すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
「主観について」
主観が成り立つには、身体がなければならない。身体から独立した主観、というものは考えられない。いかなるときも、主観は身体に依存している。
たとえ、今ここにいるその場とは無関係に、たとえばオバケの存在について思い巡らすときがあっても、主観は身体に依存している。人は、身体からの要求にしたがって、オバケの存在について思い巡らしているのである。
その意味で、身体こそ、主観の配慮すべき最大のことである。
ただし、だからといって、「健康に気を使え」とか「肉体美を追求せよ」と言っているのではない。
あくまでも、「身体は場所と一体になっている」という考えから逸れないようにしよう。「身体が場所と一体になる」ということは、主観がその場所に落ち着く、ということであり、それは具体的には、「周りのものを自分に居心地のいいように配置する」ということである。
たとえば、自分の部屋は一つの落ち着ける場所だけれども、それは、そこに置かれているものが、自分の居心地が良くなるように配置されているからである。仮に、おかんが勝手に入って、模様替えしたら、自分の部屋は居心地が悪くなるだろう。
あるいは、たとえば、自分がお客さんとして、応接室で待たされているとき、軽く咳払いして、座り直したりするだろう。これも、この座る場所が居心地良くなるように、自分の身体を置き直す、つまり配置し直したことになる。
このように、場所と一体となって主観があると考えるとき、「配置」という現象は、とても重要である。
「配置」が意識に上ることは稀である。意識に上るのは、つねに対象、つまり客観的なものだからだ。したがって「配置」は、考える営みに先立つものである。
「配置」は何も、物を並べることだけを指すのではない。
たとえば、電車で、おじいさんが疲れた様子で立っていたとしよう。それを見て私は、なんとなく、自分がこの席に座っていることに対し、罪悪感のような「居心地の悪さ」を感じる。それで、おじいさんに席を譲ることにした。
この行為でさえ、一つの「配置」である。つまり、自分の身体をまるごと、座席からつり革の前に置いたのである。
あるいはたとえば、今私が、このようにパソコンに言葉を打っているのも、何らかの目的のために、文字を並べていることに等しい。その意味で、書き込みもまた、「配置」である。
だから、「配置」というのは、「身体」にとらわれることなく、主観と場所の関係を考えるうえで、とても重要な言葉なのである。
t @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★Tablet=vyc0FF9jKf
>>210 すめんさん
まずはレスをありがとうございます。
>「選ぶ」ということは、あらゆる可能性の中から、一部を現実へともたらすことではないでしょうか。
はい。仰る通りと思います。なので、疑問に思ったのです。
選んだ結果、一部を現実をもたらす。これは時間軸上、結果論ではないか。あらゆる可能性またはあらゆる可能性がない状態、それを認識したとあとに可能性によらず自由に何かを選ぶことはできる。可能性がどうであるかは、選択するというアクションを起こせるかどうかに直接作用するのか。
という疑問でした。
もし作用するんだったら、あらゆる可能性が同時に存在できると主張するSumioBabaさんは何も語ることができないはずだ。ただ私の認識では、SumioBabaさんが人としてあることができること、また矛盾しているというすめんさんの指摘を受け止めていることから、可能性がどうであるかは(どう認識するかは)選択するというアクションを発生させることができるかどうかに直接的に作用しない。と考えてみました。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>209 すめんさんへ
>なぜあなたは人なのに、「神視点」を持ち出すのでしょうか。
すめんさんは、「自分は1人の人間である」と思い込んでおられるのですか? しかし、それは実証も反証もできません。デカルトの方法的懐疑による「我思う、ゆえに我在り」まで遡ると、自分にとって確実なのは、現在の自分の心M1の存在と状態だけです。それゆえ、「人間視点」=「自分は1人の人間であり、体験しているのは自分の心M1だけである」が正しいのか、それとも「神視点」=「真の自分は全知全能の「神」であり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在しない」を確率的に体験しているのであって、M1とはその中の1つに過ぎない」が正しいのか、どちらも実証も反証もできません。論理の飛躍をしないためには、「人間視点」と「神視点」の両方の可能性を考慮する必要が有ります。
>それと、「存在する」と「存在しない」はコインの裏表のように、くるくる操作できるものではなく、まさに「存在選択の謎」のように、自分は「存在する」しかないんじゃないでしょうか。
量子力学の登場により、大問題が提起されました。世界は1つではなく多数存在し、自分が「存在する」世界も、自分が「存在しない」世界も、ともに実現しているのではないか?、という問題提起です。
二重スリット干渉実験で、1個の光子が左右どちらのスリットを通ったか観測していないとき、1個の光子はまるで「波」として左右両方のスリットを同時に通ったかのように、スクリーン上で干渉を起こします。ところが、どちらのスリットを通ったかを観測すると、1個の光子はまるで「粒子」のように、片方だけ、例えば「左」だけを通って来ることが観測されます。観測する前は「左」+「右」という重ね合わせです。観測すると「左」という片方だけです。「観測にかからなかった「右」の方はどうなったのか?」というのが、量子力学の「観測問題」です。
量子力学の解釈としては「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」「パイロット波解釈」「GRW理論」…など多数有りますが、SumioBabaは「多世界解釈」が一番合理的だと考えます。これによると、世界は多数存在することになります。自分が「左」か「右」かを観測して「左」だったとしても、それは自分が住む世界W1では「左」だったというだけで、自分が「右」だと認識した世界W2の方も発生したのだ、という説明です。自分が「左」か「右」かを観測していなければ、自分にとって「左」+「右」という重ね合わせのままです。自分が「左」か「右」かを観測すると、「左」だと認識した自分が住む世界W1と、「右」だと認識した自分が住む世界W2に、世界が分裂するのです。自分が生まれる前から、世界は多数に分裂し続けていると考えれば、自分が「存在する」世界も、自分が「存在しない」世界も、ともに実現しているはずです。
こう考えると、今まで解けなかった謎までが、いろいろ解けるようになります。世界が1つだとすると、人間のような高等生物が自然発生する確率は無限小の偶然に思えますが、「多世界解釈」を採って存在できる世界はすべて実現していると考えれば、それらの世界のどれかに人間のような高等生物が発生する確率は1であり必然です。すでに量子コンピュータが一部成功しています。量子コンピュータでは、観測せずに多数の世界を重ね合わせのままにし、それらの中で最も好ましい世界だけを選び出して観測にかかるようにできます。それが理論通りに成功しているので、「多世界解釈」の正しさはますます確信される一方です。
すめんさんは、「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」「パイロット波解釈」「GRW理論」…のどれを支持しますか? こういう問題を真剣に考えたことがお有りですか?
>「神視点」を持ち出して、アポリアをないことにしてしまう理由がわかりません。
すめんさんは、《状態選択の謎》=「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなく、このM1なのか?」と《存在選択の謎》=「なぜ自分の心M1は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」に、どう答えるのですか? 「そんなの知るもんか。なぜかそうだからそうなのさ。」で諦めるのですか?
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>213
tさんへ
何かを選ぶにあたって、可能性は必ず、その選択に影響を及ぼすでしょう。そうでなければ、可能性は自分の存在と何の関わりも持たないのですから、まるで霧のように、手を伸ばせば散り散りになってしまうような、ただのまやかしに過ぎないものとなってしまうでしょう。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>214
SumioBabaさんへ
ちょっと言っていることがよくわからないです。
たしかにぼくは、「自分は一人の人間である」と思っています。でもそれは、実証とか反証以前の事実であって、それができないからといって、その事実をうやむやにするのは、おかしな話ではないでしょうか。
それと、量子力学にはいろいろな解釈があるようですが、正直、「コペンハーゲン解釈」とか「パイロット波解釈」、「GRW理論」など、よくわからないですw。
ただ、二重スリットの問題について、ぼくはシンプルに、「そりゃあ、まったく物質?に影響を及ぼすことなく観測することはできないんだから、観測するときに、物質に影響が及んで、片方にしか結果が現れないんじゃないかなぁ」と思いました。
大学で量子力学を学んだことはありますが、正直、苦手だったので、素朴すぎる意見かもしれませんが。
多世界解釈ってのは、たぶん、頭の中で組み立てた結果、生まれるものであって、結局、その組み立てる頭は一つしかない、つまり自分の頭しかないんじゃないでしょうか。
だからたとえ、多世界ってのが事実だとしても、どう頑張っても自分は、そうなりえたであろうもう一つの世界に、ぴょいっと移ることはできないのだから、問題はつねに、いろいろなりえたけど、結局、今の自分がはまり込んでいる世界で、どのように生きるかにしかないのではないでしょうか。
それと、「状態選択の謎」と「存在選択の謎」は、自分の外に出なければ、答えられないですよね。たしかに人は物のようにそのまま単純に存在する(即自)のではなく、自分に対して存在している(対自)から、そのような疑問を抱くことはある。でも、それに答えを与えることはできない。
「そんなの知るもんか。なぜかそうだからそうなのさ」で諦めるとか、そういうレベルじゃなくて、事実、自分は自分の意識にはまり込んで、そこから脱け出して、誰かの意識になるなんてありえないのですから、諦めるんじゃなくて、そこを出発点として考えることに、意義があるんじゃないですか。
宿題 ★eM1n2yJmTo_vZE
すめんさん
脳の記憶をクラウドにアップし、半永久的に生きるサービス開始へ! 予約者多数、
まさに現前は・・永遠の幻・・
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>216 すめんさんへ
>たしかにぼくは、「自分は一人の人間である」と思っています。でもそれは、実証とか反証以前の事実であって、それができないからといって、その事実をうやむやにするのは、おかしな話ではないでしょうか。
「人間視点」=「自分は一人の人間であり、体験しているのは自分の心M1だけである」も、「神視点」=「真の自分は全知全能の「神」であり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在しない」を確率的に体験しているのであって、M1とはその中の1つに過ぎない」も、どちらが正しいのか、実証も反証もできません。実証も反証もできないのに、なぜ「自分は一人の人間である」が「事実」だと言えるのでしょう? この時点で、すでに論理の飛躍だと思いますけど?
>だからたとえ、多世界ってのが事実だとしても、どう頑張っても自分は、そうなりえたであろうもう一つの世界に、ぴょいっと移ることはできないのだから、問題はつねに、いろいろなりえたけど、結局、今の自分がはまり込んでいる世界で、どのように生きるかにしかないのではないでしょうか。
つまり、すめんさんの場合、「今の自分がはまり込んでいる世界で、どのように生きるか」だけが問題なのであって、《状態選択の謎》=「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなく、このM1なのか?」や《存在選択の謎》=「なぜ自分の心M1は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」は、初めから眼中に無いのではありませんか?
>それと、「状態選択の謎」と「存在選択の謎」は、自分の外に出なければ、答えられないですよね。たしかに人は物のようにそのまま単純に存在する(即自)のではなく、自分に対して存在している(対自)から、そのような疑問を抱くことはある。でも、それに答えを与えることはできない。
「自分は一人の人間である」も「自分は全知全能の神である」も、実証も反証もできません。だったら、どちらが合理的なのかだけでも、両方の可能性を考えてみるべきではないでしょうか? SumioBabaから見ると、すめんさんは、実証も反証もできないのに「自分は一人の人間である」と論理の飛躍をして結論を出してしまい、そこで思考停止してしまっているように見えます。
>「そんなの知るもんか。なぜかそうだからそうなのさ」で諦めるとか、そういうレベルじゃなくて、事実、自分は自分の意識にはまり込んで、そこから脱け出して、誰かの意識になるなんてありえないのですから、諦めるんじゃなくて、そこを出発点として考えることに、意義があるんじゃないですか。
で、そこを出発点として、すめんさんは《状態選択の謎》や《存在選択の謎》に、どういう答を見い出したのですか? ただただ思考停止し、答は何も見い出せなかったのではありませんか?
きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj
SumioBabaさん
いきなりすみません。
「実感する」とはどういうことだと思いますか?
SumioBabaさんは神の視点を実感できますか?
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>218
SumioBabaさんへ
「人視点」と「神視点」のどちらが正しいか、実証も反証もできません、というところがよくわかりません。
この場合の実証ないし反証は、何を指しているのでしょうか。
なぜ実証できないからといって、「真の自分は全知全能の神である」という、ぶっ飛んだ可能性を視野に入れなければならないのでしょうか。論理の飛躍をしないためでしょうか。そうだとしても、ぼくには、「俺は神だ!」って言ってる人の方が、飛躍していると思います。だって、どう見てもぼくらは、有限な存在だから。
それほど実証の是非にこだわるなら、自分が無限である可能性を、実際に検証してみてはどうでしょうか。たとえば、自分の意志で、台風の進路を逸れさせてみるとか。それができないなら、「自分は神である」ことの十分な反証になるんじゃないですか。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>211 、 >>212 のつづき
「客観について」
・・・1・・・
「客観」ってのは、英語で「object」と書くように、「対象」っていう意味がある。対象ってのは、「話題にすることができる」ってことである。
たとえば、「あそこにリンゴがあるね」と私が言えば、隣にいる人が「うん、そうだね」と答える。このとき、リンゴは一つの対象として現れている。逆に、私が言うまで、隣の人が、リンゴがあることに気づかなかった場合、その人にとって、リンゴは対象として現れていない、ということである。
要するに、「ハッキリと意識される」ってことが、対象の条件である。
・・・2・・・
どんな存在者も、必ず観念が場所を占めることで現実に存在している。
たとえば、目の前に転がっているリンゴは、まず観念として、どんなところにあっても「リンゴだ」と言われる。私の庭に転がっていようが、隣の人の庭に転がっていようが、「リンゴ」である。
けれども、それが場所を占めることで、つまり「どこに転がっているか」によって、リンゴの意味は変わってくる。だって、自分の庭に転がっているなら、食べてもいいけど、隣の人の庭に転がっていたら、それを食べると盗みになるからだ。
それで、「現実に存在する」ってのは、まず観念として、どこにあっても通用するものが、具体的にどこかの場所を占めるってことになる。逆に言えば、観念そのものは、単独では、場所を占めない、ということになる。
・・・3・・・
さて、客観すなわち対象ってのは、観念なんだろうか。それとも現実に存在するもの、すなわち場所を占めるものなんだろうか。
たとえば、私とあなたが同じ場所にいて、私が「あそこにリンゴがあるね」と言ったとする。するとあなたが、「うん、そうだね」と言ったとする。このとき、私の「あそこにリンゴがあるね」という発言は、客観的なものだったことになる。だって、あなたと同じように、あそこにリンゴがあることを認識していることになるから。これは、仮に、この会話がなかったとしても、あそこにリンゴがあるという認識は、客観的なものである、ということになる。要するに、このような会話が成り立ちうるならば、あのリンゴは客観的に、あるいは対象的に存在していることになる。
で、対象の条件は「ハッキリと意識される」ってことだから、私があるものをハッキリと意識するとき、そのものは対象性と同時に観念性も獲得するってことになる。だから、ぼくらがよく言う「客観的だね」ってのは、「対象視できてて、誰にでも通用するね」、つまり「対象的で観念的だね」ってことになる。
このように考えると、対象は観念だってことになる。
でも、例で言えば、私とあなたは同じ場所にいる。そしてリンゴは、私たちが共有している場所にある。
もしもこれが、お互いに別々の場所で、電話をしていて、私が「あそこにリンゴがあるね」と言っても、あなたは「うん、そうだね」とは言えないだろう。
だから、「リンゴがお互いのいる場所にある」ってのは、立派な対象の条件なんじゃないか。つまりこのリンゴは、現実存在してはじめて、客観性を獲得する。
・・・4・・・
このように考えると、「客観」には二種類の意味があることがわかる。一つは「観念としての客観」、もう一つは「現実としての客観」だ。「観念としての客観」は、わかりやすく言えば、「誰にでも通用する一般性」ってことだ。一方、「現実としての客観」は、わかりやすく言えば、「揺るがしようのない事実性」ってことだ。
たとえば、「リンゴは果物である」という発言は「観念としての客観」に属する。誰にでも通用する一般的なことだからだ。一方、「あのリンゴはまだ青い」という発言は「現実としての客観」に属する。というのも、実際にそのリンゴを目にしてはじめて、揺るがしようのない事実として、客観性を獲得するからだ。
すると、場所にもとづいて客観を考えるとき、重要になるのは「現実としての客観」の方である。だから次は、「現実としての客観(対象)」がどのようにして場所を占めるのか、を考えよう。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>220 すめんさんへ
>「人視点」と「神視点」のどちらが正しいか、実証も反証もできません、というところがよくわかりません。
>この場合の実証ないし反証は、何を指しているのでしょうか。
「自分が体験しているのはM1だけであって、他のM2、M3、M4、…は体験していない」とも実証・反証できないし、「自分はM1だけでなく、他のM2、M3、M4、…も体験している」も実証・反証できない、ということです。
>なぜ実証できないからといって、「真の自分は全知全能の神である」という、ぶっ飛んだ可能性を視野に入れなければならないのでしょうか。論理の飛躍をしないためでしょうか。
その通りです。論理の飛躍をしないため、です。
>そうだとしても、ぼくには、「俺は神だ!」って言ってる人の方が、飛躍していると思います。
そりゃそうでしょう。実証も反証もできないのに、「俺は神だ!」と言うのも論理の飛躍ですから。
>それほど実証の是非にこだわるなら、自分が無限である可能性を、実際に検証してみてはどうでしょうか。
いや、そうじゃなくて、実証・反証できないことが決定的に重要なのです。「神」が本当に全知全能であれば、「自分は1人の人間である」も「自分は全知全能の神である」も、ともに真にも偽にもなれる必要が有ります。だから、実証も反証もできないのです。
>たとえば、自分の意志で、台風の進路を逸れさせてみるとか。それができないなら、「自分は神である」ことの十分な反証になるんじゃないですか。
なぜ? 「神」は全知全能だから、多世界解釈に則り、あらゆる可能な世界を実現しています。それらの中には、台風の進路を逸れさせることに「成功した世界」も「失敗した世界」も、すべて実現しています。「失敗した世界」が存在したからって、なぜそれが「自分は神である」ことの十分な反証になるんですか?
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>219 きまぐれさんへ
>いきなりすみません。
>「実感する」とはどういうことだと思いますか?
こちらに尋ねられても判りません。むしろこちらが尋ねたいところです。どういう意味で「実感する」という言葉を使っておられるのですか?
>SumioBabaさんは神の視点を実感できますか?
1人の人間としてのSumioBabaの心M1を体験しているときは、同時に他のM2、M3、M4、…を体験することはできません。M1の視点に立つと、M1の存在確率は1ですが、他の心M2、M3、M4、…の存在確率は自ずと0以上1未満になるためです。M1の視点に立っていながらM2(≠M1)を体験できてしまうと、M1の視点に立っていながらM2の存在確率までが1となってしまい、矛盾が生じてしまいます。
ただし、「神視点」を想像することは簡単です。M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕という重ね合わせを想定し、真の自分はM0であり、これは同時に右辺のM1、M2、M3、…すべてを平等に体験しているのであり、M1だけが特殊ではないのだ、と思い込むだけで十分です。M0、M1、M2、M3、…は線形の重ね合わせであり、意識内容は独立しているため、M1の視点に立っているときは他のM0、M2、M3、…をも体験しているのか否か、実証も反証もできません。これがある意味での「神の視点を実感する」方法です。
気まぐれ @tetsugaku ★enkLv60QnF_6d8
SumioBabaさん
返信ありがとうございます。
正直、自分でも考えがまとまっていないのでうまく説明できないんのですが、SumioBabaさんの論は論理的には飛躍していないのかもしれませんが
実感的には飛躍しているように感じたのです。
>ただし、「神視点」を想像することは簡単です。M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕という重ね合わせを想定し、真の自分はM0であり、これは同時に右辺のM1、M2、M3、…すべてを平等に体験している
>のであり、M1だけが特殊ではないのだ、と思い込むだけで十分です。M0、M1、M2、M3、…は線形の重ね合わせであり、意識内容は独立しているため、M1の視点に立っているときは他のM0、M2、M3、…をも体
>験しているのか否か、実証も反証もできません。これがある意味での「神の視点を実感する」方法です。
神の視点を想像し実証も反証もできないことを知ることは、神の視点を実感することとは全く別のことですよね。
SumioBabaさんの仮説を否定するつもりはありませんが、アポリアを無矛盾に解釈したいという動機を共有できないために、アポリアを解消したいというM1に於いて要請された理屈のように見えることがあります。
もちろん、共感できる部分もおおくあるというか、神の視点を実感できるのかというのは自分自身に対する問いでもあるのです。
実感というのはMxの各視点のみに生じ、M0には生じないのでしょうか?そもそも神の視点(M0)はMxを通して想定されるために視点のように思い込まれるけども、神に視点はないのではないでしょうか?
人間視点に神視点を対置して捉えるから、そこに実感的飛躍を感じるのか?人間視点には実感が伴うが、神はただ在るだけで、「神」というように対象化できないために視点というものがそもそも無く、それゆえに実感というものもない。ということか・・・。
ボワール ★vYKNXVgaEY_f1k
「神」が本当に全知全能であれば
「神」は全知全能だから
「神視点」を想像することは簡単です
神ってなに?
なんで全知全能なの?
きみが想像できるそれが神ってこと?
想像できるから神は全知全能としてあるってこと?
なんじゃそれ
t @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★Tablet=vyc0FF9jKf
>>215 すめんさん
>何かを選ぶにあたって、可能性は必ず、その選択に影響を及ぼすでしょう。
可能性が選択に影響を与える、という構造ならあらゆる可能性が同時に存在する、という認識でも何かを選ぶことは可能に思います。
可能性が一定でないと何かを選択できない、という構造ならあらゆる可能性が同時に存在したらすめんさんの仰るように「まるで霧のように、手を伸ばせば散り散りになってしまうような、ただのまやかしに過ぎないものとなってしまう」と思います。
「可能性は自分の存在と何の関わりも持たない」ことは素朴実在論的には肯定されるように思いましたので、あらゆる可能性が同時に存在すると認識していても、何かを選ぶことは可能と思いました。
一方で自分の内面においてあらゆる可能性が同時に存在するとしたら、選べない(決断できない)状態となり、外面に現れる行動として選んでいるようにみえても、自分は選んでいない、決断していないから、何も得られない、ということになると思います。ただ、自分の内面で可能性をどう処理するかと、外界にある可能性をどう捉えるかは別に語られるべきではないでしょうか。実在とは関わりのない夢の中でも選択、決断はできるからです。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>224 気まぐれさんへ
>正直、自分でも考えがまとまっていないのでうまく説明できないんのですが、SumioBabaさんの論は論理的には飛躍していないのかもしれませんが実感的には飛躍しているように感じたのです。
その通りだと思います。殆どの人々が無意識的に論理の飛躍をしていて、「自分は1人の人間である」も「自分は全知全能の神である」も実証も反証もできないのに、「自分は1人の人間である」と思い込んでいます。だからSumioBabaが、「実証も反証もできないのだから、論理の飛躍をせず、a「自分は1人の人間である」+b「自分は全知全能の神である」(aとbの値は不明)と答えれば、トートロジーだから証明不要のまま恒真だ。」と説明しても、逆にこちらの方が論理の飛躍かのように勘違いするのです。
>SumioBabaさんの仮説を否定するつもりはありませんが、アポリアを無矛盾に解釈したいという動機を共有できないために、アポリアを解消したいというM1に於いて要請された理屈のように見えることがあります。
これなんかもそうです。SumioBabaのトートロジーを「仮説」だと勘違いしておられます。「仮説」とは、「Pである」とも「Pでない」とも実証・反証できないのに、「「Pである」の方が真だ」と真理を一部だけに限定するものです。一方、SumioBabaの答であるa「Pである」+b「Pでない」(aとbの値は不明)は、「Pである」かもしれない、「Pでない」かもしれない、「両方」かもしれない、「片方」かもしれない、とすべての可能性を網羅しているので、証明不要のまま恒真(トートロジー)です。
例えば、確率1/6ずつで1〜6の目が出るサイコロを1回振ります。何の目が出るか? SumioBabaの答は、何一つ論理の飛躍をせず、「1、2、3、4、5、6のどれかが出る」です。これはすべての可能性を網羅しているため、決して外れるはずが無く、論理的必然性で恒真(トートロジー)なのであって、「仮説」ではないため、立証責任がありません。一方、貴方が、「私はSumioBabaの考えを受け入れない」と主張されるのであれば、貴方は1、2、3、4、5、6の少なくとも1つは出ない、つまり、可能性を5つ以下だと主張されているため、貴方の主張の方が「仮説」となり、立証責任が生じるのです。
《参考文献》
http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-650,651,652,653,654,662,663,664,665,711,750,751,973,1000#a
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>225 ボワールさんへ
まあ、↓でも読んでみて下さい。
http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-650,651,652,653,654,662,663,664,665,711,750,751,973,1000#a
ボワール ★q3VuplWLaE_f1k
サイコロを1回振ります
何一つ論理の飛躍をせず「1、2、3、4、5、6のどれかが出る」です
なんじゃそれ
なんでこれが論理的な答えだと思ったの?
こんなの論理以前の0点の答えでしょ?
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>すめんさんへ
>>気まぐれさんへ
「自分は1人の人間である」も「自分は全知全能の神である」も、実証も反証もできないので、どちらか一方だけを真だと結論を出すのは論理の飛躍である、と主張しました。そして真理は、a「自分は1人の人間である」+b「自分は全知全能の神である」(aとbの値は不明)だと答えておけば、「自分は1人の人間である」「自分は全知全能の神である」「両方」「片方」というすべての可能性を網羅しているため、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)である、と説明しました。(選択肢はこの2つだけ、という前提で)。
実際、自分の心M1の視点に立つと、M1だけは確率1で「存在する」に確定していますが、他の心M0、M2、M3、M4、…の存在確率は0以上1未満であり、「存在する」と「存在しない」の重ね合わせになっています。
従って、「M1だけが「存在する」、他のM0、M2、M3、M4、…は「存在しない」であり、自分が体験しているのはM1だけだ。」が正しい確率もいくらか有り、このとき、「自分は1人の人間である」は真、「自分は全知全能の神である」は偽になります。
逆に、「M1だけでなく、M0、M2、M3、M4、…すべてが「存在する」であり、自分はそれらすべてを体験している」が正しい確率もいくらか有り、このとき、「自分は全知全能の神である」が真、「自分は1人の人間である」が偽になります。
「神」が本当に全知全能であれば、「自分は1人の人間である」も「自分は全知全能の神である」も、ともに真にも偽にもできるはずです。そして実際、そうなっています。だからこそ、「自分は1人の人間である」も「自分は全知全能の神である」も、実証も反証もできないのです。
これと同じことが、「神は「存在する」か?、「存在しない」か?」でも言えます。神は「存在する」とも「存在しない」とも、実証も反証もできません。それなのに、「存在する」と断言してしまう《有神論者》も、「存在しない」と断言してしまう《無神論者》も、論理の飛躍をしてしまっています。何一つ論理の飛躍をしないためには、「存在する」「存在しない」「両方」「片方」すべての可能性を認め、a「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)と答えれば良いのです。
しかも、「神」が本当に全知全能であれば、「存在する」と「存在しない」の片方だけに確定してはなりません。片方に確定してしまうと、他方になり得ないことになり、全知全能ではなくなってしまいます。「存在する」「存在しない」「両方」「片方」のすべての可能性を持つことで初めて、「神」は真の全知全能になれるのです。
実際、1人の人間である自分の心M1の視点に立つと、M1だけが存在確率1で「存在する」に確定し、他のM0、M2、M3、M4、…の存在確率は0以上1未満であり、「存在する」と「存在しない」の重ね合わせでした。「他のM0、M2、M3、M4、…もすべて「存在する」」という確率もいくらか有り、このとき「神は「存在する」」になります。「他のM0、M2、M3、M4、…のどれかは「存在しない」」という確率もいくらか有り、このとき「神は「存在しない」」になります。M1の視点に立っているときは、他のM0、M2、M3、M4、…は「存在する」か「存在しない」かが確定していないので、神が「存在する」のか「存在しない」のかも確定していません。つまりM1の視点に立つと、「神」は、a「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)です。
ちなみに、「a「○○○である」+b「○○○でない」(aとbの値は不明)」という答は、「「○○○である」と「○○○でない」のどちらが真か?」という質問に対し、「わからない」と答えているのではなく、「「○○○である」「○○○でない」「両方」「片方」のどれもが0より大きい確率で重ね合わせのままであり、「○○○である」にも「○○○でない」にも確定していない」という意味です。
《参考文献》
http://mb2.jp/_tetsugaku/436.html-403,404#a
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
SumioBaba さんへ
長文になります。とりわけ要となるのは、 >>227 に対するサイコロの話です。それ以外も、教えていただけると助かります。
>>222
要するに、この心の体験することが、私のものであるとはかぎらず、あるときにはAさんの、あるときにはBさんの心を体験しているのではないか。そしてもし、それが正しければ、それを拡張してゆけば、いずれすべての心を体験することができ、そのすべてを体験する心こそ、全知全能であるから、神に違いない。そういうことでしょうか。
だとすれば、もっとシンプルに言えば、『この心が「私」のものであるとはかぎらない』、ということになるのでしょうか。
その根拠として、たとえば、「自分の過去の体験に照らし合わせて、Aさんの苦しみに共感を覚えた経験」は挙げられるでしょうか。このとき、過去の自分の体験はAさんのものに“かぎりなく近い”として解釈されているのですから。
そこまでいけば、なんとなく、SumioBabaさんの言いたいことが、わかってきたような気がします。
>>223
気まぐれさんへの返答にもかかわらず、こちらこそ、横槍を入れてしまうことを、先に謝っておきます。気まぐれさん、すいません。
さて、以下のSuimoBabaさんの発言に質問です。
> M1の視点に立つと、M1の存在確率は1ですが、他の心M2、M3、M4、…の存在確率は自ずと0以上1未満になるためです。
これはたとえば、他の心M2、M3、M4、…が、他人の心だとすれば、他人の心の存在確立が1未満になるとはどういうことでしょうか。それだと、他人の心は存在しないことになりませんか。それこそ他のスレじゃないですけど、独我論に陥りませんか。(加えて存在確立が0以上1未満、というのが理解できません。0か1のどちらかなんじゃないですか)
でも、言わんとしていることは、もし『この心が「私」のものであるとはかぎらない』という解釈が正しいのであれば、わかってきたような気がします。要するに、「神視点」というのは、自我から脱却したメタ視線、ということなのかな、と。
>>227ぼくは偽になる危険を冒すことのない真(すなわち恒真)は無意味だと思います。言いかえれば、すべての可能性を網羅したから、間違いないんだ、というのは無意味だと思います。もっと言えば、仮説を立てない考えは、意見でも思想でもないと思います。
それだとまるで、階段を登る前から、「その先の景色を知り尽くしている」といって、一度も登ったことのない人のようなものだと思います。つまり、SumioBabaさんは何か意味のあることを言っているようで、実はそれは空虚なものに過ぎない気がします。
それこそ、SumioBabaさんは「1、2、3、4、5、6のどれかが出る」と口で言うだけで、一度もサイコロを振ったことがなく、それで満足している人のような気がします。でもそれは、側から見れば、「あいつはサイコロの意味をわかっていない」と言われてもおかしくないんじゃないでしょうか。だって、サイコロは振らなければ、意味がないからです。「1、2、3、4、5、6のどれかが出る」はサイコロの定義には適っているかもしれませんが、サイコロが意味を持つのは、それを振ってからです。
このことは理解していただけるでしょうか。
>>231以下のところがよくわかりません。
> しかも、「神」が本当に全知全能であれば、「存在する」と「存在しない」の片方だけに確定してはなりません。片方に確定してしまうと、他方になり得ないことになり、全知全能ではなくなってしまいます。
神は自分がいるのかいないのかも確定できないほど、無能なのでしょうか。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>226
tさんへ
SumioBabaさんの話について言っているなら、彼は、「選べる」「選べない」の次元で話しているのではなく、「選ばない」ことを選んでいる。でもそれは無意味である、というのがぼくの主張です。
でもtさんは「選べる」「選べない」の次元の話をしている。
それを踏まえて、 >>226 について。
ぼくは「内面で可能性をどう処理するか」と「外界にある可能性をどう捉えるか」を「別に語られるべき」と主張するtさんの真意が理解できませんでした。
というのも、ぼくにとって可能性は内面にしかなく、外界はすべて現実性だと思うからです。だから「選ぶ」というのは、内面的なものを外界にもたらすことであって、すなわち行為に他ならない。
だから「夢の中でも選択できる」というのは、ぼくは違うと思います。夢はあくまでも、すべて可能性に埋め尽くされている。だって夢を見ている人、つまり寝ている人を指して、「あの人は行為している」とは言えないでしょう。というのも、彼は何も現実にもたらしていないから(はたして「寝る」は行為なのか、議論の余地はあるが)。
でも、tさんの言う「外界の可能性」が何を指すかによって、ぼくも考えを改めなければならないかもしれません。
それで思い巡らしてみると、たとえば木材は、机や椅子になる可能性を秘めている。
tさんが言う「外界にある可能性」とは、こういうことでしょうか。
だとしても、机になるか、椅子になるか、その可能性は大工の内面にあって、あくまでも現実は木材でしかない。
だからむしろ、素朴実在論というのは、「可能性は自分の存在と何の関わりも持たない」のではなく、「可能性は自分の存在そのもの」という見方なのではないでしょうか。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>232 すめんさんへ
>要するに、この心の体験することが、私のものであるとはかぎらず、あるときにはAさんの、あるときにはBさんの心を体験しているのではないか。そしてもし、それが正しければ、それを拡張してゆけば、いずれすべての心を体験することができ、そのすべてを体験する心こそ、全知全能であるから、神に違いない。そういうことでしょうか。
「この心」と「私」の違いが判りません。
常識的には、SumioBabaはSumioBabaの心M1だけを体験しているかのように思い込んでいるけれど、真の自分は全知全能の「神」であり、「神」はSumioBabaの心M1だけでなく、Aさんの心M2も、Bさんの心M3も、…存在し得るすべての心を体験してるのではないか、ということです。
>だとすれば、もっとシンプルに言えば、『この心が「私」のものであるとはかぎらない』、ということになるのでしょうか。
「私」が何を指しているのか判りません。
>その根拠として、たとえば、「自分の過去の体験に照らし合わせて、Aさんの苦しみに共感を覚えた経験」は挙げられるでしょうか。このとき、過去の自分の体験はAさんのものに“かぎりなく近い”として解釈されているのですから。
>そこまでいけば、なんとなく、SumioBabaさんの言いたいことが、わかってきたような気がします。
例えば、確率1/2ずつで0または1が出る量子乱数を10回発生させると、自分の心M1が住む世界W1では、その中の1つ「0110100011」のような結果が得られます。ここで多世界解釈を採ると、2^10=1024種類の世界がすべて実現していて、1024種類の自分が発生し、それぞれ異なった結果を得ていることになります。これら1024種類の自分すべてを体験しているのが「神」です。これを、自分だけでなく、他人にまで拡張し、存在し得るすべての心を体験していると想定されるのが「神」です。
>さて、以下のSuimoBabaさんの発言に質問です。
>> M1の視点に立つと、M1の存在確率は1ですが、他の心M2、M3、M4、…の存在確率は自ずと0以上1未満になるためです。
>これはたとえば、他の心M2、M3、M4、…が、他人の心だとすれば、他人の心の存在確立が1未満になるとはどういうことでしょうか。
文字通り、他の心M2、M3、M4、…がa「存在する」+b「存在しない」という重ね合わせのまま、片方に確定していないということです。|a|^2が「存在する」の確率、|b|^2が「存在しない」の確率です。仮に確率半々だとするなら、a=1/√2、b=1/√2になります。
>それだと、他人の心は存在しないことになりませんか。
他人の心は「存在する」と「存在しない」の両方の可能性が残ったままです。実証も反証もできないので。
自分の心M1の視点に立つと、M1だけが存在確率1で「存在する」に確定しているけれど、M2、M3、M4、…は「存在する」と「存在しない」の重ね合わせのままで片方に確定していません。
だから、「M2、M3、M4、…はどれも「存在しない」」という確率もいくらか有り、この場合「M1の独我論」は真です。
逆に、「M2、M3、M4、…のどれか1つくらいは「存在する」」という確率もいくらか有り、この場合「M1の独我論」は偽です。
M1の視点に立つと、M2、M3、M4、…は「存在する」にも「存在しない」にも確定していないので、「M1の独我論」が真か偽かも確定せず、「真」と「偽」の重ね合わせのままです。つまりM1の視点に立つと、「M1の独我論」の真偽は、a「真」+b「偽」(aとbの値は不明)です。
>それこそ他のスレじゃないですけど、独我論に陥りませんか。(加えて存在確立が0以上1未満、というのが理解できません。0か1のどちらかなんじゃないですか)
「0か1のどちらか」ではありません。どちらにも確定していないという状態が有るのです。量子コンピュータでいうQuビットは、「0」と「1」とを重ね合わせにした(1/√2)「0」+(1/√2)「1」などを使います。こういうのを「量子論理」と呼びます。
>でも、言わんとしていることは、もし『この心が「私」のものであるとはかぎらない』という解釈が正しいのであれば、わかってきたような気がします。要するに、「神視点」というのは、自我から脱却したメタ視線、ということなのかな、と。
SumioBabaの心M1も、Aさんの心M2も、Bさんの心M3も、…すべては唯一の存在である「神」が見ている夢のようなもの、という世界観です。
>ぼくは偽になる危険を冒すことのない真(すなわち恒真)は無意味だと思います。
トートロジーを「真」だと認めないのですか? だから、すめんさんには、論理が通用しないのでしたね。経験科学的真理の方は、100%確実な真理は存在しないけれど、「同一律」「無矛盾律」「3段論法」などの論理的必然性による真理の方は、100%正しいと認めないと全く話になりませんよ。
>言いかえれば、すべての可能性を網羅したから、間違いないんだ、というのは無意味だと思います。もっと言えば、仮説を立てない考えは、意見でも思想でもないと思います。
それは、経験科学的真理の話でしょう。トートロジーは経験科学的真理ではなく、論理的必然性で真なのであり、意見でも思想でもないのは当然です。
>それだとまるで、階段を登る前から、「その先の景色を知り尽くしている」といって、一度も登ったことのない人のようなものだと思います。つまり、SumioBabaさんは何か意味のあることを言っているようで、実はそれは空虚なものに過ぎない気がします。
トートロジーは論理的必然性で証明不要のまま真である代わりに、何一つ情報をもたらさないものだから、もちろん中味は空虚です。つまり、「意味」が有るのは人間だけであって、全知全能の「神」には意味も何も無いということです。これが「空」(くう)です。
>それこそ、SumioBabaさんは「1、2、3、4、5、6のどれかが出る」と口で言うだけで、一度もサイコロを振ったことがなく、それで満足している人のような気がします。でもそれは、側から見れば、「あいつはサイコロの意味をわかっていない」と言われてもおかしくないんじゃないでしょうか。だって、サイコロは振らなければ、意味がないからです。
>「1、2、3、4、5、6のどれかが出る」はサイコロの定義には適っているかもしれませんが、サイコロが意味を持つのは、それを振ってからです。
>このことは理解していただけるでしょうか。
「人間視点」と「神視点」の混同だと思います。「人間視点」だったら、サイコロを振れば1〜6のどれか1つが出るし、それによって一喜一憂したりするし、「なぜこの目1だけが出て、他の目2、3、4、5、6は出なかったのだろう?」というアポリアが生じます。「神視点」に立てば、「すべての目1、2、3、4、5、6の出た世界が、「実現した」でもあり、「実現していない」でもあり、「両方」でもあり、「片方」でもある」でアポリアが消滅します。「神視点」だと、すべてが「空」です。
>以下のところがよくわかりません。
>> しかも、「神」が本当に全知全能であれば、「存在する」と「存在しない」の片方だけに確定してはなりません。片方に確定してしまうと、他方になり得ないことになり、全知全能ではなくなってしまいます。
>神は自分がいるのかいないのかも確定できないほど、無能なのでしょうか。
「神」自身は、自分を「いる」、「いない」、「いる」+「いない」のどれにでもできるし、これら3つをすべて実現しています。「いる」が「全知全能である」(正)、「いない」が「全知全能でない」(反)、「いる」+「いない」が「全知全能である」(合)です。
1人の人間の心M1は、神が「いる」か「いない」かを確定できないため、M1の視点に立つと、「神」はa「存在する」+b「存在しない」(aとbの値は不明)になります。
きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj
SumioBabaさん
SumioBabaの心M1も、Aさんの心M2も、Bさんの心M3も、…すべては唯一の存在である「神」が見ている夢のようなもの、という世界観です。
これだと、私は神の一部であるということになり、私は全知全能の神である、にはならないのではないでしょうか?
t @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★Tablet=vyc0FF9jKf
>>233 すめんさん
>それで思い巡らしてみると、たとえば木材は、机や椅子になる可能性を秘めている。
>tさんが言う「外界にある可能性」とは、こういうことでしょうか。
ありがとうございます。別の例でも良いでしょうか。
例えば、ボールが「私」に向かって飛んできます。「私」に衝突するか否か。距離は5mとします。まずボールに焦点を当ててみると物理法則に従って「私」に向かってゆきます。そのままなら衝突するとします。しかし突風に煽られる、「私」の前に人などの障害物が急遽あらわれる。などといった事象により激突しないケースが発生しえます。距離5mの時点ではこれらの可能性により衝突するかどうか不明です。これらは「私」が関知しようとしまいと、ある(在る)可能性だと思います。
次に「私」に焦点を当ててみます。ボールが飛んできたことを認識したとき、「私」は様々なことを考えることができます、または考えないこともできます。例えば、ボールが当たると断定して身体を動かそうとする、身体を動かさないほうが当たらないと断定して動かない、幸運な私にボールが当たるはずもなし突風や障害物により衝突は妨げられるのだ(思考放棄の例え)、などです。また当たるか当たらないか判断できないから身体の緊張を解き次の瞬間に備える、ということもあるでしょう。しかしいずれの「私」の可能性、選択も上述した距離5mの時点でのボールの可能性には関与できないのではないでしょうか。ボールに関与できるのは距離1mくらい、手の届く範囲に入ってからと思います。
>だとしても、机になるか、椅子になるか、その可能性は大工の内面にあって、あくまでも現実は木材でしかない。
「私」が木材を見たとき、木材は机になるか椅子になるかその両方の可能性を持つ。ある時点で答えを求めれば、その時の形状、たとえば木材という結果が導き出される。これを前回は結果論ではないかと述べてみました。木材から背をそむけ、一週間後に振り向くと大工が机を作り上げているかもしれない。振り向かなくても作り上げられている可能性はあります。
>だからむしろ、素朴実在論というのは、「可能性は自分の存在と何の関わりも持たない」のではなく、「可能性は自分の存在そのもの」という見方なのではないでしょうか。
しかしながら「私」が事象を仮にでも認識しなければ、これまでの言及はできない。その意味で仰る通り可能性は自分そのものと言えると思います。ただ素朴実在論では「私」が認識しなくとも外在はあるとしているため、あらゆる可能性が自分が関与しないところ「にも」あると思います。ボールのようにです。
>SumioBabaさんの話について言っているなら、彼は、「選べる」「選べない」の次元で話しているのではなく、「選ばない」ことを選んでいる。でもそれは無意味である、というのがぼくの主張です。
例えばボールが衝突前、距離5mの時点、つまり「私」が直接的に結果に関与できる前段階では、あらゆる可能性が両立することに言及できるのではないか、そしてそれは「選ばない」ことの前段階と言えるのではないか、と考えています。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>235 きまぐれさんへ
>SumioBabaの心M1も、Aさんの心M2も、Bさんの心M3も、…すべては唯一の存在である「神」が見ている夢のようなもの、という世界観です。
>これだと、私は神の一部であるということになり、私は全知全能の神である、にはならないのではないでしょうか?
私をM1だとすれば、「私は全知全能の神である」は「偽」です。私をM0、M1、M2、M3、…全部だとすれば、「私は全知全能の神である」は「真」です。やはり「神」は、「私は全知全能の神である」もまた、「真」と「偽」の両方を実現しています。
後者が「神」の「全知全能である」(正)という状態です。前者が「神」の「全知全能でない」(反)という状態です。「神」は両方を実現することにより、「全知全能である」(合)を満たしています。
「神」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」です。存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…のそれぞれが、確率的に「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在しない」のどれでもある在り方をしています。それゆえ、以下の(1)(2)(3)(4)のどれもが確率的に実現している訳です。
(1)「{M}の要素であるM0、M1、M2、M3、…すべてが「存在する」」
(2)「{M}の真部分集合{Ma}だけが「存在する」、補集合{Mx}は「存在しない」」
(3)「自分の心M1だけが「存在する」、他のM0、M2、M3、…は「存在しない」」
(4)「{M}の要素であるM0、M1、M2、M3、…すべてが「存在しない」」
(1)が「神」の「全知全能である」(正)という状態。(2)(3)(4)は「神」の「全知全能でない」(反)という状態。(1)(2)(3)(4)すべてを実現することで、「神」は「全知全能である」(合)を満たしています。
きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj
SumioBabaさん
M0、M1、M2、M3、…全部だと、空状態なのではないのでしたっけ?
空状態は私ではないのでは?
神は全知全能でいいと思いますけど、なぜ“私は“全知全能の神であるとなるのですか?
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>236
tさんへ
私に向かって飛んでくるボールが、私に当たらない可能性は“外在”している。それはたとえば、突風に煽られたり、障害物が現れるなどによって。…という理解で正しいでしょうか。
だとすれば、その外在している可能性は、客観的な視線において現れる可能性ではないでしょうか。もっとわかりやすく言えば、第三者の視点から、「私」にボールが当たるかどうか観察しているのではないでしょうか。物理法則のように。
この理解が正しいのであれば、厳密には、ボールが私に向かってくるときの可能性を考察するにあたって、第三者の視点を持ち出すことは、「まさにボールが向かってくる」という現象を損なう気がします。というのも、ボールが迫ってくることに対する危機感は、第三者には現れないからです。
だから、あくまでも、ボールが当たるかどうか、という可能性は、“私の”可能性である。つまり、可能性はすべて内在している。
ゆえに私は、まったく素朴実在論の立場に立たないことになると思います。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>238 きまぐれさんへ
>M0、M1、M2、M3、…全部だと、空状態なのではないのでしたっけ?
>空状態は私ではないのでは?
「空」M0は完全無意識状態、「色」M1、M2、M3、…は特定の有意識状態で、両者は異なります。M1、M2、M3、…すべてを同じ重みで線形に重ね合わせると、M0になります。M0の中にM1、M2、M3、…が確率的に含まれており、M0を体験することで、すべてのM1、M2、M3、…をも確率的に体験していることになります。「私」をM1だけだと定義すれば、「私は全知全能の神である」は偽です。「私」をM0、M1、M2、M3、…すべてだと定義すれば、「私は全知全能の神である」は真になります。全知全能の「神」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」なので。
>神は全知全能でいいと思いますけど、なぜ“私は“全知全能の神であるとなるのですか?
「私」をM0、M1、M2、M3、…すべてだと定義した場合の話なので、定義「神」=「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」により、「私は全知全能の神である」は真です。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>239 すめんさんへ
>何でも「神視点」を持ち出せば解決するってことですね。
>で、ぼくが言う「無意味」ってのは、もっときつく言えば「だから?」ってことです。
例えば物理学で、「相対性理論と量子力学をどうすれば統一できるか?」「強い力、電磁気力、弱い力、重力の4つをどう統一するか?」という未解決の難しい問題が有ります。「究極の統一理論」などと呼ばれています。今、誰かがこの「究極の統一理論」を完成したと主張し、発表したとします。でも、その意味や価値を理解できるのは、その道の専門家だけであり、自分自身がこの問題で何年も考え込んだ経験を持つ人だけだと思います。物理学を全く知らず、興味も持たない人は、そもそも何が問題なのかが解っていないし、答を知りたいとも思っていないし、答を聞いても、「だから?」「それが何なの?」くらいにしか感じないでしょう。人それぞれ、どんな学問に興味を持つかは自由だから、物理学に興味を持たないからといって、それが悪い訳ではありません。でも、物理学に興味を持ち、自力で「究極の統一理論」を考えた経験を持つ人でなければ、「究極の統一理論」の意味も価値も理解できないと思います。
すめんさんの場合、量子力学も知らない、量子力学の「観測問題」について真剣に考えたこともない、もちろん自力で仮説を作った経験も無いのでしょう? 当然、何が謎なのかも知らないし、答を知りたいとも思っておられないはずです。もちろん、すめんさんの好みはすめんさんが自由に選んで良いのだから、それを悪いことだと批判している訳ではありませんよ。SumioBabaの「量子神学」は、この「観測問題」に対して最も合理的と思われる説明、つまり、すべてのアポリアが解消できる理論を、自力で作ったものです。すめんさんには、残念だけれど、意味も価値も理解できないと思います。
きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj
SumioBabaさん
「私」の語義は特定の有意識状態を示すのであり、有意識状態を内包する無意識状態を「私」と定義するのはおかしいのではないか?
ということです。
t @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★Android=JfrgYTOP0P
>>240 すめんさん
返信ありがとうございます。
>私に向かって飛んでくるボールが、私に当たらない可能性は“外在”している。それはたとえば、突風に煽られたり、障害物が現れるなどによって。…という理解で正しいでしょうか。
正しい理解だと思います。
>第三者の視点から、「私」にボールが当たるかどうか観察しているのではないでしょうか。物理法則のように。
はいそうです。しかし、第三者視点であるなら厳密にはわたくしtもすめんさんも第三者視点については語りえないのではないでしょうか。しかし実際には二人とも語れている。これについてはどうお考えでしょうか。
>第三者の視点を持ち出すことは、「まさにボールが向かってくる」という現象を損なう気がします。というのも、ボールが迫ってくることに対する危機感は、第三者には現れないからです。
上記について前レスで「当たるか当たらないか判断できないから身体の緊張を解き次の瞬間に備える、ということもある」としてみました。また先の質問である第三者視点であるのにそれを語り得るのは何故か、にも繋がります。ようは第三者視点を持ち出しても、それ(私が語る第三者視点)は結局「私」の認識限界に限定されるのであって、現象には関与しない。現象を損なうことなく第三者視点を持った「私」が選択を行うことは可能であるという主張です。この主張に当てはまらないケースは後頭部、つまり認識不可能な方向からボールが飛んできた、などといった場合と思います。いかがでしょうか。
SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD
>>245 きまぐれさんへ
>「私」の語義は特定の有意識状態を示すのであり、有意識状態を内包する無意識状態を「私」と定義するのはおかしいのではないか?
>ということです。
・「人間視点」=「自分は1人の人間であり、体験しているのは自分の心M1だけである」
・「神視点」=「真の自分は全知全能の「神」であり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在しない」を確率的に体験しているのであって、M1とはその中の1つに過ぎない」
両方とも実証も反証もできないので、どちらの可能性も有る、という話です。両視点における「自分」を「私」と呼ぶと、以下のようになります。
・「私は1人の人間である」
・「私は全知全能の神である」
「「私」の解釈に2通り有り得る」という意味で、どちらも「私」という同じ言葉を使ってみました。どうしても「私」と呼びたくなければ、別に呼ばなくても構いませんが。
キリスト教の「神」は、人間よりもはるかに賢い全能者という意味で、初めから極めて特殊な状態に限定された存在です。その「神」がこの世界を設計した上で創造した、といった説明をします(インテリジェント・デザイン説)。しかし、こういう「トップ・ダウン」の説明だと、「ではその「神」は誰が作ったのか?」といった疑問が生じてしまい、無限後退に陥ります。それを避けるため、全く逆である「ボトム・アップ」の説明をします。そもそも全知全能の「神」とは、何一つ限定されていない「空」だった、というのがそれです。最も単純な「空」から、「色」すなわち人間の心(や物質世界)のように複雑なものが発生したのだ、と説明すれば、無限後退は避けられます。進化論も「ボトム・アップ」です。
きまぐれ ★iPhone=m53hQMLhFj
SumioBabaさん
神視点に立つということは、自己意識を持たないということかと思ったので、「私は全知全能の神である」とした時点で、すでに特定の有意識状態に捉われ始めている(人間視点化し始めている)と感じたのです。
「私」という概念自体が神から析出した概念だと思っているので。
とはいえ、SumioBabaさんの意図しない点をクローズアップして個人的に拘っていただけかもしれません。
レス、ありがとうございました。
t @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★Android=JfrgYTOP0P
>>250 すめんさん
>第三者視点を語ることができるのは、厳密には、現象の勢いを平板化したうえでのことだと思います。
平板化した現象はもはや、もとの現象ではありません。
>第三者の視点を持ち出すことは、「まさにボールが向かってくる」という現象を損なう気がします。
従って、第三者視点(平準化された現象)を持ち出してもそれは現象とは異なるものであり、現象を損ないません。
>後頭部からボールが飛んでくる可能性には言及できない。それができるのは、あくまでも、メタ視点に立つ者だけです。
上記を認めないと、メタ視点に立つ者に言及したすめんさんはメタ視点を更に上から俯瞰するメタ視点にたって言及したことになってしまいます。これは無限後退や矛盾を引き起こします。かえって、すめんさんのいう何も選んでいない無意味な状態になってしまっているように思いますし、以前話にあった「飛躍」がこれにあたるのではないでしょうか。同様の状態は
>>249 のきまぐれさんの神についての疑問でも生じていると思います。
第三者視点にたち、あらゆる可能性が両立すると認識することは、現象は損なわないし、選択しないことではない。むしろ、あらゆる可能性が両立すると認識すること
を選んでいる、というのが私の主張です。
t @bossbitter☆KjCIokkjh3la ★Tablet=vyc0FF9jKf
すめんさん
一人称パースペクティブについて存じあげなかったため、少し調べてみた限りですが見解を述べてみます。一人称パースペクティブは「私」の認識が発生した後の話をしていると思います。従って「私」が認識しえないことは一人称パースペクティブで語ることはできません。しかし現実では、もしたられば、といった言葉があるように自らの中に構築した世界で、本来は認識しえないはずの未来を仮定的に確定させ、語ることが可能です。しかし、その仮定世界は、他者共有できないもので、一人称パースペクティブであると思います。そしてここがポイントです。仮定世界と現実で答え合わせができるのは、現象が発生したあとです。したがって現象発生前の仮定世界では、制限なくあらゆる可能性を語りえる。だから何かの可能性に絞り込まなければ意味がないと「も」言及できるし、あらゆる可能性が存在すると「も」いえる。一人称パースペクティブとは、その主体が個人に収束しているが、一人称パースペクティブを持つものの総体はあらゆる方向に無限の広がりを持つ、というように思いました。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
>>255
tさん
文章が難しいですね。とりあえず二点。
一点目。
> 「私」が認識しえないことは一人称パースペクティブで語ることはできません。
> しかし、その仮定世界は、他者共有できないもので、一人称パースペクティブであると思います。
きっと、tさんのおっしゃる、「仮定世界」の中でしか、「私」が認識しえないことは語れない。
たとえば、後頭部へ飛んでくるボールを私は認識しえない。だから本来はその可能性を考慮しえない。でも、もしかしたら、飛んでくるかもしれない…。そのように考えれば、後頭部へ飛んでくるボールを考慮に入れることはできる。
このように仮定世界の中では、私が認識しえないことも、可能性として考慮することができる。
こういう理解で正しいでしょうか。
二点目。
> 一人称パースペクティブとは、その主体が個人に収束しているが、一人称パースペクティブを持つものの総体はあらゆる方向に無限の広がりを持つ、というように思いました。
この文における、「一人称パースペクティブ」と「一人称パースペクティブを持つものの総体」の違いが理解できませんでした。
宿題 ★sicIy89Ne4_dNU
すめんさん
中学の英語を久しぶりに見ました・・どちらかと言えば哲学ならドイツ語で・・
信仰は個人のものです・・教団になれば宗派になります。
哲学は真理ですから個人の一見識ではありません。
すめん @levinas ★iPad=LtezlP5CRw
「何か」がいる。
痕跡とは不在の証である。その痕跡が集まった結果、できたものが表象、すなわち一切の冷静な思考の起点だとしたら、私たちの日常的な思考は、「何か」が去った後の痕跡にもとづいて、展開されていることになる。
「何か」が隠されている。それは「秘密」である。
この、思考が成り立つ以前の、つまり表象が成り立つ以前の、「何か」が不在である状況を、私たちは「気配」と呼ぶことができる。「気配」とは、表象未満の「何か」、つまり明るみのもとに姿を晒さない「何か」によって、暗闇に充溢する、ただ事ではない雰囲気である。
経験論者も合理論者も、経験や原理から出発して思考している点で、すでにこの「何か」への洞察を逸している。観念論者も実在論者も、この「何か」を観念や実在と名指す点で、すでに明るみの元に引きずり出してしまっている。その時点で、それはすでに「何か」ではないのだ。
この「何か」は「存在する」としか言えないものである。それ以外のあらゆる述語は、余計であり、あるいは「何か」の現れを壊してしまう。その点で、ハイデガーのみが、この「何か」の次元を開いて、向き合っていると言える。
ただ、私たちは、この「何か」を紐解く手がかりを、「気配」という現象のうちに見つけることができる。
この「何か」はいったい、何なのか。それは、探求を引きつけてやまないその動性そのものをもたらす。
宿題 ★eM1n2yJmTo_o53
イデア・理念への憧れは哲学への衝動に向かうでしょう・・
現実と理念との格差・二律背反の板挟み・・
満足した豚で無く不満足なソクラテス・・