Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼レス(178) >>

シュレディンガーの猫について

 ( 哲学掲示板 )
- アクセス(851) - いいね!(2)

桜花 @kgb☆YV/LbxVUS0Pr ★Android=0bca4o0hXK

ついさきほど、「シュレディンガーの猫」という理論を聞いて、調べてみました。

なんとなく理解は出来たのですが、はっきりと理解ができませんでした。
誰か、この理論を説明できる人はいますか

ページ: 1 2 3

 
 
↑前のページ (128件) | 最新ページ

魔術師 @newmemphis ★garobD8eAq_StN

>113


>いいえ。標準的な量子力学における「量子干渉」の説明をしているつもりです。

あなたの回答が、分裂した異世界間で干渉が起きるように読めたので、本当に標準理論がそういう事態を認めているのか疑わしかったのです。

13日前 No.129

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「空」の無限定性

 世界の初めをXとします。Xがすでに、「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方だけに限定されていたと考えると、早速「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だったのか?」という謎が生じます。それは「□□□だったからだ」と答えても、「なぜ「□□□でない」ではなく「□□□である」の方だったのか?」という謎が残ります。…。これは無限後退し、どこまでも謎は無くなりません。どこかで説明は打ち切られ、「世界の初めなのだから、答など無い。なぜかそうだったからそうなんだ。」で終わってしまい、この謎は永久に隠蔽されてしまいます。
 そうならないためにはどうするか? 世界の初めXはあらゆる○○○について「○○○である」+「○○○でない」という重ね合わせのままであった、と考えれば良いのです。それが「空」です。

 「空」M0とは単なる「無」ではなく、「何ものにも縛られないもの」「何一つ限定されていないもの」「あらゆる○○○について「○○○である」+「○○○でない」という重ね合わせ状態にあるもの」です。「空」M0とは、「物質世界が無い」という意味ではなく、「物質世界が有るのか無いのか、有るとしたらどんな状態なのか、についての情報が何も無く、すべての可能性が量子力学的に重ね合わせのままの状態」です。「空」M0を一種の心と見なしても、特定の意識状態には定まらないため、表面的には無意識状態となります。
 しかし「空」M0は、存在し得るすべての有意識状態である「色」M1、M2、M3、…を重ね合わせのまま同時に体験している心でもあり、「無」であると同時に、「すべての有」でもあります。それがM0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕。一見矛盾したような性質ですが、こういった性質を痒い処に手が届くように記述できるのが量子力学です。それゆえこの〔色即是空・空即是色〕こそ、量子力学が示唆している究極の真理ではないのか、と考えたくなるのです。

 「空」M0=「????????????????????…」〔「?」=「0」+「1」〕と表現しましたが、すべてのビットが「0」と「1」の重ね合わせである「?」です。つまり、第1ビットは「○○○である」+「○○○でない」、第2ビットは「□□□である」+「□□□でない」、第3ビットは「△△△である」+「△△△でない」、…という重ね合わせ状態を表している訳です。「空」M0は、あらゆる命題の肯定も否定も成立している心であり、完全矛盾状態です。

 「空」M0の本質は「何ものにも縛られない」だと書きました。だからどのビットも「0」か「1」かのどちらかに限定されることなく、どちらでもある「?」で表されました。しかし、もし「空」M0が「空」M0に留まり続けたら、「何ものにも縛られない」という法則にだけは例外的に縛られていることになってしまい、「空」M0の全知全能性に傷が付いてしまいます。それを超越するために「空」M0は、「「何ものにも縛られない」にさえ縛られない」すなわち「何かに縛られる」をも体験することが必要となります。つまり、「?」ではなく「0」か「1」かどちらか片方だけに縛られ、限定された状態をも、体験する必要が有ります。それが「色」M1、M2、M3、…です。人間の心はこの「色」に含まれます。そしてこれこそ、全知全能の「神」が「空」M0だけに留まらず、敢えて全知全能でない人間の心すなわち「色」M1、M2、M3、…をも作り出し、自ら体験している理由です。

 「空」M0は「何ものにも縛られない」ので、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則にさえ、「縛られる」と「縛られない」の両方が可能です。
 ただし、「縛られない」の方は矛盾が生じ、あらゆる命題の肯定も否定も証明できてしまい、自分はM0、M1、M2、M3、…のどれでもありどれでもないとなって、状態が何一つ確定しません。実はそれこそが「空」M0の状態です。
 逆に特定の意識状態である「色」M1、M2、M3、…の視点に立つためには「自分は自分である」という自己同一性が成立せねばならず、そのためには無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に「縛られる」ことが必要です。

 「空」M0はあらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を同時に重ね合わせのままで体験しているという意味で、「全知全能である」(正)です。しかしこれだけだと、「○○○である」と「○○○でない」の片方だけに限定された全知全能でない状態は体験できないことになり、本当の意味で「全知全能である」(合)とは言えなくなりました。そこで「空」M0は、自力で矛盾を生じさせ、「M0はM0である」という同一律を否定し、「M0はM0でない」(M0はM1、M2、M3、…のどれかである)を実現することで、「色」M1、M2、M3、…に化けます。そして、「空」M0と「色」M1、M2、M3、…の両方を併せたものを「神」と表現すれば、この「神」こそが本当の意味での「全知全能である」(合)=「全知全能である」(正)+「全知全能でない」(反)を満たしたものとなります。

12日前 No.130

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_Y9V

>>91

重い腰を上げてみた。

すべてではないものについて、すべてそうであると語ることはできない。
しかし、哲学においては何かについてのすべて、すなわちその何かが何かである原因のすべてが語られなければならない。
人が認識できるすべては、いまここにあるものであるから、哲学はそれを対象としなければ、それ以外のものは認識されていないのだから、語ることはできない。(口パクや白紙解答は哲学ではない!)
それでもなお、いまここにあるあるものについて、それがそのあるもののすべてであると語ることはできない。それがすべてであれば、それをそのものとして語ることはできない。それが語られることで、そのそれが語られたということにおいて認識は変化するのだから。
だから哲学の対象となるのは、いまここにあるもののあること(観測されるもの)である。
なぜならば、観測されないあることは、いまここにあるもののすべてではない(そのものがいまここにあるということが欠けている)からだ。
だから哲学において語られるのは、いまここにあるもののあることのすべてであるといえる。

12日前 No.131

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

>126、128

だいぶ、マットウになってきたな。経緯を確認することは重要だ。最初から、波動関数が確率振幅を意図して導入されたものでないことが分かったことと思う。その波動関数とは何かを考える中(1926年から1935年の間だね)で出てきた「素朴実在論との訣別を余儀なくさせられる」は重要な発言であり、シュレディンガーの哲学に関する造形を示唆している。

だけどさ、大した根拠もなく、『シュレディンガーはこんなことを言いたかったのではないか』とやるのはそろそろ、やめようぜ。『ここでシュレディンガーは、「観測結果には主観が影響している」と言いたいのだろうが』って書いてあるけど、そこには何のエビデンスもない。、「波動関数をそのまま実在の代用物と見なすことはできない」とか、「素朴実在論との訣別を余儀なくさせられる」というようなことを書いていることからはそのようなことは演繹されない。むしろ、この「実在」は、哲学的意味の<実在>であると想定することが妥当だろう。つまり、シュレディンガーは「実在」を記述するような理論を作ったが、それは実在そのものではなく、ある種の記述、それも不十分なものだということだ。そして、「実在」の有様は、人間が現象として認識するようにあるような有様ではなく、もっと理解しがたく(もっと書けば理解「不能」で)不可思議な様相をしているということなのである。

『シュレディンガーの発言にこだわる必要はないのですよ。自分の頭と言葉があるのですから。』って書いてるけどさ、だったら、シュレディンガーはこう言いたかったなんて書くなよって話だよ。貴方のシュレディンガーの猫に関する理解と考えを貴方の言葉で書けばよろしい。波動力学は、行列力学と数学的に等価であり、波動「関数」(ここ重要、色んな意味で)なしで、量子力学は記述可能なのだから、波動関数が実在でないことは当然なのである。ある特定の「定まった」物理的状態を記述するのには、ふつうの数(c数)ではなく演算子もしくは行列(q数)が使用される。それは電子線の干渉実験のように、「定まった」はずの物理的条件下で、ランダムに異なった結果が得られ、しかもそれを重ね焼きすると干渉縞(理論の予言結果)が再現することを記述するためだ。そのロジックをマクロな物体に安直に拡張すると、シュレディンガーの猫問題となるのである。量子論のテキストでは、観測(Observation)によって状態の結果が決定すると書かれているが、その観測(Observation)とはどういうことなのか、ちっとも明瞭ではない。そこに哲学が寄与する余地が残されている。

12日前 No.132

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

>131

だいぶ投げれてるな。150qくらいだろうか。よし、打たせてもらうとするか。空振りかも知らんが。

哲学の対象とは、「いまここにあるもののあること」である。それは、そうだなと思う。認識の対象とならない以上、哲学の対象とは(あるいは思惟の対象とは)ならないのだから。問題は「シュレディンガーの猫」がその範疇に落ちないのはなぜかということだ。既に、理論として、あるいは、話題として、「すでにいまここにあるもの」ではないか。確かにシュレディンガーの猫における「死んだ猫と生きている猫」の重ね合わさった状態は観測されたことはない。しかし、それは、ここでは問題にならない。なぜなら、観測されるものは、死んだ猫か生きた猫かのどちらかであり、その観測で状態が決定されるというロジックだから、重ね合わせの状態は観測されえないからである。

だが、しかし、『「シュレディンガーの猫」の問い』は、いま、ここになる。それが、哲学の対象となりえないとすること、あるいはそれが哲学の対象となりうるということ、そのことそのものが、この問いが哲学の対象となっていることなのではないか。いかが?

12日前 No.133

★30JjgxOVKX_ZFe

「いまここにあるもののあること」

ふたを開けたら、死につつあるネコがいたとき、どうするの?

12日前 No.134

★30JjgxOVKX_ZFe

>131

天使ちゃん

太っちゃたの?

12日前 No.135

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

>134

そうだな、介抱したいところだが、だったら、最初からそんな実験するなよって話になるな。だが、しかし、これは重要な指摘である。|生>+|死>などという、2項対立的で観念的な状態の記述を否定しているからだ。巨大な生物的システムはそんな安直な記述を拒絶する。当たり前だが忘れがちだ。

12日前 No.136

魔術師 @newmemphis ★garobD8eAq_StN

>132



私の論点は、シュレディンガー本人の問題意識とも重なるし、もっと視野が広いかもしれない。

過去のやり取りを思い出すなり、自分で読めば分かるだろうということだ。

私の過去の意見の一部を見ただけでも、それは明らかだ。


「観念論的には、我々の体験(客観)は、「(神の)精神」が我々の精神に引き起こす認識であり、物理法則は、「人間の立場で把握した体験の起き方のパターン」という捉え方になります。

「物質」とかいう、体験を精神に引き起こす原因となる何か(精神の外にある)があるとは考えません。ゲームの仮想世界が一つのCPUの計算作業で作られており、仮想世界の背後には物質なるものはないようなものだと思います。

仮想世界の登場人物たちが発見していく「世界の物理法則」と実際のCPUの計算規則(プログラム)は違うものですよね。この喩えからすれば、「(神の)精神」が我々の精神に体験を引き起こす規則と物理法則(体験パターン)は別のものです。」


「前者は、客観(現象)における個々の物(概念)の背後には物質(実在)があって、物質が担っている性質とか置かれている状態を調べるというような枠組みだろう。私にはひどく無理のある考え方に思われるが。

後者は、客観(現象)を精神(神)が引き起こしており、その中で繰り返されるパターンの秩序を調べるというような枠組みである。どちらの枠組みを前提にしても、定量的な現象の研究はできるはず。

波動方程式は、現象の中で繰り返されるパターンを把握して記述したものが物理法則であるということの、分かりやすい実例の一つではないか。」


「物質説の立場でも、「それらの理論」は現象における法則であって、実在における法則ではない。現象(体験)における諸概念(事物)間の関係についての理論(法則)は、客観の背後にありそれを生み出す存在についての法則ではないだろう。」


「実は、物質(物自体)の枠組みでも、現象レベルと物質レベルの区別に注意していれば、現象におけるパターンを物質の性質(物質が現象を引き起こす際のルール)と思い込むようなことはない。

しかし、「物質がある」という立場の人たちには、科学的な研究は物自体についての情報を増やしている、物自体についての真実の究明を進展させている、といった発想を抱きやすい。こうした考えを持っていると、物理法則を「物質の性質」として実体化する勘違いをしやすくなる。」


「「物質はある」という枠組みだと、科学的な探求によって、物質(物自体)について次第に真実が明らかになっていくという考えを抱かれる傾向がある。そして、発見された法則が、物質(物自体)の性質だと考えられてしまう。つまり、物質が現象を引き起こす際の物質のプログラムだと考えられてしまう。

実際には物理法則は、現象内の概念で現象について記述される法則なので、現象を引き起こすもの(神または物質)の実行プログラムではない。
波動法則について言えば、それが物質が現象を引き起こす際の物質が有するプログラム、物質の性質として実体視されてしまう傾向にある。」

12日前 No.137

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

こういう書き方は、ちょっと俺にはまねできないな。ほめてるわけではない。シャレにしちゃハイブロウにすぎるよ。

12日前 No.138

魔術師 @newmemphis ★garobD8eAq_StN

観念論的な説明の仕方は、分かりづらい人たちもいるのかもしれない。今回は、常識的?な説明の仕方で書いてみる。


実は「波動関数」だけではなく、全ての物理法則が「パターンの記述」であって、それは「予想に役立つ」ことによって、とりあえず正当なものとして扱われている。

物理法則は、物質の性質についての記述でもなければ、現象の中の諸概念間の因果関係を示すものでもない。このことは、物理法則が成立する仮定や、実際の物理法則のあり方を見ても明らかである。

物理法則は、観測や実験によって、再現される現象について、パターンを見つけることによって成立する。パターンによって予想し、その通りになれば、正しいものとされる。普通の物理法則では、予想通りになる確率は100%(に近い)なのだが、予想が当たれば正しいとされ、本質的には予想のためのものであることは、波動法則のような100%でない法則と同じなのである。

また、科学には限界があるので、現象界における個々の概念(事物)について完全に説明ができないし、諸概念間の関係についても、完全に分かっているわけではない。だから、物理法則とは、諸概念間の正確な因果関係を示しているわけでもない。「こうなれば、ああなる」という類のものなのだ。

つまり、波動関数だけが「予想のためのパターンの記述」なのではなく、全ての物理法則が「予想のためのパターンの記述」だと言うことができる。波動関数に実体がないというのであれば、全ての物理法則に実体がないことになるだろう。


ちなみに、「物質(とかの基体)が何かの性質を持つ」という発想にも、注意が必要である。

たとえば、辛いとか赤いとかの感覚が起きている場合、それは我々の現象界に起きていることなのであって、我々の外にある「物質」とかがそういう性質を持っているわけではない。

何かが2分の1の確率で起きても、それは我々に起きていることであって、物質がそういう性質を持っているわけではない。

何かが我々に○○という現象を引き起こしている、というのが正しい発想だろう。

12日前 No.139

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

物理法則を「パターンの記述」と見るのは非常に古典的だ。貴方はシュレディンガー方程式を導けるのかい?とちょっと色んな意味で意地悪な質問をしてみたくなるね。そして、古典的な物理法則や量子論的と確率の関係にしても誤解しているようだ。波動法則などという言葉を見ると、ほんとに「ちょっと、まってよ」と言いたくなる。知っててわざと書いているのかも知らんが、あんまりだよね。物理法則に実体がないといいたのなら、せめて、物理法則は実在に関わる記述であり、実在は観念であって実体はない(実体があるのは現象のみ)であるから、物理法則は実体の記述とはいえないくらいの感じにして欲しいところだ。
感覚に関する記述は、ある程度合意できるのだが、観念論的立場からすれば、必ずしも、物質がそういう性質を持っているわけではないとは言い切れないだろう。そのような記述は、むしろ、実在としての物質観、実在の中の現象という見方(要は一般的な素朴な世界観だね)から言及可能なものである。

12日前 No.140

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>132  ちょっと、まってよさんへ

>波動力学は、行列力学と数学的に等価であり、波動「関数」(ここ重要、色んな意味で)なしで、量子力学は記述可能なのだから、波動関数が実在でないことは当然なのである。


 「波動力学」と「行列力学」とが数学的に等価であるからこそ、どちらも全く同じ問題を抱えているのではないでしょうか。量子力学には、大きく分けて4つの表現方法が有ると言われます。「波動力学」「行列力学」「経路積分」「確率力学」です。

    《波動力学》
 シュレディンガーの「波動力学」では波動関数を用い、観測していないときはψ=a1ψ1+a2ψ2+a3ψ3+…という重ね合わせで表現されるのに、観測するとどれか1つ、例えばψ1だけが観測にかかります。それゆえ、こういう謎が生じます。→「物理的実在はψ1だけで、他のψ2、ψ3、…は単なる数学的仮想だったのだろうか?、それともψ1、ψ2、ψ3、…すべてが物理的実在だったのだろうか?」

    《行列力学》
 ハイゼンベルグの「行列力学」だと、ψ1、ψ2、ψ3、…が一般に∞個並んだ無限次元行列を使用します。観測できる結果はどれか1つ、例えばψ1だけですが、その確率を求めるときにψ1、ψ2、ψ3、…のすべてを考慮したことになります。それゆえ、同じ謎が生じます。→「観測にかかったのはψ1だけだったが、その確率の計算にはψ1、ψ2、ψ3、…すべてが現れる行列を用いなければならない。観測の結果、ψ1は物理的実在となったが、他のψ2、ψ3、…はただの数学的仮想だったのだろうか? それともψ1、ψ2、ψ3、…すべてが物理的実在だったのだろうか?」

    《経路積分》
 ファインマンの「経路積分」も同様です。1個の粒子の振る舞いを計算するときに、あらゆる経路を通った場合を考慮し、それらすべてを足し合わせるという手法を用います。それゆえ、同じ謎が生じます。→「1つの経路を通った状態ψ1だけが物理的実在で、他の経路を通った状態ψ2、ψ3、…はただの数学的仮想だったのだろうか? それともすべての経路を通った状態ψ1、ψ2、ψ3、…が物理的実在だったのだろうか?」

    《確率力学》
 ネルソンの「確率力学」だけはかなり異色です。「物理的実在はψ1だけであり、ψ2、ψ3、…は数学的仮想に過ぎない」を前提とし、そのためにはニュートン力学をどう修正すれば良いか、と考えているようです。そして、運動する粒子の位置の変化は「速度」×「時間」ではなく、それに「量子ゆらぎ」を加えたものだと仮定して、シュレディンガー方程式を満たすようにその「量子ゆらぎ」を定める、という内容です。ゆらぎの大きさは√((h/2π)/2m)に比例するので、プランク定数h→0または質量m→∞においてこのゆらぎは0になり、量子力学と古典物理学とがうまくつながります。これでも他の3つと等価な確率計算が可能です。
 ただしこれは、「物理的実在はψ1だけであり、ψ2、ψ3、…は数学的仮想に過ぎない」を満たす仮説を1つ挙げて見せただけです。多世界解釈では「観測する前、すべてのψ1、ψ2、ψ3、…は物理的実在と数学的仮想の中間であり、観測して世界が分裂したとき、自分の世界で実現した状態だけが物理的実在となり他の世界で実現した状態は数学的仮想だったように見える」と解釈します。どちらを合理的と感じるかは人それぞれ異なるのでしょう。

 このように量子力学の表現方法は異なりますが、4つとも数学的に等価である以上、全く同じ未解決問題を抱えているのではないでしょうか。

11日前 No.141

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

数学的に同じなら、恐らくは根本的に同じだろうね。もちろん、それらの持つ物理的描像のうち、どれが優れているかという見方の優劣はあるだろう。だが、それらは、実在の振る舞いの数学的記述であって、だからこそ、実在そのものではない。実在が本当に存在するかどうかも分からない。だが、その結果が現象を正確に予言する以上、想定にすぎないかも知れない、そして素朴には疑いもなく厳然と存在しているはず実在の本質的有様に触れているはずだ。ψは数学的な記述だが、それの指し示す先の何かは実在でなければならない。その意味では、ψ2、ψ3も数学的記述だが、その指し示す先は実在でなければならない。でないと、干渉が現れないでしょ。そこら辺は、「光子の裁判」と同じなんじゃないかな。ここまで書いてきて、ちょっと気になることもある。それは、どうやら、ある物理量が実在であるとは、その物理量が各瞬間で定まることとしている物理屋さんたちがいるらしいことだ。そういう見方で実在という言葉を使われると混乱しそうだ。

11日前 No.142

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_Y9V

>>133
>『「シュレディンガーの猫」の問い』は、いま、ここになる。それが、哲学の対象となりえないとすること、あるいはそれが哲学の対象となりう>るということ、そのことそのものが、この問いが哲学の対象となっていることなのではないか。

私がもっている『「シュレディンガーの猫」の問い』と、あなたがもっている『「シュレディンガーの猫」の問い』は認識として異なるのであるが・・・それを哲学の対象としてみたときには、それらは一致しなければならない。(それは、対象のすべてを語りうるものとするためである。)そうしてそれらを一致させたとき・・・その一致において、その問いはそのときもいまここにあるといえるのだろうか。いまここにあるものが言葉として語られるとき、それはここを離れなければならない・・・そうしなければ、伝えることはできないのだ。(再度忠告:白紙解答は認められない!)


>>134
>ふたを開けたら、死につつあるネコがいたとき、どうするの?

猫を助けるというとき、それは助けるという行為において助けるのであって、
死につつある猫の死につつあるという性質において助けるのではないということだが、
その助ける行為という観測可能なものから助けるということを取り出したとき・・・
つまり、「この猫を助ける行為はこの猫を助けているといえるのだろうか」ということを考えたとき、
そこで語られる助ける行為というのはいまこの猫を助けるということから取り出され、
それによって猫を助ける行為のすべてを語ることができなくなる。
というのも、 >>60 のラッセルの言葉を借りれば、猫を助けることに関するある「立場」を表現するにすぎなくなるからだ。
このようにして、人間はいまそこにあるということを、(そして哲学をも)、いとも簡単に放棄してしまうのだ。

11日前 No.143

★30JjgxOVKX_ZFe

>143
天使ちゃん、やっぱ太っちゃみたいね。

わたし、科学得意じゃないけど、ラジウムって放射性物質のようだし、青酸ガスって、人間にとってもヤバイんじゃない?
ふたを開けたとき、人間にとってもヤバいんじゃないかってね。そのなかで、ネコをどうするか、ってう話し。

櫻花さん、シュレディンガーさんて、科学者なの?

SumioBaba さま、ラジウム、青酸ガスのなかにいる、まだ息してるネコは助けられるの?

11日前 No.144

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

>143

白紙解答は認められないの意味は、俺にとっては晦渋である。二回書いてあるから、大事なことなのだろうが、残念ながら俺には伝わっていない。なぜなら、白紙解答が何を意味するのか不明だからである。ここに一致はない。

貴方は「シュレディンガーの猫」は哲学の対象ではないという。なぜなら、そのような状態(つまり生と死の重なった状態)は観測されたことがないからだという。さらに聞くと、ありとあらゆる変化球を投じて、その中身を語ろうとしない。俺はストレートを投げるよう要求した。

すると、人が認識できるすべては、いまここにあるものであるから、哲学はそれを対象としなければ、それ以外のものは認識されていないのだから、語ることはできないという。それはそうだ。認識されなければ、語ることはできず、哲学の対象ともなりえない。それはそうだ。どうやら、ストレートを投げたようだな。俺は喜んで打ちにかかる。

続いて語る。それでもなお、いまここにあるあるものについて、それがそのあるもののすべてであると語ることはできない。それがすべてであれば、それをそのものとして語ることはできない。それが語られることで、そのそれが語られたということにおいて認識は変化するのだから。と。俺は、ムムッとなる。これは、球が曲がり始めている、ストレートではない。だが、ここまででは、まだ、変化球とは言い切れないだろう。

そして、次に語る。だから哲学の対象となるのは、いまここにあるもののあること(観測されるもの)である。と。コノヤロー、ストレートに見せかけてフォークを投げやがったな。ここでは、「いまここにあるもののあること」が狭い意味での現象に限定される。いやいや、ホントはストレートのつもりで投げてるのかもしらん。だが、握りがおかしい。4シームでないのは明らかだ。

そして、だから哲学において語られるのは、いまここにあるもののあることのすべてであるといえる。と一見マットウそうに見えるが、しかし、ボール玉となってベース上を通過しようとする。

仕方がない。カットするしかないだろう。方法は?「いまここにあるもののあること」を拡張することだ。思惟を現象とすることだ。その結果が、【『「シュレディンガーの猫」の問い』は、いま、ここになる。それが、哲学の対象となりえないとすること、あるいはそれが哲学の対象となりうるということ、そのことそのものが、この問いが哲学の対象となっていることなのではないか。】なのである。

さて、次の球は?脅しをこめた、胸元へのシュートだね。これは見送るしかないな。だが、見送り方が重要だ。どう見送るか。それが、私と貴方で一致するとは期待できない、なぜなら、貴方の見る現象は、俺は知りえないからと見送ろう。ありえない一致を哲学の要件とされては、哲学は去り行くしかない。

では、次の球は?フォーク、シュートときているから、やはり、変化球だろうか。

11日前 No.145

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「多世界解釈」の実験的検証方法

 「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」「ガイド波解釈」…のどれが正しいのかは実験的に検証できないと思い込んでいる人が多いようですが、必ずしもそうではありません。「多世界解釈」が正しいことを実験的に検証する方法を、「多世界解釈」支持の世界的権威であるD・ドイッチェさんが示していますので、それを説明します。

 すでにSumioBabaが >>93 で説明した「ウィグナーの友人」問題を利用します。
 「多世界解釈」以外では、世界は1つだと考えるので、自分が住む世界と友人が住む世界とは同一の世界Wです。従って、友人が観測し、世界Wにおいて波動関数が収縮すると、観測していない自分にとっても自分が住む世界Wにおいて波動関数が収縮することになります。これを「波動関数の収縮は《客観的》」と表現しました。
 一方「多世界解釈」の場合は、観測した友人にとっては波動関数が収縮しても(世界が分裂しても)、観測していない自分にとって波動関数は収縮していません(世界は分裂していません)。これを「波動関数の収縮は《主観的》」(世界の分裂は《主観的》)と表現しました。従って、友人が観測した後、それでもなお自分にとっては干渉が起こり得ることを確認すれば、「多世界解釈」の正しさを実験的に証明したことになります。

 『量子力学の哲学』−非実在性・非局所性・粒子と波の二重性−(森田邦久著、講談社現代新書、2011年)という本のP152〜156にその説明が書いてあります。引用すると長くなるので、SumioBabaの言葉で説明します。

 マッハ・ツェンダー干渉計という装置を使用します。これは、1個の光子を送り込むと経路Iと経路IIとに分岐し、両者が干渉すれば100%の確率で光子はAから現れ、干渉が起きなければAとBからそれぞれ確率50%ずつで現れる、という装置です。100回くらい実験を繰り返せば、100回すべてAから現れるか、それともAとBのそれぞれから約50回ずつ現れるかで、干渉が起きているのかどうかを知ることができます。
 まずマッハ・ツェンダー干渉計に1個の光子を送り込み、人工知能ハルに、経路Iと経路IIのどちらを通ったかを観測させます。ハルは観測したので、ハルにとっては波動関数の収縮が起きた(世界が分裂した)はずです。それを確認するため、太郎がハルに「経路Iと経路IIのどちらか一方だけを通ったことが確認できたか?」と質問し、ハルが「YES」と答えます。確かにハルにとって、波動関数の収縮が起きた(世界は分裂した)ことになります。ただし太郎は、「経路Iと経路IIのどちらだったか」を尋ねてはいけません。それを聞いてしまうと、太郎も観測してしまうことになり、太郎の住む世界も波動関数が収縮してしまう(世界が分裂してしまう)からです。
 その後、ハルのメモリーの中に有る「経路Iと経路IIのどちらを通ったか?」という情報を消去します。そして太郎がマッハ・ツェンダー干渉計で、ハルの観測した光子がAとBのどちらから現れるかを観測します。

    「多世界解釈」が間違っていた場合
 もし「多世界解釈」が間違いで世界は1つなら、1個の光子が経路Iと経路IIのどちらを通ったかをハルが観測した時点で、太郎の住む世界でも波動関数の収縮が起きているはずであり、干渉は起こらず、AとBのそれぞれから光子は確率50%で現れるはずです。100回行えばAとBからそれぞれ約50回ずつ光子が現れるのを、太郎は見るでしょう。

    「多世界解釈」が正しかった場合
 もし「多世界解釈」が正しいなら、ハルにとっては一時的に波動関数が収縮した(世界が分裂した)ものの、太郎にとっては波動関数の収縮は起きていない(世界は分裂していない)ので、光子は干渉を起こすはずです。100回行えば100回ともAから光子が現れるのを、太郎は見るでしょう。

 著者の森田氏は、なぜハルの記憶が消えなければならないのか理由が解らないように書いておられますが、それは絶対に必要です。太郎にとって干渉が起きるためには、一時的に分裂したハルの状態「光子が経路Iを通ったのを観測したハル」と「光子が経路IIを通ったのを観測したハル」とが、その後全く同一の状態となり、どちらだったのか知り得なくなることが、絶対必要条件なのです。

 このようにして、「多世界解釈」が正しいかどうかを実験的に検証できるはずだ、とドイッチェさんが主張しているようです。SumioBabaもそう思います。この人工知能ハルは、量子コンピュータの応用で近々実現できると思われます。早く実現して「多世界解釈」の正しさが証明され、ドイッチェさんにノーベル物理学賞を受賞して欲しいものです。

11日前 No.146

魔術師 @newmemphis ★garobD8eAq_StN

>物理法則は実在に関わる記述であり、実在は観念であって実体はない(実体があるのは現象のみ)であるから、物理法則は実体の記述とはいえないくらいの感じにして欲しいところだ。

??正直、分からない。「現象を引き起こしている何か」は、「物質がある」という立場の人たちにとっては、物質(物自体)である。唯心論者ならば、それは精神である。物質とか精神を「実在」と呼んでもいいだろう。

物理法則は、現象についての記述であって、実在についての記述ではない。なぜ、逆転するのだろうか?

主観としての精神の対象が現象である。(私はそれを客観と呼びたい。)言論や思考は、現象内の事物によって表現され行われるので、実在については説明することも思考されることもできない。物理法則は、現象界の事物についての記述である。


先に、「現象界における物理法則は、因果関係を表しているわけではない」ということの論証として、物理学上の諸事物や諸事物間の関係が完全に明らかになっていないことを使ったのは、常識レベル?に合わせたためである。

哲学的には、そもそも「現象界における出来事には、因果関係はない」のである。現象界における事物が何かの原因となることはない。

現象界における出来事、ビリヤードの玉突きの具体的な光景でも何でも良いが、そこにおける事物とその変化・動きを我々に生起させているのは実在である。それぞれの事物が何かの出来事を引き起こしているわけではない。

仮想世界の例を使えば、その世界の出来事はCPUがプログラム計算で生み出しているのであって、その世界の事物の間には、何かが自分の力で何かを引き起こした、というような因果関係はない。

実在においていかなるルールが使われているかは科学的な方法では分からないし、たとえそれが別の方法で分かったとしても、通常の思考や説明の対象にはならない。(物理法則的な表現ではなくて、比喩的な表現ならば可能だろうか?)

現象界における物理法則が、事物の再現性に基づくパターン記述でしかありえないのは、科学の発展に限りがあるという理由だけでなく、こういう本質的な理由もある。


因果関係というものがあるとしたら、実在が現象を引き起こすことは因果だろう。実在が現象を引き起こす力は、いわゆる「物理的な力」ではない。物理的な力は現象界の力であり、それとは異質なものだ。

「物自体」という考え方は、こうした力とか能動性とはあまり相性が良いとは思えない。

11日前 No.147

魔術師 @newmemphis ★garobD8eAq_StN

シュレディンガーは波動関数を「測定値の確率を予言する手段」であり、「そのまま実在の代用物と見なすことはできない」と考えていた。ということは、「重ね合わせ」そのものを認めていなかったことになる。

「検査がなければある偏微分方程式にしたがって観測者とは無関係に変化しているはずの対象のψ関数が、検査が行われるやいなやある精神の作用の結果として飛躍的な転化をとげるのだという言い方をするのは、正しいとはまったくいえないだろう。なぜならば、対象のψ関数というものは姿を消し、もはや存在していなかったのだから。」『量子力学の現状』(シュレディンガー)

彼は、波動関数を物理的な実体と見ていないので、「検査がなければある偏微分方程式にしたがって観測者とは無関係に変化しているはずの対象のψ関数」も認めていない。

だから、対象が観測されたら、「対象のψ関数というものは姿を消し、もはや存在していなかった」ということになる。


シュレディンガーの言説について考える時は、当然彼の基本的な世界観、認識枠組みは問題となる。先の書き込みをした後に、ネット上で彼の自分の世界観に関する発言を調べてみた。

彼は、「感覚ないし意志行為」は実際に知覚され観測されるが、「物質的原因ないし物質的効果」は想像上の構成にすぎないと言っている。

『わが世界観』(E・シュレーディンガー)より

「もしわれわれがすべての形而上学を除去してしまうならば、どんな専門科学の、きわめて限られた領域の分野についてさえも、なんらかの明瞭な説明をするのはますます困難に、というよりはおそらく不可能になるであろう。」

「・・・第二に私は次のように――それは本来証明が不可能であり、その必要もないものである――繰り返し強調してきた。すなわちその過程をもとにした、物質世界とわれわれの経験との因果関係というものは、意志行為の場合と同様に感覚に関して言うならば、自然科学において間違いなく実際上重要な役割を演じている通常の因果関係とは、類として(toto genere)まったく異なっているということ、そしてジョージ・バークリを通して、さらにデーヴィッド・ヒュームを通してより明瞭になったように、そのような因果関係は、このゆえ(propter hoc)のものとしてではなく、このあと(psot hoc)のものとしてしか現実には観測されないことがわかったということである。


最初に述べたことからして、[共通経験の原因となる]物質世界という仮定は形而上学的なものとなる。なぜなら一般に観測可能なもののの中で、そのような仮定と一致するものはなにもないからである。第二に述べたことからして、それは神秘的なものになる。なぜならわれわれのおびただしい経験の中で、このあと(post hoc)のものとして常に維持されている二つの事象(すなわち結果と原因)の相互関係は、互いに対になった対象に適用して考えられるものであるが、その対象の一方(感覚ないしは意志行為)だけが実際に知覚され観測されるのであって、他方(物質的原因ないしは物質的効果)は想像上の構成にすぎないからである。」

「私にすれば、すべては幻影(maya)なのである。もっともそれは、十分な法則性を持った興味深い幻影ではある。この幻影は、(まさしく中世風に表現すれば)私の不滅の部分とはおおよそ無縁のものである。だがそれは趣味の問題であろう。」

10日前 No.148

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_Y9V

>>145

>私と貴方で一致するとは期待できない、なぜなら、貴方の見る現象は、俺は知りえないからと見送ろう。ありえない一致を哲学の要件とされて
>は、哲学は去り行くしかない。

もちろん、そのようにして哲学が去り行くということに関しては意見の一致をみる。
対象が一致することにおいて、(それが観測されるものならば!)、認識の一致は必ずしもみられるわけではない。
私が述べたのは、そのような一致をすることができないものを、(観測されないものを!)
哲学の対象としたときに、私たちはその対象がいまここにあるということを、どのようにして、いうことができるだろうか。

>>70 の引用を借りれば、それが「対面して立つ(entgegenstehen)」というのは、「それ自体において有る(存在する sein)」ことが要請されるのだが、認識の一致によってしか存在しないものが、それ自体において存在することができるのだろうか、という問いである。
まさにこのような問いの中に(そして、『「シュレディンガーの猫」の問い』の中にも)、私たちは哲学が去り行く瞬間を見かけることができるのだ。

10日前 No.149

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

>147、148

実在は現象なのか?貴方の説明ならそうならなくてはならない。なら、物理学は現象に関する記述であるといってもいいだろう。だが、恐らくはそうではない。なぜなら、貴方の記述では、現象と実在が対比されているからだ。そういうことなら、物理学が現象の記述であるということは誤りだ。哲学的に言えば、実在に属する観念間の関係に関する記述であって、その正当性は、現象との比較によって与えられる。ということになる。貴方は、現象という言葉を混乱して使用している。だから、妙な結論になってしまうのだ。

貴方がこの世を仮想世界と見て生きていくのは、それはそれで自由なのだが、他者を説得する力はないだろう。なぜなら、俺にとっては貴方が仮想世界の何かであることはありうるが、俺自身はそうではないからね。

貴方が、そうやって、シュレディンガーを読み誤り続けるのは、恐らくは、この分野に関する十分な経験がないからだろう。「物質的原因ないし物質的効果」は想像上の構成にすぎないと言っていることは合ってるけどね、そのように書いてあるからね。それは、物理学が現象ではなく、観念に関わる理論であることの証左であり、貴方のいっていることを否定している。

10日前 No.150

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

>哲学が去り行くということに関しては意見の一致をみる。

表面上の一致だね、哲学が去り行くということそのこと自体の中身に関しては、一致するかどうかは確かめようがない。これは、哲学が去り行くと表願された対象のことだ。対象が、感覚にせよ、思惟にせよ、現象である以上、一致するかどうかは分らない。


>対象が一致することにおいて、(それが観測されるものならば!)、認識の一致は必ずしもみられるわけではない。
私が述べたのは、そのような一致をすることができないものを、(観測されないものを!)
哲学の対象としたときに、私たちはその対象がいまここにあるということを、どのようにして、いうことができるだろうか。

対象は一致するかどうかは確認しえない。貴方の考えに沿えば、哲学は独白としてしか存在しえない。


>「それ自体において有る(存在する sein)」ことが要請されるのだが、認識の一致によってしか存在しないものが、それ自体において存在することができるのだろうか、という問いである。まさにこのような問いの中に(そして、『「シュレディンガーの猫」の問い』の中にも)、私たちは哲学が去り行く瞬間を見かけることができるのだ。

それ自体において存在できるものとは何か。ちょっと想像できない。シュレディンガーの猫だけでななく、あらゆることから哲学は去り行くということが貴方の哲学ならば、それはそれで、仕方がない。観測されるもの、いまここにあることのみが哲学ならば、対象が一致しなければ哲学たりえないなら、哲学は外界からこぼれ落ち、自己自身の中に拘束され、記号だけが人々の間に浮遊する。それが本当なのかも知れない。でも、それでも、いいじゃないかと思うのは楽観的過ぎるだろうか?

10日前 No.151

ヒコ太郎 @hikotarou ★r5box4meL6_Y9V

>>151

>対象は一致するかどうかは確認しえない。

観測される対象はその観測されるということにおいて独自性を持ち、その独自性により一致せざるをえないのだ。いいかえれば、その対象は観測されるということにおいて我々の前に開かれており、それが他ならぬ「今ここにある」という言葉で私が表現した内容である。


>貴方の考えに沿えば、哲学は独白としてしか存在しえない。

対象が一致しないから独白になるのであって、一致することを確認できないから独白になるのではない、確認するかしないかというのは、性格やある事柄に対する方法という問題に過ぎない。


>哲学は外界からこぼれ落ち、自己自身の中に拘束され、記号だけが人々の間に浮遊する。それが本当なのかも知れない。
>でも、それでも、いいじゃないかと思うのは楽観的過ぎるだろうか?

哲学がどのようなものかということが、哲学そのものが哲学の対象になることはないと思う。
哲学がそのような状態になることが、いいことか悪いことか、というのは完全に主観の問題であろう。
それこそ、一致することが稀ではないだろうか。

10日前 No.152

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> 魔術師さんへ


 シュレディンガー方程式をシュレディンガー自身がどう解釈していたのかを調べてみるのも、それはそれで有意義な試みだとは思います。ところで、魔術師さん自身は、「観測する前の波動関数で表された状態〔ψ=(1/√2)|A>+(1/√2)|B>〕」と「観測して得られた状態〔|A>または|B>〕」との関係を、どう解釈しておられるのでしょうか?

 「多世界解釈」の方は、正しいかどうか、支持するかどうかは別として、何を言っているのかが極めて明解だと思います。波動関数で表された状態ψ=(1/√2)|A>+(1/√2)|B>というのは、「本当に|A>と|B>とが確率1/2ずつで重ね合わせられたままになっており、どちらにも確定していない状態」です。「本当はどちらか一方に確率1で確定しているのだけれども、どちらなのかを自分は知らないので、観測した時には両方の可能性が1/2ずつ有る」という意味ではありません。存在確率1の状態を「物理的実在」、存在確率0の状態を「数学的仮想」と呼ぶなら、ψ=(1/√2)|A>+(1/√2)|B>という状態は、|A>も|B>も存在確率1/2ですから、「物理的実在」と「数学的仮想」の中間です。どちらなのかを観測すると、|A>である世界Waと|B>である世界Wbとに分裂します。|A>であった世界Waでは、|A>が存在確率1で「物理的実在」になり、|B>は存在確率0で「数学的仮想」だったように見えます。|B>であった世界Wbでは、|B>が存在確率1で「物理的実在」になり、|A>は存在確率0で「数学的仮想」だったように見えます。

7日前 No.153

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

    「多世界解釈」における確率・時間の流れ・物理法則

 「多世界解釈」にもいろいろ問題点が有るのですが、中でも重要なのが「確率」の意味が解らなくなる、という問題です。これはある意味で「多世界解釈」の短所とも見なせますが、逆に見ると大いなる長所にもなり得ます。

 例えば「表」〇か「裏」●が出る量子コインを100回投げ、どちらが出たかを観測します。○が出る確率をP、●が出る確率を1-Pとします。P=0.9999999999、P=0.5、P=0.0000000001の3つの可能性が有るとします。
 世界が1つの場合には、「確率」の意味は明確です。もしP=0.9999999999なら、恐らく100回すべて○が出るでしょう。もしP=0.5なら、恐らく○と●が約50回ずつ出るでしょう。もしP=0.0000000001なら、恐らく100回すべて●が出るでしょう。実際にやってみてどれが出たかで、確率Pの値を推測できます。

 ところが「多世界解釈」の場合、P=0.9999999999、P=0.5、P=0.0000000001のどの場合にも、2^100種類の世界すべてが実現します。それらの中には、100回すべて○が出たのを知覚した自分○も、○と●とが約50回ずつ出たのを知覚した自分○●も、100回すべて●が出たのを知覚した自分●も、必ず含まれます。そして、自分○はP=0.9999999999だと確信しています。自分○●はP=0.5だと確信しています。自分●はP=0.0000000001だと確信しています。で、3人の自分うち、誰が正しいのでしょうか? 知る方法など有りません。

 そこで「確率」についての考え方を2つに分けます。【確率の実在論】=「コインの○が出る確率Pは、人間の心による認識とは無関係に、客観的に確定している。従って、自分○と自分○●と自分●のうち、正しいのはせいぜい1人だけであり、2人は間違っている。」。【確率の観念論】=「コインの○が出る確率は、客観的には決まっていない。自分○はP=0.9999999999と認識し、自分○●はP=0.5と認識し、自分●はP=0.0000000001と認識し、3人とも主観的に正しい。」。「多世界解釈」の場合、たとえ【確率の実在論】を仮定しても、客観的に確定しているという「Pの真の値」は決して知り得ません。だから合理的なのは【確率の観念論】の方だということになります。

 しかしそうすると、大きな問題が生じます。そもそも「多世界解釈」は、量子力学を合理的に解釈するために提案されたものです。そして量子力学は、現在の状態から未来のどんな状態がどんな確率で起こり得るかを計算する物理法則です。「多世界解釈」の場合、この量子力学が主張している確率が意味を無くし、本当に量子力学に従っているのかどうかが不明になってしまうのです。
 さらに「確率」の意味が不明になると、「時間の流れ」の意味も不明になります。W(t1)→W(t2)という「時間の流れ」が存在するというのは、特定の確率Pでこのような流れが有る、という意味です。Pの値が不明だと、そのような「時間の流れ」は有るとも無いとも言えてしまいます。そして「時間の流れ」が不確実になると、「物理法則」も不確実になります。
 だからこそ「多世界解釈」は不適切だ、と考える人も居るようです。しかし、逆の考え方もできます。「多世界解釈」は言わば、「物理法則」を超越しているのです。

 「多世界解釈」は〔色即是空・空即是色〕を意味している、と解釈するのが「SumioBaba解釈」でした( >>114 )。実在しているのは、「空」M0と「色」M1、M2、M3、…との間に成立するM0=M1+M2+M3+…という関係だけです。この場合、「確率」も「時間の流れ」も「物理法則」も実在しません。それらは個々の「色」M1、M2、M3、…の中に観念として存在し得るだけです。
 例えばM5という心が「一瞬前はM4だった」という記憶を持ち、「一瞬後はM6だろう」と推測している心だとすると、「M5はM5である」という自己認識の中に、M4→M5→M6という「時間の流れ」が観念として存在することになります。そしてそのように時間が流れる「物理法則」という観念が発生します。しかし本当は、M5は「空」M0から生まれ、「空」M0へと消えていく、つまりM0→M5→M0だと考えても良い訳です。仏教でも、個々の心は一瞬だけの「刹那(せつな)」的存在だ、という解釈が有ります。哲学では「独今論」とも呼ばれます。
 「確率」も不明、「時間の流れ」も不明、「物理法則」も不明、ということは、M0、M1、M2、M3、…の任意の2つをMiとMjとするとき、Mi→Mjという「時間の流れ」は確率Pで「存在する」であり、確率1-Pで「存在しない」でもあることになります。そしてPの値は不可知です。

6日前 No.154

★tNAo3sdTat_Y9V

>>154  馬場さんへ

横レス失礼します。面白い議論ですね。

ざっとしか拝見していませんので、間違いがあるかも知れませんが、少し書いて見たいと思います。

> そもそも「多世界解釈」は、量子力学を合理的に解釈するために提案されたものです。そして量子力学は、現在の状態から未来のどんな状態がどんな確率で起こり得るかを計算する物理法則です。「多世界解釈」の場合、この量子力学が主張している確率が意味を無くし、本当に量子力学に従っているのかどうかが不明になってしまうのです。


> さらに「確率」の意味が不明になると、「時間の流れ」の意味も不明になります。W(t1)→W(t2)という「時間の流れ」が存在するというのは、特定の確率Pでこのような流れが有る、という意味です。Pの値が不明だと、そのような「時間の流れ」は有るとも無いとも言えてしまいます。そして「時間の流れ」が不確実になると、「物理法則」も不確実になります。

>  だからこそ「多世界解釈」は不適切だ、と考える人も居るようです。しかし、逆の考え方もできます。「多世界解釈」は言わば、「物理法則」を超越しているのです。


きっとそうですよね。多世界解釈を用いた場合には、そもそもの確率自体の意味をなさなくなってしまいますね。これを本末転倒だと捉えるのか、仰るように、多世界解釈は、この世の物理法則を超越しているものだと捉えるか。面白いですね。

本来の確率自体の意味をなさなくなると、「時間」が確定的な意味をなさなくなり、次には、その時間を計算に入れた各種の物理法則も不確実なものとなります。

それを踏まえた上でSB量子神学( http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html )では、神と人間との関係を多世界解釈に基づいて観念論として解き明かそうとされていたという事ですね。

神と人(心)の関係を仏教の空と色の関係に準え、空を神とし、色を各人の心としたという事で、空をM0と、各人の心をそれぞれM1.M2.M3・・・と表現されていますね。この事自体、大乗の僧侶からは反発が出るかもしれませんが、それはそれとして、これは馬場さんの解釈ですものね。

そして究極的には、人が通常認識しいている、物理法則、時間、自由意志等は存在しないという結論に至るでしょうか。つまりは多世界解釈を突き詰めてくと、本末転倒なのか物理法則を超越しているのか?の各個人の判断となりますね。

> 観念論的には、我々の体験(客観)は、「(神の)精神」が我々の精神に引き起こす認識であり、物理法則は、「人間の立場で把握した体験の起き方のパターン」という捉え方になります。

> 「物質」とかいう、体験を精神に引き起こす原因となる何か(精神の外にある)があるとは考えません。( >>42


上記は魔術師さんの書き込みですが、結局は観念論を用いると、表現こそ違えど同じような結論に至るように思います。また、その違いにおける議論が楽しいのでしょうね。(笑)

この世に実在するものはないのか?各人の心のみが実在するのか?物質の実が実在するのか?全てが実在するのか?神のみが実在するのか?等々、拝見していると面白い時があります。

若干スレチな感もありますが、雑感です。

6日前 No.155

魔術師 @newmemphis ★zRFqcmBlzu_StN

SumioBabaさん。


>魔術師さん自身は、「観測する前の波動関数で表された状態〔ψ=(1/√2)|A>+(1/√2)|B>〕」と「観測して得られた状態〔|A>または|B>〕」との関係を、どう解釈しておられるのでしょうか?

私は、相対性理論はインチキくさいと思っていましたが、量子力学は、かなり正しいのだろうと思っていました。いわゆる「重ね合わせ」の話も、あまり疑ってきませんでした。「シュレディンガーの猫」の話を調べると、シュレディンガーは「重ね合わせ」説(コペンハーゲン解釈)を嫌っており、量子力学そのものも嫌っていたようです。それで彼は、生物学へ行ってしまったのでしょう。

私自身は、確率を計算するための式を「物質の性質」として実体視したことから「重ね合わせ」や「多世界解釈」が発生したという説が正しいのではないかと考え始めています。二重スリットの実験結果については、様々な解釈がありうるし、今後の科学の発展によって重ねわせによらない説明もできるようになるかもしれません。

あなたが、多世界間の干渉について話をしたのに違和感があります。あれは、確率波の干渉を考える「重ね合わせ」説で起こるとされていることではないのですか。別々の世界の間で干渉がおきるというのはおかしいのではないでしょうか。


>確率

単に、「Aが起きる場合の数を全ての場合の数で割った結果」を意味しているだけだと思います。


>時間

精神の対象である現象の変化量を示すもので、独立する実体はないのではないか、と私は考えます。


>物理法則

「現象界における事物のあり方を予想するパターン記述」です。「物質の性質」とか「事物間の因果関係」を示しているわけではありません。波動関数のような予想確率が(ほとんど)100%でない法則だけが、予想のための記述だというわけではないと考えます。

4日前 No.156

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>155  時さんへ

 コメント有難うございます。時さんに読んで貰えていたのがとても嬉しい限りです。

>きっとそうですよね。多世界解釈を用いた場合には、そもそもの確率自体の意味をなさなくなってしまいますね。これを本末転倒だと捉えるのか、仰るように、多世界解釈は、この世の物理法則を超越しているものだと捉えるか。面白いですね。

>本来の確率自体の意味をなさなくなると、「時間」が確定的な意味をなさなくなり、次には、その時間を計算に入れた各種の物理法則も不確実なものとなります。

>それを踏まえた上でSB量子神学( http://mb2.jp/_tetsugaku/824.html )では、神と人間との関係を多世界解釈に基づいて観念論として解き明かそうとされていたという事ですね。


 その通りです。正しく理解して下さっています。「多世界解釈」の場合、本当は殆どの世界で「物理法則」など成立しないのだけれど、それらの世界は認識できず、それらを特定の「物理法則」が成立するように重ね合わせた世界だけが存在するように認識できるのだ、という解釈が可能です。
 典型的な例が「経路積分」です。量子力学以前の古典力学では、周囲から力を受けていない1個の自由粒子は、「運動量保存則」により等速直線運動する、と考えられて来ました。ところが量子力学の1つの形式である「経路積分」では、観測していない時の1個の自由粒子は等速直線運動するとは限らず、考えられる限りすべての曲線経路を通っていると考えます。「運動量保存則」などという物理法則は実在していないかのようです。
 ところが、それらすべての経路を重ね合わせるとどうなるか? この粒子を波と見なした場合の1波長以上遠回りする経路には、必ずそれと打ち消し合う経路が存在して互いに打ち消し合います。そして結局、等速直線運動する経路およびそれにごく近い範囲だけ存在確率が残り、それ以外の領域では打ち消し合って存在確率が0になります。こうして、不確定性原理が主張する程度の不確定性を残した上で、「運動量保存則」が発生する訳です。

 「シュレディンガー方程式」「ボーアの量子条件」「パウリの排他律」…等にも同じ事が言えます。これらはどれも、特定の条件を満たした状態ψaだけが発生し、満たしていない状態ψxは発生しないことを主張します。確かに実験的にはその通りです。ところが敢えて、そんな法則は実在せず、本当はψaもψxも平等に存在しようとしている、と考えてみます。すると、ψaの方は「ψaが存在する」と仮定すると「ψaが存在する」が導かれるので、矛盾なく存在できるのが解ります。一方ψxの方は、「ψxが存在する」と仮定すると「ψxは存在しない」という矛盾が導かれたり、あるいは、「ψxが存在する」と仮定すると「-ψxが存在する」までが平等に導かれ、ψx-ψx=0で消滅してしまい、それゆえに存在できない事が解ります。
 つまり「神」は、何も「物理法則」になど縛られず、存在できる世界はすべて作り出している、と見なせます。ただし、特定の「物理法則」に従わない世界は自分で自分を消滅させ、存在できません。あるいは、存在しているのだけれど認識できません。だから逆にいうと、存在している世界そして認識できる世界は、必ず「物理法則」に縛られていることになります。一種の「人間原理」ですね。こう考えると、「なぜ物理法則などというものが「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」という謎も消滅します。

>神と人(心)の関係を仏教の空と色の関係に準え、空を神とし、色を各人の心としたという事で、空をM0と、各人の心をそれぞれM1.M2.M3・・・と表現されていますね。この事自体、大乗の僧侶からは反発が出るかもしれませんが、それはそれとして、これは馬場さんの解釈ですものね。


 はい。図書館に行くと、般若心経の解説本が10〜20冊並んでいましたが、「空」の解釈はみな異なるようでした。どれが正しい解釈かを問うても答は出そうに無いし、自分流の合理的な解釈を試みた方が面白いと思います。

>そして究極的には、人が通常認識しいている、物理法則、時間、自由意志等は存在しないという結論に至るでしょうか。つまりは多世界解釈を突き詰めてくと、本末転倒なのか物理法則を超越しているのか?の各個人の判断となりますね。


 そうです。で結局、どちらも正しいと思います。「本末転倒だ」と認識する視点に立てば「本末転倒だ」と認識する、「物理法則を超越している」と認識する視点に立てば「物理法則を超越している」と認識する、…というダブル・トートロジーです。

>上記は魔術師さんの書き込みですが、結局は観念論を用いると、表現こそ違えど同じような結論に至るように思います。また、その違いにおける議論が楽しいのでしょうね。(笑)


 SumioBabaと魔術師さんとは、どちらも観念論だし、物質も確率も時間も物理法則も、心の中の観念に過ぎず、心を離れて実在する訳ではない、という点で一致しているように思います。

>この世に実在するものはないのか?各人の心のみが実在するのか?物質の実が実在するのか?全てが実在するのか?神のみが実在するのか?等々、拝見していると面白い時があります。


 それもまた、ダブル・トートロジーだと思います。SumioBabaは「多世界解釈」を支持していますが、その理由は、他の解釈と違って「多世界解釈」だけがすべての謎を消滅させられるという合理性のためです。どう解釈すると謎が無くなるかという「謎消論」を追究すると、「多世界解釈」に至るようだという主張です。
 しかし「神」は全知全能であり、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現していると考えるので、当然「多世界解釈」についても、確率Qで「多世界解釈は正しい」が、確率1-Qで「多世界解釈は正しくない」が、両方実現しているはずです。
 この点についても、「多世界解釈」は面白い内容を持っています。存在し得るすべての世界Wi(i=0、1、2、3、…)あるいは存在し得るすべての心Mi(i=0、1、2、3、…)は、客観的な存在ではなく主観的な存在であり、確率Piで「存在する」でもあれば確率1-Piで「存在しない」でもあります。すべての世界が「存在する」という可能性も有り、これは「多世界解釈」の肯定である「多世界解釈の肯定」(正)と書けます。自分の世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、W4、…は「存在しない」という可能性も有り、これは「多世界解釈の否定」(反)と書けます。そして、この両方を含んだものを広義の「多世界解釈」(合)だとすれば、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈の肯定」(正)+「多世界解釈の否定」(反)という弁証法的構造になります。つまり「多世界解釈」は、自分の中に自分自身の肯定と否定とを含んでいる、と解釈できます。

>若干スレチな感もありますが、雑感です。


 いえいえ、大変的確なご意見でした。またぜひお願い致します。

4日前 No.157

魔術師 @newmemphis ★zRFqcmBlzu_StN

>この世に実在するものはないのか?各人の心のみが実在するのか?物質の実が実在するのか?全てが実在するのか?神のみが実在するのか?等々、拝見していると面白い時があります。

>若干スレチな感もありますが、雑感です。

シュレディンガーは、「シュレディンガーの猫」の話を持ち出してきた時には、現実の観測とか数学的な計算上の問題として提起したわけではないようです。

そうした形而上学の問題としての要素が大きいと考えるべきでしょう。

ここで哲学的な話をすることは、スレッド違いではありません。

4日前 No.158

★WDhtqh178E_Y9V

>>155  にて私が書きました

>若干スレチな感もありますが、雑感です。

について、馬場さんには私の意図したところが通じ、魔術師さんには通じなかったようですね。(別に皮肉っているわけではありませんよ)

この事自体、特段の問題はありませんので、議論をお続けください。

4日前 No.159

★WDhtqh178E_Y9V

>>157  馬場さんへ

>  それもまた、ダブル・トートロジーだと思います。SumioBabaは「多世界解釈」を支持していますが、その理由は、他の解釈と違って「多世界解釈」だけがすべての謎を消滅させられるという合理性のためです。どう解釈すると謎が無くなるかという「謎消論」を追究すると、「多世界解釈」に至るようだという主張です。


「すべての謎を消滅」を明確な目的と、その方法として「多世界解釈」を採用されているという事ですね。転じて、SB量子神学の確立と言う事でしょう。

>  しかし「神」は全知全能であり、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現していると考えるので、当然「多世界解釈」についても、確率Qで「多世界解釈は正しい」が、確率1-Qで「多世界解釈は正しくない」が、両方実現しているはずです。

>  この点についても、「多世界解釈」は面白い内容を持っています。存在し得るすべての世界Wi(i=0、1、2、3、…)あるいは存在し得るすべての心Mi(i=0、1、2、3、…)は、客観的な存在ではなく主観的な存在であり、確率Piで「存在する」でもあれば確率1-Piで「存在しない」でもあります。すべての世界が「存在する」という可能性も有り、これは「多世界解釈」の肯定である「多世界解釈の肯定」(正)と書けます。自分の世界W1だけが「存在する」であり、他の世界W2、W3、W4、…は「存在しない」という可能性も有り、これは「多世界解釈の否定」(反)と書けます。そして、この両方を含んだものを広義の「多世界解釈」(合)だとすれば、「多世界解釈」(合)=「多世界解釈の肯定」(正)+「多世界解釈の否定」(反)という弁証法的構造になります。つまり「多世界解釈」は、自分の中に自分自身の肯定と否定とを含んでいる、と解釈できます。


ここも大変興味深い所です。特に「つまり「多世界解釈」は、自分の中に自分自身の肯定と否定とを含んでいる、と解釈できます。」の部分です。そうですね。含んでいますよね。ですから謎が消滅しますが、同時に理解され難いのかも知れません。

仏陀の教えでも同じようなことがあります。仏陀の教えを一言で言い表すとしたら「四聖諦」ですが、このなかの一つに八支聖道(道聖諦)があります。この八支聖道の最初に「正見」と言う項目がありますが、これは「四聖諦を知る事」になります。

つまり、四聖諦を学ぼうとすると八支聖道の実践が必須であり、八支聖道を実践しようとすると「四聖諦を知る事」が必須になるという、まるでクラインの壺のような印象を、学び始めの頃に持った記憶があります。そして最終的には、その教えである四聖諦も消滅し、これで教えの実践が終焉します。教えの実践が終わった後には、二つの事だけが残るようになります。

お書きいただいた「肯定と否定」とは少しニアンスが違いますが、一生懸命実践した教えが最終的には消滅をもってその教えの完成を見るという事です。ですからこちらも理解され難いのかも知れませんね。

無知の知のソクラテス、一切智者の仏陀と「もしあなた方が盲人であったなら罪はなかったでしょう。しかし、今あなた方が「見える」と言い張るところに、あなた方の罪がある」と言ったキリストが会席で話をしたらどうなったでしょうか。考えると面白いですね。

失礼しました。スレチはこれくらいにします。レスをありがとうございました。

4日前 No.160

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>156  魔術師さんへ

>私自身は、確率を計算するための式を「物質の性質」として実体視したことから「重ね合わせ」や「多世界解釈」が発生したという説が正しいのではないかと考え始めています。


 唯物論を捨て、観念論を採り、本当は「物質の性質」ではなく「精神の性質」だったのだと考えても、量子ミステリーは何も解決しないと思います。《謎》=「観測する前はψ=(1/√2)|A>+(1/√2)|B>という重ね合わせで表現されるのに、観測すると|A>または|B>だけが観測にかかる。観測すると|A>と|B>の片方だけが「物理的実在」、他方は初めから「数学的仮想」だったように見えるが、観測しないときには|A>と|B>が干渉を起こすので、一方だけが「物理的実在」で他方は「数学的仮想」だった、とは考えにくい。観測する前、|A>と|B>は「物理的実在」だったのだろうか、「数学的仮想」だったのだろうか?」です。
 「多世界解釈」はこの謎に、きちんと答えています。支持するかどうかは別として、もし「多世界解釈」が正しければ、「なーんだ、そういうことだったんだ、よーく解った。」と量子ミステリーは完全解決です。SumioBabaの場合、観念論を採るため「多世界解釈」を「多精神解釈」に置き換えますが、やはりこの説明が有って初めて、量子ミステリーの答が得られたと考えます。ところが魔術師さんは、この《謎》に何も答えていないんですよね。実際、「なぜ神は人間の心に分裂したのか?」には答えられないでしょう? 「多精神解釈」だと、量子力学でいう観測による分裂こそ、全知全能の「神」の本来の姿である「空」M0が、無数の「色」M1、M2、M3、…に分裂する過程そのものです。

>二重スリットの実験結果については、様々な解釈がありうるし、今後の科学の発展によって重ねわせによらない説明もできるようになるかもしれません。


 そういうのって、とっくに有るじゃないですか。「ガイド波解釈」( >>31 )もそうだし、ネルソンの「確率力学」( >>141 )もそうです。どちらもすでに、簡単な内容をSumioBabaが説明ずみなのですが、魔術師さんには理解してもらえていないようですね。そして、とっくにそういう説明は存在するのですが、人々は満足していません。根本的な解決になっているとは思えないからです。

>あなたが、多世界間の干渉について話をしたのに違和感があります。あれは、確率波の干渉を考える「重ね合わせ」説で起こるとされていることではないのですか。別々の世界の間で干渉がおきるというのはおかしいのではないでしょうか。


 「多世界解釈」では、宇宙全体をψで表して量子干渉の議論の対象にします。従って、「1個の光子が左のスリットを通った状態ψ(左)と右のスリットを通った状態ψ(右)とが重ね合わせのために干渉する」は、「1個の光子が左のスリットを通った世界W(左)と右のスリットを通った世界W(右)とが重ね合わせのために干渉する」と同じです。

3日前 No.161

魔術師 @newmemphis ★zRFqcmBlzu_StN

>本当は「物質の性質」ではなく「精神の性質」だったのだと考えても

波動関数も含めて、すべての物理法則は、実体のないパターン記述であると考えているのです。

「実体がない」という表現は、「現象界における事物間の因果関係を示しているわけではない」し、

「物質や精神などの現象の背後にあって現象を引き起こしている実在が、現象を引き起こす際に用いるプログラムではない」

という意味で使っています。

波動関数は、コインを投げると表がでる確率を示す数式や、サイコロを投げると奇数が出る確率を示す数式の仲間だと考えています。

そうした数式は、現象界における事物間の因果関係を示すものでもないし、現象の背後にある実在の性質でもないですよね。

つまり、現象界の原子・素粒子等は、波動関数に従って存在しているわけではないということです。

「波動関数に従って世界が分裂していく」と考える多世界解釈は間違いだということになります。


>「なぜ神は人間の心に分裂したのか?」には答えられないでしょう?

考え中です。「なぜ」の解明と「どうなっているか」の解明は、別問題だと思います。

SumioBabaさんの説は、量子力学の多世界解釈というよりも、ライプニッツのモナド説に似ているような気がします。

ライプニッツの思想には、「可能世界」という考え方もあるそうです。

量子力学の多世界解釈を捨てても、あなたの説にはさほど影響がないのではないですか。


>「ガイド波解釈」( >>31 )もそうだし、ネルソンの「確率力学」

今後、それらとは別の説明が現れて、成功するかもしれません。


>「1個の光子が左のスリットを通った世界W(左)と右のスリットを通った世界W(右)とが重ね合わせのために干渉する」と同じです。

なるほど、多世界解釈では、二重スリットの実験結果をそうやって説明するのですね。

3日前 No.162

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>162  魔術師さんへ

>波動関数も含めて、すべての物理法則は、実体のないパターン記述であると考えているのです。

>「実体がない」という表現は、「現象界における事物間の因果関係を示しているわけではない」し、

>「物質や精神などの現象の背後にあって現象を引き起こしている実在が、現象を引き起こす際に用いるプログラムではない」

>という意味で使っています。


 SumioBabaも観念論を採る点では魔術師さんと一致しており、物質も物理法則も時間の流れも確率も、心の中の観念として存在するだけだと考えています。しかし、だからといってなぜ物理法則を「現象界における事物間の因果関係を示しているわけではない」と言えるのでしょう? 観念論の立場を採っても、物理法則とは「現象界における事物間の因果関係を示しているもの」だと思いますよ。

>波動関数は、コインを投げると表がでる確率を示す数式や、サイコロを投げると奇数が出る確率を示す数式の仲間だと考えています。


 波動関数が単に確率を求める数学的手段に過ぎず、物理的実在ではないというのなら、二重スリット実験で1個の光子がどちらを通ったか観測しないとき、左を通った状態|左>と右を通った状態|右>とはなぜ干渉を起こすのでしょう? どちらも物理的実在に見えますよ。

>そうした数式は、現象界における事物間の因果関係を示すものでもないし、現象の背後にある実在の性質でもないですよね。


 シュレディンガーの猫の話で、誰もまだ猫の生死を観測していない場合、魔術師さんはどう考えるのですか? (1)=「すでに猫は生または死の片方に確定しているが、自分は知らないだけ」、(2)=「猫の生死は観測するまでは確定していない」、(3)=「そういう問題には一切答えない」のどれを支持するのですか?

>つまり、現象界の原子・素粒子等は、波動関数に従って存在しているわけではないということです。

>「波動関数に従って世界が分裂していく」と考える多世界解釈は間違いだということになります。


 現象界において原子・素粒子等がどんな法則に従って存在しているかを見事に表現して見せたのが、シュレディンガー方程式であり波動関数ですよ。それを受け入れない方が間違っていると思いますけど。

>SumioBabaさんの説は、量子力学の多世界解釈というよりも、ライプニッツのモナド説に似ているような気がします。


 「気がします」もなにも、SumioBaba自身がとっくに「「多世界解釈」から観念論(モナドロジー)へ」( >>99 )と説明しているじゃないですか。 量子ミステリーの内容から出発し、シュレディンガー方程式に従うと自ずと「多世界解釈」に導かれることを示し、「多世界解釈」だと波動関数の収縮(世界の分裂)が《客観的》でなく《主観的》になるので、客観的物質世界などは存在せず、自ずとモナドロジーへとつながる、という説明をすでにしているのです。こちらの説明を全く読んで貰えていないのか、読んだ上で理解して貰えていないのか…。

>ライプニッツの思想には、「可能世界」という考え方もあるそうです。

>量子力学の多世界解釈を捨てても、あなたの説にはさほど影響がないのではないですか。


 D・ルイスの「可能世界論(様相実在論)」だったら、存在可能な世界はすべて存在すると考えるので、「多世界解釈」とよく似た状況になります。しかしライプニッツの場合はどうなのでしょう? 可能な世界をすべて考えてみた上で、全知全能の「神」は最も理想的な世界を1つだけ作った、それが我々の世界だ、と主張したのではないでしょうか。
 「SumioBaba解釈」では、存在し得る世界はすべて存在していると考える必要が有ります。そうでないと、存在し得るのに存在していない世界があることとなり、「なぜ?」という謎が残ってしまうからです。

3日前 No.163

魔術師 @newmemphis ★wK3DHVXIgm_M0e

>観念論の立場を採っても、物理法則とは「現象界における事物間の因果関係を示しているもの」だと思いますよ。

物理学上の個々の基礎概念(電子、光子、重力等)についても、様々な現象についても、完全な説明はできていないですよね。

科学には限界があります。物理法則は、因果関係による説明を正確にはできていません。

また、ニュートンが数式で力を表現した時点で、諸概念間の数的関係を表しはしたものの、例えば質量とか引力とは何かというような追求からは離れていますよね。

哲学的にも、「因果関係」というのは、無限遡及という難しい問題を孕んでいます。「なぜ」という問に対して何か答えても、

答えに用いた事物の概念が「何であるか」を説明していかなければならないし、その答えについても、さらに「なぜそうなるの」と問われたら、また答えなければいけません。

現在の物理法則は、正確には因果関係で説明はなされていません。本質的には、「こうなると、ああなる。その数的関係はこうだ。」というパターン記述なのです。

なぜ、そういうパターン記述ができるのでしょうか。それは、自然界の再現性に基づきます。多くの現象は、似たような状況・条件下では、同じことが繰り返しおきます。

そこで、パターン記述による予想ができるのです。予想ができるから、我々にとって役に立つのです。

100%近い予想的中率の物理法則がある中で、波動関数のような100%の確率の予想でないものもあるのですが、

現象界における事物間の因果関係を表すものでない点で、それらは全て同じです。


しかし、この「因果関係」については、もっと本質的な哲学上の問題があります。

現象、我々の体験と言い換えても良いのですが、それは我々の精神に起きていることです。我々の精神という鏡に写った映像が現象なのです。

我々の体験(の内容)は、全て心のなかのことです。日常見ている物事や考え、全て心の中のできごとです。

これらの現象を引き起こしている何かがあるはずです。物質(物自体)とは、そういうものとして考えられています。

能動的な精神が、我々に現象を引き起こしていると考える人たちもいます。創造神とか自分の精神が現象を引き起こしていると考えるわけです。

物質にせよ創造神にせよ、現象界の事物の背後にあってそれを引き起こしているものを「実在」と呼ぶことにしましょう。

現象界における物事を生み出しているのは実在ですが、現象界を動かしているのも実在です。現象界そのものを引篭しているのは実在だからです。

現象界における事物の何かが、そこでの出来事の原因となることはありません。

あたかも、コンピュータ上の仮想世界での出来事は、CPUによるプログラム計算で作り出されているのであって、仮想世界内の何かが原因となっているのではないようなものです。


残りの回答は後で。

2日前 No.164

魔術師 @newmemphis ★zRFqcmBlzu_StN

>二重スリット実験で1個の光子がどちらを通ったか観測しないとき、左を通った状態|左>と右を通った状態|右>とはなぜ干渉を起こすのでしょう?どちらも物理的実在に見えますよ。

二重スリット実験の結果から、「二通りの「可能性」が干渉を起こした」というように断定する段階ではないと思います。便宜上の仮定ていどの話にとどめておくべきですよ。

他にも、量子力学上の実験は色々となされているのでしょうが、実験結果の解釈には慎重であるべきです。


>誰もまだ猫の生死を観測していない場合、魔術師さんはどう考えるのですか?

箱を開ける前に、生死が決まっているのが当然です。毒ガスが発生したか・しないかのどちらかに決まっています。重ね合わせ理論だと、箱に入っているのが人間だったら、観測者がいるので、ガスは発生したかしないかに決まっているとか言い出しそうです。

蓮舫風に言うならば、「ネコではダメなんですか」という感じです。

ちなみに、「SumioBaba解釈」だと、例えば蓮舫に台湾籍がある場合とない場合の不確定の状態にあったのが、蓮舫が台湾籍もありましたと文書を見せて証明すると、「蓮舫が日本国籍だけ」の世界と「蓮舫が二重国籍」の世界に分裂するのですか。もしかしたら中国籍もあるのではないかと疑う人もいますが。


>現象界において原子・素粒子等がどんな法則に従って存在しているかを見事に表現して見せたのが、シュレディンガー方程式であり波動関数ですよ。

『波動関数は実在するか』(谷村省吾)より
「・・・あるいは,Aさんが箱を開けて見た結果をBさんに電話で伝えるのであれば猫の波動関数が変化するのはBさんが電話を受けた時点なのか,といった疑問が生ずる.

 これも「波動関数は誰から見ても同一の客観的な物質状のものだ」と思うからパラドクスになるのであって,Aさんの立場では猫についての予想確率を記述する波動関数があり,Bさんの立場では「猫プラスAさん」についての予測確率を記述する波動関数があって,二通りの波動関数が数学的に整合しているなら,別物でもかまわない.・・・」


>「多世界解釈」だと波動関数の収縮(世界の分裂)が《客観的》でなく《主観的》になるので、客観的物質世界などは存在せず、自ずとモナドロジーへとつながる、という説明をすでにしているのです。こちらの説明を全く読んで貰えていないのか、読んだ上で理解して貰えていないのか…。

おそらく半分くらいは読んでいると思うのですが、すぐに分からなくなるのですよ。ライプニッツ流のモナドロジーならば最初から精神しか認めないのですが、その言い方だとまず「波動関数の収縮」があって、そこから主観的な世界観ができて、唯心論になるというような感じです。実際にあなたは現象世界における法則としての波動関数に世界を分裂させる機能があると考えていますよね。

はじめから精神しか認めないのであれば、モナド説に近いです。あなたはそういう感じの説明をすることもあります。そうなると、あなたが多世界の話を展開するためには、物質がいらないのと同様に、実体的に考えられた物理法則としての波動関数も要らないと思います。

2日前 No.165

★d0s1Y2WlVF_Y9V

馬場さん、魔術師さんへ

もうご存知かもしれませんが、超球理論(量子力学の論文)と言うのがあるようですね。

その中の一部に「観測」についても述べられているようです。以下は、一部引用です。

 観測は、理論の世界で急激な変動を引き起こすのではなくて、理論の世界から現実の世界へと、数学的空間を切り替えることに相当する。ここでは、理論というものはまったく成立していなくてもいい。(たとえば、子供の場合。)あるいは、理論というものがまったく間違った理論であってもいい。(たとえば、古典力学にもとづく量子論。)……いずれにせよ、理論の世界が何であれ、それにかかわらず、観測したときに現実の結果が判明する。
 そして、このことは、特に本論でいえば、次のことに相当する。

        「波」 の 世界
現実世界(1つ)<   ↓  観測
        「粒子」の世界

 理論の世界は、「波」の世界である。現実の世界は、「粒子」の世界である。観測という人間の行為は、この二つの世界を切り替える。
 そして、この二つの世界というのは、現実ではなくて、認識法としての世界だ。それは数学的空間に相当する。
 つまり、「一つの現実世界に、二つの数学的空間が対応しておいて、その二つの数学的空間を切り替えるのが、観測だ」と言える。──これが、本論の立場だ。

ここまでが引用です。

要は空間内には粒粒がぎっしりと詰まっており、二重スリットの問題では、発射された一粒の粒が空中を移動して観測板に当たっているのではなくて、発射した段階では、その一つの粒(電子)が最小限の動きをして(ほぼ動かずに)、次から次へとぎっしりと詰まった粒粒に徐々に振動を伝えていると言うような考え方のようです。

丁度、振り子のエネルギー保存とでもいうのでしょうか。ビリヤードの玉が次の玉に当たって、元の玉がその場にとどまりつつ、当てられた方の球が移動すると言ったイメージをしました。ですので、最初に発射された電子と最後に観測板に当たった電子は別なのでしょう。しかしこの両者の粒の見分けがつきません。と言った内容のようです。

この超球理論の考え方ならば、最初に発射された一粒の電子(粒)は、その振動が空間を波のように伝わり、最終的には干渉稿を描くでしょう。

また、途中観測の場合に、最終的に干渉稿を描かない理由も説明されていたように思います。ざっと一部を拝見しただけですが、面白かったですよ。

1日前 No.166

★d0s1Y2WlVF_Y9V

>>166  追記です。

ブログでは、「シュレディンガーの猫」についても考察されています。

パラドックスの理由ついて「できもしないことを、できると仮定したので、奇妙な結論が生じる」としており、

(1) 量子の世界では、量子の状態が振動するので、一見、重ね合わせのように見える状態を作ることができる。
(2) マクロの世界では、猫の生死が振動しないので、絶対、重ね合わせのように見える状態を作ることができない。

多世界解釈の重ね合わせの状態はと言うのは、一見そのように見えるだけだとし、そのミクロの世界の事(見かけの重ね合わせ)をもってマクロの世界の猫に当てはめられはしないという事のようです。なぜならば、ミクロの世界では量子状態が振動している。(多世界解釈でいう所の重ね合わせに見える)が、マクロの世界の猫の生死と言う問題では、猫の生死が振動するようなことはない(多世界解釈でいう所の重ね合わせにはならない)等々と書かれておられるようです。

Open ブログ(南堂久史)サイト内検索で「シュレディンガーの猫」で検索すれば出てきます。以上です。

1日前 No.167

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>165  魔術師さんへ

>二重スリット実験の結果から、「二通りの「可能性」が干渉を起こした」というように断定する段階ではないと思います。便宜上の仮定ていどの話にとどめておくべきですよ。


 逆ですよ。シュレディンガー方程式によると、自ずと「多数の状態が重ね合わせになって干渉する」という描像になるのです。従って「それは違う」と否定するのなら、否定する方にその説明責任が有るのです。魔術師さんはその説明責任を果たしておらず、ただただ感情的に量子干渉や「多世界解釈」を拒絶しているだけなのです。

>箱を開ける前に、生死が決まっているのが当然です。毒ガスが発生したか・しないかのどちらかに決まっています。


 なるほど。観測前、波動関数としてψ=(1/√2)|A>+(1/√2)|B>と表現されるのは、自分がどちらか知らないというだけの意味であり、物理的実在としての状態ははじめから確率1で|A>または|B>に確定していた、とする立場ですね。だとしたら、二重スリットで1個の光子が左右どちらのスリットを通ったかを観測しないままスクリーンに到達させる実験を多数繰り返すとき、なぜスクリーン上に干渉縞が生じるのですか? 「ガイド波解釈」または「確率力学」を支持されるのでしょうか?、それとも魔術師さん固有の説明ができるのでしょうか?

>ちなみに、「SumioBaba解釈」だと、例えば蓮舫に台湾籍がある場合とない場合の不確定の状態にあったのが、蓮舫が台湾籍もありましたと文書を見せて証明すると、「蓮舫が日本国籍だけ」の世界と「蓮舫が二重国籍」の世界に分裂するのですか。もしかしたら中国籍もあるのではないかと疑う人もいますが。


 「○○○である」と「○○○でない」の両方の可能性が有り、どちらが真かを知らない場合、自分にとって「○○○である」+「○○○でない」という重ね合わせのままです。どちらなのかを観測すると、「○○○である」が真だと判明した世界(心)と、「○○○でない」が真だと判明した世界(心)とに分裂します。

>はじめから精神しか認めないのであれば、モナド説に近いです。あなたはそういう感じの説明をすることもあります。そうなると、あなたが多世界の話を展開するためには、物質がいらないのと同様に、実体的に考えられた物理法則としての波動関数も要らないと思います。


 心の存在や状態を記述しているのが波動関数なのですよ。シュレディンガーの猫の生死を観測していない心Maは、観測して生だったのを知った心Mbと、観測して死だったのを知った心Mcとの重ね合わせMa=(1/√2)Mb+(1/√2)Mcと解釈でき、<Mb|Mb>=1〔MbにとってMbの存在確率は1〕、<Mc|Mb>=0〔McにとってMbの存在確率は0〕、<Ma|Mb>=1/√2〔MaにとってMbの存在確率は1/2〕、等々が成立します。

1日前 No.168

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>166,167  時さんへ

 面白い情報提供、有難うございます。「超球理論」のサイト、日本語訳の部分だけですが、さっそく読んでみました。意味不明な点が何ヶ所か有り、著者に質問してみないと詳しいことは判りませんが、こういう理論を自分で作ってみるのは立派だと思いますね。
 「空間内に半径r(>0)の無数のミクロな超球がぎっしり詰まって回転している」と《仮定》することで、量子ミステリーを古典力学的常識の範囲内で説明しようとする試みだと理解しました。

 試みが成功しているか失敗しているかは別として、このような試み自体は無数にできると思います。問題は《仮定》です。《仮定》が入っているということは、「《仮定》の肯定が真であり、《仮定》の否定は偽に違いない」と主張している訳ですから、真理を半分に限定してしまったことになります。もしこの《仮定》が正しければ、この説明は正しいかもしれませんが、この《仮定》が間違っていたら、この説明も間違いになるでしょう。しかもこの《仮定》、正しいか否かを実験的に検証できるのかどうかも、よく解りません。仮に正しいことが実験的に実証できたとしても、「なぜこれ以外の設定ではなく、この設定の上で世界は作られたのだろう?」という謎は残り続けます。

 一方、SumioBabaは「多世界解釈」を支持しますが、その理由は、こういった余計な《仮定》が何も要らないからです。特に「多世界解釈」を究極まで拡張した「SumioBaba解釈」では、全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」も「○○○でない」も両方実現していると考えるので、片方だけに真理を限定する《仮定》が何一つ含まれず、証明の必要も有りません。もちろん、「□□□」=「あらゆる○○○について「○○○である」も「○○○でない」も両方実現している」とおいた場合も、全知全能の「神」は「□□□である」と「□□□でない」の両方を実現していると考えます。「○○○である」でもあれば「○○○でない」でもあり、両方でもあれば片方でもある、という意味になり、a「○○○である」+b「○○○でない」〔0≦a≦1、0≦b≦1〕という表現がすべてを含みます。

 「SumioBaba解釈」では、全知全能の「神」は、「コペンハーゲン解釈」、「多世界解釈」、「ガイド波解釈」、…、「超球理論」、…のどれについても、「正しい」と認識する視点に立てば「正しい」と認識する、「正しくない」と認識する視点に立てば「正しくない」と認識する、のダブル・トートロジーを成立させているだけですから、客観的にどれか1つが正しいと言えるものではなくなります。観測していないときは、どれも「正しい」と「正しくない」の重ね合わせのままです。観測すると、「正しい」か「正しくない」かに確定する場合も有り得ますが、その場合も必ず両方が生じると考えます。だから、自分の住む世界でどれが正しいか確定しているときは、それが正しく、他は間違いです。しかし、どれが正しいか知らないときには確定していないのですから、自分が最も好きな解釈を選んで良いのです。ただし、「SumioBaba解釈」以外の解釈だと、必ず何か真理の限定をしてしまい、《仮定》が入ってしまうので、「なぜ?」という謎が残り続けます。謎を完全に消滅させ得るのは「SumioBaba解釈」だけです。

 「SumioBaba解釈」以外を支持する人にとっては、その人の解釈こそが真であり、「SumioBaba解釈」は偽に見えるはずです。一方「SumioBaba解釈」は、「SumioBaba解釈」だけでなく他の解釈もまた真にも偽にもなり得る、と主張します。つまり「SumioBaba解釈」は、自分を否定する他の解釈さえ、間違っている場合も有るけれど正しい場合も有る、と見なします。よって「SumioBaba解釈」もまた、自分の中に自分の肯定と否定とを含み、「合」=「正」+「反」という弁証法的構造を持つことになります。

1日前 No.169

魔術師 @newmemphis ★wK3DHVXIgm_M0e

時さん。

>発射した段階では、その一つの粒(電子)が最小限の動きをして(ほぼ動かずに)、次から次へとぎっしりと詰まった粒粒に徐々に振動を伝えていると言うような考え方のようです。

日本のロケットの父、糸川英夫さんが、著作の中でそういう話をしていましたね。「もしかしたら」という自分なりの仮説だったようです。

電磁波とか光子について、もっと研究が進んでくると、二重スリット実験の結果について、重ね合わせ説や多世界解釈によらない説明ができるようになるかもしれません。

私は、重ね合わせ説も多世界解釈も間違っていると、今は思っています。


SumioBabaさん。

>シュレディンガー方程式によると、自ずと「多数の状態が重ね合わせになって干渉する」という描像になるのです。

それも数ある解釈の一つでしょう。これからも、様々な解釈がなされていくのではないでしょうか。


>「○○○である」と「○○○でない」の両方の可能性が有り、どちらが真かを知らない場合、自分にとって「○○○である」+「○○○でない」という重ね合わせのままです。どちらなのかを観測すると、「○○○である」が真だと判明した世界(心)と、「○○○でない」が真だと判明した世界(心)とに分裂します。

私は、蓮舫は2016年の時点で「3重国籍である」か、「2重国籍である」か、「日本国籍1つだけ」か、決まっていたと考えます。

私が考えているというよりも、実際に決まっていました。蓮舫が資料を公開して、、「日本国籍1つだけ」ではなかったことが明らかになったのですが、蓮舫の資料公開とは無関係に決まっていました。

今だって蓮舫は、「日本国籍1つだけ」か、「中華人民共和国+日本の2重国籍」なのか決まっていて、これから資料を公開するかどうかとは無関係です。

『シュレディンガーの蓮舫』という言葉は面白いですね。台湾人、日本人、中国人の3つの状態が重ね合わさっているとか…。

1日前 No.170

★ODWbahXa3b_Y9V

>>170  魔術師さんへ

> 電磁波とか光子について、もっと研究が進んでくると、二重スリット実験の結果について、重ね合わせ説や多世界解釈によらない説明ができるようになるかもしれません。


古典物理ではない、量子力学の歴史はまだまだ始まったばかりですね。コペンハーゲン解釈だ、エヴェレットだ、多世界解釈だ、波動関数の収縮だ、、猫は生きているのだ死んでいるのだ、いやいや半死半生なのだ・・とまだまだ定まっていませんね。門外漢の私では想像もできない事が、これから多くその世界で発見されて行く事だろうと思います。そういった意味で、その可能性は未知数ですね。

> 私は、重ね合わせ説も多世界解釈も間違っていると、今は思っています。


はい。人それぞれの描く世界観は多種多様だと思いますので、それもその時点での一つの答えと言う事で問題ないと思います。

科学の世界は苦手ですので、私はこの辺で。レスをありがとうございました。

1日前 No.171

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>166  時さんへ

>要は空間内には粒粒がぎっしりと詰まっており、二重スリットの問題では、発射された一粒の粒が空中を移動して観測板に当たっているのではなくて、発射した段階では、その一つの粒(電子)が最小限の動きをして(ほぼ動かずに)、次から次へとぎっしりと詰まった粒粒に徐々に振動を伝えていると言うような考え方のようです。


>丁度、振り子のエネルギー保存とでもいうのでしょうか。ビリヤードの玉が次の玉に当たって、元の玉がその場にとどまりつつ、当てられた方の球が移動すると言ったイメージをしました。ですので、最初に発射された電子と最後に観測板に当たった電子は別なのでしょう。しかしこの両者の粒の見分けがつきません。と言った内容のようです。


>この超球理論の考え方ならば、最初に発射された一粒の電子(粒)は、その振動が空間を波のように伝わり、最終的には干渉稿を描くでしょう。


 「超球理論」の考え方、SumioBabaもそういうふうに理解しました。この仮説の疑問点はこうです。
 まず、粒子0→粒子1→粒子2→…→粒子nという直線状の衝突連鎖が起こったのだとすれば、粒子0の持つ運動量P0がそのまま粒子nに保存される可能性が、一応は有ります。しかし、こういう伝わり方だと、「波」という性質はどこにも出て来ないので、二重スリットの干渉縞の説明にはつながらないように思います。
 もし粒子0が、例えば3個の粒子と衝突し、それぞれがまた3個の粒子と衝突して9個の粒子と衝突し、…といった衝突を続け、3次元空間内で球面のように影響が伝わるのであれば、確かに「波」のような性質が出て来るかもしれません。しかしこの場合、粒子0が持っていた運動量P0は多数の粒子に分散してしまい、最後の粒子nに運動量P0が保存されることは無いように思います。

 実際の二重スリット実験では、放出された粒子0が運動量P0を持っていれば、スクリーン上に到達する時の粒子nも同じ運動量P0を持っているはずです。それでいて、左右両方のスリットを「波」として通り、干渉を起こしたとしか思えない干渉縞を作ります。果たして「超球理論」で、それが説明できるだろうか?、というのがSumioBabaの素朴な疑問です。「超球理論」のサイトの中にも、波が平面内で同心円状に伝わっていく図と、粒子が直線状に衝突連鎖する図と2つが書かれていて、都合の良い時に都合の良い方を利用して説明しているような印象を受けてしまいました。詳しい事は、著者に尋ねてみないと解りませんが。

1日前 No.172

★2jRIET7OtD_Y9V

>>172  馬場さんへ

> 「超球理論」の考え方、SumioBabaもそういうふうに理解しました。この仮説の疑問点はこうです。

>  まず、粒子0→粒子1→粒子2→…→粒子nという直線状の衝突連鎖が起こったのだとすれば、粒子0の持つ運動量P0がそのまま粒子nに保存される可能性が、一応は有ります。しかし、こういう伝わり方だと、「波」という性質はどこにも出て来ないので、二重スリットの干渉縞の説明にはつながらないように思います。


ミクロに対してのマクロの世界で直観的に思考してみると、空中で一瞬、強烈な小さな爆発が起こった場合です。

この場合には、その任意の一点から強烈な衝撃波が三次元的に波状に広がっていくのではないでしょうか。この一瞬にして起こる強烈な爆発(電子銃)を一粒の電子の発射とし、大気中を真空中?だとした場合には、同じような事がミクロの世界でも起こるような気がしました。そしてその場合には、波状に伝わった衝撃波がスリットが二つを通り抜けた場合には、その通り抜けた瞬間それぞれの一つづつ(便宜上二つ)の粒子が起点となっての力の継続がなされるのではないでしょうか。

ですのでこの場合には、ミクロの世界で、二つの衝撃波がそれぞれ波として最終の観測板にぶち当たると感じました。マクロの世界で、二つの起点で力を加えた時・・例えば、鏡面上の水面(二次元平面)に二つの同じ形の物質を同時に落とした時に、その水面には二つの波紋が二次元的、同心円的に広がりますね。これがミクロの世界では三次元的に(衝撃波として)起こっているという事ではないでしょうか。

これで二重スリットを通り抜ける前には一つの波で、二つのスリットを通り抜けた瞬間に、それぞれ一つづつ、計二つの力の起点が生まれる事になるのではないでしょうか。通り抜けた後は、最初と同じく、その力が広がりながら伝わったとすれば、波は二つになるように感じます。そして波が二つになれば、観測板には干渉稿ができるはずですね。

最初、電子を電子銃で打つ時には「粒子の状態」→それが衝撃波として伝わっていく過程では「波の状態」→スリット一つの場合には、そこを通り抜けたこの波は干渉稿を描かず観測板に現れ、スリットが二つの場合には、それぞれのスリットに伝わった波のそれぞれのその一点が起点となってその後(スリットを超えた直後から)は二つの波として現れ、二つの波の力が観測板に当たった瞬間に干渉稿を描きます。そしてこの観測板に当たった瞬間には「粒子の状態」です。

これが、量子は粒子であり波でもあると表現される事かな?と思いました。

・これで「粒子」→「波」→「粒子」となりますね。
・途中でスリットが一つの場合には、その場所を起点としてそこから一つの波の性質が受け継がれます。それ以外の粒子はスリットで防がれてしまいます。→観測板には干渉稿は描きません。
・途中でスリットが二つの場合には、それぞれのその場所を起点として、そこから二つの波の性質が受け継がれます。それ以外の粒子はスリットで防がれてしまいます。→観測板には干渉稿を描きます。

>  もし粒子0が、例えば3個の粒子と衝突し、それぞれがまた3個の粒子と衝突して9個の粒子と衝突し、…といった衝突を続け、3次元空間内で球面のように影響が伝わるのであれば、確かに「波」のような性質が出て来るかもしれません。しかしこの場合、粒子0が持っていた運動量P0は多数の粒子に分散してしまい、最後の粒子nに運動量P0が保存されることは無いように思います。


最後の粒子に運動量が伝わらないのであれば、きっと干渉稿等は描きませんね。

>  実際の二重スリット実験では、放出された粒子0が運動量P0を持っていれば、スクリーン上に到達する時の粒子nも同じ運動量P0を持っているはずです。それでいて、左右両方のスリットを「波」として通り、干渉を起こしたとしか思えない干渉縞を作ります。果たして「超球理論」で、それが説明できるだろうか?、というのがSumioBabaの素朴な疑問です。「超球理論」のサイトの中にも、波が平面内で同心円状に伝わっていく図と、粒子が直線状に衝突連鎖する図と2つが書かれていて、都合の良い時に都合の良い方を利用して説明しているような印象を受けてしまいました。詳しい事は、著者に尋ねてみないと解りませんが。


はい。作者にお尋ね頂ければと思います。私では数式等での物理の説明は不可能です。(笑)

22時間前 No.173

★pTsc7DSUKl_Y9V

>>173

ですので、人には最初電子を発射する時と、最終の干渉稿を描いた時には「粒子」だと認識でき、その途中の過程では、本来ならば位置決定できるはずの量子の位置が、波動関数として確率でしか表せないのではないでしょうか?なぜならばそれが「波」の状態だからでしょう。だとすれば、波の中で粒子を探しても見つかりませんね(笑)

22時間前 No.174

★pTsc7DSUKl_Y9V

>>173  失礼しました。訂正です。

> ・これで「粒子」→「波」→「粒子」となりますね。

> ・途中でスリットが一つの場合には、その場所を起点としてそこから一つの波の性質が受け継がれます。それ以外の粒子はスリットで防がれてしまいます。→観測板には干渉稿は描きません。

> ・途中でスリットが二つの場合には、それぞれのその場所を起点として、そこから二つの波の性質が受け継がれます。それ以外の粒子はスリットで防がれてしまいます。→観測板には干渉稿を描きます。




・これで「粒子」→「波」→「粒子」となりますね。
・途中でスリットが一つの場合には、その場所を起点としてそこから一つの波の性質が受け継がれます。それ以外の★波★はスリットで防がれてしまいます。→観測板には干渉稿は描きません。
・途中でスリットが二つの場合には、それぞれのその場所を起点として、そこから二つの波の性質が受け継がれます。それ以外の★波★はスリットで防がれてしまいます。→観測板には干渉稿を描きます。

21時間前 No.175

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>> 時さんへ


  >>171 で時さん、「科学の世界は苦手ですので」と書いておられますが、とんでもない。物理学についても素晴らしい素質をお持ちのようです。これも一種のディベート・ゲームでしょうね。たまたま現在、時さんは「超球理論」を擁護する側に立ち、その正当性を説明しておられます。SumioBabaは逆に「超球理論」に疑問を投げ掛ける側に立っています。

 まず、標準的な量子干渉の考え方です。二重スリット実験において、放出された1個の粒子0が運動量P0を持っていれば、それがスクリーン上に到達する時の粒子nも、同じ運動量P0を持っています(運動量保存則)。粒子0と粒子nとが同一の粒子なのか別粒子なのかは、どちらと考えても構いません。不確定性原理により必ず△P(>0)の不確定性が伴いますが、△Pは十分小さくできるので、粒子0が運動量P0なら粒子nも運動量P0、粒子0が運動量P1なら粒子nも運動量P1、粒子0が運動量P2なら粒子nも運動量P2、…という区別は十分に意味を持ちます。粒子0と粒子nとで、運動量P0が保存している以上、途中で他の粒子とぶつかり合っていると考えにくいと思われます。だから普通は、途中で他の粒子などとぶつかり合うことはなく、スクリーンまで到達した、と考えます。
 にも拘らず、この粒子は、左右両方のスリットを「波」のように通ったとしか考えられない干渉を起こし、多数の粒子でこれを繰り返すと、スクリーン上に干渉縞ができます。これを説明するため、1個の粒子が位置を観測していないときには「波」のように広がり、その波が左右2つの波に分裂した後、再びスクリーン上で重なることで干渉が起きている、と考えます。この波が「波動関数」です。片方のスリットをふさぐと干渉は起きなくなり、スリットが2つの場合にだけ干渉が起きるので、左右両方の波が《物理的実在》に見えます。片方だけが《物理的実在》であり他方は《数学的仮想》に過ぎないと考えてしまうと、この干渉を説明するのが困難です。しかし、スリットの直後でこの粒子がどちらを通って来たかを観測すると、片方だけを「粒子」として通って来たことが判明します。これを見る限り、《物理的実在》は初めから片方だけであり、他方は《数学的仮想》に過ぎなかったように見え、両方とも《物理的実在》だったと考える方が困難です。つまり、「両方とも《物理的実在》だった」と考えても、「片方だけが《物理的実在》で他方は《数学的仮想》だった」と考えても、説明困難な部分が残ってしまいます。「波動関数」は《物理的実在》なのか、それともただの《数学的仮想》なのか?…これが量子ミステリーです。

 「超球理論」は、《物理的実在》と《数学的仮想》の中間のような波動関数という奇妙なものを考えず、古典力学的常識内で説明する試みだと思われます。そのため、空間内に無数のミクロな超球が詰まっていて、粒子0は周囲の超球とぶつかり合い、その影響が3次元空間内で球面波のように伝わっていく、と考えているようです。そうやって「波」の性質が現れれば、スリットが1つだと波は干渉しないが、スリットが2つの場合には両方を通った波が干渉する、という説明にはなり得るかもしれません。
 しかし、これは、別の問題を引き起こします。運動量P0で放出された粒子0が周囲の超球とぶつかり合っているのなら、なぜスクリーン上で粒子nとして観測されるとき、その運動量P0が保存されるのでしょう? 放出された粒子0は運動量P0を持っていたとしても、無数の超球とぶつかり合うことでその運動量P0は分散してしまい、最終的に観測される粒子nの方は全く異なる運動量になってしまうのではないでしょうか? でも実際は、粒子0が持つ運動量P0は粒子nでも保存されます。つまり、粒子0が無数の超球とぶつかり合っているという解釈には、無理が有るように思われます。それとも、粒子0の持っていた運動量P0が確実に粒子nに保存されるメカニズムが存在するのでしょうか?

3時間前 No.176

★RBQNoW28f4_Y9V

>>176  馬場さんへ

>   >>171 で時さん、「科学の世界は苦手ですので」と書いておられますが、とんでもない。物理学についても素晴らしい素質をお持ちのようです。これも一種のディベート・ゲームでしょうね。たまたま現在、時さんは「超球理論」を擁護する側に立ち、その正当性を説明しておられます。SumioBabaは逆に「超球理論」に疑問を投げ掛ける側に立っています。


物理の事をよくご存知の馬場さんにお褒めいただき恐縮です。・・・穴があったら入りたいです。(笑)ですが、私自身はディベート・ゲームをするつもりはありませんし、できません。あしからず。ただし、多くの方の会話や対話から、色々な見解を観る事は、今後も続けていくだろうと思います。

要は、私自身が論争を好まず、白黒をつける必要がない場合にはつけないというのが今の私のスタンスですかね。どうぞご理解いただければと思います。

>  にも拘らず、この粒子は、左右両方のスリットを「波」のように通ったとしか考えられない干渉を起こし、多数の粒子でこれを繰り返すと、スクリーン上に干渉縞ができます。これを説明するため、1個の粒子が位置を観測していないときには「波」のように広がり、その波が左右2つの波に分裂した後、再びスクリーン上で重なることで干渉が起きている、と考えます。この波が「波動関数」です。


はい。理解しました。

>片方のスリットをふさぐと干渉は起きなくなり、スリットが2つの場合にだけ干渉が起きるので、左右両方の波が《物理的実在》に見えます。片方だけが《物理的実在》であり他方は《数学的仮想》に過ぎないと考えてしまうと、この干渉を説明するのが困難です。しかし、スリットの直後でこの粒子がどちらを通って来たかを観測すると、片方だけを「粒子」として通って来たことが判明します。これを見る限り、《物理的実在》は初めから片方だけであり、他方は《数学的仮想》に過ぎなかったように見え、両方とも《物理的実在》だったと考える方が困難です。つまり、「両方とも《物理的実在》だった」と考えても、「片方だけが《物理的実在》で他方は《数学的仮想》だった」と考えても、説明困難な部分が残ってしまいます。「波動関数」は《物理的実在》なのか、それともただの《数学的仮想》なのか?…これが量子ミステリーです。


数学的仮想と物理的実在・・区別が出来ないのですが、ここは今は横に置いておきますね。

・A  電子銃の起爆の起点
・B  スリット板までの真空の空間
・C  スリット板
・ C(1) スリットが一つのスリット板
・ C(2) スリットが二つのスリット板
・D  観測板までの真空の空間
・E  観測板

と仮にします。

>スリットの直後でこの粒子がどちらを通って来たかを観測すると、片方だけを「粒子」として通って来たことが判明します。


Aで起爆した波動のエネルギーがBを通過しC(2)に至り、二つのスリットを通過しDを経てEに至ります。→Eでは、干渉稿ができますね。この場合には、発射時と最終の観測板では、観測上、粒子ですよね。その間は波です。

この時に、二つのスリットの直後でどちらを通過したのかを観測すると、必ずどちらかのスリットを一粒の粒子が通過していると確認されたとします。ここで今まで「波」の性質だったはずのものが、スリット通過直後に観測したら「粒子」だったという事ですよね。

・スリット板通過直後で観測しない場合には、実験全体での観測点は発射時と観測板に当たった時です。ですのでその間は、粒子ではなくて波です。→AとEの状態は「粒子」で、これ以外の空間であるBとDは「波」。

・スリット板通過直後で観測する場合には、実験全体での観測点は発射時とスリット板通過直後と観測板に当たった時です。ですのでその間は、粒子ではなくて波ですよね。→AとC直後とEが観測の起点になりますので「粒子」、これ以外の空間であるBとDは「波」。→ですので、スリット板通過直後で観測した場合には、そこが起点(粒子)となってそのまま(Aで発射された粒子がBの空間を波として通過した時と同じく)そこから波となっていき、最終的にEに到達した時には一粒の粒子として観測されますので、Eには干渉稿は描きません。

両者の違いは、「途中観測した事で別の事象となったのです」とブログ内では説明されています。

ここから引用です。

なお、二重スリットの場合の「途中観測」について、付言しておこう。「途中観測」については、前述したとおりだ。つまり、観測が現実に影響したのではなくて、途中観測した場合としない場合とは、別の事象なのである。

 ここでは、「途中観測をした」という人間の行為や意識が問題なのではなくて、「途中観測ができたこと」、つまり「波がエネルギーの最小単位を越えて質量をもつ粒子に転じたこと」が、二つの事象を区別している。

 要するに、「人間が観測という行為または意識をしているかどうか」が問題なのではなくて、「そこに粒子が実際に出現しているかどうか」が問題なのだ。主観的なことが問題なのではなくて、客観的なことが問題なのだ。……だから、たとえ人間が観測という行為または意識をしなくても、そこに粒子が登場しているならば、観測をした場合と同じ結果になるはずだ。逆に、人間が観測という行為または意識をしていても、そこに粒子が登場しなければ、観測をしていない場合と同じ結果になるはずだ。

 わかりやすく言おう。メガネをかけた人が観測するとき、その人のメガネが曇っていれば観測できず、メガネが曇っていなければ観測できる。メガネが曇っているか否かで、観測できるか否かが異なる。……この際、コペンハーゲン解釈では、「メガネが曇っているか否かで、観測できるか否かが変わるから、粒子が存在するか否かも変わる」となる。しかし、本論の見解によれば、意識と現実とは別だから、メガネが曇っているか否かは、粒子が存在するか否かに影響しない。
( ※ このことをいっそう典型的に示したのが、「カシミール効果」の実験だ。)

ここまでです。

全体を観測している場合には、起点(電子銃)と終点(観測板)の観測点が「粒子」で、これら以外が「波」。スリット通過直後にそこで観測すると、そこでは局所的な観測をしますので、そこが起点(新たな電子銃)となり「粒子」ですね。(起点と終点以外が波なのですから)

多分、これ(二重スリット板直後で途中観測した場合)は、平行した二つの電子銃から観測板に(途中、スリット板なしの状態で)単純に一粒づつの電子を連続で発射した時と同じ結果になるのでしょう。ですので、この場合には、観測されるものは一粒づつの粒子であり、観測板には当然、干渉稿は描きません。

ですので二重スリット実験を全体として観測した場合には干渉稿が現れ、同じ実験内容で、途中観測した場合には干渉稿が現れないという事だと思います。

こんな感じかな?と思いました。

>  「超球理論」は、《物理的実在》と《数学的仮想》の中間のような波動関数という奇妙なものを考えず、古典力学的常識内で説明する試みだと思われます。そのため、空間内に無数のミクロな超球が詰まっていて、粒子0は周囲の超球とぶつかり合い、その影響が3次元空間内で球面波のように伝わっていく、と考えているようです。そうやって「波」の性質が現れれば、スリットが1つだと波は干渉しないが、スリットが2つの場合には両方を通った波が干渉する、という説明にはなり得るかもしれません。


きっと、そうだろうと思います。仰る「空間」は真空の事で、この真空と言うのは量子(相反するものと書かれていたと思いますが)がぎっしりと詰まった状態で、その二つの量子間の距離はその直径分離れているようだと言った事が書かれていたように、うっすらとですが記憶しています。

私自身が、二重スリットの実験で使われる電子銃と言う物を見たこともありませんし、その環境等も想像するしかないのですが、その電子銃から電子を一粒発射するというのは、ライフルで弾丸を発射するというイメージではなくて、電子銃内の一起点であり、電子の振動を任意で最初に起こす時の起点の一点を想像しています。言い換えると、瞬間的なその場(真空内)で、その一点に絞った爆発を起こしているように感じています。(これが一粒の電子を発射すると表現されているのではないでしょうか?=実際には何も飛び出ていないという事です)そしてそれが起こった次の瞬間には、仰るように「その影響が3次元空間内で球面波のように伝わっていく」と言う事で、この時には電子と言う「粒」ではなくて「波」としてしか観測されないはずですね。

>  しかし、これは、別の問題を引き起こします。運動量P0で放出された粒子0が周囲の超球とぶつかり合っているのなら、なぜスクリーン上で粒子nとして観測されるとき、その運動量P0が保存されるのでしょう? 放出された粒子0は運動量P0を持っていたとしても、無数の超球とぶつかり合うことでその運動量P0は分散してしまい、最終的に観測される粒子nの方は全く異なる運動量になってしまうのではないでしょうか? でも実際は、粒子0が持つ運動量P0は粒子nでも保存されます。つまり、粒子0が無数の超球とぶつかり合っているという解釈には、無理が有るように思われます。それとも、粒子0の持っていた運動量P0が確実に粒子nに保存されるメカニズムが存在するのでしょうか?


ここでの運動量云々のお話は、作者にお聞き頂いた方が良いと思います。私ではお答えする事が不可能です。

1時間前 No.177

★RBQNoW28f4_Y9V

>>177

>  しかし、これは、別の問題を引き起こします。運動量P0で放出された粒子0が周囲の超球とぶつかり合っているのなら、なぜスクリーン上で粒子nとして観測されるとき、その運動量P0が保存されるのでしょう? 放出された粒子0は運動量P0を持っていたとしても、無数の超球とぶつかり合うことでその運動量P0は分散してしまい、最終的に観測される粒子nの方は全く異なる運動量になってしまうのではないでしょうか? でも実際は、粒子0が持つ運動量P0は粒子nでも保存されます。つまり、粒子0が無数の超球とぶつかり合っているという解釈には、無理が有るように思われます。それとも、粒子0の持っていた運動量P0が確実に粒子nに保存されるメカニズムが存在するのでしょうか?


ブログ内で「運動量」と検索すると色々と出てくるようですが、この中に答えらしきものがあるように思いますが、いかがでしょうか。

40分前 No.178
ページ: 1 2 3

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる