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デカルト論破

 ( 哲学掲示板 )
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ホントウの真理を発見した者 ★6OvwWdGjSD_fNh

「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに…

俺「いつまで続くのですか?」

デカルト「無限に続くよ。だからこそ思う主体、そう、我だけが残り、我が存在することが確実なんだよ。」

俺「でも、無限に続くって確認できなくないですか?無限に疑った人っているんですか?無限って疑わしくないですか?」

デカルト「あっ…えっと…。」

俺「論破ああああああああああ!」

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凡人 ★AF3oJMMBTq_sgc

>>21,22 をご覧ください。

5ヶ月前 No.31

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

凡人さん

最近中国のドラマの映像(あらすじ関係なし)が一番きれいなのは何故ですか?

5ヶ月前 No.32


Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_3Nj

折角だから、復活させてリベンジしようかな?

「我思う 故に我あり」を疑おうとすると、以下の2つの問いが導かれる。

・我は、本当に思っているのか?(私は、本当に思考しているのだろうか?)

・思考している我は、本当に存在するのか?

例えば、“神”のようなものが居て、その“神”が思考していて、“私”はそれ(神の思考)を受信しているだけの存在であって、それを受信することで如何にも「自分が考えたのだ」というように“錯覚”しているだけの存在なのではないか?

「私は存在する」というのは実は錯覚であって、本当は ものすごくリアルなVRの世界に居る“虚像”に過ぎないのではないか?

私が 単なる受信器 や 虚像 でないと、 どうして言えるのか?

etc. etc.

5ヶ月前 No.34

凡人 ★AF3oJMMBTq_sgc

>私が 単なる受信器 や 虚像 でないと、 どうして言えるのか?

デカルトは、「私は存在する」といっているだけで、どの様な存在であるのかについては何も言及していなかったと思いますが・・・・
因みに、我々が「虚像」である場合とそうでない場合に何がどの様に違うのか教えていただけないですか。

5ヶ月前 No.35

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_3Nj

>>35 “我”の存在理由が「我思う故に〜」ではなくなってしまいますね。

5ヶ月前 No.36

凡人 ★AF3oJMMBTq_sgc

その理由を教えてください。

5ヶ月前 No.37

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_3Nj

>>34 をお読み下さい。

5ヶ月前 No.38

凡人 ★AF3oJMMBTq_sgc

錯視していようが虚像であろうが、資本家に操られていようが、「我思う」存在が存在している事は否定しようがないと思いますよ。
ところで、「“我”の存在理由が「我思う故に〜」ではなくなってしまうと」何がどうなってしまうのでしょうか?

5ヶ月前 No.39

★BRbULVICdV_Ew9

>>34
デカルトは、「思考している我」の存在を確実なものとして認識したんだよね。
思考は自由度が高いから、「自分が考えたと錯覚」というのは排除してもいいんじゃないかと思う。この線は薄いと感じる。
また、我が「VRの世界に居る虚像」であっても、「VRの世界の虚像として思考している我」は存在可能なんじゃないかな。デカルトも、悪魔に見せられてる悪夢かもしれないとかなんとか言ってたんじゃなかったっけ。

5ヶ月前 No.40

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

そうですね。すみません。(すぐ敗退...)

5ヶ月前 No.41

★BRbULVICdV_Ew9

最近は脳の研究が進んでいて、不思議な実験結果がたくさん報告されています。
普通、人間の行動は「思考→行動」だと考えられていますよね。でもこれが相当怪しい。脳波を観察すると、行動しようと自分で考える数秒前に、脳は行動の準備をしている。思考で「手を動かそう」と思う数秒前に、すでに腕が動く事は決定されているらしいんです。これは「思考している我」の確実性を揺るがす事態なんじゃないか、とけっこう話題になりました。
この話は、意識と無意識が絡んでいて、すごく面白い話なので、興味があればググってみてください。

5ヶ月前 No.42

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

そうそう、それそれ。その「受動意識仮説」に触発されて、「思考している我は、実は受信しているだけなのではないか?」と発想したのでした。

5ヶ月前 No.43

凡人 ★AF3oJMMBTq_sgc

>「思考している我は、実は受信しているだけなのではないか?」

そうだとしたら、何がどうなるのですか?

5ヶ月前 No.44

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

錯覚だとしても、その「錯覚している私」が居ることに変わりはない。

居ないのだけど「感じる」なんてことはあるのだろうか?

感じている以上「居る」とみなすべきなのであろうか?

5ヶ月前 No.45

凡人 ★AF3oJMMBTq_sgc

>感じている以上「居る」とみなすべきなのであろうか?

感じているのに「居ない」とみなしたらどうなるのですか?
それでは、支配階級の思う壺というものではないですか?

5ヶ月前 No.46

★BRbULVICdV_Ew9

>>43
「受動意識仮説」というのは初めて聞きました。
「思考している我が、受信してるだけ」だとして、ならば我は自由に思考しているのか?、という問いが考えられますね。
受信してるだけなら、我は自由に思考していない、と言えそうな気がします。
では、「受信している」というのはあり得るのだろうか?、と問うなら、「あり得ない」というのが、現時点での科学的知見のようです。「人間は意志で行動を制限する事が出来るから」というのがその根拠のようです。なので「線は薄いと感じる。」

5ヶ月前 No.47

宿題 ★bUKyk3gX2r_ly4

>>42

脊髄反射と言うことを言っているのでは?

脊髄反射運動と自我の意思する行動は違います・・

5ヶ月前 No.48

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_sgs

デカルトは方法的懐疑の最後、
「我思う(コギト)」そのものの安住しているスペースを疑うことがなかった。
だからそのまま安住しているスペースが自明のものと見なされ、
そこから明証を展開してスペースを拡張するような学の理念を押し広げた。

しかしコギトのスペースはそれほど自明なものだろうか。

私たちは大きな痛みに晒されただけで、
考えるゆとり(スペース)を失う。
火に炙られながら方法的懐疑は行えないのである。

したがってデカルト以降、近代の哲学は本質的に、
自らの領土(テリトリー)を拡大する思考に陥っている。

このような領土拡張的思考はすでに一定の力を前提としてしまっている。
力とは作用するもの(主体)と作用されるもの(客体)の不均衡に由来して生じる。
コギトはデカルト以降、彼の意に反して
圧倒的に作用するものの側(主体性)へと傾いていしまっている。

 (注)デカルト自身は神に対するコギトとして作用されるものの領域、
    すなわち客体性を残している。

しかしコギトがつねに主体であることは自明なものだろうか。

たとえば他者を面前にしたとき、
考える私は同時に考えられる私でもある。
つまり私は主体的であると同時に客体的でもある。

神が死んだとき、私は客体性を喪失し、
主体的な領土拡張的思考に陥る。

そこで現代は表象の至上性を審問に付すことで、
体系的ならぬ脱体系的な哲学を展開することになる。

2ヶ月前 No.49

地下水 ★otncK03kC4_zRF

 「我思う、ゆえに我あり」、なんて自意識過剰ですよね。命を頂いているから、生きていられるのです。世界認識が不足していますよね。考えている最中に、無意識にくしゃみでもしたら、あ、考えて無い事を自分もするんだ、考えてないでしてしまっている事や、して頂いている事の方が多いんじゃないかな、って気付くと思うんですね。それも自分が考え出したんだ、なんて思い上がりも良いとこだと思いますね。あ、やっぱり思っちゃうか。

2ヶ月前 No.50

★30JjgxOVKX_m9i

「我思う」(ego cogito)

デカルトは、「思う場」を「我(ego)」と呼んだ。っていうのどうかしら?

2ヶ月前 No.51

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_XGK

「思う」と「我」は違うものなの…?

2ヶ月前 No.52

★30JjgxOVKX_m9i

ネットで「コギト」を調べてみると、

[コギトcogito]
1.「私は思考する」の意。人間の思考作用を指す。
2.コギトはもともと〈考える〉とか〈意識する〉という意味のラテン語cogitareの一人称単数形にすぎないが,今日ではむしろ〈自己意識〉を含意し,精神や自我の本質を自己意識に見ようとする立場と結びつけて語られる。

とありました。

わたしはメルロの本の訳にならって、「コギト」を「私は考えている」とすることにしています。

この日本語で考えて見ると、
「考えている」は作用で、「私」はその作用をしているもの。
「する(こと)」と「するもの」を区別すること、これ、わたしにとっては大切。


また、現象学では、2の「自己意識」を問題としているようです。
メルロによると、
『ハイデガーの考えでは、哲学者たちが存在の基礎を自己意識においた日から、哲学者たちは存在を喪失したのだ。』
って言ってます。

2ヶ月前 No.53

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

およぐちゃん

およぐちゃんに主観と客観は存在しないかもしれません?

2ヶ月前 No.54

★30JjgxOVKX_m9i

>54
おばあちゃま

メルロ派としてのわたしはね、主観と客観は自分のうちに共存してる、って見ている(ちがうかもしれないけど)。
主観と客観と「分節」して、その関係性を描き出そうとするのね。(「分節」の意味はどこかで書いたからやめるけど、ゲシュタルト的な見方ね)


『ドイツ語では「理性[Vernunft]の語源は、「認知する[vernehmen]」である。』って『存在と時間』のなかの訳注に書いてあった。

「理性」からだけで「私」を見ることに終始するのはどうなのかな、ってうのがメルロ的なのかも、って思ってるだけ。

2ヶ月前 No.55

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

最後の最後まで対象化出来ない客観化できない自分とは何か?  それが存在していますか?

2ヶ月前 No.56

★30JjgxOVKX_m9i

>56
おばあちゃまにとっての「自分」とは、「最後の最後まで対象化出来ない客観化できない存在である。」っていうことでよろしい?

2ヶ月前 No.57

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

およぐちゃん

対象化出来ないから主観なのです・・

およぐちゃんは自分の意識を対象化(表して解明してしまえる)することが出来るのですか?

2ヶ月前 No.58

★30JjgxOVKX_m9i

>58
おばあちゃまの場合、「自分」=「主観」、ということでよろしい?

2ヶ月前 No.59

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

およぐちゃん

自分は主観と客観の混合です。主観と客観を調整しなければならないです・・

2ヶ月前 No.60

★30JjgxOVKX_m9i

>60

「主観と客観のコンプレックス」を「自分」と呼ぶ。これでいいかしら?これならわたしと同じみたいだけど。

じゃ、「主観と客観を調整」するのが「自分」っていうことでいいのかしら?

2ヶ月前 No.61

宿題 ★5z6bVAmgS3_zRF

およぐちゃん

自分のことが全てわかる人は居ませんよ・・

観念だけの存在でもありません・・理性だけの存在でもありません・・

2ヶ月前 No.62

★30JjgxOVKX_m9i

おばあちゃま
>57からのわたしのあなたへの問は、あなたが使っている語、「自分」「主観」「客観」の、あなたにおける意味を知ろうとしていただけ。
その意味がわからないと、わたしにおける意味とのやりとりができないと思ったからね。

この試み>62で終わっちゃたみたい。

「概念は言葉として表されその意味となる」ってだれかいってたわ。

概念(意味)のやりとりじゃないと「話」にならないんじゃない?

2ヶ月前 No.63

宿題 ★5z6bVAmgS3_zRF

およぐちゃん

神秘体験をしたことが無いのですか?

2ヶ月前 No.64

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

私は伝統形而上学からのカントさん論破を目指しています。

1ヶ月前 No.65

★zvzFBxRah1_m9i

「デカルト論破」とか「カントさん論破」とか、「論破」?、ね〜?

哲学って、「論」じゃなくて、その手前にあるものじゃない?

>65、おばあちゃま、どんな「論破」か見て見たものね。
よろしかったら、ここで「論」してみたらいかが?

あ、それから、おばあちゃまの言う「神秘体験」って、どんな体験ですか?

1ヶ月前 No.66

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

およぐちゃん

カントさんの『実践理性批判』においては道徳法則に自ら従う実践的自由を積極的に論じた。

法則道理通りの自由は果たして本当の自由でしょうか?

1ヶ月前 No.67

★zvzFBxRah1_m9i

>67
おばちゃまのばあい、「自由」って、どう見てます?

1ヶ月前 No.68

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

およぐちゃん

ペガサスさんの板・・「世界平和は実現するか。part2」のナンバー1469を読んでみてもらえませんか?

1ヶ月前 No.69

★zvzFBxRah1_m9i

>69

「個人の」って書いてあるから、

「@形式的自由は知と恣意(勝手気まま)A先験的な自由は証明できる法則に服従する自覚B理念としての自由は一個の全体者のうちで生きるC実存的自由は決断の歴史的根源の自覚(自由意識の充足しかし自由は認識されない)」

みたいだけど、「これ」が、「おばあちゃま」、という「個人」における「自由」の意味ね。

了解しました。

1ヶ月前 No.70

★zvzFBxRah1_m9i

「自由」

主観と客観に関連して調べているなかで、ネットでこんなのありました。

『存在と無』サルトル
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルの主著。初版は 1943年。 E.フッサールの現象学に立脚し,M.ハイデガーの影響が認められる。意識は常になにものかについての意識であるが,意識の対象となるのは端的に存在する即自である。これに対する意識は存在ならぬもの,無であり,我は自己を脱して存在を意識するものとして実存している。このあり方は対自と呼ばれ,無を生み出していく自由である。人間は同時に他者に対する対他でもあり,彼の自由は状況のなかにおかれている。この状況における自由こそ,その後のサルトルの主題となったものである。

1ヶ月前 No.71

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

およぐちゃん

限定されているか限定されていないか?  解りますか?

1ヶ月前 No.72

★zvzFBxRah1_m9i

>72
おばあちゃま

何に限定されていて何に限定されてていないか? 考えたことあります?

1ヶ月前 No.73

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

およぐちゃん

時間と空間に限定されていますか?

1ヶ月前 No.74

★zvzFBxRah1_ZFe

>74

ノエマ・ノエシス的に見ると、

時間・空間は、人間の”認識する(こと)”にかかわることじゃないかしら?
としたとき、限定するものになるのかもしれない。

でも、”認識されたもの”は、時空間に限定されてないんじゃない?
たとえば、
想起。かつて・あそこで、が、記憶の中からよみがえり、いま・ここで、となること。
デカルトのに言わせれがば、記憶が「あてにならぬもの」だとしても、これなしには人間、生きてゆけないよね。
認識されたものが記述されている場合は、より鮮明かもしれない。
1945に出版されたメルロの書物を、いま、わたしが読む。前384−前322の時空間に生きたアリストテレスの『形而上学』を、いま、わたしが読む。
前4年ー後30の時空間に生きたキリスト、前463ー前383ごろの時空間に生きたブッダ。その教えを信仰するする、いま、ここに、生きている人々がいるみたい。
記述されたものの解釈の違いによって派生が異なった行動に向う場合があるにせよ、それらは、時空間に関係なく存在する。

こう見たとき、時空空間は、必ずしも限定させるものではないよに見えるんだけど。わたし。

1ヶ月前 No.75

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

およぐちゃん

時間と空間に限定されないことを超越と呼びます・・

1ヶ月前 No.76

★zvzFBxRah1_ZFe

>76
わたし、日本語で訳されている「超越的」と「超越論的」とは区別して見ているんだけど、
おばあちゃまが言う「超越」という「語」で、おばあちゃまが”意味するもの”はどのようなものなのかしら?

1ヶ月前 No.77

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

およぐちゃん

超越論的・・論理を超えている

超越・・・・特に論理を問題にせず(論理的でもある)

1ヶ月前 No.78

★zvzFBxRah1_ZFe

>78
あら、ばあちゃまの言う、「超越論的」と「超越」って、「論理」を前提としているのね。

あたしがもし「超越」っていう語を使うとしたら、ア・プリオリの意味だから、根本的に違う見たい。
そこには、「論理」なるものは存在しない次元なのね。

それで、デカルトやカントについては語れるのかしら?

1ヶ月前 No.79

宿題 ★5z6bVAmgS3_QAg

およぐちゃん

最後まで疑う「対象に出来ない】ものがデカルトさんの「我」です。

1ヶ月前 No.80
ページ: 1 2

 
 
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