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身体について

 ( 哲学掲示板 )
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すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

身体、すなわち目や耳、手や足、口や鼻、お腹や背中に、内臓…。

哲学は概念を扱う。
概念に新たな意味を見い出してゆく。

…ところで「身体」は概念なのだろうか?

私たちは身体を具体性の最たるものと捉えもする。
具体的なものはつねに、身体を介して示される。

あるいは身体は「今ここ」に私を縛りつける。
身体は制約であり、そのせいで私にはできることが限られている。

”不”自由の起源。
可能性の”不”可能性。

身体は実在の根であり、概念とは言えないかもしれない。
しかし私と世界を媒介するものとして、概念と言えるかもしれない。

…いったい、どこからどこまでが身体なのだろうか?

・・・

世界が価値体系であるとすれば、
身体も一種の価値体系と捉えることはできないだろうか。

目や耳、手や足、口や鼻、お腹や背中に、内臓…。

こういった身体的なカテゴリーにおいて、
感覚が独特の価値を帯びて体系化される。

とすれば、身体とは世界そのものであるとも言えないだろうか。

・・・

価値づけられた物は、使用において本領を発揮する。
それらはいわば道具である。

とすれば、道具の本義は身体の延長にないだろうか。

・・・

あるいは身体は私と他者との媒介でもある。
私が見られることができるのは身体があるからである。
逆もまた然り。

とすれば、身体は実在の根でありながら、社会性の根とも言えるのではないだろうか。

・・・

私たちは通常、身体を意識しない。
何かに触れるとき、手ばかりに集中しない。
むしろ触れられるものに意識は集中している。

とすれば、身体はもっとも身近でありながら、もっとも疎遠なものとも言えないだろうか。

・・・

こうしてみると、身体はじつに、哲学し甲斐のあるものである。

身体について考えてみる。

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地下水 ★otncK03kC4_zRM

 哲学というのは科学と異なり、一期一会の意識の主体による世界への価値判断を扱う。一期一会であるから歴史的なものや個人史も扱う。そして価値判断するのは貴方自身なのである。この点で、貴方の個人的な身体の感じ方が大切になる。

 そこには文化もある。赤青黄色緑水色桃色橙金銀銅黒白など色に関する言葉は多い。これは目が多くの情報を扱うから。光が多くの情報を扱うから。光は物理的にはボース・アインシュタイン統計に従う、重ね合わせの起きるボース粒子である。

 さらに重いものは電子であり、これは物理的にはフェルミ・ディラック統計に従う。辛い甘い苦い渋い旨い酸っぱいなど味に関する言葉があるが、味は原子のフロンティア電子の反応による。このフェルミ順位は物理的には半導体を作り、計算機や脳などの知的判断から、目や筋肉などのセンサーや動力の制御も行える。

 半導体にはp型とn型があるが、pn接合など2層の接合がフォトセンサーやピエゾ素子や太陽電池や整流器であるダイオードとなり、pnpやnpn接合など3層の接合が論理素子やTFTテレビ画面などのトランジスターになり、pnpn接合などの4層の接合は逆阻止三端子サイリスターとなりインバーターエアコンやインバーター電車、車やバイクなどの動力の制御から発電所までに使われている。

 また、鼻は臭いや、香り香ばしさなどを感じるが、これもフェルミ粒子であるフロンティア電子の反応による。

 他に、耳は笑い声や泣き声、怒鳴り声や叫び声、虫の声などを聞き分けるが、これは音素であるフォノンによる。

 第六感もあるかもしれぬ。最も希薄なものに電波があるが、これは最も希薄なマックスウェル・ボルツマン統計に従う。身体にもマイクロコイル状の組織があるが、これが電波を感じうるかはまだ未知の科学である。組み合わせ論から、原理的な統計は以上の三種類である。組み合わせ論的には、物理的に考えにくいもう一種類の数え方もある。

 また他に磁気力もある。


 身体と国語、物理を横断して、感性を考えて、ここに良く現れる言葉を身体に関係する人間が生きる為に必要な価値と考えて、個人の一期一会の価値判断を掘り下げて深めて行きたい。


 人間が活発に生きるには酸素が必要だが、その為に身体が酸化して老化する。そして死亡原因は、癌脳溢血心筋梗塞肺炎などであるが、活性酸素によって遺伝子が傷つけば癌になり、血管が傷つけば脳溢血や心筋梗塞になり、埃などの異物を攻撃して活性酸素が発生し炎症を起こせば肺炎などになる。これを防いで老化を防ぐには、抗酸化酵素が必要だが、1000ミリグラムのビタミンCが老化を防ぐ事が近年解って来た。これは果物や野菜では沢山食べても100ミリグラムも摂取できないが、サプリメントで非常に安価に摂取できる時代になった。

 他にも、脳の血管の再生によってボケを防ぐには、ニッキやシナモン、シナモントーストやシナモンアップル、生八つ橋などが有効である。

 脳の廃棄物であるβアミロイドを排泄してボケを防ぐには、レスベラトロール、これはピーナッツの渋皮が日に10個分ほどが有効であることが解ってきている。

9ヶ月前 No.12

地下水 ★lHRYPNADL9_zRM

>>12  少々訂正。

 哲学というのは科学と異なり、一期一会の意識の主体による世界への価値判断を扱う。一期一会であるから歴史的なものや個人史も扱う。そして価値判断するのは貴方自身なのである。この点で、貴方の個人的な身体の感じ方が大切になる。

 そこには文化もある。赤青黄色緑水色桃色橙金銀銅黒白など色に関する言葉は多い。これは目が多くの情報を扱うから。光が多くの情報を扱うから。光は物理的にはボース・アインシュタイン統計に従う、重ね合わせの起きるボース粒子である。

 さらに重いものは電子であり、これは物理的にはフェルミ・ディラック統計に従う。辛い甘い苦い渋い旨い酸っぱいなど味に関する言葉があるが、味は原子のフロンティア電子の反応による。このフェルミ順位は物理的には半導体を作り、計算機や脳などの知的判断から、目や筋肉などのセンサーや動力の制御も行える。

 半導体にはp型とn型があるが、pn接合など2層の接合がフォトセンサーやピエゾ素子や太陽電池や整流器であるダイオードとなり、pnpやnpn接合など3層の接合が論理素子やTFTテレビ画面などのトランジスターになり、pnpn接合などの4層の接合は逆阻止三端子サイリスターとなりインバーターエアコンやインバーター電車、車やバイクなどの動力の制御から発電所までに使われている。

 また、鼻は臭いや、香り香ばしさなどを感じるが、これもフェルミ粒子であるフロンティア電子の反応による。

 他に、耳は笑い声や泣き声、怒鳴り声や叫び声、虫の声などを聞き分けるが、これは音素であるフォノンによる。

 第六感もあるかもしれぬ。最も希薄なものに電波があるが、これもボース統計であろう。身体にもマイクロコイル状の組織があるが、これが電波を感じうるかはまだ未知の科学である。

 また他に磁気力もある。MRIの核磁気共鳴における超電導磁石の電子のクーパー対では、フェルミ粒子である電子が対になり、ボース粒子となって電気抵抗が無くなるという、不思議な実用もある。

 気体の熱平衡には、マクスウェル・ボルツマン統計がある。組み合わせ論から、原理的な統計は以上の三種類である。

 組み合わせ論的には、物理的に考えにくいもう一種類の数え方もある。これは場所も粒子も全て異なる名を持つと考えて数え上げる場合で、現実の地理における個人の所在や、有限に限れば半導体内の様々な原子の所在、生体分子内のアミノ酸の所在を数え上げる事になる。従って、基本は階乗であるガンマ関数である事が解かるし、原子核から出る周波数にべータ関数が出るのかもしれぬ。まあ素粒子の基本には、もう少し空間的に強いつながりである、結び目を考えたいものである。



 身体と国語、物理を横断して、感性を考えて、ここに良く現れる言葉を身体に関係する人間が生きる為に必要な価値と考えて、個人の一期一会の価値判断を掘り下げることもできるかもしれぬ。


 人間が活発に生きるには酸素が必要だが、その為に身体が酸化して老化する。そして死亡原因は、癌脳溢血心筋梗塞肺炎などであるが、活性酸素によって遺伝子が傷つけば癌になり、血管が傷つけば脳溢血や心筋梗塞になり、埃などの異物を攻撃して活性酸素が発生し炎症を起こせば肺炎などになる。これを防いで老化を防ぐには、抗酸化酵素が必要だが、1000ミリグラムのビタミンCが老化を防ぐ事が近年解って来た。これは果物や野菜では沢山食べても100ミリグラムも摂取できないが、サプリメントで非常に安価に摂取できる時代になった。

 他にも、脳の血管の再生によってボケを防ぐには、ニッキやシナモン、シナモントーストやシナモンアップル、生八つ橋などが有効である。

 脳の廃棄物であるβアミロイドを排泄してボケを防ぐには、レスベラトロール、これはピーナッツの渋皮が日に10個分ほどが有効であることが解ってきている。

 また細胞にはカリウム+やカタラーゼ、FADやNADがあり、NADが基礎代謝の律速であり、これを作るβNMNを補うと、これが若返りの薬となる事が最近解かってきており、慶応大学など各地で臨床実験も行われ始めた。

 フェルミ粒子である、フロンティア電子や生体分子の構成には深いものがある。

9ヶ月前 No.13

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

目や耳、鼻や口、手や足といった諸器官がまずあって、
そこから知覚が取りまとめられてのちに、
それらをひとまとめにして身体という概念が生まれるのでしょうか?

それともまずあらかじめ統一的な身体的存在があって、
それが受容する知覚がその種類ごとにカテゴライズされることでのちに、
目や耳、鼻や口、手や足といった諸器官が生まれるのでしょうか?

変な質問かしら…?

9ヶ月前 No.14

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

少なくとも知覚しうる領野は、
直面しうる領野に対しつねに不足気味になるのではないだろうか。

というのも、
仮に知覚しうる領野が直面しうる領野を上回ってしまったら、
一切が予測可能になってしまうからである。

しかし現実問題、私たちの知覚は限られていて、
それゆえに直面する事態にはつねに、不確定要素がつきまとうのだから、
このことはありえない。

よって、
つねに知覚可能な範囲は直面する事態に対し限定的である。

9ヶ月前 No.15

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

しかし知覚と一言に言っても、
視覚と聴覚はそもそも、
その根すら異なる異質なものでありえないだろうか。

それをひとまとめに知覚と呼んでもいいのか。

それとも視覚や聴覚の違いは、
たんなる知覚の限定され方の違いに過ぎなくて、
やはりそれらはひとまとめに知覚と呼びうるのだろうか。

9ヶ月前 No.16

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

たとえば、
一つの対象物、アクション映画を鑑賞しているとして、
私はたしかにそれを見ると同時に聞いている。

つまり視覚と聴覚がここに同時的に混在していることになる。

このとき視覚情報と聴覚情報は明らかに異質なものだが、
それらはともに、ひとつの「アクション映画」という対象物を指している。

つまり視覚と聴覚が一つの対象物のもと、統合されている。

そのかぎりで視覚と聴覚は「知覚」という総称のもと、
同類のものとして機能していることになる。

一方でこのとき、
同じシーンを目だけ塞いで聞いて、
それから今度は耳だけ塞いで見るとしよう。

つまり視覚と聴覚を非同時的に配置してみよう。

すると私はこの場合、視覚情報と聴覚情報を
同じ一つの対象物に統合することができるだろうか。

それができるか否かは、
まったくその視覚情報と聴覚情報を
どのような具合に非同時的に配置したかに依存するのではないだろうか。

つまり視覚と聴覚の統合はまったく、
コンテクスト(さしあたり状況)に依存するのではないだろうか。

音だけ聞いてすぐさま映像だけ見、
しかもそれが音と映像の結びつきやすいような、
たとえば銃を発砲するシーンだとしたら、
それらを統合することはできるかもしれない。

しかし厳密にはじつは、
違う映画の発砲シーンということもありうる。

するとその統合可能性はまったくコンテクストに依存することになり、
その正確性に確証を得ることは甚だ難しいことになる。

もっと言えば、
仮に同時的に視覚と聴覚を受容したとしても、
それすらコンテクストに依存するのではないだろうか。

というのも、
映画を見ているとき、
私がその映画の音声と思っていたものが、
実は類似する異なる映画の音声を誰かが背後で流しているに過ぎない場合があるからである。

このとき、
それらを統合できるか否かは、
まったくコンテクストに依存する。

バリバリのアクション映画に甘い恋愛映画の音声が流れていたら、
すぐに気づくだろうが、
似たようなアクション映画で銃撃戦ばかりのものだとしたら、
しばらく気づかないこともある。

つまりたとえ同時的であったとしても、
視覚と聴覚を統合できるか否かはまったくコンテクストに依存するのであり、
そのようなことになるのは、
視覚と聴覚が根本的に異なるものだからである。

視覚と聴覚が根本的に異なるものと言えるのは、
視覚と聴覚がなんらかの根を共有しているとしたら、
コンテクストに依ることなく必然的な結びつきを得ることもできるだろうからである。

(あるいはその根を共有している可能性も残しておいた方がいいかもしれない)

以上のことから、
目や耳、鼻や口といった感覚を受容する器官における情報は、
根本的に異質な情報であり、
それらは統合されるために、なんらかの媒介を必要とすることになる。

ちなみにこの媒介を脳という器官で説明することもできるだろうが、
ここではむしろ、脳という現象しえない実体に依ることなく、
むしろ脳すらもそれを前提として統合するような、
ある特殊な運動性や身体性というコンテクストを導入することが望ましい。

というのも、やはり脳は現象することなく現象を裏づける装置であり、
それを設けることによって現象の記述のいっさいが
装置の内部に押しとどめられ完結してしまうからである。

つまり、現象する何でも「脳がそうしているから」で片付いてしまうのである。
これでは現象を記述するどころか、
安易な説明に納得して思考停止に陥るだけである。

一方で運動性なり身体性というコンテクストを採用すれば、
それらはまさに現象の内部で現象を裏づけることになる。

「このような状況ゆえにこうなった」という記述が、
先の「脳がそうしているから」よりも以下に現象的な記述であるかは、
自明のことだろう。

したがって記述に徹するために、
脳や心といった説明的な装置を導入することなく、
あくまでも状況的な媒介をここに見るべきである。

9ヶ月前 No.17

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

メビウスリング、13回目の誕生日、おめでとうございます!

9ヶ月前 No.18

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_2mP

目は見る。

耳は聴く。

ここの

主語と述語の関係を

疑ってみるのは

おもしろいかもしれない。

もしよかったら

目で聴いてみてください。

耳で見てみてください。

あなたを包む

すべてを

目で聴いてみてください。

耳で見てみてください。

きっと何も考えられなくなるのではないか、

と思います。

そこで質問なのですが、

あなたが目で聴いて

耳で見るものは

いったいなんでしょうか。

ここに問いが生まれます。

逆に問いが生まれるとき、

きっとあなたは

目で聴いて、耳で見ていることと思われます。

いや、本当に、

わけのわからないことを前に問うているのであれば

きっとそうだと思います。

じつは

あらゆる身体カテゴリーが、

たとえばあなたの感じる

目や耳、鼻や口、陰部に肛門、といった諸々の穴が

あなたの思っているその役割と

きちんと適合していないことが

すごくよくあるのです。

一度気づくことができたなら、

すべてが案外、真逆だったりします。

問いのエッセンスは、

二項対立する表現に対し、

その内容を逆転してしまうような

その瞬間を生むところにあると思います。

ここが問いのポイントかしら、

と信じてぼくは

問いつづけようかな、と

今のところ思っております。

問いとは

努力しつつ待つことですから、

努力が強いと説明的になっちゃうし、

待つことが強いと盲信になっちゃうし、

そこもまたバランスですね。

バランスよく、

努力しつつ待つことを

問うときは心がけたい、

そう思っています。

以上、問いについて、

身体と絡めて

思っていることを書いてみました。

失礼しました、では。

8ヶ月前 No.19

百理 ★5z6bVAmgS3_zRM

>>19

不思議の国のアリスの世界ですね・・

8ヶ月前 No.20

マジカルモンキー ★IkTe7dpHmE_WcJ

生命進化専攻した者として言わせてもらうが、生命は誕生したのか?と言う点がある。
水の中に、油を一滴垂らすとする。
すると、水の中に油が浮く。
これが生命のそもそもの起源だ。
我々人間が、海水浴にいっても、我々の体が溶けないのは、我々の体が、油成分で出来ているからだ。
では、『 水の中で浮かぶ一滴の油 』と『 人間 』とがどう違うか?

@ 油の中身は油である。
A 人間の中身は中味がある。

すなわち、人間は、中身の何かがいろいろ作用して、動いているだけにすぎないのだよ。
そして、人間の中身が、溶けあう事がないのは、その中味にも隔たりがあるからだ。

そこで、肝心なのは、生命は誕生しているのか?ということ。

結局、生命は、『 隔たり 』があってこその存在である。

隔たった空間のAと、隔たった空間のBが互いに作用して、摂食や排泄を繰り返しているに過ぎない。

8ヶ月前 No.21

マジカルモンキー ★IkTe7dpHmE_WcJ

人間と言うのは、恐ろしいもんで、

隔たった空間のA、隔たった空間のB、隔たった空間のC…、境のある空間、例えるなら、泡のような構造をもった人間が

ある日、『 神 』とか、『 人間性 』とか、『 品格 』など、考え出したのだから大変だね。

例えば、多細胞の生命体が、その細胞の中身に、いろんな器官や、考えられないような中味を有した場合

人間の姿をしていなくても、『 神 』とか、『 人間性 』とか、『 品格 』とか、考え出すんだろうね。

じゃ、なぜ考えるのか?

『 喰らう 』ためです。

目には見ないモノを食っちまうわけです。

水に浮かぶ一滴の油の中に、神を取り入れるのです。

これがすなわち、宇宙の誕生ではなかろうかと思うわけです。

8ヶ月前 No.22

★30JjgxOVKX_ZFe

マジモンさま

獏をそばにおきたいものだわ。


大河の水の一滴っていうの聞くことあるけど、

水と油ね。

油の中に一滴の水を入れたらどうなるのかしら?

油の中に一滴の油を入れたらどうなるのかしら?


「隔たり」
そうね、身体という、上皮という隔たりね。

8ヶ月前 No.23

マジカルモンキー ★IkTe7dpHmE_WcJ

>油の中に一滴の水を入れたらどうなるのかしら?

それが『 細胞のフォーム 』だ

>油の中に一滴の油を入れたらどうなるのかしら?

水の中に水をいれるようなもんだろう。

8ヶ月前 No.24

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kuu

世界は身体の比喩である。

6ヶ月前 No.25

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

身体とは、家のようなもので我々はその家に生涯くらし最後はその身体から去っていく。

その家で考え、笑い泣く。しかし、その家からは一歩も出ることはない。わたしの身体とは

そういうものである。

5ヶ月前 No.26

★30JjgxOVKX_m9i

>26
「家」は私と共に動いてくれるのかしら?

5ヶ月前 No.27

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

私の身体のすべてが一軒の家で、私が1ミリでも動いたら家も当然に同時に動く。
家とは私であって、わたしとは家である。身体とは家であり、家とは身体である。

何の不思議もないです

5ヶ月前 No.28

★30JjgxOVKX_m9i

あなたの言う「一軒家」には、あなたしか住んでいないのね。
だったら、了解しますわ。

5ヶ月前 No.29

うさぎ ★Tablet=cT88eYp8V3

>29さん ところが、世間一般では一軒の家には家族が数人同居して、ひとりで住むなんて

まれで、少いです。でも、わたしの身体には私が一人ですんでいます。自分がここで本当に

言いたいのは、わたしの中には「私が」二人居住しているのじゃないかという疑問です。

つまり根源的自我と単なる常識的な私。前者は生後1ヶ月で家の奥に隠れて永久に姿を

眩ましますね、、、、、。

5ヶ月前 No.30

★30JjgxOVKX_m9i

私と、私のまわりの諸事物との交渉は、
私がこれらをわたしにとって存在せしめ、
私の周囲に配置し、
私自身の基底からそれらを引き出す場合にのみ、
初めて可能となる。

3ヶ月前 No.31

★30JjgxOVKX_ZFe

「見ることはあるものを見ているということである。」(メルロ)

わたしがイチゴを”見る”とき、そこにイチゴが存在しなければならない。

3ヶ月前 No.32

★30JjgxOVKX_ZFe

でも、わたしに見ているイチゴは、わたしによって感−知覚されているイチゴであり、“そのイチゴそのもの”ではない。

3ヶ月前 No.33

★30JjgxOVKX_ZFe

>33、訂正です。大事なところだから。

わたしが見ているイチゴは、わたしによって感−知覚されているイチゴであり、“そのイチゴそのもの”ではない。

これだけじゃ、なんなんで、

カントの言う、
「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」のイチゴであり、

メルロにおいては、
「私が身のまわりにもろもろの事物を見出すのは、それらが実際にそこにあるからではない。なぜなら、この事実上の存在については、仮定によって、私は何も知らないことになっているのだから。私が事物の事実上の存在を認識することができるのは、事物との実際の触れ合いが、私のうちに、いっさいの事物についてのある原初的な知を呼び起こすからであり、また私の有限の特定の諸知覚が、世界と同延ですみずみまで世界を繰り広げてみせる一つの認識能力の、部分的現れだからである。」のイチゴなんじゃないかってね。

3ヶ月前 No.34

★30JjgxOVKX_ZFe

この場で、わたし、イチゴを、例えば的に、メルロの言葉を借りて、お喋りしようと思ってる。

「わたしはイチゴを見る」ということはどういうことなの?、ってね。

ここ〈身体について〉だから、その方行にもっていこうと思ってるよ。

3ヶ月前 No.35

★30JjgxOVKX_ZFe

>35は、言い換えると、
イチゴが「存在する」ということはどういうことか、に関することね。

ここで、わたしの外にあるものを〔 〕で、わたしの内にあるものを〈 〉で括って区別して見ます。

(1)〔そのイチゴ〕は、わたしの外にあるもの。――外的存在としてのイチゴであるということ

〔そのイチゴ〕は、それを見ているわたしによって捉え直されている〈イチゴ〉。

わたしは、〔そのイチゴ〕そのものを完全に構成することはできないのかもしれないけど、
知覚された〈イチゴ〉は存在する?

3ヶ月前 No.36

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

〈イチゴ〉を捉えている「わたし」が「わたし」の中にいるということを、示せるだろうか?
〈イチゴ〉を捉えている「わたし」の「わたし」という部分を、「およぐちゃん」に変えたところで、論理的な違いはあるのだろうか。
もっと一般に、〈イチゴ〉を捉えている「人間(あるいは悪魔)」としてみてはどうだろうか?

あなたが「わたし」を「わたし」と捉えることは、アイデンティティの放棄である。なぜならば、あなたが知覚している〈わたし〉は存在しているが、〔わたし〕そのものを完全に構成することはできないからだ!あなたは、〔わたし〕が知覚するもの(〈イチゴ〉)は存在するという一方で、〔わたし〕の存在を疑うことはできるとしているのだ。

それでは、〔わたし〕の外にある〔わたし〕が知覚する〈イチゴ〉が存在するのに、〔わたし〕の外にある〔イチゴ〕が存在しないとする特別な理由はあるのだろうか。あなたはすでにアイデンティティを放棄している・・・つまり、〔わたし〕の外にある〔人間(あるいは悪魔)〕が知覚する〈イチゴ〉が存在するのに、〔わたし〕の外にある〔イチゴ〕は存在しない、ということと同じことを言っているのだ。
・・・もっと正確に言おう。

 〔人間(あるいは悪魔)〕が知覚する〔イチゴ〕は、知覚された〈イチゴ〉である。



メルロという詩人の書いた抒情詩に一々口を挟むのは野暮というものだが、一つ例を出そう。
物語において、主人公は特別である。それは読んでいるあなたにとっても特別であるし、もしかすると、それはその時「あなた自身」になっているかもしれない。しかし、あなたは物語の住人ではない。旅人であるあなたは、その素晴らしい場所を離れるときが必ずくるのだ。では、その本を閉じたとき、あなたはその忘れてしまった主人公を、特別なものだと信じることができるだろうか?もしできるとしたら、あなた方が忘れてしまったものが(知覚していないものが)存在するということであるし、できないのならば、あなた方はそれを特別なものとする根拠をもたない。

つまり、 >>34 の各大先生には次のように反論することができる。


「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」

ーーー我々が、そういう対象をつくりあげていくのではなく、我々が、われわれという対象をつくりあげていくのだ。


「私が事物の事実上の存在を認識することができるのは・・・一つの認識能力の、部分的現れだからである。」

ーーー一つの認識能力の、部分的現れの事実上の存在については、仮定によって、私は何も知らない。

3ヶ月前 No.37

★30JjgxOVKX_ZFe

>37
天使たん、おひさしぶりじゃない。

「〈イチゴ〉を捉えている「わたし」が「わたし」の中にいるということを、示せるだろうか?」
これ、よくわかりません。

「わたしは思う」って言ったとき、
「わたし」の中に、思う「わたし」がいるということを、示せるだろうか?
って、問うのね?

3ヶ月前 No.38

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

お久しぶり。最近は別角度から哲学をやってるので、こことかぶるテーマはあまりなかったのです。

>「わたしは思う」って言ったとき、
>「わたし」の中に、思う「わたし」がいるということを、示せるだろうか?
>って、問う

近いのですが、やや異なります。
「わたしは「私が思う」と思う」といったときに、
「私」は「わたし」と同じものなのか?「私」は「わたし」の外にあるのではないか?という問いです。
二人とも、何かを「思って」いるのですが、思っている内容が違います。
この二人は、同じ人間といえるでしょうか?
近世の哲学にこんなのがあった気がしますが誰が言ってたのか忘れました。

3ヶ月前 No.39

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

現代哲学でもこの「自己言及」というのは非常に強力なツールで、ある特定の存在の不可能性などを数学的に証明できます。
(不完全性定理などがそうです。他にも重要で実用的な定理がいくつもあります。)
私は今、「私はわたしではない」といったのですが、これは成り立つでしょうか?
「りんごはりんごではない」というのは、矛盾していますが、
「私」を対象化したときには、同じような矛盾、いわゆるパラドクスが生じることがあります。
「私」を矛盾なく考えるには、すごく繊細で難しい取り扱いが必要なので、まあ、「文学者」たちにはできないのではないかと。

3ヶ月前 No.40

★30JjgxOVKX_ZFe

わたし、私にはうるさいよ。

>37の二つの「わたし」を、>39で「わたし」と「私」と区別しましたね。
異なる意味で「わたし」を使う場合、語も別の語を使わないとわかりにくいですよ。

>32から、わたしが記述している「わたし」(あ、ここでもそうだけど)は、“このわたし”のこと。
わたしの場合、わたし以外の人の場合、「私」と表記するようにしています。
たとえば、天使ちゃんにも「わたし」があって、でも、わたしから見たそれは「私」って表言することにしています。
逆に、天使ちゃんから見たわたしは「私」ってなりますから、客観的に見た場合、わたしも私になります。
もうちょっと言うと、「わたし」を主観的な意味で使っています。

わたしは、前に、わたしとは何かって、考えていたなかで、私を分節して、私〔自身(体・脳)⇔自分(他・自・己)〕(自身は身体のこと、自分は精神のこと)っていう図式を考えましたが、これはいまだにわたしのなかで活きています。

ちなみにわたしは、「分節」を、
「全体をいくつかの区切りに分けること。統一的・全体的構造をもつものの部分は、独立した要素として分割できず、全体性の分化としての構成要素のこと。それ自体の要素的分析ではなく、全体の関連ななかでのみ問題となりうる、全体のなかの構成部分。」という意味で使っています。そして、分節された全体におけるそれぞれの部分の関係性のなかで全体としての私を描きだそうとしています。簡単にいうとゲシュタルト。

「わたしは「私が思う」と思う」において、
「私」を「わたし」の外にあるものという意味で、二つの「わたし」を区別しているよね。

そこで、わたしがわからなかった、
〈イチゴ〉を捉えている「わたし」が「わたし」の中にいるということを、示せるだろうか?
における二つの「わたし」、どっちが「わたし」でどっちが「私」?

わたしには、「私」を矛盾なく考えること、なんて無理な話し。

>36にはつづきがあるのね、せっかく考えたから、つづけるよ。

3ヶ月前 No.41

★30JjgxOVKX_ZFe

(2)「それはイチゴである」とわたしは思っている。――感−知覚されている〈イチゴ〉と、思うことについて

声に出さずとも、わたしの認知はそう判断している。
もし、「わたしは思う」が疑いえないものだとしたら、わたしが〈イチゴ〉を〈思っている〉ことは確かである。
(ここではすでに「イチゴ」って書いちゃってるけど、最初は〈それ〉)
わたしは、〈それ〉は、〈イチゴ〉である、って思っている。

わたしは「イチゴを思っている」ということはあるかもしれないけど、
「イチゴを見ていると思ってる」なんて、普通、考えない。

でも、  つづく

3ヶ月前 No.42

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

>>41

>天使ちゃんにも「わたし」があって、でも、わたしから見たそれは「私」って表言することにしています。
逆に、天使ちゃんから見たわたしは「私」ってなりますから、客観的に見た場合、わたしも私になります。
もうちょっと言うと、「わたし」を主観的な意味で使っています。

他の人にとっての「わたし」というのを一般的に「私」ということですね。
にわかには信じがたい話ですが・・・考えてみれば、それはできそうですね!

ただし私が問題としている(問うている)のは、今いった「一般的」が、「客観的」といえるのかどうかということです。
簡単な問いに変えましょう。


「わたし」にとっての「わたし」というのは、「私」ですか?それとも、「わたし」ですか?


という問いです。


a.もし、「わたし」なのであれば、「私」が客観性を失っています・・・すると他の人にとっての「わたし」であっても、客観的に「私」として論じることはできません。これについては、

>「私」を矛盾なく考えること、なんて無理な話し。

と書いてあるのがそういうことだと思います。このときに上の疑問を言い換えると次のようになります。「私」を「矛盾なく考えられない」のに、「私」に客観性があるということができますか?

b.もし、「私」なのであれば、「わたし」というのは、何でしょうか?「わたし」という対象とならない言葉が、「ただのインクの染み」以上の意味をもつことができるでしょうか?
主観的な「わたし」というのは、あることができるかもしれません・・・。しかし、「意味論的な」意味を持つことはできないのではないですか?

3ヶ月前 No.43

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

神の視点は悪魔の視点となることはできないし、
悪魔の視点は神の視点となることはできないと
悪魔が言っていました。

神さまは違うことをいいます。
神の視点がすべてであって、悪魔の視点というのは断じてあってはならない、と。

私は神さまを信じ、そして従っているのに、悪魔に目があることを知っています。
なぜでしょうか?

3ヶ月前 No.44

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

神さまを崇拝する私はこう考える。

私が悪魔の目だと思っているものは、実は私の目にすぎず、
したがって「わたし」が「私」だと思っている他の人にとっての「わたし」も、
実は「私」ではなく「わたし」にすぎないのではないか、と。

3ヶ月前 No.45

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

でも神さまにそれをいうと、神さまは私の事を
「鏡を初めて見た赤ん坊」
といって笑うんだ。

3ヶ月前 No.46

宿題 ★bUKyk3gX2r_iR4

私は対象ではない。

私は主体だから。

私が私を他人としてみる(自己同一性の反対の分裂)? そんなことは無理。

3ヶ月前 No.47

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_iR4

私もいつか存在について勉強し、少しは語りたいが、今はまだ善の定義で手一杯だから。

しかしひこ太さんは私たちより、一段高いところにいるからね〜。

游ちゃん 頑張れ!!

3ヶ月前 No.48

★30JjgxOVKX_m9i

>48
あら、shinさま、天使と悪魔の、人間についての会話、おもしろうでしょ?

天使たんが、>44〜46でおもしろいこと言ったから、わたし、「イチゴ」に戻ろうと思ったんだけど、
もうちょっと「わたし」について、書くね。

あ、それから、shinさま、テレビのニュース見ていたら、日本で「優生保護法」っていうのが、あったみたいよ。
これ、ここじゃなくて、「善の定義」で、これについて語ってみて。

3ヶ月前 No.49

★30JjgxOVKX_m9i

>43
メルロは、
『現象学的還元の真の意味、たしかにこの問題についてほど、フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない、――また、この問題ほど彼が繰り返し繰り返し問い直した問題もない。というのも、「還元の問題性」はフッサールの未完の文献のなかでも重要な場所を占めているのだから。』って言ってる。

現象学的還元っていうのはさておき、フッサールは「自分自身」を理解するのに、何度も問い直していたみたい。
わたしは、「自分自身」を「私」という語で表言してます。私とは自分自身のことである。てってね。
そして、さらに分節して図式化したのが、私〔自身(体・脳)⇔自分〈他・自・己〉〕(自身は私の身体、自分は私の精神)。
これがわたしの「私」の概念。


天使ちゃん、
「私」とは何か?――これ、まだ続いているよ。問い直しの機会ができて、ありがとね。

そこで、訂正です。
>41で、<「わたし」を主観的な意味で使っています>ってしましたが、「主観」の「観」を取って、「主」とします。
なぜなら、「わたし」を「主の観」としてしまうと、「わたし」が「観」のうちに置かれてしまうからです。
「わたし」を「主」というような意味で使うことによって、「わたし」も「「私」の一つとすることができる。
したがって、図式は、わたし〔自身(体・脳)⇔自分〈他・自・己〉〕とも書けることになりました。

『「わたし」(a)にとっての「わたし」(b)というのは、「私」ですか?それとも、「わたし」ですか? 』――Q

おそらく天使ちゃんの「わたし」においては、(a)と(b)の二つの「わたし」は別のものとして見ている気がする。

天使ちゃんの言う「わたし」や「私」の概念がよくわからないけど、あなたの断片的表現から推測してお返しします。

〈「わたし」の外にある「私」〉から、
「わたし」と「私」を区別して、対である外と内において、「私」を外としているから、「わたし」は内なるもの。

Qにおける『「わたし」(a)にとっての「わたし」(b)』――pQは、
<「わたし」という内なるものにとっての、内なるものである「わたし」>ってなります。
「私」を外なるものとしているのだから、<「私」ですか?>は、変よね。

(a)と(b)の二つの「わたし」を、内なるものにおいて、異なるものとして見ているのなら、それぞれ別の語で表言しないとわかりにくいよ。

「私」というのはとっても複雑で、さまざまな分節によってそれぞれが相互間的に絡み合っている感じがする。
「わたし」と「私」という二つの語、その概念の区別だけじゃ捉えきれないと思うよ。

3ヶ月前 No.50

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

>フッサールは「自分自身」を理解するのに、何度も問い直していた

先ほども書いたと思いますが、それを「文学者」が何万回問い直そうと理解することはできません。
逆に言えば、私がフッサールを何万回読んだところで、内容は理解できないでしょう。
間違っているものは理解できませんし、彼の本のどこかに間違いがあるということは、読まなくてもわかります。


現象学的還元、ネットで検索しましたが明確な意味は出てきませんでした・・・(苦笑)
調べたり、およぐちゃんとお話する中で感じたことは、現象学は実在性を留保することによって「意味」を解体してしまっているということです。
>>50

>わたし〔自身(体・脳)⇔自分〈他・自・己〉〕・・・@

を例にとってみましょう。率直に言って、私はこの図式がどのようなときに成り立つのか、もしくは成り立たないのかを判断することができません。なぜならば、これは「概念」だからです。
「自身」という言葉の意味も、例えば、ある人の手が誰の物かその人に聞いたときに、「私の手です」と答えることができます。次にその人の靴に対しても聞くことができます。「私の靴です」と答えることができます。その人の名前についても、「私の名前です」と答えることができます。これらに違いがあるでしょうか?違いがないとき、これらから、「私」というものだけを取り出して、それ自体に何か意味がある、ということができるでしょうか?
また違う例では、不慮の事故で右足を失い義足になってしまった人にとって、その人「自身」(@の意味の)は、その義足なのか、事故で失ってしまった「足」なのか、どちらですか?

なぜこのようにいうのか、それは、「私」に関わる実在から、「私」という概念(もしくは、「私の意識」というもの)を取り出すことによって、「私」の意味を解体してしまっていると言いたいのです。

私は
>〈イチゴ〉を捉えている「わたし」が「わたし」の中にいるということを、示せるだろうか?
>における二つの「わたし」、どっちが「わたし」でどっちが「私」?
という問いに答えることができませんでした。
それについて答えたとき、その答えた文に意味があるとは思えないからです。

フッサールは「文学者」といいましたが、彼は「文学者」ですらないかもしれません。
客観性のないものに意味があると信じることは、もはや宗教であって学問ではないのです。

私は「シュレディンガー」スレで「ちょっとさん」に対して同じような説明をしました。
「猫を助けるという事実」から「猫を助ける」ということを取り出すことは、哲学の放棄だと。

私の今学んでいる哲学的内容に近い話ができました。ありがとう。
これで安心して悪魔狩りに集中できます。では。

3ヶ月前 No.51

ひこ太 @hikotarou ★r5box4meL6_iR4

>>48

shinくん

>ひこ太さんは私たちより、一段高いところにいるからね〜。

お目が高い!


>游ちゃん 頑張れ!!

何てことをいうんだ!およぐちゃんが人に不幸をプレゼントして回っているのを知らないのかい?
およぐちゃんが頑張ると言うことは、それだけ不幸な人が増えると言うことだ。


>今はまだ善の定義で手一杯だから。

「善の定義」だなんて、難しいことを考えているんだね。
今少し考えてみたが、見当もつかなかった。
でも多分、それはとても重要なことだ!


>私もいつか存在について勉強し、少しは語りたい

私もいつか存在について勉強したい、しかし知っている人がなかなか見つからない!
自称哲学者たちは、「存在」という名前の付いたポケモンの話ばかりしている!

3ヶ月前 No.52

★30JjgxOVKX_m9i

今日はお休み。

>51、義足は、その人の身体的空間に統合されているから、自身に属し、失われた足は、いまだ自分に属している。 かもしれない。

>52、「不幸のプレゼント」、天使ちゃん、バラしちゃダメでしょ。

で、「イチゴ」つづけます。

3ヶ月前 No.53

★30JjgxOVKX_m9i

>42のつづき

(3)「わたしは見る、イチゴを」――「見る」という行為――身体との関係

イチゴを「見る」という行為は、身体の活動(身振り)。

わたしが〔そのイチゴ〕を「見る」ということは、わたしのわたし自身がイチゴへと向かうところの「行為が存在する」(メルロ)ということ。

わたしが、イチゴを見たり、触ったり、食べたりするという身体の経験によって、〈イチゴ〉は認知される。

身体の裏面を精神としたとき(メルロ)、身体の表面は外界に面している。身体は私と世界との相互間性。

メルロは、
「〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。」
「私は身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。」
って言ってる。

3ヶ月前 No.54

★30JjgxOVKX_m9i

(4)「イチゴを見るわたし」――わたしの志向性――わたしの内のそう“させるもの”

そもそも、わたしはどうしてそのイチゴを見たのだろうか。そう〈させるもの〉がすでにわたしの内にある?
わたしの志向性と、まなざしの向こうから、というこの両者の絡み合いによって、イチゴは存在する。


わたしは、ある日、スーパーに行って、食材を選んでいた。果物売り場でおいしそうなイチゴが目に入った。
赤色が濃く、ピチピチとした、大きなイチゴ。わたしはそれを買って帰り、食べた。  おいしかった。


わたしにおいて、イチゴが「存在する」のは、こんな感じ。  おわり


今日はどこかにお出かけしよっと。

3ヶ月前 No.55

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

「わたしは何処に居るのだろうか?」

世界の常識では、わたしは「わたしの身体の中に居る」又は「身体の中に住んでいる」等々だろうね。
わたしは内界であって決して外界ではなく、わたしを対象化することなんてとても考えられない。←常識

ところが、自転車で転んで右足が痛くて眠れない、、、この時のわたし(主観)は私の内部です。
公園でベンチに座り、1時間くらい風景をながめる、この時のわたしは外界に移動して私の身体は「わたしが留守」

になるのです。

3ヶ月前 No.56

★30JjgxOVKX_ZFe

>56
あら、うさぎちゃん、メルロの言っていることのわたしの記述、考えてもらったみたい。

メルロはこんなことを言っている。

「視覚は見られた物において自己自身に到達し自己に追いつく。視覚は自己を所有しているのではなく、かえって自己を逃れて見られた物のなかに消えうせる。私がコギトによって発見し認知することは、私の存在そのものをなす超越性の深い運動であり、私の存在と世界の存在とに対する同時接触である。」


わたしのばあい、日本語で訳されている「超越的」と「超越論的」はその意味を区別されていると見ていて、「超越的」は「神」のこと、って見ている。

3ヶ月前 No.57

うさぎ ★NV90AsC0hA_UHY

わたしは散歩をするそして、事物(外界)を眺める。それは反復でありいつもの景色である。
その時のわたしは私の内部に居て何の疑問もない。ところが、わたしが私の身体から出て行って
「私が留守になる」場合がたまにある。無我夢中とかジッと対象を凝視するとか唖然として目をむいて

ビックリするとか。   その時の私は「私の身体」から出て行って留守になるのです。自己の不在ですね?
主観(私)と言うものは必ずしも私の内側にあるものではなく、対象・外界にある場合が多い。

3ヶ月前 No.58

★30JjgxOVKX_ZFe

>58の「対象・外界にある」は、わたし気になちゃやったんだけど、
今日はもう疲れちゃったから、もうやめる。

3ヶ月前 No.59

地下水 ★otncK03kC4_FNM

>>59
その「今日はもう疲れちゃったから、もうやめる。」というのが、頭という身体のあり方ですね。
疲れの限界が身体にはあるのです。
夜なら、寝ないと疲れるのです。

2ヶ月前 No.60

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GOx

「レヴィナスの身体論(欲求編)」

 勉強の一環として、試しに、レヴィナスの欲求論を要約してみました。拙いですし、より子細に見ていけば理解が間違っているところがあるかもしれませんが、とりあえず掲載します。ちなみに参考にした箇所は、岩波文庫から出ている『全体性と無限(上)』(熊野純彦訳)のpp.223-226です。

・・・

 欲求とは世界という<他なるもの>への依存を告げるものである。欲求に駆られるとき、私は自分に欠けているものを感じ、それを埋めることで満たされることができる。このとき私は世界に対し全面的に依存している。求めるものが得られるかどうかは、世界のあり方に左右されるのである。
 しかし一方で、欲求とは依存そのものを延期することでもある。たとえば空腹を満たすとき、それは空腹を先延ばしにすることに等しい。つまり「欲求はたしかにまた他なるものに対する依存ではあるが、とはいえそれは時間をかいした依存であって、<同>が瞬間的にじぶんを裏切るような依存ではない」のである。
 このことから欲求とは世界への全面的な依存ではあるが、それは完全な密着ではなく、世界との隔たりを介した依存であることがわかる。そして人間的な欲求にとってむしろ本質的なのは依存よりも隔たりのほうである。なぜなら、欲求が世界との隔たりを有さないとすれば、それはまったく動物ないし植物的な欲求と大差ないことになるだろうが、人間的な欲求は世界との隔たりを有することで、世界をコントロールし世界から独立し自存した自己を構成することができるからである。
 したがって欲求とは、世界という<他なるもの>への依存であるというよりむしろ、私という<同一的なもの>を構成する最初の運動であるという表現の方が適切である。なぜなら欲求によって世界という<他なるもの>の他性が乗り越えられるからである。
 ただし、それにもかかわらず私は世界によって養われている。この両義性は具体的には身体と呼ばれる。身体は労働し所有することで世界という<他なるもの>を乗り越えてゆく。にもかかわらず、身体は世界という<他なるもの>に養われている。

・・・

 途中で断念。ただ、言いたいのは、レヴィナスの欲求論、身体論、時間論には密接な関わりがあって、そこには何か絶望における希望のようなものがある気がするということです。私は時間が本質的に孕んでいる絶対的な希望の可能性を示せるような研究をしたいです。そのヒントがレヴィナスの思想にはある気がします。

25日前 No.61
ページ: 1 2

 
 
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