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前提(思い込み)の彼方

 ( 哲学掲示板 )
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ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

哲学問題には前提(思い込み)がある。

すなわち、前提(思い込み)の彼方に真理はある。

ここでは、以下の3つ(@からBまで)に絞って前提(思い込み)を顕在化する。

@【“論理”という前提】
(1)2A(A=A)の成り立ち
別々の物体を同一のイデアとみなす(移行する)という意味(観念)である。すなわち、観念という前提<1>がある。
(2)A=BかつB=Cならば(であれば)A=C
これは「A=BかつB=Cならば(であれば)A=Cとせよ」という要請である。すなわち、(1)の観念という前提<1>に基づく要請という前提<2>がある。
(2)については、A、B、Cを他の記号に置換しても成り立つ。この理由は、記号というものに実在性はなく、意味(観念)であるがゆえに置換可能なのである。
★結論:論理は前提(意味・観念)である

A【“いま”という幅(Δt)】
(1)“いま”何年か?
(2)“いま”何月か?
(3)“いま”何日か?
(4)“いま”何時か?
(5)“いま”何分か?
(6)“いま”何秒か?
(7)0
これは“いま”を時間で微分(Δt)した結果である。そしてこの場合、6階微分すると0になる。すなわち、語り得なくなる。語り得るためには、“いま”に“秒”(時間単位)という差異(Δt)の意味をもたせる(付与する)必要が生じる。このように我々が、“いま”に幅(意味・観念)を設定(付与)していることがわかれば、“いま”に幅をもたせない無限小を前提とする「アキレスと亀」や「飛んでいる矢は止まっている」は、擬似パラドクス(矛盾しない直感的なパラドクス)であることがわかるのである。なお、「無限小」、「無」や「非存在」という言葉こそ、哲学問題を産み出しているのである。本来、語り得ないものを無理やり「無限小」、「無」や「非存在」という言葉に仕立て上げ、それを追及した結果、答えにたどり着けないがために哲学問題になるのである。まさに、哲学とは、言葉の綾(複数対立的な意味の付与)なのである。バークレィは言う「私たちはまず埃を立てておいて、それから見えないと不平を言うのである。」
★結論:我々は、“いま”に幅(意味・観念)を設定(付与)している

B【デカルトの“我”という前提】
疑っても、疑っても、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち、「(疑っているこれ)」があるということだけは、決して疑えない。これを命題化すると「何ごとか(X)が<いま・ここ>で生じている」となる。ここまでで、どこに“我”が登場するのだろうか。しないのである。『<「(疑っているこれ)」は>“我”だ。』と語ることを許すのは、「「(疑っているこれ)」=“我”」という前提(意味・観念)がなければならない。
★結論:“我”とは不可疑であると仕立て上げられた前提である


以上が示すように、「そうあるべき(当然)だ」(前提)は覆されるのである。これがレヴィナスの言う「他者論」でもある。科学についても不確定性原理があり、数学(論理)についても、不完全性定理がある。

すなわち、「あたりまえではない」。


以上が西洋哲学の真理であった。次に、以下のとおり十牛図を用いて東洋哲学の真理を示す。


尋牛(第一図)から忘牛存人(第七図)までは省略

人牛倶忘(第八図)「すべては意味の付与である(無、客観視)」

返本還源(第九図)「人間である(人生、主観へ)」

入てん垂手(第十図)「あたりまえではない」


すなわち、西洋哲学であっても東洋哲学であっても真理は、「あたりまえではない」。


※以下は補足である。

【真理】
真理は、「あたりまえではない」である。したがって、私は、「あたりまえではない」は「あたりまえ」ではなく、「あたりまえではない」は真理であると主張しているのである。さらに、公の辞書等であっても、真理は「あたりまえ」とは一切記載されていないことをここに、あえて記す。

【論理を受け入れた場合でも無矛盾】
仮に、「あたりまえではない」(A)を「あたりまえ」(否A)と考えようとする。しかし、論理的に(論理記号(A)と(否A)の論理的意味を)考えれば、そもそもその考え自体が成り立たないのである。したがって、論理を受け入れた場合でも無矛盾である。

【論理を受け入れた場合でもトートロジー】
仮に、「あたりまえではない」(A)は「あたりまえではない」(A)と考えようとする。しかし、「あたりまえではない」は真理なので、論理的に考えれば、「真理は真理である」という繰り返しの反復(同義語反復、すなわちトートロジー)である。したがって、論理を受け入れた場合でもトートロジーである。

【《対象レベル》と《メタレベル》の峻別を受け入れた場合でもあたりまえではない】
仮に、「あたりまえではない」(真理)は「あたりまえ(又は、あたりまえではない)」と考えてしまった場合、「あたりまえ(又は、あたりまえではない)」と考えた主体がいることになる。その主体も真理の一部なので、そう考えた主体も「あたりまえではない」(真理)の対象になる。したがって、《対象レベル》と《メタレベル》の峻別を受け入れた場合でも、あたりまえではない。

以上より、謎は発生せず、全てに適用できることから、「あたりまえではない」は真理である。


これをもって、哲学の探究を終える。


(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により、投稿者の判別を願う。)

ページ: 1

 
 

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

哲学をもってしても、真理(あたりまえではない)は揺るがし得なかったのである。

これをもって、投稿を終える。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により、投稿者の判別を願う。)

12日前 No.1

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>0

>以上より、謎は発生せず、全てに適用できることから、「あたりまえではない」は真理である。


 「バカヤロウ」という言葉は誰にでも投げ付けることができるので、「「バカヤロウ」が真理である」と言えるだろうか? …言えない。

 「真理」とは、真偽を判断できる命題という形で表現する必要が有ります。そして、その命題が場合によって「偽」になるようでは「真理」とは言えないので、SumioBabaは、必ず「真」となる命題、すなわち「恒真な命題」こそが「真理」だと見なします。「学研国語大辞典」では、「真理」=「いつでも、どこでも、また、だれもが認める知識。普遍妥当性をもった知識。」と説明されています。「誰もが認める知識」「普遍妥当性をもった知識」という表現こそ、「誰にも正しいことが「あたりまえ」だと認められる知識」を意味しています。

 「あたりまえではない」や「バカヤロウ」は主語が無いので、命題ではないし、真偽を論じる対象にはなり得ず、それゆえ「真理」とは言えません。「真理」だと主張するためにはきちんと主語を付け、「○○○はあたりまえではない」「○○○はバカヤロウである」と記述する必要が有ります。そうすれば、真偽の判定が可能になります。そして、それが恒真であることの証明が必要です。証明が無ければ、ただの「仮説」です。ただし、「AはAである」(同一律・トートロジー)や「「Aかつ¬A」は有り得ない」(無矛盾律)などは、いわゆる「論理的必然性による真理」であり、「無矛盾な世界であれば」という条件さえ付けば、「絶対的真理(恒真)」だと見なせます。

 命題の真偽を判定するためには、特定の公理系(真理体系)に立つことが必要です。つまり、特定の「公理」を証明なしに真だと前提し、それから「定理」を導くための「論理」を定め、それらを使って「定理」を証明します。証明なしに真だと仮定した「公理」、および、「公理」と「論理」を用いて導いた「定理」とが、この真理体系において「真理」だと見なされます。特定の公理系に立たないのであれば、どんな命題も「真」か「偽」かは定まりません。そして、「公理」の定め方次第で、どんな命題も「真」にもなれれば「偽」にもなれます。「三角形の内角の和は180度である」という命題が、ユークリッド幾何学では真なのに、非ユークリッド幾何学では偽にもなるのと同じです。

 「「あたりまえではない」は真理である。」=Pと主張する場合も、もちろん特定の公理系に立つことが必要です。何も「公理」と「論理」を定めなければ、Pも、その否定である¬Pも、「真」であるとも「偽」であるとも言えません。それどころか、「公理」の定め方次第で、Pも¬Pも、「真」にすることもできるし、「偽」にすることもできます。つまり、恣意的に「公理」を定めることもせずに「これが「絶対的真理」だ!!」と呼べるようなものは何も存在しません。すべての「真理」は、「こういう「公理」と「論理」を証明なしに真だと仮定すると、この命題が「定理」として証明できて真になる」という条件付きの「相対的真理」でしかないのです。「「公理」も「論理」も何一つ定めない」というのは、単なる「思考停止」です。

 「あたりまえではない」を「すべては「あたりまえではない」」=Qと解釈すると、これは自己論駁的です。Qを真だと主張するためには、何等かの「公理」と「論理」を定め、無矛盾な真理体系に立つことが必要です。ところが、無矛盾な真理体系に立つと、「AはAである」(同一律・トートロジー)や「「Aかつ¬A」は有り得ない」(無矛盾律)という、「絶対的真理(恒真)」と言える命題、すなわち「あたりまえ」な命題が発生するので、Q自身が否定されてしまいます。

 物理法則などは、論理的必然性も無いのになぜか真であるように見えますが、これは《演繹的》に正しいことが証明された訳ではなく、現在のところ反例は見付かっていないので恐らく正しいのではないか?と、《帰納的》に推測されているだけです。こういう「経験科学的真理」もまた、永久に反駁可能性が残り続けるため「暫定的真理」に留まり続け、決して「絶対的真理」に到達することは有りません。

12日前 No.2

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

みなさんへ

>>2 を反面教師として、思い込みとはどのようなものか?を紐解いていきます。


>「バカヤロウ」という言葉は誰にでも投げ付けることができるので、「「バカヤロウ」が真理である」と言えるだろうか? …言えない。

「SB量子神学(合)」という言葉は誰にでも投げ付けることができるので、「「SB量子神学(合)」が真理である」と言えるだろうか? …言えない。言葉について揚げ足を取ることは誰にでもできます。まさに、藁人形論法(ストローマン)なのです。内容ではなく、その表現である言葉を相手取るという悪あがき、それは、ピンポンダッシュ並みの逃走行為であり「真の敗北」を意味します。


>「真理」とは、真偽を判断できる命題という形で表現する必要が有ります。

これこそ「真理は○○に則らなきゃだめだ!」という思い込みなのです。これは、哲学的な真理ではなく、論理的な真理です。ちなみにここは哲学掲示板です。


>そして、その命題が場合によって「偽」になるようでは「真理」とは言えないので、SumioBabaは、必ず「真」となる命題、すなわち「恒真な命題」こそが「真理」だと見なします。

そう思い込めば、そうなってしまいますね。それを万人に押し付けるのはどうなのでしょうか。議論はお互いの意見を押し付けずに行いたいものですね。これこそ紳士的な姿勢です。


>「あたりまえではない」や「バカヤロウ」は主語が無いので、命題ではないし、真偽を論じる対象にはなり得ず、それゆえ「真理」とは言えません。

「SB量子神学(合)」や「バカヤロウ」は主語が無いので、命題ではないし、真偽を論じる対象にはなり得ず、それゆえ「真理」とは言えません。この藁人形論法(ストローマン)を真似たフルカウンター、いかがでしょうか。お人形とのお遊びは楽しいのでしょうか。


>命題の真偽を判定するためには、特定の公理系(真理体系)に立つことが必要です。つまり、特定の「公理」を証明なしに真だと前提し、それから「定理」を導くための「論理」を定め、それらを使って「定理」を証明します。証明なしに真だと仮定した「公理」、および、「公理」と「論理」を用いて導いた「定理」とが、この真理体系において「真理」だと見なされます。

「論理は絶対だ!」これは本当なのでしょうか?SumioBaba視点から他の視点に移行してみましょう。運転者視点の「交通規則は絶対だ!」、社員視点の「朝礼規則は絶対だ!」、キリスト教徒視点の「聖書は絶対だ!」、SumioBaba視点の「論理は絶対だ!」これらはすべて同じなのです。これをも疑い、改善ないしは根本原理に迫ることが哲学です。ルールは絶対などという思考停止は哲学を否定する考えなのです。ユーザー(利用者)目線では、確かに「ルールは絶対だ!」ですね。しかし、リーダー(管理者)目線では、ルールをも疑い(見直し)既存よりもよいルールを規則にできるのです。本掲示板においても、社会的な地位がそのまま反映されているのでしょう。

宗教を命がけで信じている人は、「論理を否定すると矛盾が生じる」よりも「神(聖書)を否定すると矛盾が生じる」なのです。すなわち、「論理は絶対!」と思い込んでいる人は、神(聖書)なんて関係ないので「論理を否定すると矛盾が生じる」となります。一方、「神(聖書)は絶対!」と思い込んでいる人は、論理なんて関係ないので「神(聖書)を否定すると矛盾が生じる」となります。同じ原理ですね。


まとめると、 >>2 (SumioBaba)のいう《真理》の定義は、「恒真な命題」(必ず真となり、決して偽にはならない命題)ということで、前提に「論理は絶対」という思い込み(意味の付与)があるのです。「論理」も意味の付与の1つであることを理解されるよう、願っております。


このように思い込みは、人間を思考停止にさせます。「論理は絶対!」は、ルイス・キャロルのパラドクスにて論破されているように思い込みの1つにすぎないのです。残るは「意地」のみです。

「私(SumioBaba)はSB量子神学(合)を多くの時間を費やして創作したのに哲学者から何も反響がない…。なのになんで、あいつ(ホントウの真理を発見した者)は、本物の哲学者である中島義道から認められているんだ…。これじゃあまるで、私(SumioBaba)のSB量子神学(合)があいつ(ホントウの真理を発見した者)に論破されたことがバレてしまうじゃないか…。自販もしているのに、まったく売れない。あぁ恥ずかしい…情けない…。SB量子神学(合)に多く費やした時間と労力とはなんだったのだろうか。実に無駄な人生だった…。」

このようにならないことを願うばかりです。

一方、私(ホントウの真理を発見した者)は、哲学者である中島義道から認められており( http://mb2.jp/_tetsugaku/1047.html-536#a)、それが意味の付与であることがわからずに意味の付与をしていた次元(真理は「あたりまえではない」)から、それが意味の付与であることがわかったという境地(すべては意味の付与である)に達することができました。


「わし( >>2 )を倒すということは、真理の持つ合理性の否定。そんなことは神にも不可能!」

知る人ぞ知る、知らない人は全く知らない「真理伝説ホントウの真理を発見した者 -哲学に舞い降りた天才-」でのワンシーンです。

真理の世界での裏プロであり、盲目の対戦相手( >>2 )はこのように言い放ちますが、最終的にはお決まりのホントウの真理を発見した者の勝利となります。

「合理性はあくまであんたの世界でのルール。大抵の人間にはそれが通用したんだろうが、
残念ながらその縄じゃ、オレは縛れねえよ」・・・と最後のセリフを静かに言い放ちます。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により、投稿者の判別を願います。)

11日前 No.3

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

世の中に真理法則の無い世界がありますか?

法律とは国家権力です・・無法者に権力は通じますか?

悪法は法ですか?

10日前 No.4

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>0,1 の「あたりまえではない」も意味の1つである。

したがって、 >>0,1 を滅尽した。

すべては意味の付与である。

これをもって、投稿を終える。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により、投稿者の判別を願う。)

9日前 No.5

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>2

 SumioBabaは、純粋に哲学の議論がしたいのであって、「ウソをつく人」「相手の説明を曲解する人」「相手を誹謗中傷する人」と議論したいとは思いません。
 「真理」についてのSumioBabaの考え方は、 >>2 で説明した通りです。特に、以下の部分について反論できる方はおられますか?

> 「あたりまえではない」を「すべては「あたりまえではない」」=Qと解釈すると、これは自己論駁的です。Qを真だと主張するためには、何等かの「公理」と「論理」を定め、無矛盾な真理体系に立つことが必要です。ところが、無矛盾な真理体系に立つと、「AはAである」(同一律・トートロジー)や「「Aかつ¬A」は有り得ない」(無矛盾律)という、「絶対的真理(恒真)」と言える命題、すなわち「あたりまえ」な命題が発生するので、Q自身が否定されてしまいます。(以上、 >>2 より)


 できれば、時さん、ザビビのふくろうさん、えぴめてうすさん、Mobiusさんたちのご意見を伺ってみたいと思っております。もしよろしければ、コメント下さい。「そもそも「真理」とは何か?」「「真理」とはどう表現されるものか?」「そのような「真理」って本当に存在するのか?」という議論になると思います。

9日前 No.6

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>0

>哲学問題には前提(思い込み)がある。

>すなわち、前提(思い込み)の彼方に真理はある。


 「前提(思い込み)の彼方に真理はある」は正しくないと思われます。正しくはこうだと思われます。→「真理とは、前提(恣意的に定めた「公理」および「論理」によって構成される特定の真理体系)の中にだけ存在し得る「相対的真理」に過ぎず、前提なしに成立する「絶対的真理」などというものは存在しない」。「公理」や「論理」を何一つ前提しないのであれば、真と偽の区別も無くなり、「真理である」と「真理でない」の区別さえ無くなってしまうからです。

 「前提(思い込み)の彼方に真理はある」は言わば、《真理の素朴実在論》と呼べそうです。「我々人間の心が認識していないときも、真理は確定し実在しているのだ」と、素朴に思い込んでいるような状態です。そして、人間の心が真理を認識しようとするとき、そこに前提(思い込み)が入るので、真理を捻じ曲げてしまい、正しく捉えられない、といった主張につながります。プラトンのイデア論や「洞窟の比喩」などは、この立場のように思えます。

 一方、現代科学や現代哲学は、これと違った方向に進んでいます。その発端が、「非ユークリッド幾何学」が成立することの発見であり、数学基礎論において「選択公理」を取り入れても取り入れなくても無矛盾な公理系を構成できてしまうことの発見です。

 「公理」や「論理」を何一つ定めなければ、完全に「思考停止」することになり、何が真で何が偽かを何一つ峻別できません。何が真理であるかを議論するためには、何等かの「公理」と「論理」を定め、無矛盾な公理系(真理体系)に立つことが必要です。しかし、「公理」も「論理」もどう定めるかは恣意的なので、無数の異なる公理系(真理体系)を作ることができて、どれが正しいと演繹的に証明することはできないのです。

 物理法則のような「経験科学的真理」も、あくまで「暫定的真理」に留まり、「絶対的真理」には至れません。ニュートン力学と相対性理論はどちらが正しいか?、ニュートン力学と量子力学はどちらが正しいか?、といった問題に対し、実験で間違っている方を指摘することは可能です。「間違っている」という主張は、有限回の反証実験で可能だからです。しかし、「正しい」という主張は、無限回の検証実験を必要とする《悪魔の証明》になってしまいます。検証実験は有限回しか行えないため、たとえ現在のところ反例は見付からなかったとしても、この後反例が見付かるかもしれないという反駁可能性は、永久に残り続けるのです。

 何が「真理」であるかも、「絶対的」ではなく「相対的」だということです。ある命題Pが真となる公理系であれば、命題Pは真です。同じ命題Pが偽となる公理系であれば、命題Pは偽です。そしてこれは、SumioBabaが主張する《真理の観念論》に近付いているように見えます。

    【真理の観念論】
 真理とは、人間の心の中に観念として存在し得るだけであり、心を離れて「実在」するものではない。「○○○である」と「○○○でない」のどちらが真理かを人間がまだ解明していないとき、どちらが真理であるか確定してすらいない。「どちらが真理なのだろう?」と人間が問い、どちらが真理なのかを実験・観察によって見極めようとするとき、初めて真理はどちらであるかが決まる。しかも真理は、片方だけでなく両方である。「○○○である」が真理だと認識した方は「○○○である」の方だけが真理だと思い込む。「○○○でない」が真理だと認識した方は「○○○でない」の方だけが真理だと思い込む。どちらも、自分が住む世界でのみ成立する相対的真理でしかないのに。もちろん、人間の心が認識していない時には物質世界など実在していないし、物理状態も確定していなければ、どんな物理法則に従うかも確定していない。// → http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-650,651,652,653,654,662,663,664,665,711,750,751,973,1000#a

8日前 No.7

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

SumioBaba さん

>>6

 あまり議論のフォローをせず、よく考えていませんが、
 「あたりまえではない」については、まず「あたりまえ」であることの真偽は、あるAについてであっても、すべてのAについてであっても、一意に定まらないのではないでしょうか。
 命題として可能性が低くないですか? だれが「あたりまえ」を定義づけし、その正統性を主張でき、そして、それをだれもが受け入れざるを得ない状況になるのでしょうか?
 なので、「あたりまえではない」は、特定の文脈で使わず、一般的に使った場合、意味のない文章ではないかと思います。

 「そもそも「真理」とは何か?」「「真理」とはどう表現されるものか?」「そのような「真理」って本当に存在するのか?」といった深遠な議論にならず、申し訳ございません。
 なお、このスレも他との重複を感じ、問題設定が不明で、意義を見いだせないので、これ以降は別のスレでしませんか?
 この件で意義あるやり取りにできる能力があるか私に自信はありませんが…

7日前 No.8

★mB9C77Zv8y_seD

>>6  馬場さんへ

> 「そもそも「真理」とは何か?」「「真理」とはどう表現されるものか?」「そのような「真理」って本当に存在するのか?」という議論になると思います。


真理についての議論を想像すると、恐らくは水掛け論に終始すると思います。ですので、私は、真理についての議論にはあまり積極的には参加せず、基本的に他の方との議論が始まるのであればそれをロムすることにしたいと思います。

7日前 No.9

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>6

相対主義によると、「絶対的な真理は存在しない」。
故に「絶対的な真理は存在しない」が「絶対に正しい真理」である。
すると「絶対的に正しい真理」が存在してしまうので、「絶対的な真理は存在しない」とする相対主義は誤りということになる。


この手の主張に似ている気がします。
「自己言及+否定」の構図から矛盾が生じるのは、当たり前な気がします。

6日前 No.10

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>8  えぴめてうすさんへ

> 「あたりまえではない」については、まず「あたりまえ」であることの真偽は、あるAについてであっても、すべてのAについてであっても、一意に定まらないのではないでしょうか。

> 命題として可能性が低くないですか? だれが「あたりまえ」を定義づけし、その正統性を主張でき、そして、それをだれもが受け入れざるを得ない状況になるのでしょうか?

> なので、「あたりまえではない」は、特定の文脈で使わず、一般的に使った場合、意味のない文章ではないかと思います。


 「あたりまえではない」は、主語が無いから命題ではないし、そもそもどういう意味なのかも曖昧なので「意味の無い文である」というのが適切でしょうね。真偽を議論したいのであれば、主語を付け、きちんと意味が解るように表現すべきだと思います。


>>9  時さんへ

>真理についての議論を想像すると、恐らくは水掛け論に終始すると思います。ですので、私は、真理についての議論にはあまり積極的には参加せず、基本的に他の方との議論が始まるのであればそれをロムすることにしたいと思います。


 そうですか。残念です。水掛け論になった場合にこそ、「なぜ水掛け論に陥ったのか?」「水掛け論に陥るのを防ぐにはどうすれば良いのか?」という点が重要な哲学的問題だと思ったので、ご意見を伺いたかったのですが、残念です。


>>10  Mobiusさんへ

>「

>相対主義によると、「絶対的な真理は存在しない」。

>故に「絶対的な真理は存在しない」が「絶対に正しい真理」である。

>すると「絶対的に正しい真理」が存在してしまうので、「絶対的な真理は存在しない」とする相対主義は誤りということになる。


>この手の主張に似ている気がします。

>「自己言及+否定」の構図から矛盾が生じるのは、当たり前な気がします。


 「相対主義」の場合は、当然、無矛盾な世界での話ですから、「「絶対的真理」は存在しない。ただし、2つの例外有り。「論理的必然性で恒真な命題は真である」と「論理的必然性で恒偽な命題は偽である」の2つだけは「絶対的真理」である。」ではないのでしょうか?

6日前 No.11

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

私を含むすべての哲学は、 >>5 で完結しています。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により、投稿者の判別をお願いします。)

2日前 No.12

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_RBc

http://mb2.jp/_tetsugaku/1116.html 」のとおり、 >>12 を滅尽した。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_RBcにより、投稿者の判別を願う。)

1日前 No.13
ページ: 1

 
 
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