殺すことができない。そしてそのような対面は言葉・言説において可能となる。

他者論――全体性と他者

>「他者」とは、「自分とは異なる存在」である。単に「私」(自己)以外の人間が「他者」であるとは限らず、「私」によって支配も回収もされることのない、「絶対的に他なるもの」も「他者」である。『全体性と無限』という書名が示すように、レヴィナスの哲学では「他者は決して全体性に回収されることのない無限の存在」とされている。

>あるいは、「無限の責任を課す他者」こそが「他者」だと言う。「私」(自己)とは、「他者に対し無限の責任を負う」者であり、「私」と「他者」は非対称で不公平な関係にある。

他者論――成立過程

>ユダヤ人だったレヴィナスは、第二次世界大戦中ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺により、家族・親族・友人のほとんど全員を失っている。人間未満の扱いを受けたレヴィナスは、人間がどれほど無残に死んでも、「世界」が何事もなかったかのように続いていく事実を恐怖するようになった。レヴィナスが恐れたのは、明日自分が殺されるかもしれない事実、および、死と無関係に存在し続ける「世の中」だった。「世界」は、目的も意図もまったく理解不能なまま存在している恐ろしいものであり、そこにレヴィナスは絶対的な「他者」を見出した。

抜粋は以上。

 『全体性と無限』の主要なテーゼは「分離」に集約されるように思える。全体性に収まることのない他者を示すためにも、同は他と分離していなければならない。しかしその、同と他の対立が、論理的対立であってはならない。なぜなら、論理的対立であるかぎり、それは全体を俯瞰する視線に供されるからである。すなわち、同と他が共に全体性に回収されてしまい、そこに他者は現れないことになる。
 とすれば、他者を示すためには、「私」から出発して「他者」へと向かうことが必要である。しかもその際の「私」は、生まれて戸籍登録され、死んだら死亡届を出される、その間の記録ではなく、実際に生活を営む生きた心性として、描かれなければならない。このエゴイズムを生きる、あるいは無神論を生きる私を描くことによって、はじめて他者を示すことができるようになる。つまり、論理的対立に回収されることなく他者を示すためには、分離を具体的な相のもとで捉えなければならない。

 分離に関する以上の記述は、『全体性と無限』に通底している内容である。しかしこの書は、それに留まることなく、多様な内容を含んでいる。それを読解することに挑戦したい。
 なるべく、読んだことのない人でも参加できるように、難解な記述を敷衍するよう心がける。

メモ2019/06/30 21:13 : すめん @levinas★iPad-yobASV48iU

参加者:

・すめん

・ザビビのふくろう

・下手人

・Mobius


(今誰が参加しているか忘れないためにメモしておきました)

ページ: 1 2

 
 
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Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>55 ザビビのふくろうさん、アドバイスありがとうございます。参考にさせて頂きます。
とりあえず当面の目標は、「形而上学は存在論に先立つ」について「なるほど」と思えるようになることです。

>>53

> >西欧の哲学は、これまでのところおおむね存在論であった。すなわち、存在了解を保証する中立的な中間項の媒介によって<他>を<同>に還元してきたのである。 (熊野訳 上, p.62)


これを読む限り、存在論の営みに「<他>に対して語ること」が含まれているように思えますので、そういう意味で「形而上学は存在論に先立つ」と言えなくもないですが、そんな単純ではない気がします。

もう少し読み込んでみます。

16日前 No.57

すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU

第一部A四「形而上学は存在論に先だつ」(熊野訳 上, pp.59-73)

<要約(pp.59-62)>

ここでレヴィナスは観想を形而上学と重ね合わせながら検討する。観想は大きく次の三つの要素を持つ。

・・・

1.形而上学的関係としての観想

これはあるがままに現れる知られる存在についての観想である。このとき、知る存在は知られる存在の他性に手を触れることはない。この観想の本質は、形而上学的な渇望である。

2.<他>を<同>に還元する観想

これは知性(ないし存在のロゴス)を本質とする観想である。つまり、知られる存在の他性を剥奪するものである。この場合、知るプロセスは知る存在の自由と一致する。したがって、そのプロセスには何の障害も現れない。これは中立的な第三項を介して、知る存在(同)が知られる存在(他)と出会う際の衝撃を緩和するものである。この観想に関して、代表的なものが存在論である。

3.批判的であろうと配慮する観想

これは問いただし(=批判への志向)を本質とする観想である。つまり、存在論における自由な遂行、あるいは恣意的な独断論に対し、その起源にまで遡ろうとするものである。この遡行がそれ自体、観想であるなら、無限後退に陥るだろう。だから批判への志向は存在論のかなたへと観想を導く。この問いただしは<他者>の現前によってなされる。

・・・

この三つの要素を観想はあわせ持つ。特に2と3の関係が重要である。

2について、第三項が存在するものと区別される存在することであるとき、この観想は存在論となる。存在することは、そのなかで様々な存在するものが了解可能なものとなる光である。だからこれは<他>を<同>に還元するものである。

一方で、3について、批判は<他>を<同>に還元することなく、<同>の遂行を問いただす。この問いただしは<同>のエゴイスティックな自発性によってはなされない。それは<他>によってなされる。こうして、<他>が迎えいれられることが、<同>が問いただされることとして、つまりは倫理として生起する。レヴィナスはこの倫理を(おそらく)形而上学と呼ぶ。

したがって3が2に先だつことになる。すなわち形而上学が存在論に先立つことになる。

<コメント>

とりあえず、指定範囲を三つの要素に整理してみた。1と2がどのような関係にあるのか。両者は相容れないのではないか。また、倫理と形而上学はイコールで問題ないか。そもそもこの要約は正確か。検討を要する。

15日前 No.58

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz

>>58

>1と2がどのような関係にあるのか。両者は相容れないのではないか。


「1」というのは、いわゆる“認識”といわれる作用のことではないでしょうか?

>知あるいは観想は、第一に存在との関係を意味する。その関係にあって、知る存在は知られる存在の他性には手を触れることがなく、認識というこの関係がどのような点においてであれ、知られる存在に刻み込まれることもない。(熊野訳 上, p.59)


この文を解釈すると
「知あるいは観想」は「存在との関係」であり、
それは、「知る存在は知られる存在の他性には手を触れることが無い関係」であり、
それは、「知られる存在に刻み込まれることもない関係」であり、
それは、「認識という関係」である。

この文の中で説明している「関係」を、「認識というこの関係」と言っているのですから、これは「認識」なのではないでしょうか?

「知あるいは観想」∋「認識」

>>58 の1と2と3の関係ですが、1がプリミティブな関係で、その次に2,3に進む という関係ではないかと思います。


#私には、そういうふうに読めました。(これが正しい解釈かどうかはわかりません。)

15日前 No.59

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz

>>58

>したがって3が2に先だつことになる。


この「したがって」のところが納得できれば、納得できるのですけど...

「批判が独断論に先行するように(熊野訳 p.62,合田訳 p.47)」
この「先行する」の意味が解れば、意味が通じるのだけど...

私の感覚だと、「『独断論』がまず先に生じないと、それに対する『批判』はできない」と思えてしまうので、「批判が独断論に先行する」という表現が理解できないのだと思う。

15日前 No.60

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz

>>60 承前

>《私》が〈他者〉を迎えいれることは、具体的には、〈他〉によって〈同〉が問いただされることとして、言いかえるなら倫理として生起する。(熊野訳 p.62)

>〈自我〉による〈他者〉の迎接は、具体的には、〈他〉による〈同〉の審問、すなわち倫理として生起する (合田訳 p.47)


「〈他〉が(自分に)同化されずに〈他〉にとどまりつづけるためには、『私を問いただすもの』すなわち『倫理』である必要がある」ということか?

15日前 No.61

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz

>その他性(形而上学的な〈他〉の他性)は、いっさいのイニシアティヴ、〈同〉の帝国主義のすべてに先立つ他性なのである。(熊野訳 上 p.51)


「先立つ」というのは「より進んでいる」という意味で、
私の >>60 で言ったような「時系列的に前」という意味ではないのではないか?

そのように解釈して、次に進もうかな?

14日前 No.62

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz

性懲りもなく、原文を当たってみました。

>L'Autre metaphysique est autre d'une alterite qui n'est pas formelle, d'une alterite qui n'est pas un simple envers de l'identite, ni d'une alterite faite de resistance au Meme, mais d'une alterite anterieure a toute initiative, a tout imperialisme du Meme.


l'Autre metaphysique … 形而上学的な〈他〉

d'une alterite … 他性

qui n'est pas formelle … (それは)形式的でない

qui n'est pas un simple envers de l'identite … (それは)同一性のたんなるうらがえしでない

faite de resistance au Meme … 〈同〉への抵抗からなる

toute initiative … いっさいのイニシアティヴ

tout imperialisme du Meme … 〈同〉の帝国主義のすべて

○ anterieure a △ … △ に先立つ ○

est … 〜である (be)

ni … あるいは (or)

mais … しかし (but)

14日前 No.63

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz

<進捗状況>
予備知識導入のため、『解説』(熊野訳 下 pp.321-353)を読み始めています。

ちなみに原文は「totalite et infini pdf」で検索すると見れます。

14日前 No.64

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>58 すめんさん、

やっぱり下記文脈の「したがって」が理解できません。
もう少し補足していただけると助かります。

>2について、第三項が存在するものと区別される存在することであるとき、この観想は存在論となる。存在することは、そのなかで様々な存在するものが了解可能なものとなる光である。だからこれは<他>を<同>に還元するものである。

>一方で、3について、批判は<他>を<同>に還元することなく、<同>の遂行を問いただす。この問いただしは<同>のエゴイスティックな自発性によってはなされない。それは<他>によってなされる。こうして、<他>が迎えいれられることが、<同>が問いただされることとして、つまりは倫理として生起する。レヴィナスはこの倫理を(おそらく)形而上学と呼ぶ。

>したがって3が2に先だつことになる。すなわち形而上学が存在論に先立つことになる。

12日前 No.65

すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU

>>65

Mobiusさん、こんにちは。

ぼくは「形而上学は存在論に先立つ」というテーゼのロジックは、それほど違和感なく受け入れられます。

Mobiusさんは >>60 で、

>私の感覚だと、「『独断論』がまず先に生じないと、それに対する『批判』はできない」と思えてしまうので、「批判が独断論に先行する」という表現が理解できないのだと思う。


と言われていますが、テクストでは次のように書かれています。

>観想は、独断論と、その自発性における素朴な恣意を発見し、存在論を遂行する自由をも問いただす。観想が存在論を遂行しようとするしかたは、だからつねに、この自由な遂行という恣意的な独断論の起源にさかのぼろうとするものなのである。

(熊野訳 上, p.61)

この、「独断論の起源にさかのぼろうとする」ことが、批判と呼ばれるのだとすれば、「『独断論』がまず先に生じないと、それに対する『批判』はできない」とまで考える必要はないのではないかと思います。もっと言えば、あくまでもここで言われているのは、独断論に対する実際の批判ではなく、批判への配慮ですから。

それで、問題の、存在論に対する形而上学の先行性は、

起源以前・他者 → 起源 → 独断論

という図式における右矢印の順序のことだと思います。

とすると、形而上学と存在論は次のように当てはめられるのではないでしょうか。

起源以前・他者(≒形而上学) → 起源 → 独断論(≒ 存在論)

こういうわけで、ぼくは違和感なく、「形而上学は存在論に先立つ」というテーゼの論証を受け入れることができます。いかがでしょうか。

ここで「自由」がトピックに上がっていますが、自由に関する詳細な記述は、第一部Cで展開されるので、そこを読むのを待ってもいいかもしれません。

12日前 No.66

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>66 すめんさん、お返事ありがとうございます。

>それで、問題の、存在論に対する形而上学の先行性は、

>起源以前・他者 → 起源 → 独断論

>という図式における右矢印の順序のことだと思います。

>とすると、形而上学と存在論は次のように当てはめられるのではないでしょうか。

>起源以前・他者(≒形而上学) → 起源 → 独断論(≒ 存在論)


すめんさんの説明だと、「1が2に先行する」というように読め、「3が2に先行する」というようには読めませんでした。


「存在論的な『他を同化していく作用(2の作用)』は、“批判”という形の配慮により、独断性や恣意性を排しつつ、より深化(遡行)させていくものである。従って、2の作用の中に3の営みが含まれており、3の営みなしに2は成立しない。従って、2は3を前提とする」
ということでしょうか?...

11日前 No.67

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>67 承前

>「存在論的な『他を同化していく作用(2の作用)』は、“批判”という形の配慮により、独断性や恣意性を排しつつ、より深化(遡行)させていくものである。従って、2の作用の中に3の営みが含まれており、3の営みなしに2は成立しない。従って、2は3を前提とする」


この解釈だと、3の営みは「独断性、恣意性を排する作用」として働くだけで「『他』を同化する作用」そのものではありません。「『他』の同化」に際して「独断性、恣意性」を排しなくてもよければ3は必要なく、故に「3は2の前提」とは言い切れません。

一旦 理解するのは諦めて、次に進もうと思います。ありがとうございました。
(また、戻るかもしれません。)

>>66
>ここで「自由」がトピックに上がっていますが、自由に関する詳細な記述は、第一部Cで展開されるので、そこを読むのを待ってもいいかもしれません。


承知しました。そうさせて戴きます。

10日前 No.68

下手人 ★FullBrowser=LBWhCyDg6c

>>48
Mobiusさんありがとうございます。自分も皆さんのを載せられれば良いのですが、量が多くて(汗
合田版のを何かリクエストがあればどうぞ遠慮なく。
遅筆すいません。

第一部は「<同>と<他>」という題なのでまずは<同>から
自同性について

第一部A二「全体性の破産」,(合田訳,pp34-42)

まずp34、8行目(章の開始から5行目)
「上向的超越」に訳注5がついていて、その内容はデカルトの「省察」からの引用です。

「私が疑うこと、私が欲することを私が理解するのは、すなわち、何ものかが私に欠けており、私は全く完全であるわけではないことを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が私のうちにあって、それと比較して私の欠陥を認めるのでなければ不可能である。」

欲望もしくは渇望は欠如である。
全てのものを下に置く主観性にとって欠如足り得るのはより完全な存在者であり、形而上学での<他>のことです。

p35 11行目
「自我であること、それは、座標によって定めうるいかなる個体化をも越えた自同性を、内実として有することである。」

その手前で「絶対的に<同>であることを本質とする頂き」として{<自我>}を上げています。

10日前 No.69

下手人 ★FullBrowser=LBWhCyDg6c

p37 7行目
「世界は、自我にとって疎遠かつ敵対的なものであるから、理の当然として自我を変質させるはずである。ところが、世界と自我との真に原初的な関係は世界内での自我の滞留として生じる。」
ここはレヴィナスの言う「形而上学が存在論に先行する」感覚でしょうか。
続き
「この関係において、自我はまさに<同>の最たるものとして顕現する。世界という<他なるもの>に対抗する自我の様式は、世界を我が家とみなしてそこに実存しつつ滞留し、自己同定することである。」

これは第一部A四「形而上学は存在論に先行する」,(合田訳,pp34-42)に書かれている
p47 4行目「<他>による<同>の審問」ということで間違いないでしょうか。

この変化し続ける世界の中で、自己同定する自我が私の意識を、体を保っている。(「体の70%は水で出来ていて、その99%が一年間で入れ替わる」と言う話を聞いたことがあるが、肉体にも自同性が備わっている?)


p37 14行目
「自分を支える<自我>は」
(中略)
p37 18行目
「歩きさえすれば、何かをなしさえすれば、どんな事物をも把持することができる。」

ここは前回の >>47 でも言っていました。
この「把持」は「所有」と言い換えられていきます。

とりあえずここまで

10日前 No.70

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

Mobiusさん、すめんさん

形而上学が存在論に先立つかどうかという問題は、後にデリダが『暴力と形而上学』において批判した論点に関わるものなので、このときのレヴィナスの意図とは別に、本格的に論じるとなると結構大変なんじゃないかと思います。
ですから、ここではとりあえずレヴィナスの意図を把握する(できるだけ好意的に解釈する)ことでよしとするほうがいいんじゃないかと思うんです。
とは言え、困ったことに、私もそんなに明確ではないんですよね(笑)
しかし、Mobiusさんの参考にもなるかもしれないので、私なりの一応の理解の仕方を二つほど挙げておきます。

ひとつは、存在論が暗黙のうちに前提しているものを批判し、その根拠をただすこと。
つまり、存在論が事実と前提することの権利問題を言上げすること。
例えば、存在者の存在意味を、「〜のためのもの」(道具存在)として了解すること、他者存在を同じように存在了解することの是非を問いただすこと。
すなわち、存在論の事実問題に対して、それに先立つ権利問題として形而上学を対置すること。

もうひとつは、いわゆる実存が本質に先立つ、というサルトル的な捉え方。
つまり、「類的存在(共存在)としての他者」として存在了解された他者に対して、実存としての他者が先立つとする捉え方。

さらに、わかりやすくラフに説明します。
要は、ハイデガー存在論による他者は、現存在である自己とともに世界内存在する共存在として把握されます。
これは、いわば、shinwoodさんの考えで言うと、他人もまた公(全体)の構成員であり、仲間である、ということと類比的です。
だから、その存在意義は、「全体(公・民族)のため(利益)」であるかによって与えられるわけです。
なので、全体のためであるなら、仲間の命さえ犠牲にすることが「できる(可能)」であり、自由であると。
この考え方では、全体のために犠牲にする仲間(他者)に対して、罪は負わないことになります。
だから、この意味で、shinwoodさんの考えは正しく全体主義的考え方なわけです。
そしてレヴィナスの理解では、ハイデガー存在論(『存在と時間』の時期)は、「民族の歴史」といった全体をもってくるナチズムと本質的に同じなんだということになるのではないかと思うわけです。
しかし、レヴィナスの他者は全く異なります。
全体のために、たすけてと泣き叫ぶ仲間を犠牲にすることは、本当に善なのか?
全体に対する価値に他者の存在意味を還元する存在了解は妥当なのか?
レヴィナスの場合、ホロコーストを生き残ってしまった者が、犠牲者に対して負う、いわゆるサバイバーズ・ギルト(生存者罪悪感)が現に存在するわけです。
これが全体性の存在了解に対する問いただしではないでしょうか。

【直観的理解のための類比】
物自体 ≠ 表象

形而上学的(倫理的)他者(他者自体) ≠ 存在論的他者(存在了解された他者)

9日前 No.71

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>71 ザビビのふくろうさん、

>形而上学が存在論に先立つかどうかという問題は、後にデリダが『暴力と形而上学』において批判した論点に関わるものなので、このときのレヴィナスの意図とは別に、本格的に論じるとなると結構大変なんじゃないかと思います。


熊野訳 下巻の解説に デリダによる批判の骨子がちょっとだけ載っていました。私はそれを読んで妙に納得してしまったのでした。


>ですから、ここではとりあえずレヴィナスの意図を把握する(できるだけ好意的に解釈する)ことでよしとするほうがいいんじゃないかと思うんです。


はい。私もそう思いますし、それをしようと足掻いています。
自分が共感できるかどうかはさておき、まずは言葉の意味の理解に努めています。

>しかし、Mobiusさんの参考にもなるかもしれないので、私なりの一応の理解の仕方を二つほど挙げておきます。

(中略)
>さらに、わかりやすくラフに説明します。

(中略)

わかりやすく説明下さり、ありがとうございます。


>これが全体性の存在了解に対する問いただしではないでしょうか。


つまり「先立つべき」「先立つと考えるべき」と言っているのでしょうか?
(コンスタティブな意味でなく、パフォーマティブな意味で「先立つ」と言っているのでしょうか?)


>【直観的理解のための類比】

>物自体 ≠ 表象

>∽

>形而上学的(倫理的)他者(他者自体) ≠ 存在論的他者(存在了解された他者)


「≠」はわかるんですけどね。「先立つ」「先行する」がわからないんです。
(パフォーマティブな意味で「先立つべき」と言っているのなら、なんとなくわかりますが...)

9日前 No.72

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>70 下手人さん、

>世界という<他なるもの>に対抗する自我の様式は、世界を我が家とみなしてそこに実存しつつ滞留し、自己同定することである。


「世界を我が家とみなす」ということは、「(自我が)〈他なるもの〉を『道具的存在』とみなす」ということではないでしょうか?
この段階ではまだ、このような〈同〉のあり方に異議を唱える〈他〉は 登場していないように思えます。

9日前 No.73

ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ

>>72  Mobiusさん

>(コンスタティブな意味でなく、パフォーマティブな意味で「先立つ」と言っているのでしょうか?)


何だよ、えらく難しいこと訊くね(笑)
残念ながら、この対概念ではわたし的にはしっくりこないんで、ちょっとずれた回答しかできませんが、ご了承を。


>つまり「先立つべき」「先立つと考えるべき」と言っているのでしょうか?


権利問題と言ったのは、要するに、「何が善であるか」を問題にする前に、「善とは何か」を明らかにしておく必要があるだろうということと同様に、
存在論が前提する「何が他者であるか」の前に、「他者とは何か」について疑義申し立てをする、ということではないかと。

そして、その申し立ては、「存在論的に存在了解された他者」が〈他者〉であるのなら、他人を犠牲にすることに対するモラルジレンマや、サバイバーズギルトなどありえようがないだろうという反論です。
存在論的に了解された他人を全体のために犠牲に供することは善であるがゆえに、〈同〉としての《私》の自由であるはずだからです(わたし的言い方だと、独我論的自己の自由)。
レヴィナスにとっての、自分がサバイバーズギルトをその存在に負ってしまわざるをえない犠牲者という他者存在は、アプリオリに〈同〉として〈全体〉に回収不可能な存在なのだということではないでしょうか。

>>【直観的理解のための類比】

>>物自体 ≠ 表象

>>∽

>>形而上学的(倫理的)他者(他者自体) ≠ 存在論的他者(存在了解された他者)

>「≠」はわかるんですけどね。「先立つ」「先行する」がわからないんです。


言いすぎかもしれないけど、あえて言えば「論理的に先立つ」ではないかと。

表象=Representation=再‐現前
なので、すなわち表象とは、物自体を再現前化したものということで、当然、物自体の存在が先立つ。

同様に、存在了解された他者(存在一般としての他者)に対して、存在了解される前に他者自体の存在(実存)が先立つ、っていうような意味です。

9日前 No.74

下手人 ★FullBrowser=LBWhCyDg6c

>>73 Mobiusさん
その通りですね、失礼しました。

第一部A二「全体性の破産」,(合田訳,pp34-42)

p39,18行目
「形而上学的<他>とは、<他>の内容そのものであるような他性をそなえた<他>、<同>を制限することなき他性をそなえた<他>である。」
p40 1行目

「というのも、<同>を制限する時、<他>は厳密には<他>でなくなるからだ。その場合、<他>と<同>は境界線を同じくし、<他>は体系の内部で依然として<同>にとどまる。」

ここはあくまで自我の世界の広がりを表しただけであり、(むしろ<他>を<同>に還元する存在論の捉え方ですかね。)形而上学的<他>とは関係ありませんでした。
ご指摘ありがとうございます。

8日前 No.75

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

>>74,71 ザビビのふくろうさん、

>>71

>もうひとつは、いわゆる実存が本質に先立つ、というサルトル的な捉え方。

>つまり、「類的存在(共存在)としての他者」として存在了解された他者に対して、実存としての他者が先立つとする捉え方。


>>74
> > >【直観的理解のための類比】

> > >物自体 ≠ 表象

> > >∽

> > >形而上学的(倫理的)他者(他者自体) ≠ 存在論的他者(存在了解された他者)

(中略)
>言いすぎかもしれないけど、あえて言えば「論理的に先立つ」ではないかと。

>表象=Representation=再‐現前

>なので、すなわち表象とは、物自体を再現前化したものということで、当然、物自体の存在が先立つ。

>同様に、存在了解された他者(存在一般としての他者)に対して、存在了解される前に他者自体の存在(実存)が先立つ、っていうような意味です。


これらは、
―すめんさんが >>58 で言ったところの「1.形而上学的関係としての観想」、「2.〈他〉を〈同〉に還元する観想(≒存在論的関係としての観想)」、「3.批判的であろうと配慮する観想」を使って表現すると、―
「1.は2.に先立つ」と言っているように思えます。3.の観点が入っていないように思われるので。

1.が2.に先立つというのは、(私にも)感覚的にわかるのです。(参考 >>59,67 )

(一旦切ります。)

8日前 No.76

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

>>76 承前、
>>74,71 ザビビのふくろうさん、

>>71

>ひとつは、存在論が暗黙のうちに前提しているものを批判し、その根拠をただすこと。

>つまり、存在論が事実と前提することの権利問題を言上げすること。

>例えば、存在者の存在意味を、「〜のためのもの」(道具存在)として了解すること、他者存在を同じように存在了解することの是非を問いただすこと。

>すなわち、存在論の事実問題に対して、それに先立つ権利問題として形而上学を対置すること。


>>74
>権利問題と言ったのは、要するに、「何が善であるか」を問題にする前に、「善とは何か」を明らかにしておく必要があるだろうということと同様に、

>存在論が前提する「何が他者であるか」の前に、「他者とは何か」について疑義申し立てをする、ということではないかと。

>そして、その申し立ては、「存在論的に存在了解された他者」が〈他者〉であるのなら、他人を犠牲にすることに対するモラルジレンマや、サバイバーズギルトなどありえようがないだろうという反論です。

>存在論的に了解された他人を全体のために犠牲に供することは善であるがゆえに、〈同〉としての《私》の自由であるはずだからです(わたし的言い方だと、独我論的自己の自由)。

レヴィナスにとっての、自分がサバイバーズギルトをその存在に負ってしまわざるをえない犠牲者という他者存在は、アプリオリに〈同〉として〈全体〉に回収不可能な存在なのだということではないでしょうか。

「〈他者〉を『道具存在』としてのみ扱うことは問題だ」と言っているのでしょうか?
でもハイデガーは「〈他者〉は『共存在(自分が相手を「道具存在」と認識するように、相手も自分を「道具存在」として認識する というような存在)』だ」と言っているのではないでしょうか?

参考) 山竹伸二の心理学サイトより、
―引用開始―
>共存在と世人

>ところで、他者への気遣いは道具的存在者への気遣い(配慮的気遣い)とは大きく異なる面がある。それは、他者の代わりに何かをしてあげたり、他者に手本を示すような気遣いである(顧慮的な気遣い)。ここで現存在は、他者(共現存在)と共にある社会的な存在(相互共存在)であるという意味で、「共存在」と呼ばれることになる。

>事物は人間によって対象化されるのだが、他者は対象化されるだけでなく、こちらを対象化するような存在である。他者の視線は私を気にさせたり、恥ずかしがらせたり、怯えさせたりすることもあるだろう。そのため、私たちは他者との違いを気にし、優越感や劣等感を抱いたり(懸隔性)、社会の世間的な価値観を無自覚に受け入れたり(平均性)、あるいは変わった人を排除してみんなと同じであろうと思いがちになる(均等化)。

―引用終了―

8日前 No.77

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

#難読箇所のヘルプを依頼します。

熊野訳 上 pp.76-77

>「超越が示す隔たりは、私たちの表象のすべてにあって、心的作用とその対象とを分離する隔たりとはおなじものではない。対象がそれによってなりたつ隔たりは、対象が所有されること、ことばを換えれば対象の存在を宙づりにすることを排除せず、じっさいにはそれを含意しているからである。」



<自分(Mobius)によるコンスタティブな読解>
まず冒頭で
『超越が示す隔たり』≠『心的作用とその対象とを分離する隔たり』
と言っている。

ここで、
『私たちの表象のすべてにあって』は『心的作用とその対象とを分離する隔たり』に掛かる。

したがって、
『超越が示す隔たり』は、『私たちの表象のすべてにある』ようなものではない、いわば「特別なものである」と言っていることになる。


『対象がそれによってなりたつ隔たり』の『それ』とは『心的作用とその対象とを分離する』を指すのであろうか?
だとすると、
『対象がそれによってなりたつ隔たり』は次のように言い換えられる。

「対象が“心的作用とその対象とを分離する”によってなりたつ隔たり」

「対象が その心的作用との分離 によってなりたつ隔たり」

仮に この隔たりを「隔たりA」とおく。

『対象の存在を宙づりにすること』は『対象が所有されること』の言い換えであるから、文脈上は省略しても意味がとおると思われる。

これらを使って後半の文を言いかえると以下のようになる。
「隔たりAは、対象が所有されることを排除せず、じっさいにはそれを含意しているからである。」

「隔たりAは、対象が所有されることを排除せず、それを含意しているからである。」

「隔たりAは、対象が所有されることを排除せず、含意しているからである。」

「隔たりAは、対象が所有されることを含意しているからである。」

「隔たりAは、“対象が所有されること”を含意しているからである。」


一方、『超越が示す隔たり』は、「“対象が所有されること”を含意していない隔たり」だから、「隔たりAとは異なる」ということか?

以下、『超越が示す隔たり』を仮に「隔たりB」とおく。


まとめると、
 隔たりAは、“対象が所有されること”を含意している。一方、隔たりBは“対象が所有されること”を含意していない(なぜなら、超越は所有しえないから)。
 故に、隔たりBは 隔たりAとは異なる。

ということだろうか?

8日前 No.78

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

#頑張って読んでいますが、結構難しいですね。

難読箇所#2
熊野訳 上 p.79

>「〈渇望されるもの〉が、〈同〉のなかで遂行される《私》の「否定的なふるまい(ネガティヴィテ(la《negativite》))」を停止し、権能と支配を停止してしまうような関係を前提としているのである。このことは、積極的にいえば、私が所有している世界を〈他者〉に贈与することが可能であること、言いかえるなら向かいあった顔が現前することとして生起する。



{『〈渇望されるもの〉』が、『〈同〉のなかで遂行される《私》の「否定的なふるまい(ネガティヴィテ(la《negativite》))」を停止』し、『権能と支配を停止』しまうような関係}
については、前節に出てきた「倫理的な関係」ということで理解する。

問題は後半で、
{『私が所有している世界を〈他者〉に贈与することが可能であること』『向かいあった顔が現前すること』として生起する}
というのが、うまく飲みこめない。

それでもまだ、
『向かいあった顔が現前すること』の方は、なんとなくわかる。《私》の権能を停止するのは〈他者〉だから。

『私が所有している世界を〈他者〉に贈与することが可能であること』の方がさっぱりわからない。

------------------------------------------

『私が所有している世界を〈他者〉に贈与することが可能であること』を言いかえると『向かいあった顔が現前すること』になるのだから、この両者をうまく変換していくと意味がつながるはずなのだが...

「現前する」は動詞、「可能である」は状態。素直に考えると、「現前することにより可能になる」ということかな?

つまり、「『向かいあった顔が現前する』と、『私が所有している世界を〈他者〉に贈与することが可能になる』」ということか?

まぁ確かに (私に)向かいあった顔が現前していなければ、私が所有しているものを渡すのは難しいと思うけど。

超々ひらたく言うと、
「(私が)贈り物を贈るには、二人称の存在が必要です。」
ということか?

8日前 No.79

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

#難読3
熊野訳 上 p.80

>「それは、非人称的な〈中立的なもの〉の開示ではなく、一箇の表出であるような真理の概念である。存在者が存在のいっさいの覆いと一般性を突きとおし、存在者の「形式」のうちでじぶんの「内容」の全体を繰りひろげ、そうすることで最終的には、形式と内容の区別を消去することになるのである(このことが達成されるのは、主題化する認識がなにほどか変容することによってではない。それはまさに「主題化」が語りに旋回することでおこるのだ)。


『一箇の表出である』の説明が『存在者が 〜 なるのである』だと思う。

まず『存在者が存在のいっさいの覆いと一般性を突きとおす』の意味がわからない。

これは、『存在者の「形式」のうちでじぶんの「内容」の全体を繰りひろげ』と並列に書かれているので、それに繋がるアクションであろうと推察される。

例えば、「山田太郎(仮名)」という人がいたとして、一般には“人間”だったり、“男性”だったり、“日本人”だったり、また「松本潤に似た外観」だったりするかもしれないけど、そういうことに関係なく、「山田太郎は山田太郎だ」というようなことだろうか?

後半のカッコ書きの部分は、
「山田太郎が『松本潤に似た外観を持つ日本人男性』から『山田太郎』になるのは、それを認識する側の意識が変わることによってではなく、その山田太郎が語り出すことによってである」というようなことを言っているのであろうか?

8日前 No.80

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>77  Mobius さん

何かMobius さんには腑に落ちないようだね。
一応私としては既に説明してるつもりなんですけどね。
もう私には繰り返すくらいしか出来ないので、今回は簡単に少しだけ。

〈他者〉自体の存在を、共存在あるいは存在一般の存在と〈同〉化することは、〈他者〉の他者性を排除捨象することである、ってことです。

7日前 No.81

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

私も細かい点ではよくわからないとこだらけなんだけど、
大枠というか図式的に捉えるとこんな感じなのはないかということです。

私の説明が納得いかないなら、スルーしとけばよいですよ。

7日前 No.82

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>81 ザビビのふくろうさん、

>〈他者〉自体の存在を、共存在あるいは存在一般の存在と〈同〉化することは、〈他者〉の他者性を排除捨象することである、ってことです。


「共存在あるいは存在一般の存在」と書いていますが、「共存在」と「存在一般の存在」では意味が違うのではないでしょうか?

私も同じことを単に繰り返して述べることしかできませんが、山竹伸二の心理学サイトの記述によると、「他者(つまり共存在者)への気遣いは道具的存在者への気遣い(配慮的気遣い)とは大きく異なる面がある」と書かれており、
ふくろうさんのいうような「〈他者〉の他者性を排除捨象するような〈同〉化の仕方」とは異なるようです。
大事なポイントを強調すると、「他者(つまり共存在者)は、“視線を持つ存在”として認識される」ということです。


山竹伸二の心理学サイトより (再掲)
―引用開始―
>共存在と世人

>ところで、他者への気遣いは道具的存在者への気遣い(配慮的気遣い)とは大きく異なる面がある。それは、他者の代わりに何かをしてあげたり、他者に手本を示すような気遣いである(顧慮的な気遣い)。ここで現存在は、他者(共現存在)と共にある社会的な存在(相互共存在)であるという意味で、「共存在」と呼ばれることになる。

>事物は人間によって対象化されるのだが、他者は対象化されるだけでなく、こちらを対象化するような存在である。他者の視線は私を気にさせたり、恥ずかしがらせたり、怯えさせたりすることもあるだろう。そのため、私たちは他者との違いを気にし、優越感や劣等感を抱いたり(懸隔性)、社会の世間的な価値観を無自覚に受け入れたり(平均性)、あるいは変わった人を排除してみんなと同じであろうと思いがちになる(均等化)。

7日前 No.83

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>83 承前
山竹伸二の心理学サイトより
―引用開始―

>事物は人間によって対象化されるのだが、他者は対象化されるだけでなく、こちらを対象化するような存在である。他者の視線は私を気にさせたり、恥ずかしがらせたり、怯えさせたりすることもあるだろう。そのため、私たちは他者との違いを気にし、優越感や劣等感を抱いたり(懸隔性)、社会の世間的な価値観を無自覚に受け入れたり(平均性)、あるいは変わった人を排除してみんなと同じであろうと思いがちになる(均等化)。

>そして、このような世間(他者)の評価に身を委ねるあり方は、自分自身で判断する責任から免れ、本来の自分固有の在り方を隠蔽することになるのだ。ハイデガーはこの状態を「頽落」と呼び、他者への非本来的気遣いによるあり方(世人のあり方)だと述べている。

―引用終了―

「他者(共存在者)は、“視線を持つ存在”として認識される」という部分(コンスタティブな部分)は、ハイデガーとレヴィナスで共有しているが、ハイデガーはそれを「頽落」「非本来的」と評価したの(パフォーマティブな部分)に対し、レヴィナスはそれを批判している ということか?

それなら理解できるが。

7日前 No.84

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>84 承前

それとも、ハイデガーは「共存在であっても道具存在と同様に〈同〉化可能」と言っているのだろうか?
「他者視線に対する遠慮」を「頽落」と表現する ということは、「頽落してなければ可能」と間接的に言っているということになる。

それに対してレヴィナスは、「〈他者〉には、一般存在に対する隔たり( >>78 でいうところの“隔たりA”)の他に、超えられない“隔たりB”があるので、一般存在のように〈同〉化することはできない」と言っているのだろうか?

だとすると「可能/不可能」というコンスタティブな次元で違っている ということになる。

そういうことか?

7日前 No.85

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

Mobius さん

う〜ん、全然伝わってないな(笑)

いやだから、細かい違いはあっても、存在論は存在一般の学だから、いずれにしてもその一般化によって〈他者〉の他者性が排除されてしまうってことなんですけどね。

〉それに対してレヴィナスは、「〈他者〉には、一般存在に対する隔たり( >>78 でいうところの“隔たりA”)の他に、超えられない“隔たりB”があるので、一般存在のように〈同〉化することはできない」と言っているのだろうか?

その隔たりB を生むのが〈他者〉の他者性ってことですよ。
〈他者〉の他者性は全体性に〈同〉化出来ないわけです。

7日前 No.86

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

熊野訳 下巻 表紙 より、
ー引用開始ー

>下巻では,他者の「顔」をめぐる著名な議論が展開され,「同」に対する「他」の優位,存在論に対する倫理学の優位が説かれる。

ー引用終了ー

とあるので、そっちを読んでみよう。

6日前 No.87

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>86 ザビビのふくろうさん、

>う〜ん、全然伝わってないな(笑)

>いやだから、細かい違いはあっても、存在論は存在一般の学だから、いずれにしてもその一般化によって〈他者〉の他者性が排除されてしまうってことなんですけどね。


「伝わっていない」というより、「理解不能」。
あえていうなら、「ザビビのふくろうさんがそういっている」というのは理解できるが、それだと「自分(Mobius)が理解している『共存在』の概念と矛盾する」ので、受け入れ困難、ということ。

おそらく「〈他者〉の他者性」が示す範囲の解釈違いの問題だろうと思うが。

6日前 No.88

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>88 承前

{存在論一般は、その作用(一般化)によって「〈他者〉の他者性」を排除する}のだとすると、
{存在論一般では「〈他者〉の他者性」を扱えない}ということか?

一方、形而上学はそれを扱える(?)ってことか?

6日前 No.89

ザビビのふくろう ★CZPpJSpIQU_TnX

>>88,89

>{存在論一般は、その作用(一般化)によって「〈他者〉の他者性」を排除する}のだとすると、

>{存在論一般では「〈他者〉の他者性」を扱えない}ということか?

>一方、形而上学はそれを扱える(?)ってことか?


少なくとも私はずっとそういうようなことを言ってるつもりなんだけど(「存在論一般」とは言ってませんが)。

ただ形而上学が「扱える」というより、存在一般の学である存在論の排除する〈他者〉の他者性(〈他者〉の他者性の排除=暴力)こそが倫理の根拠であり、それを問題にするのが形而上学だというのがレヴィナスの主張だと、私は理解しています。

まあ、とにかく先にいきますか?(笑)

6日前 No.90

ザビビのふくろう ★CZPpJSpIQU_TnX

【ふくろうの解釈メモ】

全体性と無限=独我論と他者

ま、私はこんなふうに解釈できると思って読んでいます。

6日前 No.91

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>90

> >{存在論一般は、その作用(一般化)によって「〈他者〉の他者性」を排除する}のだとすると、

> >{存在論一般では「〈他者〉の他者性」を扱えない}ということか?


>少なくとも私はずっとそういうようなことを言ってるつもりなんだけど(「存在論一般」とは言ってませんが)。


いや、あなたがそう言ってるのはわかるけど、「それは不合理だと思う」というのが私の意見なのです。

「共存在」という概念は、「他者性」を排除してしまったら成立しないと思うからです。
「他者性」を排除してしまったら、「他者の視線」も「単なる道具」になってしまい、「道具存在」との違いがなくなってしまうからです。

だから、
>>81
>〈他者〉自体の存在を、共存在あるいは存在一般の存在と〈同〉化することは、〈他者〉の他者性を排除捨象することである、ってことです。


>>86
>いやだから、細かい違いはあっても、存在論は存在一般の学だから、いずれにしてもその一般化によって〈他者〉の他者性が排除されてしまうってことなんですけどね。


が飲み込めないのです。

5日前 No.92

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>92 承前
「共存在」とは、自分と同様に 「世の中の事物に『道具性』を見出す能力を持った存在」である。この能力を仮に「視力」と呼ぶことにする。
「共存在ではない存在」を仮に「一般存在」と呼ぶとすると、「一般存在」には「視力」がない。

この「視力」の有無が「一般存在」と「共存在」とを分ける特徴である。

(「視力」の有無は、「視線」で判断する。)

5日前 No.93

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>93 承前

仮に自分の周囲の人間が「ゾンビ」だったとしたら、
私が 周囲の人間を「みなゾンビだ」とみなしていたら、
私は、その人間たちから「視線」を感じないだろう。

「視線を感じる」ということは、「相手は『ゾンビ』ではなく、『人間』だ」ということなのだろう。

5日前 No.94

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>94 承前

「他者」から「視力」を奪ったら、「ゾンビ」になる。
私は、ゾンビでない。
従って、「視力を奪われた他者(ゾンビ)」は「(私と)共存在」ではない。

「共存在」は「視力」を持つから「共存在」なのだ。

--- --------

私は世界に一人だけだ。

ということは「他者」も、それぞれ「世界に一人だけ」なのだろう。

もし、「他者」は「その他大勢」で、私だけが「一人」なのだとすると、「他者」と「私」は性質を異にするので「共存在ではない」ということになる。

「共存在だ」ということは、他者も「一人だけ」なのだ。一人ひとり特別な存在なのだ。

-------- ---

このように「共存在」の概念には「他者であることを特徴づける性質(他者性)」が含まれている。これらを排除すると「共存在性」がなくなる。

5日前 No.95

ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>92  Mobiusさん
じゃあ、まあとにかく私の意図は伝わっているけど受け入れられない、というのがMobiusさんの意見なのであれば、私としてはこれ以上、私の解釈を押しつける気はありません。

そもそも参考になればってことで述べたことだし。納得できないものは仕方ないわけで。

なので >>93,94 については、わたし的には違うように思うんだけど、Mobiusさんの考え・問題意識として、今はコメントはやめておきます。

5日前 No.96

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>96 ザビビのふくろうさん、

>なので >>93,94 については、わたし的には違うように思うんだけど、


「どう違うのか聞きたい」と頼めば、教えていただけますか?

(違う理由がわからず、モヤッとしますので。)

5日前 No.97

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>97 承前

まずひとつ考えられるのは、「『共存在』とは そういう意味(Mobiusが言ったような意味)ではない」というもの。

「共存在」とは「他者」を説明するものではなく、「現存在」を説明するもの
と考えるなら、「共存在性」の中には「他性」を含まないことになる。あえていうなら、「共存在性」とは「者性」である。(「他者性」から「他」を抜いた造語)

5日前 No.98

ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ

Mobiusさん

じゃあ、簡単に。

私からするとMobiusさんの言っているのは、要するに、

他者が共存在であるとは、私と同じ共同主観であるということだ

ということのように思うんですね。

だとしたら、これは他者を全体性に〈同〉化する捉え方だと私には思われるということです。

まあ、これが私の誤解なら気にしないで(笑)

5日前 No.99

下手人 ★FullBrowser=LBWhCyDg6c

>>70 続き

第一部A二「全体性の破産」,(合田訳,pp34-42)
p40,4行目

「絶対的<他>、それが<他者>である。<他者>は私と数的関係を持たない。」

自我の外にある他者は、「私と君とで二人」の様に数えられるものではない。
そもそも自同者たる私の認識は<他>なくしてそれ自身を自覚出来ない。
章題にある全体性とは自同者の持つ認識とも言えるだろうか。

p41,7行目
「もともと存在の論理的規定としてあった<同>と<他>がたまたま形成された自我のおかげで、はじめて思考内に反映されるのではない。存在内に他性が生起するためにこそ、「思考」が必要であり<自我>が必要なのだ。」

自我はもともと自分の中にあるものではなく、認識する力、即ち自同性と、それを圧倒する<他>とが出会うことによって、その他性を意識の対象として捉えるために初めて発生するものである・・・うーん、しっかりと説明出来てないですかね。

p41,12行目
「『思考』、『内面性』は存在の裂け目そのものであり、超越の生起(超越の反映ではない)なのだ。」

ここでの存在は、認識する力、あるいは全体性と言い換えることもできるでしょうか。

p42,5行目
「思考の操作が全体性を破産させるのではない。 (中略) 思考は全体化と俯瞰を不可避的本性としている。それにも関わらず、全体性を破産させる空虚がこのような思考に対して維持されるためには、範疇に組み込まれることなき<他>の面前に思考が定位される他ない。」
この章の肝ですね。
認識の裂け目である思考が、捉えることの出来ない<他>に釘付けにされる時にだけ、全体性は破産する。

続き
「思考はこの<他>を対象と見なしたうえで、対象としての<他>と共に全体を構成するのではない。思考は発語することをその本性としている。」

そのままですね。


第一部A三「超越は否定性にあらず」,(合田訳,pp43-45)
引用無しで概要だけ

否定することにより<同>を超越することはできない。
否定は<同>の中で行われていることであり形而上学とは一致しない。

形而上学的関係は<他>と会った時の思考、自我の発生と同時であり、否定肯定する以前に先行している。

そんな感じでしょうか。

4日前 No.100

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

>>100 下手人さん

>第一部A二「全体性の破産」,(合田訳,pp34-42)

>p40,4行目

>「絶対的<他>、それが<他者>である。<他者>は私と数的関係を持たない。」


熊野訳では、以下のようになっています。
「絶対的に〈他なるもの〉とは〈他者〉である。〈他者〉は〈私〉に加算されることがない。」(熊野訳 上 p.52)

原文は以下。
「L'absolument Autre, c'est Autrui. Il ne fait pas nombre avec moi.」

英語訳(Google翻訳をちょっと変更)は以下。
「The absolutely Other is Other. It does not number with me.」

だからどう、ということはないのですが...

3日前 No.101

嫌われ霊夢と嫌われ魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

他者論――成立過程

>ユダヤ人だったレヴィナスは、第二次世界大戦中ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺により、家族・親族・友人のほとんど全員を失っている。人間未満の扱いを受けたレヴィナスは、人間がどれほど無残に死んでも、「世界」が何事もなかったかのように続いていく事実を恐怖するようになった。レヴィナスが恐れたのは、明日自分が殺されるかもしれない事実、および、死と無関係に存在し続ける「世の中」だった。「世界」は、目的も意図もまったく理解不能なまま存在している恐ろしいものであり、そこにレヴィナスは絶対的な「他者」を見出した。


私はこれがレヴィナスに与えた影響が一番大きいと思いますが・・・・

3日前 No.102

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

みなさん、また難読箇所のヘルプをお願いします。

熊野訳 上 pp.85-86

>「分離は、具体的な道徳的経験の名のもとでも省察を強いるものである。たとえば、私が私自身に要求することのできるものは、私が〈他者〉に対して正当に要求できることとはくらべようもない、といった経験である。こうした道徳的経験はありふれたものでありながら、」


合田訳 p.65
>「〈自我〉の分離は具体的な道徳の体験として省察に課せられる。具体的な道徳の体験とはつまり、私が自分自身に対して要求しうるものは、私が〈他者〉に対して正当に要求しうるものとは比べようもないほど大きいということである。実にありきたりな体験ではあるが、」


原文
>「Elle s'impose a la meditation au nom d'une experience morale concrete ce que je me permets d'exiger de moi-meme, ne se compare pas a ce que je suis en droit d'exiger d'Autrui. Cette experience morale, si banale,」


英訳(Google翻訳に加筆)
>「It imposes itself on meditation in the name of a concrete moral experience, which I allow myself to demand of myself, not to compare myself with what I am entitled to require of Others. This moral experience, so banal,」


ここでいう「具体的な道徳的経験」「具体的な道徳の体験」「experience morale concrete (concrete moral experience)」って、具体的にどんなものでしょうか?

説明では、「私が私自身に要求することのできるものは、私が〈他者〉に対して正当に要求できることとはくらべようもない、といった経験」「私が自分自身に対して要求しうるものは、私が〈他者〉に対して正当に要求しうるものとは比べようもないほど大きいということ」「ce que je me permets d'exiger de moi-meme, ne se compare pas a ce que je suis en droit d'exiger d'Autrui (which I allow myself to demand of myself, not to compare myself with what I am entitled to require of Others)」と書いてあるのだけど、それが具体的にどんな経験なのかがわかりません。
みなさんにそういう経験があったら、教えて下さい。

「こうした道徳的経験はありふれたもの」「実にありきたりな体験」「Cette experience morale, si banale (This moral experience, so banal)」と書かれているので、ありふれた、ありきたりな経験なのだと思うのですが、自分には心当たりがありません。
(言われれば「な〜んだ そうか」って思うかもしれませんけど。)

1日前 No.103

宿題 ★eM1n2yJmTo_n3h

>>103

お店で万引きする人や買いたいものをねだっている人がいますが・・

私はお店に欲しいものが何もない。何も欲しくないと内面にまで思いを制御しています・・

1日前 No.104

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_H3N

>>104 宿題さん、わかりやすい説明、ありがとうございました。

1日前 No.105

宿題 ★eM1n2yJmTo_n3h

ついでにもうひとつ・・

抜け目のない人は有給めいいっぱい使って旅行・・一度辞めて又勤めて失業保険を何回も貰うずるさがあります。

私は個人事業の時はもちろん・・父親の所でも有給は無し・・最期は無給のボランティア(次の経営者にマイナンバーを知らせないため)

そして失業保険も貰わず・・ハローワークにも行かなかったです・・

1時間前 No.106
ページ: 1 2

 
 
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