宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r
ズルい彗星さん
姉さんじゃなくて御婆さんですよ〜
哲学はヤスパースさんで満足しています・・今はボケ防止ですよ・・
地震が無ければ旅にして旅を住処とす・・みたいな・・
ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ
>すめんさん
気配の正体は、「外部性」「他者性」であって、それが世界の意味・根拠を無化しようとする。
そのため「存在」の必然性は偶然性へと様相を変化させ、安住の場所は崩れ去る。
それゆえに「差し迫り」としての「不安」が惹起するのではないですか?
すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX
>ふくろうさん
コメントありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。自分も最近は、気配の正体は、「外部性」や「他者性」だと考えるようになりました。
ただ、場所という概念にもとづけば、他者との和解も可能となる。打ち解ける場を作ることができる。そのとき、気配の「さし迫り」は退き、お互いが自らを寛大に打ち明けることができる。存在の開示とは、打ち明けることではないかと思っています。
すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX
「現前」とは、一般には、
「目の前にあるものやこと」と言われる。
ぼくもこれまで、そのように解釈してきた。
でも、もともとぼくの探求心を駆り立てていたのは、
「居合わせる」というニュアンスだった。
それがいつの間にか、
「目前」というニュアンスになり、
勢いを失っていた。
その場に居合わせる、という事実は、
思考の材料となる表象に欠けている場合、
身に迫ったものとなる。
それはたとえば、
暗闇の気配であったり、唐突な沈黙であったりする。
もう一度、原点に立ち返ってみようかな。
すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_EsX
古典的な哲学は、
自分が今、そこに居合わせているものを、
知覚に還元してきた。
たとえば、
目の前にあるリンゴは、
赤という視覚とか、甘酸っぱいという味覚とか、
手で触れたときの抵抗とか、そういったものに、
還元されてきた。
しかし、これらの感覚は、
容易に私たちを欺く。
たとえば、
たまたま赤いフィルターを通して見ていて、
フィルターの向こうでは緑色かもしれない。
あるいは、
手に触れるのと同じスピードでリンゴが退いていったら、
私たちはリンゴの抵抗を感じることはない。
したがって、感覚を越えて、
考える能力のうちに、
正しさを求めなければならない。
つまり、自分が今、そこに居合わせ、
目にし、手に触れ、感じるものは、
十分に熟慮すれば、真なる存在ではない。
これが、古典的な観念論の考え方である。
しかしでは、自分が今、居合わせているという事実に、
焦点を当ててみたらどうだろうか。
つまり、居合わせているものを知覚に還元する前に、
居合わせていることそのものを、そのまま、
考察の対象に置いたらどうだろうか。
「今、居合わせている」というそのままの事実、
これは哲学用語では現前と呼ばれる。
この「現前」を、安易に知覚に還元せずに、
そのままの意味で捉え直すとき、
現前が偽物の存在であると見なされる危険から、
それを守ることができる。
つまり、現前するものに、
一定の真実性を与え返すことができる。
このようにして、
現前をできるかぎり、
純粋な出来事のままに保ちつづけることで、
素朴な実在論の経験、
すなわち、現前するものは確実に存在する、という認識を、
再び評価しなおすことができるかもしれない。
では、私たちは、
素朴実在論に立ち返ることになるのだろうか。
これに対しても、私たちは一定の距離を取らなければならない。
なぜなら、素朴実在論でさえも、
知覚を拠り所に現前を捉えているからである。
つまり、素朴実在論といえども、
それは純粋な現前を捉えるものではない。
では、いかにして、
純粋な現前を考察の対象に置けばいいのだろうか。
宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r
すめんさん
現存在が規則を持ち時間の流れによる継続性を原因と結果になるものと思いますか?
現存在は一瞬のうちに歴史の深みを自由自在に感じる時間を超える自由と思いますか?
宿題 ★eM1n2yJmTo_l7r
すめんさん
存在には虚実あります・・
1 実質・実体のあることとないこと。
2 うそとまこと。虚構と事実。「虚実とりまぜて語る」
3 「虚虚実実」の略。
すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_SEk
「現前の主題系」についての見取り図を
ここにスケッチする。
・・・
現前が表象されるまでの遅延は、
具体的に、(空き)スペースとして現象する。
このスペースが時間と空間の条件なのであって、
スペースが「開けた空間」として、
空間の一様態に還元されてはならない。
むしろスペースは空間に先立っている。
このスペースに同一性を保証するのが歴史である。
歴史を持ってはじめて、「私」がスペースに出来する。
歴史とは理念の起源化である。
歴史は諸表象の体系であって、
それは起源化された理念とつねに関係づけられている。
こうして出来した私が、主体性を帯びるか、客体性を帯びるかを、
決定づけるのは、おそらく起源のあり方によるだろう。
いずれにせよ、主体性と客体性の調和、
すなわち和解されたスペースにおいて、
存在は寛大に自らを打ち明ける。
したがって真理は、
和解されたスペースにおいて成就する。
宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX
すめんさん
現前だろうと背後だろうと・・伝わるのです・・存在は伝達して認識出来ます・・
すべては伝達です・・波の性質です・・
すめん @levinas ★iPad=4y2yLxnt9F
「スペース」というのは、ぽっかり開けた空所という意味であり、一般的な意味を離れない。部屋はスペースにもとづいて、用途に応じて彩られるし、森を散策しているときに、ふと木々のない、ぽっかり開けたスペースに出くわすかもしれない。このようにスペースとは、何もないことを意味するが、何もないからこそ、利用される可能性を有する場所である。いわば内容がないことが内容となっているのが、スペースである。
私たちの心理的なゆとり、余裕なども、このスペースにおいて立ち現れる。スペースのないところでは、私たちは落ち着くことができない。それは居場所を喪失することと同じである。
すめん @levinas ★iPad=4y2yLxnt9F
「語りえぬものは現前している」
私たちが目にしているものと、「目にしている」という事実は異なる。ここで着目するのは、後者である。ここで私たちは、思考に絶対的な信頼を置いてきたこれまでの西洋哲学に対して、思考のままならぬ状況から出発することを提案する。それは具体的には、暗闇の気配であり、他者の無言である。これらが必然的に表象の影となって、アプリオリに思考を規定している。つまり思考の限界はすでに、つねに現前している。語りえぬものは現前している。そのことを示すのが、ここでの目的である。
ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ
私は少し違うような気がします。
思考は常に限界づけられている、ということと、限界もしくはその外部が常に現前しているということとは異なると思うのです。
例えば、ハイデガーの言う頽落した生においては、いわば「死ぬのはいつも他人ばかり」です。それがたとえ自己の死であってもです。
このとき、生の限界としての「死」は現前していないのではないでしょうか。
生あるいは思考の限界は、ある構え、――例えばそれは「超越論的態度」と呼ばれるものであると思いますが――をとったとき、そのときに限り立ち現れる、すなわち現前するのではないかと、そう思います。
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
ザビビさん、レスありがとう。
ザビビさんの鋭い指摘について。
「語りえぬものはつねに現前している」というテーゼにおいて、
語りえぬものがつねに現実性として現前している、と読むと、
違和感があるかもしれませんが、
それがつねに現実性かつ可能性として現前している、と読むと、
違和感がなくなるかもしれません。
そこで「超越論的態度」(合ってる?)といった、
可能性が現実化するためのモメントが重要になってくるのではないか。
・・・
次に、できなかった説明を、もう少し、加えさせてもらう。
・・・
語りえぬものはつねに現前している。
ここで重要になるのは、
あるモメント(契機、きっかけ)だと思う。
ぼくはたびたび、表象を欠いた現前の比喩に、
暗闇の気配を持ち出す。
それは、思考の起点となる表象を欠いているにもかかわらず、
「何か」に居合わせている、その居心地の悪さ、
居ても立っても居られない事態を表現するためである。
このむき出しの現前において、
さし迫りとでも言える状況に晒されて、
もはや感覚作用は感覚対象と分離されて、機能しなくなる。
明るみの中では、感覚作用と感覚対象は一致する。
だから表象はつねに現前に対して十全である。
けれど暗闇の気配においては、
感覚作用と感覚対象に転倒が起こる。
つまり「色を聞く」「音を見る」
「匂いを味わう」「味を嗅ぎわける」
という事態が起こる。
これは生物学的な現象と地続きになっているが、
それには収まらない存在論的な射程を含んでいる。
つまりこの転倒が
むき出しの現前へと至るモメントを構成している。
暗闇の気配という比喩は、具体的には狩猟の最中に現れる。
つまりここでぼくが展開しようとしている体系は、
定住民族の思考ではなく、狩猟民族の思考である。
狩猟においては、何より、勘という名の嗅覚、
痕跡の間に必然性を見出す嗅覚が求められる。
それはまるでテクストという痕跡の奥に、
その思想の骨子を嗅ぎ当てるかのような営みである。
だから探求に求められる第一のものは、論理ではない。
そのようにして、表象の外部、
すなわち明るみの届かない暗がりの中へと突き進み、
その奥へと退いていった「何か」の正体を追跡する。
これは思考の比喩である。
つまり表象の明るみから外れた暗がりにこそ、
思考が息を吹き返すための大気が満ちている。
その際に、気配の正体である「何か」に
名前を与えてはならない。
なぜなら名前を与えるや否や、
それは表象の内部へと連れ戻されてしまうからである。
するとたちまち、思考という探求は息切れしてしまうだろう。
語りえぬものについて沈黙しなければならないのは、
このためではないか。
とはいえ、西洋哲学は、この気配の正体へと至る直観から、
概念を汲み取り、それをあるときには理念として保持し、
それぞれの体系を築いてきた。
つまり気配の正体に名を与えてきた。
しかし現代に至って、そこに名を与えることに疑問を抱き、
思考にある限界線が引かれた。
重要なのは、そこで思考が止まるのではなく、
そこから思考が始まるということである。
暗闇の奥に目を凝らす、耳を澄ます経験が、
私たちを語りえぬものの現前へと連れ戻す。
そういうことが言いたかった。
宿題 ★sicIy89Ne4_TnX
すめんさん
目の前の形式を見ていますか?
目の前の目的を見ていますか?
目の前の本質を見ていますか?
何を見ているのですか?
ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ
>>122
すめんさん
>けれど暗闇の気配においては、感覚作用と感覚対象に転倒が起こる。
>つまり「色を聞く」「音を見る」「匂いを味わう」「味を嗅ぎわける」という事態が起こる。
という表現については措くとしても、あなたの言いたいことはよくわかるつもりなんです。
でも、ここでは、自分でもいまひとつよくわからないということもあって、あえて疑念を提示しておきます。
>すなわち明るみの届かない暗がりの中へと突き進み、
>その奥へと退いていった「何か」の正体を追跡する。
その「何か」とは、アプリオリに「取り込むべきもの」であり、
彼を突き動かしているのは、「同一化への欲望」ではないでしょうか?
すなわち、狩猟者が暗闇で息をひそめて待つのは、あくまで「獲物」であり、「食べ物」となるべきものではないでしょうか。
宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX
ザビビのふくろうさん
せっかく本質や神髄に迫れる才能が有るのに・・何故興味をたかが感覚の表象にそらしているのですか?
宿題 ★sicIy89Ne4_TnX
ザビビのふくろうさん
反社会性パーソナリティ障害になりかけていますよ・・
人格とは何ですか?
ヤスパースさんを読んでパーソナリティの軌道修正をしたほうがよろしいですよ・・
ザビビのふくろう @owlman ★UeJTXbNcLw_keJ
宿題さん
ここは「現前の研究」というスレですよ。
あなたが真面目にこの研究に参加したいと思っているんだったら、もちろん参加してください。
でも、あなた、そんな気はさらさらないでしょ?
だったら、余計なことを言われても邪魔なだけなので、どこかよそへ行ってください、ってことです。
私のパーソナリティーにケチをつける前に、自分がまずはマナーに則ったレスをしましょうね。
よろし?
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
>>133
ハイデガーが世界内部的存在者を道具としたのに対し、レヴィナスは『全体性と無限』で、道具のさらにベーシックなところに、享受へと供される糧がある、と言いました。糧は道具には還元されず、糧自体が糧を得る営みを養う点を強調しています。
ザビビさんの指摘を読んで、まさに自分は暗闇の奥の「何か」を糧として取り込もうとしているのではないか、ということに気づきました。ハイデガーが存在の意味を理解することを試みたのに対し、レヴィナスは、例えるなら、気配の正体を明るみに引きずり出すような理解を断罪し、そこにとてつもなく厳密な境界線を張りました。その線の彼方に位置するのが、「他者」というわけです。絶対に同化しえないものとの、「語り」という関係をもとに、レヴィナスの独特な倫理学は成り立っています。
「絶対はない」vs「絶対はある」でも、ちょっと書いたのですが、絶対的真理は存在するが、知ることはできない。それによって、探求が惹きつけられる。もしも気配の正体を追跡することが、ザビビさんの言うように「同一化しようとする欲望」に突き動かされているとしたら、研究を軌道修正する必要があるかもしれません。それは同時に、現前の研究を、倫理へと方向づける可能性も蔵しているかもしれません。
いずれにせよ、重要な指摘ありがとうございます。絶対に同化しえないが、それでも気配に五感を研ぎ澄ます思惟というものが、真理に固有の動性を描いているのかもしれませんし。
宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX
ザビビのふくろうさん
>>138
木を見て森を見ず・・
小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ。
木を見て森を見ずとは、「小さなことにとらわれ、全体を見渡せていない」という意味になります。
一本の木を注視するあまり、森全体のことを忘れてしまっているという意味・・
ザビビのふくろう ★CZPpJSpIQU_TnX
>>139
すめんさん
うん、同意します。
でも、わたし的には、問題はレヴィナスの言うその外部・他者へと至る理路、ロジックだ、って言いたくなるんですが、
「ロジック」なんて言うと、また全体性への回収か?みたいに言われてしまうかなと、ちょっと悩ましいんですよね(笑)
まあ、なんとか、自分なりに道筋を追うことにします。
あ、それとこれ、たいしたことではないんですけど、
私のHN,いちおう、「ザビビ」じゃなく、「ふくろう」で呼んでもらえませんか(笑)
宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX
ザビビのふくろうさん
しばらく他の所に行きますね・・
どうぞ心置きなく議論なさってください・・
デカルトさんやパスカルさんの遙か後ろを歩いてらっしゃいますから・・
ちょっと寄り道でもして先へ進ませてもらいます・・
宿題 ★eM1n2yJmTo_TnX
ザビビのふくろうさん
急がば回れ・・回り道でもしていきます・・
急がば回れとは、急いで物事をなしとげようとするときは、危険を含む近道を行くよりも、
安全確実な遠回りを行くほうがかえって得策だということ。
哲学の眩暈に落ち・・深淵をのぞき込んで這い上がれないようにならないような道へはご用心なさいませ・・
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
気配の奥に潜む「何か」を支配しようとする欲望に駆られないために、思考に厳密な限界線を引く必要がある。
そのことは具体的には、言語の限界線を内側から確定することに等しい。
・・・
言語の役割は第一に、自分が現前するところの対象すなわち他者とのあいだに場をとりもつことである。
他者と分かちもたれる場は、言語を失う場合、不安定である。
このことは、「気まずさ」という現象からも明らかである。気まずさとは、他者とのあいだに分かちもたれるべき場を失った事態を指し、このことは言語を失っていることに由来する。ただし、ここに言う「失っている」とは、単に沈黙しているというわけではない。なぜなら、沈黙も一つの意思表示でありうるからだ。ここに言う「失う」とは、単に無言であることではなく、居心地の悪さを覚えるということである。
居心地の悪さとは、表象のもとで代替可能な自己を持つことではなく、むしろ表象に欠くことで代替不可能な自己を持つことであり、要するに、不在で居られないことである。これは際立って「現前」と呼ばれるものである。
この現象からも、言語と場の密接な関係が伺われる。言語とは場を構成する重要な要素なのである。
・・・
ところで、スペースに同一性を保証し、それを場所へと高める役割を持つものは、歴史である。ただしここに言う歴史とは、世界史や日本史のそれのみではなく、むしろ自分がここへ至るまでの経歴、経路のニュアンスが大きい。
そして歴史は、主体的なものとしての「配置」と客体的なものとしての「慣習」として、具体的に現象する。たとえば知人を自室に招くとき、その場所の主人(主体)は私である。その場所の客人(客体)は知人である。私は知人をもてなすように、事前に掃除をしたり、飲みものや食べもの、座布団を“配置”することによって、知人との場を構成する。逆に知人は、私の背後にある文化に特有の“慣習“(しきたり、マナー)を守ることによって、私との場を構成する。つまり、主体は配置にもとづいて場所を保証し、客体は慣習にもとづいて場所を保証する。
ところで、言語が場を構成するのに重要な位置を占める理由は、言語が歴史であるからに他ならない。言語とは歴史であり、もっと言えば、主体と客体の交わる領域、すなわち「慣習的な配置」である。
言語において発声や文字が第一のものであるが、この「慣習的な配置」という定義から見れば、ここで言われる言語はメタな領域も含む広義の言語になる。たしかに、発声は声帯の振動などを慣習に従いつつ配置したものである。あるいは文字はインクの染みを慣習に従いつつ配置したものである。
さらには、身ぶりや表情なども、慣習に従いつつ配置されるかぎり、言語である。たとえば、首肯が同意を示すように。あるいは、眉をひそめることが不機嫌さを示すように。
・・・
言語が歴史であるかぎり、言語には起源と理念が存在する。起源とは体系全体を説明するにあたって第一になるものであり、原理とも呼ばれる。理念とは起源と異なり、彼方から惹きつけることで、活動を牽引する動機である。
理念はたえず、起源化への誘惑に晒されている。なぜなら、人は起源を持つことで、場所を保証されるからである。つまり、歴史が場所を保証する役割を持つのは、それが起源を指し示す物語となるからである。
理念の起源化、すなわち諸表象の歴史化という運動は、当然のことながら言語にも見られる。言語はたえず、起源化への誘惑、もっと言えば歴史化への誘惑に晒されている。それはたとえば、書かれたものが歴史の一部を成し、後世へと伝達される現象からも明らかである。あるいは伝聞でさえ、伝承という形で歴史となりうる。言語はつねに歴史化という現象を伴っている。
・・・
だから言語は、表象を欠いた現前すなわち気配という現象をたえず、覆い隠しつづける。言語は根本において、場所への落ち着きを志向する作用がある。そのような言語を用いて、気配の正体を思考し続けるかぎり、気配の先の何かは、同化の対象であり続ける。
そこで言語に限界線を引く必要が生じるのだが、その限界線を引くとは、要するに、自らの言語に内在する起源を認識する営みに等しい。これまで長々と語られてきた私の思考も、何らかの起源に根ざしたものである。気配という現象を指し示す思考自体、すでにアプリオリな起源に基づいている。この起源を暴露することをつうじて、言語を解体すること。この破壊がなければ、創造もありえない。もっと言えば、破壊するためには、細部まで築かれていなければならない。これで目下の課題は示された。すなわち、純粋現前(気配)を示す言語を解体することが課題となる。
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
言語の内に秘められた起源は母性と呼ばれる。
真性な様式で気配を開示するとき、
私は「何か」に包まれている感覚に陥る。
この包まれている感覚を子細に観てみると、
ここには一つのモメントが存在する。
それは「まだ私は存在する」というモメントである。
私は暗闇の奥から見つめられている。
気配とは、
(自分は)見ることなく
(誰かに)見られる意識である。
暗闇の奥から何かが、
私の肉に食いつこうと伺っている。
しかしそれはまだ、到来していない。
つまり「まだ私は存在する」のである。
気配に際し、
「まだ私が存在する」についての自覚が、
見られる意識を見守られる意識へと変容させる。
つまりここに、母性が成就するのである。
この母性が包まれている感覚を構成する。
母性はあらゆるスペースの起源である。
ゆえに母性は時間と空間の起源でもある。
母性によって現前と表象のあいだの遅延が説明される。
というのも母性とは、
その現前が不在であるようなあり方だからだ。
その母性における退きをつうじて、
残されたところにスペースが生じる。
あらゆる表象は現前が退くときの痕跡である。
ゆえに表象は獲物へ至るための手がかりとして機能する。
しかし母性は一つの退きでありながら、
なんの痕跡も残さない。
それは完全な撤退である。
というのも母性は、自らの存在を感じさせることなく、
我が子をのびのびと存在させることを本義とするからである。
ゆえに母性はあらゆるスペースの起源であり、
それゆえに言語の内に秘められた起源である。
母性は見守られる意識に対して、
さらに愛される意識を植えつける。
この愛される意識が超越論的な転換を経て愛することへと転じる。
ゆえに母性は愛の条件である。
母性が愛へと転じるモメントをつうじて、
言語の志向性が狩猟的なものから崇高なものへと変容する。
ここに、言語が形而上学となりうる可能性が生起する。
よって問題は、
見守られる意識と愛される意識とのあいだのモメント、
母性と愛のあいだのモメントを画定することである。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>145,146 すめんさんへ
これは、何が正しく何が間違いかを学問的に研究・解明しようという試みなのでしょうか? それとも、正しいか間違いかといった話ではなく、すめんさんの主観的な心象をすめんさんにしか理解できない私的言語で記述して見せた、ただの詩(ポエム)なのでしょうか?
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
>>148
補足。
矛盾をはじめから追い出して、
無内容なことを語るのが、哲学であるはずがない。
SB量子神学は、全部読み通す気力がないので、
今までコメントは控えていたけれど、
「絶対はない」vs「絶対はある」スレで、
SumioBabaさんとちょっと意見を交わさせていただいて、
SumioBabaさんの考え方についてぼくの抱いた感想は、
「潔癖すぎて何も決定できない合理論者」というものです。
パスカルの言う繊細の精神をまったく持ち合わせていない人には、
ぼくの言いたいことはまったくポエムに映るでしょう。
ぼくとSumioBabaさんの対立は、
言ってみればヘーゲルとキルケゴールの対立のような図式を、
ぼくは意識しています。
ヘーゲルは雄大な体系を築くけれど、
自分自身はその体系から外れたボロ小屋で住んでいる。
一方、キルケゴールは体系の内部に飛び込み、
体系を超えて、決断する哲学を考えました。
いわゆる実存哲学というやつです。
とはいえ、あなたの体系は矛盾を追い出すかぎり、
ヘーゲルには程遠いですが。
SumioBabaさんの考え方は、
存在を非存在と等価なものとして、
論理的操作子にまで還元して成り立っている。
しかし実存論的にみれば、それは全くの誤りである。
というのも自己存在という実存は、
まさに非存在でいられないことによって、
問題を抱えるからです。
その問題をはじめから追い出して、
自分の正しさに酔いしれても、
それは空想に過ぎないと思います。
もちろん、ぼくの記述には、
まだ厳密性が欠けています。
細部を仕上げるまで至っておらず、
簡単なスケッチを何度も繰り返し描くのが、
今のぼくにできる精一杯です。
しかしそれでも、
実存的な問題を見過ごすことがない点で、
まだ哲学の道を外れてはいないと思っています。
あるいはぼくの考え方は、
特殊な直観を持つ方にした理解できない点で、
思想と呼んだ方がいいかもしれません。
いずれにせよ、
ぼくはSumioBabaさんの考え方に納得することは
できないでしょう。
きっといくら言葉を交わしても、
平行線に終わるだけだと思います。
ぼくはあなたを説き伏せるつもりはありません。
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
気配は、得体の知れない何かに直面するという意味で、思考の限界である。
その思考の限界に際し、感覚作用と感覚対象の転倒については触れておいた( >>122 )。これを一語で「集中」と呼ぶなら、さらに残る二つの要素が、思考の限界においてなお思考する者の態度を特徴づける。
その一つは「留保」である。これは方法的懐疑やエポケー(括弧入れ)と似たもので、あらゆる独断を停止する営みである。表象とは留保可能性である。したがって「留保」とは表象を宙づりにし、現前する気配へと至る方法である。
もう一つは「想起」である。思考の限界でなお思考しようとするとき、何か大事なことを思い出せそうで思い出せない感覚に陥る。そのもどかしさが思考をさらに駆り立てる。アナムネーシスは思考にとって本質的な状況である。
よって、語りえぬものについて、沈黙を守りつつ思考するには、集中・留保・想起が必要となる。これは表象を超えて思考する一つの方法論である。一度、試されてみたい。その独特な緊張感は、奇妙な仕方であなたを魅了するだろう。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>149 すめんさんへ
すめんさんとケンカをするつもりは全くないのですが、正反対のタイプみたいなので、自分が相手にどう見えているのかを知ることは、お互いに得るものが有るかもしれませんね。ざっくばらんに、少し意見を言い合ってみましょうか?
>>149
>矛盾をはじめから追い出して、
>無内容なことを語るのが、哲学であるはずがない。
これが、すめんさんの考えですか。SumioBabaは全く逆の考えを持っています。
1つでも論理的矛盾が生じてしまったら、哲学は無内容になってしまう。
それゆえ、有意味なことを語るためには、論理的矛盾だけは追い出す必要が有る。
です。どちらが正しいでしょうか?
例えば
>>122 からの引用です。
>「語りえぬものはつねに現前している」というテーゼにおいて、
>語りえぬものがつねに現実性として現前している、と読むと、
>違和感があるかもしれませんが、
>それがつねに現実性かつ可能性として現前している、と読むと、
>違和感がなくなるかもしれません。
「語りえぬもの」であれば、「現前している」か「現前していない」かも語り得ないはずであり、「語りえぬものについては何も語れません、終」ではないのでしょうか? 「語りえぬもの」について「つねに現前している」と語ってしまっている点が、いきなり矛盾しているように思えてならないのですが? 当然のことながら、なぜ「現前していない」ではなく「現前している」の方でなければならないのかも、SumioBabaにはさっぱり理解できません。
>SB量子神学は、全部読み通す気力がないので、
>今までコメントは控えていたけれど、
>「絶対はない」vs「絶対はある」スレで、
>SumioBabaさんとちょっと意見を交わさせていただいて、
>SumioBabaさんの考え方についてぼくの抱いた感想は、
>「潔癖すぎて何も決定できない合理論者」というものです。
「潔癖すぎる」というのは、「無矛盾な論理に縛られすぎる」という意味でしょうか? 「何も決定できない」とはどういう意味でしょうか? むしろSumioBabaは、真の自分が全知全能の「神」だとすると本当は「好きなものを何でも選べている」と主張しているのですが。
>パスカルの言う繊細の精神をまったく持ち合わせていない人には、
>ぼくの言いたいことはまったくポエムに映るでしょう。
貴方の言いたいことを周囲の人間が理解できない理由を、貴方は、「周囲の人間が、パスカルのいう繊細の精神をまったく持ち合わせていないから」、つまり、「読解力の無い読者が悪いのだ」と考えておられる訳ですね? でも、読者側から言うと、貴方の文章が理解できない理由ははっきりしていて、「貴方の文章が論理的でないから」つまり「著者の表現力が不足しているから」に見えるのですよ。
例えばSumioBabaは、数学や物理学の本だったら、一文一文「うん、100%理解できた、次へ進もう」と実感しながら読み進めることができるのに対し、すめんさんの文章は、一文読むたびに「は?」「どういう意味?」「なぜ?」と首をかしげてしまいます。
>もちろん、ぼくの記述には、
>まだ厳密性が欠けています。
>細部を仕上げるまで至っておらず、
>簡単なスケッチを何度も繰り返し描くのが、
>今のぼくにできる精一杯です。
>しかしそれでも、
>実存的な問題を見過ごすことがない点で、
>まだ哲学の道を外れてはいないと思っています。
>あるいはぼくの考え方は、
>特殊な直観を持つ方にした理解できない点で、
>思想と呼んだ方がいいかもしれません。
すめんさんの研究(?)の価値を否定するつもりは全く無いのですけどね。ただ、今の文章だと、全く「論理」が掴めないので、SumioBabaには、ただの詩(ポエム)にしか見えません。SumioBabaの勝手な意見なので、従ってもらう必要は有りませんが、比喩表現や詩的表現よりもできる限り正確に意味が伝わる表現をした方が良いし、特殊な用語を用いるときはきちんと解説した方が良いし、やっぱり「論理」を重視して誰にでも解る文章を書いた方が良いと思います。
>いずれにせよ、
>ぼくはSumioBabaさんの考え方に納得することは
>できないでしょう。
>きっといくら言葉を交わしても、
>平行線に終わるだけだと思います。
そりゃそうでしょう。貴方には「論理」が通用しないから。SumioBabaが「母は女である」は論理的必然性で恒真であり《絶対的真理》だと説明しているのに、貴方には通用しないのでしょう?
>ぼくはあなたを説き伏せるつもりはありません。
SumioBabaは、相手がきちんと無矛盾な「論理」に則って自分の正しさを証明した場合には、どんなに悔しくても、相手の正しさを認めますよ。
Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_IGz
>>154 SumioBabaさん、
>すめんさんとケンカをするつもりは全くないのですが…
と書かれていますが、「ケンカをするつもりが全くない人」が「すめんさんの主観的な心象をすめんさんにしか理解できない私的言語で記述して見せた、ただの詩(ポエム)なのでしょうか?(
>>147 )」と発言するでしょうか? 私にはケンカを売っているようにしか見えませんでした。
>「語りえぬもの」であれば、「現前している」か「現前していない」かも語り得ないはず…
対象の文においては、「語りうる」という動詞と「現前する」という動詞は 共に「もの」に掛かっています。つまり「現前する」は「語りうる」の外側です。
SumiBabaさんの解釈は、外側にある「現前する」を「語りうる」の内側に入れて解釈してしまっていますので、明らかな間違いです。
わざとでなければ「誤解」だし、わざとであれば「曲解」です。
(とりあえず、以上です。)
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>158 Mobiusさんへ
>>すめんさんとケンカをするつもりは全くないのですが…
>と書かれていますが、「ケンカをするつもりが全くない人」が「すめんさんの主観的な心象をすめんさんにしか理解できない私的言語で記述して見せた、ただの詩(ポエム)なのでしょうか?( >>147 )」と発言するでしょうか? 私にはケンカを売っているようにしか見えませんでした。
ケンカをするつもりは無いですよ。ここの掲示板、「哲学掲示板」なのに、詩(ポエム)を書いている人がいっぱいいるじゃないですか。だから、どちらなのかを確認したまでですよ。しかも、YES/NOどちらの答が来るかも半々くらいの確率で予想し、もし「詩(ポエム)です」との返事だったら、それで終わろうと思っていました。嫌がらせで尋ねたのでもありません。本当にどちらか判らなかったので、尋ねたのです。
>対象の文においては、「語りうる」という動詞と「現前する」という動詞は 共に「もの」に掛かっています。つまり「現前する」は「語りうる」の外側です。
>SumiBabaさんの解釈は、外側にある「現前する」を「語りうる」の内側に入れて解釈してしまっていますので、明らかな間違いです。
>わざとでなければ「誤解」だし、わざとであれば「曲解」です。
意味がよく解りません。まず、SumioBabaが批判したすめんさんの文章(
>>122 )に出て来るのは、Mobiusさんの説明にある「語りうる」と「現前する」ではなくて、「語りえぬ」と「つねに現前している」です。逆だと勘違いしていませんか? もう一度
>>122 から引用します。
>「語りえぬものはつねに現前している」というテーゼにおいて、…(すめんさんの文章 >>122 より)
そしてMobiusさんの説明だと、この「語りえぬ」と「つねに現前している」の両方が共に「もの」に掛かっているのでしょう? そこまでは、同意しますよ。つまり、この「もの」について、「「もの」は「語りえぬ」」と言っておきながら、「「もの」は「つねに現前している」」と語ってしまっており、矛盾ではないのでしょうか?
>>159 すめんさんへ
フィルタのかかったものは読めませんので、悪しからず。ケンカをするつもりではないですよ。すめんさんが文章を公開しておられるのに、「良い」とも「悪い」とも言わず、無視するのも気が引けるのです。「良い」なら「良い」と言ってあげたいし、「悪い」なら「どこが」と指摘したい。もし詩(ポエム)だったら、間違いを指摘するという行為の方が的外れになりますよね。だから、確認した次第です。
ザビビのふくろう @owlman ★ZRGZRP6lC7_keJ
>>154,160
SumioBabaさん
以下は、すめんさん本人の見解ではなく、ふくろうの私見です。
ま、簡単に言うと、
「語りえぬ」というのは、科学言語(客観言語)では語りえない、ということと理解する必要があると思います。
科学言語(客観言語)でないからといって、ポエム(詩的言語)とは限らないですよね。
宗教的真理、美、善といった価値について論じる言説は、科学言語ではありませんが、ポエムでもありません。
これらは、客観的真理ではなくても、間主観的真理とは言えるのではないでしょうか。
現前の研究が目指すのは、いわゆる「形而上学的真理」ということになるでしょう。
これがいったいどのような種類の真理であるかということ、すなわちその真理観自体が考察の対象となるでしょうが、さしあたり、現象学や存在論etc.で用いられる語法・手法で問題に迫ろうとしているわけです。
比喩的語法を多用するので、詩的言語との区別がつきにくいというのも事実と思いますが、私なんかの感覚では違いますね。
ラフに言うと、詩的言語は示す言語だけれども、たとえば詩作品が示しているものを、形而上学的言語はあくまで語ろうとするもので、そういう意味でもメタ言語ではないかという気がします。
言えるのは、形而上学的言語が詩的言語であるなら、文学的センスのない私には形而上学的探求は絶望的だということです(笑)
Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy
>>160 SumioBabaさん、
>そしてMobiusさんの説明だと、この「語りえぬ」と「つねに現前している」の両方が共に「もの」に掛かっているのでしょう? そこまでは、同意しますよ。つまり、この「もの」について、「「もの」は「語りえぬ」」と言っておきながら、「「もの」は「つねに現前している」」と語ってしまっており、矛盾ではないのでしょうか?
それを“矛盾”というのなら、“それ”を「もの」とか「語りえぬ」とか表現している時点でアウトではないでしょうか?
だって「語りえぬもの」が本当に語りえないのだとしたら、「語りえぬもの」とも表現できないでしょうから。
なので、これを矛盾なく解釈するには、「『“それ”を「もの」とか「語りえぬ」とか表現すること』は『語ること』には含まれない」と考える必要があるのではないかと思います。
そうだとすると、「『“それ”を「現前する」「現前している」「つねに現前している」などと表現すること』も同様に『語ること』には含まれない」と考えるべきであると思います。
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
>>163
ちょっとねさん、こんにちは。
興味を持ってくれてありがとうございます。
>俺には、現前と、表象との違いが理解できない。何が違うというのだろうか?
もちろん、現前と表象は一般的に同じものとみなされています。目の前にあるものは思考に供される。これは当たり前だと思います。
ただ、英語表記で、現前が「presence」なのに対し、表象が「representation」であることから、表象は「再現前化」とも訳すことができます。ここから、現前と表象をあえて区別してみてもいいのではないか、と考えます。
そこで区別して考えてみると、「表象を欠いた現前」ないし「現前を欠いた表象」という二通りの事態が生起します。
後者は、現前しないのにそこから表象が汲み取られるとは考えにくい。つまりカント的な発想、すなわち「物自体が存しないのに、表象があると考えるのは不合理である」という発想がここでも当てはまると思います。
では、前者はどうでしょうか。「表象を欠いた現前」も一見、不合理であるように思えます。ぼくたちは普段から、思考できるものに囲まれて生きています。目の前にあるペンやコップについて、あれこれ思考することができます。目の前にいる知り合いについても、あれこれ思考することができます。
しかし、「表象を欠いた現前」は、例外的な状況に適用されます。それがここで繰り返し言及されている「気配」です。気配とは、目の前にいるのに、それについて明晰な理解を欠いている状況のことです。たとえば、いきなり暗闇に放り出されて、何かが駆け巡る音がしたとします。すると暗闇はたちまちに気配に満たされて、私は居ても立っても居られない状況に晒されます。これは「表象を欠いた現前」と言えるのではないでしょうか。
とすると、現前と表象は区別される。現前がつねに明晰に思考に供されるとはかぎらない。
この考えはぼくの体系にとって、基幹部分に当たります。したがって、ここを揺さぶられると、ぼくの体系は瓦解します。
ただ、ちょっとねさんの疑問を受けて、再度検討してみると、気配においてこそ、際立って思考しているのではないか。その「何かが駆け巡る音」という表象にもとづいて、暗闇に潜む「何か」は思考されているのではないか、ということに思い至りました。
もうちょっとよく、考えてみます。
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
もともと現前の研究は、暴力に関する問題意識から始まった。
きっかけは『全体性と無限』における次の一節だった。
>意識とは暴力への抵抗である。なぜなら、暴力を回避するのに必要な時間を意識が残すからだ。
(レヴィナス『全体性と無限(下)』熊野純彦訳、岩波書店、2006年、p.132)
ちょうどその時期、ニュースで見た虐待事件や、過去に目の当たりにしてきたいじめから、暴力について考えさせられているときだった。
もしも引用にあるように、暴力を回避するための時間がわずかでも残されているとしたら、その間に抵抗や逃走、思考する意欲が芽生えることはないのだろうか。要するに、絶対的暴力を前に主体性は兆すのだろうか。
そんな問いが自分の思索を駆り立てた。
そこで立てられたのが「暴力について」というスレだった。
http://mb2.jp/_tetsugaku/1010_1.html#UPGそこから現前と表象のあいだにある広がりを、「何か」が到来する猶予として、そこに希望を見出そうと考えるようになった。
だから、ここでの思索に通底しているのは、暴力に対する問題意識である。そのことを思い出した。
もう一度、原点に帰って、暴力に対する問題意識と重ね合わせつつ、考えられないだろうか。もう一度、「絶対的暴力を前に主体性は兆すか」と問うことはできないだろうか。
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
「意味づけの分析」
現前の主題系において、「意味」を定義する。
「意味とは現前と十全に対応する表象である」
もっとわかりやすく言えば、意味とは「目の前にある物事と十分に対応するイメージ」のことである。
だから「意味がある」とは、現前と十全に対応することであり、「意味がない」とは現前と十全に対応しないことである。
現前が表象されるまでに固有の運動があるように、意味づけにも固有の運動がある。そこでここでは「苦しみ」を例に、意味づけのプロセスを追ってゆく。
・・・
まず苦しみは、その事実に釘づけにされていること、ないし圧倒的な現在、逃れようもないことをつうじて先鋭化される。もしもそれが、不在でもありうる事実ならば、苦しみは容易に回避されるだろう。苦しみは他ならぬ、そこから逃れられないという事実によって苦しまれる。
その代表となるのが、肉体的な苦しみである。これはいかなる解釈の余地も残さず、絶対的な現実として生起する。そこから逃れられないという事実が、その苦しみを先鋭化する。したがって、肉体的な苦しみを「現実性の苦しみ」と呼ぶことにしよう。
これに対して、精神的な苦しみはどうだろうか。
たとえば嫉妬は、現在の自分を受けいれられない苦しみであり、精神的なものの一種である。嫉妬は他ならぬ、「自分がそうなりえた」という可能性があることに対して生起する苦しみである。もしも、まったく自分に大富豪になる可能性がないと知っていたら、そもそも大富豪を見て嫉妬することはないだろう。しかし、過去に大富豪になるチャンスがあったがそれを逸していたとしたら、「自分がそうなりえた」という可能性が存することになる。そのとき、大富豪を見て、私は嫉妬するのである。
あるいは、学校でみんなに無視される苦しみは、精神的なものである。この場合も、自分から声をかけたときに、返事があるものと思っているから、無視されたときにショックを受ける。つまり、返事がある可能性によって、それがないときの苦しみが生起するのである。石膏像に声をかけて無視されてもショックは受けないだろう。というのも、石膏像は返事をする可能性を含んでいないからである。
よって精神的な苦しみを「可能性の苦しみ」と呼ぶことにしよう。
ここに挙げた苦しみはまだ、克服される見込みがない。なぜなら、苦しみは意味づけられてはじめて、乗り越えるに値するものとなるからである。
では、苦しみを意味づけるプロセスはいかなるものだろうか。
意味づけられた苦しみは、第三のものとして、「必然性の苦しみ」と呼ぶことができる。つまり、現在の圧倒的な苦しみ、ないし可能性のゆえに身を焼かれるような苦しみに対し、それが今の自分にとって必然的なものであると理解したときに、それは克服されることを欲するのである。
しかし苦しみは、それ単独では無意味なものである。はじめから有意味なものであったなら、苦しまれることはなかっただろう。ゆえに苦しみは、後から意味づけられる必要がある。
私たちは意味のある苦しみを試練と呼ぶ。それは乗り越えられるべきものとして、課せられたものである。しかしどこから課せられたのか。それは自らを超える存在、すなわち超越者から課せられる。
もしも、周囲世界的な物事に由来する苦しみであったなら、その原因を取り除けば苦しみは消えるのだから、それは意味づけられることを求めないだろう。しかしここで分析しているのは、あくまでもその真っ只中にある苦しみである。たとえ原因がわかっていたとしても、それが癒されるまでには、なお猶予がある。だからどんな苦しみであれ、意味づけられる必要は生じうる。
苦しみは無意味である。しかもそれは、周囲世界的な物事から連繋を断たれた無意味さである。いかなる物事も、ただ苦しみの原因であることができるのみで、それを意味づけるにはあまりに無力である。
だから苦しみに意味を与えるには、あるいはそれを必然なものとして捉えるには、超越者を想定する必要がある。超越者を想定してはじめて、苦しみは意味あるものとして、試練と化し、乗り越えるに値するものとなる。それはときに神であり、師であり、終末である。
これら三種の苦しみは、モメント(契機、瞬間)を経て、段階的に高次のものに高まってゆく。次にそのモメントが分析されなければならない。
ちょっとね ★zkRJpKz2Kv_yoD
>>166
説明ありがとう。何となくだが、どういう意味で、貴方が現前と表象という言葉を使い分けているかが分かったような気がするよ。
俺の中では、表象も現象も同じようなものなんだが、現前という言葉はあまりなじみがなくてね。話を読んでみると、現前とは大体、現象と同じようなものだ。目の前に現れる何か。表象はちょっと違う意味で用いられている。思考の対象となりうるなにか。思考の対象となり得るからには、それは観念でなくてはならない。(少し疑問だが)ペンとかコップとか。だけど、そうでないような、なんだか分からない何物かもある。気配とか。それらは、現前だが、何者かが明晰でないから、思考の対象となりえない。だから、表象ではない。そのように、現前と表象は区別しうる。
しかし、とすめんさんはいう。「気配においてこそ、際立って思考しているのではないか。その「何かが駆け巡る音」という表象にもとづいて、暗闇に潜む「何か」は思考されているのではないか」つまり、明晰でないもの、何だか分からないものについても思考しうるということだ。
読んでいくうちに、思考の対象とは何だろうか?と思うようになった。明晰であろうが、なかろうが、気配であろうが、なかろうが、意識の向かう先が思考の対象だ。明晰であろうが、なかろうが、意識の向かわないところは思考の対象ではない。ふと、意識の志向性などという言葉が思い浮かぶ。
そこら辺と「絶対的暴力を前に主体性は兆すか」までには、だいぶ、距離がありそうだね。
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
表象は安心できるスペースを与えるが、未熟児に表象能力はない。では、彼は安心できるスペースを奪われて、つねに居ても立っても居られない状況に立たされているのだろうか。否、彼には母性という絶対的なスペースが生まれもって与えられている。未熟児は母性に守られつつ、自ら表象する能力を身につけてゆく。
しかし、中には、まだ未熟な親のもとで、母性に包まれることなく生まれ落ちる子どもがいる。彼は暴力の只中で、十分に表象する能力を身につけることなく育ってゆく。否、彼は暴力を強引に表象することで、自虐的なスペースを自らに与える。自分を苦しめるような起源の設定された物語を生きながら、彼は暴力の彼方で愛が振り向くのを待っている。
この期待のゆえに、彼はなお主体性を保つことができるのではないだろうか。虐待で死んでいった子に、主体性がなかったと言えるか。むしろ、彼らは極限の中で主体性に目覚めていたのではないか。
暴力の彼方で、愛が振り向くのを待つ時間。ここに、主体性の兆す可能性があるのではないか。
だとすれば、問題は現前の彼方へ及ぶことになるかもしれない。
すめん @levinas ★iPad=yobASV48iU
モメント(契機、瞬間)そのものの構造を示さなければ、「私」が順次、高まってゆく過程を描くことはできないだろう。
モメントにおいて注目すべきは、その前後で、概念の意味が180度と言っていいいほど、変容してしまう点である。逆に言えば、この概念の変容を表現するためにモメントが導入されたことになる。
たとえば、 >>168 で示した可能性の苦しみは、必然性の苦しみへと高まることを通じて、まったく意味を変容させてしまう。それはただ苦しまれるものから、引き受けられるべきものへと変容してしまうのである。
・・・
先に言えば、モメントは「集約」と「決断」、「覚醒」から成る。
まず「集約」とは、散漫な意識をある一点へと絞り込み、そこへ撤退してゆく状況である。身の回りの現実性を宙づりにし、一切を可能性へと高めてゆく状況が集約と呼ばれる。
だから反省は一種の集約である。感覚を宙づりにし、自己へと撤退することが反省と呼ばれるからである。あるいは強迫は一種の集約である。他の瑣末な事柄へと意識がいかず、ある一点へと脅されるように引きつけられることが強迫と呼ばれるからである。
要するに集約とは、精神への撤退であり、時間をかぎりなく一点へと詰めてゆく状況である。だから集約は、記憶や予定を括弧に入れ、現在を極点に仕上げる状況である。
しかしなお、この極点は些細な外界からの刺激でたちまちに霧散してしまう。それは完成されたものではなく、その意味で厳密にはそれは一点ではない。そこには極小の広がりがなお残されている。
かぎりなくわずかな現在を、モメントへと仕上げる状況が「決断」と呼ばれる。決断とは、自らが恣意的であると自覚しながらも、独断によってある起源を創設することである。
もしも私が散漫な意識のもとで思案しているなら、決断は絶対に起こらないだろう。なぜなら、わざわざ恣意的な起源を設定するまでもなく、決定をいつまでも留保することができるからである。
しかし、私がある一点へとかぎりなく追い詰められているとき、あるいはこのままなにも選択しなければ、状況は何も変わらず、追い詰められる一方であるとき、私は決断を迫られる。いつまでも留保しているわけにはいかない。
このとき、私には絶対的な根拠が欠けている。もしも絶対的な根拠があるなら、そこからすべてが説明されるのだから、わざわざ集約という状況が起こることもないだろう。だから集約が起こる時点で、私には絶対的な根拠が欠けている。
だから、私は自らが恣意的であることに気づいている。それでも、何かを選択しなければならない。しかもその選択が、それ以降の絶対的な根拠すなわち起源になる。だから決断は一種の狂気と呼ばれる。決断は飛躍である。
この決断を通じて、集約された現在はモメントへと高まり、完成されたものとなる。すると、これまで散漫な意識のもとで、漠然と捉えられていた身の回りの事象が、決断によって設けられた起源にもとづいて、説明可能なものとなる。つまり、事象は明晰性を獲得する。これが「覚醒」と呼ばれる。
注意すべきは、この明晰性はあくまでも、独断的な起源にもとづいている、ということである。とすれば、これは覚醒ではなく妄想なのではないか。たしかにそうである。私は決断をつうじて、以前の夢想から、新たな夢想に突入する。しかしそれでも、モメントそのものの純粋性は保たれる。つまりモメントそのものは真実なのである。だからモメントは一瞬の真理である。
・・・
ここに述べられたモメント論は、たとえばデカルトの『省察』に見られる思考の歩みと重なる。方法的懐疑をつうじて、精神へとかぎりなく撤退していき(集約)、神という無限なものの観念によって、私が明晰に捉えることが一切の明証性の根拠となる(決断と覚醒)。
だから「我思うゆえに我あり」は、あるモメントである。どれほどデカルトが明確に、自分が決断したという意識を持っているかどうかは疑わしい。そこには伝統的な世界観が反映されている。もっと言えば、デカルトは歴史性のなかで思考している。だから「我思うゆえに我あり」は、歴史によって巧みに命題へと装飾されたモメントである。
『省察』に隠されたモメントそのものの純粋性は真実である。だからデカルトは、読者にただ読むだけでなく、自らの歩みと同じように歩むことを要請する。なぜなら、『省察』に内在しているモメントそのものが真実だからである。
・・・
だから哲学はつねに、モメント論でありつづけ、決して分析や研究の対象とはなりえない。なぜなら、一流の哲学書はすべて、自らの思考の歩みと同じように歩むことを要請することでしか見ることのできない景色を孕んでいるからである。
すめん @levinas ★iPad=lHpEjGKQ6A
永遠は反復可能なものではない。というのも、永遠が反復可能なものならば、事物が永遠になるからである。無限は伝達可能なものではない。というのも、伝達可能なものは分節可能なものだからである。
したがって、永遠無限なる普遍は反復可能かつ伝達可能なものではない。むしろ、反復可能なものや伝達可能なものをすべて除き去ったところに、普遍は宿る。つまり、一回きりの瞬間において、普遍は宿る。だから、普遍に至るには、賭けが必要である。
すめん @levinas ★iPad=lHpEjGKQ6A
認識が普遍性を基礎づけるのではなく、普遍性が認識を基礎づけるのである。というのも、普遍性は、反復可能性ないし伝達可能性とは異なるからである。だから、論証によっては、普遍的なものを認識することはできない。
認識が普遍性を基礎づけるのではなく、普遍性が認識を基礎づけるのである。だから、普遍的なものを演繹することはできない。したがって、普遍的なものの認識には、直覚という論理的飛躍が必要となる。つまり、普遍的なものは認識されるのでなく、体験される。
宿題 ★eM1n2yJmTo_khR
すめんさん
時間性と無時間性の統一・・事実的瞬間を永遠の現在に深める。
カントさんの法則性の因果律は客観的時間系列・・
ヤスパースさんは実存の飛躍と新生起。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
現前思想で言いたかったことをわかりやすく書いたら、「なーんだ、そんなことか」という納得と同時に「まあでも、大切なことだな」と思いました。今までこんなことを、小難しく考えていたのだなぁ。
以下、その内容。
目の前にあるものが、つねに考えられるものだとはかぎらない。逆に、考えられないことが、目の前に現れるときがある。それはあなたを脅かすひとつの危機である。しかし人は、その危機に飛び込むことで、脅えているのは、自分自身だということに、また、危機の先には、何もないということに、気づける。この気づきこそ、本当のことではないだろうか。
難しく書くと、以下のようになる。
現前と表象は異なる。というのも、表象に欠いて現前することがあるからだ。それは気配のような状況である。そこではすべてが可能性のもと、動揺し、自己のコナトゥスを揺さぶる。そこで重要なのは、もはや論理ではない。なぜなら論理は、表象にしか適用できないからだ。したがってそこで求められるのは、飛躍である。つまり、気配の先に飛び込むことである。その飛躍を経てはじめて、認識が成立する。つまり、認識は理性の領域にではなく、実存の領域に存する。そこで認識されるものは、コナトゥスを揺さぶるものの正体が、自己自身であるという純粋な事実である。それに付随して、仮象がすべて取り払われ、明証性のもと、現前と表象が純粋な一致を果たす。つまり、「気配の正体は何もない」という認識が真理なのである。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>181
宿題さん
何が言いたいのか、よくわかりません。
読解力のない人に対して、難しいことを言うときは、もう少し言葉を添えてくれませんか?
宿題さんのコメントに対して、ぼくはいつも聞き返してばかりなので、できれば今後、もう少し説明を添えてコメントしていただけると助かります。
すいません。勝手なお願いで。
宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE
すめんさん
自分の五感の知覚と意識の中味が一致していないと存在意識が満たされず不安に陥ります・・
「記憶が心を通して予期・予想」しますが「五感が統一されていないと」存在意識が時間通りに成立しないそうです・・
宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE
世界観は可能性や類型が一般的考察の中には決して完全に入りきれない・・
研究可能となり得ない見ることが出来ない事実的な世界観があるという事が哲学する働きの根源です・・
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
私は場所と一体となって存在している。だから場所から私を切り離すと、私というものは成立しなくなる。それゆえに、心という、場所から独立した説明装置を用いることは、あらかじめ禁じられている。
「ペンに目をやる」とき、私はペンに依存することなく存在している。それは確かに事実だが、「ペンに目をやる」そのときには、私の意識はペンと独立してあるわけではない。すなわち意識はペンに依存していると言える。これこそが、場所に根づいた考え方だ。では、この場所を場所たらしめているものは何だろうか。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
場所と言うと、これまた、私が居なくても成り立つものであるように思われる。しかしそれだと、「私は場所と一体となって存在している」という事柄が十分に言い表せない。では、どのように、私と場所が一体であることを記述すればいいだろうか。
そこで提案したいのは、私と場所の一体性を、「落ち着き」という現象に置き換えてみてはどうか、ということである。「落ち着き」というのは、文字通り、そこでくつろいでいること、あるいは、安心していることを指す。このような具体的な現象を抜きにして、場所を考えようとすると、私と場所のつながりが壊されかねない。したがって、「落ち着き」と言う現象から、場所を考えてみよう。
宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE
すめんさん
ふくろうさんがレスしないでって言うから・・少しだけ・・
「精神的ホームがない」という意識がpervasive(広がり)つつある国
例えば・・米国で急増する自殺と薬物中毒死は、寂しさと関係している可能性が高い。寂しさの一つの原因は、仕事の変化だという。
職場は一種のコミュニティーで、多くの友人や配偶者と出会うかも知れない。
しかし近年、家族・職場がattenuating(希薄になっている)。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>190
宿題さん、こんにちはヽ(・∀・)
>例えば・・米国で急増する自殺と薬物中毒死は、寂しさと関係している可能性が高い。寂しさの一つの原因は、仕事の変化だという。
アメリカでは、そういったことが問題となっているんですね(;ω;)
人ってのは、自分がただ「ある」ことに耐えられない。どこかに「いる」って感覚、つまり「居場所がある」ってことが、決定的な気がします。
自分が「場所」について考えたいのは、やっぱり人にとって「居場所がある」ってことが大切だと思うからです( ̄Д ̄)ノ
たしかに、宿題さんがおっしゃるように、近頃はどこかに「いる」って感覚、帰属意識みたいなものがどんどん希薄になっているのかもしれません。
ぼくはゆる〜いつながりのほうが、自由にコミットしたり離脱したりできて、気楽なんじゃないかなぁ、とは思いますが、それすらもできないと、寂しさに押しつぶされてしまうでしょうね( ;∀;)
コミュニティーと絡めて、「場所」について考えてみたいと思わされました。
レス、ありがとう(*´∇`*)
P.S.
宿題さんのレスが難しいときはスルーしてしまいますが、単純に、ぼくが理解できていないだけだと思ってください。たとえば >>185 や >>186 のように。今回のレスは返信しやすかったので、返してみました( ´_ゝ`)
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
ぼくらにとっては、「ある」よりも、「いる」のほうが問題なんじゃないか。
・・・・・・
「いる」って言い方は、場所と深い関わりをもっている( ̄▽ ̄)
たとえば、空に雲が浮かんでいるとき、ぼくらはそれを「雲がいる」なんて言ったりはしない。そんなこと言ったら、生き物の蜘蛛のことかと思ってしまう。でも逆に、ぼくらは「田中さんがある」とは言わない。田中さんが「いる」とぼくらは言う。「ある」なんて言ったら、まるで物扱いしているようで、失礼な気がしてしまう。
そこで「ある」と「いる」の違いを考えると、きっとそれは、居場所という名の「場所」に深く関わっているんだろう、と思う。もともと、漢字で表しても、「有る」には“持つ”というニュアンスが含まれる一方で、「居る」には“腰を落ちつける”とか“住む”ってニュアンスが含まれる。
要するに、ぼくらの存在は、「ある」というより、むしろ「いる」って言うほうが適切なんじゃないか。だって「ぼくはここにあるよ!」と言うのと、「ぼくはここにいるよ!」と言うのでは、「いる」のほうが適切だからだ。
・・・・・・
で、ぼくらが幸せに生きるためには、いかに自分が、ただ「ある」だけ、という感覚から脱け出して、ここに「いる」、って感覚をゲットしていくことができるか、なんじゃないかな、と思うんだ( ´∀`)
やっぱり、人は社会的な生き物だから、まるで物のように、ただ「ある」だけというのは、耐えられない。どこかに自分の居場所を見出して、社会とつながりを持てているという実感のあるところに、人は生きがいを感じるんじゃないか。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
MEMO
場所の成立条件は、
「主体性と客体性の両立」である。
換言すれば「作用と対象の両立」、
「主観と客観の両立」である。
これはすでに、超越の問題を平板化する視点。
いかにこれをわかりやすく書くか…。
たとえば、例を用いるなど。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>180 すめんさんへ
>現前思想で言いたかったことをわかりやすく書いたら、「なーんだ、そんなことか」という納得と同時に「まあでも、大切なことだな」と思いました。今までこんなことを、小難しく考えていたのだなぁ。
>以下、その内容。
>目の前にあるものが、つねに考えられるものだとはかぎらない。逆に、考えられないことが、目の前に現れるときがある。それはあなたを脅かすひとつの危機である。しかし人は、その危機に飛び込むことで、脅えているのは、自分自身だということに、また、危機の先には、何もないということに、気づける。この気づきこそ、本当のことではないだろうか。
>難しく書くと、以下のようになる。
>現前と表象は異なる。というのも、表象に欠いて現前することがあるからだ。それは気配のような状況である。そこではすべてが可能性のもと、動揺し、自己のコナトゥスを揺さぶる。そこで重要なのは、もはや論理ではない。なぜなら論理は、表象にしか適用できないからだ。したがってそこで求められるのは、飛躍である。つまり、気配の先に飛び込むことである。その飛躍を経てはじめて、認識が成立する。つまり、認識は理性の領域にではなく、実存の領域に存する。そこで認識されるものは、コナトゥスを揺さぶるものの正体が、自己自身であるという純粋な事実である。それに付随して、仮象がすべて取り払われ、明証性のもと、現前と表象が純粋な一致を果たす。つまり、「気配の正体は何もない」という認識が真理なのである。
前半の説明を《平易な説明》、後半の説明を《難解な説明》と呼んでみます。《平易な説明》の方はすごく平易だし、言葉の意味が正確で殆ど誤解の余地なく理解できるし、しかも短い。《難解な説明》の方は、すごく難解だし、言葉の意味は曖昧で何通りもの解釈ができてしまうし、しかも長い。《平易な説明》だけ有れば十分なのであって、《難解な説明》の方は全く不要だと思います。《平易な説明》ができるのに、なぜ《難解な説明》が必要なのですか? 読者の方から見ると、《難解な説明》の方は、著者が故意に解りにくく説明していて、「どうだ、さっぱり判らないだろう、あまりにも高度な内容だから、貴方たちの頭では半分も解らないのさ。あっはっは。」とからかわれているように感じてしまうのです。そのため、ついつい反発し、「《平易な説明》をしたら中味は何も無いことがバレてしまうから、《難解な説明》をしていかにも高度な内容が有るかのように装っているだけではないのか?」と皮肉を言いたくなるのです。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>172 すめんさんへ
>時間とは救済である。
>時間があるかぎり、すべては救われうる。
「時間」と「救済」とは、同義語ではないですよね。従って、「時間が救済してくれることは多い」くらいは言えても、「時間」=「救済」ではないはずです。そして、全く逆に「時間とは断罪である。時間があるかぎり、必ず人間は死を免れないから。」とも言えます。すめんさんの文章は、多くの場合、物事の一面だけを捉えているに過ぎず、全く逆の面も有るのを無視してしまっているので、本来「真」とも「偽」とも言えない命題を、一面だけ見て「真だ」「偽だ」と独断しているだけのように見えてしまいます。
>>176 すめんさんへ
>賭博者にのみ、神は現前する。
これなんかもそうでしょうね。「決して賭博をしない堅実者にのみ、神は現前する。」の方も、言おうと思えば言えるでしょう。どちらも詭弁ですが。
>>171 すめんさんへ
>だから哲学はつねに、モメント論でありつづけ、決して分析や研究の対象とはなりえない。なぜなら、一流の哲学書はすべて、自らの思考の歩みと同じように歩むことを要請することでしか見ることのできない景色を孕んでいるからである。
部分否定と全否定の混同だと思います。「哲学はつねに、モメント論でありつづけ、分析や研究の対象とはなりえない部分がいくらか残る。」という部分否定なら賛成します。なのに、「決して分析や研究の対象とはなりえない。」という全否定は、明らかに言い過ぎではないでしょうか? 実際、多くの哲学書を多くの人間が読んで分析し、研究の対象としているのが現状です。
すめんさんの文章は、「詭弁を用いて奇をてらっている」だけに見えます。「時間」は「救済」だけでなく「断罪」その他多数の側面を持つだろうに、「救済」だけが唯一かのように奇をてらっています。「神」は「堅実者」にも現前するだろうに、「賭博者」だけに現前するかのように奇をてらっています。哲学には、「分析や研究の対象とはなりえない部分がいくらか残る。」という部分否定なら解りますが、すめんさんは「決して分析や研究の対象とはなりえない。」と全否定することで、実際に哲学を分析し研究している人が多くいる現実と矛盾する結論を出し、奇をてらっています。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
インプットしたものをアウトプットするつもりで、けっこういろいろ書かせてもらっています。たしかによく読むと、ボロボロかもしれませんね。その時々の気づきなんかを書かせてもらっていますが、あとで自分の中で反駁されることもありますし。( ̄▽ ̄)
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
ただぼくの目にはどうしても、SumioBabaさんが意味のある答えを出していないように映るのです。長大な「量子神学」を全部読んでいないのに、あなたの意見を低く見積もるのは、大変失礼に値することなのを承知で、結論の部分だけ切り取って、判断したことを先にお詫び申し上げます。今まで何もSumioBabaさんに意見を寄せなかったのは、「量子神学」に全部目を通していなかったからなんです。
ただ、あえて結論だけ切り取って、言わせてもらいますと、「量子神学」は「長大な知識と理論で固めた優柔不断の体系」というのがぼくの印象です(ごめんなさいf^_^;)。要するに、一見、意味のある答えを出しているようで、実はまったく何ひとつ、選んでいないのが「量子神学」なんじゃないか。あらゆる可能性を網羅しすぎて、すべて可能性で埋め尽くしてしまい、何ひとつ現実へともたらしていないんじゃないか。矛盾を徹底的に追い出すことは、同時に哲学にとって意味のあることすべてを追い出すことなんじゃないか。
なぜ、ぼくが「量子神学」を「優柔不断の体系」と呼ぶかというと、意味のある答えは必ず、いろいろな可能性の中から何かを選び取るところから得られるというのと、何かを選ぶということは、同時に他の選択肢を捨てることだと思うからです。でも「量子神学」はあらゆる選択肢を拾い上げている。それは一見、厳密であるように見えますが、そこから意味のある答えは導き出せない。どこかで、何かを、選ばなければならない。そうしなければ、意味のある答えは得られない。
今まで、意見はやめておこうと思っていましたが、SumioBabaさんが真理を真摯に求めているにもかかわらず、自分の築き上げたお城でうたた寝をしているようだったので、起こしたほうがいいのかな、と思って、思い切って意見を寄せさせていただきました。
失礼しますm(_ _)m
ゆみ ★LOZXJIYpXA_vZE
すめんさん、こんばんは。
「場が和む哲学」でしたっけ。知りたいのでこっちにもお邪魔します。
場が和むっていうのはそこに「調和」という感性が働いているからだと思います。
調和って自然界のものだと思ってます。自然界というか、この宇宙に働いているもの。
この宇宙に働いているものが我々人間に影響を及ぼさないはずがない。と思っています。
そこから先の話は、私にはよくわからないし、
知識として詳しくないので、細かく話せるはずもないのですが、
もう、想像で話をしちゃいますね。
この宇宙って調和でできてるんです。(仮)
無重力っていうのはつまり「調和」なんです。そしてその調和エネルギーを、
私たち人間も恩恵に預かりたいところなんですが、地球には重力が働いてしまっている。
その重力のエネルギーが私たちの心に感情を生み出し、感情が揺らいだり動いてしまったりするのではないか。(仮)
だとすると、地球に住むことはストレスでしかないはずなのに、ストレスを感じない生き方っていうものがある(仮)
ストレスを感じない生き方をみんなはしたいと思っている。
そこで宇宙から調和というエネルギーを頂く。
その場に3人いたら、3人共が同時に調和エネルギーを頂いたとする。
そこに調和が生まれて、場が和む結果になる。
…ものすごく仮の話ですけど、ありえない訳ではないと思います。
で、どうしたらこの調和エネルギーが一人一人の中に舞い込んでくるか、というと(恩恵に預かれるかというと)
全身が楽な気分になって、ただダラダラと時間を過ごすのではなく、時を刻むという感性を開発してあげなきゃいけない。
星がキラキラと瞬いているかのような感覚を体で感じたことないですか?世界がキラキラして見えたりとか。それのことです。
そういう瞬間を作っていれば、自然と調和エネルギーが舞い込んできて、
調和を作って人と相対することができる。
とか言ってみます。科学で実証された話じゃないし、なんの確証もないけど、
とりあえず思ったことを書いてみました。感想をお聞かせください。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>199
ゆみさん、こんにちはヽ(・∀・)
二つ、思ったことを。
ぼくなんかは、重さを感じるときは、たとえば頭の中を言葉が駆け巡っているときですね。どんどん、考えが重たくなって、フットワークが鈍くなる。地に足をちゃんとつけずに、ふわふわしたあり方をしていると、モノローグは重荷でしかない。
一方で、プラトンが言うように、「目に見えないもの」の他に、魂を上へと向かわせるものは考えられない(どこに書いてあったか忘れました)。すべて見られるものなら、何も空想の余地がありません。
だから問題は、ゆみさんの言葉を借りれば、「無重力」と「重力」のバランスであって、「調和」ってのは、そこにあるんじゃないかなぁ、と。
もう一点。
> その場に3人いたら、3人共が同時に調和エネルギーを頂いたとする。
3人がバラバラにいて、それぞれが調和をもつというのと、「場が和む」ってのは、相容れないような。だって、調和ってのは、一体感だと思うからです。だからむしろ、3人のそれぞれに「調和」が訪れるのではなく、3人のいる「場」に調和が訪れなきゃいけないんじゃないでしょうか(-_-;)
総じて。
ゆみさんの話は、メタファーとして受け取れば、哲学なのかもしれないけど、もし調和エネルギーを実在のものと考えるなら、ややスピリチュアルの傾向が強い気がしました。
失礼しますm(._.)m