Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(276) >>

絶対善の定義

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(1560) - いいね!(0)

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

善の定義が2000を超えましたので、その続きです。正しいもいい加減な正しさでは役に立ちません。ゆえに善もいい加減な善ではなく絶対善を探求していきたいと思います。

私が絶対善の定義をどのようにして導いたのかを書いてみます。
私たちは普通、自分の考えたことは正しいと思っています。しかし本当にそうなのでしょうか? ではどのくらい自信を持って正しいと思っているのでしょうか? 私は自分の考えに対して「命や全財産を賭けても自分の意見は正しいと言えるのだろうか?」と自問自答したとき、自分の考え、意見に対してまったく自信がなくなってしまいました。
自分の考えに対して全財産どころか数十万円ぐらいしか賭けられなかったのです。これは口では自分は正しいと言いながら、心ではほとんど信じていないと言うことです。これは詐欺行為に当たります、恥ずかしい行為です。

それから私は「正しいとは一体何なのだろうか?」と考え始めました。しかも曖昧な、いい加減な正しさでは役に立ちません。やはり正しいも絶対的な正しさでなければならないのです。また善と言っても、それもやはり絶対善の意味でなければならないのです。
絶対的な正しささえ分かれば、どんな問題でも、この「絶対的正しさ」に論理的、道理的に合致してさえしていれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。 絶対的正しさが分からないから私たちは自信を持って主張することが出来ないでいるのです。絶対的に正しいことが分からずに議論しても何の価値があるのでしょうか。

「正しい」を辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。つまり絶対的なあるべき姿があり、それと合致するから自分の考えは本当に正しいと言えるのです。
例えば数学の問題が出たとします、その問題にはすでに正しい式と答えがあります。それが正しいあるべき姿です。その正しいあるべき姿と自分が考えた式や答えが合致していて初めて「自分の考えは正しい」としてマルがもらえるのです。このように正しいとはあるべき姿に合致して初めて正しいと言えるのです。

正しいあるべき姿を考えずに「ただ自分が考えたことが正しいのだ」なんて少し傲慢すぎると思いませんか、自分は神ではないのですから。しかし世間ではすべてこうなのです、あるべき姿がないのです。自分が考えたことが正しいと主張する人ばかりなのです。ですから私は自分自身に問うたように相手に対しても「命や全財産を賭けてもそう言えるのですか?」と問うのです。「恥ずかしくはないのですか?」と問うのです。

正しさには科学的正しさと道徳的正しさがあります。基本的に科学的、道徳的に共通して正しいとは「矛盾がない」と言うことです、合致していると言うことです。辞書にあるように基本的には「正しい」とは「あるべき姿と合致していて矛盾がない」と言うことです。ですから絶対的に正しいと言えるためには「絶対的なあるべき姿」を見つけなければならないのです。その「絶対的なあるべき姿」に論理的に合致していてこそ自分の意考えは正しいと言えるのです。
このブログでは道徳的正しさだけを考える事とします。一般的に道徳的に正しいことを善と言います。ですから善とは何かと考えたのです。

それではまず善の定義とは・・・・

善の意味を辞書で調べれば「善いこと」「道理にかなっていること、また、そのような行為」「道徳的に正しい行為」などとあります。言うなら善は「道理に適っていて善いこと」と言えるでしょう。しかしそれは説明であり本当に知りたい善の本質ではありません。
ネットで善を調べてみましたが、善は人それぞれであり、相対的であるとか、定義できないとか、またいろいろ難しく書いてあるだけで、どれも納得するようなものはありませんでした。そこで、いろいろと自分で考えていたら、これが善ではないのかというものに辿り着きました。
「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗み、詐欺などなどである。ある時、ふと気付いたのはこれら多くの悪なる行為の全てに共通しているのは「他人のことより自分のことばかりを優先して考えているでは?」ということでした。そしてこれを自分が考えたすべての悪なる行為に当てはめてみれば、すべての悪に共通、内包していたのです。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は「自分(私)のことよりも公(みんな)のことを優先することである」ということになる、略して「公(みんな)の為」です。

私より公を優先する行為、つまり愛や思いやりは時代を超え、民族を超え世界に共通する善である。つまり普遍的なものであろうから、これを絶対的善とした。これは帰納法的証明であり、内包的定義です。
最近ではマザー・テレサの評判はあまり良くないようだが、分かり易い例えとして言えば、マザー・テレサのように自分の私欲を抑えて他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろうから、これは世界共通善ともいえます。
また「私より公を優先すること」の意味は「自分のやりたいことを抑えて公の為に尽くせ」ということではありません。憲法にあるように「公共の福祉(公の為)」に反しない限りは自分の為にやりたいことを自由にやってもいいのです。しかし「思いやり」がないものは善なる行為とはいいません。

そして善は本能であり、生まれつきみんなが共通して持っているものなのです。下記のHPのように、まだ理性の発達していない生後数か月の赤ちゃんでも、すでに善悪は分かっていると科学的な実験で実証されています。ですから善、良心はみんなが共通して持っているものなのです、本能ですから相対的ではなく絶対的なものなのです。生物の性は善なのです、つまり性善説が正しいのです。

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html  (赤ちゃんにも善悪は分かる!?)


次に(道徳的に)正しい事(善)とは何か?も考えてみました。

私たちは「大切なものを守ることは正しい」と感じます。
それでは「最も大切なものを守ることは最も正しい」となります。
また世界各国にとって最も大切なものは、その国民の命であろう。つまり「最も大切な国民の命を守ることは最も正しい事である」となる。
また国民、民族の命を守り存続させる事、それはいわゆる種族(民族)保存のことである。
これらから「最も正しいことは種族(群れ、民族)保存である」ということが道理的、論理的に導かれる。これは正しいの演繹的な証明です。これもまた時代を超え世界の各国民、民族にも共通することであるから普遍性もあります。ゆえにこれを絶対的に正しい事とします。
また現代においては種族(民族)が滅ぶということはあまり考えられませんので基本的には「社会の安寧秩序、みんなの幸せ」などが絶対的に正しい事と考えてもいいでしょう。

 私の善の定義のやり方は、善なる行為を多く考えて、その善の本質を内包的定義で見つけたのが絶対的善であり、「大切なものを守るのは正しい」と言う命題から演繹法的に導いたのが絶対的に正しい事です。
辞書では善は「道徳的に正しい事、またそのような行為」とあります。つまり善は事柄と行為の二つがあるのです。
ですから基本的に道徳的に正しい事(善)は「仲間の群れを守る事、またそのような行為」となります。そのような行為に当たるのが「私より公を優先する行為」となるのです。
ですから善なる”事”は「仲間の群れを守ること、社会の安寧秩序を守ること、みんなの幸せを守ること、つまり公の為」です。
そしてまた善なる”行為”は「私より公を優先する行為」です。分かり易く言えば「私欲を少し抑えて公の為と考え行い尽くすこと、略して公の為」となります。このように善は事柄も、そのような行為も、どちらも「公の為」で表されるのです。ですから私は善とは「公の為である」と表現しています。


種族(群れ、民族)を保存することが絶対的に正しい(絶対的善)と言うのは、多くの人も感じていて何となく納得できるにしても「私より公を優先することが絶対的善である」と言われても、私たち凡人にはなかなか納得しがたい定義です。
しかし、この定義をそんなに大げさに考えなくてもいいのです。善にも大から小まであります。我々凡人の善は、お年寄りに席を譲るとか、募金をするとか、ボランティアをやるとか、普段我々がやっている小さな親切、思いやりを実行することも「私より公を優先すること」なのです。
例えば、電車などで席を譲るにしても「自分も疲れている、できれば座っていたい」という自分の思い、私欲がある。しかし相手のことを思いやれば、相手の方が大変であろうと、自分の思い、私欲を抑えて相手の思いを優先して席を譲るというのも小さいながらも善なのです。これが善の定義「私より公を優先すること」の意味なのです。分かり易く言えば「私欲を抑え公の為と考え尽くすこと」なのです。これは「愛や思いやり」でもあります。そして愛や思いやり、親切などの本質が「私より公を優先すること」なのです。
「私より公を優先するなんて私にはとてもできない」と思いがちですが、私たちは日ごろから何気なく行っているのです。余裕のある範囲でやればいいのです。自分のことは何も考えず他人に尽くすと言うことではないのです。勿論、本当に偉い人たちは自分を捨て、みんなの為に尽くしておられる人もいますが、私たち凡人は小さな思いやり、小さな親切をやればいいのです。


私は論理学の内包的定義や演繹法で善の定義を導いたのです、恣意的なものではないのです。善は私たちが理性によって創るものではありません。善のイデアは原始からそこに在るものなのです。善は感情であり、それは見つけるものなのです。
そしてみんなが善なる行為であろうと思うものには何かしら感動が伴うのです。正しさには理性で考えられたもの、つまり法や規範(信号を守る、税金を納める、勉強をするなど)もありますが、これらにはあまり感動はありません。 本能、良心から来る「善いな〜、偉いな〜、心が暖かくなるな〜」などの何かしら感動を伴うものが本当の「善」というものなのではないでしょうか。

もし私の善の定義が間違いであると言うならば多くの人がこれは善なる行為であろうと認めるもので「私より公を優先していないもの、思いやりでないもの」を示せばいいわけです。これを示せない限り、皆さんがどんなに言葉を尽くしても私の善の定義を否定したことにはならないのです。また否定するならば論理的に否定しなければならないのです。自分の考え、価値観に合わないからと言って否定されても善の定義は少しも揺らがないのです。


まとめてみれば、私が見つけた善とはその群れにとって絶対的に正しい事は「種族(群れ)保存をする事」であり、その群れ、仲間を守るために最も正しい行為が「私(自分)より公(みんな)を優先する行為」であると言うことです。もっと分かり易く言えば「私欲を少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」ということです。

勿論、絶対的善である「私より公を優先する行為」で考えても間違うことはあるでしょう。私たちは神ではなく人間であり、完璧な答えなど出せません。例えば思いやりをもって席を譲っても「俺を老人扱いするのか!」と言われることもあります。このように絶対善という行為は絶対的に正しい答え、結論が出せるということではありません。絶対善と言えば絶対的な答えが出せると勘違いしている人もいますが絶対的な答えが出せるならそれは神です。そんな定義を我々人間ができるはずはありません。

私欲を抑えて公の為とみんなで考えても、その結果が公の為にならないこともたまにはあるでしょう。また人生万事塞翁が馬であり、この世の中何が起こるか分からないのです。世界の英知を集めて結論を出しても間違うことも多々あるのです。
私たち人間は絶対的に正しい答えなど出せないのです。それでも「私欲を抑え、公の為とみんなで考える行為」、これだけは総合的に見て絶対的に正しい行為なのです。たとえ間違った結果が出ようと「私より公を優先すること、愛や思いやり」をやり続けることが絶対的に正しいことなのです、それを否定してはならないのです。またこれ以上に正しいことがあると言うならば、それを示してください。


私たち生物にとって一番大切なことはやはり「仲間である群れを守ること」です。そして生物たちは長い年月をかけ試行錯誤をして種族(群れ)保存する為に最も優れたものが「私より公を優先する行為」であると見つけたのです。
また「私より公を優先する行為」を行ってきた種族だけが生き残ってきたと言ってもいいでしょう。それは時には自分の命を捨てても群れを守りたいという本能的なものなのです。これを人間的な言葉にすれば「愛や思いやり」とも言えます。大自然は群れを守る為にはどうすれば一番いいのかを教えてくれているのです。
また人間の欲による他国を侵略するなどの性質は「群れを守りたいと言う本能」である善には含まれていないのです。ですからヒトラーがどうのこうのと言われても困るのです。善とは本来その群れを守り存続させるためにあるのです。

絶対的善である「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」は数十億年の試練、検証に耐えて絶対的に正しいとして遺伝子に書き込まれ本能となり現在まで生き残ってきたのです。つまり数十億年のバックボーンがあるのです。言うならば「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」はこれこそ絶対的に正しいことであると自然界においてはもうすでに決定していることなのです。誰がこの歴史的事実を否定できるでしょうか。そしてそれは今後も生物が存在する限り未来永劫変わることのない普遍的なものでしょう。
それゆえ私は「私より公を優先する行為、愛や思いやり」は絶対的善ではなく「絶対善」であるとして問題はないと思うのです。本来、絶対など神にしか使えない言葉ですが「人は必ず死ぬ」と同じように、あえてこれはもう「絶対」に限りなく近い「絶対善」としても問題はないと思うのです。

そしてそれは人間だけでなく、すべての生物に関する一つの「絶対的”真理”」といえるのではないでしょうか。そして「私より公を優先すること、愛や思いやり」は私たちにとって最も美しいことなのです、「美」なのです。つまり善こそが真であり美なのです。真こそが善であり美なのです。美こそが善であり真なのです。
真・善・美、それらが別々にあると言うのではなく相関関係にあるのです。


善の定義を簡単に言えば、何か問題が起きた時、みんなの為になる一番よい方法は「私より公を優先すること、つまり私欲を少し抑えて公の為とみんなで考えること」なのです。そのように考えることが最も正しい答え、結論に辿り着ける最高の方法なのです。
社会が一番うまくいくためには「愛や思いやり、公の為と考えることなのだよ」と大自然は教えてくれているのです。
勿論、時には間違うこともあるでしょうが、これをやり続けるしかないのです。これこそが他のいかなる方法よりも絶対的に正しい方法なのです、群れを守る為にこれ以上のものはないのです。
やはり何事においても私欲を優先していては正しい結論には辿り着けません。

あらゆる社会的問題は社会の安寧秩序、公(みんな)の為にあります。すべては公(みんな)の為にあるのです、これは真実です。そしてその社会的問題の正しい答え、結論は常に「種族(民族)保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公の為」に合致していなければならないのです。

道徳的に絶対的なことは絶対善しかないのです、その他のものは全て相対的なのです。理性で考えられた法や規範で「これは絶対的である」と考えられている事もすべては相対的なのです。例えば人を殺すことは絶対に悪いと考えられていますが、戦争になれば敵兵を殺すことは善になります。また絶対に良いと考えられている人権さえも戦争や飢餓などの極限状態において、公の為にならないならば悪になるのです。このように絶対に正しいと思われていることでも極限状態になれば変わるのです、つまりすべては相対的なのです。極限状態になれば悪も善に変わるのです、善も悪に変わるのです。「何事もこれは絶対的に正しいことである、または絶対的に悪いことである」と安易に決めつけてはならないのです、極限では変わってしまう事もあるのですから。しかし絶対善だけは絶対的なのです。
そしてまた根拠もなく「自分が考えたことが正しい」などと言う愚かな考えはそろそろ捨てなければなりません。根拠(あるべき姿)がないものには何の価値もありません。常に論理的に考えられたことこそが正しいのです。

以上が私が見つけた善の定義です。皆さん、正しいとは何か、しかも絶対的に正しいこととは何か、が分かったのです。
ですからどんな社会的問題でも、この絶対的正しさ「公(みんな)の為」に論理的、道理的に合致さえしていれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。
そして絶対善である「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」で社会的問題をみんなで考えることが最も正しいことなのです。この絶対善で考えていけば本当に正しいものを創ることが出来るのです。絶対的に正しいことが分かったのですから、この善の定義を基として現在のすべての思想、道徳などをもう一度考え直さなければならないと思うのです。
絶対的正しさ(絶対善)が分からなかった以前のものは全てまがい物かもしれないのです。実際に多くのまがい物の思想があるから、この世の中は混乱しているのです。ですから今までの思想は全てもう一度考え直す必要があるのです。

またこの善の定義は民主主義的な話し合いが出来るという環境が絶対条件なのです。独裁国家などでは成り立ちません。やっと民主主義的な世の中になったのですから、私欲を少し抑えて公の為とみんなで真摯に議論をすれば、正しい答えになる確率はグ〜ンと高くなるのです。公(みんな)の為と言えば全体主義だと批判する人もいますが、絶対善こそが目指すべき本当の民主主義なのです。

この善の定義が多くの人に理解され「正しいとは何か」が分かってくれば国や政府、マスコミなどの権力者に対しても自信を持って「それは正しいのですか!それは公(みんな)の為なのですか!」と言えるようになり、日本は正しい、そして本当の民主主義国家になれるのです。日本が善い国になり世界の模範となれば、それはやがて世界の平和へと繋がっていくのです。

ページ: 1 2 3 4

 
 
↑前のページ (226件) | 最新ページ

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>223

>まだ皆さんの誰も説得できないでいるのに大々的にやるほどバカではありません。<


この場は“布教活動”をする場ではないので、この場で誰かを説得できると考える方がどうかしてます。
そうではなくて、まずは身近な人、あなたの親身になってくれる周囲の人とその考えを共有すべきでしょう。それが「社会との関わり」の第一歩です。それが出来ずして、“布教活動”なんてできるわけがない。


>真理であれば自然と広がっていくものです。相対主義が間違いであることを知るには、あと7〜8年はかかるでしょう。


あなたのいう真理が、ソクラテスやプラトンの教えなのだとして、今の世界がそうなっていないのはなぜでしょう?
「真理であれば自然と広がっていく」のなら、この世界にあまねく広がっている普遍的な思想(例えば相対主義)が「真理」ということになりますけど。

1ヶ月前 No.227

空の光 ★JX3qTgY5X1_m9i

Mobiusさん

>>227

普遍的な思想の中には確かに真理と言えるものもあるようですね。
自然、宇宙というものの中にもあると思われます。
それを拾い出せれば、ノーベル賞・・・かな。

いろんな理論が証明される日が来ればいいな。と思います。
不思議が不思議でなくなる日が来る?

1ヶ月前 No.228

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_sNF

>>227   Mobiusさん

>この場は“布教活動”をする場ではないので、この場で誰かを説得できると考える方がどうかしてます。<

布教とは何ですか布教とはw 確かにこれはあなたが言うshinwood教かもしれませんね。

しかし私は初め哲学の基本である善の定義をしましたがどこか瑕疵はないでしょうかと聞いたのです。決して布教ではありません。

私がピン!と来た「私より公を優先すること」は本当に善の本質ではないでしょうか。キリストの愛、孔子の思いやり、釈迦の慈悲の心これらの善なるものにすべて内包しているのが「私より公を優先すること」だと思うのですよ。

また「大切なものを守る事は正しい」と言うのは道徳的公理と言っても過言ではない。また個人の命と集団の命では集団の命が大切であるも公理と言っていい。これらから導かれるのが「絶対的に正しいことは群れ保存、社会の安寧秩序を守る事」なのですだよ。だってこの結論は常識的ではないですか。その群れにとって安寧秩序を守る事は絶対的に正しいことは間違いありません、私は間違いないと思いますがね。善の定義に何か疑問があれば何でも答えますよ。最近自信が出来たのです。


>あなたのいう真理が、ソクラテスやプラトンの教えなのだとして、今の世界がそうなっていないのはなぜでしょう?<

それは世界が理性至上主義だからです。それをあなた達が頑迷にも支持しているからです。私は理性など本能に比べれば屁のようなものだと言っています。善とは「善いな〜」という感情であり本能なのです。本能ゆえ絶対的に正しいと自然界では決まっているのです。人間の出る幕はありません。




>>228   空の光さん

>自然、宇宙というものの中にもあると思われます。それを拾い出せれば、ノーベル賞・・・かな。<

私の善の定義も大自然の法則から見つけたものです。私はノーベル賞などいりませんw 誰が見つけようがどうでもいいのです、誰か早く偉い人が世間に拡散してくれないかな〜。


>不思議が不思議でなくなる日が来る?<

そんな日が来るはずね〜だろう、自然を舐めるんじゃね〜よ。

1ヶ月前 No.229

空の光 ★JX3qTgY5X1_m9i

>229
shinwood さん

そうですかぁ。

自然、宇宙は謎が多いですからね。
でも、それを動かしてる一つのものがわかれば可能性ありかな?

春と秋の違いを植物はどう感じてるかとか。
海の色と空の色の染まり具合の違いさは何かとか。
地軸の北極と南極の出来るのはなぜかとか。

1ヶ月前 No.230

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_sNF

この投稿はフィルタされています。表示するにはアカウントにログインして下さい。

1ヶ月前 No.231

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_sNF

皆さん、私は >>231 で相対主義の時代から絶対主義の時代へ、というものすごく大きな、世界的な主張をしたのだけれど、それについて誰も反応しないのは残念至極である。

共産主義が一つの大きな流れになったように絶対主義はやがて世界的な流れとなる偉大な思想なのだよ。共産主義は出鱈目な奴らが考えたから失敗したが、絶対主義、絶対善の世界は「私欲を抑え公の為とみんなで考える」というとても民主的な主張である。ヒトラーなどの出る幕などないのである。そしてまたソクラテスの絶対主義が相対主義者たちをことごとく論破したように絶対主義が正しいことは歴史的にもすでに証明されているではないか。これをどうして否定できよう。共産主義に変わる新しい世界的な思想こそが絶対主義、絶対善の世界である。

相対主義という子供の思想にいつまで滞っているのだろうか。いよいよ絶対主義という大人の時代が始まるのである。


市民を犠牲にしても英雄?

イギリスは、ドイツ軍の暗号を解読するため、外務省暗号研究所に約1万人の人材を投入した。1940年11月、見事にエニグマ暗号の解読に成功したのだ。さっそく傍受したドイツ軍の暗号を解読した結果、ドイツは攻撃目標をロンドンから別の都市へ変更。最初の標的はロンドンの北西にあるコベントリーという町で、攻撃の日は、11月14日と判明した。
情報はチャーチルのもとに伝えられ、暗号研究所のメンバーは、イギリス軍がドイツ軍を返り討ちするニュースを心待ちにしていた。ところが、チャーチルはこの情報を無視。コベントリーは無防備のまま空襲を受け、街は壊滅的な被害を受けた。
チャーチルはコベントリーを失うことよりも、イギリスの暗号解読能力を知られることを恐れたのだ。
イギリスのチャーチルは国家機密を守るために多くの自国の市民を犠牲(数千人)にしたが、これは正しい判断であったとされた。「1人殺せば悪人だが、100万人殺せば英雄だ」と言ったのはチャールズ・チャップリンである。コベントリーの町の中心広場には、第2次世界大戦時に爆撃を受けた建物が、今でも当時のまま残されている。市民はいつまでも、この空襲を忘れずにいる。

皆さん、あなたはこのチャーチルの行動をどう思いますか? チャーチルの行いは悪ですか、善ですか?

1ヶ月前 No.232

空の光 ★EQFSMe4fuO_m9i

shinwoodさん

人の命は天秤にかけられないものだと思う。
一人一人が神からもらった命。
自分のものと感じ取っているけど、与えられた存在。

宿命というものがある。人の存在には扱えないもの。
宿命の事は一人の人間には分かりかねる。
それでも宿命を超えようとする。
そこに何らかのストップがかかるのかもしれない。

何であんな結果になったのだろう?と謎が残る。
そこに宿命の壁があるのかもしれない。
越えられない壁。

1ヶ月前 No.233

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>205  shinwoodさんへ

>今までは相対主義の時代でした。正しいは人それぞれ、自分の考えこそが正しいのだ、俺こそが正義だ!という何とも傲慢な時代であり、多くの独裁者を生み残虐で野蛮な時代を築いてきました。


 全く逆です。
 【相対主義】→人それぞれ価値観は異なり、何が道徳的に「正しい」のかは人それぞれ異なるのが当たり前だからこそ、「自分の考えこそが正しいのだ」「俺こそが正義だ!」などと自己中な態度を取ってはならず、他人の価値観をも尊重しようとする考え方。→争い事は生じにくい。
 【絶対主義】→人それぞれ価値観は異なり、何が道徳的に「正しい」のかは人それぞれ異なるのが当たり前なのに、「自分の考えこそが正しいのだ」「俺こそが正義だ!」という何とも傲慢な時代であり、多くの独裁者を生み残虐で野蛮な時代を築いてきた考え方。→争い事が生じやすい。

>相対主義の時代では平和は訪れなかったのです。新しい思想が必要なのです。そして絶対主義こそが世界に平和をもたらすのです。


 全く逆です。
 【絶対主義】の時代では平和は訪れなかったのです。新しい思想が必要なのです。そして【相対主義】こそが世界に平和をもたらすのです。

 あと一週間で、SumioBabaはこの哲学掲示板を卒業します。shinwoodさんとの議論はこれが最後かも。いろいろ議論できて、楽しかったのは事実です。有難うございました。

1ヶ月前 No.234

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_sNF

SumioBabaさん

 >【絶対主義】の時代では平和は訪れなかったのです。新しい思想が必要なのです。そして【相対主義】こそが世界に平和をもたらすのです。<
私の言う絶対主義の時代ってね、絶対君主の時代ではなく絶対的真理、価値があると言う絶対主義を言うのよ。ですから絶対主義の時代はこれから始まるの。頑迷なる相対主義者のあなたに何を言ってもしかたないけどはっきり言ってあなたは間違っています。
あなたの言う相対主義は子供のものだよ。大人は絶対的なものを見つけなきゃね。
>>232  で書いたようにイギリスを救うためには数千人の市民さえ犠牲にしなければならないのだよ。これが出来るのが大人なのだよ。いつまで子供の道徳から抜け出せないでいるのでしょうか。諸葛孔明の如く、泣いて馬謖を切らねばならないのだよ。子供の思想では種族の保存はできない。

私の言う絶対善は「私欲を抑え公の為」と考えなければならない。孔子は言います「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」。あなたの考えは小善である、それから来る結果は大悪である。私の考えは大善である。私欲である小善の心を抑えて公の為、大善の為と考えなければならないのだよ。孔明は泣いて馬謖を切ったのだよ。

絶対善はある、それは「私より公を優先すること」これは大自然がはるか昔に作り上げた真理なのだよ、人間の出る幕などないのだ。例えば免疫の働きは人間が創ったものではなく、はるか以前に作られその恩恵を我々人間も受けている。善もそうである、これこそが群れを一番保存できると遺伝子に書き込まれ本能となったのである、人間の理性の出る幕はないのである。本能ゆえに絶対なのだよ。
例えば愛、親鳥が雛に自分の危険は顧みずせっせと餌を運んでいる、これが「私より公を優先すること」善なる行為である。善なる行為にはキリストの愛、孔子の思いやり、釈迦の慈悲心などがある、そのすべてに内包しているのが「私より公を優先すること」なのだ。これこそソクラテス、プラトンが探していた善の本質、善の意味、善のイデアなのだよ。

本能とはその群れの為にあり、他の群れをどうのこうのという性質は持たない。ゆえにヒトラーは善なのかと聞くこと自体おかしいのです。本能は群れを守る為にある。我欲でもって他の群れをせめるなどの性質はないのだ。ゆえに他国を侵略すると言うのは理性で考えればいいのだ。勿論本能の善を基にして。世界は仲間ではないが仮に仲間として世界を公として考えれば正しい答えは出るだろう。

私は「すべては公の為にある」と言っている。ゆえに理性も公の為にあると考える。私が妄想するに理性は本能を超えるために作られたのではないだろうか。本能は自分の仲間の群れの為にある、しかし理性は群れを超えた大きな善を行えるために作られたのではないだろうか。本能ではできなかった群れと群れの協力によって、なお群れを保存するために作られたのかもしれない。また理性が作られたのは何かあれば宇宙に飛び出して種族保存を図る為にと妄想もする。私たちは何故だか宇宙に憧れるからね。

今までは相対主義の時代であった、そしてヒトラーやスターリンを生み出してきた、これは間違いない。そして絶対善はあると言うソクラテスに相対主義者たちはことごとく論破されてきたことも史実である、何故これを認めようとしないのか。絶対善はあると言うソクラテスが正しかったことは実証済みである。
絶対善とは仲間の群れを守る事、そしてそのために最も優れた方法が「私より公を優先すること」つまり私欲を抑えて公の為と考え行うことである。この絶対善を世界中が理解をすれば他国を侵略することは絶対悪であると理解できるのである。
大自然が教えてくれた「私欲を抑え公の為と考えること」これこそが最も群れがうまくやっていける方法なのである。あらゆる社会的問題も絶対善で考えればいいのである。死刑問題も公の為が答えである、人権などではない。どちらが社会の安寧秩序、公の為になるのかと考えれば死刑問題の正しい答えは向こうからやってくるだろう。


 >あと一週間で、SumioBabaはこの哲学掲示板を卒業します。shinwoodさんとの議論はこれが最後かも。いろいろ議論できて、楽しかったのは事実です。<

私もあなたの反論に答えるためにずいぶんと考え、善の定義をしっかりとしたものにすることが出来ました。あなたも絶対善に寄与したのだよ、感謝します。また気が向けば帰ってくればいいのでは? SumioBabaさん、こちらこそ有難うございました、お元気でね。

1ヶ月前 No.235

地下水 ★KATHFaYqOw_tVR

>>235  言うは易し、するは難し、ですね。shinwoodさんは本当に公の為に自分の命を犠牲にできるのですか?

1ヶ月前 No.236

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> shinwoodさんへ


   状況設定
 SFです。世界的な大恐慌が起こりました。日本だけは被害が無く、裕福なままです。しかし、韓国と北朝鮮と中国は大きな被害を受け、このままでは数百万人という餓死者が出そうになったとします。もし日本が韓国と北朝鮮と中国に合計10兆円の寄付をすれば、餓死者の発生を防ぐことができ、その場合、日本人はかなり節約生活をせねばならなくなるものの、餓死者が出るほどではないとします。日本は韓国と北朝鮮と中国に、合計10兆円の寄付をすべきでしょうか?、すべきでないでしょうか? 問題を複雑にしないため、選択肢は以下の2つだけだとします。
   《選択肢(1)》
 この場合、韓国も北朝鮮も中国も含む世界こそが「公」なのであり、日本は「私」なのだから、「私より公を優先する」の精神に則り、数百万人の餓死者を防ぐため、日本は韓国と北朝鮮と中国に、合計10兆円の寄付をすべきである。
   《選択肢(2)》
 韓国も北朝鮮も中国も、日本の仲間ではないので、この場合は日本が「公」であり、日本国民1人1人が「私」であるから、10兆円のお金は「公」である日本のために使うべきであって、韓国や北朝鮮や中国に寄付すべきではない。

   【質問】
 shinwoodさんは《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらを選びますか? また、その理由は? それが単なるshinwoodさんの好みではなく、誰もがそう考えねばならない必然的な理由を示せますか?

   補足説明
 SumioBabaの「相対主義」だと、《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらを選ぶかは、人それぞれの価値観に依存するため、どちらか一方だけが正しいとは決め付けられません。民主主義の社会で具体的な政策として実施する場合には、片方だけに定める必要が有り、結局のところ多数決になるでしょう。
 「絶対主義」を採るshinwoodさんの場合、どういう理由で片方だけに確定するのでしょうか? ナチス・ドイツの場合は、世界が「公」、ドイツという国が「私」であり、「私欲のため世界に迷惑をかけたナチス・ドイツは悪だ」でしたよね。一方、日本の戦争の場合は、「世界なんか仲間ではないから「公」ではない」と言い、この場合は日本という国が「公」であって、「日本の戦争は公のためであり善だった」となるのでしょう? shinwoodさんの好みだけで、好き勝手に決めているとしか思えないのですが。
 ザビビのふくろうさんが >>132 で指摘しておられるのもこの点です。→「shinwoodさんが恣意的拡大解釈を施すから、そのあなたの“恣意的拡大解釈による「公」の概念”が認められない、って言ってる。…。そりゃ、あなたにとってはそうでしょうよ。自分の恣意で何とでも解釈できるんだからさ。だけど、今回の説明だったら、ナチスのような全体主義国家の侵略戦争や少数者への弾圧も全部正当化できちゃうじゃん。それでいいの?だめだって言うなら、もうゴタクはもういいから、誰でも理解・適用できる、ある行為が公のための行為か否かを判別する客観的基準を規定しなさいよ。(以上 >>132 より)」
 shinwoodさんは、こういう自分に都合の悪い点はすべて無視するから、誰も相手にしなくなるのではないですか? ザビビのふくろうさんが腹を立ててしまわれたのも、それが原因ですよ。同じ視点に立っていたSumioBabaも腹が立ちましたから、よく解ります。こういう鋭い指摘に対し、真摯に向き合って答えれば、ザビビのふくろうさんは喜んで議論して下さったはずなのに。そしてそういう議論こそが、本当に価値の有る議論だろうに…。

1ヶ月前 No.237

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_sNF

SumioBabaさん


>SumioBabaの「相対主義」だと、《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらを選ぶかは、人それぞれの価値観に依存するため、どちらか一方だけが正しいとは決め付けられません。民主主義の社会で具体的な政策として実施する場合には、片方だけに定める必要が有り、結局のところ多数決になるでしょう。<

貴方にあれほど説明しても無理だったのだから短期間で理解してもらうのは無理だと思いますが、もうすぐお別れなので精いっぱい説明させてもらいましょう。何度も言いますが善とは本能であり、仲間の群れを守る為にあるのです。仲間、公とは安心して暮らせるように協力している人たち、群れです。ですから基本的に他の群れに対しての侵略どうのこうのはないのです。仲間を守る為に作られたのですから。ですから他国との関係は本能的善を基にした理性でもって考えます。基本的に他国は仲間ではありませんが世界を仮に仲間として考えればいいのです。ですから常識的に日本はお金を出すでしょう。多数決など必要はなく国民は反対しないでしょう。もし出さなかったら韓国や北朝鮮や中国は日本に戦争を仕掛けてもそれは善です。種族保存の為なら善だからです。勿論、自分たちは豊かでもっと金が欲しいと戦争を仕掛けるのは悪になります。しかし飢餓に陥り民族の存続が危うくなれば種族を守る為の戦争は善なのです。
動物たちもそうでしょう?自分の群れが飢えていれば他の群れを襲ってもそれを悪とは言いません。強い方が生き残るのが自然の掟です。しかし自分の群れが十分食っていけるのにもっと欲を出し他の群れを襲えばそれは悪です。でも本能で生きる動物たちはそんな私欲で他の群れは襲いません。私欲をもって他国を侵略したり奴隷にするのは人間の理性によるものです。

>ナチス・ドイツの場合は、世界が「公」、ドイツという国が「私」であり、「私欲のため世界に迷惑をかけたナチス・ドイツは悪だ」でしたよね。一方、日本の戦争の場合は、「世界なんか仲間ではないから「公」ではない」と言い、この場合は日本という国が「公」であって、「日本の戦争は公のためであり善だった」となるのでしょう? shinwoodさんの好みだけで、好き勝手に決めているとしか思えないのですが。

例えばドイツが戦争に負け莫大な賠償金をイギリスなどに要求された。それに対してドイツ国民が疲弊し民族の危機となれば種族保存の為イギリスやフランスと戦うのは善です。自分たちが生き残る為ですから。しかしドイツはユダヤ人をホロコーストしたのはやりすぎであり、ヨーロッパ全土を支配しようとしたのもやりすぎである。賠償金の支払いをやめることでイギリスなどと妥協すれば良かったのである。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。善もやりすぎれば悪となる、中庸が大切なのです。

そして日本の場合は世界の列強が日本を敵として日本に戦争を挑んできたのだから日本の戦争は種族保存の為の戦争であり善である。当時全ての有色人種が白人の奴隷状態であり日本は奴隷にされたくないと戦った戦争なので善である。これは当たり前の事であり、世界の知識人でも日本の立場になれば戦争するのは当たり前であると言っている。日本は自国を守る為に朝鮮や満州(資源確保の為)を支配下に置いたのは許されると考えます。そうしなければ自国は守れなかったのですから。日本は朝鮮も満州も平和的に占領していた。ドイツみたいに他国民を殺害しながら占領したのではない。
私の好みで善悪を決めているのではなく種族を守る為の戦争は善であり、ドイツみたいにやりすぎれば悪となるのです。


>ナチスのような全体主義国家の侵略戦争や少数者への弾圧も全部正当化できちゃうじゃん。それでいいの?だめだって言うなら、もうゴタクはもういいから、誰でも理解・適用できる、ある行為が公のための行為か否かを判別する客観的基準を規定しなさいよ。<

私の善の定義は絶対的に正しいことは「種族(民族、群れ)保存、社会の安寧秩序を守る事、つまり公の為」です。そしてそのために正しい行為は「私欲を抑え公の為と考えること」です。公とは仲間のことです。世界は仲間とはなりませんが仮に世界を仲間、公と考えれば世界の問題にも適用できます。

絶対に正しいことは種族保存ですから、自衛のための戦争は善です。そして他国への侵略は公の為(世界の為)になりませんから悪です。絶対的に正しい行為は侵略したいと言う私欲を抑えて世界の平和の為(公の為)に侵略はしないと考えなければならないのです。
悪とは公(世界)の為に反しても私欲をむさぼることです。自国は充分豊かなのにもっと豊かになりたいと言う私欲でもって他国を侵略することは悪なのです。


>ザビビのふくろうさんが腹を立ててしまわれたのも、それが原因ですよ。同じ視点に立っていたSumioBabaも腹が立ちましたから、よく解ります。<
あなた達がまだそのめぐりあわせに無いのですから仕方ありません。やがて分かるでしょう。あなた達は下記の質問にどう答えますか、答えられますか?相対主義で?

ソフィーの選択という映画がありました。ナチスの将校は二人の子供の内一人はガス室に送ると言いました。選択できないなら二人ともガス室行です。ソフィーは一人を選択しました。あなたはどう選択しますか?

また >>232 でのチャーチルの行動をどう思いますか? 市民数千人を見殺しにしたチャーチルの行いは悪ですか、善ですか?


私は他のところでも善について議論していますが、こんな質問がありました。(無断借用でごめんね。)
1)5人で登山に行きました。
途中でがけ崩れが起きました。
ザイルでつながれたみんなが、がけから落ちそうになっています。
先頭の一人ががけの端の岩に捕まっているので、何とかぶら下がっていますが、そろそろ筋肉の限界で落ちそうです。
しかし、ザイルでつながれた一番下の一人を落として殺せば、先頭の一人はがけをよじ登り、残りの3人を引っ張りあげることができます。
さあ、この問いに貴方ならどう答えますか?

2)アメリカの映画でもありました。
アフリカの奥地のサルを輸入したら、これが伝染病にかかっていました。極めて伝染力が強く治療法がなく、かかったら必ず死亡する伝染病です。これがある町全体に蔓延しました。大統領は、米国全体を救うために、町を封鎖したうえで、町の住人10万人程度もろとも核爆弾で病気を抹消しようと決断しました。
大統領は1つの町より合衆国全体を優先したのです、これに対してあなたの答えはどうですか?

「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」あなた達の小善の相対主義では役には立たないのです。大善は非情ですが、やらねばならないのです。泣いて馬謖を切らねばならないのです、分かりませんか? まだ疑問があれば何なりと。

1ヶ月前 No.238

地下水 ★KATHFaYqOw_tVR

>>238  利己的な遺伝子に見る様に、また生存競争に見る様に、個体の生存欲というものは、進化して生きて行く為に基本的なものです。人間の私欲もこれらの延長であって、否定できないものでは無いでしょうか。

 それからshinwood さんは公の為に本当に自分を犠牲にできるのですか?言うは易し、行うは難しではないでしょうか?

1ヶ月前 No.239

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>238   shinwoodさんへ

 SumioBabaが >>237 で尋ねたのは、この場合に「公」と見なされるのは、「世界」なのか?、「日本」なのか?、という点です。shinwoodさんは「善とは、私より公を優先する行為」とは言いながら、何が「公」なのかを自分の好き勝手に決めるので、どちらも「公」になってしまうのですよ。寄付したいと思うなら、「世界」を「公」だと見なせば、韓国や北朝鮮や中国に寄付する日本の行為が「善」になります。寄付したくないと思うなら、「日本」を「公」だと見なせば、寄付などせずに日本という自国のためにお金を使うのが「善」になります。つまり、どちらを選ぶ場合も、自分が好きな方を「公」に選んだ上で、「これこそが公の為であり、善である」と言えてしまう訳です。

>公とは仲間のことです。世界は仲間とはなりませんが仮に世界を仲間、公と考えれば世界の問題にも適用できます。


 「世界は仲間とはなりえません」ということは、「公」を「日本」だと考え、寄付しなくても良いということですね。「仮に世界を仲間、公と考えれば世界の問題にも適用できます」ということは、「公」を「世界」だと考えて、寄付しても良いということですね。そして、寄付した場合には「これこそが公(世界)の為であり、善である」と言えるし、寄付しなかった場合にも「これこそが公(日本)の為であり、善である」と言える訳ですね。

1ヶ月前 No.240

空の光 ★EQFSMe4fuO_m9i

たぶん、これが公、これが私だというところが引っかかってるんですね。

つまりは、大きな観点、小さな観点で見てるって事ですよね?
一番大きな観点は世界、次が民族、国、都道府県、市区町村、家庭。
小さな観点は大きな観点の中にある。大きな観点のために動けば、小さな観点に悪意になる場合がある。

両方の為になる行動はないのだろうか?

ある国が自国のためにしたことが、世界観点から見たら不利益になる。
つまり、自国のためと思ってした事が、自分の国に不利益を与えた。

そんな場合もあるかもしれない。だから、大きな観点でみることを第一とする。
その上で、小さな観点で動いても不利益にならない行動を考える。

国に関して、やっかいなのは、一つの国のように統一されてない点かな。
国連が一つの国のごとく機能すれば、損害を被ってる国に、余裕のある国と一緒に援助する。
なんて事もできるかもしれない。つまり世界が一つ、一人一人は世界人となる。
それができれば、戦争も起きなくなっていくかもしれないですね。

30日前 No.241

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_tVR

>>240  SumioBabaさん

>この場合に「公」と見なされるのは、「世界」なのか?、「日本」なのか? という点です。shinwoodさんは「善とは、私より公を優先する行為」とは言いながら、何が「公」なのかを自分の好き勝手に決めるので、どちらも「公」になってしまうのですよ。<

うん、そうなんですよね、そこがあなたが理解できない点なのですよね。あなたは公は固定されたものと思っていますが公とはみんなという意味で、そのみんな、公は問題によって変わるのです。そこを理解しなければなりません。家族の問題であれば公は家族のみんなであり、国の問題なら公は国民みんなになる。公(みんな)は問題により決まるのです。私が決めるのではなく自然と決まってしまうのです。
例えばお父さんが失業したら、これは家族が生活できるかどうかだから家族みんなの問題です、ですから家族みんなが公になる。また家族でお母さんが病気をしたと言うのであれば、これはお母さんの問題だからお母さんが公になります。お母さん(公)の為と考え家族一人一人が私欲を抑えてお母さん(公)の為に頑張り助ける。家族の問題なら家族が公、お母さんの病気の問題なら、お母さんが公になる。このように公は問題により変わるのです。私が勝手に決めてはいません、誰でも自然とそう決めます。

A,Bのライバル企業がある。A企業がすごい製品を出して儲けだしたらA企業は善、それに比べて製品が売れなくなったB社にとっては悪。このように善があれば必ず悪が出る、ゆえに善悪は相対的であると考える。しかしもっと大きく見ればA社の製品は国民(公)の為に非常に役立つものであるから善なのだ。勿論B社はつぶれるかもしれない、それはそれで社会の掟である。みんな競争に負ければ倒産するのだから。しかしA社の製品は国民の為になったのだから大きく見て善なのだ。その製品はA社、B社で善悪と考えるのではなく国民にとって善か悪か、公の為か、と考えなければならないのです。

憲法改正問題は悪だ善だと言うが、国民の為になるのかどうかで善悪を決めなければならない。自分たちの意見が正しい、いや俺たちの意見が正しいと言うが常に抜けているのが国民の為という意識である。正しいとは何か知らない奴らが「自分が正しい」と主張している。だから議論は混迷する。正しいのは常に国民の為になることが正しいのである。
死刑問題は自分たちが正しい、なぜなら人権に反するからだ、いや人を殺したらその人の命でもって償うのが正しいのだ、と議論されている。しかし正しい答えは国民の為になるかどうかと議論しなければならない。一件でも凶悪犯罪がなくなるような、社会の安寧秩序に寄与する答えこそ正しいのです。人権に反するどうのこうのではないのだ。あらゆる社会的問題の正しい答えは「公(みんな)の為」に合致している答えが正しいのである。ゆえにあらゆる社会的問題は公の為にどちらの意見が合致しているのかと議論しなければならない。そうすれば正しい答えに辿り着けるだろう。感情論や人権に合致していないから死刑は反対などの議論はもう止めるべきである。

私が >>238  で出した問題に答えてみれば、ソフィーは男の子を選択し女の子をガス室に送った。母は厳しい社会で生き残るためには男の子を選んだのは正しかったのだ。またチャーチルの選択は非情であるが市民数千人を殺しイギリス国民を救った選択が正しかったのだ。つぎの登山の問題でも一人を犠牲にして三人を助けるのが正しい選択である。そして次の問題も一つの村を核で全滅しなければ全米が滅ぶことになる、ゆえに大統領の選択は正しかったのである。「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」この言葉は真実なのである。小善は子供の道徳であり、大善は大人の道徳なのである。

また付け加えれば、大きな手術をするのは医者にとってもやりたくないであろう。失敗することもあるから。しかしそのやりたくないと言う私欲を抑えて苦しんでいる患者の思いを優先して手術をするのが正しいのである。勿論手術は失敗することもあるだろうが、失敗したからと言ってその医者は今後一切手術はしないことが善であろうか?人間には必ず失敗はあるのだ。私欲を抑えて公の為と考え行っても悪い結果もあるだろう。しかし医者は手術をやり続けることが善なのである。つねに私欲を抑え公の為と行動することが善なのである。


>寄付した場合には「これこそが公(世界)の為であり、善である」と言えるし、寄付しなかった場合にも「これこそが公(日本)の為であり、善である」と言える訳ですね。<

基本的に仲間の最大は日本国民です。仲間であればみんなで何とか妥協が出来ますが、世界は基本的に仲間ではありませんので妥協はできません、無理に力で妥協させれば戦争になりますからね。基本的に公とは安心して暮らせるように協力している人たちを言います。その最少は家族の仲間、食べていけるように協力している人たちです。そして最大の仲間は国民が安心して暮らせるように自衛隊が守っている日本国民が仲間です。

しかしあなたの問題のように極限状態なら公は世界と考えてもいいのです。だってもし日本が食料を援助しないならば中国などは日本に戦争を仕掛けてきますし、その戦争は善です。中国の種族保存の為の戦争ですから。自分たちは余裕があるのに彼らを助けないなら世界から非難されますよ。常識的に考えても彼らに食料を援助するでしょう。何故援助しないなんていう選択肢が在るのですか?何故、世界の問題で日本を公にするのですか、おかしいでしょう。世界の問題なら世界が公です。公は問題により決まりますと何度も言っているでしょう。
条件が変われば善は変わると言うのは当たり前である、このことぐらい理解してください。世界の大恐慌は世界の問題ですから世界を公と考え日本だけでなく世界各国が集まって「自国の私欲を抑えて公(世界)の為」と考えるのが善なのです。世界の問題なら世界が公になります。公は問題により変わるのです。私が勝手に決めているのではないのではなく、上記のように問題により自然と決まるでしょう。
まだ分からないところがあるならどうぞ。

私の善の定義が正しいと言うことはあらゆる問題に正しい答えが出せるからともいえます。死刑問題でも善の定義で考えれば簡単に解けるのです。核問題もいじめ問題も私の善の定義で議論すれば解ける問題なのです。だって絶対善ですから。しかし知恵のないバカな奴らが公の為と議論してもバカな答えにしかなりません。中学生がTPPを議論してもまともな答えは出てきません。それでも私欲を抑えて公の為と考えることは絶対的に正しい行為、方法なのです。これ以上の方法は在りません、在ると言うなら示してください。


地下水さん

>利己的な遺伝子に見る様に、また生存競争に見る様に、個体の生存欲というものは、進化して生きて行く為に基本的なものです。人間の私欲もこれらの延長であって、否定できないものでは無いでしょうか。<

仮にそうであったとしても利他的行為をしなければ自分の為にはならないのですよ。仲間みんなで助け合うのが一番群れを存続できるのです。私欲を抑え公の為と考えるのが一番正しい方法なのです。

 >それからshinwood さんは公の為に本当に自分を犠牲にできるのですか?言うは易し、行うは難しではないでしょうか?<

普通は自分を犠牲にはしませんが、日本が中国から侵略されれば戦いに参じますって言ってるでしょう。あなたも市民を守る為に協力しなさいよ、逃げてばかりいないで。これが逃げたいと言う私欲を抑えて公(市民)の為にと考え行わなければならないのです。それが正しい行為です。


>>241   空の光さん

誰に向けて書いたのか分かりませんよ。気づいた点があればSumioBabaさんに分かるようにあなたからも説明してあげてください。

29日前 No.242

空の光 ★EQFSMe4fuO_m9i

>>242

shinwoodさん当てでした以後気をつけます。

29日前 No.243

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>242  shinwoodさんへ

  >>237 で問題を1つに定めているのに、貴方の論法では「公」が1つに定まらず、「日本」と「世界」のどちらにもなってしまうのですよ。

>基本的に仲間の最大は日本国民です。仲間であればみんなで何とか妥協が出来ますが、世界は基本的に仲間ではありませんので妥協はできません


 これは、「公」は「日本」なのであって「世界」ではない、と言っている訳ですね。

>しかしあなたの問題のように極限状態なら公は世界と考えてもいいのです。だってもし日本が食料を援助しないならば中国などは日本に戦争を仕掛けてきますし、その戦争は善です。中国の種族保存の為の戦争ですから。自分たちは余裕があるのに彼らを助けないなら世界から非難されますよ。常識的に考えても彼らに食料を援助するでしょう。何故援助しないなんていう選択肢が在るのですか?何故、世界の問題で日本を公にするのですか、おかしいでしょう。世界の問題なら世界が公です。公は問題により決まりますと何度も言っているでしょう。


 これは、「公」は「世界」なのであって「日本」ではない、と言っている訳ですね。

 SumioBabaが >>237 で示した同一の問題に対して、貴方は矛盾した2つの回答をしてしまっているのです。 >>237 で問題は1つに固定していますよ。それなのに、貴方の考え方だと「公」が1つに決まらず、「日本」にも「世界」にもなってしまうのです。そして、寄付しなかった場合には「公」を「日本」に定め、「これこそが公(日本)のためであり、善である」と言えます。寄付した場合には「公」を「世界」に定め、「これこそが公(世界)のためであり、善である」と言えます。貴方の考え方だと、どちらを選んでも自分の行為を善だと主張できるのであり、ただの詭弁になってしまいます。

 上の引用の中に「公は世界と考えてもいいのです」と書いてありますよね。「公は世界だと考えねばなりません」ではないでしょう? つまり、「公」を「世界」だと考えても良いけれど、そうでなくて「公」を「日本」だと考えても良い、ということになります。だから貴方の論法では、 >>237 という同一の問題なのに、貴方の好み次第で、「公」は「日本」にも「世界」にもできてしまう訳です。それとも訂正して、「 >>237 の問題の場合、公は世界だと考えねばなりません」に変えますか?

29日前 No.244

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>242  shinwoodさんへ

  >>237 の問題提起を再掲します。

>   《選択肢(1)》

> この場合、韓国も北朝鮮も中国も含む世界こそが「公」なのであり、日本は「私」なのだから、「私より公を優先する」の精神に則り、数百万人の餓死者を防ぐため、日本は韓国と北朝鮮と中国に、合計10兆円の寄付をすべきである。

>   《選択肢(2)》

> 韓国も北朝鮮も中国も、日本の仲間ではないので、この場合は日本が「公」であり、日本国民1人1人が「私」であるから、10兆円のお金は「公」である日本のために使うべきであって、韓国や北朝鮮や中国に寄付すべきではない。

>   【質問】

> shinwoodさんは《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらを選びますか?


 shinwoodさん、【質問】にまだ答えていませんよ。答えられないのではないですか? なぜなら、《選択肢(1)》も《選択肢(2)》も貴方自身が主張している内容だし、しかも両者は「寄付をすべきである」「寄付すべきではない」と矛盾した結論を出していますから。

 もし貴方が「《選択肢(1)》を選ぶ」と答えるなら、SumioBabaは「貴方は今まで《選択肢(2)》を主張してきたではないですか。あれは嘘だったのですか?」と指摘します。
 もし貴方が「《選択肢(2)》を選ぶ」と答えるなら、SumioBabaは「貴方は今まで《選択肢(1)》を主張してきたではないですか。あれは嘘だったのですか?」と指摘します。
 矛盾が有るということは、「寄付をすべきである」とも「寄付すべきではない」とも言えてしまい、どちらが善なのかを判断する理論として、全く無意味ということです。

29日前 No.245

地下水 ★KATHFaYqOw_tVR

>>242  あはは、そんな下らない事はしませんよ。生活の為の仕事にたずさわっていますのでね。その仕事の中で他人の生活の役に立つ様にしています。市民を守るって、それは公僕の、警察の仕事です。自衛隊の仕事でもあります。shinwoodさんには無理でしょうね。

28日前 No.246

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_tVR

>>245   SumioBabaさん

いいですよ、納得するまで同じ質問を続けてください。もうすぐあなたはいなくなるのですから、精いっぱい頑張ります。しかし言っておきますが残念ながら私がすべて正しいのですよ。「SumioBabaの批判は、前スレの http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-1998#aにまとめてあります」も、あなた達の私に対して行ったすべての批判はズレており、すべて私が正しいのです。自信を持って言えます。共産党への電話でも、宗教勧誘に対する私の抗議の電話もすべて私が正しいのです、なぜなら公の為だからです。私は絶対善を知っている、しかしあなた達は絶対善を知らない、それだけです。ソクラテスが正しいのです。と前置きをして質問に答えることにしましょう。

 >shinwoodさん、【質問】にまだ答えていませんよ。答えられないのではないですか? なぜなら、《選択肢(1)》も《選択肢(2)》も貴方自身が主張している内容だし、しかも両者は「寄付をすべきである」「寄付すべきではない」と矛盾した結論を出していますから。<

矛盾したというか、条件が違えば答えが違ってもいいのです、そこに気づいてください。あなたの質問を例えていえば私が普段「基本的に人を殺すことは悪である」と言っているのに、ある時「正当防衛なら人を殺してもいいのです」と発言したことに対してSumioBabaさんが「それはおかしい、あなたは人を殺すことは悪であると言っていたではないですか、人を殺してはいけないんですか、いいのですか、どっちなのですか!」といっているのに等しいのです。条件が違えば答えが違うのは当たり前です。このことは >>242 でも十分に書いていますし、何度も答えているのですよ。

日本では銃の所持は正しくない、しかしアメリカでは銃の所持は正しい、このように正しさは相対的なのだと言われますが、条件が違えば答えが違うのは当たり前なのです。なぜならアメリカと日本は安全に対する条件が違うから。答えは相対的と捉えるのではなく、国民の為になる答えが常に正しいのです。アメリカは銃の所持が国民の為なのでしょう。日本では銃の所持しないのが国民の為なのです。
私は「あらゆる社会的問題の絶対的な答えは国民みんなの為である」と示しました。これは大きな発見です。このことを多くの国民は理解していないからです。社会的問題は国民の為になる答えこそが正しいと言えるのです。国民の為にならない答えなどもはや答えなどとは言えないのです。常に国民みんなの為になる答えが絶対的に正しいのです。


そしてSumioBabaさんがどうしても理解できないことは「公は問題により変わる」ということです。家族の問題なら家族が公です。日本の問題なら国民が公になります。どうしてそれが理解できないのか私には理解できないのです。皆さん、教えてくださいm(__)m。

仲間、公とは小さくは家族、大きくは日本です。他国は基本的に仲間ではありません。北朝鮮は敵です、中国は貿易を行っているので完全に敵とまでは言えません。台湾は友好国ですが日本が大地震に見舞われても莫大な金を出して助けてはくれません、せいぜい国民の義援金ぐらいです。ですから台湾は仲間ではありません。本当の仲間とはみんなで安心して暮らせるように協力し何とかしても助け合う人たちを言うのです。ですから基本的に公、仲間の群れは日本となるのです。しかし世界は仲間といえなくても世界的問題はできれば世界を仮に仲間、公として考えなければなりません。そうでなければ正しい答えは出ません。しかしやはり仲間ではないので地球温暖化などでは中国やアメリカは私欲を出して協力してくれません。なかなか難しいのです。しかし日本国民、仲間であれば何とか皆さん妥協して良い答えに辿り着けるのです。仲間の最大は基本的に日本国民なのですよ。分かってくれますか? 分からないならまたどうぞ質問してください。

またSumioBabaさんは私が出したいくつかの問題、答えについては全く言及されませんが何故ですか?「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」は真理なのですよ。



空の光さん

>shinwoodさん当てでした以後気をつけます。<

あの文章はSumioBabaさんにもこのように考えたらいいのでは?と示しているのでしょう?あなたが分かったところを彼にアドバイスしてくださいよ。


>両方の為になる行動はないのだろうか?<

無いでしょうね「A,Bのライバル企業がある。A企業がすごい製品を出して儲けだしたらA企業は善、それに比べて製品が売れなくなったB社にとっては悪」このように善があれば必ず悪が出るのです。 >>242 で書いたように国を救うためには一部の人たちが犠牲になる、これはどうしようもないことです。それを一部の人たちが犠牲になるのを悪としてはならないのです、公の為だからその行為は善と見なければならないのです。一部の人たちの犠牲を悪とみるのは小善であり大悪に繋がります。大人であればそこのところを理解しなければならないのです。

>国に関して、やっかいなのは、一つの国のように統一されてない点かな。国連が一つの国のごとく機能すれば、損害を被ってる国に、余裕のある国と一緒に援助する。なんて事もできるかもしれない。つまり世界が一つ、一人一人は世界人となる。それができれば、戦争も起きなくなっていくかもしれないですね。<

そうですね、世界は仲間にはなれていないのです、いやなれません。なれなくてもそれが正しいのです。グローバル社会は間違いなのです。各国が自国の幸せを追求すればそれが一番いいのです。イスラム,キリスト、仏教などが理解し合えることはないでしょう。別々に暮らすのが正しいのです。しかし絶対善が世界に普及すれば世界は平和になる事でしょう。私が提唱する相対主義の世界から絶対主義、絶対善の世界へ変わることが世界の平和になるのです。私はまだ誰も言っていない?世界的な大きな思想を語っているのですよ。

あなたもSumioBabaさんが理解できるように助言してください。他の皆さんも助言してください。

28日前 No.247

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>247  shinwoodさんへ

 だから、 >>237 で設定した同一の問題に対し、shinwoodさんの答は《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらなのですか? 答えられないでしょう? どちらと答えても、あと一手でチェック・メイトであることは、 >>245 で説明しました。

>矛盾したというか、条件が違えば答えが違ってもいいのです、そこに気づいてください。


 「条件が違えば」ではなくて、条件は >>237 で定めた同一の問題です。なのに貴方が、「公」を「世界」にするか「日本」にするか、貴方に都合の良い方を勝手に選んでいるのです。「寄付する」場合には「公」を「世界」にし、「これこそが公(世界)のためであり、善である」と言います。「寄付しない」場合には「公」を「日本」にし、「これこそが公(日本)のためであり、善である」と言います。「寄付する」場合も「寄付しない」場合も、「これこそが公のためであり、善である」が成立するように、貴方は「公」を「世界」にするか「日本」にするかを選んでいるのだから、成立する方を選べば成立するのは当然ですね。

 譬えると貴方の論法は、よくある初歩的な手品です。貴方は手品師であり、観客の1人に、「1か2か、好きな方を選んで下さい」と言います。観客が「1」を選ぶと、貴方は右のポケットから紙を取り出して見せます。するとそこには「貴方は1を選びましたね」と書いてあります。この手品で貴方は、「私こそ本物の予知能力者である。1か2か、百発百中で当てて見せよう。」と得意げに言います。でも、これはただのトリックです。左のポケットには「貴方は2を選びましたね」と書いた紙が用意されているのです。そして、観客が「1」を選べば右のポケットの紙を、観客が「2」を選べば左のポケットの紙を出すだけです。当たる方を選んで出すのだから、当たるのは当たり前ですね。

28日前 No.248

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>247  shinwoodさんへ

>またSumioBabaさんは私が出したいくつかの問題、答えについては全く言及されませんが何故ですか?


 貴方の質問は、ワンパターンだからです。「選択肢Aと選択肢Bとが有って、選択肢Aだと善aも有るが悪aも伴い、選択肢Bだと善bも有るが悪bも伴う」という状況の中で、「選択肢Aと選択肢Bのどちらが善だろうか?」と問うものです。

 SumioBabaは一般論として、とっくに答えています。SumioBabaの答→「選択肢Aだと善aも有るが悪aも伴う。選択肢Bだと善bも有るが悪bも伴う。どちらか一方だけを善だとも悪だとも断定できない。このように、選択肢Aにも選択肢Bにも、長所と短所の両方が在るのを正しく認識するのが《相対主義》である。」です。

 実際にどちらを選ぶのかと言われれば、実際にその状況になってみないと判りません。明らかに一方が他方よりも優れていると思えれば、優れている方を選びます。しかし、ちょうど半々で、どちらが優れているか判らない状況だったら、コインを投げて裏表で決めるかもしれません。

 貴方は《絶対主義》の立場で、選択肢Aと選択肢Bの片方だけを善だと決め付けようとします。すると、どちらを選んでも、都合の良い片面だけを見て、都合の悪い片面を無視することになってしまい、物事を偏った捉え方しかできなくなってしまいます。それが《絶対主義》の短所です。

28日前 No.249

空の光 ★EQFSMe4fuO_m9i

shinwoodさん

>あなたもSumioBabaさんが理解できるように助言して下さい<

自分には無理でしょう・・・たぶん。
自分の考えとshinwoodさんの思想は100%一緒じゃないので・・・
大きな観点でみるを公と置き換える。
小さな観点でみるを私と置き換える。
そこの時点でもう自分の考え方とは違ってしまいます。
しかも、国を超える事はできないみたいですし。
そこのところはshinwoodさんにも届いてなさそうです。

>イスラム,キリスト、仏教などが理解し合えることはないでしょう。<

やっぱり、そうなのでしょうか・・・
でも、宗教観の壁がとれれば一緒になれる可能性ありって事ですよね?
まるまる、すべての宗教観を飲み込めるような宗教観があれば・・・
世界はひっくり返るかもしれない。

28日前 No.250

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_tVR

SumioBabaさん

> だから、 >>237 で設定した同一の問題に対し、shinwoodさんの答はと《選択肢(2)》のどちらなのですか? 答えられないでしょう? どちらと答えても、あと一手でチェック・メイトであることは、 >>245 で説明しました。<

なるほど、あなたはそこが理解できないのですね。私の答えは世界に寄付をするということです。《選択肢(1)》です。 >>242 でも「常識的に考えても彼らに食料を援助するでしょう。何故援助しないなんていう選択肢が在るのですか?何故、世界の問題で日本を公にするのですか、おかしいでしょう」といっていますよ。あなたが理解しようとしないから頭に入らないのです。

>もし貴方が「《選択肢(1)》を選ぶ」と答えるなら、SumioBabaは「貴方は今まで《選択肢(2)》を主張してきたではないですか。あれは嘘だったのですか?」と指摘します。<

嘘ではありません。何度も説明するように本来、公(みんな)、仲間の最大は日本国民なのです。私の善の定義は「私欲を抑えて公の為と考え行う事、つまり公の為」です。公は仲間です、仲間と思える群れです、その最大が日本国民です。でも世界は基本的に仲間ではありません。ですから善の定義は基本的に世界の問題は適用できないのです。世界は仲間ではありませんからね。公は基本的に仲間でなければなりません。敵に思いやりをやれば自分たちの群れが滅んでしまいますからね。

ですから公は基本的に仲間でなければならないのです。ですからヒットラーがユダヤ人を虐殺したのは善なのか?と問われても困るのです。ドイツ人が他民族を殺すという問題は世界的問題ですからね、ドイツ国民だけの問題ではありません。ドイツ人にとってユダヤ人は仲間ではないので、その問題に対して善の定義は基本的に適用できない問題です。善の定義は本来、仲間の為にあるのです。仲間内だけの問題に本来適用するものなのです。

しかし善の定義は世界的問題にも応用はできます。世界的問題なら世界を仮に公、仲間として考えればいいのです。ですから >>237 の状況設定なら世界が公と考えます。そうすれば私の善の定義は「公の為」ですから韓国と北朝鮮と中国なども仲間と考えますので、飢えた韓国と北朝鮮と中国の為日本人は私欲を抑え、飢えた彼らの為にと考えて寄付をするのです。
現実的に考えても、もし韓国と北朝鮮と中国が飢えていて日本が豊かで援助しないならば彼らは日本に力ずくで食料を奪いに来るでしょう。そうならないためにも援助するでしょう。豊かな日本が援助しないならば世界からも非難されますよ。常識に考えて寄付をするというのは当たり前の選択です。世界的問題において日本を公とすることはあり得ません。日本を公とするのは日本国内の問題に対してだけです。世界の問題は世界が公になります。ですから問題は韓国と北朝鮮と中国が飢えているという設定ですから彼ら(公)の為にとなります。ですから世界各国は私欲を抑え韓国と北朝鮮と中国の為と考え寄付をするのです。世界を仮に仲間と見れば仲間である韓国と北朝鮮と中国を助けるのは当たり前ではないですか。ですから >>237 の問題は本来仲間でない韓国と北朝鮮と中国を仮に仲間として考えるのですから《選択肢(1)》が答えです。

しかし基本的に世界は仲間ではありませんからね。仲間とは基本的に安心して暮らせるように協力し合っている人々のことを言うのです。ですから自衛隊が守っている日本人が仲間です。世界が仲間なら何故自衛隊が日本を守る必要があるのですか? 世界には日本の富を奪おうとするやつらがいるから自衛隊が日本人という仲間の群れを守っているのです。自衛隊が守ってくれているからこそ私たちは安心して暮らしていけるのです。

群れにとって最も大切なことは平穏で秩序があり安心して暮らしていけること、まずこれが何よりも大切なのです。ですから私が言うように絶対的に正しいことは社会の安寧秩序を守る事で間違いはないのです。そしてそのために最も正しい行為、方法が「私より公を優先すること」つまり私欲を抑えて公の為と考えることなのです。そして公は仲間ということです。生物たちが試行錯誤をして最も仲間の群れが存続できる方法、行為は自分の命を懸けても群れを守る事だったのです。そのような行為が出来る種が生き残ってきたと言ってもいいでしょう。そしてそれこそが絶対的に正しいことであるとして「私より公の為」が遺伝子に書き込まれ本能となったのです。その本能が私たち人間にも受け継がれているのです。ですから人間が現れる大昔から「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」はあったのです。そしてそれは絶対的なものなのです、人間の理性の出る幕などないのです。免疫もそうです、生物たちがすでに作り上げてきたものを人間も受け継いだだけなのです。ですから私は基本的に善は本能であり理性で考えるものではありませんと言っているのです。勿論、人間は仲間だけでなく敵とも協力してやっていかなければならないこともあります。その時は本能的善を基本として仮に世界も仲間として考えれば応用できて最も正しい答えが導けるのです。しかし実際には世界はまだ仲間となれていませんので温暖化問題のように国際的問題はなかなかうまくいきません。  私は何ら矛盾的なことは言ってはいませんよ。


 >貴方は《絶対主義》の立場で、選択肢Aと選択肢Bの片方だけを善だと決め付けようとします。すると、どちらを選んでも、都合の良い片面だけを見て、都合の悪い片面を無視することになってしまい、物事を偏った捉え方しかできなくなってしまいます。それが《絶対主義》の短所です。<

ですから何度も言うように善とはもっと大きく考えなければならないのです。前にも書いたように
「A,Bのライバル企業がある。A企業がすごい製品を出して儲けだしたらA企業は善、それに比べて製品が売れなくなったB社にとっては悪。このように善があれば必ず悪が出る、ゆえに善悪は相対的であると考える。」

相対主義者はA社、B社にとって善か悪かと考えます。それが相対主義の悪い点です。そうではなくもっと大きく日本の為にとって善か悪か?と考えなさいと言っているのです。これが絶対主義です、絶対に正しいことはあると言うことです。相対主義は自分さえよければ善、自分が不利益なら悪と考える。そうではなく日本にとって善か悪かと考えなさいと言っているのです。そりゃ〜負けた会社はつぶれてかわいそうですが、それにこだわっていたら日本にとって良くないのです。小善は大悪に似たり、大善は非情に似たりというのはそういうことです。分かりませんか?

次の例でもそうです。
「アメリカの映画でありました。アフリカの奥地のサルを輸入したら、これが伝染病にかかっていました。極めて伝染力が強く治療法がなく、かかったら必ず死亡する伝染病です。これがある町全体に瞬く間に蔓延しました。大統領は、米国全体を救うために、町を封鎖したうえで、町の住人10万人程度もろとも核爆弾で病気を抹消しようと決断しました。大統領は1つの町より合衆国全体を優先したのです」
この問題において公は全米です。ですから全米の為にと考えなければならないのです。ところがあなたは伝染病に感染した町も公になると言います。そこが間違いなのです。全米の問題ですから全米が公に決まっています。どうして町を公にしようとするのですか?そんなことをしたら町(公)を救うためには私はどこになるのですか?全米が私になるのですか? 絶対的に正しいことは全国民の命を守る事であり、一部の町ではありません。
この問題に対してあなたが大統領ならどうしますか? ある町の人たちを殺すのはかわいそうだと言って躊躇して全米の人を殺すのですか? それは小善は大悪に似たりです。大善は非情に似たりでなければならないのです、大善が出来なければその群れは滅びます。これは大人でなければできない決断です、女や子供の考え「町がかわいそう」という小善ではダメなのです、大悪に至ります。子供に体罰をしてはいけないと小善に走ったため今学校は混乱に陥っている大悪の状態なのです。相対主義のなれの果てです。

私の善の定義は「私欲を抑えて公の為と考え行う事」です。公の為と考えると言うことはその群れのトップの立場に立って考えると言うことです。大統領というトップの立場に立って考えなければ正しい答えは出せないのです。あなた達はいつも自分たちだけの善悪で考えようとします。そうではなくその仲間の群れ全体のトップの立場に立ち“全責任”を感じて善悪を考えると言うことが絶対善なのです。
相対主義から絶対主義へとは自国のみの善悪を考えずに世界を公、仲間として考えることこそ絶対的に正しいことである、という主張なのです。相対主義では自国のみ優先の善悪によりヒトラー、スターリンが出ました。そうではなく世界を仲間と考える絶対主義、絶対善的考えこそが世界に平和をもたらすであろうと言う新しい世界的な思想なのです。世界各国が世界を仲間と考えられるようになれば侵略しようなど考えなくなります、仲間なのですから。また絶対善を学んだ人々は独裁者が出たとしても侵略には反対することでしょう。このように絶対善の世界は平和的な世界なのです。

Mobiusさんやふくろうさんやちょっとねちゃんや時さんあなた達もまだ理解できませんか? 理解できた人はいないのですか?



空の光さん
>しかも、国を超える事はできないみたいですし。そこのところはshinwoodさんにも届いてなさそうです。<

基本的に仲間は日本です、世界が仲間のなれるはずはありませんよ。まあ、世界的問題なら世界を公にして考えなければなりませんが今でも自国の利益ばかり主張している状態でどうして世界が仲間になれるのでしょうか? TPPでも自国の利益優先ばかりだったでしょう。自国の利益を抑えて世界の為と考えられる国などないのが現状なのです。


>でも、宗教観の壁がとれれば世界の宗教が一緒になれる可能性ありって事ですよね?まるまる、すべての宗教観を飲み込めるような宗教観があれば・・・<

そんなことはあり得ません。各宗教の教義は絶対なのですからそれを変えるなんて不可能です。もういい加減夢を見るのは止めなさいよ。女子高生みたいですね、あなたは。

27日前 No.251

地下水 ★KATHFaYqOw_tVR

>>251  shinwoodさんのは、善では無くて、単なる功利主義ですよ。善とはその様なものではありません。
 慈善事業に見る様に、無償の愛を伴うものです。神の愛であるアガペーの愛に基づくものです。
 また善行を行う時に仲間であるか公の役に立つかと考えている暇はありません。駅のホームから線路に落ちた人を助ける時には、そんな暇は無いのです。助けなければと、人の心が動き、咄嗟に行動するものなのです。

27日前 No.252

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>251  shinwoodさんへ

>なるほど、あなたはそこが理解できないのですね。私の答えは世界に寄付をするということです。《選択肢(1)》です。 >>242 でも「常識的に考えても彼らに食料を援助するでしょう。何故援助しないなんていう選択肢が在るのですか?何故、世界の問題で日本を公にするのですか、おかしいでしょう」といっていますよ。あなたが理解しようとしないから頭に入らないのです。


 おっ!! 初めて答えてくれましたね。《選択肢(1)》の方ですか。《選択肢(1)》=「この場合、韓国も北朝鮮も中国も含む世界こそが「公」なのであり、日本は「私」なのだから、「私より公を優先する」の精神に則り、数百万人の餓死者を防ぐため、日本は韓国と北朝鮮と中国に、合計10兆円の寄付をすべきである。」。 >>237 の問題提起の場合、shinwoodさんの判断は、「「公」は「世界」であって「日本」ではない」…@ですね。

>>もし貴方が「《選択肢(1)》を選ぶ」と答えるなら、SumioBabaは「貴方は今まで《選択肢(2)》を主張してきたではないですか。あれは嘘だったのですか?」と指摘します。

>嘘ではありません。何度も説明するように本来、公(みんな)、仲間の最大は日本国民なのです。私の善の定義は「私欲を抑えて公の為と考え行う事、つまり公の為」です。公は仲間です、仲間と思える群れです、その最大が日本国民です。でも世界は基本的に仲間ではありません。ですから善の定義は基本的に世界の問題は適用できないのです。世界は仲間ではありませんからね。公は基本的に仲間でなければなりません。敵に思いやりをやれば自分たちの群れが滅んでしまいますからね。


 あれっ? 今度は「「公」は「日本」であって「世界」ではない」…Aと言ってますよ? あっさり@を否定してしまいましたね。これが《選択肢(2)》=「韓国も北朝鮮も中国も、日本の仲間ではないので、この場合は日本が「公」であり、日本国民1人1人が「私」であるから、10兆円のお金は「公」である日本のために使うべきであって、韓国や北朝鮮や中国に寄付すべきではない。」の方です。

 shinwoodさん、前半では《選択肢(1)》を選び、「「公」は「世界」であって「日本」ではない」…@だったのに、後半では《選択肢(2)》を選び、「「公」は「日本」であって「世界」ではない」…Aです。あからさまに矛盾が生じました。 >>245 の予告通り、これでチェック・メイト。

27日前 No.253

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>251  shinwoodさんへ

 すでに何度も説明してきた事ですが、もう一度だけ繰り返します。本当にこれが最後です。

>群れにとって最も大切なことは平穏で秩序があり安心して暮らしていけること、まずこれが何よりも大切なのです。ですから私が言うように絶対的に正しいことは社会の安寧秩序を守る事で間違いはないのです。


 「群れにとって」という条件が付いているので、「絶対的に正しいことは社会の安寧秩序を守る事」もまた「群れにとって」という条件付きです。
 「個人(個体)にとって」という条件が付けば、「絶対的に正しいことは社会の安寧秩序などでなく個人(個体)を守る事」になります。

>生物たちが試行錯誤をして最も仲間の群れが存続できる方法、行為は自分の命を懸けても群れを守る事だったのです。そのような行為が出来る種が生き残ってきたと言ってもいいでしょう。


 「生物は「自分の遺伝子を多く残すこと」を目指しているのであって、「種族の保存」など全く目指していない」というのが生物学の定説です(「利己的遺伝子」R・ドーキンス)。
 生物は一見「利他的」に振る舞うこともあるように見えますが、遺伝子レベルで見るとすべてが完璧に「利己的」です。親が自分の子供の身代わりに死ねるというのも、遺伝子の繁栄という点では、子供が死ぬより親が死ぬ方が有利だからです。遺伝子こそが主人であり、生物とは遺伝子の乗り物であって遺伝子の操り人形です。「自分の子供が可愛くて身代わりに死んでも良い」という本能で親を操っているのが遺伝子です。なぜならそれが、遺伝子にとって得策ですから。一方「他人の子供の身代わりに死んでも良い」という本能を持つ親はいません。なぜなら、遺伝子にとって損をするだけですから。つまり、他人の子供を助けたいという思いは、本能ではなく、理性が有って初めて生じるものです。
 「群れの存続を守るために自分を犠牲にする個体」なんてものが仮に一時的に存在したとしても、そんなものはすぐに絶滅するでしょう。生存競争に勝ち抜くのは必然的に、「あらゆる他者よりも自分の生存を優先する個体」となります。現在生き残っているのはすべて、利己的な生存競争に勝ち残った個体ばかりです。

>相対主義者はA社、B社にとって善か悪かと考えます。それが相対主義の悪い点です。そうではなくもっと大きく日本の為にとって善か悪か?と考えなさいと言っているのです。これが絶対主義です、絶対に正しいことはあると言うことです。相対主義は自分さえよければ善、自分が不利益なら悪と考える。そうではなく日本にとって善か悪かと考えなさいと言っているのです。


 shinwoodさんの《絶対主義》は、日本にとってさえ「善」であれば、A社、B社にとっては「悪」でも構わない、と判断するのでしょう? 「公」(日本)の為に「私」(A社、B社)を犠牲にするのが、貴方のいう「善」でしたよね。
 SumioBabaの《相対主義》は、A社(私)、B社(私)、日本(公)すべての視点に立ってみて、それぞれの善悪を考慮し、最も優れた選択肢はどれかを考えます。「公」も「私」も利益を得るのがSumioBabaの「善」であり、shinwoodさんの「善」とは違って、「私」を犠牲にする必要は無いし、「私」を犠牲にしてはいけません。

27日前 No.254

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

  >>237 の問題提起について、SumioBabaの考えを書いてみます。

   状況設定
 SFです。世界的な大恐慌が起こりました。日本だけは被害が無く、裕福なままです。しかし、韓国と北朝鮮と中国は大きな被害を受け、このままでは数百万人という餓死者が出そうになったとします。もし日本が韓国と北朝鮮と中国に合計10兆円の寄付をすれば、餓死者の発生を防ぐことができ、その場合、日本人はかなり節約生活をせねばならなくなるものの、餓死者が出るほどではないとします。日本は韓国と北朝鮮と中国に、合計10兆円の寄付をすべきでしょうか?、すべきでないでしょうか? 問題を複雑にしないため、選択肢は以下の2つだけだとします。
   《選択肢(1)》
 この場合、韓国も北朝鮮も中国も含む世界こそが「公」なのであり、日本は「私」なのだから、「私より公を優先する」の精神に則り、数百万人の餓死者を防ぐため、日本は韓国と北朝鮮と中国に、合計10兆円の寄付をすべきである。
   《選択肢(2)》
 韓国も北朝鮮も中国も、日本の仲間ではないので、この場合は日本が「公」であり、日本国民1人1人が「私」であるから、10兆円のお金は「公」である日本のために使うべきであって、韓国や北朝鮮や中国に寄付すべきではない。

 《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらを選ぶべきかという点では、人それぞれの価値観で好きな方を選んで良いのであり、どちらが一方だけを正しいと言えるものではない、と考えます。韓国や北朝鮮や中国を仲間だと見なすか見なさないかは、我々日本人にとって、個人個人の自由だと思われるからです。現実の政策としてどちらを行うか、片方に決める必要が生じたなら、民主主義社会だから多数決で決めることになるでしょう。

 自分、家族、市区町村、都道府県、国、世界、と階層的に並べると、「私」と「公」は、相対的です。例えば、国を「公」と見なせば県は「私」とも言えますが、国を「私」と見なして世界を「公」とも言えます。自分、家族、市区町村、都道府県、国、世界を、「公0」、「公1」、「公2」、「公3」、「公4」、「公5」と書くこともできます。それ以外にも、無数の「公」が有ります。勤務している会社「公A」だとか、所属している学会「公B」だとか、信じている宗教団体「公C」だとか、趣味のサークル「公D」なども有ります。

 1人の人間である自分は、「公0」であると同時に、様々な「公1」、「公2」、「公3」、「公4」、「公5」、…、「公A」、「公B」、「公C」、「公D」、…を構成する一員でもあります。そして、自分が所属する2つの「公」、例えば「日本」と「世界」とで、どちらを優先した行為をするかによって行動が異なってしまうとき、どちらを選ぼうかという葛藤が生じます。 >>237 の問題提起がまさにそれです。「公」を「世界」だと見なせば《選択肢(1)》を選ぶべきです。「公」を「日本」と見なせば《選択肢(2)》を選ぶべきです。結局、「世界」と「日本」のどちらを「公」としてより優先するかという問題ですが、これこそ個人の価値観で好きな方を選んで良いのであり、どちらか一方を正しいと決め付けて他人にまで押し付けるべきではない、と考えます。

 《選択肢(1)》すなわち「寄付する」を選べば、日本は世界平和に貢献できるという意味では「善」を為すことになりますが、その分、日本国民に犠牲を強いてしまうという点で「悪」です。《選択肢(2)》すなわち「寄付しない」を選べば、日本国民は裕福に暮らせるのでその点は「善」ですが、韓国や北朝鮮や中国で出る餓死者を放置してしまうという点で「悪」です。「寄付する」も「寄付しない」も、「善」と「悪」の両面を持つため、「絶対善」「絶対悪」ではなく、「相対善」「相対悪」の方となります。

 「日本」と「都道府県」だったら、どちらを優先すべきか? 職業的な義務が無ければ、個人個人で好きな方を優先して良いと思います。職業的な義務がある場合、総理大臣であったら「日本」を最優先し、県知事だったら自分の「県」を最優先するのが当然です。米軍基地問題における総理大臣と沖縄県知事との関係が、まさにそれです。市長だったら自分の「市」を、村長だったら自分の「村」を最優先するのが当然です。それが職業的義務です。

※警告に同意して書きこまれました (個人情報)
27日前 No.255

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_tVR

地下水 さん

>>251    >shinwoodさんのは、善では無くて、単なる功利主義ですよ。善とはその様なものではありません。慈善事業に見る様に、無償の愛を伴うものです。神の愛であるアガペーの愛に基づくものです。<

あなたは数学はできて頭は悪くないのに何故こんなにも分からないのであろうか?不思議です。功利主義ではありません、それでは功利主義は絶対善とは「私欲を抑え公の為にと考えること」といっていますか? いい加減なことは言わないでください。
何がアガペーの愛ですか、そんなものは「アッカンベー」だ。


>また善行を行う時に仲間であるか公の役に立つかと考えている暇はありません。駅のホームから線路に落ちた人を助ける時には、そんな暇は無いのです。助けなければと、人の心が動き、咄嗟に行動するものなのです。<

とっさに助けるのは本能だからです。本能の後に理性が出てきて助けようか、どうしようかと考えるのです。



SumioBabaさん

>これでチェック・メイト。<

懐かしいですねw 私はその時こう返信しました「何がチェック・メイトだ、このへぼ将棋師が!」
頑迷なあなたをどうしても理解させることはできそうにありませんね、しかしまだまだ最後まで頑張りますよw

あなたは「公は条件により変わる」と言うことがまだ理解されていないのだと思います。公は問題により変化をするのです。例えていえば、普段は自分の家族が仲間であり他の家族の世話はしません。自分たちの家族で精いっぱいですから、つまり基本的に家族が公ですね。しかしもし親戚の家族のお父さんが亡くなって、その母や子供が困窮しているという新しい問題が出てきたら、それをどうにかしなければならないということです、放っておくわけにもいきません。普段は公は自分の家族ですけれども、新たな問題が出たら親戚の人たちも向かい入れて仮に親戚の人も仲間、公になると言うことです。一つの仲間となれば助けなければなりません。
そこで一番正しい行為は「私欲を抑えて公の為」と考えることですから、親戚の人たちを家族として迎え入れれば自分たち家族の家計も大変になるだろうが、その思い、私欲を少し抑えて困窮している親戚の為に頑張り助けるということです。
このように公は問題により変化をするのです。普段は自分たちの家族が公ですけれども、親戚が困窮しているという新しい問題が出たら今度は親戚の人も含めて公、仲間と考えると言うことです。これでも分かってもらえませんか?


>「群れにとって」という条件が付いているので、「絶対的に正しいことは社会の安寧秩序を守る事」もまた「群れにとって」という条件付きです。
 「個人(個体)にとって」という条件が付けば、「絶対的に正しいことは社会の安寧秩序などでなく個人(個体)を守る事」になります。<

私が言っているのは最高に、何よりも、絶対的に正しい事を言っています。大切な命を守る事は正しい。そして個人の命より群れ全体の命を守る事がより大切である。ゆえに個人の安寧秩序よりも群れ全体の安寧秩序がより大切ですから「個人にとって最高に、何よりも絶対的に正しい」とはなりえません。絶対的に正しいことは常に群れ全体の安寧秩序です。個人の命を守る為に群れ全体の命が失われることは善ではなく悪です。善とは常に群れを保存することであり、公(群れ)の為になることを指すのです。個人の益を犠牲にしても群れ全体の為と考えるのが善なのです。悪とは公(群れ)に害すると分かっているのに私欲を優先することです。


>結局、「世界」と「日本」のどちらを「公」としてより優先するかという問題ですが、これこそ個人の価値観で好きな方を選んで良いのであり、どちらか一方を正しいと決め付けて他人にまで押し付けるべきではない、と考えます。<

国際問題については個人個人の意見ではなく私たちの代表である国会議員が決めます。いちいち個人の意見をまとめていたら素早く対処できません。
そして正しいは決まっています。公の為となることです。韓国や北朝鮮や中国の人たちが飢えている問題で、もし援助しなければ彼らは日本に戦争さえしかけてきますよ。また飢えた人たちに援助しないならば世界中から非難されるでしょう。国民も援助することに賛成するでしょう、大地震などで日本が困っているときには世界が援助してくれたのですから。日本が豊かであり援助しないならばそれは悪です。基本的には日本が仲間、公ですけれども、世界的飢饉状態ならば仮に世界を仲間、公と考え援助することが正しいのです。


>《選択肢(1)》すなわち「寄付する」を選べば、日本は世界平和に貢献できるという意味では「善」を為すことになりますが、その分、日本国民に犠牲を強いてしまうという点で「悪」です。<

ここがあなたが分かっていないところですね。確かにあなたが言う通りですけれども、世界的問題は世界を公と考えなければなりません。そして世界が公、仲間なのですから善は世界の為になることが善と考えなければなりません。世界の問題に日本が得するから善、損するから悪と考えることは間違いです。世界的問題においては日本という立場を忘れなければならないのです。世界的問題に日本の為とか考えてはならないのです。世界の問題は日本も世界各国も自国のことは忘れて世界みんなが仲間、世界人と考えなければならないのです。私欲を抑えて公の為とは日本という立場を抑える、忘れて世界の一員として世界の為にと考えなければならないのです。日本人はいなくて世界の人となっているのですから。ですから世界の問題は世界の為になることが善なのです。ですから世界の問題は相対善はありません。世界は一つなのですから。


>米軍基地問題における総理大臣と沖縄県知事との関係が、まさにそれです。市長だったら自分の「市」を、村長だったら自分の「村」を最優先するのが当然です。それが職業的義務です。<

これも同じです。米軍基地問題は日本国民みんなの問題であり公は日本国民になります。日本国民全体の問題に沖縄人、東京人などと分けて考えてはなりません、すべて一つの日本人とならなければなりません。沖縄人も、東京人も沖縄、東京の為という私欲を抑え(つまり自分たちが沖縄人である、東京人であることを忘れ同じ日本人として)公(日本国民)の為と考えなければならないのです。市や村を国より優先して考えていたら国は存続できなくなります。国の問題は市や村を忘れて同じ日本人となって日本全体の為と考えなければなりません。沖縄知事も沖縄県人も無く、そういう私欲を忘れて日本人として日本の為にと考えなければならないのです。米軍基地問題は日本全体の問題ですから公は日本国民です。沖縄県人も沖縄の為という私欲を抑えて一日本国民として沖縄県人を忘れて日本みんなの為と考えなければならないのです。沖縄県民や各県民が自分の為だけを考えていたら正しい答えにはなりません。自分の利益を抑えて日本の為と考えなければならないのです。
また利己的遺伝子なんて忘れなさい、絶対善はそれを否定しています。皆さん他人であっても自分の身を顧みず助けているではありませんか。利己的遺伝子なんて大嘘であるとすぐ見破らなければなりません。

加賀の千代の句に「朝顔につるべ取られてもらい水」というのがあります。これも善なる行為あり、なんだか暖かいものを感じます。朝顔のつるを引きちぎり水を汲めばいいものを、それは忍びないと朝顔に思いやって隣の井戸まで水を汲みに行ったのです。
これは人間だけでなく植物さえも自分の仲間、公と考えているのです。私の言う絶対善「私欲を抑えて公の為と考えること」は相手と自分を一つとしてみる主客同一的な考えなのです。そこに彼も自分もないのです、同じ一つです、そこに相対はないのです。分かりますか? 日本全国の問題に対しては沖縄人、北海道人などの私欲を抑えて同じ一日本人となり日本の為と考えなければならないのです。仲間であれば沖縄人を忘れて一日本人として一番日本の為になる方法は何かと考えなければならないのです。世界的問題も同じく世界を公、仲間とするならば日本というのを忘れて世界の一人として世界の為にと考えなければならないのです。そこに相対はありません。全ての国々の人は自国を忘れ一世界人となって世界の為にと考えなければなりません。

絶対善は「私より公を優先すること」これは大自然が、生物たちが太古の昔に作り上げたものであり、人間の理性の出る幕はないのです。善は本能なのです。その本能の深淵では主客同一、つまり悟りの境地がそこに在るのです。悟りは理性、言葉でやるものではなく理性のない世界でなければ悟りの世界は見つからないのです。言葉を忘れなければならないのです。

相対主義、つまり絶対的なものが分からない曖昧模糊な世界観から、絶対主義、つまり絶対的なものはある、世界は一つという絶対の悟りに到達する世界観に変わらなければ世界の平和はないと言っているのです。世界各国が絶対善を本当に理解できれば他国を侵略することは絶対悪であると自然に理解できるのです。絶対善が教えていることはその社会が一番うまくいくには私欲を少し抑えて公の為と考え行うことだよ、ということなのです。分かっていただけたでしょうか?

最後にもう一度書いておきます。基本的に善は自分の群れを保存するために作られたものであり他の群れに対してどうのこうのという性質はありません。ですから善はその群れ内の問題に対して機能するのです。仲間であれば自分の欲を抑えて公の為と考えることもできます。仲間なのですから、家族なのですからみんなが自分の欲を捨てて仲間の為にと考えることが出来ます。勿論本当に私欲を捨てることが出来るのは家族の為ぐらいでしょう。家族の仲間の為なら私欲を抑えて家族の為にと自分の欲を捨てられるかもしれません。
ですがやはり日本国民も大きくは仲間なのです。どこかが大きな災害に見舞われたら各県の皆さんは自分のことは忘れて災害にあった県の為とみんな協力してくれます。それはやはり日本人は仲間だからです。仲間ならどこの県という私欲を忘れて一日本人となって私欲を忘れて日本の為にと考えることが出来るのです。しかし世界は基本的に仲間ではないのです。自国のことは忘れて一世界人となり世界の為にと考えられるでしょうか? やはり国際問題において世界各国は自国の利益ばかり主張しているのが現実です。

このように世界は仲間となり切れないのです。勿論、世界が極限の状態、人類の危機ならば世界各国は私欲を忘れて公(人類)の為と考えなければならないのです。自国民が大きな損失をしようがそのことは忘れて一世界人として人類の保存の為にと考えなければなりません。しかしそんな人類の危機の時でさえ世界はきっと自国の利益を優先することでしょう。このように世界は基本的に仲間にはなれないのです。それでも日本などは日本が大きな不利益を損じようが世界の為と考えることが出来ることもあります。そのような国が増えなければ世界は仲間、公にはなかなかなれないのです。
絶対善とは「私欲を抑えて公の為と考えること」の意味が分かっていただけたでしょうか?私欲を抑えとは自分を忘れてみんなと一体となり公の為と考えることです。そこには私はなく相対的なものはないのです、私公同一なのです。

※警告に同意して書きこまれました (個人情報)
26日前 No.256

mild7 @mild ★Ups5l7SvQN_3wf

・互いに作用していない状態 (お互いに消極的自由が満たされている状態)

・互いに何らかの理論(脳の回路による自動処理も含めて)を用いて、又は何らかの理由(前提条件)の下で用いざるを得ないと認識されている状態で、他者に作用して影響を与えうる状態 (用いられている理論、又はその結果としての影響が等価である状態)(公共)

・互いにそれらの条件を確認して許可を与え合った状態(この場合、単なる許可、不等価交換、譲歩は含めない) (契約が成立している状態)

主張しても権利にならない主張された側の権利になる。
否定しても権利は無くならない否定された側の権利が無くなる。

罰とは互いの用いてる理論、作用した結果の状態の変化が入れ替わる事。

理論上の法が一意的に求まり、勝手に法(理論)を用いる事はできない。

契約としての法が成立するのかは解らない。

要約すると、正しい法に反しない状態(理論的に矛盾が無い状態?)は、消極的自由な状態、公共の状態、契約が成立している状態以外には無い。

定義というものは人によって、又は文脈によって代わるので考察しようとするならその対象を明確にする作業から始めないと無理。

考察というものは結局、脳という回路での情報処理の部分と、生じる認識、感覚の部分の話なので、脳という回路による自動処理だけでは難しいので可視化して理論として表し、さらにどういう感覚、認識が生じているかを明確にカテゴリー別けしなければ無理。

26日前 No.257

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>256  shinwoodさんへ

>あなたは「公は条件により変わる」と言うことがまだ理解されていないのだと思います。公は問題により変化をするのです。


 「何を「公」として最優先すべきかは、条件や問題により変化する」は当然です。しかし、今問題にしているのは、条件や問題を1つに固定しても、それだけでは「公」は1つに定まらず、「何を「公」として最優先するかは、各人の価値観によっても変化してしまう」という点です。だから、 >>237 で定めた同一の条件、同一の問題でありながら、「公」を「世界」と見なすか「日本」と見なすかは人それぞれ意見が異なり、《選択肢(1)》も《選択肢(2)》も成立します。どちらが正しいとも言えず、どちらも一長一短なので、どちらも「絶対善」「絶対悪」ではなく、「相対善」「相対悪」の方になります。

>例えていえば、普段は自分の家族が仲間であり他の家族の世話はしません。自分たちの家族で精いっぱいですから、つまり基本的に家族が公ですね。しかしもし親戚の家族のお父さんが亡くなって、その母や子供が困窮しているという新しい問題が出てきたら、それをどうにかしなければならないということです、放っておくわけにもいきません。普段は公は自分の家族ですけれども、新たな問題が出たら親戚の人たちも向かい入れて仮に親戚の人も仲間、公になると言うことです。一つの仲間となれば助けなければなりません。


 「親戚の家族」を仲間だと思う人は、「公」を「家族」から「家族+親戚」に拡張するでしょう。しかし、「親戚の家族」と財産争いで裁判真っ最中の人だったら、「親戚の家族」を中間だとは思わないので、相変わらず「公」は「家族」のままであり、「家族+親戚」に拡張はしないでしょう。「公」を「家族」のままにするか、「家族+親戚」に拡張するかは、その人の価値観にも依存してしまうのです。

>そこで一番正しい行為は「私欲を抑えて公の為」と考えることですから、親戚の人たちを家族として迎え入れれば自分たち家族の家計も大変になるだろうが、その思い、私欲を少し抑えて困窮している親戚の為に頑張り助けるということです。


 「公」を「家族」のままにし、「家族+親戚」に拡張しなかった人の場合、「公」である「家族」のためにお金を使うのが「善」となり、「親戚の家族」などというよそ者のためにお金を使うのは「悪」になります。そして、「親戚の家族を助けない行為」を、「これこそが公(家族)のためであり、善である」と主張できます。

>このように公は問題により変化をするのです。普段は自分たちの家族が公ですけれども、親戚が困窮しているという新しい問題が出たら今度は親戚の人も含めて公、仲間と考えると言うことです。これでも分かってもらえませんか?


 言いたい事は解るのですが、根本的な部分が見落とされています。「親戚の家族を助けたくない人」は、「公」を「家族」のままにし、「これこそが公(家族)のためであり、善である」と言えます。「親戚の家族を助けたい人」は、「公」を「家族+親戚」に拡張し、「これこそが公(家族+親戚)のためであり、善である」と言えます。どちらの場合も「これこそが公のためであり、善である」言えてしまうようでは、どちらが善なのかを決められません。

>> 「群れにとって」という条件が付いているので、「絶対的に正しいことは社会の安寧秩序を守る事」もまた「群れにとって」という条件付きです。

>> 「個人(個体)にとって」という条件が付けば、「絶対的に正しいことは社会の安寧秩序などでなく個人(個体)を守る事」になります。

>私が言っているのは最高に、何よりも、絶対的に正しい事を言っています。大切な命を守る事は正しい。そして個人の命より群れ全体の命を守る事がより大切である。ゆえに個人の安寧秩序よりも群れ全体の安寧秩序がより大切ですから「個人にとって最高に、何よりも絶対的に正しい」とはなりえません。絶対的に正しいことは常に群れ全体の安寧秩序です。個人の命を守る為に群れ全体の命が失われることは善ではなく悪です。善とは常に群れを保存することであり、公(群れ)の為になることを指すのです。個人の益を犠牲にしても群れ全体の為と考えるのが善なのです。悪とは公(群れ)に害すると分かっているのに私欲を優先することです。


 「個人の命より群れ全体の命を守る事がより大切である。」が、shinwood教の「公理」(証明なしに真だと仮定する命題)なのでしょうね。これはまさに《全体主義》です。SumioBabaはそれを受け入れていません。といって、SumioBabaは《個人主義》でもなく、両方をバランスよく満たすことを理想とします。

>そして正しいは決まっています。公の為となることです。韓国や北朝鮮や中国の人たちが飢えている問題で、もし援助しなければ彼らは日本に戦争さえしかけてきますよ。また飢えた人たちに援助しないならば世界中から非難されるでしょう。国民も援助することに賛成するでしょう、大地震などで日本が困っているときには世界が援助してくれたのですから。日本が豊かであり援助しないならばそれは悪です。基本的には日本が仲間、公ですけれども、世界的飢饉状態ならば仮に世界を仲間、公と考え援助することが正しいのです。


 「そして正しいは決まっています。公の為となることです。」もshinwood教の「公理」ですね。SumioBabaはこれを受け入れていません。SumioBabaは、「公」も「私」も大切であり、バランスよく両立することが重要、と考えます。前にも挙げましたが、税金が解り易い具体例です。「私」ばかりを優先して、税金を1円も払わないというのでは、「公」が成立しません。年収の100%を税金として払えと言われたら、「私」としての生活ができません。実際には中間を採り、年収の20%くらいを税金として「公」のために払い、80%くらいを「私」のために使い、これで「公」も「私」も両立しています。

>>《選択肢(1)》すなわち「寄付する」を選べば、日本は世界平和に貢献できるという意味では「善」を為すことになりますが、その分、日本国民に犠牲を強いてしまうという点で「悪」です。

>ここがあなたが分かっていないところですね。確かにあなたが言う通りですけれども、世界的問題は世界を公と考えなければなりません。そして世界が公、仲間なのですから善は世界の為になることが善と考えなければなりません。世界の問題に日本が得するから善、損するから悪と考えることは間違いです。世界的問題においては日本という立場を忘れなければならないのです。世界的問題に日本の為とか考えてはならないのです。世界の問題は日本も世界各国も自国のことは忘れて世界みんなが仲間、世界人と考えなければならないのです。私欲を抑えて公の為とは日本という立場を抑える、忘れて世界の一員として世界の為にと考えなければならないのです。日本人はいなくて世界の人となっているのですから。ですから世界の問題は世界の為になることが善なのです。ですから世界の問題は相対善はありません。世界は一つなのですから。


 まさに《全体主義》的な意見ですね。shinwoodさんの「公理」に基づけば、こうなるのは解ります。でも、SumioBabaの「定義・公理」では、「善」=「自分や他人や公にとって利益をもたらす事・行為」ですから、そうならないのです。「公理」が違うのだから、結論が異なるのは当然ですね。問題は、どちらが好ましいと感じるかであり、人それぞれの好みや価値観で決まるものとなります。

>>米軍基地問題における総理大臣と沖縄県知事との関係が、まさにそれです。市長だったら自分の「市」を、村長だったら自分の「村」を最優先するのが当然です。それが職業的義務です。

>これも同じです。米軍基地問題は日本国民みんなの問題であり公は日本国民になります。日本国民全体の問題に沖縄人、東京人などと分けて考えてはなりません、すべて一つの日本人とならなければなりません。沖縄人も、東京人も沖縄、東京の為という私欲を抑え(つまり自分たちが沖縄人である、東京人であることを忘れ同じ日本人として)公(日本国民)の為と考えなければならないのです。市や村を国より優先して考えていたら国は存続できなくなります。国の問題は市や村を忘れて同じ日本人となって日本全体の為と考えなければなりません。沖縄知事も沖縄県人も無く、そういう私欲を忘れて日本人として日本の為にと考えなければならないのです。米軍基地問題は日本全体の問題ですから公は日本国民です。沖縄県人も沖縄の為という私欲を抑えて一日本国民として沖縄県人を忘れて日本みんなの為と考えなければならないのです。沖縄県民や各県民が自分の為だけを考えていたら正しい答えにはなりません。自分の利益を抑えて日本の為と考えなければならないのです。


 恐るべき《全体主義》ですね。「公理」自体は証明なしに定めるものですから、正しいとも間違いだとも言えません。要は、その「公理」に基づいて構成された「道徳体系」を、多くの人々が好ましいと考えて受け入れてくれるかどうか、です。shinwoodさんのようなアナクロニズム(時代錯誤)的な価値観を、今時支持する人がいるのでしょうか?

>また利己的遺伝子なんて忘れなさい、絶対善はそれを否定しています。皆さん他人であっても自分の身を顧みず助けているではありませんか。利己的遺伝子なんて大嘘であるとすぐ見破らなければなりません。


 自説に反するものは、科学の常識でも無視するのだから、shinwood教はまさに「宗教」そのものですね。遺伝子レベルで見てみると、すべての行為は利己的な選択だと判りますが、その方が世の中はうまくいくのです。「共産主義」のように、変に協力し合おうとしてもうまくいかず、「資本主義」として各個人が利益を追求した方が「(神の?)見えざる手」によってすべてうまくいく、というのと同じです。

>最後にもう一度書いておきます。基本的に善は自分の群れを保存するために作られたものであり他の群れに対してどうのこうのという性質はありません。ですから善はその群れ内の問題に対して機能するのです。仲間であれば自分の欲を抑えて公の為と考えることもできます。仲間なのですから、家族なのですからみんなが自分の欲を捨てて仲間の為にと考えることが出来ます。勿論本当に私欲を捨てることが出来るのは家族の為ぐらいでしょう。家族の仲間の為なら私欲を抑えて家族の為にと自分の欲を捨てられるかもしれません。

>ですがやはり日本国民も大きくは仲間なのです。どこかが大きな災害に見舞われたら各県の皆さんは自分のことは忘れて災害にあった県の為とみんな協力してくれます。それはやはり日本人は仲間だからです。仲間ならどこの県という私欲を忘れて一日本人となって私欲を忘れて日本の為にと考えることが出来るのです。しかし世界は基本的に仲間ではないのです。自国のことは忘れて一世界人となり世界の為にと考えられるでしょうか? やはり国際問題において世界各国は自国の利益ばかり主張しているのが現実です。

>このように世界は仲間となり切れないのです。勿論、世界が極限の状態、人類の危機ならば世界各国は私欲を忘れて公(人類)の為と考えなければならないのです。自国民が大きな損失をしようがそのことは忘れて一世界人として人類の保存の為にと考えなければなりません。しかしそんな人類の危機の時でさえ世界はきっと自国の利益を優先することでしょう。このように世界は基本的に仲間にはなれないのです。それでも日本などは日本が大きな不利益を損じようが世界の為と考えることが出来ることもあります。そのような国が増えなければ世界は仲間、公にはなかなかなれないのです。

>絶対善とは「私欲を抑えて公の為と考えること」の意味が分かっていただけたでしょうか?私欲を抑えとは自分を忘れてみんなと一体となり公の為と考えることです。そこには私はなく相対的なものはないのです、私公同一なのです。


 shinwoodさんの言いたい事も、解る部分は大いに有ります。実際、かつてSumioBabaはこうも書いています。→「いやいや、shinwoodさんの考え、絶対に正しいとは言えなくても、急所を突いててなかなか良いと思いますよ。今の世の中、「私」ばかり優先する人が多いので、もう少し「公」を優先する人が増えれば世の中もっと良くなるだろう、という点では大賛成ですね。」 http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-1693

 理想を言えば、「世界」全体が「公」となり、日本や韓国や北朝鮮や中国が、お互いを仲間だと認め合い、助け合える関係になれば良い、ですね。しかし現実を見てみると、現在の日本にとって韓国も北朝鮮も中国も、とても仲間とは言い難い不仲状態です。 >>253 で、shinwoodさんの論には矛盾が有りチェック・メイト、と書きましたが、shinwoodさんは、理想と現実との間に有る矛盾を真剣に見つめている証拠でもあるのでしょうね。

 何の迷いも無く《選択肢(1)》を選べれば、それが理想です。しかし、現実問題としては《選択肢(2)》を選びたくなってしまう、というのが本音でしょう。この矛盾をどうするか? 「日本」と「世界」のうち、できるだけ広い方の「世界」を「公」にせねばならない、と決め付け、他人にも押し付けてしまうのか? それとも、《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらを選ぶかは、やはり個人の自由に任せるべきなのか? …これからのshinwoodさんが考えるべき宿題にします。さらに深く考え尽くして下さい。

※警告に同意して書きこまれました (個人情報)
26日前 No.258

空の光 ★LVru9ICNXG_m9i

事象が起きた時。それはいくつかの観点の元にとらえられるのでしょうね。

二つのものが対立し合うとか補い合う場合。
A国とB国という両方の立場を同じく見るのは難しい。
どうしてもA国の立場による見方、B国の立場による見方が生じる。

絶対善という絶対的な見方は不可能だという事になる。
どちらの主観でみるか?
世界を主にした大きな観点からみてどうなのか。

A国の立場とB国の立場、どちらが世界的に見て善と見れるか。
どちらも世界的に見て、善にはとれない場合。
どちらも世界的に見て 善にとれる場合。
片方だけ世界的に見て、善にとれる場合。

この「善」という見方がくせ者なのだろう。
世界的に見た善でなく。
お互いの自国が善だと主張したら?
どちらも正しく見えるのが相対的善なのだろう。

国同士がどちらも善に見えてしまう。
絶対善なら答えは一つになるのだろう。
答えが複数出るのは、談義し合ってるどこかにかみ合わないものがある。

「これからの『正義』の話をしよう」を読むべきかな?

26日前 No.259

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「善人」とは「公の為になる行為」と「私欲」とが一致している人

 まず、SumioBabaの言う《人間の行動原理》=「人間が自由意志で自分の行動を選ぼうとするとき、自分にとって利益が最大になると思う行動を必ず選択する」が有ります。これは、すべての人間が縛られる法則であり、誰一人、逆らうことができません。

 一見、自分の利益が最大にならない行為を簡単に選べるように思うかもしれませんが、それは錯覚です。例えば自分の1万円札を燃やし、「ほら、自分の利益を最大にしない行為をして見せたよ」という人がいるかもしれません。でも本当はこの場合、1万円札を燃やす行為こそが、この人の利益を最も大きくする行為なのです。恐らくこの人は、《人間の行動原理》に逆らって見せたい!!という強力な願望を感じ、それを実行することに1万円以上の、例えば3万円くらいの価値を感じていたのです。1万円を燃やさなければ、この人の利益は0です。1万円を燃やすと、燃やした1万円は損しますが、その代わりに《人間の行動原理》に逆らって見せたという満足感として3万円の利益を得たのですから、合計すると+2万円です。燃やさないより燃やした方が得だから、燃やす方を選んだのです。本当は《人間の行動原理》には逆らえていないのに。

 マザー・テレサが、一見すると公の為に私欲を犠牲にしたかのように見える行為をしたとしても、これもまた例外ではありません。マザー・テレサは、そのような行為をしたいという私欲を満たしてそうしたのであって、実はそれこそが、最も私欲を満たせる行為だったのです。こう考えると、「私欲を抑える」ということは、原理的に不可能です。人間は常に、自分の私欲を最大限に満たせる行為を、必ず選ぶのですから。

 電車で若者が老人に席を譲るべきかどうか、迷っている状況を考えます。若者が座っている状態を0、老人が立っている状態を0、とします。若者が席を譲らなければ、両者の合計も0です。
 若者が老人に席を譲ったとします。若者は立たねばならなくなり、その身体的不利益を−30としましょう。老人は座れますが、その身体的利益はというと、+30ではなく、+100くらいあるのです。そこが、体力のある若者と、身体の弱い老人との違いです。合計すると+70。
 席を譲らなければ、合計は0でした。席を譲れば、合計は+70。個人の幸福ではなく、若者の幸福と老人の幸福の和を考えれば、明らかに席を譲った方が得です。

 これは、大金持ちと貧乏人との関係でも言えます。1兆円の財産を持つ大金持ちが100万円を失っても、殆ど損失感は無いだろうし、何も困らないでしょう。一方、貧乏人が100万円を得ると、ものすごく得をしたと感じるし、極めて有意義に使えるでしょう。つまり、個人の利益ではなく社会全体の利益を考えるなら、貧富の差を無くすだけで、社会全体の利益は増すのです。

 では、どうすれば若者は、老人に席を譲るようになるか? 若者の視点に立つと、自分が立つことによる身体的損失は−30でした。老人の視点に立つと、座ることによる身体的利益は+100でした。だから、席を譲らないよりも譲った方が、社会的幸福度は増すのでした。
 しかし、席を譲るか譲らないかを決める権利を持っているのは、若者の方です。若者の身体的利益だけでは、席を譲ると−30という損失になってしまうので、譲らない方が得になってしまいます。そこで問題は、老人が得る身体的利益+100のうち、何%くらいを、この若者が自分の精神的利益だと感じ取れるか、です。

 仮に若者は、「席を譲ってあげたい」という願望が生じ、それを実行することで「席を譲ってあげて良かった」という精神的満足感を感じ、それが老人の身体的利益+100の80%に達するとしましょう。すると若者は、若者の身体的損失−30の上に、この精神的満足感+80を得ることになり、合計+50です。席を譲らないときの0より上ですから、《人間の行動原理》に則って、席を譲ることになります。

 仮に若者は、老人に席を譲るときの満足感を、老人の身体的利益+100のたった10%くらいしか感じないとしましょう。若者は、自分の身体的損失−30の上に、この精神的満足感+10を加えても、合計−20です。席を譲らないときの0より下ですから、《人間の行動原理》に則って、席を譲らないことになります。

 結局、若者が老人に席を譲るかどうかは、老人が感じる身体的利益+100のうち、何%くらいを精神的満足感という形で、若者が自分の利益として感じ取れるか、に依存します。つまり、他人の喜怒哀楽を、何%くらい自分の喜怒哀楽だと感じ取れるか、ということです。

 《人間の行動原理》を考慮すると、「他人や公の為に私を犠牲にする」ということは有り得ません。なぜなら人間は、常に、自分の私欲を最大限に満たすことを最優先して、自分がどう行動するかを選択するのですから。では「善人」とはどういう人か? 「善人」とは、「「他人の喜怒哀楽」を「自分の喜怒哀楽」として感じることのできる人」となります。「善人」とは、「「他人や公の為になる行為」と「私欲」とが一致している人」です。「善人」とは、「私欲を抑えて他人や公の為に尽くす人」ではなく、「「他人や公の為になる行為」を「私欲」と感じて最優先できる人」です。

25日前 No.260

空の光 ★LVru9ICNXG_m9i

SumioBabaさん

好きで他人の為に尽くせる人は幸せだって事ですよね。
その通りだと思います。

でも、仮に嫌々座席を譲ったとします。
そこで、譲られた人が「ありがとう」と言ったとする。

そこには価値の変動があるかもしれません。
感謝された事に腹立てる人もいないとしてですけどね。

その感謝に対して「いえいえ」「いいんですよ」と返事をしたとします。
そこでまた価値が変動するかもしれません。

そうなったら最初の嫌々だった気持ちはどこへ?
吹き飛んでしまうかもしれません。

あくまでも仮定だから、嫌々ゆずる人がいるかどうか?
ちょっと分かりませんけどね。

言葉の魔術は使ってみる価値あり。

25日前 No.261

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_tVR

SumioBabaさん

あなたにとってこれで最後になるでしょうね。まあ、最後まで理解してくれませんでしたね、残念です。しかし私の絶対善を広めるにはあなたのような人も納得させねばならないのですから大変ですw

>>254    >shinwoodさんの《絶対主義》は、日本にとってさえ「善」であれば、A社、B社にとっては「悪」でも構わない、と判断するのでしょう? 「公」(日本)の為に「私」(A社、B社)を犠牲にするのが、貴方のいう「善」でしたよね。
 SumioBabaの《相対主義》は、A社(私)、B社(私)、日本(公)すべての視点に立ってみて、それぞれの善悪を考慮し、最も優れた選択肢はどれかを考えます。「公」も「私」も利益を得るのがSumioBabaの「善」であり、shinwoodさんの「善」とは違って、「私」を犠牲にする必要は無いし、「私」を犠牲にしてはいけません。<

私の善の定義は大げさに言えば、私を犠牲にしようが公(群れ)の為になることが善なのだということです。何故なら群れを守る事こそが絶対的に正しい事なのですから。勿論私を犠牲にしなくていいならそれがいいかもしれませんが私か、公かのどちらかを選ばなければならない時はどうするのですか? 次のような問題はあなたならどうしますか?

「アメリカの映画でありました。アフリカの奥地のサルを輸入したら、これが伝染病にかかっていました。極めて伝染力が強く治療法がなく、かかったら必ず死亡する伝染病です。これがある町全体に瞬く間に蔓延しました。大統領は、米国全体を救うために、町を封鎖したうえで、町の住人10万人程度もろとも核爆弾で病気を抹消しようと決断しました。大統領は1つの町より合衆国全体を優先したのです」

上記の例を世界に広げて考えてみれば、例えば日本にとても感染力の強い伝染病が広がりました。その伝染病に掛かれば数日で死んでしまうようなすごい伝染病です。その強力な伝染病が日本中に広がり多くの人がバタバタと死んでいます。この時世界はどうするであろうか、この伝染病が他国に広がれば全人類が死滅してしまうだろう。緊急を要する、さて世界はどのような決断を下すだろうか。前の問題では大統領は町を核で全滅させ全米の人を救った。そうであれば今度の問題は日本に核を打ち込み日本人もろとも絶滅させるしかないであろう。この時日本の総理大臣も世界の為に日本に核を打ち込むことを要請しなければならない。日本国民も意を決して世界の為に日本に核を打ち込むことを容認しなければならないのだ。これこそが私欲(日本の為)を抑えて公(世界)の為と考えること、なのである。常に正しいことは公の為と考えなければならないのだ。もし日本人が私欲を出し、世界が日本に核を打ち込むなら日本も全世界に核を打ち込むぞ!なんてやったら人類の破滅です。理想主義だと言われるかもしれませんがそれこそが正しいのです。小善は大悪に似たり、大善は非情に似たりなのです。孔子が正しいのです。

常に正しいことは「私欲を抑え公の為と考えること」なのです。それこそが一番群れを保存できる最善の方法なのです。これ以上のものはないのです。大自然はそのことを知っており、人間にも本能として善、良心を与えました。私たち人間も動物であり、大自然の意に沿うことこそが絶対善なのです。


>>258  >「親戚の家族を助けたくない人」は、「公」を「家族」のままにし、「これこそが公(家族)のためであり、善である」と言えます。「親戚の家族を助けたい人」は、「公」を「家族+親戚」に拡張し、「これこそが公(家族+親戚)のためであり、善である」と言えます。どちらの場合も「これこそが公のためであり、善である」言えてしまうようでは、どちらが善なのかを決められません。<

そういう考えこそが相対主義であり、自分さえ良ければそれでいいという人ですね。アメリカの一部の金持ちは自分たちさえ良ければ他人の不幸せなど、どうでもいいという人達です。ですからそれが正しいのか?という疑問から絶対善を探したのです。
親戚の子供が飢えているのに俺は知らないという答えが在るのですか? 新たな問題が発生したのですから今まで家族が公でしたが、今度は飢えた家族も含めて公と考えることが公の為、みんなの為という意味です。みんなが幸せでなければ自分の幸せもないのです。新しい問題が発生したのですから家族を公とすることはできません。それは私欲で悪です、公の為に、群れの為になりません。みんながそれなりの幸せでいることが善なのです。


 >「個人の命より群れ全体の命を守る事がより大切である。」が、shinwood教の「公理」(証明なしに真だと仮定する命題)なのでしょうね。これはまさに《全体主義》です。SumioBabaはそれを受け入れていません。といって、SumioBabaは《個人主義》でもなく、両方をバランスよく満たすことを理想とします。<

私は個人の考えを言っているのではなく絶対善を言っているのです。「SumioBabaは《個人主義》でもなく、両方をバランスよく満たすことを理想とします」その両方をバランスよく満たすことが「私より公を優先すること」みんなでみんなの為にどうするのかと各自私欲を抑えてみんなの為になる一番いい答えを見つけ出そうとするのが絶対善です。しかし私か公か、どちらかを選ばなければならない時は公を優先しなければならないのです。


>前にも挙げましたが、税金が解り易い具体例です。「私」ばかりを優先して、税金を1円も払わないというのでは、「公」が成立しません。年収の100%を税金として払えと言われたら、「私」としての生活ができません。実際には中間を採り、年収の20%くらいを税金として「公」のために払い、80%くらいを「私」のために使い、これで「公」も「私」も両立しています。<

ですから常識的にみんなで話し合えば正しい税制に辿り着けるでしょう。誰が年収の100%を税金として払え!というのですか。常に私欲を抑え公の為と考えることが正しい税制になるのです。何事においても「私欲を抑え公の為」と考えることがうまくいくのですよ。
日本の国民健康保険は世界でも優れた保険制度だと言われています。これも日本人みんなが仲間と思っているからできることです。高給取りも不満はあれども私欲を抑えてそれで妥協しようとなって今の日本の優れた保険制度になったのです。これも私欲を抑えて公の為と考えたからこそ一番いいものが出来たのです。しかしアメリカ人は国民を仲間と思っていませんから私欲を抑え公の為ができないのです。しかし彼らも家族なら仲間と思っているから私欲を抑え家族の為にと考えられるでしょう。このように仲間と思えるかどうかが善の定義の決め手です。ですからどうしても最大の仲間は国民になると言っているのです。世界は仲間にはなれません。しかしSumioBabaさんは日本人でありながら日本人は仲間とは思えないようですね。残念です。


>要は、その「公理」に基づいて構成された「道徳体系」を、多くの人々が好ましいと考えて受け入れてくれるかどうか、です。shinwoodさんのようなアナクロニズム(時代錯誤)的な価値観を、今時支持する人がいるのでしょうか?<

なかなか難しいですが私の言うことが正しく絶対善ですからやがて分かってくれると思います。時代錯誤ではなく大自然が作り上げた真理であり普遍的な思想なのです。絶対的なのです、間違いはないのです。あなた達が言うのは小善ですから大悪に繋がります。私の善は大善であり非情なところもありますが正しいのです。


> 何の迷いも無く《選択肢(1)》を選べれば、それが理想です。しかし、現実問題としては《選択肢(2)》を選びたくなってしまう、というのが本音でしょう。この矛盾をどうするか? <

矛盾があり世界がうまくいかないからその矛盾の解消の為、絶対善を考え見つけたのです。絶対善で考えれば矛盾は解決します。


>「日本」と「世界」のうち、できるだけ広い方の「世界」を「公」にせねばならない、と決め付け、他人にも押し付けてしまうのか? それとも、《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらを選ぶかは、やはり個人の自由に任せるべきなのか? …これからのshinwoodさんが考えるべき宿題にします。さらに深く考え尽くして下さい。<

それは私の宿題ではなく、あなたの宿題です。どちらを選ぶか個人の自由に任せていたらいつまで経っても相対主義で争いが絶えません、俺の方が正しい!と言って。今までのままではダメなのです、変わらなければ。ですからどちらが正しいのかを私が絶対善で示しているのです。私欲を捨てて公の為と考えなさい、自分の欲を忘れて考えなさい。そうしなければいつまで経っても世界から争いがなくなることはありません。
絶対的に正しいことはその群れを存続させることであり、その為に最も優れた方法が私欲を抑えて公の為と考えることなのです。これは生物界における絶対的な真理です。


>>260    >まず、SumioBabaの言う《人間の行動原理》=「人間が自由意志で自分の行動を選ぼうとするとき、自分にとって利益が最大になると思う行動を必ず選択する」が有ります。これは、すべての人間が縛られる法則であり、誰一人、逆らうことができません。<

これこそSumioBaba教です。何の説得力もありません。そしてあなたがここで言う善行為はすべて理性で考えられたものです。善は本能が基本なのです。プラス、マイナスなどの考えは止めた方がいいです。

ついにあなたには理解してもらうことが出来ませんでした、私の力不足です、すみませんでした。お気をつけて旅をしてください。そしてまた必ず帰ってきてくださいね。



>>257   mild7さん

あなたは何を言いたいのか私はさっぱり分かりません。誰か分かる人は答えてあげてください。


>>259   空の光さん

>お互いの国が善だと主張したら?どちらも正しく見えるのが相対的善なのだろう。<

ですから世界的な問題は世界を公、仲間と考えれば善の定義が応用できます。アメリカは原爆投下は善だという、日本は悪だという。それではどちらが正しいのか私欲を抑え、つまりアメリカ人、日本人という立場を忘れてみんなで世界の為にと考えればいいのです。
だいたい多くの兵士が救われたのだから原爆投下は正しいというなら今後は初めから原爆を使えば多くの兵士は死ななくていいではないか。その代わり一般国民が大勢死ぬ。こういうバカらしいことをアメリカは言っているのです。ですからテロリストたちは初めから原爆を使ってアメリカを壊滅させればいいのです。アメリカもその方が正しくてお互いの兵士が死ななくていいと言っているのですから。

>「これからの『正義』の話をしよう」を読むべきかな?<

あなたが読んで何か分かりましたか、教えてください。彼は正義とは何か分かっていませんから読むつもりはありません。

25日前 No.262

地下水 ★KATHFaYqOw_tVR

shinwoodさん、群れを至上とする事なんかは、善とは全然違いますよ。原始的な生物の生活の在り方です。

25日前 No.263

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>261  空の光さんへ

>好きで他人の為に尽くせる人は幸せだって事ですよね。

>その通りだと思います。

>でも、仮に嫌々座席を譲ったとします。

>そこで、譲られた人が「ありがとう」と言ったとする。

>そこには価値の変動があるかもしれません。

>感謝された事に腹立てる人もいないとしてですけどね。


 これは素晴らしいご意見です。「いいね!」を10個あげても足りないくらい。案外、このへんに解決方法が有るのかもしれませんね。いきなり綺麗事を言われても、人間なかなか従えません。そこで、初めは「嫌々ながら」でも良いから、騙されたと思って座席を譲ってみる。そうしたら、相手は「ありがとう」と喜んでくれた。この時、初めて相手の気持ちになって考えることができるようになる。

>その感謝に対して「いえいえ」「いいんですよ」と返事をしたとします。

>そこでまた価値が変動するかもしれません。

>そうなったら最初の嫌々だった気持ちはどこへ?

>吹き飛んでしまうかもしれません。


 その通りです。むしろ「嫌々ながら」座席を譲っていた自分が恥ずかしくなり、老人に座席を譲ることが、自分の喜びに変わるのですね。そうやって人間は、少しずつ成長していくのかもしれません。

25日前 No.264

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>262  shinwoodさんへ

 これが最後になります。

>私の善の定義は大げさに言えば、私を犠牲にしようが公(群れ)の為になることが善なのだということです。何故なら群れを守る事こそが絶対的に正しい事なのですから。勿論私を犠牲にしなくていいならそれがいいかもしれませんが私か、公かのどちらかを選ばなければならない時はどうするのですか? 次のような問題はあなたならどうしますか?


 SumioBabaの考え方は、「「私」を優先するか「公」を優先するか、法律に反しない限り、どちらを選ぶかは個人の自由であり、「思想の自由」が保証されるべきであって、自分の思想を他人に押し付けてはならない。」です。

>「アメリカの映画でありました。アフリカの奥地のサルを輸入したら、これが伝染病にかかっていました。極めて伝染力が強く治療法がなく、かかったら必ず死亡する伝染病です。これがある町全体に瞬く間に蔓延しました。大統領は、米国全体を救うために、町を封鎖したうえで、町の住人10万人程度もろとも核爆弾で病気を抹消しようと決断しました。大統領は1つの町より合衆国全体を優先したのです」

>上記の例を世界に広げて考えてみれば、例えば日本にとても感染力の強い伝染病が広がりました。その伝染病に掛かれば数日で死んでしまうようなすごい伝染病です。その強力な伝染病が日本中に広がり多くの人がバタバタと死んでいます。この時世界はどうするであろうか、この伝染病が他国に広がれば全人類が死滅してしまうだろう。緊急を要する、さて世界はどのような決断を下すだろうか。前の問題では大統領は町を核で全滅させ全米の人を救った。そうであれば今度の問題は日本に核を打ち込み日本人もろとも絶滅させるしかないであろう。この時日本の総理大臣も世界の為に日本に核を打ち込むことを要請しなければならない。日本国民も意を決して世界の為に日本に核を打ち込むことを容認しなければならないのだ。これこそが私欲(日本の為)を抑えて公(世界)の為と考えること、なのである。常に正しいことは公の為と考えなければならないのだ。もし日本人が私欲を出し、世界が日本に核を打ち込むなら日本も全世界に核を打ち込むぞ!なんてやったら人類の破滅です。理想主義だと言われるかもしれませんがそれこそが正しいのです。小善は大悪に似たり、大善は非情に似たりなのです。孔子が正しいのです。


 「日本に核を打ち込み日本人もろとも絶滅させる」にYESかNOかの二者択一だとします。SumioBabaの意見は、「誰もがYESまたはNOの好きな方を支持して良い」です。
 日本人の中にも、両方が現れると思います。「残念だが、我々日本人だけが犠牲になれば他の国々は助かるのだから、日本が犠牲になろう。YES。」と考える人。「納得できない。日本人が全員死ぬとは限らないのだから、日本は日本だけで、できるだけ生存者を多く残すよう努力する権利があるはずだ。NO。」と考える人。
 外国人の中にも、両方が現れると思います。「日本人には気の毒だが、ここは犠牲になってもらうしかない。YES。」と考える人。「日本人が少しでも生き残る可能性が有る以上、同じ人間どうして、自分が生きるために他人を犠牲にしてはいけない。NO。」と考える人。
 どちらか一方に確定させねばならないようであれば、民主主義社会である以上、多数決で決めることになるでしょうね。
 SumioBabaの考え方の要点は、「YESかNOかは人間個人個人で好きな方を選んで良い」という点です。shinwoodさんのように《全体主義》を採り、「公のためになら私を犠牲にせねばならない」という考えを唯一絶対に正しいと決め付け、それを他人にまで押し付けるのには、反対です。

 例えば乳がんで、全摘手術をしないと余命半年というとき、shinwoodさんは、「命を救うため、乳房全摘手術をせねばならない」と強要している医者ですね。SumioBabaは、「乳房全摘手術も1つの方法ではあるが、他にもいろいろ方法は有り、どれを選ぶかは患者に任せる」といった感じです。

>常に正しいことは「私欲を抑え公の為と考えること」なのです。それこそが一番群れを保存できる最善の方法なのです。これ以上のものはないのです。大自然はそのことを知っており、人間にも本能として善、良心を与えました。私たち人間も動物であり、大自然の意に沿うことこそが絶対善なのです。


 ヒトラーになっていますよ。

>そういう考えこそが相対主義であり、自分さえ良ければそれでいいという人ですね。アメリカの一部の金持ちは自分たちさえ良ければ他人の不幸せなど、どうでもいいという人達です。ですからそれが正しいのか?という疑問から絶対善を探したのです。


  >>260 に書いた通り、人間は誰もが《人間の行動原理》=「人間が自由意志で自分の行動を選ぼうとするとき、自分にとって利益が最大になると思う行動を必ず選択する」に縛られるので、「皆さん、私欲を犠牲にして公の為に尽くしましょう」なんて言っても、全く無意味だし、原理的に不可能です。shinwoodさんの「公の為に私を犠牲にせよ」は、法則に反しています。重力に引かれて下に落ちていく雨水に、「下から上に上がりましょう」と言ったところで、物理法則には逆らえません。雨水を上に上げるためには、バケツに入れて持ち上げるなど、上向きの力が必要です。「善」を実現するためには、 >>260 に書いた通り、「私欲を犠牲にして公の為に尽くしましょう」ではダメで、「公の為の行為」が「私欲」と一致する人間になる必要が有ります。

>親戚の子供が飢えているのに俺は知らないという答えが在るのですか? 新たな問題が発生したのですから今まで家族が公でしたが、今度は飢えた家族も含めて公と考えることが公の為、みんなの為という意味です。みんなが幸せでなければ自分の幸せもないのです。新しい問題が発生したのですから家族を公とすることはできません。それは私欲で悪です、公の為に、群れの為になりません。みんながそれなりの幸せでいることが善なのです。


 理想は、「公」を「家族」から「家族+親戚」に拡張することかもしれませんが、人それぞれの価値観によって、できる場合とできない場合があるのです。
 貴方だって、 >>237 の問題で、「公」を「日本」から「世界」へ拡張するのが理想だとは説明しつつ、現実にはできないと言っているではないですか。

>私は個人の考えを言っているのではなく絶対善を言っているのです。「SumioBabaは《個人主義》でもなく、両方をバランスよく満たすことを理想とします」その両方をバランスよく満たすことが「私より公を優先すること」みんなでみんなの為にどうするのかと各自私欲を抑えてみんなの為になる一番いい答えを見つけ出そうとするのが絶対善です。しかし私か公か、どちらかを選ばなければならない時は公を優先しなければならないのです。


 貴方の定義に基づいた「絶対善」について言っているのでしょう? SumioBabaは、そんな定義、受け入れていないですよ。
 shinwoodさんは「私か公か、どちらかを選ばなければならない時は公を優先しなければならない」ですね。でも本当は、「公」と「私」の好き勝手な方を選んでいて、「私」を選んだときはそれを「私」と呼ばず、「この場合はこれが「公」だ」と誤魔化すだけです。
 SumioBabaはそんな誤魔化しはせず、「私か公か、どちらかを選ばなければならない時は、どちらを選ぶかは個人の自由(もちろん、法律に反しない限り)」です。

>日本の国民健康保険は世界でも優れた保険制度だと言われています。これも日本人みんなが仲間と思っているからできることです。高給取りも不満はあれども私欲を抑えてそれで妥協しようとなって今の日本の優れた保険制度になったのです。これも私欲を抑えて公の為と考えたからこそ一番いいものが出来たのです。しかしアメリカ人は国民を仲間と思っていませんから私欲を抑え公の為ができないのです。しかし彼らも家族なら仲間と思っているから私欲を抑え家族の為にと考えられるでしょう。このように仲間と思えるかどうかが善の定義の決め手です。ですからどうしても最大の仲間は国民になると言っているのです。世界は仲間にはなれません。しかしSumioBabaさんは日本人でありながら日本人は仲間とは思えないようですね。残念です。


 「世界は仲間にはなれません」も、shinwoodさん個人の価値観に過ぎないのですよ。日本人の中にも、「世界全体が仲間だ」と考える人は大勢います。SumioBabaは、両方を半々で支持するし、片方だけが正しいなどとは断定しません。shinwoodさんは、ここでも自分の考え「世界は仲間にはなれません」だけを正しいと主張し、反対意見「世界全体が仲間だ」は間違いだと決め付けるのでしょう?

>> 何の迷いも無く《選択肢(1)》を選べれば、それが理想です。しかし、現実問題としては《選択肢(2)》を選びたくなってしまう、というのが本音でしょう。この矛盾をどうするか?

>矛盾があり世界がうまくいかないからその矛盾の解消の為、絶対善を考え見つけたのです。絶対善で考えれば矛盾は解決します。


 それが、何も解決になっていない事がバレたではないですか。貴方は、ある時は《選択肢(1)》を主張し、またある時は《選択肢(2)》を主張し、平気で矛盾した事を言っているのです。それでいて、「公」を「世界」にしたり「日本」にしたり、都合の良い方を選ぶことにより、《選択肢(1)》のときも《選択肢(2)》のときも、「これこそが公のためであり、善である」と言ってしまうだけです。

>>「日本」と「世界」のうち、できるだけ広い方の「世界」を「公」にせねばならない、と決め付け、他人にも押し付けてしまうのか? それとも、《選択肢(1)》と《選択肢(2)》のどちらを選ぶかは、やはり個人の自由に任せるべきなのか? …これからのshinwoodさんが考えるべき宿題にします。さらに深く考え尽くして下さい。

>それは私の宿題ではなく、あなたの宿題です。どちらを選ぶか個人の自由に任せていたらいつまで経っても相対主義で争いが絶えません、俺の方が正しい!と言って。今までのままではダメなのです、変わらなければ。ですからどちらが正しいのかを私が絶対善で示しているのです。私欲を捨てて公の為と考えなさい、自分の欲を忘れて考えなさい。そうしなければいつまで経っても世界から争いがなくなることはありません。


 そんなことはなくて、《相対主義》こそが一番良い方法なのですよ。人それぞれ価値観は異なるのだと素直に受け入れ、だからこそみんなの意見を尊重し、最終的には多数決で決める、…これが理想的な民主主義です。shinwoodさんの《絶対主義》は、自分の考えだけが唯一絶対に正しいと思い込み、他人にまで押し付け、「思想の自由」を否定しています。「公の為に私を犠牲にせよ」も、実現不可能な絵に描いた餅です。


 最後まで意見は一致しませんでしたが、その方が良いでしょう。shinwoodさんとは、思いっきり殴り合える遠慮の要らないスパーリング・パートナーのようなもので、ある意味、一番の親友だったのかもしれませんね。shinwoodさんとの続きをやりたくなって、またすぐ戻って来るかもしれません。その時はよろしくお願い致します。

25日前 No.265

空の光 ★LVru9ICNXG_m9i

shinwoodさん

>ですから世界的な問題は世界を公、仲間と考えれば善の定義が応用できます。アメリカは原爆投下は善だという、日本は悪だという。それではどちらが正しいのか私欲を抑え、つまりアメリカ人、日本人という立場を忘れてみんなで世界の為にと考えればいいのです。<

うんうん、それぞれが世界という大きな観点で見た自分たち。。。
公だとか私欲だとかも超えられたら。
座席を譲るというのとはまた違いますが。

真に困っているのは誰か?自分の悩みは誰に問うか?
そんな思いをお互いが理解し合えたら・・・
国同士の諍いごとを解決しあえた事への感謝。

相手が自国の思いを分かってくれた・・・
そこから自国も、相手に対して何かできる事はないか?
そんな悩みなら、私たちが解決しましょうと第三者が現れるかも?

個人を国に置き換えるのは難しいかもしれませんが。。。
それでも、お互いが好きな国だと思えるようになればまた違うかな?

24日前 No.266

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_tVR

>>263    地下水さん

>shinwoodさん、群れを至上とする事なんかは、善とは全然違いますよ。原始的な生物の生活の在り方です。<

仕方ないのです、あなたにはその巡り合わせがまだないのです、巡り合わせがある時までじっと待つしかありません。




SumioBabaさん

  >>264   >その通りです。むしろ「嫌々ながら」座席を譲っていた自分が恥ずかしくなり、老人に座席を譲ることが、自分の喜びに変わるのですね。そうやって人間は、少しずつ成長していくのかもしれません。<

嫌々ながらでもいいのです、誰でも聖人ではないのですから。自分も疲れている、出来れば変わりたくないという私欲を少し抑えて、公の為と考えなさいと言っているのです。


>>265     >「日本に核を打ち込み日本人もろとも絶滅させる」にYESかNOかの二者択一だとします。SumioBabaの意見は、「誰もがYESまたはNOの好きな方を支持して良い」です。<

あなたは直ぐ条件を変えて反論するから困る。全員死ぬとは限らないってそんな悠長なことではなく猛威を振るってもうどうしようもない状態なのです。早くしないと日本から逃げ出す人もいるかもしれない、一刻の猶予もない状態なのです。日本にいる人たちを絶滅しなければ全世界が絶滅するという状態なのです。選択肢なんてありません、公の為に私を犠牲にするしかないのです。あなたはいつも小善をいい大悪を招き、私はいつも大善をいい非情であれど大義を貫くのです。


>shinwoodさんのように《全体主義》を採り、「公のためになら私を犠牲にせねばならない」という考えを唯一絶対に正しいと決め付け、それを他人にまで押し付けるのには、反対です。<

あなたは私の善の定義を全体主義といって悪者にしようとしますが私の言う絶対善は私欲を抑え公の為と考え行う事です。私より公を優先できるのは相当な人格者でないとできません、そして公の為と考えると言うことはその群れのトップの立場に立って考えると言うことなので、とても責任感が強くなければならないのです。絶対善、これこそが理想の民主主義です。国民一人一人が人格者であるのは理想ですが私が言っているのは最高の善だから仕方がないのです。勿論現実的には私欲の強い人もいるでしょうし無責任な人もいるでしょう、しかしそれではなかなか正しい答えには辿り着けないということです。群れを存続させるために一番良い答えを得るためには最高の方法(絶対善)で考えなければならないのです。


 >例えば乳がんで、全摘手術をしないと余命半年というとき、shinwoodさんは、「命を救うため、乳房全摘手術をせねばならない」と強要している医者ですね。SumioBabaは、「乳房全摘手術も1つの方法ではあるが、他にもいろいろ方法は有り、どれを選ぶかは患者に任せる」といった感じです。<

「命を救うため、乳房全摘手術をせねばならない」と強要したりしません。私はただ私欲を抑え公の為と考えなさいと言うだけです。乳房を摘出するのは嫌というのは本当にみんなの為なのか?と考えればいいのです。


>ヒトラーになっていますよ。<

貴方から見ればヒトラーでしょうが神様から見れば良識人でしょうな。


>「人間が自由意志で自分の行動を選ぼうとするとき、自分にとって利益が最大になると思う行動を必ず選択する」に縛られるので、<

そんな宗教に縛られないでください。私の絶対善こそ大自然の意に沿った理法なのです。


>貴方だって、 >>237 の問題で、「公」を「日本」から「世界」へ拡張するのが理想だとは説明しつつ、現実にはできないと言っているではないですか。<

何度言っても分からない人ですね。仲間内ならできるが仲間でないなら難しいというのは何の矛盾もありません。


>でも本当は、「公」と「私」の好き勝手な方を選んでいて、「私」を選んだときはそれを「私」と呼ばず、「この場合はこれが「公」だ」と誤魔化すだけです。<

ごまかしたりしていません。あなたがまだ理解できていないだけです。公と私は自然と決まってしまうのです、私が勝手にはできません。


 >「世界は仲間にはなれません」も、shinwoodさん個人の価値観に過ぎないのですよ。日本人の中にも、人は大勢います。<

現実的に見ても歴史的に見ても国際問題は各国の利益の取り合いです。仲間とはいわゆる家族のようなものです。母が子に対する愛です。「世界全体が仲間だ」と考えるのは絶対に無理です。あなたは甘い、甘すぎる、小善の人です。大悪を招きます。残念ですがリーダーにはなれません。


 >そんなことはなくて、《相対主義》こそが一番良い方法なのですよ。人それぞれ価値観は異なるのだと素直に受け入れ、だからこそみんなの意見を尊重し、最終的には多数決で決める、…これが理想的な民主主義です。<

相対主義では現在のままです。ちっとも良くなりません。何故なら正しいとは何かが分からないからです。いいですか相対主義者のソフィストたちは「絶対善はある」と言うソクラテスにコテンパンにやられたのです。歴史は絶対善が正しいと証明しています。いい加減認めなさい。いかなる問題においても私の善の定義は間違うことはありません。イギリスも暗号解読を守る為に数千人の市民を犠牲にしたのです。孔子の言う小善は大悪に似たり、大善は非情に似たりも絶対善に合致します。絶対善が真実なのです。
もう私はあなたを説得する方法を思いつきません。何か良い補助線はないものか。誰か教えてくださいw





>>266   空の光さん

>個人を国に置き換えるのは難しいかもしれませんが、それでも、お互いが好きな国だと思えるようになればまた違うかな?<

甘い、あなたも甘すぎる、なるほどこれを甘ちゃんというのか。国際関係の厳しさを全く分かっていない。あなたはまるで夢想家の共産党のようだ。あなたを説得するのはSumioBabaさんとちがう意味で大変そうだw

24日前 No.267

空の光 ★LVru9ICNXG_m9i

>>267

shinwoodさん

説得するのは難しいですか。褒め言葉だと思わせてもらいます。
夢想家・・・夢がイメージがある。それは話が膨らんでいいかなと。
膨らんだ話の中に、これだという光るものがあればいいな。
自分は夢をばらまくから、だれか実現できそうという人いないかな。

でも、確かshinwoodさんに結構結構と言われる部分もあった。
決して不可能ではないかな。歩み寄るのは。
科学、哲学、道徳、宗教・・・どれかを通して。

24日前 No.268

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Hhd

あらあら、絶対善が消えてしまいそうだよ。もう言いたいことは大体言ったから新たに書くこともないのだが、一つ言わしてもらえれば善、正しいも分からずに哲学をやったと言えるのかい? 「存在論、私とはないか?」なども哲学かもしれないが、「では正しいとは何ですか?」と聞かれても皆さん分からない。おいおい笑っちゃうぜ。それじゃ〜世の中の事、何にもわからないってことじゃないのかい、子供たちに対して恥ずかしくないのかい、何を今まで考えてきたんだい、哲学屋さんたちww

さてもう一度皆さんにも分かり易く絶対善を説明してみようかな。
正しいを辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致しているさま」と書いてある。いいかい、絶対的に正しいものがあってそれに合致しているから「自分の考えは正しい」って言えるんだよ。例えば犯人が残していった血痕のDNAがある。これが絶対的に正しいものだ。このDNAと合致しているDNAを持っていればそいつが殆ど犯人で間違いない、つまり正しいとなるだろう。このように「絶対的に正しいもの」と合致しているから「正しい」と言わなければならないんだ、わかるかい、このことをしっかり頭に入れとくれ。

ところが人に関する問題、道徳的正しさには絶対的に正しい事、つまり絶対善はないと信じられている。ゆえに社会的問題に関しては「正しいは人それぞれ」だと言いやがる。自分が考えた意見が正しいと言い張る。これはだな、上記の例に当てはめれば「俺が犯人だと思ったやつが犯人なのだ、絶対的証拠などいらない」と言っているのと同じなのよ、これは恐ろしいことだよ、ヒトラーだよ。だから俺は「お前は命を懸けても自分が正しいと言えるのか? 人の命が掛かってるんだぜ!」と反論すれば「命を懸けるなんて軽々しく使うものではありません、そんなことを言っていたら命がいくつあっても足りません、命を懸けるなんて論理的に間違っています」なんてバカな論理屋は言い訳をしやがる、なんて無責任な野郎なんだ。

いいかい、私たちは神ではないんだよ「自分の考えたことが正しい」なんていい加減幼稚な考えは捨てろよ。道徳的正しさも「絶対的に正しいもの」に合致して初めて「自分の考えは正しい」」と言わなければならないのだ。別に善の言い方は何でもいい、私が絶対善というのは生物が存在する限り永遠に続くものだからそう言っている。絶対善が嫌なら最高善でもいいし共通善でもただの善でもいいんだよ。とにかく絶対善でなくても最低でも私たちが最も正しいと思えるもの「最高善」に合致しているから「自分の意見は正しいのだ」と言おうではないか。それが矜持というものだよ。

さて私たち日本人にとって最も大切なものはなにか?それは決まっている。日本国民の生命と財産を守る事だ。これ以上に大切なものはない、これは常識なのだ。国の治安がいいことは世界のみんなが最も求めるものだ。平穏で秩序があり、子供達も安心して遊べる、これこそが善の意味である「誰もが望むもの、誰もが求めるもの、誰もが善いと思えるもの」だよ。つまり最高に正しいこと、最高善は社会の安寧秩序を守る事なのだよ。これが世界に共通する共通善だよ。それでは社会の安寧秩序を守る為に最も正しい方法、行為は何かといえば、それは「思いやり」なんだよ。何故、日本はこんなにも秩序があるのかわかる?それは日本社会の中に仲間意識があり、世界に比べてお互いに思いやりを持っているからだ。大災害が起こっても日本だけは秩序が守られ、みんなが思いやりをもって助け合って暴動も起きない、世界はこれに驚愕するのだ、世界の人々がどれだけ日本人を羨ましがっていることか。

いいかい、これを見ても分かるように思いやり、つまり私の見つけた善の定義「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」こそ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法なのだよ。じゃ、なぜ世界は秩序がないのか?それは仲間意識が薄いからだ、仲間意識が強ければ他人であっても思いやりが持てる、つまり家族のように思えば他人に対して思いやりが持てるんだよ。そうなれば「私より公を優先すること」が出来るんだよ。あんたたちは日本人に対して仲間意識が薄いから「善とは公の為」と言っても理解が出来ないのだ。日本人は天皇のもとみんなが家族なのだ、仲間なのだ。ここに天皇制の偉大さがある。善、思いやりの源泉なのだよ、天皇は。天皇がいなくなれば日本人はみな家族という神話が崩れてしまうだろう。そうなれば日本も他国と同じようになっていくだろう。

だいたい善という感情「思いやり」は仲間の群れを守る為に出来あがったのだよ。当たり前だろう、本能が善でなく悪なら群れは滅んでしまう、善とは群れを存続させることなのだから本能は絶対的に善なんだよ。群れがうまくいくために善はあるのだ、ミラーニューロン(共感能力)なんて働きも群れを維持するために出来たのだよ。全ての感情も群れがうまくいくために作られてきたのよ。いいかい、善は何も人間様が作り上げたものでも何でもない、免疫機能もそうであり生物たちが作り上げたものを我々人間も受け継いでいるだけだ。善に関して人間の出る幕などないのだ。但し本能的正しさ、善を基として人間の理性で考えられた法や規範、ルールもある。これを正義なんて言っているのだろう。私たちが正しいと言っているのは本能的正しさと理性で作った正しさを含めてのものだろう。善は主観的であり、正義は客観的であるなんて言うのはバカげた意見である。

善を辞書で引けば「道徳的に正しい事、またそのような行い」と書いてある。だから善は事と行為がある。ゆえに最高に正しい“事”は社会の安寧秩序を守る事、みんなの安心、幸せを守る事、つまり公(みんな)の為だ。そして最高に正しい“行為”が「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」なのだよ。
だから、あらゆる社会的問題を考えるときには最高善の「社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公の為」に合致している答えが正しいとなるのだ。だから正しい議論はどちらが最高善に合致しているのかと議論すればいいのだ、正反合の議論なんてできるものか。そして正しい答えを考える時、最も正しい方法が「私より公を優先すること」なのだ。もう少し分かり易く言えば「みんなが私欲を少しでも抑えて、出来れば自分の事を忘れて公の為とみんなが考えること」なのだよ。これは最高の方法を示しているので現実的ではないと反発するかもしれないが、できるだけ私欲を抑えて公の為と考えなければ最も正しい答えにはたどり着けないのです。みんなが私欲をもって考えれば正しい答えには絶対に辿り着けません。みんなが私欲を抑えれば抑えるほど、つまりみんなが人格者に近くなるほど正しい答えに近づいていくのだ。善である最も正しい事は目的であり、最も正しい行為が手段である。群れが最もうまくいくため(目的)には、愛や思いやりを持つこと(手段)なのだよと大自然は教えているのです。

結論としてあらゆる社会的問題を考えるときには最高善である「みんなの幸せ、公の為」に合致する答えが正しいのである。公の為に合致しない答えなどそもそも答えではない。核問題は日本では核廃絶が絶対に正しいとなっている。そうではなく国民の安寧秩序を守れることが本当に正しい答えなのだ。核を持つ方が日本の為であれば核を持つことが正しいとなるのである。最高善が分かったのであるから核問題や憲法改正問題、教育問題などなどあらゆる社会的問題はもう一度初めから考え直さなければならないのです。そうすれば今度こそ本当に正しいものが創れます。
皆さんも善とは何かが分かったのであるから、今後はその最高善に合致しているから「自分の考えは正しい」と主張しなければならない。自分が考えたことが正しいなど傲慢で幼稚な考えからはそろそろ卒業してもらいたいものである。
混乱と欺瞞の相対主義の時代から善的絶対主義の時代にコペルニクス的転回をしなければ世界に平和は訪れないだろう。善的絶対主義とは絶対善はある、それは国民みんなで考え議論し国民にとって一番いい答えを見つけると言うことなのだ。善、つまり正しい事とは何かを知った賢き国民は本当に正しいことが分かるから、ヒトラーなどの悪の独裁者が出ることは限りなく少なくなるだろう。

※警告に同意して書きこまれました (マナー/リアクション)
9日前 No.269

空の光 ★Xud8MXzs3K_m9i

絶対善

絶対の選と正義の違いはなんだろう。
善であることと正義であること・・・
善も正義も大きさがあるかな。

大乗の善=人類愛=世界を担う正義=大正義
絶対の善は大正義だろうか?

普段使われる正義≠大正義かな。
仲間だけの正義は本当の正義では無いのかも?
だが、公の善=絶対善だと仰る。
公と私からの善のあり方・・・自分も最初はいいかな?と思った。
でも、それでは相対性のある善となり絶対とは言えない。
いい考えを持っていらっしゃる。惜しいなと思う。
主張は出来てるけど主義は確立されてない?

9日前 No.270

地下水 ★lHRYPNADL9_Hhd

>>270  善って何だろう。良い事よりも、更に善い事。慈善事業や善行。弱っている人や、困っている人を、人助けする事。その為には、心にも力にも御金にも余裕を持っていないと、助けられないかもしれない。下手をすると、逆に自分が巻き込まれて、助けを必要とする立場に陥るかもしれない。

でも人間は基本的に、家族を助けて生きている。それをチョット、親戚や友人や隣近所に広めれば良い。そしてとっさに人を助けられるくらい、自分を鍛え、働いて貯金すればいい。

その働く事の中で、他人を助ける様にできれば、それが実は、普段の身に付いた善行になるんじゃないかな。ちょっと多めに良い仕事をする。働く事は傍を楽にする事だから。仏教では一隅を照らす光たれともいうし。キリスト教ではイエス様の身体の一部となって働く、その時には自分の灯を燭台に掲げて行く、塩が塩の味を失ったら地に打ち捨てられるだけだからとも、言うからね。

9日前 No.271

空の光 ★Xud8MXzs3K_m9i

>>271

地下水さん

賛意をありがとう。
確かに人は良いことをしようと努力するのはいいと思います。
でも、仰る通り無理はいけないと思います。
自分の出来ること、出来そうなことを、小さな形にしていく。
無理してやったこと、確かに出来たことへの褒美?はあるでしょう。
でも無理が自分にたたってくるとゼロかあるいはマイナスになる場合も・・・
小さな事でも、相手の感謝の思いがどれだけプラスになるか?
案外、大きな喜びを手に入れられるかもしれませんね。

8日前 No.272

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Hhd

>>270  空の光さん

>絶対の善と正義の違いはなんだろう。<

善とは本能から来るもので、正しい、正義は理性によって作られたもの規範、ルールでしょう。本能と理性の違いでしょう。



>仲間だけの正義は本当の正義では無いのかも?<

私の言う絶対善は「私より公を優先すること」ですから一応仲間でなければ自分のことより公の為と考えられません。世界は仲間ではありません。それでも世界的問題は仮に世界を仲間と考えれば正しい答えになるかもしれません。でもそれはなかなか難しいでしょう。世界は自国の利益を主張するでしょうからね。つまり「私欲を捨てきれず公の為と考えられない」ですから善と逆です。



>公と私からの善のあり方・・・自分も最初はいいかな?と思った。でも、それでは相対性のある善となり絶対とは言えない。いい考えを持っていらっしゃる。惜しいなと思う。主張は出来てるけど主義は確立されてない?<

善に相対性はありません。みんな本能的に持って生まれてくるのですから絶対的です。各国に絶対善があってもいいのです。各国も自国民を守る事が絶対善なのですから。例えば国と国との問題も本来は私欲を抑えて公の為と考えれば答えは収斂していくのです。日本と韓国の竹島問題や尖閣諸島の問題も私欲を抑えて歴史的、国際法で話し合えばどちらが正しいか分かるのです。絶対善は完璧ですよ。

8日前 No.273

空の光 ★Xud8MXzs3K_m9i

>>273

shinwood さん

善が本能というのは本能的に善を持った存在。
そんな存在が宿っているのかも知れない。
正義は善だと信じたものを元に作り上げられるのかも知れない。
つまり本能が関係している。

でも、悪の心を生み出すのはなぜか。
本能じゃ無い、善とは違うものを持った存在。
副能?が宿つているのかも知れない。

理性が本能に従おうとした時、同時に服能が邪魔をしようとする。
感情的になって自分の為だけの善に向かいやすくなる。
服能に負けないようにしなければ、善い心言行は出来ない。
だから絶対善が起きるためには、邪魔する存在に絶対勝たなければ。。。

8日前 No.274

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Hhd

この投稿はフィルタされています。表示するにはアカウントにログインして下さい。

7日前 No.275

空の光 ★HHf36xKxB3_m9i

ときどき、この投稿はフィルタされています。表示するにはアカウントにログインして下さい。
アカウントにログインって何だろうね?shinwoodさん。

7日前 No.276
ページ: 1 2 3 4

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる