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デカルト論破2

 ( 哲学掲示板 )
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ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

「デカルト論破」( http://mb2.jp/_tetsugaku/1047.html )の続きです。


デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」を絶対に疑えない真理であると主張しました。さらにそのうえで、その真理を哲学の第一原理(公理)として定めました。

この「我思う、ゆえに我あり」という表現の本質とは、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち「疑っているこれ」の存在は絶対に確実であり、その上で、「疑っているこれ」を「我」と呼んでいるのです。すなわち、

デカルト
@疑っているこれは、絶対に存在する。
A疑っているこれとは、我である。

なのです。

さて、ここで、「疑えない」の否定は「疑える」です。

そこで私(ホントウの真理を発見した者)が、

ホントウの真理を発見した者
@疑っているこれは、絶対に存在する。
A疑っているこれとは、何なのか?。我なのかもしれない、葦なのかもしれない、幻影なのかもしれない、という疑いが残る。

という疑いを発見し、疑える事実を確認しました。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではありません。


以上が成り立つ根拠を次のとおり説明します。

まず、説明に先立ち、理解の統一のため、デカルト著の方法序説から「我思う、ゆえに我あり」の部分について引用します。(デカルトの記述順になるように番号を振っています)
『デカルト 著(谷川多佳子 訳),「方法序説」,岩波文庫,1997年』より引用(一部抜粋)

引用開始
@「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念の中にまったく疑えない何かが残るかどうか見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論を間違えて誤謬推理をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。」
A「すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(我思う、ゆえに我あり)」」
B「それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。」
C「反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えていること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。」
D「これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。」
E「そして、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。」
引用終了

以下、引用を参照しながら説明します。


まず、引用@を実行します。

疑っても、疑っても、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち「疑っているこれ」があるということだけは、決して疑えないのです。なぜなら、たとえ、その「疑っているこれ」の存在を疑ったとしても、やはり「疑っているこれ」があるのですから。つまり、すべてを疑っても、決して疑えず、どんな懐疑にも耐えられるものとは、「疑っているこれ」だけなのです。すなわち、

@疑っているこれは、絶対に存在する。

となるのです。しかしながら、まだ、ここでは自分という「我」は存在(登場)していません。したがって、@の上で、

A疑っているこれとは、我である。

とすれば、論理的に、「疑っている我は、絶対に存在する」とすることができます。

ここで、「疑っている我は、絶対に存在する」とは、引用Aの部分である「そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」と同義であり、そこから同様に「我思う、ゆえに我あり」が導出されます。

したがって、「疑っているこれ」を「我」とすると、「我思う、ゆえに我あり」が必然的に成立します。


すなわち、論点は、【「疑っているこれ」とは「我」である】としている部分です。

ここで重要なことは、【「我」とは何か?】ではなく【そもそも、なぜ「我」としたのか?】を論点としていることです。

引用@から引用Eまでをまとめると、デカルトは、

デカルト
疑えない何か→考えていること自体→わたし

としています。

この場合、私(ホントウの真理を発見した者)は、定義された言葉の意味の範囲を理解したうえで、「疑っているこれ(疑っているそのもの)」を「考えていること自体」と同義であるとして表現しており、また、「我」を「わたし」と同義であるとして表現しています。

したがって、この場合についても、【「疑っているこれ」とは「我」である】と同義である「考えていること自体→わたし」という部分が論点となります。

ここで、これからの私(ホントウの真理を発見した者)の論証において間違いを犯さないために、まず、論点となる「考えていること自体→わたし」がデカルトの主張であることを確証させる必要があります。引用Cを用いて、論理的に検証すると、「考えていること自体→わたし」が次のとおり導出されます。

引用Cにおける文前半の「自分」が文後半の「わたし」と同義である場合を検証します。この場合、「わたし」を文前半に主語として存在させてしまっているので、「わたしは存在するから、わたしは存在する」のように何の意味ももたない文となります。したがって、文前半の「自分」が文後半の「わたし」と同義ではない(異議である)ことがわかります。次に、文前半の「自分」が文後半の「わたし」と異議である場合を検証します。この場合、「考えていること自体」が「わたし」となりますが、「考えていること自体」が「わたし」より先立っていることがわかります。すなわち、「考えていること自体→わたし」が導出されます。

次に、「考えていること自体→わたし」が何をもって成立するのかを突き止めます。

デカルト著の書物には、「考えていること自体」とは「わたし」であると定義するといった旨の記述はありません。また、引用Cは、「帰結する」という、すなわち、結果として出てくる事態という意味であることから、「考えていること自体」とは「わたし」であるということを定義づける意味でないことは明らかであり、そしてそれは、きわめて感覚的に行われたことがわかります。

まとめると、まず、論点となる「考えていること自体→わたし」はデカルトの主張です。次に、「考えていること自体→わたし」ということについては、まず、言葉の意味の範囲からして、「考えていること自体」と「わたし」を結びつけることはできません。次に、それがずばりその正体を表現する場合であるとしても、それに対する根拠や定義について、デカルト著の書物には示されていません。示されているのは、引用Cのきわめて感覚的な決定だけです。

したがって、「考えていること自体」とは「わたし」であるというのは、きわめて感覚的な決定、すなわち、思い込みなのです。そして、「考えていること自体」とは「わたし」であるということから必然的に成立する命題である「我思う、ゆえに我あり」もまた、思い込みなのです。

デカルトが自身著の方法序説において、間違えた部分は引用Aです。これを正しく修正すると、次のとおりになります。

A「すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているそのものは必然的に何かでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえに何かは存在する(我思う、ゆえに何かあり)」」

したがって、正しい命題は、「我思う、ゆえに何かあり」となります。

しかしながら、この命題、結局は、「何かはあるがそれが何だかわかりません」と言っているのと同じなのです。

すなわち、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とは、結局、何の主張にもなっていないのです。


一方、私(ホントウの真理を発見した者)は、

ホントウの真理を発見した者
疑えない何か→疑っているこれ(疑っているそのもの)→これ(そのもの)とは何か?

という疑いを発見し、疑いが残る事実を確認しました。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではありません。


ここで、この「疑っているこれ」の呼び名とは何でもよく、「疑っているこれ」でも「我」でも何でもいい、といった反論があったことについて、次のとおり論破します。

「疑っているこれ」の呼び名が、何でもいいのであるならば、なぜ多くの呼び名の中から、デカルトは「我」を選択して「我思う、ゆえに我あり」としたのか?

これ自体に疑いが残るのです。

何でもいいという、「何」とはホントウは、何なのだろうか?

疑いの余地が、まだあります。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」には、まだ疑いの余地があるのです。


このように、私(ホントウの真理を発見した者)は、『デカルト 著(谷川多佳子 訳),「方法序説」,岩波文庫,1997年』に基づいたうえで、絶対に疑えないこと(真理)において、「我思う、ゆえに我あり」が真だと主張するデカルトに対し、その主張は間違っている(偽である)と指摘し、それを実証してみせました。

「これは我だ」と主張するためには、「疑っているこれ」を「我」と思い込むか定義するしかないのです。


結論です。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とは、「疑っているこれ(考えていること自体)」は「我(わたし)」であるという思い込みから必然的に成立する命題です。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではなく思い込みなのです。

デカルト完全論破です。

--------------------

また、上記、デカルト論破の内容についての擁護のために、同じ方向の見解である中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)を次のとおり引用します。

【引用開始】

「デカルトの懐疑の筋を忠実にたどっていくと、すべてを「疑う(dubito)」という行為からいきなり疑えない第一原理として「私は考える(cogito)」に至る。いや、それ以前に、すでに「疑う」や「考える」という動詞を一人称の変化によって表現している。ここにすべての問題が集中する。」

「言語を習得した有機体S1が、「何ごとか(X)が<いま・ここ>で生じている」(これを命題@と呼ぶ)と(心の中で)語るや否や、命題@は「私が考える」(これを命題Aと呼ぶ)という表現に吸収されてしまう。なぜなら、違和感を抱きながらも、こうした「吸収」に抵抗できないことが、S1が「私」という言葉を理解していることだからである。」

「こうした三重の先取りのもとで「私は考える、ゆえに、私はある」という文章を読む者は、これが絶対に疑いえない真であると思い込んでしまう。」

「すなわち、言語を習得した有機体としての読者は「私は考える」こととは異なったシニフィアンである「私はある」(命題B)を、あたかも「何ごとか(X)が<いま・ここ>で生じている」ということだけから導出できるかのように思い込んでしまうのだ。」

「これまでの考察から判明するように、じつはここには何の「導出」もない。しかし、すでに「私」という言語を学んだS1は「何ごとか(X)が<いま・ここ>で生じている」(命題@)に留まり続けることができない。S1はそれを「私は考える」と「翻訳」してしまう。このとき、その「私」に自己同一的・疑似物体的な意味を盛り込まないこともできない。さらに、「私」をそうとらえてしまえば「ゆえに、(自己同一的・疑似物体的)私がある」ことも承認せざるをえない。」

「以上をまとめてみよう。デカルトが「私は考える、ゆえに、私はある」という言葉を文法にかなったフランス語で文字に書き記し、彼は読者に「私、考える、ある」という言葉を”正しく”理解するように要求している。それは、すなわち、<いま・ここ>で生じていることを、「私」という自己同一的・疑似物体的なものとして理解することであり、そのもとで「私は考える」と「私はある」とを端的に直観することである。こうした強圧的な要求に屈した読者は、デカルトの懐疑を遂行しながら、<いま・ここ>で生じているナマの事実から眼を離し、「私は考える、ゆえに、私はある」をもっぱらこの文章で構成する言葉の日常的意味に沿って理解しようとし、その結果これこそA=Aという同一律以上に、いかなる前提も先取もない第一原理だと思い込んでしまう。読者はみごとにデカルトの罠にかかったのである。」

「同様に、「(私以外の)Xは考える、ゆえに、Xはある」も絶対確実な原理ではない。」

「だが同時に、「私」という言葉を学んだ者は<いま・ここ>で生じている怒りや腰の痛みや「思い」が私の怒り、私の胃の痛み、私の「思い」であると思い込んでしまうのだ。しかし―ヒュームが正確に見抜いたように―、そこに「私の」という所有形容詞をつけても、それらはこの怒り、この腰の痛み、この「思い」以上のものではない。」

「これは「私」という言葉を学んだ者にとってあまりにも自然な錯覚なので、「この痛み」と「私の痛み」とのあいだのギャップは気がつかずに跳び越されてしまう。」

「「私は考える、ゆえに、私はある」が哲学の第一原理であるのは、S1(有機体)が言語を習得してしまうと、語る前の時へはけっして戻ることができず、それからは言語で語ることができる世界を受け入れるほかない、という原理だという意味である。」

「こうして心身問題というアポリアは、あらゆる哲学的アポリアと同様に、湧き出す<いま>と観念としての<いま>の「あいだ」に、跳び越しえない間隙が開かれていることに帰着する。湧き出す<いま>を忘却して、観念としての<いま>によって世界を覆い尽くそうとするとき、あらゆる哲学上のアポリアが発生するのだ。湧き出す<いま>とは、言語を学んだ有機体が世界を意味づけつつあり、同時にいわばその反対側に、「私」を生じさせつつある動的現場である。観念としての<いま>とは、すでに意味づけられた世界が開かれている静的現場であり、そこにおいてあらゆる意味はすでに確定されているとみなされている。」

「その(湧き出す)<いま>において、世界における多様な意味はまだ確定しておらず、私は、まったく能動的に意味を付与するのだ。しかし、ほとんどの場合、この能動作用は、きわめて安定的に見える意味によって隠蔽され、私は世界にこびりついた意味をただ受容しているだけであるかのように思われてしまう。赤い色を見るとは「赤い」色を受容することであり、リンゴを見るとは「リンゴ」という名の果物を受容することである、というふうに。しかし、そうではない。いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できない。」

【引用終了】

--------------------

以上の私(ホントウの真理を発見した者)のデカルト論破とその擁護である中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)の内容から導出されることは、すべての哲学のアポリアは、【「生起」に「意味の付与」を既に固定化してしまった】<観念>と、【「生起」に「意味の付与」をしつつある】<観念以前>との差であるということに帰着します。哲学のアポリアは、後者の<観念以前>を忘却して、前者の<観念>によって世界を覆い尽くそうとするときに発生します。その<観念>がデカルトの「我思う、ゆえに我あり」なのです。そして後者の<観念以前>こそ、仏教の「無分別智の境地」や西田幾太郎の「純粋経験」を示しているのです。

「生起」は語り得ません。語れば即時に「意味の付与」になります。

したがって、すべては意味の付与であることが帰結されます。

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メドベ @medobe ★Wo10N0axQz_Ew9

>>37
伝統的な哲学によらず、何か根本的なものを新しく考える際には、「直接に経験するものから考えるべき」という大前提が重要である。
近代哲学において、ベーコンが、「経験」こそが根本的なものであるとしたのも、デカルトが「我思う故に我あり」という命題こそが根本的なものであるとしたのも、「直接に経験するものから考えるべき」という事情と同じであろう。
だが、ベーコンのいう「経験」は、純粋な「直接に経験するもの」ではなく、「経験」によって意識外の事実を直観できるという独断的なものである。
また、デカルトの「我思う故に我あり」は、「直接に経験するものから考えるべき」という大前提から外れて「我あり」を先に前提しており、これまた独断的である。
また、思惟が、ありのままの物体を知りうるというのも独断的である。
さらに、これらを土台にしたカント以後の哲学についても同様に、疑いなく受け入れることは出来ない。
わたくし西田は、このような独断を避け、「直接に経験するものから考えるべき」を愚直に遂行するぞ。
(もちろん、ヘーゲルなどが指摘するように、デカルトの「我思う故に我あり」が、「実在」と「思惟」が合致したものこそが「真実(あるいは真理)」だというものなら、私の出発点と同じである)


現代日本語にするとこんなもんかな?

…そういやボク西田ぜんせん知らんわ

2ヶ月前 No.43

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」を意味する「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉があります。

宗の天童山景徳寺(てんどうざんけいとくじ)で修行していた道元は、この言葉で悟りを開いたといいます。

この禅の境地は純粋経験の高さでしょうか?

2ヶ月前 No.44

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>41,43

トライしてくれて、ありがとう。何がよく分からないのかがなんとなく分かったよ。ポイントは二つ。

@「実在と思惟との合一せる直覚的確実」とはどういうことか?

Aデカルトの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、「実在と思惟との合一せる直覚的確実」と見ることができるか?

@に関していえば、「直覚的確実」とは恐らく、純粋経験のこと、ざっくり現象とみなしておけばいいだろう。分かんないのは「実在と思惟が合一せる」ってところだね。安直な読み方をすると実在(実際の状況)と思惟(それに対する思考、あるいはその実在の状況を捉えたもの)が一致してるってことだ。例えば、目の前の机にリンゴがあるとした場合、「目の前の机の上にリンゴがあるな」と考えれば「実在と思惟が合一」で、「目の前の机の上にミカンがあるな」と考えれば「実在と思惟が合一」でない、ということだ。隣に座ってる奴から、「お前、何言ってんの?よく見ろよ、リンゴだろ?」とつっこまれて、「あれ、リンゴだ。なんで、ミカンだなんて思ったんだろう。カン違い、カン違い」などと、たわいもない会話が続いていくのである。そういう意味なら分かりやすいんだがなあ。本来的に思考と実在が一致するなんてありえないしなあ。しかし、西田先生は「意識現象が実在だ」なんて書いてる人だしなあ。まあ、これくらいしておこう。

Aに関して言うと、デカルトの書いていることが、そのような実在と思惟が一致している状態を表現したものかを読むと、少しはとっかかれるかも知れないな。というわけで、そこの記述を引っ張ってくる。岩波文庫の谷川多佳子訳から『方法序説』から引用すると(ここは、とある人の記述からパクらせてもらってます。):

>それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。(46-47)


ということらしい。帰結するなんて書いてあるから論証(推論)してるようにも見えるし、わたしとは何かを注意深く検討し、いきなり、「自分が存在しないとは仮想できない」と認めちゃってるからからそうじゃないようにも見える。わたしとは何かをどのように注意深く検討したのか詳しく書いて欲しいものだ。そうしないと、「わたしは一つの実体であり(え?なんで?)、その本質ないし本性は考えるということだけにあって(え?なんで?)、存在するためにどんな場所も要せず(まじか?んな、あほな)、いかなる物質的なものにも依存しない(く、くるっとる)、と。」ってなっちゃうじゃないか。

(西田先生に寄り道したので、デカルトにもどしておきました)

2ヶ月前 No.45

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>45

ちょっとねさん

@に関して、直覚的確実が純粋経験のことだとすれば「実在と思惟が合一せる」とは、ミカンだと思ったらリンゴだったという見間違いの話ではなく、

「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一して居る」ということだと思います。

>本来的に思考と実在が一致するなんてありえないしなあ。


どうしてありえないと思うのですか?
というか、どういうことを想定してありえないと言っているのですか?

Aに関して、デカルトの思考(デカルトの著作等の言説)を第三者の目から客観的に判断したとしたら、我考える故に我在りを「実在と思惟との合一せる直覚的確実」とみなすことはできないのだと思います。
自身が、デカルトと同じ懐疑を辿った時、考える我を発見した瞬間は「実在と思惟との合一せる直覚的確実」をみた、とみなすことができるということだと思います。
それはたぶん、小説の中の主人公に感情移入するように、デカルトになって思考し、その時感じているものを自身が感じるということだと思います。

2ヶ月前 No.46

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>45

なるほど、腑に落ちないのはそのへんってことね。
じゃあ、一応そのあたりを念頭に置きながら、私も自分の考えを述べましょう。

『デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる』

この「実在」と「思惟」というのは,明らかに「余在り」と「余考う」に対応しているのだから,それぞれ「私の実在」と「私の思考」を表していると考えられる。
要は「私が存在しているということ」と「私が思考するということ」を表している。
で,問題は,コギト命題におけるこれらの関係をどのようなものと解釈するかだ。
西田自身の考えによると,まず,デカルトの考えが次の@の解釈のようなものであるなら、批判されるべきものであることになる。

@ 自分があること,と,自分が思うこと,との関係は,
「私は存在する」という命題と「私は思考する」という命題の意味の論理的関係,
あるいは,これら判断の推論関係(の同値関係)である。
 私は存在する⇔私は思考する

西田が自分の思想と一致すると考えるのは次のAの解釈。

A 私の存在と私の思考の同等性は推論関係ではなく,ひとつの意識現象(純粋経験)において,私の存在と私の思考の合致として,すなわち私と思考は同一なるものとして直覚されるものである,ということ。それゆえ,
私の存在=私の思考
の確実性は,純粋経験の直覚による不可疑性である。

要は,西田の考えでは,純粋経験においては「我(の実在)」と「思考(の現象)」は未分化(←ここがポイント)であるということ。
ゆえに、私の存在は、意識において「思いの立ち現れ」が即ち「〈自分の〉思いの立ち現れ」、として直覚されるということ(判断じゃない)。

つまり,西田は、コギト命題の不可疑性をデカルトがもしAの純粋経験の確実性だと考えているのなら,自分の考えと同じだと述べているのだ。


で,私(ふくろう)の考えによると,
コギト命題の確実性は純粋経験の不可疑性である,というのは正しい。
デカルトがコギト命題に見た不可疑性は,本当は、この不可疑性にほかならない。
ところが,にもかかわらずデカルトは,我を主語「我」が意味する存在者=実体としてしまった(文法的錯誤)結果,コギト命題を@と解釈した,あるいは@の解釈が適合するものにしてしまったんだな。
いわば,デカルトはコギト命題の不可疑性を直覚したのだが、そのメタ認識において間違ったということ。
それは西欧語の文の主語―述語形式,すなわち「実体−属性」把握の強制・罠にデカルト自身が屈した(文法的錯誤)ともみなしうるだろう。

ところが、実はそれを批判している中島さんも,コギト命題の不可疑性が純粋経験の直覚のそれであることを理解していないのだ。
それどころか@の解釈をデカルトと共有している。
つまり,どういうことかと言うと,
先述したように、私=思考の不可疑性は純粋経験において直覚される不可疑性であって,
本来,「私=思考」は,判断以前の,私と思考が未だ分化していない直覚される合致なのだ。
にもかかわらず,中島さんも、それを判断の関係としてしかとらえられていないから,
「私=思考するもの」
を、「私」と「思考」の意味の「私による意味付与」によって成立する同一関係とみなしているのだ。
だから、それを真に受けたスレ主などは,その結びつきは恣意的決めつけにすぎないなどと言うわけだ。

2ヶ月前 No.47

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>45
【補足】
僭越ながら、デカルトさんに代わり、解答させていただきます。

>@「わたしは一つの実体であり(え?なんで?)


 我は、その存在が不可疑=確実な存在者であるから。

>Aその本質ないし本性は考えるということだけにあって(え?なんで?)


 思考以外の一切は方法的懐疑によって斥けられ、唯一残った思考が我の存在のための必要にして十分な条件であるから。

>B存在するためにどんな場所も要せず(まじか?んな、あほな)、いかなる物質的なものにも依存しない(く、くるっとる)、と。」ってなっちゃうじゃないか。


「水槽の中の脳」のような思考実験でも明らかだが、方法的懐疑では身体の存在ですら斥けられる。
つまり、身体は我にとって必要不可欠な要素ではない。
我の存在のための必要十分はあくまで思考であり、
それゆえ我とは身体を不要とし、思考のみを本質とする実体=魂である。



こんなもんでどうでしょうかね?

2ヶ月前 No.48

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>40

自分できちんと考えて根拠を述べたり自分なりに論証を組み立てるんやなくて,
エライ人の言葉を引用するだけで証明・論破したつもりになってエラそうなこと言う奴を、哲学しているとは言えへんと思うで。

例えば、デカルトの作品を解釈することは、いわばベートーヴェンの作品を演奏することに似ていると思う。
その意味で、デカルト作品の解釈が哲学することであるのは、ベートーヴェンの作品(楽譜)を自分で実際に演奏することに類比できるだろう。
哲学とは自ら思考(演奏・プレイ)する行為である。
エライ演奏家のCD(他人の演奏)を再生しても、それは自分が演奏したことにならないのと同様、
エライ哲学者の言葉を引用しても、それは自分が哲学したことにはならない。
要するに、引用哲学は哲学ではない。
にもかかわらず、引用しただけで哲学したつもりになって、自分もまたその偉い人の立ち位置にあると勘違いしてエラそうに言う奴は、ただの阿呆である。

2ヶ月前 No.49

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

ザビビのふくろうさん

デカルトさんの心霊が身を持って理解できる位置にいらっしゃるのですか?

デカルトさんは・・霊性の先頭集団にいる方々の一人でございますよ・・

2ヶ月前 No.50

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>50

>哲学鑑賞家にしてオカルティストの宿題さん


いえいえ、とんでもございません。

たとえて申しますと、

いわば大作曲家デカルトの交響曲『方法序説』を、

私なりの解釈で演奏させていただいただけでございます。

私の解釈が間違っているとおっしゃるのであれば、それを指摘していただければありがたいのですが。

2ヶ月前 No.51

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

ザビビのふくろうさん

理性をよく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法についての「序説」の話でしょうか?

それともデカルトさんの神に通じる意識「奥伝」については・・置いておきましょうか?

2ヶ月前 No.52

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>46

> >本来的に思考と実在が一致するなんてありえないしなあ。

どうしてありえないと思うのですか?
というか、どういうことを想定してありえないと言っているのですか?

実在って何かって問題もあるけど、ここでは西田先生に敬意を表して、「実在は意識現象である」ってことで記述している。意識現象は、多くの直覚、つまり、視覚、聴覚、触覚、嗅覚などを含む。これらは、とてつもないことだ。一方で、思考できる範囲は、対象としてさえ、その一部に限られる。そういう意味で、「本来的に思考と実在が一致するなんてありえない」と思っているってことだ。新宿の雑踏で、信号の向こうから前から多くの人が歩いてくる。何百人か分からないが、それらが俺の眼前にある。俺は思う。自然的見方をすれば、実在(この実在は意識現象の意ではない、いわゆるrealityね)するこれほど多くの人々が、俺の眼前に、このように映っているとは。これほど多くの人々が俺の内部(これは、自然的見方での現象の記述)にあるとは。これは、恐るべきことだ。俺の思考(及び志向)が捉えきれない、これほど多くのことが俺の内部に含まれるとは。眩暈とはこういうことなのだろうか。そういうことだよ。


>>デカルトと同じ懐疑を辿った時、考える我を発見した瞬間は「実在と思惟との合一せる直覚的確実」をみた、とみなすことができるということだと思います。


そうはいっても同じ懐疑なんてたどれないしなあ。俺は、未だ、「考える我」は発見していない。(普通の意味で、俺がいないと書いてるわけではない。念のため)それどころが、俺にこの思考がどこから、どのように来るのかすら分からない。「この思考」があるのは確実だ。だが、「俺の思考」なのかどうか。ま、俺が考えてるんだから、俺の思考なんだが。

2ヶ月前 No.53

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>47

相変わらず、分かりやすい記述だね。あえて、合わせてくれてるとは思うが。


>「実在」と「思惟」というのは,明らかに「余在り」と「余考う」に対応しているのだから,それぞれ「私の実在」と「私の思考」を表していると考えられる。


なるほど、そう限定して読むのね。(国語力の問題?)なら、あとの記述は分かりやすい。


>私(ふくろう)の考えによると・・・


ふむふむと思うけど、ちょっと意外。「デカルトのコギトなんて古いぜ。とっくの昔に論破されてるよ。」的スタンスかと思ってた。


>実はそれを批判している中島さんも,コギト命題の不可疑性が純粋経験の直覚のそれであることを理解していないのだ・・・


ノーコメントにしておこう。実は、中島さんの「不在の哲学」、俺も持ってるんだ。けっこう、面白かったよ。S1がどうしたってところは、どうなのと思ったけどね。

2ヶ月前 No.54

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>48

オッケーです。(実は想定の範囲内だったりする。)方法的懐疑って、全てをカッコ内にいれるということで、現象主義に似てるよね。だけど「いかなる物質的なものにも依存しない」ってのは訳が悪いのかも知れないけど書きすぎだと思う。これは「<私>の存在を『示す』ためには、<物質>という概念を必要とせず、思考だけがあれば十分だ」ってことだと思うんだよね。物質的なもの依存してるかどうかは断言できないから、「依存しない」なんて書かれると「臆見だ」なんて思っちゃう。

2ヶ月前 No.55

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>49

そうだね。「哲学とは自ら思考(演奏・プレイ)する行為である。」はい、いただきました。「引用哲学は哲学ではない。」全くだ。

実は、スレ主様がそこら辺がどうだろうが、どうでもいいんだ。だけど、自分だけで考えるってのもね、時間もないし、知識もないし。こういう場を作ってくれただけでも(他のスレ含め、メビリン含め)有難いと思ってる。(ふふ、キマッたかな?)

2ヶ月前 No.56

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

ちょっとねさん

「実在と思惟との合一せる直覚的確実」についてですが

単に実在と思考の一致だとありえないが、私の存在と私の思考の一致だとありえるのでしょうか?
その場合、両者にどのような差異があるとお考えですか?

2ヶ月前 No.57

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

そこら辺は、ヴィランのふくろんさんの方がうまく説明できると思うけどね。「私の存在」と「私の思考」と限定してみた場合、要するに「我思うゆえに我あり」というその思考そのものは、推論なく直覚されるものであり、その思考そのものが「私」なんだってことなんだと思う。この場合、両者(「私の存在」と「私の思考」)は未分化で一致している。ま、俺の中では、これは消化されてないけどね。(俺は、思考は現象として直覚されるものと見てるけど、「私」が直覚されるという感覚は、やっぱり、今のところ納得できてない。)

2ヶ月前 No.58

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

ちなみに、

エトさんについては、規約違反の連続により、3ヶ月の投稿禁止という謹慎処分が科せられています。

みなさんも気を付けてください。

2ヶ月前 No.59

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

中島義道「カイン」(新潮文庫)p191
「人生は理不尽なんだ。個々の出来事にいかに精緻な解釈を施そうと、すべてはきみの解釈を超えたところで動いていくのだ。」


【真理とは何か】
まず、私は、「あたりまえではない」は「あたりまえ」ではなく、「あたりまえではない」は真理であると何度も主張しています。さらに、公の辞書等にも真理とは「あたりまえ」であるとは一切記載されていないことをここに、あえて記します。

【論理を受け入れた場合でも無矛盾】
仮に、「あたりまえではない」(B)を「あたりまえ」(否B)と考えようとしたとします。しかし、論理的に(論理記号(B)と(否B)の論理的意味を)考えれば、そもそもその考え自体が成り立ちません。反論そのものに間違いがあるのです。したがって、このような矛盾はそもそも発生しません。

【論理を受け入れた場合でもトートロジー】
仮に、「あたりまえではない」(B)は「あたりまえではない」(B)と考えようとしたとします。しかし、「あたりまえではない」は真理ですので、論理的に考えれば、「真理は真理である」という繰り返しの反復(同義語反復、すなわちトートロジー)です。したがって、謎は発生しません。

【《対象レベル》と《メタレベル》の峻別を受け入れた場合でもあたりまえではない】
仮に、「あたりまえではない」(真理)は「あたりまえ(又は、あたりまえではない)」と考えてしまった場合、「あたりまえ(又は、あたりまえではない)」と考えた主体がいることになります。その主体も真理の一部ですので、そう考えた主体も「あたりまえではない」(真理)の対象になるのです。したがって、謎は発生しません。


これをもって、私の哲学の探究を終えるとする。


あたりまえではないのである。


(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により真偽の判別をお願いします。)

2ヶ月前 No.60

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>58

ちょっとねさん

いや、ちょっとねさんの考えを聞いているのですよ。

>本来的に思考と実在が一致するなんてありえないしなあ。


これに関することです。
>>53 に書いてあることが、
「実在」を「私の存在」に、「思考」を「私の思考」に置き換えると解消するのですか?と。
その場合、「実在」と「私の存在」の差異、「思考」と「私の思考」の差異をどのような差異だと考えているのですか?と。

>俺は、思考は現象として直覚されるものと見てるけど、「私」が直覚されるという感覚は、やっぱり、今のところ納得できてない。

>「この思考」があるのは確実だ。だが、「俺の思考」なのかどうか。ま、俺が考えてるんだから、俺の思考なんだが。


確認ですが、思考は現象として直覚されるから、確実だということでよろしいでしょうか?
この場合の“現象として”とはどのような意味を持つのでしょうか?
現象ではない実在を暗に想定している?のですか?

私とは何か?
という問いも浮かんできますね。“私”も多義的ですからね。
代名詞としての「私」(気まぐれとか、ちょっとねとか、デカルトとか)ではない“私”をどう捉えるか…。

私(気まぐれ)としては、代名詞的な私は純粋経験における差別化として捉えたいのですが、みなさんはどう思っているのだろうか…。

1ヶ月前 No.61

おおしし ★Android=6WgqY3WUJf


立ち位置の違い。


 真理、からの視点なのか?

 偽理、からの視点なのか?


どちらの立ち位置からの言葉(発言)なのか?


 あたまえではない、なぁー。
 やっぱ、ちげーわ!

 と感想を述べるのは。
小学生がプロのサッカーを観た時の感想だ。
 例えですよ。


最初の段階では仕方のないこと。

即座にワールドカップのプレイヤーには成れませんからね。


 得牛から見牛に格下げ。

 真理を発見した者に
 ふさわしい帰結だ。


君の傲慢さが邪魔をしている。

 君の思い通りに
 牛はならない。

1ヶ月前 No.62

おおしし ★Android=6WgqY3WUJf


小悟していない、とは、

 言ってませんよ。


通常の普通の一般人は

 そもそも、尋ねてない(笑)


この掲示板に居る

 かなり特殊です(笑)

1ヶ月前 No.63

おおしし ★Android=6WgqY3WUJf


 傲慢
 自我のフィルターを取り去り
 真っ直ぐ見なさい。


先人達の偉大なる成果を。

 今の君がキチンと理解出来るほど
 底は浅くない。
 まだまだ全然学べるのです。


聖者とは

 王に立脚した耳と口

 水道管みたいなモノだな。
 例えば、ですよ。

 王の里が理だ。

王は

思考体

感情体

肉 体


 芯が真が神が真我、通ってるね。

水道管には水垢が付きますね(笑)


今日の講義はこれまで!(笑)

 じゃあね!

1ヶ月前 No.64

哲学を終えた者 ★rdiOR01yVt_Qi5

新元号である。

1ヶ月前 No.65

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>61

>>58 に書いているのは、俺の考えだよ。ま、置き換えというより読み方の問題。以前、よく分かんないなと思ってた時は、西田先生のそこの文章

『デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる』

の記載は「実在」と「思考」については、文脈あるいは語られている前提となっている思考的方法(方法的懐疑だね)を考慮せず、「実在(あるいは意識現象)なるもの一般」、「思考なるもの一般」と読んでいた。しかし、当該部は、デカルトのコギトについて語られている部分だから、実在(あるいは意識現象)や思考は、方法的懐疑の手法の元で、「ちょっとでも疑わしいもの」は全てカッコの中に入れられ、消されてしまう。そうやって、悪魔に幻影を見せられてるのかも知れない的な考えで目の前にある現象すら疑うなかで、疑えないとして残るのは「疑っているという思考」あるいは「疑う我」のみになる。疑うことそのものまでを疑うと疑いが成立しなくなるからね。そのように収斂させられた中での実在と思惟は、デカルトや西田先生の考えを想像すると、「疑う我」としての、「実在の思惟の合一せる直覚的確実」になるって言ってんのかな、といったところが、今日、現在の俺の読み方。西田先生は、「馬が走る」という表現を、あれは「馬」が「走る」のではない、「走る馬」というのが先にあって、それを分析しているのだみたいなことを書いていたけど、上の文章に通ずる部分があると思う。この「我」は普通の意味での、代名詞としての我ではない。「思考するもの」あるいは「思考そのもの」としての実体としての我(あるいは、わたし)である。だからこそ、デカルトの

「わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。」

という表現が出てくるというわけだ。けど、俺が消化できてないという思う部分は、俺自身がそのように考えても「走る馬」のように「疑う我」というのは見ることが出来ない(疑いは思考として直覚できるが、疑う我としては直覚できないとしか思えない)点だ。それを、どのように見て、西田先生は「実在と思惟との合一せる直覚的確実」の表現に至ったのか、その晦渋さは残ったまんまってことなんだね。逐次的には答えてないが、これで、気まぐれさんへのレスとしては大体カバーしていると思うけど、いかが。

1ヶ月前 No.66

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

意味の1つである >>60 を滅尽した。そして >>0 のとおり、すべては意味の付与である。

1ヶ月前 No.67

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

いまの私なら、根源的自由に意味を付与できる。

1ヶ月前 No.68

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

これをもって、私の最後の投稿とする。


以下、私の投稿内容のまとめである。

・私は、その対象に対して、どれだけ多大な意味を付与してしまったことか。それがわかっただけでも救われた。

・みなさんも、「社会的に付与された意味」に屈することなく、能動的に意味を付与されたい。

・論理というものも、観念が前提にあることがわかるだろう。例えば、2A(A=A)のように、別々の実体を同一のイデアとみなす(移行する)という観念である。

・すべては意味の付与であることがわかったうえで、「社会的に付与された意味」に屈することなく、能動的に意味を付与されたい。

・「人間社会」のそれ自体もまた、意味の付与であると気がつくとき、私は真に自由になれるのだ。

・我々は、生得的に“赤い”を知っているわけではない。そのように意味を付与されて、それを受け入れてきたのだ。それが教育である。そして、それが条件反射レベルまで刷り込まれた結果、すべては観念(クオリア)化するのである。

・「気にすべき存在」であると意味を付与しているから気になるのである。『職場で「A」という人物の名前が一番呼ばれている。だから「A」は職場で有名な存在だ。』違う。私が「A」という人物に「有名」であると意味を付与しているのである。次の日、「B」という人物が結婚したことを職場の大半が理解した。その日、そのうえで『職場で「B」という人物の名前が一番呼ばれている。だから「B」は職場で有名な存在だ。』とはならないだろう。『だから「B」は職場で有名な存在だ。』ではなく『「B」は結婚したからね。』だろう。以上より、刺激(「A」という人物の名前という音)に意味を付与していることがわかるだろう。では、なぜそのように意味を付与するようになったのか?そのように意味を付与されることを受け入れてきたからである。それが教育(テレビCMのような刷り込みを含む)であり、その教育を推進した人類(生物)の歴史そのものなのであろう。つまり、「そうなってきた」のである。しかしながら、いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できないのであるから、「人間社会的に付与された意味」に屈することなく、能動的に意味を付与されたい。

・したがって、我々は、意味付与体なのである。

・何も刺激がないはずの朝目覚めた直後すぐに「あの子」が想起された。では、「あの子」は唯一絶対であり、本質は実存に先立つのか?違う。これは、今朝、目覚めた直後すぐに米津玄師の「Flamingo」が脳内に再生されたことにより論破できたのだ。“何も刺激がない”刺激に「あの子」や米津玄師の「Flamingo」の意味を付与していたのである。

・すべては意味の付与である。

・いまの私であれば、根源的自由に意味を付与できる。

以上である。


(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により真偽の判別をお願いします。)

1ヶ月前 No.69

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>61,66  気まぐれさん,ちょっとねさん

>>66 を読むと、ちょっとねさんは、私が >>47 で述べた二つの解釈における“我”の区別がきちんとついていないんじゃないかなと思います。
次の引用箇所における私が違うと思う点を指摘しよう。

>西田先生は、「馬が走る」という表現を、あれは「馬」が「走る」のではない、「走る馬」というのが先にあって、それを分析しているのだみたいなことを書いていたけど、上の文章に通ずる部分があると思う。

>この「我」は普通の意味での、代名詞としての我ではない。「思考するもの」あるいは「思考そのもの」としての実体としての我(あるいは、わたし)である。

>だからこそ、デカルトの「わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。」という表現が出てくるというわけだ。

>けど、俺が消化できてないという思う部分は、俺自身がそのように考えても「走る馬」のように「疑う我」というのは見ることが出来ない(疑いは思考として直覚できるが、疑う我としては直覚できないとしか思えない)点だ。


ここで
「「思考するもの」あるいは「思考そのもの」としての実体としての我(あるいは、わたし)」
と言われていて、「思考するもの」と「思考そのもの」とを並列してしまっている。
だが、これらは大違いなんだな。
というか,この違いこそ >>47 の二つの解釈の違いだから。
「走る馬」は「走るもの(実体・存在者)」なので、これは「思考するもの」に類比的だけども、「思考そのもの」は、思考という意識現象だから、「こと(思いの立ち現われ)」であっても「もの(実体)」ではない。
「「走る馬」のように「疑う我」というのは見ることが出来ない」というのは、まさに我が馬のような存在者(実体)じゃないからだ。
その限りでは「思う我」には「吹く風」のほうが比喩としては近い。
実体としてとらえるということは,「実体―属性」図式で捉えることなんだよ。
つまり,我を「思考するもの(実体)」と捉えるということは「我思う」という命題の主語「我」の意味としての実体(存在者)であり、こちらは「デカルト」に置き換えられる代名詞とみなせる。
これは >>47 の@の解釈の「我」であり、西田が否定するものなんだな、まあ私見ではね。

>(疑いは思考として直覚できるが、疑う我としては直覚できないとしか思えない)点だ。

>>61
>私とは何か?

>という問いも浮かんできますね。


西田(『善の研究』)的には、単純に
 意識=〈私〉
と理解したらわかりやすいと思うんだけどね。
意識が覚醒するとき〈私〉は目覚め,
意識が永久に失われるとき〈私〉は死ぬ。
という説明だけで,だいたい感じはわかるんじゃないかな。
このように理解すると,
疑う我=疑う意識
ってことになるでしょ。
つまり、意識があるということが即ち〈私〉or〈自分〉があるということ。
疑う、思考というのは、意識の活動(意識における”疑念”“思い”の立ち現われ)だよね。
痛みを感じるというのも痛みを意識することだから意識の活動(作用)と言ってよいだろう。
意識がない、つまり〈私〉がないとき、疑うということはありえない。
逆に言うと、疑っているとき、だから意識がないとは考えられない。
すなわち、私が存在しないとは考えられない、ってこと。
〈私〉とは“意識としての自分”である。
意識現象とは、意識(=自分)の現象(=こと)、すなわち“自分のこと”である。
だから,純粋経験としての思考は意識現象なんだから,即ち自分のことだ,ということ。

つまりね、 >>47 の@とAの解釈の違いは、
我についての二様の解釈に対応している。
その@では、我は、判断における主語「我」の意味(指示対象)である存在者(実体)であることになり、それはすなわち「デカルト」の意味(指示対象)と同じ存在者(実体)だ。
だから、この@の場合の「我」は固有名「デカルト」と交換可能であり、我は対象(存在者)化された主体である。

それに対してAの我は〈我〉であり、あくまで「意識としての自分」のこと。
これは存在者ではなく、「何事かを意識する活動(はたらき)としての我」。
対象化する意識としての〈我〉であり、これは他の誰でもないこの私、“自分”である。
「意識」→自分(〈我〉)
「現象」→こと(立ち現われ)
痛みは意識現象である=痛みは自分のことである。
あるいは次のように理解してもよいだろう。
痛みは意識における現象=痛みは〈私〉における立ち現われ

ということで「〈我〉」は誰か名前をもつ存在者を意味するのではなく、あくまで〈自分ということ〉であるがゆえに、名前と交換不可である。

以上を簡単にまとめる。

@ の“我”は、意識としての〈我〉が自分を対象化するとき、対象化された自分=存在者としての私(代名詞「私」の指示対象である存在者)。
“もの”としての自分。自分というもの。
この場合、「我」は「デカルト」と交換可能。

A の“〈我〉”は、対象化するという活動(はたらき)としての意識。
こちらは“こと”としての自分。
例えば、“頭痛がする”というのは“意識現象”、すなわち“自分のこと”にほかならない。
よって、痛みがあるとき、自分がある。
この場合、「我」は「デカルト」と交換不可。

知識のある人のために補足すると、これらは大雑把には木村敏の@「ノエマ的自己」A「ノエシス的自己」にほぼ相当すると言ってもよい。たぶん(笑)
正確な比較・異同については要検討。

1ヶ月前 No.70

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>70

そうやって、言語(または論理、他あらゆる後悔)といった意味に囚われ続けて一生を終えると良いよ(笑)

じゃあね。

1ヶ月前 No.71

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>>70

「走る馬」じゃなくて「吹く風」ね。おし、今度こそ分かった。多分、恐らく、きっと・・・。

1ヶ月前 No.72

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>70

@の我とAの我はどのような関係性にあるのでしょうか?

Aの我に於いて@の我“たち”が差別化されるのでしょうか。
それとも、@の我自体が複数ある?(この場合、それがどういう事態であるかよくわかりません。)

Aの我が@の我に成ることによって他者と出会うことができる…のでしょうか。

1ヶ月前 No.73

空の光 ★bOZaY9x47z_m9i

我思うゆえに我あり

最初の我が姿をもたない場合。
つまり我が目に見えない存在だったら?
そんな事を念頭に入れてたのかどうかは疑問が残るけど。
たとえ姿がなくても、思うことが出来るのだろう。
そこまで考えたのなら、そんな軌跡が残るだろう。

死してなお思いがあったら?
我思うの思うは体のことではなく思考する本体・・・魂?
そこまで、考えてたかどうか?謎だけど・・・

このデカルトの言葉は電光石火、気づいた言葉らしい。
もし、深く読もうとするなら。
デカルトと同じか、それ以上の思い。
つまり気づけるものを持たなければ気づけないかな。

どんな容姿であろうとも,思う事ができるなら我はある。
気づきの中には、そんな思いがあったのではないだろうか?

1ヶ月前 No.74

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>73  気まぐれさん

>@の我とAの我はどのような関係性にあるのでしょうか?


意識としてのAの我が、自身を対象化したものが@のものとしての我。

>Aの我に於いて@の我“たち”が差別化されるのでしょうか。

それとも、@の我自体が複数ある?(この場合、それがどういう事態であるかよくわかりません。)

いまひとつ質問の趣旨がはっきりわからないので(他我問題についての質問?)、
とりあえず最初の問いとも合わせて答えてみます。

意識において判断はなされます。たとえば
 「私は今考えている」…(1)
と判断したとすると、この思考が意識に立ち現れたということですね。
で、この(1)における「私」は主語であるから、対象化された我を意味します。
しかし、この(1)という判断が〈我〉という意識において立ち現れたわけですから、
したがって、この(1)という判断は、〈私〉の判断です。

で、この判断は、いわば純粋経験を言葉により分別することですので、その意味では差別化とは言えると思います。
これが気まぐれさんの問いに答えたことになるのか自信はないんですけどね(笑)

>Aの我が@の我に成ることによって他者と出会うことができる…のでしょうか。


これは他我問題ですよね。
〈他者〉とは何かについてはまだ述べていませんよね。
これはすぐにはまとまった形で述べられませんので保留ということでお願いします。
ただ、しばらくしたら語れるようになる保証もできかねますが(笑)

さしあたり適当なことを口走ってみましょうかね。
私と他者が出会うということ〈出会い〉とは何かが問題になるのではないでしょうか。
つまり、一方で、「出会い」は語られる、判断されるますよね。
 聖と晶は出会った
しかし、これは存在者と存在者の出会いであり、気まぐれさんが問うているのはこの出会いではないような気がします。
ということは純粋経験としての〈他者との出会い〉とは何か?いかにして可能か?ということが問われていることなのではないでしょうか?。
やっぱり、〈他者〉とは何か?が問題かな。
ブーバーの「我と汝」の問題なのかもしれませんね。つまり「汝」とは何か?
また、レヴィナスの「他者」も関わってくるでしょうから、けっこう大変そう(笑)

すみません、テキトーに書いてみましたが、やっぱりちょっと、気まぐれさんの質問の趣旨・意図がよくわかりません。
そもそも、私の >>47,70 の解釈に納得できないってことでしょうか?
どちらでもかまわないので、もう少し詳しく書いてもらえればありがたいのですが。

1ヶ月前 No.75

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

>>75  ザビビのふくろうさん

返信ありがとうございます。

>そもそも、私の >>47,70 の解釈に納得できないってことでしょうか?


いえ、そうではありません。 >>73 は同意できるからこその質問でした。

お察しの通り、他者についての考えを伺いたいと思ったのです。

正直に言いますと、私は永井均が<私>と表現することで示したいものを十分に実感できていないように感じています。
<>の中を“私”としなくてもよいのではないかと思ってしまうのです。

< >と「私」と「他」があるだけなのではないかと。
< >は純粋経験、「私」と「他」は対象化された意識です。
世界は純粋経験であり、純粋経験に於いて自と他が差別化される。
我々は純粋経験に於ける自己限定同士であるがゆえに、言語ゲームが成立する。なぜならば、自己限定を手引きするのが言語だから。
<私>と捉えるとき、既に自己限定の第一歩が踏み出されている・・・。

私にはふくろうさんのように理路整然と記述することができません…。

ところで、ふくろうさんは純粋経験と意識をどのような関係で捉えていますか?

あと、今書いていて思い出してきたのですが、
ふくろうさんは「<私>の哲学を哲学する」は読まれましたか?
今手元に当該書籍がないので確認できないのですが、あの本で<これ>だったか、< >という表現が有り
入不二さんが書いた論文にヒントがあるような気がするのですが…。


十分な時間が取れず中途半端な返信で申し訳ありません。

1ヶ月前 No.76

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>76  気まぐれさん

「西田幾多郎」スレにレスを投稿しました。

http://mb2.jp/_tetsugaku/696.html-633#a

なんか、まとまりなくなりました(笑)

1ヶ月前 No.77

削除済み ★rdiOR01yVt_Qi5

【この投稿は”管理者-kotori-”により削除されました】 削除者: ことり☆リーダー ( 2019/02/02 16:44 )  削除理由: 迷惑行為(文字羅列・無断転載・AA・チェーン・宣伝など)

1ヶ月前 No.78

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

http://mb2.jp/_tetsugaku/1111.html-2#a】のとおり、 >>78 を滅尽した。

すべては意味の付与である。

(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により、投稿者の判別を願う。)

1ヶ月前 No.79

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

ホントウの真理を発見した者さん

それで付与された意味は・・どんな内容なのですか?

1ヶ月前 No.80

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

>>80 宿題さん

返信いただいたアカウントが管理者に削除されたのでこちらのアカウントから投稿します。

>それで付与された意味は・・どんな内容なのですか?

根源的自由なので、どうでも良いのです。内容がどうあれ、それが意味の付与であるとわかることが大切です。

1ヶ月前 No.81

宿題 ★sicIy89Ne4_Tbw

ホントウの真理を発見した者さん

哲学の真理は人間であれば何でもいいんだ(ホントウの真理を発見した者さんの考え)で無く

哲学の真理は人生をどのように生きるかが内容が問題なのです・・

1ヶ月前 No.82

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

>>82 宿題さん

そうですね。真理も意味の1つです。

人生とは意味そのものです。それが意味の付与であるとわかれば、あとは根源的自由に意味を付与できますから、良い意味を付与できたら良いですね。

1ヶ月前 No.83

宿題 ★sicIy89Ne4_Tbw

ホントウの真理を発見した者さん

意味とは例えばどんな意味がありますか?

1ヶ月前 No.84

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

宿題さん

すべてが意味の付与です。

1ヶ月前 No.85

宿題 ★sicIy89Ne4_Tbw

ホントウの真理を発見した者さん

どのようなHow・・意味の付与ですか?

何故Why ・・意味の付与ですか?

1ヶ月前 No.86

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 えっ!  >>79 「ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5」 と  >>81 「ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW」は、同一人物なのですか?

>>79
(※ 私(ホントウの真理を発見した者)のIDである★rdiOR01yVt_Qi5により、投稿者の判別を願う。)

>>81
 返信いただいたアカウントが管理者に削除されたのでこちらのアカウントから投稿します。

1ヶ月前 No.87

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

宿題さん

「どのようなHow」も、「何故Why」も、(複数対立的な)意味を付したゆえに生じるものなのです。

1ヶ月前 No.88

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

ホントウの真理を発見した者さん

正しい生き方をしますか?

悪事を行って快楽を追求しますか?

正しいとはどのようなことですか?

1ヶ月前 No.89

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

宿題さん

「正しい」とは意味です。
「正しい」とはどのようなことか?という問いに対する答えは、個人にされた教育や経験で異なってきます。

内容は辞書にも書いてあるとおりですが、その意味は個人ごとに千差万別です。意味の付与は、根源的に自由です。どのような人生をおくりたいですか(意味を付与したいですか)?

1ヶ月前 No.90

違反報告 ★Android=LwOf3iUFQ6

>ホントウの真理を発見した者さん


他スレでも呼び掛けましたが、
一応こちらでも呼び掛けさせて頂きます。
今一度ご確認下さい。

>返信いただいたアカウントが管理者に削除されたのでこちらのアカウントから投稿します。


このご発言が嘘ではないのでしたら、削除ペナルティ回避行為であり、
メビウスリング禁則にもあります通り、ペナルティ対象となる違反行為です。
こちら( http://aurasoul.mb2.jp/wiki/guid/%C5%EA%B9%C6%C0%A9%B8%C2 )を今一度きちんとご確認なさった上でルールを正しく守って利用しましょう。

1ヶ月前 No.91

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

>>91 エトさん

>>81 で呼んだら出てきましたか(笑)久しぶり(笑)

ノーベル賞お楽しみに。

1ヶ月前 No.92
ページ: 1 2

 
 
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