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絶対善の定義

 ( 哲学掲示板 )
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shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

善の定義が2000を超えましたので、その続きです。正しいもいい加減な正しさでは役に立ちません。ゆえに善もいい加減な善ではなく絶対善を探求していきたいと思います。

私が絶対善の定義をどのようにして導いたのかを書いてみます。
私たちは普通、自分の考えたことは正しいと思っています。しかし本当にそうなのでしょうか? ではどのくらい自信を持って正しいと思っているのでしょうか? 私は自分の考えに対して「命や全財産を賭けても自分の意見は正しいと言えるのだろうか?」と自問自答したとき、自分の考え、意見に対してまったく自信がなくなってしまいました。
自分の考えに対して全財産どころか数十万円ぐらいしか賭けられなかったのです。これは口では自分は正しいと言いながら、心ではほとんど信じていないと言うことです。これは詐欺行為に当たります、恥ずかしい行為です。

それから私は「正しいとは一体何なのだろうか?」と考え始めました。しかも曖昧な、いい加減な正しさでは役に立ちません。やはり正しいも絶対的な正しさでなければならないのです。また善と言っても、それもやはり絶対善の意味でなければならないのです。
絶対的な正しささえ分かれば、どんな問題でも、この「絶対的正しさ」に論理的、道理的に合致してさえしていれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。 絶対的正しさが分からないから私たちは自信を持って主張することが出来ないでいるのです。絶対的に正しいことが分からずに議論しても何の価値があるのでしょうか。

「正しい」を辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。つまり絶対的なあるべき姿があり、それと合致するから自分の考えは本当に正しいと言えるのです。
例えば数学の問題が出たとします、その問題にはすでに正しい式と答えがあります。それが正しいあるべき姿です。その正しいあるべき姿と自分が考えた式や答えが合致していて初めて「自分の考えは正しい」としてマルがもらえるのです。このように正しいとはあるべき姿に合致して初めて正しいと言えるのです。

正しいあるべき姿を考えずに「ただ自分が考えたことが正しいのだ」なんて少し傲慢すぎると思いませんか、自分は神ではないのですから。しかし世間ではすべてこうなのです、あるべき姿がないのです。自分が考えたことが正しいと主張する人ばかりなのです。ですから私は自分自身に問うたように相手に対しても「命や全財産を賭けてもそう言えるのですか?」と問うのです。「恥ずかしくはないのですか?」と問うのです。

正しさには科学的正しさと道徳的正しさがあります。基本的に科学的、道徳的に共通して正しいとは「矛盾がない」と言うことです、合致していると言うことです。辞書にあるように基本的には「正しい」とは「あるべき姿と合致していて矛盾がない」と言うことです。ですから絶対的に正しいと言えるためには「絶対的なあるべき姿」を見つけなければならないのです。その「絶対的なあるべき姿」に論理的に合致していてこそ自分の意考えは正しいと言えるのです。
このブログでは道徳的正しさだけを考える事とします。一般的に道徳的に正しいことを善と言います。ですから善とは何かと考えたのです。

それではまず善の定義とは・・・・

善の意味を辞書で調べれば「善いこと」「道理にかなっていること、また、そのような行為」「道徳的に正しい行為」などとあります。言うなら善は「道理に適っていて善いこと」と言えるでしょう。しかしそれは説明であり本当に知りたい善の本質ではありません。
ネットで善を調べてみましたが、善は人それぞれであり、相対的であるとか、定義できないとか、またいろいろ難しく書いてあるだけで、どれも納得するようなものはありませんでした。そこで、いろいろと自分で考えていたら、これが善ではないのかというものに辿り着きました。
「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗み、詐欺などなどである。ある時、ふと気付いたのはこれら多くの悪なる行為の全てに共通しているのは「他人のことより自分のことばかりを優先して考えているでは?」ということでした。そしてこれを自分が考えたすべての悪なる行為に当てはめてみれば、すべての悪に共通、内包していたのです。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は「自分(私)のことよりも公(みんな)のことを優先することである」ということになる、略して「公(みんな)の為」です。

私より公を優先する行為、つまり愛や思いやりは時代を超え、民族を超え世界に共通する善である。つまり普遍的なものであろうから、これを絶対的善とした。これは帰納法的証明であり、内包的定義です。
最近ではマザー・テレサの評判はあまり良くないようだが、分かり易い例えとして言えば、マザー・テレサのように自分の私欲を抑えて他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろうから、これは世界共通善ともいえます。
また「私より公を優先すること」の意味は「自分のやりたいことを抑えて公の為に尽くせ」ということではありません。憲法にあるように「公共の福祉(公の為)」に反しない限りは自分の為にやりたいことを自由にやってもいいのです。しかし「思いやり」がないものは善なる行為とはいいません。

そして善は本能であり、生まれつきみんなが共通して持っているものなのです。下記のHPのように、まだ理性の発達していない生後数か月の赤ちゃんでも、すでに善悪は分かっていると科学的な実験で実証されています。ですから善、良心はみんなが共通して持っているものなのです、本能ですから相対的ではなく絶対的なものなのです。生物の性は善なのです、つまり性善説が正しいのです。

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html  (赤ちゃんにも善悪は分かる!?)


次に(道徳的に)正しい事(善)とは何か?も考えてみました。

私たちは「大切なものを守ることは正しい」と感じます。
それでは「最も大切なものを守ることは最も正しい」となります。
また世界各国にとって最も大切なものは、その国民の命であろう。つまり「最も大切な国民の命を守ることは最も正しい事である」となる。
また国民、民族の命を守り存続させる事、それはいわゆる種族(民族)保存のことである。
これらから「最も正しいことは種族(群れ、民族)保存である」ということが道理的、論理的に導かれる。これは正しいの演繹的な証明です。これもまた時代を超え世界の各国民、民族にも共通することであるから普遍性もあります。ゆえにこれを絶対的に正しい事とします。
また現代においては種族(民族)が滅ぶということはあまり考えられませんので基本的には「社会の安寧秩序、みんなの幸せ」などが絶対的に正しい事と考えてもいいでしょう。

 私の善の定義のやり方は、善なる行為を多く考えて、その善の本質を内包的定義で見つけたのが絶対的善であり、「大切なものを守るのは正しい」と言う命題から演繹法的に導いたのが絶対的に正しい事です。
辞書では善は「道徳的に正しい事、またそのような行為」とあります。つまり善は事柄と行為の二つがあるのです。
ですから基本的に道徳的に正しい事(善)は「仲間の群れを守る事、またそのような行為」となります。そのような行為に当たるのが「私より公を優先する行為」となるのです。
ですから善なる”事”は「仲間の群れを守ること、社会の安寧秩序を守ること、みんなの幸せを守ること、つまり公の為」です。
そしてまた善なる”行為”は「私より公を優先する行為」です。分かり易く言えば「私欲を少し抑えて公の為と考え行い尽くすこと、略して公の為」となります。このように善は事柄も、そのような行為も、どちらも「公の為」で表されるのです。ですから私は善とは「公の為である」と表現しています。


種族(群れ、民族)を保存することが絶対的に正しい(絶対的善)と言うのは、多くの人も感じていて何となく納得できるにしても「私より公を優先することが絶対的善である」と言われても、私たち凡人にはなかなか納得しがたい定義です。
しかし、この定義をそんなに大げさに考えなくてもいいのです。善にも大から小まであります。我々凡人の善は、お年寄りに席を譲るとか、募金をするとか、ボランティアをやるとか、普段我々がやっている小さな親切、思いやりを実行することも「私より公を優先すること」なのです。
例えば、電車などで席を譲るにしても「自分も疲れている、できれば座っていたい」という自分の思い、私欲がある。しかし相手のことを思いやれば、相手の方が大変であろうと、自分の思い、私欲を抑えて相手の思いを優先して席を譲るというのも小さいながらも善なのです。これが善の定義「私より公を優先すること」の意味なのです。分かり易く言えば「私欲を抑え公の為と考え尽くすこと」なのです。これは「愛や思いやり」でもあります。そして愛や思いやり、親切などの本質が「私より公を優先すること」なのです。
「私より公を優先するなんて私にはとてもできない」と思いがちですが、私たちは日ごろから何気なく行っているのです。余裕のある範囲でやればいいのです。自分のことは何も考えず他人に尽くすと言うことではないのです。勿論、本当に偉い人たちは自分を捨て、みんなの為に尽くしておられる人もいますが、私たち凡人は小さな思いやり、小さな親切をやればいいのです。


私は論理学の内包的定義や演繹法で善の定義を導いたのです、恣意的なものではないのです。善は私たちが理性によって創るものではありません。善のイデアは原始からそこに在るものなのです。善は感情であり、それは見つけるものなのです。
そしてみんなが善なる行為であろうと思うものには何かしら感動が伴うのです。正しさには理性で考えられたもの、つまり法や規範(信号を守る、税金を納める、勉強をするなど)もありますが、これらにはあまり感動はありません。 本能、良心から来る「善いな〜、偉いな〜、心が暖かくなるな〜」などの何かしら感動を伴うものが本当の「善」というものなのではないでしょうか。

もし私の善の定義が間違いであると言うならば多くの人がこれは善なる行為であろうと認めるもので「私より公を優先していないもの、思いやりでないもの」を示せばいいわけです。これを示せない限り、皆さんがどんなに言葉を尽くしても私の善の定義を否定したことにはならないのです。また否定するならば論理的に否定しなければならないのです。自分の考え、価値観に合わないからと言って否定されても善の定義は少しも揺らがないのです。


まとめてみれば、私が見つけた善とはその群れにとって絶対的に正しい事は「種族(群れ)保存をする事」であり、その群れ、仲間を守るために最も正しい行為が「私(自分)より公(みんな)を優先する行為」であると言うことです。もっと分かり易く言えば「私欲を少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」ということです。

勿論、絶対的善である「私より公を優先する行為」で考えても間違うことはあるでしょう。私たちは神ではなく人間であり、完璧な答えなど出せません。例えば思いやりをもって席を譲っても「俺を老人扱いするのか!」と言われることもあります。このように絶対善という行為は絶対的に正しい答え、結論が出せるということではありません。絶対善と言えば絶対的な答えが出せると勘違いしている人もいますが絶対的な答えが出せるならそれは神です。そんな定義を我々人間ができるはずはありません。

私欲を抑えて公の為とみんなで考えても、その結果が公の為にならないこともたまにはあるでしょう。また人生万事塞翁が馬であり、この世の中何が起こるか分からないのです。世界の英知を集めて結論を出しても間違うことも多々あるのです。
私たち人間は絶対的に正しい答えなど出せないのです。それでも「私欲を抑え、公の為とみんなで考える行為」、これだけは総合的に見て絶対的に正しい行為なのです。たとえ間違った結果が出ようと「私より公を優先すること、愛や思いやり」をやり続けることが絶対的に正しいことなのです、それを否定してはならないのです。またこれ以上に正しいことがあると言うならば、それを示してください。


私たち生物にとって一番大切なことはやはり「仲間である群れを守ること」です。そして生物たちは長い年月をかけ試行錯誤をして種族(群れ)保存する為に最も優れたものが「私より公を優先する行為」であると見つけたのです。
また「私より公を優先する行為」を行ってきた種族だけが生き残ってきたと言ってもいいでしょう。それは時には自分の命を捨てても群れを守りたいという本能的なものなのです。これを人間的な言葉にすれば「愛や思いやり」とも言えます。大自然は群れを守る為にはどうすれば一番いいのかを教えてくれているのです。
また人間の欲による他国を侵略するなどの性質は「群れを守りたいと言う本能」である善には含まれていないのです。ですからヒトラーがどうのこうのと言われても困るのです。善とは本来その群れを守り存続させるためにあるのです。

絶対的善である「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」は数十億年の試練、検証に耐えて絶対的に正しいとして遺伝子に書き込まれ本能となり現在まで生き残ってきたのです。つまり数十億年のバックボーンがあるのです。言うならば「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」はこれこそ絶対的に正しいことであると自然界においてはもうすでに決定していることなのです。誰がこの歴史的事実を否定できるでしょうか。そしてそれは今後も生物が存在する限り未来永劫変わることのない普遍的なものでしょう。
それゆえ私は「私より公を優先する行為、愛や思いやり」は絶対的善ではなく「絶対善」であるとして問題はないと思うのです。本来、絶対など神にしか使えない言葉ですが「人は必ず死ぬ」と同じように、あえてこれはもう「絶対」に限りなく近い「絶対善」としても問題はないと思うのです。

そしてそれは人間だけでなく、すべての生物に関する一つの「絶対的”真理”」といえるのではないでしょうか。そして「私より公を優先すること、愛や思いやり」は私たちにとって最も美しいことなのです、「美」なのです。つまり善こそが真であり美なのです。真こそが善であり美なのです。美こそが善であり真なのです。
真・善・美、それらが別々にあると言うのではなく相関関係にあるのです。


善の定義を簡単に言えば、何か問題が起きた時、みんなの為になる一番よい方法は「私より公を優先すること、つまり私欲を少し抑えて公の為とみんなで考えること」なのです。そのように考えることが最も正しい答え、結論に辿り着ける最高の方法なのです。
社会が一番うまくいくためには「愛や思いやり、公の為と考えることなのだよ」と大自然は教えてくれているのです。
勿論、時には間違うこともあるでしょうが、これをやり続けるしかないのです。これこそが他のいかなる方法よりも絶対的に正しい方法なのです、群れを守る為にこれ以上のものはないのです。
やはり何事においても私欲を優先していては正しい結論には辿り着けません。

あらゆる社会的問題は社会の安寧秩序、公(みんな)の為にあります。すべては公(みんな)の為にあるのです、これは真実です。そしてその社会的問題の正しい答え、結論は常に「種族(民族)保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公の為」に合致していなければならないのです。

道徳的に絶対的なことは絶対善しかないのです、その他のものは全て相対的なのです。理性で考えられた法や規範で「これは絶対的である」と考えられている事もすべては相対的なのです。例えば人を殺すことは絶対に悪いと考えられていますが、戦争になれば敵兵を殺すことは善になります。また絶対に良いと考えられている人権さえも戦争や飢餓などの極限状態において、公の為にならないならば悪になるのです。このように絶対に正しいと思われていることでも極限状態になれば変わるのです、つまりすべては相対的なのです。極限状態になれば悪も善に変わるのです、善も悪に変わるのです。「何事もこれは絶対的に正しいことである、または絶対的に悪いことである」と安易に決めつけてはならないのです、極限では変わってしまう事もあるのですから。しかし絶対善だけは絶対的なのです。
そしてまた根拠もなく「自分が考えたことが正しい」などと言う愚かな考えはそろそろ捨てなければなりません。根拠(あるべき姿)がないものには何の価値もありません。常に論理的に考えられたことこそが正しいのです。

以上が私が見つけた善の定義です。皆さん、正しいとは何か、しかも絶対的に正しいこととは何か、が分かったのです。
ですからどんな社会的問題でも、この絶対的正しさ「公(みんな)の為」に論理的、道理的に合致さえしていれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。
そして絶対善である「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」で社会的問題をみんなで考えることが最も正しいことなのです。この絶対善で考えていけば本当に正しいものを創ることが出来るのです。絶対的に正しいことが分かったのですから、この善の定義を基として現在のすべての思想、道徳などをもう一度考え直さなければならないと思うのです。
絶対的正しさ(絶対善)が分からなかった以前のものは全てまがい物かもしれないのです。実際に多くのまがい物の思想があるから、この世の中は混乱しているのです。ですから今までの思想は全てもう一度考え直す必要があるのです。

またこの善の定義は民主主義的な話し合いが出来るという環境が絶対条件なのです。独裁国家などでは成り立ちません。やっと民主主義的な世の中になったのですから、私欲を少し抑えて公の為とみんなで真摯に議論をすれば、正しい答えになる確率はグ〜ンと高くなるのです。公(みんな)の為と言えば全体主義だと批判する人もいますが、絶対善こそが目指すべき本当の民主主義なのです。

この善の定義が多くの人に理解され「正しいとは何か」が分かってくれば国や政府、マスコミなどの権力者に対しても自信を持って「それは正しいのですか!それは公(みんな)の為なのですか!」と言えるようになり、日本は正しい、そして本当の民主主義国家になれるのです。日本が善い国になり世界の模範となれば、それはやがて世界の平和へと繋がっていくのです。

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空の光 ★j7nCe6nY8T_m9i

shinwoodさん

そうですね。目の前から逃げても解決には成らない。
その場に遭遇した場合。。。
自分に出来るのは祈る事ですね。犠牲者が出ないようにと・・・
それから、解決できそうな方法を考え出す。
例えば太った人と同じだけの重さの物を探すとか・・・

犠牲者を自分の手で出すのは出来ません。
自分が逆の対場だったら納得いかないでしょうね。

変なたとえ話へ傾けてしまった・・・悩んだ皆さんごめんなさい。
自分は今まで悩みました。
いやな思いをしかたも知れないshinwoodさん。ごめんなさい。

1ヶ月前 No.318

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

心理学、臨床心理学では『人間の思考の誤り』が12個あることがわかっている。

哲学だけでなく教養が必要だ

1ヶ月前 No.319

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_agK

SumioBabaさん  以下よろしくお願いします。

>SumioBabaさんが前に教えてくれていたのに、「演繹」の意味すら理解してないじゃん。「演繹法で論理的に定義」って何やねん?意味わからんわ。<

私は演繹法で論理的に定義したと言っているのに何故、ふくろうさんはその意味が分からないと言うのか?



>「正しい」が基準に合致すること、この場合は道徳規範に合致する、つまり、一致する・かなうこととみなすのはかまわない。しかし、無矛盾であることは、「正しい(真)」であるための必要条件であっても、十分条件ではない。矛盾は偽(正しくない)の十分条件だが必要条件ではないしね。
少しくらい勉強してから言いなさいよ。<


「矛盾は偽(正しくない)の十分条件だが必要条件ではない」とはどういうこと?



>「大切なものを守るのは正しい」なんて前提から、論理法則だけで「最も正しいことは種族(群れ、民族)保存である」なんて命題が導かれるわけないのよ。論理法則以外の、自分が正しいと思ういろんな前提をあなたは加えているじゃん。だから、こんなものを演繹などとは言わないんだよ。<


私は「大切なものを守るのは正しい」「一人の命より群れ全体の命が大切」から「最も正しいことは種族(群れ、民族)保存である」を導いた。
「論理法則以外の自分が正しいと思ういろんな前提をあなたは加えているじゃん」って私がどんな前提を何を加えているのでしょうか?

30日前 No.320

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>320  shinwoodさんへ

>SumioBabaさん  以下よろしくお願いします。


 やけに礼儀正しいですね。そう言われると断れません。こちらも、shinwoodさんとの議論を大いに楽しんでいるので、その点は感謝します。

>>SumioBabaさんが前に教えてくれていたのに、「演繹」の意味すら理解してないじゃん。「演繹法で論理的に定義」って何やねん?意味わからんわ。

>私は演繹法で論理的に定義したと言っているのに何故、ふくろうさんはその意味が分からないと言うのか?


 「定義」と「公理」とは殆ど同じものであり、どちらも演繹法で論理的に導くものではなく、単に仮定するものです。SumioBabaの「公理」または「善の定義」は、「公理Z」=「自分自身の為になる行為、他人の為になる行為、公の為になる行為、どれもが道徳的に正しい行為であり「善」である」です。「公理Z」は、証明なしに真だと仮定しようという「公理」であると同時に、「善」をこう定義しよう、という定義でもあります。

 それゆえ貴方のように「私は演繹法で論理的に定義した」という主張は「私は演繹法で論理的に「公理」を定めた」と言っているのと同じで、変なのです。証明なしに仮定した「公理」および「定義」を用い、「定理」を導くのが演繹法なのであって、「公理」や「定義」を定めるときに演繹できるはずが無いのです。演繹するためには、すでに「公理」や「定義」が定まっている必要が有るのですから。
 shinwoodさんの場合は、恐らく「公理」と「定義」が別になっていて、「定義」として何が適切なのかを「公理」を使って導いた、と言いたいのかもしれないですね。もしそうだとしても、その説明はすべて「公理」が正しいという仮定の上で初めて成立するのであって、SumioBabaのようにshinwoodさんの「公理」を受け入れない人間には全く通用しませんね。

>>「正しい」が基準に合致すること、この場合は道徳規範に合致する、つまり、一致する・かなうこととみなすのはかまわない。しかし、無矛盾であることは、「正しい(真)」であるための必要条件であっても、十分条件ではない。矛盾は偽(正しくない)の十分条件だが必要条件ではないしね。

>>少しくらい勉強してから言いなさいよ。

>「矛盾は偽(正しくない)の十分条件だが必要条件ではない」とはどういうこと?


 ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学も、「無矛盾」な幾何学です。そしてどちらの公理系に立った場合も、「自分が正しい」「相手が間違い」と見なせるのであり、それは相対的なものですから、一般に「無矛盾」というだけでは「正しい」とも「間違い」とも断定できません。「矛盾」だと、それだけで間違っていると断定できるので、「正しい」と言えるためには「無矛盾」であることが絶対に必要な《必要条件》ではありますが、それだけで《十分条件》とは言えません。「正しい」ためには「無矛盾」であるに加え、+αの条件が必要となります(「公理」を証明なしに真だと仮定する、など)。これが、ふくろうさんの「無矛盾であることは、「正しい(真)」であるための必要条件であっても、十分条件ではない。」です。

 逆に「矛盾」だと、それだけで間違っていると断定できるので、「矛盾」は「正しくない」の《十分条件》ではあります。しかし、「無矛盾」の場合も「正しくない」可能性が有るので(非ユークリッド幾何学は「無矛盾」だけれど、ユークリッド幾何学の公理系に立つと非ユークリッド幾何学は「正しくない」になる)、「正しくない」ために「矛盾」が絶対必要とまでは断言できないという意味で、《必要条件》ではありません。これが、ふくろうさんの「矛盾は偽(正しくない)の十分条件だが必要条件ではないしね。」です。

 《十分条件》とは、十分だけれども、余分なものまでが含まれているので、必ずしも必要ではない、という条件です。「母である」は「女である」ための《十分条件》ではあるけれど《必要条件》ではない、です。「母である」=「女である」∧「親である」が定義なので、「女である」を満たすのに、「母である」は十分ではあるけれど、「親である」という余分なものが含まれているため、必ずしも必要ではありません。実際、「母である」を満たしていなくても(子供などいなくても)、「女である」は満たせる場合が有ります。

 《必要条件》とは、絶対に必要だけれど、それだけでは十分とは言えず、+αの条件が必要だ、という条件です。「女である」は「母である」ために、絶対に満たさねばならない《必要条件》ですが、これだけでは不十分だから《十分条件》ではなく、もう1つ「親である」も必要です。「女である」と「親である」の両方がそろって初めて、「母である」が成立します。

 《必要十分条件》とは、必要なものはすべて含まれ、かつ、余分なものは何も含まれていない、という条件です。「母である」ためには、「「女である」かつ「親である」」が《必要十分条件》です。こういう場合、「母である」を満たしていれば必ず「「女である」かつ「親である」」も満たしているし、逆に「「女である」かつ「親である」」を満たしていれば、必ず「母である」を満たしています。

>>「大切なものを守るのは正しい」なんて前提から、論理法則だけで「最も正しいことは種族(群れ、民族)保存である」なんて命題が導かれるわけないのよ。論理法則以外の、自分が正しいと思ういろんな前提をあなたは加えているじゃん。だから、こんなものを演繹などとは言わないんだよ。

>私は「大切なものを守るのは正しい」「一人の命より群れ全体の命が大切」から「最も正しいことは種族(群れ、民族)保存である」を導いた。

>「論理法則以外の自分が正しいと思ういろんな前提をあなたは加えているじゃん」って私がどんな前提を何を加えているのでしょうか?


 ふくろうさんは貴方の前提を「大切なものを守るのは正しい」と書き、貴方は貴方の前提を「大切なものを守るのは正しい」「一人の命より群れ全体の命が大切」と書いています。どちらが正しいのですか? もう一回、導いて見せて下さい。

>>45
>人の性は善です。本来悪は在りません。しかし人間には理性を持っていますので、その理性で悪いことを考えるのです。悪は理性を持った人間の宿命です。人間は賢いからズルをしようと考えます。公の為より私欲を優先させるのです。悪は理性より生じるのです。

>>167
>その2・・・善は感情である。生後数か月の理性の発達していない赤ちゃんにも善悪は分かっていると実証されている。つまりこれから分かることは善は本来、理性からではなく本能から来るのである。善が本能であればすべての人の遺伝子に書き込まれている、まあ、何かの障害で本能がうまく働かない人もいるかもしれないが遺伝子的にはすべての人に書き込まれているのである。つまり絶対的である、ゆえに絶対善といえる。正しいことは理性により考えられると言う人もいるが、これも本能的善を基にして正しいを考えているのである。善なる心は私たちが生まれる前からすでに遺伝子に書き込まれているのである。善は本能、ゆえに絶対的なのである。人が理性で考えた正しさは全て相対的である。本能から来る善こそが絶対なのである。ですから善と正しさは同じものではないが、まあ、同じとして善や正しいと表現してもいいだろう。つまり私たちは本能的正しさ(善)と理性的正しさを合わせて正しい、または善と言っているのである。

>>229
>それは世界が理性至上主義だからです。それをあなた達が頑迷にも支持しているからです。私は理性など本能に比べれば屁のようなものだと言っています。善とは「善いな〜」という感情であり本能なのです。本能ゆえ絶対的に正しいと自然界では決まっているのです。人間の出る幕はありません。


 ある行為Xをすべきか、すべきでないか? 「本能的」には「する」を善だと感じたけれど、「理性的」には「しない」が善だという結論に到達したとき、どちらを優先しますか? SumioBabaやザビビのふくろうさんは、「理性」を優先して「しない」を選ぶ訳ですね。shinwoodさんは「本能」を優先して「する」を選ぶのですか?

>>300
> では公とは何を示しているのか?それは問題に関係している人たちを示しています。問題を共有している人たちです。もし問題を間違って解けば大きな不利益を受ける人たちを公と言っているのである。ですから不利益を蒙らないように問題の正しい答えが出るようにみんなで協力して考えなければなりません。


 99%は日本国内の問題だけど、1%くらいは外国にも影響を与えるかもしれない問題の場合、「公」は「日本」なのでしょうか、「世界」なのでしょうか? ある人は「1%でも世界に影響が有るなら、これは世界の問題だ、この場合の「公」は「世界」だ」と主張します。またある人は、「1%くらい十分無視できる。これは日本だけの問題であり、この場合の「公」は「日本」だ」と主張します。結局「公」を「世界」と見なすか「日本」と見なすか、人それぞれ意見はばらつき、どちらが正しいと断定できるものではなくなり、多数決で決めるしか無くなるのではありませんか?

29日前 No.321

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_agK

>>321    SumioBabaさん

>やけに礼儀正しいですね。<

そうですか?私は教えてもらうと言うことは相手のたった一度の人生の大事な時間をいただいていると言う気持ちがあります。逆に自分の大切な時間をマナーのなってない奴には使いたくないと考えています。

>「定義」と「公理」とは殆ど同じものであり、どちらも演繹法で論理的に導くものではなく、単に仮定するものです。<

「定義」と「公理」とは殆ど同じもの、というのは論理学においてですか?私が善の定義を道理的、論理的に導いたのは「大切なものを守る事は正しい」「一人の命より群れ全体の命が大切」という当たり前、常識という道理的な前提から演繹法、三段論法で絶対的に正しいことは群れを守る事、群れ社会の安寧秩序を守る事であると導きました。その結果は人間の歴史、動物の生態に合致するものであり、最も正しいことはやはり種族保存、群れの安寧秩序、みんなの幸せを守る事、つまり公の為は事実に沿ったものであった。つまり善とは公の為ということである。

これにより「何故人を殺してはいけないのか?」なども「人を殺すことも公の為なら善である」など矛盾ない答えも出せた。今までこんな答え在りましたか?多くの哲学者が出せなかった答えです。あなたは私の善の定義は認めないと言うが事実多くの答えを導き出しているではないか?死刑問題も人権などではなく公の為に合致することが正しいと新しい方向を示した。常識的に考えてもあらゆる社会的問題の正しい答えは公の為でなければならないのは当たり前のことであると思うのですがね。


>「正しくない」ために「矛盾」が絶対必要とまでは断言できないという意味で、《必要条件》ではありません。これが、ふくろうさんの「矛盾は偽(正しくない)の十分条件だが必要条件ではないしね。」です。《必要条件》とは、絶対に必要だけれど、それだけでは十分とは言えず、+αの条件が必要だ<

詳しい説明ありがとうございました。「矛盾は偽(正しくない)は必要条件ではない」の+αの条件とは何ですか?


 >ある行為Xをすべきか、すべきでないか? 「本能的」には「する」を善だと感じたけれど、「理性的」には「しない」が善だという結論に到達したとき、どちらを優先しますか? <

人間は本能より理性が優先しますので、初めは本能が働こうとしますがすぐ理性が働いて理性で行動します。


 >99%は日本国内の問題だけど、1%くらいは外国にも影響を与えるかもしれない問題の場合、「公」は「日本」なのでしょうか、「世界」なのでしょうか? <

殆どの国内の問題は何らかの影響を海外にももたらすでしょう。しかし常識的に考えて消費増税問題や憲法改正問題などで海外を公にするなどバカな考えをする人はいないし、もしそうなら頭のおかしな人です。日本国内の問題は日本人の問題です。消費税問題に対して海外からこうしろ、ああしろ、なんて言われたら「内政干渉するな」と普通怒るでしょう。


次回はふくろうさんが怒りモードで書いたという文章を考えてみます。お付き合いのほどを。

29日前 No.322

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>322  shinwoodさんへ

>そうですか?私は教えてもらうと言うことは相手のたった一度の人生の大事な時間をいただいていると言う気持ちがあります。逆に自分の大切な時間をマナーのなってない奴には使いたくないと考えています。


 大変良いことですね。揚げ足ばかり取り、曲解ばかりするような相手は、無視するのが賢明です。他のスレッドを見れば解る通り、延々とののしり合いを続ける人が何と多いことでしょう。その点、shinwoodさんは冷静ですし、本当に学問としての建設的な議論を望んでおられます。

>>「定義」と「公理」とは殆ど同じものであり、どちらも演繹法で論理的に導くものではなく、単に仮定するものです。


>「定義」と「公理」とは殆ど同じもの、というのは論理学においてですか?


 あらゆる学問分野で共通しています。「定義」も「公理」も、それが無いと何も演繹できないので、演繹する前に「定義」と「公理」はすべて定めておくのが普通のやり方です。

>私が善の定義を道理的、論理的に導いたのは「大切なものを守る事は正しい」「一人の命より群れ全体の命が大切」という当たり前、常識という道理的な前提から演繹法、三段論法で絶対的に正しいことは群れを守る事、群れ社会の安寧秩序を守る事であると導きました。


 その「道理的な前提」というのが、証明なしに真だと仮定した「公理」です。そして、その「公理」を用いることで、「定理」=「絶対的に正しいことは群れを守る事、群れ社会の安寧秩序を守る事である」を導いた、ということですね。やはり、証明なしに真だと仮定した「公理」を使っている以上、その「公理」を受け入れない人には「定理」の方も受け入れられません。
 「定理」=「絶対的に正しいことは群れを守る事、群れ社会の安寧秩序を守る事である」が間違いだと言っているのではありませんよ。この「定理」もやはり、「「公理」を証明なしに真だと仮定すると」という《条件付真理》でしかないため、《絶対的真理》とは見なせない、という意味です。

>その結果は人間の歴史、動物の生態に合致するものであり、最も正しいことはやはり種族保存、群れの安寧秩序、みんなの幸せを守る事、つまり公の為は事実に沿ったものであった。つまり善とは公の為ということである。


 それは、貴方の「公理」を証明なしに正しい仮定とするとこうなる、と言っているだけです。SumioBabaの「公理Z」によれば、たとえ「公」の為にならなくても「自分自身」の為になれば、それも「善」です。

>これにより「何故人を殺してはいけないのか?」なども「人を殺すことも公の為なら善である」など矛盾ない答えも出せた。今までこんな答え在りましたか?多くの哲学者が出せなかった答えです。あなたは私の善の定義は認めないと言うが事実多くの答えを導き出しているではないか?死刑問題も人権などではなく公の為に合致することが正しいと新しい方向を示した。常識的に考えてもあらゆる社会的問題の正しい答えは公の為でなければならないのは当たり前のことであると思うのですがね。


 多くの人々がshinwoodさんの導いた「定理」に反発していますよ。貴方のやり方だと、物事の片面だけしか見れなくなってしまうのです。行為Aには善Aも有るけれど悪Aも伴います。行為Bには善Bも有るけれど悪Bも伴います。だから、一概にどちらか一方を善、他方を悪だと決め付けるのは不適切なのです。なのに貴方は、片方だけに決め付けようとします。「行為Aが善、行為Bが悪」と決め付けてしまうと、善Aと悪Bだけを見て、悪Aと善Bを見落すこと(あるいは意図的に無視すること)になります。「行為Aが悪、行為Bが善」と決め付けてしまうと、悪Aと善Bだけを見て、善Aと悪Bを見落すこと(あるいは意図的に無視すること)になります。あらゆる行為には、善も悪も伴うのがこの世の中ですから、両面を正しく見詰めるためには、「絶対主義」ではなく「相対主義」の方が好ましいのです。

>>「正しくない」ために「矛盾」が絶対必要とまでは断言できないという意味で、《必要条件》ではありません。これが、ふくろうさんの「矛盾は偽(正しくない)の十分条件だが必要条件ではないしね。」です。《必要条件》とは、絶対に必要だけれど、それだけでは十分とは言えず、+αの条件が必要だ

>詳しい説明ありがとうございました。「矛盾は偽(正しくない)は必要条件ではない」の+αの条件とは何ですか?


 質問の意味が解りません。「矛盾は偽(正しくない)は必要条件ではない」って、どういう意味ですか?

>>ある行為Xをすべきか、すべきでないか? 「本能的」には「する」を善だと感じたけれど、「理性的」には「しない」が善だという結論に到達したとき、どちらを優先しますか?


>人間は本能より理性が優先しますので、初めは本能が働こうとしますがすぐ理性が働いて理性で行動します。


 shinwoodさんも、「理性」を優先して「しない」を選ぶのでしょう? 「本能」が「絶対善」、「理性」は「相対善」、だとか言っておきながら、shinwoodさん自身も、「絶対善」には従わず「相対善」の方に従うのでしょう?
 それとも、まさかとは思うけれど、コンビニで美味しそうなバナナを見て、「本能」で「食べたい」と思い、かつ、「理性」で「いや、お金を払って買うまでは食べてはいけない」と判断した場合、shinwoodさんは「本能」を優先してその場でバナナを食べ始めるのでしょうか?

>殆どの国内の問題は何らかの影響を海外にももたらすでしょう。しかし常識的に考えて消費増税問題や憲法改正問題などで海外を公にするなどバカな考えをする人はいないし、もしそうなら頭のおかしな人です。日本国内の問題は日本人の問題です。消費税問題に対して海外からこうしろ、ああしろ、なんて言われたら「内政干渉するな」と普通怒るでしょう。


 そうでしょうか? 消費増税問題も憲法改正問題も、日本の法律の問題ですから、多数決を採るときは日本人だけが参加し、外国人は参加できないでしょうね。しかし、憲法改正によって日本が戦争できるようになると、外国に多大な影響を及ぼします。「内政干渉するな」という意見も当然出るでしょうが、「いや、これは日本だけでなく、世界全体の問題だ」と反論する人も必ず現れ、真っ二つに意見は分かれるのではないでしょうか?

>次回はふくろうさんが怒りモードで書いたという文章を考えてみます。お付き合いのほどを。


 はい、出来る限り答えてみます。それにもし読んでおられたら、必要に応じて、ザビビのふくろうさんもご参加下さい。

28日前 No.323

ザビビのふくろう ★CZPpJSpIQU_l7r

>>323
SumioBabaさん、
お元気ですか?
なんか私のレスの解説までしていただいているようで、申し訳ありませんね。
それに、以前のレスを再掲して褒めていただいてありがとうございます。

ただね、私もshinwoodさんは憎めない人だと思いますが、いくら言っても無駄だと思います。
結局、自分の見解を正当化するのに、他人の考えを利用することしか考えていないので、いくら説明してもちゃんと理解する気なんてさらさらないのです。
その証拠と言っては何ですが
http://mb2.jp/_tetsugaku/1139.html-101#a
を見ても明らかでしょう。
私の見解と、彼が引用したサイトの文との区別さえついていません。
全然ちゃんと読んでいないんですよね。
自分の考えの正当化に利用できそうに思ったところ以外、読んでいない可能性すらあります。
そして、もちろん私の見解もまったく理解しておりません。
せっかくSumioBabaさんが再掲してくださったのに、全くの無駄です。
なので、私はもう、shinwoodさんに説明するのはこりごりなんですよ。徒労でしかありません。

とは言え、私がもう続ける意味がないと判断した後でも、SumioBabaさんが議論を投げずに続け、ふたたび面白い話になってきた、ということは過去に何度かあったので、あなたをとめようとは思いませんが。
ひょっとしてSumioBabaさんなら、あるいは…という気がなくはないんですよね(笑)
しかし、どうもあなたほどの忍耐力を私は持ち合わせていないようで、申し訳ないですが、参加は辞退させてください。
すみません。

28日前 No.324

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

絶望する理由が無く少なくとも希望とチャンスと最小限の生活の喜びを持つに違いない多数者がいなければ社会は成り立ちません・・

「特殊な不幸者が数多く現れる時」世の人は彼らを援助しながらかれらを憎悪する・・

28日前 No.325

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

今日は時間がないので  >>324 のふくろうさんの意見に反論します。

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208-2.html  (赤ちゃんにも善悪がわかる!?)

CNNの記事で「ただ、赤ちゃんの段階の脳というのは、自然淘汰(とうた)の産物であり、その先天的な道徳観には当然ながら限界がある。実際、数々の研究で判明しているように、赤ちゃんの道徳的判断というのは、最初、融通が利かない。世界を硬直的に「自分たち」と「彼ら」に二分してしまって、自分たちのグループにかたくなに肩入れするのである。さらに、他者に対する親切心や共感となると、また別の話になってくる。ただ、幸運なことに、私たちはこのような生物学的限界を乗り越えることができる。現代の人間であれば、平等や万人の自由といった抽象的な道徳概念を持っており、あえて敵を愛することもできる。」
この部分を使って赤ちゃんの善を批判している。

また >>108  でふくろうさんはこう書いている「道徳に従うことが可能であることには、根底に生得的能力としての道徳(善悪)感覚があるにせよ、動物社会と違って理性がつくりあげた人間の文明・文化世界のルールに従うには、その感覚だけでは到底間に合わない。本能だけで正しい判断ができるわけがない。理性的判断としての道徳的判断が必要不可欠だってこと。人間世界は、その点で、本能で間に合うピュシス的自然秩序の動物世界とは根本的に異なる。
前にも言ったけど、理性的動物である人間社会のルールとしての道徳・倫理は、むしろ、本能で間に合わないからこそ必要なのだ。
スレ主さんが引用しているサイトでも、次のように書かれている。このような記述から、スレ主が言うような、本能は絶対善であるなどということは引き出しえない。スレ主さんのは論理的飛躍というか、牽強付会に過ぎるってもの。」

私がCNNの記事で言いたいのは赤ちゃんにも基本的に善悪は分かっていると言う事、勿論それは敵を愛すると言う善ではない。それは理性で考えられた善である。しかし赤ちゃんも持っている善悪の感情は困っている人がいれば助けたいと言う感情でありこの感情が善の本質なのです。つまり私より公の為です。この本能的善を基にして大人たちは理性で善を考えるのです。つまり理性的善です。しかし理性的善も本能的善の「私より公を優先すること」を基本として善を考えるのです。例えば「泣いて馬謖を斬る」というのは理性考えた善です。本能的善は「善いな〜」という何かしらの感動のある善ですが「泣いて馬謖を斬る」というのは「善いな〜」などの感動はありません、ですからこれは理性で考えられた善です。しかしこれも公(全軍)の為にかわいがっていた馬謖を孔明は切ったのです。この理性による正しい行為も本能的善の「私より公を優先する行為」なのです。孔明はかわいがっていた馬謖を切りたくなかった(私欲)を抑えて公(全軍の統率)の為に馬謖を切った。

ふくろうさんは何か理性で考えなければ正しい善はできないと考えているが本能的善の「私より公を優先する行為」が善の本質であり理性もこれを使って法やルールを考えているのです。赤ちゃんが持っている本能的な善こそが本質なのです。

28日前 No.326

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>326  shinwoodさんへ

>今日は時間がないので  >>324 のふくろうさんの意見に反論します。


>CNNの記事で「ただ、赤ちゃんの段階の脳というのは、自然淘汰(とうた)の産物であり、その先天的な道徳観には当然ながら限界がある。実際、数々の研究で判明しているように、赤ちゃんの道徳的判断というのは、最初、融通が利かない。世界を硬直的に「自分たち」と「彼ら」に二分してしまって、自分たちのグループにかたくなに肩入れするのである。さらに、他者に対する親切心や共感となると、また別の話になってくる。ただ、幸運なことに、私たちはこのような生物学的限界を乗り越えることができる。現代の人間であれば、平等や万人の自由といった抽象的な道徳概念を持っており、あえて敵を愛することもできる。」

>この部分を使って赤ちゃんの善を批判している。


 ふくろうさんは、「赤ちゃんの善を批判している」のではなくて、shinwoodさんの間違いを指摘しているのです。つまり、shinwoodさんが主張している「( >>167 )善が本能であればすべての人の遺伝子に書き込まれている、まあ、何かの障害で本能がうまく働かない人もいるかもしれないが遺伝子的にはすべての人に書き込まれているのである。つまり絶対的である、ゆえに絶対善といえる。」を批判しているのではありませんか。SumioBabaやふくろうさんが言いたいのは、「本能が絶対善などとは言えない。」「「本能で感じる善」と、「理性で判断した善」とが食い違う場合、正しいのは「理性で判断した善」の方だ」ということです。

>私がCNNの記事で言いたいのは赤ちゃんにも基本的に善悪は分かっていると言う事、勿論それは敵を愛すると言う善ではない。それは理性で考えられた善である。しかし赤ちゃんも持っている善悪の感情は困っている人がいれば助けたいと言う感情でありこの感情が善の本質なのです。つまり私より公の為です。


 それは単なる空想です。SumioBabaは、R・ドーキンスの「利己的遺伝子」という考え方が非常に合理的で素晴らしいと思います。もちろん、完全に正しいと証明された訳ではなく、支持する人もいればしない人もいるとは思います。しかし、その合理性は目を見張るものであり、「これはすごい!!」「反論の余地なんか全く無いじゃないか!!」と感動するような内容です。

 生物が「利己的」なのは、当たり前です。「利己的」な生物と「利他的」な生物とが共存して生存競争したら、「利他的」な生物はたちまち絶滅してしまい、勝ち残るのは「利己的」な生物だからです。しかし時々、生物は「利他的」と思われる行動をします。親は自分の子供の身代わりに死のうとする、とか。ミツバチは自分の巣箱が危険になると、自分の命を犠牲にしてでも自分の巣箱を守ろうとする、とか。殆どの場合、生物は「利己的」だし、それが当然なのに、たまに「利他的」に見える行動もします。生物は、一体どういう基準に則って、自分の行動を選択しているのか、という謎が有ったのです。

 そこでドーキンスは、生物の行動原理を「自分の遺伝子をできるだけ多く繁栄させる確率の高い行動を選ぶ」と考えました。これで、すべてがうまく説明できるのです。
 親が生き続けて子供が死ぬより、子供を生かして親が死ぬ方が、自分の遺伝子を多く残すには有利です。つまり、親が自分の子供の身代わりに死ぬという行為は、「個体」のレベルでは「利他的」に見えても、「遺伝子」のレベルでは「利己的」だったのです。その証拠に親は、自分の子供の身代わりにだったら死んでも良いと思う場合があるけれども、遺伝子のつながっていない他人の子供の身代わりに死にたいなどとは思いません。
 ミツバチは、自分の巣箱つまり自分の遺伝子を共通に持っている家族たちの身代わりにだったら、自分が死んでも良いという行動をしますが、それもまた、自分の遺伝子を多く残すためには、自分1匹が生き残って家族たちが全滅するよりも、自分1匹が犠牲になって家族を生存させる方が有利だからであり、これもまた「利他的」ではなく「利己的」な行為だったのです。その証拠にミツバチは、自分と遺伝子のつながっていない他の巣箱が危険にさらされても、全く助けようとはしません。

 SumioBabaは、《人間の行動原理》=「人間が自由意志で自分の行動を選択しようとするとき、必ず自分にとって最も利益が大きいと思われる行動を選択する」を主張します。この《人間の行動原理》には、誰一人絶対に逆らえません。一見逆らった行動をして見せたかのように見えたとしても、その行動を選択したという事実が、本当はその行動こそがその人の利益を最大にする行動だったことの証明になってしまいますので。行為A、行為B、行為C、…の中からどれを選ぼうかという場合、どれを選んでも一般に「利益」と「不利益」の両面が生じるため、それぞれを選択した場合の
  X=「自分の利益」−「自分の不利益」
を計算し、行為A、行為B、行為C、…の中からXを最大にする行為を選ぶことになります。

 ドーキンスはこれを、遺伝子レベルで考えます。するとどうなるか? 「自分」だけではなくて、遺伝子が「自分」に近い「兄弟」や「いとこ」も考慮することになります。ただし、「自分」は重み1ですが、「兄弟」は1/2、「いとこ」は1/8、…という重みが付きます(→wiki)。つまりXは次のYになります。
  Y=「自分の利益」−「自分の不利益」
   +(1/2)(「兄弟の利益」−「兄弟の不利益」)
   +(1/8)(「いとこの利益」−「いとこの不利益」)
   ・・・・・・・・
生物は、選択できる様々な行為A、行為B、行為C、…の中から、Yを最大にするものを選択する、という訳です。そうすると、兄弟の数が10人くらいに多い場合、「自分1人が生き残って兄弟10人が全滅する」よりも「自分1人が死んで兄弟10人を生かし続ける」の方が、Yは大きくなる場合も出て来るのです。

 しかもこれは、ただの仮説というより、理論的に自ずと正しいことが導けてしまうような内容です。「Yを最大にする行為を選択する生物」と「Yを最大にしない行為を選択する生物」とが生存競争したらどうなるか? 多くの遺伝子を残して生存競争に勝つのは「Yを最大にする行為を選択する生物」の方であることが、理論的に証明できてしまうのです。1/2や1/8といった重みも、これにぴったり一致した生物とそうでない生物とが生存競争したら、ぴったり一致している方が勝ち抜く確率が高いことを、理論的に証明できます。現在生存している生物は、この生存競争に勝ち残って来たものばかりなので、「Yを最大にする行為を選択する生物」であるに違いない、と言える訳です。すごいと思いませんか?

>この本能的善を基にして大人たちは理性で善を考えるのです。つまり理性的善です。しかし理性的善も本能的善の「私より公を優先すること」を基本として善を考えるのです。


 そうじゃないと思うけどな〜。生物は、Yを最大にする行為を選択しているだけだと思うけどな〜。

>ふくろうさんは何か理性で考えなければ正しい善はできないと考えているが本能的善の「私より公を優先する行為」が善の本質であり理性もこれを使って法やルールを考えているのです。赤ちゃんが持っている本能的な善こそが本質なのです。


 うっそだ〜。赤ちゃんは、コンビニで美味しそうなバナナを見ると、「本能」的に「食べたい」と思って手を出そうとします。でも大人は「理性」が有るので、「お金を払って買うまでは食べてはいけない」と判断します。SumioBabaやふくろうさんは、「理性」を優先し、「お金を払って買うまでは食べてはいけない」を選びます。shinwoodさんは「本能」を優先し、お金も払わないまま食べ始めるのですね。そして「これこそが絶対善だ!!」と強弁するのですね。

28日前 No.327

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

>>327   SumioBabaさん

う〜ん、なかなか私の言いたいことが伝わりませんね。日米ハーフの高名な物理学者の先生は私の言いたいことをすぐわかってくれたんですけれどもね〜。

私は善なる行為(何かしら感動の伴うもの)をいろいろ考えて、それらすべてに内包しているものを考えていてピン!と来たのが「私より公を優先すること」だったのです。全ての物に内包していると言うことはそれが善の本質です。その本質を言葉で表したのが本物の定義です。ですから私は「善とは私より公を優先すること」と定義したのです。私の言う定義とは本質を示す事であり内包的定義を定義と言っています。あなたとはどうも違うようです。
ではなぜ、困っている人を助ける行為などを見れば「善いな〜」という感情が出てくるのか? 脳科学者の中野信子さんが言っていることは「集団のために何かをすることを「善し」とする。「善し」とするというのは、そのとき脳内にドーパミンが出るという意味です」と言っている。集団(公)の為に何かをするときには快いドーパミンが本能的に出てそれが「善いな〜」という感情を醸し出しているのです。これが善、良心の正体なのです。

しかし人間社会は複雑ですから本能的善だけでは群れを守れないこともある。ゆえに理性が出来て理性で何が正しいのかと考えるようになったのでしょう。群れを守る為には仲間を犠牲にしなければならない時もある。「泣いて馬謖を斬る」の例のように仲間を殺すことに対しては「善いな〜」という感情は起きません。これは理性で考えられた善だからです。理性的善というか理性で正しさを考えるときも本能的善である「私より公を優先する行為」を基に理性で正しさを考えるのです。ですから本能的善無くしては理性だけでは善は考えることはできません。絶対善は本能から来る「私より公を優先する行為」なのです。これを利用して人間は理性で正しさを考えるのです。
あなた達は理性だけで善、正しさを判断できると考えているようですがその理性による善も本能的善、絶対善である「私より公を優先すること」を利用して理性で何が正しいのか?を考えていると言うことです。

とにかく私が言いたいことは西洋では善というものを定義できなかった。それは本能というものを野蛮なものとして、理性こそ素晴らしいものだと考えているからなのです。これはあなた達と同じ考えです。私は理性など本能に比べれば屁みたいなものだと考えています。ここの違いも大きいのでは? 善とは理性によるものと考えている限り善の定義はできないでしょう。善とは本能的なものなのですから。その本能的善を基にして理性で正しさを考えるのです。善とは動物たちが作り上げたものであり人間はそれを基に理性で正しいを判断しているのです。理性のみでは善は定義できません。


>SumioBabaやふくろうさんが言いたいのは、「本能が絶対善などとは言えない。」「「本能で感じる善」と、「理性で判断した善」とが食い違う場合、正しいのは「理性で判断した善」の方だ」ということです。<
>shinwoodさんは「本能」を優先し、お金も払わないまま食べ始めるのですね。そして「これこそが絶対善だ!!」と強弁するのですね。<

ここも何か勘違いしています。私たちは理性を持っていますので基本的に判断は理性でやりますので本能だけでは動きません。私も理性で判断します、ですから食い違いなど出ません。しかしその理性による判断も本能的善を基にして理性で考えていると言っているのです。


>現在生存している生物は、この生存競争に勝ち残って来たものばかりなので、「Yを最大にする行為を選択する生物」であるに違いない、と言える訳です。すごいと思いませんか?<

別に思いません。ドーキンスの利己的遺伝子もいいですけれども異種間でも助け合うし、カメもひっくり返った仲間を助けようと頑張っている動画もあります。利己的遺伝子と言うだけではなく動物たちも困っているものを助けたいと言う感情を持っているのです。仲間で助け合う種族が生存競争に勝ち残ってきたのです。その感情が時には異種間においてもつい困っているのを見ると助けたくなるのです。
私より公を優先する行為、つまり愛や思いやりこそが一番生存できるとして遺伝子に書き込まれ本能となり私たち人間にも受け継がれているのです。本能的善は愛や思いやりの善であり「善いな〜」という感動が在るのです。しかし理性で考えられた正しさ、法やルールには「善いな〜」というものは基本的にありません。これは理性で考えられたものですから。信号を守る事は正しい行為ですがこれを「善いな〜」とは思わないでしょう。しかし信号を守るのは何故正しいのか?それは公の為だからです。信号など守りたくない、早くわたりたいと言う私欲もありますがやはり守らなければ秩序が乱れ公の為にならないから守るのです。このように理性で考えられた法律も本能的善の「私より公を優先する行為、略して公の為」を基にして考えているのです。

またあなたは公理、公理と言いますが、たとえ私が夢で「善とは公の為である」と告げられたとします。何の根拠もなく夢に善の定義の答えが出てきたとしても、それで考えればいろんな問題も矛盾なく解けたなら「公の為は正しいのでは?」と皆さん考えるのではないでしょうか。地動説が何の根拠もなく出ても地動説で考えれば天体のいろんな矛盾が矛盾なく説明がつく、そうなれば皆さん、根拠は示されていないが地動説が本当は正しいのでないかと皆さんは考えるのではないでしょうか。

ついでにふくろうさんの怒りモードで書かれた文章は殆どが「公」についての事でした。公は私も説明が難しいので私のHPの「公の為とは?」を読んでくれというのですがふくろうさんは読んでいないと思います。読んでいないのに矛盾じゃ〜と怒っているんです。まあ、SumioBabaさんもそこが一番矛盾を感じるところだと思いますので、次回はそれを書いてみます。

27日前 No.328

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

思うに、「絶対善」とは愛のことだ。ワーディングに問題はあるだろうが、恐らくはそうだ。善とは行為ではない、精神である。

そういうことだろ?

27日前 No.329

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

>>329   ちょっとねちゃん

善とは道徳的に正しい事(目的)と道徳的に正しい行為(方法、手段)を言います。善は二通りあります。

ですから絶対的に正しい事(絶対善)種族保存、群れ社会の安寧秩序を守る事、社会が平穏で秩序があり安心して暮らせることこそが、その群れにとって幸せであり絶対的に正しい事だと思いませんか。

また社会が幸せであるために最も正しい行為(絶対善)が「私より公を優先する行為、つまり公の為」です。何か問題が起きた時に最も正しい行為が「私欲を抑えて公の為と皆さん一人一人が考えることが最も正しい行為だと思いませんか。「私より公を優先する行為」を大まかに「愛」と表現してもいいでしょうがそれは本能的善、善なる行為に対してのみいえることで、理性で考えられた善は愛だけでは解決できないものもあるのです。泣いて馬謖を切るのは理性で考えた正しい行為ですが愛ある行為とは言えません。

善とは行動しなければ分かりません、ゆえに善とは行為です。

27日前 No.330

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>328  shinwoodさんへ

>私は善なる行為(何かしら感動の伴うもの)をいろいろ考えて、それらすべてに内包しているものを考えていてピン!と来たのが「私より公を優先すること」だったのです。全ての物に内包していると言うことはそれが善の本質です。

>その本質を言葉で表したのが本物の定義です。ですから私は「善とは私より公を優先すること」と定義したのです。私の言う定義とは本質を示す事であり内包的定義を定義と言っています。あなたとはどうも違うようです。


 「SumioBabaによる善の内包的定義」=「自分自身の為になる行為、他人の為になる行為、公の為になる行為、…これらすべてが道徳的に正しい行為であり「善」である」です。「SumioBabaによる善の外延的定義」={自分自身の為になる行為、他人の為になる行為、公の為になる行為、…}です。「shinwoodさんによる善の内包的定義」=「公の為になる行為」は、「SumioBabaによる善の外延的定義」に含まれている3つの要素の中の1つに過ぎません。SumioBabaから見ると、shinwoodさんは視野が狭いのです。

 SumioBabaの定義だと、特に「公」の為にならなくても、自分自身の為になる行為も「善」です。たとえ「私」より「公」を優先しなくても、「公」の為になる行為は「善」です。shinwoodさんの定義だと、これらが欠落してしまいます。だからSumioBabaは、shinwoodさんの「公理」や「定義」よりも、SumioBabaの「公理」や「定義」の方を支持します。

> 絶対善は本能から来る「私より公を優先する行為」なのです。これを利用して人間は理性で正しさを考えるのです。


 議論はほぼ終わりましたね。shinwoodさんの説明はすべて、「証明なし真だと定めた「公理X」が正しいと仮定すると、」という条件付の話です。だから、SumioBabaのようにshinwoodさんの定める「公理X」を支持せず、別の「公理Z」を適切だと思う人間には、全く通用しないということです。これが結論です。

>あなた達は理性だけで善、正しさを判断できると考えているようですがその理性による善も本能的善、絶対善である「私より公を優先すること」を利用して理性で何が正しいのか?を考えていると言うことです。


 SumioBabaは、「本能」も「理性」も、直接「善」でもなければ直接「悪」でもないと考えます。「本能」とは、生物が生きていくために生得的に持っている性質ですが、これ自体は「善」でも「悪」でもありません。「理性」もまた、「本能」で足りない部分を知恵で補う効果は有るものの、「善」か「悪」かはどちらにも働き得るものです。生物として生まれた以上、何等かの行為をして生きていくことになり、どんな行為にも「善」と「悪」の両面が伴うので(これが《相対主義》)、「本能」も「理性」も、「善」と「悪」の両方を産み出してしまうのです。

>ドーキンスの利己的遺伝子もいいですけれども異種間でも助け合うし、カメもひっくり返った仲間を助けようと頑張っている動画もあります。利己的遺伝子と言うだけではなく動物たちも困っているものを助けたいと言う感情を持っているのです。仲間で助け合う種族が生存競争に勝ち残ってきたのです。その感情が時には異種間においてもつい困っているのを見ると助けたくなるのです。


 「異種間で助け合う」とか「カメもひっくり返った仲間を助けようと頑張っている」とか「動物たちも困っているものを助けたいと言う感情を持っている」とか、そういう性質を生物が持っているとするなら、それらもすべて「利己的遺伝子」の成せる技であり、自分の遺伝子を最も多く残せそうだからそうするのです。「公の為に」なんて考えてやっている訳ではなく、行為の選択基準はただ1つ、「自分の遺伝子を多く残したい」なのです。

>私より公を優先する行為、つまり愛や思いやりこそが一番生存できるとして遺伝子に書き込まれ本能となり私たち人間にも受け継がれているのです。


 全く逆です。遺伝子には、「公より私を優先せよ。自分の遺伝子を少しでも多く繁栄させることに全力を尽くせ。その為には、他人も公も犠牲にせよ」と書いてあるのです。なぜなら、そう書かれている遺伝子こそが生存競争を勝ち抜いて現在生存できているのですから。遺伝子に「私より公を優先せよ」なんて書き込まれている生物は、あっという間に絶滅しています。

>またあなたは公理、公理と言いますが、たとえ私が夢で「善とは公の為である」と告げられたとします。何の根拠もなく夢に善の定義の答えが出てきたとしても、それで考えればいろんな問題も矛盾なく解けたなら「公の為は正しいのでは?」と皆さん考えるのではないでしょうか。


 例えば「X^2=1」の解は、「X=±1」です。「X=+1」と「X=−1」の両方が解であって、無理に片方だけに限定してしまうと間違いになります。《相対主義》は、あらゆる行為が誰の視点に立つかで「善」にも「悪」にもなり、一概にどちらか一方には決められない、と考えます。それなのに貴方は、無理に片方に決め付けようとしています。《相対主義》を正しいとする立場から見ると、貴方が間違っているのです。

>地動説が何の根拠もなく出ても地動説で考えれば天体のいろんな矛盾が矛盾なく説明がつく、そうなれば皆さん、根拠は示されていないが地動説が本当は正しいのでないかと皆さんは考えるのではないでしょうか。


 貴方の「公理X」から導いた「定理A」に、多くの人々が反発しており、「公理X」が不適切であることを示唆していますよ。「正しい」か「間違い」かを確定できるものではないので、「間違い」だと断定はできませんが。

27日前 No.331

空の光 ★bKAra12pm0_m9i

絶対善・・・絶対であるなら公も私も関係なく善だということかも。
時、場所、人の思い・・・それで変わってしまえば、それは絶対ではない。
小乗の善、大乗の善はあるのは事実。
ある時は小乗で、ある時は大乗で・・・つまり絶対善はないかも知れない。
判断を誤る事がなければ、大乗、小乗を使い分けるのは良いかもしれない。
しかし、使い分ける時の判断はどこに持てば良いのか?

shinwoodさんは公、私で判断すると良いという。
公というと市区町村であったり国であったりとする。
でも、公が間違う事はないのか?
たしかに親に孝、国に忠と言う言葉もある。
昔は、藩の行いが誤っていた時、身をもって誤りを忠告したとか・・・
自分を中心とするのは危ういかも知れない。
でも、心の奥(魂)に響く声は大事にしなければならないかな。

良心なるものがない人はないだろう。
良心があると言うことはその人にとっての善か?
大乗の善(公)、小乗の善(私)、どちらをとるか?
その判断が間違わないように常に、心の鏡を磨かなければならないかも。
自分がこれだけは正しいと思うものを、心の鏡を磨くものにするか。
たとえば、善悪について書かれてるものを読むとか。
善悪がテーマになってるものは、どれだけあるか?
その中の自分にぴったりくるものを選び取る。
その書物を繰り返し繰り返し読む。
そうすればいつか気付く時が来るかも・・・
ああ、これが善悪の基準なんだと。

shinwoodさんは気付かれたんですね。公と私という形で。
そして、磨き続けてる。どこまで自分の判断が正しいのか問うている。
人はつい、自分の考えだけで進もうとするから。
正しいとする判断が、時にブレる。そんな時、初心と何が違ったか見る。

自分はしょっちゅうブレてるかも。こんな考えもあるんだ。
いいなと思う。そこで、書物を読み直してみる。
このような考え方はは今まで自分の持ってたものとどう違うか。
そして、感じ取ったものの方向へと進む決意をする。
今までにない思いをこんなのもあるんだ。と吸収していく。
何かあった時に、その考えも思い起こしてみる。
そして、その中からこの道には、これがぴったりだなと・・・
そのためにこの掲示板に来てる。

26日前 No.332

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

こんな風に読む人もいるんだ。Shinちゃん、よかったね。

26日前 No.333

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

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26日前 No.334

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

>>332   光の空さん

>shinwoodさんは公、私で判断すると良いという。公というと市区町村であったり国であったりとする。でも、公が間違う事はないのか?<

まだこんなことを言ってる。公とは国や政府ではなく国民みんなです。市や国は私になります、常に公はみんなです。公(国民)の為に私(市や国)も私欲を抑えて国民みんなの為と考えなければなりません。公は国や政府ではありません。


>そうすればいつか気付く時が来るかも・・・ああ、これが善悪の基準なんだと。<

私はもう善悪の基準は分かっています。善とは私欲を抑えて公の為と考え行うことです。悪とは公に害を及ぼそうが私欲を優先することです。

26日前 No.335

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>334  shinwoodさんへ

 フィルタのかかったものは読めませんので、悪しからず。

 R・ドーキンスのいう「利己的遺伝子」という考え方が正しいと仮定して、話を進めてみます。

 生物は基本的に、「自分の遺伝子を少しでも多く繁栄させたい」というのが、自分の行為を選択するときの基準ということになります。「公の為に」とか「世界平和の為に」などと考えている「利他的」な人はいないことになります。もちろん、ごく少数なら、突然変異でそのような「利他的」な人間も生まれる可能性が有ります。しかし、残念なことに(?)、そのような「利他的遺伝子」を持った人間は生存競争に負ける方なので、結局は「利己的遺伝子」を持った方だけが勝ち残ります。

 生物としての本能が最優先するのは、「自分の遺伝子を少しでも多く繁栄させたい」です。なのにこれに反し、「世界平和を実現しましょう」などと主張している人が居ます。なぜ、そんな事を主張するのでしょう? 答えは簡単、そう主張することが、自分にとって大きな利益をもたらし、その結果、自分の遺伝子が少しでも多く繁栄するのにつながると考えているからです。では一体、「世界平和を実現しましょう」と主張することは、どういう意味で自分の利益につながるのか? 答は2つしか思い付きません。

 @=「「どうだ、オレ様は素晴らしい善人だろう!!」と周囲の人々に対して自慢し、他人に尊敬されたいから」。政治家や、人々の上に立つリーダーなどは、立候補するとき、できるだけ自分を善人に見せようとします。その方が有利だからです。普通の人間でも、周囲の人間から「悪人」と見なされるのは不利であり、「善人」だと見なされておいた方が、何かと有利です。本当は善人ではないのに、自分を善人だと見せ掛けているだけなので、本当はただの「偽善者」です。

 A=「「私って、何て善人なのでしょう!!」と自己陶酔したいから」。これもまた、本当の善人ではなく、「偽善者」だと思われます。本当は、苦しんでいる他人を助けてやりたいという気持ちなど、持っていないのです。ただただ、「皆さん、苦しんでいる人がいたら、そっと手を差し伸べてやろうではありませんか」と綺麗事を並べている自分に、うっとりしているだけなのです。しかもAの場合、自分でも自分が「偽善者」だとは気付いていない可能性が有ります。

 敢えて3つ目の可能性を挙げるなら、B=「突然変異により本当に「利他的遺伝子」を持って生まれている」、が挙げられます。例えば、イエス・キリストがそうだったのかもしれません(真偽不明)。しかし、すでに書いた通り、本当の善人は生存競争においては負ける側の人間であるため、イエスはあっさり処刑されてしまいました。ただし、イエスは殺されたけれども、「隣人を愛しなさい」「敵をも愛しなさい」という教えは、ドーキンスが言う《ミーム》(→wiki)という形で永遠に生き続けるでしょう。

 で、何が「善」であるかは、結局のところ多数決で決めるしか方法は無いのです。「世界平和」=「絶対善」と思い込んでいる人もいるようですが、これも違います。「世界平和」にもまた、長所が有れば短所も有るのです。「貧富の差もなく、私有財産もなく、みんながみんなの為に働くことを生きがいとする社会こそが理想郷である」などと、素朴に考えられていた時代が有りました。しかし、それを目指した社会主義の試みは、無残にも失敗しました。

 人間は生物であり、根本からして「好戦的」「闘争的」なのです。「他人と戦って勝ちたい!!」「自分が優勝してヒーローになりたい!!」「自分だけが大金持ちになって貧乏人たちに自慢したい!!」…という願望です。もちろん、あまり褒められた願望ではないかもしれませんが、人間は生物であるがゆえに、これらの願望を満たそうとするときに一番力を発揮できるのです。それを否定して競争の無い社会を作ろうとすると、途端に人間は力を発揮できなくなってしまうのです。

 「世界平和を目指したい」という願望を持つのは自由です。それもまた、その人の価値観であり、尊重されるべきものです。しかし、「誰もが世界平和を望んでいる」と考えるのは大間違いです。ドーキンスの「利己的遺伝子」を考慮するなら、「世界平和を目指しましょう」なんていうのは、殆どの場合、社交辞令なのであって、本心ではないのです。そして「世界平和」にも一長一短がある以上、長所だけを力説するのではなく、短所もしっかり見詰めることが必要です。そして、短所の方を正しく把握すると、「「世界平和」は実現するよりしない方が、人類にとってより好ましい」という結論になるかもしれないのです。

25日前 No.336

空の光 ★bKAra12pm0_m9i

絶対善
公。私・・・この文字がくせ者。
人数の多い方を公とする。
今の国会でも数の多い方が公だとふんぞり返ってる。

大乗小乗の使い分けというものを知らない。
多数決そんなものに頼って話し合い意見の交換をしない。

個人個人でそれをしようというのかな?多数決・・・

個人の集まりが正しいかどうか。
少数の意見と多数の正直。
多数が正しいとそれが決まるのか。
守るべき個人もあるのだと思う。

25日前 No.337

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

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25日前 No.338

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>338  shinwoodさんへ

 フィルタのかかったものは読めませんので、悪しからず。

>>335  shinwoodさんへ

 A=「自分個人、または、自分個人を含む小さい人間集団」とB=「Aを部分として含む、より大きな人間集団」とが有るとき、Aを「私」、Bを「公」と呼ぶのではないでしょうか。「自分個人」が「私」で、「家族」が「公」とか。「市区町村」が「私」で、「都道府県」が「公」とか。「都道府県」が「私」で、「国(日本)」が「公」とか。「国(日本)」が「私」で、「世界」が「公」とか。

>公とは国や政府ではなく国民みんなです。市や国は私になります、常に公はみんなです。公(国民)の為に私(市や国)も私欲を抑えて国民みんなの為と考えなければなりません。公は国や政府ではありません。


 shinwoodさんによると、「国」が「私」で、「公」が「国民みんな」なのですか? SumioBabaによれば、「国」が「公」で、「国民一人一人」が「私」なのですけれど。shinwoodさんの「私」や「公」という言葉は、すでに何人かが指摘している通り、日本語になっていないように思います。だから、shinwoodさん以外の誰一人として、shinwoodさんの定義を受け入れていないように思います。もう一度、言葉の定義から考え直すべきではないのでしょうか?

>私はもう善悪の基準は分かっています。善とは私欲を抑えて公の為と考え行うことです。悪とは公に害を及ぼそうが私欲を優先することです。


 貴方がそう考えたいのなら、それで良いのではありませんか。SumioBabaは、shinwoodさんの「公理」や「定義」よりもSumioBabaの「公理」や「定義」の方が適切だと考えますが、それを他人にまで(もちろん、shinwoodさんにも)押し付けるつもりは有りません。「道徳の公理」や「善の定義」なんて、人それぞれみな微妙に異なるだろうし、どちらがより適切かをディベート・ゲームのように戦わせてみるのは面白いけれど、最後まで意見が一致しなかった部分についてはどちらが正しいとも言えず、好みの問題となります。だからshinwoodさんも、「自分だけが唯一絶対に正しい!!」などという自己中な思い込みは捨てた方が良いと思います。貴方の道徳体系は、「shinwoodさんが仮定した「公理X」を証明なしに正しいと仮定すると」という条件付でしか正しいとは言えず、SumioBabaのように別の「公理Z」を支持する人間には全く通用しないのですから。

25日前 No.339

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「利己的遺伝子」は「良心」も説明できる

 R・ドーキンスの「利己的遺伝子」という考え方は、一見すると人間を100%「利己的」と見なし、「利他的」な性質を0%と見なしているかのように錯覚するかもしれませんが、決してそうではありません。人間が持つ「良心」とか「愛情」「友情」「愛国心」…といった性質も、「利己的遺伝子」はすべて説明してしまいます。

 まず、親は自分の子供に特別深い愛情を感じるという性質が有ります。それは何故か? A=「親と子の片方が死ななければならないとき、子を死なせて親が生き続ける方を選ぶ薄情な親」。B=「親と子の片方が死ななければならないとき、親が死んで子が生き続ける方を選ぶ愛情の深い親」。初めからどちらでなければならないという理由は何も無いのですが、AとBとが混在する状態から始めると、自分の遺伝子をより多く残せる確率が高いのはBの方なので、全人口を一定として考えると、Bの方は子孫が増え続けるのに対し、Aの方は子孫が減り続けやがて絶滅する確率が高いと言えます。その結果、自ずと、大部分の親はAではなくBの方なのです。

 自分と遺伝子のつながっていない赤の他人の場合はどうか? 人間を3段階に分けてみます。P=「赤の他人に対し、全く「愛情」を感じることなく、赤の他人が苦しんでいても何もしてあげない人」。Q=「赤の他人にも、ある程度は「愛情」を感じ、赤の他人が苦しんでいるのを見ると、できれば助けてあげたいとは思うけれども、自分が身代わりになろうと思うほどではない人」。R=「赤の他人に対しても、強力な「愛情」を感じ、赤の他人が死ぬくらいなら自分が身代わりに死のうとする人」。自分の遺伝子を少しでも多く残そうとする場合、P、Q、Rのどれが最適戦略か?、という問題です。

 Pは、一見100%「利己的」で、これこそが自分の遺伝子を多く残すのに最適かのように感じますが、そうではありません。人間社会では、多くの人間が協力して仕事をする必要が有るので、あまりに「利己的」な人は嫌われてしまいます。Pのような人は、友達も無く、結婚もできず、子供も残せないまま死ぬ確率の高い人であり、生物としての生存競争では負けてしまうのです。
 Rはその逆です。あまりにも「利他的」であるがゆえ、どちらかが死ぬ場合、自ら死ぬ方を選んでしまい、やはり生存競争には勝てません。

 生存競争に勝てるのはQです。つまり、「良心」とか「愛情」「友情」「愛国心」…といった性質を、全く持たないでもダメ、多く持ち過ぎてもダメであり、ほどほどに持っている人間が、一番生存競争に勝てるのです。突然変異により、P、Q、R、どのタイプの人間も常に生まれていると思われます。そして、PやRの人間は生存競争に負けて絶滅していくため、Qの人間こそが多く生き残るのです。だから、現在生存している人間の殆どはQであり、ほどほどの「良心」「愛情」「友情」「愛国心」…を持つことになりますが、それこそが自分の遺伝子を数多く残すのに最善の戦略なのです。

24日前 No.340

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

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24日前 No.341

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

Mobiusさん、サンキュー!

SumioBabaさん

 >A=「自分個人、または、自分個人を含む小さい人間集団」とB=「Aを部分として含む、より大きな人間集団」とが有るとき、Aを「私」、Bを「公」と呼ぶのではないでしょうか。「自分個人」が「私」で、「家族」が「公」とか。「市区町村」が「私」で、「都道府県」が「公」とか。「都道府県」が「私」で、「国(日本)」が「公」とか。「国(日本)」が「私」で、「世界」が「公」とか。<

基本的にその考えでいいと思いますよ。
上記において「自分個人」が「私」で「家族」が「公」の例としては、例えばお父さんが失業したと言う家族の問題なら、私は家族一人一人であり、公は家族みんなを指します。ですから前に何度も説明してきたようにお父さんは週一回のゴルフはやめないとか、お母さんは週一のママ友のお食事会は絶対にやめないとか、子供は子供で大学は(金のかかる)私立に行きたい、公立は嫌だとか各自が私欲ばかりを主張したら、お父さんが失業して金が入ってこないのだから、各人がぜいたくを言っていては家族は直ぐに生活がやっていけなくなります。ですから家族の困った問題においては「各自の私欲を抑えて公(家族みんな)の為」にと考えなければならないのです。お父さんが失業した問題において最も正しいこと(絶対善)は家族がより長く生活していけること、生活の維持でしょう。そしてそのために最も正しい行為(絶対善)は「私欲を抑えて公(家族のみんな)の為にと家族一人一人が考えることである。これは私が今まで説明したことと何ら変わりはありません、同じですよ。

また「都道府県」が「私」で、「国(日本)」が「公」の例としては沖縄県の基地問題を取り上げて説明してきました。国防に関する問題は国民みんなの問題なのだから国民みんなが公であり、各都道府県は私である。国防問題に対して最も正しい事(絶対善)は国民の命や財産を守る事、社会の安寧秩序を守る事でしょう。またそのために最も正しい行為(絶対善)は私欲(各都道府県の思い)を抑えて公(国民みんな)の為と全都道府県で考えることなのです。
沖縄県が「米軍は出て行ってほしい」と言う私欲ばかり主張していたら日本も沖縄県も守れなくなります。ですから沖縄県も私欲を少し抑えて日本の為と考えなければならないのです。これは原爆を日本が持つかどうかという問題も同じです、広島や長崎が「核は絶対持たせない」と私欲ばかり主張していたら日本を守ることなど出来ないでしょう。ですから長崎、広島県は私欲を抑えて本当に日本(公)の為になるのは何なのかと考えなければならないのです。

また「国(日本、世界各国)」が「私」で、「世界」が「公」の例としては捕鯨問題などで何度も説明してきました。捕鯨問題で最も正しいことはクジラを絶滅させずに人類がクジラを長く食料として確保できるかどうかでしょう。そのために最も正しい行為、方法は世界各国は私欲を抑えて世界(公)の為と考えなければならないのです。ところがEUやアメリカ、オーストラリアなどはクジラは頭が良くてかわいい動物だから食べてはならないなどの私欲を言ってくるから捕鯨問題はまともな議論もできないのです。ですから一番正しい行為(絶対善)は各国が私欲を抑えて世界のみんなの食料をいかに長く確保できるのかと考えなければならないのです。ここでは私は世界各国であり公は世界です。ですが世界は仲間にはなかなかなれませんので常に各国は自国の私欲のみ主張しますので国際的問題は善い答えが出せないのです。基本的に世界各国は私欲をさえて公の為と考えることはありません。ですから基本的に仲間の最大は各国国民になります。仲間と思わなければなかなか私欲を抑えて公の為とは考えられないのです。

私は今まで何度も上記のように説明してきましたよね。私の説明はあなたの思う私と公と同じではないですか?


> shinwoodさんによると、「国」が「私」で、「公」が「国民みんな」なのですか? SumioBabaによれば、「国」が「公」で、「国民一人一人」が「私」なのですけれど。shinwoodさんの「私」や「公」という言葉は、すでに何人かが指摘している通り、日本語になっていないように思います。だから、shinwoodさん以外の誰一人として、shinwoodさんの定義を受け入れていないように思います。もう一度、言葉の定義から考え直すべきではないのでしょうか?<

公を検索すれば
1 政府。官庁。また、国家。「公の機関」「公の費用」
2 個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。
私は2番を公と言っています。あなたの言う国が国民を指すのであれば国が公になりますが、国が政府、国家であれば国は私になります。国という言葉は紛らわしい言葉であり国と言えば国民と対峙する国家と考える人もいます。ですから混乱するのです。公は国民みんなであり私は国民一人一人です。ですから国の問題は国民一人一人が私欲を抑えて国民みんなの為と考えなければなりません。

例えば大きな社会的問題で消費税問題があります。この問題で公は国民みんなでしょう。それに対して国民一人一人や国(政府)、財務省などは私です。消費税問題で最も大事なこと(絶対善)は国民が生活に困らず安心して暮らせることでしょう。そのために一番良い方法(絶対善)は国(政府)、財務省はまず「どうしても増税するのだ」と言う私欲を抑えて本当に増税することは国民みんな(公)の為になるのかと経済の専門家なども含めてみんなで考えることが大切なのです。しかし財務省は自分たちの天下り確保の為、政治家を騙しマスコミを騙し国民を騙して増税を強行しようとしています。このように私欲ばかり考えていれば正しい答えには近づくことが出来ないのです。
消費増税問題で善い答えを出さなければ困るのは国民みんなです。ですから国民みんなが公であり、国民みんなの為に私である国(政府)や官僚組織は本来自分たちの私欲を抑えて国民の為と考えなければならないのです。ですから社会的問題では公は常に国民みんなであり国(政府)や官僚組織は私になります、社会的問題で国(政府)や官僚組織が公になることは基本的にありません。


フィルターに掛かったところを一部また書いてみます。
私は公を私以外としています。私の言う公は確かに変則的です。でも一般的に公私というなら私は自分で、公は自分以外を指すと考えることもできます。私以外を公と言いますから友達や親も、国民も、また動物なども私(自分)に対して公になります。この約束事を了解してもらわなくてはなりません。
善なる行為というのは殆どが困っている人などを助けることを言うでしょう?ですから困っている相手を公というのです。公とは基本的に困っている相手などを指します。消費増税問題でも困っているのは国民でしょう。ですから消費税問題なら困っている国民みんなが公になります。お父さんが失業したと言う問題では困っているのは家族みんなでしょう。ですから困っている家族が公になります。犬が川に落ちて困っていたら犬が公になります。だって善とはある問題を一番良い答えがでるようにみんなで考える方法なのですからね。
そしてまた、善なる行為を行うためには行動しなければなりません。私と公が同じくらいであれば行動しません。常に自分の思い(私欲)よりも相手の思いを優先して考えなければ行動に移れないのです。ゆえに善は行為、行いなのです。頭で思っているだけでは善なることはできません。ですから善は「私より公を優先する行為」というのです。

24日前 No.342

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    なぜ、子供の身代わりに死なない親もいるのか?

 かつて、人間が竹やりを用いてマンモスと戦っていた(?)ような原始時代には、食物を得るために命を落とす危険が大いに有り、「親と子のどちらか片方が死ななければならない、子供を死なせるか、親が身代わりに死ぬか」といった状況が、かなり頻繁に起きていたのではないかと思われます。そういう時代だと、子供の身代わりに死ぬ親が遺伝子を多く残せて子孫繁栄し、子供の身代わりに死なない親が淘汰されて絶滅していく、という効果が顕著に表れていたと思われます。

 しかし、現代のような文明社会においては、「親と子のどちらか片方が死ななければならない、子供を死なせるか、親が身代わりに死ぬか」という状況自体が、殆ど生じないと思われます。その結果、「子供の身代わりに死ぬ親が子孫繁栄し、子供の身代わりに死なない親が淘汰されて絶滅していく」という効果も殆ど生じなくなります。だから現代社会では、子供の身代わりに死ぬ愛情の深い親と、子供の身代わりに死なない薄情な親とが、共存しているのだと思われます。つまり、時代が変わって世の中も変わると、どこに淘汰圧が作用するかも変化し、その時代の社会環境に応じて、どう進化するかも変わるのです。

24日前 No.343

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>342  shinwoodさんへ

 >>A=「自分個人、または、自分個人を含む小さい人間集団」とB=「Aを部分として含む、より大きな人間集団」とが有るとき、Aを「私」、Bを「公」と呼ぶのではないでしょうか。「自分個人」が「私」で、「家族」が「公」とか。「市区町村」が「私」で、「都道府県」が「公」とか。「都道府県」が「私」で、「国(日本)」が「公」とか。「国(日本)」が「私」で、「世界」が「公」とか。

>基本的にその考えでいいと思いますよ。


 じゃあ、上の定義(《SumioBabaによる公・私の定義》)で行きましょう。

>ですから一番正しい行為(絶対善)は各国が私欲を抑えて世界のみんなの食料をいかに長く確保できるのかと考えなければならないのです。ここでは私は世界各国であり公は世界です。ですが世界は仲間にはなかなかなれませんので常に各国は自国の私欲のみ主張しますので国際的問題は善い答えが出せないのです。基本的に世界各国は私欲をさえて公の為と考えることはありません。ですから基本的に仲間の最大は各国国民になります。仲間と思わなければなかなか私欲を抑えて公の為とは考えられないのです。


 世界を仲間だと見なして「公」を「世界」にするか、世界は仲間ではないと見なして「公」を「自国」にするか、これもまた、どちらが正しいかを証明できる問題ではなく、結局は個人の好みで選択すべき問題です。国民全体の意見を統一すべき場合には、多数決で決めることになるでしょう。

>公を検索すれば

>1 政府。官庁。また、国家。「公の機関」「公の費用」

>2 個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。

>私は2番を公と言っています。あなたの言う国が国民を指すのであれば国が公になりますが、国が政府、国家であれば国は私になります。


 「国が政府、国家であれば国は私になります。」が理解不能。上でshinwoodさん、《SumioBabaによる公・私の定義》に対して「基本的にその考えでいい」と言っておきながら、あからさまに反しています。

>フィルターに掛かったところを一部また書いてみます。

>私は公を私以外としています。私の言う公は確かに変則的です。


 モロに変です。《SumioBabaによる公・私の定義》に従えば、必ず「公」は「私」を含んでいるはずです。

>でも一般的に公私というなら私は自分で、公は自分以外を指すと考えることもできます。


 できません。《SumioBabaによる公・私の定義》を受け入れるのであれば、「公」と「私」の関係は「全体」と「部分」の関係ですから、「公は自分以外を指す」は有り得ず、「公は必ず自分を含む」になるはずです

>私以外を公と言いますから友達や親も、国民も、また動物なども私(自分)に対して公になります。この約束事を了解してもらわなくてはなりません。


 「私以外」は「公」ではなく「他」です。そして、「公」=「私」+「他」です。《SumioBabaによる公・私の定義》に、あからさまに反しているではありませんか。

>善なる行為というのは殆どが困っている人などを助けることを言うでしょう?


 何と視野の狭い捉え方でしょう!! 貴方の視野の狭い定義では、そうなってしまうのですね。SumioBabaの広い定義では、自分の為になる行為も「善」ですし、困っていない人に良いことをしてあげるのも「善」です。貴方の「善」の定義は、あまりに狭過ぎますよ。

>ですから困っている相手を公というのです。


 ムチャクチャですね。「公」とは本来「相手」ではなく、「自分」を含む人間集団を言うのだし、困っているかいないかに関わりなく、「公」は「公」です。なのに貴方は、「公」という言葉を「相手」にすり替えてしまい、さらに「公」であるために「困っている」という条件まで付けてしまうのですか。ムチャクチャです。

>公とは基本的に困っている相手などを指します。


 「公」という言葉をここまで捻じ曲げないと、貴方の主張は通らなくなるのですね。

>犬が川に落ちて困っていたら犬が公になります。


 犬が公? アハハ。これ以上言うべき言葉も見付かりません。

>だって善とはある問題を一番良い答えがでるようにみんなで考える方法なのですからね。


 それは、視野の狭いshinwoodさんによる「善」の定義。SumioBabaによる広い「善」の定義では、自分の為になる行為も「善」です。

>そしてまた、善なる行為を行うためには行動しなければなりません。私と公が同じくらいであれば行動しません。常に自分の思い(私欲)よりも相手の思いを優先して考えなければ行動に移れないのです。ゆえに善は行為、行いなのです。頭で思っているだけでは善なることはできません。ですから善は「私より公を優先する行為」というのです。


 それは不可能だって、すでに何度も説明しているではないですか。shinwoodさんは自分に都合が悪い事は全く無視ですね。人間は誰もが《人間の行動原理》=「人間が自由意志で自分の行動を選択するとき、自分の利益を最大にすると思われる行為を必ず選択する」に縛られるので、「私より公を優先する行為」など、原理的に不可能です。

 若者が電車で老人に席を譲った場合、shinwoodさんは単純に、「若者は、「公」(老人)を優先して「私」(若者)を犠牲にした」と考えるのでしょうね。でも、全く違うのです。若者は「私」を犠牲になんかしていないし、「公」を優先してもいません。若者はただただ、自分の私欲を最大限に満たせる行為を最優先して選んだだけなのです。

 席を譲らなければ、座ったままでいられるので、身体的利益は0とします。席を譲ると立たねばならなくなるので、身体的利益を−30とします。これだけだったら、席を譲ると損をすることになるので、若者は絶対に席を譲りません。なのに、席を譲ったとすれば、この身体的利益−30を打ち消せるだけの大きな精神的利益を、若者は何等かの形で得ているはずなのです。

 もし若者が本当の善人なのであれば、「立っている老人は辛そうだ」「老人に席を譲ってあげたい」と本気で思い、実際に譲ってあげて、老人が感謝してくれたことにより「譲ってあげて良かった!!」と満足したでしょう。この精神的満足感が、例えば+50くらい有ったはずなのです。もし若者が偽善者であれば、「周囲の人たちに、自分を善人だと見られたい」とか、「自分は何て善人なのだろう、と自己陶酔したい」という欲望を満たすことが、+50くらいの精神的利益になったのかもしれません。

 席を譲らなければ利益は0。席を譲ると、身体的利益は−30だけれど、精神的利益を+50得ることができ、合計すると+20。席を譲らないより譲った方が、若者の利益は大きいことになります。だから若者は、自分の利益を最大にする行為として「席を譲る」を選んだだけなのであり、これもまた「利己的な選択」だったのです。

 立っている老人の辛さが解らない人や、老人に楽して欲しいという気持ちが全く生じない薄情な人は、たとえ席を譲っても、この精神的満足感が得られません。そうすると、席を譲らなければ身体的利益は0、席を譲れば身体的利益は−30というだけになり、自分の利益を最大にする方として「席を譲らない」を選ぶことになります。

 このように、席を譲る人も譲らない人も、常に自分の利益を最大にすると思われる行為を選択しているだけです。つまり、誰もが《人間の行動原理》に完璧に縛られています。「私より公を優先する行為」なんてものは、原理的に有り得ないのです。

24日前 No.344

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

>>344   SumioBabaさん

 >世界を仲間だと見なして「公」を「世界」にするか、世界は仲間ではないと見なして「公」を「自国」にするか、これもまた、どちらが正しいかを証明できる問題ではなく、結局は個人の好みで選択すべき問題です。国民全体の意見を統一すべき場合には、多数決で決めることになるでしょう。<

いやいや、捕鯨問題は世界の問題ですから世界が公に決まっています。世界のみんなの為にどうすればいいかと話し合うわけですからね。自国を公にすると言う考えこそが分かりません。公は問題により自然と決まってしまうのです。自国を公などにはできません。


 >「国が政府、国家であれば国は私になります。」が理解不能。上でshinwoodさん、《SumioBabaによる公・私の定義》に対して「基本的にその考えでいい」と言っておきながら、あからさまに反しています。<

私は公には(みんな)をつけます。公(みんな)とね。ですから家族のみんな、県民のみんな、国のみんな、世界のみんなです。ですから国の問題は国民みんなの為です。その国を政府、国家としたらいけないんです。国というときも国=国民みんなです。国=政府、国家ではないんです。そのように勘違いする人も多いのです。だって消費増税問題は国民みんなの問題なのですから国民みんなで公(国民)の為と考えなければなりません。政府や官僚たちも私欲を抑えて公(国民)の為と考えなければならないのです。


>>でも一般的に公私というなら私は自分で、公は自分以外を指すと考えることもできます。 <<
>できません。《SumioBabaによる公・私の定義》を受け入れるのであれば、「公」と「私」の関係は「全体」と「部分」の関係ですから、「公は自分以外を指す」は有り得ず、「公は必ず自分を含む」になるはずです<

滅私奉公という言葉があります。この意味は私心を持たず公に尽くす事です。例えば国の問題なら勿論私も日本国民の一人に含まれますが公(国)の為と考えるときはなるべく自分を忘れて公の為と考えなければならないのです。その代わり他のみんなが私のことも含めて公の為と考えてくれるのですから。心配しなくていいのです。
私は公を私以外としています。例えば電車で妊婦さんが乗ってきたら、自分たちは私であり妊婦さんが公です。一般的に乗客の皆さんは妊婦さんは大変であろうと考え妊婦さんを助けたいと考えます。善なる行為というのは人を助けると言う行為を言います。ですから助けるべきなのは妊婦さんであり妊婦さんが公になります。困っている人が公であり助けるべき人が公になるのです。その公である妊婦さんに「公は必ず自分を含むになるはずです」という意味が分かりません。何故公である妊婦さんに自分も含めようとするのですか? 公は助けるべき人であり困っている人を言うのです。



 >「私以外」は「公」ではなく「他」です。そして、「公」=「私」+「他」です。《SumioBabaによる公・私の定義》に、あからさまに反しているではありませんか。<

ですから私以外はみんな、公とすると言う約束事です。そう考えることで、この公は友人も家族も国も「公」と表せる便利な言葉だと思うのです。公の為ではなく他の為ではしっくりきません。家族や国の問題に対して公ではなく他を使えますか? 私欲を抑えて他(国)の為?おかしいでしょう。 公を私以外とすることで小さな問題から大きな問題まで「公の為」で表されるのですから便利なのです。公の意味は「個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。」となっているのですから公が一番いいのです。私に対しては他ではなく公です。


>>「善なる行為というのは殆どが困っている人などを助けることを言うでしょう? 」<<
>何と視野の狭い捉え方でしょう!! 貴方の視野の狭い定義では、そうなってしまうのですね。SumioBabaの広い定義では、自分の為になる行為も「善」ですし、困っていない人に良いことをしてあげるのも「善」です。貴方の「善」の定義は、あまりに狭過ぎますよ。>

何故私たちは善なる行為を見ると「善いな〜、偉いな〜」などの感動を感じるのか。それは群れを助ける行為に対しては本能的に快い脳内ホルモンが出るようになっているからです。自分の為になることに「善いな〜」など感じるはずはないでしょう。それは善とは言いません。
善の正体は脳内ホルモンなのです。生後数か月の理性のない赤ちゃんでも善悪が分かると言うのはそういうことです。赤ちゃんも脳内ホルモンで本能的に快不快を感じているのです。誰かを助ける行為に対して快を感じて、邪魔をする行為に不快を感じるのです。これは群れを保存するためにいちばん良い行為として本能となりそれに対して脳内ホルモンが出るようになったのです。
また人間の理性での善悪の判断はこの本能的善を基にして判断しているのです。ですから群れを存続させることが善であり、その為に最も良い行為が「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやりの行為」なのです。この本能的な善「公の為」を基にして理性でも法律や正しいことを「公の為」で考えるのです。私たちが理性で物事を正しいと考えるのはすべて公(みんな)の為になることなのです。


 >犬が公? アハハ。これ以上言うべき言葉も見付かりません。<

犬だってなんだって困っていれば助けたくなるでしょう。本能的にそうなっているのですからしょうがありません。私以外は公ですので犬であろうと蝶であろうと朝顔であろうと公と考えてください。助けたいと思う自分(私)に対して困っている相手が公というのです。異種間の動物たちだってお互い助け合うこともあるのですよ。自分以外を公と約束することであらゆる問題を「公の為」で考えることが出来るのです。これほど便利な言葉は他にはないのです。


>>ですから善は「私より公を優先する行為」というのです。 <<
>それは不可能だって、すでに何度も説明しているではないですか。shinwoodさんは自分に都合が悪い事は全く無視ですね。人間は誰もが《人間の行動原理》=「人間が自由意志で自分の行動を選択するとき、自分の利益を最大にすると思われる行為を必ず選択する」に縛られるので、「私より公を優先する行為」など、原理的に不可能です。<

生後数か月の理性のない赤ちゃんでも善悪は分かっていると多くのアメリカの大学の研究で実証されています。私も親切をするとき、あなたが言う様な、そんな複雑なことは考えていません。ただ助けたいと思う感情で助けているだけです。人間の行動原理は快、不快です。もうそろそろあなたの信じている小難しい《人間の行動原理》というものは忘れてください。原理、ドグマですから。あっ!ついでに利己的遺伝子も忘れてください。

ここをご覧の奇特な皆さん、私とSumioBabaさんの意見、どちらに賛同されますか、意見を聞かせてくださいm(__)m

23日前 No.345

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>345  shinwoodさんへ

>いやいや、捕鯨問題は世界の問題ですから世界が公に決まっています。世界のみんなの為にどうすればいいかと話し合うわけですからね。自国を公にすると言う考えこそが分かりません。公は問題により自然と決まってしまうのです。自国を公などにはできません。


 「いやいや、捕鯨問題は世界の問題ですから」というのがshinwoodさんの独断です。誰かが「いやいや、捕鯨問題は日本の問題ですから」と言い出したら、どちらも証明はできません。これらを「定理」として証明しようとしても、その前に「公理」を証明なしに仮定せざるを得ないし、当然相手はその「公理」を受け入れないだろうし。だから、結局は自分の好みで選ぶしかなく、多数決になるのです。なのにshinwoodさんは、相変わらず、自分の意見こそが唯一絶対に正しい、と独断を下し続けるのですね。

>私は公には(みんな)をつけます。公(みんな)とね。ですから家族のみんな、県民のみんな、国のみんな、世界のみんなです。ですから国の問題は国民みんなの為です。その国を政府、国家としたらいけないんです。国というときも国=国民みんなです。国=政府、国家ではないんです。そのように勘違いする人も多いのです。だって消費増税問題は国民みんなの問題なのですから国民みんなで公(国民)の為と考えなければなりません。政府や官僚たちも私欲を抑えて公(国民)の為と考えなければならないのです。


 何の話ですか? SumioBabaは、「「公」は必ず「私」を含むはずだ」と指摘しているのですが?

>滅私奉公という言葉があります。この意味は私心を持たず公に尽くす事です。例えば国の問題なら勿論私も日本国民の一人に含まれますが公(国)の為と考えるときはなるべく自分を忘れて公の為と考えなければならないのです。その代わり他のみんなが私のことも含めて公の為と考えてくれるのですから。心配しなくていいのです。


 何の話ですか? 「公」は定義上、必ず「私」を含むはずだと指摘しているのですけど。

>私は公を私以外としています。例えば電車で妊婦さんが乗ってきたら、自分たちは私であり妊婦さんが公です。一般的に乗客の皆さんは妊婦さんは大変であろうと考え妊婦さんを助けたいと考えます。善なる行為というのは人を助けると言う行為を言います。ですから助けるべきなのは妊婦さんであり妊婦さんが公になります。困っている人が公であり助けるべき人が公になるのです。その公である妊婦さんに「公は必ず自分を含むになるはずです」という意味が分かりません。何故公である妊婦さんに自分も含めようとするのですか?


 「公」という言葉には「自分」も含まれてしまうので、「妊婦」を「公」と呼んでいるshinwoodさんが日本語を間違って使っている、という指摘です。

> 公は助けるべき人であり困っている人を言うのです。


 ムチャクチャな定義ですね。前にも説明しましたが、貴方は自分の主張が正しくなるように、言葉の定義の方を思いっ切り捻じ曲げてしまったのです。その結果、貴方の主張は絶対に正しいトートロジーになりましたが、「そうなるように定義すれば、そうなるのは当たり前だね」というだけで、中身が何も無くなりました。

 貴方の主張は、「「善」とは「公」の為になる行為をいう」…※でしたよね。そして貴方は、※が絶対に正しいトートロジーとなるよう、「公」と「善」の定義の方を捻じ曲げたのですよ。それが、「公」=「助けるべき困っている人」…@であり、「善」=「助けるべき困っている人の為になる行為」…Aです。※に@とAを代入してみて下さい。※は「「助けるべき困っている人の為になる行為」とは「助けるべき困っている人」の為になる行為をいう」…Bとなります。確かに※はトートロジーだと見なせるので、絶対に正しく、反論の余地は無くなります。でも、自分の主張する命題※が必ず真となるように、言葉の定義を捻じ曲げておきながら、「私の主張する命題※は絶対に正しい」と主張しても、何の意味も有りませんね。

 例えば数学の未解決問題に「リーマン予想」が有ります。証明できればフィールズ賞は確実とされる超難問です。ある人が「自分はリーマン予想を証明した!!」と主張しました。SumioBabaがその論文を読んでみたら、その人が言う「リーマン予想」は、実は中学生でも証明できる「ピタゴラスの定理」でした。「リーマン予想」という言葉の意味を捻じ曲げて「リーマン予想」=「ピタゴラスの定義」と定義し、その上で「ピタゴラスの定理」を証明して見せても、本当の「リーマン予想」を証明したことにはなりませんね。

>ですから私以外はみんな、公とすると言う約束事です。そう考えることで、この公は友人も家族も国も「公」と表せる便利な言葉だと思うのです。公の為ではなく他の為ではしっくりきません。


 なぜ? 貴方の主張している内容は、まさに「他の為」の方であり、これこそしっくり来るのであって、「公の為」という表現を使うと誤魔化しにつながります。そして実際に誤魔化しています。

>家族や国の問題に対して公ではなく他を使えますか?


 使えます。「公」は「自分」を含むので、「自分」を含まない家族や国だったら、「他」を使うべきです。

> 私欲を抑えて他(国)の為?おかしいでしょう。


 もしshinwoodさんが「おかしい」と思うのなら、本当はshinwoodさん、初めからおかしな事を主張しているのに、「公」という言葉を使うことでまともな事を言っているかのように勘違いしていたのではありませんか? そして、「shinwoodさんの「公」は自分を含まないというのだから正しくは「他」を使うべきだ」とSumioBabaに指摘され、「他」に置き換えてみたら、shinwoodさん、自分の言っている事が初めから変だったことに気付いたのではありませんか?

> 公を私以外とすることで小さな問題から大きな問題まで「公の為」で表されるのですから便利なのです。公の意味は「個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。」となっているのですから公が一番いいのです。私に対しては他ではなく公です。


 shinwoodさんのように、言葉の定義を捻じ曲げてしまったら、もはやまともな話にはなりません。自分の主張が正しくなるように、言葉の定義の方を捻じ曲げてしまうのですから。そのように定義を捻じ曲げれば、shinwoodさんの主張※も、Bのトートロジーになる事は理解できます。しかしそもそも、shinwoodさんの捻じ曲げた定義、「公」=「助けるべき困っている人」…@、「善」=「助けるべき困っている人の為になる行為」…Aが、SumioBabaには受け入れられません。

>何故私たちは善なる行為を見ると「善いな〜、偉いな〜」などの感動を感じるのか。それは群れを助ける行為に対しては本能的に快い脳内ホルモンが出るようになっているからです。


 これはその通りです。そしてそれもまた、「利己的遺伝子」がそうしているのです。現代社会で生存競争に勝つためには、「良心」と呼ばれるものを、全く持っていないでもダメだし、多く持ち過ぎてもダメで、ほどほどに持っているのが生存競争に最適だからです。

>自分の為になることに「善いな〜」など感じるはずはないでしょう。それは善とは言いません。


 貴方の狭い定義だと、自分の為になることも「善」として扱えないのですね。SumioBabaの定義では、自分の為になる行為も「善」です。しかも、「善」=k1「利他的善」+k2「利己的善」とおいて、k1とk2の値も自由に設定できるので、自分の為になる行為を「善」と見なさない場合も含んでおり、より一般化された理論となります。
 shinwoodさんは、狭い殻の中に閉じ籠っていて、自分が受け入れていないものはすべて拒否し続けるので、視野が狭いままです。shinwoodさんの考えが間違いだと断定する訳ではないけれど、もう少し基礎的なことを学んでみるべきだと思います。かつて、ゆみさんが挙げて下さっていたような、善についての様々な考え方を説明した本です。善について、「こんな考え方も有るのか」「こんなものまで善と見なす人もいるのか」といったことを学べば、自分がそれに従うかどうかは自由だけれど、もう少し広い視野で「善」を考えられるようになると思います。

>また人間の理性での善悪の判断はこの本能的善を基にして判断しているのです。ですから群れを存続させることが善であり、その為に最も良い行為が「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやりの行為」なのです。この本能的な善「公の為」を基にして理性でも法律や正しいことを「公の為」で考えるのです。私たちが理性で物事を正しいと考えるのはすべて公(みんな)の為になることなのです。


 はいはい、R・ドーキンスの「利己的遺伝子」のような、多くの科学者たちが支持している科学理論は無視し、何でも自分の独断で結論を出してしまうのが「shinwood教」ですからね。
 shinwoodさんは一見、何が本当に正しいのかを学問として追究したがっているかのように見えましたが、やっぱりそうではなくて、自分の間違いを受け入れたくないため、真理から目を背ける方を選んでしまいましたね。真理から目を背けると、そこで成長が止まり、一生間違ったままです。まあ、自業自得なのだから、自己責任ですけどね。

>生後数か月の理性のない赤ちゃんでも善悪は分かっていると多くのアメリカの大学の研究で実証されています。私も親切をするとき、あなたが言う様な、そんな複雑なことは考えていません。ただ助けたいと思う感情で助けているだけです。人間の行動原理は快、不快です。もうそろそろあなたの信じている小難しい《人間の行動原理》というものは忘れてください。原理、ドグマですから。あっ!ついでに利己的遺伝子も忘れてください。


 複雑な計算過程は遺伝子が無意識のうちに行い、人間が意識するのは「快」・「不快」だけです。しかし、 >>327 に書いた1/2や1/8のような重みは、少しでもずれていると淘汰されて絶滅し、自ずとぴったり一致しているものばかりが生存競争に勝ち子孫繁栄していく、というのが凄いですね。人間の目のような複雑な器官も、人間が意識的に作ったのではなく、遺伝子が緻密な計算の上でこんなに精巧なものを作り上げてしまったのだから、驚きですね。

 shinwoodさんに科学理論を説明しても「ネコの耳に真珠」でしたね。せいぜい「shinwood教」の布教活動に励んで下さい。

22日前 No.346

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

>>346   SumioBabaさん

 >「いやいや、捕鯨問題は世界の問題ですから」というのがshinwoodさんの独断です。誰かが「いやいや、捕鯨問題は日本の問題ですから」と言い出したら、どちらも証明はできません。<

勿論証明はできないでしょうが捕鯨問題は世界の問題であり、消費増税問題は日本国民の問題であることは道理です。それは理です。そのようにしか考えられない必然的なもの、理です。話が通じると言うのはそこに理があるからです。その理を認めないならばお互いに理・解できないわけです。大切なものを守る事は正しい、一人の命より群れ全体の命が大切である。これらも道理でしょう。論理学では理はどう考えるのですか?東京は日本にある、当たり前だろう。それを説明しろったってできないよ。
「外は雨が降っており、かつ、雨は降っていない」ならば「源義経の母親はナポレオンである」。まあ、分かりますけど、現実離れですよね。


>何の話ですか? 「公」は定義上、必ず「私」を含むはずだと指摘しているのですけど。<

滅私奉公、例えば先の戦争で兵隊さんたちは自分の命を投げ出して公(日本国民や自分の家族)の為に、と戦ったわけですよ。消費増税問題でも国民の多くは増税は嫌だと言う私欲を持っているでしょうが、それに固執していたのでは良い結果は出ないし話し合いにもならないからまずは皆さんの私欲を抑えて本当に増税が必要なのかどうか、それは国民の為になるのかとみんなで真摯に話し合う。その結果が正しければ国民みんなの為にもなるわけでしょう。


>>公は助けるべき人であり困っている人を言うのです。 <<
>ムチャクチャな定義ですね。前にも説明しましたが、貴方は自分の主張が正しくなるように、言葉の定義の方を思いっ切り捻じ曲げてしまったのです。その結果、貴方の主張は絶対に正しいトートロジーになりましたが、「そうなるように定義すれば、そうなるのは当たり前だね」というだけで、中身が何も無くなりました。<

善とは本来群れの仲間を助ける行為を指します。善なる行為(善いな〜、偉いな〜、心が温かくなるな〜など)を思い出してください。全て何かしら感動のある善なる行為は相手を助けると言うことが含まれていますから。群れ仲間でお互いに助け合う行為が群れを一番存続させると知って本能となり助ける行為に対して快い脳内ホルモンが出るようになっているのです。ですから善なる行為は助けると言うことなのです。その「公の為は正しい」と言う本能的なものを基礎として理性で正しいことを決めているのです。正しさも助けると言うものが含まれていない正しさには正しくても何らかの感動は無いのです。
公という言葉を使わずに善とは〜であると簡潔に表せるだろうか。他だろうか。善とは他の為である。善とは自我欲を抑えて他の為と考える行為である。これならどうですか?


>SumioBabaの定義では、自分の為になる行為も「善」です。<

ではこれをどのように導いたのかをお示しください。私の言う善は群れの為に貢献することを善というのですけどね。自分の為はただの凡人です。


 >複雑な計算過程は遺伝子が無意識のうちに行い、人間が意識するのは「快」・「不快」だけです。<

さすが利己的遺伝子は賢いですね、無意識に計算するのですね。この詳しい科学的証拠を教えてください。

21日前 No.347

空の光 ★SdV65FSeNB_m9i

公と私

一人はみんなのために
みんなは一人のために
私は公のために
公は私のために

自分を捨てる場合の公と
自分を含む場合の公と
自分だけのための私と
自分を含むもののための私と

大乗は私を含むのか含まないのか
小乗は私だけのためか少数なのか
ここで引っかかってる
どうすればBESTな答えが出るか

大乗 一人はみんなのために
小乗 みんなは一人のために

一人一人は一人一人のために?
大乗でもあり小乗でもあり?

21日前 No.348

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

は〜

西田幾多郎の『善の研究』をよめ

21日前 No.349

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>347  shinwoodさんへ

>勿論証明はできないでしょうが捕鯨問題は世界の問題であり、消費増税問題は日本国民の問題であることは道理です。それは理です。そのようにしか考えられない必然的なもの、理です。話が通じると言うのはそこに理があるからです。その理を認めないならばお互いに理・解できないわけです。


 「証明できない」のでしょう? 「証明できない」のなら、「そのようにしか考えられない必然的なもの」とは言えません。「どちらと考えても良いもの」になります。

>大切なものを守る事は正しい、一人の命より群れ全体の命が大切である。これらも道理でしょう。論理学では理はどう考えるのですか?


 「なぜ、「大切なものを守る事は正しい」のか?」と問われたら、答えられないはずです。「それはAだからだ」と答えても、「なぜAだと言えるのか?」と聞かれます。「それはBだからだ」と答えても、「なぜBだと言えるのか?」と聞かれます。以下、無限後退。結局「大切なものを守る事は正しい」も「一人の命より群れ全体の命が大切である」も、証明はできないので、「公理」に定めるしか方法は有りません。そして証明していない以上、正しいとは断言できず、受け入れるか受け入れないかは個人の自由となり、受け入れない人には通用しません。

>善とは本来群れの仲間を助ける行為を指します。善なる行為(善いな〜、偉いな〜、心が温かくなるな〜など)を思い出してください。全て何かしら感動のある善なる行為は相手を助けると言うことが含まれていますから。群れ仲間でお互いに助け合う行為が群れを一番存続させると知って本能となり助ける行為に対して快い脳内ホルモンが出るようになっているのです。ですから善なる行為は助けると言うことなのです。その「公の為は正しい」と言う本能的なものを基礎として理性で正しいことを決めているのです。正しさも助けると言うものが含まれていない正しさには正しくても何らかの感動は無いのです。


 いくら言ってもムダです。SumioBabaは、貴方の「公理X」を支持しておらず、別の「公理Z」を支持するのだから、「公理X」を正しいと仮定した上での貴方の説明は、SumioBabaには全く通用しません。

>公という言葉を使わずに善とは〜であると簡潔に表せるだろうか。他だろうか。善とは他の為である。善とは自我欲を抑えて他の為と考える行為である。これならどうですか?


 好き勝手にして下さい。貴方が何を「道徳の公理」に定めようと、貴方が何を「善の定義」に定めようと、「公理」自体は証明なしに真だと仮定しているだけなので、受け入れたくない人は受け入れなくて良いのです。受け入れた場合には、貴方の道徳体系は正しいと見なせますが、受け入れない人には通用しません。貴方の道徳体系は、無数に存在し得る道徳体系の中の1つに過ぎないし、受け入れるかどうかも個人の自由です。貴方だけが唯一絶対に正しい訳ではないのですよ。もう、結論が出ましたよ。

 SumioBabaは「公理Z」=《SmioBabaによる善の内包的定義」》=「自分自身の為になる行為、他人の為になる行為、公の為になる行為、…どれもが道徳的に正しい行為であり「善」である」が最も適切な「道徳の公理」であり「善の定義」だと思うので、これに従います。shinwoodさんはshinwoodさんで、好きなように考えれば良いのではないですか。

>SumioBabaの定義では、自分の為になる行為も「善」です。


>ではこれをどのように導いたのかをお示しください。私の言う善は群れの為に貢献することを善というのですけどね。自分の為はただの凡人です。


 導いていません。証明なしに真だと仮定する「道徳の公理」であり、「善の定義」です。だから、受け入れたくない人には押し付けませんし、押し付けることはできません。

>>複雑な計算過程は遺伝子が無意識のうちに行い、人間が意識するのは「快」・「不快」だけです。


>さすが利己的遺伝子は賢いですね、無意識に計算するのですね。この詳しい科学的証拠を教えてください。


 どういう答を求めておられるのか解りませんが、生物の様々な機能が、遺伝子によって決まっているらしいことは周知です。
 親とその子のどちらか一方が死ななければならない、という状況だとします。子が生きて親が死ぬ方が、遺伝子にとっては繁栄できる確率が高いので、親の体内の遺伝子はそのへんのところを親が無意識のうちに計算し、ここは親を死なせようとします。その方法として遺伝子は親に、「我が子は可愛い、自分が身代わりに死んでも助けたいほど可愛い」という感情を生じさせます。すると親は、まんまと遺伝子に操られ、自分が身代わりに死にます。
 親と他人の子のどちらか一方が死ななければならない、という状況だとします。親の体内の遺伝子は、他人の子供の身代わりなんかに親が死ぬと、遺伝子である自分の損になることを親が無意識のうちに計算し、親に生き続けさせようと判断します。その方法として遺伝子は親に、「よその子は可愛くない」という感情を生じさせます。すると親は、まんまと遺伝子に操られ、他人の子供を死なせます。
 ドーキンスによると、本当の主人は遺伝子であり、親や子という人間は、遺伝子の乗り物のようなものであって、古くなったらいつでも乗り換えて、遺伝子は新しい生物個体の中で繁栄し続ける、と言った感じです。遺伝子の本質は「情報」なので、オリジナルとコピーが全く同じだったら、遺伝子にとっては自他の区別も無く、どちらも自分です。オリジナルの自分が1つだけ残るより、自分が滅んで自分のコピーが2つ残る方が好ましい訳です。

21日前 No.350

空の光 ★SdV65FSeNB_m9i

SumioBabaさん

人の身体が遺伝子の乗り物?凄い発言ですね。
じゃあ、ポッと浮かんでくる心は、何だろうと考えてしまいました。
遺伝子が心だとすると・・・
遺伝子の通りに動くのは身体をものが支配する?

遺伝子が物かどうか。これも一つの疑問がわき出るんですけど。。。
心が脳であるという意見もあるし・・・

心が動く時、何が動くのか? 遺伝子? 脳? 身体全体?

遺伝子だとすると、始終動いているのかな。心が安まる事がなければ。

脳は・・・α波とかβ波などなどになって動いているかな?
心が安まる時と、動いている時の違いは言われてる。
心が身体全体・・・だとすると、脳も、遺伝子も含まれる?

心が干渉する。嬉しいとか悲しいとか。。。
涙という形になることもある。

心の思うままに動くと・・・理性がストップをかけるかな。
そのストップがどこでかかるかが、善悪という基準か?
頭で考えても、感情が伴わないと、冷たい人となる場合もある。
理性と感情がうまく働けばいい・・・かな?
でも、それが正しいかどうかの判断は?

人には難しい問題が世の中には転がってるんだな。。。
心に思わせられたものが正しいと信じて動くしかない?
判断を心にするなら、いつも心を磨いてないとね?

20日前 No.351

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

  >>350  SumioBabaさん

あなたの主張は良く分かりました。これでは平行線です。しかしあなたのおかげで善の正体がよりはっきりとしてきました。あなたは私の善の定義を否定ばかりしているが、まあ、それが批判の本質ですから仕方ありません。しかしあなたも善の定義に少しは寄与しているのですよw

ふくろうさんは  >>108 で次のように書いている
>shinwoodさんは、何の罪もない仲間(共同体成員)である個人を、自分を含む共同体全体(民族・大勢)存続のためであれば、犠牲にしてもかまわない、すなわち公( 全体)のためであるがゆえに善であるという考えだから。したがってまた、この発想からは民族、種族保存といった全体主義におなじみの概念が頻出するのも当然である。政治的に展開すれば、ナチズムときわめて親縁な考え方であることは明らか。<

SumioBabaさんも同じような考えであろう。しかしですね、正しいとは何かを知らない人が私が間違っていると何故言えるのだろうか? どのような公理をもってふくろうさんは正しいと主張しているのだろうか 私はそんな公理は認めませんよw

ふくろうさんは数十人助けるために女性をレ〇プすることを非難しますが、自分ならどうするかは答えてくれません。これに対してSumioBabaさんならどう答えますか?答えられますか?ふくろうさんと同じですか?

また正しいが分かっていないからソフィーの選択の問題などには答えられない。
ソフィーの選択という映画がありました。ナチスの将校は二人の子供の内一人はガス室に送ると言いました。選択できないなら二人ともガス室行です。ソフィーは一人の子を選択しました。罪もない子を犠牲にしたソフィーはナチズムですか。SumioBabaさんならどうしますか?


またふくろうさんは
>東北の震災のとき、海に出ていた年老いた両親を救うため海に向かい亡くなった息子さんがいたが、親への愛に基づく行為ではあっても公のための行為とは言わない。しかし、この親思いの息子さんを「善良な心の持ち主」と言ってならない理由はないだろう。利他的行為でも同じ。窮地・危険に陥っている人を見つけて咄嗟に思わず救助するのも、その具体的個人に対する利他的行為であって、つまり、「具体的個人としての他者のため」の行為であって、「公のため」に行う行為ではない。<

私は公は問題により決まると言っています。基本的に善とは困っている人を「助ける」ことを言うのです。ここでは両親たちが津波に流されて困っている人たちであるからこれを救いたいと言うことです。ゆえに公は両親になります。善なる行為は「私より公を優先すること」ですから息子さんは親を助けに行ったのは善である、です。私の善の定義になんの間違いはありません。

いろんな問題も問題というのは困った問題が多い。ですからその問題で困っている人たちが公となるのです。困っている人を救うのが善ですからね。ですからその困った問題をうまく解決しなければそれに関係する人たち(公)は大きな不利益を蒙るのです。ですからそうならないために絶対的に正しい方法である「私欲を抑えて公の為」と考えなければならないのです。

お父さんが失業したなら困るのは家族みんな、だから家族が公。お母さんが病気をしたら主に困っているのはお母さんですからお母さんが公。ですから家族のみんなは私欲を抑えて公(お母さん)の為と考え行わなければなりません。また消費増税で困るのは国民みんなですから国民が公。地球温暖化で困るのは世界の皆さんですから公は世界のみんな。ね、このように公は問題により決まるのです。

私の善の定義はいろんな問題に対して絶対的に正しい方法を示してくれるのです。但し知恵のない人たちが「私より公を優先する」で考えても正しい答えに
は辿り着けないかもしれません。しかし「私より公を優先すること」以上に正しい方法はないのですから次もまた「私より公を優先する行為」で考えるしかないのです。それ以上に良い方法などないのですから。在ると言うなら教えてください。

20日前 No.352

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>352  shinwoodさんへ

>あなたの主張は良く分かりました。これでは平行線です。


 なぜ平行線になるのでしょうか? きちんと結論が出たはずです。

 SumioBabaは、「shinwoodさんの道徳体系は間違いだ」と否定してもいないし、「SumioBabaの道徳体系こそが唯一絶対に正しい」と主張してもいません。道徳体系なんてものは、公理の定め方次第で無数に異なる無矛盾なものが作れます。そして、必ず証明なしに真だと仮定する「公理」を定め、それを使って「定理」を導いていくしか方法は有りません。だから、その「公理」を受け入れれば「定理」も正しいことになりますが、「公理」を受け入れるかどうかは個人の自由であり、受け入れない人にはその道徳体系は通用しません。これが結論です。
 それなのにshinwoodさんは、「私の道徳体系こそが唯一絶対に正しい」と主張されています。SumioBabaは、shinwoodさんが証明なしに正しいと仮定した「公理X」を受け入れず、別の「公理Z」を支持しているのに、shinwoodさんは自分の道徳体系をSumioBabaにまで押し付けようとしています。あまりにも自己中ではないでしょうか?

>SumioBabaさんも同じような考えであろう。しかしですね、正しいとは何かを知らない人が私が間違っていると何故言えるのだろうか? どのような公理をもってふくろうさんは正しいと主張しているのだろうか 私はそんな公理は認めませんよw


 SumioBabaは(そして、ふくろうさんもおそらく)、「shinwoodさんの道徳体系が間違っている」と言っているのではなくて、shinwoodさんの主張「私の道徳体系こそが唯一絶対に正しい」を自己中だと批判しているのです。なぜなら、証明なしに「公理」をどう定めるかにより、無矛盾な道徳体系は異なるものが無数に作れ、どれが正しいと決められるものではなく、個人の好みで適切と思うものを選ぶことしかできないのですから。

>ふくろうさんは数十人助けるために女性をレ〇プすることを非難しますが、自分ならどうするかは答えてくれません。これに対してSumioBabaさんならどう答えますか?答えられますか?ふくろうさんと同じですか?


 また、そういう話ですか。よく飽きませんね。「行為Aを選ぶと、善Aも有るが、悪Aも伴う。行為Bを選ぶと、善Bも有るが、悪Bも伴う。行為Aと行為B、どちらが善でどちらが悪か?」…とっくに答えたはずです。→「一概に決めることはできない」…これが《相対主義》の答です。
 貴方は、どちらか一方が善で、他方が悪だと決め付けようとします。そして、答が決められない《相対主義》より、はっきり答えられる《絶対主義》の方が優れているかのように勘違いされているようです。貴方のように、一方が善、他方が悪だと決め付けてしまうと、結局は、自分の都合の良い片面だけを見て、都合の悪い片面を無視することにつながります。ヒトラーの全体主義のように、大きな「悪」を行っていながら、都合の悪い面は無視し、都合の良いところだけ見て、「これこそ善だ!!」と言ってしまうことになります。行為Aにも行為Bにも、善と悪の両面が有ることを正しく認識するためには、《絶対主義》より《相対主義》の方が好ましいのです。
 実際にどちらかを選ばねばならない状況だとするなら、明らかに片方が優れていると思えばそちらを選びますが、どちらを選んで良いか判らないときはコインを投げて表か裏かで決めます。

>また正しいが分かっていないからソフィーの選択の問題などには答えられない。

>ソフィーの選択という映画がありました。ナチスの将校は二人の子供の内一人はガス室に送ると言いました。選択できないなら二人ともガス室行です。ソフィーは一人の子を選択しました。罪もない子を犠牲にしたソフィーはナチズムですか。SumioBabaさんならどうしますか?


 とっくに答えましたよ。shinwoodさんはshinwoodさんの道徳体系に則って、これらの問題に答えれば良いではないですか。SumioBabaや他の人々は、shinwoodさんの答を適切だと思わないので、別の道徳体系を支持します。それだけのことです。

>私は公は問題により決まると言っています。


 これも証明できないまま貴方が真だと仮定する「公理」(あるいは「定義」)だから、受け入れるかどうかは個人の自由です。

>基本的に善とは困っている人を「助ける」ことを言うのです。


 これも証明できないまま貴方が真だと仮定する「公理」(あるいは「定義」)だから、受け入れるかどうかは個人の自由です。

>ここでは両親たちが津波に流されて困っている人たちであるからこれを救いたいと言うことです。ゆえに公は両親になります。


 貴方の「公理X」を受け入れない人には通用しません。

>善なる行為は「私より公を優先すること」ですから息子さんは親を助けに行ったのは善である、です。私の善の定義になんの間違いはありません。


 貴方の「公理X」を受け入れない人には通用しません。

>いろんな問題も問題というのは困った問題が多い。ですからその問題で困っている人たちが公となるのです。困っている人を救うのが善ですからね。ですからその困った問題をうまく解決しなければそれに関係する人たち(公)は大きな不利益を蒙るのです。ですからそうならないために絶対的に正しい方法である「私欲を抑えて公の為」と考えなければならないのです。


 貴方の説明はすべて、「「公理X」が正しいとすると」という仮定の上での説明なので、SumioBabaのように「公理X」を支持せず、別の「公理Z」を支持している人間には全く通用しません。

>お父さんが失業したなら困るのは家族みんな、だから家族が公。お母さんが病気をしたら主に困っているのはお母さんですからお母さんが公。ですから家族のみんなは私欲を抑えて公(お母さん)の為と考え行わなければなりません。また消費増税で困るのは国民みんなですから国民が公。地球温暖化で困るのは世界の皆さんですから公は世界のみんな。ね、このように公は問題により決まるのです。


 貴方の説明はすべて、「「公理X」が正しいとすると」という仮定の上での説明なので、SumioBabaのように「公理X」を支持せず、別の「公理Z」を支持している人間には全く通用しません。

>私の善の定義はいろんな問題に対して絶対的に正しい方法を示してくれるのです。但し知恵のない人たちが「私より公を優先する」で考えても正しい答えには辿り着けないかもしれません。しかし「私より公を優先すること」以上に正しい方法はないのですから次もまた「私より公を優先する行為」で考えるしかないのです。それ以上に良い方法などないのですから。在ると言うなら教えてください。


 SumioBabaは、貴方が証明なしに正しいと仮定した「公理X」よりも、「公理Z」の方が適切だと考えるので、「公理X」ではなく「公理Z」の方を支持します。shinwoodさんは「公理X」の方が適切だと判断するので「公理X」を支持します。それで良いではないですか。どちらが正しいと言えるものではなく、「道徳の公理」も「善の定義」も、人それぞれいろんな考えを持つ人がいて良いのですから。…これが《相対主義》です。

19日前 No.353

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

 SumioBabaさん

>なぜ平行線になるのでしょうか? きちんと結論が出たはずです。<
>実際にどちらかを選ばねばならない状況だとするなら、明らかに片方が優れていると思えばそちらを選びますが、どちらを選んで良いか判らないときはコインを投げて表か裏かで決めます。<

まだですよ。私は天動説(相対主義)の世の中で地動説(善的絶対主義)が正しいのではないかと提案しているのです。それに対してあなたはどっちでもいいじゃないかと言っている、それでは世の中で通用しません。いろんな社会的問題はやはり答えを出さねばなりません。正しい答えを出さねば大きな不利益を蒙ります。ですから絶対的に正しいことを見つけねばなりません。それと合致していることを「正しい」と言うのですから。その絶対的に正しい事こそが社会の安寧秩序を守る事、みんなの幸せを守る事、つまり公(みんな)の為なのです。

考えてもみてください、あらゆる社会的問題の正しい答えは「みんなの為になる事である」というのは自明の理でしょう。みんなの為にならない答えなどそもそも答えではありません。どちらかを選ばなければならないならば天動説よりも地動説が事実に合致するので地動説が優れているのです、そちらを選びましょうよ。

何故、人を殺してはならないのか?という問題は、何故、人を殺すことは正しくないのかとも言えます。つまり正しいとは何かが分からなければこの問題は解けないのです。ですから私たちは正しいとは何か、しかも絶対的に正しいとは何かを探究しなければなりません。あなたのように「道徳の公理も善の定義も、人それぞれいろんな考えを持つ人がいて良いのですから」では困るのです。相対主義は人を殺すのも人によっては正しいとしてもいいじゃないか、ということでしょうか。

また科学的、数学的な論理的正しさと道徳的正しさは全く違うものです。道徳的正しさは感情です。脳内ホルモンによる「善い」という快の感情です。論理学では何故人を殺してはいけないのか説明がつきませんが道徳的正しさ、善の定義で考えれば説明がつく。という考えについてはどう思われますか?


話は変わりますが 前に >>323  で「詳しい説明ありがとうございました。「矛盾は偽(正しくない)は必要条件ではない」の+αの条件とは何ですか? 」と質問しました。それに対してSumioBabaさんは「質問の意味が解りません。「矛盾は偽(正しくない)は必要条件ではない」って、どういう意味ですか?」答えました。あの質問は少し端折った質問でした。要は「矛盾は偽(正しくない)は十分条件だが必要条件ではない」の+αの条件とは何ですか? 」ということです。あなたは +αの条件の一つに「公理を証明なしに真だと仮定する、など」と書いています。

ベン図でいえば「正しくないの円」の中に「矛盾の円」と「公理を証明なしに真だと仮定する円」が内包しています。質問は「他にどんな+αの円が内包していますか?」ということです。
また質問です「犬は動物である」は正しいですか? または絶対に正しいですか? それとも+αの条件が必要ですか?

19日前 No.354

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>354  shinwoodさんへ

>考えてもみてください、あらゆる社会的問題の正しい答えは「みんなの為になる事である」というのは自明の理でしょう。


 ぜんぜん自明ではありません。それとも貴方の場合、「あらゆる社会問題の正しい答え」=「みんなの為になる事」と定義してしまう論点先取で、「あらゆる社会的問題の正しい答えは「みんなの為になる事である」」もまた「「みんなの為になる事」は「みんなの為になる事」である」というトートロジーにしてしまうのかも。

>何故、人を殺してはならないのか?という問題は、何故、人を殺すことは正しくないのかとも言えます。つまり正しいとは何かが分からなければこの問題は解けないのです。


 「人を殺してはならない」という倫理学上の命題も、証明しようとすると無限後退することが明らかなので、正しいとも正しくないとも断定できません。だから、道徳体系にこれを取り入れるなら、証明なしに「公理」に定めるしか方法は有りません。ただ、多くの人々で適切だと思うかどうか多数決を採ったら、YESが多数派でNOが少数派だった、というだけです。そして、「「人を殺してはならない」を法律に定め、違反した者には罰を与えることにしてはどうか?」という提案が有り、多数決を採ったらYESが多数派でNOが少数派だった、だから法律に定めることになった、というだけです。どちらが正しいなどとは証明もできないし、決まってもいません。

>ですから私たちは正しいとは何か、しかも絶対的に正しいとは何かを探究しなければなりません。


 すべては「相対的真理」に過ぎず「絶対的真理」など有りません(論理的必然性で真となる命題だけが例外)。

>あなたのように「道徳の公理も善の定義も、人それぞれいろんな考えを持つ人がいて良いのですから」では困るのです。相対主義は人を殺すのも人によっては正しいとしてもいいじゃないか、ということでしょうか。


 殺人を善と考えるか悪と考えるか、考えるだけであれば「思想の自由」が保証されており、どちらが正しいとは言えません。好きなように考えて良いのですよ。でも、本当に人を殺したら、逮捕されて罰を受けます。

>また科学的、数学的な論理的正しさと道徳的正しさは全く違うものです。


 命題の真偽の扱い方は、数学も物理学も倫理学も、全く同じです。ある命題を証明しようと思うなら、証明なしに真だと仮定した「公理」に論理的加工を施し、「定理」として導く以外に方法は有りません。それゆえどんな真理体系も、「この「公理」を正しいと仮定すると」という条件付で初めて正しいと言えるだけであり、その「公理」を受け入れない人には通用せず、「絶対的真理」ではなく「相対的真理」となります。

>道徳的正しさは感情です。


 まだ言ってる。カーッとなって「感情」的に相手を殴りたくなっても、「いや、暴力はいけない」と「理性」で我慢することができます。「感情」による判断と「理性」による判断とが食い違ったとき、殆どの場合「理性」による判断が正しく、「感情」による判断が間違っています。

>脳内ホルモンによる「善い」という快の感情です。論理学では何故人を殺してはいけないのか説明がつきませんが道徳的正しさ、善の定義で考えれば説明がつく。という考えについてはどう思われますか?


 その「道徳的正しさ、善の定義」というものが、人それぞれみな異なり、どれが正しいとは言えません。

>話は変わりますが 前に >>323  で「詳しい説明ありがとうございました。「矛盾は偽(正しくない)は必要条件ではない」の+αの条件とは何ですか? 」と質問しました。それに対してSumioBabaさんは「質問の意味が解りません。「矛盾は偽(正しくない)は必要条件ではない」って、どういう意味ですか?」答えました。あの質問は少し端折った質問でした。要は「矛盾は偽(正しくない)は十分条件だが必要条件ではない」の+αの条件とは何ですか? 」ということです。あなたは +αの条件の一つに「公理を証明なしに真だと仮定する、など」と書いています。


 まだ意味が解りません。「十分条件だが必要条件ではない」という場合、「「○○○(であること)」は「×××(であるため)」の、十分条件であるが必要条件ではない」と表現する必要が有ります。上の場合、「○○○」と「×××」は何なのですか?

>ベン図でいえば「正しくないの円」の中に「矛盾の円」と「公理を証明なしに真だと仮定する円」が内包しています。質問は「他にどんな+αの円が内包していますか?」ということです。


 「正しくないの円」の中に、「矛盾の円」が内包しているところまでは正解です。しかし、「公理を証明なしに真だと仮定する円」は、「正しいの円」なので、「正しくないの円」の中に在るのではなく、「正しくないの円」の外側の領域を指すことになります。
 「正しくないの円」の内部であり、かつ、「矛盾の円」の外部である領域は、「無矛盾だけれど正しくない」が成立する領域であり、「無矛盾だけれど、公理の否定を証明なしに真だと仮定した円」、例えば、「ユークリッド幾何学の公理を真だと仮定したときの非ユークリッド幾何学の円」や「非ユークリッド幾何学の公理を真だと仮定したときのユークリッド幾何学の円」などが入ると思われます。

> また質問です「犬は動物である」は正しいですか? または絶対に正しいですか? それとも+αの条件が必要ですか?


 「犬」の常識的な定義に従えば、「犬である」の中に「動物である」は含意されていますから、「犬である」を満たしていれば必ず「動物である」を満たしており、「犬は動物である」は正しいです。しかも、論理的必然性で恒真であり、偽になることは有り得ず、絶対に正しいです。

 ベン図で言えば、「動物である」を満たした円の中に「犬である」を満たした円がすっぽり含まれています。2つの円は一致しておらず、「動物である」(外側の円)の内部でありながら、「犬である」(内側の円)の外部である領域が存在し、そこには、「猫である」「猿である」「牛である」…などを満たした円が多数含まれています。

 「犬である」(内側の円)の内部であれば、絶対に「動物である」(外側の円)の内部であることが確定します。つまり、「犬である」を満たしていれば必ず「動物である」も満たしており、これを「「犬である」ことは「動物である」ための《十分条件》である」と表現します。

 では、「動物である」ために、「犬である」ことは必要かというと、必ずしもそうとは言えません。「犬である」を満たさず、猫や猿や牛であっても、「動物である」は満たせるからです。つまり「動物である」ために「犬である」ことは、必ずしも必要ではありません。これを「「犬である」ことは「動物である」ための《必要条件》ではない」と表現します。

 両方併せると、「「犬である」ことは「動物である」ための《十分条件》ではあるが《必要条件》ではない」となります。逆に「「動物である」ことは「犬である」ための《必要条件》ではあるが《十分条件》ではない」となります。

18日前 No.355

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

>>355   SumioBabaさん

>>あらゆる社会的問題の正しい答えは「みんなの為になる事である」というのは自明の理でしょう。<<
>ぜんぜん自明ではありません。<

そうですかね〜。憲法改正問題も核問題も消費増税問題もいじめ問題も教育問題などなども、それらの正しい答えというのは国民みんなの為にならなければならないと思いますがね〜。まあ、そう思わないと言うなら仕方ありませんが、それではあらゆる社会的問題の正しい答えはどうあるべきだと思いますか? あなたにとって世の中でそれは当たり前だろうと言うものは何ですか?


>すべては「相対的真理」に過ぎず「絶対的真理」など有りません(論理的必然性で真となる命題だけが例外)。<

あなたの相対主義ではホロコーストは正しいと考える人がいてもいい、そして多数決でそう決めたらそれがホローコーストが正しいとなる。つまりナチスを肯定していませんか?


 >殺人を善と考えるか悪と考えるか、考えるだけであれば「思想の自由」が保証されており、どちらが正しいとは言えません。好きなように考えて良いのですよ。でも、本当に人を殺したら、逮捕されて罰を受けます。<

思想は自由ですけれども自由だから殺人は善と考えてもいいのだとなれば殺人が多くなってしまいます。好きなように考えても良いと言うのはおかしいのでは?


 >まだ言ってる。「感情」的に相手を殴りたくなっても、「いや、暴力はいけない」と「理性」で我慢することができます。「感情」による判断と「理性」による判断とが食い違ったとき、殆どの場合「理性」による判断が正しく、「感情」による判断が間違っています。<

カーッとなるのはそれが種族保存に必要だからカーッとなるのです。怒りも恐怖も嫉妬も喜びも。生徒たちが悪いことをしていれば先生は怒りで殴ればいいものを殴ってはダメという法律により生徒たちが学校でのさばっている現状は正しいですか?


>その「道徳的正しさ、善の定義」というものが、人それぞれみな異なり、どれが正しいとは言えません。<

人それぞれみな異なると言っても、正しいとは何ですかと聞いても殆どの人は答えられません。本当の正しいはだれも分かっていませんよ。


十分条件、必要条件のところは分かりました。ご教授ありがとうございました。要は正しいと言うためには公理を証明なしに真だと仮定することが必要ということですね。あなたがいつも言っているやつですね。
「人は皆絶対に死ぬ」もあなたは認められない。でも一般的には殆どの人が認めます。であれば一般的に「人は皆絶対に死ぬ」と表現しても何ら問題はないと思いますがいかがでしょうか?

18日前 No.356

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>356  shinwoodさんへ

>そうですかね〜。憲法改正問題も核問題も消費増税問題もいじめ問題も教育問題などなども、それらの正しい答えというのは国民みんなの為にならなければならないと思いますがね〜。まあ、そう思わないと言うなら仕方ありませんが、それではあらゆる社会的問題の正しい答えはどうあるべきだと思いますか? あなたにとって世の中でそれは当たり前だろうと言うものは何ですか?


 だから、「絶対的真理」など何一つ無い、です。SumioBaba個人としては、法律にしろ、善の定義にしろ、何が適切と思うかは、いろいろ意見が有ります。しかし、それを受け入れない人には、それが正しいことを証明できないので(証明しようとしても、無限後退するだけなので)、押し付けません。

>あなたの相対主義ではホロコーストは正しいと考える人がいてもいい、そして多数決でそう決めたらそれがホローコーストが正しいとなる。つまりナチスを肯定していませんか?


 SumioBaba個人はナチスを「否定」する方です。でも、「否定」する方が正しいと証明はできません。ある人間集団Aにおいて、ナチスを「肯定」する方が多数決で勝利すれば、この人間集団Aでは「肯定」が正しいと見なされるでしょう。ある人間集団Bにおいて、ナチスを「否定」する方が多数決で勝利すれば、この人間集団Bでは「否定」が正しいと見なされるでしょう。人間集団Aと人間集団B、どちらが正しくどちらが間違っていると客観的には言えないし、決まっていないと思います。

>思想は自由ですけれども自由だから殺人は善と考えてもいいのだとなれば殺人が多くなってしまいます。好きなように考えても良いと言うのはおかしいのでは?


 子供の頃は「道徳」として、無条件に「人を殺してはならない」「盗みをしてはならない」と教わります。それはそれで適切なのだと思います。
 でも大人になると、「なぜ?」という疑問が生じ、それを追究し始めます。そして、絶対に正しいと思い込んできた「人を殺してはならない」「盗みをしてはならない」も、本当は多数決で決めただけだった、という真実を知ることになります。
 「殺人を善だと考えると、殺人が多くなってしまうので、殺人は悪と考えるべきだ」と考える人はそれで良し。「殺人を善と考えるか悪と考えるかも、個人の自由だ」と考える人はそれで良し。どちらが正しいとも言えません。

>カーッとなるのはそれが種族保存に必要だからカーッとなるのです。怒りも恐怖も嫉妬も喜びも。生徒たちが悪いことをしていれば先生は怒りで殴ればいいものを殴ってはダメという法律により生徒たちが学校でのさばっている現状は正しいですか?


 それもまた、あらゆる行為には長所と短所が有る、ということでしょう。「先生は生徒を殴って良い」と定めても「先生は生徒を殴ってはいけない」と定めても、どちらも一長一短であり、結局は多数決で決めるしか方法は無いのです。だから、時代によって変わったりするのですよ。かつては「良い」とされていたものが、今は「いけない」となり、またまた「良い」に変わるかもしれません。

>人それぞれみな異なると言っても、正しいとは何ですかと聞いても殆どの人は答えられません。本当の正しいはだれも分かっていませんよ。


 「本当の正しい」なんてものは、shinwoodさんの幻想に過ぎず、初めから存在していないのですよ。その人が正しいと思うものが、その人にとって正しいだけです。

>十分条件、必要条件のところは分かりました。ご教授ありがとうございました。要は正しいと言うためには公理を証明なしに真だと仮定することが必要ということですね。あなたがいつも言っているやつですね。


 理解して貰えて嬉しいです。shinwoodさんは、「哲学や論理学を正しく理解したい!!」という向学心を持っておられるのは確かであり、そういう点は感心だと思います、

>「人は皆絶対に死ぬ」もあなたは認められない。でも一般的には殆どの人が認めます。であれば一般的に「人は皆絶対に死ぬ」と表現しても何ら問題はないと思いますがいかがでしょうか?


 そういうのが「経験科学的真理」です。これまでの実験・観察により、悉く正しいことが確認できたので、恐らく正しいのではないか?と推測できます。しかし、有限回の実験・観察で悉く正しかったとしても、次の実験・観察で正しくない反例が見付かるかもしれないという「反駁可能性」が、僅かながら永久に残り続けます。それゆえ、決して「絶対的真理」に到達することはなく、「暫定的真理」に留まり続けます。

 「人は皆絶対に死ぬ」や「1+1=2」のような命題(数式)は、《演繹的》に証明しようとするなら、これ以外に何か「公理」を証明なしに真だと仮定し、「公理」を使うことで、「人は皆絶対に死ぬ」や「1+1=2」を「定理」として導くしか方法が有りませんが、「公理」自体は証明なしに真だと仮定するだけなので、「公理」を受け入れない人には「定理」も通用しません。
 「人は皆絶対に死ぬ」や「1+1=2」を、経験科学的真理として《帰納的》に証明しようとするなら、実験・観察で悉く正しいことを示すことで、その信憑性は確実に上昇しますが、「反駁可能性」が残り続ける以上、永久に「暫定的真理」に留まり続け、「絶対的真理」には決して到達できません。

17日前 No.357

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

SumioBabaさん

>「殺人を善と考えるか悪と考えるかも、個人の自由だ」と考える人はそれで良し。どちらが正しいとも言えません。<

どちらが正しいとも言えませんと言われるが、あなたの「正しい」とは何ですか?あなたの正しいの基準はいったい何ですか?


>「本当の正しい」なんてものは、shinwoodさんの幻想に過ぎず、初めから存在していないのですよ。その人が正しいと思うものが、その人にとって正しいだけです。<

私たちは正しいが何か分かっていなければ何が正しいかを話しあえません。例えばルールを作るにしても皆さんが正しいと言うものが分からなければルールなんて作れません。皆さん正しいとは「みんなの為になること」が正しいと潜在意識では分かっているのではありませんか。


 >理解して貰えて嬉しいです。shinwoodさんは、「哲学や論理学を正しく理解したい!!」という向学心を持っておられるのは確かであり、そういう点は感心だと思います、<

別に「哲学や論理学を正しく理解したい!!」という思いは在りませんがあなた方の意見を理解するために必要だから勉強させていただいています。私は哲学をやるより中江藤樹、二宮尊徳などの日本思想を読んでいるのが性に合っていると思います。彼らは公(日本)の為と考えました。藩や幕府などの私の為ではなく公(日本)の為に命を懸けました。ですから私にとっては「公の為」は何の疑問のない言葉なのです。しかしあなた達も日本人ならば分かってもらえると思ったのですがね。


>「人は皆絶対に死ぬ」や「1+1=2」を、経験科学的真理として《帰納的》に証明しようとするなら、実験・観察で悉く正しいことを示すことで、その信憑性は確実に上昇しますが、「反駁可能性」が残り続ける以上、永久に「暫定的真理」に留まり続け、「絶対的真理」には決して到達できません。<

「人は皆絶対に死ぬ」や「1+1=2」を絶対的と認めないのは非現実的です。私たちは論理学の世界で生きているのではありません。私は昔こう書きました。「しかし私は思うのですけれども、例えばカラスは黒いと言うためには、世界のすべてのカラスを調べなくてはならないと言います。がしかし、突然変異で白いカラスが数羽いても、やはりカラスは黒いでいいのではないかと思うのです。道徳的正しさは数学のように何か矛盾が一つでもあれば真ではないとするのではなく、いくつか矛盾があっても殆ど大体が合っていて、それが世の中のために役立つものなら利用しようよ、それが大人の知恵ってものだと思うわけです。もしかしたら私の善の定義にも多少矛盾が見つかるかもしれませんが、殆どは合っているのだから、それを定義としていいではないかと思うのです。道徳的正しさは、数学や科学ではないのですから、ねえ、そうは思いませんか」

私の善の定義で考えれば本当の正しいことが分かってくるのです。何故、人を殺してはならないのか?の難問に対しても「それが公の為ならば善である、それが公の為でないなら悪である」と矛盾のない答えを示しました。今までこんな答えを聞いたことがありますか? 私の善の定義は「人は皆死ぬ」と同じくらい絶対的なものなのですよ。

ふくろうさんもこう言っていますね。
>なにが「絶対に限りなく近い」だ、臍が茶を沸かすわ(笑) 仮説だということを認めるということは、間違い得る、絶対正しいということは言えないということを認めるということであり、可謬主義に敗北したことを認めることなんだよ。それなら「絶対善」などという主張を取り下げろっちゅうねん。<

私の善の定義はこの現実の世界においてニュートン力学と同じくらい絶対的なものです。現実世界においては善の定義は絶対的なのです。日本を変えるには十分すぎる思想です。あなた達が言う「絶対的真理」とはいかなる定義なのですか?

17日前 No.358

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>358  shinwoodさんへ

>>「殺人を善と考えるか悪と考えるかも、個人の自由だ」と考える人はそれで良し。どちらが正しいとも言えません。

>どちらが正しいとも言えませんと言われるが、あなたの「正しい」とは何ですか?あなたの正しいの基準はいったい何ですか?


 ある命題の肯定をP、否定を¬Pとするとき、
 Pを証明なしに真だと仮定して「公理P」に定めた《真理体系P》においては、「公理P」および、「公理P」に無矛盾な論理的加工を施して導かれる多数の「定理」が、「正しい」です。
 ¬Pを証明なしに真だと仮定して「公理¬P」に定めた《真理体系¬P》においては、「公理¬P」および、「公理¬P」に無矛盾な論理的加工を施して導かれる多数の「定理」が、「正しい」です。
 何も「公理」を定めなければ、Pも¬Pも、「正しい」とも「正しくない」とも言えません。

>>「本当の正しい」なんてものは、shinwoodさんの幻想に過ぎず、初めから存在していないのですよ。その人が正しいと思うものが、その人にとって正しいだけです。

>私たちは正しいが何か分かっていなければ何が正しいかを話しあえません。


 私たちが話し合えるのは、「何が絶対的真理か?」ではなく、「この命題を証明なしに真だと仮定して「公理」に定めると、何を「定理」として証明できるか?」、だけです。「何が絶対的真理か?」について議論しているつもりでも、議論するためには何等かの「公理」をすでに定めてそれを使っているはずであり、「この命題を証明なしに真だと仮定して「公理」に定めると、何が「定理」として証明できるか?」以上のものではありません。
 shinwoodさんは、自分が「絶対的真理」を発見したと思い込んでおられるようですが、それもまた「「公理X」を正しいと仮定すると」という条件付の話であり、「公理X」を受け入れる人には通用しても、SumioBabaのように「公理X」を受け入れない人間には通用しないため、「絶対的真理」ではなく「相対的真理」の方です。

>例えばルールを作るにしても皆さんが正しいと言うものが分からなければルールなんて作れません。


 みんなが「絶対的に正しいもの」を知っていたら、初めから全員の意見が一致するだろうけれど、実際には一致しないから議論が必要となり、議論しても意見は一致しないから、最後は多数決になるのです。結局、「絶対的に正しいもの」など存在せず、人ぞれぞれ「正しいもの」は異なり、存在するのは「相対的に正しいもの」だけとなります。

>皆さん正しいとは「みんなの為になること」が正しいと潜在意識では分かっているのではありませんか。


 そんな綺麗事を言って自己陶酔しているのは、shinwoodさんだけみたいですよ? 典型的な「偽善者」に見えるのですけど?

>私は哲学をやるより中江藤樹、二宮尊徳などの日本思想を読んでいるのが性に合っていると思います。彼らは公(日本)の為と考えました。藩や幕府などの私の為ではなく公(日本)の為に命を懸けました。ですから私にとっては「公の為」は何の疑問のない言葉なのです。しかしあなた達も日本人ならば分かってもらえると思ったのですがね。


 shinwoodさんの考えを、間違いだというつもりは有りません。そういう考えを持つ人も居て良いと思います。ただ、shinwoodさんとは異なる考えを持つ人も居て良いのですよ。「自分だけが唯一絶対に正しい」と思い込むのが間違いです。

>>「人は皆絶対に死ぬ」や「1+1=2」を、経験科学的真理として《帰納的》に証明しようとするなら、実験・観察で悉く正しいことを示すことで、その信憑性は確実に上昇しますが、「反駁可能性」が残り続ける以上、永久に「暫定的真理」に留まり続け、「絶対的真理」には決して到達できません。


>「人は皆絶対に死ぬ」や「1+1=2」を絶対的と認めないのは非現実的です。私たちは論理学の世界で生きているのではありません。私は昔こう書きました。「しかし私は思うのですけれども、例えばカラスは黒いと言うためには、世界のすべてのカラスを調べなくてはならないと言います。がしかし、突然変異で白いカラスが数羽いても、やはりカラスは黒いでいいのではないかと思うのです。


 「「すべてのカラスは黒い」は絶対的真理だ」と断言していて、もし突然変異で白いカラスが見付かったら、明らかに反証になってしまうじゃないですか。そうならないように、「「すべてのカラスは黒い」は暫定的真理だ(私はまだ反例を見たことが無いが、突然変異で黒くないカラスも、探せばごく少数見付かるかもしれない)」と言えば良いのです。あるいは初めから、「大部分のカラスは黒い(ごく少数、例外も有るかもしれないので、「すべて」とは言わない)」と言っておけば無難ですね。

>道徳的正しさは数学のように何か矛盾が一つでもあれば真ではないとするのではなく、いくつか矛盾があっても殆ど大体が合っていて、それが世の中のために役立つものなら利用しようよ、それが大人の知恵ってものだと思うわけです。もしかしたら私の善の定義にも多少矛盾が見つかるかもしれませんが、殆どは合っているのだから、それを定義としていいではないかと思うのです。道徳的正しさは、数学や科学ではないのですから、ねえ、そうは思いませんか」

>私の善の定義で考えれば本当の正しいことが分かってくるのです。何故、人を殺してはならないのか?の難問に対しても「それが公の為ならば善である、それが公の為でないなら悪である」と矛盾のない答えを示しました。今までこんな答えを聞いたことがありますか? 私の善の定義は「人は皆死ぬ」と同じくらい絶対的なものなのですよ。


 shinwoodさんがそう思うのなら、shinwoodさんはそれで良いのではありませんか? SumioBabaは、自分の為になる行為も「善」だと思うし、shinwoodさんの「公理X」ではそれを全く扱えないので、「公理X」は支持せず「公理Z」の方を支持します。

>私の善の定義はこの現実の世界においてニュートン力学と同じくらい絶対的なものです。


 ニュートン力学が「絶対的」? 相対性理論や量子力学が必要な領域では、ニュートン力学は破綻していることが、とっくに実証されていますよ。ニュートン力学が発表された当時は、これこそ「絶対的真理」だと確信されたと思われますが、その後、反証されてしまったのです。相対性理論や量子力学もまた、現在は正しいと思われていますが、反証される可能性は0とは言えないので、「絶対的真理」ではなく「暫定的真理」の方です。

>現実世界においては善の定義は絶対的なのです。

>日本を変えるには十分すぎる思想です。


 人それぞれ違った「善の定義」ができ、どれが正しいか証明もできないのに、自分の「善の定義」だけが唯一絶対に正しいと思い込むのは、あまりにも自己中です。

16日前 No.359

太平洋 ★Incgb1nlWf_UHY

絶対善の定義が言われていますが、わたしはそれは絶対悪の定義だと思いますが?

16日前 No.360

太平洋 ★Incgb1nlWf_UHY

すみません、「わたしはそれは絶対悪の定義・・・・」の「わたしは」の代りに「全世界の民族・人間」に訂正です。

すみませんでした。

16日前 No.361

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

SumioBabaさん

>「公理¬P」および、「公理¬P」に無矛盾な論理的加工を施して導かれる多数の「定理」が、「正しい」です。<

そのあなたの言う正しいで「何故、人を殺してはいけないのか?」分かりますか? 私たちはそういう立場、現実に立って生活しています。あなたの正しさは現実的社会においてどんな正しい分析をできますか?


>みんなが「絶対的に正しいもの」を知っていたら、初めから全員の意見が一致するだろうけれど、実際には一致しないから議論が必要となり、議論しても意見は一致しないから、最後は多数決になるのです。結局、「絶対的に正しいもの」など存在せず、人ぞれぞれ「正しいもの」は異なり、存在するのは「相対的に正しいもの」だけとなります。<

絶対的に正しい事(目的)や絶対的に正しい方法、行為(手段)が分かっていても絶対的に正しいものが分かると言うものではありません。例えば絶対的に正しい事とは公の為であり、絶対的に正しい方法は「私より公を優先する行為である」と知っていても、必ずしも公の為になる答えが出るわけではありません。神のような知恵のない人間たちが私より公を優先する行為で考えても「これが最も公の為になる答えだろう」というだけで、みんなで考えたことが本当に公の為になるのかどうかは分かりません。しかし「私より公を優先する行為」は絶対的に正しい行為、絶対善であるので正しい答えに辿り着くにはこれで考え続けるしかないのです。


>あるいは初めから、「大部分のカラスは黒い(ごく少数、例外も有るかもしれないので、「すべて」とは言わない)」と言っておけば無難ですね。<

何故そんな回りくどい言い方をしなければならないのですか。カラスは黒い、人は皆死ぬ、地球は回っている、引力はある、これで何の支障もありません。何兆分の一あるかないかというものになぜそんなにこだわらなければならないのですか?その理由は? 天が落ちてくるかもしれないなんて考えていたらノイローゼになりますよ。

質問ですが人は皆死ぬは絶対的に正しいとは言えないが、正しいとは言えますか?

16日前 No.362

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>362  shinwoodさんへ

>>「公理¬P」および、「公理¬P」に無矛盾な論理的加工を施して導かれる多数の「定理」が、「正しい」です。

>そのあなたの言う正しいで「何故、人を殺してはいけないのか?」分かりますか?

>私たちはそういう立場、現実に立って生活しています。あなたの正しさは現実的社会においてどんな正しい分析をできますか?


 「人を殺してはいけない」は、真とも偽とも決まっていないので、どちらが正しいとも証明はできません。できるのは、我々の社会で「人を殺してはいけない」を正しいと認めて法律に定める(YES)のと、「人を殺して良い」を正しいと認めて法律に定める(NO)のと、どちらが好ましいと思うかを、各自が選択することです。YESを選ぶ方が多数決で勝利したので、我々の社会では「人を殺してはいけない」の方が法律で定められることとなりました。言わば我々の社会では、「人を殺してはいけない」を証明なしに「公理」として定めることを選んだ訳です。SumioBabaの選択もYESです。

 もちろん、「何等かの「公理」を別に定め、それを用いて「定理」=「人を殺してはいけない」を証明して見せよ」と言われれば、それなりにできますよ。例えば、「公理」=「世の中は平和であるべきだ」を定め、「証明」=「人殺しを許すと世の中が平和でなくなるので、平和であるためには人殺しを禁じる必要がある」などです。でもこれはまた、証明なしに「公理」=「世の中は平和であるべきだ」を正しいと仮定してしまっています。「人を殺して良い」と主張する人たちは、この「公理」を受け入れようとしないでしょうから、この「証明」もやはり、「人を殺して良い」と主張する人たちには通用しないでしょう。

>>あるいは初めから、「大部分のカラスは黒い(ごく少数、例外も有るかもしれないので、「すべて」とは言わない)」と言っておけば無難ですね。

>何故そんな回りくどい言い方をしなければならないのですか。カラスは黒い、人は皆死ぬ、地球は回っている、引力はある、これで何の支障もありません。何兆分の一あるかないかというものになぜそんなにこだわらなければならないのですか?その理由は? 天が落ちてくるかもしれないなんて考えていたらノイローゼになりますよ。


 科学や哲学は、できる限り正確に世界を記述しようとします。「母は女である」のような論理的必然性で真である命題は、一々すべての母親を調べてみなくても恒真です。一方、「人間は皆死ぬ」のように、これまで反例は見付かっていないけれど論理的必然性の無い命題は、永久に反駁可能性が残り続けます。現代科学や現代哲学では、両者をはっきり区別する訳です。

>質問ですが人は皆死ぬは絶対的に正しいとは言えないが、正しいとは言えますか?


 「絶対的に正しい」を《絶対的真理》、「絶対的に正しいとは言えないが、現在のところ反例は見付かっていない」を《暫定的真理》と呼ぶ訳です。そうすれば、「「人は皆死ぬ」は《暫定的真理》ではあるが《絶対的真理》ではない」と表現できます。shinwoodさんのように、この2つをどちらも「正しい」と表現してしまうと、どちらなのか判らなくなってしまいます。混同するより、はっきり区別した方が賢明です。

15日前 No.363

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

SumioBabaさん

>言わば我々の社会では、「人を殺してはいけない」を証明なしに「公理」として定めることを選んだ訳です。<

なるほど、みんなが選択したらそれを公理としていいのですね。でも前提がおかしかったらおかしな結論になってしまいます。「人を殺してはいけない」には矛盾があるでしょう。正当防衛とか死刑とか戦争なら人を殺すのは正しいとか。すぐに矛盾があると分かるものを公理にしてもいいのですか?

また、それでは皆さんが何故「人を殺してはいけない」を多くの人が理性で考え選択し法律になったのでしょうか。皆さんは何を基準に、理由に「人を殺してはいけない」と考えられたのでしょうか? あなたは何故「人を殺してはいけない」を選択したのですか?


またふくろうさんはこうも言っている。
>そして、トロッコ問題のように、道徳的問題では数学なんかと違って、容易に矛盾が生じるんだよ。だから、道徳問題で「絶対正しい善」なんてものは定義できないんだよ。そんなものがあるなら、トロッコ問題でも何でも一発解法の公式ができるっちゅうねん。<

「トロッコ問題のように容易に矛盾が生じる」というのは次の事でしょうね。
トロッコ問題で線路を切り替えて5人殺すより一人を殺す方を多くの人達は選ぶが、では歩道橋から眺めている太った男を落として5人を助けるかと問われれば今度は反対が多い、矛盾ですね。本当に何故なんでしょう。あなたはどう考えますか? 論理学で考えて分かりますか?

何故、太った男を落として殺すのはいけないと考えるのか。訳を聞いても皆さん答えられない。それは理性で考えたのではなく潜在意識がそう感じたのでしょう。本能的にそれはいけない、正しくないと感じた。5人殺すより一人を殺す方を多くの人達は選んだのは理性でも考えたからでしょうね。でもこれは多くの人は「一人より5人の命の方が大切である」とみんな分かっていると言うことでしょう? そうであれば私の言う「一人の命より群れ全体の命が大切である」は公理としてあなたも認めてくれてもいいのではないですか?
トロッコ問題を考えてみれば、私たちは公理がどうのこうのではなく本能的に分かっているものがある。正しい、善いは本能的に私たちは分かっている。道徳的正しさは感情である、そう思いませんか?

また考えたいので数日間投稿は休みます。

15日前 No.364

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>364  shinwoodさんへ

>なるほど、みんなが選択したらそれを公理としていいのですね。でも前提がおかしかったらおかしな結論になってしまいます。「人を殺してはいけない」には矛盾があるでしょう。正当防衛とか死刑とか戦争なら人を殺すのは正しいとか。すぐに矛盾があると分かるものを公理にしてもいいのですか?


 「矛盾が有る」というのは、1つの問題に対して「人を殺してはいけない」と「人を殺しても良い」の両方が導けてしまうような場合です。こういう矛盾が有ると、どちらなのか定まらず、真理体系や法律の存在自体が無意味になってしまいます。意味の有る真理体系や法律を定めるためには、矛盾の有るものは避けるべきです。矛盾が見付かったら、無矛盾な公理に改めることになるでしょう。

 問題の違いによって、必ずしも「人を殺してはいけない」ではなく「人を殺しても良い」にもなるような場合は、「例外が有る」というべきですが、これだったら特に改める必要は無いと思います。実際に我々の社会の法律も、原則として「人を殺してはならない」ですが、正当防衛など例外的に「人を殺しても良い」になる場合が有ります。これは、有っても良いのではないでしょうか。

>また、それでは皆さんが何故「人を殺してはいけない」を多くの人が理性で考え選択し法律になったのでしょうか。皆さんは何を基準に、理由に「人を殺してはいけない」と考えられたのでしょうか? あなたは何故「人を殺してはいけない」を選択したのですか?


 まず端的に、殺人が禁止されていない社会を想像すると、いつ自分が殺されるかもしれない社会ですから、そういう社会だと不安だな、と感じます。そして、法律で殺人を禁じた社会の方が安心でいられることが、十分に実感できます。だから大部分の人々は、「人を殺して良い」よりも「人を殺してはいけない」の方を法律として適切だと判断するのでしょう。

 そして、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われた時に初めて、「人を殺してはいけない」を「定理」として導くために都合の良い「公理」を見付け出し、その「公理」を使って「定理」を説明する、という形になるのだと思われます。自分の好みが先に有り、それを正当化するのに都合の良い「公理」を選んできて、自分の好みの正当性を説明する訳です。

>「トロッコ問題のように容易に矛盾が生じる」というのは次の事でしょうね。

>トロッコ問題で線路を切り替えて5人殺すより一人を殺す方を多くの人達は選ぶが、では歩道橋から眺めている太った男を落として5人を助けるかと問われれば今度は反対が多い、矛盾ですね。本当に何故なんでしょう。あなたはどう考えますか? 論理学で考えて分かりますか?


 人間はただただ、「自分の利益を最大にする行為」を選ぶだけです。大して不愉快な思いをせずに4人多く助けられるのなら、4人多く助けられる方を選び、これで良かったと満足するのが利益は最大でしょう。しかし、4人多く助けるために、自分の手で人を殺すという極めて不愉快な行為をせねばならないのであれば、それは自分にとってものすごく大きな精神的不利益になるので、それを選ばず、もっと利益の大きい4人多く死なせる方を選ぶだけです。単純明快な話です。

>何故、太った男を落として殺すのはいけないと考えるのか。訳を聞いても皆さん答えられない。それは理性で考えたのではなく潜在意識がそう感じたのでしょう。本能的にそれはいけない、正しくないと感じた。5人殺すより一人を殺す方を多くの人達は選んだのは理性でも考えたからでしょうね。でもこれは多くの人は「一人より5人の命の方が大切である」とみんな分かっていると言うことでしょう? そうであれば私の言う「一人の命より群れ全体の命が大切である」は公理としてあなたも認めてくれてもいいのではないですか?

>トロッコ問題を考えてみれば、私たちは公理がどうのこうのではなく本能的に分かっているものがある。正しい、善いは本能的に私たちは分かっている。道徳的正しさは感情である、そう思いませんか?


 思いません。人間はみな、「自分の利益を最大にする行為」を選ぶだけです。多くの人間を助けることができても、自分が直接手を出して人を殺してしまうと、後々まで不愉快な記憶が残り、ものすごく大きな精神的不利益を被ってしまいます。そうなるくらいなら、少しくらい他人を多く死なせてでも、自分が精神的不利益を避けられる方を選びます。その方が、自分の利益が大きいからです。人間はみなそうやって、常に自分の利益を最大にしようと、利己的な選択をしているだけです。

14日前 No.365

空の光 ★SdV65FSeNB_m9i

トロッコ問題・・・もし、一人対一人だったら?どっちに向くのか?
太った人が自分だったら?どうするのか?
結果を出せない・・・そんな状態でも結論をださなければならない。
実際にはあり得ないことかも知れないけれど。
神様に祈るか。誰も死なせたくない。トロッコが止まりますようにと。。。
みんなの思いが一つになれば届くか?
この瞬間に祈らずに、いつ祈るのかみんな手を合わせて。。。

14日前 No.366

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_TnX

SumioBabaさん

あなたは経験科学的には真理は暫定どまりであり、「経験科学的真理に《絶対的真理》は存在しない」と主張されているが、私がいつも言っているのは「私たちは論理学の世界で生きているのではない」と言うことです。人は絶対に死ぬと言う言葉は現実の世界では許されているのです。カラスは黒いは現実の一般社会では容認されていると言うことです。

私が絶対善というのは生物たちが生存するために「困っている仲間を助ける」そういう性質を持った群れが生き残ってきた。他の群れは絶した。ゆえに絶対である。この困っているものを助けると言う性質は絶対に正しい、つまり間違いなく群れを存続させてくれるとして遺伝子に書き込まれ本能となり、それが何十億年も正しいとして引き継がれ、その本能は我々人間にも引き継がれている。そして困っているものを助けたいと言う本能は生物が存在する限り今後も変わることなく永遠に続いていくだろうと言うことで「絶対善」と言っているのです。

まだ理性のない赤ちゃんが善悪を分かっていると言うことは「善は本能である」と言う証明なのです。論理学では人の感情は分かりません。あなた達が道徳的に正しいとは何かが分からないのは私たちが生まれつき持っているもの、つまり本能の凄さを分からないからです。西洋哲学は理性至上主義です。それだけでは人に関することは何も分かりません。

私は若いころから東洋思想が好きで、いわゆる陽明学関係の本を乱読してきました。ゆえに「私より公」という言葉に何の違和感もありません。陽明学は東洋思想の華と言われます。王陽明は人は生まれつき素晴らしいものを持っている、それに従って生きていくのが正しい事であると言っている。勿論、大きくなるに従って理性、分別、私欲というもので善なる心も曇ってくる。その曇った心を完全に取り除ければ聖人君子にもなれるのです。まあ、私たち凡人にはとてもマネできないことですけれどもね。

王陽明は理性のない赤ちゃんが善悪を分かっていると言う現代の科学で証明されたことと同じことを言っているのだ。王陽明の言う良知つまり良心、善なる心、その善なる心の本質は何かといえば「私より公を優先することである」と私は見つけたのだよ。簡単に言えば「みんなが幸せにまっとうに生きるためには諸問題において「私欲を抑えて公の為と考え行うこと」だよということである。大自然はそのように私たちに教えてくれているのです。

善とは種族(群れ、民族)の保存であり、それは群れ社会の安寧秩序を守る事、みんなが平穏で秩序をもって安心して暮らせることなのです。それは大自然の心です。そしてそのために正しい行為は「私欲を抑えて公の為と考え行う事、つまり愛や思いやり」これもまた大自然の教えである。この大自然の教えを基にして私たちは理性で正しさを考えるのです。この大自然の教え無くして何を根拠にして人間が理性で正しいを考えることが出来ようか。

9日前 No.367
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