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行き詰まった問題を皆さんに聞くスレッド

 ( 哲学掲示板 )
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shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_VuR

数人で議論していても、どうしてもこれ以上進展しない時もある。

そこでより多くの人の意見を聞くことにより、絡まった糸がほどける一助になればと思って、作ったスレッドである。

自分たちだけでは、行き詰まった問題をほかの人にも聞いてみませんか。皆さんご自由にどうぞ。

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ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>403  SumioBabaさん

>Aを否定しているつもりは有りません。


わかっています。
しかし、実質否定しているのだ、ということを私は既に説明しましたし、それに対する有効な反論はないということですね。

> >「一長一短であり、人それぞれいろんな考えが有って良い」というものですか?法律や条例で定めるまで、ダメかどうか決まりませんか?


> >私の主張は、法律・条例で決めるまでもなく、到着した電車にペットボトルを投げることは「してはいけない」のは明らかだ、ということです。


>>明らかではありません。電車にペットボトルを投げ入れる行為は、「原則」として「悪」だとは誰もが受け入れると思いますが、「例外」的な状況も有り、テロを防ぐために必要不可欠だった場合には「善」になったではないですか。現実問題では、必ずいろんな状況に依存して「善」か「悪」かが変わるので、簡単に結論が出ないのです。


私がそこで言ったのは、例示した高校生の行為が明らかに「ダメだ」ということです。
そして、仮にそういった行為がそれまで法的に禁止されていなかったとしても、
特別な状況を除いて、原則禁止になるということは、まっとうな人間には誰にでも「明らかだ」ということです。
それは、道徳的判断としてそれが原則「してはいけないことである」ことが明らかであり、
法的規制がなされるなら、この道徳規範に従ったものでなくてはならないからです。
法的規制が道徳的判断の善悪を決めるのではなく、道徳的判断による善悪に基づいて法的規制がつくられるのです。

>この場合、「割り込むな。ちゃんと並べよ」といった非難が罰であり、ルールの明文化に相当します。


これは明らかに法規範ではなく、モラルによる強制です。
この非難は、モラルに基づいて割り込みがいけないということが違反であるから可能なのです。

>ではもし、誰も非難しなかったらどうでしょう? 罰が無くなります。そうなると、「並ばねばならない」というルールそのものが有るのか無いのか不明となり、


なりません。まっとうな人間は、非難されなくてもモラルにより自分で自分を規制できます。

>「別に並ばなくても良いみたいね」と解釈して、誰も並ばなくなる可能性が有ります。早い者勝ちだと解釈される訳です


そうなるとしたら、モラルの崩壊ですね。
その理屈だと、田舎の無人の野菜販売所で、誰にも見つからず盗って行けたら、法的規制も及ばず、誰にも非難されないわけですから誰もお金を払わなくなる可能性がある、ということになりますよね。いわば「もってけドロボー」状態。
そして実際に、それが可能な状況(お持ち帰り自由)なんていくらでもありますよ。
でも、お天道様が見ていらっしゃるので、日本ではそうはならないのです(笑)。
道徳を尊ぶ国民性が根付いているのです。
もともと、辞書の説明にもあるように、倫理・道徳というものは、内面的規制原理だからです。

>どうとく(道徳)

ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、

>道徳(どうとく) moral

>社会の成員によって承認され,かつ実現される倫理的諸価値ないし規範の総体。その原理は,主観的内面的規制原理として,主体のうちに現れる自然的本能,自己保全の欲求,名誉欲,権力欲,所有欲などの利己的,本能的欲求と正義,真理,愛,誠実,信頼,平等,国益などの普遍的ないし社会的諸価値の対立あるいは現実と理想の相克を調整し,社会的成員にふさわしい行為を選択するようにしむける。


非難されるかいなかといった外的強制は、モラルには本質的に関係ありません。
だから、誰も非難しなきゃ構わない、ってことにはなりません。
前にも言いましたが、非難されるから従わねばならないのではないのです。
従わねばならないのに従わないから非難されるのです。
現実にも、電車の乗車時など、どさくさに紛れて割り込みをする人はいますし、そういうモラルのない人は注意しても無駄な人、危ない人と思われて必ずしも非難されませんが、それでも、普通の真っ当な日本人はきちんと順番に従います。モラルは崩壊しません。
バーゲンセールは早い者勝ちが許されているということが共有されています。
話が違います。

>>405
>こういう場合も、本当に1000人中999人の道徳観が自分の主張する道徳観の方で一致していることを、証明する必要が有る訳です。それを証明しもせずに、「オレを支持してくれる人は1000人中999人いるだろう。オマエを支持する人なんか1000人に1人もいないだろう。」と推測で言ってしまうのがマズイのです。お互いに証明もせず、そう言い合っている間は、どちらもBであってAではない、と判断する訳です。


みんなが整然と列をつくって並んでいること、普通誰も線路にペットボトルを投げ入れないことが既に証明です。推測などではありません。
ごみをゴミ箱に捨てねばならぬこと、割り込みがいけないことは、日本では子供でも知っています。
そういうモラルのない国では、日本のような秩序はありません。
以前、日本の東京かどこか忘れましたが、地下道が水につかったとき、その写真が海外でも紹介されて、その川のようになった地下道にごみが全く浮いていないということに驚嘆する海外の人の声がネットで上がっていました。

4ヶ月前 No.410

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>時さん


改めて時さんの主張をざっと復習してみましたが、やはり、私から見ると、時さんのお考えはモラルと個人道徳観との区別がきちんとされていないように思われます。
>>401 で示されている時さんのお考えは、私としてはやはり違うと思うと言わざるをえません。
>ザビビのふくろうさんは、個人的な道徳観と社会的な道徳規範を完全に分けてお話しされているのではないでしょうか


というのはイエスです。
最初から@とAとBを区別するのが私の立場です。Aは@にもBにも還元することはできません。時さんが示された
>私(時)の場合は、

道徳 = 社会的道徳規範(モラル) ⊂ 個人的道徳観

は、明らかにAをBに還元する考えで、私はけして同意できないのです。

>私の表現している個人的道徳観は「法律以前に、人として、してはいけないルールの存在」と言う事で、小学校や家庭で学んだものが基本となっているという事で、個人的道徳観が基本だという事を言っているつもりです。ですので、社会的道徳規範(モラル)は、その個人の個人的道徳観を基本にしているという事になります( >>399 )

>では、なぜこのような事が起こるのかですが、これはその個人(気がつかない、故意に無視する人)が今まで生きてきた中での慣習・習俗・しつけ等、様々な形で親、学校、共同体から様々な生活場面を通して教育されてきたものだからですね。これも私は個人的道徳観と表現しています。


「法律以前に、人として、してはいけないルール」は個人的道徳観ではなく、これこそが社会道徳(モラル)です。
子供のとき、教育されるのは、このモラルです。
このモラルを教育されることによって、道徳心が養われ、時さんのおっしゃる意味での個人的道徳観をもつことになるのです。
つまり、モラルが道徳心や個人的道徳観の基本であって、逆ではありません。

>>387
> >  世の中には、「法律で定められていない場合も、タバコのポイ捨てはいけない」を受け入れる肯定派と受け入れない否定派とがいて、否定派の人間を肯定派の人間が非難しているだけであり、本当は肯定派も否定派もAではなくBなのではないでしょうか?


>最終的には個人の感受(B 個人的道徳観)に帰結する事だと思います。その個人がどのような認識をしているのか?になると思いますね。

>ですので、個人の道徳観では、ポイ捨ては aモラル違反だ bモラル違反ではない に分かれると思います。そして私の道徳観ではそのポイ捨てが c社会的なモラル違反だ と認識しているだけです。一方、それを、d社会的なモラル違反ではない と認識される方もいるでしょうね。ですので私個人の道徳観を押しつけません。私個人は、性格的に押し付けませんが、上記の村の例のように、そのコミュニティーでの住人がよほど困っているのであれば、押し付けても良いと思いますよ。ただし、その押し付けた結果、その通りになるのかは別ですが。


「最終的には個人の感受(B 個人的道徳観)に帰結する事だと思います。」
そうではありません。
時さんが、「d社会的なモラル違反ではない と認識される方もいるでしょうね。ですので私個人の道徳観を押しつけません」とおっしゃるということは、やはりモラルを個人的道徳観と混同されていると思います。
というか、失礼ですけど、後戻りしてませんかね?(笑)
これはもうずいぶん前にも述べたことです。

>>328
> >>324

> >これは B 個人的道徳観を基本として形成された、私の価値基準によるA 道徳的社会規範(モラル)です


>あくまでAは、規範ですから、個人では形成されえず、共同体成員に、それを規範として承認され、共有されることが必要なのです。これが根本的違いです。

だからこそ、道徳的社会規範は、「あなた、間違ってるよ」と他人に言いうる根拠となるのです。他人も従うべきだからです。
>時さんが押し付ける気はないとおっしゃっているのは、それが個人的道徳観であって、道徳的社会規範ではない、ということを示しているのです。

>言い方を換えれば、それが道徳的社会規範である限り、押し付けでなく、他人にも従うよう要求できるのです。それが人として従うべき規範だからです。

>時さんのおっしゃった黄金律とか、自分がされていやなことは人にするな、人に迷惑をかけるな、うそをつくな、法律を守れとか、もっと具体的にはごみをポイ捨てするな、順番待ちは横入りするなとか、とにかく様々な形で社会的に教育を受けますよね。

>これらはみな、個人の道徳観ではなく広義の道徳規範です。


>>392
>私(時)の現在の見解はこうです。「タバコのポイ捨てはいけない」=(※)が法律や条例で定められていない場合。肯定派も否定派も最終的にはB 個人的道徳観に委ねられるが、その国・地方・地域の慣習的不文律により、その社会でのA 道徳的社会規範(モラル)になり得る。よって郷に入れば郷に従えの行動をした方が、よりその地域住民にとって望ましい結果となる。です。


「肯定派も否定派も最終的にはB 個人的道徳観に委ねられるが、その国・地方・地域の慣習的不文律により、その社会でのA 道徳的社会規範(モラル)になり得る。」
は間違いです。
肯定するのが正しいか、否定するのが正しいかは、社会の不文律としてのモラルにかなうのがどちらかによって決まるのであて、個人的道徳観によりません。
委ねられるのはあくまでモラルにかなうか否かです。
現代日本の社会では、たばこのポイ捨ても、歩きタバコも、他人の家や自転車や線路内にゴミを投げ入れることも、人の多い電車の床にあぐらで座り込むのも、すべてモラル違反です。まっとうな道徳的判断のできるものは誰でもわかります。
現代日本の社会では、そんなことをする人は一部の人であり、それをモラルに反していないと言う人はどれだけいるのでしょうか?
満員電車の床下にあぐらをかいて座り込むのが
a:モラル違反である
b:モラル違反ではない
という平等な二つの個人的道徳観の立場などということはばかげています。
ここにあるのは、モラルを守る人と、モラルを無視する人(人の迷惑を顧みない人)です。
このモラルを守れる大部分の人によって、現在の日本社会の秩序は成っているのであり、それがまさにモラルの存在の証明です。
例えば、ニューヨークの地下鉄と日本の地下鉄の違いを見れば明らかです。
ニューヨークの地下鉄が日本に比して汚く、危険であるということはよく言われることです。
日本人はたまたまほとんどの人がきれい好きで、暴力嫌いなんでしょうか?
モラルとして教育され、それを遵守する道徳心が養われているからではないのでしょうか?

>>401

広義のモラルはマナーも含み、慣習といった形でも教育され体得していくその社会・共同体でのルールであるという点でこれらは同じだという話はしましたね。
そして、狭義のモラルは、その中で、そのルール違反が他の人に対して「罪を負う」という意味をもつことになるもの、「謝罪すべきもの」とみなされるものであって、違反はダメなこと、いけないこと、道徳的に悪であることとみなされることです。
それに対して、他人に不快感を与えても、そういう意味合いまでは含まないようなマナーと区別しました。
お箸の問題はマナーの問題であって、こういったマナーの問題は、道徳的悪とまでは認識されません。
つまり、これは狭義のモラルとマナーの違いであって、マナーに関しては他人にまでは言わないということです。

>>399 で挙げられている個人道徳観のほとんどは、単に個人のものではなく、広義のモラル・マナーです。
それは時さんが幼き日から受けた道徳教育によって養われた道徳観ですが、それはまさに広義のモラルであって、こういった思想自体はモラル「人としての道」です。
それがあなたの内面的規制原理として働き、あなたの人格を形成しているわけです。
こういったものであっても、広義のモラルですから、当然、守るべき強弱の度合いがあるので、人一般のルールだからと言ってすべて他人に強制するわけではありません。
それに対して、
>・狭い道では、対向車には道を譲る。

これだけは明らかにモラルに含まれません。状況に応じて判断するのが普通であると思います。
これは時さん個人の道徳観・個人的信条であって、これを他人にも守れと言ったら押しつけです。
これはだからあくまで個人的信条であって、人一般についてのルールではありません。
それは「自分としてはこうすべきであると思うので、自分はそうする」という話です。
もちろん、「ひとはひととして対向車に道を譲るべきだ」とは思っていらっしゃらないでしょう。
しかしながら、「ひととして〜すべきである」という思想それ自体は、人一般の従うべきモラルであって、個人の信条・道徳観ではありません。
規範はルールであって、個人の道徳観、信条には帰着しません。
何度も言っていますが、あくまで、共同体を前提するのです。
わかりやすく言えば、個人的信条の共有ではなく、ルールの承認・共有が規範の成立条件なのです。
ですから、あなたがおっしゃっている個人的道徳観というのは、ほとんどがモラルです。

なんか、同じことの繰り返しになってきましたね。
このあたりが潮時かもですね。

あと、個人道徳と道徳的社会規範との違いについては次も参照していただければありがたいです。

http://mb2.jp/_tetsugaku/1016.html-405#a

4ヶ月前 No.411

★ZQkfa6QvsR_Vx8

>>411  ザビビのふくろうさんへ

> 改めて時さんの主張をざっと復習してみましたが、やはり、私から見ると、時さんのお考えはモラルと個人道徳観との区別がきちんとされていないように思われます。


はい。実際にこれらの区別について今まで考えたこともなく、生活するにあたって何の支障もありませんでしたので、その基準が分からずにいたという事でしょう。

> 道徳 = 社会的道徳規範(モラル) ⊂ 個人的道徳観

> は、明らかにAをBに還元する考えで、私はけして同意できないのです。


私(時)の今までの社会生活の中で、社会的道徳的規範(モラル)と個人的道徳観を区別する必要が無かったからでしょうか?まぁ、このよう事をザビビのふくろうさんにお尋ねしても、答えが得られない事は百も承知なのですが。

> 「法律以前に、人として、してはいけないルール」は個人的道徳観ではなく、これこそが社会道徳(モラル)です。

> 子供のとき、教育されるのは、このモラルです。

> このモラルを教育されることによって、道徳心が養われ、時さんのおっしゃる意味での個人的道徳観をもつことになるのです。

> つまり、モラルが道徳心や個人的道徳観の基本であって、逆ではありません。


ん?逆ですか。私が子供の頃に両親や学校で学んでいたものが「社会的道徳規範(モラル)」ですね?っで、それを基準にその後に出来上がるのが、「個人的道徳観」と言う事ですね。

ん?では、なぜに多くの人がモラル違反を犯しているのでしょうか?私の今までの人生が、そんな人に多く当たるような人生だからなのでしょうかね?(笑)「あれ〜?モラルがないなぁ。」と感じる人が多くいましたので、いつの間にか、これは、私の個人的なモラル(道徳観)だと感じるようになってしまったとか?(笑)

とにかく「この人には、見ているおてんとうさまはないのかいな?(例)」と感じることが多くありました。

> 「最終的には個人の感受(B 個人的道徳観)に帰結する事だと思います。」

> そうではありません。

> 時さんが、「d社会的なモラル違反ではない と認識される方もいるでしょうね。ですので私個人の道徳観を押しつけません」とおっしゃるということは、やはりモラルを個人的道徳観と混同されていると思います。

> というか、失礼ですけど、後戻りしてませんかね?(笑)

> これはもうずいぶん前にも述べたことです。


はい。失礼ではありませんで、多分今の私には、その区別はできないのだと思いますね。ここで少しザビビのふくろうさんにお尋ねしたいのですが、

例えばですが、通勤途中の駅の自転車置き場の自転車にごみを放り込んでいる人がいたとします。この時、ザビビのふくろうさんは「おい!ごみを入れるな!」と注意されるのでしょうか?恐らく答えは「イエス」でしょう。では、少し離れたところの自転車ではどうでしょうか?

駅のホームで、反対側のホームから線路に向かってつばを吐いている(紙屑を捨てている)人にはどうでしょうか?「おい!ごみを捨てるな!」と注意をするのでしょうか?その時、周りの人たちはどうでしょうか?想像ですが、皆さん黙ってみて見ぬふりではないでしょうか?

私の認識では、これら二つの例え話は、両方ともに「モラル違反」です。そしてそれを言うか?言わないのか?だけではないのでしょうか?と書いたと思います。しかしザビビのふくろうさんは「道徳的社会規範は「あなた、間違ってるよ」と他人に言いうる根拠となるのです。他人も従うべきだからです。」と仰いますね。

> >あくまでAは、規範ですから、個人では形成されえず、共同体成員に、それを規範として承認され、共有されることが必要なのです。これが根本的違いです。

> だからこそ、道徳的社会規範は、「あなた、間違ってるよ」と他人に言いうる根拠となるのです。他人も従うべきだからです。

> >時さんが押し付ける気はないとおっしゃっているのは、それが個人的道徳観であって、道徳的社会規範ではない、ということを示しているのです。

> >言い方を換えれば、それが道徳的社会規範である限り、押し付けでなく、他人にも従うよう要求できるのです。それが人として従うべき規範だからです。


はい。今は理解できていると思います。今はですが。

「あなた、間違ってるよ」と言える根拠としてのモラルですよね?でも実際には皆さん「従うべきだ」等とは言いません。と言うか、そんなことを今まで駅やバス停や街中で聞いた記憶は、過去一度しかありません。

要求できることと、要求することは違うのではないでしょうかね?それこそモラルのない人に一人で要求したとしても、トラブルが大きくなるだけでしょ?ですから皆さん、ほとんどが見て見ぬふりなのではないでしょか?

> >時さんのおっしゃった黄金律とか、自分がされていやなことは人にするな、人に迷惑をかけるな、うそをつくな、法律を守れとか、もっと具体的にはごみをポイ捨てするな、順番待ちは横入りするなとか、とにかく様々な形で社会的に教育を受けますよね。

> >これらはみな、個人の道徳観ではなく広義の道徳規範です。


先ほども書きましたが、多分、逆だったのでしょうね。私の言っていたもののほとんどが社会的道徳規範だったという事でしょう。一旦は、了解しました。

> 「肯定派も否定派も最終的にはB 個人的道徳観に委ねられるが、その国・地方・地域の慣習的不文律により、その社会でのA 道徳的社会規範(モラル)になり得る。」

> は間違いです。


うーん。表現が難しいですね。例えば、関東と関西でのエスカレーターの例は真逆のモラルでしょ?これはその地域(関東と関西)の慣習的不文律(エスカレーターの乗る側)により、その社会でのA 道徳的社会規範(モラル=乗る側が右か左か)になり得ると言う事にならないのでしょうか?

> 肯定するのが正しいか、否定するのが正しいかは、社会の不文律としてのモラルにかなうのがどちらかによって決まるのであて、個人的道徳観によりません。


私の表現している個人的道徳観が、ザビビのふくろうさんの表現されている社会的道徳規範だとするのならば(私の認識が逆なのであれば)、

「肯定派も否定派も最終的にはB 個人的道徳観に委ねられるが、その国・地方・地域の慣習的不文律により、その社会でのA 道徳的社会規範(モラル)になり得る。」が

「肯定派も否定派も最終的にはA 社会的道徳規範(モラル)に委ねられるが、その国・地方・地域の慣習的不文律により、その社会でのA 道徳的社会規範(モラル)は変化し得る。」と言う表現になるのでしょうか。

> 委ねられるのはあくまでモラルにかなうか否かです。

> 現代日本の社会では、たばこのポイ捨ても、歩きタバコも、他人の家や自転車や線路内にゴミを投げ入れることも、人の多い電車の床にあぐらで座り込むのも、すべてモラル違反です。まっとうな道徳的判断のできるものは誰でもわかります。

> 現代日本の社会では、そんなことをする人は一部の人であり、それをモラルに反していないと言う人はどれだけいるのでしょうか?

> 満員電車の床下にあぐらをかいて座り込むのが

> a:モラル違反である

> b:モラル違反ではない

> という平等な二つの個人的道徳観の立場などということはばかげています。

> ここにあるのは、モラルを守る人と、モラルを無視する人(人の迷惑を顧みない人)です。

> このモラルを守れる大部分の人によって、現在の日本社会の秩序は成っているのであり、それがまさにモラルの存在の証明です。

> 例えば、ニューヨークの地下鉄と日本の地下鉄の違いを見れば明らかです。

> ニューヨークの地下鉄が日本に比して汚く、危険であるということはよく言われることです。

> 日本人はたまたまほとんどの人がきれい好きで、暴力嫌いなんでしょうか?

> モラルとして教育され、それを遵守する道徳心が養われているからではないのでしょうか?


はい。書いて頂いている内容は、今は理解できているつもりなのですが。モラルを無視する人(人の迷惑を顧みない人)のイメージが多く私の記憶に残っていますね。

> >>399 で挙げられている個人道徳観のほとんどは、単に個人のものではなく、広義のモラル・マナーです。

> それは時さんが幼き日から受けた道徳教育によって養われた道徳観ですが、それはまさに広義のモラルであって、こういった思想自体はモラル「人としての道」です。

> それがあなたの内面的規制原理として働き、あなたの人格を形成しているわけです。

> こういったものであっても、広義のモラルですから、当然、守るべき強弱の度合いがあるので、人一般のルールだからと言ってすべて他人に強制するわけではありません。


先ほども書きましたが、私が「個人的道徳観と社会的道徳規範」を、逆に認識をしていたという事でしょうね。

> それに対して、

> >・狭い道では、対向車には道を譲る。

> これだけは明らかにモラルに含まれません。状況に応じて判断するのが普通であると思います。

> これは時さん個人の道徳観・個人的信条であって、これを他人にも守れと言ったら押しつけです。


はい。そうですよね。これは個人的な道徳観です。了解しました。

> このあたりが潮時かもですね。


はい。今がよい潮時かも知れませんね。今まで考えたこともなかった社会的道徳規範(モラル)と個人的道徳観についていろいろと教えて頂いてありがとうございました。今回分かったのは、おそらくは私が個人的道徳観として認識していたもののほとんどが、社会的道徳規範だったという事だと思います。まぁ、日常生活において特に問題が無いのでよいのですが、今一度、この辺りを再考してみたいと思います。ありがとうございました。

4ヶ月前 No.412

★h1T0tPrCTO_Vx8

>>ザビビのふくろうさんへ

>>馬場さんへ


これ以上思考を続けると、何やら少しその世界から抜け出られなくなりそうな予感がしますので、この議論ではここで私は終了とします。

お付き合いをありがとうございました。

4ヶ月前 No.413

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>413  時さん

こちらこそありがとうございました。

なんか、えらそうな物言いになってしまい、申し訳ありません。
時さんのご人格に助けられて、ここまで投げずに説明を続けられたと思います。
けっこう短気なので(笑)

ありがとうございました。

>SumioBabaさん


私も自分の今言えることはほぼ言い尽くしたのではないかと思います。
何が正しいかを理詰めで追い求める意志を共有されている方として、また、度量の広い方としていつも遠慮なく批判させてもらっています(笑)
とは言え、失礼な言い方が多々あったと思いますが、申し訳ありません。

4ヶ月前 No.414

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

下記はある書籍の概要を記した記事であり、私自身の考えではない(違う点、もしくは受け入れ難い点が存在する)のですが、引用してみました。

(1)人間には理想の道徳がある
道徳とその根拠は問答無用に決まっており、時々で変化しない。個人より社会全体の安定が重視される。権威主義的。「汝殺すなかれ」のキリスト教や、「不殺生」の仏教などが代表例として挙げられる。

(2)道徳は個人個人が決めるもの
道徳は個人間や時々で変化するもの。社会より個人に重きを置く。自由主義的。韓非子、マキアヴェッリ、デカルト、カント、ニーチェなどの思想が例として挙げられる。

「人間には理想の道徳がある」と信じる人は、権威が教える「不殺」をいかなる場合でも遵守するものとして捉えており、安定した社会が築かれやすいが、死刑制度や戦争についての意見が硬直化しやすい。一方、「道徳は個人個人が決めるもの」と主張する人は、「不殺」が事情によって刻々と変化する。死刑制度や戦争についてなど意見は柔軟的だが、社会の不安定さを生み出す。では、結局、「人を殺すこと」は悪いことなのか、善いことなのか。「不殺」を遵守すべきなのか、場合によるのか。著者は、(1)か(2)、どちらかが正しく、どちらかが誤っているということではなく、どちらも一部の真理を含んでいるのでは、と推論する。

 問題点が検出できたところで、本書はモデル構築へと進む。すでにお気づきの人がいるかもしれないが、死刑や戦争の際に「人を殺してはいけない」という決まりに矛盾が起きるのは、「人」という言葉が変化するからである。「不殺」は「敵」や「仲間でない者」には適用されないのである。戦争では、自分や仲間は積極的に守るが、敵は殺す。死刑が宣告されるのは「社会の敵であり、かつ今後も(再び)仲間になれる可能性が少ない人間」とみなされたからである。死刑になる判断基準が、多数を殺した、残虐な殺し方をした、反省していない、計画性があった、再犯である、などであることからもわかる。著者は、チャップリンの映画「殺人狂時代」の名セリフ「一人殺せば悪人で、百万人殺せば英雄」を取り上げて、正しくは「仲間を殺せば悪人で、敵を殺せば英雄」なのであり、数の多寡は関係ないと言い切っている。

 人は「人間一般」ではなく、じつは「仲間」と置き換える。「仲間を殺してはいけない」と読むなら(1)はよく守られてきた決まりといえそうだ。

 (2)については、どのように理解すればよいのだろうか。これは、「仲間の範囲は変化に富む」ことで説明できる。たとえば、平時と緊急時では仲間の範囲が変化する。また、危機になればなるほど資源が限られれば限られるほど、仲間の範囲は狭くなって、自分にとってコアかつ重要度が高い集団へと適応範囲が縮んでいく。

「(いかなるときも)仲間は殺してはいけないが、仲間の範囲は個人や状況によって変わる」。こう考えれば、(1)も(2)も正しい道徳である。戦争で人を殺して勲章がもらえることや、死刑が容認されることの説明もつく。「人(=人間一般)を殺してはいけない」という理由で死刑制度に反対するのは、「人」という言葉の意味を読み間違えていると指摘している。ちなみに、未成年犯罪への刑罰が成人よりも軽いのは、「未成年者は心が柔軟なので、再教育して矯正すれば、社会の仲間に引き戻せる可能性が高い」と考えれば納得がいく。

 SNSの普及などでバーチャルな出会いが増えている。しかし、直接出会って顔を見知っている人たちが、個人にとってもっとも大切な「仲間」であり、拡大する社会においてそういった仲間を増やしていくことが平和な社会の実現に繋がると結んでいる。


〜〜サイト ダ・ヴィンチニュースより

4ヶ月前 No.415

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

shinちゃんが喜びそうな記事だね。

4ヶ月前 No.416

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Vx8

>>416

別に喜ばないよ、何をごちゃごちゃ書いてあるんだろうねという感じ、公の為ですべて調いますがな。

何故、人を殺してはいけないの? 公の為だよ。
でも、人を殺していい時もあるよね? それも公の為ならいいんだよ。

公の為と考えれば、すべて矛盾なく答えられますがな。私の善の体がは正しいと。、もういい加減認めたら?

問題はなぜ私より公を優先する考え、感情が出てくるのか?どこから来るのか?という事が大事。私は種族保存の本能より出てくると言っています。彼らはどこからこの感情が出てくるのか、分からないだろうね。

愛、幸福、生きがい、尊いなどのもろもろの感情の本当の定義には種族保存の本能が絡んでなければ、間違いです。正しいの定義も種族保存本能よりやってきたのです。本能が含まれていない定義はすべて偽です。

4ヶ月前 No.417

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_Vx8

>>417

私の善の体がは正しいと・・間違い、

私の善の定義は正しいと、に修正

4ヶ月前 No.418

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

おや?公って何ですか?俺的には<公>、<種族>と「仲間」に構造的類似性を感ずるのだが。「仲間の範囲は変化に富む」という点も含めてね。

4ヶ月前 No.419

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

種族保存の本能でも良いんだけど、それって動物の営みじゃんね

4ヶ月前 No.420

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>時さんへ

>>ザビビのふくろうさんへ


 お二人との議論、とても楽しませて頂きました。ののしり合いにもならず、紳士的に進められたのは、お二人のお陰です。有難うございました。

 では最後に、SumioBabaの総括でまとめます。SumioBabaから見るとお二人は、非常に楽天的というか、A社会的道徳規範なるものが自然に、1000人中999人以上の割合で一致すると考えておられるように感じました。一方SumioBabaは、世の中いろんな人がいるのだから、そう簡単に意見は一致しないだろうと考えます。『タバコのポイ捨て禁止条例』でさえ、「賛成派99.9%、反対派0.1%」、どころか、「賛成派55%、反対派45%」くらいに分かれるのではないかと思います。あらゆる物事には長所と短所が有るからです。

 ある宗教では「ブタを食べてはいけない」というルールが有るようです。この宗教の信者たちにとっては当たり前の事であり、人間だったら当然守るべき道徳の1つになっているでしょう。そこで仮に、ザビビのふくろうさんがこの宗教の信者であり、世界各国を回って布教活動をされているとします。この時「ブタを食べてはいけない」を、A社会的道徳規範だとして世界中の人々に押し付けるべきでしょうか?、それともあくまでB個人の道徳観に留めておくべきでしょうか? 今までの議論の内容から行くと、ザビビのふくろうさん、もしかしたら「ブタを食べてはいけない」を、人間だったら誰でも守るべきA社会的道徳規範だと主張して、世界中の人々に押し付けてしまうのではないか?、と危惧してしまうのです。違いますか?

 SumioBabaだったらそうはしません。ではどうするか? その国の法律に従います。その国がすでに「ブタを食べてはいけない」を法律@で定めているなら、これをA社会的道徳規範だと主張して布教活動をします。そうではなく、日本のように「ブタを食べてはいけない」を法律@で定めていない国であれば、これはあくまでB個人の道徳観に留めておく訳です。「ブタを食べてはいけない」をAと見なすかBと見なすかは、人間としての道徳だけでは決まらない事を認め、その国の法律に従う訳です。このへんが、SumioBabaの一番言いたかった事です。

4ヶ月前 No.421

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

悪法もまた法なり。まだ煮詰めてないですが、法律を絡ませるなら悪法をどうするかも考えないといけないような気がします。僕は法律の、暴力であるという側面を恐ろしく思っていますけどね。

4ヶ月前 No.422

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>421

>『タバコのポイ捨て禁止条例』でさえ、「賛成派99.9%、反対派0.1%」、どころか、「賛成派55%、反対派45%」くらいに分かれるのではないかと思います。あらゆる物事には長所と短所が有るからです。


問題のすり替えだと思います。
条例の内容について意見が分かれるのは「適用範囲をどうするのか」「どういう罰則を与えるか」など、具体的な施行内容の部分に対してです。

「公共スペースへのゴミの投棄」自体は、「別にいい」とか「ちょっとぐらいならいい」とか「いいか悪いかは個人の判断による」とかでは無いです。
条例があろうが無かろうが「公共スペースへのゴミの投棄」は、“悪い”です。


「あらゆる物事には長所と短所が有る」に端を発するなら、「殺人にも長所と短所が有る」→「殺人が良いか悪いかは個人の判断による」になりかねません。

4ヶ月前 No.423

★ae17nOgyVm_Vx8

>>415

> (1)人間には理想の道徳がある

> 道徳とその根拠は問答無用に決まっており、時々で変化しない。個人より社会全体の安定が重視される。権威主義的。「汝殺すなかれ」のキリスト教や、「不殺生」の仏教などが代表例として挙げられる。


からの

> 人は「人間一般」ではなく、じつは「仲間」と置き換える。「仲間を殺してはいけない」と読むなら(1)はよく守られてきた決まりといえそうだ。


東大の理系教授の著書だとは思えないですね。本当に知らないのでしょうか?まぁ、良いのですが、、(笑)

4ヶ月前 No.424

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>424

>東大の理系教授の著書だとは思えないですね。本当に知らないのでしょうか?


これは、「『仲間を殺してはいけない』は、守られていない」という意味でしょうか?

4ヶ月前 No.425

★uNdBwfDVMy_Vx8

>>425

少し過激な表現になりますが

無智や蒙昧故の設定をしておいて、自己完結している文章です。と言う意味です。

もしも知っていれば、書けない文章でしょう。(知らないからこそ、著書に書けるのだろうという意味です)

著者は、自らが、知らないという事を知らないのではないですかね? まぁ、良いのですが、、(笑)

4ヶ月前 No.426

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

 @法的社会規範、A社会的道徳規範、B個人的道徳観、の区別をSumioBabaが重要だ考えた理由は、宗教戦争の原因こそが、Bに過ぎないものをAだと主張して他人に押し付けることにある、と思うからです。

 宗教Aには、その教えとして道徳Aが有ります。宗教Bには、その教えとして道徳Bが有ります。そして一般に、道徳Aと道徳Bとは一致しません。
 宗教Aの信者どうしが道徳について話し合う時には、道徳AをA社会的道徳規範だと前提して話が成立します。宗教Bの信者どうしが道徳について話し合う時には、道徳BをA社会的道徳規範だと前提して話が成立します。しかし、宗教Aの信者と宗教Bの信者とが道徳について話し合う時は、道徳Aも道徳BもB個人の道徳観として主張すべきであり、それを相手に押し付けてはいけません。
 なのに、それができず、宗教Aの信者は「道徳Aこそが正しい。道徳Bは間違っている。」と主張し、宗教Bの信者は「道徳Bこそが正しい。道徳Aは間違っている。」と主張してしまう傾向に有ります。つまり、どちらも自分の道徳こそが正しいA社会的道徳規範だと主張し、相手の道徳を間違った道徳だと決め付けようとします。結局それはお互いに、「オレこそが道徳的人間であり、オマエは非道徳的人間だ。」と主張することになります。そうすると対立が生じ、最悪の場合、宗教戦争にまで発展するのではないでしょうか?

4ヶ月前 No.427

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>426 時さん、返信ありがとうございます。

>少し過激な表現になりますが

>無智や蒙昧故の設定をしておいて、自己完結している文章です。と言う意味です。


「無智や蒙昧故の設定」というのは「(1)人間には理想の道徳がある」のことでしょうか?

4ヶ月前 No.428

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>427
道徳規範の話を、なぜ宗教に当てはめようとするのでしょうか?
宗教の教えは、一般的には“道徳”ではなく“教義”ですけどね。
道徳の話を宗教で説明するのは無理があるのでは?

4ヶ月前 No.429

★pXRmLcLjsx_Vx8

>>428  Mobius さんへ

> (1)人間には理想の道徳がある

> 道徳とその根拠は問答無用に決まっており、時々で変化しない。個人より社会全体の安定が重視される。権威主義的。「汝殺すなかれ」のキリスト教や、「不殺生」の仏教などが代表例として挙げられる。


「(1)人間には理想の道徳がある」→「汝殺すなかれ」のキリスト教や「不殺生」の仏教などが代表例として挙げられる。
「個人より社会全体の安定が重視される」→「汝殺すなかれ」のキリスト教や「不殺生」の仏教などが代表例として挙げられる。

少なくとも、仏陀の教えとしての仏教においては「人間としての理想の道徳」は説かれていませんし「問答無用決まって」いません。そして「個人より社会全体の安定が重視される」為にとも説かれていません。それに権威主義的でもありません。ですので、著者の無智蒙昧故にこの設定をしていると感じました。

そしてこの著者のこの設定に対して「 人は「人間一般」ではなく、じつは「仲間」と置き換える。「仲間を殺してはいけない」と読むなら(1)はよく守られてきた決まりといえそうだ。」と自己完結していますね。

表面だけをさらったこのような文章が、東大の教授と言う立場で、よく調べもせずに書けたものだと感心しました。と言う意味ですね。

ですので、キリストの教えでも仏陀の教えでも、人間一般での理想の道徳なんて説かれていないと思いますよ。私(時)は、宗教は好みませんので、このお話は、この辺で。レスをありがとうございました。

4ヶ月前 No.430

oo @ooo11 ★Tablet=6ugAp7Tls9

宗教とはある教義に基づく集団とするなら
その集団という社会内ではそれが道徳といえると思います。
きっと法という教義に基づく集団の道徳からはかけ離れているのでしょうけれども。
しかしその差は善か悪かではないと思いました。

4ヶ月前 No.431

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

 世の中、いまだに戦争が無くなりません。主な原因は、宗教的対立のようです。しかも、今問題にしている「自分の道徳を他人にまで押し付けるべきではない」を守れない人々が、宗教戦争を産み出す原因になっているようだ、ということです。

4ヶ月前 No.432

opec ★BkjYDPODmg_Ew9

>>432
「戦争の要因は宗教だ」という事がよく言われていますが、戦争の根本的な要因は「物質的な何か」である事が多いです。人が争う原因は「土地」や「水」が主要因なんですが、その際の大義名分の一つに宗教や民族の繁栄が利用される事が多く、そうして集まってくるのは何も持たない貧しい若者がほとんどです。
このように、宗教(あるいは民族)の名の下に集まった貧しい者によって、富(土地、水など)の収奪が行なわれるのが戦争の構図であり、「戦争の要因が宗教だ」というのは間違っていると思います。

4ヶ月前 No.433

oo @ooo11 ★Tablet=6ugAp7Tls9

>>433
全ての人が、強力な教義のもと水と土地を分け合いなさい。
価値のないものは自ら死になさい。
そんなふうだったら戦争は起きないでしょう。

無限にない物資的な何かが戦争の要因であることも確かですが
統一されることのない宗教も要因のひとつでしょう。

さぁ、必ずどちらかが前提でなければならない、という宗教のもと
あなたと私で殺し合いをしましょう

3ヶ月前 No.434

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>430

>少なくとも、仏陀の教えとしての仏教においては「人間としての理想の道徳」は説かれていませんし「問答無用決まって」いません。そして「個人より社会全体の安定が重視される」為にとも説かれていません。それに権威主義的でもありません。ですので、著者の無智蒙昧故にこの設定をしていると感じました。


やっと理解できました。ありがとうございました。

3ヶ月前 No.435

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>434

戦いの前にちょっと質問

宗教の違いは、物資の有限性からくるのではないの?
それても、宗教と、物資を分け合うものとしての共同体は無関係?

3ヶ月前 No.436

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

googleで検索した情報:

道徳 … 社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準(の総体)。自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。

宗教 … 神または何らかのすぐれて尊く神聖なものに関する信仰。また、その教えやそれに基づく行い。

規範 … 判断・評価・行為などの、拠(よ)るべき規則・規準。

法 … 裁判の基準。おきて。

価値観 … 価値(善・悪、好ましいこと・好ましくないこと、といった価値)を判断するときの根底となる ものの見方。

良心 … 道徳的な善悪をわきまえ区別し、正しく行動しようとする心の働き。

-- -- --

共同体 … 地縁、血縁、友情などにより自然発生した有機的な社会集団のこと。

集団 … 多くの人またはものが集まった、一かたまり、一まとまり。

個人 … 個々別々の、ひとりひとりの人。

-- -- --

戦争 … 複数の集団の間で行われる、国際紛争の武力解決。広義には内戦や反乱も含む。

紛争 … もつれて争うこと。もめごと。

物資 …(経済活動の面から見た場合の)物。品物。

3ヶ月前 No.437

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>432

・「“自分の道徳”を他人にまで押し付けるべきではない」は、社会的に共有された価値観なのか否か。

“道徳”を「自分の道徳」のように 個人的価値観の中に封じ込めるような言い方は、一般的なのか?

“道徳”の概念は、「社会集団内での共有」が前提ではないのか?

「自分の道徳」って なんだ?

3ヶ月前 No.438

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>438
馬場さんの書き込みは、宗教的社会集団における道徳の話では?

3ヶ月前 No.439

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

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3ヶ月前 No.440

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

理想の社会を作るために道徳、法律があると考えている私にとって >>440 のような事実を顧みると「誰が描く理想の社会なのか?」が今現在の大きな関心事です。

3ヶ月前 No.441

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>440

日本や欧米各国の常識で考えると、彼国では重大な人権侵害が行われているように感じられますが、馬場さんの言い方を真似るならば「自国の道徳観を他国にまで押し付けるべきではない」ということなのでしょうねぇ。

ただ、「人権上の問題があることの指摘や批判」を「すべきでない」とは、私は考えないですけどねぇ。指摘や批判をしたところで、押し付けられるものではないですし。


全然問題が違うけど、「公共の場所でのゴミのポイ捨て」に対して「注意すること」は、「価値観の押し付け」とかそういうものじゃないと思いますけどねぇ。

3ヶ月前 No.442

oo @ooo11 ★Tablet=6ugAp7Tls9

>>436
有限性も然り、自然環境の違いからくる生活様式、文化の違いが
宗教の違いになっていることは、仰る通りと思います。

しかし自然環境の違いは当然のことなのに対し
理性ある人がつくる宗教に、宗教戦争を行う必然性はないと思いました。

3ヶ月前 No.443

oo @ooo11 ★Tablet=6ugAp7Tls9

>>440
誰が描くべきかというよりも
描いた瞬間に固定化される理想社会像と
固定化できない現実社会の差が問題となっているのではないでしょうか

圧倒的な情報処理能力によりその差を埋めることができるようになれば?
しかし完全監視が必要であり、見方によっては飼い殺しですが。

それとも、もはや人類が自らの手で汗水垂らして平和を目指すという発想自体が時代遅れなのか。

3ヶ月前 No.444

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

>>442
レスを頂いたことに取り急ぎお礼を申し上げます。
が、申し訳ありませんが主旨が私にはよくみえず、また私の発言主旨とも特に重大な対立・逆に共鳴があるとも思えませんでしたが

>「公共の場所でのゴミのポイ捨て」に対して「注意すること」は、「価値観の押し付け」とかそういうものじゃないと思いますけどねぇ。

これについては「注意しても無駄な人たちは確実に実在する」という思いの比率が高まってきた今日この頃です。変に年増を気取るつもりはないのですが。。

3ヶ月前 No.445

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>445

>変に年増を気取るつもりはないのですが。。

Mobiusさんやシーレーンさんを否定する気はないけど、まあ、今風の考え方ではないね

3ヶ月前 No.446

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

>>444

レスをありがとうございます。

>誰が描くべきかというよりも

描いた瞬間に固定化される理想社会像と
固定化できない現実社会の差が問題となっているのではないでしょうか

確かに実としての問題点は何か?という観点では同意します。
まして一件の警察の不手際で世の中は一喜一憂するものですからね。

>圧倒的な情報処理能力によりその差を埋めることができるようになれば?

しかし完全監視が必要であり、見方によっては飼い殺しですが。

法律厳守の風潮はそのアプローチで改善されていくと思います。またおっしゃるとおり人権・個人の自由が尊重されて久しい今日では完全監視社会はコンセンサスを得る事は出来ないかもしれませんね。
まずは地道に適切な道徳観を育み、各自が自主的に他者への不利益となる言動を慎むよう働きかけるアプローチの増長は重要だと現在個人的に思っています。これはザビビのふくろう様から学んだ事です。


>それとも、もはや人類が自らの手で汗水垂らして平和を目指すという発想自体が時代遅れなのか。


上記とやや重複してしまいますが時代遅れだとしても地道に努力して平和を目指す社会、そして自分もその社会の一員であるという各自の自覚が大事なのかと考えます。
私の近所では新型発売直後のiPhoneを駅前で落としても交番に届けられてますし、定期などのICカードを落としても同様です。また無人の野菜売り場も幼少の頃よく見かけました。
不治の病と同じで完治を目指すのは直ちには不可能だとしても健康な人に近い生活を送れるように改善していくことは不可能ではないと考えます。


真新しい要素を一切出せず申し訳ありません。色々考えているのですが中々。

3ヶ月前 No.447

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

>>446

はは(笑)
ここに限らず、現実ネット問わず多種多様な方と話をして、それを継続することで古い考え方を脱却できれば良いなと思っています。

3ヶ月前 No.448

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>445 シーレーンさん、すみません。
シーレーンさんに対して何かを言いたかったというわけではなく、 >>440 に書かれているイランの事例を見て 思ったところを述べさせて頂きました。

「自分の道徳を他人にまで押し付けるべきではない」が世界的に共有された価値観だとするならば、「イランにはイランの道徳観があるわけだから、他国が口を挟むべきではない」ということになるのでしょうけれど、
私は、「自分の道徳を他人にまで押し付けるべきではない」が世界的に共有された価値観だとは到底思えなくて、イランの人権侵害に対しては指摘や批判をしてもいいと思っているので。

私は、そう思っているというところを述べさせてもらっただけで、シーレーンさんの意見に賛成とか反対とかではないです。

3ヶ月前 No.449

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

Mobius様

>>449
いえいえ、こちらこそ申し訳ありません。
お話の流れを適切に切り分けていただき、また補足頂き理解することができました。
ありがとうございました。

3ヶ月前 No.450

oo @ooo11 ★Tablet=6ugAp7Tls9

>「自分の道徳を他人にまで押し付けるべきではない」が世界的に共有された価値観だとするならば


世界共通かどうかまでは言及できませんが
いち個人としては共感する価値観ですね。
ミクロ視点でいえば人間関係のトラブルに第三者が首を突っ込むべきではない、という価値観
マクロ視点でも難民受け入れ問題で浮かび上がった世の姿勢といったところです。

>指摘や批判をしてもいいと思っているので。


指摘や批判はひとりでできることですが
今回、述べられている押し付けとは
相手に強制することであると読み取ったため
指摘や批判をしてはいけないということではないと思いました。

3ヶ月前 No.451

oo @ooo11 ★Tablet=6ugAp7Tls9

>>447
ありがとうございます。
地道な努力によって犯罪率低下やモラル向上はなされていると考えており
そこが重要だという観点に同意します。

しかし産業革命やコンピュータによる躍進をみると
理念や基盤を作るために地道な努力は否定されないものの
実際の作業として、汗水垂らした手作業は、それが有効な場合
雰囲気が望ましく損失が許容される場合を除いて否定されました。

平和を目指す活動のスローライフ化はいつまで許容されるのか。
もしかしたら、平和の自動処理化を受け入れなければならない時代が来るのかもしれません。

3ヶ月前 No.452

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>451

>難民受け入れ問題で浮かび上がった世の姿勢


この点に関しても、もう少し詳しい情報を戴けませんか?
(難しければ、検索キーワードとかでも構いません。)


>今回、述べられている押し付けとは

>相手に強制することであると読み取ったため


なるほど。
私は「道徳の強制は ほぼ不可能※」だと思っているので、
ここで述べられている「押し付け」とは、「自分の価値観(尺度)で、相手の価値観(尺度)を否定(批判,非難)すること」だと思いました。


※道徳の強制が ほぼ不可能と考えられる理由:道徳自体は社会的に共有された規範であるが、それを守るかどうかは行為者個人の判断に委ねられているため。

-- -- --

>ミクロ視点でいえば人間関係のトラブルに第三者が首を突っ込むべきではない、という価値観


私は、「人間関係のトラブル解決には、第三者の介入が不可欠」だと思っているので、「首を突っ込むべきではない」というのは、とても新鮮な価値観だなぁと思いました。

3ヶ月前 No.453

oo @ooo11 ★Tablet=6ugAp7Tls9

>>453

>(難しければ、検索キーワードとかでも構いません。)


単純に難民受け入れ拒否をした国家があったことや
受け入れ後に文化の違いによる様々なトラブルがあったことです。


>道徳の強制は ほぼ不可能

そうですね、にもかかわらず強制しようとすることが
大きくは宗教戦争という形でおこっているように考える
という話題について話をしているという認識でいます。

>私は、「人間関係のトラブル解決には、第三者の介入が不可欠」だと思っているので、


私が広義に受け止められるような文章を書いたのが
良くなかったのだと思いますが
解決を目的とする場合、ベストケースであれば今回の話題である価値観の押し付けは発生しないと思うので
別の話をされているのだと思いました。

3ヶ月前 No.454

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>454 ooさん、返信ありがとうございます。
もう少し伺ってもよろしいでしょうか? (よろしくなければ無視下さい)

「難民受け入れ問題で浮かび上がった世の姿勢(例えば、難民受け入れ拒否をした国家があったこと、受け入れ後に文化の違いによる様々なトラブルがあったこと など)」と「自分の道徳を他人にまで押し付けるべきではない」との関係がよくわかりません。

「自分の道徳を他人に強制しようとする勢力が、難民受け入れ時のトラブルを巻き起こしている」という主張でしょうか?
それとも
「道徳観(あるいは社会的規範)の違いが、難民受け入れ時のトラブルを巻き起こしている」という主張でしょうか?

3ヶ月前 No.455

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

あるブログから引用

拝啓

 中国人と言えば、あなたにはいつも大声で喋るという印象が浮かびますか。他人の目を気にかけながら、声を抑えて喋るあなたは、中国人がうるさいと思っているだろうが、私は一人の中国人として、弁解したいことがあります。

 私も、多くの中国人と同じように、いつも大声で喋っています。物心がついてから、大声で挨拶しなさい、大声で質問に答えなさいと親や先生に言われていました。また、放課後、帰り道で友達とうわさ話をしてきゃあきゃあ言いながら歩いたり、旧正月に家族揃いでどんちゃん騒ぎをしたりすることがどんなに愉快なことだろうと思います。

 なので、大声で喋ることは、決して教養の問題ではなく、それは日本人が小声で喋るのと同じように、古くから伝わってきた一種の民族習慣ではないかと私は考えます。

 思うに、日本には、「蕎麦は音を立てて食べるべし」という習慣があるでしょう。欧米人に下品に思われることがあるようですが、あなたなら、どう弁解しますか。きっと「音を立てて空気を口の中に入れると香りが引き立つ」など、日本人なりの理由を挙げるでしょう。それと同じように、大声で喋ることには、ちゃんとそれなりの理由があります。

 遡ってみると、何千年も前から、農業大国の中国で、農民が広い畑を隔てて、挨拶をするのにも、情報を伝え合うのにも、叫んでいました。それは大きな声で喋らない限り、相手に届かないからでしょう。そうして、その喋り方が習慣になり、受け継がれ、現代に入っても変わっていないのではないでしょうか。

 一方、中国では大声で喋る習慣を生み出す伝統的な考えがあります。自分のしたことが心に恥じるものでなければ、大声で堂々と喋るべきです。そして、大声で喋るのは他人に友好や親切を示すことができると中国人は思っています。また、五千年の歴史を持ち、更に近代で高速な発展を遂げている中国に対する誇りも、自然に大声に現れます。従って、大声で喋る習慣が中国人の自信と情熱を表しているのではないでしょうか。

 その他、中国の環境も見過ごしてはなりません。工場での機械の声、車の声、人の声などのため、日本と比べれば、中国の騒音環境が劣悪だと言えるでしょう。このような環境に取り巻かれており、声を上げて喋らないと、相手が聞こえない恐れがあります。

 こうして、中国人が大声で喋るようになりました。なので、この習慣の原因を理解しようともせず、自分の民族の習慣と違うだけの理由で、うるさいとか、マナーが悪いとか、勝手に決め付けるのはよくないと思います。世界は各民族の様々な習慣があるからこそ、面白くなっていくのです。もしどの民族でも小さい声で喋るのなら、世の中がつまらなくなるかもしれません。だから、もっと広い心を持って、民族習慣の多様性を理解しようではありませんか。

 というわけで、大声で喋ることが悪いことではなく、中国人ならではの貫禄を表しているのでしょう。私はそれを誇りに思っています。ただし、唯一気になるのは、一部の中国人に遠慮が欠けていることです。日本を含め、海外で旅行する中国人が、その国の習慣を無視して、わいわい騒いでいるので、外国人の顰蹙を買ったことがよく指摘されているようです。そのせいで、このような貫禄が無教養だと思われるようになってしまいます。いくら民族習慣と言っても、外国に出れば、その国の習慣に合うかどうかに注意しなければならないと思います。

 「郷に入れば郷に従え」という言葉の通り、他民族の習慣を理解し、それを心がけて行動することが大事です。中国人には、海外旅行するとき、周りの様子をよく確認して行動し、大声で喋ることを控えることが必要だと思います。そのかわり、もしあなたが中国に来れば、あなたに中国人がいつも大声で喋ることを理解していただきたいです。

 以上は私の考えです。あなたはどうお思いですか。お考えを聞かせていただけるとありがたいです。

 末筆ながら、ご多幸とご健康をお祈りいたします。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜 引用終わり


事例ごとに考えることは増えるばかりです。

3ヶ月前 No.456

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

私は沖縄旅行に行ってアメリカ軍のヘリコプターを頭上に感じた時・・日本さえ怖いと思いました。

海外旅行で生きて無事に帰ってこられる地震はありません。

世界は甘くはないのです。

皆様暑い中ご自愛願います・・

3ヶ月前 No.457

百理 ★5z6bVAmgS3_Vx8

申し訳ありません。地震→自信に訂正いたします。

3ヶ月前 No.458

魔術師 ★MFuwAkaWpO_CN8

中国では、長い歴史において、人肉食は普通のことだったと言われている。

中国の伝統文化としての人肉食については、清末の中国の都市では店頭で人肉が売られていたとか、色々な話を聞いたことがある。

まさに、価値観や道徳は、時と所によって様々である。

3ヶ月前 No.459
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