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デカルト論破

 ( 哲学掲示板 )
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ホントウの真理を発見した者 ★6OvwWdGjSD_fNh

「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに…

俺「いつまで続くのですか?」

デカルト「無限に続くよ。だからこそ思う主体、そう、我だけが残り、我が存在することが確実なんだよ。」

俺「でも、無限に続くって確認できなくないですか?無限に疑った人っているんですか?無限って疑わしくないですか?」

デカルト「あっ…えっと…。」

俺「論破ああああああああああ!」

メモ2018/09/20 06:00 : ホントウの真理を発見した者★rdiOR01yVt_rxQ

☆追記です。最初に読んでください。☆


デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」を絶対に疑えない真理であると主張しました。さらにそのうえで、その真理を哲学の第一原理(公理)として定めました。


この「我思う、ゆえに我あり」という表現の本質とは、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち「疑っているこれ」の存在は絶対に確実であり、その上で、「疑っているこれ」を「我」と呼んでいるのです。すなわち、


デカルト

@疑っているこれは、絶対に存在する。

A疑っているこれとは、我である。


なのです。


さて、ここで、「疑えない」の否定は「疑える」です。


そこで私(ホントウの真理を発見した者)が、


ホントウの真理を発見した者

@疑っているこれは、絶対に存在する。

A疑っているこれとは、何なのか?。我なのかもしれない、葦なのかもしれない、幻影なのかもしれない、という疑いが残る。


という疑いを発見し、疑える事実を確認しました。


したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではありません。


以上が成り立つ根拠を次のとおり説明します。


まず、説明に先立ち、理解の統一のため、デカルト著の方法序説から「我思う、ゆえに我あり」の部分について引用します。(デカルトの記述順になるように番号を振っています)

『デカルト 著(谷川多佳子 訳),「方法序説」,岩波文庫,1997年』より引用(一部抜粋)


引用開始

…続きを読む(95行)

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★3jG72rzzuJ_Onj

>>446  馬場さんへ

ホントウの真理を発見した者さんのご主張についての私(時)の理解、思いは書きましたので、これ以上、私からは何もありません。

>  追伸。

>  デカルトのいう普通の意味での「我」は、「我思う、ゆえに我あり」を満たしていると見なせます。一方、「超我思う、ゆえに超我あり」は必ずしも言えない、と主張する場合の「超我」の定義、および、なぜ成立していないと言えるのかを、時さんはどう考えておられるのでしょうか?


うーん、主張はしないと思いますが・・した場合には、

定義は、本人が、気絶、失神、意識不明状態。
理由は、想像でですが、気絶状態、失神、意識不明状態では「思う」と言う動的な行為も何もないのではないでしょうか。

例えば、このような感じでどうでしょうか。

3日前 No.447

神居 ★Ms5gge8Kfn_EoP

『私の判決がいいわたされる時に私が関係しているとは思われない』これが因果ですよ

3日前 No.448

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

長い間見ていなかったんだけど、まだあきらめていなかったんだね。
いろんな人が批判しているようなので、もう議論は出尽くしているかもしれないが、
一応ダメ押しのダメ出しということで書きます。

スレ主の解釈が間違っていることは、次のWikipediaの記述からも明らか。
これは出典も明らかにされていて信用できるので、あえて出典元からの引用の必要はないと判断し、そのまま引用提示する。

***************
「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la m□thode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(□tienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[注1]、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[注2]。

[注1]^ ルネ・デカルト著『方法序説』落合太郎訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1967、「解題」6-7頁
[注2]ルネ・デカルト著『方法序説』、山田弘明訳、ちくま書房〈ちくま学芸文庫〉、2010、234−235頁
****************
ここからわかることは、デカルトは、主語として「Ego」を最初に立てることにこだわっている。(落合訳の「方法序説」(岩波文庫)p.188-197の第四部訳注(6)(7)も参照のこと。)
つまり、彼は、
 我思う
という命題の真理性を不可疑とし、ここから、「我」の存在を導いているということだ。
落合の言葉を借りれば
「私は有る」という現実的存在の絶対的定立
が先なんだよ。
「疑っているこれは、絶対に存在する」
などとは一切言っていない。

私が前に無主体論からの批判を教えたからか、ちょっと考えを修正したようだけど、実はそれじゃダメなんだね。
疑っているこれがあり、それを「我」としているわけじゃないのよ。
引用しているところに、そんなところはないでしょ。
デカルトは、あくまで「我思う」を直接不可疑としているわけよ。
そして、「我思う」が不可疑である限り、「我」の存在が帰結する、って理屈。
だから、そもそも前提の解釈が間違っている。
だから、あとの議論も間違っている。
ということで、「完全論破」はただのモー ソーなのでした。
はい、終了。

とは言え、
ついでに「我思う」を不可疑とする理屈の解釈を三つほど挙げておきましょう。
以下、「我思う」を「私は考える」あるいは「自分は考える」と置き換えて論じることにする。

(1) 自分が今考えているということを疑えるか?
⇔自分が今考えているということが偽であると考えることができるか?
⇔自分は今(何も)考えていないと考えることができるか?
(但し、「⇔」は論理的に同値(同義)であることを意味する。)

 まず、自分が今考えているということを疑えるか?ということを考える。
これは、上に示したように、自分が考えているときに、本当は自分は考えていない、と考えることができるか?って問いに置き換えることができる。
 さて、みなさん、「自分は今何も考えていない」と考えてください。
 これ、真でありうると考えられますか?
 そのように考えている限り、「自分は何も考えていない」ということが正しいとは考えられませんね?だって、考えているんだもんね(笑)
 ですから、自分が今考えている、ということを疑うことはできないってことがわかります。
 よって、自分が考えているとき、自分が今考えているということは不可疑であり、したがって、自分は存在する。
なぜなら、自分が存在しないなら、自分が今考えているということはありえないから。

(2) 自分は存在しないと考えることができるか?

考えられない。
考えることができるためには、自分が存在していなければならない。
よって、自分の存在は不可疑である。

(3) 私はすべてを疑うことができるか?

 私は「私の存在」以外の、すべての真または偽であることがらを、偽であると考えることができる。
それが証明され、真とされている数学的命題であろうと、論理的命題であろうと同じことで、どんなに真であると思われることであっても、
私はそれらすべてを「偽かもしれない」と考えられる、
つまり、それらすべてを私は疑うことができる。
ゆえに、この「私が疑える」ということから、「私の存在」が帰結する。
なぜなら、私が存在しないなら、私はそれらを疑うことができないから。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
デカルトの議論からは、少なくとも以上の三つの論証を引き出すことができる(『方法序説』だけでなく『省察』も含めて。『省察』には少し異なる論証がある)。
そしてデカルトの文章を読む限り、おそらく間違いなくデカルトはこれらすべてを考えていた。
スレ主の主張は、これらに対して何の否定論証にもなっていない。
ま、そもそも解釈が間違っているから当然ですが。
というわけで、
スレ主の主張は、デカルト解釈としても誤っているし、当然何ら論破にもなっていないんだな。

はい、終了。

2日前 No.449

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

>>449 ザビビのふくろうさん

ああ、そんなことね。
それは思い込みによる論点先取だね。したがって、絶対に疑えない真理ではないんだよね。

前提として、デカルトは「絶対に疑えないものとは何か?」から出発していることを思い出してごらん。なぜ突然「我」がポンっと登場したのかな?出発点が間違ってるよ。

まあ、詳しくはバカンスから帰ってきたら教えてあげよう。

2日前 No.450

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>449
「私は食べる」というとき、「私」という行為主体の存在が必要である と思う。

しかし、「私は本当に食べているのだろうか?(食べていると思い込んでいるだけではないのか?)」と疑うことは可能である。


「私は考える」というとき、「私」という行為主体は必要である。

しかし、「私は本当に考えているのだろうか?(考えていると思い込んでるだけなのではないか?)」と疑うことは可能である と思う。

「私は何か素晴らしいアイデアを思いついた」と自分では思っているけど、実は「神様によってそう思い込まされただけだった」とか。

デカルトは、自分の感覚すらも疑ったけど、自分の思考を疑わなかったのは何故だろう?

「自分の感覚を疑う」ということは、「自分の存在すら怪しい」ということになりはしないだろうか?

---------------

そうではなくて、
「考える」という作用がある限り、その「考える」を行っている行為主体の存在は前提であり、それが「我」であるか「これ」であるか「神」であるかは措くとして、「考える何か」が存在することは疑い得ない
ということを言っているのだとしたら、そのとおりだと思う。

2日前 No.451

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>451 Mobiusさん

>「私は何か素晴らしいアイデアを思いついた」と自分では思っている


「私は何か素晴らしいアイデアを思いついた」というのは思い込みかもしれない、すなわち疑えるけど、
「…と自分では思っている」こと自体は疑いえない、ってことですよ。
わかっていますか?

>そうではなくて、

「考える」という作用がある限り、その「考える」を行っている行為主体の存在は前提であり、それが「我」であるか「これ」であるか「神」であるかは措くとして、「考える何か」が存在することは疑い得ない
>ということを言っているのだとしたら、そのとおりだと思う。


デカルトはそんなことを言っていません。

2日前 No.452

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

>>451 Mobiusさん

最後の「そうではなくて、」からの部分が、まさに私の主張です。
その上で、「考える何か」の「何か」って何だよと、疑うことができる事実を発見しました。

※詳しくは、本記事上部の「メモ」をご参照ください。

2日前 No.453

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>453
だから、そんなことはとっくの昔に言われていることであって、

発見でも何でもないって教えてあげたじゃないの。

きみに思いつくことなんて、出尽くしているんだよ。

Mobiusさんの考えには無主体論という反論もあるように。

やれやれ

2日前 No.454

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

>>452 ザビビのふくろうさん

>デカルトはそんなことを言っていません。

そう。デカルトはそこに気が付いていなかった。デカルトが見落としていた点だね。

>>453 ザビビのふくろうさん

>Mobiusさんの考えには無主体論という反論もあるように。

「思う、ゆえにあり」→何があり?→「何かがあり」→何かって何だ?→疑うことができる事実の確認

2日前 No.455

とある素人 ★Tablet=x5N8wSVBuI

「疑えない」という言葉を曲解して、
「疑問は1つも残らない」という意味だとし、
意味のない空虚な反論をしているだけ。

デカルトの言った「疑えない」
とは、「(偽なのでは?とは)疑えない」
という意味。

曲解ばかりしていて段々と無理が出てきているね。

あれ?

貴方、嘘つきさんじゃないですか!
それに人に散々「おもいこみヤメロ-」
と寝言垂れていたのに、
自分が鮮やかな思い込みを披露した方ですよね?

あれ?まだ都合が悪いことから逃げているんですか?

あ、いけね。
ホントウの真理を発見した者さんの都合の悪いこと言って
怒らせると、削除されちゃう。

最近、得意の削除工作やってないじゃないですか。

もしかして、

私にバレてバラされたからですか?

逃げてばかりでは話になりませんよ。

2日前 No.456

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>447  時さんへ

>>  デカルトのいう普通の意味での「我」は、「我思う、ゆえに我あり」を満たしていると見なせます。一方、「超我思う、ゆえに超我あり」は必ずしも言えない、と主張する場合の「超我」の定義、および、なぜ成立していないと言えるのかを、時さんはどう考えておられるのでしょうか?


>うーん、主張はしないと思いますが・・した場合には、

>定義は、本人が、気絶、失神、意識不明状態。

>理由は、想像でですが、気絶状態、失神、意識不明状態では「思う」と言う動的な行為も何もないのではないでしょうか。

>例えば、このような感じでどうでしょうか。


 デカルトがどう考えていたかはよく解りませんので、SumioBabaによる解釈になってしまいますが…。自分が意識を失っている時は、「我思う」が成立していないので、「我あり」も成立していない、で良いのではないでしょうか? 「我思う」は常に成立している訳ではなく、目覚めていて意識を持っている場合にだけ「我思う、ゆえに我あり」が成立している、と解釈してい良いのではないでしょうか?

 ちなみに、「無主体論」と呼ばれるような反論も、デカルトを否定することにはつながらないように思います。例えばD・ヒュームなどが、「「我」という主体など無い。有るのは「観念の束」だけだ」といった内容の事を書いています。西田幾多郎のいう「純粋経験」もそうでしたね。夕陽を見た瞬間、見ている「我」と見られている「夕陽」の区別などなく、両者は渾然一体化しており、それを分析して初めて、「我」という《主観》と「夕陽」という《客観》に分離してくるのだ、といった説明でした。言いたい事は理解できますが、デカルトの否定にはつながらないように思います。

 例えば、M1=「夕陽を見た瞬間の状態で、見ている「我」と見られている「夕陽」とが渾然一体化したまま、まだ分離していない状態」とします。確かに、「夕陽」を見ている「我」はまだ出現していないかもしれません。しかし、「M1はM1(の存在と状態)を自己認識できているのか?」と問うことはできます。

 もしYESであれば、「M1はM1を自己認識できている」が成立しており、これこそデカルトのいう「M1思う」です。だから「M1あり」も言えて、「M1思う、ゆえにM1あり」になります。

 もしNOであれば、「M1はM1を自己認識できていない」ということになり、デカルトのいう「M1思う」が成立していないので、「M1あり」も言えません。

 YESとNO、両方の場合が有り得て良いし、どちらもデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に反している訳ではありません。「M1思う」が成立すれば「M1あり」も言えるけれど、「M1思う」が成立していなければ「M1あり」も言えない、というだけです。

 そしてこのM1のように、「M1思う」が成立しているのかいないのか微妙な状態こそ、M0→M1という分裂過程のちょうど中間領域、すなわち矢印の部分にあるように思います。これをM0の方だと見なせば、「M1思う」はまだ成立しておらず、「M1あり」も成立していません。これをM1の方だと見なせば、「M1思う」がすでに成立しており、「M1あり」も成立していることになります。そして「M1あり」が成立していた場合、それを認識しているのは、M1であると同時にM0でもあるのです。

2日前 No.457

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

デカルト論破から導出されることは、明晰なことなど何もないということである。

2日前 No.458

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>452

> >「私は何か素晴らしいアイデアを思いついた」と自分では思っている


>「私は何か素晴らしいアイデアを思いついた」というのは思い込みかもしれない、すなわち疑えるけど、

>「…と自分では思っている」こと自体は疑いえない、ってことですよ。

>わかっていますか?


更に言うと「…と自分では思っている」の部分も含めて疑えるけど、それを疑っている自分までは疑えない ということですね。
いや、「疑っている自分」すらも疑おうとすれば疑えないことはないけど、結局「『疑っている自分』を疑っている自分」というように自分に返ってきてしまうので、これ以上は深掘りできない ということですね。

それについてはわかっていますよ。( >>107 に書いたとおり)

2日前 No.459

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>459

ああ、やっぱり分かっていませんね。

再帰はしません。

自分には帰るけど、矛盾するんで。

2日前 No.460

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>460

>再帰(さいき)は、あるものについて記述する際に、記述しているものそれ自身への参照が、その記述中にあらわれることをいう。(by Wikipedia)


…「「「「「疑っている自分」を疑っている自分」を疑っている自分」を疑っている自分」を疑っている自分」を疑って…

というのは再帰ではないのだろうか?

「果たして自分は本当に疑っているのだろうか?」と疑問に思うことは、普通にあると思うけど。

それとも「果たして<自分>は本当に疑っているのだろうか?」と疑っている<<自分>>とカギカッコ内の<自分>とは別人ということだろうか?
<自分>は過去の自分で、<<自分>>は現在の自分 とか。

もはや<自分>は自分でない とか。

2日前 No.461

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

ホントウの真理を発見した者さん、ご参加の皆さん

  >>392 で、ホントウの真理を発見した者さんが、「質問の内容からして、もう少し精進していただきたい。ここで言う精進とは、私の「メモ」を精読することです」とおっしゃっていましたので、あらためてホントウの真理を発見した者さんの「メモ」( >>0 )を精読し、その内容に沿って言ってあげないと私の質問が理解しづらいのかなと思い、精読の上、もはや質問ではなく、私の思い込みから、メモに沿って感想をまとめました。

 ところが、 >>428 で、「現段階にて、本記事上部の「メモ」にあるデカルト完全論破の議論が終了したと判断しました。」、「私は、次のステージ(ノーベル賞受賞)に進みます。」のと投稿を確認しましたので、遅きに失した感がありますが、若干やり取りも再開されており、折角なので、参考になるかもしれないと思い、以下で、投稿させていただきます。

 私としては、「 >>380 で撤退すると言っておきながら、長居してしまいました」と >>397 でも述べましたように、これ以上、このスレの議論をするつもりもありませんし、ホントウの真理を発見した者さんからレスがほしいわけでもありません。
 議論が終了しているということであれば、どなたでも気が向いたら、読んでいただければという程度です。
私(えぴめてうす)の言っていることの是非については、精読された各自の思い込みでご判断ください。
 また、どなたでも私(えぴめてうす)の投稿にご意見があって、それに対し、私のレスが必要でしたら、その旨と箇所を書いていただけたら、対応しようと思います。ただし、頻繁には確認できませんので、時間がかかる場合があること、見逃す恐れがあることをご了承くだい。

 それと、一応のお断りですが、以下の投稿は、あくまで、ホントウの真理を発見した者さんのメモを精読し、そこに書かれているデカルト著の方法序説からの「我思う、ゆえに我あり」の部分についての引用文と、それに関するホントウの真理を発見した者さんの主張に対して、私(えぴめてうす)の感想を書いたもので、ホントウの真理を発見した者さんのメモの内容が大前提です。(以下の投稿中、一か所だけ、私が持っている「方法序説」からの抜粋を紹介しています。)
 そして、私(えぴめてうす)がデカルトの言っていることが正しいと思っているかどうかは別にして、デカルトの主張をどう読むべきかという観点で述べたものです。

 以下、いろいろ書きましたので、誤字脱字等ご容赦ください。

2日前 No.462

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>462 のつづき

※以下、メモに書かれている方法序説からの引用文(引用@〜引用E)は、 >>0 のメモ最下部の「…続きを読む(95行)」をクリックしてください。Byえぴめてうす

※私の感想を逐次、挿入していますので、「ホントウの真理を発見した者さんのメモ」を@〜Hに分割して掲載しています。

≪ホントウの真理を発見した者さんのメモ@≫
 デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」を絶対に疑えない真理であると主張しました。さらにそのうえで、その真理を哲学の第一原理(公理)として定めました。

 この「我思う、ゆえに我あり」という表現の本質とは、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち「疑っているこれ」の存在は絶対に確実であり、その上で、「疑っているこれ」を「我」と呼んでいるのです。

すなわち、
デカルト
@疑っているこれは、絶対に存在する。
A疑っているこれとは、我である。
なのです。

≪私の感想@≫
 デカルトは、「これ」とは言っていません。「わたし」(我)と表現しているということを、引用の記載内容として確認しておきます。( >>0 の引用@、引用A、引用Bを参照)

 つまり、デカルトにとって、主体としての「わたし」(我)は、考えている(疑っている)という状態あるいはその行為と同じく、自明なのであり、「わたし(我)が考える(疑う)」を一体として、絶対に疑えないとしているのです。
それは、 >>0 の引用Aを読めば一目瞭然です。

 したがって、「「疑っているこれ」の存在は絶対に確実であり、その上で、「疑っているこれ」を「我」と呼んでいる」のは、デカルトではなく、ホントウの真理を発見した者さん独自の視点だと理解できました。

2日前 No.463

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>463 のつづき

≪ホントウの真理を発見した者さんのメモA≫
さて、ここで、「疑えない」の否定は「疑える」です。
そこで私(ホントウの真理を発見した者)が、

ホントウの真理を発見した者
@疑っているこれは、絶対に存在する。
A疑っているこれとは、何なのか?。我なのかもしれない、葦なのかもしれない、幻影なのかもしれない、という疑いが残る。
という疑いを発見し、疑える事実を確認しました。
したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではありません。

≪私の感想A≫
 デカルトが述べている「わたし」(我)を、ホントウの真理を発見した者さんは、独自視点で一旦「これ」と置き換えて、「これ」とは何かと疑うわけですが、それは、「わたし」(我)が、ホントウの真理を発見した者さんにとって、自明でないことを意味します。

 それに対し、デカルトの考えを見てみましょう。
デカルトは、「疑っているこれ」を何の疑いもなく、「わたし」(我)と呼んでおり、「わたし」(我)を疑いうるものとはしていません。
  >>0 の引用@を見てください。デカルトは、「ほんの少しでも疑いをかけうるもの」をどうするかというと、「全部、絶対的に誤りとして廃棄」し、「まったく疑えない何かが残るかどうか見きわめ」ることとし、「論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去」ることとしたのです。

 あなたがデカルトの方法的懐疑を受け入れているのか、それとも異をとなえているか定かではありませんが、デカルトの方法では、疑いうるものは最終的にまったく残らないはずであり、その結果、真理としての哲学の第一原理には含まれえないのです。

  >>0 の引用Aで、引用@を実行した結果、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(我思う、ゆえに我あり)」と判断しているのであり、「わたし」(我)が疑いえないことを意味しています。

 デカルトにおける「わたし」(我)の自明さは、 >>0 の引用@をみれば、よくわかります。
 「わたしの信念」、「わたしもまた他のだけとも同じく」というように、みじんも疑った形跡がありません。
 定義するも何も、デカルトにとって、「わたし」(我)は、「考える」(思う)や「存在する」(あり)を定義していないのと同様、信念の中に残ったものであり、それゆえ自明なのであり、「わたし」(我)が真理としての哲学の第一原理に含まれる所以なのです。

 もし、あなた自身が、自分としての「わたし」の存在性を希薄に感じる方でないなら、「疑っている主体が何なのか?」とか、「我なのかもしれない、葦なのかもしれない、幻影なのかもしれない、という疑い」は残らないのでしょう。

 もちろん、「わたし」を形式的に疑ってみることはできますし、そういう哲学的立場もありえるでしょうが、少なくともデカルトの議論上では、何ら本質的なことではありません。なぜなら、 >>0 の引用@にあるように、「ほんの少しでも疑いをかけうるものは、全部、絶対的に誤りとして廃棄すべき」もので、「以前論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去る」ことにしているからです。繰り返しになりますが、少しでも疑いうるものは、真理としての哲学の第一原理に含まれえないのです。

 あなたが、「疑っているこれ」を廃棄することはせず、温存し、すぐ「わたし」(我)と定めることが合理的と復活させてしまっているなら、デカルトに従ってはいないことになります。そして、デカルトにとっては、そのことはもとから自明だったとしか言いようがないですね。

 なので、ホントウの真理を発見した者さんの独自視点による「疑いの発見」は、デカルトの哲学的方法論( >>0 の引用@→引用A)に従わずになされた主張であると言えます。

 デカルトの方法論に従わないこと自体が間違っていると言っているのではなく、そうするなら、その立場を明確にし、方法論( >>0 の引用@)そのものを批判しなければならないということです。

 また、デカルトに従い、「わたし」(我)を疑い、他のすべての事柄と同じように廃棄し、それによって、デカルトとして違う別の真理を導いたのなら、哲学的意義は大きいということになるかもしれませんが、自明なことを形式上疑っても結局、答えが同じなのですから、単にデカルトの主張を補強しているに過ぎません。残念です。

 なぜデカルトが「わたし」としているのに対し、わざわざ独自視点で「これ」を導入しているのかに問題があるように思われます。それは、 >>0 の引用@から引用Eの読み方(引用@に従わず、引用Aと引用Bの意味を飛ばし、引用Cの日本語的意味を取り違えていること)に間違いがあるからだと思います。

2日前 No.464

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>464 のつづき

≪ホントウの真理を発見した者さんのメモB≫
以上が成り立つ根拠を次のとおり説明します。

※ この箇所に掲載されていた『デカルト 著(谷川多佳子 訳),「方法序説」,岩波文庫,1997年』からの引用は、 >>0 を参照ください。byえぴめてうす

以下、引用を参照しながら説明します。

まず、引用@を実行します。
疑っても、疑っても、すべてを疑っても、疑っているそのもの、すなわち「疑っているこれ」があるということだけは、決して疑えないのです。なぜなら、たとえ、その「疑っているこれ」の存在を疑ったとしても、やはり「疑っているこれ」があるのですから。つまり、すべてを疑っても、決して疑えず、どんな懐疑にも耐えられるものとは、「疑っているこれ」だけなのです。

すなわち、
@ 疑っているこれは、絶対に存在する。
となるのです。しかしながら、まだ、ここでは自分という「我」は存在(登場)していません。

したがって、@の上で、
A疑っているこれとは、我である。
とすれば、論理的に、「疑っている我は、絶対に存在する」とすることができます。

ここで、「疑っている我は、絶対に存在する」とは、引用Aの部分である「そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」と同義であり、そこから同様に「我思う、ゆえに我あり」が導出されます。

したがって、「疑っているこれ」を「我」とすると、「我思う、ゆえに我あり」が必然的に成立します。

すなわち、論点は、【「疑っているこれ」とは「我」である】としている部分です。
ここで重要なことは、【「我」とは何か?】ではなく【そもそも、なぜ「我」としたのか?】を論点としていることです。

引用@から引用Eまでをまとめると、デカルトは、
デカルト
疑えない何か→考えていること自体→わたし
としています。

≪私の感想B≫
 おそらく、ここが最大のポイントでしょう。

  >>0 の引用@から引用Eの私の読み方は、次のような感じです。

デカルトは、
@疑いうるものは全部廃棄し、わたしの信念の中に何が残るか見きわめねばならない。感覚により生じるものは存在しないとし、論証とみなしていた推理をすべて捨て去った。
→Aその結果、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」が残った。
→Bそのうえで、「わたし」とは何かを注意ぶかく検討した。
→C考えていること自体で、「わたし」が存在するという結論が導かれる。
→D「わたし」は、実体であり、その本性は考えるということだけ、場所も要せず、物質的なものにも依存しない。
→E私が述べた真理(Aのこと)の保証は、「考えるには存在することが必要」と明晰にわかっていることだけだと認めた。

 このスレをご覧の方で、このように読まないという方がいれば、別の読み方を投稿いただければ幸いです。

2日前 No.465

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>465 のつづき

≪ホントウの真理を発見した者さんのメモC≫
この場合、私(ホントウの真理を発見した者)は、定義された言葉の意味の範囲を理解したうえで、「疑っているこれ(疑っているそのもの)」を「考えていること自体」と同義であるとして表現しており、また、「我」を「わたし」と同義であるとして表現しています。

したがって、この場合についても、【「疑っているこれ」とは「我」である】と同義である「考えていること自体→わたし」という部分が論点となります。

≪私の感想C≫
 「→」の意味がよくわかりませんが、例えば、「◇→△」は、おそらく、「◇は△である」、つまり「◇=△」ということだと推察します。

〇「疑っているこれ」=「わたし」(我)
 →デカルトにとって自明です。( >>0 の引用Aで既に成立)

×「疑っているこれ(疑っているそのもの)」=「考えていること自体」
 →「疑っているこれ(疑っているそのもの)」は、ホントウの真理を発見した者さんが独自の視点で言っているもので、「疑っている主体」のことであり、「疑っているわたし」と解されるものです。
 一方、「考えていること自体」は、日本語としては「考えるという行為又は精神作用そのもの」という意味ですので、何らかの「主体」を意味しているわけではありません。
 したがって、「考えていること自体→わたし」の「→」を、イコールだとすることは間違いです。

「疑えない何か」と「疑っているこれ」の間もイコールではありませんが、ここではあまり関係ないようなので、割愛します。

2日前 No.466

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>466 のつづき

≪ホントウの真理を発見した者さんのメモD≫
ここで、これからの私(ホントウの真理を発見した者)の論証において間違いを犯さないために、まず、論点となる「考えていること自体→わたし」がデカルトの主張であることを確証させる必要があります。引用Cを用いて、論理的に検証すると、「考えていること自体→わたし」が次のとおり導出されます。

引用Cにおける文前半の「自分」が文後半の「わたし」と同義である場合を検証します。この場合、「わたし」を文前半に主語として存在させてしまっているので、「わたしは存在するから、わたしは存在する」のように何の意味ももたない文となります。したがって、文前半の「自分」が文後半の「わたし」と同義ではない(異議である)ことがわかります。次に、文前半の「自分」が文後半の「わたし」と異議である場合を検証します。この場合、「考えていること自体」が「わたし」となりますが、「考えていること自体」が「わたし」より先立っていることがわかります。すなわち、「考えていること自体→わたし」が導出されます。

次に、「考えていること自体→わたし」が何をもって成立するのかを突き止めます。
デカルト著の書物には、「考えていること自体」とは「わたし」であると定義するといった旨の記述はありません。また、引用Cは、「帰結する」という、すなわち、結果として出てくる事態という意味であることから、「考えていること自体」とは「わたし」であるということを定義づける意味でないことは明らかであり、そしてそれは、きわめて感覚的に行われたことがわかります。

≪私の感想D≫
 もう一度、引用文( >>0 )をよく見てみましょう。
 デカルトは、引用@を実行した結果、引用Aで「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(我思う、ゆえに我あり)」を真理として掲げたのです。「わたし」(我)を疑いえないものとした事実を見逃してはなりません。
 そのうえで、引用Bをよく見て、引用Cと引用Dを読めばわかると思います。
 引用Cと引用Dで、「わたし」の本質を検討しているのであって、引用Cは、「帰結」の意味を踏まえて、次のように読むことができます。

「帰結」
 ある事柄を原因または理由として、そこから結果として出てくる事態。また、仮定もしくは前提から推論によって導き出される結論。
   ↓
 「真理性を疑おうと考えている」という事柄自体を理由として、「わたしが存在する」という結論が言える = 「わたし」の本性は、「考えていること自体」である。
   ↓
 「考えていること自体→わたし」ではありません。

 なので、「わたしは存在するから、わたしは存在する」というように何の意味ももたない文と読むのは誤りです。
 私の持っている本のP45では、 >>0 の引用Cの「自分」は、「私」となっていて、「私が他のものものの真理性を疑おうと考えるまさにこのことからして、私の存在するということがきわめて明証的に、きわめて確実に伴われてくること」という訳になっており、この訳文からも、2つの「私」の意味が違うようには思えません。

 ここでは、「考えていること自体→わたし」は、「わたしの本性は、「考えていること」だけで十分である」と理解することがポイントです。
 参考にですが、では、「考えていること」だけが本性だと言った場合、それじゃあ、実際問題、「疑おうと考える」こと以外って、ほかに何があるのかという疑問がわきますが、私の持っている本(「方法序説」岩波文庫 落合太郎訳)のP46最終行から次ページにかけて、デカルトは、「疑うことより、知ることの方が大いにすぐれた完全であることを明白に認めるから」と述べて、疑っていることが「わたし」(我)の本性ではあるが、それがゆえに私の存在は全く完全ではなく、完全性を持つ「知る」ことの根拠を神に求める論を展開しています。

2日前 No.467

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>467 のつづき

≪ホントウの真理を発見した者さんのメモE≫
まとめると、まず、論点となる「考えていること自体→わたし」はデカルトの主張です。次に、「考えていること自体→わたし」ということについては、まず、言葉の意味の範囲からして、「考えていること自体」と「わたし」を結びつけることはできません。次に、それがずばりその正体を表現する場合であるとしても、それに対する根拠や定義について、デカルト著の書物には示されていません。示されているのは、引用Cのきわめて感覚的な決定だけです。

したがって、「考えていること自体」とは「わたし」であるというのは、きわめて感覚的な決定、すなわち、思い込みなのです。そして、「考えていること自体」とは「わたし」であるということから必然的に成立する命題である「我思う、ゆえに我あり」もまた、思い込みなのです。

≪私の感想E≫
× 「考えていること自体=わたし」はデカルトの主張です。
 →さきほど説明したとおりです。 >>0 の引用Cを精読してみてください。

〇 「考えていること自体→わたし」ということについては、まず、言葉の意味の範囲からして、「考えていること自体」と「わたし」を結びつけることはできません。
〇 それに対する根拠や定義について、デカルト著の書物には示されていません。
 →そのとおりです。そもそもデカルトは、そんなこと言ってないので、当たり前です。

× きわめて感覚的な決定だけです。
 →「わたし」が「考える」、「存在する」は、 >>0  の引用Aの段階で、疑いえない真理として成立しています。

× 「考えていること自体」とは「わたし」であるということから必然的に成立する命題である「我思う、ゆえに我あり」もまた、思い込みなのです。
 → >>0 の引用Cによると、「考えていること自体」は、「わたし」の本性です。「わたし」ではありません。
 なお、「我思う」も思い込みの1つなのです。ただ >>0 の引用@の実行によって、疑いうるものを廃棄しつくして残ったというだけです。
 思い切って言えば、一般論として、凡その公理は、絶対に疑えない真理ではなく、証明なしに前提とするという性質からして、いわゆる「思い込み」に分類されるのでしょう。
 ただ、デカルトの主張は、自分として疑いつくして残ったもの、その自明なものを前提に物事を考えようという趣旨ですので、ただ単なる思い込みではないと理解しています。

2日前 No.468

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>468 のつづき

≪ホントウの真理を発見した者さんのメモF≫
デカルトが自身著の方法序説において、間違えた部分は引用Aです。これを正しく修正すると、次のとおりになります。

A「すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているそのものは必然的に何かでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえに何かは存在する(我思う、ゆえに何かあり)」」

したがって、正しい命題は、「我思う、ゆえに何かあり」となります。
しかしながら、この命題、結局は、「何かはあるがそれが何だかわかりません」と言っているのと同じなのです。
すなわち、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とは、結局、何の主張にもなっていないのです。

≪私の感想F≫
 「わたし」(我)を定義していないから、使うことはできないというなら、「我思う」の「我」も、「何か」に変える必要があります。そうすると、「何か思う、ゆえに何かあり」となり、これこそ、何の主張にもなっていません。
 「我思う」の「我」を疑わない理由は、述べられていませんね。「思う」や「あり」は自明なのですね。
 「我思う」から「我あり」が演繹されます。 >>0 の引用Aがまさにそれです。
 デカルトは、 >>0 の引用@を実行し、少しでも疑いうるものを廃棄した結果、残ったのが、「我思う」であり、ゆえに「我あり」なのです。
  >>0 の引用Bと引用Cの読み間違いが致命的です。

2日前 No.469

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>469 のつづき

≪ホントウの真理を発見した者のメモG≫
一方、私(ホントウの真理を発見した者)は、
ホントウの真理を発見した者
疑えない何か→疑っているこれ(疑っているそのもの)→これ(そのもの)とは何か?
という疑いを発見し、疑いが残る事実を確認しました。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではありません。
ここで、この「疑っているこれ」の呼び名とは何でもよく、「疑っているこれ」でも「我」でも何でもいい、といった反論があったことについて、次のとおり論破します。
「疑っているこれ」の呼び名が、何でもいいのであるならば、なぜ多くの呼び名の中から、デカルトは「我」を選択して「我思う、ゆえに我あり」としたのか?
これ自体に疑いが残るのです。

何でもいいという、「何」とはホントウは、何なのだろうか?
疑いの余地が、まだあります。
したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」には、まだ疑いの余地があるのです。

このように、私(ホントウの真理を発見した者)は、『デカルト 著(谷川多佳子 訳),「方法序説」,岩波文庫,1997年』に基づいたうえで、絶対に疑えないこと(真理)において、「我思う、ゆえに我あり」が真だと主張するデカルトに対し、その主張は間違っている(偽である)と指摘し、それを実証してみせました。

結論です。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とは、「疑っているこれ(考えていること自体)」は「我(わたし)」であるという思い込みから必然的に成立する命題です。
したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、絶対に疑えない真理ではなく思い込みなのです。
デカルト完全論破です。

※以下、現在、メモにはありませんが… 錯覚でしたか? byえぴめてうす

では、「疑っているこれ(考えていること自体)」とは、何か?
その答えは、「疑っているこれ(考えていること自体)」以外に他なりません。
だからこそ、「疑っているこれ(考えていること自体)」を何と定めるか、これが新しい論点となります。

我でも、ラフレシアでも、火山岩でも、その他でもいいでしょう。
しかしながら、「疑っているこれ(考えていること自体)」は、我の視点からしか、今あるこの世界を把握することができません。ラフレシアの視点からでも、火山岩の視点からでも、その他の視点からでも、今あるのこの世界を把握することはできません。

したがって、「疑っているこれ(考えていること自体)」を「我」と定めることが、一番功利的(実用的)なのです。

≪私の感想G≫
 「我の視点からしか、今あるこの世界を把握することができ」ないから、「我」は自明であり、 >>0 の引用@の実行により、引用Aで述べられる真理を構成するのです。「我思う、ゆえに我あり」、この短い文章に2回も「我」がでてくることからもわかるでしょう。

 一番功利的(実用的)だからと、「いややはり我でなくてはならない」と定義するのであれば、残念ですが、そもそも疑う必要がなかったのではないかと思います。
 デカルトの方法的懐疑は、 >>0 の引用@によると、消去法なので、疑いうるなら、それは廃棄される(真理の構成要素としては残さない)必要があります。
 ホントウの真理を発見した者さんが、デカルトの方法論に異をとなえるのであれば、その批判と自説が書かれていなければなりません。

 もちろん、ホントウの真理を発見した者さんが、個人的に「疑っているこれ(疑っているそのもの)→これ(そのもの)とは何か?」と疑うことを止める気はまったくありません。
 また、自明なものをさらに疑う、哲学的立場もあり得るとは思いますが、ホントウの真理を発見した者さんの主張はそのようにも感じられません。

2日前 No.470

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>470 のつづき

≪ホントウの真理を発見した者さんのメモH≫
ここで、私(ホントウの真理を発見した者)は、宣言します。
【宣言】
「疑っているこれ(考えていること自体)」を「我」と定める。
この宣言により、ここで初めて「我思う、ゆえに我あり」は成立しました。
思い込みと宣言は、異なります。

「我思う、ゆえに我あり」は、私(ホントウの真理を発見した者)の『「疑っているこれ(考えていること自体)」を「我」と定める。』という【宣言】によって、初めて成立したのです。

≪私の感想H≫
 確認ですが、ホントウの真理を発見した者さんは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を「我思う」によって、自己の存在を確定するという趣旨ではなく、「我思う」によって、我以外のすべてのもの(物理的・観念的な事物・事象)を認識できるという意味の可能性を考慮にいれて考えられておられるなら、その意味で「我思う、ゆえに何かあり」(ゆえに葦あり、ゆえに火山岩あり、ゆえにラフレシアあり)はありえることになり、ホントウの真理を発見した者さんが成立させた「我思う、ゆえに我あり」以外の命題もあるということになるかもしれませんね。

 実際問題、デカルトは、「我思う」の「我」と「思う」を一体として自明なものとし、そもそも疑いうるものではないと判断し、これを根源的な公理として「我あり」を演繹して導いたと思います。
この「我あり」の「我」を疑うことは、根源的な公理の「我」(「我思う」の「「我」)自体をも疑うことになり、矛盾した話です。

 先にも書きましたが、ホントウの真理を発見した者さんは、デカルトが「我あり」の「我」を疑っていない点に着目されているようですが、「我思う」の「我」や「思う」、「我あり」の「あり」は疑っておられないようです。
 そして、「我思う」の「我」や「思う」、「我あり」の「あり」を疑うことについて、 >>382 で、「「我思う、ゆえに我あり」とは、「疑っている我は、絶対に存在する」を表現したものです。本質ではなく、表現上の問題を指摘するのは無意味です」とおっしゃっていますが、根拠は述べられておらず、まさに感覚的な主張で、あなたの思い込みです。

 しかし、だからと言って、ホントウの真理を発見した者さんが、「我思う」の「我」、「思う」、「あり」を疑っていないことに着目し、「それらは何なのか? ほんとうに「我」、「思う」、「あり」なのかという疑いが残る」という疑いを発見し、哲学の手続き上、A→B→Cとするべきところを、A→Cとしたということで、疑える事実を確認し、絶対に疑えない真理ではないということを示すことにより、「ホントウの真理を発見した者完全論破!!」ですとは決して言いませんので、ご安心ください。

 繰り返しになりますが、思い込みの中で、引用@を実行して、デカルトの信念の中にまったく疑えない何かが残るかどうか見きわめた結果、残った思い込みが「我思う、ゆえに我あり」であって、少しでも疑いうるものは廃棄されなければならず、真理である哲学の第一原理の中には含まれないのです。
 ところが、「これ」を疑ったふうにして、「我の視点からしか、今あるこの世界を把握することができません。」といった自明の思い込みによって、「我」を廃棄せず、定義するのは、あきらかに >>0 の引用@を逸脱したホントウの真理を発見した者さん独自のやり方だと言えます。

 デカルトの引用@に則らないなら、その独自の方法論を示す必要があるでしょう。
全くの私見ですが、思い込みの彼方にも、また思い込みがあるのです。思い込みのないところに行ってしまえば、認識そのものが生じません。

 お疲れさまでした。

2日前 No.471

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>462  〜  >>471

  >>0 だけでは、「メモ」が表示されないようです。失礼しました。

 メモに書かれている方法序説からの引用文(引用@〜引用E)を参照する場合は、 >>0 をクリックし、最下部の「デカルト論破 の >>0 だけを表示しています。↓次のレス 周りのレス ↑前のレス 」の「周りのレス」をクリックして、メモが表示されたら、メモ最下部の「…続きを読む(95行)」をクリックしてください。それで多分大丈夫だと思います。

 もしくは、メモの引用文を印刷しておくかです。

2日前 No.472

★4vJZFdswXq_Onj

>>457  馬場さんへ

>  デカルトがどう考えていたかはよく解りませんので、SumioBabaによる解釈になってしまいますが…。自分が意識を失っている時は、「我思う」が成立していないので、「我あり」も成立していない、で良いのではないでしょうか? 「我思う」は常に成立している訳ではなく、目覚めていて意識を持っている場合にだけ「我思う、ゆえに我あり」が成立している、と解釈してい良いのではないでしょうか?


はい。これならばよく理解できますね。(デカルトが実際にどのように考えていたのかは、不明ですが)

>  ちなみに、「無主体論」と呼ばれるような反論も、デカルトを否定することにはつながらないように思います。例えばD・ヒュームなどが、「「我」という主体など無い。有るのは「観念の束」だけだ」といった内容の事を書いています。西田幾多郎のいう「純粋経験」もそうでしたね。夕陽を見た瞬間、見ている「我」と見られている「夕陽」の区別などなく、両者は渾然一体化しており、それを分析して初めて、「我」という《主観》と「夕陽」という《客観》に分離してくるのだ、といった説明でした。言いたい事は理解できますが、デカルトの否定にはつながらないように思います。


そういう事だったのですね。元々私は、デカルト他に反論しているのではなくて、何を言ったのか、何を言っているのかを理解しようとしていました。(途中で断念しましたが)

>  例えば、M1=「夕陽を見た瞬間の状態で、見ている「我」と見られている「夕陽」とが渾然一体化したまま、まだ分離していない状態」とします。確かに、「夕陽」を見ている「我」はまだ出現していないかもしれません。しかし、「M1はM1(の存在と状態)を自己認識できているのか?」と問うことはできます。

>  もしYESであれば、「M1はM1を自己認識できている」が成立しており、これこそデカルトのいう「M1思う」です。だから「M1あり」も言えて、「M1思う、ゆえにM1あり」になります。

>  もしNOであれば、「M1はM1を自己認識できていない」ということになり、デカルトのいう「M1思う」が成立していないので、「M1あり」も言えません。

>  YESとNO、両方の場合が有り得て良いし、どちらもデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に反している訳ではありません。「M1思う」が成立すれば「M1あり」も言えるけれど、「M1思う」が成立していなければ「M1あり」も言えない、というだけです。


・・ただこれだけの事を言っていただけの事だったのですか。

>  そしてこのM1のように、「M1思う」が成立しているのかいないのか微妙な状態こそ、M0→M1という分裂過程のちょうど中間領域、すなわち矢印の部分にあるように思います。これをM0の方だと見なせば、「M1思う」はまだ成立しておらず、「M1あり」も成立していません。これをM1の方だと見なせば、「M1思う」がすでに成立しており、「M1あり」も成立していることになります。そして「M1あり」が成立していた場合、それを認識しているのは、M1であると同時にM0でもあるのです。


例えば、このような状況を考えていました。

・普通の状況での普通の人をAとします。
・机の上には10分ごとに「チンッ!」と鳴る装置を置きました。
・この装置は、120分経過時には「ブー」という音で、実験終了を知らせます。
・Aは、その音を聞く度に「私は、ある」と言う自己認識を声に出して言い、目の前に置かれた紙に星マークのシールをひとつづつ貼る事にします。
・開始から終了まで120分間での実験です。

ある日、Aは椅子に座って10分ごとに鳴る音に合わせて「私は、ある」と声に出して言いながらシールを貼っていきました。シールは10分で一つ貼られますので、開始から30分経過した時には、3つのシールが貼られています。

所が実験が続いていたある瞬間、緊張のあまり突然Aは気を失いました。

ふと我に返ったとき、何分経過したのか?実験が終わったのか?分からなくなっていましたが、次の瞬間に装置が「チンッ」と鳴りました。

このときAは、まだ実験が終わっていなかったことを知り「私は、ある」と言いながらシールを貼りました。

次に「ブー」と実験終了の最後のブザーが鳴りました。

結果 紙に貼られたシールの数は7枚でした。普通の人Aがこのような状況になったとき、装置の音に合わせて「私は、ある」と声に出して言いながらシールを貼っていけば、普通は12枚貼られていますね。ところが途中で気を失ってしまったので、シールは7枚しか貼られていません。途中で「私は、ある」と自己認識できない時間帯があったという事でしょう。

ここでA本人は、この結果をどのように思うでしょうか?
ん?私は装置の音に合わせて「私は、ある」と声に出して自己認識していたので、12枚のシールを見るはずではないのか?しかし7/12枚しかシールが貼られていないではないか?そして今「確かに私はここにある」のは、確かな事だ。そしてずっと「私は、あった」はずではないのか?と・・・思ってしまうでしょう。

このような事を考えたときでも、馬場さんの仰る「目覚めていて意識を持っている場合にだけ「我思う、ゆえに我あり」が成立している、と解釈してい良いのではないでしょうか?」と言う事ならば一応は納得できますが、普通の人Aは納得できるのでしょうか?

私は、生まれてから今まで、ずーっと存在したはずだ。でも実験をすると、この120分に限っては、70分間しか存在していなかったという事か・・納得だ!とは、通常はならないように思えますね。

デカルトの言う「我思うゆえに我あり」が真理であり「目覚めていて意識を持っている場合にだけ「我思う、ゆえに我あり」が成立している、と解釈してい良い」と言う事ならば、至極簡単に理解できます。

無我論だ無主体論だ純粋経験だ等と言った世界観とは違った世界観での事柄ですね。

ここ数日「我・思う・ゆえに・我・あり」と言う言葉で船酔いしそうな感じです。治まるまで少し間を置きたいと思います。

返信をありがとうございました。

2日前 No.473

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>461

そうじゃなくて、次のような自己矛盾です。

「自分はなにも主張していない」という主張

「自分はなにも考えていない」という考え

2日前 No.474

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>455  スレ主さん

>>デカルトはそんなことを言っていません。

>そう。デカルトはそこに気が付いていなかった。デカルトが見落としていた点だね。


違うがな(笑)
「我思う」が不可疑であるわけなんだから、考える何かが存在することは間違いないってわかってるに決まってるじゃん。
Mobiusさんやきみは、それが我であるとまでは言えないと考えているが、それは考えが浅いのであって、その先まで言えるっていうのがデカルトの論証。
それをきみは論点先取だって思い込んでるだけ。

>「思う、ゆえにあり」→何があり?→「何かがあり」→何かって何だ?→疑うことができる事実の確認


これ、デカルトに関係ないのよ。彼はこんなこと言ってないから。
藁人形論法の典型よ。浅すぎなんだよ。
きみはお人形遊びして、論破したって喜んでいるってことよ。
ほんとに理解できないんだね。

>>450
>それは思い込みによる論点先取だね。したがって、絶対に疑えない真理ではないんだよね。


論点先取ってことをわかってないね。

>前提として、デカルトは「絶対に疑えないものとは何か?」から出発していることを思い出してごらん。なぜ突然「我」がポンっと登場したのかな?出発点が間違ってるよ。


だからね、「絶対に疑えないものとは何か?」と問いを立てて、
では、「自分が今考えている」ということを疑いうるか?とデカルトは自問したんだよ。
これが出発点。というより、ほんとはいろいろ考えた末に、たどりついたんだけどね。
これを問うたのが偉いんじゃないの。何が間違ってるっていうのさ?
そして、この問いに対して、「疑いえない」と結論した。
その結論は、「自分の存在」を前提にして導出したのではない。
つまり、「自分は考えている」ってことが不可疑であることを直接認識できるってことであって、
証明されるべき「自分の存在」を先に前提して、そこから導出しているわけじゃない。
だから論点先取ではないんだよ。
で、「自分が考えている」ことが不可疑であるがゆえに、ここから「自分の存在」を導いた、というのがデカルトの理路・ロジックなんだよ。
きみはこのロジックを全く理解していないわけよ。

>>458
>デカルト論破から導出されることは、明晰なことなど何もないということである。


それは「デカルト論破」がただお思い込みだからなのである。

1日前 No.475

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>474
う〜ん、よくわかんない。

「自分は、自分の全身を食べることができない」ということか?

>「自分はなにも主張していない」という主張

>「自分はなにも考えていない」という考え


こういう言い方は慣用的に普通にするから、あまり不自然さ(矛盾)を感じない。

---------------

「我思う故に我あり」とは「デカルトは思う故にデカルトあり(他の人は知らないけど)」という意味なのだろうか?
だとしたら「我」を「これ」に置き換えることはできないわけだけど。

---------------

「自分は何も考えていない」というのは“過去の自分”で、“今の自分”は「『自分は何も考えていない』と考えている自分」ということか?

1日前 No.476

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>473  時さんへ

>例えば、このような状況を考えていました。

>・普通の状況での普通の人をAとします。

>・机の上には10分ごとに「チンッ!」と鳴る装置を置きました。

>・この装置は、120分経過時には「ブー」という音で、実験終了を知らせます。

>・Aは、その音を聞く度に「私は、ある」と言う自己認識を声に出して言い、目の前に置かれた紙に星マークのシールをひとつづつ貼る事にします。

>・開始から終了まで120分間での実験です。

>ある日、Aは椅子に座って10分ごとに鳴る音に合わせて「私は、ある」と声に出して言いながらシールを貼っていきました。シールは10分で一つ貼られますので、開始から30分経過した時には、3つのシールが貼られています。

>所が実験が続いていたある瞬間、緊張のあまり突然Aは気を失いました。

>ふと我に返ったとき、何分経過したのか?実験が終わったのか?分からなくなっていましたが、次の瞬間に装置が「チンッ」と鳴りました。

>このときAは、まだ実験が終わっていなかったことを知り「私は、ある」と言いながらシールを貼りました。

>次に「ブー」と実験終了の最後のブザーが鳴りました。

>結果 紙に貼られたシールの数は7枚でした。普通の人Aがこのような状況になったとき、装置の音に合わせて「私は、ある」と声に出して言いながらシールを貼っていけば、普通は12枚貼られていますね。ところが途中で気を失ってしまったので、シールは7枚しか貼られていません。途中で「私は、ある」と自己認識できない時間帯があったという事でしょう。

>ここでA本人は、この結果をどのように思うでしょうか?

>ん?私は装置の音に合わせて「私は、ある」と声に出して自己認識していたので、12枚のシールを見るはずではないのか?しかし7/12枚しかシールが貼られていないではないか?そして今「確かに私はここにある」のは、確かな事だ。そしてずっと「私は、あった」はずではないのか?と・・・思ってしまうでしょう。

>このような事を考えたときでも、馬場さんの仰る「目覚めていて意識を持っている場合にだけ「我思う、ゆえに我あり」が成立している、と解釈してい良いのではないでしょうか?」と言う事ならば一応は納得できますが、普通の人Aは納得できるのでしょうか?

>私は、生まれてから今まで、ずーっと存在したはずだ。でも実験をすると、この120分に限っては、70分間しか存在していなかったという事か・・納得だ!とは、通常はならないように思えますね。

>デカルトの言う「我思うゆえに我あり」が真理であり「目覚めていて意識を持っている場合にだけ「我思う、ゆえに我あり」が成立している、と解釈してい良い」と言う事ならば、至極簡単に理解できます。


 すごく奇抜な思考実験ですね。自分はいつも意識が有ると思い込んでいるけれど、案外ぼんやりしている時は意識も薄れていて、時々途切れているのかもしれません。途切れていたという記憶か証拠が残っていれば、途切れていたと実感するでしょうが、記憶も証拠も残っていなければ、途切れていたかどうかも曖昧になるでしょう。ずっと意識し続けていたつもりだったのに、10枚シールを貼ったところで終了のブザーが鳴ったりしたら、ぎょっとするかもしれませんね。

 デカルトの場合は、疑えることをすべて疑った上で、唯一絶対に確実だと言えるものが自分の心すなわち「我」の存在だと結論したらしいです。これは《独我論》にまで遡ったことになります。そして、本当にすべてを疑ったのであれば、「過去」や「未来」の存在も確実ではなくなるはずです。「ラッセルの5分前世界創造仮説」のように。「過去」が実在したという記憶も、「未来」が来るらしいという推測も、悪霊が騙そうとしているだけだと疑えるでしょう。疑えないのは「現在」だけとなります。つまり、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、《独我論》であると同時に《独今論》であることが必要になります。「過去の我」や「未来の我」は、状態も存在も疑うことができるため、「現在の我」だけが唯一確実な存在だということになりそうですね。

1日前 No.477

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>476  Mobiusさん
いや、全部違いますね。

実際に目をつむって、頭の中で
「自分は今何も考えていない」
と考えてみてください。なんなら、リピートしてください。
で、そのままの状態で、この考えが正しいと考えられますか?

1日前 No.478

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>Mobiusさん


よく知られた別の説明もしときましょうか。

今、自分が「腹減った」と思っているとしましょう。
ところが、(方法的懐疑と実質同じ思考実験でわかりやすく)
自分は実は水槽の中の脳であるとしましょう。
今、自分が現実だと思っている世界はすべてコンピュータに見させられている幻覚だと。
すると実際には腹なんてもんがないんだから、この場合「腹減った」ってことはありえないわけですよね。つまり、偽です。
ですから、「腹減った」と思ってたって、「腹減った」ってことは疑いうるわけです。

だけど、です。
腹減ったってことは思考実験によると疑いうるけど、
自分が「腹減った」と思っている
このこと自体は疑えないでしょって、ことですね。

これはどうです?

1日前 No.479

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

>>479 ザビビのふくろうさん

それだと自分(我)という認識も怪しいわな。

1日前 No.480

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

「これは自分だ」と主張するには「疑っているこれ」を「自分」と思い込むか定義するしかないのである。

1日前 No.481

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>481  スレ主さん

>「これは自分だ」と主張するには


デカルトはそんな主張をしていない。
と百万回言っても、きみには無駄なんだね。
もうほとんど譫言じゃん。
きみの主張が正しいときみが思っていることは正しいにしても、
だからといって、きみの主張が正しいことにはならんのよ。
わからんか…。

ということで、
スレ主完全論破。
お疲れ様。

何のこっちゃ知らんけど、ノーベル賞頑張って(笑)

1日前 No.482

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

それは、私がデカルトを超越したからである。

1日前 No.483

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

「デカルトの主張」うんぬんよりも「絶対に疑えないもの(真理)」を議論することが、哲学として本質なのである。
形にとらわれては、いけないのである。

1日前 No.484

ザビビのふくろう @owlman ★Android=Gh53RyBMOc

>>484

論点をずらせて、まだ見苦しい言い訳をするつもりかい?

>>0 及びメモにおいて、
きみはデカルトのロジックを理解できずに解釈を誤り、
藁人形論法にすぎないことにも気づかず論破したと思い込んでいた。

明らかな事実は、きみがデカルト論破には完全に失敗したということだよ。

1日前 No.485

法学に詳しい人 ★fofH1MgenE_keJ

ばかやろう

デカルトよりキルケゴールだろ
レギーネとの恋

1日前 No.486

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

デカルト論破により、少なくとも、私の世界では、デカルトを相手にする必要はまったくなくなったのである。

1日前 No.487

とある素人 ★Tablet=ZbnJMwabPG

>>487

『アンタの世界の中“だけ”』ではね。
アンタ以外の“正しく”哲学を学んでいる全員は、
デカルトを学ぶ意味がある。

アンタの自己本位な曲解だけで成り立っている、
自己陶酔の妄想世界の中でしか通用しない、
全く持って無価値な下卑た寝言を押し付けるのを早急にやめて頂きたい。

都合が悪くなれば削除工作をするし、
それがバレれば無視をして無かったことにしようとするし、
さらに分が悪いとなると得意の論点ずらしをする。
妄想坊やは迷惑なんで去ってください。

まだまだ逃げるんだね。

ホントウの真理を発見した者は、
【気に入らない投稿を次々に削除報告します】
【思い込みをするなと言って自らが思い込みをしていました】
【受賞候補すら決まっていない賞を獲ったと嘘をつきました】

これからコソコソ逃げずに、
正々堂々と謝罪しなさい。

そんな脆弱な人間性で、
哲学を語るのは百年早いよ、
妄想障害の嘘つきクン。

1日前 No.488

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

絶対に確実なこと。

それは、我でもなく葦でもなく幻影でもなく、希望だよ。

22時間前 No.489

とある素人 ★Tablet=33B9JD5Jit

絶対に確実なこと。

それは、ホントウの真理を発見した者が、
【都合の悪い投稿を必死に削除報告していたこと】
【思い込みをするなと言って自らが思い込みをしていたこと】
【受賞候補すら決まっていない賞を獲ったと嘘をついたこと】
【それらから無様にも逃げ続けていること】
だよ。

22時間前 No.490

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>484  ホントウの真理を発見した者さんへ

>「デカルトの主張」うんぬんよりも「絶対に疑えないもの(真理)」を議論することが、哲学として本質なのである。形にとらわれては、いけないのである。


 貴方は「真理」という言葉を、正しく理解しておられるのでしょうか? 貴方が発見されたとかいう「真理」は、真であることが証明できるのでしょうか?
 証明できなければ、それはただの「仮説」です。仮説に過ぎないものを「これこそが真理だ!!」と断定してしまうと、ただの宗教になってしまいます。
 もし(演繹的に)証明できるのであれば、貴方のいう「真理」は、「定理」ということになります。それを証明するためには、証明なしに真だと仮定した「公理」を使う必要が有ります。そしてその「公理」自体は証明無しに定めた恣意的なものなのですから、それを受け入れるかどうかは個人の自由です。つまり、貴方の主張される「真理」とは、その「公理」を受け入れる人たちにだけは通用しても、その「公理」を受け入れない人には通用しないものとなってしまいます。「絶対に疑えないもの(真理)」にはなれませんね。

 物理法則のような「経験科学的真理」も、一応「真理」と呼ぶことはできます。しかし、正確にいうとこれは永久に反駁可能性を持ち続け、「暫定的真理」に留まり続けるのであり、「絶対的真理」に到達することは有り得ません。実験・観察によって、「正しいらしい」という根拠を(帰納的に)積み上げていくことはできでも、有限回の実験・観察で「正しいらしい」と言えたからといって、無限回すべての場合に「正しい」とは断定できないからです。

 「真理」とは、何等かの命題という形で表現されるものであり、「絶対に疑えないもの(真理)」とは、必ず真になる命題だということですね。必ず真になる命題とは、論理的必然性で真となる命題に限られます(ただし、「無矛盾な世界であれば」という条件付き)。「「Pである」ならば「Pである」」(同一律・トートロジー)、「「Pである」かつ「Pでない」ということは有り得ない」(無矛盾律)、「「Pである」または「Pでない」のどちらかである」(排中律)、「「「Pである」かつ「Qである」」ならば「Pである」」(分析的に真)、…などがそれです。でもこれらは、PやQがどんな内容であるかに拘わらず、こういう形をしているというだけで論理的必然性により真となるのです。だから、PやQに何か具体的な内容を与え、「これが絶対的真理だ!!」と主張することは可能ですが、「真理を発見した!!」とは言えないですね。PやQに何を入れても恒真であることは、とっくに常識なのですから。


 ホントウの真理を発見した者さんは、「絶対に疑えないもの(真理)」を「発見した」と表現されています。でも、何か変です。「絶対に疑えないもの(真理)」だったら、それは論理的必然性で真だと言える命題のはずですから、「P→P」「¬(P∧¬P)」「P∨¬P」「P∧Q→P」…のような形をしているがゆえに真なのであって、PやQの内容には依存しておらず、これを「発見した」というのは変です。逆に、ホントウの真理を発見した者さんが発見したと主張されている「絶対に疑えないもの(真理)」が「経験科学的真理」だとすると、それはあくまで「暫定的真理」に過ぎないのであって、「絶対に疑えないもの(真理)」とは言えません。どちらと考えても、ちょっと変です。

19時間前 No.491

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>時さんへ


 心の存在と状態は、結局その心自身が、自分の存在と状態をどのように認識しているか、で決まるのではないでしょうか? 例えば、M1=「赤い丸を知覚している心」だとします。これは、「M1自身が、自分は「赤い丸を知覚している心」として存在していることを自己認識している」という意味だと思われます。

 仮に、M1=「赤い丸を知覚している心」だと仮定しておきながら、さらに、「ただし、M1自身は自分を「赤い丸を知覚している心」だと自己認識できず、自分は「丸を知覚している心」だと自己認識している」と仮定したとしましょう。この場合、M1=「赤い丸を知覚している心」という仮定の方は意味を失うと思います。他の誰も、このM1を覗き込むことはできないので、M1=「赤い丸を知覚している心」なのかM1=「丸を知覚している心」なのかを、他者は判断できません。判断できる唯一の主体がM1自身です。そしてM1自身がM1=「丸を知覚している心」だと認識しているのであれば、それがそのまま真実となります。本当はM1=「赤い丸を知覚している心」なのだよといくら主張してみても、それが真だと認識できる視点はどこにも存在しません。

 M1=「赤い丸を知覚している心」と仮定した上で、さらに、「ただし、M1自身は、自分の存在も状態も何一つ認識できない」を仮定するとしましょう。この場合も、M1=「赤い丸を知覚している心」という仮定は無意味になりそうです。そして、M1自身が自分の存在も状態も認識できないのですから、「M1は存在しない」あるいは「M1はM0(完全無意識状態)である」が真になると思われます。

18時間前 No.492

★fukXRHTop1_Onj

>>492  馬場さんへ

>  心の存在と状態は、結局その心自身が、自分の存在と状態をどのように認識しているか、で決まるのではないでしょうか? 例えば、M1=「赤い丸を知覚している心」だとします。これは、「M1自身が、自分は「赤い丸を知覚している心」として存在していることを自己認識している」という意味だと思われます。


そうですね。冒頭の一文の「心」を「私」に置き換えると

私の存在と状態は、結局その私自身が、自分の存在と状態をどのように認識しているか、で決まるのではないでしょうか?

となり、次に続く文章にも違和感はありませんね。

例えば、M1=「赤い丸を知覚している私」だとします。これは、「M1(私)自身が、自分(私)は「赤い丸を知覚している私」として存在していることを自己認識している」という意味だと思われるという事と同じですものね。

>  仮に、M1=「赤い丸を知覚している心」だと仮定しておきながら、さらに、「ただし、M1自身は自分を「赤い丸を知覚している心」だと自己認識できず、自分は「丸を知覚している心」だと自己認識している」と仮定したとしましょう。この場合、M1=「赤い丸を知覚している心」という仮定の方は意味を失うと思います。


これは、赤と丸(赤い丸)を知覚していると本人は思っているが、実は、丸の方だけを認識している場合と言う事でしょうか。もしもそうだとすると、M1=「赤い丸を知覚している心」という仮定の意味を失うばかりでなく、会話が結構ややこしくなるように思いますね。仮定では全体(赤い丸)を語っているつもりで、しかし実は部分的な事柄(丸)しか語れていないという状態でしょうか。

>他の誰も、このM1を覗き込むことはできないので、M1=「赤い丸を知覚している心」なのかM1=「丸を知覚している心」なのかを、他者は判断できません。判断できる唯一の主体がM1自身です。そしてM1自身がM1=「丸を知覚している心」だと認識しているのであれば、それがそのまま真実となります。本当はM1=「赤い丸を知覚している心」なのだよといくら主張してみても、それが真だと認識できる視点はどこにも存在しません。


その場合には、会話が噛み合わなくなりそうですね。その本人の視野の狭さ、思い込みと言う類でしょうか。勿論、他者はそれをのぞき込むことはできませんので、それに気づけるのは本人と言う事になりますね。まぁ、若いころには気づけなかった視点に、ある程度年齢を経れば気づけるとか、親の心子知らずだとかもこれですかね。ですのでその時点でのその本人の視点で「丸だ」が確率1で展開しているだけだと思いますが。そして当然「赤い」が抜けていることに気づけませんので、本人にとっての真は「丸」ですね。

>  M1=「赤い丸を知覚している心」と仮定した上で、さらに、「ただし、M1自身は、自分の存在も状態も何一つ認識できない」を仮定するとしましょう。この場合も、M1=「赤い丸を知覚している心」という仮定は無意味になりそうです。そして、M1自身が自分の存在も状態も認識できないのですから、「M1は存在しない」あるいは「M1はM0(完全無意識状態)である」が真になると思われます。


はい。当然、そのようになると思います。ただし「M1は存在しない」あるいは「M1はM0(完全無意識状態)である」が真になる。と言えるのは、それを知る第三者視点か、その何もなかったと言う世界を体験した者がその過去(その体験)を振り返っての発言となるでしょう。この場合「M1=心=私は存在しません。無意識状態です。」と言う表現になると思います。

違う表現ですが、私は心を「場(世界)」、思うを「思い」に変えます。その各種の思いは場に現れては消えるクオリアだとします。思うを思いに変えるのは、心=場=私には自由意志は無いと考えるからで、思うという動詞から思いと言う名詞に変えました。

それで再度考えると「我思うゆえに我あり」は「場にクオリアが発生するので、場はあります」となるでしょうか。デカルトの言った事とは別になりますが、これならば簡単に理解できそうですよ。当たり前ですものね。要は、有の世界での理となるでしょうか。各種クオリアを疑って疑って最後に残ったのが私と言う心=場だという事でしょうか。

17時間前 No.493

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

>>478
「自分は今何も考えていない」と考えることはできます。
その内容(カギカッコ内)はウソですが、ウソの内容を考えることは可能です。

その考えた内容は、疑いうるものです。(なぜならば真偽を問えるものだからです、)

さらに「『自分は今何も考えていない』と考えているかどうか」も疑いうるものです。
なぜなら「『自分は今何も考えていない』と考えているかどうか」もまた「考えた内容」だからです。

>>479
「腹減った」というのも感覚ですから、デカルトの言う「疑いうるもの」なのではないでしょうか?

繰り返しになりますけど、
「疑い得ない」というのは、「自分は自分の全身を食べることができない」というような類のものではないのでしょうか?

ここで「違う」と言われてしまうと、「自分は自分の全身を食べることができない」の前提も外さざるを得なくなるので、「自分自身の全身を食べることできる存在としての“自分”」を想定せざるを得なくなります。それを想定していいのであれば、「思考している自分を疑っている自分」も想定できてしまいそうです。

11時間前 No.494

ホントウの真理を発見した者 @hontou ★iPhone=CzYkXaZgcW

さあ、みんな、世界の再開だ!

7時間前 No.495

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_keJ

>>494  Mobiusさん

>「腹減った」というのも感覚ですから、デカルトの言う「疑いうるもの」なのではないでしょうか?


だから、そう言っています。自分が「水槽の中の脳」なら腹の減りようがないしね。
 「腹減った」
は疑いうる。
だけど、
 自分が「腹減った」と思っている
ということ、このことは疑いえない、と言ってるんです。
この区別がMobiusさんにはついていません。

この、自分が考えているかぎり、そう考えていること自体は疑えない、というのは、
いわゆる「意識の明証性」と言われるものです。
「腹が減った」は意識の事実ではなく、疑いうる(偽でありうる)けど、
「自分が「腹が減った」と思っていること」は意識の事実だから疑いえないということ(確実だと言える)。
「目の前に本がある」というのは意識の事実ではないので疑いうるが、
「自分には目の前に本があるように思われる」というのは意識の事実であって、疑えない(確実だと言える)。
で、
「我思う(自分が考えている)」ということも、意識の事実だから、疑いえない(確実)。
デカルトの方法的懐疑は、この意識の明証性による確実なものに到達するための方法・手段なわけです。
この意識の明証性は、近代哲学の認識論、つまりカントやバークリの観念論哲学のみならず、初期ラッセルや初期カルナップなどの分析哲学における現象主義や、フッサール現象学に至るまで、いわば「いかにして確実な認識は可能か」という認識論の拠り所、パラダイムとなるものです。
どうもMobiusさんは、これまでのレスを見る限り、デカルトの議論のポイントである、この意識の明証性ということについて、まったく理解できていないように思われます。

あくまでわたしのここでの発言の趣旨は、解釈にあります。
すなわち、スレ主の解釈が間違っていることを指摘し、デカルト論破になっていないことを示すことです。
しかし、Mobiusさんとの議論は、どうしても解釈を超えてきますので、話がややこしくならざるを得ないと思います
で、私としては、ここのスレで言うべきことはもう言いましたので、私はとりあえず、これにて失礼したいと思います。
あとは、Mobiusさんが、ご自身でデカルトと対話されるなり、認識論を勉強されればよろしいかと思います。

>>484  スレ主さん
>「デカルトの主張」うんぬんよりも「絶対に疑えないもの(真理)」を議論することが、哲学として本質なのである。

>形にとらわれては、いけないのである。


あれあれ?
>デカルト「あっ…えっと…。」

>俺「論破ああああああああああ!」

なんて喜んでいたのは誰なのかな?
だったら、最初からスレ建てしなきゃいいのに(笑)

42分前 No.496
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