Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(16) >>

読むということ

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(382) - いいね!(0)

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

哲学掲示板において
読むという行為はさけられません。

私たちは日々文章により議論を戦わせています。

そのとき相手の文章を読むひつようがあります。

哲学の勉強をするときも、まずたいてい、哲学書や哲学入門書を読むことでしょう。

ひとつ、この読むという行為を反省して、その本質をかんがえてみませんか?

ページ: 1

 
 

地下水 ★lHRYPNADL9_TJc

 楽しみや考えを重ねていると、幾らか読み物を探す様になるのであろう、そうして自然と自分の楽しみや考えと類似した読み物に出会う。そうしてより公の同好の他者の読み物の時間を生きる事になる。もちろん自分独自の展開ではないから、幾分異なる誘導を受ける事になるが、概ね広い世界につながり、考察も、多くの他者の時間の考察の御蔭で、遥かに深い所までいざなわれるのである。
 他者の時間を生きるのではあるが、同好であるから自己を生かす事にもなる。独自の考察の世界を生きるだけでは、そこまで遠くまで考察を重ねるには時間が足りない事もある。しかし自分で演繹と発見を繰り返した道ではないから、その本の記憶が薄れると、自分の独自の道よりも早く忘れてしまって、道をたどり直す時に、障害物の石となりかねない。

3ヶ月前 No.1

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

(1)

仕事で書類をつくるのだけど、

例えば鑑・本体・請求書・明細書の構成。

送るからには控え(写し)をとっておくんだけど、複数の文書を同時につくってると、コピーしたりしたとき文書が混ざることがある。

このとき、文書作成者である俺は、ごちゃまぜの文書を取りあげていって、複数のまとまった書類(鑑・本体・請求書・明細書)に分けることができる。

そのとき俺は、送り先をしめす箇所と、書類の種類をしめす箇所と、原本か控えかをしめす箇所をみて、ならびかえる。

鑑は、書類全体の構成をつたえる。しかし俺は、わざわざ鑑をみなくても、ならびかえることができる。

ところが、よく事情を知らない人ならば、ばらばらの文書を整理するためには、鑑などに頼らなければならないかもしれない。もし鑑がなければ、書類を再構築できないかもしれない。

そういう人が完成している書類を扱うとき、書類の順番を変えないように注意を払うことがある。ばらばらになってしまったとき、自分だけでは再構築が難しいからだ。

しかし、鑑文書と、あと本体に独自のページ数や見出しに振られた番号等があれば、それをみて再構築できるかもしれない。けど少し面倒くさい。

あるいは、その書類の事柄に鑑みて、ページ等順番をしめすしるしを見ずとも、文書の内容をみて書類を再構築できるかもしれない。これはさらに面倒くさい。

その再構築は、もともとの構成よりも、良いものかもしれない。すなわち、書類の性格に沿うものであるかもしれない。というのも、その書類は前回(前年・前月)提出時の構成を踏襲しているだけかもしれず、そして前回の構成が、よく考えられたものではなかったかもしれないからだ。

3ヶ月前 No.2

久住哲 @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

真実を歪めるものを許さないとか、宗教を大切にするとか、懐疑しなければならないとか、そういう余計なものを取り去ったとき、俺に残ったのは、読むことと書くことだった。

俺はここ数年、本を読むことができなくなっており、ドラマや映画、小説、ゲームなども楽しむことができなくなっているが、書くことだけはできている。

会社の人は俺に「脳が萎縮している」「宇宙人」「アホ」と言ったが、それはある意味で当たっているところがある。俺には欠如したところがあるんだ。

この欠如をそのまま素直に受けとめたとき、真実を歪める者を許してはならないとか、宗教を尊重するとか、他人や自分の考えを変えなきゃならないとか、自己を否定しなければならないとか、そういうコダワリがなくなり、読むことと書くことだけが残った。

読むのは、書くためであり、書くのは、読む者の読解の助けとなるためだ。

俺はこのやり方でいい。

読むことの目的を忘れないようにしたい。

2ヶ月前 No.3

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

Regardons bien cette ombre : nous devinerons l’attitude du corps qui la projette. Et si nous faisons effort pour imiter cette attitude, ou mieux pour nous y inserer, nous reverrons, dans la mesure du possible, ce que le philosophe a vu.(この影をよく見てみよう:その影が投影する姿勢が分かるかもしれない。もしもその姿勢を真似ようと努力したら、あるいはもっとよいことには、その姿勢とひとつになろうと努力するならば、俺たちは、可能な範囲でのことではあるが、哲学者がまみえたものに再会するかもしれない。)

La pensee et le mouvantのp. 134より

これが俺の理想の読書法だった。

2ヶ月前 No.4

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

>>3

更年期障害に泣かされた私は・・大切な場所とホルモンが健康な身体生活を支えています・・

その守りたい大切な場所の一つです・・

海馬(かいば、英: hippocampus)は、大脳辺縁系の一部である、海馬体の一部。特徴的な層構造を持ち、脳の記憶や空間学習能力に関わる脳の器官。

その他、虚血に対して非常に脆弱であることや、アルツハイマー病における最初の病変部位としても知られており、最も研究の進んだ脳部位である。心理的ストレスを長期間受け続けるとコルチゾールの分泌により、海馬の神経細胞が破壊され、海馬が萎縮する。心的外傷後ストレス障害(PTSD)・うつ病の患者にはその萎縮が確認される。βエンドルフィン(=脳内ホルモンの一つ)が分泌されたり、A10神経が活性化すると、海馬における長期記憶が増強する。

2ヶ月前 No.5

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

俺も数年前は鬱鬱としていたし、ストレスも多かったので、

一時期記憶力がだいぶおかしくなったのそのせいかなと思いますね。

最近は、また記憶力なおってきたように思います。

A10神経って快楽の神経でしたっけ。

2ヶ月前 No.6

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

てじさん

A10神経とは・・

脳内の精神系を司る部位を中心に走っており、喜怒哀楽などの感情の源である、情動を支配しているといわれている神経系。

ドーパミン神経系の別名でもあり、この神経が刺激されるとドーパミンが分泌され、いわゆる喜怒哀楽を感じる。



DNAには遺伝子情報の中に過去世の記憶・念もあるかもしれません・・

2ヶ月前 No.7

ひこ太 @current ★r5box4meL6_Tbw

>>0

てじさん


http://mb2.jp/_tetsugaku/1025.html-134,143


読むという個々の行為から読むという行為そのものを取り出したとき、その本質を考えることが哲学だといいたいのかい?

すると、哲学書を読むことの本質が、哲学することだとでも?

それではまるで、この掲示板の住人たちが哲学をしているかのような言い方になってしまうではないか!

2ヶ月前 No.8

宿題 ★eM1n2yJmTo_Tbw

ひこ太さん

知恵を愛すれば哲学です・・

2ヶ月前 No.9

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

>>8

ヒコ太さん


http://mb2.jp/_tetsugaku/1025.html-69#a


で引用されている英文は『存在と時間』の§31の後半あたりと§44の冒頭ですね。

§31では「視」について語られているが、
これが「観測」に当たる。

§44冒頭からの引用英文中に

>哲学そのものは、「真理」の学問…として規定されている。

という文が見られる。

>観測されないものは哲学の対象ではない

のはなぜか。粗雑な筋道だけ示すならば
哲学は「真理」の学問だから、「真理」でないものは哲学の対象ではないのだが、観測されないものは「真理」でないので、観測されないものは哲学の対象ではない・・・ということだろう。

上記2つの引用では、観測されないものを対象としないという動向、これをどうして(ヒコ太郎さんが)「哲学」と呼ぶのか、の経緯がしめされている。

これは、ちょっと、まってねさんの「哲学ってもっと自由なものなんじゃないの?」という発言への応答ともなりうるでしょう。哲学は自由が許されているから、神など「経験を超えたもの」について論じることがある…のではない。哲学は架空を弄ぶものではない。

さて >>8 では哲学の如何が問題となっていますが、俺は、《「真理」の学問》として定義されるところの哲学を、まず目に入れておかなければならないでしょうね。

2ヶ月前 No.10

ネオアコ@科学技術学園 @touratoura☆qf5i42F096. ★Android=vfeDi8Pb9c

テステステステステステステステステステステステステステス

2ヶ月前 No.11

ひこ太 @current ★r5box4meL6_Tbw

>>10

>哲学は「真理」の学問だから、「真理」でないものは哲学の対象ではないのだが、観測されないものは「真理」でないので、観測されないものは哲学の対象ではない・・・ということだろう。

俺がそれを引用したのは、「真理」ではなくむしろ「存在」に注目したからである。
つまり、
>観測されないものは「真理」でない
というよりもむしろ、
>観測されないものは「存在」でない
ということである。

哲学は、世界と自分との関わりにおいて現れるのであって、その関わり方において「真理」があるとはいえるが、
俺が >>8
>読むという個々の行為から読むという行為そのものを取り出したとき
といったのは、「読むということの本質」とてじさんがいうことで、
てじさんは「読むということ」を、「読むという実際に行われた行為」としての「存在」から切り離している、というためである。

物語には、登場人物がいて、その登場人物たちと、(登場人物同士を含めた)世界との関わりが描かれる。
その物語は、雑多に何かが描かれるのではなく、あるいはそこには「本質」がある。
物語において登場人物や世界は、そのように定義されたものであり、その本質は、その定義の本質である。

てじさんがここで読むことの本質ということで推敲を重ね、あるいはその結論を出したときわかるのは、
そのような本質をもつものとして定義されたこととしての「読むこと」であって、
その本質は、その「物語」の本質にすぎない。

ということだ。
俺は特に哲学の定義をするつもりはないし、あるいはそれを定義することが哲学であるとは考えない。
俺が言ったことは、ハイデガーというコップに何も注がずに、「何かを飲む真似」だけをしている誰かへの、軽い皮肉である。

2ヶ月前 No.12

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

実際問題

(俺は)どうやって本読もう。読書にも方法ってものがあるだろう。俺は方法についてあまりに無自覚!だった。このままじゃずっと無自覚!だろう。

・一気に読むか?
・途中アウトプットするか?
・最初から最後まで読み通すべきか?
・まず概要を見届けるのか?
・常に細部気にするべきか?
・分からない箇所は飛ばしてもいいのか?
・分かるまで耐えるべきなのか?

こういった漠然としたことよりも、具体的方法を模索しようか。

解釈記すノートは、紙か、スマホか、パソコンか、それともホワイトボードか?

俺がドクショカイ(仮)でやっていること。最初から順々に段落を要約すること。正直に言う:本題に着くまえに飽きる。飽きるというのは言い過ぎか。うーん、なんというか・・・不手際を恐れて、本質から離れてる?

俺の目的のひとつ:他人の言葉を身につけること。これのために逐語的な要約は有効かと。しかし言葉を身につけるならば、言葉の組み合いを学ばなければならないのだけど、そのためにどうする?

ひとつ方法思いついた。それは《照射法》という…仮に。名前はとりまどうでもいい。根源から末端にいたる過程描く。そのときまず末端部分を提示しておく。そしてそれら全てを拾うまで根源を反復。

その他。

本質的箇所に注目。例えばデカルトの「明証」にフォーカス。そして「明証」の文章のなかでの位置を、探る。それはもしかすると画期的な《定義》だったんじゃないか。分からん。分からん。分からんけどそれを、確認したい。その確認のために読む。という仕方を読書の方法とする。どうだ?どうか・・・分からん。分からん。分からんけどやってみるか。

1ヶ月前 No.13

宿題 ★sicIy89Ne4_Tbw

てじさん

人間の精神は動物と違うのは霊性が死なない神の領域だというデカルトさんの話をご存知ですか?

精神の根源の領域は神の領域ではありませんか?

だとすればおいそれと根源には近寄れない・・

1ヶ月前 No.14

てじ @flyonbody ★iPhone=EWKnAVh1q8

俺はもう読めないのでは…という不安がある。

一年半前なら俺は「私はもう読書できないので云々」などと言ってただろうな。

そして、もう読めないということはこれまでも読めてきてなかったのでは…という不安がある。では、俺は何をしてきたんだろうか…?

俺の文章をみれば分かるが、俺は哲学には興味がない。俺は《読解可能性》などに興味がある。哲学は隠れ蓑というか、服みたいなものだ。俺は、自分の文章構築と、自分の読文可能性に関心がある。いや、関心があるというより、俺は文章に《陥落》しているんだ。酒に溺れるように、言葉を組み立てることに溺れている。それは、熱心な研究のようなものではない。酒を飲んで仲間と遊ぶとかでもない。ひとり酒に溺れるように、ひとり文章に溺れている。

読むとは何かが分からないんじゃなく、どう本を読めばいいのか分からない。分からないけど、読んでいる。

1ヶ月前 No.15

ひこ太 @current ★r5box4meL6_Tbw

>>13,15

 ここに、三冊の本がある。

 一冊は、誰にとっても価値のある本である。
 一冊は、誰にとっても価値のない本である。
 一冊は、自分以外には価値のわからない本である。

 てじさんには、これらがそれぞれなんであるか、わかるだろうか?

 哲学の世界ではしばしば人間は、精神は偉大な存在であると語られるが、俺は人間は最も愚かな存在であると思う。飼い犬から見れば、インクの染みのついた紙きれを熱心に眺めている姿はよほど愚かな存在に見えるであろう。ちょうど、人間が、く そやし 体に群がるはえを見て愚かな生き物だと思うのと同じことである。


>俺の文章をみれば分かるが、俺は哲学には興味がない。

 ヤギに諭吉を与えれば食べてしまう。おじさんの絵の描いてあるただの紙切れを、時には自分の命よりもありがたがる人間という生き物は愚かだ。一冊目の本は、金庫にしまってあって読むことができない。そうでないならば、美しい装飾のショーケースの中に飾ってある。なんのために?地獄の沙汰は金次第だが、金をあの世まで持っていくことはできない。それなのに、殊更に墓を飾り立て、金字塔をたてようとやっきになる。一冊目は、「偉大な書物」である。


>俺は《読解可能性》などに興味がある。哲学は隠れ蓑というか、服みたいなものだ。俺は、自分の文章構築と、自分の読文可能性に関心がある。
>どう本を読めばいいのか分からない。

 てじさんは、ハイデガーがカントを読解するさまを見て、もしくはメルロがデカルトを読解するさまを見て、「この人の読み方がいい読み方だ」と思うことがあるのだろうか?一体、読み方に可能とか不可能とか、そういったものがあるのだろうか?これはまさに、人間の愚かさを象徴している。およそ人間と呼べるものならば、いうならば、二冊目の本を手に取って読んでいることだろう。そして、次の日には捨てている。そう、二冊目は、「紙ごみの日に縛って捨てられる売れない本」である。


>いや、関心があるというより、俺は文章に《陥落》しているんだ。酒に溺れるように、言葉を組み立てることに溺れている。それは、熱心な研究のようなものではない。酒を飲んで仲間と遊ぶとかでもない。ひとり酒に溺れるように、ひとり文章に溺れている。

 酒にはどれだけの種類があるのだろうか。嗜好、嗜癖、人間の欲望は、止まることを知らない。狂ったようにそれを求め、依存し、あたかもそれがあれば世界の他のことがどうなろうと、知ったことではないとでもいいたげである。「吾輩は猫である」に登場する猫は、タバコの煙でむせてしまった。どうにもかわいそうである。これほど貪欲な存在は他にないだろう。同じ人間ですら、人間を「愚か」と揶揄するのは、このためである。それでも、人間の存在意義というのは、一重に、楽しむため、ではないだろうか。生きることということもできるし、存在ということもできる。しかし、「欲望」というのも言葉にすぎない。本当は、これを言葉で表すことなんてできない。なぜならば、本人にしかわからないことは言語化しても意味をもたないからである。三冊目は、「アルバム」である。



 人間が文字を発明したのはいつだろうか。一個の人間が文字を覚えたのはいつだろうか。言葉を知ってからというもの、人間がずっと言葉と一緒にいるのは何故だろうか?

>>3
>俺はここ数年、本を読むことができなくなっており、ドラマや映画、小説、ゲームなども楽しむことができなくなっているが、書くことだけはできている。
>会社の人は俺に「脳が萎縮している」「宇宙人」「アホ」と言ったが、それはある意味で当たっているところがある。俺には欠如したところがあるんだ。

 本に書いてあるのも言葉であるし、会社の人が揶揄するのに使っているのも言葉である。てじさんは楽しむことを言葉にしようとしているみたいだが、餅を絵に描いてもそれが食べられるわけではないし、空のグラスを傾けたところでワインが出てくるわけでもない。それは、人間が、自分が、空想上の存在ではなく、実際に存在しているからである。

1ヶ月前 No.16
ページ: 1

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる