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哲学の方法

 ( 哲学掲示板 )
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すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

 個人的にであれ、哲学的なテーマを探求するとき、その方法が確立していないと、恣意的な直観や人生経験に頼るばかりで、体系的に問題を把握するという態度が欠けてしまう。ましてや、哲学的なテーマは身の丈に合わない巨大なスケールを取りがちなのだから、偶然性に依拠してふらふらと直観を彷徨うよりも、必然性に依拠してしっかりとした足取りで歩む必要がある。

 論理に依拠して、見落とすべきでない事柄を見落とさないように、哲学の方法から探求するのもアリではないでしょうか。個人的には、私は現象学のような一人称観点から出発する方法を採用していますが、みなさんはどうでしょうか。

ページ: 1

 
 

宿題 ★sicIy89Ne4_6UX

すめんさん

哲学の基礎は論理学だと思いませんか?

その次は対話だと思いませんか?

その次は思索だと思いませんか?

そして神秘体験・・

7ヶ月前 No.1

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

 ぼくにとって哲学の方法とは現象学です。そして現象学とは「おのれを示すものを、それがそれ自身の方から現れてくるとおりに、それ自身の方から見えるようにすること」です(ハイデガー『存在と時間』第七節Cより)。
 ぼくは今までハイデガーのこの規定が理解できませんでしたが、「和解術」という気づきを通してみると、なんとなく理解できるようになりました。つまり、「おのれを示すもの」ときちんと打ち解けていなければ、「それがそれ自身の方から現れてくるとおりに」現れるということがなくなり、「それ自身の方から見えるようにすること」もできなくなります。
 だからぼくはこの現象学の規定に、「和解術」というニュアンスを読み取ります。すると、ハイデガーが「見る」だけではなく「聴く」ことを重視する理由も(『存在と時間』における「良心」の章)、存在の思索を「贈与」と呼ぶ理由も(『「ヒューマニズム」について』)納得がいく気がします。
 ようするに、ぼくにとって現象学とは、和解術であり、それをぼくなりに規定してみると、それは三本の柱で構成されていることになります。一つ目は「対面」です。きちんと向き合わなければ、存在者が「おのれを示すもの」として現れることはないでしょう。二つ目は「傾聴」です。余計な先入観を持つことなく、きちんと耳を傾けなければ、「それがそれ自身の方から現れてくるとおりに」現れることもないでしょう。三つ目は「贈与」です。まずは自分から心を開いて、自分を惜しみなく与えなければ、「それ自身の方から見えるようにすること」もできないでしょう。
 たしかに哲学の方法において論理は欠かせませんが、論理にばかり頼って、答えを引き出すことに熱中しすぎると、それは尋問や拷問に等しくなり、事柄それ自身が自らの存在を打ち明けるという側面が欠けてしまいます。おそらく、和解術における三本の柱がきちんと守られれば、自然と論理を逸脱することもないでしょう。
 この和解術という規定は、思索の方法にも当てはまります。思索を本当に真剣に行うには、きちんと自分自身と向き合うことが必要ですし(対面)、それだけではなく、自分の持つ知識や能力を惜しみなく思索に傾ける必要もあります(贈与)。しかしそれだけで、知が得られるのであれば、独断の可能性を排除できません。必ず思索には、事柄そのものから受け取る側面がなければなりません。俗にいう「気づき」というやつです。気づきを得るには、注意深く思考の歩みに耳を澄ます必要があります(傾聴)。
 ここへきて反省なのですが、ぼくは「老い」や「他者」を最近の関心事としていましたが、本当にちゃんと自分と向き合って得られたテーマなのか、本当に惜しみなく自分を贈与しているか、と問われると、素直にうなずける自信がありません。だから自ずと、傾聴の側面も欠けてしまいます。よって、もう一度、自分の思索の方法を、和解術の三本の柱に則って見直し、真正な様式で問題を発掘する必要があるとの自覚が芽生えました。

7ヶ月前 No.2

宿題 ★eM1n2yJmTo_sxd

すめんさん

すめんさんも実存的交わりですか?

7ヶ月前 No.3

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

>>3

 実存的交わりとは何ですか。もう少し明瞭に語っていただけると、いちいち聞き返さなくて済むので助かります。

7ヶ月前 No.4

宿題 ★eM1n2yJmTo_sxd

すめんさん

自己と他の交わりについて80ページ位の長文をここに略すことは能力的に限界なので

出だしをちょっとだけ略して述べます。

あらゆる哲学する働きが驚きとともに始まり、世界知が懐疑とともに始まるように

実存主義は交わりの不満の経験から始まります・・

私は他の人との交わりにおいてのみ存在する・・交わりの仕方は・・様々にありますから・・実存的でない交わりは不満が出ます・・

7ヶ月前 No.5

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

>>5

 宿題さん

 丁寧に教えていただきありがとうございます。そうですね、たしかにぼくも、交わりの不満の経験から、実存主義に走っているのかもしれません。

7ヶ月前 No.6

宿題 ★eM1n2yJmTo_sxd

すめんさん

実存主義者は色々な人がいます。幅が広くてその主義主張には天と地ほどの差があります・・

7ヶ月前 No.7

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

 問いには「問われているもの」と「問いかけられるもの」と「問い確かめられるもの」がある。「問われているもの」とは、私がテーマとして問うている事柄である。「問いかけられるもの」とは、そのテーマを質問として提出する相手のことである。「問い確かめられるもの」とは、その相手から受け取った答えであり、それがテーマに沿ったものであれば、そこで問いは終わりとなる(ハイデガー『存在と時間』第二節参照。ただしここでの記述には、私見も混じっている)。
 ここで問題は、「問いかけられるもの」としての相手が、裏切る可能性である。つまり、相手が嘘を吐くかもしれないのである。そこで論理が「うそ発見器」として機能することになる。これを用いれば、自分が求めている「問い確かめられるもの」を相手が吐くまで、あれやこれやの手段を用いて、相手に質問しつづければいいことになる。このような尋問ないし拷問を続ければ、いずれ自分の求めている答えが得られるだろう。
 しかし、思索はそうするわけにはいかない。思索で求められるのは、相手ときちんと打ち解けて、お互いに自らの存在を委ね合い、そこから豊かな事柄を与え合うことである。そこでは尋問や拷問に比べて、はるかに豊かなものを受け取ることができる。諸学(哲学も含む)が存在の理解を目指すのに対し、思索は存在との和解を目指す。思索とは、存在に身を開き委ねることである。その意味で、私はふつう考えられている意味での哲学、つまり論理でガチガチに武装し、相手に答えを吐かせようとする哲学に対し、思索のほうがはるかに優位にあり、豊かな事象に踏み込めることを断言する。

7ヶ月前 No.8

宿題 ★eM1n2yJmTo_sxd

すめんさん

主観が飲み込まれるか・・客観が飲み込まれるか・・

そうならないような主観と客観のかかわりあい方には何通りもあるでしょう?

7ヶ月前 No.9

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

>>9

>主観が飲み込まれるか・・客観が飲み込まれるか・・

そう言うとなんだか、戦略的ですね。

>そうならないような主観と客観のかかわりあい方には何通りもあるでしょう?

もちろん、何通りもあると思います。しかし、パターンを分析して、もっとも有効な手を選ぶという戦略的な手法で、はたして相手が心を開くでしょうか。哲学は論理ゲームではありません。もちろん論理も大事ですが、それ以上に、事柄そのものに導かれるということが重要であると私は思います。

7ヶ月前 No.10

宿題 ★eM1n2yJmTo_sxd

すめんさん

現実的な愛と思慮深い理性によるより、激情と空虚な悟性によって動かされる人が多いですから・・

7ヶ月前 No.11

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_gSB

「哲学に時間を導入する必要性」

哲学の方法において、論理を遵守するのは当然である。しかし論理には弱点がある。それは論理がつねに静的な空間の内部でしか機能しえないということである。ここで静的な空間というのは、時間の流れを徹底的に排し、ある瞬間tに固定したうえで、その内部の関係性を観察してゆく態度の拠り所となるものである。この静的な空間の内部では矛盾は生じないだろう。なぜなら時間の流れを排することは、矛盾を排することに他ならないからである。哲学において議論が成り立つには、必ずこの静的な空間を共有していることが条件として満たされていなければならない。

この静的な空間は無矛盾のゆえに、万人に共通の認識を与える。そこで静的な空間は客観的な真理の台座と呼ばれることになる。哲学において議論を要求するならば、それはこの静的な空間における客観的真理において収束することになるだろう。そこで万人に共通の認識が真理と呼ばれるかぎり、時間に含まれる矛盾を徹底的に排することが、正しい学的態度と呼ばれることになる。

しかし現実の素朴な経験に目を向けるなら、この静的な空間に依拠した哲学が対象の寸法に合わないことは直ちに露呈する。というのも、静的な空間には未来の「まだ〜ない」や過去の「もう〜ない」という無が現象しないからである。静的な空間という理想的な視点から眺めれば、対象は「ただある」のみで、そこで無は「ある」の裏返しとしてしか機能しない。要するに、存在と無はコインの裏表程度の関係性しか有していない。しかし現実の素朴な経験に目を向けるならば、むしろ無にこそ、積極的な現象性が認められるべきで、対象を構成するのにも無が一役買っていることになる。

そこで静的な空間に依拠した哲学なるものは、現実の寸法に合わない机上の空論でしかないことが露呈する。とはいえ、時間の流れを含む現実において人は誤りうるがゆえに、それを排した静的な空間における真理の認識こそが究極的なのだ、という反論もありえよう。しかしそれは端的に時間を排する操作をくり返し無矛盾性を保証したのみで、そこに万人に共通する認識を”獲得した”という事態は現れない。それは消極的な真理でしかない。真理には積極的な側面もなければならない。すなわち時間の秩序を導入したうえで、万人に共通する認識を獲得することが真理と呼ばれなければならない。要するに、よりいっそう深い次元で捉えるならば、時間の秩序を導入しなければならない。

それゆえ哲学において可能なのは議論ではない。というのも議論は静的な空間に依拠してしか展開できないからである。哲学において可能なのは十分に考え抜かれた体系的テクストを斜めから重ねることである。この斜めから重ねることにおいて、テクストそのものを時間的秩序に乗せ、そこに積極的な真理を獲得する運動を生む必要がある。

体系的なテクストはつねに、概念による起源の固定化を含んでいる。というのも、起源が確固たるものでなければ、その上に何も建築することはできないからである。しかしその固定化そのものが真理の認識を阻んでいるとしたらどうだろう。起源を固定化することで、その本来の生き生きとした現象性を塞いでしまうとしたらどうだろう。要するに、哲学のテクストはどんなに完成された体系であっても、実際に読者が真理を認識するためのプロセスでしかない、ということである。読者はつねに、体系的なテクストの起源的概念を括弧に入れなければならない。そしてその括弧に入れる作業こそ、斜めからテクストを重ねるアプローチの発端となるものである。というのも、概念による起源の固定化から、静的な空間は出現するからである。その固定化された起源を括弧に入れ、ふたたび時間のうちに戻してやること。それこそが哲学においてテクストを重ねる営為の意味に他ならない。

6ヶ月前 No.12

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_gSB

「記号と時間」

たとえば次のような論証があったとき。

命題1:AならばBである
命題2:BならばCである
結論 :AならばCである

記号Bは命題1においてAの帰結として、命題2においてCの条件として機能していることになる。記号Bは各々の命題におけるコンテクストに依拠して固有の意味を帯びることになる。

しかし結論を導き出すための推論において、各々の命題において固有の意味を帯びていたはずの記号Bが同一のものとして扱われている。それゆえに結論として「AならばCである」が導き出されることになる。

ここには、記号の同一性、反復性、遊動性という現象が見られる。

まず、記号の同一性について。例では記号Bは各命題ごとに個別の意味を持っていた。にもかかわらず、その形象の共通性から同一の記号であると判定された。それゆえに、記号Bは「AならばCである」という結論を導き出すための媒介として機能することができた。このように記号には、文脈に応じて異なる意味を持つはずのものを、同一のものとして扱わせることができる性質がある。

次に、記号の反復性について。記号は原則、無際限に使用できる。逆に言えば、物のように使えばなくなるものではない。例で言えば、仮に記号Bが消費されるのであれば、命題1と命題2を結ぶための媒介として機能することはできず、一回きりで意味を失くすことになるので、結論も導き出すことはできない。ゆえに記号には、繰り返し使用することができる、という性質が伴う。

最後に、記号の遊動性について。仮に記号が固定的なものであったなら、個別的な事象しか指し示すことができず、その機能は失墜してしまう。記号が役割を有することができるのは、それが一般的なものだからであり、それゆえにある程度、指し示す事象に遊動性が認められるからである。例でいえば、記号Bはまったく空虚な箱のようなもので、各命題において、その関係性を何の留保も掛けることなく、受け入れてしまう。それゆえに、記号Bは媒介として機能することができる。

記号が記号として機能するためには、このように同一性、反復性、遊動性が備わっていなければならない。逆に言えば、これらの性質を欠くとき、それは記号としての機能を失くすことになる。

ところでこの、同一性、反復性、遊動性の三つの性質は、静的な空間における事象に特有の性質である。静的な空間では、事象は同一性を揺るがされることなく、繰り返し再現されることができ、その上、文脈さえ整っていればあらゆる箇所に移項可能である。ここに動的な時間を導入すると、これらの性質は逆転する。つまり差異性、一回性、不動性が幅を利かせるようになる。

たしかに静的な空間においても、差異性は機能していた。それはちょうど記号Bが記号Aではないように、両者は差異を以て区別されていた。しかし、ここではまだ同一性がベースになっている。BもAも互いに同一性を有しているがゆえに、区別されることができるのである。しかし、動的な時間の導入によって、各々の事象は変化に晒されることになる。言ってみれば、確固たるものだったはずの同一性”の内部”に差異性が忍びこむようになる。その結果、記号の有していた潔癖とも呼べる同一性は差異に浸食され、もはや記号と呼べるに値しないものになる。

その帰結としてさらに、記号が刻一刻と変化してゆくものであるならば、それは反復されることができなくなる。というのも、繰り返し使用しようと思ったときには、内容が変化してしまっているからである。ゆえに一回きりしか使用できないものとなり、それは自然物と見分けがつかなくなってゆく。

加えて、ある程度の遊動性のうちで、さまざまな事象を指すことのできた記号は、刻一刻と変化してゆく一回きりの一瞬しか、指し示すことができなくなる。しかしその段階ではもはや、指し示すということが意味を失くしてしまう。ここで遊動性の反対として不動性を置いたが、それは実質的には、何も意味しないことになる。

このように、静的な空間に動的な時間を導入すると、記号自体が機能を失くし、形式論理そのものが成り立たなくなる。ここで哲学の方法は二通りの選択肢を迫られる。一つは、形式論理を維持するために、動的な時間を端から導入することなく、静的な空間の描写のみで満足する方向であり、もう一つは動的な時間そのものに秩序を見い出し、そこから内容を深めてゆく方向である。

ここで前者の動的な時間を排除する方式は、直ちに現実に対応しないことになる。というのも、現実は時間の流れも含んでいるからである。一方で後者はまったく前途多難な道行きを思わせる。時間に秩序なるものが存在するのかすら疑わしいからである。

そこで提案したいのは、静的な空間と動的な時間の間に媒介を設ける方法である。これまでの分析は静的なものと動的なものという両極端なものの性質を描写しているに過ぎない。しかしここに媒介を設けることで、双方の特性を守りながら、分析を遂行することができるのではないか。つまり時間を記述する可能性が開かれることになるのではないか。

しかし空間と時間の媒介になるものとは何だろうか。これが当面の課題となる。

6ヶ月前 No.13

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>13  すめんさん

失礼ですけどね、
すめんさん、古すぎ(笑)
大昔のマルクス主義の弁証法論者がしゃべってるみたい。

「時間の論理」を扱う理論だってあるんですよ。
もちろん、未だ現象のすべてを厳密な論理学の理論で解析することはできていませんが、
それは論理学が現象を捉えるために本質的に不十分であることを意味しません。
それ、論理に対する偏見ですよ。

あなたのこの >>13 の論述自体、言葉で主張がなされています。
そこには論証もありますよね。
そういったことが成り立つための条件が論理なんですよ。
つまり、哲学が言語活動であり、哲学的思考が言語的思考であり、また真偽ゲームの一つであって論証を含むのなら、それは論理を前提するということです。
論理は、言語・思考が成立するための超越論的条件なんです。

6ヶ月前 No.14

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>すめんさん


すみません。
>>14 は、 >>12 へのレスです。
>>13 は未読で書きました。

とりあえず、訂正だけ。

6ヶ月前 No.15

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_gSB

>>14

ザビビのふくろうさん

コメントありがとうございます。

今、自分で自分の文章を読むのが気持ち悪くてできないです。

とりあえず、

>論理は、言語・思考が成立するための超越論的条件なんです。

という言葉が気に入りました。

6ヶ月前 No.16

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>13  すめんさんへ

>このように、静的な空間に動的な時間を導入すると、記号自体が機能を失くし、形式論理そのものが成り立たなくなる。ここで哲学の方法は二通りの選択肢を迫られる。一つは、形式論理を維持するために、動的な時間を端から導入することなく、静的な空間の描写のみで満足する方向であり、もう一つは動的な時間そのものに秩序を見い出し、そこから内容を深めてゆく方向である。


>ここで前者の動的な時間を排除する方式は、直ちに現実に対応しないことになる。というのも、現実は時間の流れも含んでいるからである。一方で後者はまったく前途多難な道行きを思わせる。時間に秩序なるものが存在するのかすら疑わしいからである。


>そこで提案したいのは、静的な空間と動的な時間の間に媒介を設ける方法である。これまでの分析は静的なものと動的なものという両極端なものの性質を描写しているに過ぎない。しかしここに媒介を設けることで、双方の特性を守りながら、分析を遂行することができるのではないか。つまり時間を記述する可能性が開かれることになるのではないか。


>しかし空間と時間の媒介になるものとは何だろうか。これが当面の課題となる。


 「当面の課題」? 我々の学問では「動的な時間そのものに秩序を見い出し、そこから内容を深めてゆく方向」の方をすでに取り入れており、それが《物理法則》です。《物理法則》を取り入れることで、3次元の空間に1次元の時間を加えた4次元時空の中で、何が真であり何が偽なのか、無矛盾な論理に基づいて無矛盾な記述が可能になっています。

 もし《物理法則》が存在せず、時刻t1における世界の物理状態W1と時刻t2における世界の物理状態W2との間に何の法則性も無いのであれば、W1とW2とが同一の世界であるという認識自体が成立しないはずです。実際には、W1もW2も同一の世界だと認識しているので、W1がこういう物理状態であるならW2はこうなるはず、W2がこういう物理状態であるならW1はこうであったはず、という《物理法則》が存在していることになります(t1<t2)。

 「当面の課題」どころか、とっくに解決された問題です。上の文章、まるで《物理法則》の存在を知らない人が書いているように見えます。

6ヶ月前 No.17

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>17

 「A→B、かつ、B→C、ならば、A→C」(=P)のような論理法則は、時間を無視した3次元空間内で論じる場合も、時間を含めた4次元時空内で論じる場合も、同様に使えるのではないでしょうか?
 「A(時刻t1)→B(時刻t1)、かつ、B(時刻t1)→C(時刻t1)、ならば、A(時刻t1)→C(時刻t1)」(=Q)だったら、時刻はt1に固定され、3次元空間内だけの話になります。
 「A(時刻t1)→B(時刻t2)、かつ、B(時刻t2)→C(時刻t3)、ならば、A(時刻t1)→C(時刻t3)」(=R)だったら、時間はt1→t2→t3と流れ、4次元時空内での話になります。そして、A(時刻t1)→B(時刻t2)、および、B(時刻t2)→C(時刻t3)が成立することを保証するのが《物理法則》だと見なせます。
 QもRも、Pの応用という点では同じですね。

6ヶ月前 No.18

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_gSB

>>17, >>18

SumioBabaさんのおっしゃる物理法則で扱うような時間は、本質的に空間的なイメージを逃れていないゆえに、”時間を”静的な空間の内部で操作しているに等しいと思いました。動的な時間は記号で固定したりできるようなものではないと思いました。失礼しました。

6ヶ月前 No.19

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_gSB

語りえないものについて沈黙することは、考えないことなのだろうか。むしろ、語りえないものに突き当たってはじめて、論理が活きてくるのではないか。そうでなければむしろ、論理など何も意味しないのではないか。というのも語りうるものについて考えることは、すべて自分の内部で完結するということであり、そこに驚きや教えは現象しない、すなわち外部性という新たな経験が存しないからである。

語りえないものについて沈黙しつつ思い巡らす状況は、耳を澄ますことに、あるいは目を凝らすことによく似ている。狭義の論理を規則として孕んでいる言語をモノローグのうちで保持しつつ、何か得体の知れない外部に沈黙しつつ耳を澄ますといった、この言語と沈黙の緊張関係において、広義の論理が活きる点を看過したら、論理は廃墟にそびえるむき出しの鉄骨のように虚しい機能しか持たないことになる。

学の基礎概念(理念)を養う直観は、沈黙に守られている。沈黙せざるをえない状況、つまり語りえないものに突き当たる状況において、そこから何かを聴き取ろうとする態度が直観と呼ばれ、この直観が思弁と現実を結びつけることではじめて、学は地に足のついたものとなる。言いかえれば、学を主導するのは紛れもなく原理ではなく理念であり、理念はこの語りえないものへ耳を澄ますことにおいてはじめて、その理念性を獲得する。そうでなければ学は、原理から答えを導くためのマニュアルに過ぎなくなり、空虚なものに過ぎなくなるだろう。

6ヶ月前 No.20

地下水 ★lHRYPNADL9_Tbw

>>12 >>13  すめんさん、論理の、丁寧な説明を有難うございます。

 その後、プラグマティズムのパースは、論理回路を実現します。そして存在論のクワインによって最適化されます。その後、キルビーによって記憶回路が実現します。その後ミーリーによって、時間を導入した、順序回路である、シフト回路が導入されます。この回路はオートマトンに発展し、パソコンが実現します。そうして時間を含めた、一般の論理がシミュレートできる様になります。数学的には、マルコフ過程や、ネットワークフローであるマトロイドなどに、応用されます。AI言語ではプロログなどに応用され、フレーゲの高階論理の中にもゲーデルの完全性定理の範囲がある事が見出されています。

 しかし時間で振動する回路もあり、情報生命体であるセルオートマトンやカオスアトラクタ―に分野が広がります。振動が収束せず真偽値が目まぐるしく変化する回路は、ゲーデルの不完全性定理の範囲とされます。

 振動が酷くて、発信する回路は、電波工学などに応用されます。さらに振動が酷くて破損する回路もあります。

 さらに、スミオ・ババさんの、量子論理回路になると、無限の真偽を合わせ持ったところから、並列アルゴリズムで、超高速に解を得る事ができる様になってきました。最近の実現では、レーザーを用いて、光ファイバーの中を光速で周回させて、常温で量子論理回路を実現する方法も、あるそうです。

 また、スミオ・ババさんの、現実の物理の世界の時間の導入を捕捉すると、今年亡くなった友人によると、重力場では、非線形力学系を導入する必要があり、非常に扱いが困難で、数学的にもまだ完全に一般公式ができていないそうです。例えば、ブラックホールの表面の時間の測地線上では、時間の摂動面がどうなっているか、どの様に時間が止まる様に収束しているのか、などの多くの疑問が発生しているそうです。一般相対性理論は非常に困難で非常に美しい理論を展開しているそうです。

5ヶ月前 No.21

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX

たとえば、
真理を知っている賢者がいたとする。

そこでAさんは、
賢者の真理を確かめるために、
うそ発見器を彼に取りつけ、尋問した。

その結果、うそ発見器が反応しなかった。

そこでAさんは、賢者の真理は正しいと思った。

次にBさんは、
賢者の真理を確かめるために、
賢者を家に招き、心からもてなした。

その結果、賢者は真理を包み隠さず話した。

そこでBさんは、賢者の真理は正しいと思った。

どちらが真理を知ったことになるか。

15日前 No.22

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

すめんさん

我が師を誰にするかで人生が違って来ます・・

随分厳しい師もいます・・

達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている[7]が、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』などに継承されている。

大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。

弘法大師様の方がまだ少しはましのような・・

それに比べたらもっと楽な師は巷に一杯・・

師次第でどうにでもなりますね・・

15日前 No.23

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>22

>どちらが真理を知ったことになるか。


「真理を知る」という言葉の意味による。
それ次第で、「Aが知った」「Bが知った」「A,B共に知った」「どちらも知れなかった」のいずれかになると考えられる。

15日前 No.24

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

真理を知ったとしても我が物に出来るはずがない・・

真理は追いかけて捕まえられるほどノロマではない・・

14日前 No.25

空の光 ★bKAra12pm0_m9i

宿題さん

真理をどういう風にとらえるかによって真理の動きも違うでしょうね。
真理が逃げてゆくというのは、幸福が逃げていくようなものなのでしょうか?
幸福はつかみ取ったという人がいます。
その方法は幸福を自分の為に追うのではない。
他人のために幸福を呼んで上げる。祈りでも抜苦与楽でもいい。
その人が幸福になれば、感謝の思いを下さる。それが幸福へとつながる。

真理は知るためには幸福を捕まえる事から始まるかな?
幸福を得ると。心の奥(魂)の位が上がる。
すると、奥深いところも、はるか遠くも、見渡せる位置に来る。
そこで始めて真理を見る事が出来るかな。
そこでは幸福を持つ事も出来るかな。
幸福を含む真理も実践していけるかも。

11日前 No.26

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz

すめんさん、なんか反応して下さい。m(_ _)m

11日前 No.27

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX

>>22 で言いたかったのは、
形式論理が相手に「然り」と
無理矢理言わせるものであるなら、
それよりは、和解のうちで、
お互いに自らを惜しみなく与え合うほうが、
真理を実現している、ということ。

11日前 No.28

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz

>>22,28 すめんさん、ありがとうございます。私なりに考えてみます。

<問い>
Aさん、Bさん、どちらが(より)真理を知ったことになるか?

<答え>
賢者は、Aさんには「尋問に答えた」に過ぎないのに対して、Bさんには「包み隠さず話した」ので、与えた情報が多かった。
よって、Bさんの方が より真理を知ったことになる。

ということでしょうか?

だとして、元々の「絶対は絶対にない」は「形式論理的には矛盾している」が「内容としては矛盾していない」という話とどう繋がるのでしょうか?

11日前 No.29

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX

真理は語らいのうちで告げられる、という見方を採用するとすれば、
形式論理はたしかに、自分と相手に共通了解を敷くことはできるが、
それはあくまでもルールであって、それを踏まえて、
何かが得られなければならない、ということです。

それなのに、ルールを利用して、
相手に「その通りだ」と強引に言わせることは、
尋問でしかなく、真理には程遠い。

むしろ、相手と惜しみなく語らえる場を築くほうが、
存在が寛大に自らを打ち明けるという意味で、
真理により近いのではないか。

もっとざっくり言えば、
自分の主張に対して相手をうなずかせるために、
論理があるわけではない。
むしろ共通了解を敷いて、語らうことそのものが、
真理の表れではないか。

そういうことが言いたかったです。

だから、「絶対は絶対にない」は、
形式論理としては矛盾していますが、
そこで用いられるのはあくまでもルールであって、
それにしたがって、
相手に「その通りだ」と言わせるだけでは、
意味が薄い。
それよりは、「絶対なんてない」と言っている人が、
相対主義のニュアンスを込めている点を汲み取るほうが、
有意義ではないか。

そういう趣旨の主張です。

11日前 No.30

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX

そう考えると、
形式論理に従うというのは、
打ち解けた場を築くためにも必要な気がしてきました。

10日前 No.31

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

すめんさん

真理は論理の中・因果律にありますか?(カント)

真理は自由の中にありますか?(ヤスパース)

10日前 No.32

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX

自由の問題を考えるとき、
しばしば決定論がその対極に持ちだされる。
因果律の支配が存在の隅々まで行き渡ることで、
自由が不可能になってしまう、ということである。
とすれば、自由を実現する可能性は
因果律の範囲を制限することでしか見出せない。

しかし本当に、
自由と因果律に伴う必然性は対立するものなのだろうか。

私は、自由と必然性が対立するとは思わない。
むしろそれは両立するものと考える。

というのも、自由は、
本性(英:nature)に従うことではじめて、
実現されるものと考えるからだ。

本性は必然性に支配されている。
それに従うことで、自由が実現される。

これは一見、矛盾しているようだ。

しかしたとえば、
飛ぶことを本性とする鳥は、
雛の段階で巣立ちに失敗した場合、
自由に飛び回る可能性を失ってしまう。
この鳥は不自由と言えるだろう。
それとは逆に、
自らの本性に従う鳥は、
自由に飛び回ることができる。

ここで因果律に伴う必然性とは、
自然(英:nature)の秩序のことであり、
それに従うことが、自由の実現となる。

ちなみに、ここで採用されているのは、
モメント(契機)という概念である。
つまり、きっかけを経る以前と以後で、
概念は内容を変化させる。
たとえば鳥の場合、巣立ちできるか否かが、
そのモメントとなる。

おそらく、決定論における不自由と自由を分かつモメントが、
真理の会得ではないだろうか。

というのも、真理を知る者は、
自らの自由の行使が、必然的なものとなるからである。

10日前 No.33

宿題 ★sicIy89Ne4_l7r

すめんさん

科学的アプローチなら規則や法則・因果律で自由はありません・・

哲学的アプローチなら無制約です・・

10日前 No.34

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ

カントは言った

哲学することを学べと

ところが君たちは存在性なんとかなど哲学を語っているだけにすぎない

10日前 No.35

宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r

ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙さん

カントさんドイツ語では何と?・・

カントさんの最後の台詞は訳の意味が正反対のどっちともとれる言い方をされていますから・・

9日前 No.36
ページ: 1

 
 
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