Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(24) >>

他者とは

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(368) - いいね!(1)

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

他者とは何かについて語ることほど、
その人の人生観を表すものはない。

他者を前に自由はどこまで許されるか。
責任はどのような構造になっているのか。
羞恥を基礎づけるものは何だろうか。
言葉はなぜ通じるのか。
世界の内にもう一つの主観があるとはどういうことか。
etc.

他者についての哲学的な見解を交換しあうスレです。

哲学書から引用するもよし、独自の見解を述べるもよし。

自由闊達にお話ししましょう。

ページ: 1

 
 

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

 他者を考えるうえでベーシックになるのは、他とは何かに対する意見である。言ってみれば、事物でさえ、ある意味では他なるものである。
 とはいえ、ここで誤解すべきでないのは、一般的に他者とはおおよそ他人のことを指すということである。

 他性とは何か。仮に私と他とのあいだに縮減しうる媒介があることを認めたら、厳密な意味では、他は他ではないのではないか。というのも、そのとき他は、まだわたしの同一性に包摂されていないだけで、いずれ包摂されるべき意識の残骸にすぎないからである。
 しかし一方で、私と他とのあいだに縮減しうる媒介があることをいっさい認めないとしたら、私は他の存在を知ることはできないだろう。知ることがないかぎりで、他は存在しないも同然であり、語るにすら値しないことになる。
 さて、他性なるものは、どの程度まで厳密に展開されるべきだろうか。

3ヶ月前 No.1

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

  >>1 の問題に対し、レヴィナスは「ことば」という媒介を導入する。つまりことばとは、他との隔たりを守りつつ、他との関係を可能にするものなのである。私が知識として持っているのは、だいたいこれくらい。あまり追及されるとぼろが出るので、この程度で。

3ヶ月前 No.2

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

世界の独在論的存在構造

3ヶ月前 No.3

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

しかし独在論について知らなくても他者との関わりについて考えることは可能で、それはつまり存在がどうであるかではなくて、どういう存在者と見なして付き合うかという話で……(あーだこーだ

少なくとも事物と人間は、私にとって明確に区別可能な現れ方をします。なぜなら、私はそれを区別しているからです。それでその背後に本質的な、共有されるべき性質があるのではないかと考えるのは、より包括的なカテゴリに視野を移しているわけで、その段階の個別性を切り捨てています。

僕にとって不思議なのは、このスレがどの視点、大きさの話をしているのか測りづらい状態で漕ぎ出そうとしていることで、早晩難破するんじゃないかと思うんですが、しかし、まぁ、それもネット特有の楽しいやつかもしれない。

僕にとって不思議なのは、中国語の部屋は中国語の部屋であることに気づいていないことができるのかということです。

3ヶ月前 No.4

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

>>3

>世界の独在論的存在構造

 ・・・? 調べたら、永井均の本が出てきましたが、読んだことがないのでまったくわかりません。いきなりこれだけ、ポンと出されても、何の脈絡での話なのか、まったくわかりません。他者の話題に関してでしょうか。だとしても、「世界の独在論的構造」と他者がどういうつながりにあるのか、これだけではわかりません。すいません。

>>4

>しかし独在論について知らなくても他者との関わりについて考えることは可能で、それはつまり存在がどうであるかではなくて、どういう存在者と見なして付き合うかという話で……(あーだこーだ

 私が勉強不足なので、独在論というのが、あまり聞き慣れておりません。独我論なら、まだ聞いたことありますが。

>少なくとも事物と人間は、私にとって明確に区別可能な現れ方をします。なぜなら、私はそれを区別しているからです。それでその背後に本質的な、共有されるべき性質があるのではないかと考えるのは、より包括的なカテゴリに視野を移しているわけで、その段階の個別性を切り捨てています。

 「その段階の個別性」とはどういうことでしょうか。ようするにステップを踏んで、もっと子細に、事物と人間を区別するプロセスを見ていくべきではないか、ということが言いたいのでしょうか。

>僕にとって不思議なのは、このスレがどの視点、大きさの話をしているのか測りづらい状態で漕ぎ出そうとしていることで、早晩難破するんじゃないかと思うんですが、しかし、まぁ、それもネット特有の楽しいやつかもしれない。

 ともかく、哲学掲示板にいまだ、他者のカテゴリーが欠けていることが不満でした。中身自体は、自由に展開してもらって構いません。個人的には、自分の意見を発する場が欲しかっただけ。

>僕にとって不思議なのは、中国語の部屋は中国語の部屋であることに気づいていないことができるのかということです。

 「中国語の部屋」とは、よく「機械に心はあるか」という問題で取り上げられる思考実験の話ですよね。しかしこの文章だけでは、くらさんが何を不思議がっているのか、いまいちピンときません。

 総じて、疑問符がたくさんついてしまい、申し訳ありません。

 で、私見に入ると、今の悩みは、他者の他性をどの程度まで厳密に考えるべきか、ということ。

 あまりに厳密に他性を展開すると、結局、私と他者とのあいだにどんな橋もかけることができなくなってしまう。一方で、なんらかの橋をかけてしまうと、他者の他性を損なうことになる。それだと、レヴィナスの断罪する西洋哲学の伝統に再び戻ることになってしまう。その意味で、デリダの言うとおり、フッサールとハイデガーは他者を語る権利を残していた点で、まだまともだった。
 現象学的に見るなら、他性そのものに他者の空間的な高みを、尊重というニュアンスを持たせることもできるだろう。つまり、他性を具体的な現象に翻訳することで、分析をより豊かにすることもできるだろう。
 いずれにせよ、他者を考えるうえで、他性が拠り所になることはたしかだ。しかしその他性をどの程度まで厳密に考えるべきか、また、そこにどのような具体的現象を読み取るべきか、が今後の課題である。

3ヶ月前 No.5

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

>>4

>しかし独在論について知らなくても他者との関わりについて考えることは可能で、それはつまり存在がどうであるかではなくて、どういう存在者と見なして付き合うかという話で……(あーだこーだ

 もう一度読み返してみて、この点に共感しました。他者の存在を単独で扱って、そのいかにあるかを問うのではなく、私と他者との関係のうちに、他者の存在のいかにあるかを見ていくべきだという話ですよね。

 関係という言葉にも、空間的な関係性(時間を止めて並列するものを比較する関係性)と、時間的な関係性(因果関係)、社会的な関係性というように、いくつかの意味があると思います。
 他者を考えるのであれば、三つめの社会的な関係性を考えるべきですが、この関係性は他の二つに比して、ある特殊な秩序が含まれていると私は見ます。それは社会的な関係性だけ、目的論的な秩序が含まれる、ということです。つまり、空間的に関係を比較するのにも、時間的に因果関係を考察するにも、何らかの目的があるわけで、その目的は社会的な関係性から借り受けられるということです。その意味で空間・時間的関係は社会的関係に従属すると言えます。
 ここでヒントとして、他者との関係に目的論的な秩序を導入できる、という見解が生まれましたが、その場合、カントの「人格を手段としてはならない」という言葉を考えると、おそらく他者は種々の具体的な目的の中でも別格に位置づけるべきで、その位置づけこそが道徳の基本なのではないでしょうか。
 しかしここで話したいのは道徳ではなく、むしろその前提となる他者の本質です。
 ……ここまで書いて思ったことは、一人一人の性格を無視して、いきなりそれらを包括的に他者と呼んで、その総体的な性格を考えるのは、暴力的ではないだろうか、あるいは暴力的とまでいかなくとも、たとえば慣れ親しんだ友をいきなり「他者」と呼ぶようなもので、あまりにそっけないのではないか、ということ。
 「他者」と一口に言っても、いろいろな関係があるわけで、おそらく、くらさんもそのことが言いたいのだろうな、と感じた。たとえば、妻や子ども、友人、同僚、などのように。その様々な関係のベースへといきなり飛躍して考えてもいいものか、をまず考えないといけないな。

3ヶ月前 No.6

リー ★Android=vY3tst94sS

 自分の個性が他者に影響すること
文章が難しいけど、今自分の課題でもあるトピックでした。
影響に関しましては 会社という目標を持てばいかがでしょうか?
科学書 哲学書の作者は凝りが本当に酷いので 日本には他者を敬う敬語や、戦後からは隣近所を頼る新しい文化も出来て、また、都会化することで消滅に向かっていますが、、、例えば家族として、結婚に向かうことはいかがでしょうか?

3ヶ月前 No.7

リー ★Android=vY3tst94sS

あぁ、訪日外国人 {ギチギチww}

3ヶ月前 No.8

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_Onj

>>7

>会社という目標を持てばいかがでしょうか?

>例えば家族として、結婚に向かうことはいかがでしょうか?

 この二つの提案が、どういう関係にあるのか、いまいち掴めません。そもそも、一つめが理解できていません。「会社という目標」って何でしょうか。

3ヶ月前 No.9

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

>鏡なんだ ぼくら互いに それぞれの カルマを映すための

BUMP OF CHICKEN『カルマ』の歌詞の一節。
この一節ほど、他者をうまく言い表したものはないと思う。

3ヶ月前 No.10

きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj

他者を論じたいようですが、〈私〉は自明なものと考えているのでしょうか。
あえて、永井の〈〉を使ってみました。
永井均、読んでみたら意外と気づくことがあるかもしれませんよ。

3ヶ月前 No.11

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

>>11

きまぐれさん

ぼくは<私>を自明なものと考えてはいません。
<私>はもっと自明なものの一部にすぎないと思っています。
それをあえて名指すなら、「存在」や「自然」と呼べるでしょう。

参考になる本をご紹介していただきありがとうございます。

3ヶ月前 No.12

きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj

すめんさん

私は、自他は対をなすと考えています。
すめんさんの言う存在とか自然に於いて対をなす形式といったところでしょうか。
私が自明なものの一部なら他もまた自明なものの一部と考えます。
ただし、これは超越論的な言い方ですので、私と同じように他の立場に立つことは出来ません。

3ヶ月前 No.13

きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj

他者とは何か?
他者とは私でないものではないだろうか。
私が自明でないのならば、他者もまた自明にならないのではないか。

自明なもの、存在、自然は全てを含んだ未分化なものではないか。
自明なもの、存在、自然が分化することで自他が生じるのではないか。

3ヶ月前 No.14

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

きまぐれさん

>>13 に関して

きまぐれさんの意見と
ぼくが共感を示す >>10 で引用した歌詞に、
決定的な相違があるのか、
その見極めが難しいです。

>>14 に関して

ここでの記述の意図が
ぼくにはまだ汲み取りにくいです。

>自明なもの、存在、自然が分化することで自他が生じる

のだとすれば、他者を問題とするかぎり、
自己も問題として残っていることになります。

ただぼくとしては、
「カルマを映すための鏡」という表現で、
他者問題はひとまず落ち着いているので、
きまぐれさんはそこに思考の揺さぶりをかけているのかもしれません。

いずれにせよ、現段階ではぼくには、
きまぐれさんの意図を汲み取るのは難しいです。

他者がカルマを映すための鏡だとしたら、
ぼくにはまだ、気づくべきことがあるのかもしれません。

3ヶ月前 No.15

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kE1

”ぼくには”まだ、気づくべきことがある……のか?

…………

やっぱり何と呼べばいいか……

…………自余自称……

3ヶ月前 No.16

うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY

他者とは何か? 私は「他者は私の内部に居る者」ととらえたいです。そこの家・ビル・山が私の内部である

ならば、他者も当然に外部に在るのではなく、私の内部にあるといえるからです。

3ヶ月前 No.17

きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj

家・ビル・山が私の内部という時の“私”とは何か?
日常会話で用いる“私”とは異なるのではないか?
また、日常会話の私と内部に世界を持つ私はどのような関係か?他者はその関係に置いてどの位置付けになるのか?

3ヶ月前 No.18

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

むしろその前提となる他者の本質ですか。それならば回答できそうです。他者を自分と異なる人間と置けば、それはまずだいいちにホモ・サピエンスです。有機体であり、生命であり、思考し、言語を用いて同族とコミュニケーションを取ることができます。当然、私もホモ・サピエンスであり、自己と他者の本質的な違いは、現代で観測できるかぎりにおいて、特に物理的には、少ないでしょう。ですので自己と他者はホモ・サピエンスという括りにおいてはほぼ同じ存在者です。この括りは気に入らないかもしれませんが、現代ではここらが落としどころです。なので当然、人間でないものは自己と同じではありません。もちろん以上のことはすべて、私がホモ・サピエンスである場合の話です。

そして他者との関係として、ホモ・サピエンスが築く関係性の話をすると、もちろん倫理的な話をせざるを得ません。仰るように。

3ヶ月前 No.19

うさぎ ★0jAAcdRpFv_UHY

人間には心もあり感情もありますが、同時に人間は物質で出来ているとも言えますね。椅子やテーブルとか

ビルや電柱が「私の外界ではなく私の心の表れとも考えられる」ならば他者も同じく「私の内界・私の心」

であるとも考えられるのでは?要は私の外部には私の内部(心)が表れているともいえると思います。

3ヶ月前 No.20

きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj

“私”の内に於いてホモ・サピエンスとしての私(の身体)と他者(の身体)は同レベルの存在者として存在している。
しかし、私(の身体)と他者(の身体)を同レベルの存在者として扱っている視点そのものは、私(の身体)、他者(の身体)と同レベルではない。
“私”はこの視点そのものである。
この構造はそのまま他者にも成立すると考えられる。
他の“私”の内に於いて他者(の身体)として私が存在している。他の“私”の内に於いては私はただの存在者でしかない。

3ヶ月前 No.21

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

他者の存在を認める根拠はなんだろう?
自分と同様の生命としての他者とは、どのように了解されるのだろう?
あるいは他者を認めないとはどういう世界観なのか?

自分は、事物に対する知覚と同様、他者を知覚する。自分と同様の身体や思考をしているように見えるその物体を他者と推定する。反証が得られない限り、その確信が増していく。

人間とアンドロイドは違う。外観から人間と知覚すれば、他者と認識される。身体を調べて機械の体なら、反証され、アンドロイドだと思いなおす。

気が付けば、人間関係、社会という再帰的な整合性が形成され、それが保証される限り、自分は、相手を他者と見なす。しかし、それ以上の根拠は無理だ。

7日前 No.22

地下水 ★KATHFaYqOw_Tbw

 他者には立場がある。学友であれば学問を切磋琢磨するという立場がある。御互いに学生であるという立場がある。職場では同僚であるという立場がある。共に仕事を作って行くという立場がある。小さな頃の遊び友達には心を許す所もある。そこにも遊んでいるという立場がある。親子であれば心を許す事もある。しかしそこにも親子であるという立場がある。彼女になればかなり立場が崩れる。それでも恋人同士であったり友達同士であったり招来夫婦の立場になったり父母の立場になったりすると考えて付き合う立場がある。
 買い物に行くとレジの子が挨拶してくれる。レジの子という立場がある。自分が仕事をしていると来る人は御客さんという立場がある。
 テレビで映画を見ると立場を越えて感情移入して楽しめる。独自の数式展開も感情移入して楽しめる。しかしその時の他者は数式の向こうにいる、もしくはかつて居た。直接会えないという立場がある。
 立場をどれだけ越えられるかで他者から友達になれる。メビウスの掲示板などは理屈をこねくり回し合ったりするので直接は合わないが時間はかかるが内容は結構あって他者を越えて心の中の友達になれるのかもしれない。

7日前 No.23

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_uLX

フランスのユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906‐1995)は、一言でいえば、他者について考え抜いた思想家である。二度の大戦を経験し、ホロコーストで多くの同胞を失ったレヴィナスは、思考に収まりきらない他者の経験をベースに、フッサールやハイデガーを批判的に継承しながら、独自の倫理を築いてゆく。その現代的意義は、西洋哲学に一貫する帝国主義的な発想を批判し、戦争の永続する可能性を安易に排除することなく、その厳しさの中で平和について考え抜いたところにある。

1日前 No.24
ページ: 1

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる