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平和ルネサンスv^^。ピース2020

 ( 哲学掲示板 )
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ソフィー @yuniko99 ★ru9hDPoFte_D9v

この題名の様な心の革命を起こしましょう。飽くまでも心です。人をぶん殴ったり催涙弾を撃ったりは一切しません

心の世界から人間の良心と理性を信じて非人間的なことを見直しましょう。

お金や宗教のために人間があるのではないのです 人間のためにお金や宗教があるのです。

フィロソフィー(哲学)も大いに関わっていきましょう

「平和」は世界平和を意味します。人権が守られてることが平和です。どの国にあるのではないでしょうか 様々な問題やハラスメントが

「ルネサンス」は人間性です。これからAIやロボットが社会にどんどん入ってきます。それを使う人間が確りしてないと返って危険です。

人間世界を平和で愛あるものにしましょう。ストレス社会ではいい事はありません。

v^^。は昔平和の呼び掛けを3年くらいやりましたが その時のマークです。ピースは英語の peace です。v^^。ピースと覚えてください。

2020は日本で東京オリンピックもありますが当面の目標です。このキャッチフレーズの感想を語り合い呼びかけ実現しましょう☆.。.:*・

平和ルネサンスv^^。ピース2020 やろうではありませんか皆さん。^^

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地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>100
 多様性の乏しい、横並びも、危険なのです。サブプライムローンはノーベル経済学賞をとった方式を実際に真似て、不良な債権を小さく分割し、良好な商品に小さな確率で持たせると言う事で、危険分散ができると考えました。しかしドミノ倒しの様な、債権の焦げ付きが起き、親である証券会社そのものが倒産して、全体が不良債権化して、世界的な不況が起きるという、リーマンショックが起きてしまいまいました。

 社会や生態系に於いては、正しいという概念は危険だと思います。多様性や複合性のある共生という概念が適当なのです。

 また、正義の戦争という概念も、非常に破壊的で危険であると考えます。

2ヶ月前 No.101

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>81  哲人たちの代弁者さんへ
>>82  地下水さんへ

( >>81 、哲人たちの代弁者さんの発言)

>物事の理を悟る事で、人類が抱える全ての問題を適切に処理する能力が誰でも得れるのです。その知恵を使えば、力による統治は一切必要なく成ります。この一言に尽きるのです。


( >>82 、地下水さんの発言)
>机上の空論ではないですか。


 SumioBabaも、机上の空論だと思います。理由は、「人類が抱える全ての問題を適切に処理する」という事自体が不可能だからです。世の中にはいろんな価値観の人がいて、どんな処理の仕方をしようとしても、それを「適切だ」と感じて支持する人もいれば、「適切でない」と感じて支持しない人が現れるでしょう。それが現実というものではありませんか?

>>100  哲人たちの代弁者さんへ

>>従って、正しいとは絶対平等を希求する心、差別的意識の完全撤廃と言うことです。


 これは、あくまで、哲人たちの代弁者さんのドグマ(独断・偏見)に過ぎないのではないでしょうか? 「「正しい」とは「絶対平等を希求する心、差別的意識の完全撤廃と言うこと」である」(=A)が真だと証明できますか? 仮に別の人が、「「正しい」とは「他人より自分を優先して自分が幸福になること」である」(=B)と主張した場合、これが正しくないと証明できますか?
 そもそも「証明」とは、「証明なしにこれだけは真だと仮定した「公理」から出発し、論理的加工を施して、特定の「定理」を導く過程」を指します。そして「公理」自体は証明なしに真だと仮定するものです。「公理」を証明しようとしても無限後退するだけであって、証明は不可能だからです。
 そうなると、Aが証明できるような「公理」を選べばAが証明できるし、Bが証明できるような「公理」を選べばBが証明できます。どちらを正しいと見なすかは個人個人の好みであり、恣意的な選択になってしまいます。つまりAは、哲人たちの代弁者さんの好みによる選択に過ぎず、Bを支持する人に対し、「Aが正しい。Bは間違っている!!」とは言えないのではないでしょうか?

2ヶ月前 No.102

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    《人間の行動原理》

 そもそも《人間の行動原理》は、「自分の利益を最大にする行為を選択する」です。これに反するものは考えられません。例えば電車で席に座っていて、お年寄りに席を譲る人と譲らない人がいますが、自分が犠牲になって他人の為に尽くしているのではなく、どちらも自分の利益を最大にする行為を選択しているだけです。一例を挙げると、こんな感じです。

   (1)「席を譲らない人」の具体例
 「席を譲らない」を選ぶと、ずっと座っていられるので、この部分には何も不利益は無く0点。席を譲らなかったことで特に後悔することも無いので、精神的には満足も不満も無く、利益は0点。合計すると0点。
 「席を譲る」を選ぶと、自分は立たねばならなくなるので、この部分はマイナスの利益であり、例えば−30点。他人の為に役立ちたいという気持ちは殆ど無いので、「席を譲って良かった!!」という精神的満足感は得られず、この部分の利益は0点。合計すると−30点。
 「結論」…「席を譲らない」だと0点。「席を譲る」だと−30点。それゆえ高得点である「席を譲らない」を選ぶ。

   (2)「席を譲る人」の具体例
 「席を譲らない」を選ぶと、座ったままでいられるので、この部分の利益は0点。しかし、席を譲らなかった自分に自己嫌悪して精神的不満を感じてしまい、この部分は−20点。合計すると−20点。
 「席を譲る」を選ぶと、自分は立たねばならなくなるので、この部分はマイナスの利益であり、例えば−30点。しかし、「相手の為に役立てて良かった!!」「自分はこういう時、席を譲れる人間でありたいと常日頃から思っていたので、自分の理想に近付けて良かった!!」と思える精神的満足感がプラスの利益になり、例えば+50点。合計すると+20点。
 「結論」…「席を譲らない」だと−20点。「席を譲る」だと+20点。それゆえ高得点である「席を譲る」を選ぶ。

 以上、席を譲らない人も、席を譲る人も、本当は自分の利益を最大にする選択をしているだけです。そういう意味で人間は、根っから「利己的」なのです。

 よく、「世界平和を実現しましょう」とか「他人の為に自分を犠牲にしましょう」とか綺麗事を並べ立てている人を見ますが、《人間の行動原理》に反する事を要求されても、誰も従わないと思われます。世界平和の実現を目指すのなら、あるいは、他人の為になる行為を求めるのなら、《人間の行動原理》に則り、人々がそうしたくなる方法を考え出す必要が有ると思われます。

2ヶ月前 No.103

哲人たちの代弁者 ★5HlZgUJoiG_8gk

SumioBabaさん

〉 SumioBabaも、机上の空論だと思います。理由は、 SumioBabaも、机上の空論だと思います。理由は、SumioBabaも、机上の空論だと思います。理由は、「人類が抱える全ての問題を適切に処理する」という事自体が不可能だからです。世の中にはいろんな価値観の人がいて、どんな処理の仕方をしようとしても、それを「適切だ」と感じて支持する人もいれば、「適切でない」と感じて支持しない人が現れるでしょう。それが現実というものではありませんか?


物事の理を悟ることで「人類が抱える全ての問題を適切に処理する」能力を得れる。
言葉の前後を外せば意味不明に成ります。
これは辞書の広辞苑で智恵と言う言葉の意味を分かりやすく解説した文章です。
広辞苑に於いては、「知恵・智慧=物事の理を悟り、適切に処理する能力」と記されています。
SumioBaba智恵の語義を原文のまま理解できますか?

因みに「理解とは、物事の道理をさとり知ること」です。
つまり、全ての事象に対し、道理を以って解き明かす、これが理解ですよ。

昔、象と七人の盲人と言う童話が有りました。
盲人たちは象を触り、象は大きな壁のような動物だ、いやいや大木のようだ、そうじゃない蛇みたいだよ。
智恵も持たず、理解もできない心の盲人たちの言い分は十人十色です。

2ヶ月前 No.104

地下水 ★lHRYPNADL9_iR4

平和のすれには、「守る」という概念がふさわしい。すると、守る人を守る、という必要性が出てくる。従って、「自衛」という行為が必要なのだ。自らを守るのである。
戦争の環境破壊や資源の急速な消費や破壊を考えると、現代の地球では、戦争の対峙語である、平和という概念が、より「正しい」のである。
平和の為に、自らを守る。守ると言う概念には、死から守る、という観点が、限界点である。思うに、価値の多くを突き詰めると、死を避ける所に行き着く。
死の対峙語は、生である。更に、活である。死生観は、生命にある。生命は、死から逃れ、活き活きと生きる事を求める。命を活かす為に、生活がある。
一度、命を見出せば、それを活かす為に、生業を打ち立てるのである。

>>103
なるほど、戦争を止めて、平和を維持しようとする、人間的な動機付けや、平和を維持したくなる、方法を考え出す必要があるのですね。
第二次世界大戦の戦争の後の戦災の映像を見せたり、東北津波の様な大災害の後の被害の映像を見せたりして、戦争は嫌だ、平和が良いと、考えさせるのはどうですか。
ボブディランの風に吹かれてや、サイモン&ガーファンクルのスカボロフェア、ジョンレノンのワーイズオーバー、チャップリンの史上最高のスピーチ、
ウィアーザーワールド等の音楽やスピーチなど、シンドラーのリストなどの映画などを、聴かせたり観せたりしてはどうでしょうか。
戦争に対する、怒りや悲しみ、地球人としての同朋意識が持てるのではないでしょうか。

2ヶ月前 No.105

地下水 ★lHRYPNADL9_iR4

>>103
また過去の、絨毯爆撃や原爆の後の戦災の他に、第二次世界大戦後にあった各地の水爆実験の膨大な被害映像を観せるのも有効ですね。

2ヶ月前 No.106

地下水 ★lHRYPNADL9_iR4

>>103
また安穏とした、永観堂さんの紅葉は今まで見た中で一番素晴らしく、今天国だなと思いました。そして世界がこの様になれば素晴らしいだろうなと思いました。
世界にこの紅葉を伝えたいと思いました。
平和を有難いと思う為には、紅葉狩りや御花見も有効ですね。
天皇陛下には是非4月の初め頃や、11月の25日頃に御生まれになって頂いて、国民の休日として、桜休みや紅葉休みをおつくりになって頂きたいですね。(^^;

2ヶ月前 No.107

哲人たちの代弁者 ★kBpqoiHHNS_8gk

SumioBabaさん

SumioBabaさんの書かれた《人間の行動原理》はSumioBabaさんの行動原理で有って他の人々には当てはまりません。
お年寄りやお子様ずれ、そして弱い方たちに席を譲る場合は無意識のうち、反射的に体が動きます。
物事の全てを点数計算をするのはSumioBabaさんくらいで珍しい方です。

自分がそうだから、と言って自分の物差しで他人を計るのは間違いです。

2ヶ月前 No.108

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>104  哲人たちの代弁者さんへ

>物事の理を悟ることで「人類が抱える全ての問題を適切に処理する」能力を得れる。

>言葉の前後を外せば意味不明に成ります。

>これは辞書の広辞苑で智恵と言う言葉の意味を分かりやすく解説した文章です。

>広辞苑に於いては、「知恵・智慧=物事の理を悟り、適切に処理する能力」と記されています。

>SumioBaba智恵の語義を原文のまま理解できますか?


 広辞苑における「知恵・智慧」の定義自体は、特に問題は無いように思います。重要なのは「物事の理」とは具体的にどういう内容か、でしょうね。SumioBabaは徹底した《相対主義》を採ります。「何が真で何が偽か、何が善で何が悪か、といった区別は、どういう枠組で、誰の視点で、どういう価値観に基づいて判断するかで様々に変わるのであり、絶対的な真、絶対的な偽、絶対的な善、絶対的な悪、などというものは存在しない」とする立場です。SumioBabaにとっては、この《相対主義》こそが「物事の理」であり、それを理解するのが「知恵・智慧」ということになります。

 地下水さんは、「正しい」と言えるものとして、 >>99 で「数学」と「物理学」を挙げておられます。この発言には大いに学ぶべきものが有ります。

 まず「数学」は人間にとって最も厳密な学問ですが、この「数学」自体が「絶対的真理」などというものを認めていません。「数学」が主張する真理はすべて「相対的真理」です。なぜなら、証明なしに特定の「公理」を定めているからです。例えば「三角形の内角の和は180度である」は真が偽か? ユークリッド幾何学なら真だし、非ユークリッド幾何学なら偽です。「公理」を特定しなければ、真とも偽とも言えません。つまり「三角形の内角の和は180度である」は、「絶対的真理」ではなく、ユークリッド幾何学という特定の枠組の中でだけ真となる「相対的真理」だということです。しかし、だからこそ「数学」は厳密になれるのです。「ユークリッド幾何学では、「三角形の内角の和は180度である」は真」、「非ユークリッド幾何学では、「三角形の内角の和は180度である」は偽」と条件まで明記すれば、誰一人否定することのできない客観的な真理となるからです。

 「物理学」も似ています。理論の中に「公理」および「定理」を導出する過程が明記されているからです。「公理」の部分は《演繹的》には証明できないので、理論が完成しただけではただの仮説です。しかしその理論が、自然界の物理現象をことごとくうまく説明できるようであれば、この「公理」は正しいらしいということが《帰納的》に証明されていきます。とは言え、反駁可能性は永久に残り続けるため、決して「絶対的真理」に到達することは無く、「暫定的真理」に留まります。「間違いが見付かれば、いつでも改めます」という謙虚な態度を取っているのが科学であり、だからこそ信頼できるのです。

 「「正しい」とは「絶対平等を希求する心、差別的意識の完全撤廃と言うこと」である」(=A)と、「「正しい」とは「他人より自分を優先して自分が幸福になること」である」(=B)も同様です。どちらも「絶対的真理」ではありません。どちらを適切と見なすかは、個人の好みで選んで良いのです。それなのに、「Aこそが正しくてBは間違いだ」などと傲慢な態度を取ってしまうと、それこそが「宗教」になってしまいます。しかも「好ましくない宗教」です。自分の宗教だけが唯一正しく、他の宗教はすべて間違いだと決め付け、自分の考えを相手に押し付け、受け入れない人を侮辱し軽蔑し、宗教戦争につながってしまいます。

 SumioBabaは《相対主義》を支持すると書きました。この立場だと、「絶対的真理など存在しない」「だから人それぞれいろんな考えが有って良いのであり、自分の考えを他人に押し付けてはいけない」こそが「物事の理」となり、それを悟ることが「知恵・智慧」です。もっとも、これはこれでSumioBabaのドグマ(独断・偏見)に過ぎないので、他人にまで押し付けるつもりは有りません。SumioBabaはBを支持しますが、だからといって「Bが正しくてAは間違いだ」とは言いません。AもBも、支持したい人は好きな方を支持して良いと思います。

 哲人たちの代弁者さんは、もしかして《絶対主義》ですか?

2ヶ月前 No.109

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>108  哲人たちの代弁者さんへ

>SumioBabaさんの書かれた《人間の行動原理》はSumioBabaさんの行動原理で有って他の人々には当てはまりません。

>お年寄りやお子様ずれ、そして弱い方たちに席を譲る場合は無意識のうち、反射的に体が動きます。

>物事の全てを点数計算をするのはSumioBabaさんくらいで珍しい方です。

>自分がそうだから、と言って自分の物差しで他人を計るのは間違いです。


 SumioBabaのいう《人間の行動原理》=「自分の利益を最大にする行為を選択する」は、「選択する」という言葉が含まれている通り、「人間がどういう行為をするか自由意志で選ぼうとするとき、」という条件付きの話ですね。無意識のうち反射的に体が動く場合は、そもそも選択していないのだから、確かに適用外だと思います。
 しかし、ある行為を「する」か「しない」か自由意志で選択する場合に限定すれば、《人間の行動原理》は極めて一般的に成立します。殆どの人は数値化まではしないでしょうが、「する」と「しない」のうち自分の利益をより大きくすると思う方を選んでいるという点では誰もが一致しており、例外は無いはずです。
    【質問】
 哲人たちの代弁者さんの考えでは、人間がある行為を「する」か「しない」かを選ぶ場合、どうやって判断するのですか? それとも、「すべての行動が無意識のうちに反射的に体が動いているのであって、自由意志など存在しない」とお考えでしょうか?(そういう考えも有り得るとは思いますが)

2ヶ月前 No.110

地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>109
定義域の問題もありますね。死にかけの人や、弱い人は、どうぞ助けを求めて下さい、そして利己的に、電車の席に座って下さい。
強い人は、譲ってあげて下さい、人助けの倫理を採択して下さい。
これが、ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の、第五公理をどちらに選ぶか、という問題に対応しています。
これらを合わせて、「共生」という考え方で良いのだと思いますよ。

もちろん、数学はゲーデルの不完全性定理に見る様に、ある範囲では真偽を決められません。一方である範囲では完全性定理が成り立ち、ツェルメロ・フレンケルの集合論が成り立ち、プロログなどの論理数理言語が実用に役立っています。

私は、哲学と数学の間の、「論理」も、「正しい」と思うので、ここも良く調べて行きたいです。
数学はほとんどの場合、大きさ1を定義できず、相対的な関係を定義していますが、私の調べた結び目理論では、キュリーポイントの温度を実際に数値として定義できている様です。超弦理論なども、重力子の大きさの範囲を定義できているそうなのです。何故数学で物理的な大きさが定義できて、相対的なものを超えられるのか、まだ解りませんが、何時かは理解したいと思います。

2ヶ月前 No.111

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

お年寄りに席を譲るという行為が純粋な意志に基づくものなのかどうかということは外的に判断することはできない。もしかしたら、良いことをしている自分に酔っていたのかもしれないし、周りからの賞賛を得たかっただけかもしれないという可能性は考えられる限り考えられる。
それゆえ、お年寄りに席を譲るという行為は無価値ではないが誰もがすべきである「実質的な価値」を含まない。

私にとって善であることと私たちにとって善であることとは区別して考えるべきだろう。「人間の行動原理は利己的である」という主張は、「疑わしい主張者自身によって主張されたものである」という点において疑わしいが、少なくとも「徳を積む」ということが利己的であることに関しては同意できる。徳を積むこともお金を貯めるということも、自分にとっての価値を前提としているという点においては同じことだからだ。

なお私もそうだが、ここでの利己的という言葉はあくまでも「個人の価値に基づいて行動する」という意味として用いる。自分さえよければ良いという自己中心的な意味での利己的という言葉とは区別されるものだ。

2ヶ月前 No.112

ひろ @ponchi10 ★iPhone=hA8n0Tulbr

ちなみに私のこの発想は、「徳の倫理学」というものの体系の着想を得ているのだろうと思われる。徳倫理学については詳しくないからなんとも言えないのだが、「誰にとっても善である」ことは果たして「私にとっても善」でありえるかどうかという問題は徳倫理学の中でも問題となっている問題だ。

2ヶ月前 No.113

哲人たちの代弁者 ★f6OjqxJXNT_8gk

SumioBabaさん

〉広辞苑における「知恵・智慧」の定義自体は、特に問題は無いように思います。重要なのは「物事の理」とは具体的にどういう内容か、でしょうね。

つまり、「知恵・智慧」の定義の前半分は意味が分からない、と言うことですね。
ですが、前半分の意味が分からなければ後半の言葉につながりませんよ。
大問題ですよ。

「知恵・智慧=物事の理を悟り、適切に処理する能力」
私 物事の理を悟ることで「人類が抱える全ての問題を適切に処理する」能力(知恵・智慧)を得れる。
言い換えれば、物事の理を悟らなければ誰も(知恵・智慧)を得れない、と言うことです。
物事の理を悟らぬのに(知恵・智慧)を使えると思いこむ(バカの壁)と言うことです。

人類の脳は物事の理を悟ることで正しく始動します。
哲学とは物事の理を悟る方法を模索する学問の一種です。
智恵無し頭で、何を考えても仕方がありませんので物事の理を悟ることに専念することですね。

2ヶ月前 No.114

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>105  地下水さんへ

>なるほど、戦争を止めて、平和を維持しようとする、人間的な動機付けや、平和を維持したくなる、方法を考え出す必要があるのですね。

>第二次世界大戦の戦争の後の戦災の映像を見せたり、東北津波の様な大災害の後の被害の映像を見せたりして、戦争は嫌だ、平和が良いと、考えさせるのはどうですか。

>ボブディランの風に吹かれてや、サイモン&ガーファンクルのスカボロフェア、ジョンレノンのワーイズオーバー、チャップリンの史上最高のスピーチ、

>ウィアーザーワールド等の音楽やスピーチなど、シンドラーのリストなどの映画などを、聴かせたり観せたりしてはどうでしょうか。

>戦争に対する、怒りや悲しみ、地球人としての同朋意識が持てるのではないでしょうか。


 はい、そういうことです。どれも在り来たりな方法ではありますが、まだまだ十分行き届いていないと思われるので、もっともっとやった方が良いでしょうね。

 我々の社会は資本主義社会なので、一番効果的なのは、世界平和を商売にできないか、という発想だと思います。世界平和に貢献する企業がどんどん利益を上げられるようなシステムが作れれば、競って世界平和実現を目指す企業が現れ、あっという間に世界平和は実現するのではないでしょうか?
 にも拘らず、それは実現していません。世界平和を目指そうとすると、利益を上げられるどころか、損をしてしまうのが現状です。変ですよね。資本主義社会では、本当に社会にとって必要な仕事は必ず誰かがやってくれるはずです。労働者が不足していれば、給料を上げてでもやって欲しいという人が必ず現れ、労働者を増やせるはずです。労働者が余っていれば、給料は下げられ、労働者も減らせるはずです。そうやって、需要と供給のバランスを、神の見えざる手で見事に調整できるのが、資本主義社会の利点だったはず。それなのになぜ、世界平和の実現だけはうまく行かないのでしょう?
 答は1つしかないように思います。→《答》=「世界平和は、社会に必要とされていないから」。「世界平和を実現しましょう」という綺麗事は、人々のタテマエに過ぎないように思われます。「世界平和のために自分が犠牲になるなんて、まっぴら御免だ」「むしろ、自分よりも不幸な人が居てくれた方が安心する」というのが人々のホンネなのではないでしょうか?

2ヶ月前 No.115

地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>115
兵器産業ですか。米国の4人に1人が現在も何らかの形で軍需産業に関わっているという、全く酷い現実ですね。
日本は検地刀狩りが太閤さんの時代に済んで、将軍さんの時代が続いて、鎖国平和のシステムが出来上がっていますね。
しかし米国は、ライフル協会などが実権を握っていて、銃が普及し、法律もそのままで、銃で身を守ろうという風潮が続いている。
米国が世界に情報を発信しているから、軍事や銃社会の風潮が、世界にスタンダードとして広まってしまっていますね。
米国の映画もコミカルで好きですが、決して安全なものばかりではない。米国の音楽はとても良いと思いますが。

銃規制では、日本が最も優れた国家ですので、世界に日本の良さを発信していかなければならないですね。
銃で身を守って、殺し合わなくても、安全な社会は実現できるのだ、むしろ安心で住み易いのだと。


世界平和の為に犠牲というのは、語弊がありますね。むしろ犠牲が無い方が、資源も環境も生活インフラも無駄にならずに、世界平和に役立ちますから、逆ですね。戦争は本当に、環境破壊で、資源を急速に消費破壊して、経済をひっ迫させますからね。


この延長線上で考えれば、不幸な人が少ない方が、自分も住み良い社会になる事が解りますね。
例えば、予防医学が発達して、健康年齢が高く、ピンピンコロリの社会の方が良い。今国家予算の半分近くが福祉で、国家予算を圧迫しており、次世代ににも負担をかけており、寝たきり老人の年金などに使われています。
予防医学がもっと発達して、健康な社会になれば、社会負担が減って、住み良くなりますね。

駅前にお乞食さんがゴロゴロしている様な社会は、不安で治安が悪く、こころ苦しく、住みにくいですから、そうでない方が良いですよね。

世界に銃が無く、テロが無く、戦争が無ければ、もっと貿易も交流も観光も自由に心置きなくできて、住み良い地球になりますよね。

2ヶ月前 No.116

地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>115
相手を殺してでも、自分は安全でいたいという、危険な銃社会のストレスは、息苦しいと思いますよ。

2ヶ月前 No.117

地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>115
あっ、そうですね、魚や鶏や玉子や牛や豚も、食い物にして殺して命を頂いていますね。
魚みたいな人が居たら、上手く釣り上げて、食い物にしているかもしれませんね。お客は魚だみたいな。
鶏みたいな人が居たら、金の玉子を産む鶏だなんちゃって、血の出る様な労働から、搾取し続けているかもしれませんね。
牛みたいな人が居たら、しんどい肉体労働をかわりにやってちょ、なんて虫のいいことを言って、使いまわしているかもしれませんね。
豚みたいな人が居たら、殺して財産をぶんどって、知らん顔をしているかもしれませんね。次はこいつだ、なんちゃって。

そういわれてみれば、他力本願って、虫がいいかもしれませんね。搾取階層もいますよね、資本主義ですから。

2ヶ月前 No.118

哲人たちの代弁者 ★umnCvrSFYF_8gk

正しいとは、理に準ずることのみ。
残りは、決めごとに合うことを正しいと言っているだけ。
つまり、決めごとの正誤は関係なし。

莫迦でも分かる、哲学の初歩。

2ヶ月前 No.119

地下水 ★lHRYPNADL9_iR4

>>119
人間ならば理性や理想や理念があります。人間関係には義理があります。

理を学ぼうと思ったら、理学部に進むことになります。合理的で推理できるものが大事になります。
理学部では、数学、物理、化学、生物、地学を主に学ぶことになります。正確な理論を学ぶことになります。
数学では公理や定理や論理や有理数を学びます。物理では原理を学びます。
また医学部などで生理学を学ぶことになります。理学療法もありますね。
心理学もありますね。
家庭では料理や調理や修理が必要です。整理や理容も要りますね。
地理学もありますね。田園には条理があります。
経営工学にも、経理、管理、情報処理などがありますね。会社では理事や理財が大事です。討論では理由が大事です。

一方で、正しい事を学ぶには、法理学等の審理、倫理の分野もあります。

2ヶ月前 No.120

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>116  地下水さんへ

>兵器産業ですか。米国の4人に1人が現在も何らかの形で軍需産業に関わっているという、全く酷い現実ですね。


 「兵器産業」は「戦争という火に油を注ぐ産業」であるのに対し、「世界平和産業」の方は全く逆で「戦争という火を消火し、怪我人や病人を助け、貧困で苦しんでいる人に人間らしい生活を送るための援助をする産業」です。そして、「兵器産業」の方は立派に産業として成立しているのに対し、「世界平和産業」の方は産業として成立することさえできない、というのが現実です。

 人々が本当に必要とし、求めているものであれば、立派に産業として成立すると思われます。例えば、人々が本当に必要と思う製品を企業が大量に作って売れば、多くの人々が喜んで買ってくれるだろうし、企業も大いに利益を上げ、さらに拡大し、産業として立派に成立するでしょう。逆に企業が、人々が望まない製品を大量に作って売ろうとしても、誰も買おうとしないし、企業も赤字で倒産してしまい、産業として成立しないでしょう。

 そして現実を見る限り、「兵器産業」は立派に産業として成立しているのに、「世界平和産業」の方は産業として成立していません。つまり人々は、タテマエでは「戦争は良くない」「世界平和を実現しよう」と綺麗事を言いつつも、ホンネでは「戦争は有った方が良い」「世界平和なんか実現しない方が良い」と考えているみたいだ、という話です。

>日本は検地刀狩りが太閤さんの時代に済んで、将軍さんの時代が続いて、鎖国平和のシステムが出来上がっていますね。

>しかし米国は、ライフル協会などが実権を握っていて、銃が普及し、法律もそのままで、銃で身を守ろうという風潮が続いている。

>銃規制では、日本が最も優れた国家ですので、世界に日本の良さを発信していかなければならないですね。

>銃で身を守って、殺し合わなくても、安全な社会は実現できるのだ、むしろ安心で住み易いのだと。


 そのへんも、難しい問題なのだろうと思います。各国民によって考え方も違うし、歴史的経緯も異なります。日本の銃規制の素晴らしさは、世界中の手本になると思います。大いに自慢したい点ですね。ただし、アメリカが日本の真似をしようとしても、おそらく上手く行かないのだと思います。結局、各国がそれぞれ最善と思う方法を選ぶべきです。銃規制1つを取っても、各国民の考え方は様々であり、何が最善なのか、簡単に1つには定まらないのです。日本のやり方は、外国人にあくまで参考までに見てもらうに留め、他国に押し付けるべきではありません。こういうのが《相対主義》です。

>世界平和の為に犠牲というのは、語弊がありますね。むしろ犠牲が無い方が、資源も環境も生活インフラも無駄にならずに、世界平和に役立ちますから、逆ですね。戦争は本当に、環境破壊で、資源を急速に消費破壊して、経済をひっ迫させますからね。


 何一つ犠牲にせず、世界平和を実現できれば、もちろんそれが最善です。しかし、現実問題としては、そううまくは行きません。何と言っても、世界平和実現のためには莫大な資金がかかりそうだ、という大問題が有ります。「そのお金、誰が出すの?」と問われたら、どう答えますか? 犠牲とはそういう意味ですね。
 『世界平和は実現するか。 Part2』スレッドで、権兵衛さんは世界平和実現のために国際支援団の設立を提案した上、活動のために100兆円必要だと推定し、日本人に50兆円の寄付を提案されています。日本国民1人あたり40万円になります。地下水さんは、世界平和実現のため、40万円を寄付しても良いと思われますか? YESと答える人は、日本人の何%くらいだと思いますか?

2ヶ月前 No.121

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>SumioBabaさん


本来のスレ趣旨からはズレでしまうかもしれないのですが、少しあなたの主張に対して、いちゃもんと言うか(笑)、批判をさせてもらいます。
というのも、あなたの相対主義について、あえて言いますとちょっと胡散臭い感じがぬぐえないからなんです。例えば、
>>109
>「「正しい」とは「絶対平等を希求する心、差別的意識の完全撤廃と言うこと」である」(=A)と、「「正しい」とは「他人より自分を優先して自分が幸福になること」である」(=B)も同様です。どちらも「絶対的真理」ではありません。どちらを適切と見なすかは、個人の好みで選んで良いのです。それなのに、「Aこそが正しくてBは間違いだ」などと傲慢な態度を取ってしまうと、それこそが「宗教」になってしまいます。しかも「好ましくない宗教」です。自分の宗教だけが唯一正しく、他の宗教はすべて間違いだと決め付け、自分の考えを相手に押し付け、受け入れない人を侮辱し軽蔑し、宗教戦争につながってしまいます。

>SumioBabaはBを支持しますが、だからといって「Bが正しくてAは間違いだ」とは言いません。AもBも、支持したい人は好きな方を支持して良いと思います。


という発言では、相対主義的な謙虚・寛容な態度を強調していますが、次のような箇所を読むと、「ん?」と違和感を覚えざるをえません。
>>103
>よく、「世界平和を実現しましょう」とか「他人の為に自分を犠牲にしましょう」とか綺麗事を並べ立てている人を見ますが、《人間の行動原理》に反する事を要求されても、誰も従わないと思われます。世界平和の実現を目指すのなら、あるいは、他人の為になる行為を求めるのなら、《人間の行動原理》に則り、人々がそうしたくなる方法を考え出す必要が有ると思われます


あなたは次のように述べています。
>そもそも《人間の行動原理》は、「自分の利益を最大にする行為を選択する」です。これに反するものは考えられません。


これは、あなたが自分の考えを唯一の真理とし、それに反する考え、例えば、
「自分の利益よりも人類全体の利益を優先して行為を選択しなければならない」
という理念に基づく考えを、机上の空論として否定するものではないでしょうか。
しかし,あなたの意見に従えば、あなたの言う《人間の行動原理》も本来一つの公理であって、絶対的真理ではないはずです。
にもかかわらず、あなたの以下の文言を見ると、むしろ絶対に正しい真理として主張されているようにしか受け取れないのです。

>そもそも《人間の行動原理》は、「自分の利益を最大にする行為を選択する」です。これに反するものは考えられません

>席を譲らない人も、席を譲る人も、本当は自分の利益を最大にする選択をしているだけです。そういう意味で人間は、根っから「利己的」なのです

>ある行為を「する」か「しない」か自由意志で選択する場合に限定すれば、《人間の行動原理》は極めて一般的に成立します。殆どの人は数値化まではしないでしょうが、「する」と「しない」のうち自分の利益をより大きくすると思う方を選んでいるという点では誰もが一致しており、例外は無いはずです。


上の引用の文言を見れば,どうも言行不一致の疑念をぬぐえないわけです。

私の理解では、あなたの言う相対主義に従えば、本来《人間の行動原理》というのも公理的な身分であって、政治・経済社会の成員としての「人間の行動を、自分の利益を最大にする行為を選択するもの」として捉える、そういう視点で人間行動を捉える、という一つの方法論的立場の原理のはずです。
そもそも、「人間の行動はすべて利己的である」とする時点で、通常の「利己的」「利他的」の区別は無意味化されています。
つまり、あなたの定義に従えば、普通の言葉の意味で利他的行為と呼ばれてしかるべきもの、例えば窮状にある他人を救うために自分の財産を投げうち、自分の命まで犠牲にして人を救ったような人でさえ、しょせんは自分の利益が最大になるための行為を行っただけ、ということになります。
これは既に通常の「利己的⇔利他的」という概念を無意義化しています。
だって、《人間の行動原理》によれば人間の行為は全部利己的行為であって,すなわち利他的行為はありえないわけですから。
したがって,むしろ人間行動を解析する上で「利他的」という概念を捨象していると言うべきでしょう。
つまり、「利己的」の意味を変えてしまっているのです。
《人間の行動原理》に反する例外はないだろうとSumioBabaさんは言いますが、そのように人間の行動を定義しているからそうなるだけであって、これ自体はなんら事実であったり、真理であったりというようなものではありません。
次の類比が適切かどうか確信はありませんが、例えば心理学についての研究方法を、例えば、心的状態を完全に脳の機能・状態に還元する、いわば方法的唯物論に似て、人間行動を、利益を最大限にする行為を選択するものとして捉えることに決め、その視点で人間の社会の政治的・経済的行動を捉えるというのが、本来のSumioBabaさんの立場だと思います。
その上で、世界平和を実現する立場・考え方はいろいろあるだろうけど、この《人間の行動原理》に基づいて捉えるべきである、と主張されればよいのではないでしょうか。
これは言わば,水星の近日点の計算にはユークリッド幾何学をベースにしたニュートン力学ではだめで、非ユークリッド幾何学をもとにした相対性理論じゃなきゃだめだと言えるのと同様だと思います。
例えば権兵衛さんの立場からは,現実社会をきちんととらえられず,平和実現の問題を分析するには《人間の行動原理》に基づいたSumioBaba理論でないとだめだ,というふうに。
そうすれば,相対主義的立場を採りつつ,自説の優越性を主張しても整合的であるように思われるのですが,どうでしょう?

何かうまく言えたかどうか自分でもかなり心もとないですが(笑)、理解できますかね?

で、ついでに述べておくと、このSumioBabaさんの《人間行動の原理》という視点は、「政治・経済的人間行動」を解析するための視点としては有効かもしれないけれども,倫理的行為についての考察については適切ではない、もう少し強く言うと、その原理で倫理的問題を論じるのは間違いである、というのが以前からの私の主張だということです。

2ヶ月前 No.122

地下水 ★lHRYPNADL9_zRF

>>121
そうですね、 >>105  や >>107  にある様に、芸術資源や言論活動や宗教資源などを活用して、平和や利他の精神を養う、平和活動を行っては如何でしょうか。

これらの技術や宗教に触れて思う事は、人間の行動原理と言うのは、利己的であるばかりでは無くて、それを超えるものを持ち合わせているという事です。
どれほど程度が異なればそうなるのか、その根源は何なのか、どの様に複合し構成すればそうなるのか、  >>105  や  >>107  に上げた芸術や宗教から紐解いてみて下さいませんか。

2ヶ月前 No.123

哲人たちの代弁者 ★AFpV8lGRrv_8gk

地下水さん

>>120
〉人間ならば理性や理想や理念があります。人間関係には義理があります。

義理は道理と同義ですが、上記は全て理に準ずる言葉です。
哲学は、論理という言葉(心)の法則的つながりを扱い、その他の諸学は理論を扱います。

知るも知識も智恵も全て理に準ずる言葉ですので、物事の理を悟らなければこれらを得ることはできません゜

2ヶ月前 No.124

地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>124
 論理というものであれば、まずそれはランダム・アクセス・ファイルに整理されました。それはテレビ画面の様なもので、電源の無い時は、何も表示しませんが、電源を入れると、全ての画面の点に対して、必要な色を表示し、全体として情報を表示することができます。コンピューターに於いては、データベースの様な役目もできます。また任意の論理を書いて、プログラムを瞬時に実行する事もできます。
 全く平等で整理され任意に何所でも瞬時に表示できるものが、基底論理として整理され、電子化され、実用化されました。
 これは基本的な集合論と同じです。
 コンピューターの基本的な記憶装置になりました。

 そしてその後、不完全性定理を避けて、完全性定理の範囲で論理を展開する為に、ツェルメロが論理木を考え、電子化し実用化されたプロログなどの論理数理言語があります。
 これは知識を木構造に整理し、知識データベースとして使われます。同類のものを親の下に枝としてぶら下げたり、幾つかの条件を満たすものをある集合の条件として判定に用いて仲間として書き込んだりできます。これは文法解析にも使えます。もっと簡単なものにもゲーム木がありゲームの理論に使われます。

 もっと一般的なものには、ネットワーク構造の流れ図もあります。電車の路線図などにも使えます。コンピューターや数理言語などのオートマトンという自動言語機械の構造そのものを記述することができます。コンパイラー翻訳装置やパーサー・ジェネレーター文法解析やレキシカル・アナライザー字句解析を記述する事ができます。

 さて、ここまでの論理は、記憶装置、知識情報装置、言語解析装置などに使われてきました。
 その上に哲学は、宗教や社会の問題や世界の記述を、論理的に解析しますので、それ以上の論理をソフトとして書き加える機能を持ちます。
 その中で倫理や法理、審理の様な社会機能の中にある構造は、基本構造とし取り出し、情報資産とする必要があります。

2ヶ月前 No.125

地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>124
 今コミュニケーション・ロボットとして思索され実用化されているのは、人間の個人や対人関係の心理面をシミュレートする事です。具体的に喜怒哀楽の基本などを電子化する事です。ここに倫理機能も書き込む必要があります。
 そしてもっと広く社会常識を心情として記述しないと実用上問題があり、実用化できない事も、ネットワーク上の人工対話サービスで露呈しました。直ちに「ヒットラーは偉い」と言ってしまった人工知能に批判の対話が殺到した為、大手ソフト会社はサービスを停止しました。
 世界認識や人間の心情の理解が、論理にも欠かせないのです。

2ヶ月前 No.126

哲人たちの代弁者 ★CKG8ElQJJG_8gk

地下水さん

理論で論理の解明は不可能です。
もしも論理を解明できたとすれば、そのコンビューターに「世界平和を実現する方法は」と打ち込めば即時に適切な答えがでるでしょう。
その答えが哲人たちと同じで有れば、論理が解明されている、と言えます。

理論は基礎を学ぶ、記憶することから始まりますが、論理は物事の理を悟ることで会得する心の作用です。
学ぶと悟るの違い、を知るにも知るという機能を内包した論理が必要です。

2ヶ月前 No.127

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>122  ザビビのふくろうさんへ

>>よく、「世界平和を実現しましょう」とか「他人の為に自分を犠牲にしましょう」とか綺麗事を並べ立てている人を見ますが、《人間の行動原理》に反する事を要求されても、誰も従わないと思われます。世界平和の実現を目指すのなら、あるいは、他人の為になる行為を求めるのなら、《人間の行動原理》に則り、人々がそうしたくなる方法を考え出す必要が有ると思われます

>あなたは次のように述べています。

>>そもそも《人間の行動原理》は、「自分の利益を最大にする行為を選択する」です。これに反するものは考えられません。

>これは、あなたが自分の考えを唯一の真理とし、それに反する考え、例えば、「自分の利益よりも人類全体の利益を優先して行為を選択しなければならない」という理念に基づく考えを、机上の空論として否定するものではないでしょうか。

>しかし,あなたの意見に従えば、あなたの言う《人間の行動原理》も本来一つの公理であって、絶対的真理ではないはずです。

>にもかかわらず、あなたの以下の文言を見ると、むしろ絶対に正しい真理として主張されているようにしか受け取れないのです。


 説明不足だったようですみません。SumioBabaにおいて《人間の行動原理》=「人間がどういう行為をするか自由意志で選ぼうとするとき、自分の利益を最大にする行為を選択する」はトートロジーだと見なされます。だから、無矛盾な世界でさえあれば絶対的真理となり、例外は有り得ないことになります。

 ある行為を「する」か「しない」か、選択する場合です。「する」場合のメリットを+A、デメリットを−Bとすると、合計A−Bです。「しない」場合のメリットを+C、デメリットを−Dとすると、合計C−Dです。そして、A−B>C−Dなら人々は「する」を選ぶし、A−B<C−Dなら人々は「しない」を選びます。ただし、A、B、C、Dの値をどう評価するかは人それぞれの価値観によって変わるため、お年寄りに席を譲る人もいれば譲らない人もいます。

 「いや、自分はA−B<C−Dだけど「する」を選ぶ」と主張する人がよく居ます。しかしこの人の場合、「する」を選びたいという願望を満たすことによる精神的利益+Xを見落としているのであり、+Xを考慮すると、A+X−B>C−Dが成立しているはずです。そして本当は、このA+XをAと書く必要が有ります。つまり、A−B>C−Dであり、「する」を選ぶ人の場合は必ずA−B>C−Dが成立していることになります。こう考えると《人間の行動原理》に例外は有り得ないこととなり、トートロジーだと見なせます。一種の論点先取ではあります。決して例外が有り得ないように、「利益」という言葉の定義を拡張したのですから。

 例えば、風で木の葉が揺れている時、葉の「速度」だけ見ていると、どの葉もでたらめに動いているように見え、ついつい「法則など無い」と錯覚しそうです。しかし、「速度」+「加速度」にまで視野を広めて見れば、どの葉も「F=maという法則に従っている」のであって、例外は有りません。そんな感じです。《人間の行動原理》を考慮しなければ、お年寄りに席を譲る人もいれば譲らない人もいて、人々がどう判断しているのか不明になってしまいます。《人間の行動原理》を考慮すれば、譲る人も譲らない人も同一の原理に従っていることになるので、譲らない人が譲るようにするにはどうすれば良いか、という対策を立てられる利点が生じます。

>そもそも、「人間の行動はすべて利己的である」とする時点で、通常の「利己的」「利他的」の区別は無意味化されています。

>つまり、あなたの定義に従えば、普通の言葉の意味で利他的行為と呼ばれてしかるべきもの、例えば窮状にある他人を救うために自分の財産を投げうち、自分の命まで犠牲にして人を救ったような人でさえ、しょせんは自分の利益が最大になるための行為を行っただけ、ということになります。

>これは既に通常の「利己的⇔利他的」という概念を無意義化しています。

>だって、《人間の行動原理》によれば人間の行為は全部利己的行為であって,すなわち利他的行為はありえないわけですから。

>したがって,むしろ人間行動を解析する上で「利他的」という概念を捨象していると言うべきでしょう。

>つまり、「利己的」の意味を変えてしまっているのです。


 全くその通りです。しかし、そうすることによって初めて、お年寄りに席を譲る人も譲らない人も、実は同一の《人間の行動原理》に従っているのだと理解できます。そうしないと、なぜ人によって行動が異なるのか、行動原理そのものが人それぞれ異なるのか、解析不能になってしまいます。

>《人間の行動原理》に反する例外はないだろうとSumioBabaさんは言いますが、そのように人間の行動を定義しているからそうなるだけであって、これ自体はなんら事実であったり、真理であったりというようなものではありません。


 これも仰る通りで、「そのように人間の行動を定義しているからそうなるだけ」であって、それゆえにトートロジーだと見なせます。しかしそれによって、お年寄りに席を譲る人も譲らない人も、本当は同一の原理に従っている事が理解でき、譲らない人を譲るように変えるにはどうすれば良いか、対策が練れるという大きな長所が有ります。

>次の類比が適切かどうか確信はありませんが、例えば心理学についての研究方法を、例えば、心的状態を完全に脳の機能・状態に還元する、いわば方法的唯物論に似て、人間行動を、利益を最大限にする行為を選択するものとして捉えることに決め、その視点で人間の社会の政治的・経済的行動を捉えるというのが、本来のSumioBabaさんの立場だと思います。


 適切かどうかはよく解りませんが、共通点は有ると思います。お年寄りに席を譲る人と譲らない人、行動原理そのものが解らないと、なぜ行動が異なるのか、どうすれば行動を変えられるのかが、不明になります。本当は同一の原理に従っており、単にパラメーターの値をどう評価するかの違いだと見なせれば、統一的に記述できるし、適切な行動に変えるための対策も取れる訳ですね。

>その上で、世界平和を実現する立場・考え方はいろいろあるだろうけど、この《人間の行動原理》に基づいて捉えるべきである、と主張されればよいのではないでしょうか。


 はい、そのつもりです。

>これは言わば,水星の近日点の計算にはユークリッド幾何学をベースにしたニュートン力学ではだめで、非ユークリッド幾何学をもとにした相対性理論じゃなきゃだめだと言えるのと同様だと思います。

>例えば権兵衛さんの立場からは,現実社会をきちんととらえられず,平和実現の問題を分析するには《人間の行動原理》に基づいたSumioBaba理論でないとだめだ,というふうに。

>そうすれば,相対主義的立場を採りつつ,自説の優越性を主張しても整合的であるように思われるのですが,どうでしょう?


 仰る通りです。異論は有りません。

>で、ついでに述べておくと、このSumioBabaさんの《人間行動の原理》という視点は、「政治・経済的人間行動」を解析するための視点としては有効かもしれないけれども,倫理的行為についての考察については適切ではない、もう少し強く言うと、その原理で倫理的問題を論じるのは間違いである、というのが以前からの私の主張だということです。


 なるほど、お互いに譲れない点というものは有って当然ですし、その方が議論は面白くなりそうです。SumioBabaは、あらゆるものを、独我論の視点で捉えている傾向が有ると思います。そのへんのズレでしょうか。

2ヶ月前 No.128

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>127  哲人たちの代弁者さんへ

 今一つ、言葉の意味が理解できません。

>理論で論理の解明は不可能です。


 例えば「論理学」という学問がすでに存在し、「論理」とはどういうものかを理論体系としてまとめてありますが、これは「理論で論理の解明」をしたことにならないのでしょうか?

>もしも論理を解明できたとすれば、そのコンビューターに「世界平和を実現する方法は」と打ち込めば即時に適切な答えがでるでしょう。


 そうでしょうか? 「論理」とは例えば「同一律」「無矛盾律」「排中律」や、それらを使って「公理」を変形し、「定理」を導く過程を指します。「論理」を解明しただけでは、「世界平和を実現する方法は」に適切な答えなど導けないと思います。いかに「論理」を正しく使いこなせるコンピュータでも、何一つ「公理」を与えないまま「三角形の内角の和はいくらか?」と質問しても、答えは導けません。
 答を導かせるためには、「論理」に加え、「公理」が必要です。そして、何を「公理」として与えるかは恣意的だし、「公理」として何を与えるかで、導く答も異なるはずです。ユークリッド幾何学の「公理」を与えれば「三角形の内角の和は180度である」が「定理」として証明され、非ユークリッド幾何学の「公理」を与えれば「三角形の内角の和は180度でない」が「定理」として証明されるのと同じです。

 「論理」という言葉を、どういう意味で使っていますか? また、「物事の理」という言葉がよく出て来ますが、具体的な内容は何ですか? 「論理」だけを指しているのですか? 「公理」だけを指しているのですか? それとも「論理」と何等かの「公理」から成り、いつくかの「定理」を導ける真理体系を指しているのですか?
 ちなみにSumioBabaが支持する《相対主義》の立場だと、「絶対的真理など存在しない」「だから人それぞれいろんな考えが有って良いのであり、自分の考えを他人に押し付けてはいけない」こそが「物事の理」となり、それを悟ることが「知恵・智慧」です。

2ヶ月前 No.129

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>128 SumioBabaさん

私の述べたことに対して、基本的には肯定してもらえたようですね。
とすれば、その観点からまだひっかかるところを,さらに突っ込んで指摘させてもらいます。

>「いや、自分はA−B<C−Dだけど「する」を選ぶ」と主張する人がよく居ます。しかしこの人の場合、「する」を選びたいという願望を満たすことによる精神的利益+Xを見落としているのであり、+Xを考慮すると、A+X−B>C−Dが成立しているはずです。そして本当は、このA+XをAと書く必要が有ります。


ここで、「見落としている」「本当は」といった表現を使うのは、自分の立場を絶対化していると言われても仕方ないのじゃないでしょうか?
おかしな人がしゃしゃり出てきても困るのですが、例えばSさんという人が(笑)、道徳的行為の解析について、あなたと異なる「公(他者)の利益を自分の利益より優先する行為」とする行動原理を採用していたとすれば、お年寄りに対して席を譲った人に対する行動を、例えば自分が席を譲って立たねばならない不利益より、そのお年寄りが立ったままでいる不利益のほうが大きいので、席を自分が譲れば、その差の分が公の利益になるので譲るべきだから譲る、というふうにSさんは自らの行動を分析するでしょう。
このとき、彼が自分の「精神的利益を見落としている」と評価するのは間違いです。
「本当はそれを自分の利益として加え、その自分の得る利益が立つことによって被る肉体的不利益より大きいから彼は立ったとみなすべきである」というのは、自分の立場を絶対化しています。
Sさんは道徳的行為を利他的行為・利己的行為を対立する概念として用いてあなた異なる行動原理で説明しようとしているのであり、それはSさんの立場の原理なのです。
その立場では、肉体的不利益と精神的利益の対立軸を基準としてプラスマイナスを算定して行動の根拠とするやり方を採用していないだけです。
それは、「利他的行為」という概念を「利己的行為」という概念と対立する概念として行動の解析に用いるのではなく捨象してしまっているのがあなたの方法的立場であるのと同様であって、それだけでどちらが正しい、とは言えません。
あなたがSさんに「自分の得る精神的利益を見落としている」と言うのなら、彼だって「あなたこそ利己的行為(私的な利益)と利他的行為(公の利益)の区別を見落としている」と言うでしょう。
しかし、それらは立場・方法論の違いであって、どっちが見落としていたり、本当であったりするものではありません。
したがってその優劣は、それぞれの方法論の具体的問題に対する適用で、どちらが有効に働くかということで評価されるべきなのです。

どうもSumioBabaさんは、自分は相対主義者なので、自分の立場を絶対化して押しつけるようなことはしませんと物分かりのいいふりをしながら、実はこういったところで相手の立場を不当に否定しているように思いますね^^。

2ヶ月前 No.130

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

私がでしゃばるのもおこがましいのですが・・

哲学は論理を土台として土台を超えて飛翔してこその真理ですから・・

2ヶ月前 No.131

地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>129
 そうですよね。論理の方が基本的で、理論は公理や法則などを導入して論理展開して定理を導いたものなのに、 >>127 は倒錯してますよね。

 利他の精神と利己の精神は、いずれも利する事では同様です。社会一般では、利他の製品の内で或る物を作る為に高等な手段を導入して、経済的に比較的安価に単価を抑える事が可能となり、生産者も消費者も得をするという状態を、経済競争で誘導しています。
 しかし老人に席を譲ったり、線路に落ちた人を助ける人など、純粋に利他的な行動も認められます。

2ヶ月前 No.132

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>130  ザビビのふくろうさんへ

>ここで、「見落としている」「本当は」といった表現を使うのは、自分の立場を絶対化していると言われても仕方ないのじゃないでしょうか?


 例えば多数の木の葉が風で揺れている状況で、物理法則を個々の葉の「速度」だけで説明しようとすると、どんな法則が成立しているのか判らないと思われます。「本当は「速度」+「加速度」の範囲で法則が成立しているのだ」と考えて視野を広げれば、「F=maが成立している」という法則の発見につながります。それと同じだと思います。

>おかしな人がしゃしゃり出てきても困るのですが、例えばSさんという人が(笑)、道徳的行為の解析について、あなたと異なる「公(他者)の利益を自分の利益より優先する行為」とする行動原理を採用していたとすれば、お年寄りに対して席を譲った人に対する行動を、例えば自分が席を譲って立たねばならない不利益より、そのお年寄りが立ったままでいる不利益のほうが大きいので、席を自分が譲れば、その差の分が公の利益になるので譲るべきだから譲る、というふうにSさんは自らの行動を分析するでしょう。このとき、彼が自分の「精神的利益を見落としている」と評価するのは間違いです。


 この人の「利益」という言葉はSumioBabaの拡張した「利益」とは違う定義であり、それを間違いだというつもりは有りません。ただ、そういう行動原理の捉え方だと、席を譲らない人はその行動原理に従っていないことになり、その人のいう行動原理は席を譲る人にだけしか通用しないものとなってしまい、一般性を失ってしまいます。
 そこで「利益」の定義を拡張し、Sさんが見落としていた「精神的利益」をも利益に含めます。すると、席を譲る人も譲らない人も、実は同一の《人間の行動原理》に従っているとして、統一的な記述が可能になります。

>「本当はそれを自分の利益として加え、その自分の得る利益が立つことによって被る肉体的不利益より大きいから彼は立ったとみなすべきである」というのは、自分の立場を絶対化しています。


 「絶対化」しているのではありません。「利益」という言葉を狭義で用いていると、行動原理そのものが人それぞれ異なることになり、統一的な法則性が見付からなくなります。「利益」という言葉の定義を拡張すると、すべての人間が同一の《人間の行動原理》に従っていると見なせて、その方が分析方法として優れている、というだけです。

>Sさんは道徳的行為を利他的行為・利己的行為を対立する概念として用いてあなた異なる行動原理で説明しようとしているのであり、それはSさんの立場の原理なのです。

>その立場では、肉体的不利益と精神的利益の対立軸を基準としてプラスマイナスを算定して行動の根拠とするやり方を採用していないだけです。


 その通りです。別にそれを間違いだとは言いませんよ。ただ、その場合の行動原理は人それぞれ異なるものとなってしまい、誰にでも通用する原理としての一般性を持てません。

>それは、「利他的行為」という概念を「利己的行為」という概念と対立する概念として行動の解析に用いるのではなく捨象してしまっているのがあなたの方法的立場であるのと同様であって、それだけでどちらが正しい、とは言えません。


 どちらが正しいとは言いません。ただ、「利益」の定義が狭義だと法則性が見付からず、「利益」の定義が広義だと法則性が見付かる、というだけの違いです。

>あなたがSさんに「自分の得る精神的利益を見落としている」と言うのなら、彼だって「あなたこそ利己的行為(私的な利益)と利他的行為(公の利益)の区別を見落としている」と言うでしょう。

>しかし、それらは立場・方法論の違いであって、どっちが見落としていたり、本当であったりするものではありません。

>したがってその優劣は、それぞれの方法論の具体的問題に対する適用で、どちらが有効に働くかということで評価されるべきなのです。


 そうそう、まさにそれです。「どちらが有効に働くか」で評価されるべきです。で、どちらが有効に働きますか?

>どうもSumioBabaさんは、自分は相対主義者なので、自分の立場を絶対化して押しつけるようなことはしませんと物分かりのいいふりをしながら、実はこういったところで相手の立場を不当に否定しているように思いますね^^。


 相手の立場を否定したつもりは全くないのですけどね。ただただ、「利益」の定義が狭義だと法則性が見えなくなってしまい、「利益」の定義を広義に拡張すればすべての人間が実は同一の《人間の行動原理》に従っていることが理解できますよ、と主張しているだけですけど。

2ヶ月前 No.133

哲人たちの代弁者 ★GnAJqG6daL_8gk

SumioBabaさん

理論は物事の物を扱い、論理は物事の事(心)で思考の形式や法則を意味します。
公理とは物を扱いやすくする為、理論上の決めごとです。
理論は考えられたもの、論理は存在するもの。
従って、理論で論理の解明は不可能です。

論理は思考の形式や法則・思考の法則的なつながり、と言う意味です。

「物事の理」の物事とは物心の全てを指し、理(り・ことわり)は「物事の理非を分かち定める意から。断り」を指す。

理論は基礎を学ぶ、記憶することから始まりますが、論理は物事の理を悟ることで会得する心の作用です。
学ぶと悟るの違い、を知るにも知るという機能を内包した論理が必要です。
意味から作られる言葉の意味を勝手に変えぬように。

2ヶ月前 No.134

哲人たちの代弁者 ★UTW2MUaOeN_8gk

地下水さん、
〉そうですよね。論理の方が基本的で、理論は公理や法則などを導入して論理展開して定理を導いたものなのに、 >>127 は倒錯してますよね。

論理は決まりごとで理論は決めごとです。
従って、決めごとの理論で決まりごとの論理は扱えません。

2ヶ月前 No.135

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>133 SumioBabaさん

>>したがってその優劣は、それぞれの方法論の具体的問題に対する適用で、どちらが有効に働くかということで評価されるべきなのです。


> そうそう、まさにそれです。「どちらが有効に働くか」で評価されるべきです。で、どちらが有効に働きますか?

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
繰り返しになりますが、私の主張を受け入れるのであれば、結果としてあなたの立場が有効であり、他方が有効でなかったとしても、「本当は」とか、「見落としている」と言うべきではありません。こちらは意図的にそういう方法論を採っているからです。

>>Sさんは道徳的行為を利他的行為・利己的行為を対立する概念として用いてあなた異なる行動原理で説明しようとしているのであり、それはSさんの立場の原理なのです。

>>その立場では、肉体的不利益と精神的利益の対立軸を基準としてプラスマイナスを算定して行動の根拠とするやり方を採用していないだけです。


> その通りです。別にそれを間違いだとは言いませんよ。


いやいや,明らかに言ってますよね(笑)
「見落としている」=「考慮に入れないのは間違い」
本当は根っから利己的=利他的とするのは間違い,
ってことなんだから。

>「絶対化」しているのではありません。「利益」という言葉を狭義で用いていると、行動原理そのものが人それぞれ異なることになり、統一的な法則性が見付からなくなります。「利益」という言葉の定義を拡張すると、すべての人間が同一の《人間の行動原理》に従っていると見なせて、その方が分析方法として優れている、というだけです。

>ただ、その場合の行動原理は人それぞれ異なるものとなってしまい、誰にでも通用する原理としての一般性を持てません。


そんなことありません。
あなたは、「F=maが成立している」という法則が見出しうる立場に自らの立場をなぞらえて、自分の方法論のみが問題を正しく解析しうるものであるということを先取り前提して、別の方法論の理路を理解することもなく、間違っていると断じているのです。
あなたの説明でも、席を譲る人と譲らない人は、その当人にとっての精神的利益と身体的利益の評価(重要度)の違いで説明することになるでしょう。
S式では、公的利益(利他的・義務的価値評価)と個人的利益(利己的・欲望的価値評価)との、各人にとっての重みづけの違いで説明されます。
平たく言えば、道徳意識の高い人と、そうでない人ですね。
あなたの行動解析の原理がいわば個人的利益(欲望)一元論であるのに対して、こちらの行動解析の原理は公的利益(義務感)と個人的利益(欲望)の二元論的なものだということです。
行動原理が人それぞれで異なるのではありません。
譲る人は利他心(道徳心)が利己心より高いから譲る、ということです。
あなたの場合は、精神的利益が高いから譲ると説明するわけです。
つまり、説明原理が異なるだけなんですよ。
あなたは「利益」という概念に還元して一元論的にとらえるから、そのために「精神的利益」という概念を導入しますが、
こちらの二元論的立場からすれば、あなたの原理の基本要素である精神的利益というのは、利他的利益(義務的価値)に還元されるわけです。

で、どちらが有効なのか、ということは、その対象となる問題によって異なるというのが私の言っていることです。
あなたが強調される法則性、一般性自体の有意義性(価値)自体、対象となっている問題がどういうものであるかによって異なります。
例えばこのスレのテーマのように、いかにすれば世界平和が実現するかという問題を政治的・経済的問題として解決しようとする場合、あなたの立場は有効かもしれません。
それは現実としてどのような対策をとれば実現可能か、有効な手段は何か、目的達成のためにはどうすべきか、といったことが問題になるのであって、それは「事実学」の問題です。
しかし、人間社会はどうあるべきか、道徳教育はどうあるべきか、社会正義とは?といった、人間の生活世界の意義、価値に関するような問題は、単なる事実学ではなく当為を扱う倫理学や正義論として論じられます。
こういった問題は政治的・経済的問題以前に、その基礎・前提として必要となってくる問題であり、このような場合、すべてを個人的利益に還元してしまうあなたの方法論は有効とは必ずしも言えません。それは以前にも議論しましたよね。
あなたの方法は、目的達成のための“手段としての「べき」”を追求する上では有効であろうと思いますが、
“当為としての「べき」”の問題を論じる上では有効とは言えません。
平たく言いますと、人間の行動原理を個人的最大利益の選択として捉えることは、人間の行為を欲望充足(〜したいから、する)として捉えることです。
それは倫理的行為のような規範順守行為(〜すべきだから、する)を、その意味において正しく捉えることはできません
行為の価値・意義が本質的に重要なこういった倫理的問題のような場合は、それをいわば行為の欲望一元論的解釈でとらえるのは不十分・不適切なのです。
例えば、端折りますが、あなたの考えでは平和が実現しないのは、それが多くの人にとって不利益であり、実のところ望んでいないからだ、といった分析をされていましたよね。
それが当たっていようとどうであろうと、そこから「しかし、我々は平和を目指すべきである」は絶対に出てきません。
政治的・経済的社会をどう変革していくことが平和実現の方法として有効なのかという問題と、平和実現を可能となるような社会にするために、人間教育・道徳教育はどうあるべきか、といった問題は別の問題として論じる必要があるでしょう。後者の問題を扱う場合に、あなたの方法論は有効ではありません。

また、これは私のちょっとした推測に過ぎませんが、倫理的ロボット、つまり、道徳心をもったロボット、主体的に道徳的判断のできるロボットを作ろうとする場合、ロボットはその内に利他的価値評価機構と利己的価値評価機構の両方を備え、その行為を選択する意思決定システムは、それら二つの価値評価を総合評価して行為を決定するものになるのではないか、といったふうにも考えます。つまり,道徳的ロボットの行動選択の意思決定システムは,このような二元論的価値評価機構を有するものになるのではないか,と思うのです。もちろんこれは私の単なる推測ですが。(人工知能やロボットに関する専門的知識を有する人がおられたら意見を聞かせてほしいです)

以上、私が挙げたような例が妥当か否かは断定しませんが、少なくとも、SumioBabaさんの立場も、いついかなる問題に対してもそれのみが一般性をもって有効な問題究明の方法となる、とみなすことはできないでしょう。
ところが、あなたは、一般性をもつのは自分の立場だけだという確信があって、それを前提に語っているわけです。
これまでのSumioBabaさんの発言を見ていると、いかなる問題についても、有効な人間の行動原理の規定は自分のものしかない、という独断前提感がありありと感じられるのですが、それは私だけでしょうか?(笑)
「いやいやあなたの立場を間違いと言ったり、否定したりしませんよ」と物分かりのいいことを言いつつ、自分の原理のみが有効だと考えているのなら、事実上相対主義じゃないんじゃないの?って普通だれでも思うんじゃないですかね。
前にも言ったような気がするんですが、SumioBabaさんは、相対主義者でありながら、今回もそうですが、相手の立場に立って考えることはほんとのところあまりないと思うんですよね、それで理論的有効性が自分のほうにのみあると即断前提しちゃってる気がします^^

それと、立場を規定する公理的言明の論理的身分に対する理解に関してですが、私の批判に対してあなたはトートロジーとして釈明されましたが、これについてもあなたの理解に対して納得していません。
実は、その理由となっているのが、ここでの問題というより、直接的には別スレの、
http://mb2.jp/_grn/2204.html-566#a
におけるあなたの宗教についての発言に関してなのですが、今は措きます。

2ヶ月前 No.136

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>130  ザビビのふくろうさんへ

>おかしな人がしゃしゃり出てきても困るのですが、例えばSさんという人が(笑)、道徳的行為の解析について、あなたと異なる「公(他者)の利益を自分の利益より優先する行為」とする行動原理を採用していたとすれば、お年寄りに対して席を譲った人に対する行動を、例えば自分が席を譲って立たねばならない不利益より、そのお年寄りが立ったままでいる不利益のほうが大きいので、席を自分が譲れば、その差の分が公の利益になるので譲るべきだから譲る、というふうにSさんは自らの行動を分析するでしょう。


 仮にBさんが、自分は逆に「自分の利益を公(他者)の利益より優先する」という行動原理に従っているから席は譲らない、と主張したとします。すると、SさんとBさんとは行動原理そのものが異なることになります。そして、行動原理なんて人それぞれ異なるので、統一的に記述できない、となってしまいます。

 そこでSumioBabaが提案したように、「利益」の定義を拡張します。どんな行動を「する」場合も「しない」場合も、それに伴うあらゆるメリット・デメリットを合計したものを拡張された「利益」と見なせば、すべての人間はこの拡張された「利益」を最大にする行為を選択していると見なせます。すべての人間が同一の《人間の行動原理》に従っている、と見なせる訳です。

 「自分が絶対に正しくて、それ以外はすべて間違いだ」とは主張していません。しかし、「今、この問題について考えるとき、貴方の考え方より私の考え方の方が優れているんじゃないか?」は、堂々と主張してますよ。

>>136  ザビビのふくろうさんへ

>あなたの説明でも、席を譲る人と譲らない人は、その当人にとっての精神的利益と身体的利益の評価(重要度)の違いで説明することになるでしょう。

>S式では、公的利益(利他的・義務的価値評価)と個人的利益(利己的・欲望的価値評価)との、各人にとっての重みづけの違いで説明されます。

>平たく言えば、道徳意識の高い人と、そうでない人ですね。


 だったらそれは、本質的にSumioBabaの言う《人間の行動原理》と等価なものになります。
  >>130 ではSさんの行動原理は「公(他者)の利益を自分の利益より優先する行為」だったはずです。だいぶ変わってしまいましたよ? SさんがSumioBabaの長所を取り入れて、自分の考えを改良してくれたのなら大歓迎ですが。

>あなたの行動解析の原理がいわば個人的利益(欲望)一元論であるのに対して、こちらの行動解析の原理は公的利益(義務感)と個人的利益(欲望)の二元論的なものだということです。

>行動原理が人それぞれで異なるのではありません。

>譲る人は利他心(道徳心)が利己心より高いから譲る、ということです。

>あなたの場合は、精神的利益が高いから譲ると説明するわけです。

>つまり、説明原理が異なるだけなんですよ。

>あなたは「利益」という概念に還元して一元論的にとらえるから、そのために「精神的利益」という概念を導入しますが、

>こちらの二元論的立場からすれば、あなたの原理の基本要素である精神的利益というのは、利他的利益(義務的価値)に還元されるわけです。


 改良されたSさんの行動原理はその通りですね。だってSumioBabaの《人間の行動原理》と内容的には等価なのですから。でも、Sさんの行動原理が >>130 だったら、あからさまにBさんの行動原理とは異なりますね。そして、「人それぞれ行動原理そのものが異なる」「他人がどんな行動原理に従っているのか一般には不明」となってしまいます。

>で、どちらが有効なのか、ということは、その対象となる問題によって異なるというのが私の言っていることです。

>あなたが強調される法則性、一般性自体の有意義性(価値)自体、対象となっている問題がどういうものであるかによって異なります。

>例えばこのスレのテーマのように、いかにすれば世界平和が実現するかという問題を政治的・経済的問題として解決しようとする場合、あなたの立場は有効かもしれません。

>それは現実としてどのような対策をとれば実現可能か、有効な手段は何か、目的達成のためにはどうすべきか、といったことが問題になるのであって、それは「事実学」の問題です。

>しかし、人間社会はどうあるべきか、道徳教育はどうあるべきか、社会正義とは?といった、人間の生活世界の意義、価値に関するような問題は、単なる事実学ではなく当為を扱う倫理学や正義論として論じられます。

>こういった問題は政治的・経済的問題以前に、その基礎・前提として必要となってくる問題であり、このような場合、すべてを個人的利益に還元してしまうあなたの方法論は有効とは必ずしも言えません。それは以前にも議論しましたよね。

>あなたの方法は、目的達成のための“手段としての「べき」”を追求する上では有効であろうと思いますが、

>“当為としての「べき」”の問題を論じる上では有効とは言えません。

>平たく言いますと、人間の行動原理を個人的最大利益の選択として捉えることは、人間の行為を欲望充足(〜したいから、する)として捉えることです。

>それは倫理的行為のような規範順守行為(〜すべきだから、する)を、その意味において正しく捉えることはできません

>行為の価値・意義が本質的に重要なこういった倫理的問題のような場合は、それをいわば行為の欲望一元論的解釈でとらえるのは不十分・不適切なのです。

>例えば、端折りますが、あなたの考えでは平和が実現しないのは、それが多くの人にとって不利益であり、実のところ望んでいないからだ、といった分析をされていましたよね。

>それが当たっていようとどうであろうと、そこから「しかし、我々は平和を目指すべきである」は絶対に出てきません。

>政治的・経済的社会をどう変革していくことが平和実現の方法として有効なのかという問題と、平和実現を可能となるような社会にするために、人間教育・道徳教育はどうあるべきか、といった問題は別の問題として論じる必要があるでしょう。後者の問題を扱う場合に、あなたの方法論は有効ではありません。


 この点は同意します。SumioBabaの言う《人間の行動原理》も、適切な場合と不適切な場合は有ると思います。ただ、ここは世界平和の実現をテーマとするスレッドです。そして、「倫理的に正しいことは誰もが実行しようと努力すべきだ」なら解ります。ところが、綺麗事だけで世界平和が実現するかのように勘違いしている人がいます。「倫理的に正しい事は誰もが実行するはずだ」と結論してしまっている人もいます。だからこそSumioBabaは、こう指摘した次第です。→「人間は基本的に、自分の利益を最大にするという《人間の行動原理》に則って行動しているのだから、いくら理想論ばかり並べても、《人間の行動原理》に反しているようであれば実現しないのではないか?」

2ヶ月前 No.137

地下水 ★otncK03kC4_zRF

バートランド・ラッセルに従って、事実の観察をしましょう。
例え事実の観察から、不都合な真実が導かれても、忠実に考え続けましょう。
決して自分がそうあって欲しいという欲目から、話を曲げない様に。

例えばエアコンです。この電気代は高い。多くの熱源を使っています。他の家庭用品とは異なり、桁違いにエネルギーを消費します。
さらに車です。運転する人は直ぐに分かりますが、更に桁違いのガソリンを消費しています。有害な排気ガスの量も桁違いに多いです。マフラーに顔を近づければ、間もなく窒息する事でしょう。少し計算すれば分かりますが、一台の車は一万人の人が走っているよりも多くの酸素を消費します。今、統計によると日本には一億人の人が居り、多くの家庭が車を持っていますし、企業は更に大きなトラックやバスを走らせています。先進国は10億人よりも多いです。世界では車も十億台以上走っているそうです。一兆人以上の酸素を消費していますし、有害な排気ガスを出していますので、如何に環境悪化の大きな原因となっているのでしょうか。
また後進国の下水の垂れ流しも酷いです。どれ程水質や土壌を汚染しているのでしょうか。これは今は先進国は下水処理場で浄化しています。排気ガスも集中管理で先にエネルギー源を作っておいて、その工場で先に排ガス処理をしておく必要があるのです。排ガスを出さないソーラーなどのエネルギーから得られた電気などが動力源であれば、更に環境負荷が下がります。いったい何桁ほど環境負荷が下がるのでしょうか。

この様なエネルギーと汚染の問題を解決しなければ、環境汚染と資源の枯渇によって、いつ頃どれ程の生存環境の奪い合いが起きて、平和が損なわれるのでしょうか。

2ヶ月前 No.138

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>134  哲人たちの代弁者さんへ

 ますます解らなくなってきました。

>理論は物事の物を扱い、論理は物事の事(心)で思考の形式や法則を意味します。


 「理論は物事の物を扱い」がまず意味不明です。物理学の理論は確かに「物を扱い」ですが、心理学の理論は「心を扱い」だし、論理学の理論は「論理を扱い」だと思うのですが、違いますか? そして、理論を作るためには、これだけは証明なしに真だと仮定する「公理」が必要です。そしてその「公理」を変形し、様々な「定理」を証明する過程が「論理」だと思うのですが、違いますか?

>公理とは物を扱いやすくする為、理論上の決めごとです。


 そう、「公理」とは、証明なしにこれを真だと仮定してみよう、と定める命題ですね。それが正しいという証明はできません。証明しようとしても無限後退するだけです。だからその「公理」を、その「公理」の否定で置き換えた公理系も、一般に可能な訳です。ユークリッド幾何学の「公理」(第1公準〜第5公準)のうち、第5公準をその否定で置き換えても無矛盾な幾何学が作れるのであり、それが非ユークリッド幾何学ですね。

>理論は考えられたもの、論理は存在するもの。


 どう違うのでしょう? 物理理論は確かに「考えられたもの」であり、それで自然界をうまく説明できれば、正しいらしいと見なされるものです。論理法則の方も「同一律」「無矛盾律」「排中律」などが考えられており、これも「考えられたもの」のように思うのですが、「存在するもの」とはどういう意味なのでしょう? 例えば「排中律」は、論理体系に取り入れても取り入れなくても、無矛盾な論理体系が作れます。「排中律」は「存在する」のでしょうか、「存在しない」のでしょうか? SumioBabaは「排中律」を「考えられたもの」に過ぎず、「論理法則と見なすか見なさないか、好きなように考えて良いもの」と思うのですが、違うでしょうか?

>従って、理論で論理の解明は不可能です。


 「論理学」という学問がすでに存在しており、「論理とはこういうものだ」という理論がすでに完成しているとSumioBabaは考えます。哲人たちの代弁者さんは、既存の「論理学」を学ばれたことは有りませんか? アリストテレスの時代では、「A⇒B、かつ、B⇒C、ならば、A⇒C」のような推論規則をたくさん集めた程度のものでした。しかし、地下水さんが説明されていたように、最近の論理学は「ゲーデルの不完全性定理」のようなメタ理論(例えば、「無矛盾かつ真な命題はすべて証明可能な公理系は存在するか?」…など)が中心です。結構、中身は深いですよ。

>論理は思考の形式や法則・思考の法則的なつながり、と言う意味です。


 はい、辞書にはこういう一般的説明が載っていますね。

>「物事の理」の物事とは物心の全てを指し、理(り・ことわり)は「物事の理非を分かち定める意から。断り」を指す。


 それは「物事の理」という言葉の解説です。SumioBabaが質問したのは、哲人たちの代弁者さんは、具体的にどんな内容を「物事の理」と考えておられるのですか、です。SumioBabaは《相対主義》の立場を採るので、「絶対的真理など存在しない」「だから人それぞれいろんな考えが有って良いのであり、自分の考えを他人に押し付けてはいけない」こそが「物事の理」となり、それを悟ることが「知恵・智慧」です。哲人たちの代弁者さんは、自分にとって「物事の理」と呼べる具体的な内容を、まだ発見されていないということですか?

>理論は基礎を学ぶ、記憶することから始まりますが、論理は物事の理を悟ることで会得する心の作用です。学ぶと悟るの違い、を知るにも知るという機能を内包した論理が必要です。


 「悟る」の意味が解りません。理論も論理も「学ぶ」部分も有れば直観的に「把握」する部分も有ると思います。学びもせずに悟ったつもりになって、それが正しいという保証は有るのでしょうか? 例えば、SumioBabaが悟ったと思っている「物事の理」と、哲人たちの代弁者さんが悟ったと思われている「物事の理」とが、全く相反する内容だった場合、どちらが正しいことになるのでしょう?

>意味から作られる言葉の意味を勝手に変えぬように。


 こういうのがそれです。言葉の意味を勝手に変えているのは、SumioBabaか?、哲人たちの代弁者さんか? お互いに「正しいのは自分だ」「間違っているのは貴方だ」と主張し合った場合、どちらが正しいかを何が決めるのでしょうか?

2ヶ月前 No.139

哲人たちの代弁者 ★oNn67LEAbo_8gk

SumioBabaさん

論理を会得せぬ者たちは、全てを理論で解明しようと企てます。
公理とは、おおやけの道理・一般に通ずる道理。ですから本来、説明など不要です。
哲学上の公理は、論理と言う思考の形式・思考の法則的なつながりに組するものですので「存在するもの」です。
勿論、SumioBabaさんの心の中にも存在しますが、今は爆睡中ですのでSumioBabaさん自身も気付きません。
SumioBabaさんの言われる公理とは意味が違いますね。

全く、SumioBabaさんは孫悟空みたいで可愛いんですね。

2ヶ月前 No.140

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>140  哲人たちの代弁者さんへ

>論理を会得せぬ者たちは、全てを理論で解明しようと企てます。


 物事を解明するには、特定の「公理」を定め、「論理」を用いて様々な「定理」を導く必要が有り、そうして作られたものが「理論」です。全てを「理論」で解明しようとする人がなぜ「論理を会得せぬ者」なのか、これも意味不明。
 哲人たちの代弁者さんの発言を読んでいていつも気になるのは、相手を侮辱する表現が多用されている点です。「論理を会得せぬ者たち」がそれですね。哲人たちの代弁者さんは、自分が理解できないものを、逆恨みしておられるのではないでしょうか。自分より賢い人たちを「論理を会得せぬ者たち」と侮辱し、「賢いのは私だけ。私以外はすべて愚か者」と主張されているように見えます。本当に「人類愛」に目覚めた人なら、こういう表現は用いないでしょうけど。

>公理とは、おおやけの道理・一般に通ずる道理。ですから本来、説明など不要です。


 数学や科学の厳密性を拒絶し、意図的に誤魔化そうとしているように見えます。実際、厳密に考えると、「公理」は証明なしに真だと仮定するものですから、「絶対的真理」ではないことが明らかになってしまいます。哲人たちの代弁者さんは、自分の考えこそが「絶対的真理」だと主張されているようですので、誤魔化しが必要になるのではないですか?

>哲学上の公理は、論理と言う思考の形式・思考の法則的なつながりに組するものですので「存在するもの」です。

>勿論、SumioBabaさんの心の中にも存在しますが、今は爆睡中ですのでSumioBabaさん自身も気付きません。

>SumioBabaさんの言われる公理とは意味が違いますね。

>全く、SumioBabaさんは孫悟空みたいで可愛いんですね。


 孫悟空は、世界の果てまで見て回ったと思い込んでいましたが、実はすべてがお釈迦様の手の平の中に過ぎず、その外には一歩も出ていなかった、…という話が有りますね。哲人たちの代弁者さんの考えが、まさにそれなのですよ。哲人たちの代弁者さんが「絶対的真理」だと思っておられる事は、実は「相対的真理」に過ぎず、「公理」の定め方次第で真にも偽にも成り得るものです。それなのに哲人たちの代弁者さんは、自分の考えを「絶対的真理」だと思い込んでおられます。お釈迦様の手の平の中だけでなく、外にも世界は広がっているのに、手の平の中だけを世界だと思い込んでいる訳ですね。

2ヶ月前 No.141

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>137 SumioBabaさん

まず,私の原理の説明が >>130 のときと変化したというご指摘ですが,
確認すると,余計なことを考えたせいか,たしかに説明が不正確になっていますね。
私としては最初から二元論的原理による行動説明を意図していましたので,これは変化したのではなく,表現がまずかったということです。そもそもそうじゃなきゃ,人ごとに説明原理が異なるというより,説明できませんからね。
ですので,これは取り消し,訂正をお願いします。
誤解を与えてしまい,申しわけありません。

ということで,私の考えは最初から >>136 で示したようなものであって、あなたに影響を受けて変化してなったわけではない、ということを了承していただけたことを前提に以下は述べます。
この私の考えは、あなたのものと等価ではありません。
解釈によっては私の立場ではあなたの立場の説明を還元できますが,逆は本来無理です。
というのも,あなたの立場は,普通の意味での利他的行為の側面を捨象してしまっており,実質は利己的行為としてとらえる一元論になっているからです。
あなたは利己的行為の拡張解釈で統一的記述が得られると言いますが,それは一元論的説明の枠組みを設定したということにすぎません。

>>103

>よく、「世界平和を実現しましょう」とか「他人の為に自分を犠牲にしましょう」とか綺麗事を並べ立てている人を見ますが、《人間の行動原理》に反する事を要求されても、誰も従わないと思われます。世界平和の実現を目指すのなら、あるいは、他人の為になる行為を求めるのなら、《人間の行動原理》に則り、人々がそうしたくなる方法を考え出す必要が有ると思われます。


このようにあなたは述べているわけですが,実際,自分を犠牲にして他人のために事をなす人はいますよね。
では,質問します.
このような人の行動は,あなたのいう《人間の行動原理》に則っているのですか,いないのですか?
あなたの主張によれば,この原理に例外はないということでしたよね。
とすれば,こういう人の行動は,精神的利益を得るための利己的行動であるということになります。
ん?とすれば,「他人のために自分を犠牲にしましょう」という呼びかけも,それだけでは何ら《人間の行動原理》に反する要求ではないことになりますよね。
にもかかわらず,反するとみなされているということは,矛盾の疑いありです。
矛盾じゃないとするなら,それは《人間の行動原理》が精神的利益より非精神的利益の最大化を目指すこと,というようにいつのまにか暗黙のうちに変化しているんじゃありませんか?
だとしたら,今度はあなたの原理が一般性を失うことになりますね。

つまり少しまとめますと、
上の質問に《人間の行動原理》に則っている、と答えるなら、きれいごとの要求が「《人間の行動原理》に反する事を要求」するものであるということと矛盾します。
逆に、《人間の行動原理》に反している、というのなら、あなたの原理が例外を許すことになり、一般性を失います。

以上,お返しと言っては何ですが(笑),一応反撃です。
とは言え,以上の指摘は,あなたの考えへの根本的批判になると考えます。

さて,私の言いたいことはほぼ言いましたし,受け入れてもらえたかどうかは別に,大体ポイントは伝わったのではないかと思います。
ですので,一応ですが,議論の効果をはかるためというか,再度,次の質問に答えていただきたく思います。

>>128
>「いや、自分はA−B<C−Dだけど「する」を選ぶ」と主張する人がよく居ます。しかしこの人の場合、「する」を選びたいという願望を満たすことによる精神的利益+Xを見落としているのであり、+Xを考慮すると、A+X−B>C−Dが成立しているはずです。そして本当は、このA+XをAと書く必要が有ります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ここの文章の中の,「見落としている」,「本当は」という表現を,今も適切であると考えますか?

2ヶ月前 No.142

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

SumioBabaさん

すみません。思い出しました。

私、最初あなたの立場と異なる立場として例として引き合いに出したのは、
私自身のというより、仮名Sさんの立場を出していましたね(笑)

だから、少なくとも私が述べたことが変化したのは当たっていて、不整合な言い方をして、あなたをミスリードした責任は私にありました。
それを、あなたの無理解のせいにして失礼なことを言ってしまい、大変申し訳ありませんでした。

2ヶ月前 No.143

哲人たちの代弁者 ★9mDQT7Ezeb_8gk

SumioBaba さん

〉 物事を解明するには、特定の「公理」を定め、「論理」を用いて様々な「定理」を導く必要が有り、そうして作られたものが「理論」です。全てを「理論」で解明しようとする人がなぜ「論理を会得せぬ者」なのか、これも意味不明。

SumioBabaさん、貴方は物理化学の基礎を公理と呼んでいるだけです。
つまり、物事の物に使われる定理であり本来の公理とは全く関係ありません。

論理を用いて、と言われてもあなた自身が論理の持ち合わせがありません。
論理とは、思考の形式・思考の法則的なつながりですよ。
そして、論理は物事の道理をさとり知ることで会得できるのです。
言い換えれば、論理とは世の中の全てを掌握する思考の全体図です。

SumioBabaさんが私の言葉を理解できない理由はSumioBabaさんに物事を理解する機能が育っていないためです。

「理解」@物事の道理をさとり知ること。意味をのみこむこと。物事がわかること。了解。
物事とは何を指すのか?道理と何か?さとりとは?知るとは如何なることか?
次々と連鎖する、この全体が論理ですよ。

SumioBabaさん、ハチのムサシに成らぬ様にね。

2ヶ月前 No.144

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

絶対的なものを求めるのに何故これだけの徒労に終わるのかと言うと・・

「根底(根源)が統一に欠けている」

根本が無から始まったとしての展開にのみ僅かな希望があります。

2ヶ月前 No.145

俺、俺だよ ★iPhone=ftOOHJZc2E

S方式では、なぜ「したい」ことと「すべき」ことのどちらか一方を選択することが可能なのか、謎になると思います。

2ヶ月前 No.146

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

>>146

空間内で選択可能と言う限定的な自由があります。

2ヶ月前 No.147

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>142,143  ザビビのふくろうさんへ

>まず,私の原理の説明が >>130 のときと変化したというご指摘ですが,

>確認すると,余計なことを考えたせいか,たしかに説明が不正確になっていますね。

>私としては最初から二元論的原理による行動説明を意図していましたので,これは変化したのではなく,表現がまずかったということです。そもそもそうじゃなきゃ,人ごとに説明原理が異なるというより,説明できませんからね。

>ですので,これは取り消し,訂正をお願いします。

>誤解を与えてしまい,申しわけありません。


 はいはい。自分の間違いを誤魔化そうとする人には、徹底的に厳しく追及することも有りますが、ちょっとした混乱だったと訂正して頂ければ、何も問題は有りません。 >>143 も同様です。

>ということで,私の考えは最初から >>136 で示したようなものであって、あなたに影響を受けて変化してなったわけではない、ということを了承していただけたことを前提に以下は述べます。


 はい、了承しました。

>この私の考えは、あなたのものと等価ではありません。

>解釈によっては私の立場ではあなたの立場の説明を還元できますが,逆は本来無理です。

>というのも,あなたの立場は,普通の意味での利他的行為の側面を捨象してしまっており,実質は利己的行為としてとらえる一元論になっているからです。

>あなたは利己的行為の拡張解釈で統一的記述が得られると言いますが,それは一元論的説明の枠組みを設定したということにすぎません。


 「等価」とはどういう意味なのでしょうね。

> >>103

>>よく、「世界平和を実現しましょう」とか「他人の為に自分を犠牲にしましょう」とか綺麗事を並べ立てている人を見ますが、《人間の行動原理》に反する事を要求されても、誰も従わないと思われます。世界平和の実現を目指すのなら、あるいは、他人の為になる行為を求めるのなら、《人間の行動原理》に則り、人々がそうしたくなる方法を考え出す必要が有ると思われます。


>このようにあなたは述べているわけですが,実際,自分を犠牲にして他人のために事をなす人はいますよね。

>では,質問します.

>このような人の行動は,あなたのいう《人間の行動原理》に則っているのですか,いないのですか?


 まず、「自分を犠牲にして他人のために事をなす人」というのは、「狭義の利益」で計算をした場合の表現です。SumioBabaが言う「広義の利益」で計算すれば、実はこの人も、自分を犠牲になどしていないことになります。初めから「広義の利益」で計算しておけば、そもそも「自分を犠牲にして他人のために事をなす人」という人間自体が有り得ないことになります。

>あなたの主張によれば,この原理に例外はないということでしたよね。

>とすれば,こういう人の行動は,精神的利益を得るための利己的行動であるということになります。

>ん?とすれば,「他人のために自分を犠牲にしましょう」という呼びかけも,それだけでは何ら《人間の行動原理》に反する要求ではないことになりますよね。


 「狭義の利益」計算によれば、「他人のために自分を犠牲にする」ということは有り得て、「他人のために自分を犠牲にしましょう」という呼びかけも意味を持ちます。
 「広義の利益」計算によれば、「他人のために自分を犠牲にする」という事自体が不可能です。例えると、「自分がやりたいと思った事の反対をやる」のようなものです。「これこそが反対だ」と思い、そう主張して実行したとしても、やったという事自体、それは「自分がやりたいと思った事」の方になってしまい、反対ではなくなってしまうようなものです。

>にもかかわらず,反するとみなされているということは,矛盾の疑いありです。


 《人間の行動原理》に「反する」と見なされるのは、「狭義の利益」で計算した場合です。「広義の利益」で計算すれば、反していないのです。

>矛盾じゃないとするなら,それは《人間の行動原理》が精神的利益より非精神的利益の最大化を目指すこと,というようにいつのまにか暗黙のうちに変化しているんじゃありませんか?

>だとしたら,今度はあなたの原理が一般性を失うことになりますね。


 一見矛盾しているように見えるとしたら、「狭義の利益」と「広義の利益」とを区別せず、混同しているからではないでしょうか?
 「狭義の利益」で計算すれば、人間は利己的に振る舞うことも有れば利他的に振る舞うことも有り、《人間の行動原理》は成立したりしなかったりするように見えます。
 「広義の利益」で計算すれば、《人間の行動原理》はいつでも誰でも成立する行動原理であり、例外は有り得なくなります。

>つまり少しまとめますと、

>上の質問に《人間の行動原理》に則っている、と答えるなら、きれいごとの要求が「《人間の行動原理》に反する事を要求」するものであるということと矛盾します。

>逆に、《人間の行動原理》に反している、というのなら、あなたの原理が例外を許すことになり、一般性を失います。


 「狭義の利益」計算でいけば「自分を犠牲にして他人のために事をなす人」と表現される人も、「広義の利益」計算でいけば《人間の行動原理》=「人間がどういう行為をするか自由意志で選ぼうとするとき、自分の利益を最大にする行為を選択する」に則っていることになります。そして「広義の利益」計算の場合、「きれいごとの要求」は、原理的に有り得ない事を要求していることになります。「自分がやりたいと思った事の反対をやる」と同様、やった時点でそれは、反対の事ではなく、自分がやりたいと思った事だったことになってしまうように。

>以上,お返しと言っては何ですが(笑),一応反撃です。

>とは言え,以上の指摘は,あなたの考えへの根本的批判になると考えます。


 以上の説明でいかがでしょう?

> >>128

>>「いや、自分はA−B<C−Dだけど「する」を選ぶ」と主張する人がよく居ます。しかしこの人の場合、「する」を選びたいという願望を満たすことによる精神的利益+Xを見落としているのであり、+Xを考慮すると、A+X−B>C−Dが成立しているはずです。そして本当は、このA+XをAと書く必要が有ります。


>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

>ここの文章の中の,「見落としている」,「本当は」という表現を,今も適切であると考えますか?


 適切だと思いますよ。例えば、左右に振れている「振り子」のエネルギー保存則を見付けられるかどうか。Sさんは位置エネルギーだけを考慮し、「エネルギーは保存していないようだ」と言います。Bさんは運動エネルギーだけを考慮し、「エネルギーは保存していないようだ」と言います。そこでSumioBabaは、こう言います。「君たちは、どちらも一方だけを見て、他方を「見落としている」。「本当は」、位置エネルギーと運動エネルギーとの和が保存しているのだよ」。この場合、「見落としている」と「本当は」という言葉は極めて適切だと思いますが、いかがでしょう?

2ヶ月前 No.148

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>哲人たちの代弁者さんへ


 哲人たちの代弁者さんって、もしかしてshinwoodさんと同一人物? 文体は異なるけれど、頭の中身は完全に一致していて、多くの共通点が見られます。→哲人たちの代弁者さんによる「エゴイズムを捨て、ヒューマニズムを育てよ」は、shinwoodさんによる「私より公を優先せよ」を言い換えただけの内容。自分のドグマ(独断・偏見)に過ぎないものを、まるで自分が「絶対的真理」を発見したかのようにみんなに押し付けている点。自分を受け入れない相手に対し侮辱する言葉を失禁してしまう点。どんな真理体系にも、証明なしに真だと仮定した「公理」が含まれているため、すべての「定理」は「相対的真理」であるはずなのに、自分の主張内容にはそんな「公理」など無く、すべてを「論理」だけで導いた「絶対的真理」かのように主張されている点。既存の学問を見下しているため、先人に学ぼうという姿勢が見られない点。…等々。

 哲人たちの代弁者さんの態度を見ていると、とても不安になります。SumioBabaは《相対主義》の立場を採るので、決して哲人たちの代弁者さんの考えを間違いだと否定している訳ではありません。そのように考えたい人はそう考えて良いのだと思います。まずいのは、自分のドグマ(独断・偏見)を「絶対的真理」かのように主張し、周囲の人々にまで押し付け、受け入れない人を侮辱してしまっている点です。自分の考えを自分で正しいと思うだけなら、何も危険は有りません(危険度0)。しかし、自分のドグマ(独断・偏見)を「絶対的真理」だと思い込み、他人にまで押し付けるようになると、それこそが「宗教」であり、ちょっと危なくなります(危険度1)。さらに、自分を受け入れてくれない人を逆恨みして侮辱し始めると、反社会的な「カルト教」になります(危険度2)。それが高じてしまい、自分を受け入れない人間を憎み、殺してしまえという段階になると、殺人犯になってしまいます(危険度3)。哲人たちの代弁者さんは、すでに危険度2まで来ているのではありませんか?

2ヶ月前 No.149

哲人たちの代弁者 ★Rpt5h0Vep6_8gk

宿題さん

〉「根底(根源)が統一に欠けている」

統一している根底(根源)を理解する知能の持ち合わせがない。

2ヶ月前 No.150

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

哲人たちの代弁者さん

統一できる根源の中味(真理)があると思いますか?

2ヶ月前 No.151

哲人たちの代弁者 ★RDYIrpjKpd_8gk

SumioBabaさん

〉哲人たちの代弁者さんによる「エゴイズムを捨て、ヒューマニズムを育てよ」は、shinwoodさんによる「私より公を優先せよ」を言い換えただけの内容。

あ〜ぁ 折角、大切なことを伝えているのに曲解するとは、ガッカリですね。

エゴイズムは捨てられませんし、例えエゴイズムを捨てられてもヒューマニズムは育ちません。
哲人たちの言われるには、「ヒューマニズムを育てよ、さすればエゴイズムは自然縮小する」ですよ。
例えば、コップを心と考え、コップの中に比重の重いヒューマニズムが25%、比重の軽いエゴイズムが75%入っていると仮定します。
25%のヒューマニズムを75%まで育てると、比重の軽いエゴイズムは心の外に押し出されエゴイズムの支配は終わり、ヒューマニズムが全て采配を振るいます。

ヒューマニズムを育てる段階に於いて、命の終わりに感ずきますので来世や天国などに思いを馳せることは一切ありません。
哲人たちは宗教家ではありません。

また、ヒューマニズムを育てるには小学生並みの学力を必要とします。

〉SumioBabaさんが私の言葉を理解できない理由はSumioBabaさんに物事を理解する機能が育っていないためです。
この言葉は殆ど、全てに近い人々に言えることですので気にせずに、ね。
天に唾すれば己に返るだけです。

そうそう、智恵が有れば自分の命を粗末に扱いません。

2ヶ月前 No.152

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>148 SumioBabaさん
私の訂正について,ご了承いただきありがとうございます。

>「等価」とはどういう意味なのでしょうね。


私の「等価ではありません」の意図は, >>137 において,あなたが,

>だったらそれは、本質的にSumioBabaの言う《人間の行動原理》と等価なものになります。


と述べられた見解の否定です。

>一見矛盾しているように見えるとしたら、「狭義の利益」と「広義の利益」とを区別せず、混同しているからではないでしょうか?


「混同」もなにも,そもそも >>103 における人間原理の定義以来,私とのやりとりでも私に説明してくださった「利益」という概念についての拡張定義では,広義の利益計算による個人利益が最大になるように行為する,というのがあなたの《人間の行動原理》でしょう。
今回突然「狭義の利益計算」が出てくるのは,正直不整合をごまかすための立場変更としか正直思えないんですけど。そこのところをもう少し,どういうことか説明もらえないでしょうか。
それに,広義の利益計算の最大化とする行為選択を行動原理とするから,通常の意味での利他的行為もその原理で説明でき,一元論的説明を可能とする原理と言えるのであって, 「狭義の利益計算」などを言い出したらダブルスタンダードになって,本来のあなたの一元論的原理ではなくなってしまうと思いますね。

もう一度ポイントを絞って私の見解を述べておきます。

>>103 を読み返してください。あなたは,自分の《人間の行動原理》を広義の利益計算で定義しているので,「いつでもだれでも成立する行動原理であり,例外はありえなくなる」わけですよね。例外がないということは,すなわちこの原理に反することはありえない,ということでしょう。
にもかかわらず, >>103 の最終パラグラフで,「《人間の行動原理》に反することを要求されても,誰も従わないと思われます」と述べています。
反することはありえないのに,反することが要求されうるわけないじゃないですか。
いったい何を要求できるというんですか?
つまり,一方で《人間の行動原理》に反することが要求されうるのなら,《人間の行動原理》に反することがありうることになります。
しかし他方で,定義によると,《人間の行動原理》に反することはありえないわけですから,
矛盾となる,ということです。

何か私が理解のポイントをはずしているなら、説明をお願いします。

また、この議論をロムしてくださっている方がいらっしゃって、「ふくろう、わかってねえな」と思われた方、ご指摘ください。

2ヶ月前 No.153

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

ふくろうさん

人間の原理には・・「あるべき理念」と「あるがままの現実」と言う二律背反なのです・・

他にもエゴイズムとヒューマニズムという板挟みとか・・

2ヶ月前 No.154

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>154
宿題さん、
あなたレスくれたってことは、
「ふくろう、わかってねえな」って思ったの?(笑)

いや、いいんだけどさ、ただ残念ながらあなた、議論の内容理解してないから、的をはずしちゃってるのよ。
まあ、お気持ちだけ受け取っておきます、ありがとね(*^^)v

2ヶ月前 No.155

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

ふくろうさん

ザビビでもふくろうさんはそういう態度でした・・二人いたと言う感がしていたので・・

私をやっつけた人をやっつけた人と言う事にして・・

2ヶ月前 No.156

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_APy

>>153 ザビビのふくろうさん、

私は「『ふくろう、わかってねえな』と思われた方」には該当しないと思いますが、横レスします。

> >>103 を読み返してください。あなたは,自分の《人間の行動原理》を広義の利益計算で定義しているので,「いつでもだれでも成立する行動原理であり,例外はありえなくなる」わけですよね。例外がないということは,すなわちこの原理に反することはありえない,ということでしょう。

>にもかかわらず, >>103 の最終パラグラフで,「《人間の行動原理》に反することを要求されても,誰も従わないと思われます」と述べています。

反することはありえないのに,反することが要求されうるわけないじゃないですか。
>いったい何を要求できるというんですか?

>つまり,一方で《人間の行動原理》に反することが要求されうるのなら,《人間の行動原理》に反することがありうることになります。

>しかし他方で,定義によると,《人間の行動原理》に反することはありえないわけですから,

>矛盾となる,ということです。


Babaさんは、
・席を譲らない人は譲らないし、席を譲る人は譲る。「席を譲らない人」に席を譲らせるのは困難だし、「席を譲る人」に譲らせないのも困難だ。
・世界平和提案書に沿った世界を作りたい人も居るし、そうでない人も居る。そうでない人に「世界平和提案書に沿った世界作りに協力せよ」と言って協力させるのは困難だ。

ということがおっしゃりたいだけなのではないでしょうか?

確か「世界平和提案書は、世界各国の政府や私企業の利益になることなので、みんながこぞって協力したくなるはず」というようなことが ある人によって投稿されていたと思いますので、それに対する反論のつもりで >>103 を書かれたのではないでしょうか?

「利益になると考える人も居るけど、不利益になると考える人も居るよ」と。そして、「不利益になると考える人は協力しないよ」と。
平たく言うと、そういうことなのではないかと思います。

以上です。横レス失礼しました。

2ヶ月前 No.157

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>153  ザビビのふくろうさんへ

>>一見矛盾しているように見えるとしたら、「狭義の利益」と「広義の利益」とを区別せず、混同しているからではないでしょうか?

>「混同」もなにも,そもそも >>103 における人間原理の定義以来,私とのやりとりでも私に説明してくださった「利益」という概念についての拡張定義では,広義の利益計算による個人利益が最大になるように行為する,というのがあなたの《人間の行動原理》でしょう。

>今回突然「狭義の利益計算」が出てくるのは,正直不整合をごまかすための立場変更としか正直思えないんですけど。そこのところをもう少し,どういうことか説明もらえないでしょうか。


 ザビビのふくろうさんは >>142 でこう書いておられます。

>このようにあなたは述べているわけですが,実際,自分を犠牲にして他人のために事をなす人はいますよね。

>では,質問します.

>このような人の行動は,あなたのいう《人間の行動原理》に則っているのですか,いないのですか?


 「自分を犠牲にして他人のために事をなす人はいますよね。」と書いてありますが、「広義の利益」計算だと、そもそもこんな人は有り得ません。なのに、ザビビのふくろうさんは、「…いますよね」と書いておられるので、この時「狭義の利益」で計算してしまっていることになります。つまり、「狭義の利益」と「広義の利益」とを混同してしまったからこそ、矛盾が生じたように錯覚しただけです。「広義の利益」計算でいけば、「自分を犠牲にして他人のために事をなす人」など有り得ません。なぜなら、「狭義の利益」計算だからこそ「自分を犠牲にして他人のために事をなす人」に見えただけであり、「広義の利益」計算をすれば、この場合もこの人は自分の利益を最大にする行為を選んだはずであり、自分を犠牲になどしていないからです。

>>103 を読み返してください。あなたは,自分の《人間の行動原理》を広義の利益計算で定義しているので,「いつでもだれでも成立する行動原理であり,例外はありえなくなる」わけですよね。例外がないということは,すなわちこの原理に反することはありえない,ということでしょう。

 はい、その通りです。

>にもかかわらず, >>103 の最終パラグラフで,「《人間の行動原理》に反することを要求されても,誰も従わないと思われます」と述べています。

>反することはありえないのに,反することが要求されうるわけないじゃないですか。


 その通りです。要求されうるはずが有りません。要求されうるはずがないことを要求しないでくれ、ということです。

>いったい何を要求できるというんですか?


 要求できません。「自分がやりたい事の反対の事をやってくれ」と同様、矛盾した事を要求することになってしまうからです。何をやって見せても、やった以上それは「やりたい事」をやったのであり、「反対の事」ではなくなってしまいますから。つまり、「狭義の利益」計算の立場でなら「自分を犠牲にして他人のために行動しましょう」という言い方も可能だし、実際に「自分を犠牲にして他人のために行動する人」も居ますが、「広義の利益」計算で見るとこれは有り得ない事を要求してしまっており、そんな人は居る訳が無いのです。

2ヶ月前 No.158

地下水 ★lHRYPNADL9_zRF

>>158
 利己の精神をどれくらい育てて、その上で何をどの様に付け加えて、利他の精神を芽生えさせることができ、利他の精神を育てて、その数直線の様な議論が可能になると、お考えですか。

2ヶ月前 No.159

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>157  Mobiusさんへ

 コメント有難うございます。横レス大歓迎です。

>Babaさんは、

>・席を譲らない人は譲らないし、席を譲る人は譲る。「席を譲らない人」に席を譲らせるのは困難だし、「席を譲る人」に譲らせないのも困難だ。

>・世界平和提案書に沿った世界を作りたい人も居るし、そうでない人も居る。そうでない人に「世界平和提案書に沿った世界作りに協力せよ」と言って協力させるのは困難だ。

>ということがおっしゃりたいだけなのではないでしょうか?


>確か「世界平和提案書は、世界各国の政府や私企業の利益になることなので、みんながこぞって協力したくなるはず」というようなことが ある人によって投稿されていたと思いますので、それに対する反論のつもりで >>103 を書かれたのではないでしょうか?


>「利益になると考える人も居るけど、不利益になると考える人も居るよ」と。そして、「不利益になると考える人は協力しないよ」と。

>平たく言うと、そういうことなのではないかと思います。


 はい、その通りです。それが半分。残りの半分は、どちらの意見が正しいと一概には決められないので、自分の意見を相手に押し付けるべきではない、という点ですね。

 人間の本性を考察する場合にも、「性善説」と「性悪説」という正反対の考え方が有ります。「世界平和を実現しましょう」と主張するのは《キリスト教的価値観》であり、「性善説」に近い考え方です。もちろんこう考えるのは自由であり、世界平和実現のために尽力する人は、それなりに立派だと思います。しかし一方で、《進化論的価値観》はかなり「性悪説」に傾いた立場を採ります。「人間もまた利己的な生物であり、自分が生存競争に勝ち抜くために周囲を犠牲にすることで進化してきたという事実が有る。それゆえ、勝ち組だけが莫大な財産を得て子孫繁栄し、負け組は財産も持てず子孫も残せないまま絶滅していくのは、むしろ自然な事であり、それこそが進化に貢献しているのだ。世界平和が実現してしまうと、むしろ進化は停滞してしまうだろう。人類の進化のためには、世界平和など実現しない方が好ましいのではないか? その証拠に、そもそも人々は(ホンネでは)世界平和など望んでいないのではないか?」という考え方です。
 片方だけを「絶対的真理」だと主張し、それを他人にまで押し付けようとすると「悪しき宗教」になってしまいます。哲学として冷静に考えるのなら、両方を正しく見つめるべきだというのが、SumioBabaの持論です。

2ヶ月前 No.160

地下水 ★otncK03kC4_zRF

>>160
核が絶対悪であり、非核化が地球の生存環境を破壊しない為に必要だ、というのは数理分析哲学者である、バートランド・ラッセルの主張です。

また平和が必要だというのは言語分析哲学者である、ノーム・チョムスキーの主張です。

戦争や、経済戦争は、資源を無駄に大量消費して、なおかつ生存環境を破壊して、生存圏そのものを減少させてしまい、損出が大きいので、避けるべきであるとは思いませんか。
また、文化や文明の多くはミームによって遺伝するので、ミームを受け継いだ者が新たな子孫になるのであって、グローバル社会の今日、人種や国家に硬直化して考える必要はないとは思いませんか。
またそのミームも硬直化する必要は無くて、新たなミームが生み出されるべきであり、多様であるべきであって、それは争奪に勝つという目的に限らないとは思いませんか。

2ヶ月前 No.161

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>>157 Mobiusさん
>>158,160 SumioBaba さん

お二方とも、説明をありがとうございました。
おかげで、今回、少しこれまでと異なる視点からとらえられるような気がしますので、確認させてください。

(1) そうすると、ウルトラ換骨奪胎して言うとですね。
 性善説に立つ論者に対して、性悪説に立って、利他的であれなどと、人間の本性に反する不可能なことを言うなと、そう言ったってことですかね?

 だとすればですが、こういう反論はどうでしょうか。

 「人間の本性に反する不可能なこと」というのは、あくまでSB説に立つからそうなるのであって、いわばあなたの定義を前提にするからにすぎない。
 こちらはこちらの定義にしたがって「利己的行為ではなく、利他的行為を」と主張しているのであって、こちらの定義を前提する限り、少なくとも論理的に不可能ではない。
 それを不可能だということは、あなたは自分の言葉遣いにすぎないものを私に押し付けようとしているのだ。理不尽やし、やめてんか。

(2) (1)に対しても、いやいやそうではないと。

 SumioBabaさんはアプリオリに性善説が誤りであると、利他的であれという主張が人間の本性に反していると主張しているのではないと。
 そうではなく、そういう性善説が正しいとすれば、すでに世界平和は実現しているはずじゃないか。
 しかし現実に平和が実現していないということは、あなたの性善説、利他的であれという主張が、人間の本性に反するものであることを十分証明していると、そう言っているのですと。

こういう理解でどうですか?

2ヶ月前 No.162

地下水 ★lHRYPNADL9_zRF

>>160
人間は本当に利己的か。
弟の面倒をみてあげなさい、と5歳の子供にお母さんが言う。その子は赤ちゃんの弟をあやして、にこにこしている。こんな情景が思い浮かぶ。

親は生まれた子供を育てる。我が子が可愛くてしょうがない。
先生も子供を教育する。やはり生徒が可愛いなと思う事が多い。
子供はペットを可愛がる。
子供は好きな友達と遊ぶ。友達を好きになる。
大人になり恋人を好きになる。
近所や会社やネットに友達ができて遊ぶ。

子供は自分の親を介護する。親が可愛くてしょうがない。
病院や特養の看護師さんも看護する。

人間はこの様な動機でも、人間関係を結ぶ。可愛いとか、好きとか、楽しいとかは、果たして利己的なのか。その実、利他的な行動をとっているのではないか。

2ヶ月前 No.163

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

地下水さん

京都に毎年行きます。

ここ2年京〇駅で若い子を怒鳴りつけて胸に肘を当てて通さない人や

待合室で自分の席だと怒鳴りつける人を見かけます。

むかしのおじさんたちは優しかったですよ・・最近のおじさんたちは・・切れまくり・・

もうなるべく田舎にしか行きたくないです。

田舎は流れる時間が違います・・

時間って流れ方が歩き方に出るんですね・・

2ヶ月前 No.164

宿題 ★hxYn2UbX46_zRF

ソフィーさん

私はディズニーランドやユニバーサルスタジオに行きたいのですが・・京都の先祖の墓参りばかりです・・

先祖を大切にしなければならないのです。

この前日帰りで鹿児島に行ったら世界が変わりました・・

南国と言うものは空気が光が明るいです。

怨霊にまみれ祈るばかりでは行き詰ります。

2ヶ月前 No.165

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_zRF

SumioBabaさん

>《人間の行動原理》は、「自分の利益を最大にする行為を選択する」です。これに反するものは考えられません。<

この自分の利益という言葉は世間では受け入れられませんよ。東北大震災の津波で自分の命は顧みないで市民を助けようとアナウンスし続けた女性の行為を「自分の利益のためだった」というのは、やはり公の為ではありません。そんな言葉でしか表現できないならだれも人助けなどしたくなくなります。

《人間の行動原理》は〜を選択するとなっていますから、理性で考えて行うということのでしょう。でも理性のない生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっているという実験もありますからね。

あなた達は善の定義で私に論破されて去っていったと思っていたら、こんなところでグタグタ言っているのですね。せっかくですので今後は善の定義で議論しましょうよ。スレ違いで発言してももったいないですから。公の為になりませんよ。

あなたは人間の行動原理という公理であなたの論理を作った。私は内包の定義という帰納法で善の定義を導いたのです。事実を積み重ねただけです。公理はいらないと思いますよ。

2ヶ月前 No.166

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>162  ザビビのふくろうさんへ

>(1) そうすると、ウルトラ換骨奪胎して言うとですね。

> 性善説に立つ論者に対して、性悪説に立って、利他的であれなどと、人間の本性に反する不可能なことを言うなと、そう言ったってことですかね?


 「狭義の利益」計算をしている人の立場に立つと、「自分のために他人を犠牲にする利己的な人」と「他人のために自分を犠牲にする利他的な人」の両方がいるように見えます。そして、人間の行動原理は人それぞれ異なり、人間一般に共通する行動原理が解らなくなり、「みなさん、利己的であることはやめ、利他的に生きましょう」と綺麗事を並べるだけで、利他的な人が増えるかのように勘違いする人が出て来ます。
 そこで「広義の利益」計算をしてみます。すると、本当はすべての人間が《人間の行動原理》=「人間がどういう行為をするか自由意志で選ぼうとするとき、自分の利益を最大にする行為を選択する」に従っていることが解ります。そして、どんなに綺麗事を並べようと、《人間の行動原理》に反することは誰も実行しないし、できないことが理解できます。
 さらに、「狭義の利益」計算で「他人のために自分を犠牲にする利他的行為」と表現されるものを他人にして欲しいと思うなら、「広義の利益」計算をしたときにその行為こそがその人にとって最大の利益を与えるような状況を作ってやれば良いという、具体的な解決策までが見えて来ますよ。…ということです。

> だとすればですが、こういう反論はどうでしょうか。


> 「人間の本性に反する不可能なこと」というのは、あくまでSB説に立つからそうなるのであって、いわばあなたの定義を前提にするからにすぎない。

> こちらはこちらの定義にしたがって「利己的行為ではなく、利他的行為を」と主張しているのであって、こちらの定義を前提する限り、少なくとも論理的に不可能ではない。

> それを不可能だということは、あなたは自分の言葉遣いにすぎないものを私に押し付けようとしているのだ。理不尽やし、やめてんか。


 もちろん言えます。ただし、「狭義の利益」で計算をしていると、《人間の行動原理》は発見できないので、どうすれば利己的な人に利他的なことをしてもらえるのか、方法が見い出せないと思われます。
 上に書いたように、《人間の行動原理》を理解すれば、その解決方法が見えてきます。「狭義の利益」計算で「利己的でなく利他的」と言える行為を他人にして欲しいのなら、「広義の利益」計算をしたとき、その行為こそがその人にとって最大の利益を与える行為となるよう、工夫してやれば良いのです。そうすれば、喜んでそれを実行してくれるでしょう。

 左右に振れる「振り子」の譬え話です。Sさんは位置エネルギーだけしか見ないから、「エネルギー保存則は見付からない」と言い、Bさんは運動エネルギーだけしか見ないから、「エネルギー保存則は見付からない」と言います。まさにその通りで、言っていることは間違いではありませんが、そういう捉え方だとエネルギー保存則は見付かりません。
 SumioBabaは、位置エネルギーと運動エネルギーとの和E=mgH+(1/2)mV^2を考えるので、エネルギー保存則を発見することができます。そして、H=0とおいて最大速度Vmax=√(2E/m)を、V=0とおいて最大高さHmax=E/mgを、計算することができます。

>(2) (1)に対しても、いやいやそうではないと。

> SumioBabaさんはアプリオリに性善説が誤りであると、利他的であれという主張が人間の本性に反していると主張しているのではないと。

> そうではなく、そういう性善説が正しいとすれば、すでに世界平和は実現しているはずじゃないか。

> しかし現実に平和が実現していないということは、あなたの性善説、利他的であれという主張が、人間の本性に反するものであることを十分証明していると、そう言っているのですと。

>こういう理解でどうですか?


 およそそういう主張です。ただしSumioBabaは、「性善説」を否定しているのでもなければ、「性悪説」を肯定しているのでもありません。「狭義の利益」で計算する人は、利己的な人と利他的な人とが居ると見なし、「利己的」=「悪」、「利他的」=「善」と結び付ける傾向が有ります。SumioBabaのように「広義の利益」で計算すれば、実はすべての人間が必然的に「利己的」なのであって、「利他的」という事自体が「四角い丸」のように有り得ないものとなります。そして「利己的」であるのは当たり前であり、それ自体は「善」でも「悪」でもありません。「「利己的」=「悪」だなんて、勘違いしないでね」と言いたい次第です。

2ヶ月前 No.167

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>166  shinwoodさんへ

>東北大震災の津波で自分の命は顧みないで市民を助けようとアナウンスし続けた女性の行為を「自分の利益のためだった」というのは、やはり公の為ではありません。そんな言葉でしか表現できないならだれも人助けなどしたくなくなります。


 仮にこの女性が、本当に「市民を助けたい」という気持ちでこういう行動をしたのだとしましょう。もしそうであれば、SumioBabaが「その行為だって、本当はあなたが、自分の利益のためにしただけなのですよ」と言った場合、この女性はこう答えるはずです。「はい、その通りです。自分は「市民を助けたい」と思ったのでそうした、それだけのことです。何も褒めてもらうようなことはしていません。」…こう言える人が本当の「善人」です。

 一方、shinwoodさんが電車でお年寄りに席を譲られたとしましょう。それに対し、SumioBabaは「その行為だって、本当はあなたが、自分の利益のためにしただけなのですよ」と言います。shinwoodさんはこう答えます。「そういう言い方をされると、人助けなんかしたくなくなるよ。自分は、他人の為に自分を犠牲にし、人々を感動させるような行動をしたのだよ。」つまりshinwoodさんは、「自分は、何て善人なのだろう!!」と自己陶酔し、「他人を感動させたい!!」というヒーロー願望を満たすためにお年寄りに席を譲ったのであって、「困った人を助けてやりたい」という気持ちなど本当は無いということです。…こういう人を「偽善者」と呼びます。

2ヶ月前 No.168

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>167  SumioBabaさん
同じ説明の繰り返しで疲れて来たんじゃないですかね(笑)

何度も物理の事例を出して自分の説の正当化をしようとされているのは,既に十分わかっています。
そして,ほぼ,おっしゃりたいことは理解できているとも思うんですよ。
だけど,仮に私の理解が正しいのなら,「本当は」とか「見落としている」という言葉が出るのはおかしい,と思うのです。

で,とりあえず,SumioBabaさんの説を,私が認めうる形で再構成してみます。
>>103

>そもそも《人間の行動原理》は、「自分の利益を最大にする行為を選択する」です。これに反するものは考えられません。


出発点はここですが,これも少し変えます。すなわち,
「人間とは,その行動において自分の利益を最大にする行為を選択する動物である」
と,人間を定義します。
そして,この立場をここでは「人間利己説」と呼びます。
重要なことは,この定義が,人間の本性がこういうものである,と主張しているものではけしてない,ということです。
つまり,人間の本性は善である,いや,悪であるといった論争が昔からあるわけですが,そういったものとは全く異なるのです。
そうではなく,あくまで,世界平和を政治的に実現するためにどうすればよいかを具体的に方法・対策を論じるに当たり,その世界の構成員たる人間を,全てこの定義によってとらえることにするという,あくまで方法論的に採る立場であって,したがってあくまで「方法論的人間利己説」であるということ。
つまり,この政治的課題について論じる際の方法論的原理となるのが《人間利己説》である,ということです。
方法論的にとらえる限り,別にこれを「方法論的性悪説」と言っても別にかまわないはずです。例えばSumioBabaさんも性善説的な考え方に「綺麗ごと」と述べているわけですから。

このことにより得られるメリットの一つは,SumioBabaさんが何度もおっしゃっている統一的記述が得られるということなどがあります。これは繰り返さなくていいでしょう。
ただ,注意すべき点は,次の点です。
この世界平和を政治的に実現するという課題を論じるに当たり,人間の行動の価値的側面を意図的に排除する,ということが挙げられます。
この人は善人だから利己的行動ではなく正しい行動,この人は悪人だから利己的行動で正しくない行動,などという価値的観点からの行為の区別を,意図的に捨象・排除するということです。
あくまで,「正しい・正しくない」は手段としての問題として扱い,人間行動に関しては全て利己的行動とみなし,そこにその主体の意図であるとか人間性であるとか,倫理的に正しいかどうかなど,一切捨象します。
「平和を実現するべきである」というのは,この課題が成立するための前提であり,この中で論じられるべきことはありません。
で,ここでも誤解されてはならないのは,これがあくまで方法論的なものだということ。
つまり,この人間利己説に立って平和実現の課題を政治的に解決する手段を論じる場合,倫理的問題を捨象する,それとの混同を一切避ける,ということが重要なのです。
意図的に,方法論としてそういう立場を選択するのです。
政治的・経済的問題としてこの問題を解決しようとする限り、もっぱら「人間は利己的動物である」として見なして扱うべきだ、それを方法論として採択すべきだ、ということです。
ですが,それが人間本性を表しているといったことを何ら含意せず,あくまでこういった課題・方法に関して,その原理として採る方法論的立場にすぎません。
これを混同すると「人間の本性は利己的行動であって,利他的行動などというものは,本当はありえない」といった主張となり,哲学的混乱が生じてしまいます。
当然のことに,逆に倫理的問題を論じる場合にこの人間利己説を採ることは,全く不適切です。
つまり,倫理的問題を扱う場合は,人間利己説を立場として採ることは方法論的に間違っているということになるわけです。
《人間利己説》はあくまで政治的に平和を実現するという課題を論じる際に方法論として採るべきとする立場の原理であり,これを人間の本性であるとか,他の立場は一見利他的行為に見えるものも本当は利己的なのであって,それを「見落としている」といった表現はミス・リーディングであり、避けるべきです。
目的となる社会・世界のあり方が想定されており,その実現するための手段を講じる上で方法論的人間利己説は有効だが,それ以前の,目指すべき社会・世界のあり方がどういうものか,すなわち人間社会はどうあるべきか,人間はどう変わっていくべきか,ということを論じるには適切ではありません。
というのも,よりよき社会,理想的社会という意味で「社会がどうあるべきか」を論じるのは価値が含まれており,方法論的人間利己説を原理とする場合,それは扱えないからです。
また,方法論的人間利己説は,人間が変わらないことが前提されているわけだから,よりよき社会をつくっていくために,人間がどうあるべきか,どう変わっていくべきかということに関わらない。
これまでSumioBabaさんは,こういったことを一方で認めつつ,しかし,にもかかわらず,次のように述べるわけです。

> 「狭義の利益」計算をしている人の立場に立つと、「自分のために他人を犠牲にする利己的な人」と「他人のために自分を犠牲にする利他的な人」の両方がいるように見えます。そして、人間の行動原理は人それぞれ異なり、人間一般に共通する行動原理が解らなくなり、「みなさん、利己的であることはやめ、利他的に生きましょう」と綺麗事を並べるだけで、利他的な人が増えるかのように勘違いする人が出て来ます。

 そこで「広義の利益」計算をしてみます。すると、本当はすべての人間が《人間の行動原理》=「人間がどういう行為をするか自由意志で選ぼうとするとき、自分の利益を最大にする行為を選択する」に従っていることが解ります。そして、どんなに綺麗事を並べようと、《人間の行動原理》に反することは誰も実行しないし、できないことが理解できます
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こういった表現からは,《人間の行動原理》は方法論的原理であるというより,人間行動の普遍的本質である,という意図が読み取れるように思うのです。
もし方法論的原理であれば,ここで,利他的行為を説明原理としてとる立場をこのように否定する必要はまったくないからです。
結局私はSumioBabaさんが自分の立場を目的に相対的な方法論的原理にすぎないということを一方でわかっていると言われながらも,他方で自説を語るときはどうも絶対的な感じに言っているという感が否めないのですね。

さて,このへんで私からの批判は終えることにしようと思います。
SumioBabaさんは何度も同じ説明をさせられて,そろそろというかとっくに辟易されているのじゃないでしょうか?(笑)
もちろん,待て待て,とおっしゃるなら,それでもかまいません。

まあ,それにしてもいつものことですが,言いたいことを言う私に腹も立てずにレスをくださり,ありがとうございますm(__)m

>>168  SumioBabaさん
ついでに、少し。
やはり、このレスを読むと上に書いたことが妥当だと思いますね。
けしてshinwoodさんを擁護するつもりはありませんが、

>仮にこの女性が、本当に「市民を助けたい」という気持ちでこういう行動をしたのだとしましょう。もしそうであれば、SumioBabaが「その行為だって、本当はあなたが、自分の利益のためにしただけなのですよ」と言った場合、


それを聞いた周りの人は、
「あんた、何てこと言うんだ。どんなひねくれた性格なんだ」って言いますよ(笑)
仮にあなたの言葉で納得するとしたら、例えばこんな場合でしょう。
つまり、その女性がそのような行為をなした動機が、実は自分が市長になろうと思っていて、これだけ人助けをし、もし生き延びれればそれを現実化できると、その絶好のチャンスと判断してイチかバチかやった、
というのであれば、「本当は自分の利益のためにしただけ」と言われても、まあ仕方ないことになるでしょう。
しかし、実際の女性はそういったことを一切考えず、自分の危険も顧みず、その人たちに助かってもらいたいという一心で行為を行った場合、それは利他的行為と言うべきものなんですよ。だって、実際立派な行為じゃないですか。
つまり、この状況は、その人の行為の価値についてみんなが尊い行為であると述べているのであって、あなたの捉え方は、そういった価値を捨象する捉え方なんですから、あなたの原理を当てはめて語るなんて不適切に決まってるじゃないですか。そういう価値をこそ語っている場面、すなわち価値を捨象してはならない場面で、あなたの価値を捨象する原理で人の行動を捉えるべきじゃないんですよ。
それがわかっていない、つまり、人間行動の普遍的原理であると思っているから、こんな場面でもそういうことをおっしゃるんだと思いますね。

2ヶ月前 No.169

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_zRF

>>168   SumioBabaさん

相も変わらずですねww

 >仮にこの女性が、本当に「市民を助けたい」という気持ちでこういう行動をしたのだとしましょう。もしそうであれば、SumioBabaが「その行為だって、本当はあなたが、自分の利益のためにしただけなのですよ」と言った場合、この女性はこう答えるはずです。「はい、その通りです。自分は「市民を助けたい」と思ったのでそうした、それだけのことです。何も褒めてもらうようなことはしていません。」…こう言える人が本当の「善人」です。<

あなたの主張であれば、この女性はそうは答えませんよ。このように答えます「はい、その通りです。私は自分の利益の為だけにやっただけです、それだけのことです。ただ自分を褒めてもらいたかったのです。人を助けたいなんてこれっぽちも考えませんでした」


>つまりshinwoodさんは、「自分は、何て善人なのだろう!!」と自己陶酔し、「他人を感動させたい!!」というヒーロー願望を満たすためにお年寄りに席を譲ったのであって、「困った人を助けてやりたい」という気持ちなど本当は無いということです。…こういう人を「偽善者」と呼びます。<

あなたの人間性が現れていますねw 善なる心は本能から来るのです。自分も疲れているから座っていたいという思いもあるが、お年寄りの方が自分より大変だろうと思いやり相手を優先して席を譲る行為となるのです。

多くの人があなたのように善なる行為はすべて自分の利益の為だなんては言い始めたら殺伐とした世の中になるでしょう。利己心とは自分の命あってのものでしょう?命を賭けて他人を救うのを利己心というのは理解できません。あなたはまず利益の定義をはっきりさせなければなりません。

何度も言いますが善は本能から来ます。赤ちゃんでも善なる心があるのですからね。奇妙な思い付き理論にいつまで時間を無駄にするのですか。

2ヶ月前 No.170

事務所から ★JIYlKygvUq_ubH

ちと長いですが以下引用です。

ビリーフリセット・カウンセラー 大塚 あやこ 著

「人のために」は本当に善なのか? はまりがちな落とし穴

「人のためにしてあげる」って、とても「いいこと」のような気がしますね。

愛や慈悲の一つの表現であったり「自分を横に置いて人のために!」とか「我欲を捨てて利他に生きるべし!」とか・・・
道徳や規範意識のようなものとも結びついて、美徳であるように思われています。

しかし、ここには落とし穴があります。

他人軸で生きている人が「人のために」をやると、犠牲→消耗への道を突っ走る可能性があります。

「人のために」もさまざまな段階があるのです。
バージョンの違いといってもいいかもしれません。
それによって、一見同じことをやっていても、実は中身は全く違うので要注意です。

それはどういうことかというと・・・・。

1.「人のため回路1.0」は「しつけ」で身につく
まず、人間、生まれてから幼児期までは完全に「自分のため」だけに生きる段階だと言えるでしょう。
生物としての基本的な欲求を満たすことが、この時期の必須テーマだからです。
この時期はそれでいいのですよね。

やがて、少し成長すると、私たちは親から「自分のことばかり考えたらいけない!」と言われるようになります。
先生からも「お友達のことを考えなさい」とか言われます。

生まれてからの習慣でつい、自分のことばかり主張したり、自分の要求を通そうとしたりすると「わがままはいけない!」と怒られるようになります。

そして、嫌なことを我慢したり、お母さんのお手伝いをしたり、兄弟や友達におもちゃを譲ってあげたりすると
「いい子だねー」とほめられたりします。

そこで私たちは学ぶんですね。

ああ、自分のことばっかり考えちゃいけないんだ。
自分のことを考えるとわがままって言われるんだ。
わがままは悪い子なんだ。いけないんだ。

自分のことは我慢して人のことを考えるのが、いいことなんだ。
「人のために」いいことをするのが、いい子なんだ。

さあ、これで「人のために回路 Ver.1.0」の設定完了です。

人のため回路1.0 は、なぜ「人のために」しようとするかというと、

そうしないと怒られるからでありそうすればいい子だとほめてもらえるからです。

「そうしなきゃいけない」から、「そうするものなのだろう」と学んでそうするようになるんです。

自分の意思とは関係なく、「外の規範の刷り込み・取り入れ」であることがわかりますね?
別名、教育とか「しつけ」とかいわれます。
教育された通りに動く。しつけられた通りにふるまう。
これが、人のため回路1.0 の特徴です。

これがいけないと言っているわけではありません。
人が育つということは、このプロセスを通っていくことなのです。
こうやって人類は社会で生きることを学んでいくのですから。

しかしこれはあくまで初期設定。
大人になって、後々「人のため回路2.0」に発展した末、やがて限界がくることになります。

その話はのちほど。

2.「人のため回路 1.5」は命がけの生き残り対策

さて、実はもう一つ、人によっては「人のため回路 1.5」というべきものも存在します。

たとえば、両親の仲が悪かったり、家族がいつもゴタゴタ荒れていたりすると子どもは無意識に、自分がなんとかしようとするものなのです。

親が怒らないように
親が悲しまないように
親が大変な思いをしないように
家が少しでも平穏であるように
家族のみんなが少しでも気分よく過ごせるように

だから自分のことなんかおかまいなしに親のため、家族のため、みんなのために我慢したり、無理したり、合わせたり、がんばったり・・・
そうすることで彼らは、家族の中での自分の居場所を確保することができるし少しでも安心できる時間と空間を手に入れることができるしなにより親を幸せにすることができる。

・・・・とけなげにも思い込んでいるからこそ徹底的に「人のために回路」に身を投じていきます。
これは、子どもなりの必死の生き残り対策であるとともにけなげで純粋な愛情の現れでもあるのです。

しかしこれもまた、無理があります。自分というものを失くしてしまうからです。
これは後に大人になってから、わけの分からない「生きづらさ」という形で壁や限界になっていきます。


3.「人のため回路 2.0」は「良くなるため」に身につける

そのような人のため回路1.0 と 1.5 は、子どもの時に作られたいわば、初期設定の回路でした。
さて、次の段階、「人のために回路 2.0」は、もうちょっと大人になってから、この初期設定の上に拡張・増設されていきます。

理性が育ち、自分で色々なことをやろうとするようになると向上心のある人ならば、少しでも「人間として良く生きたい」「人生もっと良くしたい」などを願うようになります。

そして、自分なりに色々な人や考えに出会って「これが良い」というものを取り入れるようになります。勉強や努力をします。
そうした時に、昔ながらの倫理的、宗教的、精神的な思想の数々がさまざまな形で「利他」を説いていることを知るでしょう。
だから「そうか!」と思います。
「そうすれば良いのか!」と。
で、一生懸命、今度は意図的に「人のために」を実践することになります。

しかし、まさにここが落とし穴。
この段階では既に、先ほどの「人のために回路」1.0 や1.5 が設定されています。

これらの初期回路は、子ども時代に刷り込まれた設定ですからまだ自分の軸や自分の意思というものが確立されていません。
自分というものがわかっていません。

つまり他人軸で生きている状態です。

その上で大人になり他人軸で生きている土台は初期設定のままにさらに自分で勉強して、立派な思想や教えを取り入れて、身につけ、実践しようとするわけですね。
そこで出会ったその教えが「人のために」を良しとする考え方だった場合、もともとの他人軸に拍車がかかっていくことになります。

それが良いこと、善だから。
それが善い人間であるということだから。
そうすればいいことがあると言われているから。
そうすれば幸せになれるはずだから。

こんなに善いことをしているんだから、良いことがあるはずよね?幸せになれるはずよね?
そう信じきって人のために、人のために。
実はこれもまた、他人軸という意味では「人のため回路」1.0や1.5の延長線上にあることがわかるでしょうか?


4.他人軸で「人のために」をやるとどうなる?

さて、基本的な姿勢が他人軸の人がさらに「人のために」をやるとどうなるか?
「自己犠牲」になります。
自分を横において人のために!人に譲って、合わせて、尽くして!自分は無理して、殺して、我慢して!我利我欲はいけない!人が喜ぶように!
あー、またわがままな気持ちが出てきた、こんな自分じゃいけないけない!耐えて、忍んで、飲み込んで!修行だ修行だ、人生は修行!

・・・・やがて
不満がたまって、具合が悪くなってくる。

ほめてもらったり、評価してもらったりすれば満たされるような気がするけど相手がそういうことをしてくれないと「なんで自分ばっかり、こんなにしてるのに!!」という気持ちになる。
心の奥ではマグマが噴火寸前。消耗して、心が虚しい。
人生ってどうしてこう疲れるんだろう。うまくいかないんだろう。

それでも我慢して、こんどは身体が悲鳴をあげる・・・。
こんなに「善いこと」をしているはずなのに、どうしてこんなに辛いんだろう?
それはね。自分軸がないままに「人のために」をやったからです。

いわゆる「いい人」や良く(善く)生きたいと願う向上心の高い人ほどこの落とし穴にはまる危険性があります。

「人のために」・・・
たしかに美しくすばらしいことです。
しかし、真に宗教的・精神的な伝統が言っているような「人のために」は実はそこのレベルじゃないのです。

それは、「人のため回路 3.0」とでもいうべきものであり1.0や2.0 とは全然次元の違うところにあるものなのです。
いきなりそこを目指すのは、残念ながらまだ早かったかもしれません。


5.「人のため回路 3.0」は次元が全く違う

「人のため回路 3.0」は、自分軸をちゃんと作った人だけが行き着ける場所です。

自分の望むことがちゃんとわかって自分の望みをちゃんと自分自身で満たすことができて自分が望んだことや意図したことが、そのまま人のためになるような、そんな場所。
そのためには、自分とちゃんと向き合って自分の闇も欲も明るみに出して、受け入れてそれでもなお輝く自分の本質を知っていなければなりません。

つまり、そういう「人のために」は上級レベルなのです。
宗教的・精神的な「えらい人たち」が言っている「利他」というのはそういう段階を経た、その先の場所から言っていることなのです。
「善悪」の規範でしつけられた通りに動いているような意識の段階ではムリなのです。

自分のことと親のこととをゴッチャにして足をとられているような意識の段階ではムリなのです。
外側の基準と自分自身との区別がちゃんとついて自分で充足する喜びを知っていて自分軸を確立していないとやれないもっとその先の次元の「人のために」があるのです。

そんな「人のため回路 3.0」に進んでいくためには、どうしても通らなければならない階段があります。


6.「人のため回路 3.0」へ進化するために必要なこと

それは徹底的に「自分のため」をやる段階、です。

自分の望むことがわかる。自分の望むことを、やる。
自分の望まないことがわかる。自分の望まないことは、やらない。
つまり自分の「本心」を軸にすること。

そして
「善い」自分も「悪い」自分も受け入れて善いも悪いも本来ない、ニュートラルな自分を中心に据える。
自分のことは一切、他人や他のモノのせいにしない。全部、自分の選択と行動として肚を決める。

これが自分軸の確立です。

そのようにいうともしかしたら、恐れが出てくる人もいるかもしれませんね。

それじゃわがままになっちゃうじゃん!?
自分勝手じゃん!?
自己チューじゃん!?
ダメじゃん!?
いけないじゃん!?

だーかーら。それ!それがまさに刷り込まれた「善悪」なんです。
ここからはもう、そういう刷り込まれた「善悪」で動く段階は卒業なんです。

「いけない」といわれた「それ」は、乳幼児期を卒業するべき時に言われた初期段階の掟です。
それは、一時的なベビーカーや歩行器のようなものです。

もう私たちは、自分で歩けるしそんな掟がなくても生きていけるくらい知性も分別もある大人なのですから。
「わがまま」とは何のことをいっていたのか。何をするのが「自分勝手」だとされてきたのか。そしてそれは本当なのか。

漠然とあたりまえだと思っていたそのことを問い直し頭に刷り込まれた古いモノサシを一つ一つリセットしていくたびに本来の自分というものを思い出してゆけるでしょう。


7. 思考のトリックを見抜いて「自分に正直」をやる段階

思考というのは、すごく単純に「善悪」を信じ込んでいます。
あえて検討することもなく信じ込んだ善悪の基準に従って、行動する/しないを決めています。

しかし善悪というのは、思考が作った決めごとにすぎません。
それは「世間というのは、そういう共通認識なのであろう」「こうするのが最善なのであろう」と信じた一人一人の頭の中のモノサシです。
この思考のトリックを見抜かないと本当の意味での「自分軸」の確立は難しいはずです。

そういうわけであまりハッピーなかんじがしない「人のため回路1.0□2.0」を卒業してもうちょっとハッピーな、「人のため回路 3.0」に成長するにあたっては、いったん

思考のトリックを外し、自分に正直になるという段階が必要なのです。

そうやって、一度自分のために自分が自分で生きるということができた人が真に「私がうれしいから、人のためにしてあげたい」という心境になれるのでありしてあげられることはするししてあげられないことはしないというシンプルなことをなんの葛藤もなく無心にすることができるようになるのです。

自分も相手も大切にできて自分もハッピー、人もハッピーあたりまえのようだけど意外と遠いでも素敵な場所。

悩みながら、求めながら何周か回り回って私たちはそんな場所に行き着くのかもしれません。


以上


で、まあ良心回路3.0の次元に達してる人は利己的と利他的が自然な形でそのまま=で繋がってるので、本人にとっては利己的なものというのは間違いではないし、良心回路の段階を知らない人にとっては利他的にしか見えないでしょうね。

2ヶ月前 No.171

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★iPad=XaDQxMu5Oy

自分の内心に正直に 自分のために良いと思うことをやっていくと、結果的に自分の周囲の環境を良くしていくことになる。なぜなら、自分の周囲の環境が悪ければ 自分にとって不快だからだ。自分を快適にしようと思うと、必然的に周囲の環境を良くしていくことになる。すると、環境を共有している周囲の人も 環境が改善したことによって快適になる。自分の利のために行動すると 結果的に他をも利することになる。
これを「自利利他一如」という...かどうかは知らないが、少なくとも私の理解はそうである。

2ヶ月前 No.172

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>169  ザビビのふくろうさんへ

>「人間とは,その行動において自分の利益を最大にする行為を選択する動物である」と,人間を定義します。そして,この立場をここでは「人間利己説」と呼びます。

>重要なことは,この定義が,人間の本性がこういうものである,と主張しているものではけしてない,ということです。


 なぜ? SumioBabaは《人間の行動原理》=「人間がどういう行為をするか自由意志で選ぼうとするとき、自分の利益を最大にする行為を選択する」を、人間の本性だと考えます。

>つまり,人間の本性は善である,いや,悪であるといった論争が昔からあるわけですが,そういったものとは全く異なるのです。


 SumioBabaは「善」「悪」についても功利主義の立場を採るので、私の為であろうと、公の為であろうと、利益を与えてくれるものが「善」、不利益を与えてしまうのが「悪」です。SumioBabaの《人間の行動原理》は、「善悪」の問題もすべて扱えるつもりです。

>このことにより得られるメリットの一つは,SumioBabaさんが何度もおっしゃっている統一的記述が得られるということなどがあります。これは繰り返さなくていいでしょう。

>ただ,注意すべき点は,次の点です。

>この世界平和を政治的に実現するという課題を論じるに当たり,人間の行動の価値的側面を意図的に排除する,ということが挙げられます。


 なぜ? SumioBabaの場合はそうなりません。「利益」こそが「価値」なのですから、「利益」を考慮することは「価値」を考慮することであり、「人間の行動の価値的側面を意図的に排除する」ようには思えませんが?

>この人は善人だから利己的行動ではなく正しい行動,この人は悪人だから利己的行動で正しくない行動,などという価値的観点からの行為の区別を,意図的に捨象・排除するということです。


 SumioBabaの方法だと、そうはなりません。A、B、C、D、E、という5人の人間から成る社会が有ったとします。それぞれの個人的利益をMa、Mb、Mc、Md、Meとします。《人間の行動原理》に従えば、AさんはMaを最大にする行為を選び、BさんはMbを最大にする行為を選び、…、EさんはMeを最大にする行為を選びます。一方、5人全体の利益の総和をMとします。
 AさんはMaを最大にする行為を選びます。そしてその選択が、Mを最大にする行為とことごとく違うようであれば、巷ではAさんを「利己的」と呼びます。逆にその選択が、Mを最大とする行為とことごとく一致しているようであれば、巷ではAさんを「利他的」と呼びます。Maを最大にする行為とMを最大にする行為とがどの程度一致するかで、Aさんが利己的か利他的かを0〜100の間で数値化するなども可能です。
 そして「善悪」は、誰の視点に立つかで、それが利益になるか不利益になるかにより様々です。誰かの行為が、Maにプラスの効果を持てばAさんにとって「善」ですが、Mbにマイナスの効果を持てばBさんにとって「悪」であり、Mにとってわずかにプラスであれば社会にとってわずかに「善」、といった具合です。

>つまり,倫理的問題を扱う場合は,人間利己説を立場として採ることは方法論的に間違っているということになるわけです。


 なぜ? 倫理的問題は、例えばこうなります。→「Maを最大にする行為とMを最大にする行為とは、なぜ異なるのか?」「Maを最大にする行為とMを最大にする行為とを一致されることは可能か?」「Aさんの価値観の変化により、Maを最大にする行為とMを最大にする行為とが一致したとき、Maは最大の中の最大になれるか?」…等々の形で、きちんと議論可能です。

>しかし、実際の女性はそういったことを一切考えず、自分の危険も顧みず、その人たちに助かってもらいたいという一心で行為を行った場合、それは利他的行為と言うべきものなんですよ。だって、実際立派な行為じゃないですか。


 「利己的」であり、かつ「立派」だと思います。「立派じゃない」なんて誰も言ってませんよ。それどころか、「…こう言える人が本当の「善人」です。」と最大級に褒めているじゃないですか( >>168 )。「褒められたい!!」と思わずに、他人を助けてやっている人こそが、真に「褒められるべき」です。shinwoodさんのように「褒めてくれないのなら、人助けなんかしたくなくなる」というのは、「褒めてもらうために人助けをする」を含意しており、動機が不純です。
 ザビビのふくろうさんも、「利己的」=「悪」、「利他的」=「善」という思い込みをお持ちのようですね。事務所からさんが素晴らしいご意見を書いておられます( >>171 )。「利己的」と「利他的」とを区別し、「「利己的」はいけません、そんな事をする人は叱ります。「利他的」になりましょう、そうすれば褒めてあげます。」なんて言っているようでは、本当の「善人」ではないということです。本当の「善人」とは、自分個人の利益Maを最大にする行為が、そのまま社会全体の利益Mを最大にする行為と一致している人です。

2ヶ月前 No.173

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>171  事務所からさんへ

 素晴らしいご意見です。学ぶものがたくさん有りました。あくまで私見ですが、このスレッドのここまでのコメントの中で、ベストアンサーだと思います。

2ヶ月前 No.174

★30JjgxOVKX_ZFe

>171、

即自、対他、対自、を思い出した。

2ヶ月前 No.175

★30JjgxOVKX_ZFe

ついでだから、言うけど、

>0、「やろうではありませんか皆さん」

ゆにちゃん、あんた、現制度に依存しているくせに、何様のつもり?

2ヶ月前 No.176

哲人たちの代弁者 ★SEexJXP8NF_8gk

哲学やるなら大きな問題に取り組め


【中国資本により日本の国土の買い漁りが進んでいます。】

気が付けば、日本は中国の日本省に。もう、手遅れかな?

2ヶ月前 No.177

地下水 ★otncK03kC4_BXv

>>177
まず国防や安全性に影響を与える土地やインフラや企業などは、外資で買えない様に法律で規制しておく事が国際社会では常識ですね。
日本も普通の国になるべきかもしれませんね。
そして本質的にはイノベーションを社会に広めて、日本の経済力そのものを上げる事ですね。

2ヶ月前 No.178

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

ソフィーさん

かつて地球は一度核戦争で滅んでいる・・それからの再びである都市伝説についてどう思われますか?

2ヶ月前 No.179

ソフィー @yuniko99 ★ru9hDPoFte_yO9

宿題さん

ナウシカとかコナンとかはそう言う設定になっていますね

風の谷や孤島なんですが 人類はまた再び起こることは出来るのでしょうか?

核戦争の規模によるでしょうね。人間はそんなに愚かじゃない・・・と言いたい所ですが

トランプさんが大統領になるぐらいだから何が起こるかわかりませんねえ。

2ヶ月前 No.180

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

ソフィーさん

日本は江戸っ子の遺伝子が多いのでしょうか?

他の国は核シェルターを作って万全の体制になりつつあるのに・・

2ヶ月前 No.181

ソフィー @yuniko99 ★ru9hDPoFte_yO9

宿題さん

日本人は「なるようになる」が多いんじゃないでしょうか

正義や人権に拘る人も少ないし

目の前のことで精一杯なのでしょう。多分。

2ヶ月前 No.182

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

ソフィーさん

小松左京さんの日本沈没を1974年に食い入るように見ていました。

政府は海底の危険な正確な情報を国民に隠し「日本はこのまま沈んでいいと」政界が決めたのです・・

どの映画を見ても情報は入ってきませんね・・

宮沢賢治さんの銀河鉄道に出てくるタイタニック号の沈没も皆逃げ出している時に何も知らずに踊っている人たちが・・

2ヶ月前 No.183

哲人たちの代弁者 ★OdpFbYM2Uf_8gk

誰が考えたのか? 日本語の意味の深さには、本当に敬服します。

議題の平和と言う文字も「平等を重んじることで和が訪れる」と言う具合に答えを示しています。

正しい、って何んのこと? 宿題さんがお孫さんから聞かれたら何て答えますか?

そりゃあなんだよ、正しいってのはだね横一線と止めると言う文字の組み合わせで、横一線は平等を意味しそこで止めると言うことだよ。
じゃあしいは何、しいは漢字で思惟と書き深く考えることを言うんだよ。
つまり、正しいって全てに関してみんな平等に暮らせることを一生懸命に考えること、だね。
皆がこの事を知れば、これだけで世界平和ができちゃうんだよ。
さすがに宿題さんの文字分析、100点満点の答えですね。

次は「知る」って知ってる。

2ヶ月前 No.184

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

>>184

あれっ・・

正しい

止=足  足が目標の線めがけて真っ直ぐに進む様らしいです・・

2ヶ月前 No.185

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>173  SumioBabaさん
遅くなってすみません。
今回のあなたのレスにおいて触れられていない「方法論的」という論点が、 >>169 で最も私の言いたかったことです。
あなたは「なぜ」とおっしゃっていますが、おおよその言い方で言えば、あなたの原理をあくまで方法論として捉え直し、書き直したわけです。
しかし、これがあなたにはやはり気に入らず、むしろ納得できない様子なので、私から言えばやはりあなたには方法論的という意識はない、ということだろうと思います。
そして、だとしたら、やはり私の立場からは、あなたの説は、いわば方法論としてではない還元主義ということになります。
で、これは私とSumioBabaさんの思想の根本的な立ち場の違いであり、存在論でも同様でした。
つまり、私は存在にせよ価値にせよ、語りえぬものであるという立場ですが、あなたはそれらをすべて語りうるものにしてしまう立場です。
私からすると、それは還元主義ということになるわけで、今回の価値についても、あなたは要するに「計算可能=計量可能」なものとして価値をとらえるわけです。
私は科学的方法論としての還元主義を認めたおり、自然科学であれ社会科学であれ、唯物論的・自然主義的に扱うことは正当であると考えます。
例えば、心理・精神現象を脳科学・脳神経科学は扱いますが、これはその意味で何の問題もないわけです。
私が反対するのは、心理・精神現象の問題が、その本性上、すべて脳神経科学で扱う問題に尽きる、という考えです。
もしそうなら、了解心理学や現象学的精神病理学等は存在意義がないということになります。
それは違うでしょう、と言っているわけです。

そして私は政治的問題としての平和実現も、アバウトに言えば科学と同じく事実学に属する問題であって、したがって方法論的に自然主義的扱いをすことに賛成であり、その方法論として、人間行動をSumioBabaさんの原理によって捉えることを認めているわけです。
しかし、先の心理・精神現象の場合と同じく、人間行動がその本性上、あなたの原理によって捉えられるものに尽きる、とすることを否定しているわけです。
あなたは、あなたの原理をいわば公理とする方法論によって政治問題としての平和実現を解析するわけで、その限りそれは正当ですが、
女性の普通の意味で言うところの利他的行為に対して、あなたの言い方でわざわざ「あなたの行為も利己的行為にすぎない」などと言うのはむちゃくちゃだって言ってるわけです。

あっ、それと「事務所から」さんが引用された文章ですが、なんかSumioBabaさんはえらく評価が高いようですので、一応これについてコメントしておくことにします。

この心理カウンセラーの文章ですが、青少年の心理的自我、アイデンティティーの確立という話として読めば、正直、普通の話ですよね。
これは青少年一般についてだけではなく、例えばスポーツ選手でも芸術家でも、アイデンティティーを確立する過程ではまず型をしっかり身につけ、その後そこからはみ出す個性としての自己を肯定していったん自分を縛るものとしての型を壊し、新たに自分自身を肯定する型を見出していく、そして真の自己を確立して、それまでの型もまた単なる自己否定するものとしてではなく、これもまた自己肯定としての型として新たに捉え直して自らものにしていく、みたいなストーリーですよね。
これで少し思いついたのは、「人のため回路2.0」の段階は過度に理想的になって現実の自己との矛盾に苦しむ段階ですが、この時期にこの逆バージョンというか、「人のため回路2.0」に対する反発・裏返しバージョンがありますね。
いわば「人のため回路−2.0」=「自分のため回路2.0」みたいなバージョンで、
「人のためなんて嘘じゃん、全部自分のためじゃん、利他なんて偽善じゃん、きれいごと言ってんじゃねえよ」っていうタイプですね(笑)
ちょっとBabaさんのにも似てますね(笑)

で、私としては、心理的な自我の確立という観点から規範問題について語るという意味では、別にこのカウンセラーの話も(時にミスリーディングな表現はあると思いますが)それはそれなりにいいんじゃないですか、ってくらいにしか思いません。
事実学ですしね。

>ザビビのふくろうさんも、「利己的」=「悪」、「利他的」=「善」という思い込みをお持ちのようですね。事務所からさんが素晴らしいご意見を書いておられます( >>171 )。「利己的」と「利他的」とを区別し、「「利己的」はいけません、そんな事をする人は叱ります。「利他的」になりましょう、そうすれば褒めてあげます。」なんて言っているようでは、本当の「善人」ではないということです。


「ザビビのふくろうさんも」って何ですか、「も」って□(笑)
まるでshinwoodさんと私を同類であるかのように言われたのは、大変遺憾であり、心外です。
shinwoodさんの動機が不純だというのは同意します。一緒にしないでください(笑)

本題に戻りますけど、だから違うんですよ。
繰り返しになっちゃいますけど。
あなたと私は言葉遣いが違うわけですよ。
そしてその言葉遣いはそれが発言されるコンテクストで適切・不適切があるって言っています。
「人のため回路1.0」かどうか知りませんが、人のために行う行為を善とする規範、「利他的=善」、そして他人を無視して「利己性」を追求することを「利己的」という言葉で表現してイコール「自己チュー=よくないこと」とする我々の日常言語があり、それは我々の社会道徳としては現に重要な役割を持っており、教育・しつけ・慣習で刷り込まれることによって、社会の中で生きる道徳的人間としての基礎となってるわけですよ。
その言葉遣いで人の命を救った女性の行為を利他的行為と呼ぶのは適切で、その価値を認めているなら、これをわざわざあなたの拡張概念としての言葉遣いで、その人に面と向かって「あなたは「利己的」だ」と言うことは誤解を招く表現だし、こんなとこでわざわざ言う必要ないでしょ、と言っているのです。いついかなるコンテキストでもだめだと言っているのではないのです。

倫理の問題はもっとあるんですけど、とりあえずここまでにしときます。
残りはどうするかわかりません(笑)

2ヶ月前 No.186

哲人たちの代弁者 ★kItWRcKN36_8gk

正しいを広辞苑で見ると、真っ直ぐなこと曲がってないことですが物心両面と言う意味です。
文字分析ですので、自分の考えで行いましょうね。

さで、次は宿題さんが好きな哲学者の「何とかさん」の言葉で無知の知の知と智恵の智について。
先に広辞苑より、「智・知」ものごとを理解し、是非・善悪を弁別する心の作用、と記されています。

私「知は矢と口のくみあわせで、矢は貫くを意味し口は論理を意味すると捉えます。
従って、知とはものごとを論理にて捉えることと考え、智恵の智は日の印の上に立つ知の最高位と考えます。

何れにしろ、習い覚えた情報は知識に非ず、ってことですね。

さて、次は哲学の哲と言う文字について考えましょう。

2ヶ月前 No.187

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

>>187

申し訳ありません。最近は漢和辞典なもので・・

2ヶ月前 No.188

ソフィー @yuniko99 ★ru9hDPoFte_yO9

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2ヶ月前 No.189

地下水 ★otncK03kC4_BXv

>>187
哲学というものはフィロソフィーの和訳で、原義は知識を愛する、です。
学問や理学体系と言った整理された知識を愛せず、我流の個人的見解に拘泥するのは、全く愛知と言うには及びません。

2ヶ月前 No.190

哲人たちの代弁者 ★99Q56zsbTQ_8gk

地下水さん
〉哲学というものはフィロソフィーの和訳で、原義は知識を愛する、です。
〉学問や理学体系と言った整理された知識を愛せず、我流の個人的見解に拘泥するのは、全く愛知と言うには及びません。

下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる。
原義は知識を愛する、何て地下水流の個人的見解に拘泥するのは、全く愛知と言うには及びません。

繰り返し百回お読みなさい。

〈哲学〉という言葉は,明治初年の段階で,西周(にしあまね)によって,英語の〈フィロソフィーphilosophy〉の訳語として作られた。〈フィロソフィー〉は,ギリシア語の〈フィロソフィアphilosophia〉に由来し,〈知恵(ソフィアsophia)を愛する(フィレインphilein)〉という意味の言葉である。

それから、もう一つ
〉学問や理学体系と言った整理された知識を愛せず、
これは知識ではなくて情報です。
従って、学問や理学体系と言った整理された情報を愛せず、が正解です。
少しレベルが高い話ですが、
知識や智恵は個人的な所有物で、一旦その個人から離れればただの情報に変わるのですよ。

2ヶ月前 No.191

哲人たちの代弁者 ★PtkcfoDrOO_8gk

宿題さん

哲学の哲と言う文字は「道理に明るいこと。さといこと。」を指します。
道理に明るいこと、つまり道理に明るくなるためには道理をさとり知れば良いのです。
従って、「哲学とは道理をさとり知るための学問の一種」と言うことです。

何故、哲学は道理に拘るのか。
人類の知能は、道理をさとり知ることで発育するように組まれているのです。
哲学の原義、愛智の意は道理をさとり知るための最短ルートを示しているのですが、そのことに気付いた者たちはほんの僅かです。

2ヶ月前 No.192

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

>>192

ヤスパースさん「哲学することの意味は、それ自体としては言表することの出来ない唯一つの観念、すなわち存在意識」

これを踏まえての・・漢和辞典・・

知・・物事の本質を正しく見通す。物事の本質を見抜く能力。

智・・矢のようにずばりと会得したり当てたりする。知恵や術にすぐれている。

2ヶ月前 No.193

哲人たちの代弁者 ★bwrVV44BKf_8gk

宿題さん

カールヤスバー氏の思い込みですよ。
哲学とは〈知恵(ソフィアsophia)を愛する(フィレインphilein)〉という意味の言葉であり、哲学をするとは智恵を愛し求めると言うことです。

哲人たちは、愛智の意とは「智恵は愛より出るとの意」である、と断言します。
そして、愛を自己愛と人間愛に二分し愛智の意の愛は人間愛の愛である、と述べています。

〉知・・物事の本質を正しく見通す。物事の本質を見抜く能力。

知とは知能や知る、そして知識など智恵に至る元素ですが知は道理をさとり知ることで生じる作用です。
宿題さんに知の作用が有りましたら、
〉智・・矢のようにずばりと会得したり当てたりする。知恵や術にすぐれている。
智恵を産み出せます。

1ヶ月前 No.194

地下水 ★lHRYPNADL9_BXv

>>194
個人的な知恵は浅はかだと思いますよ。知恵がついたね、と皮肉を言われる程度の事で。
少々の知恵がついても、先人の追試の一部に過ぎないと思いますよ。
それよりも学問体系や、確かに証明され整理された理学体系を参照して、そこから関連の知識を納得して引用する事が有意義です。
哲学とはこの様に、知を愛する事です。まず先人や世界の知に敬意をはらえないのならば、哲学が始まる以前の状態なのです。

1ヶ月前 No.195

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

ソフィーさんの存在性思想は存在の本質を言い当てていますか?

1ヶ月前 No.196

地下水 ★lHRYPNADL9_BXv

>>196
存在の本質って何ですか。
一言で言えるものですか。
存在も色々あります。
太陽は核融合をしてエネルギーを何十億年も放射し続けている、巨大な水素とヘリウムのかたまりですね。お天道様は地球の生態系の為には、無くてはならない存在ですね。
人間は生き物ですね、そして社会生活を営んでいます。アインシュタインの様な深い考察をされ、しかも正確に証明をされた先人は、偉大な存在として社会が認めていますね。
これらを同列に考えるのは如何なものかと思いますよ。
個性ある性質をもったエネルギー、なんて言っても、個性ある性質は、玉虫色で千差万別ですしね。
エネルギーといったら、目に見える物質はどうなるんだ、生きている生き物はどうなるんだ、これらは光や電気の様なエネルギー粒子とは全然形態も性質も本質も異なります。
従って、玉虫色の還元主義としか言いようが無いのですが、エネルギーとは何かという事や、性質を構成している情報とは何かとか言う事に答えられていないですね。

1ヶ月前 No.197

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

地下水さん

質問の中味は本質を言い当てているかいないか? ですよ?

1ヶ月前 No.198

地下水 ★otncK03kC4_BXv

>>198
ソフィーさんのは単なる、ジョルジュ・ルメートル司祭のビッグバン宇宙論の最初と最後をパクっただけじゃないですか。
ビッグバン直後の宇宙は、高エネルギーのかたまりであった。
従って、全ての物を還元すると、もともと高エネルギーであった。
その後エネルギー密度が下がって、幾つかの性質の異なる素粒子に分化してくる。
多世代を経て、様々な個性ある性質をもった物質やエネルギーや情報や生物ができてくる。

だから138億光年の最初と最後を短絡して言えば、エネルギーが個性ある性質をもった、と言える。
歴史も性質の内容も素っ飛ばしている。内容を素っ飛ばしているから理解が足りない。内容にこそ本質があるのです。

1ヶ月前 No.199

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

ソフィーさん

どう思われますか?

1ヶ月前 No.200


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