Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(39) >>

デカルト論破2

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(145) - いいね!(1)

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

「デカルト論破」( http://mb2.jp/_tetsugaku/1047.html )の続きです。


デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」を絶対に疑えない真理であると主張しました。さらにそのうえで、その真理を哲学の第一原理(公理)として定めました。

この「我思う、ゆえに我あり」という表現の本質とは、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち「疑っているこれ」の存在は絶対に確実であり、その上で、「疑っているこれ」を「我」と呼んでいるのです。すなわち、

デカルト
@疑っているこれは、絶対に存在する。
A疑っているこれとは、我である。

なのです。

さて、ここで、「疑えない」の否定は「疑える」です。

そこで私(ホントウの真理を発見した者)が、

ホントウの真理を発見した者
@疑っているこれは、絶対に存在する。
A疑っているこれとは、何なのか?。我なのかもしれない、葦なのかもしれない、幻影なのかもしれない、という疑いが残る。

という疑いを発見し、疑える事実を確認しました。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではありません。


以上が成り立つ根拠を次のとおり説明します。

まず、説明に先立ち、理解の統一のため、デカルト著の方法序説から「我思う、ゆえに我あり」の部分について引用します。(デカルトの記述順になるように番号を振っています)
『デカルト 著(谷川多佳子 訳),「方法序説」,岩波文庫,1997年』より引用(一部抜粋)

引用開始
@「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念の中にまったく疑えない何かが残るかどうか見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論を間違えて誤謬推理をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。」
A「すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(我思う、ゆえに我あり)」」
B「それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。」
C「反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えていること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。」
D「これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。」
E「そして、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。」
引用終了

以下、引用を参照しながら説明します。


まず、引用@を実行します。

疑っても、疑っても、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち「疑っているこれ」があるということだけは、決して疑えないのです。なぜなら、たとえ、その「疑っているこれ」の存在を疑ったとしても、やはり「疑っているこれ」があるのですから。つまり、すべてを疑っても、決して疑えず、どんな懐疑にも耐えられるものとは、「疑っているこれ」だけなのです。すなわち、

@疑っているこれは、絶対に存在する。

となるのです。しかしながら、まだ、ここでは自分という「我」は存在(登場)していません。したがって、@の上で、

A疑っているこれとは、我である。

とすれば、論理的に、「疑っている我は、絶対に存在する」とすることができます。

ここで、「疑っている我は、絶対に存在する」とは、引用Aの部分である「そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」と同義であり、そこから同様に「我思う、ゆえに我あり」が導出されます。

したがって、「疑っているこれ」を「我」とすると、「我思う、ゆえに我あり」が必然的に成立します。


すなわち、論点は、【「疑っているこれ」とは「我」である】としている部分です。

ここで重要なことは、【「我」とは何か?】ではなく【そもそも、なぜ「我」としたのか?】を論点としていることです。

引用@から引用Eまでをまとめると、デカルトは、

デカルト
疑えない何か→考えていること自体→わたし

としています。

この場合、私(ホントウの真理を発見した者)は、定義された言葉の意味の範囲を理解したうえで、「疑っているこれ(疑っているそのもの)」を「考えていること自体」と同義であるとして表現しており、また、「我」を「わたし」と同義であるとして表現しています。

したがって、この場合についても、【「疑っているこれ」とは「我」である】と同義である「考えていること自体→わたし」という部分が論点となります。

ここで、これからの私(ホントウの真理を発見した者)の論証において間違いを犯さないために、まず、論点となる「考えていること自体→わたし」がデカルトの主張であることを確証させる必要があります。引用Cを用いて、論理的に検証すると、「考えていること自体→わたし」が次のとおり導出されます。

引用Cにおける文前半の「自分」が文後半の「わたし」と同義である場合を検証します。この場合、「わたし」を文前半に主語として存在させてしまっているので、「わたしは存在するから、わたしは存在する」のように何の意味ももたない文となります。したがって、文前半の「自分」が文後半の「わたし」と同義ではない(異議である)ことがわかります。次に、文前半の「自分」が文後半の「わたし」と異議である場合を検証します。この場合、「考えていること自体」が「わたし」となりますが、「考えていること自体」が「わたし」より先立っていることがわかります。すなわち、「考えていること自体→わたし」が導出されます。

次に、「考えていること自体→わたし」が何をもって成立するのかを突き止めます。

デカルト著の書物には、「考えていること自体」とは「わたし」であると定義するといった旨の記述はありません。また、引用Cは、「帰結する」という、すなわち、結果として出てくる事態という意味であることから、「考えていること自体」とは「わたし」であるということを定義づける意味でないことは明らかであり、そしてそれは、きわめて感覚的に行われたことがわかります。

まとめると、まず、論点となる「考えていること自体→わたし」はデカルトの主張です。次に、「考えていること自体→わたし」ということについては、まず、言葉の意味の範囲からして、「考えていること自体」と「わたし」を結びつけることはできません。次に、それがずばりその正体を表現する場合であるとしても、それに対する根拠や定義について、デカルト著の書物には示されていません。示されているのは、引用Cのきわめて感覚的な決定だけです。

したがって、「考えていること自体」とは「わたし」であるというのは、きわめて感覚的な決定、すなわち、思い込みなのです。そして、「考えていること自体」とは「わたし」であるということから必然的に成立する命題である「我思う、ゆえに我あり」もまた、思い込みなのです。

デカルトが自身著の方法序説において、間違えた部分は引用Aです。これを正しく修正すると、次のとおりになります。

A「すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているそのものは必然的に何かでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえに何かは存在する(我思う、ゆえに何かあり)」」

したがって、正しい命題は、「我思う、ゆえに何かあり」となります。

しかしながら、この命題、結局は、「何かはあるがそれが何だかわかりません」と言っているのと同じなのです。

すなわち、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とは、結局、何の主張にもなっていないのです。


一方、私(ホントウの真理を発見した者)は、

ホントウの真理を発見した者
疑えない何か→疑っているこれ(疑っているそのもの)→これ(そのもの)とは何か?

という疑いを発見し、疑いが残る事実を確認しました。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではありません。


ここで、この「疑っているこれ」の呼び名とは何でもよく、「疑っているこれ」でも「我」でも何でもいい、といった反論があったことについて、次のとおり論破します。

「疑っているこれ」の呼び名が、何でもいいのであるならば、なぜ多くの呼び名の中から、デカルトは「我」を選択して「我思う、ゆえに我あり」としたのか?

これ自体に疑いが残るのです。

何でもいいという、「何」とはホントウは、何なのだろうか?

疑いの余地が、まだあります。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」には、まだ疑いの余地があるのです。


このように、私(ホントウの真理を発見した者)は、『デカルト 著(谷川多佳子 訳),「方法序説」,岩波文庫,1997年』に基づいたうえで、絶対に疑えないこと(真理)において、「我思う、ゆえに我あり」が真だと主張するデカルトに対し、その主張は間違っている(偽である)と指摘し、それを実証してみせました。

「これは我だ」と主張するためには、「疑っているこれ」を「我」と思い込むか定義するしかないのです。


結論です。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とは、「疑っているこれ(考えていること自体)」は「我(わたし)」であるという思い込みから必然的に成立する命題です。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではなく思い込みなのです。

デカルト完全論破です。

--------------------

また、上記、デカルト論破の内容についての擁護のために、同じ方向の見解である中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)を次のとおり引用します。

【引用開始】

「デカルトの懐疑の筋を忠実にたどっていくと、すべてを「疑う(dubito)」という行為からいきなり疑えない第一原理として「私は考える(cogito)」に至る。いや、それ以前に、すでに「疑う」や「考える」という動詞を一人称の変化によって表現している。ここにすべての問題が集中する。」

「言語を習得した有機体S1が、「何ごとか(X)が<いま・ここ>で生じている」(これを命題@と呼ぶ)と(心の中で)語るや否や、命題@は「私が考える」(これを命題Aと呼ぶ)という表現に吸収されてしまう。なぜなら、違和感を抱きながらも、こうした「吸収」に抵抗できないことが、S1が「私」という言葉を理解していることだからである。」

「こうした三重の先取りのもとで「私は考える、ゆえに、私はある」という文章を読む者は、これが絶対に疑いえない真であると思い込んでしまう。」

「すなわち、言語を習得した有機体としての読者は「私は考える」こととは異なったシニフィアンである「私はある」(命題B)を、あたかも「何ごとか(X)が<いま・ここ>で生じている」ということだけから導出できるかのように思い込んでしまうのだ。」

「これまでの考察から判明するように、じつはここには何の「導出」もない。しかし、すでに「私」という言語を学んだS1は「何ごとか(X)が<いま・ここ>で生じている」(命題@)に留まり続けることができない。S1はそれを「私は考える」と「翻訳」してしまう。このとき、その「私」に自己同一的・疑似物体的な意味を盛り込まないこともできない。さらに、「私」をそうとらえてしまえば「ゆえに、(自己同一的・疑似物体的)私がある」ことも承認せざるをえない。」

「以上をまとめてみよう。デカルトが「私は考える、ゆえに、私はある」という言葉を文法にかなったフランス語で文字に書き記し、彼は読者に「私、考える、ある」という言葉を”正しく”理解するように要求している。それは、すなわち、<いま・ここ>で生じていることを、「私」という自己同一的・疑似物体的なものとして理解することであり、そのもとで「私は考える」と「私はある」とを端的に直観することである。こうした強圧的な要求に屈した読者は、デカルトの懐疑を遂行しながら、<いま・ここ>で生じているナマの事実から眼を離し、「私は考える、ゆえに、私はある」をもっぱらこの文章で構成する言葉の日常的意味に沿って理解しようとし、その結果これこそA=Aという同一律以上に、いかなる前提も先取もない第一原理だと思い込んでしまう。読者はみごとにデカルトの罠にかかったのである。」

「同様に、「(私以外の)Xは考える、ゆえに、Xはある」も絶対確実な原理ではない。」

「だが同時に、「私」という言葉を学んだ者は<いま・ここ>で生じている怒りや腰の痛みや「思い」が私の怒り、私の胃の痛み、私の「思い」であると思い込んでしまうのだ。しかし―ヒュームが正確に見抜いたように―、そこに「私の」という所有形容詞をつけても、それらはこの怒り、この腰の痛み、この「思い」以上のものではない。」

「これは「私」という言葉を学んだ者にとってあまりにも自然な錯覚なので、「この痛み」と「私の痛み」とのあいだのギャップは気がつかずに跳び越されてしまう。」

「「私は考える、ゆえに、私はある」が哲学の第一原理であるのは、S1(有機体)が言語を習得してしまうと、語る前の時へはけっして戻ることができず、それからは言語で語ることができる世界を受け入れるほかない、という原理だという意味である。」

「こうして心身問題というアポリアは、あらゆる哲学的アポリアと同様に、湧き出す<いま>と観念としての<いま>の「あいだ」に、跳び越しえない間隙が開かれていることに帰着する。湧き出す<いま>を忘却して、観念としての<いま>によって世界を覆い尽くそうとするとき、あらゆる哲学上のアポリアが発生するのだ。湧き出す<いま>とは、言語を学んだ有機体が世界を意味づけつつあり、同時にいわばその反対側に、「私」を生じさせつつある動的現場である。観念としての<いま>とは、すでに意味づけられた世界が開かれている静的現場であり、そこにおいてあらゆる意味はすでに確定されているとみなされている。」

「その(湧き出す)<いま>において、世界における多様な意味はまだ確定しておらず、私は、まったく能動的に意味を付与するのだ。しかし、ほとんどの場合、この能動作用は、きわめて安定的に見える意味によって隠蔽され、私は世界にこびりついた意味をただ受容しているだけであるかのように思われてしまう。赤い色を見るとは「赤い」色を受容することであり、リンゴを見るとは「リンゴ」という名の果物を受容することである、というふうに。しかし、そうではない。いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できない。」

【引用終了】

--------------------

以上の私(ホントウの真理を発見した者)のデカルト論破とその擁護である中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)の内容から導出されることは、すべての哲学のアポリアは、【「生起」に「意味の付与」を既に固定化してしまった】<観念>と、【「生起」に「意味の付与」をしつつある】<観念以前>との差であるということに帰着します。哲学のアポリアは、後者の<観念以前>を忘却して、前者の<観念>によって世界を覆い尽くそうとするときに発生します。その<観念>がデカルトの「我思う、ゆえに我あり」なのです。そして後者の<観念以前>こそ、仏教の「無分別智の境地」や西田幾太郎の「純粋経験」を示しているのです。

「生起」は語り得ません。語れば即時に「意味の付与」になります。

したがって、すべては意味の付与であることが帰結されます。

4日前 No.0
関連リンク: 西田幾多郎 存在主義X 
ページ: 1

 
 

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

運営もしっかり管理してほしいものですが(笑)

あうら☆マスターさんお願いしますよ。(各☆リーダーの指導をお願いします。)

削除された記事は、 http://mb2.jp/_tetsugaku/1101.html を参照ください。

4日前 No.1

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>157,158  ザビビのふくろうさん

ゴミ箱行き楽しみにしています(笑)

>何か、最近、この掲示板で、私、すっかりヴィランになってる気がしないでもないんだけど、気のせい?(笑)

気のせいじゃないですか(笑)


さて、現在、私の主張している内容をまとめますと、

・純粋経験(サビビさんが私に反論済)
>>0 (保留中)
・中島義道(保留中)


では、西田幾多郎「善の研究」(岩波文庫)の純粋経験を丁寧に紐解いていきましょうか。

p24
「純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないと言われている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかもしれぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起こるので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。」

p25
「純粋経験はかく自ら差別相を具えた者とすれば、これに加えられる意味或いは判断というのは如何なる者であろうか、またこれと純粋経験との関係は如何であろう。」


以上から、【要点】を抜き出すと、

@純粋経験は、意味がない。
A意味は、経験其者の差別より起こる。
B意味(後者)は、純粋経験(前者)によって付与されるものではない。
C純粋経験は、自ら差別相を具えたものである。
D意味は、純粋経験に加えられるものである。

キーワードは、「純粋経験」、「差別相」、「意味」ですね。

一番わかりやすいのは、「純粋経験」→「刺激」、「意味」→「反応」に置き換えることですね。

「刺激」には、例えば「波長450nm」や「波長620nm」といった刺激があります。そしてそれら異なる刺激が「差別相」になるわけです。そして、その「差別相」があるからこそ、「反応」できるのです。

もしも、「差別相」がなく、一義的な「刺激」(例えば、「波長450nm」)だけであればどうでしょうか?それを「赤」と「反応」できませんね(笑)

「波長620nm」の刺激といった、「波長450nm」の刺激と異なる刺激という「差別相」があるからこそ、「青」に対して「赤」だねといった「反応」ができるのです。

これが純粋経験の本質です。


強調しておくと、
B意味(後者)は、純粋経験(前者)によって付与されるものではない。

そうですね(笑)先立つ順序が逆ですね。


また、
D意味は、純粋経験に加えられるものである。

だからこそ、加えることができますね(笑)


>>157
>これを読めば、純粋経験自体が差別相をそなえていて、判断が純粋経験に意味を付与するのではない、判断や意味は、逆に、この純粋経験による起こる、と明らかに書いてあります。判断は純粋経験に何も付与しない、と西田自身がはっきり述べているわけです。

「判断が純粋経験に意味を付与するのではない」←能動と受動表現を間違って捉えていますよ。(【要点】のBまたは原文を参照のこと)
「この純粋経験による起こる」←経験其者ではなくて「差別(相)」によって起こると書いてありますよ。(【要点】のAまたは原文を参照のこと)

正直言って、間違いだらけです(笑)

上記のように【要点】を整理してみてくださいね。


>よって、あなたの解釈は全くの誤りであるということです。
>ということで、完全論破。
>あなたね、デカルトも西田も、もっときちんと読まなきゃ。
>まったく読解が無茶苦茶なんだよ。

まったくのフルカウンターのお見舞いしました。

4日前 No.2

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>163  ヴィランのふくろうさん

>「「我思う」を不可疑とする理屈」の(1)(2)(3)を根拠として、「我思う」が不可疑であると論証した結果なんだよ。

なるほど(笑)


>ふくろう:(1) 自分が今考えているということを疑えるか?

「私の考え」と「この考え」との間隙が見えませんかね(笑)


>(2) 自分は存在しないと考えることができるか?

「この考え」→「私の考え」という「吸収」に抵抗できないことが、ふくろうさんが「私」という言葉を理解していることだからです(笑)


>(3) 私はすべてを疑うことができるか?

そもそも、すでに「疑う」や「考える」という動詞を一人称の変化によって表現している場合は無理でしょうね(笑)


デカルトは、「私は考える、ゆえに、私はある」という言葉を文法にかなったフランス語で文字に書き記し、彼はふくろうさんに「私、考える、ある」という言葉を”正しく”理解するように要求しているのです。それは、すなわち、<いま・ここ>で生じていることを、「私」という自己同一的・疑似物体的なものとして理解することであり、そのもとで「私は考える」と「私はある」とを端的に直観することなのです。こうした強圧的な要求に屈したふくろうさんは、デカルトの懐疑を遂行しながら、<いま・ここ>で生じているナマの事実から眼を離し、「私は考える、ゆえに、私はある」をもっぱらこの文章で構成する言葉の日常的意味に沿って理解しようとし、その結果これこそA=Aという同一律以上に、いかなる前提も先取もない第一原理だと思い込んでしまったのです。ふくろうさんはみごとにデカルトの罠にかかったのです。

4日前 No.3

Con. ★iPhone=rQ5qdcoexz

敢えて口を突っ込むのであれば、デカルトの」我思う、故に我あり」はもうずっと昔にカントから批判されています。

なのでデカルトが神の存在証明を行なっている訳であって、神の存在証明の部分に関しての言及をなしに「我思う、故に我あり」の部分だけを触れているなら、それってデカルト論破じゃなくて「我思う、故に我あり」論破じゃないんですかね

幾ら長々とレスをされた所で、全てはこの部分に尽きると思うんですけど・・・。
まさか神を信じてないから神の存在証明に触れてないとか、そんな簡単な理由じゃないでしょうね。
ってだけ言うだけ言ってみました。目についたので

3日前 No.4

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>2

Bが読みとして間違っていますよ。

1)純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないと言われている。
2)かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかもしれぬ
3)が、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起こる
4)ので、後者は前者によりて与えられるのではない

大きく分けると1)2)と3)4)に分けられます。前者は、想定される読者の反応。後者はその反応に対しての訂正です。

なので「@純粋経験は、意味がない。」も、読みとしては間違っていると思います。@のこの書き方では、西田自身が「純粋経験は意味をもっていない」と主張しているかのようになります。このように読みますと、たしかに、純粋経験には意味が欠けていることになりますので、純粋経験には意味が与えられるべきだ、という筋道になるでしょう。もしそうであれば、純粋経験は根源ではないことになるでしょう。でも、そうじゃないよと西田は言いたい。そのために、最初の「純粋経験は意味がない」という人々の意見に対して、この箇所で検討しているんです。

ここで、読むうえで誤解をまねく表現は「かくいえば」という接続詞です。これをみると、なんだか西田が「私がこのように主張すると」と言ってる風に思えてしまいます。これが@のように要点整理がなされる原因の一つです。しかし、この「かくいえば」は穏当に「そう聞くと」という意味かと思われます。もっというと、「したがって」くらいの意味だと思っておいてよいかもしれません。(※この「かくいえば」を、「わたくし西田がこのように主張すれば」と読むこともできないわけではありません。詳細後述)

さて、西田は読者が「純粋経験とは何だか混沌無差別の状態である」と思っていると想定します。そして、その感想は誤っていると、修正しようとします。そのために「経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ」と主張します。無差別じゃないよ、差別相を備えてるんだよと、誤りを正そうとします。

この議論の流れを見届けたところで、後半の3)4)を見てみましょう。3)では「が、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起こる」と言われます。頭の「が、」という接続は、「読者諸君はそう思うかもしれない、が、余はこう主張したいんだ」というニュアンスです。読者諸君は「純粋経験は意味がない」と思っているので、諸々の意味や判断が純粋経験という無差別なものに後から加えて差別相を与えてやらなきゃならないと、思われるかもしれない。すなわち、意味全般に関しては「種々の意味や判断」が「純粋経験」に先立つと思われるかもしれない。が、西田は反対に、「純粋経験」が「種々の意味や判断」に先立つと主張する。しかし、《種々の》意味や判断がそこから生じるためには、純粋経験がそれ自体で分節をもっていなければならない。その理由は、意味や判断が《種々の》すなわち複数のものだから、だけではない。単一の判断でも、抑がその他のものとの関係における判断であるので、差別相が必要なのだ。そこで西田は「種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起こる」と言います。ここには大きく分けて2つの論点があるでしょう。一、諸判断は経験の後に来る。二、差別は、経験自体が有する。

本題です。俺が指摘したのは要点Bが間違っているということでした。これは4)の「ので、後者は前者によりて与えられるのではない」という箇所について読み間違ってるという指摘でした。結論から言うと、「後者」と「前者」が指示する語について、ホントウの真理を発見した者さんは誤読していると思います。

>B意味(後者)は、純粋経験(前者)によって付与されるものではない。


これは、前者を「純粋経験」だとし、後者を「意味」だとする解釈です。すなわち、4)における「前者/後者」は、1)における語を指示しているという読解釈でしょう。これに対して俺は、「前者/後者」は3)における語を指示しているという解釈を提示します。

すなわち、前者を「種々の意味や判断」だとし、後者を「差別」だとする解釈です。この解釈を取るならば、4)は「差別は種々の意味や判断によりて与えられるのではない」と読めます。もしそうであれば、差別はどこから出てくるのでしょうか。それを教えてくれるのが、4)のあとに続く箇所です。

5)経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。

なんで西田がこう主張するのかというと、諸判断が純粋経験をはじめて切り分けるのではないからです。すなわち4)だからです。4)は3)の言い換えです。3)の肯定的表現を、4)では否定的表現に言い換えています。(※俺の勘では、本来は3)が4)の言い換えです。)3)の要点は、先件と後件との確認のほか、これからようやく与えられるまでもなく純粋経験それ自体が差別を有するということでした。これは2)の「純粋経験は無差別だ」という臆見への反論になります。そして2)は否定されました。では、1)は?1)の内容は、世間の人々によって言われている意見です。この意見から推論される2)は否定されました。しかし、少なくともこの箇所では、1)は全面的に否定されていないと、俺は読みます。

なぜでしょうか?《純粋経験それ自体が差別を有する》ということは《純粋経験は意味を有する》ということでしょう。なら、1)に対しても西田は否定主張しているのではないでしょうか?いや、まず君は、《差別を有する》と《意味を有する》が無条件に相互変換可能だと思っているのではないかな?本当にそうなのかな?西田がこの箇所で言ってるのは《それ自体差別を有する純粋経験は、諸々の意味や判断の根拠である》ということだ。これは《純粋経験それ自体が意味を有する》という主張かな?言うなれば、「そこまでは言っていない」のではないかな?それとも君はこう思うかな?《種々の意味が純粋経験から起こるなら、純粋経験のなかにはあらかじめ意味がしまわれていなければならない。よって、純粋経験のなかに意味はしまいこまれている。したがって、純粋経験のなかには意味が有る》と思うかな?そう思うのは勝手だが、少なくともこの箇所では、西田はそこまで言っていない。

1)は、世間の人の意見、いわば常識だ。これをばっさり切り捨てるようなことを西田はしないだろう。しかし、常識を鵜呑みにもしないだろう。その常識の意味を解明する。彼は「 弁 証 法 」をする。意味がないならカオスであり、カオスを当てにはできない。しかし、ここでの「意味がない」とは、《なんらか特定の判断にあらず》という意味だ。純粋経験は特定の判断ではない。それは意味全般の根源である。特定の意味は《特定の判断》に有するものだ。ところが、純粋経験は《特定の判断》ではない。したがって、純粋経験に特定の意味はない。だから、「純粋経験は意味がない」のだ。すなわち無意味。しかし、無意味だからどうでもいいのではない。それは特定の意味をもたないが、ありとあらゆる諸判断・諸意味の根源である。どうでもいいどころか、それが最も大切だ。

さきほど述べた「かくいえば、」についての解釈は、このように弁証法的に考えることで、《西田自身がこう言えば》と読むことも可能になります。なぜなら、西田だって世間の人だからです。西田も常識をもつ。しかし西田は普通人々が言う「経験だけなら事実だけだから意味はない」という常識の真意を発見した。西田がその言葉を言うとき、他の一般人が同じ言葉を言うときより、深みが出るかもしれない。彼はその常識からスタートして、経験とは何であるかの考察を経て、またその常識へと帰ってきた。弁証法。このとき、スタート地点の常識とゴール地点の常識は《同じ》か?ある意味では同じだが、その意味ないし真理が踏まえられているかいないかという点では異なる。他の人々も同じ常識をもっているが、考察の旅はしておらず、考察の帰郷もしておらず、ただ直接常識を受け入れているだけだ。かたや、いまや西田は旅し帰郷した。その常識はもはや《これを否定するなんて非常識》という意味を失っているかもしれない。それはもはや即自ではないかもしれない。西田は「経験だけなら意味はない」という言葉の意味を深く理解したうえで「経験それ自体で意味がある」と言う用意ができたことだろう。しかしこのとき、「意味がある」という言葉は、《考察の旅と帰郷》をしたことのない者には、理解できないものであるだろう。なぜなら、常識と矛盾するからだ。

さて、ということで、あくまで読みとしては、@Bは間違いでしょう。ちなみに、ACは正しいと思います。Dについては保留します。間違っているとは思いますが、完全にそう読めないわけではないと思うからです。というのも、純粋経験があらゆる意味の根源であるならば、純粋経験それ自体は意味をもたないと読むことが可能であり、もしそう読むならば、意味というものを人々は存在すると思っているのだから、意味(ないし判断)は純粋経験に加えて数えなければならないものとなるでしょう。しかし、このような読み方は、蛇足と称するのが相応しいでしょう。

こういった読解上の問題とは別に、《純粋経験それ自体が差別相を有する》とは何のことであるかという、哲学的問題があります。

この哲学的問題は、このスレの根本的なところ、動的現場と静的現場との絡みに、関わってきます。さっき俺は、考察の旅と帰郷の話をした。そういう旅をしたことのない人は、意見をただ受け入れて、いわば直接性の世界に生きる。こうした人を《我》のモデルにすると、「私は世界にこびりついた意味をただ受容しているだけであるかのように思われてしまう」だろう。「しかし、そうではない。いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できない。」

ここらへんを論じるには、少なくとも『不在の哲学』の読解を要するだろうな。

3日前 No.5

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>2  スレ主さん

やれやれ、チミね、西田を読む国語力がないわ。

>種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起こるので、後者は前者によりて与えられるのではない、


「後者」→「経験其者の差別」

「前者」→「種々の意味とか判断」

>純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかもしれぬが、…(中略)…経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ


この意味は

「混沌無差別」→「無分別」

「差別相を具えた者」→「無分別ではない」

国語の読み方指導までしなくちゃならないなんて…

きちんと読み直しなさい!

3日前 No.6

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>5

ああ、てじさんが指摘してくれてましたね。

3日前 No.7

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

どうして、 http://mb2.jp/_tetsugaku/1101.html の記事が削除されたんでしょう?
で、同じタイトルでまた立っているんで、何なのかよくわかりません。

3日前 No.8

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

てじさん、ザビビのふくろうさん

>>5,6

 そうですね。

  >>0 にも読み方に問題があるところが、いくつもありますので、ここに1つあげておきます。

>>0 から抜粋します。

抜粋開始

 したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではありません。
 以上が成り立つ根拠を次のとおり説明します。

 『デカルト 著(谷川多佳子 訳),「方法序説」,岩波文庫,1997年』より引用(一部抜粋)

引用開始
@「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念の中にまったく疑えない何かが残るかどうか見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論を間違えて誤謬推理をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。」
A「すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(我思う、ゆえに我あり)」」
B「それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。」
C「反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えていること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。」
D「これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。」
E「そして、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。」
引用終了
以下、引用を参照しながら説明します。

 まず、引用@を実行します。
 疑っても、疑っても、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち「疑っているこれ」があるということだけは、決して疑えないのです。なぜなら、たとえ、その「疑っているこれ」の存在を疑ったとしても、やはり「疑っているこれ」があるのですから。つまり、すべてを疑っても、決して疑えず、どんな懐疑にも耐えられるものとは、「疑っているこれ」だけなのです。

 すなわち、
@ 疑っているこれは、絶対に存在する。
となるのです。しかしながら、まだ、ここでは自分という「我」は存在(登場)していません。

 したがって、@の上で、
A疑っているこれとは、我である。
とすれば、論理的に、「疑っている我は、絶対に存在する」とすることができます。

 ここで、「疑っている我は、絶対に存在する」とは、引用Aの部分である「そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」と同義であり、そこから同様に「我思う、ゆえに我あり」が導出されます。

 したがって、「疑っているこれ」を「我」とすると、「我思う、ゆえに我あり」が必然的に成立します。

 すなわち、論点は、【「疑っているこれ」とは「我」である】としている部分です。
 ここで重要なことは、【「我」とは何か?】ではなく【そもそも、なぜ「我」としたのか?】を論点としていることです。

 引用@から引用Eまでをまとめると、デカルトは、
 デカルト
 疑えない何か→考えていること自体→わたし
 としています。

抜粋終了

 というわけですが、
 C「反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えていること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。」を、どう読んだら「疑えない何か→考えていること自体→わたし」になるのでしょうか?

  >>0 の引用@から引用Eは、次のように読めます。
デカルトは、
@疑いうるものは全部廃棄し、わたしの信念の中に何が残るか見きわめねばならない。感覚により生じるものは存在しないとし、論証とみなしていた推理をすべて捨て去った。
→Aその結果、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」が残った。
→Bそのうえで、「わたし」とは何かを注意ぶかく検討した。
→C考えていること自体で、「わたし」が存在するという結論が導かれる。
→D「わたし」は、実体であり、その本性は考えるということだけ、場所も要せず、物質的なものにも依存しない。
→E私が述べた真理(Aのこと)の保証は、「考えるには存在することが必要」と明晰にわかっていることだけだと認めた。

 このスレをご覧の方で、このように読まないという方がいれば、別の読み方を投稿いただければ幸いです。

 ※ 同内容を http://mb2.jp/_tetsugaku/1047.html-465#aに投稿済み。2018/09/23 12:36 No465

3日前 No.9

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>5  てじさん

>>2
【要点】
B意味(後者)は、純粋経験(前者)によって付与されるものではない。

という部分については、

>すなわち、前者を「種々の意味や判断」だとし、後者を「差別」だとする解釈です。この解釈を取るならば、4)は「差別は種々の意味や判断によりて与えられるのではない」と読めます。

そのとおりですね(笑)

http://mb2.jp/_tetsugaku/1101.html-157#a
>判断が純粋経験に意味を付与するのではない

の表現があまりにもめちゃくちゃすぎて混同しました(笑)


訂正すると、
B差別(後者)は、意味(前者)によって付与されるものではない。


であれば、

>西田は反対に、「純粋経験」が「種々の意味や判断」に先立つと主張する。しかし、《種々の》意味や判断がそこから生じるためには、純粋経験がそれ自体で分節をもっていなければならない。その理由は、意味や判断が《種々の》すなわち複数のものだから、だけではない。単一の判断でも、抑がその他のものとの関係における判断であるので、差別相が必要なのだ。そこで西田は「種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起こる」と言います。ここには大きく分けて2つの論点があるでしょう。一、諸判断は経験の後に来る。二、差別は、経験自体が有する。

のように意味(前者)よりも差別(後者)が先立つということになりますね。これは私の見解と同一であり、既に了解済です。


>いや、まず君は、《差別を有する》と《意味を有する》が無条件に相互変換可能だと思っているのではないかな?

違いますよ。それらは別々であって、例えれば、《刺激》と《反応》の関係です。


>それとも君はこう思うかな?《種々の意味が純粋経験から起こるなら、純粋経験のなかにはあらかじめ意味がしまわれていなければならない。よって、純粋経験のなかに意味はしまいこまれている。したがって、純粋経験のなかには意味が有る》と思うかな?そう思うのは勝手だが、少なくともこの箇所では、西田はそこまで言っていない。

これも私の考えではありません。純粋経験の中に意味はしまいこまれません。刺激の中に反応がないようにね。


【要点】@とBについては、了解しました。しかしながら、それらの表現の指摘は、私の語る純粋経験の【本質】に何ら影響を与えません。

以下【本質】です。(てじさんの表現の指摘を受けて@からDまでを改めています。)

@欠番
A意味は、経験其者の差別より起こる。
B差別(後者)は、意味(前者)によって付与されるものではない。
C純粋経験は、自ら差別相を具えたものである。
D意味は、純粋経験に加えられるものである。

キーワードは、「純粋経験」、「差別相」、「意味」ですね。

一番わかりやすいのは、「純粋経験」→「刺激」、「意味」→「反応」に置き換えることですね。

「刺激」には、例えば「波長450nm」や「波長620nm」といった刺激があります。そしてそれら異なる刺激が「差別相」になるわけです。そして、その「差別相」があるからこそ、「反応」できるのです。

もしも、「差別相」がなく、一義的な「刺激」(例えば、「波長450nm」)だけであればどうでしょうか?それを「赤」と「反応」できませんね(笑)

「波長620nm」の刺激といった、「波長450nm」の刺激と異なる刺激という「差別相」があるからこそ、「青」に対して「赤」だねといった「反応」ができるのです。

そしてその「青」とか「赤」というのは、「刺激」に対する「意味」の付与(加えられるもの)なのです。

3日前 No.10

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>6,7  ザビビのふくろうさん

>「後者」→「経験其者の差別」
>「前者」→「種々の意味とか判断」

これは、そのとおりですね(笑)読み間違いですね。だからといって、 >>10 のように私の語る純粋経験の【本質】に何ら影響を与えませんが(笑)


>「混沌無差別」→「無分別」
>「差別相を具えた者」→「無分別ではない」

これはザビビさんの間違いですね(笑)


>>5 のてじさんの表現を借りれば、

>いや、まず君は、《差別を有する》と《意味を有する》が無条件に相互変換可能だと思っているのではないかな?本当にそうなのかな?西田がこの箇所で言ってるのは《それ自体差別を有する純粋経験は、諸々の意味や判断の根拠である》ということだ。これは《純粋経験それ自体が意味を有する》という主張かな?言うなれば、「そこまでは言っていない」のではないかな?それとも君はこう思うかな?《種々の意味が純粋経験から起こるなら、純粋経験のなかにはあらかじめ意味がしまわれていなければならない。よって、純粋経験のなかに意味はしまいこまれている。したがって、純粋経験のなかには意味が有る》と思うかな?そう思うのは勝手だが、少なくともこの箇所では、西田はそこまで言っていない。


ということで、私が出る幕もなく、てじさんに論破されています(笑)


国語の読み方指導までしなくちゃならないなんて…

きちんと読み直しなさい!


ああ、てじさんが指摘してくれてましたね。

(フルカウンターの舞)

3日前 No.11

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

>「波長620nm」の刺激といった、「波長450nm」の刺激と異なる刺激という「差別相」があるからこそ、「青」に対して「赤」だねといった「反応」ができるのです。そしてその「青」とか「赤」というのは、「刺激」に対する「意味」の付与(加えられるもの)なのです。


倒錯を感じる。「青」とか「赤」というものの方が、より純粋経験に近い観念(純粋経験から直接抽出された観念)であって、「波長620nm」の刺激、「波長450nm」の刺激とかいったものの方がより意味の付与(加えられたもの:解釈)的な性格が強いと思われるが、いかが。

3日前 No.12

Con. ★iPhone=rQ5qdcoexz

結局なんで神の存在証明はスルーなんですかね?

3日前 No.13

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>12  ちょっとねさん

それは表現の問題です。そこに本質はありません。

私が、私なりに、語りえぬ純粋経験を無理矢理表現しただけだからです。私として、より純粋経験に近い観念の言葉として。

ちょっとねさんとして、より純粋経験に近い観念の言葉を置き換えていただければ結構です。

2日前 No.14

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>13  Con.さん

>結局なんで神の存在証明はスルーなんですかね?

それは二の次です。「我思う、ゆえに我あり」を前提とした証明ですから。

2日前 No.15

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

 【まとめ】純粋経験とは


この説明のために、西田幾多郎「善の研究」(岩波文庫)を引用する。

p24
「純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないと言われている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかもしれぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起こるので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。」

p25
「純粋経験はかく自ら差別相を具えた者とすれば、これに加えられる意味或いは判断というのは如何なる者であろうか、またこれと純粋経験との関係は如何であろう。」


ここで、引用した内容の要点を4つ列挙する。

【要点】
@意味は、経験其者の差別より起こる。
A差別(後者)は、意味(前者)によって与えられるのではない。
B純粋経験は、自ら差別相を具えたものである。
C意味は、純粋経験に加えられるものである。
※引用文に基づけば、構造として、@及びAの関係は、「@なのでA」である。

以上の要点を次のとおり図1に示す。


--------------------
刺激1←意味1「赤色だ!」を加える

(差別)

刺激2←意味2「青色だ!」を加える

(差別)

(以下続く)

※ 純粋経験を(無理矢理)「刺激」と表現している。
--------------------
図 純粋経験


図の左側のように(刺激と表現した)純粋経験は、差別相を具える(【要点】B)。そして図の右側のように意味は、経験其者の差別よって生じ得るものであり(【要点】@及びA)、純粋経験に加えられるものである(【要点】C)。


図を次のとおり補足的に例示する。

キーワードは、「純粋経験」、「差別相」、「意味」である。

ここで「純粋経験」を「刺激」、「意味」を「反応」に置換する。

「刺激」には、例えば「波長450nm」、「波長620nm」等といった刺激がある。それら異なる刺激が「差別相」になる(【要点】B)。そして、その「差別相」があるからこそ、「反応」できる。

仮に、「差別相」がなく、一義的な「刺激」(例えば、「波長450nm」)だけであれば、「赤」であるというように「反応」できない。

「波長620nm」の刺激といった、「波長450nm」の刺激と異なる刺激という「差別相」があるからこそ、「青」に対して「赤」であるという「反応」ができる(【要点】@及びA)。

そしてその「青」や「赤」の反応というのは、「刺激」に加えられる「意味」なのである(【要点】C)。

※「波長450nm」及び「波長620nm」は、語り得ない刺激を無理矢理表現したものである。


以上。

2日前 No.16

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

依頼があれば、大学(院)等で講義しますよ。

私はもはや、哲学者であり哲学教授です。

2日前 No.17

Con. ★iPhone=rQ5qdcoexz

何を言ってるんですかね。カントから批判を受けたから「我思う、故に我あり」の土台として神の存在証明を行ったんでしょう。にも関わらず「我思う、故に我あり」と言う発言の土台をスルーしてこの発言を論破しようなんて話にならないと言わざるを得ない様に思いますが。

2日前 No.18

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>7  ザビビのふくろうさん

なるほど(笑)理解できました。

てじさんの指摘( >>5 )のように、あなたは、《考察の旅と帰郷》を果たしていないわけだ(笑)

だからこそ、こうした人を《我》のモデルにすると、「私は世界にこびりついた意味をただ受容しているだけであるかのように思われてしまう」だろう。「しかし、そうではない。いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できない。」


まず、私(や西田幾多郎、中島義道)のように、《考察の旅と帰郷》を果たしてから出直してください(笑)


てじさんの指摘( >>5
>この哲学的問題は、このスレの根本的なところ、動的現場と静的現場との絡みに、関わってきます。さっき俺は、考察の旅と帰郷の話をした。そういう旅をしたことのない人は、意見をただ受け入れて、いわば直接性の世界に生きる。こうした人を《我》のモデルにすると、「私は世界にこびりついた意味をただ受容しているだけであるかのように思われてしまう」だろう。「しかし、そうではない。いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できない。」

2日前 No.19

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>5  てじさん

てじさんであれば、私の哲学的内容を理解できるかもしれませんね。

とりあえず、(不当に削除された記事を含め)最近に私が主張した内容を以下に貼ります。

--------------------

・私は、その対象に対して、どれだけ多大な意味を付与してしまったことか。それがわかっただけでも救われた。

・みなさんも、「社会的に付与された意味」に屈することなく、能動的に意味を付与されたい。

・論理というものも、〈観念〉が前提にあることがわかるだろう。例えば、2A(A=A)のように、別々の実体を同一のイデアとみなす(移行する)という観念である。

・すべては意味の付与であることがわかったうえで、「社会的に付与された意味」に屈することなく、能動的に意味を付与されたい。

・「人間社会」のそれ自体もまた、意味の付与であると気がつくとき、私は真に自由になれるのだ。

・我々は、生得的に“赤い”を知っているわけではない。そのように意味を付与されて、それを受け入れてきたのだ。それが教育である。そして、それが条件反射レベルまで刷り込まれた結果、すべては観念(クオリア)化するのである。

・「気にすべき存在」であると意味を付与しているから気になるのである。『職場で「A」という人物の名前が一番呼ばれている。だから「A」は職場で有名な存在だ。』違う。私が「A」という人物に「有名」であると意味を付与しているのである。次の日、「B」という人物が結婚したことを職場の大半が理解した。その日、そのうえで『職場で「B」という人物の名前が一番呼ばれている。だから「B」は職場で有名な存在だ。』とはならないだろう。『だから「B」は職場で有名な存在だ。』ではなく『「B」は結婚したからね。』だろう。以上より、刺激(「A」という人物の名前という音)に意味を付与していることがわかるだろう。では、なぜそのように意味を付与するようになったのか?そのように意味を付与されることを受け入れてきたからである。それが教育(テレビCMのような刷り込みを含む)であり、その教育を推進した人類(生物)の歴史そのものなのであろう。つまり、「そうなってきた」のである。しかしながら、いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できないのであるから、「人間社会的に付与された意味」に屈することなく、能動的に意味を付与されたい。

・したがって、我々は、意味付与体なのである。

・何も刺激がないはずの朝目覚めた直後すぐに「あの子」が想起された。では、「あの子」は唯一絶対であり、本質は実存に先立つのか?違う。これは、今朝、目覚めた直後すぐに米津玄師の「Flamingo」が脳内に再生されたことにより論破できたのだ。“何も刺激がない”刺激に「あの子」や米津玄師の「Flamingo」の意味を付与していたのである。


以上。

2日前 No.20

ヴィランのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

http://mb2.jp/_tetsugaku/1101.html-162#a

>>えぴめてうすさん


やはり水掛け論になると思いますので、この問題については、このへんで打ち止めということでどうでしょうかね?(笑)

ということで、最後のつもりで、私の考えを簡単にまとめます。

@ あなたの言い分が整合的ではないと思われる点。
P:>私自身は、デカルトの方法的懐疑を導入した場合、「我あり」の「我」も、「我思う」の「我」も、「我思う」の「思う」も、「我あり」の「あり」も疑いえないと考えています。なので、私の考えは、それらは疑いえないので、文は意味をなさなくなんてならない。
Q:>「我思うゆえに我あり」の初めの「我」も疑うの?、「思う」も疑うの?、「あり」も疑うの?、それじゃ文が意味をなさなくなるでしょ。

私には、このPとQは整合的とは思えません。スレ主が疑おうとしても、あなたが言うように疑い得ないのだったら、意味をなさなくなんてならないから。

A 私自身の立場から。方法的懐疑を実行しても、文が意味をなさなくなることはありえない。だから、スレ主が何を疑おうと、意味をなさなくなることはありえない。だから「それじゃ文が意味をなさなくなるでしょ」という発言に対して、いや、ならない、と言っている。

一言で言うと、いくら説明されても、Qが私には納得いかない、ということです。

2日前 No.21

ヴィランのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>スレ主さん


いやまあ、よくそれだけ好き勝手言えるもんだ(笑)

「分別」については、先に、私は「差別」と同義として解釈したが、これは適切でなかったと認めよう。
正しくは、むしろ「思惟」「判断」と解釈すべきだから、
>「混沌無差別」→「無分別」

>「差別相を具えた者」→「無分別ではない」

は取り下げます。
で、アホらしくて議論を抜けようと思っていたけど、この間違いを犯したお詫びの代わりと言っては何だけど、議論を続けることにするよ(笑)
まあ、てじさんも入ってきたし、少し面白くなってきたのでね。

さて、まずは、スレ主さんの言うことを否定しておこう。
>>12 のちょっとねさんの指摘は正しい。
そもそも「刺激と反応」という外的視点での図式は、いわば純粋経験一元論である西田の考えからは、むしろ純粋経験の視点から説明されるべきものであって、まさに顛倒しているわけだ。
根本的無理解だね。
で、これはスレ主がパクっている中島さんの世界観にも言えること。
スレ主が図式化したのは次。

>刺激1←意味1「赤色だ!」を加える


これは、

語られる前の世界 ←意味付与←我(超越論的主観)

という図式で、この構造はカントの

物自体界(語りえない世界) − 表象世界(解釈(意味付与)世界) −超越論的主観

という図式の焼き直しとも言える。

>>16
>※「波長450nm」及び「波長620nm」は、語り得ない刺激を無理矢理表現したものである。


これが決定的誤り。
語りえないと言いながら、これを語りうるものにモデル化してしまっている。
要するに、語りえないものと言いながら、語ってしまっているのだ。
本人には全くその自覚がない。

西田の純粋経験の世界観というのは、こういった二世界説を否定するものだ。

>気まぐれさん、てじさん、ちょっとねさん


ふくろう:「純粋経験とは、いわば未だ語られていない、その前の、語りうるものである。」
気まぐれ「純粋経験とは、いわば未だ語られていない、その前の、語りを可能にするものである。」

に関係する論点について述べます。

問題は、先にも述べましたが、たとえば、
 赤を純粋経験できるか?
ということ(ここでは措くが「メロディー」を純粋経験できるか?も重要)。

色盲の人の純粋経験の世界には、色という差別相が存在しない。
色覚健常者のそれには、色という差別相がある。

したがって、色覚健常者には
 「これは赤い」
という判断が可能で、色盲の人にはそれが不可能である。
つまり、色という差別相によって色の判断は可能となっている。
だが、ことはそう単純ではない。
色覚を有する生物は人間以外にもいる。
そういった動物にとっても、例えば色の赤は知覚可能で、例えば、オスにとって、雌の体色が赤いということはメスが発情しているという意味を有しているかもしれない。
しかし、その動物にとっての知覚世界に色の差別相が存在しても、それは「これは赤い」という判断の可能性はない。
それは言うまでもなく言語を有していないからだ。
人間にとっても、色覚を有すること、つまり、色の差別相が純粋経験世界に存在することが、このように、仮に動物と同レベルの単なる差別相があるだけであったとしたら、「これは赤い」という判断は不可能である。
つまり、単に差別相があることは、判断、意味の必要条件ではあっても、十分条件ではないということだ。
すなわちこれは、純粋経験している色が、概念としての「赤」だということが把握できていなければ、「これは赤い」という判断の可能性がないということを意味する。
したがって、次のことが言えるだろう。
意味の実質(内容)は未だ生成していなくても、その可能性(形式)は純粋経験の中に含まれていなければならない(喩えれば、いわば解凍される前の圧縮ファイル?)。
そして、意味の可能性が純粋経験の中に含まれているということは、判断の可能性、語りの可能性があらかじめ純粋経験の中に含まれていなければならない、ということを意味する。

ここで注意が必要なのは、スレ主のような無理解の人間は、これを、次のように誤って理解することだ。
差別相だけがあって言葉の存在しない純粋経験の世界に、我(超越論的主観)によって意味付与がなされる=言語による解釈がなされる、というふうに捉えること。
これが、最大の誤り。

ここでとりあえず切ります。
どなたでも、できればコメントをお願いします。

以上の私の見解は、前に引用した次の部分および、

西田幾多郎『善の研究』岩波文庫(p.19~20)
「純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないと言われている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかもしれぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起こるので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。」

これに続く部分に大体よります。

西田幾多郎『善の研究』岩波文庫(p.20)

「また今余が視覚として現れたる一経験を指して机となし、これについて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験其者の内容に何らの豊富をも加えないのである。要するに経験の判断とか意味とかいうのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者の内容を豊富にするのではない。意味或いは判断の中に現れたる者は原経験より抽象せられたるその一部であって、その内容においてはこれよりかえって貧なる者である。勿論原経験を想起した場合に、前に無意識であった者が後に意識せられるような事もあるが、こは前に注意せざりし部分に注意したまでであって、意味や判断によりて前になかったものが加えられたのではない。」

2日前 No.22

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

ヴィランのふくろうさん

>>21

>私には、このPとQは整合的とは思えません。


 私は、スレ主さんが、「我あり」の「我」を形式的に疑っているだけと理解はしています。
 「我あり」の「我」って、ほんとに「我」なのかと問うてみることは、スレ主さんでも、ふくろうさんでも、わたしでも誰でもできるという考えです。
 しかし、それが疑いうるかどうかは別で、捨て去り得るものなのかどうかの判断が人によって違うんだと思っています。
 なので、疑ってみるというんなら、そうしてもいいけど、他も疑うべき(理由は説明済み)だし、もし全部疑いうるものとするんだったら、捨て去ればならない。そんなことをすれば、意味ある文が作れなくなるよという意味が次のQです。この説明でもダメでしょうか。
 ただ、疑いうるかそうでないかは、人の思想によって、完全に白黒つくものではないという感覚が私にあるのかもしれません。むしろ私の方が許容範囲が広いということかもしれません。

Q:>「我思うゆえに我あり」の初めの「我」も疑うの?、「思う」も疑うの?、「あり」も疑うの?、それじゃ文が意味をなさなくなるでしょ。

>スレ主が疑おうとしても、あなたが言うように疑い得ないのだったら、意味をなさなくなんてならないから。


 私もそう思ってますよ。

A 私自身の立場から。方法的懐疑を実行しても、文が意味をなさなくなることはありえない。だから、スレ主が何を疑おうと、意味をなさなくなることはありえない。だから「それじゃ文が意味をなさなくなるでしょ」という発言に対して、いや、ならない、と言っている。

 それはそれで前から了解しています。自分の考えをおっしゃっているんですから。

2日前 No.23

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

ホントウの真理を発見した者さん

>>20

>(不当に削除された記事


 どうして削除されたのですか?

 今年、 http://mb2.jp/_tetsugaku/1101.html-88#aで、下記のようにおっしゃっていたのに、補足なのか、おしゃべりなのか、復活と撤退の繰り返しは4月以降も続きそうですね。
 官僚の方が勤務時間中に投稿するのは、国民の目が厳しい中、控えられた方が良いと思いますよ。

***********************************************************************

みなさんへ

>>1 のように主張したところではありますが、それは哲学の内容に限定しておいて( >>0 のとおり私の哲学的探究は終わったので)、私の主張の真意となる部分の真偽を補足的に主張していきたいと思います。(今年度までには完全に撤退します。)

***********************************************************************

 昨年は、 http://mb2.jp/_tetsugaku/1047.html-1893#aで、下記のようなこともおっしゃってましたのにね。

***********************************************************************

今年最後であり、生涯最後の投稿です。

哲学掲示板においても、始まりと終わりに変化はありませんでした。

哲学であっても、「あたりまえではない」を揺るがし得なかったということです。

追伸

これ以降の私(ホントウの真理を発見した者)の投稿は、偽物として取り扱いください。

***********************************************************************

  >>0 では、「デカルト論破の内容についての擁護のために、同じ方向の見解である中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)」を引用されていますが、あなたが勝手にそう思っているだけではないのですか?
 あるいは、ただ単に中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)を読んで、結論だけパクッているだけではないのですか?
 勝手に名前を使われた中島義道氏は、迷惑ではないのでしょうか?

2日前 No.24

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

ヴィランのふくろうさん

まず確認です。

私は純粋経験は人間が“する”ものではなく、純粋経験に於いて人間が成立すると考えているのですが、
どう思いますか?
人ごとに差別相があるように、人自体が純粋経験の差別相なのだと私は思います。


>赤を純粋経験できるか?


という問いを見ると人間(何らかの主体)が純粋経験をするというように捉えているように思えてしまうので…。

「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なるものである。」p17

…正直、ふくろうさんの問題意識を共有できていないような気がするので、頓珍漢なことを言っているのかもしれませんが…。

2日前 No.25

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>25  気まぐれさん

>…正直、ふくろうさんの問題意識を共有できていないような気がするので、頓珍漢なことを言っているのかもしれませんが…。


あら、そうですか。私はようやく共有可能となってきたように思っていたんですが…
私の思い込み?(笑)

>私は純粋経験は人間が“する”ものではなく、純粋経験に於いて人間が成立すると考えているのですが、どう思いますか?

>>赤を純粋経験できるか?

という問いを見ると人間(何らかの主体)が純粋経験をするというように捉えているように思えてしまうので…。

純粋経験というのは意識現象であり、後にこの純粋経験が立ち現れる場としての意識は「場所」と言われるようになりますよね。
この場としての意識が、いわば無としての〈私〉でしょう。
これは例えば「デカルト」と交換可能な「私」ではない、〈私〉だと思います。
つまり、〈私〉は主観・客観の主観でもなく、
スレ主が言うような、純粋経験に意味を付与する超越論的主観としての我でもありません。
純粋経験というのは、いわばこの〈私〉において、赤という色が立ち現れるわけです。

って感じですね。
どんなもんでしょう?

2日前 No.26

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>22  ヴィランのふくろうさん

>そもそも「刺激と反応」という外的視点での図式は、いわば純粋経験一元論である西田の考えからは、むしろ純粋経験の視点から説明されるべきものであって、まさに顛倒しているわけだ。

それは「純粋経験」を「刺激」、「意味」を「反応」として置換させたまで。

西田幾多郎に、「純粋経験」と「意味」の表現について、次のとおり指摘してください。「語りえないと言いながら、これを語りうるものにモデル化してしまっている。要するに、語りえないものと言いながら、語ってしまっているのだ。本人には全くその自覚がない。」とね(笑)
本書くなって言ってるようなものですよ。


>しかし、その動物にとっての知覚世界に色の差別相が存在しても、それは「これは赤い」という判断の可能性はない。
>それは言うまでもなく言語を有していないからだ。

考察がお粗末すぎ(笑)

犬は言語を有していないかもしれないけど、パブロフの犬(条件反射)はどうかな?人でも同じだね。「梅干しを見ると、つばが出てくる。」←ここに言語は不要だね。

条件反射は、強く刷り込まれた意味の付与なんですよ。

「いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できない。」(中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)より引用)

これがわからなければデカルトの理解も厳しいな。


>したがって、次のことが言えるだろう。
>意味の実質(内容)は未だ生成していなくても、その可能性(形式)は純粋経験の中に含まれていなければならない(喩えれば、いわば解凍される前の圧縮ファイル?)。
>そして、意味の可能性が純粋経験の中に含まれているということは、判断の可能性、語りの可能性があらかじめ純粋経験の中に含まれていなければならない、ということを意味する。

だからこれも間違い。てじさんが >>5 で提示したとおりですよ。

>>5
>それとも君はこう思うかな?《種々の意味が純粋経験から起こるなら、純粋経験のなかにはあらかじめ意味がしまわれていなければならない。よって、純粋経験のなかに意味はしまいこまれている。したがって、純粋経験のなかには意味が有る》と思うかな?そう思うのは勝手だが、少なくともこの箇所では、西田はそこまで言っていない。


>差別相だけがあって言葉の存在しない純粋経験の世界に、我(超越論的主観)によって意味付与がなされる=言語による解釈がなされる、というふうに捉えること。

“言語”というのは(人間だけが理解できうる)デカルトの批判に使用したもので、すべてを言語で説明しているわけではないの。ちゃんと本読んでね。


>>26  ザビビのふくろうさん

>純粋経験というのは、いわばこの〈私〉において、赤という色が立ち現れるわけです。

赤という色と判断を加えている時点で既に純粋経験じゃないでしょ。

西田幾多郎「善の研究」(岩波文庫)p17
「純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。」

2日前 No.27

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>24  えぴめてうすさん

>どうして削除されたのですか?

知りません。どうしても気になるのであれば、削除した管理人に問い合わせて結果を教えてください。


>「デカルト論破の内容についての擁護のために、同じ方向の見解である中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)」を引用されていますが、あなたが勝手にそう思っているだけではないのですか?
>あるいは、ただ単に中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)を読んで、結論だけパクッているだけではないのですか?
>勝手に名前を使われた中島義道氏は、迷惑ではないのでしょうか?

中島義道氏じきじきにお返事をいただき、 >>0 の内容の「同じ方向の見解」として「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)p209を薦められたからです。

2日前 No.28

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

「なぜ、私の手元に中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)があるのか?」

このように問うと、

「中島義道氏(哲学者)じきじきにお返事をいただき、「同じ方向の見解」として薦められたからである。」

2日前 No.29

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

ふくろうさん

>純粋経験というのは、いわばこの〈私〉において、赤という色が立ち現れるわけです。


<私>という場に於いて<私>が限定され分化発展していく中で赤が生じるわけですね。

そのことが

>>赤を純粋経験できるか?


にどのように繋がるのかが、よくわからないのです。

1日前 No.30

ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ

>>30  気まぐれさん

><私>という場に於いて<私>が限定され分化発展していく中で赤が生じるわけですね。


いや、そこまでは言っていません(笑)
これを「限定」と言ってよいかは保留させてください。

純粋経験についてのお互いの理解を、前に次のように確認しましたね。

ふくろう:「純粋経験とは、いわば未だ語られていない、その前の、語りうるものである。」
気まぐれ「純粋経験とは、いわば未だ語られていない、その前の、語りを可能にするものである。」

私がさらにあなたに問いたいのは、あなたの考えでは、色を純粋経験することはできるのか、色の純粋経験はありうるのか?
あるいは、色は純粋経験、意味、判断、これらのどこに含まれるのか?ということです。

たとえば、スレ主の例えでは、色は純粋経験に含まれません。
純粋経験に含まれるのは何某かの波長であって、色そのものは純粋経験に含まれないことになります。
スレ主の考えでは、この波長が色を可能にするものということになります。
この考えは、一見あなたの考えと近いように思えます。
波長が「語りを可能にするもの」と解釈できそうだからです。

あなたはスレ主の考えについてはどう思いますか?

1日前 No.31

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>気まぐれさん


あの、迂闊なことを言ったらボロクソ言われるんじゃないかとか、心配せず述べてくださいね(笑)

私も、前の規定はミスリーディングだから訂正すべきかなと思ってるんです。

ふくろう:「純粋経験とは、いわば未だ語られていない、その前の、語りうるものである。」
気まぐれ「純粋経験とは、いわば未だ語られていない、その前の、語りを可能にするものである。」

純粋経験が命題によっては語り得ないことはたしかです。
その意味では、私もあなたの規定のほうが良いと思うんですよ。
しかし、その一方で、あなたの規定は、スレ主の規定と区別がつかなくなる気もするんですよね。
なので、その辺を、もう少し詰めたいというか、正確に掴まえたいと思って、あなたの考えを確認しているんです。

1日前 No.32

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>27  スレ主さん

>それは「純粋経験」を「刺激」、「意味」を「反応」として置換させたまで。


やれやれ,わからん人だね。
それが根本的に間違っている,と言ってるんだよ。
@ 純粋経験→判断(意味)
A 刺激→反応
私が言ってるのは,@をAとしてモデル化して解釈することはできない,ということ。
逆で,Aにより@を説明するのではなく,Aは@により説明されるべきものであるとするのが純粋経験ですべてを説明しようとする西田の立場なんだよ。
西田説を否定するならともかく,それを理解するために,純粋経験を外側の視点から解釈してどうするんだって話だよ。

>西田幾多郎に、「純粋経験」と「意味」の表現について、次のとおり指摘してください。「語りえないと言いながら、これを語りうるものにモデル化してしまっている。要するに、語りえないものと言いながら、語ってしまっているのだ。本人には全くその自覚がない。」とね(笑)

本書くなって言ってるようなものですよ。

アホなモデル化をしているのはきみであって,西田ではない。
それに,語りえないものと言いながら,中島さんをパクってそれで解釈し語っているのも,きみであって,西田ではないし,中島さんでもないのよ。
なのに何で私が西田にそんな的外れなことを言わなきゃならんのよ。

>犬は言語を有していないかもしれないけど、パブロフの犬(条件反射)はどうかな?人でも同じだね。「梅干しを見ると、つばが出てくる。」←ここに言語は不要だね。


笑わせる。
だから,純粋経験と判断の関係は,刺激と反応の関係とは根本的に違うんだよ。
アバウトにわかりやすく言うと,行動主義心理学ではクオリアを扱えない。
それと、「この円は赤い」という判断をするには,言語が必要じゃん。
ワンコが「私は“この円は赤い”と判断する」と思惟することがありえると思うの?(笑)

>「いかに熟知した意味でも、私がそのつど新たに意味付与することなしには、私はそれを知覚できない。」(中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)より引用)

>これがわからなければデカルトの理解も厳しいな。


分かるって言うのなら,この中島さんの主張が正しいことを証明してごらん。
中島さんの考えをパクったからといって,正しいとは言えないんだよ。
きみは自分が正しいと思う人の言うことは全部正しいと思っているのか?
言うまでもない話,中島さんの考えが絶対正しいわけではないんだよ。
それに,中島さん自身が、自分の考えは西田と同じだと言ったわけでもない。
中島さんの考えと,西田の考えが同じだと思うきみは,何にもわかっていないってことよ。

>だからこれも間違い。てじさんが >>5 で提示したとおりですよ。


なぜ,てじさんが述べたことが正しいんだよ?
私はてじさんの発言を念頭に,反論を述べている。
しかも,てじさんは >>5 で,「そう思うのは勝手だが,少なくともこの箇所では,西田はそこまで言っていない」と述べているから,「その箇所ではそうかもしれないが,別の箇所を読めば西田がそう考えている,あるいは,そうでなければならない,ということが言える」ということを示すために,私は >>22 の最後で,その別箇所を引用したんだよ。
もちろん,実際はそこだけではなくて,『善の研究』全体及びその後の思想も鑑みての見解だ。
たぶん,きみと違って,てじさんはそういう私の意図を理解しているんだよ,だね?てじさん(笑)

>赤という色と判断を加えている時点で既に純粋経験じゃないでしょ。


きみは赤の純粋経験と,「これは赤い」という判断の区別すらついていないんだよ。
論外なんだな全く。
西田は次のように言ってるんだよ。

西田幾多郎『哲学概論』岩波書店(p.180)
「真の直接経験の事実は,我がそれを知っているというのではない。我が知るというのではなく,ただ知るということがあるだけである。否,知るということがあるのでもない。赤ならばただ赤というだけである。これは赤いというのも既に判断である。直接経験の事実ではない。直接経験の事実は,ただ,言語に言い表すことのできない赤の経験のみである。赤の外に「知る」とか「意識」とかいうことは不用である。赤の赤たることが即ち意識である。意識というものがあって,それが赤となったり緑になったりするというが,しかし直接経験にはそういう抽象的意識はない。意識というものがあって,これが赤から緑に変ずるのではない。赤が緑に変ずるのがそれよりも根本的である。」

正確に言うと,ここには言語に言い表せないと言いながら「赤」と言っている矛盾がある。しかし,これは「言語」を「命題」と置き換えれば解消する問題だ。
意図としては色の純粋経験は存在するということだ。しかし,それは判断ではないんだよ。

1日前 No.33

気まぐれ ★enkLv60QnF_Qi5

ふくろうさん

お言葉に甘えて、率直に意見を述べることにします。
しがないサラリーマンの身としては、平日の日中はレスできませんけどね(笑)

「真の直接経験の事実は,我がそれを知っているというのではない。我が知るというのではなく,ただ知るということがあるだけである。否,知るということがあるのでもない。赤ならばただ赤というだけである。これは赤いというのも既に判断である。直接経験の事実ではない。直接経験の事実は,ただ,言語に言い表すことのできない赤の経験のみである。赤の外に「知る」とか「意識」とかいうことは不用である。赤の赤たることが即ち意識である。意識というものがあって,それが赤となったり緑になったりするというが,しかし直接経験にはそういう抽象的意識はない。意識というものがあって,これが赤から緑に変ずるのではない。赤が緑に変ずるのがそれよりも根本的である。」

このような箇所で赤の純粋経験等について述べる場合、時間を遡っているような印象を受けます。
まあ、我々は既に言語を習得してしまっているのですから、実際そのように語るほかないのですが。
つまり、我々は既に赤という言語を習得しているから赤の純粋経験と言えるということです。
既に限定されてしまっている「赤」からその成立の過程(「赤」が成立している時、既に主客は分離し意識が対象を認識しているという図式が成立している)を遡っていくことで<赤>(赤の純粋経験)に至り、そこから< >(純粋経験)に至る。という感じ。


スレ主と私の差異については、よくわかりません。
あまり興味がない。
ひとつ思いついたのは、スレ主(あるいは中島さん)の言葉で言えば、生起と意味の付与を峻別していることですかね。
生起と意味の付与を峻別することから超越論的主観が必要となる。
でも私は、生起と意味の付与はひとつのものの他側面という気がします。
生起が純粋経験なのではなく、純粋経験が生起と意味の付与を具え持っているのだと思います。

「主語的統一ではなくて述語的統一でなければならぬ」ということ。

1日前 No.34

ホントウの真理を発見した者 ★rdiOR01yVt_Qi5

>>31  ザビビのふくろうさん

>たとえば、スレ主の例えでは、色は純粋経験に含まれません。
>純粋経験に含まれるのは何某かの波長であって、色そのものは純粋経験に含まれないことになります。
>スレ主の考えでは、この波長が色を可能にするものということになります。

「波長」として語り得ているという時点で純粋経験ではないんですよね。なので“語り得ぬ刺激”として無理矢理わかりやすく「波長」として表現しているわけです。西田の「純粋経験」という言葉のようにね。


>>33  ザビビのふくろうさん

>私が言ってるのは,@をAとしてモデル化して解釈することはできない,ということ。

それはあくまで表現上の指摘です。しかも解釈ではなく、表現(言葉)の置換です。


>西田説を否定するならともかく,それを理解するために,純粋経験を外側の視点から解釈してどうするんだって話だよ。

>>16 の図式に基づけば、左側が“語り得ぬ”純粋経験の内側(差別相を具えている)、右側が外側(意味を加える)です。


>それに,語りえないものと言いながら,中島さんをパクってそれで解釈し語っているのも,きみであって,西田ではないし,中島さんでもないのよ。

しかし,これは「言語」を「命題」と置き換えれば解消する問題だ。(これどっかで見たことのある表現だな(笑))


>それと、「この円は赤い」という判断をするには,言語が必要じゃん。

言語で「この円は赤い」と判断しようとすれば、そりゃあ言語は必要ですよね(笑)


>分かるって言うのなら,この中島さんの主張が正しいことを証明してごらん。

自分で中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)を読んで哲学的に批判があればそこを指摘しなさい。


>なぜ,てじさんが述べたことが正しいんだよ?

あなたよりは、よく気がついていらっしゃいます。


>正確に言うと,ここには言語に言い表せないと言いながら「赤」と言っている矛盾がある。しかし,これは「言語」を「命題」と置き換えれば解消する問題だ。

私も >>16 でそうさせてもらいました(笑)


>意図としては色の純粋経験は存在するということだ。しかし,それは判断ではないんだよ。

色の純粋経験は存在するんだね。じゃあ、味の純粋経験も存在するわけだ。っていうことは、音の純粋経験も存在するわけだ。っていうことは、匂いの純粋経験も存在するわけだ。っていうことは、触れるという純粋経験も存在するわけだ。

違うでしょ。“何々の純粋経験”という時点で、すでにイデア論と同じになってしまっているんだよ。“何々の純粋経験”なんてないの。西田が語るのは“純粋経験”なの。

20時間前 No.35

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>35  スレ主さん

>「波長」として語り得ているという時点で純粋経験ではないんですよね。なので“語り得ぬ刺激”として無理矢理わかりやすく「波長」として表現しているわけです。西田の「純粋経験」という言葉のようにね。

>それはあくまで表現上の指摘です。しかも解釈ではなく、表現(言葉)の置換です。


やれやれ、きみには百万回言ってもわからんね。
クオリアの赤は、科学言語では記述できない。
つまり、ここでは表現が本質的なんだよ。
いわゆるクオリアのように主観的にのみ捉えらる性質を、波長や脳の神経の状態記述に還元できない。
「無理矢理わかりやすく」ってきみが何度言っても、「無理なものは無理」なんだよ。
それがわかりやすいと思っているのが根本的無理解だって言ってる。

>16 の図式に基づけば、左側が“語り得ぬ”純粋経験の内側(差別相を具えている)、右側が外側(意味を加える)です。


そんなことはわかってるんだよ。
だからその図式でとらえることがアホだって言ってる。

>>それに,語りえないものと言いながら,中島さんをパクってそれで解釈し語っているのも,きみであって,西田ではないし,中島さんでもないのよ。

>しかし,これは「言語」を「命題」と置き換えれば解消する問題だ。(これどっかで見たことのある表現だな(笑))


だから、純粋経験と判断の関係は、刺激と反応との関係とは違うから、置き換えられないって何度言ってもわからんな。そっちは解消するわけねーんだよ。

>>それと、「この円は赤い」という判断をするには,言語が必要じゃん。

>言語で「この円は赤い」と判断しようとすれば、そりゃあ言語は必要ですよね(笑)


アカン。何にもわかっとらん。もっとちゃんと読みなさい。

>>分かるって言うのなら,この中島さんの主張が正しいことを証明してごらん。

>自分で中島義道「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)を読んで哲学的に批判があればそこを指摘しなさい。


できないんだ(笑)
ただのパクリくんだからね。
もちろん、きみと違って、私はできる。
きみが中島説の正しいことの根拠を述べたら、いつでもやってあげる。
でも、きみはたぶん、先に言えって要求するだろうな、パクリくんだからね〜。

>>なぜ,てじさんが述べたことが正しいんだよ?

>あなたよりは、よく気がついていらっしゃいます。


自分では根拠を言えないんだ(笑)
ただのパクリくんだからね〜。
私は反論を述べたんだから、きみがてじさんに代わって反論をきちんと言えばいいじゃん。
ま、それができないんだね(笑)

>色の純粋経験は存在するんだね。じゃあ、味の純粋経験も存在するわけだ。っていうことは、音の純粋経験も存在するわけだ。っていうことは、匂いの純粋経験も存在するわけだ。っていうことは、触れるという純粋経験も存在するわけだ。

>違うでしょ。“何々の純粋経験”という時点で、すでにイデア論と同じになってしまっているんだよ。“何々の純粋経験”なんてないの。西田が語るのは“純粋経験”なの。


違わねーよ。

西田幾多郎『善の研究』岩波文庫(p.14)
「右にいったような意味において、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。」

スレ主くんだけは異論があるんだね〜(笑)
イデア(観念)としての赤は,言語で語る,あるいは判断のレベルで出てくるのであって,それ以前の知覚される赤は直接経験される赤,すなわち赤の純粋経験。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、以上でもう、スレ主の純粋経験についての解釈が論外なものであることは、十分に説明したし、これ以上述べることもない。
あとは、スレ主さんが理解できようができまいが、それは私にとってもどうでもよいことだ。
考える能力が御粗末なくせに思い込みが強く、おまけに権威主義だから我々がここで何を言ってもどうせ聞こうとしないしね。
まあ、何か入門書でも読めば,スレ主でも自分の間違い,アホさ加減に気づくでしょ。
あとは、西田解釈については他の人たちと議論はするつもりだが、スレ主さんとの議論は一応終了するつもりなのでよろしく。

6時間前 No.36

ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD

デカルトー西田先生つながりの流れになっているので、せっかくだから、西田先生のデカルト批判を読んでみよう。善の研究の二編第一章に記述がある。

「哲学が伝来の仮定を脱し、新に確固たる基礎を求むる時には、いつでもかかる直接の知識に還ってくる。近世哲学の始においてベーコンが経験を以て凡ての知識の本としたのも、デカートが「余は考う故に余在り」cogito ergo sum の命題を本として、これと同じく明瞭なるものを真理としたのもこれに由るのである。しかしベーコンの経験といったのは純粋なる経験ではなく、我々はこれに由りて意識外の事実を直覚しうるという独断を伴うた経験であった。デカートが余は考う故に余在りというのは已(すで)に直接経験の事実ではなく、已に余ありということを推理している。また明瞭なる思惟が物の本体を知りうるとなすのは独断である。カント以後の哲学においては疑う能わざる真理として直にこれを受取ることはできぬ。余がここに直接の知識というのは凡てこれらの独断を去り、ただ直覚的事実として承認するまでである(勿論ヘーゲルを始め諸(もろもろ)の哲学史家のいっているように、デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる)。」

ここで、『デカートが余は考う故に余在りというのは已(すで)に直接経験の事実ではなく、已に余ありということを推理している。』というのが、批判を書いている部分。ところがその後で、『デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる』と書いてあるところは、違う見方をしている部分。

批判している前半部は分かりやすいが、後半部は晦渋だ。「俺、分るぜ」って人いたら、後半部の『デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる』をどう読んでるか書いてもらえると嬉しい。

4時間前 No.37

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>37

それ、誰に向けてのレスなの?

3時間前 No.38

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>38

あっ、分かる人か(笑)書いてあった

2時間前 No.39
ページ: 1

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる