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平和ルネサンスv^^。ピース2020No.148 だけを表示しています。

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>142,143  ザビビのふくろうさんへ

>まず,私の原理の説明が >>130 のときと変化したというご指摘ですが,

>確認すると,余計なことを考えたせいか,たしかに説明が不正確になっていますね。

>私としては最初から二元論的原理による行動説明を意図していましたので,これは変化したのではなく,表現がまずかったということです。そもそもそうじゃなきゃ,人ごとに説明原理が異なるというより,説明できませんからね。

>ですので,これは取り消し,訂正をお願いします。

>誤解を与えてしまい,申しわけありません。


 はいはい。自分の間違いを誤魔化そうとする人には、徹底的に厳しく追及することも有りますが、ちょっとした混乱だったと訂正して頂ければ、何も問題は有りません。 >>143 も同様です。

>ということで,私の考えは最初から >>136 で示したようなものであって、あなたに影響を受けて変化してなったわけではない、ということを了承していただけたことを前提に以下は述べます。


 はい、了承しました。

>この私の考えは、あなたのものと等価ではありません。

>解釈によっては私の立場ではあなたの立場の説明を還元できますが,逆は本来無理です。

>というのも,あなたの立場は,普通の意味での利他的行為の側面を捨象してしまっており,実質は利己的行為としてとらえる一元論になっているからです。

>あなたは利己的行為の拡張解釈で統一的記述が得られると言いますが,それは一元論的説明の枠組みを設定したということにすぎません。


 「等価」とはどういう意味なのでしょうね。

> >>103

>>よく、「世界平和を実現しましょう」とか「他人の為に自分を犠牲にしましょう」とか綺麗事を並べ立てている人を見ますが、《人間の行動原理》に反する事を要求されても、誰も従わないと思われます。世界平和の実現を目指すのなら、あるいは、他人の為になる行為を求めるのなら、《人間の行動原理》に則り、人々がそうしたくなる方法を考え出す必要が有ると思われます。


>このようにあなたは述べているわけですが,実際,自分を犠牲にして他人のために事をなす人はいますよね。

>では,質問します.

>このような人の行動は,あなたのいう《人間の行動原理》に則っているのですか,いないのですか?


 まず、「自分を犠牲にして他人のために事をなす人」というのは、「狭義の利益」で計算をした場合の表現です。SumioBabaが言う「広義の利益」で計算すれば、実はこの人も、自分を犠牲になどしていないことになります。初めから「広義の利益」で計算しておけば、そもそも「自分を犠牲にして他人のために事をなす人」という人間自体が有り得ないことになります。

>あなたの主張によれば,この原理に例外はないということでしたよね。

>とすれば,こういう人の行動は,精神的利益を得るための利己的行動であるということになります。

>ん?とすれば,「他人のために自分を犠牲にしましょう」という呼びかけも,それだけでは何ら《人間の行動原理》に反する要求ではないことになりますよね。


 「狭義の利益」計算によれば、「他人のために自分を犠牲にする」ということは有り得て、「他人のために自分を犠牲にしましょう」という呼びかけも意味を持ちます。
 「広義の利益」計算によれば、「他人のために自分を犠牲にする」という事自体が不可能です。例えると、「自分がやりたいと思った事の反対をやる」のようなものです。「これこそが反対だ」と思い、そう主張して実行したとしても、やったという事自体、それは「自分がやりたいと思った事」の方になってしまい、反対ではなくなってしまうようなものです。

>にもかかわらず,反するとみなされているということは,矛盾の疑いありです。


 《人間の行動原理》に「反する」と見なされるのは、「狭義の利益」で計算した場合です。「広義の利益」で計算すれば、反していないのです。

>矛盾じゃないとするなら,それは《人間の行動原理》が精神的利益より非精神的利益の最大化を目指すこと,というようにいつのまにか暗黙のうちに変化しているんじゃありませんか?

>だとしたら,今度はあなたの原理が一般性を失うことになりますね。


 一見矛盾しているように見えるとしたら、「狭義の利益」と「広義の利益」とを区別せず、混同しているからではないでしょうか?
 「狭義の利益」で計算すれば、人間は利己的に振る舞うことも有れば利他的に振る舞うことも有り、《人間の行動原理》は成立したりしなかったりするように見えます。
 「広義の利益」で計算すれば、《人間の行動原理》はいつでも誰でも成立する行動原理であり、例外は有り得なくなります。

>つまり少しまとめますと、

>上の質問に《人間の行動原理》に則っている、と答えるなら、きれいごとの要求が「《人間の行動原理》に反する事を要求」するものであるということと矛盾します。

>逆に、《人間の行動原理》に反している、というのなら、あなたの原理が例外を許すことになり、一般性を失います。


 「狭義の利益」計算でいけば「自分を犠牲にして他人のために事をなす人」と表現される人も、「広義の利益」計算でいけば《人間の行動原理》=「人間がどういう行為をするか自由意志で選ぼうとするとき、自分の利益を最大にする行為を選択する」に則っていることになります。そして「広義の利益」計算の場合、「きれいごとの要求」は、原理的に有り得ない事を要求していることになります。「自分がやりたいと思った事の反対をやる」と同様、やった時点でそれは、反対の事ではなく、自分がやりたいと思った事だったことになってしまうように。

>以上,お返しと言っては何ですが(笑),一応反撃です。

>とは言え,以上の指摘は,あなたの考えへの根本的批判になると考えます。


 以上の説明でいかがでしょう?

> >>128

>>「いや、自分はA−B<C−Dだけど「する」を選ぶ」と主張する人がよく居ます。しかしこの人の場合、「する」を選びたいという願望を満たすことによる精神的利益+Xを見落としているのであり、+Xを考慮すると、A+X−B>C−Dが成立しているはずです。そして本当は、このA+XをAと書く必要が有ります。


>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

>ここの文章の中の,「見落としている」,「本当は」という表現を,今も適切であると考えますか?


 適切だと思いますよ。例えば、左右に振れている「振り子」のエネルギー保存則を見付けられるかどうか。Sさんは位置エネルギーだけを考慮し、「エネルギーは保存していないようだ」と言います。Bさんは運動エネルギーだけを考慮し、「エネルギーは保存していないようだ」と言います。そこでSumioBabaは、こう言います。「君たちは、どちらも一方だけを見て、他方を「見落としている」。「本当は」、位置エネルギーと運動エネルギーとの和が保存しているのだよ」。この場合、「見落としている」と「本当は」という言葉は極めて適切だと思いますが、いかがでしょう?

2018/05/12 04:25 No.148

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