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正しいとは

 ( 哲学掲示板 )
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モルモッツ ★j4m58GKfbd_eQU

僕はある人から「正しく生きろ」と言われた事があります。ただその言葉は僕にはとても大きな物に感じました。皆さんの意見を聞きたいと思い投稿させてもらいました。よろしくお願いします。

1年前 No.0
ページ: 1

 
 

★5dTATSgG8p_VuR

>>0

> 「正しく生きろ」と言われた事があります。


正しさは、その時代背景やその個人の置かれた環境によって変化しますので、その中で一つに決めるのは難しいですね。

ですので、何か問題が発生した時には、その都度、自分自身に問いかけて、その出す答えが正しいかどうかの判断をするしかないのではないでしょうか。

理由や理屈で自身の立場等を正当化して判断するのではなく、直に自身に問いかければ、正しさの答えは出るように思いますよ。

1年前 No.1

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

私の先生はテレビでした。

私の時代は、親は仕事を日本が世界一にするくらいの頑張りだから子供には背中しか見せていないと思います。

今みたいに学校に口出しする親はいなかったと思います。

昔のテレビは今のアニメと違い教育的でした・・

一番勉強になったのはコロンボ警部のは何人をリスペクトしながらの推理と真実の追及です。

1年前 No.2

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉1
「正しさは、その時代背景やその個人の置かれた環境によって変化しますので」とうことなので、

では、自爆テロがあったり、おさないこ子が爆弾を体に巻き付いていたり、むかし日本で特攻隊があったり、すること。

これらは「自分自身に問いかけること」と、どう関係しているって見てます?

1年前 No.3

★cvnDchtwPu_VuR

>>3

> では、自爆テロがあったり、おさないこ子が爆弾を体に巻き付いていたり、むかし日本で特攻隊があったり、すること。

> これらは「自分自身に問いかけること」と、どう関係しているって見てます?


自爆テロは政治的な目的があり、天皇万歳の特攻も、自身の命と引き換えにして相手の殺戮を含めた相手方へのダメージが目的でしょう。子供に爆弾は、本来正しさを伝えるべき大人が、まだ分別のつかない子供に対して行う行為ですので論外でしょう。

その目的達成のための理由や理屈や洗脳での判断ではなくて、「自分自身に問いかけること」と言うのは、まずは「人を殺す行為」が正しい行為か?間違った行為か?を自分自身に問うてみるという事です。

悪魔ちゃんは、「自爆テロ、おさない子が爆弾を体に巻き付けていたり、特攻隊」等は正しい行為だと思いますか?

1年前 No.4

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>3

>>1 は「起承転結」の形を取っているようですね。

「起」で引用し、「承」で相対主義的な視点からそれを捉え、
「転」は一見因果関係の帰納による正当化のように見えるが、
「自分自身への問いかけ」とあることから、ヒュームのいうような心理主義のようなものであるが、
「結」でその懐疑は「観念的な」懐疑ではなく、したがって真理は心理主義的ではないことを主張している。

このように整理して見ると、
「転」と「結」の間に本論があると思われるが、ざっくりと省略されている模様だ。

1年前 No.5

★cvnDchtwPu_VuR

>>4
失礼しました。追記です。

> これらは「自分自身に問いかけること」と、どう関係しているって見てます?


例えば、自爆テロの場合は、自身の命よりも大切な達成すべき目的があり、その為には他人の命をひきかえにしても達成するんだという答えが出ているのではないでしょうか。ですので、「殺人は是か非か?」ではなくて「目的達成のための殺人は是か非か?」で判断したのではないでしょうかね。

1年前 No.6

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>6
時様

「なぜこんな当たり前のことを聞くのだろう」と思えるかもしれませんが、
>>1 での
>理由や理屈で自身の立場等を正当化して判断する
ことと
>直に自身に問いかける
ことの違いは何でしょうか?
教えてください。

1年前 No.7

★cvnDchtwPu_VuR

>>7  ヒコ太郎さんへ

>理由や理屈で自身の立場等を正当化して判断することと

>直に自身に問いかけることの違いは何でしょうか?


これは意図する場合と意図しない場合に分かれると思いますが、今回は意図した場合の行為についてです。

例えばですが、飢え死にしそうになったので人のものを盗んだ。と言う場合、これは、盗むという行為を本人が意図していますね。飢え死にしそうだという思いと盗むという行為を天秤にかけて、他人の物を「盗む」と言う事です。これが盗みを意図しての理由付きでの正当化しての判断です。一見正しい行為のように見えるでしょ?「〜だから私は悪くない。」と言うやつです。

一方、直に自身に問いかけるというのは、その理由や理屈抜きで、まずは「盗むことは正しいのか?」と自身の心に問うと言う事です。「悪いことは、悪い。」と言うやつです。

ですので、「盗み」は誰もが悪い事だと思っていると思いますが、何かの条件を付けた場合に「悪くない事」に変化させているという事ですね。これが理由や理屈での正当化です。

もしも正当化した判断を下した場合には、後日、最終的には何がしかの罪悪感が生まれ、正当化せずに判断を下した場合には、何がしかの罪悪感は生まれないように思いますよ。こんな感じでしょうか。

1年前 No.8

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

ありがとうございます。よくわかりました

1年前 No.9

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

私は時様の言説を、
理由や理屈で自身の立場等を正当化して判断する経験主義と
直に自身に問いかける合理主義の対立として図式化してみた。

すると、時様のおっしゃる正しさというのは、「知識」についてであると想像された。
つまり、正しいことを知っている、正しいことを知らない、
その知識の正当化の方法について語られているのだ。

1年前 No.10

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉4
時さま、
「おさない子が爆弾を体に巻き付けていた」ことは後日にするとして、

自爆テロをして死んだ人たち、特攻隊で死んでいった人たち、
その人たちは、自分がこれから行なおうとする行為をどう思っていたんだろうと、思いますか?

1年前 No.11

★tRdhWplNsU_VuR

>>11  悪魔ちゃん

> 自爆テロをして死んだ人たち、特攻隊で死んでいった人たち、

> その人たちは、自分がこれから行なおうとする行為をどう思っていたんだろうと、思いますか?


それは、私ごときが語れる内容ではないように思いますよ。想像を絶するほどの恐怖や多くの葛藤の末の、止めるに止められない心境での行動だったのではないでしょうか。

そして「正しいとは」と言うこのスレッドでの話題から少し離れるような気がしますので、今回はこの辺で。悪しからず。

1年前 No.12

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉12、時さま

〉悪魔ちゃんは、「自爆テロ、おさない子が爆弾を体に巻き付けていたり、特攻隊」等は正しい行為だと思いますか?〈

って、それらが「正し行為」に「?」があったので、ふと、問いがうまれ、聞いて見ただけ。

お気にめなさらないで。

1年前 No.13

★tRdhWplNsU_VuR

>>10  ヒコ太郎さんへ

私のつたない駄文を、色々と分析していただきありがとうございます。(笑)

知識ですか。うーん、知識と言えば知識でしょうか。人は何かを知ろうとする時にその根拠や理由をセットで求めますが、それがない知識でしょうか。強いて言えば「人として」「人だから」でしょうか。でも、こんなのは、人を説得する際の根拠には、到底なり得ませんね(笑)

「殺人は正しい事か?」「窃盗は正しい事か?」「不誠実な対応は正しい事か?」「他人を見下すことは正しい事か?」「いじめることは正しい事か?」「言い訳しての正当化は正しい事か?」「怒りに任せて他人を罵倒することは正しい事か?」・・・いろいろとありますね。

レスをありがとうございました。

1年前 No.14

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_VuR

>>1    時さん

>正しさは、その時代背景やその個人の置かれた環境によって変化しますので、その中で一つに決めるのは難しいですね。<

あなたはこのように書いている。それでは尋ねますが、「正しさは変化する」と言われるなら、正しいとは何か知っていると言う事でしょう。変化するというあなたの正しさを教えてください。

1年前 No.15

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

あ、「ただその言葉は僕にはとても大きな物に感じました」だったですね。

モルモッツさま、それでいいんじゃない。

何をききたいのかしら?

1年前 No.16

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>8
時様

私は最初 >>1 をみたときに、「善」について語っているものと思いました。
つまり、
「殺人はよい事か?」「窃盗はよい事か?」「不誠実な対応はよい事か?」「他人を見下すことはよい事か?」「いじめることはよい事か?」「言い訳しての正当化はよい事か?」「怒りに任せて他人を罵倒することはよい事か?」
という懐疑なのだと。

しかし、時様のお答えである >>8 を見て自分の浅はかさに気が付いたのです。
>盗むことは正しいのか?
を自分に問い、「盗むのは悪いことだ」と気が付いたとしましょう。
すると、それは知識となり、その正当性は「自分への問いかけ」によって担保されていたのです。
このようにして >>1 を読み返して見ると、確かに
>正しさの答えは出る
と書いてあったのです・・・!
私は最初これを「自分への問いかけ」によって悟りを開くことと勝手に解釈をしてしまったのです。
しかし、私は >>8 を見て、時様のおっしゃる「正法」を思い出しました。
思えば非観念的な懐疑論は哲学にはない・・・
哲学的に見るのであれば、正しさを知ることを、自らに問いかけ正法と照らし合わせる、
理性について語っているということに、何とか辿り着いたのです。

1年前 No.17

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>14
時様の文章が駄文だなんて、ご謙遜を。
それなら、私の文章は志村けんになってしまいます。

変なお〜じさんだから変なお〜じさん
だっふんだ!!

1年前 No.18

★tRdhWplNsU_VuR

>>17  ヒコ太郎さんへ

> 私は最初 >>1 をみたときに、「善」について語っているものと思いました。


はい。これを書いた時には頭の片隅の「善法」を意識しつつ書きました。

> 盗むことは正しいのか?を自分に問い、「盗むのは悪いことだ」と気が付いたとしましょう。

> すると、それは知識となり、その正当性は「自分への問いかけ」によって担保されていたのです。


その通りです。それでよいと思います。「その正当性は、自問自答により担保される」と言う事ですね。つまりは、自灯明の事です。自分自身を拠り処にするという事ですね。その際に正しい答えに至る為に必要な道しるべが法灯明だという事です。自問自答して正しい道を歩んで行ける事は、正しい事でしょう。そして >>1 を書いた時には、私は、頭の片隅によぎった仏陀の教えの「善法」を基本にして書いてしまっていたという事です。(笑)

> このようにして >>1 を読み返して見ると、確かに正しさの答えは出ると書いてあったのです・・・!

> 私は最初これを「自分への問いかけ」によって悟りを開くことと勝手に解釈をしてしまったのです。

> しかし、私は >>8 を見て、時様のおっしゃる「正法」を思い出しました。

> 思えば非観念的な懐疑論は哲学にはない・・・

> 哲学的に見るのであれば、正しさを知ることを、自らに問いかけ正法と照らし合わせる、

> 理性について語っているということに、何とか辿り着いたのです。


素晴らしい事だと思います。それまでは無智だった私(時)が、学びにより正法を知りました。そしてそれ以後は、それを基準にして正道を歩むという事ですね。まさしく、現代における自灯明法灯明の実践ですね。(笑)

1年前 No.19

マジカルモンキー ★YINZXBDbwz_mgE

間違いだね。『 正しく 』ではなく、『 義しく 』だろうね。

ちょうど、この前、後輩に『 正しくじゃねーぞ、義しくだぞ! 』といった。

どうして、正しいのはいけないのか?というと、

『 正しさ 』は時に戦争を生むからです。これに尽きると思います。

正しさとは、男性的であり、頭脳的であり、数学的なのであります。
この世界は、決して男性的でも、頭脳的でも、数学的でもありません。
大体、政治に興味がなければ、政治的な発言は控えるべきなのである。

それよりも『 善い人、良い人 』になれと言いますね。

ジャッジなんてもんはそもそもない

1年前 No.20

哲人の代弁者 (T.Oishi) ★CQ2jRNgyzl_M0e

モルモッツ さん

全ての言葉には、その意味が込められて創られています。
正しいの正と言う文字は、ある一線で止めることですので、絶対的平等を意味します。
そして正しいのしいは思惟と書き、心に深く考え思うことですので、
「正しいとは絶対的平等を心に深く考え思うこと」と言うことですね。
何に対してか、は全てに対してと言うことです。

つまり、全ての差別撤廃ですので、正しいという意味を人々が知り始めれば現在の支配社会は崩壊し、
新しい平和な人類史が始まります。

1年前 No.21

一京無限 ★mU3SYDXt6I_mgE

正しいとは、一なる創造主に対して、尊敬と感謝の気持ちを持つときには、心の内を止めて観る
「止観」〜明鏡止水の心境を維持し、崇高なる霊的至福の光の方向へ創造主へと向かうことも
光の子人間の正しさの意味であると思います。

1年前 No.22

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_v2j

みんな正しいとは言えないけど、みんな間違ってはいない。
それぞれが正しさの一面を表している。
頭ごなしに否定する人はそのことに気づいていない。
どんなことでも、肯定できる面と否定できる面があると思う。

1年前 No.23

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

私は善と正しいは違うのではと考えています。その辺を少し考えて頭の中を整理してみたいと思います。

多くの人は「正しいとは何ですか?」と聞かれても答えることが出来ません。自分の考えは正しい、正しくないとだけ考えてきたからです。
しかし本当は自分の考えはあるべき姿に合致しているから正しいと考えなければならなかったのです。ですからこのあるべき姿を略して「自分の考え、意見は正しい」と考える癖がついてしまっているのです。この私たちの悪い癖を直し、あるべき姿、つまり根拠を考えるようにならなければならないのです。

それでは正しいを辞書で引いてみれば

正しいとは、物事のあるべき姿を考え、それに合致しているさまをいう。

@ 道徳・倫理・法律などにかなっている。よこしまでない。 「 − ・いおこない」 「心の−・い人」
A 真理・事実に合致している。誤りがない。 「 − ・い結論」 「 − ・い報道」
B 標準・規準・規範・儀礼などに合致している。 「 − ・い時刻」 「 − ・い書類」 「 − ・い言葉遣い」 「 − ・い作法」
C 筋道が通っている。筋がはっきりたどれる。 「由緒−・い家柄」 「 − ・しき其孫なればさる事もやあるらむ/保元 中」
D 最も目的にかなったやり方である。一番効果のある方法である。 「機械を−・く操作する」 「 − ・い薬の飲み方」
E ゆがんだり乱れたりしていない。恰好がきちんと整っている。 「 − ・い姿勢」 「 − ・い円を描く」


これらに合致しているから自分の考えは正しいと言えるのです。

例えばあるべき姿である法律に合致しているから自分の意見は正しい。またはあるべき姿の事実に合致しているから自分の意見は正しいなどです。

勿論、正しいには科学的、数学的正しさと私たちの心に関する道徳的正しさがあります。科学的、道徳的正しさに共通するのは「矛盾がない」と言うことです。つまり正しいとは矛盾がないと言うことです。なんだ、トートロジーじゃないかと思われるかもしれませんが、「正しいとは何か」と聞かれても分かりませんが「正しいとは矛盾がない事なのだよ」言われれば、なんだかわかった気がするのです。トートロジーだとバカにしてはなりません。基本的に正しいとは「あるべき姿」と矛盾がないこと、合致していることなのです。

3ヶ月前 No.24

★AyqbRmjvb1_uLX

善とは、      全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事。
正しさとは、    善を担保して、起こる事柄。
正しい行為とは、  善を担保して、起こる行為。

>>0

> 僕はある人から「正しく生きろ」と言われた事があります。


「正しく生きろ」とは、善を担保する行為を生涯継続せよ、と言う意味合いになるでしょうか。ですので「正しく生きる」とは、努力して善を担保する行為を生涯継続する事となりそうですね。

2ヶ月前 No.25

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

時さん

>善とは、全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事。<

あなたは >>24 を読んでいないのであろうか。あなたのただの考えなど何の価値もありません。あるべき姿(根拠)を示さなければ何の価値もないのです。
全てとは何でしょうか、すべての範囲は? 何故「奪わず、穢さず、傷つけない事」は正しいのでしょうか、その根拠は?あなたはこれらの問いに答えられますか。

>正しさとは、善を担保して、起こる事柄。正しい行為とは、善を担保して、起こる行為。<

担保とはまた分かりにくい言葉ですね。正しさとは善を根拠、基として考えられる事柄である。正しい行為とは善を根拠、基としての行為であるでいいですか? 私も絶対善の定義のスレで「理性により考えられた正しさ(法や規範など)は、本能の善を基にして考えられているのです」と書いています。善は本能的、正しいは理性的、ゆえに善と正しいは何か少し違うものではないのか?と思っているのです。

2ヶ月前 No.26

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>0

 「正しい」とはどういうことか? SumioBabaの答はこうです。→「特定の真理体系・道徳体系において、証明なしに真だと前提される「公理」(あるいは「定義」)、および、それに論理的加工を施して導かれる「定理」が、その真理体系・道徳体系において「正しい」と見なされる。(しかし、何を「公理」に定めるかは恣意的であり、どんな命題も、それを「正しい」と証明できる公理系も作れるし、それを「正しくない」と証明できる公理系も作れる。つまり、何が「正しい」で何が「正しくない」かの区別は、「公理」の定め方次第でどちらにも成り得る「相対的」な区別であり、「絶対的」な区別ではない。「三角形の内角の和は180度である」という命題が、ユークリッド幾何学の公理系だと真だが、非ユークリッド幾何学の公理系だと偽にもなり、無条件に成立する「絶対的真理」ではなく、条件付きの「相対的真理」であるのと同じだ。)」


>>25  時さんへ

>善とは、      全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事。

>正しさとは、    善を担保して、起こる事柄。

>正しい行為とは、  善を担保して、起こる行為。


 これは、時さんによる「善」「正しさ」「正しい行為」の定義だということですね。なかなか的確だと思います。時さんは、自分の考えを他人に押し付ける人ではないので、こちらも時さんの定義を特に否定するつもりは有りません。
 SumioBabaによる「善」の定義は、「自分や他人や公に利益をもたらす事・行為」であり、「悪」の定義は、「自分や他人や公に不利益をもたらす事・行為」です。これもまた、他人にまで押し付けるつもりは有りません。
 「善」のような人文科学的な言葉の定義は、そもそも厳密に定めることが不可能なので、人それぞれ微妙に解釈が異なるのは当然です。何を基準に「美人」だと見なすのか、多くの人々の間で基準がほぼ一致する部分も有りますが、人それぞれ微妙な好みの違いも有るのと同じですね。多数決を採り、どれがより多くの支持者を得られるかを競うことは可能ですが、どれか1つだけを「絶対的に正しい」とは言えないのですね。なのに時々、自分の定義だけが唯一絶対に正しいと思い込み、自分以外の人々の意見を全否定する自己中な人が現れるので、困ったものです。

2ヶ月前 No.27

★XnOWCR5uB8_uLX

>>27  馬場さんへ

レスをありがとうございます。

> >善とは、      全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事。

> >正しさとは、    善を担保して、起こる事柄。

> >正しい行為とは、  善を担保して、起こる行為。


>  これは、時さんによる「善」「正しさ」「正しい行為」の定義だということですね。なかなか的確だと思います。時さんは、自分の考えを他人に押し付ける人ではないので、こちらも時さんの定義を特に否定するつもりは有りません。

>  SumioBabaによる「善」の定義は、「自分や他人や公に利益をもたらす事・行為」であり、「悪」の定義は、「自分や他人や公に不利益をもたらす事・行為」です。これもまた、他人にまで押し付けるつもりは有りません。


>  「善」のような人文科学的な言葉の定義は、そもそも厳密に定めることが不可能なので、人それぞれ微妙に解釈が異なるのは当然です。何を基準に「美人」だと見なすのか、多くの人々の間で基準がほぼ一致する部分も有りますが、人それぞれ微妙な好みの違いも有るのと同じですね。多数決を採り、どれがより多くの支持者を得られるかを競うことは可能ですが、どれか1つだけを「絶対的に正しい」とは言えないのですね。なのに時々、自分の定義だけが唯一絶対に正しいと思い込み、自分以外の人々の意見を全否定する自己中な人が現れるので、困ったものです。


「正しく生きる」なんてことを考えるとき、「正しさ」と「生きる」と言う事を考える事が必要ですね。この短い2つの単語を深く考えると、他の多くの事柄が絡んできます。そもそも正しさとは、何にとっての、誰にとっての正しさなのか。正しさとは個人でも社会集団においても同じものなのか。それらを相対的な事柄でかたずけてしまってよいものか。等々です。

勿論、正しさとは、相対的な事柄であるという道理は理解できますので、そのご意見を否定するものではありません。

例えばですが、個人では殺戮は正しくないという事を感じていても、いざ戦争となると、それは正当化されるように思います。そしてそのことで戦後にPTSD等で心を病む人が多くいると何かで見ました。もしも本当に正しい事を行えていたのであれば、どのような状況でも心を病むことはないのではないでしょうか。私は、そんな風に考えています。

ここで、本当の事(真理)が登場します。正しさが相対的な事柄であるというのが真理ならば、戦後にPTSD等で心が病む人はいないのではないのではないでしょうか。

別の例では、お金が無くて食べるものが無い場合、子供を生かすために万引きをすることが正しいのかどうなのかです。まぁ、このような事を根拠に、強烈に主張するわけではありませんが。

人が生きるとき、他の動物と同じく周りの何がしかの命を削りつつ生き延びていますね。ですので、全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事をできる限り意識しつつ生活することが、今は「正しく生きる」と言う事なのかなと思っています。

このようなことを考えていました。

2ヶ月前 No.28

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

SumioBabaさん
 >「正しい」とはどういうことか?「特定の真理体系・道徳体系において、証明なしに真だと前提される「公理」(あるいは「定義」)、および、それに論理的加工を施して導かれる「定理」が、その真理体系・道徳体系において「正しい」と見なされる。<

まあ、ここでは心に関する正しさですから道徳における正しさで、証明なしで真だとされるもの、およびそれに論理的加工を施して導かれる「定理」の例を一例でも示していただけないでしょうか?

>「三角形の内角の和は180度である」という命題が、ユークリッド幾何学の公理系だと真だが、非ユークリッド幾何学の公理系だと偽にもなり、無条件に成立する「絶対的真理」ではなく、条件付きの「相対的真理」であるのと同じだ」

つまり「三角形の内角の和は180度である」という命題は“平面上”においては絶対的でしょう。平面上においては絶対的であると言うことはありうる。これと同じで私の善の定義は生物に関する一つの絶対的真理だと言っている、何の矛盾があるのでしょうか?
何が正しいかは条件により変わるのは常識である。銃所持はアメリカでは許されている、しかし日本では許されない。それは安全面においての条件が違うから当たり前である。しかしアメリカでも日本でも共通するものがある、それは銃所持許可も銃所持禁止もどちらも「公の為」であることは同じである、絶対的なのである。いかなる問題も答えの違いはあれども公の為である事は全ての問題に内包しているのである。社会的問題で「公の為でないもの」があるなら示してもらいたい。
これと同じで平面上と曲面上では答えが違ってくるのは何らおかしくもない。しかしどちらにも共通しているのは矛盾がないと言うことであろう。科学的、数学的な絶対的なものは「矛盾がない、合致している」と言うことである。そして道徳的正しさで絶対的なものは「公の為」なのである。


 >SumioBabaによる「善」の定義は、「自分や他人や公に利益をもたらす事・行為」であり、「悪」の定義は、「自分や他人や公に不利益をもたらす事・行為」です。これもまた、他人にまで押し付けるつもりは有りません。<

あなたにも時さんと同じ言葉を送ろう。この結論をどうやって導いたのですか?勘ですか? ただの考えなど誰でも言えます。論理的、道理的に導かれたものこそ批判する価値があります。あなたは上記で書いておられるでしょう「論理的加工を施して導かれる「定理」が、その真理体系・道徳体系において「正しい」と見なされる」って論理的加工を施したところ、つまりあなたの善の定義の根拠を示してください。

>自分の定義だけが唯一絶対に正しいと思い込み、自分以外の人々の意見を全否定する自己中な人が現れるので、困ったものです。<

絶対善を知らないソフィストたちは私を批判し死刑にしようとするが、絶対善を知った私はビクともするものではない。自己中ではなくただただ日本が一日も早く良い国になってもらいたい、その一心であるのだよ、ソフィストたちよ。



時さん
なぜ、あなたの投稿はトップに来ないのですか? 更新されたかどうかがわからないですよ。

>正しさとは個人でも社会集団においても同じものなのか。それらを相対的な事柄でかたずけてしまってよいものか。等々です。<

正しさは個人でも集団でも同じです。善とは公の為です。私より公を優先する行為です。善人は自分のことより公を優先する人。悪人は公の為に反するのに私欲を優先する人。私たち凡人はその間をうろちょろしている人たちです。

>例えばですが、個人では殺戮は正しくないという事を感じていても、いざ戦争となると、それは正当化されるように思います。<

ですからどちらも公の為と考えれば何の矛盾も生じません。

>そしてそのことで戦後にPTSD等で心を病む人が多くいると何かで見ました。もしも本当に正しい事を行えていたのであれば、どのような状況でも心を病むことはないのではないでしょうか。私は、そんな風に考えています。<

それは違います。正しい行為にも極限の苦渋の善に対しては心の葛藤があるのです。みんなそこのところで悩むのです。家族の為か、公の為かで悩むのです。ソフィーの選択という映画がありました。ナチスに「二人の子供の内どちらかをガス室に送る、どちらかを選べ」と言われたソフィーは一人の子供を選択し、一人の子供を手放しました。のちにソフィーは自殺しました。極限の善には心も病むのです。その葛藤を日本人も理解すればいい映画やいい小説が書けるのです。そこが分からないから日本の芸術は二流三流なのです。

>別の例では、お金が無くて食べるものが無い場合、子供を生かすために万引きをすることが正しいのかどうなのかです。まぁ、このような事を根拠に、強烈に主張するわけではありませんが。<

イタリアの最高裁で「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」という判決が出たらしい。下記のHPをどうぞ。これについてどう思いますか?
https://www.huffingtonpost.jp/2016/05/11/stealing-small-amounts-of-food-when-in-need-is-not-a-crime_n_9900552.html


>人が生きるとき、他の動物と同じく周りの何がしかの命を削りつつ生き延びていますね。ですので、全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事をできる限り意識しつつ生活することが、今は「正しく生きる」と言う事なのかなと思っています。<

違います、正しい、善なる生き方は、公の為になる生き方です。私よりも公の為と考え生きることこそ正しい生き方なのです。まあ、私たち凡人は公共の福祉、つまり公の為に反しないで生きていければいいでしょう。

2ヶ月前 No.29

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>28  時さんへ

>「正しく生きる」なんてことを考えるとき、「正しさ」と「生きる」と言う事を考える事が必要ですね。この短い2つの単語を深く考えると、他の多くの事柄が絡んできます。そもそも正しさとは、何にとっての、誰にとっての正しさなのか。正しさとは個人でも社会集団においても同じものなのか。それらを相対的な事柄でかたずけてしまってよいものか。等々です。

>勿論、正しさとは、相対的な事柄であるという道理は理解できますので、そのご意見を否定するものではありません。


 SumioBabaは基本的に《相対主義》の立場を取りますが、にも拘わらずというか、だからこそというか、《絶対主義》を支持する人もいて良いと考えます。「《相対主義》こそが絶対に正しい!!」なんて言ってしまうと、自分が《相対主義》であることを、自分で否定してしまうことになりますので、「《相対主義》の人も《絶対主義》の人もいて良い」というのが、SumioBabaの《相対主義》です。

>例えばですが、個人では殺戮は正しくないという事を感じていても、いざ戦争となると、それは正当化されるように思います。そしてそのことで戦後にPTSD等で心を病む人が多くいると何かで見ました。もしも本当に正しい事を行えていたのであれば、どのような状況でも心を病むことはないのではないでしょうか。私は、そんな風に考えています。


 半分は同意しますが、半分は異論も有り得るように思います。

 個人では「敵国民といえど殺すのは悪だ」「だから敵国民も殺したくない」と感じていながら、戦争中に「敵国民を殺すのは善だ」「だから敵国民を殺せ」と強要されたとします。ついついその教えに従って敵国民を殺してしまった場合、後になってPTSD等で心を病む人は、確かにいると思います。こういう場合、自分の信念に従い、「敵国民といえど殺すのは悪だ」「だから自分は敵国民も殺さない」の方を選択していれば、後になって後悔することは無いのではないか、という時さんのご意見に、一応は賛成です。

 しかし、話の設定を少し変え、敵国民を殺さなかったばかりに自分が非国民扱いされ、家族が投獄されて獄死してしまったらどうでしょう? この場合も、「自分は、「敵国民といえど殺さない」という、自分の本心に従ったのだから、何も後悔は無い」と言えるでしょうか? そうではなく、家族を死なせてしまったことを限りなく後悔するのではないでしょうか? だからといって、「やはり、敵国民を殺しておくのが正解だった」とも言えません。「敵国民を殺すのと殺さないのと、どちらが正解だったのか?」という問に、はっきりした正解は存在せず、どちらも半分正解・半分間違いなのです。

 SumioBabaは、「善」=「自分や他人や公に利益をもたらす行為」、「悪」=「自分や他人や公に不利益をもたらす行為」と考えます。そうすると、敵国民を殺す行為も、殺さない行為も、「善」と「悪」の両面が存在します。敵国民を殺す場合は、自分の本心に反して人を殺さねばならないという「悪A」が有るけれども、自分の家族は投獄されずにすむという「善A」も有ります。敵国民を殺さない場合は、自分の本心に従い敵国民を殺さなくて良いという「善B」も有る反面、自分の家族が投獄されてしまうという「悪B」も有ります。どちらも「善」と「悪」の両面を持つので、単純に「善」とも「悪」とも言えない訳です。

>ここで、本当の事(真理)が登場します。正しさが相対的な事柄であるというのが真理ならば、戦後にPTSD等で心が病む人はいないのではないのではないでしょうか。


 時さんの設定では、「敵国民を殺す」よりも「敵国民を殺さない」の方が明らかに自分の利益は上だから、「敵国民を殺さない」を選ぶ方が良い、という説明は十分納得できます。
 しかし、SumioBabaの設定のように、「善A」を得ようとすれば必ず「悪A」も伴ってしまい、「善B」を得ようとすれば必ず「悪B」も伴ってしまう場合、時さんの仰る「本当のこと(真理)」は、一体どちらを選べと指示するのでしょうか?  「本当のこと(真理)」なんてものが、本当に存在するでしょうか? また、人によっては逆の選択をする場合も有るでしょう。時さんの仰る「本当の事(真理)」は、人それぞれ異なるのでしょうか?

>別の例では、お金が無くて食べるものが無い場合、子供を生かすために万引きをすることが正しいのかどうなのかです。まぁ、このような事を根拠に、強烈に主張するわけではありませんが。


 SumioBabaの《相対主義》だと、どんな行為にも「善」と「悪」の両面が有るので、単純に「善」か「悪」かは決められないと思います。結局、万引きを「する」場合と「しない」場合とそれぞれ、あらゆる利益(善)・不利益(悪)を合計し、自分にとってより利益が大きいと思われる方を選ぶことしかできないと思います。

>人が生きるとき、他の動物と同じく周りの何がしかの命を削りつつ生き延びていますね。ですので、全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事をできる限り意識しつつ生活することが、今は「正しく生きる」と言う事なのかなと思っています。

>このようなことを考えていました。


 はい、理想としてはその通りであり、賛成です。でも現実の世界では、有り得ないように思われます。自分の行為を99%の人々は「善」だと賞賛してくれ、「自分は正しい事をした!!」と満足しているような場合でも、よくよく考えてみると、自分のその行為によって不利益を与えてしまった人が、必ず1%くらいは居るのではないでしょうか?

2ヶ月前 No.30

★tAZYa0vjLT_uLX

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2ヶ月前 No.31

★tAZYa0vjLT_uLX

フィルターがかかりましたので、分けて投稿してみます。

>>29  馬場さんへ

>  SumioBabaは基本的に《相対主義》の立場を取りますが、にも拘わらずというか、だからこそというか、《絶対主義》を支持する人もいて良いと考えます。「《相対主義》こそが絶対に正しい!!」なんて言ってしまうと、自分が《相対主義》であることを、自分で否定してしまうことになりますので、「《相対主義》の人も《絶対主義》の人もいて良い」というのが、SumioBabaの《相対主義》です。


相対主義と絶対主義の相対主義ではなくて、絶対主義を含む相対主義だという事ですね。了解しました。これならば、賛成ですね。

>  しかし、話の設定を少し変え、敵国民を殺さなかったばかりに自分が非国民扱いされ、家族が投獄されて獄死してしまったらどうでしょう? この場合も、「自分は、「敵国民といえど殺さない」という、自分の本心に従ったのだから、何も後悔は無い」と言えるでしょうか? そうではなく、家族を死なせてしまったことを限りなく後悔するのではないでしょうか? だからといって、「やはり、敵国民を殺しておくのが正解だった」とも言えません。「敵国民を殺すのと殺さないのと、どちらが正解だったのか?」という問に、はっきりした正解は存在せず、どちらも半分正解・半分間違いなのです。


独りならばともかく、家族等があると難しい選択にはなりそうですね、仏典内に「愁悲苦憂悩は、愛情より生じます。」と言う一文がありますが、本当の事のようです。

2ヶ月前 No.32

★tAZYa0vjLT_uLX

>  SumioBabaは、「善」=「自分や他人や公に利益をもたらす行為」、「悪」=「自分や他人や公に不利益をもたらす行為」と考えます。そうすると、敵国民を殺す行為も、殺さない行為も、「善」と「悪」の両面が存在します。敵国民を殺す場合は、自分の本心に反して人を殺さねばならないという「悪A」が有るけれども、自分の家族は投獄されずにすむという「善A」も有ります。敵国民を殺さない場合は、自分の本心に従い敵国民を殺さなくて良いという「善B」も有る反面、自分の家族が投獄されてしまうという「悪B」も有ります。どちらも「善」と「悪」の両面を持つので、単純に「善」とも「悪」とも言えない訳です。


はい。そうですね。心に善と悪が存在し、善のみを選ぼうとした場合には、対極の悪が発生します。ジレンマですね。このような意味合いならば、馬場さんの仰るように、どちらも「善」と「悪」の両面を持つので、単純に「善」とも「悪」とも言えないとなる事は容易に理解できますね。

>  時さんの設定では、「敵国民を殺す」よりも「敵国民を殺さない」の方が明らかに自分の利益は上だから、「敵国民を殺さない」を選ぶ方が良い、という説明は十分納得できます。

>  しかし、SumioBabaの設定のように、「善A」を得ようとすれば必ず「悪A」も伴ってしまい、「善B」を得ようとすれば必ず「悪B」も伴ってしまう場合、時さんの仰る「本当のこと(真理)」は、一体どちらを選べと指示するのでしょうか?


本当の事(真理)は、個々人の心の中にあると思っています。もしも自由意志が人間にはあり、理性で物事を考えられるのであれば、何を選択するのか?と言う答えがあるように思っています。私は「生きる」と言う事を考えるという事は「死」を考える事と同義だと考えています。勿論、この場合の死は、思考内で何度も繰り返されるシュミレーションですが。

「本当のこと(真理)」は、一体どちらを選べと指示するのでしょうか?・・私は、仏典に学びましたので、私個人の信念に従って、どのような代償を払うことになってもしっかりとした信念は持ち続けようと思っています。しかし、まぁ、いざその時になればどのような行動になるのかは、誰にも分かりませんが。

>   「本当のこと(真理)」なんてものが、本当に存在するでしょうか? また、人によっては逆の選択をする場合も有るでしょう。時さんの仰る「本当の事(真理)」は、人それぞれ異なるのでしょうか?


真理は、存在するように思っています。もちろんこれは、私個人の感じ方ですので、押し付けはしませんし、歴史を見ても分かると思いますが、その真理で統一された時代はなかったでしょう。真理に生きた人とそうでない人はいたようですが、有名な思想家たちによっても、本当の事やその正しさは違っていたとも思います。そんな意味では、真理は、人それぞれと言っても良いように思えますが、この部分での真理は、一つではないのですかねと言う気持ちもあります。

このような状況設定の中で、「正しさ」を考えたとき、私はその背景に「善」があるのではないかと考えました。そしてその善の定義は、現在のところ、前回書きました通りです。それを担保していれば、正しい行為に至るのではないかと言う事です。そしてそれを生涯続けることができたのであれば、正しい死 に方もできるのではないかと言う事です。

そのことを利益不利益で考えてしまうと、家族や自身が不利益を被ろうと、正しさを貫くことが良いという結論に今はなるでしょうか。勿論、現在の私個人にとってはと言う事ですが。そしてそれは、究極的には、非暴力や無抵抗と言う抵抗主義とでも言われるものになるでしょうか。

2ヶ月前 No.33

★tAZYa0vjLT_uLX

これで最終です。

>  SumioBabaの《相対主義》だと、どんな行為にも「善」と「悪」の両面が有るので、単純に「善」か「悪」かは決められないと思います。結局、万引きを「する」場合と「しない」場合とそれぞれ、あらゆる利益(善)・不利益(悪)を合計し、自分にとってより利益が大きいと思われる方を選ぶことしかできないと思います。


馬場さんのご認識は、了解しました。人それぞれだという事になるでしょうか。私の場合は、万引きはしないというのが、今のところ善を基準にした正しい行為の一つだという事になります。

>  はい、理想としてはその通りであり、賛成です。でも現実の世界では、有り得ないように思われます。自分の行為を99%の人々は「善」だと賞賛してくれ、「自分は正しい事をした!!」と満足しているような場合でも、よくよく考えてみると、自分のその行為によって不利益を与えてしまった人が、必ず1%くらいは居るのではないでしょうか?


もちろん、声高に言うようなことでもありませんし、私個人での選択ですので、周りの評価はあまり意識していません。ただ、なぜここまでの興味を持ったのかは思い出せませんが、仏典等の影響は多くあるようです。お相手やその他の人の不利益を常に0にはできないのだろうと思っています。問題は、その線引きだろうとも思いますので、例えばの99%の人が賞賛してくれたのであれば、御の字ではないでしょうか。

そして、現実的な生活面では、あの定義より生まれる正しさで生きる事ができれば、今は良いのかなと考えています。

馬場さんのご見解と私の見解の違いは、あまり大きく開きが無いようにも思いますね。馬場さんの表現では、最終的には、利益の大きな方を選ぶと言う事でしょうし、私の場合は、信念に従って「全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事。」を選ぶだろうという事ですしね。ただ、究極の場合を考えたときには、どちらに転ぶのか分からないというのが、私の意見の方になるでしょう。これもまた、転んだ方が利益の多い方だった、だからどちらともいえないというのが、馬場さんの現在のご意見の趣旨だと思いますが。

返信をありがとうございました。

2ヶ月前 No.34

★tAZYa0vjLT_uLX

>>32  失礼しました。アンカーの訂正です。


>>29  馬場さんへ



>>30  馬場さんへ

2ヶ月前 No.35

★Android=BMQbdM0B9x

>善とは、全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事。


これは目指すべき遠景のようなものと思いました。
あるいは手は届かないが暖かな陽の光のようなもの。

具体的なアクションに結びつければ
たちまち矛盾が生じてしまうでしょう

2ヶ月前 No.36

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>34  時さんへ

>馬場さんのご認識は、了解しました。人それぞれだという事になるでしょうか。私の場合は、万引きはしないというのが、今のところ善を基準にした正しい行為の一つだという事になります。


 「万引きして子供を餓死から救う」と「万引きせず子供を餓死させてしまう」の二者択一の場合、SumioBabaの考え方は、それぞれの場合の利益(善)と不利益(悪)とをすべて合計し、より利益が大きい方を選ぶことになる、です。
 これは、誰もが必ず縛られる法則です。誰一人、この法則に逆らうことはできません。一見、逆のように見える選択をした人がいたとしても、本当は逆ではありません。なぜなら、「一見逆のように見える方」をこの人が選んだということは、本当は「一見逆のように見える方」こそがこの人の一番やりたい行為であり、この人の利益を最大にする行為であったことの証明になってしまうからです。
 マザー・テレサが、一見すると「私」を犠牲にして「公」を優先するかのような行為をしたとしても、本当はそういう行為をしたいという我欲を最優先したのであり、やはり、自分にとっての利益を最大にする行為を選んだだけです。

>もちろん、声高に言うようなことでもありませんし、私個人での選択ですので、周りの評価はあまり意識していません。ただ、なぜここまでの興味を持ったのかは思い出せませんが、仏典等の影響は多くあるようです。お相手やその他の人の不利益を常に0にはできないのだろうと思っています。問題は、その線引きだろうとも思いますので、例えばの99%の人が賞賛してくれたのであれば、御の字ではないでしょうか。


 現実問題としては、その通りですね。100%の「善」は有り得ないと思いますから、自分がどんな行為をしても、必ずそれを「善」だと受け取る人と「悪」だと受け取る人の両方が生じるでしょう。人間にできるのは、できるだけ多くの人々に「善」となる行為を選び、「悪」となる行為は避けるよう、努力することだと思います。

>馬場さんのご見解と私の見解の違いは、あまり大きく開きが無いようにも思いますね。馬場さんの表現では、最終的には、利益の大きな方を選ぶと言う事でしょうし、私の場合は、信念に従って「全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事。」を選ぶだろうという事ですしね。ただ、究極の場合を考えたときには、どちらに転ぶのか分からないというのが、私の意見の方になるでしょう。これもまた、転んだ方が利益の多い方だった、だからどちらともいえないというのが、馬場さんの現在のご意見の趣旨だと思いますが。


 その通りですね。SumioBabaの道徳体系は、他人のあらゆる道徳体系をも含み得るよう、最も拡張した道徳体系だと考えています。

 例えば、「私は、利益の大小で自分の行為を決めたりしない。殺人は絶対にいけないことだから、どんなに大金を積まれても、自分は人は殺さない。このように、絶対にやってはいけない「絶対悪」なるものが存在するのだ。」という人がいたとしましょう。この人も、SumioBabaの道徳体系の例外ではありません。「殺人」という行為を−∞の「悪」だと評価しているというだけで、やはりこの人も、自分の利益を最大にする行為を選んでいるだけです。

 宗教家が、「私は、利益の大小で自分の行為を決めたりしない。私は、神の意思にかなう行為を選ぶのだ」と主張する場合も同じですね。この宗教家は、神の意思に従う行為については非信者よりも大きなプラスの評価をし、神の意思に背く行為については非信者より大きなマイナスの評価をするというだけで、やはり自分の利益を最大にする行為を選んでいるだけです。キリスト教の非信者だったら、自分の延命の利益を+100の「善」だとするとき、踏み絵を踏む「悪」の不利益は−5くらいだから(?)、踏んで延命する方が+95の得になります。キリスト教の敬虔な信者だったら、自分の延命が+100の「善」であるのに対し、踏み絵を踏む方は−300くらいの「悪」となるので(?)、踏まずに殺される方が+200の得になります。やはり、自分の利益を最大にする行為を選んでいるだけですね。

 「子供を餓死から救うために万引きする行為は「善」か「悪」か?」…この質問に、「善だ」と答えるのも、「悪だ」と答えるのも、不適切だと思います。
 「善だ」と答えると、万引きをするという「悪」を行っていながらそれを無視し、万引きを正当化することになってしまうからです。
 「悪だ」と答えると、子供を餓死から救うという大きな「善」を行っているのに、それをも「悪」だったかのように見なしてしまうからです。
 SumioBabaの場合だとどうするか? 万引きをすることを−100の「悪」だとすると、子供を餓死から救う「善」は+500くらいだと感じます。合計すると+400なので、「しない」より「する」の方が利益が大きいため、「子供を餓死から救うために万引きする」を「する」の方になると思います。ただし、「自分は子供を餓死から救うために万引きしたのだから、何も悪い事はしていない」と言うつもりは有りません。「子供を餓死から救うという点では「善」を為したと思うが、万引きという「悪」を行ったのも確かだ」と認め、自ら警察へ自首すると思います。

>返信をありがとうございました。


 こちらこそ、有難うございました。

2ヶ月前 No.37

★McXIy5knGJ_uLX

>>36  tさんへ

> >善とは、全てに対して、奪わず、穢さず、傷つけない事。


> これは目指すべき遠景のようなものと思いました。

> あるいは手は届かないが暖かな陽の光のようなもの。


はい、そうですね。人が生きていく場合には、何がしかの命を奪い、傷つけながらしか生活できないと思いますので、100%この善で生きている人は恐らくはいないと思います。そういった意味で、仰るように目指すべき遠景のようなものかもしれませんね。

> 具体的なアクションに結びつければ

> たちまち矛盾が生じてしまうでしょう


実生活においてのアクションとは、行為の事だと思いますが「正しい行為」を考察すると、まずは定義した善を念頭に置き、その都度、物事の行為としての判断をすれば正しい行為につながりやすいのかなと思いました。つまりは、善を念頭に置いての行為の選択の努力と言う事になるでしょうか。

例えば、今表現しようとしている言葉は、相手を傷つけないだろうか?と言う事を一度考えられれば、傷つけないような言葉の選択が可能になるように思います。慣れないうちはともかく、一度心に聞いてみると案外正しい行為は選択可能なように思いました。

お金を拾ったとき、ポケットに入れてそのまま持ち帰ることは正しいのか?
道端に空き缶をポイ捨てすることは正しいのか?と言った、通常の生活面、その瞬間での正しさの事ですが。

そしてそれに慣れてくれば、意識しなくても自動的に正しい選択ができるようになっていると思います。

コメントをありがとうございました。

2ヶ月前 No.38

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>37 への補足説明です。

 「万引きをして子供を餓死から救う」と「万引きをせず子供を餓死させてしまう」の二者択一を迫られたX氏は、「万引きをして子供を餓死から救う」の方を選んだとします。

 もし、本当にこれら2つの選択肢しか無く、他に方法が何も無いのだったら、この選択自体については、X氏を責めることはできないように思われます。人それぞれ価値観が異なるので、中には逆を選ぶ人もいるかもしれません。しかし今の場合、「X氏は逆を選ぶべきだった。「万引きをせず子供を餓死させてしまう」を選んでいれば無罪だが、「万引きをして子供を餓死から救う」を選んだので有罪だ」とは言えないように思われます。むしろ、「X氏の選択は正しかった」と言ってあげたいように感じます。だとしたら、X氏は無罪でしょうか?

 ここで、そもそもなぜこんな苦しい二者択一を迫られるような状況に陥ってしまったのかが、問われると思います。他の親たちは、自分の子供を立派に育てています。なのにX氏の場合、こんな苦境に陥った時点で、すでに親としての落ち度が有ったのではないか?、ということです。

 もし「落ち度が有った」と判断されるなら、この部分でX氏は有罪と見なされるかもしれません。しかし、選択自体は適切であったと判断されれば、有罪ではあるけれど、情状酌量の上で執行猶予が付くかもしれません。もし、X氏の生い立ちがあまりにも貧しく不幸であり、自力で克服することさえ不可能で、「落ち度さえ認められない」と判断されるなら、完全に無罪になるかもしれません。さらにX氏が、初犯であり、自ら警察に自首したのであれば、起訴されるまでもなく、厳重注意で終わるかもしれません。

2ヶ月前 No.39

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>27 への補足説明です。

 「善」や「(道徳的な)正しさ」という概念をどう解釈するかは、人それぞれ微妙に異なり、どれか1つだけが正解と言えるものではありません。だから、「善」をどう定義するのか、「絶対善」や「絶対悪」を認める《絶対主義》の立場を取るのか、認めない《相対主義》の立場を取るのか、などいろいろな考え方が有り得ます。

 「絶対善」や「絶対悪」の存在を認める《絶対主義》も、一概に間違いだとは思いませんが、SumioBabaの私見として、《絶対主義》は好みません。なぜなら、「絶対善」や「絶対悪」を想定してしまうと、物事の片面だけしか見れなくなり、自分の行為こそが「絶対善」なのだと思い込むことで、本当は多くの人々に対して「悪」を為しているのに気付かなかったり、気付いていても無視する口実となってしまうからです。他国を侵略しておきながら、その侵略戦争を「絶対善」なのだと正当化してしまう、とか。自分の信じる神が異教徒を殺せと命じているので、それに従うのが「絶対善」である、とか。SumioBabaが支持する《相対主義》では、自分が行うどんな行為も、ある人々には「善」となるけれども、別の人々には「悪」にもなる、と考えます。だからこそ、自分の行為の長所と短所の両面を、客観的な視点から慎重に考慮できることになります。

2ヶ月前 No.40

つみれ・すみれ ★XkT2XOcshq_Tbw

正しいと云うのは、「一に止まる」、ひとつの基準なり、法則なりに照らしての評価でしょ。
つまり、〜原理主義ってことだよね。

基準、法則、価値観って言ってもいいけど、そうしたものが違う同士では、必ず争いになるね。

正しさを求めあうと、大半は喧嘩になる。
そうじゃなくて、歩み寄る、譲り合うと云う、中庸の精神で解決したいね。

2ヶ月前 No.41

地下水 ★KATHFaYqOw_Tbw

御茶でも気を抜くと熱過ぎて舌を火傷したりします。正しい温度が必要です。
仕事でも良く観察して慎重な手順でしないと思わぬ伏兵が隠れていて失敗する場合がありますので、慎重に用心して行えば正しくできます。
何事も大学で数学の問題を解く様に正しい手順で用心しながら、それでいて行う時間も正しい時間内で。
食べ物も何を食べるか用心して。特に自分の身体に関係ある実利的な事は用心して。安全管理も火の用心も、マッチ一本火事の元。注意一秒怪我一生。
用心して良く観察して勘を働かせて正しい手順で行うと、正しい行いができて、正しい人生が過ごせます。

2ヶ月前 No.42

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

SumioBabaさん  時さん、あなた方が全く進歩がないと言うことは悲しいことです。

>《相対主義》の人も《絶対主義》の人もいて良い」というのが、SumioBabaの《相対主義》です。了解しました。これならば、賛成ですね。<

意味が全く分かりません。これは矛盾と言います。相対主義とは絶対的なものはないと言う人たちではないのですか。

>戦争時において「敵国民を殺すのと殺さないのと、どちらが正解だったのか?」という問に、はっきりした正解は存在せず、どちらも半分正解・半分間違いなのです。<

正しいとは何かが分かってないから頭がお花畑になるのです。絶対的に正しいとは仲間の群れの安寧秩序を守ることですよ。

 >マザー・テレサが、一見すると「私」を犠牲にして「公」を優先するかのような行為をしたとしても、本当はそういう行為をしたいという我欲を最優先したのであり、やはり、自分にとっての利益を最大にする行為を選んだだけです。<

東北大震災のとき住民に避難を呼びかけ続け死んでいった女性に対して「あの人は利益を最大にする行為を選んだだけなのだ」ということは正しいことですか? 自分が死んでしまうのを自分の利益というのは世間には受け入れられない主張ですよ。いい加減我を張るのは止めなさい。

>「絶対善」や「絶対悪」の存在を認める《絶対主義》も、一概に間違いだとは思いませんが、SumioBabaの私見として、《絶対主義》は好みません。<

論理的でない思い付きのあなたの私見などいりません、あなたはよく「論理的必然性はない」と言うくせに全く論理的ではない。あなたが好まなくても絶対善は正しいのです。

>他国を侵略しておきながら、その侵略戦争を「絶対善」なのだと正当化してしまう、とか。自分の信じる神が異教徒を殺せと命じているので、それに従うのが「絶対善」である、とか。<

ですからこれは絶対善とは何か知らない人のたわ言です。絶対善を知らない相対主義者だから「自分こそが正義だ」と侵略などを善と思うのです。絶対善を知ればそんな身勝手な考えにはなりません。常に「私より公」ですからね 公(世界)の幸せを優先するのです。

>SumioBabaが支持する《相対主義》では、自分が行うどんな行為も、ある人々には「善」となるけれども、別の人々には「悪」にもなる、と考えます。だからこそ、自分の行為の長所と短所の両面を、客観的な視点から慎重に考慮できることになります。<

このような相対主義者がいるから世の中争いが絶えないのだ。相対主義者が「慎重に考慮」しても正しいものなど出ては来ません。絶対善を知ることこそが唯一正しいのです。



つみれ・すみれさん

>正しさを求めあうと、大半は喧嘩になる。そうじゃなくて、歩み寄る、譲り合うと云う、中庸の精神で解決したいね。<

違います。絶対的正しさなんてない、正しさは人それぞれだと考えているから自分の方が正しいと主張して喧嘩になるのです。絶対的にただしい事、つまり絶対善を知ればどちらがそれに論理的に合致しているかと議論が出来きて争いはなくなるのです。
絶対善が世界に広まれば多くの問題は解決へと向かうでしょう。慰安婦問題、徴用工問題、南京大虐殺問題など私に任せてもらえればすぐにでも解決いたしますよw



地下水さん

>用心して良く観察して勘を働かせて正しい手順で行うと、正しい行いができて、正しい人生が過ごせます。<

用心して良く観察して勘を働かせて正しい手順で行うと正確な時限爆弾も作れます。用心して良く観察して勘を働かせて正しい手順で行うことと、正しい行為、正しい人生は関係ありません。

2ヶ月前 No.43

つみれ・すみれ ★XkT2XOcshq_Tbw

絶対的正しさだけじゃなくて、正しさも人の思惟の産物です。

ただし、或る前提を置けば、正しさの成立する(論理性の成り立つ)もの(数学)は有るし、近似的に正しさを示す物理法則など、正しいという言葉と同程の真理値を持つものは有る。

もちろん、原初的に思惟してみると、ある一つのアクションが正しいのか、否かなど、永遠に結論などでない。

色んな具体的な問題も、ある地域をその時で微分した場合の状況であって、結局は複雑に広がり、重なっていく波紋が三角波を立てることもあるが、やがては静まって行く為の過程かもしれない。

2ヶ月前 No.44

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>37 への補足説明です。

 例えば、X氏がうっかりして倉庫の中で昼寝をしていたら、閉じ込められてしまったとします。しかもこの倉庫、1か月に一度しかチェックされないので、このままだと1か月間閉じ込められることになります。電話も有りません。水は飲めて、トイレも有りますが、食物は何も有りません。と思ったら、この倉庫はポテトチップスの貯蔵庫であり、ポテトチップスだけは段ボール箱に詰められたものがたくさん有ったとしましょう。「餓死を避けるために無断でポテトチップスを食べる」か「ポテトチップスを無断で食べることを避けて餓死する」か、二者択一だとします。どちらを選ぶべきでしょうか?

 こういう状況だったら、誰もがポテトチップスを食べるだろうし、それを非難する人は殆どいないと思われます。ポテトチップスの所有者も、この人を「盗み」で訴えることはしないでしょう。もちろん救出された後、閉じ込められていた人はポテトチップスの代金くらいは所有者に支払うだろうし、所有者も怒ることはなく「役に立てて良かった」「そういう時はぜひ無断で食べて下さい」と言うでしょう。

 たとえ無断で他人の所有物を消費してしまったとしても、そうしなければ命の危機が迫っており、悪意は無く、助かった時には代金を支払うつもりだったことが十分推測できる場合なら、それを「盗み」だと見なす人さえいないだろうということです。逆に言うと、「盗み」だと見なされるのは、悪意が有り、本当は代金を支払わねばならないのに、何とか払わずに済まそうとする、いわゆる「不法領得の意思」を持っている場合だと思われます。

2ヶ月前 No.45

地下水 ★lHRYPNADL9_eqC

>>43  正しい事をしようと思っても、用心して慎重にしなければ誤った事になります。正しい事をしようと思って倒れた人を救急車で運んでも、慎重さを欠いてその救急車が事故を起こしてまた倒れた人が増えたら、それは誤った事なのです。
 正しい事をしようと思ってもその時何が正しい行動なのか正確には解からないものです。慎重に用心して観察する事で正しい行いを知ってからでないと、誤った行いになる事が多いのです。

2ヶ月前 No.46

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

辞書にあるように、正しいとはあるべき姿に合致していることである、と言うのが「正しい」の基本である。合致しているとは論理学でいえば必要十分条件ということである。ベン図でいえば円同士が完全に重なり一致している状態である。

そしてまた正しいとは「内包していること」とも言えるのではないだろうか。ベン図でいえば大きな円の中に小さな円が完全に内包している、これは正しい。例えば、東京は日本にある、東京は日本の中にある、東京は日本に内包している。これはあたりまえであり疑うことが出来ない、つまり正しいとなる。「東京は日本にある」という命題は正しいのである。

ルイスキャロルのパラドックスというのがあるが、例えば東京は日本にある、内包している、を何故いちいち「この前提を正しいとすれば」などという説明がいるのであろうか。説明するでもなく東京は日本に内包していることは自明の理ではないか。

全ての人は死ぬ。ソクラテスは人である。ゆえにソクラテスは死ぬ。ベン図でいえば、死ぬと言う円に人が内包し、人の円にソクラテスが内包し、ゆえに死ぬの円にソクラテスが必然的に内包しているから結論は正しいとなる。

「内包していることは正しい」と言う概念は母親の体の中に赤ちゃんが内包しているから、この赤ちゃんは母親の子であることは間違いない、つまり正しい、などから来たのではないだろうか。
「正しいとは内包していることである」は辞書には載っていない。これも一つの正しいとして辞書に載せてもいいのではないだろうか。

2ヶ月前 No.47

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Tbw

無知の知を調べていたらこんなHPがあった。この東大の哲学者の言う無知の知の解釈はちょっとおかしくないですか?

https://kotoyumin.com/muchinochinomushi-838


ソクラテスは言う「勇気とは何だろうか?」ソフィストは答える「戦場において一歩も退かずに戦うことだ」ソクラテス「戦うばかりが勇気ではあるまい、私は本当の勇気とは何かを尋ねているのだ」ソフィストたち「・・・・・・」

ソクラテス「東洋から来られたそなたはどう思うかな、本当の勇気とは何であろうか」私は答える「公の為なら勇敢に戦い、公の為ならためらわず撤退することが本当の勇気です」
ソクラテス「なるほど、それこそが本当の勇気であろう、あなたは知者である、それでは本当の愛とは何であろうか」私は答える「公の為であれば、それは本当の愛であり、公の為でなければ、それは本当の愛ではありません」

ソクラテス「なるほど、それでは正しい政治とはいかなるものであろうか」私は答える「公の為であればそれは正しい政治であり、公の為でなければ正しい政治ではありません、すべては公の為にあるのです、絶対善は公の為なのです」
ソクラテス「エウレカ!エウレカ!〜〜、そうだったのか〜〜」w

2ヶ月前 No.48

宿題 ★sicIy89Ne4_Tbw

日本は空き家だらけ・・まるですべてがメルトダウン・・

2ヶ月前 No.49

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_8Ou

論語にこんな話しが在ります。ある県の長官が孔子に「私の村には正直者の躬と言われる男がおります。その男、どんなに正直かと言えば、父親が他人の羊を盗んだ時、躬は自分の父親の罪を証言したのです」と自慢しました。それに対し孔子は、「私の村の正直者は違います。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直、其の中に在り」と応えました。

これはどちらが正しいと思いますか。孔子でしょうか? 長官でしょうか? あなたならどうしますか?

2ヶ月前 No.50
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