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絶対善の定義

 ( 哲学掲示板 )
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shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

善の定義が2000を超えましたので、その続きです。正しいもいい加減な正しさでは役に立ちません。ゆえに善もいい加減な善ではなく絶対善を探求していきたいと思います。

私が絶対善の定義をどのようにして導いたのかを書いてみます。
私たちは普通、自分の考えたことは正しいと思っています。しかし本当にそうなのでしょうか? ではどのくらい自信を持って正しいと思っているのでしょうか? 私は自分の考えに対して「命や全財産を賭けても自分の意見は正しいと言えるのだろうか?」と自問自答したとき、自分の考え、意見に対してまったく自信がなくなってしまいました。
自分の考えに対して全財産どころか数十万円ぐらいしか賭けられなかったのです。これは口では自分は正しいと言いながら、心ではほとんど信じていないと言うことです。これは詐欺行為に当たります、恥ずかしい行為です。

それから私は「正しいとは一体何なのだろうか?」と考え始めました。しかも曖昧な、いい加減な正しさでは役に立ちません。やはり正しいも絶対的な正しさでなければならないのです。また善と言っても、それもやはり絶対善の意味でなければならないのです。
絶対的な正しささえ分かれば、どんな問題でも、この「絶対的正しさ」に論理的、道理的に合致してさえしていれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。 絶対的正しさが分からないから私たちは自信を持って主張することが出来ないでいるのです。絶対的に正しいことが分からずに議論しても何の価値があるのでしょうか。

「正しい」を辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。つまり絶対的なあるべき姿があり、それと合致するから自分の考えは本当に正しいと言えるのです。
例えば数学の問題が出たとします、その問題にはすでに正しい式と答えがあります。それが正しいあるべき姿です。その正しいあるべき姿と自分が考えた式や答えが合致していて初めて「自分の考えは正しい」としてマルがもらえるのです。このように正しいとはあるべき姿に合致して初めて正しいと言えるのです。

正しいあるべき姿を考えずに「ただ自分が考えたことが正しいのだ」なんて少し傲慢すぎると思いませんか、自分は神ではないのですから。しかし世間ではすべてこうなのです、あるべき姿がないのです。自分が考えたことが正しいと主張する人ばかりなのです。ですから私は自分自身に問うたように相手に対しても「命や全財産を賭けてもそう言えるのですか?」と問うのです。「恥ずかしくはないのですか?」と問うのです。

正しさには科学的正しさと道徳的正しさがあります。基本的に科学的、道徳的に共通して正しいとは「矛盾がない」と言うことです、合致していると言うことです。辞書にあるように基本的には「正しい」とは「あるべき姿と合致していて矛盾がない」と言うことです。ですから絶対的に正しいと言えるためには「絶対的なあるべき姿」を見つけなければならないのです。その「絶対的なあるべき姿」に論理的に合致していてこそ自分の意考えは正しいと言えるのです。
このブログでは道徳的正しさだけを考える事とします。一般的に道徳的に正しいことを善と言います。ですから善とは何かと考えたのです。

それではまず善の定義とは・・・・

善の意味を辞書で調べれば「善いこと」「道理にかなっていること、また、そのような行為」「道徳的に正しい行為」などとあります。言うなら善は「道理に適っていて善いこと」と言えるでしょう。しかしそれは説明であり本当に知りたい善の本質ではありません。
ネットで善を調べてみましたが、善は人それぞれであり、相対的であるとか、定義できないとか、またいろいろ難しく書いてあるだけで、どれも納得するようなものはありませんでした。そこで、いろいろと自分で考えていたら、これが善ではないのかというものに辿り着きました。
「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗み、詐欺などなどである。ある時、ふと気付いたのはこれら多くの悪なる行為の全てに共通しているのは「他人のことより自分のことばかりを優先して考えているでは?」ということでした。そしてこれを自分が考えたすべての悪なる行為に当てはめてみれば、すべての悪に共通、内包していたのです。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は「自分(私)のことよりも公(みんな)のことを優先することである」ということになる、略して「公(みんな)の為」です。

私より公を優先する行為、つまり愛や思いやりは時代を超え、民族を超え世界に共通する善である。つまり普遍的なものであろうから、これを絶対的善とした。これは帰納法的証明であり、内包的定義です。
最近ではマザー・テレサの評判はあまり良くないようだが、分かり易い例えとして言えば、マザー・テレサのように自分の私欲を抑えて他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろうから、これは世界共通善ともいえます。
また「私より公を優先すること」の意味は「自分のやりたいことを抑えて公の為に尽くせ」ということではありません。憲法にあるように「公共の福祉(公の為)」に反しない限りは自分の為にやりたいことを自由にやってもいいのです。しかし「思いやり」がないものは善なる行為とはいいません。

そして善は本能であり、生まれつきみんなが共通して持っているものなのです。下記のHPのように、まだ理性の発達していない生後数か月の赤ちゃんでも、すでに善悪は分かっていると科学的な実験で実証されています。ですから善、良心はみんなが共通して持っているものなのです、本能ですから相対的ではなく絶対的なものなのです。生物の性は善なのです、つまり性善説が正しいのです。

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html  (赤ちゃんにも善悪は分かる!?)


次に(道徳的に)正しい事(善)とは何か?も考えてみました。

私たちは「大切なものを守ることは正しい」と感じます。
それでは「最も大切なものを守ることは最も正しい」となります。
また世界各国にとって最も大切なものは、その国民の命であろう。つまり「最も大切な国民の命を守ることは最も正しい事である」となる。
また国民、民族の命を守り存続させる事、それはいわゆる種族(民族)保存のことである。
これらから「最も正しいことは種族(群れ、民族)保存である」ということが道理的、論理的に導かれる。これは正しいの演繹的な証明です。これもまた時代を超え世界の各国民、民族にも共通することであるから普遍性もあります。ゆえにこれを絶対的に正しい事とします。
また現代においては種族(民族)が滅ぶということはあまり考えられませんので基本的には「社会の安寧秩序、みんなの幸せ」などが絶対的に正しい事と考えてもいいでしょう。

 私の善の定義のやり方は、善なる行為を多く考えて、その善の本質を内包的定義で見つけたのが絶対的善であり、「大切なものを守るのは正しい」と言う命題から演繹法的に導いたのが絶対的に正しい事です。
辞書では善は「道徳的に正しい事、またそのような行為」とあります。つまり善は事柄と行為の二つがあるのです。
ですから基本的に道徳的に正しい事(善)は「仲間の群れを守る事、またそのような行為」となります。そのような行為に当たるのが「私より公を優先する行為」となるのです。
ですから善なる”事”は「仲間の群れを守ること、社会の安寧秩序を守ること、みんなの幸せを守ること、つまり公の為」です。
そしてまた善なる”行為”は「私より公を優先する行為」です。分かり易く言えば「私欲を少し抑えて公の為と考え行い尽くすこと、略して公の為」となります。このように善は事柄も、そのような行為も、どちらも「公の為」で表されるのです。ですから私は善とは「公の為である」と表現しています。


種族(群れ、民族)を保存することが絶対的に正しい(絶対的善)と言うのは、多くの人も感じていて何となく納得できるにしても「私より公を優先することが絶対的善である」と言われても、私たち凡人にはなかなか納得しがたい定義です。
しかし、この定義をそんなに大げさに考えなくてもいいのです。善にも大から小まであります。我々凡人の善は、お年寄りに席を譲るとか、募金をするとか、ボランティアをやるとか、普段我々がやっている小さな親切、思いやりを実行することも「私より公を優先すること」なのです。
例えば、電車などで席を譲るにしても「自分も疲れている、できれば座っていたい」という自分の思い、私欲がある。しかし相手のことを思いやれば、相手の方が大変であろうと、自分の思い、私欲を抑えて相手の思いを優先して席を譲るというのも小さいながらも善なのです。これが善の定義「私より公を優先すること」の意味なのです。分かり易く言えば「私欲を抑え公の為と考え尽くすこと」なのです。これは「愛や思いやり」でもあります。そして愛や思いやり、親切などの本質が「私より公を優先すること」なのです。
「私より公を優先するなんて私にはとてもできない」と思いがちですが、私たちは日ごろから何気なく行っているのです。余裕のある範囲でやればいいのです。自分のことは何も考えず他人に尽くすと言うことではないのです。勿論、本当に偉い人たちは自分を捨て、みんなの為に尽くしておられる人もいますが、私たち凡人は小さな思いやり、小さな親切をやればいいのです。


私は論理学の内包的定義や演繹法で善の定義を導いたのです、恣意的なものではないのです。善は私たちが理性によって創るものではありません。善のイデアは原始からそこに在るものなのです。善は感情であり、それは見つけるものなのです。
そしてみんなが善なる行為であろうと思うものには何かしら感動が伴うのです。正しさには理性で考えられたもの、つまり法や規範(信号を守る、税金を納める、勉強をするなど)もありますが、これらにはあまり感動はありません。 本能、良心から来る「善いな〜、偉いな〜、心が暖かくなるな〜」などの何かしら感動を伴うものが本当の「善」というものなのではないでしょうか。

もし私の善の定義が間違いであると言うならば多くの人がこれは善なる行為であろうと認めるもので「私より公を優先していないもの、思いやりでないもの」を示せばいいわけです。これを示せない限り、皆さんがどんなに言葉を尽くしても私の善の定義を否定したことにはならないのです。また否定するならば論理的に否定しなければならないのです。自分の考え、価値観に合わないからと言って否定されても善の定義は少しも揺らがないのです。


まとめてみれば、私が見つけた善とはその群れにとって絶対的に正しい事は「種族(群れ)保存をする事」であり、その群れ、仲間を守るために最も正しい行為が「私(自分)より公(みんな)を優先する行為」であると言うことです。もっと分かり易く言えば「私欲を少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」ということです。

勿論、絶対的善である「私より公を優先する行為」で考えても間違うことはあるでしょう。私たちは神ではなく人間であり、完璧な答えなど出せません。例えば思いやりをもって席を譲っても「俺を老人扱いするのか!」と言われることもあります。このように絶対善という行為は絶対的に正しい答え、結論が出せるということではありません。絶対善と言えば絶対的な答えが出せると勘違いしている人もいますが絶対的な答えが出せるならそれは神です。そんな定義を我々人間ができるはずはありません。

私欲を抑えて公の為とみんなで考えても、その結果が公の為にならないこともたまにはあるでしょう。また人生万事塞翁が馬であり、この世の中何が起こるか分からないのです。世界の英知を集めて結論を出しても間違うことも多々あるのです。
私たち人間は絶対的に正しい答えなど出せないのです。それでも「私欲を抑え、公の為とみんなで考える行為」、これだけは総合的に見て絶対的に正しい行為なのです。たとえ間違った結果が出ようと「私より公を優先すること、愛や思いやり」をやり続けることが絶対的に正しいことなのです、それを否定してはならないのです。またこれ以上に正しいことがあると言うならば、それを示してください。


私たち生物にとって一番大切なことはやはり「仲間である群れを守ること」です。そして生物たちは長い年月をかけ試行錯誤をして種族(群れ)保存する為に最も優れたものが「私より公を優先する行為」であると見つけたのです。
また「私より公を優先する行為」を行ってきた種族だけが生き残ってきたと言ってもいいでしょう。それは時には自分の命を捨てても群れを守りたいという本能的なものなのです。これを人間的な言葉にすれば「愛や思いやり」とも言えます。大自然は群れを守る為にはどうすれば一番いいのかを教えてくれているのです。
また人間の欲による他国を侵略するなどの性質は「群れを守りたいと言う本能」である善には含まれていないのです。ですからヒトラーがどうのこうのと言われても困るのです。善とは本来その群れを守り存続させるためにあるのです。

絶対的善である「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」は数十億年の試練、検証に耐えて絶対的に正しいとして遺伝子に書き込まれ本能となり現在まで生き残ってきたのです。つまり数十億年のバックボーンがあるのです。言うならば「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」はこれこそ絶対的に正しいことであると自然界においてはもうすでに決定していることなのです。誰がこの歴史的事実を否定できるでしょうか。そしてそれは今後も生物が存在する限り未来永劫変わることのない普遍的なものでしょう。
それゆえ私は「私より公を優先する行為、愛や思いやり」は絶対的善ではなく「絶対善」であるとして問題はないと思うのです。本来、絶対など神にしか使えない言葉ですが「人は必ず死ぬ」と同じように、あえてこれはもう「絶対」に限りなく近い「絶対善」としても問題はないと思うのです。

そしてそれは人間だけでなく、すべての生物に関する一つの「絶対的”真理”」といえるのではないでしょうか。そして「私より公を優先すること、愛や思いやり」は私たちにとって最も美しいことなのです、「美」なのです。つまり善こそが真であり美なのです。真こそが善であり美なのです。美こそが善であり真なのです。
真・善・美、それらが別々にあると言うのではなく相関関係にあるのです。


善の定義を簡単に言えば、何か問題が起きた時、みんなの為になる一番よい方法は「私より公を優先すること、つまり私欲を少し抑えて公の為とみんなで考えること」なのです。そのように考えることが最も正しい答え、結論に辿り着ける最高の方法なのです。
社会が一番うまくいくためには「愛や思いやり、公の為と考えることなのだよ」と大自然は教えてくれているのです。
勿論、時には間違うこともあるでしょうが、これをやり続けるしかないのです。これこそが他のいかなる方法よりも絶対的に正しい方法なのです、群れを守る為にこれ以上のものはないのです。
やはり何事においても私欲を優先していては正しい結論には辿り着けません。

あらゆる社会的問題は社会の安寧秩序、公(みんな)の為にあります。すべては公(みんな)の為にあるのです、これは真実です。そしてその社会的問題の正しい答え、結論は常に「種族(民族)保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公の為」に合致していなければならないのです。

道徳的に絶対的なことは絶対善しかないのです、その他のものは全て相対的なのです。理性で考えられた法や規範で「これは絶対的である」と考えられている事もすべては相対的なのです。例えば人を殺すことは絶対に悪いと考えられていますが、戦争になれば敵兵を殺すことは善になります。また絶対に良いと考えられている人権さえも戦争や飢餓などの極限状態において、公の為にならないならば悪になるのです。このように絶対に正しいと思われていることでも極限状態になれば変わるのです、つまりすべては相対的なのです。極限状態になれば悪も善に変わるのです、善も悪に変わるのです。「何事もこれは絶対的に正しいことである、または絶対的に悪いことである」と安易に決めつけてはならないのです、極限では変わってしまう事もあるのですから。しかし絶対善だけは絶対的なのです。
そしてまた根拠もなく「自分が考えたことが正しい」などと言う愚かな考えはそろそろ捨てなければなりません。根拠(あるべき姿)がないものには何の価値もありません。常に論理的に考えられたことこそが正しいのです。

以上が私が見つけた善の定義です。皆さん、正しいとは何か、しかも絶対的に正しいこととは何か、が分かったのです。
ですからどんな社会的問題でも、この絶対的正しさ「公(みんな)の為」に論理的、道理的に合致さえしていれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。
そして絶対善である「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」で社会的問題をみんなで考えることが最も正しいことなのです。この絶対善で考えていけば本当に正しいものを創ることが出来るのです。絶対的に正しいことが分かったのですから、この善の定義を基として現在のすべての思想、道徳などをもう一度考え直さなければならないと思うのです。
絶対的正しさ(絶対善)が分からなかった以前のものは全てまがい物かもしれないのです。実際に多くのまがい物の思想があるから、この世の中は混乱しているのです。ですから今までの思想は全てもう一度考え直す必要があるのです。

またこの善の定義は民主主義的な話し合いが出来るという環境が絶対条件なのです。独裁国家などでは成り立ちません。やっと民主主義的な世の中になったのですから、私欲を少し抑えて公の為とみんなで真摯に議論をすれば、正しい答えになる確率はグ〜ンと高くなるのです。公(みんな)の為と言えば全体主義だと批判する人もいますが、絶対善こそが目指すべき本当の民主主義なのです。

この善の定義が多くの人に理解され「正しいとは何か」が分かってくれば国や政府、マスコミなどの権力者に対しても自信を持って「それは正しいのですか!それは公(みんな)の為なのですか!」と言えるようになり、日本は正しい、そして本当の民主主義国家になれるのです。日本が善い国になり世界の模範となれば、それはやがて世界の平和へと繋がっていくのです。

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魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

政治を動かすのも人間です。
善とは(人が決めた価値観)です。

それは変わりませんし、人とは本能的な生き物です。

どれだけ綺麗事を言おうがこのセカイは本能によって動かされるんですよ。
大事なのはその(本能)が優しさか否かです。

ロリ□ンかレイ□殺□者的な趣味かどうかはとかく、
セカイはそのへんの【本能】によって動かされてるようです。

6日前 No.59

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

善とか言う綺麗事ほどその道具なんですよねぇ。

女は男を敬い、キム□さんは区別される、
このあり方を越えた【善】など有りません。

それは結局綺麗事ですから、

6日前 No.60

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

あと1つ、
公のためとか言ってその(公)と認められない人間はどうなりますか、
不要な存在として(公の為)に殺されますか?
どうなんです?
連投失礼

6日前 No.61

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

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5日前 No.62

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

魔人ムシンさん

>本能的な悪もあります、と言うか悪の本質は本能です。<

それでは人間のいない動物だけの世界で何を悪と言うのかを答えてください。動物たちがどんな悪を働いていますか?


>政治を動かすのも人間です。善とは(人が決めた価値観)です。<

人間が決めたものは法や規範です。本来善とは感情であり本能的なものです。その本能的なものを基として人は決まり事、道徳など作ってきたのです。
人が決めたものならなぜ、理性の発達していない赤ちゃんに善悪が分かっているのですか?

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html  (赤ちゃんにも善悪は分かる!?)



>善とか言う綺麗事ほどその道具なんですよねぇ。女は男を敬い、キム□さんは区別される<

あなたには善とは何か分かっていないのに何故そう決めつけるのですか? 善とは優しさ? 優しければ善なのですか?
日本では最高神が女性であり、元来女性を崇拝してきた民族です、これは世界的にも珍しいことです。また朝鮮人や中国人が嫌われるのはあたりまえのことです。これは正当な差別です。公の為なら差別も善である、なのです。
私は言っています、何事も絶対善、絶対悪と決めつけてはならないと。差別は絶対悪ではなく公の為であれば差別も善である。絶対的なものは絶対善だけであると。


>公のためとか言ってその(公)と認められない人間はどうなりますか、不要な存在として(公の為)に殺されますか?どうなんです?<

公と認められないものは仲間外れにされます、頭がおかしい人は隔離されます、凶悪な人は死刑にされます、それほど凶悪でない人はムショに入れられ、お仕置きされ、教育されます。これは現実社会と同じです。まあ、あなたの文章を見ればなんだかな〜と思います。




>>62   伝道者さん

キリスト教は綺麗ごとばかりで空疎な教えです。あなたはいいわけばかりです。たった一度の人生をキリスト教などの邪教に邁進するのはもったいないことである。神道には何の教条もありません。ただ清く美しくありなさい、身も心も、と教えるだけです。それだけで世界で一番の思いやりの民族が出来るのです。こんな国に何故邪教がいるのですか?キリスト教が日本に入り彼らがやったことは神社仏閣の破壊と日本人を奴隷として数十万も海外に売り飛ばしたことです。それに怒った秀吉はキリスト教を弾圧したのです。26聖人というか26人の売国奴を処刑したのは日本を守る為であり絶対善である。

5日前 No.63

存在から @jibutarou ★iPhone=MjF7tXcEQL

そもそも絶対善は存在するのでしょうか。
善悪という考え方自体が人間の欲が発露した結果作り出した概念だと思うのですが…。

この作り方に関しては議論はあると思いますが。1人の絶対的なカリスマが作り上げた善を盲目的信者が絶対善と呼ぶこともあれば、生物の本能的欲求(生存欲求等)が共同体の中でこねくり回されて作られたこともあると思います。

私見ですが、絶対善は存在しません。
私の考える絶対善という言葉の意味がみなさんの考える絶対善と同じかは分かりませんが。

5日前 No.64

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>63

>キリスト教が日本に入り彼らがやったことは神社仏閣の破壊と日本人を奴隷として数十万も海外に売り飛ばしたことです。それに怒った秀吉はキリスト教を弾圧したのです。

聖書には、この様に預言されていました。

マタイ24:11
多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。

どうか偽のキリスト教徒の聖書に反した行いにより、聖書自体を非とされないで下さい。そういったことが起きることを、聖書は前もって警告していました。

テモテ第一4:1-3
霊感のことばは,後の時代にある人たちが信仰から離れ去り,人を惑わす霊感のことばや悪霊の教えに注意を寄せるようになることを明確に述べています。それは,偽りを語り,その良心に焼き金によるような印を付けられた者たちの偽善によるのです。そうした人たちは結婚することを禁じたり,信仰を持ち真理を正確に知る人が感謝してあずかるために神が創造された食物を断つように命令したりします。

例えばカトリックは聖職者の結婚を禁じました。上記の通り、そういったことも全て予め書かれていました。果たしてカトリックは聖書に従っているでしょうか。それとも聖書の権威を被って、聖書に反して悪行を行なったのでしょうか。

マタイ5:15-16
羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。

狼が羊の覆いを被っていたからといって、羊を非としてはいけません。聖書の教え、キリストの教えに従っていたかどうかで、真のキリスト教徒か偽のキリスト教徒か、見分けることが可能です。

4日前 No.65

うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY

キリスト教とか聖書が相手にする(対象者)とは人類とか人間とか地球とか等々であって、そこには国境がないのです。
仏教とか神道は「わが村」「わが町」「わが国家」「わが民族」など境界線があるのですね?絶対善は日本人には

とうてい無理だと思いますがねえ・・・?

4日前 No.66

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

>>64   存在からさん


>私見ですが、絶対善は存在しません。私の考える絶対善という言葉の意味がみなさんの考える絶対善と同じかは分かりませんが。<

あなたは善さえ分かっていない、あなたが言うのは今までの相対的な善です。そんなもので私の絶対善は否定できません。否定するなら論理的にお願いします。善なる行為で愛や思いやりのないものを示してください。それが出来れば私の負けです。


>>65   伝道者さん

>聖書には、この様に預言されていました。<

何だ、聖書は予言の書だったのですね。神に言ってください、予言ばかりしないでもっと良い人間になれるような聖書を書いてくださいと。キリスト信者のいる国は犯罪者だらけで、多神教の日本はこんなのも犯罪が少ない。何故邪教が日本にいるのですか。もう一度言います。一神教が廃れなければ世界に平和は来ないでしょう。クタ〇レ!一神教。



>>66   うさぎさん

>仏教とか神道は「わが村」「わが町」「わが国家」「わが民族」など境界線があるのですね?絶対善は日本人にはとうてい無理だと思いますがねえ・・・?<

善とは本来仲間の安寧秩序を守る為に在るのです。各国が自国の安寧秩序を守る事が絶対善と考えるようにれば、他国を侵略することにはその国民が反対するでしょう。
絶対善は「私より公を優先する事」です。これは愛や思いやりでもあります。思いやりのある日本人こそ絶対善が分かるのですよ。

4日前 No.67

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

私の絶対善をなかなか理解してもらえないので、もう少し分かり易く説明してみる。

あらゆる社会的問題において絶対的に正しい事とは何かを考えてみました。
まず、正しいとは何かを辞書で引けば「正しいとはあるべき姿がありそれに合致している様」とあります。
それでは「あるべき姿」とは何でしょうか。あるべき姿とは正しい根拠、理由ということです。正しい根拠とはみんなが正しいと認めるものです。例えば法律は皆さんが正しいと考えていますね。ゆえに「私の行為は法律(根拠)に合致しているから正しい」と言えます。またDNAは皆さんも正しいと考えているでしょう。ゆえに「彼が犯人に間違いはない(正しい)、何故ならば彼のDNAと犯人のDNA(根拠)が合致しているからである」と言えます。
このようにあるべき姿とは根拠であり、それは「皆さんが正しいと認めているもの」なのです。それと合致しているから「正しい」と言っているのです。

ですからあらゆる社会的問題において「正しい」とは皆さんが「正しいと認めているものに合致していること」ということになります。
そうであれば「絶対的に正しい」とは皆さんが「絶対的に正しいと認めているものに合致していること」になります。
それでは「皆さんが絶対的に正しいと認めるもの」とは何でしょうか。

いろんな社会的問題において皆さんが「絶対的に正しいと認めるもの」を探してみましょう。
例えば消費問題においても消費税を上げるのは正しい、いや正しくないと議論されています。死刑問題も正しい、正しくないと両意見があり激しく議論されています。また憲法改正問題も正しい、正しくないと議論されています。このように考えれば意見はバラバラであり、皆さんが一致してこれが絶対的に正しいと認めるものはないように感じます。

しかしそれらの問題をよく精査してみれば、これらすべての問題の目的は「国民の為、社会の安寧秩序の為、みんなの為」であることが分かるのです。
消費税問題も死刑問題も憲法改正問題もいじめ問題も教育問題も児童虐待問題などなどあらゆる社会的問題は「社会の安寧秩序の為、みんなの幸せの為、つまり公(みんな)の為」であるということが分かります。公の為でない社会的問題などありません。つまり皆さんが「絶対的に正しいと認めるもの」は「公(みんな)の為」ということになります。これは考えてみれば常識的なことで、みんなの為になることは皆さんが正しいと認めるのはあたりまえのことです。私が間違っていると否定するならば公(みんな)の為でない社会的問題を示してください、ないはずです。あらゆる社会的問題は公の為にあるのです、これは絶対です。

これであらゆる社会的問題において絶対的に正しい事とは「公の為に合致していることである」ということが導かれました。つまり絶対的に正しいことは「社会の安寧秩序の為、みんなの幸せの為、つまり公の為」となるのです。つまり絶対的に正しい事、つまり絶対善が導かれたと言うことです。

これらからあらゆる社会的問題において絶対善とは「社会の安寧秩序の為、みんなの幸せの為、つまり公の為」となるのです。

また公(みんな)の範囲とは何かといえばそれは問題により自然と決まります。公は変化するからこそ小さな問題から大きな問題まで対処できるのです。
例えば家族の問題なら家族みんなが公です。家族の問題に他人が口出しはできません。また憲法改正問題などならばこれは国民みんなが公になります。他国が口を挟めば内政干渉になります。このように公は問題により決まるのです。そして公は仲間の群れを指します。敵は含みません。問題というのは基本的に仲間たちで話し合い決めるものなのです。善は基本的に仲間の為にあるのです、群れ社会の安寧秩序を守る為に在るのです。これで以上です。

4日前 No.68

伝道者 @dendousha ★iPhone=yWrYMqchtf

>>67

Shinwoodさん、分かりました。私はここで引き下がりましょう。これまで話を聴いて下さり、ありがとうございました。

4日前 No.69

空の光 ★1k5tCf7ARj_m9i

公に反応するのは・・・戦争を公の善だと言った時代があったから・・・かな?
悲しい思いでをいつまでも持ってしまう。

自分も公の一人・・・だから、自分と同じ思いの人もいる。
でも、それが認められない。自分は公から飛び出たい。
そんな思いで過ごすのをどうやってまわりに伝えればいい?

そう思いつつも独りは寂しいと思う。
なんてわがままな自分。
そんな世の中なのに、公も大事だよと訴えるのは受け入れられない?
あなたも私も公のなかの一人なんだ。
そう思える人が増えればいいね。
でもたまに助け合いを心に持ってる人もいるよね。
人助けをしたってニュースになる。表彰される。

4日前 No.70

地下水 ★KATHFaYqOw_Tbw

>>68  貴方の理屈は大衆迎合主義ですね。赤信号みんなで渡れば怖くない、程度の理屈です。正しい事は論理的な整合性が必要なのです。皆が決める事と正しい事とは原理が異なります。

4日前 No.71

分かりやすく伝えるということ @jibutarou ★iPhone=3C7wXOF6PT

>>64

>あなたは善さえ分かっていない、あなたが言うのは今までの相対的な善です。そんなもので私の絶対善は否定できません。否定するなら論理的にお願いします。善なる行為で愛や思いやりのないものを示してください。それが出来れば私の負けです。<


絶対善とは何でしょうか。
相対善と絶対善の違いは何でしょうか。
「善なる行為で愛や思いやりがないものを示してください」とは、どんなフローを説明してほしいのでしょうか。

愛・思いやりは抽象的な言葉なため様々な立場ら解釈があるものだと考えています。意味の共有を必要とする言葉を使う必要がなければ、使わずに分かりやすく伝えて欲しいものです。もっとも、あなたの考え方を伝えたいという意志がなければ別にいいですが…。

また、私の負けです…とはなんですか?
ここは議論の場で論争の場ではないと考えていますが…!争いに巻き込まないでいただきたい笑笑
好戦的な意見の集合の末に納得できる結論が得られるのなら良いのですが

4日前 No.72

まあこんなこと言っても @jibutarou ★iPhone=3C7wXOF6PT

結局、私の意見を理解できないとはなんと愚かな!!で終わるならそれもまた一興ですがねぇ

4日前 No.73

これはさすがに狭すぎる… @jibutarou ★iPhone=3C7wXOF6PT

>>68

1.法律が正しい…に関しては、おそらく大学で法学を学んでいる人は疑問に感じるもと思います。法律は多数派の価値観を政治家が筆を舐めて作ったものですから。だから法律は多数派の分布と政治家の気分で変わるのですよ。
2.DNAは正しい…に関しても、今でこそDNAというよく分からない理論に多くの人が絶対的信仰を持っているかもしれませんが、ただ、少なくとも疑ぐり深い人は未だにDNAの仕組みが分からなければそれが正しいとは思えないのでは。現に私はDNAが全て正しいとは思っていません。何故ならその仕組みが分からないから。誰かに聞いた話なので一応少し信じている程度です。
→1.2は具体例に対する否定です。

みんなが正しいと思うものというのは、もし仮に存在しているにしても結論からして誰かにとって正しかったものをその誰かがなんらかの方法で広めたものだと考えています。そこにはみんなにとっての正しさに関する信仰の差があります。何故なら、「正しい」は誰かの作った価値観であり、それが広まるには環境の差があるからです。みんなが何をどう指すかはここでは定かではないですが。
→みんなが「正しい」というものに関しての成り立ちを私はこのように考えています。

「公の為に合致していること」=正しい
ということに関して疑義を呈します。

あるものが正しいか否かという基準は、その成り立ちが様々だと考えています。集団の中のカリスマ的1人の人物が作る場合もあれば、集団に属する多数の生存本能からできる場合など様々です。誰かが作ったという点では共通します。
以上から正しいこと=公の為とは異なると考えます。例示して否定します。
例が相応しいかは分かりませんが…私は信号を守りません。私にとってこれは正しいことです。何故なら、それが自分の使う時間を増やすことであり、自分の欲を満たす為だからです。公、つまり自分の属する集団の為ではありません。
少なくとも私という一個人は、一切公の為ではない正しさがあるため、正しいこと=公の為という理論は否定されます。
これは、絶対善(みんなに共通する正しさ)の話ですから。みんなに属する私が正しさの基準を公の為に置いていない以上否定されます。

4日前 No.74

これはさすがに狭すぎる… @jibutarou ★iPhone=3C7wXOF6PT

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4日前 No.75

あき ★iPhone=ynOMsYL3yw

絶対善と銘打って善について論じてるが、そもそも善とは単体で存在できるものでないのでは?

スレをザッと見るに、このスレでは善を論じつつも、善を単体で論じることができていない。

一様になんらかの前提概念がありそれをベースにして善について論じられているから、抽象的な結論を迎えている。

生物にとって、今の社会にとって、法律にとっての善などそれらを無理に一緒くたにしようとするから説得力に欠く論理になっている。

また、スレ主の主張である
□私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり
であるが果たしてそれが絶対的に絶対善に繋がる概念であるとは思えない。

スレ主は以上の概念をもって社会的問題をみんなで考えることが最も正しいと述べているが、善とはそんな狭義的なものなのだろうか。

スレ主の定義では過程が重視されており結果に対する考慮が欠けている。例えば話し合った結果で人類が滅ぶようなことになったとする。それでも果たしてスレ主の言う絶対善の過程をたどっていればそれは善であるのか。また、そうなった場合、スレ主が文中で主張する種の保存という絶対善の前提が崩れてしまうい、スレ主の言うそもそもの絶対善の概念は理論崩壊を起こす。

話を戻してなぜ狭義だと思ったかであるが、以上のように絶対善を考える上では何を命題にしたときの善を考えるのかを明らかにして、絶対善は過程やそれそのものが結果に責任を持てるように定義付けられなければいけない。なぜなら絶対善であるから。

4日前 No.76

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

正しさとは結局正論やまあ正しさ、つまり相対的な物によって成り立つことが必須、
今の世の中は感情論に寄っているのと同じように、
スレ主は公のためと言う事を言った。
これでは結局公平さや平等に欠けると思うがどうか、

3日前 No.77

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

まあ何度も言いますが平等かつ公平な社会が億が一実現したところで、
それを決めるのは人間ですから、不平等もありますよ?

3日前 No.78

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

さらに付け加えて言えば、感情論と言うのは洗脳の結果と言う側面からして正義とは程遠いね。
法律云々の話が出たけれども、法律なんて欺瞞だらけでしかありませんよ。
正義なんてものが有るとしたら【日本を守る事】です。
最低限それが出来ていればよいにしろ、【グローバル】とか言い始める、
法律や国のあり方を決める方々に問題がある証拠です。
公のため、その【公】こそ洗脳されやすいのですよ。

3日前 No.79

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

公のためならば冷静で優秀で公平な見方が必要です。
公のためならば絶対に善であると言うような、意味不明な理屈が成り立つわけもなし、

連投失礼しました。

3日前 No.80

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

>>72  ジブ太郎さん

>絶対善とは何でしょうか。相対善と絶対善の違いは何でしょうか。<

相対善とは人を殺すにも善である時もあるし悪でもある時があるってことでしょう。理性で考えられた正しさはすべて相対的です。
絶対善とはほかに対立するものがないこと、対が絶えている善です。絶対善は「私より公を優先すること、またそのような行為」である。また絶対的に正しい事(絶対善)は「種族保存、群れの安寧秩序を守る事、またそのような行為」ですかね。これらを合体させて絶対善とは群れの安寧秩序を守る事である、そのために最も正しい行為が「私より公を優先する行為」です。

>「善なる行為で愛や思いやりがないものを示してください」とは、どんなフローを説明してほしいのでしょうか。<

ですから善なる行為、「善いな〜」「偉いな〜」と思える行為です。たとえば老人に席を譲っている人を見れば「善い人だな〜」って思うでしょう。このような善なる行為で「思いやりのない行為」を示せばいいのです。だって私の主張は善とは「私より公を優先する事である、つまり愛や思いやりである」なのですからね。善なる行為にはすべて「愛やおもいやり」が内包していると言っているのですよ。


>ここは議論の場で論争の場ではないと考えていますが…!争いに巻き込まないでいただきたい笑笑。好戦的な意見の集合の末に納得できる結論が得られるのなら良いのですが<

私は正しい議論の仕方は弁証法、アウフヘーベンではなく「公の為」にどちらの意見が論理的に合致しているのかと議論することであると主張しているのです。ヘーゲルの弁証法は理想です、きれいごとです。ここの掲示板でどれがアウフヘーベンしていますか、ないでしょ? 正反合など詭弁であるなんて言う人なかなかいないでしょうw


>>74   あのね、法律は一応みんな正しいと思っているのよ、DNAも。裁判すれば法律に合致していれば勝訴するでしょう。DNAも頬間違いはない。道徳的正しさは真ではなく妥当性であるのよ。絶対の真ではなく皆さんが妥当であろうと言うもので決まるのです。

>絶対善(みんなに共通する正しさ)の話ですから。みんなに属する私が正しさの基準を公の為に置いていない以上否定されます。<

あなたが否定しても絶対善はあるのです。皆さん本能的に善なる心を持っていると大学の実験で実証済みです。善は本能から来るのですから絶対的なのです。みんな持っているのです。

>>75   >絶対善=全人類に共通する正しさ<

あなたの決めつけです。善は群れの為にあります。しかしすべての群れにありますから普遍的なものです。

>絶対善と銘打って善について論じいてるが、そもそも善とは単体で存在できるものでないのでは? スレをザッと見るに、このスレでは善を論じつつも、善を単体で論じることができていない。<

文章になっていません。善を単体で論じるとは何ですか?

>スレ主の定義では過程が重視されており結果に対する考慮が欠けている。例えば話し合った結果で人類が滅ぶようなことになったとする。それでも果たしてスレ主の言う絶対善の過程をたどっていればそれは善であるのか。<

種族は現在の種族より多く絶滅してきたことでしょう。人類の英知を集めて出した結論でも間違いはありますし、自然界では何が起こるか分からないのです。絶対的に正しい結果など神しか出せないことです。結果が間違っていたら滅んでもしょうがないのです。しかし私たちが出来ることは「私欲を抑え公の為とみんなで話し合うことが絶対的に正しい方法なのです。結果が悪くても「公の為」をやり続けるしかないのです。自然界では私より公を優先する行為は絶対的に正しいことであると決定しているのですから。

>絶対善は過程やそれそのものが結果に責任を持てるように定義付けられなければいけない。なぜなら絶対善であるから。<

これはあなたの一意見です。絶対善は絶対的に正しい事、またそのような行為です。結果ではありません。絶対的な結果が出せるのは神だけですよw

3日前 No.81

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

>>71   地下水さん

>貴方の理屈は大衆迎合主義ですね。赤信号みんなで渡れば怖くない、程度の理屈です。<

大衆迎合主義と思うかもしれませんが、その大衆は「私より公を優先すること」が出来る大衆ですよ。私欲を前面に出す大衆ではないのですよ。

>正しい事は論理的な整合性が必要なのです。皆が決める事と正しい事とは原理が異なります。<

それはそうです。私も公の為に道理的、論理的に合致していれば正しいと言っています。しかしですね、例えば広島に原爆が落ちたことは事実ですが、マッカーサーに洗脳されて「広島に原爆が落ちたことは嘘である」ってみんな信じていれば私がどんなに「原爆は落ちたのだ!」と言っても皆さん信じてはくれないんですよ。やはり皆さんに認められてこその正しさなのです。ですから私は絶対善は在るって認めてもらおうと頑張っているのですw

3日前 No.82

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

>>76   あきさん  少し前とかぶっていました、すみません。

>生物にとって、今の社会にとって、法律にとっての善などそれらを無理に一緒くたにしようとするから説得力に欠く論理になっている。<

一緒くたではありません。本来は種族(民族)保存が原則ですが、現代では民族が滅ぶと言うことは考えられませんので、社会の安寧秩序を守る事が絶対善と言っています。法律が絶対善などとは言っていませんよ。理性で作られたルールなどは全て相対的なものです。絶対は在りません。


>スレ主は以上の概念をもって社会的問題をみんなで考えることが最も正しいと述べているが、善とはそんな狭義的なものなのだろうか。<

狭義的も広義的もありません、善とは群れを守る為に生物の歴史の中で作られたものです。それが正しいとして本能になっているのです。


>スレ主の定義では過程が重視されており結果に対する考慮が欠けている。例えば話し合った結果で人類が滅ぶようなことになったとする。それでも果たしてスレ主の言う絶対善の過程をたどっていればそれは善であるのか。<

種族は現在の種族より多く絶滅してきたことでしょう。人類の英知を集めて出した結論でも間違いはありますし、自然界では何が起こるか分からないのです。絶対的に正しい結果など神しか出せないことです。結果が間違っていたら滅んでもしょうがないのです。しかし私たちが出来ることは「私欲を抑え公の為とみんなで話し合うことが絶対的に正しい方法なのです。結果が悪くても「公の為」をやり続けるしかないのです。自然界では私より公を優先する行為は絶対的に正しいことであると決定しているのですから。

>絶対善は過程やそれそのものが結果に責任を持てるように定義付けられなければいけない。なぜなら絶対善であるから。<

これはあなたの一意見です。絶対善は絶対的に正しい事、またそのような行為です。結果ではありません。絶対的な結果が出せるのは神だけですよw

3日前 No.83

地下水 ★KATHFaYqOw_Tbw

 善などといってもそこにヤクザがつけ込んで来るだけである。善などといっても仕事で無料奉仕すればそれは会社に対する背信行為である。善と思って行ってもヤクザな御客が美味しいところを取って行くだけである。善と思って行ってもヤクザがつけ込んできて食い物にされるだけである。聖書にも狼の群れの中に子羊を送り込む様なものであるとある。善などといって善人を増やそうとしている者は所詮ヤクザの食い物を増やそうとしているヤクザの親分に過ぎないのである。

3日前 No.84

あき ★iPhone=pOoz3LeeIt

shinwoodさんとっても楽しい。返信ありがと。

□善を単体で論じるとは何ですか?
例えば□本来は種族(民族)保存が原則ですが、現代では民族が滅ぶと言うことは考えられませんので、社会の安寧秩序を守る事が絶対善と言っています。□と述べられていますが以上のように、あなたのあなたの絶対善の概念を構築するロジックには仮定が設定されてます。つまり、あなたの主張する絶対善はあなたの仮定する条件下でしか、あなたの主張を全て是としても絶対善になり得ません。
つまりあなたの主張を全て真理であると仮定した場合であっても『民族が滅ばないという前提の上での絶対善』というのがあなたの言う絶対善です。

しかし、善とはなんでしょう?絶対善とはなんでしょう?その言葉は単体では概念にすぎません。今これを考えていてふと思いましたが、善ならびに絶対善を考える上での前提や仮定をまずここでは論じるべきなのではないでしょうか?
善を単体で論じることができていないと書きましたが、そもそも善を単体で論じることはできないのでは?
善を方向付ける前提や仮定がなければ、善という概念並びに絶対善という概念は存在し得ないのでは?


そういった前置きの上で種の保存に関して現代では概ね心配ないだろうという仮定を是とし、あなたの主張する絶対善の方向性に私は疑問が残ります。

あなたは『社会の安寧秩序を守る事が絶対善』と結論付けましたが果たしてそうでしょうか?
学問の正式名称は忘れましたが人類の進化について言及した学問があります。その中で人類の進化は遺伝的な進化と文化的な進化に大別されると述べられています。
遺伝的な進化とはいわゆる体質的?なものです。脳の大きさや骨格など身体的な特徴や特性と言えるものの進化。この場合の進化とは環境に適応して生き残ると言う意味合いが大きいです。文化的な進化は原始的なものでいえば火を起こす、利用するというところから始まり、現在の高度なシステムなどまで含まれます。
この二つの進化には特徴があり前者の進化には膨大な時間が今の私たちの時間軸からするとかかり、後者は時間にそこまで左右されないという特徴があります。
前者が時間がかかるのは世代を重ねる毎に生存に適した個体が生き残り、その時代その環境に適した優れた個体が生き残ることでの緩やかな進化であるからです。
対して後者はアイデアと技術など時間にとらわれない要素で進化が促されます。そして現代においてはそれは到底遺伝的な進化が追いつける速度を明らかに凌駕しています。その証明が現代病です。

肥満や生活習慣病など、文化的進化によってもたらされた恩恵がかえって毒になっています。

何百年何千年というのは私たちにとって途方もないですが緩やかな遺伝的進化にとっては一瞬で、近代の急速な文化的進化は私たちの生存を脅かす毒の一面も合わせ持っています。

それが今を生きる私たちの抱える社会問題の一端です。

そんないま社会の安寧、秩序を守ることが絶対善だというのは抽象的すぎませんか?
社会の安寧とはなんだ?秩序とはなんだ?もっとよりリアルに突き詰めなければならない。

そういった前提を突き詰めていくことが絶対善へ近づくことなのでは?
それでもあなたがいうように絶対的な結果が出せるのは神だけだというのと同様に、絶対善にも同様に神しかたどり着けないもので、私たちの出す答えなど全て真理ににはなり得ないと思う。

でもサンデルのパクリみたいだけどそれを考えて論じることがこのスレの意義じゃね?とか思うんですけどどう思います?

3日前 No.85

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

>>85   あきさん

>shinwoodさん、とっても楽しい。返信ありがと。<

そうですか。私も楽しくなりそうで嬉しいですよ。「とっても楽しい」と言う言葉にはどんな意図があるのでしょうか?w あきさんの文章を読んだところでは論理的な話をされる人だとお見受けしました。今まで論理的らしき人達もいましたが、みんなどこかにお隠れになってしまいましたw 寂しかったのです。あなたはすぐにお隠れにならないでくださいね、少しは楽しませてくださいw

「善などといってもそこにヤクザがつけ込んで来るだけである」という人やキリスト教や仏教の言う善、または西洋の哲学者の言う善を「信じる」人達ばかりでうんざりしていたのです。彼らは偉い人たちの言うことを信じる人たちであり、疑い哲学する人たちではないのです。

はっきり言って私は哲学の本は一冊も読んでいません。つまり哲学にはド素人です。しかし私は常識で充分彼らとは対峙できました。ここには哲学は学んではいるが常識というものがない人が多いのです。
例えば私が「心から本当に信じていれば、命さえ賭けられるのだ」と発言すれば彼らは「それには論理的必然性はない」と言って私の言葉は間違いである、と否定するのです。

例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないと心から信じているから、あのような高いところから命を賭けて飛び降りることが出来るのです。ところが「私は心から信じていても飛び込みたくないから飛び込まない、ゆえに論理的必然性はない」というのです。
論理的必然性があるかどうか知らないけれども、バンジージャンプをやっていると言う事実があるのだから「心から信じていることには命を賭けられる」と言う言葉は事実であり否定しようがないではないですか。このような常識が全く通用しないのです。あきさんには常識があると願っていますよ、そうでないと話になりません。

あなたの >>85  の投稿は私の「絶対善の定義について」 >>0 を読まれていないと思いました。他の皆さんもよく読まないで質問する人が多いのです。絶対善というソクラテスやプラトンやカントさえも定義できなかったものを定義したと言うのですから必然的に少しは長い文章になります。
でも質問するならそれくらい読んで質問するのが礼儀だと思います。最新の「善の定義について」は私の下記のHPに書いていますのでそちらを読んでください。そこに投稿の答えは書いてあると思います。それでも疑問があれば質問してください。

https://ameblo.jp/shinwood/entry-12277885699.html   (絶対善の定義について)

2日前 No.86

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

shinwoodさん

賭博とは、金銭や品物を賭けて勝負を争う遊戯のこと。

賭(け)事、博打(ばくち)、博奕(ばくえき)、勝負事とも。英語ではgamblingと呼ぶのが普通であるが、

カタカナでは「ギャンブル」と表記されることが多い。gambleは娯楽としての賭博も含む広い考え方であり、

危険性の高い冒険や意味のある危険、潜在性のある利益に手を付けること等という意味がある。

2日前 No.87

宿題 ★3TsXnx7VJG_keJ

shinwoodさん

命を懸ける

命を捧げる

この格の違いがお判りでしょうか?

2日前 No.88

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

宿題さん

あなたは他の掲示板で議論をしてコテンパンにやられてそれがトラウマになって今では議論できなくなった。

国会でいえば議論はせずにヤジを飛ばしているだけの人となった。

私はいつも疑問に思うのですが西洋の哲学者の言うことは正しいの?ヤスパースを何故信じるの?

例えば私はカントなど善は全く分かってないと思うから信じないが皆さんは偉い哲学者たち、例えばカントの言ったことだからと直ぐ信じている。カントの言ったことは正しい!とね。

勿論カントたちが善はこうであると考えるのはいいが、そう考えたならばその考えをちゃんと論理的に説明しなきゃならないでしょう。ところがそれはやらない。だから友人を殺しに来た殺人鬼に対しても嘘を言ってはならないなんて馬鹿なことになる。

正義論を語るにしても自分はこう考えたと書くが、それを道理的、論理的に彼らは証明してはいないでしょう。これは哲学ではないよ。そしてあなた達も偉い哲学者の言うことをただ信じている信者であり哲学はやっていない。私の方が余程哲学的だ、善の定義を常に論理的、道理的に考えている、じぶんなりに。

宿題さん、あなたがヤスパースから学んだことが正しいと思うのならそれを信じて議論しなさい。もうやじるのはそろそろやめて議論に参加しましょう。そうしないと進歩しませんよ。

2日前 No.89

地下水 ★KATHFaYqOw_Tbw

>>86  あなたの常識は間違っている。だいたい教養が感じられない。

正義の為に戦うというのは戦争における方便である。御互いが正義だと思い御互いが同胞を殺されて相手が悪だと思っている。正義の味方といえば所詮架空のヒーロー漫画なのである。現実にはシンドラーのリストの様な悲惨な結果を招く。原爆投下や東京大空襲の様な非人間的な行動を正当化するのである。正義の正は正当化の正である。正義とは軍隊に属する用語である。

一方で善はこれらとは全く異なる。慈善活動と言われる様にチャリティを指すのである。正と善を混同するのは貴方が稚拙だからである。善というのは宗教家などの慈善活動家に属する言葉である。

2日前 No.90

あき ★iPhone=pOoz3LeeIt

shinwoodさん
僕はねこういうのが大好物なんです笑
だからとっても楽しいって言葉に他意はありませんよ。

さて。本題ですが、読んでますよ?ぜろ。
善を定義付けるのに悪を用いて、悪のアントが善であるといういう論法で、辞書などにある善の定義ではなく、あなたなりの善という概念を再定義して絶対善を目指すというのがあなたの絶対善の途中式であると認識しています。

レスに関しては二つ目のものは一つ目のshinwoodさんの返信に対するものなので0の主張は考慮せずに返しましたが。。


一気に議論するのは難しいのであなたの言う悪のアントが善であるというところから私見を述べさせていただきます。

まず疑問として挙げられるのは、あなたが悪に共通するのはその全てにおいて、それらは利己的なものであるとしている点です。果たして本当にそうでしょうか?
あなたはそれを根拠に、そのアントである公のためというのが善であると述べていますが果たして本当にそうでしょうか?

そもそもの悪の定義に不確かさを感じませんか?
あなたが悪と定義付けるものには微塵も善性が付け入る余地はありませんか?
それを悪とする根拠はなんですか?

今夜はこんなところで。
また明日。

2日前 No.91

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

>>91   あきさん

>僕はねこういうのが大好物なんです(笑)<

そうですか、それならお相手いたしましょう。でも自分に分が悪くなれば途中から逃げだすようなマネはしないでくださいよ、ほかの人達みたいにw
まず私は悪を議論したくありません、悪は嫌いなのです。ここでは悪とか悪魔とかについて議論する人もいますが、虫唾が走ります。悪は善の反対なのですから善が分かれば必然的に悪は分かります。それであなたの質問を善で書き直します。
しかしあなたの質問を見ればあなたは私のブログを読んでいないと感じます。もし読んでいないなら、先の投稿で示したブログのリンクを読んでください。あなたの質問の答えはそこに書いてある質問です。

>まず疑問として挙げられるのは、あなたが善に共通するのはその全てにおいて、それらは利他的なものであるとしている点です。果たして本当にそうでしょうか?<

この真意は何でしょうか? 善が利他的なものであると言うことに何故疑問がわくのですか?
私の善の定義のやり方はまず内包的定義です。知っていますか?内包的定義。 多くの善なる行為を考えてみて、そのすべてに内包していたのが愛や思いやり、親切心、慈悲心などです。そしてまた愛や思いやりなどにすべて内包していたのが「私より公を優先すること」だったのです。これこそが多くの善なる行為の本質なのです。ですから善とは「私より公を優先すること、またそのような行為」であると定義したのです。私はあれこれこねくり回して善の定義を自分で作り上げたのではなく、本来そこにあるものを見つけたと言うことなのです。善のイデアは原始そこに在るものなのです。そしてそれは見つけるものです、恣意的に作り上げるものではありません。

>そもそもの善の定義に不確かさを感じませんか?あなたが善と定義付けるものには微塵も悪性が付け入る余地はありませんか?それを善とする根拠はなんですか?<

意味がよく分からない、何故善に悪性が付け入る余地がなければならないのか? また善とする根拠は、論理学の内包的定義により導かれた論理的なものだからです。ですからあなたが私の善の定義を否定するならば善なる行為で思いやりの内包してない行為を示せばいいのです。(善なる行為とは何か善いな〜と感じるような行為です、例えば老人に席を譲る行為や困っている人を助けている行為、砂浜に打ち上げられたクジラを海に返そうと頑張っている人たちの行為、津波が迫ってきているのに住民を避難させるためにアナウンスし続けて死んだ女性の行為などです)

私が考えた善なる行為にはすべて「私より公を優先すること」が内包していたのです。ですからあなたが「愛や思いやり」を内包していない、あなたが考えた善なる行為を示せば私が間違っていたと言うことになります。これを示すことが論理的に否定すると言うことです。私は善を論理的に導いたのですから、論理的に否定しなければなりません。しかしまだ誰もそれを示すことが出来ないのです。まあ、これはあなたにとっても難しいことでしょうから、また新たな質問を受け付けますよ。何なりとどうぞ。

1日前 No.92

宿題 ★eM1n2yJmTo_8Ou

shinwoodさん

88番にお答え願います・・

1日前 No.93

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

宿題さん



>命を懸ける

>命を捧げる

>この格の違いがお判りでしょうか?88番にお答え願います・・


分かりません、詳しく教えてください。

1日前 No.94

宿題 ★sicIy89Ne4_Tbw

shinwoodさん

命を懸ける・命を賭けるの意味を解らずに使っていたのですか?

1日前 No.95

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

人は誰しも自分が可愛い物です。
自分が良ければよい物です。
誰しもがそこに折り合いを付ける、

それが【善】です。

そしてそれは強いもの勝ちです。

それが善のあり方です。

公の為は結局綺麗事です。

1日前 No.96

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

良い人間も悪い人間も居て、
それぞれに理想や理屈がある、
そこに折り合いを付けるのが善ではないでしょうか?
もっとも世界は一握りのエリート達の思い通りに成りつつありますが、皆が納得した形であればそれも善と言うのでしょうか?

昔は女は男より下に置かれていて、何故かそれでも、今よりも心有ったのがこの国であり善でした。

皆が幸せになれるのを望む人も居れば望まない人もいる、
善と言うのが皆が幸せに成れると定義することなら、
公の為と言うのはおかしいですね。
公以外の人の事を無視していますから、
いや、少なくとも公の人だって、
ひたすらに自分の信じる神を崇めたい方、
ひたすらに唯我独尊の方、
屑は□ねば良いと言う方、
犯罪者にもっと残酷に当たれと言われる方、
たくさんいますよ。

全員が幸せに成ると言うのは、全員の理想を叶えるのは不可能です。

社会はつねに流れ行く、善も悪も変わる、それを受け入れるしかない…、

1日前 No.97

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

もっと言えば個人の趣味や趣向を広く受け入れるべきです。
表現の自由などは典型です。
今はそれを悪く言われる方ばかりですが、
この窮屈な世界で自由でいられる所は死守すべきです。
公の為にも公でない人の為にも必要です。
後は他人の権利を侵害しない事でしょうか、
只そんな世の中は来ませんが…、

1日前 No.98

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_RBc

「公」を「世界」や「公共」、「みんな」と見なしても、「世界」とは何か、「公共」とは何か、「みんな」とは何か、という疑問が残る。すなわち、「公」とは、人それぞれの思い込みを認めるものであって、本質的に相対なのである。しかしながら、その人が「これが絶対だ」と思い込めば、その人にとっては「絶対」になるのである。これは宗教と同様の信仰(妄信)である。論破である。

1日前 No.99

あき ★iPhone=pOoz3LeeIt

shinwoodさん

>>善が利他的なものであると言うことに何故疑問がわくのですか?


あなたの言う善は行為という結果に対して、第三者視点で論じているだけだからです。
行為というのは一つの結果であり、そこに至るまでには過程があります。
例えばカントの提唱した定言命法や仮言命法は行為という結果に至るまでの過程には差異があり、同じ行為でもまったく違う意味を持つということを述べています。

あなたが善なる行為の例に挙げた砂浜に打ち上げられたクジラを海に戻そうとするというのも、愛や思いやりでクジラがかわいそうだと思って海に戻そうとする人もいれば、砂浜でクジラに死なれて悪臭や伝染病などの温床にならないように海に戻そうとする人もいるわけです。

前者は定言的な心によって行われた行為で、後者は仮言的な心によって行われた行為です。


あなたが善や悪の例として挙げている行為は、どれもそういった多面性を孕むものであり、ある行為がなぜ善でありある行為がなぜ悪であるのかということを論じることができていないのです。

優しい殺人だって思いやりのある詐欺だってあります。
行為というのはそれ自体が本質になりうるものではありません。

あなたはあなたの善の定義は、内包的定義で定義付けたものでありそれは恣意的なものではないと述べていますが、行為だけを抜き取ってみるのであればあなたの主張はベンサムの功利主義、最大多数の最大幸福と変わりないように聞こえます。

私も哲学にそんなに造詣が深いわけではないのですが、最大多数の最大幸福というのがあなたの定義する絶対善の考えを包括できてしまうように思います。


絶対善を考えていく上で私が大切に思うのは行為ではなく、その行為の本質がある心です。そこにあなたの言う善のイデアはあるのだと考えています。

しかし、それを解き明かすのはとても困難です。誰が言った言葉か忘れましたが、言葉とは砂浜に広げられた網の目のようなものだ。という言があります。

端的にいえば、言葉なんて人間がなんとなくわかり合うために、漠然とそこにあるものを切り取っているだけであると言うことです。例えば水色。世界中の子どもに川の絵を描いてもらうと日本なら水色。薄い青が描かれることが多いですが、他国では黄色や赤などの川が描かれることも珍しくありません。国や環境によって、水色という言葉一つとっても、全ての人が同じものを思い浮かべるのは難しいです。

行為というのはわかりやすいです。視覚的にも見えるし、見るという行為を通してわかった気になれるからです。それを通じて理解出来ることも多いです。

しかし、それは本質ではありません。善のイデアは心にあります。それを言葉という不完全なツールを使って論じなければいけないのが難しいのだと私は考えています。

しかし、心は見えません。しかし、善のイデアは心にある。しかし

1日前 No.100

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

はっきり言ってしまえば善悪は人間が作り出した虚構です。
人が人を騙し陥れるために作り出した虚構です。

そんなものに絶対も何もありませんよ。

1日前 No.101

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_8Ou

>>100   あきさん

>あなたが善なる行為の例に挙げた砂浜に打ち上げられたクジラを海に戻そうとするというのも、愛や思いやりでクジラがかわいそうだと思って海に戻そうとする人もいれば、砂浜でクジラに死なれて悪臭や伝染病などの温床にならないように海に戻そうとする人もいるわけです。
前者は定言的な心によって行われた行為で、後者は仮言的な心によって行われた行為です<

定言的、仮言的? バカなカントが言ったことなどどうでもいいのです。生きているクジラを救うのはクジラ(公)の為であり、腐ったクジラを海に戻すのは住民(公)の為です。いずれも公の為であり善である。これらは「善とは公の為である」に合致している。何の矛盾があるだろうか。


>優しい殺人だって思いやりのある詐欺だってあります。行為というのはそれ自体が本質になりうるものではありません。<

優しい殺人も公の為なら善である。思いやりのある詐欺も公の為なら善である。公の為ですべて調います。善とは簡潔に言えば公に益する事、悪とは公に害する事である。善も悪もできない我々凡人は善と悪の間をうろちょろしている存在である。

>私も哲学にそんなに造詣が深いわけではないのですが、最大多数の最大幸福というのがあなたの定義する絶対善の考えを包括できてしまうように思います。<

良く私の善の定義は功利主義と言われる。少し調べてみたが功利主義も種類が多くてよくわからない、中には多少合致するものもあるかもしれない。しかし功利主義に「善とは私より公を優先する事」であると書いてあるなど聞いたことがない。私の言う善は公の為に益するものが善であると言うもの。ゆえにヤクザ10人の命とipsの細胞の山中教授一人の命のどちらを救うかと言えば山中教授である。功利主義などよく知らないから同じというならそれを示してもらいたい。


>絶対善を考えていく上で私が大切に思うのは行為ではなく、その行為の本質がある心です。そこにあなたの言う善のイデアはあるのだと考えています。しかし、それを解き明かすのはとても困難です。誰が言った言葉か忘れましたが、言葉とは砂浜に広げられた網の目のようなものだ。という言があります。<

意味が分からない、その行為の本質がある心とは何ですか? 善なる行為のすべてに内包しているもの、本質こそが「私より公を優先すること」です。心ではなくそれこそが善のイデアです。困難だからこそ今まで見つけられなかったのです。これがプラトン達が探していた善のイデアです。善のイデアこそ「私より公を優先すること」なのです。

>水色という言葉一つとっても、全ての人が同じものを思い浮かべるのは難しいです。<

当たり前ではないですか。言葉の意味とはその地域で使っていくうちに分かってくるものです。条件や環境が違うのだから言葉の意味も違います。わびさびなんて外国人に言っても理解しません。でも日本で暮らして何度も使っていくうちに何となく意味が分かってくるのです。でもその言葉の本当の意味、本質とは何かは分かりません。美しいとは何か?と言われても美しいとしか言えません。それでも美しいと言えば何か素晴らしいものというイメージはみんなに共通していくのです。それがイデアです。


>善のイデアは心にあります。それを言葉という不完全なツールを使って論じなければいけないのが難しいのだと私は考えています。<

私は哲学書は読んでいません、あなたの考えの基はどんな哲学者たちの思想なのですか? イデアを言葉で表現することは困難を極めます、しかしそれでも何故か善のイデアだけは定義できたのです。私は志賀島で金印を見つけた農夫と同じで凡人ですが、パッとひらめいたのですから仕方がありません。善なる行為は愛や思いやり、慈悲心、親切心などでしょう。それらにすべて内包しているのが「私より公を優先すること」なのです。まだ疑問が在れば何なりとどうぞ。



>>101   魔人ムシンさん

>はっきり言ってしまえば善悪は人間が作り出した虚構です。<

この言葉はあなたが作り出した根拠のない虚構です。

>人が人を騙し陥れるために作り出した虚構です。<

この言葉はあなたの人間性から出た虚構です。

>善悪、そんなものに絶対も何もありませんよ。<

私はあなたのような論理的でない人たちの投稿にうんざりしているのです。ですから正しいとはあるべき姿があり、それと合致していることであるとしつこく言ってきたのです。あるべき姿とは根拠、理由(分け)です。自分の意見が正しいと言うためには、正しい根拠を示しなさい。それを示せないものはただの意見です。子供でも言えます。ここは哲学掲示板です。大人の掲示板です。

11時間前 No.102

★Tablet=91f19ZBCYj

>バカなカントが言ったことなどどうでもいいのです

>私は哲学書は読んでいません

>少し調べてみたが功利主義も種類が多くてよくわからない

>私はあなたのような論理的でない人たちの投稿にうんざりしているのです

>ここは哲学掲示板です。大人の掲示板です


読みもせずちっとも分かっていないのによく言えますね笑

10時間前 No.103

地下水 ★KATHFaYqOw_8Ou

>>102  それは賛成ですね。では山中先生では無くて、中学校の先生と貴方の子供のどちらの命を救うと良いと思いますか。

10時間前 No.104

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

shinwoodさん

では事細かに大人のを説明しましょう。

あのですね【善悪】だ一般人が理想として言うからには良いですよ。
それは、因果応報にもとずいた思い遣りの意見なのです。

しかし大部分の国家や大企業がそれを言うときは詭弁にすぎません。
彼等が裏で何を意図しているかと言えば、お分かりに成るでしょうか、

一般人がそれをのべる場合でも【善悪】と言うのではなく、
感情ですそれは、
私は自分のふざけた人間性は抜きにして公平に話しているのですよ。

10時間前 No.105

魔人ムシン @majinmusin ★Android=zZdgF3cyKK

白人がインディアンを迫害し、日本を戦争に追い込んだ頃から彼等のやり方は変わりません。
今はそれを【善悪】と言う架空のオブラートに包んだ上で正当化しているのですよ。

「憐れみ」など要らないと、言い、【人権】というものがあり、そんな架空の物を推している自分は【善】なのです。

あのですね、私にあるのは【憐れみ】だけです。
別に憐れに思おうが人の勝手じゃないですか?
ねえ、そういう風にしてほんの小さな思いやりを迫害しているのですよ。
故に善悪など架空の概念なんですよ。

10時間前 No.106

あき ★iPhone=pOoz3LeeIt

shinwoodさん


>>定言的、仮言的? バカなカントが言ったことなどどうでもいいのです。


何を基準にカントをバカと述べているのか意味不明です。あなたの発言はところどころ論理的でない。カントがバカであると仮定しても、「カントがバカである」ことと「カントの言ったことがどうでもいい」ことは=になりません。論理的な議論を要求します。

>>生きているクジラを救うのはクジラ(公)の為であり、腐ったクジラを海に戻すのは住民(公)の為です。いずれも公の為であり善である。これらは「善とは公の為である」に合致している。何の矛盾があるだろうか。


それは結果論でしかないと私は述べているのです。前項の仮言命法、定言命法はその差異を言葉で説明するのに明瞭な概念であったため用いたのです。
クジラを助ける行為や、死んだクジラを海に戻す行為は確かにあなたの言うような公のための側面がありますが、同時に公でない側面ももっています。あなたの論理ではそれを否定できておらず、それを否定できないということは、それが公のための行為であると定義付けること自体が論理的でないと言っているのです。簡単に言うとあなたが言っていることは単なるこじつけにしかなっていないということです。


>>私の言う善は公の為に益するものが善であると言うもの。ゆえにヤクザ10人の命とipsの細胞の山中教授一人の命のどちらを救うかと言えば山中教授である。功利主義などよく知らないから同じというならそれを示してもらいたい。


うーん。だからあなたの言うことは論理性に欠いています。山中教授を生かしてヤクザ10人を救わないことがなぜ公に益することであと言い切れるのかの論理が見受けられません。山中教授の実績はおっしゃる通り素晴らしいものですが、これから先に何か人類に貢献するような発見をする保証はありません。何もなければただただ一般人からしたら莫大なお金を浪費し続ける一発屋です。対してヤクザ10人ですが、ヤクザだって経済活動をしています。それが健全な稼ぎ方で稼いで消費し、一般人にも迷惑をかけないで粛々と人生を終えた場合、ヤクザの方が今後の日本社会にとって有益な存在であると言えるでしょう。あなたの言うことは、一般常識で言えばごもっともですが、常識を是として疑問を抱かないのであればここで議論する意義はありません。

なにかをするときの善し悪しを考えたときにより多くの人が幸せになることをしようよ。っていうのが最大多数の最大幸福への私の理解で、功利主義への私の理解です。
あなたの主張を包括するものであると考えた点ですが、一つ目に行為という結果で物事の善し悪しを測ろうとする点。個人の内的な側面は考慮せず、行為がコミュニティにもたらす結果を重視しています。二つ目に個人単位などではなく、コミュニティ単位で問題に取り組もうとしている点。あなたの表現だと公や群れがこれにあたります。
三つ目にそのコミュニティ単位で考えたときに益があることこそが是であるという姿勢。
以上の三点があなたの考えが仔細用いられている言葉は違うものの、その本質は功利主義と相違ないと考えた理由です。


>>私は哲学書は読んでいません、あなたの考えの基はどんな哲学者たちの思想なのですか?


私の考えは私の考えで、私の思想によってのみ語られています。前にも述べましたが、私は別に学問としての哲学に造詣深くありません。ハーバード大のサンデルの哲学の授業で軽く知った程度です。
だからそういう偉人の哲学がどうとかよりも、日々接する人、社会、文化芸術など様々なことから学ぶ哲学の方がよっぽど大きい。だからどんな哲学者が基かとか言われても特にありません。

4時間前 No.107

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

いやー、shinwoodさん、性懲りもなくまたスレ建てしてるんだねー(笑)
賛同が得られるわけないと思うんだけどな〜
ちょっと息抜きに寄ろうと思っただけなんだけど、からかうだけだと悪いから、
shinwoodさんの主張がいっこうに認められない理由について、これまであんまり言ってなかった観点から意見を述べておこうと思います。

@ これまで私だけでなくいろんな人が指摘・批判してきたけど、スレ主さんの「絶対」「絶対的」というのは、学問的概念としては無価値なもの。
にもかかわらず、shinwoodさんがこの「絶対」にこだわるのは、 >>0 を読んでも明らかだけど、スレ主さんにとって「真理」というのは「命をかけられる」ものでなくてはならず、それゆえ「無謬なるもの」でなくてはならない。
その意味で「絶対正しくなければならないもの」なんだね。でなくては真理というに値しない。
で、これは要するに、スレ主さんの言う「真理」が、いわゆる宗教的原理主義者の信奉する「原理」と同じである、ということを意味する。
つまり、原理主義的原理たりうるものでなくては、「真理」というに値しない、というのがスレ主の真理観なわけです。
すなわち、スレ主さんの真理観は、原理主義的真理観である。

A スレ主さんのメインの主張である善の根拠を公に置くというのは、要するに全体主義的倫理観です。
そう言えるのは、スレ主さんは、何の罪もない仲間(共同体成員)である個人を、自分を含む共同体全体(民族・大勢)存続のためであれば、犠牲にしてもかまわない、すなわち公( 全体)のためであるがゆえに善であるという考えだから。
たとえば、前スレ( http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html )での議論を参照。
したがってまた、この発想からは民族、種族保存といった全体主義におなじみの概念が頻出するのも当然である。
政治的に展開すれば、ナチズムときわめて親縁な考え方であることは明らか。

B それと、これはまあおまけなんですが、善悪は本能だって話ね。
前にも言ったことあると思うんだけど、善悪のような道徳感覚も、美醜のような美的感覚、音の高低を捉える音感とか、色覚とか、いろんな感覚と同様に、普通の人間なら具わって生まれてくるってことですよね。
私も前に言ったけど、社会的動物である人間の遺伝子に、道徳的判断を可能とする感覚能力が生得的に組み込まれていることは研究されているようだし、実際あって不思議ではない。
しかし、道徳規範はピュシスではなくノモス的秩序であって、本能だけで説明することはできないし、不十分であることは明らか。
音感を普通人間は与えられているが、その程度は千差万別、絶対音感があって交響曲を作曲できる人もいればカラオケ20点の人もいる。
誰もが正確に音譜を正確にトレースして歌えると限らないように、誰もが道徳規範に則っては行為しない。
この音感のたとえでは音痴に相当する、サイコパスのような道徳感覚の欠如した人もいる。
日本と他の世界の諸国のモラルの状況を考えたらわかるように、社会ルールである道徳の問題は、「本能に従えば解決」なんて単純なものではない。
道徳に従うことが可能であることには、根底に生得的能力としての道徳(善悪)感覚があるにせよ、動物社会と違って理性がつくりあげた人間の文明・文化世界のルールに従うには、その感覚だけでは到底間に合わない。
本能だけで正しい判断ができるわけがない。
理性的判断としての道徳的判断が必要不可欠だってこと。
人間世界は、その点で、本能で間に合うピュシス的自然秩序の動物世界とは根本的に異なる。
前にも言ったけど、理性的動物である人間社会のルールとしての道徳・倫理は、むしろ、本能で間に合わないからこそ必要なのだ。
スレ主さんが引用しているサイトでも、次のように書かれている。
このような記述から、スレ主が言うような、本能は絶対善であるなどということは引き出しえない。
スレ主さんのは論理的飛躍というか、牽強付会に過ぎるってもの。

『赤ちゃんにも善悪がわかる!?』より引用。

「ただ、赤ちゃんの段階の脳というのは、自然淘汰(とうた)の産物であり、その先天的な道徳観には当然ながら限界がある。実際、数々の研究で判明しているように、赤ちゃんの道徳的判断というのは、最初、融通が利かない。世界を硬直的に「自分たち」と「彼ら」に二分してしまって、自分たちのグループにかたくなに肩入れするのである。
さらに、他者に対する親切心や共感となると、また別の話になってくる。
ただ、幸運なことに、私たちはこのような生物学的限界を乗り越えることができる。現代の人間であれば、平等や万人の自由といった抽象的な道徳概念を持っており、あえて敵を愛することもできる。
後天的に道徳思想に触れることによって、完璧とは言わないまでも、人は成長して善人に近づくことができる。実際、社会はこうした抽象的な道徳観念に基づいて形成されているのである。」

C それと、これもまあスレ主さん以外には明らかなことなんだけども、
「公のための行為」と「利他的行為」と、「仲間のための行為」などは、重なりはあるにしても、それぞれ意味が全く同じわけではない。
これまでにも、そういう指摘はなされている。
にもかかわらず、相変わらずそれをスレ主さんは全部「公のため」と一緒くたにして、これこそがすべての善行為に共通する性質を抽出した内包的定義だ、論理的定義だなどと強弁しており、認められるわけがない。
状況に応じて、良いとこどりするために、恣意的・拡大解釈で、全部「公の為」と無理やり決めつけているにすぎないからね。
この根本的間違いは、スレ主以外の者には明らかなんだけど、ただ、このへんはいくら言っても聞き入れないだろうな。

ということで、とりあえず今回のメインとなる意見は次。

スレ主の立場は、いわば「原理主義的真理観+全体主義的倫理観」の、
『全体主義的原理主義』である
というもの。
というわけで、今時、スレ主に賛同する人なんかいるわけないやろ、というのが感想です。

4時間前 No.108
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