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哲学談話室

 ( 哲学掲示板 )
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ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

どこのスレに投稿するか、いろいろな理由で迷うことはありませんか?

既存のスレ、新規のスレ、いずれもいまいちに思うような場合に、気楽に投稿できるようにこのスレをつくります。

したがって、テーマは哲学に関するものなら原則自由。
独り言でも議論でも形式は問いません。
他のスレの話題がそこのスレ主旨とずれてきたような場合に、ここで続行するというような下請け的利用も可。

スレ主の私は基本仕切りませんので、各人ご自由にどうぞ。

1年前 No.0
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雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

僕は現象学というものは全く何の価値もないと思います。
動物は生の現実に生きてるわけで、考えてみれば、
あの人達は多分現実が本当だと思ってないフシがあるから。
ヘーゲルとか考えてみると、舐めるように一語一語意味を
考えることはそこから現実と乖離してるというか。
言語が知覚に影響を与えるだのそれが世界の認識を
阻害してるなどと本気で思うなら、それに対する理想は、
動物に育てられた人間の知覚以外にないですよ。
けど、現象学というと言葉言葉言葉というオンパレードです。
別に馬鹿呼ばわりされてかまわないです。正直、ストレス溜めてまで
難解な本読んで一体何に成るのか正直何にもならないと思いますよ。
僕はここに居てずいぶんになるけど、出てくるのは難解な話で、
ルソーとか考えないんですよね。ディドロとか、スピノザとか、
トマス・アクィナスとか、アウグスティヌスとか読まないんですよ。
読めばいいというわけではないですけど。
何処かに人間を生み出した何かがあって、それが善だとかそれぐらい
の話で、考えてみれば、だから正しいと言うだけですね。
産んだものが間違いだったら俺たち一体何なんだよって思っちゃいます。
難解なものでいいなら、東洋哲学でも読んでればいいわけだし。
西洋哲学はヘーゲルみたいなものからお別れしようと頑張って
けど、結局できなくて、別れたくても別れられない倦怠期の夫婦みたいな
考えばかりなんじゃないかなと思いました。
答え知りたいと言いながら、集まってくるのは難解なものを解読すれば、
仲間入りできるんだというくだらない理由でやるような人たちのほうが未だに
多いと思います。僕もそうですし。
ポストモダンに関しては視点の移動だとか着目点のズレぐらいに捉えればいい
ということがどれだけ正しいのか知らないけど、コップの水の量が半分ある、
もしくは半分もあるです。東洋哲学にこれ正解なんていわないというか、
今更新しい東洋哲学なんて作ろうとする日本人居ないと思います。
大学にいるのは西洋哲学研究と称して資料文献を研究して。当時の技術レベルや、
法律とのズレが現在と有るわけだからそれで新しく考えが作れちゃうわけですね。
前だったら、西田哲学あたりで、僕は感心してこれが哲学だと思ったんだろうけど、
今は読まなくてもこんなの知ったところで何にもならないなって思います。
中世時代のイスラム哲学で十分それでいいわけですけど、とどのつまり、現象の
背後がどうだのというわけでしょう。僕に言わせれば画面を二枚用意して、
前に本物を用意するか後ろに本物を用意するのかという話でしか無いんですよ。
そこにどうやって写像するのかという理屈がついてそれが哲学として名前がつく。
それだけの話しです。で、やっぱ、魂の故郷を見つけようと思索すると。
そのパターンは宗教で十分なので、宗教してればいいんだと思いますけど。
そうかんがえると、無神論だと、背後のイデアとかは考えにくいですよね。
でやっぱ、科学的になっちゃって。無神論が人類史から見れば新しい方で、
神様信じないと村八分ということが当たり前で、憲法で思想の自由を保証して
ようやく、普通に認められて、みたこともないものをひたすら信じ続けて、
墓だってそうですよ。同じようなデザインしてやたら高くて。
どうしてあんなデザインなんかしてるんだろうと思います。

1年前 No.401

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

さっき墓をググってタイの墓を見たんですよ。
タイの墓は尖ってるんだよね。同じ仏教だから、
墓のデザインが同じでいいはずなのに違うんですよ。

1年前 No.402

百理 ★5n9Jhh5DYh_Vx8

人間の限界を超えたり・・極限状況の時に・・哲学が無いと犬死でしょう・・

何か人間の秘密がある・・一般人の気付かない・・

1年前 No.403

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>カントは現象だけ考えてればいいらしい。


違います。

>僕は現象学というものは全く何の価値もないと思います。

現象学が何に対してのアンチテーゼだったかとか、現象学が看護学とか精神医学に繋がっていったとか、そういうことを知っていますか?

>動物は生の現実に生きてるわけで、考えてみれば、あの人達は多分現実が本当だと思ってないフシがあるから。

いったいどの現象学者の本を読んでそう思ったんだろうか。
現実が本当って同語反復だし、現象学は、現実が「本当」という様相で現われているんだと考えることによって現実を別な風に考えようとしたのであって、別に現実が本当であるということを否定したり、現実は本当じゃないなと思っていたわけでもない。

>ヘーゲルとか考えてみると、舐めるように一語一語意味を考えることはそこから現実と乖離してるというか。


ヘーゲルは舐めるように一語一語意味を考えるみたいなことを別にしてない。新しい言葉の使い方を作って、その言葉の運営をグイグイやったんですよ。

>言語が知覚に影響を与えるだのそれが世界の認識を阻害してるなどと本気で思うなら、それに対する理想は、動物に育てられた人間の知覚以外にないですよ。


影響を受けない知覚が、影響を受けている知覚よりも良いというわけではないし、言語が世界認識を阻害しているのが現状なら、理想は生の動物的認識に逆戻りすることだとは限らず、むしろ言語がそういうものなんだと居直って、むしろ言語が世界認識を促進するように言語をうまく使おうとか、ヘーゲルのように言葉の使い方そのものを発明するとか、そういうほうがよいのではないか。

>今更新しい東洋哲学なんて作ろうとする日本人居ないと思います。

梅原猛とかは?
そもそも昔の東洋哲学もオリジナルなものだったのだろうか?

私は「ハイデゲリアン門前」というスレを立てようと思った。ハイデゲリアンの門の中にいるわけでもなく、ハイデゲリアンの門に入ることもせず、ハイデゲリアンの門の前でうろうろしている人間の場所だ。しかし、流行らないと思ったのでやめた。

1年前 No.404

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

http://mb2.jp/_tetsugaku/1017.html-410#a

以下の議論は、上にリンクした別スレの補足に当たるものである。
前から書いていたものなのだが、どうもうまく書けないので、投稿を控えていたもの。
だけど、ひょっとすると何かヒントになるかもしれないので、一応こちらに投稿しておく。

【当為の「するべからず(してはいけない)とその成立条件」

ある共同体を考え、その共同体ではあるキノコが毒キノコとして全員に知られているとします。
その共同体の人に「このキノコを食べていいですか?」と尋ねると、
「食べてはいけない」と全員が答えます。
つまり、「このキノコは食べてはいけない」という考えが、共同体全員に共有されているとしましょう。
「どうしてですか?」と尋ねると、「それは毒キノコで、食べると食中毒を起こすから」と答えます。
「食べれば食中毒になるから食べてはいけない」
というのは、次のように言い換えられる。
「食中毒にならないためにはこのキノコを食べてはいけない」
しかし、そうすると、もし食中毒になってもかまわないのなら、キノコを食べても構わないということになります。
だから、前提の隠れた意味を明示して表現すれば、要するに、
「食中毒になりたくないなら食べてはいけない」
という意味です。
したがって、この「食べてはいけない」は、明らかに道徳規範の「いけない」ではなく、「いけない」は、仮言命法的・非道徳的なのです。
それゆえ、毒に対して強力な免疫があって全然平気な人とか、食中毒になってもかまわない人であれば、「食べてはいけない」は適用外ということになります。

ここから得なければいけない教訓は、「いけない」の共有はそのまま社会的道徳規範としての当為の「すべからず(いけない)」ではないということです。
この類比モデルを念頭に置いてください。

ある共同体の成員が全員「人の嫌がることをするのは悪だ」と思っている(個人的道徳観の共有)とします。
ですから、この共同体では誰も人の嫌がることをしません。
この共同体の成員に、「人の嫌がることをしてもいいですか?」と尋ねると、
「いけません」
と答えます。
「なぜですか?」と尋ねると、
「人の嫌がることをするのは悪いことだからです」
「なぜ悪いことなんですか?」
「人が嫌がることをすると、罪悪感を感じます。良心が痛むと言ってもいいです。だからそれは悪いことなんです」
「ということは、良心が痛むから、人の嫌がることをしてはいけないということですか?」
「そうです。」
「じゃ、その理屈は、毒キノコ食べたら食中毒になるから食べてはいけないというのと同じですよね。
そのキノコを食べたら食中毒になるあなた方にとっては毒(忌避すべきもの)かもしれませんが、私、何を食べても食中毒を起こしませんから、私にとっては何ら毒キノコではなく、だからあなた方にとっての毒キノコでも、私は食べていいんですよ。
同様に、人の嫌がることをしたら罪悪感を感じるあなた方にはそれは悪いこと(忌避すべきこと)かもしれませんが、私はこれっぽっちも罪悪感を感じないので、人の嫌がることは私にとっては何ら悪くないことですし、だからしてもいいですね。」

この理屈わかりますか?
【理屈:毒キノコ論法】
食べたら食中毒になるから食べてはいけない
⇒食べても食中毒にならないなら食べてもいい

人の嫌がることをしたら良心が痛むからしてはいけない
⇒人の嫌がることをしても良心が痛まないならしてもいい

食べたらおなかを下すから毒である
⇒食べてもおなかを下さないなら毒ではない

人の嫌がることをしたら罪悪感を感じるから悪である
⇒人の嫌がることをしても罪悪感を感じないなら悪ではない

理屈としては同じでしょう?
何でこういうことになるかと言うと、ほかの全員が同じ考えを共有していようと、共有しない人に対しては、本質的にこれは個人の考えの押しつけなんですよ。
だから、おまえも罪悪感を抱くべきだとは言えないのです。
それはおまえも食中毒になるべきだ、という押しつけとかわらないんです。

例えば、食べると下痢するくせに激辛が大好きな人(私の友人)もいるように、毒キノコの引き起こすしびれ感とかが好みの人がいてもおかしくはありません(いや、おかしいですけど、悪くないってことね(笑))。
そして、人の苦しみに快感を抱く人は事実存在します。
個人的道徳観から導ける「してはいけない」は、毒キノコの場合と同じように仮言命法的なものでしかないので、その道徳観を共有せずこういった前件の「ならば」を受け入れない人には、結論の「いけない」も受け入れなけらばならないということは成り立たないのです。
したがって、個人的道徳観の「いけない」の共有にとどまっている限り、それを共有しない人に対して、「あんたアカンやろ」とは言えない、ということです。

それゆえ、ポイントは、「いけない」の共有は、それがたんなる個人道徳観の共有である限り、未だ「規範」ではない、ということなのです。
必要なのは、それが共同体成員全員の従うべきルールとして承認され、共有されることなのです。それが規範の成立です。
一般に、規範の成立は、単に同じ道徳観の共有とは、いわば次元が根本的に異なるのです。
「論理的に」と言ってもいいと思います。
P:毒キノコを食べること
で考えてみれば次が明らかでしょう。

共同体成員が「Pはいけない」という考えを共有しているならば、その新参者である共同体成員も「Pはいけない」を受け入れなければならない。
これはこれまで述べてきたとおり、論理的に成り立ちません。しかし、
共同体において「Pはいけない」が共同体成員一般の規範(掟)であるなら、新参者である共同体成員も「Pはいけない」を受け入れなければならない。
は論理的に成り立ちます。
この後者の場合、毒に免疫があろうと関係なく、共同体成員が従わねばならない規範なのですから、食べることは規範に背くこと、すなわち悪ゆえに、従わねばならないのです。
しかし、前者、単に共有されているだけなら、それは規範違反になりません。
その場合は単に仮言命法的であり「ならば〜」にすぎませんから、その条件を充たさないなら結論を受け入れる必要もないのです。つまり、中毒になっても構わない、刑罰を受けても構わない、人が嫌がっても構わ(悪いと思わ)ない…etc.ような人はね。

したがって、それが共同体に承認され共有された規範である限りにおいて、
定言命法的(原則として)であり、「してはいけない」は当為の「するべからず」となりうるわけです。
だから、「人の嫌がることをしちゃいけないのはなぜ?」という問いについては、サッカーで「ボールを手でさわっちゃなぜだめなの?」という問いと同じく、それが我々のルールだから(そして君はサッカー選手だから)、と返すのが正しいのです。
それゆえ、これはダメだからダメという、同語反復的な答えにすぎません。
ここでもし同語反復的ではない「〜だから」という有意味な理由を与えることは、逆に仮言命法化してしまい、毒キノコ論法の罠にかかってしまうのです。
我々の共同体では、人の嫌がることをするのはルールとしてダメだって承認され、共有されている。
いわば「汝、人の欲せざることをなすべからず」がまさに掟なのだ。
それゆえ、人の嫌がることをするのはこの規範に背くことだから悪なのだ。
もちろん、良心が痛むこと、罪悪感を抱くことが共有されていることは、この「汝、人の欲せざることをなすべからず」という規範が承認され、共同体の掟となるその理由ではありますが、これは、「人の嫌がることをしてはいけない」ことの理由ではないのです。

なぜ人の嫌がることをしてはいけないのか?の答えはそれが道徳規範(掟)だから。
なぜそれが掟であるかという答えは、みんながそのような個人道徳観を共有していて、成員の共存共栄が可能となる秩序ある共同体存立のために必要であるがゆえに、それが成員の従うべき道徳規範(ルール)として承認・共有されているから。
(ちなみに、道徳法則がなぜ規範として承認されるかということの理由は、それがどんなものであるかによって様々ありえます。「人を殺すなかれ」という原則は、掟でなくてはならない根本規範です。)

【ポイント】
 共同体の全員が「してはいけない」と思っていることだからといって、その共同体の新参者も「してはいけない」が成り立つとは言えない。(毒キノコ)
しかし、
 共同体全員が、「してはいけない」を成員すべてが従うべき共同体規範(ルール)として承認・共有していることならば、その共同体の新参者も「してはいけない」、が成り立つ。(註:もちろん現実には「全員」ではなく、「一般に」で十分)

1年前 No.405

ちょっと、まってよ ★t8alAtLKeE_yoD

なんか、法的規範って感じがする。内的なものではないから。ふくろうちゃん定義の社会的道徳規範とはベツモンだよね。

1年前 No.406

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>405
私の考え方にすごく近くて、違和感を感じない。
向こうのスレでは、何に対してすれ違っていたのだろうか? 不思議に思う。
(おそらく、私の言葉が短くて不正確なので、うまく伝わっていなかったのだろうけど。)

1年前 No.407

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>406  ちょっと、まってよさんへ

>なんか、法的規範って感じがする。内的なものではないから。ふくろうちゃん定義の社会的道徳規範とはベツモンだよね。


 この点は”ちょっと、まってよ”さんに100%同感です。


>>405  ザビビのふくろうさんへ

>【ポイント】

> 共同体の全員が「してはいけない」と思っていることだからといって、その共同体の新参者も「してはいけない」が成り立つとは言えない。(毒キノコ)


 つまり、個人個人がB個人の道徳観で、「してはいけない」または「してもよい」と考え、たとえ「してはいけない」の方が多数派だったとしても、それをみんなで承認していなければBに留まり、A社会的道徳規範にはなれないし、新参者に「してはいけない」を強要することもできない、ということです。

>しかし、

> 共同体全員が、「してはいけない」を成員すべてが従うべき共同体規範(ルール)として承認・共有していることならば、その共同体の新参者も「してはいけない」、が成り立つ。(註:もちろん現実には「全員」ではなく、「一般に」で十分)


 「承認・共有」の典型的な方法こそが、法律として定めるということです。政治家が法案を明文化して提案し、議会で多数決を取って可決する、つまり@法的社会規範として定められた時に初めて、「してはならない」がBからAに変わるのです。

1年前 No.408

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Gxb

>>408

>「承認・共有」の典型的な方法こそが、法律として定めるということです。政治家が法案を明文化して提案し、議会で多数決を取って可決する、つまり@法的社会規範として定められた時に初めて、「してはならない」がBからAに変わるのです。


逆だと思います。
社会集団の中で 明文化しなくても承認・共有できているような明らかなものがAで、
社会集団の中で意見が分かれており、政治的な手続きを取らなければ正当と認められないようなものが@になるのです。

Aの典型が「殺人はいけない」など、
@の典型が「テロ等準備罪」などです。

法律ができる前は「殺人はいけない」はB(個人の価値観)に過ぎなかったが、法律ができて 初めてそれがA(道徳規範)になった というのは、明らかな間違いです。
(“殺人に対する禁忌”が発生したのは、“法律”という概念が誕生する前だと思います。)

一方、「『テロ等準備罪』に該当する行為」が(法的な)罪となるのは、法律が施行されてから以降です。
もちろん、法施行後ただちにそれがA(道徳規範)に格上げするものでもありません。


こういう例でわかるかしら?
・40km/h制限の道路を41km/hで走行することは、法的には悪であるが、道徳的には悪ではない。
@(法律)が定められてもA(道徳規範)に格上げされない典型例。

1年前 No.409

ザビビのふくろう @owlman ★Android=cdZmIVbAmb

M1:「人に迷惑をかけてはいけない」
という道徳律は、日本人が最も大切にしているモラルと言っても過言ではないだろう。
しかし、これが欧米を初め、諸外国ではあまり重んじられていないとはよく聞く話だ。
少なくともこの道徳原則が日本で道徳規範として承認されていることは、日本の道徳的秩序を形成する上できわめて大きな役割を担っている。

我々は、前提のこの道徳原則M 1と、
P は迷惑行為である
という事実から、
P をしてはいけない
を論理的に導く。
P としては例えば
「タバコのポイ捨て」
「歩きタバコ」
「狭い歩道の真ん中での立ち話」

こんな実例は無限にあり得、通常の道徳的判断力がある者なら、法として明文化されずとも分かる。
こういった判断のできる人間がモラルのある人物であり、いちいち法律を持ち出さないと分からん者は道徳的判断力がないのだ。

最近この道徳律M 1の適用例で、海外から変に思われているモラルがマスクの着用だ。
現在では、咳をしたりくしゃみをすると、ものすごいウィルスを周囲に飛散させるという認識が共有され、きわめて迷惑をかけることだとされている。
だから、ウィルスの飛散を少しでも抑える為に、咳やくしゃみの出る人は、マスクの着用が義務(マナー)だという認識が広まったと考えられる。
ある職場では、くしゃみをしたとたん「マスクしてください。迷惑です」と即座に言われるし、満員電車でマスクをせず明らかに風邪っぽい咳やくしゃみをしている人は、周りからマナーのない人だと嫌な目で見られることも珍しくない。

こういった話は、本来広義のモラルの話であって法律の話じゃない。
ましてや、個人的道徳観の押しつけでもない。
ここにあるのは日本社会で承認共有されているM 1という道徳原則(道徳的社会規範)と、迷惑行為という事実だけなのだから。

タバコのポイ捨てを肯定する人は、異なる個人的道徳観の持ち主なんかじゃなく、タバコのポイ捨てが迷惑行為だと認めない自分勝手な人間であるに過ぎないか、M 1という日本社会の道徳的規範に従う気のない、日本人としてのモラルが欠如した人間である。

1年前 No.410

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

社会(共同体)と個人というのは、全体と部分という相対的概念とは異なる。
例えば鯨肉食という慣習は日本という社会では歴史的にモラルとして許されてきた。
この慣習が国際的法規範として認められなかったとしても、これが個人的道徳観であることにはならない。
このことは肉食忌避の菜食主義が、日本社会では個人的道徳観にとどまっているのとは全く別の話だ。こちらはそれなりの数の人が共有しているとしても、共同体規範として承認共有されているわけではないからだ。

宗教の争いを個人的道徳観の押しつけと見なすのも、全くの誤り。
宗教規範は共同体規範であって個人的道徳観ではない。

とにかく、法規範と道徳的社会規範(モラル)と個人的道徳観の区別をきちんと理解するのが前提。
でないとお話にならない。
法として明文化されることは、モラルとしての成立とは論理的に独立であって、必要条件でも十分条件でもない。当たり前の話なんだけどな。

1年前 No.411

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

私の見解を、ごく簡単にまとめておく。

http://mb2.jp/_tetsugaku/1017.html-259#a
http://mb2.jp/_tetsugaku/1017.html-328#a

私の分類は、上記辞書等の記述を参照して行ったもの。

@法的規範
A道徳的社会規範(モラル)
B個人的道徳観

@とAの共通点は、共に共同体規範であること。
違いは、法的規範の「しなければいけない」「してはいけない」は仮言命法的必然性で、モラルの必然性は定言命法的必然性(当為)であること。

AとBの共通点は、個人の行為に対する内面的規制原理として道徳心に働きかけること。だから道徳心のない人間はモラルを非道徳化(仮言化)し外的強制としてのみ受けとる(モラル違反をしてアカンやろと言われても罪悪感を抱かない)。
違いは、モラルが共同体構成員の従うべき共同体規範(ルール)として承認共有されているが、個人的道徳観はそうではないこと。

よって、道徳的社会規範は法的規範にも個人的道徳観にも還元できない。

1年前 No.412

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

@法的規範
A道徳的社会規範(モラル)
B個人的道徳観

 「@の支えを離れたA」は、極めて大雑把で単純な内容しか持てないのだと思われます。たとえば「殺すべからず」や「盗むべからず」は、「「原則」として」という条件付きだったら、殆どの人々が適切な道徳であるとして認めるでしょう。しかし、現実には「例外」も有ります。ふくろうくんが数万人の市民の命を救うため、テロリストたちの破壊装置の部品を無断で持ち出した行為は「善」か?、それともやはり盗みだから「悪」か? こういう「例外」的でちょっと複雑な話になると、「@の支えを離れたA」だけに頼って答えようとしても、早くも人々の間では意見が分かれ、その時点でそれはAではなくBになってしまいます。ばらばらに分かれた意見のうち、どれが正しいかを判断するためには@が必要であり、@に一致している方がA、@に一致していない方がBだと判断できます。

1年前 No.413

鬼灯 @halloworld ★AoI4IW4ksd_Gxb

短い独り言。
とりあえず、さしあたっての目標として「体に引きずり下ろしてみよう」と思う。
前にここで言われた「ガキっぽい」というのを克服する為にも。

1年前 No.414

シーレーン ★rq1LeierE2_v2j

ザビビのふくろう様

道徳というものは
・そうすることは当然の事(例 体の不自由な人が何かに苦心しているようだったら手助けする
・そうしないのは当然の事(例 ゴミを公共の場に捨てない

と各自が自覚してみにつけるものであり、決して規制することで、罰を与えることで成り立つものであるべきではないのだと思いました。
そしてそれは当たり前の事でした。

1年前 No.415

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>412  ザビビのふくろうさんへ

>@法的規範

>A道徳的社会規範(モラル)

>B個人的道徳観

>@とAの共通点は、共に共同体規範であること。

>違いは、法的規範の「しなければいけない」「してはいけない」は仮言命法的必然性で、モラルの必然性は定言命法的必然性(当為)であること。


 Aの具体例として考えられる「殺すべからず」も「盗むべからず」も、「原則」的には言えると思いますが、必ず「例外」が有ると思われます。「例外」が有るということは、これらもまた条件付きで言える仮言命法に過ぎず、定言命法で主張できる道徳など存在しない事を意味するのではないでしょうか?

 「殺すべからず」も「盗むべからず」も、それを守った時のメリット(プラス)とデメリット(マイナス)が有り、その合計がプラスであれば肯定すべきであり、その合計がマイナスであれば否定すべきです。こういう条件付きで判断しているのですから、Aとしての「殺すべからず」も「盗むべからず」も、定言命法ではなく仮言命法の方だというのが、SumioBabaの結論です。

 だからといって、@さえ有ればAは不要、という意味ではありません。ふくろうくんは、「盗みをして数万人の命を救う」と「盗みをせず数万人を死なせてしまう」のどちらにも、メリットとデメリットが有ることを理解していました。その上で、総合的には「盗みをして数万人の命を救う」の方が合計はプラス、「盗みをせず数万人を死なせてしまう」の方が合計はマイナスであると判断しました。これは@の判断(どちらを選んだ方が罰せられずにすむか?)ではなく、Aにおいての判断(どちらを選んだ方が社会のためになるか?)です。これはこれで良いのではないでしょうか。

 ただしこういう行為には、法的に無罪か有罪かも絡んできます。ふくろうくんが無罪になれば、ふくろうくんの判断はAとして正しかったことを、@が支持してくれたことになります。逆にふくろうくんが有罪になれば、ふくろうくんの判断はAとしての正しい判断ではなく、Bによる独断だったと見なされたのでしょう。

1年前 No.416

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>415

>シーレーンさん

>道徳というものは(中略)各自が自覚してみにつけるものであり、決して規制することで、罰を与えることで成り立つものであるべきではないのだと思いました。


そうですね。
私の言い方をすると少しずれてしまうかもしれませんが、
道徳的判断というのは、あくまで自分が社会の一員としての自覚に基づいて、
してよいことと悪いことについて主体的に判断を下すことであって、規制とすればあくまで自制としての内面的なものであって、罰を受けるとか非難されるとか、そういった外的強制によってなすものではない、ということと言ってよいのではないでしょうか。

http://mb2.jp/_tetsugaku/1017.html-456#a

の引用で述べられていることですが、
国と国という相異なるモラルをもった共同体同士が交流し、新たなる社会・共同体を構成するには新たな規範が必要となるでしょう。
その際、当然異なるモラルがぶつかり合うことはあるでしょうし、いかなるルールを相互承認し、共有していくかということは、慎重に決めていかねばならないことで、押しつけであってはならないでしょう。
しかし、その第一原則は、やはり「郷に入っては郷に従え」というルールではないでしょうか。
異なる共同体・社会同士の交流で必要なのは当然相互に相手方に対する尊重であり、それは相手方の文化の尊重でしょう。

留学生を多く受け入れている日本の大学での実話(聞いた話)ですが、寮にある外国人留学生と日本人学生の二人部屋だったところ、その外国人留学生が、日本人学生の持ちものを盗ってしまうということがあったそうです。
犯人はその留学生しかありえないので、盗ったでしょうと言うと、全く悪びれることなく「拾ったから自分のものだ」と言うわけです(笑)
で、自分の国では、金持ちは貧乏人に対して物を与える義務があるし、貧乏人はもらう権利がある、おまえはどうせ親にまた買ってもらえるだろうから、自分はもらう権利がある、と主張するらしいんですね。
とにかく、留学生を受け入れる大学側は、そういったモラルの違いからくる様々な問題ですごく苦労するそうです。
日本人はスニーカーとか洗ったものを、よく玄関先に干したりしますよね。
留学生の寮ができたとたん、近所の家のそういったものがなくなっちゃうんですって(笑)
で、「あれは捨ててあるんじゃない」と教える必要があると。
で、何よりほとんど世界中の留学生にない慣習が「時間厳守」というものなんですね。
これ、短期留学生の引率で来ているアメリカの超一流大学の教授も全く守れないそうです(笑)
幼稚園児並みだって。

こういったマナー、慣習を含めた広義のモラルって、日本人なら高校卒業する前にたいていは身に着くものだと思いますが、こういったモラルの日本社会に果たしている役割は本当に大きいと思います。
このような日本のモラルと、他の諸外国のモラルを比べて、一概にどちらが正しいなどと決めつけることはできませんし、国際的規範を形成するには例えば国力にものを言わせて押しつけることもよくないでしょう。
ですが、やはり、さっきも書きましたが、さしあたり原則として「訪問先の相手文化を尊重しろ」「郷に入っては郷に従え」は重要ではないですかね。国際道徳規範の原則的なものとしてはね。
政治的問題としての難民問題に関しては、私は語る資格を有しませんが、このような問題が難しい問題になるのでしょうね。

前にも書いたことがありますが、私は我々が「人として従うべき道」として考える「人倫」としての道徳は、日本という共同体道徳を超えて、「人類共同体」を想定して考えられているものだと思います。
単に日本人としてではなく、「人として私は何をなすべきか?」という意味での道徳規範ですね。
まだうまく言えないんですが、これは現実的には承認され共有されている共同体規範として未だ成り立ってはいないものの、理念としては普遍的道徳的共同体規範であって、単なる個人的道徳観とは異なると思います。
それはやはり我々人間が目指すべきものでもあるだろうし、こういったものをルールとして承認・共有して、それに従って自己の道徳的判断を行っている人たちもいますよね。
例えば杉原千畝などは、きっとそういう人であったのだと思います。
日本の外交官としては正しい行為だとは言えなかったのかもしれませんが、人として彼は立派であったと誰もが思うでしょうから。
そして、言うまでもなく、こういった道徳的判断の正しさは、日本の法的判断に拠りませんよね。

1年前 No.417

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>413,416

>SumioBabaさん


http://mb2.jp/_tetsugaku/1017.html-245#a

において、私は道徳的人間と非道徳的人間とを区別しましたが、
最も直観的に説明すれば、この二人が従っている規範が定言命法的規範と仮言命法的規範です。

私は道徳法則について例外を認めますので、その点でカントの定言命法とは異なります。
しかし、道徳原則を何等かの事実達成のための手段とする考え、
つまり、道徳法則を仮言命法的なものとみなす考えは間違っていると考えます。
それらの「べき」は明らかに論理的に異なる概念であるからです。

「人命は尊ぶべき」の「べき」は、何等かの手段としての必然性ではありません。
黄金律も、「人に迷惑をかけてはいけない」も、「嘘をついてはいけない」も「卑怯なふるまいはいけない」も「いじめはいけない」も、
こういった道徳的当為は、それら同士の論理的関係はあるにせよ、根本は公理のように「端的にいけない」のであって、
毒キノコ論法が適用されるような、手段としての「いけない」とは根本的に異なるのです。

(1) 「毒キノコを食べちゃいけないよ」
  「食べたらどうなるの?」
  「そりゃ、中毒を起こしてえらい目に合うよ」
  「じゃあ、中毒を起こさないなら、毒キノコを食べてもいいんだね」
⇒ 「それだったら別にいいよ」

(2) 「人に迷惑をかけてはいけないよ」
   「人に迷惑をかけたらどうなるの?」
   「そりゃ、非難されるだろうね」
  「じゃあ、非難されないなら人に迷惑をかけてもいいんだね」
⇒ 「いや、そういうことじゃないよ。」


上の(1)と(2)の場合は根本的に異なります。
(1)の「毒キノコを食べてはいけない」のは、「食べたら中毒を起こすから」です。
だから、「中毒を起こさないなら、食べてもいい」ということになります。
これが仮言命法的、手段としての「いけない」です。
しかし、
(2)の場合は、「人に迷惑をかけてはいけない」のは、「迷惑をかけたら非難されるから」ではないのです。
「人に迷惑をかけることは、端的に、道徳的に悪いこと」だから「いけない」のです。
道徳的悪をなすから非難されるのであって、非難されるから道徳的悪ではないのです。
これが「人に迷惑をかけてはいけない」が定言命法的であることの意味です。


法的判断が下せるのは、あくまで行為が法的に有罪か無罪かであって、道徳的に罪を負うか否かではありません。
むしろ逆で、法的判断は、道徳的判断に一致するのが望ましいでしょう。

ふくろうくんの例に戻って少し設定を換え、テロリストが兵器を隠していた家は全く関係のない長期留守の家で、その家の住人は外国旅行に行っていて、全くこの犯罪計画に関係なかったとしましょう。
あとは、ふくろうくんはそのことには気づかず、最初の設定どおり兵器の部品を盗み出したとします。
ところが、家の主人が帰ってきたところ、家の裏の門の鍵は壊されているし、ドアも壊されている、ということで、ふくろうくんを訴えたとします(鍵も門、ドアも窓硝子もアンティークもので高価なものだったとしましょう)。
要は、家の主人にしたら、ふくろうくんの特殊事情(見かけが怪しいとか)など与り知らぬことで、警察にすぐ通報して、所定の手続きで捕まえたらこんなことにはならなかった、素人が何をでしゃばってこちらにまで迷惑かけているんだ(怒)、という感じですね。
で、裁判になって調べたら、ふくろうくんはあわてていて気付かなかったにせよ鍵を壊さなくても入る方法はすぐ見つかったし、結果、裁判でふくろうくんは不法侵入・器物損壊ということで有罪になってしまったとします。
晴れてふくろうくん、犯罪者(criminal)になったわけです。
では、道徳的罪も負うことになるのでしょうか?
私はそうは思いませんね。
彼は、人命尊重、被害を出さないために、そのとき自分が最善と思われる行動をとったし、それは社会の成員としての自分の義務であったと、すなわち、自分は社会道徳を遵守したと絶対確信していることに変わりないとすれば、彼はけしてsinnerではないでしょう。
彼の道徳的判断の正しい、間違いは、裁判なんぞで決められるものではない、ということです。
彼は自分のその道徳的判断に従って行動し、そうやって多くの人命を救って善い結果も出した。
何を道徳的に責めを負うことがあるでしょうか?
彼が法的に有罪となったとしたら、法的判断が間違っているのです。

ところでSumioBabaさん、
私はあなたの立場に対して批判していますが、あなたはその論点に反論されるのではなく、
ご自分の考えが理解されていないと考えて、同じことを繰りかえされています。
ですから私としては同じことを言うしかなく、結果、水掛け論にしかならないと思うんですよ。
私としては、今回簡単に自分の考えをここでまとめましたし、
あなたも十分にあなたのお考えを述べられたと思いますので、
このへんにしませんか?
もし、言い残したことがおありなら、もちろん心残りなくおっしゃってくださって構いませんが(笑)

1年前 No.418

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>418  ザビビのふくろうさんへ

>私としては、今回簡単に自分の考えをここでまとめましたし、

>あなたも十分にあなたのお考えを述べられたと思いますので、

>このへんにしませんか?

>もし、言い残したことがおありなら、もちろん心残りなくおっしゃってくださって構いませんが(笑)


 では、もう少しだけ。

>私は道徳法則について例外を認めますので、その点でカントの定言命法とは異なります。

>しかし、道徳原則を何等かの事実達成のための手段とする考え、

>つまり、道徳法則を仮言命法的なものとみなす考えは間違っていると考えます。


 正しいか間違いかということではなく、道徳法則を定言命法として主張するよりも、仮言命法として主張した方がはるかに実用的で豊かな内容になると思われます。それを説明します。

>黄金律も、「人に迷惑をかけてはいけない」も、「嘘をついてはいけない」も「卑怯なふるまいはいけない」も「いじめはいけない」も、こういった道徳的当為は、それら同士の論理的関係はあるにせよ、根本は公理のように「端的にいけない」のであって、毒キノコ論法が適用されるような、手段としての「いけない」とは根本的に異なるのです。


 これが、ザビビのふくろうさんの仰る定言命法としての道徳法則ですね。「「盗み」は端的にいけない」です。でもそれだと、ふくろうくんのように「盗みをして数万人の命を救う」か「盗みをせず数万人を死なせてしまう」か二者択一を迫られている人に、正しい答をもたらせるでしょうか? 「「盗み」は端的にいけない」のであれば、ふくろうくん、「盗みをせず数万人を死なせてしまう」を選ぶのではないでしょうか?
 SumioBabaは道徳法則を仮言命法として捉えます。「盗むべからず」も「殺すべからず」も、社会を平和に保ち、人々がより幸福になれるための手段だと見なします。「盗むべからず」もあくまで手段に過ぎませんから、「盗むべからず」を守った場合と守らない場合とで、守らない方がメリットが大きいと判断できる例外的な場合には、守らないを選ぶことができます。そしてふくろうくんは、この場合の正解である「盗みをして数万人の命を救う」の方を選べることになります。
 道徳法則を定言命法として捉えた場合よりも仮言命法として捉えた方が、より実用的で的確な判断を下せると思うのですが、いかがでしょう?

>(1) 「毒キノコを食べちゃいけないよ」

>  「食べたらどうなるの?」

>  「そりゃ、中毒を起こしてえらい目に合うよ」

>  「じゃあ、中毒を起こさないなら、毒キノコを食べてもいいんだね」

>⇒ 「それだったら別にいいよ」


>(2) 「人に迷惑をかけてはいけないよ」

>  「人に迷惑をかけたらどうなるの?」

>   「そりゃ、非難されるだろうね」

>  「じゃあ、非難されないなら人に迷惑をかけてもいいんだね」

>⇒ 「いや、そういうことじゃないよ。」


>上の(1)と(2)の場合は根本的に異なります。

>(1)の「毒キノコを食べてはいけない」のは、「食べたら中毒を起こすから」です。

>だから、「中毒を起こさないなら、食べてもいい」ということになります。

>これが仮言命法的、手段としての「いけない」です。

>しかし、

>(2)の場合は、「人に迷惑をかけてはいけない」のは、「迷惑をかけたら非難されるから」ではないのです。

>「人に迷惑をかけることは、端的に、道徳的に悪いこと」だから「いけない」のです。

>道徳的悪をなすから非難されるのであって、非難されるから道徳的悪ではないのです。

>これが「人に迷惑をかけてはいけない」が定言命法的であることの意味です。


 (1)の場合、「毒キノコを食べちゃいけない」はトートロジーではないのでしょう。だから真にも偽にも成り得ます。一方(2)の方は、「人に迷惑をかけてはいけない」がトートロジー扱いなのだと思われます。つまり、「迷惑」という言葉の定義の中に、すでに「いけない」が含まれているのだという論点先取により、「迷惑」という言葉を分析するだけで必然的に「いけない」が出て来て「分析的に真」という解釈です。つまり、「人に迷惑をかけてはいけない」は実質的に「いけないことはいけない」というトートロジーだと主張している訳です。
 要するに、道徳法則を定言命法だとして定めようとすると、トートロジーになってしまうということです。確かにトートロジー化してしまえば絶対に正しいとは言えるでしょうが、そうすると定言命法による道徳法則のすべてが、「いけないことはいけない」「悪いことは悪い」「他人に施すべきでないことは他人に施すべきでない」といった、中身の何も無い無意味なものになってしまいます。これでは何も情報を与えてくれません。
 実際はそうでないと思われます。「「殺し」はいけない」や「「盗み」はいけない」は、十分に意味が有る道徳内容だと思いますから、トートロジーだと見なすべきではありません。実際、例外も有り得るということは「殺し」や「盗み」という言葉の定義に「いけない」は直接含まれてはいないということです。
 つまり、道徳法則が意味を持つためには、まずそれがトートロジーではないことが絶対条件であり、それにも拘らず「原則」として多くの場合に成立する、という有益な情報を与えてくれることが必要です。そして、トートロジーでないがゆえに、必ず「例外」も生じることになります。このような道徳法則の定式ができるのは、道徳法則を定言命法ではなく仮言命法として扱う場合だけです。やはり、定言命法よりも仮言命法として道徳法則を定める方が適切だと思いますが、いかがでしょうか?

>彼の道徳的判断の正しい、間違いは、裁判なんぞで決められるものではない、ということです。

>彼は自分のその道徳的判断に従って行動し、そうやって多くの人命を救って善い結果も出した。

>何を道徳的に責めを負うことがあるでしょうか?

>彼が法的に有罪となったとしたら、法的判断が間違っているのです。


 そういう意見を持つのはその人の自由ですが、法律の専門家である裁判官たちが法律@で「有罪」と判断し、ふくろうくんが本人が「無罪」だと主張しても、法律@に基づく裁判官たちの判断こそが正しいA社会的道徳規範に基づく判断だと見なされ、ふくろうくんの反論はB個人的道徳観によるもので間違っていると見なされるだろう、ということです。

>私はあなたの立場に対して批判していますが、あなたはその論点に反論されるのではなく、ご自分の考えが理解されていないと考えて、同じことを繰りかえされています。ですから私としては同じことを言うしかなく、結果、水掛け論にしかならないと思うんですよ。


 SumioBabaは「@さえ有ればAは要らない」と主張している訳ではないのに、まるでそう主張しているかのようにザビビのふくろうさんが誤解されている点だけは理解しましたので、「そうではない」という説明だけはしました。それ以外には、何を根拠に自分が何を批判されているのかが理解できていないので、反論のしようが有りません。

1年前 No.419

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

>>419
馬場さん

社会規範に対する馬場さんのその認識は優れているといえるでしょうが、
あなた、「道徳」の意味理解してます?

>>415 でシーレーンさんが
>各自が自覚してみにつける
といいましたが、各自の自覚に依存するのは、道徳が妄想、つまりファンタジーだからです。
妄想もファンタジーも、それが自覚されない限り存在しないものですからね。

道徳はこのように文学(literature)的表現であって、法とは本来関係ありませんよ。
今の法学は3000年ほど遅れているので、法学で道徳という表現が多用されているだけで、
これらは現実と乖離したこじつけ、つまりファンタジーにすぎません。
「道徳的に正しいからこのような法を定めた」は、「占いで正しいと出たからこのような法を定めた」と大差ないです。

馬場さんはなかなか鋭いので、正しい知識をよく勉強して身につけたほうがよいと思います。

1年前 No.420

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_OzI

原始人Aが原始人Bを特に理由もなく棍棒で撲殺したとする。
これは、原始人Aに道徳がなかったからだと今の人はいうが、それは間違っている。
撲殺したことに対して「道徳がない」という表現をとっているだけであって、道徳がないから撲殺したのではない。
だって、「特に理由もない」のだから。
このような「道徳」は文学的表現、ファンタジーである。
これが馬場さんのいうトートロジーであろう。
つまり、「表現」しただけ。

しかし、これを踏まえると、司法判断が道徳的に正しいという馬場さんの主張は誤っている。
なぜならば、道徳的に正しいことは「道徳的に正しい」と表現されなければならないからだ。
ある司法判断を見て、それに道徳という表現を持ち出す人がいてはじめてそれが道徳的に正しいか判断されるのであって、
司法判断が道徳的に正しいというだけでは、それこそトートロジーである。

馬場さん、この点はいかがかな?

1年前 No.421

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>ザビビのふくろうさんへ


 ザビビのふくろうさんの場合、定言命法と仮言命法の区別が、wikiに書いてある説明から大きく逸脱しているように思います。まず、ザビビのふくろうさんの説明から。

>  http://mb2.jp/_tetsugaku/1017.html-245#a

>において、私は道徳的人間と非道徳的人間とを区別しましたが、

>最も直観的に説明すれば、この二人が従っている規範が定言命法的規範と仮言命法的規範です。( >>418 、ザビビのふくろうさんの発言)

   (以下は、 >>245 におけるザビビのふくろうさんの説明)
>甲・乙二人の人物がおり、二人とも同じ犯罪を犯して捕まったとします。これは犯罪であるだけでなく、道徳的にも明らかに罪を負うとみなされるような行為であったとします。甲と乙はそれぞれ別の意味で後悔しました。

>甲:ああ、なんて俺はバカなことをしてしまったんだ。人としてやってはならぬことをやってしまった。追い詰められていたとは言え、けして許されないことだ。捕まったことはむしろ良かった。罪を十分に償い、出所したらこのようなことを繰り返さず、もう二度とここには来ないぞ。

>乙:ああ、なんて俺はバカなことをしてしまったんだ。プロの泥棒としてやってはならないミスをするなんて。まあ、こんなへまをやったんだ、捕まったのは仕方ない。これを教訓に二度と同じへまはせず、今度でたらもっとうまくやって、二度とここへは戻らないぞ。

>甲の後悔は罪悪感(良心)に基づいていると考えられ、こういう人を「道徳的人間」と仮に呼びます。乙の後悔は罪悪感(良心)に基づいていないと考えられ、こういう人を「非道徳的人間」と呼ぶことにします。


 つまり、ザビビのふくろうさんの場合、「道徳法則を定言命法として理解する人」=「道徳的人間」、「道徳法則を仮言命法として理解する人」=「非道徳的人間」、という区別になっているようです。

 一方、wikiによる「定言命法」と「仮言命法」は全く違っていて、両者の区別はこうです。

>定言命法(ていげんめいほう、独: kategorischer Imperativ)とは、カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に「〜せよ」と命じる絶対的命法である。定言的命令(ていげんてきめいれい)とも言う。『人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) において提出され、『実践理性批判』において理論的な位置づけが若干修正された。


>仮言命法(かげんめいほう、独: Hypothetischer Imperativ)とは条件付きで提示される命令の形式である。これはある目的を達成させるという仮定が存在している上で、その目的を達成させることを望む者に対して行われるような命令のことである。例えば「もし長生きを欲するならば,健康に気をつけよ」などという形に、長生きを欲するという目的を仮定した上で、その目的を達成することを望む者に対して、健康に気をつけることを命令するといった形式である。このような目的を仮定せずとも、無条件に成り立たせられるような命令の方法は定言命法と言う。


 このwikiの説明においては、「道徳法則を定言命法として理解する人」=「道徳的人間」、「道徳法則を仮言命法として理解する人」=「非道徳的人間」、という区別にはなっていません。明らかに、ザビビのふくろうさんの説明とは異なります。

 で、SumioBabaは道徳法則を、wikiでいうところの「定言命法」ではなく「仮言命法」として捉えます。そしてそれは、SumioBabaが「非道徳的人間」であることを意味しないと思います。ふくろうくんの場合、もし定言命法に従うと、無条件に「盗むべからず」ですから、「盗みをして数万人の命を救う」を選べなくなります。仮言命法に従えば、「盗むべからず」はあくまで、社会を平和に保ち、人々がより幸福になるための手段に過ぎないのですから、例外的にメリットよりもデメリットの方が大きい場合には、従わなくて良いのです。それゆえ、この場合の正解である「盗みをして数万人の命を救う」の方を選ぶことが可能になります。
 しかもこの判断の場合、「どちらを選んだ方が罰せられずにすむか?」と考えたのではなく、「どちらを選んだ方が社会のためになるか?」と考えた訳ですから、ふくろうくんの考えは、そしてそれを支持しているSumioBabaの考えは、明らかに「道徳的人間」の方であり、「非道徳的人間」の方ではないと思われます。

1年前 No.422

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

>>419,422
SumioBabaさん

私が「定言命法的」というとき、もちろんカントと全く同じ立場を意図しているのではありません。
カントの定言命法は、例えばいついかなるときも例外なく嘘をいけないこととする普遍主義ですし、その根拠を実践理性に置きますから、主観においているわけです。
私は原則・例外を認め、道徳的社会規範の根拠は共同体にあるものとし、「人倫」とも言いますので、そういう意味ではむしろヘーゲルの考えに近い立場でもあります。
私が「定言命法的」というのは、あなたの考えが「仮言命法的」に「べき」を解釈する立場なので、それに対比して、道徳法則はそれを導く事実のない無条件的な「べき」命題だということ、そして、この定言命法的「べき」と仮言命法的「べき」を根本的に異なるものとして区別する点がカントの立場と同じだからです(例えば、 >>418 において(1)(2)の違いとして説明しました)。
あなたの「べき」の仮言命法的解釈は、結局「べき」を事実命題から導くものであって、自然主義的立場です。
私は、事実命題から当為(価値)命題は導けないとする立場であり、それを規範(当為)命題の定言命法的解釈の立場としているのです。

>正しいか間違いかということではなく、道徳法則を定言命法として主張するよりも、仮言命法として主張した方がはるかに実用的で豊かな内容になると思われます。


ここから完全に我々の意見は分かれます。
私は道徳法則のいわば論理的本性を明らかにして、正しく認識することを目指しています。

ですから、私とあなたの考えの根本的違いは、今回の文脈で言えば、規範的命題というものが、(上に述べた意味で)定言命法的命題であるか、それとも仮言命法的命題であるか、ということです。
これは、違う言い方をすれば、価値命題(べし)を事実命題(である)から導けるか否かということに対する考え方の違いです。
私は導けない、あなたは導ける、という立場(正確にはあなたは価値命題を事実命題に還元する立場)。
この「価値(べし)は事実(である)から導けない」というのは、メタ倫理学で「ヒュームの法則」としてよく知られる議論で、私はこの議論を念頭において自分の立場を述べています。
あなたの仮言命法的に解釈する立場は自然主義的立場のひとつと言えるもので、立場としてはありえます。

例えば、ヒュームの法則を簡単に説明すれば、ドーキンスの「利己的遺伝子」を読んで影響を受け、「我々は遺伝子が次の遺伝子を残すための乗り物なのだから、遺伝子を残さねばならない」というふうな導出ですね。似たような議論が我々にもおなじみですよね(笑)

 (事実命題):我々は遺伝子が次の遺伝子を残すための乗り物である
 (価値命題):よって、我々は、遺伝子を残すべきである(遺伝子を残すことは善である)

こういうのは自然主義的誤謬と呼ばれます。

> (1)の場合、「毒キノコを食べちゃいけない」はトートロジーではないのでしょう。だから真にも偽にも成り得ます。一方(2)の方は、「人に迷惑をかけてはいけない」がトートロジー扱いなのだと思われます。つまり、「迷惑」という言葉の定義の中に、すでに「いけない」が含まれているのだという論点先取により、「迷惑」という言葉を分析するだけで必然的に「いけない」が出て来て「分析的に真」という解釈です。つまり、「人に迷惑をかけてはいけない」は実質的に「いけないことはいけない」というトートロジーだと主張している訳です。

>要するに、道徳法則を定言命法だとして定めようとすると、トートロジーになってしまうということです。確かにトートロジー化してしまえば絶対に正しいとは言えるでしょうが、そうすると定言命法による道徳法則のすべてが、「いけないことはいけない」「悪いことは悪い」「他人に施すべきでないことは他人に施すべきでない」といった、中身の何も無い無意味なものになってしまいます。これでは何も情報を与えてくれません。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そうではないんですよ。
「人に迷惑をかけてはいけない」というのが道徳法則ということは、

M1:任意の行為Pについて、Pが人に迷惑をかける行為ならば、Pをなしてはいけない

ということで、公理的に設定される推論法則みたいなものと考えたほうがわかりやすいと思います。
>>410 で書きましたが、この道徳法則と、具体的な事実命題、
「タバコのポイ捨ては人に迷惑をかける」
から、
「タバコのポイ捨てをしてはいけない」
が帰結するわけです。
そして、こういった推論を我々は実際に行っている、というのが私の主張なのです。
これ、実用的だし、現に我々が行っている道徳的判断だと思います。
「タバコのポイ捨て」がよいか悪いかは、個人的道徳観の対立であって、法律で決めないとどっちが正しいと一概に言えない、というあなたの考えより、よっぽど現実に即した実用的考えだと思います。

ただ、M1はいわば証明抜きに前提される公理みたいなものなので(すなわち、定言命法的命題ということ)、
「人に迷惑をかけてはいけない」
=「人に迷惑をかけることは道徳的悪(罪)である」
という等式も当然成り立つので、
なぜ人に迷惑をかけてはいけないんだと言われれば、
人に迷惑をかけることが規範違反(悪)になるから、といったトートロガスな説明になるわけです。
私は最初から、例えば「人を殺すなかれ」といった規範命題は、サッカーで「キーパー以外のプレイヤーは原則として手でボールをさわってはいけない」というような、要はルールを表す命題であるから、「どうして」と言われても、本来それが掟だからとしか言いようがないとしています。
だけど、それは当然なことであって、だからと言って何の役にも立たないことにはならないんですよ。

>「「盗み」は端的にいけない」です。でもそれだと、ふくろうくんのように「盗みをして数万人の命を救う」か「盗みをせず数万人を死なせてしまう」か二者択一を迫られている人に、正しい答をもたらせるでしょうか? 「「盗み」は端的にいけない」のであれば、ふくろうくん、「盗みをせず数万人を死なせてしまう」を選ぶのではないでしょうか?

〜〜〜〜〜〜〜
そうではありません。
「端的にいけない」のは、それが公理のように出発点・根拠になる命題(当為命題)だということであって、それが何等かの事実命題から導かれるものではない、ということです。
ところで「盗みは端的にいけない」って言いましたっけ?(笑)
これ、別に「人に迷惑をかけてはいけない」から帰結する定理的命題としてもかまわないと思うんですけど、まあ、それは措きましょう。

私は、道徳的判断というものは、現実的状況において、各人がいわば体得・内面化している社会道徳(モラル)を、行為選択の基準として何をなすべきかを判断することだと考えています。
つまり、道徳的判断は、原則の現実への適用の場面で行われるわけです。
道徳法則があくまで原則であるというのは、むしろ物理法則に似て、例えば道徳的に完全な、理想的状態の共同体を想定すれば成り立っていなければならないものと言うとわかりやすいかもしれません。
しかし、道徳法則は本来、数学のように現実とは独立の公理系として、無矛盾に成立するものではありません。
それは本来、現実に適用されるべきものであり、理想状態とは異なる現実の具体的場面では、相異なる道徳法則が対立する場合もあるわけです。
そこで例えば、ふくろうくんは「人命尊重」の法則を、「他人の物を無断で壊すのはいけない」ということより優先的に適用する道徳的判断を行って行為したわけです。
ですから、「原則をどのように適用するか」という道徳的判断は、いわば「理論と実践(実際)」とか、そういったほうがわかりやすいかもしれません。
ただ、それよりなにより、現実に私たちは道徳法則をそういった原則と実際の適用として扱っていますからね。わかりにくいはずはないと思いますが。

> SumioBabaは「@さえ有ればAは要らない」と主張している訳ではないのに、まるでそう主張しているかのようにザビビのふくろうさんが誤解されている点だけは理解しましたので、「そうではない」という説明だけはしました。それ以外には、何を根拠に自分が何を批判されているのかが理解できていないので、反論のしようが有りません。

〜〜〜〜〜〜〜
要するに、あなたの考えは、当為の「べき」が仮言命法的「べき」に還元できるということを前提に成り立つ議論なんですよ。
そうでなかったら、法的判断が、個人的道徳観か道徳的判断であるかを決定する権利がありえないわけです。

>そういう意見を持つのはその人の自由ですが、法律の専門家である裁判官たちが法律@で「有罪」と判断し、ふくろうくんが本人が「無罪」だと主張しても、法律@に基づく裁判官たちの判断こそが正しいA社会的道徳規範に基づく判断だと見なされ、ふくろうくんの反論はB個人的道徳観によるもので間違っていると見なされるだろう、ということです。


あなたは法的判断と一致することが、個人的道徳観による判断が道徳的判断であるための必要条件(あるいは必要十分条件)であるかのように言っているわけです。
しかし、私は、法的「べき」と道徳的「べき」とは論理的に異なる「べき」であるがゆえに、法的判断はあくまで法的有罪を判断できるだけであって、道徳的判断について何も語りえないと言っているのです。
道徳的規範にかなうか否かと、法的規範にかなうか否かは、論理的に全く独立であって、後者は前者の必要条件でも十分条件でもないということです。
だから法的判断には、判断が道徳的判断であるか否かを決定する権利はない。
法的判断が権利を有するのは、法的に有罪か無罪かということにすぎないと。

にもかかわらず、あなたは道徳的当為「べき」を仮言命法的「べき」に還元可能であることを前提として、あなたは道徳的判断であるか否かは究極的に法的判断に依存するという主張を行っているので、だったら逆に、道徳的判断なんて最初から要らないってことになるんじゃないの?って言ってるわけです。
あなたがそう主張していると誤解しているのではなく、あなたの言うことをそのまま受け取ると、そういうことになるんじゃないですか、と言ってるわけですよ。
あなたの主張によれば、個人的道徳観に基づく行動があって、それが法的に有罪か無罪か判断されて、法的判断と一致すれば道徳的判断、一致しなければ個人的道徳観と判定されるってだけじゃないですか。だったら、個人的道徳観に基づく行動と、それに対する法的判定だけで話は済むでしょう。
最初からAの道徳的判断なんて必要ないんじゃないの?と。Aなんて、出る幕ないんだから、別になくても構わないでしょう。
だから、ふくろうくんだって、最初から法的にどうかだけ考えていれば間違いないってことになりませんか?ってことです。

でもまあ、この最後に言ったことは大した問題ではありません。
それより、本質的に問題なのは、規範(当為)の「べき」についての考え方の違いがあるということです。
私はそういうメタ倫理学的議論を前提に自説を述べ、またSumioBabaさんの説を批判しているのですが、
SumioBabaさんはそういった議論をご存じないようなので、いまひとつかみ合わないのかなと思います。
ただ、今回初めて私の規範命題の捉え方をトートロジーとして批判されたので、
この論点については私へのちゃんとした批判として反論させてもらいました。
しかし、今回のあなたのレスを読んでも、残念ながら、ほとんど私の立場について理解されていないのは明らかだと思いました。

1年前 No.423

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

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1年前 No.424

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>423  ザビビのふくろうさんへ

>それより、本質的に問題なのは、規範(当為)の「べき」についての考え方の違いがあるということです。私はそういうメタ倫理学的議論を前提に自説を述べ、またSumioBabaさんの説を批判しているのですが、SumioBabaさんはそういった議論をご存じないようなので、いまひとつかみ合わないのかなと思います。

>ただ、今回初めて私の規範命題の捉え方をトートロジーとして批判されたので、この論点については私へのちゃんとした批判として反論させてもらいました。

>しかし、今回のあなたのレスを読んでも、残念ながら、ほとんど私の立場について理解されていないのは明らかだと思いました。


 ザビビのふくろうさんから見れば、そう見えるのかもしれませんね。SumioBabaから見ると、逆にザビビのふくろうさんの方がSumioBabaの問題提起を別の話にすり替えて反論しているだけで、殆ど満足な答になっていないと感じました。
 お互いに言いたい事はおよそ言い尽くせたし、これ以上議論を続けても水掛け論になりそうなので、このへんで一応終りにしましょうか。また気が向いたらいつでもどちらからでも再開OK、ということにしましょう。取り敢えず、楽しい議論有難うございました。

1年前 No.425

ザビビのふくろう ★DXaPkDpS04_PHR

SumioBabaさん

こちらこそありがとうございました。
私は結構早く議論を投げてしまいがちなので、ここまで続けられたのはあなたのおかげです。
まあ、根本的立場が異なっているので、最終的に水掛け論になるのは仕方ないとも言えるでしょう。議論をかみ合わせるのは難しいですからね。

当たっているかどうかは別として、私から見たSumioBabaさんは徹底した相対主義者で、一応相対主義を私も理解はしているつもりなんですが、自分が相対主義者ではないので、自分自身ではあなたのようなところまで相対主義を突き詰めて考えていなかったように思います。
そういう意味では、私にとっては不満でもありますが、興味深い意見でした。

まあ、とは言え、異なる対立する立場の意見をそれぞれ述べましたので、
読まれていた方の少しでも参考になればいいんですけどね^^
また、機会があればよろしくお願いします。

1年前 No.426

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

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1年前 No.427

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

続きではないけど、意識と本質を読んで思ったことを適当に書きますけど。
あというのは、サンスクリット語だと否定の接頭辞で、でない(not)
という意味らしくて、カバラだとアーレフのあなわけです。
サンスクリット語のあというのは母音なんですって。カバラのあというのは、
子音に分かれる最初の緊張なんだって。これがいわゆる、ロゴスが何なのかということですけど。
どっちにしても、あるのはたしかで、人類共通のはないということです。
文化圏によってちがいますよということです。文化というのはそれが変形して歪んだものですから、
形は形骸になって影みたいになっちゃたですけど。

仏教圏のあというのは「あっ」てことです。
カバラのあというのは子音出る分化の最初の緊張です。
思うに「あっ」てというのは自分と何かを見るという分化の瞬間を見ていて、
主観と客観の境界ができた瞬間を意味していて、一方、カバラのあってのはすでに、
流出して分化した後なんですよ。
子音と言うか、母音というか、どちらを優位にするのかというか。

そもそも、「あ」なんていってしまったから「宇宙がわいた」わけです。

で、古代のばかどもは、原初の分化を発声になぞらえて比喩表現でしか無いものを
多分言い出しっぺはちゃんと理解してわかっていてけど、弟子がいつものごとくに、
例えていったものを本当だと思ってしまったんじゃないかなと。

だから、無と言うのは万象をあらわすのに、あというものをいれてnot つまり、
否定されたものが存在というわけです。だから、本質は無なわけです。
一方で、カバラだっけか、その場合はあると言う絶対的な存在に対して、
分化されたと言うかたちで形成されるわけです。

僕は、この考えは、物理宇宙ではなくて、概念的な宇宙からの出来損ないが物理宇宙であって、
流出論というのは物理宇宙のそれではないということをごちゃごちゃ書いたはずです。
で、古代の連中は、それが物理宇宙のそれだと同列に考えて、その結果としての言語が、
その分化された万象の形成装置だと思ったわけですよ。それは間違いだとさんざん厳密に
論じてようやく、それは間違いだと修正されたわけです。たぶんね。

1年前 No.428

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

そういうふうに考えると、
仏教の存在ってのは一種類しかない。無という全に対しての否定が存在だというわけです。
カバラと言うのは、有に対しての分化が存在なわけで、いっぱいあるわけです。
色の種類だとでも考えればいいです。
日本人のあるないというのは、多分あるとないという枠の方を見てるけど、
西洋人のあると言うのは色の種類の方を言ってるんじゃないかなと。
だから、あるというのはすでに、単一な存在を言ってるのではなくて、ごちゃごちゃした、
種類なんじゃないかなって。

基本的に言語的な考えというのは、そうだと定義したものが実際とは違ったり、起源がどっか行った
とかそういうことに理由が帰着するだろうとおもいますし。そこに、考えというものを考えると、
「誰の基準を」ということになっちゃうわけですよ。
光なら問題ないけど、著者の言い分を正しく理解すると成るとその著者が何を参照してるのかと、
いうことになって、どこにも行き着かないわけですよ。そもそも大説なんてものに、証明無いです。
発掘された史料が一番古いと証明できる理由はないんですよ。出てきた史料が一番古いと、
どうして言えるんでしょうか。そんなわけでわからないわけです。

で、この場合、神の存在証明に成ると、とたんに、世界が完璧だとか、こっちに証明がでてきたり、
するわけです。それなら、千円を自分で作ったら千円になるのかということです。
ようは、偉いものはそうなんだと言うのに、いざとなったら、部下が優秀だからということに、
置き換えたりするわけですよ。こうやって、納得し合うようなことのほうが多いと思います。

孔子の儒教というか、父はいつから父になるのか本当に意味不明ですけど、考えてみたら、
子供が生まれて親になったら父になるわけですよ。じゃあ、こどもはいつ父になるのかと。
孔子の本質は、あえて、読者がどう取るのか無視して、この場合父というのは、父親なわけで、
子供は子供ですよね。その本質は、本質から宇宙が流出した元の本質なわけがないんですよ。
だから、何によってということを無視して考えちゃいけないんですよね。
で、今回はそれでも面倒なので無視して、その子供も何時かは父になるわけですよ。そしたら、
子供はいつ父になるのかそれは親になったときで、本質なんてのはコロコロ変わるわけです。
子供が死別して親でなくなったら子供に戻るのかと。そんなわけでそれは直ちに理解されなくては
ならないわけです。

1年前 No.429

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

形而上を考えると、どうしてもちゃんと本を読まないといけないのに、書いてしまってすいません。
本質がどうだとか、存在がどうだとか、定義して考えてないのです。
存在者と存在の違い自体よく考えてないです。書いて思ったのは、存在証明というのは、存在が
するものではなくて、製造元がどうだとかそういうことなんだなと。目の前のあるもの見て、
存在だとしるというか、それが何であるというのは、実は文化的な背景を元に論じてるというか。
良し悪しに関することに関連付けると、同じものでも印象違うというか。目の前の現実を
この世界の製造元を想起してそこから、だから世界があるんだとは僕は思わないですけど。

自分の感覚だと、自己感覚ですけど、自分がいてというか、2つあるわけですよ。寝て起きると、
寝てたときは開いてたのが起きると閉じてるのがわかって。うたた寝してると、外界の音が聞こえて、
で半分寝ててもう片方が起きてるわけです。まあ、それは人によって違うんだろうけど。
よくよく考えてみれば、明晰夢というのは最近出てきたもので二千年にわたって夢について、
歴史的に哲学されたわけではないですよね。夢よりも、論理とか抽象的な議論ばかり繰り返して、
確かであるかどうかばかりこだわって、夢なんてこれ以上疑いようもないことを感じてるのに、
なんで、イデアがどうだとか神だとかを、延々と論じたのか全く不条理だと思います。

最近はライトノベルで異世界で強くてハーレムという設定の本が本屋さんでいっぱいあったりする
わけですけど、都合よく言葉が通じるとか、そこまではいいけど、服で宗教裁判にかけられて、
死刑宣告されるというところから出発するラノベは多分無いと思います。例えば料理が、
ここではいろんな料理あるけど、ある世界には油が高級品で王家御用達になっていて、そこに、
とんかつ屋の亭主が異世界へ迷い込んでとんかつを王様の油で挙げてしまってけしからんと、
裁判にかけられるとかないとおもいます。書いてるというか、それって読者の都合ですよね。
この世界では昔のローマ帝国では紫というのは庶民が身につけては行けない色です。
色についてですけど、赤 黄色、緑 青 紫 だっけか「ピンク」がないんですよね。
赤も紫も「近いような色ななはず」なのに、「ピンクは存在しない」んですよ。
で、紫というのは高貴な色で、希少品だから高貴なのかな。
だから、異世界へ行ったら服の色で死刑になる可能性が十分にあるのではなかろうか。
重力だって同じとは限らないわけですよ。行った瞬間に空気薄くて死んじゃうかもしれない。

それとは別に、夢みたいなところで、夢を毎回見て思うんですけど、忘れちゃうというか、
そもそもなんで毎回違う夢なんだろうなと毎回違います。なんでああいう配置なんだろうって。
あと、起きてるように、出来ないです。意識の状態がぼやけちゃって。見て思うけど、

どこからみてるんだろうって。

1年前 No.430

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 適当に書きますけど、なんていうか、経済と名のつくもので数字で物を考えないやつは、

ただ単に現実逃避しか出来ない屑だと思います。

 コメントしてあげようかと思ったけど、もううんざりだからいいや。
そんなに逃げたいなら好きなだけしてろ。

現実というのは見たままがとか経験がとかと言うのは「大嘘」なんですよ。
現実が当たり前とか全くウソ。人の言う現実というのは学問的な常識を踏まえた話であり、
それは人間の当たり前な感覚には反するものです。一番身近な物で慣性がそうです。
レントゲンのX線にしろ、放射能にしろ目に見えるわけもなく、危険だと感じることも出来ない。
そもそも量子力学というのは人間の当たり前に確かにあるということには全く反する、
存在確率などとして記述するわけだし、相対性原理の光速度不変の原理が人間の感情に、
受け入れられるとは到底言えないからです。

なんていうかな、現実がどこにあるのかなんて言うのは、誰かが決めたわけはずがなくて、
見たままでなんでもわかるなら光の正体が20世紀になってようやくはっきりしたんだから、
目の前のことを疑うとかそんなの糞の意味もないわけです。
そいつらが光についていくら喋ろうが何一つわからなかったと思います。

人間が抱える宇宙的問題の一つが想像するということ、イメージ産生機能です。
世界の問題を考えるくせに、想像するということがそもそもなんでそんなことをしなければ、
ならないのかと言うことです。平たく行ってしまうと、食い物にありつける推論に結びつくから、
ということですが、でも、飢えてない限りに於いて、食べることを妄想したり、頻繁に、
考えたりはしないと思うんですよ。水がないからオアシスを夢想するようなものです。

となると、結局夢想するというのは、それがないから夢想するわけですよね。
じゃあ、結局宇宙が夢見てるだけの世界に過ぎなかったらこの世界には本当に何も無いという。
感覚がそこにあるということも宇宙には感じる機能がないから錯覚として宇宙が産んだ妄想と。

さっきのはただの、仮定で、こういう思索において、ただの仮定にすぎないか事実を元に
考えるのか僕の場合結構ごっちゃにしてたなと今更にして思いますけど。
さて、人間が考える夢想については手に入らないものについてばかりを考えるのが筋道みたいな、
ものだとおもうんですよ。ちょっと考えればわかるのですが、あなたは水道の蛇口を
ひねって水を出す瞬間を一日で一体どれだけ頭のなかで想起しますかね。全然しないはず。
つまり、願いだとか、夢だとかというのはかなわないものをひたすら考えてると言うだけというか。

まあ、それで、叶わないイメージの集合体みたいなものが人の言う理想なわけです。

当然、そんなの納得するわけがなくて、こうすればうまくいくんだと言う方法があるわけがあって、
そうすれば夢が叶うということを繰り返して、夢見てはうまくいかない。
こうして、物理宇宙で手に入らない物のこういう夢があって、
それがあの世では欲しいものがなんでもあるわけですよ。

これが、人が幸せになれない理由です。
上位次元を支えるための材料を提供するために、
私達が居るわけです。

誰も心から幸せになれないこの世界でひたすら夢を追って夢を叶えて生きていくわけです。
実際問題として、夢が発生しないと困るわけです。イメージが出来ないと維持できないわけです。
もちろん、そんなイメージなんて本当は浮かばないぐらいでちょうどいいわけです。
なんていうかな、所要があってトイレを我慢してトイレに駆け込むのを想像するわけですよ。
実際用を足してる瞬間はそんな想像するより用を足してる自分が居るだけですよ。
だから、必要ないというわけです。

そもそも、現実的な問題に入るなら、痛みは必要だと言うけどエラーを感じないのは問題だと
いうけど、そんな機能はある程度制限されてしかるべきだし、常に感じ続ける必然性は、
無いわけですよ。ぶっちゃけ問題が発生してからエラーを返すぐらいなら事前に警告しろよと
思いますよ。それに、エラーを発する機能が必要だと言うけど、不満や怒りや悲しみや不安を、
理屈つけて人はごまかすんだから、熱出ても会社へこいと文句垂れたり、多少の虫歯でも、
これぐらい大したことないと行ってみたり、つまり、感じようが無視してその場で対処しないから、
なくてもあっても本当は意味なんて無いんですよ。要は、感覚より理屈を取ってるわけですよ。
これが俗にいう、意識が高いなどと行ってみたり。現実というのは言葉が作るわけです。

中世の教会の連中の常識とガリレオの常識やニュートンの世界観は別物だと思うわけですよ。
そこにたしかな現実などというのは無いわけですよ。もしこれらが互いに文句をたれあったら、
現実がはっきりするどころか、教会の連中は失業を恐れて躍起になって否定するでしょうね。

今オチについて考えてるけど、幾つかか考えて、イメージの産生は不満に生まれる、つまり、
宇宙には不満がいっぱいで、それが上の材料として活用されているが、ここの現実は、常識が、
違う知識とのズレが解消されることなく、噴出すると。さらに、現実の感覚より、理屈を
優先させて、それ自体が不満を産んでしまうということ。これが俗にいう、言葉がイメージを
産生する機能を持ってるというわけではないんですよ。

別の意味ですよね。「言葉がイメージを換気する」というのは。
「言葉自体がイメージを持ってる」ということです。

こうやって、別の話を適当に書いてたらなっちゃいましたけど。
本当はイスラム教の偶像崇拝の禁止と言うか、それって単にイメージを産生することを
禁じてるだけだったんじゃないかなということだったんですよね。
意識と本質を書いた人があらーというのは真如と一緒なんだと言うらしいんですよ。
この人はコーランを日本語訳に翻訳した人ですから、まああってるんでしょうね。
つまり、そう考えると、リアリティーをどう扱うかということですよね。
インドだったら、神にあったら神を殺せというわけです。それは、実体は無で、イメージは虚妄。
だから、虚妄を排せということです。そう考えると、あれこれいうのも、ただ単に解釈の違いに
しか過ぎないのではないだろうかと。

1年前 No.431

つみれ ★KOm1h5OvDP_hWO

北朝鮮のミサイルだけど、福島の原発事故と同様の状況が有る。

先日、北海道の奥尻沖約150キロの地点に落下したのだが、日本の排他的領海への着弾であり、もし弾頭に核爆弾などが入っていたら、また同時に多数のミサイルが日本列島を襲っていたら、取り返しのつかない被害になっている。

現在の日本政府は、逆に北朝鮮のミサイル発射は本気ではないただの実験と認識している様だ。
だから、最大限の警戒心でしっかりと監視を続けている等と云う呑気な説明をしている。

しかし、そう考える何の確証もないのだ。

もし、核弾頭を搭載したミサイルを本気で日本に発射したら、最初の一発は従前通りの実験とみなし対抗措置をとる前に日本に落ちてしまう。

政府は、まず、どの段階までミサイルが近付いたら撃ち落とすとかの基準を示す、または、基準が有る事を明らかにするべきだ。
米軍との共同作戦で撃ち落とすことになるだろうが、今回の様な日本領海にまで来た時には撃ち落とさないでどうする!

さと、この位のことが日本の防衛に無いのであれば、もう終わっているよね。

実際は、日本の主権を侵しているミサイルを撃ち落としたいのだろうと思う。
問題は、3発のミサイルで迎撃出来るのが1発位の実力しかないのを明かすことが出来ないのだろう。
イチローだって、4割は打てないよね。

かつて福島では燃料棒が外気に晒されているのに、空中にも海中にも土壌中にも、放射性物質が大量に放出されているのに、政府の説明には国民のパニックを押さえる為に関係者は口裏を合わせていました。

ミサイルの性能と威力、そして迎撃の精度、たまに花火大会の事故で、大量の花火が一気に発火して飛び交うけど、それがミサイルなら、3割も撃ち落とせないよ。

そんな武器を手にした小国の若造、いつかは試し打ちしたいと思うのが自然です。

1年前 No.432

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉432
つみれさま

いくつか、質問してよろしいかしら?

1.Kへの制裁で、Kは核ミサイルの開発をやめると思いますか?

2.Kとの対話で、Kは核ミサイルの開発をやめると思いますか?

3.すでに核弾頭をもっている国がありますが、その国々はそれを廃棄すると思いますか?

わたし、いっぱい問いはあるけど、この質問へ返信があったら次の問ね(おそらくないね)。

1年前 No.433

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>432,433

いや、さすがにそういう話題はカテ違いなんで、他でやってください。

1年前 No.434

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

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1年前 No.435

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 コートを脱ぐというマナー

 これがどうして無礼なのか調べでもしない限り知り合いに聞いても誰も答えられないと思います。
大体、コートなんて江戸時代にないのですよ。外出時の防寒着を脱ぐという習慣の必然性を
問われてもだから必要なんだという理屈などどこにあるんでしょうか。

 そんなわけでマナーというのは、頑なに必死にそう言い張ってるだけです。

必要なマナーもありますよ。人前で脱糞しないとか。トイレへ行くにはちゃんと断るとか。
コートを脱ぐというのは、昔のアメリカの郵便配達の人が、玄関先で配達して中に入らないから、
そこからです。

 礼無礼というのはある種客として迎え入れるかどうかを決めるものだともいえます。
だから、失礼のないようにと言うのは本当は客としての歓待が無いなら必要ないはずです。
客として認められるようにするために礼をするという方が正しいかもしれませんね。

 で、こう考えると、コートを脱ぐというのは客としてきてるんだということで、
これの前提としてあるのは、主人が客としてもてなすということで、コートを脱がないというのは、
私は客として迎えら得るのはお断りだということで、考えてみたら、お前何かの酒はいらねえやと、
言うのと同じなのかなと思いました。

 飲み会で、俺の酒が飲めえのかと差し出した酒を断ったらブチ切れるのと一緒じゃないかなと。
そう考えたら、しっくりきました。主人が客としてもてなしてくれるなら、そういうのも、
ある程度は許容できるし、納得するのですけど、上に見立てて何かお駄賃くれるから
礼儀を尽くして敬うのは当然だといい出すなら僕もわかるけど、マナー守って当然で、だから、
なんだって思いますよ。

 ボロ雑巾みたいに部下を扱うような連中が礼儀がどうだのは言うのはさ。

 無礼な奴は無礼なやつで、自由なのかなと思ったら全然違うわけです。
マンガでも、自分の学校でもいじめる奴らというのは一番を作りたがる。その一番は、
他行って喧嘩売るなりして、やっぱ一番をきめるわけですよ。その一番はヤクザが〆て。
ヤクザはまた、序列があって。彼らは彼らで、捕まって刑務所行ってそこはやっぱ、
看守に頭上がらなくて、そんな中で、看守と囚人というなかで囚人みんな平等なのかなと、
というと全然そんなことなくて、囚人の中で順番があって。そんなに順位が好きなのかと。
 そういうふうに考えると、お行儀よくしてる方が自由なわけです。

1年前 No.436

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

共通することは何かなと考えてみたら、一部を持って全部がそうだと思いたいということなんだろう。

初っ端から何か不幸があったらこれから僕はもうだめだーって言う感じかな。

シグルイというマンガで、目の見えないしずはた検校という人がこの人は家康のあんま師らしくて、
お抱えの人でね、つまり偉いわけですよ。その人の家に琵琶が飾ってあるんですよね。
その琵琶にはたしか徳川の文様が刻まれていて、それは家康の威光と等しいんだと書いてありました。

平たく言うなら、コーランの一節を神様みたいに崇めてるようなもので、
意味の分からない外人ならトイレットペーパー無いところでコーラン渡されたらトイレで紙無いなら、
それで吹いちゃうんじゃないかなって。

一部を持ってそれをありがたがる性質は別におかしなことではないといいたいのです。
つまり、琵琶の文様にひれ伏さないとおしおきが待ってるから仕方なく、こういうことを
ありがたがったわけです。

こういうのが馬鹿げてるというのは全く筋違いで、今でも王家御用達というものがステータスアイテム
なのです。むしろ、確かなものだという先入観まで持ってしまうわけでしょう。
支配体制が天皇制にしろ、イギリス王朝にしろ、議会に持ってかれた時点でもうだめだーって
ことじゃないですか。つまり、ひれ伏すのはお仕置きされるのが嫌だから仕方なくというのは、
それだけじゃないということです。

共依存が単純に嫌いだからというわけでもなくて、表面は好きということかもしれないし、
マザコンが本当は母親嫌いだったとか、それって一部だけの事柄に見えるようなことが、
社会全体が実はそうでしたという話。

1年前 No.437

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

なんていうかな、ルールが当然と言うのは、ごちゃごちゃ書こうかと思ったけど、
やめて、とどのつまり、神様が物を動かしたりしてるから、ルールが有るんだと言うわけだから、
ビッグバンを信じて原子の挙動があるなら、人の作ったものだと思ってればいいよ。
こんなの、12世紀ぐらいのイスラム教とキリスト教のお話で、科学がヨーロッパで発達して、
神様が何でも動かすということが信じられなくなったので、神様がなんでもやってるということが、
信じられなくなったからなんでルール当たり前なのかわからなくなったわけです。
平たく言うと、万象の理は神が司ってるから、あるから、ルールは神が決めたということです。
人は書かれないと理由を考えることさえもしない。ルールが何であるのかわからないというのは、
当然で、根拠を否定したけど信じた発端が伝えられなかったからです。そんで、守ってるのは、
別の理由だから。

本質を内的とするか外的ととするかで歴史ができたのだということにするなら、外的とした
ほうがいまところ、根強く、足を引っ張ってると思います。これからは内的な方はより強く、
動く形になると思います。

1年前 No.438

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

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1年前 No.439

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

当たり前なことを書いてフィルタが掛かるのは流石に愛想が尽きました。

1年前 No.440

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_FWA

>>440

>事実から原則を組み立てたり、修正するならある程度はそういうのは回避できるんですよ。
>それをやる気が無いんでしょうね。

「事実から原則を組み立てる」ことは、とても難しい。
尊氏さんにはそれができるかもしれないけれども、
やる気があっても能力が足りないために
組織や社会が悪化することは多々ある。
無気力世代のこの時代、無能であることについては、やる気を失ってしまう。
効率化、あるいは「自由競争」の弊害といって間違いないだろう。


>太平洋戦争のときは天皇万歳と子供を戦地に送るくせに、
>戦争に負けたら、ころっと気が転んで、
>あの戦争は間違いじゃあなどと老人が抜かす始末。

戦争は悪い、もしくは天皇万歳ということは誰にでもできるが、
戦争に勝つことは誰にでもできることではない。
こういった基本的なことがわからなくなったのは戦争の悲惨さを体験したせいだと思う。
だけどそれを人に押し付けるのは、「無責任で無自覚」に違いない。
悲惨な目にあう人間の姿を見せて、子供たちの心に傷をつけていくことでしか、自分達の傷を癒す術を知らない。
日本人の低俗さと変態性、またの名を「島国根性」はこういうところにこそ見られる。

1年前 No.441

凡人 ★aOOSAsoLkR_4fx

私の帝国主義戦争についての分析は、 http://mb2.jp/_grn/1607.html-76,125,129,191,317,541,553,557,751,771,780,782,798,801,803,894,895,913,922,932,1253,1254をご覧いただけると助かります。

1年前 No.442

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉442、

凡人霊さま、

お久しぶりだけど、省察っていうの、あい変わらずないようね。

あ、ムリだった。なまじゃないから。

骨壺から投稿されてもね・・・、わたし、どうしようもないのよ。

1年前 No.443

凡人 ★aOOSAsoLkR_4fx

悪魔ちゃんさんも、 http://mb2.jp/_grn/1607.html-76,125,129,191,317,541,553,557,751,771,780,782,798,801,803,894,895,913,922,932,1253,1254をご覧いただけると助かります。

1年前 No.444

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 志向性だっけか。よくわかるなとおもいます。
僕の場合、なんていうかな、アクションゲームやったこと多分これを読んでる人はあるはずだと
言う前提で書きますけど、ノーミスでクリア出来ますかね。R-TYPEでもグラディウスでもツインビー、
シューティングになっちゃいましたね。
 言葉でいくらごちゃごちゃ分析しようが、認識範囲が広がるわけがないし、どこを認識してるのか、
ということを思ったことと事実違うということがわかるというのは

何かミスをした時 です。

 というのも、何かを意識するということが、これが意識が捉えてるから意識してるとなるわけです。
これは自明なはずだし、何を当たり前なことをなど思うかもしれないけど、
今視界に入ってるいろんなものはぱっと同時に見えてるような気がしませんか。つまり、
言葉で、部屋にあるもの、外行って、見えてるもの、店へ行って品物を見ていくんですよ。
すると、言葉で一瞬で考えるより多くの種類のものが見えるはずですよね。

 意識というのは何々の意識であると。ペンを見てペンを意識してる、テープ見てテープ意識してる。
それ以外はどうなってるのかわからないけど、でも、たしかにそうなんだけど、
そもそもいくつも、同時に把握しているから、この世界がこんな風にいろんなものがぱっと見えてる。
と僕は思いますけど。その、ぱっといろんなふうに別れて見えてる事自体が言語の作用だというのは、
それは本当なのかわからないけど、でも、それがちゃんと把握してみたとおりに、意識した結果、
なはずがないというのは、視界に入ってるのに、視界にあるのに、ミスをするということが、
その理由だということです。全部が、意識的に把握したものでないというのは、目というのは、
構造上見えない箇所があって、それを脳の方でごまかしてるという事は科学的事実です。
網膜と視神経のつなぎ目のぶぶには視細胞がないから。だから見たままの事実として、脳に
移るなら、暗くて見えない箇所が2つ無いとおかしいんですよ。けどそんなの感じないということが、そもそも人間が見てる視界というがある程度錯覚に寄って補われてるわけです。
文化的背景による、偏見以外にもそもそも人間は構造的に正しく現実を把握できないように、
出来ている。そこで、やっぱ、見えてる範囲はどこまでということに成るわけです。
アイカメラとか、どこを見てるのかテレビで視線向けた先というものが移るアイカメラみたこと、
ありませんか。見た感じ、結構グラグラ動いてるなと言う印象です。でも自分としての実感は、
ああいう、ふらふらというよりグラグラと言ったほうがいいか、その視線の動きなんか
目じゃないくらい、しっかりしたシュッと動くような感じです。で、やっぱどこをみてるのかと、
言うのは正直、分からない。言葉で考えることと何かを見るということは範囲として、
一致しないはずです。というのも、抽象的な概念も言葉で考えるはずです。それは見えないです。
つまり、言語が世界を分かつにしろ、見えてる外界をリアルに捉えるということは、
そのリアルを、意識するということだと思うんですけど、抽象概念はそのリアルとは一致しない、
と思いますけど。一致しないからこそ、思考できたり、将来のことを考えたり、結果を反省したり、
見てる現実しかなかったら、過去も振り返らない、未来も夢見ない、あるのは目の前の現実だけ。
でも、みんな、むかしはよかっただの、夢見たり、するわけですけど、そんななかで、
この今の見えてるものを見てると、どれくらいのものが見えてるのかと考えた際に、どうも、
わからないなあと思いました。

1年前 No.445

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

中国語の部屋

これいっちゃうと、言語の意味分節機能を根底から否定してるような感じですけど。
言語の意味分節機能というは、見てる外界は実は言語の作用に寄って分かたれてるという考えです。
たとえば、催眠術をかけてレモンが甘いと刷り込ませてレモン食べて甘いといい出したら、
レモンという言葉の意味を変化させて甘いと感じさせてるから、言語が意味を理解する根底にある
と言う考えのことです。

言語の意味分節機能が猿にも豚にも犬にも同様にあるなら、僕も納得しますけど。
じゃあ、言語の意味分節機能がないとしたら、そんときは、分節機能が無いというくらいですから、
全ては一つなんだと言い出すのかなって。

ちょっと話し拡張してこれは、中の人が、何を知ってるのかということで変わってきます。
コンピュータにとってはあれは、外の事はわからんということですね。
実際問題、考えてみると、何人集まろうが、何人いようが、本当のところは、中国語の部屋と
たいしてかわらない。「当たり判定」が共通なだけで本当はみんな中国語の部屋かもしれない。

「当たり判定」だけで、物事が客観的にそうだといえるかどうかというのは、物の一面を見て、
重さがあるから、それは物であると言えても、それが何かまではわからないということと、
同じかなって。赤がみえるから、みんな血だと思うだけだったり。変な言い方ですけど。
それが「当たり判定」のないもの、抽象概念に成るととたんに意見が分かれるわけですよ。
だから議論が成立するわけですよ。

 幾つもの、中国語の部屋が並んでいて、その中で幾人が正しくやり取りをして、幾人かが、
仕事をサボったとして、その処理が全体的に正しく行われてるのかを誰が評定するのか、
多分わからないと思うんですよ。文化的なやり取りのなかで、おかしい人が居るってのは、
これとにた状況だと思います。幾人かが正しくやり取りして、何人かはデタラメに仕事しない、
そのデタラメを見て、そのとおりに、やる人たちが居るわけです。

1年前 No.446


雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

荘子、恵子と濠水の橋の上を散歩していた。

荘子曰わく、「魚がのんびり泳ぎ回ってるな。あれが魚の楽しみなんだ」

恵子曰わく、「君は魚じゃない。どうやって君が魚の楽しみを知るんだ?」

荘子曰わく、「君は僕じゃない。僕が魚の楽しみを知らないなんて、

 知らないだろ」

恵子曰わく、「そう、僕は君じゃない。だから、君の心の中なんて知らないさ。

従って、君は魚じゃないから、君は魚の楽しみを知らない。Q.E.D。」

荘子曰わく、「いやいや、議論の初めに戻ってくれ。

君が『どうやって魚の楽しみを知るんだ?』って聞いたときは、

 僕がそれを知っているのを既に知ってて、そう聞いてたんだよ。

橋の上で僕が知ったのは、そのことさ。」

どこからかの引用)
これは前も書いた話と別の話にしようかなと思いました。
記号にしてしまうとどうも意味がわからなくなるわけですよ。
魚の楽しみ知ってるをAとか、君は君 僕は僕の場合魚の楽しみが分からないをBみたいに。
これを無為自然が生物の有り様を示してると言う話ではないということは、
さいごの文が謎になってしまうわけです。荘子は、すでに君は僕が魚の楽しみをすでに知ってるから、なんて言うわけです。君は君僕は僕という、その考えは論理的であるけど、これが、
実在に開かれないということは、多分なんとなーくわかるのではないでしょうか。
君は君僕は僕という考えでは、魚の楽しみがわからないというわけですね。
魚の楽しみって実在だとでも思ってけばいいんじゃないかなと。これを厳密さを持って、
体系化しろなんて不条理だと思いませんかね。物事の有り様は何が決めるかというか、
封建制だったら王様の言うことが正しいんだと、民主主義なら政治家の言うことは民意が
正しいんだとだから、下々の言うことが正しいと、これになぞらえてしまうと、老荘思想は、
下がいいんだとそこと重ねてしまうというか。正名論にしろ、これ以上無いという本質があって、
それに基づいてすべてが秩序だって成り立つという理屈が、封建制の士農工商を正当化する、
朱子学に転化されたり、言語分節機能がイメージを換気するからだから人間の表層的な、
イメージがそれと一緒だとみなしたり、見えてる何かが人間のイメージで操作できないのは、
表層のイメージではなくて、深層の方のイメージで、そっちは全然別物で、かなり抽象的な
話ですよ。だから、神秘体験というものがイメージを持つわけですけど。というか、
そもそも死に際になんで幻覚みるのかというか、危機回避のための方策練ってますとまあ、
そう考えるほうが自然かもしれないし。じゃあ、それだと、禅の幻覚って死に際なのかって、
また疑問が出ますけど。で、文というのはいろんな捉え方があって、だから解釈があって、
つまり、物が知ってるとかどうかってのはオレはオレ君は君だとわからんちゃと。
つまり、じつのところ開かれてますよというお話。まあ、開かれてるから知れるわけです。
君は君僕は僕などというのではなくて本当は開かれてるんじゃなかろうかと。
さんざん、意思疎通なんて齟齬きたしてるから笑いが会話に満ちてるんだといいましたけど。
禅問答で、会話の答えを相手に振ってお前が知ってんだろというパターンあります。
大体、坊主が師匠に尋ねて、お前が知ってんだろとなんだそれって。
普通の会話は、弟子が尋ねて師匠が答えるわけですよね。答えというのは、問うほうではなくて、
答えるほうが知ってるわけです。禅問答だと、それが、問う方と答えることが同一であるという、
構図に成るわけです。じゃあ、師匠のほうがとぼけてあいてしないわけですよ。まともに、
答えが帰ってきたことなんてないんですよ。太鼓を叩けばドンドン・ドドンとふざけたことが、
返ってくるわけです。それ抽象化するなら、ほんとうの意味で論理的な解答は、命題が同時に、
解答であり、実在に、つまり、答える師匠につながるということが結局無いということでは
なかろうかと。今回というか、今までもどこかめちゃくちゃだったと思いますけど、
でも、今回はもっとぐちゃぐちゃですけど。意味というのは多分こういうことじゃないかなと
言うことです。つまり、問うことが答えであるということです。だから中国語の部屋というのは、
ある種の間違いであり、それは、入力と出力がちゃんと構造体に中に組み込まれてるからです。
問うことと返ってくることがちゃんとあるわけです。行ったり来たりということが無い
ということから、原初というのは始まったわけですし。そう考えると、意味分節機能は、
ループしてるとも考えられるわけです。もう、考えて売ってないってわかりますよね。
ただ売ってるだけです。テーマに沿って。そう考えたら、茶碗をあらいなさいという、
禅の教えがやっぱ謎に成るわけです。ちゃんと手順があたりまえな順序を単純にまもれなどという、
話なわけがないわけですよ。犬に仏性はあるのかという問いが無いという答えが返ってくる。
それは、結局単純に当たり前なことでは悟れないというのと同じ理屈で、見たままなわけが
ないわけですよ。十牛図で、牛を乗りこなして、最後にはいなくて説法してる人がみんな集めてね。
七図ぐらいで乗りこなすわけですけどね。八図ぐらいでステーキでも焼いてるんでしょうか。
見せられないよって。そんなわけ無いですけど。これ山だった物が山でなくいよいよ深まって
山だったと言う話。こう言ってしまうと、そこに無駄足だったというのが落ちなのかなと、
思う場合もあるわけですけど。山を見て山だとそれは普通の話で、それって問うことで答えが
変えるのと同じなんですよ。ここで、問うことが答えることと同義な場合の山を見て山なんですよ。
茶碗をあらうという当たり前さや、日々是良日だという、その平静さも実のところ、全然、
当たり前なわけがないんですよ。今は考えながら書いてますけど。山だった物が実は山じゃない
というのは、そこは修行中の否定ですよ。いよいよ深まって問いと答えが同一の中でなされるところで、物を外界に向けるということが彼のいう魚の楽しみを知ってるということです。
それを問われたということは返ってくるのは君は知ってるということです。実在を移しては、
実在がある。不明があっては不明を移す。不明であることが自明であるから、やっぱ、
知ってるなどともう、考えれば考えるほどわからくなりました。そんなわけでまったくわからなく、
なりました。

1年前 No.448

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 「僕の心はどこへいった?」

 ゆーま:「畜生!僕の作品が捨てられた!公園に飾ってあったのに!!!」

 僕  :「そりゃ公園にゴミを放置したから捨てられたんだよ。」

 ゆーま:「俺の芸術をゴミと言ったのか貴様!!ボコボコにしてやる〜〜」

 ゆーま:「ここがネットで良かったな!?リアルであったらぶっとばすぞおお」

 僕  :「僕は芸術というのは作者の心情を形にしたものだから」

 僕  :「捨てられたのは ”君の心” だ」

 僕  :「公園に”ゴミ”が捨てられてた」

 ゆーま:「お前に何がわかる?!」

 僕  :「だって、君。自分の心は空っぽだっていったじゃないか。」

 僕  :「だから、捨てられたのは”僕の心”さ」

 ゆーま:「?!」

 僕  :「だって君。中身、空っぽだろ」

 僕  :「捨てる心なんて有りはしないだろ。」

 ゆーま:「何わけわかんねえこと行ってんだ!浅風野郎!!天日干しにして陳列すんぞ!!」

 僕  :「やっぱり捨てられたのは君のゴミだった。」

 ゆーま:「オレの心を返せええええ!!!!!」

1年前 No.449

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

捨てたのは「公園の清掃係の人」でした・・・

 ちゃんちゃん。

1年前 No.450

百理 ★5n9Jhh5DYh_P5K

魚心あれば水心
【注釈】 相手の出方によって、こちらの対応の仕方も違ってくる。相手が好意を示してくれれば、こちらも応じようというたとえ。
多く、相手の態度によって自分の行動をどうするか決めるという意で使われる。
水に棲む魚がその水に好意を持てば、水もその魚に好意を持つことから。



本来は「魚、心あれば、水、心あり(魚に心あれば、水に心あり)」であったが、後に誤って「魚心」「水心」とそれぞれ一語化したもの。

雑記さんには本質が見抜けなかったようです・・

心があるか?

と言う・・

1年前 No.451

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 「二人羽織」

 みなさんはやったことありますか。僕は一度もありません。
社会にしろ、思想にしろ、どちらでもかまわないけど、大半の人間は二人羽織をしてるような
連中だと思います。

 二人羽織りを想像で書きますけど、ろくにうまく食べられないと思います。
食べる側から見れば何やってんだよと後ろに怒鳴り散らして、食わす方は食べることが出来ない。
毎日二人羽織りで食事をしてるさまを考えてみてください。そして並んでるのは二人分で、

 食べる側と食べさせる側の役割がずっと固定されるさまを思い浮かべてください。

経済的な事柄に関して言えば、食べたくても食べらないのに働いてる側と、食べるだけ食べてけど、
文句垂れてる金持ち連中がまさにそうだと思いました。
こんな調子では食わす方はドンドン痩せてしまって、食べる方は変な食べさせ方をさせられて、
食いたくもないのに無理矢理二人分食わされてるさまを想像してください。
ちょっと見てる分には楽しいけど、そんなの実際の生活で毎日繰り返されたらきっとムカついて、
しょうがないと思います。

思想といったけど、どちらかというと、宗教でもいいのですけど、
信者というのはどういうわけか真理が何かわからないといい、教祖というのは知ってて
信者はいうことを聞かないというわけです。この構造はキリスト教の教会だろうが、
イスラムのテロリストだろうが同様な話です。思想と言うかこれは考えでも同じで、
あなたが食べさせる側で食べる側というのは親の言いつけだったりするわけです。

 二人羽織りやめて、一人で食えっていいたくなりますけど、そうしようとすると、
どう生きたらいいかわからないというわけです。二人羽織の例を出したのは端的にいうと、
食わす側は二人羽織じゃ食えないでしょうということです。

1年前 No.452

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

ミサイルをミサイルで迎撃するのは、鉄砲玉を鉄砲玉で撃ち落とす様なもので、難易度が高いと思う。

レーザー砲なら、点で点を撃ち落とすのではなく、点を線で撃ち落とすことになるから、飛躍的に防衛力は向上すると思う。

また、更に大きなエナージを使えるのなら、レーザーを線ではなく面として使用して、つまり、飛んでくるボールを太いバットで叩けることになる。

こうしたレーザー砲施設を富士山山頂など全国数か所に配置すれば、大きな隕石による災害の防止にもつながると思うし、人工衛星からの攻撃や色んな有事に対する防衛力に成り得ると思うな。

まあ、軍事力的な事は隠しつつ、隕石や人工衛星の大きな欠片の落下など、そうした災害への備えとして整備したいところだね。

1年前 No.453


地下水 ★lHRYPNADL9_P5K

>>453  ミサイルに穴をあける様な強力なレーザーは、鉄に穴をあける必要があるが、その様なYAGレーザーの様なものは、そんなに離れた距離を高い出力で保つことはできない。机上の空論である。

1年前 No.455

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★irWfAAwagt_J3L

まぁ、信仰を捨て、科学信仰というオカシナ信仰に走った代償は大きいよ。

正直、その代償は、人類は破滅すると思う。

1年前 No.456

つみれ ★DUSn7lmwQa_b3g

机上の空論などと云う人は、それを手掛けた事の無い人です。

民間の町工場の親父が大学と協力して、宇宙にロケットを飛ばそうとしています。
その人も、かつては多くの専門家や常識人に、机上の空論などと云われて来たそうです。

しかし、今では文頭の様に述べています。

俯瞰すれば、それが人類の歴史でした。

1年前 No.457

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★irWfAAwagt_J3L

一切皆苦はのさとりで人間、一人前。

1年前 No.458

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 いろいろ考えてみたけど、外側にルールが有ると言うタイプの理屈は全部だめ。
理由は、大抵、そういうのに限って答えは一つだとか絶対だとかいい出すから。
何かがすべてを動かすと言うタイプの理屈は駄目。
そうあって当然と言う理屈のくせに、いざ聞いてみると、知って当然なレベルでない理屈。
そう考えると、昔の王様というのは知らないことを知ったかぶりしないと馬鹿にされると
思ったんだろう。学者をよんで、教えを請うけど、けど、僕知ってますよと。
あとは、役割が決まってるやつ。別な言い方すると概念の意味は決まってるというやつ。
じゃあ、それ知ってのかというと、本読めとたらい回しにして、答えられないし。
そういうのに限って、やたら、しつこくガミガミしてて。

そうだよ、王様がそうでないなら、何なのってことなんだよね。
答えは、神が知ってると。神というか、理ですけど。理ってなんですか、ルールですと。
ルールってなんですかっていうと、極めればわかると、何を極めるんですかと、
ことわりだと。ものには理があって、それを知ることが万物につながるんですよ。
だから、それを知ればなんでもわかると言うんですよ。そんなの誰でもできるわけねえだろうって。
それが王が王たる理由なんだって。これは中国の場合。単に強ければいいわけじゃないんですよ。

実は武力で勝ち取ったものをそれって畏れられて、下手すればジャイアンになっちゃう。
しきたりが支える仕組みですけど、こうやって考えてみたら、強いからだけど、建前は、
そうではなくて、頭の良さというか、それにしたって他のぼんくら共はわからないわけです。
極めないとわからないから。そういうものをそうあって当然だと無理強いして納得させて、
本を読めと。知らないことを知ってるように見せないと王様じゃあなくなっちゃう、
バカだと分かったらおしまいさー。

1年前 No.459

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

無文節の存在を言葉によって分節させ本質を意識して存在者を知るです。

この過程をどこで知ってどこまで遡るのかということが理であったりするわけです。
そのように、本質をしることで、万物を知るというのはある程度理にかなうわけですが、
その無分節から起こるものを知ると言う前段階があって、その微妙な働きを把握することで、
本質を知りましょうと言う方法を取ろうと、考えたわけです。だから、ぼけっと座ってるのは、
駄目です。

ちょっと事の起こりを眺めて、その終わりを見て、元に戻るさまをみて、存在にかえるわけです。
その存在は万物だからまあ、こうやってそういうのができるというのは、それはそうだからそうなんだ
という、ことを必死に唱えてるバカには無理で。だって、途切れたら駄目だもんね。

ガミガミしながらもそのガミガミを意識してるとしなければならないところを、
ガミガミしてないとガミガミしてる人に限って言ってるわけです。起こってないと叫ぶやつ。

1年前 No.460

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

無文節な存在をただ眺めてそこから分節するさまをちょっと想像したら

すごい嫌だなって思いました。

1年前 No.461

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★irWfAAwagt_J3L

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1年前 No.462

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 「バカな奴らのために」

 夏だからバカになりたいだろうから

せっかくだから新しい修行法を考えてあげました。

 これぐらい最低限できないと存在はわからないと断言します。
当然物体があるとかないとかそういう次元の話じゃあないですよ。
この世の理とやらを知りたいとどうしてもほざくならこれぐらい
出来て当然ではないでしょうか。

 本を読むということも文を書くということもどこまでも、
自動的な思考だということは明白なことです。
本当の知覚と言うかそれはどこからということは、身体的なもの、
感情的なもの思考的なものが同時に知覚されることです。
これらにはイメージが有るわけですが、それは言語的に考えて、
分節があるとして、それもイメージがあるけど、これは、無意識的な
ものだということを前提にしたとして、呼吸もまた無意識的な作用です。
しかし、呼吸というのは意識してすることもできる。

 この3つが確かに同時に感じることができるのは多分食べてる時。

読書などの思考はそれ以外はある程度制限されてるわけです。
人とおしゃべりしてるときとかでも楽しいと他の声とかうっとおしいなと、
思うわけです。逆に最も身体的なものにシフトしたら排泄を我慢して、
そのことで頭いっぱいになって一気にトイレで用をたすときです。
何か感じてソレが抜け落ちていく、その感情のさまをじっくりと観察する
ばあいは、もととなるものがそこから抜けて表面的なものも抜けて。
一方何かを我慢して諦める場合だと、ふっと何かが切り替わるというか。
それらにもイメージが有るわけです。でイメージには言語的な何かがあって。

 で存在を感じたいというわけでしょう。

 こういうものを感じる、見る、知る、する、これらは統一された感覚を持ち、
同時に幾つかの感覚に別れていて、これらはイメージを持っていて、ソレは
存在から言語の働きによって分化されてるから、言語を超えて存在に至るんだと。
ということを言語でごちゃごちゃやってたとしても、イメージから逃げられないというか。
イメージというのは意識的なものも有れば無意識的なものもあるわけです。

 もっとも、基本的なことは、知ることでもなく、することでもなく、感じることでもなく、
生きてることです。

 つまり、自分がいるということです。それが、何でもない自分に返ってしまったら、
どんな仕事でも、ちょっと考えれば、合理性がない部分があることは明白でそこに、
目をつぶって大抵の人は仕事しててそれが、全くできなくなっちゃいます。本来なら。
そんなことをしてないからこそ、合理性がないにもかかわらず合理的に効率よく仕事を
してるなどと思うわけです。これが、私だと思うわけです。

 つまり、自分がいるという自覚も持つまでもなくこれは呼吸するがごとく自然なんですよ。
自分がいるということが無自覚なわけです。生きてることがそもそも無自覚だというのは、
心臓が毎分60回ぐらい動いてることに気づかないことからも明白です。どんなに、落ち着こうが、
心臓を止めて小休止なんてできないんですよ。

 そんなわけで、全部自律的にやってみましょう。まずは呼吸から。
呼吸を完全に自分で自覚して吸って吐いてしながら、生活をする。何をするにしても
考えるにしても感じるにしても知るにしても全部自分でする。

なんとなく、息をするということを完全にやめる。
つまり、完全に知るということから始めると。
僕はそんなのしたこともないけどきっと出来ないだろうともいます。
たったの一日さえも。
無意識的なものを把握するに一番基本的な無自覚なものから操作をするということです。
そのための手段として呼吸を完全に把握するということです。

1年前 No.463

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 「量子力学を考えるより」

 シュレーディンガーの猫というのは、現実的に考えると半分ネコが死んで半分ネコが生きてる・・・
そんなバカな話はないというシュレーディンガーがねこの思考実験を持ち出した反論です。

 これはいくつかの意味でバカだといいます。

 小説の一節を持ち出して意味を尋ねるようなものです。
日常会話にしろ怒りの表情を向けるにしろ、それが妥当な躾なのか八つ当たりかで意味が変わるのは、
当然ではないでしょうか。それと似たようなものです。褒めるにしろ、本当に褒めるのか、
ただのおべんちゃらで全く意味は違います。恋愛感情も、ただの好物も両方共好きで済ませる人も
います。好きと言う字を書いてみてそれが愛なのかただの好物の好きなのかと答えさせるのと、
同レベルではないでしょうか。

 この手の質問をして理解したいというのはそれ知って何に成るというのだろうと
言うことをもっと明確にしたほうがその人のためだと思います。
僕も小さい頃に、原子という言葉を四歳で教えてもらって隣の家のおばさんにこの世は原子で
できてるんだよと言ったらすごいねと褒められました。実にこれと同じくらい低レベルな話です。

 何か知ってひけらかしたいのなら、そんなのをするのはガキだと相場は決まってるので、
いっその事勉強で、大学レベルの数学を理解してるんだと自慢でもしたほうがいいのでは
無いのでしょうか。

 それはオイラーの公式です。wikiでも見てみればわかりますが、極めて単純で、
言ってることは円を書いて横を実数、縦を虚数にしたというそれだけです。
だけどそんなの知ったところで、多分その人はテイラー展開も出来ないと思います。
シュレーディンガーの猫を理解するというのは今言うオイラーの公式を理解して、
自慢するレベルのアホだと思っていいです。そんなのしったところで、量子力学など、
到底理解できるわけがないからです。

 シュレーディンガーの猫というのは重ね合わせの原理というものが現実の当たり前にあるという
ことと反するということを意味しています。内容なんてとてもわからないけど、
たしか、講義で、粒子を観測するのに電子をぶつけたりしたら、それで結局位置変わっちゃうから
正確な位置はミクロだとわからなくなるという説明はずっと前に受けたなと思います。

 そもそもなんで、わけのわからない話になるんだというのは二重スリットの動画でも
見て、理解すればいい。波動の性質と粒子の性質の2つがあって、それが等価だと証明したから。
常識的に考えれば、ボーアの原子模型は当然知ってるわけで、陽子の周りを電子がぐるぐる
回ってるわけです。あれが量子的な性質がないと電子がエネルギーを放出したら最終的には、
原子核に電子がくっついて離れなくなってしまう。でもそんなことはないわけです。

 考えてみれば、原子というものを当たり前に理解してるなら量子力学ぐらいしてて当然では
無いでしょうか。だって、量子力学ができる前はなんで原子核を電子がくっつかないのか、
説明できなかったんだから。常識常識、いいたいなら良識力学?ぐらい知って
当然ではないでしょうか。量子力学と、良識をかけ合わせた変な冗談造語です。

 ミクロな世界では当たり前なものは当たり前ではないということです。どうかんがえても、
理という考えからも全く理解不能だし、あって当然なわけがないんですよ。
アインシュタインも神様はサイコロを振らないなどと言うし。反論された、ボーアも
アインシュタイン、アインシュタインとぶつぶつ窓を見ながら考え込んでしまいました。

 二重スリットの実験があれが常識にそぐわないというのは考えたことがないんでしょうね。


あれは距離を長くすることで本当の不条理さがわかるんですよ。
あれは観測者が結果を決めるわけですよ。元の状態が決まってるというのは過去から未来へと、
時間の流れは決まってるということは当たり前だと普通は思うわけです
ところが、光速度不変の原理があるから、光の進む距離は一秒間に限度がある。
つまり、何光年先のところから光子を飛ばしてその二重スリットの実験をしたら、
もし、元の状態が決まってるなら未来が過去の状態を決めてるのと一緒だから。
常識的に考えればそちらを信じるほうが愚かしいということです。
ところが、事実というのは重ね合わせがあるといういことですから、当たり前にある
というそれは、ミクロではまったくなりたたない。

常識とかあたりまえとかそれって、実際に目の当たりにして、触ったりして、そうだと
思うわけですけど、それがすべてを説明したり理解したりできるわけがないし、出来た試しが、
無いんですよ。慣性を確認できるけど、地球と一緒に自分が回ってる実感ありますか?
あると思うほうがへんですよね。それとおなじで、すべてのことを当たり前に理解した
つもりで居るというのは、ウソなんですよ。科学知識はすでに当たり前な実感には反するんですよ。
感覚的な理解でなんでも分かるように出来てないから。瞑想したところでビタミンC
見つかったのかよ。なにが、真理の探求だよ。瞑目して沈思黙考して、そんな実感をしたところで、
どうして、正しいのかと本気で思いますけど。実体験の確信は真理にならないから。
それは、過去から未来へ流れるという考えや、あるものはある、ないものはないという、
考えが、科学的に絶対では無いと示されて、なのに、常識的を当たり前だと思って、
あるものはある、ないものはないとか、感覚的な理解を正しいと信じるさまが。

1年前 No.464

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 少し考えてみると、言語から、言語的イメージを取り除こうと努力してるさまが、
見えるわけです。神話は、結構、支離滅裂でとか言うわけですけど。
学問はかなり、論理的とか言うわけですが、数学が一番これが端的にでてて、
意味抜きの記号体系というわけです。空間と言う数学の概念なんて全然一般人には、
全く理解されないものですけど。
 個体性と普遍性と2つあったとして、個体性へ行こうとしたのに、普遍性になっちゃったから、
というか、まあ、もののあわれとでも言っておけばよかったものを言語に頼ってしまったから。
礼儀の一つに関して言うなら、ごまかしがあったはずだし、上が下におもねる形で、
上がそうだと決めることを放棄しだした最初の転換だと思います。これが、万物の理だと、
言い出す知ったかぶりもココで始まってソレが正しいという理由なのに、すでに、どっかいって。
だから、礼儀はどうしてこうなのかもう言えなくなっちゃう。
 哲学は知るということなのに、倫理は食べることを基準なんですよね。となると、倫理というのは、
哲学を持ち出したり宗教を持ち出したり。だから、差別が何なのかわからないわけです。
 差別と言うか、それだって、言語の差異からきてるはずだろうに、食うことを混ぜたたとん、
縄張りの概念がでてきて、恥だの罪悪だのとあとからついてきて。
 一つと言う結論があってそこから分節するというか、まあ、その考えはあまり良くないと
思いますけど。そこに、イメージだかをもちこむとそれは先入観だとか生まれつきだとか、
諸説あるけど。まあ、ないなら、常に、新しい何かを持ち出すだろうと思います。
 先入観をもつだろうということで一番そうしたいと人が願う理由は安心したいからです。
将来が不安になる人が、先のことが一切わからない事象に常に目の当たりにして平気でいられるわけ
ないんですよ。次の給料がいきなり、0円でああ、これは新体験だと言ってられる人だけが、
本質だとか、この現実そのままに生きてるんだとなどと言ってください。
そのレベルですよ。その言葉の意味って。現代の毎月給料が振り込まれるのなんて、昔には、
無いわけですから。江戸時代とかだったら、年貢とかおさめたり、禄を与えたりするんだろうけど。
年越しの銭は持たないぐらいの気位がないととても耐えられないと思いますけど。
愛なんていうけど、キリスト教の愛というのは本当に疑問で、20世紀になってようやく、
少年愛に対してそれが世間で非難されるようになったけど。マザーテレサにしろ、苦痛を耐えろと、
おかしなことを言い出すようになって、それが賞賛された背景を考えるとまともな思想だとは、
正直思えないというか。道徳的な教えから、知的な理解というよりは、わかったところから、
ものを見るということですよね。そこの転換が道徳と哲学が曖昧な分岐点へ行くわけです。
これは、万物には理があるからということです。別の理由をだせというなら、関心が先入観に、
とらわれてるから、すでに、これはこうあるべきだという思い込みが実態を把握しないで、
捻じ曲げてりかいしてしまうんだということからきて、それを壊せば先入観なしに、
把握できるんだと言う理屈は、将来見込みをぶっ壊しても平気でいられる人がやればいい
ということです。そういった、別に見えるようなことも、関心が出て来る元に変えるわけだから、
その意味では2つは同じ捉え方もできるつまり、意識がでてくるもとに変えるわけだから。
まあ、将来の夢がなくなるというのは、一種の関心がなくなるわけで、関心がないというのは、
情動が動く前にもどるわけだから、性というものにもどるわけです。性は何回かかいたので、
元を読んでもらって。その意味では礼儀を目指した人と似たような感じですけど。
一方で、礼儀はこうあらねばならんということを持ってしまったために、それがやっぱ出来なくて。
本音と建前が反対なぐらいに反対なんだと思います。
哲学というのはつきつめると激烈な新体験がしたいんでしょう。フッサールの現象学にしろ、
東洋思想にしろ。生きることの果になんで私達が居るんだという疑問が出て、いつもの、
進化するんだとか、楽しく生きるんだとかそればっかで。
で、宗教がイメージばかりでというか、まあ、そうなんですけど。ユダヤ教の旧約聖書は、
かなり、お話的でストーリーがあって、学として成り立たせるには、ストーリーを
取っちゃうんですよ。哲学って結構、お話的なもの無いと思いませんか。なんか、学問って
かんじでしょ。日記みたいにしたキルケゴールが出てくるまではそれは哲学じゃない、
哲学は定義から始まるんだとそればっかだと思うんですよ。論理にしろそう。論理は、関係性を
考えるだけで、中身の包含関係をみますけど、考えてみたら、イメージを持ち出すと、
イメージというのはそれだけで成り立つんですよね。一方で、赤は赤で、赤は黄色にならない。
つまり、イメージというのはそれだけで個体性を持ってしまって、包含関係を持つ論理とは、
相性が悪いんですよ。論理的に考えるがゆえに、本来の問題であるイメージを取り扱えなかった。
先入観にしろ、それは、結局ストーリーがあってそう決めたからそうなったわけですよ。
単純な主張には幾つもの理由があって、一つに結論になったわけですよ。一つのセンテンスは、
たくさんにイメージによってがんじがらめになってるとでも言えばいい。だから、カネがない、
なら稼げばなんてならない理由ですね。ほしい、なら買えばなんて理由がそうなんですよ。
単純に、無いということに対してならこうしろと、単純な論理に行き着かない理由です。
勉強がつまらない最大の理由って意味が無いんですよ。正直な話、高校の微積分なんて、
バカみたいに簡単なのに、わからないのは、記号の意味がわからないから。つまり、学問には
意味があるんですけど、その意味自体が通じてないというか、量子力学なんて、記号ばっかでしょ。
本来は言語に対して意味が結びついてるはずなんですが、それをどんどんしなくなってしまって。
そもそも生まれたときは何かを指す度に言葉をつけて考える癖をつけていくわけです。
理解というのはなにか自分でものをいってそうだねと共感されることでできるわけで、
多分これしないととんでもないバカに育つと思います。別のこと言うと、理解というのは、
そうだという承認からくるもので、言葉というのはただ単に言われただけということも言える。
内外という言葉で考えるなら、理解が内から発して外から返ってくることだと言えるし、
言葉というのは外側のものをこうだと言われただけだとも言える。一方で存在というのは、
外にあるものだから、で、これは外からをそのまま知る、こうだと言われたものもそうなんですよ。
それを同時に知るということですよね。一般的にはそれはこうだと言われただけのものを捉える
だけです。理解についても本質的に自分から発してそれが返ってくることを理解っていうんですよ。
だから、内から自ずから承認するということはしないんですよ。

11ヶ月前 No.465

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

本を読むということが自動的な思考だと前に書いたし、
何かを考えたり何かを書くということも自動的だといったのは、というか、
安定してここに私がいるということが自動的なんですね。
人間の顕在意識は潜在的無意識によって規定されているだから、催眠術かなんかで、
認識が変わるのはそのためだとかいったとしても、だからそうなんだと言うことだと
とりあえずそう思うなら、一体どうしたらそこから抜け出せるんだと言うわけですけど。

じゃあ、本当の思考は一体どこからなんだと言うわけですけど。
単純に言ってしまうと本を読んだり何か見たりそもそもわたしはいると感じた時点から、
すでに自動的な思考が入ってるわけですよね。先入観と言ってもいいけど。
単純に言ってしまうと、一秒もかからないわけですよ。

朝起きたときに自分がいると感じるのに一秒もかからない、ボケたときから今いる自分を
感じるのに、その変化を感じるのに、正直それが短ければ短いほど正気だろうと普通思うんじゃ
無いですか。寝ぼけた時間を一時間かけて観察して、つまり、一時間寝ぼけたままにして、
覚醒するまでの自分を感じるまでの時間を一日かけてずっとぼやっとしたままで、
そこから、いつもの本を読んだり考えたりしてる自分になるまでの自分を感じ取ろうとする、
その過程をひたすら毎日繰り返してそうやって、無意識の自分はこうあるべきなんだという、
先入観を断ったり、逆に、いまある自動的な自分から思い込みとやらを取り除いて、
特にするべきこともやるべきこともない、そういった根っこ見たいものがなくなって、
ぼやっとした寝てんのか置きてんのか曖昧な状態にいつでもどこでもどうとでも戻れるなら、
それは、僕は存在に戻ったとかいいますけど、それぐらいのレベルだと思いますよ。

実際は違うかもしれないし、だから、他の単語とか使わないけど。
誰々はこう考えたというそこから言うわけないんだから、そしたらその概念は使えないですよ。
ちがうんだから。理を感じるだとか言うのはこういうぐらいの極端さが要るんですけど、
つまり、よほどの変人でもない限りしないはずなのに、

ルールに従えばみんな丸く収まるんだということを躍起になって押し付けるのが、
堅苦しいバカな奴らの常套句だけど、

じゃあ、そんなやつらどんなルールに従ってんだよというその大本の、理をいい出した
ばかは一体何を元にそんなことを言ったのかというのが

今書いたお話のとおりです。

自分も天理にかなってんだから余計な雑念だとかをきれいにして根本に変えればいいんだと、
結局、やっきになって自分の尻尾を捕まえればうまくいくんだと必死になって、
自分の尻尾に向かってぐるぐるまわってるようないぬっころと似たような状態になってますよと
言うオチ。

11ヶ月前 No.466

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

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11ヶ月前 No.467


日本の使命 ★Gc8HjmXH4j_dmb

日本の氏名が 99円でアマゾンで売っていた。

おい!? 「日本の使命」って99円かよ?!!

11ヶ月前 No.469

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

 カバラのセフィロトは本当はいくつあるのか誰もわからないというのは知りませんでした。
生命の樹と呼ばれるやつですけど。丸が十個あるやつ。十個だと便宜的に決めただけなんだって。
ユダヤ教の考えはかなり西洋に根付いた悪癖の一つだと思いました。

 人間社会の問題は宗教や思想に根ざしたものエゴイズムがそういう文化的な要因つまり、
政治的な要素は強いと思いますが、それは正しく思想を理解した結果というよりは誤解の産物だと
明確にわかりました。

 ヨーロッパの恥の概念が一体何なのかというと、そもそもを考えると、汚いということを
基準に考えてないです。だって、道端に糞とか平気で捨てるし、中世の宮殿汚いし。
ハイヒールが糞を踏まないためにヒール高くしたとか、スカートは糞を見せないためにとか。
平気で庭に使用人が糞を捨ててるわけだから、全然汚いから恥だというのはそもそもが違うわけです。

 今は汚いというのは恥だというのは成り立つんですよ。
やっきになって恥にしたというのが、正直なところで、人権という概念も江戸時代には当然なくて、
明治になって法律を作ろうと海外から売れない学者を呼んだんですよ。
その学者は江戸時代は拷問平気でしてて、それを学者がみて、なんてひどいことするんだと、
泣き叫んで講義したらあれって仕置人に何かが生まれたのでした。

 所詮、罪悪なんてその程度です。

というのも、ヨーロッパのフランス革命とかしてる時代の娯楽って公開処刑が入ってるって
事自体が、普通におかしいですよね。にくいやつが処刑されてわって成るならちょっとわかるけど、
でも、処刑された人の顔の一部をお守りにしたりとかそういう時点で何か違うと思います。
そんなのを娯楽という奴らより日本人がうまいといった食人民族のほうがまだ健全だと思います。

 汚いから差別するんだというところがそこから間違ってるわけです。
差別って仲間はずれにすることですけど、お前なんか仲間じゃないとみなされてそれって、
別にクソ垂れるとかそういうことでもなくて、能力が足らなくてもお前いらないとなりますし。
文化的理解も正しさもそもそも必要ないですし。だって、無理解が文化作ってるわけですから。

 人権思想と言いながらフランスは公開処刑を娯楽にするし、今でもフレンドリーなアメリカを
装うくせに、真っ先に精神科というのが発達したわけだし。
まあ、根拠を知れば解決するというたぐいではないということになりました。
社会の何が間違ってるんですかと聞かれるなら、出来もしないことをやれと言い続けるから、
何もかもおかしくなるわけで、その一つが礼と言う考えですけど、それだけじゃなくて、
他にもあるわけです。例えば、不倫とか、パートナーをひとりに絞れないというやつ。
不倫するぐらいなら、もっとおおらかに生きればいいのに、バレたら慰謝料とか、
えげつなさすぎです。そもそも愛なんて日本にはねえだろっての。あんなの、少女漫画の
作り物でしょ。西洋の恋愛へのステップとにほんのそれは違うわけです。これって大したことない
ようにおもうけど、倫理的に言えば、痴漢が性犯罪に成るわけだから、ここで、痴漢は作り物に
なるのかというまた、変な質問が出て。

 汚いということをみんなに喝入れたのがナイチンゲールですよね。違うかもしれないけど。
彼女はとても頭が良くて、グラフを見せて説得したんですよね。白衣の天使みたいな、
イメージが有るようだけど、そんなのより、とても理性的な人です。そう、外科というか、
それが発達したのが100年前ぐらいでしょう。麻酔ができるようになって安全に切開ができるわけで、それまでは、床屋が兼任するとかだったり、するわけですよ。

 医療医療というとすごい専門職でまあ確かにそうだけど、200年前は針と糸で縫えれば
一人前じゃないですかね。だって、感染症でドンドン死んじゃうからしょうがないんですよね。
麻薬栽培してそれと針と糸とあれば外科医ですよ。昔なら。そう考えると、綺麗好きで、
それだけで立派な人ですよ。みなさんは。

11ヶ月前 No.470

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

まあ、どっかにできもしないことをやれと脅迫的に無理強いしてる考えが、
社会を狂わせる理由だと思います。幾つかはみたけど、全部網羅しろ言われても
僕には手に負えないです。

で、日本の使命が99円で売ってるわけですよ。それを書いた人はヒューム間違ってるとか、
ハイゼンベルグは間違ってるとか、真理は一つだとか、まるで、バカ伊川みたいだけど、
伊川もちゃんとできてたのかもしれないなと思いました。

そういうのはその人達は確かに正しいのだろうけど笑笑と寄ってくる連中が
くると、どこか狂っていくと。で、これはその連中は何か理由があるわけですよ。
夢が叶うとか理想の生き方がどうだとか理想の政治がだとか。
で、結局マスターすることもなく、これが正しいんだと後世につたえていくところから、
根本的にずれていく。

そういうで、例を出すなら、茶道のわびさびだと思うんですよね。
枯れ果てることの味わいなんて本来わかるわけないのに、武家は見え張ったんですよ。
彼らは何が好きかというと実はキラキラ光る刀なんだから、じゃあ、村田珠光いうように、
ボロい刀でも切れれば良い刀なんだって言うのかよって。
お点前って道具の良し悪しではなくて熟練度でちゃんとしろということなんですよ。
だから、新品の靴でなくても使い古した靴でうまく踊れるのが良いバレエダンサーだと
言うよう感じですよ。こういうズレが文化にたくさんあると思います。

正しい宗教ということを考案すればみんな良くなるんだと言う考えは間違ってると思います。
そんなのはどの宗教もそれを目指したわけです。それに、宗教はもうあるじゃないですか。
いまさら新しいのこさえてもしょうがないし、だいたい、宗教は信じても
科学、科学という奴らが、これを信じればうまくいくんだと叫ぼうが馬鹿にされるだけです。

これからは、正しいことを正論を言える人ではなくて正論の中の不純物を濾過できる人が、
ほんとうの意味で必要とされる人だと思います。これ以外に政治的に汚染されたエゴイズムを
除去してまともな人間社会を築くのはむりだと思います。それはとても、面倒で、いくつも、
修正しないと駄目だと思います。単一なこれさえスレばうまくいくんだという答えを、
考えるのは無理ですし、無謀です。

11ヶ月前 No.471

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

ネットのノリというか、社会が間違ってるのに、さも楽しげに不幸を自慢したり、
社畜自慢にしろ、痛い目みてるのに、そこに真剣になれない人ははっきり言って、
死んだほうが良いんじゃないでしょうか。生きてる意味もないし価値もないですよ。
他人に利用されて、捨てられてそれでも生きてる甲斐があったんだと本気で言える人なんて
いないのに。恋愛にしろ、結婚する理由がどこまでもお金なわけで、まあ、こういうのも
なんか、同しようもないなと思いました。

良くも悪くも昭和時代を否定出来ないことが何よりも問題で、平成になってから、
あのころはよかったとくりかえしてるだけの社会になったのではないでしょうか。
あなた達の価値はとどのつまり、出がらしじゃないですか。もちろん、僕もそうですけど。
働いてる人たち、雇ってる人たち、年金もらう人たち、そろって、現役をディスってる。
今更ですけど、本当に英語教育はちゃんとしとくべきでした。
日本なんているだけ無駄だから語学学んで海外で働いてたほうがよほどマシじゃないですか。

11ヶ月前 No.472

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

 「ありがたいもの」

 トイレは本当にありがたい。水道が当たり前に出ることが本当にありがたい。
風呂に入れる素晴らしい。冷蔵庫があるナイス!電子レンジ便利。特に家がある住むところがある、
究極的に素晴らしいと思います。中でも本当に良いと思うのは、

トイレットペーパーの存在です。

 食べ物はとにかく、トイレットペーパーはかつて無いほど素晴らしい文明の利器だと思います。

これ以上ありがたいものなんてありません。

 社会も学校も会社も自動車もテレビもどうでもよくてそんなのより、
トイレットペーパーって素晴らしいなと思います。

11ヶ月前 No.473

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

 品種改良

 僕は人間がすごいなあって思うのは、果物の形を変えたことです。
果物の原種を何枚か見たけど今とは全然形が違うんですよ。
 犬も血統で形を変えて、サイズとか平気で変わってるけど、基本的な形は、
余り買えられてないから。

 人間の創造性はあまり大したことないと思います。
発想力というか、医療なんて進歩したのは150年ぐらい前から。
それまではポルポトのガキ医療と五十歩百歩だと思います。
 数学だって微積分からハジメテまともに進んだなあと思います。
論理なんて述語論理がでてくるまで三段論法さえまともにでてこない。
三段論法は中世では歌にして丸暗記でした。

料理だって、大量生産技術と輸送手段の発達に寄って出来た部分がとても大きいです。
なかでも活躍したのが冷蔵庫。これがないと素材が保存の効くやつばかりになるから、
新鮮な味を提供できないですよ。だから、料理というのは
素材や両輪の技術というよりは、科学技術で出来てるとでも思ってればいいですよ。
だって、冷蔵庫ないと、寿司なんて腐って食えたものじゃないですよ。
築地でしかたべれないというか、築地に運んでる時点で腐敗してくるんじゃないですか。
冷蔵庫ないと。氷に入れて運ぶんですかね。でもそんなの冬ぐらいしか出来ないだろうから。
文化として定着しないというか、上流階級だけしか口にできないというか。

 機械に関してはかなり、独創的なものがあると思います。
そういう意味では創造性はあります。知性という点で言うと創造性はないといえるんですけど。
機械gif動画みて、みててうーんって感心してしまうような物いっぱいあるし。
学問があるからというよりは、その人の作った製作者側の個性が出てるというか。
 そういう意味では、イラストや音楽はかなり個性的ですし、絵や音楽というのは、
かなり技術的な部分が出てると思います。

 一方で精神性や宗教性はどんどん低劣になったと思います。こうなった最大の理由は、
開祖以外結局よくわからん、で、代々受け継がれてあーだこうだと議論し合うからです。
キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、第二キリストとか、三位一体あらーとか
ニューバージョンがでてこない、より良くなったということがでない、保全性が強すぎる。
そのくせ、キリストになりました、ムハンマドになりましたでてこない。
神になりましたというものなら、とんでもない冒涜だと言うわけです。

 そういう点ではニューエイジ思想というのはなんでもオッケーですけど。
だけど、あれはあれで低劣というか、ああ考えてみて、伝書鳩になってるから駄目なんですね。

原点に帰って、植物というのはすごいですね。盆栽です。
あの小さい松が可愛そうです。あんな狭苦しい所に閉じ込めてかわいそう。
どんな変形をしても植物というのは生えるんですよ。で根っことかあれが動き出したら、
かなり恐怖です。ボイニッチ手稿だと、植物を利用する方法だか、植物世界というのがあって、
あれは植物が動いて人を脅かしてる世界だっけか、この長閑な地球の森とは全然違います。
かれらはかれらで、いっぱい生えてて、人が切るだけ切って森なくなっちゃって、
でも、人間みたいに戦争をするわけでもなく、ただ生えている・・・
まあ、根っことか見てると、あれが縦横無尽に動いたら、かなりキテレツで。
で、地球の植物は動いてないから、彼らはじっと地面に生えていたいんだなと妙に思いました。

11ヶ月前 No.474

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

今日は僕の秘密を白状します!!

それは、歯糞を指でしーしーしてたことです!!

どうもカテ違いだとずっと思いながらもこれって哲学より大事なことじゃないかと思いました!

よく取れるんですよ。歯磨きしてもそれでもくっついてることが自覚できました。

皆さんも是非やってください。汚いなというバカがいたとしても

あなたの健康には買えられません。虫歯になって誰が困りますか?!

それはあなたです!!

歯間ブラシも糸ようじも使ってもどうも歯の根っこはどうも取れてないということが

わかりました。歯磨きしても取れるということが歯にべたつくのでわかります。

ぜひ、爪で歯の根っこをしーしーして歯糞を取って健康になってください!!

虫歯はどれだけ体鍛えようが直せません。

11ヶ月前 No.475

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

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11ヶ月前 No.476

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

緑はなぜ、やさしいのだろう……

11ヶ月前 No.477

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

青は落ち着かせてくれる…

けれど緑はやさしいから…

どっちもいいな、と。

きょう自転車で街路を抜けたとき、

雑記さんの植物の話を思い出しました。

ちょうど >>474 で書かれていた話ですね(⌒∇⌒)

区画整理された街路樹が、もし動きだしたり、喋り出したら、

とんでもないことになってるんだな、って。

そのとき、思ったんです。

あ、緑ってやさしいな、って。

雑記さんに、とても大切なことを学びました。

ありがとうございます<(_ _)>

11ヶ月前 No.478

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

雑記さんにはまるで

「己を言う雑木」のような優しさを感じます(⌒∇⌒)

また、投稿楽しみに読ませていただきます。

すいません、いきなり勝手に話しかけてしまって……

悪気はなくて、

つい、思うところあったので……|д゚)

では…お邪魔しました…(。・ω・)ノ゙

11ヶ月前 No.479

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

とくに >>475 が好きです…<(_ _)>

11ヶ月前 No.480

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_qEA

ほんと…失礼しました・・・・・・(-_-;)

11ヶ月前 No.481


削除済み ★Gc8HjmXH4j_dmb

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11ヶ月前 No.483

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

捕食動画見てるとワニが亀をガリッと食って腹に甲羅突き刺さらねえのかなって
気になってしょうがない。
蛇が鹿を飲み込んで死んでるやつとか、よくくえんなって。
ペリカンが鳩を丸呑みしてのどに詰まるだろうに、鳥は飛べるけどくちばしという、
消化に悪い器官だなあって。

11ヶ月前 No.484

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

企業は今人手不足なんだそうだ。
どこまでも嘘くせえなあ。

そんなに人が居ないなら子供引き取って育てれば?

そうやって

企業に尽くす人財に

してみれば?

11ヶ月前 No.485

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

真理だとか神だとかだのいいたいなら、

いっそのこと超能力でも身につけてから

いえ。


3000年先の未来を完全に見通してから

いえ。


行法なんてググれば出てくんだろうから、

っていうか、今時より情報が集まる社会なんて

人類史上ないんだから、そんでもわからないなら、

やめちまえ。

11ヶ月前 No.486

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

https://www.youtube.com/watch?time_continue=133&v=PPykgyIiYwE

 これぐらい、わらえないと信仰は手に入らないぜ!!

11ヶ月前 No.487

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

 「切った九字は返される」

返し方など全く知らないけど、切られたら神社に相談すればいいと書いてありました。


鳴釜神事の実際と考察
九字切り、呪詛の作用と危険さ、その施術者の覚悟について


と言うところに書いてある。
山とか、旅行先での知らない土地とかで、魔除けのためのおまじないだから、
人に向けるのは以ての外だそうです。

九字と言うのは軍隊を引き連れてお前の所にやってくんじゃーと言うそんな感じの
あれですから。素人がガタイの強いムエタイやってそうなやつに、
おめーふざけってっと、親分に言ってカチコミすんからなって言うような感じです。

考えてみたら随分おっかない話ですよね。

人を何人も呪い殺してるような悪霊にこんなの切ったら
つきまとってくださいと言ってるようなものですよね。
霊的な護身法を当たり前な日常に変換すると、
ヤクザ(悪霊)にメンチきってガンくれて喧嘩売って警察(不動明王)が
黙っちゃいねえぞって。そんな感じですよね。

人に切ると加護とか守護霊とかを脅してるような感じに成るわけだから、
全くいいこと無いわけです。
どれくらい効果あるのか知らないけど。

人を追い返したいなら、怒鳴り散らせば手っ取り早いわけだし。
そもそも人にこんなの使う事自体不謹慎というか。
外人が中指ジェスチャーするようなものです。

呪われたら、神社に相談する。

10ヶ月前 No.488

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

 「どうしても呪いたい人達へ」

 呪いたいというか、大体魔術書なんてネットで公開してるサイト
魔術の学院 I∴O∴S∴

僕の知ってる限りではただでココまでの知識が学べるのはまったくないと思います。
本屋さんで買うなら、軽く1万ぐらいの価値があります。

本当に専門的なレベルがあるなあと思いました。
呪い方なんておまけにもなってないような気がします。

本来魔術というのはこういうものです。

 精神的な事柄をちゃんと勉強したいなら魔術より心理学のほうがいいと思いますけど。
気功やりたいなら、この難しいことやらなくても呼吸法をやって手をこすって気を感じて
まわすだけだし。アマゾンで売ってますよ。気の感じ方って。

 素人考えの呪いってこれってどれくらい本当に成るのかなって。
そもそも人間は呪わなくてもほっときゃー100年持たずに大抵は死ぬわけです。
そんなものにいったいどれくらいの価値があるんだろうって。

 呪いたいというよりもそもそも嫌なやつが居なくなればいいのになあと、
ぶっちゃけ自分とその糞との縁が切れれば円満解決です。トラブルも本人との縁があるから、
問題に成るわけであって、関わってくれなければいいという場合もあるわけです。
例えば、浮気されて悔しいから呪って不幸になれ、と言う程度なら、
そもそも浮気性のバカを拾ったやつが悪いに成るし、大体人の不幸を笑うやつが、
どうなろうが知ったことじゃないので、やれば良いんじゃないですか。

 この手のものって突き詰めると必殺仕事人って感じじゃないでしょうか。
ヒドイやり方で外人にこまされて死んじゃった旅行者の女の子がいたとネットで書いてあって、
そういう家族が捕まったとかそういう知らせも受けてなくてもしくは、大して、刑も受けずに、
ヘラヘラ笑って相変わらず犯罪を繰り返してるようならこういうのは多少は呪われても
しかないというか、そもそも、呪いなんてあるならなんでそういう奴らがのうのうと
生きてんだよって本当にそこから不思議です。呪いがあるなら恨み買ってとっと死んじゃうはず。

 というか、一番ありえるのが、そういう悪人はもとから染まりきってるから、
意味がない。要は、悪にとりつかれなければその人はいい人なのかもしれない、
取り憑かれてるから悪なんだと。そもそも呪いというのは悪をぶつける行為なんだと、
まあ、適当ですけど。そんなのより、そんなヒドイなら探偵でも雇って、マフィアでも雇って、
ソッチのほうが自分でやりました感が増すと思うんですけど。

10ヶ月前 No.489

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

 「呪詛はなぜ返されるのか」

 不動王生霊返しという、有名な呪詛返しの真言があるんですって。
ググれば読めますけど。意味はすごい日本語的でわかりやすいです。
こっちのほうが本場の呪詛そのものと言う感じがしますけど。

 お前のやってることは全部こっちお見通しなんだ、お前の所に血染めの花を咲かせてやんよ♪

こんな感じの意味です。

なぜか大日如来の真言が混ざってる。
まあ、呪詛返しに大日如来使ってんじゃねえよって思います。
不謹慎だと思いますよ。
全一者の名前をチンケな事に使ってんじゃねえよって思います。

 っていうか、なんでマンダラで呪詛が出てくるのか全くわからないですけど。
マンダラというのは人間のアーキタイプを描写したものだろうと思うので、それを九字に当てはめる
発想が今ひとつわからないですけど。
別にこれ使って九字を言ってるわけじゃないですけど。

 例えば、

急急如律令(ただちにこれを行え!!)

 と言うキョンシーとかにありそうな御札に大抵書いて有りそうな物あるけど、
あなたたちに、命令する使い魔いなきゃー意味ないですよね。

そもそも、

直ちにやれや、オラ!

これと変わらないわけです。
真言(オンキリキリバサラウンハッタ)とか、その手の言葉には言葉自体には
意味があるんだろうけど、不動王生霊返しなんてほとんど日本語じゃないですか。
神道の祓えごと祝詞、ちょっと見てみれば、大抵は意味読めばわかるし。
意味を考えると、何の意味もわからないで唱えさえすれば効果があるんだと
根拠もなく信じる人は信じるんじゃないですか。ちゃんと意味を考えたりしないと思うんですよ。

10ヶ月前 No.490

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

 「結論」

 脅迫文でも送ったほうが手っ取り早いんじゃないですか。

 呪うのと同レベルじゃないですか。

 血染めのズタ袋に内蔵詰めて宅急便で送ったら病気になるだろうとは僕も思うけど。

 そんなくだらないことで厄を払いたいなら、

 警察に相談したほうがまだましではないでしょうか。

10ヶ月前 No.491

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

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10ヶ月前 No.492

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

哲学でも何でもない程度の低いこと書くけど、
アダルトチルドレンの本のあとがきで、
いい子ちゃんが滅私奉公して子供と夫にとって
いないとやっていけない存在になって支配するんだという話があって、
一方で、最近女性があるあるーと共感する漫画と言う記事見て、
肝心なことはあの人達はいい人ぶってるけど、支配したいだけ。
見捨てたほうがいい人たち。もちろん、僕なんか相手される人ではないですけど。
顔色伺うにしても程々にしないと駄目だと思います。
だいたい、あの絵は猿みたいな顔してるというか。
え?なにいってるのと不思議がってるような絵面が猿みたいに見えました。
だって、あの人達が子供作って育てたら5回叱って三回怒って二回愚痴でしょ。
いかにも共感を大事にしてますよというポーズと言うか、
それにしても年収でしか結局男を図ってないので、それは女性にとって生物学的本能だと
言うことを正当化してる。

ああいう綺麗事は何回書いたけどまとめると支離滅裂になります。

倫理が公平性公正さを満たすということに当然反するし、
なにより出産や子育てというのは女性に多くの負担がかかるし、一方で収入を
ある一定の期間男性に頼らないと出来ない以上、公平なんてできるわけがないんですよ。
同じ仕事同じ役割などできるわけないんですよ。女性には女性の悩みがあるし、
男性には男性の苦労があるし。そうやって、みんな平等に出来ないままに、
それが当然だと言う一方で公平や公正とか子供の頃から仕込んでみたり、
旦那は旦那でノルマに負われて苦労していざ家に帰ってだらけたらだらなしないと
奥さんにバカにされて、そりゃー腹も立ちますよ。それでマイホームパパやって家族サービス
しろとか、理不尽だなあって。年取ってね、奥さんが子供も小学校行って、
手がかからなくなっていざ仕事仕様となったら年収が200万足らずのパートばかりしかなくて、
かつての仕事のキャリアも思いっきりあんたそんなの今役に立つと思ってるのと、
値引きされて、そんで、今度は旦那の年収と自分の稼ぎを比べては自分のほうが、
稼ぎが弱いんで、旦那に強くでれない、一方で旦那は旦那でストレス解消と称しては、
ギャンブルや出張のついでに風俗行ってみたり、接待と称してキャバクラ行って。
その出た金を奥さんがやりくりして誰が家計を支えてるのよと怒鳴り散らす。
そうやってだらしないのが、子供にしわ寄せつまり、教育に対して子供の未来のためと行って、
がんじがらめにして、子供は理不尽なカリキュラムを押し付けられてこなせないから、
ひきこもり。まあ、考えてみれば、旦那もくだらない見栄で無駄な浪費したり、
酒の付き合いなんて、無視したら行けないというか出世できないというか。
同僚にけなされたくないとかそういう理由で無駄遣いしてんじゃないですか。
そう、ぷるでんしゃるに入った保険セールスマンのブログに一億プレイヤーも居るのに、
節約して貯めるって発想がないんですよね。同調圧力で浪費癖がついちゃうんですよ。
ビデオ研修で家族の不幸とやらを躍起になって刷り込んで大事な話がありますと、
コネ使って電話かけては、相手をうんざりさせて買ってもらえるまで帰らないセールスを
して、もう、買ってやるからかえってくれよって感じで物を売ってんのかなっと思いました。
ブログの人の勧誘のされ方のアポイントにしても

最初、予定が入ってるから断って、そんで次の提案が更に無理な平日の真昼間で、
これって、最初からできるか出来ないかという瀬戸際のところで受けろというのが前提なんです。
で、決断しないやつには、優秀なやつは決断が早いんだとデタラメ言うわけですよ。

昔は、成功哲学とかビジネス書とか少しは読んでた時期あったけど、
決断が早いのは優秀だというのは、そうやっておちょくるためにあるんかなと
いまおもいました。ま、優柔不断は駄目だというのはわかりきったことですけど、
それなら、人の都合考えないで優秀と言う言葉を餌に無茶を押し通るという考えといい、
あれもあれで、断れれたときは保険の商品が悪いんであってお前が悪いんじゃないって
上司が言うんですって、逆ですよ。ブログの人のコネを使って売り込みして返ってほしいから、
買ってもらうんだから、ことわられたらそりゃその人のせいですよ。
で売り込みが、大事な話があるという家族の不幸を持ち出して不安を解消させるという、
いかにもな商売です。保険という統計と数学を駆使して利益を上げる金利の商売は、
つまり、不安を煽った心理学に寄って成り立ってるわけですよ。商品設計が優秀ではなくて、
コネで商売してるわけです。そんなこと無いなら共済のチラシ見て客の方から電話でもなんでも
するんじゃないですか。その人だから買うわけだから、商品ではなくて人で選んでるわけです。
で、ぷるでんしゃるは辞める人も結構いるんだろうし、で、引き継ぎには売上にたいして、
お金もらえないんですって。だからお客さんが困る頃にはおざなりなサービスが来る。
まるで、アップルケアとは正反対ですね。そもそも保険なんて10年20年先の話ですよね。
じっさいにお世話になるには。でそのころは対応が適当で、売り込むときは必死で。
随分ふざけてんなと。そうやって、企業風土をフレッシュにし続けて上がりを払わないですむから、
それで、マージンをいっぱいあげますよと勧誘して絞るだけ絞って捨てる。

こういうのはいっぱい書けるけど、なれないことやるのは本当に大変だなって。

10ヶ月前 No.493

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モノスは、何によって、モノスを評価しているの?

10ヶ月前 No.494

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

どんな人生を送りたいとか、そういうのは自分がなんなのかとか自分はどういう存在なのかとかとは、
関係があると大半の人は思うはずなのに、こうやって書いて思ったのは

関係ないと思いますよと。

不満に対してどう反応するのかというのは自分がどうなのかとかあまり関係ない。
僕が言う、自分が何かとか自分がどういう存在なのかというのは
原型というかアーキタイプと呼ぶようなやつで、魔術で言うテレマと言うやつです。
アレイスター・クロウリーがいう、ホーリーガーディアンエンジェル、聖守護天使とか、
エゴイズムに染まる前の純粋な自分とやらで、それが社会を担ってるなんて

大嘘です。

家族の不幸に対しての不安の解消はアダルトチルドレンで言う存在不安と同等だから、
オリジナリティーを売ってるわけないんですよ。

保険業というのは資本主義で言う金利商売ですよ。金融がないと成立しない。
大半の農産物というのは安く買い叩かれてる一方でサービス業というものが成長し続けた。
それを考えた際に、一番これが根幹にあるわけです。
リーマンショックでCDSだかなんかわからないけど不動産の証券化が焦げ付いただの、
金利を商品化しただとか、これも、リスクテイクというものからの開放を考えた。

で、そういうのを担うのは数学の能力が高い連中で、どういう原動力がと考えると、
心理学的な要素です。デリバティブ売ってた奴らもアダルトチルドレンでノルマ達成しないと、
自分が肯定できないところから見ても、そこに、自分なんてないくせに、
ソレが自分の人生だと思うわけです。ないというか、そこから自分とはなんなのかとか、
それいっても、しょうがないというか、考えてみれば、家ありきで、お家騒動で
パニクる連中が考える自己なんてグルジェフは全くそれは自分だとは言わないだろうと思うし。
僕ももちろんそうだと思うし。

つまりね、将来に何になりたいんですかといって、ユーチューバーに成るとか、
ヘッジファンドに入ってトレーダーになるとか、別に自分が何であるのかなんて考える必要が
ないんですよ。自分に対しての不安に対して逃げるどころか同調して同類に成る奴らばかりだから、
なりたいものと本来の自分は正反対な場合のほうが多いんじゃないですか。
だから、本当の自分というのは考えるだけ無駄です。なりたい自分と大抵は正反対だから。
そんなわけで、魔術で言うところの本来の自分を取り戻すという点では願望実現は成り立たない。
魔術で願いがかなわないというのはそういう理由です。そもそも何の役にも立たないというのも
あります。仮にあったとしても本来の自分のしたいことと反することをお願いするんだから、
力あっても叶うわけないんですよ。

10ヶ月前 No.495

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

モノスは新種の類人猿じゃないかな?

10ヶ月前 No.496

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

優雅な動きに意味はない
https://www.youtube.com/watch?time_continue=6&v=BFqotaIc3Dw

動画は六自決ですけど、
別にオンマにぺめふんでもいいんですよ。
おん ま に ぺー めー ふん。
ムーブックスで高藤聡一郎と言う人が書いた密教の入門書で、
六自決の代わりに、おんまにぺめふんと言うわけですけど。
これで効果が出るというのは発音というより母音に意味があるのでは
無かろうかということです。発音ごとに気を通す場所があってね。

ついでに言っておくと、体が凝っている箇所とか、柔軟体操で、
痛いと思うところは気が滞ってるので、そこを通すわけですね。
結構力ずくみたいな側面があって、
でもいくらあんなのしたって丹田が鍛えられるわけがないし、
体曲げても大して気なんて強くならないでしょ。

大体、気を強くする呼吸法はきつい。一呼吸を三分ぐらいにするとか。
最初は一分ぐらいでやるんですよ。二分のサイクルだときついんじゃない。呼吸法なんて突き詰めれば、吸うか吐くかをどっちかを長くするか、止める時間はどれくらいかとか、どこに気をためるのかという
イメージとか結局止めるという動作を入れるだけです。

10ヶ月前 No.497

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

さっきのは自分が立てたスレに載せるべきだたの

間違ってこっちに乗せてしまいました。
https://www.youtube.com/watch?v=kkRzW3rixhQ

こういう感じの話書いたほうがいいのかなと。
突き詰めて考えると、
自分が下だと認めると周りに馬鹿にされるので
認められないということです。


正直これでいいんだと思いますよ。

どこまで自分をごまかせるのか社会が正しいと言うのか、
まあ、十年も持たないだろう。

自己責任論は全く正しくないけど、
こういう失敗が道徳的に間違ってるからだとみなすのは、
実にモラルハラスメントですけど、

何もしない(本当はみんなに役立たず扱いされるだけ)
挑戦する(身の程知らずと馬鹿される)
失敗する(やっぱそうだと揶揄される)

けれど、金持ちを何かインチキしたんだろと言う始末ですから。

https://www.youtube.com/watch?v=OUwSH5E0png
この動画ですけど、
>>493  の話と絡んでますけど、社会に認めらないとつまり仕事してないやつは、
生きる価値が無いということです。でもそれもこれも、役に立たない私は、存在する意味がない
という、価値観で成り立っていて、それって結局ママが子供に仕込んだんだよね。
どうしてそうなのかというと、誰が食わせてやってんだとパパ言うんだよね。

これのつけがココに来てんね。つまり、無責任なんですよね。
だから、支え合うという考え自体が本当の病気なんであって。

10ヶ月前 No.498

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

https://www.youtube.com/watch?v=Q3ZQwb6k9TU
 僕はアボットまともだと思います。
不細工だけど。ただ、使っちゃうっていうのが、
問題というか。

 この動画のオーナー曰く、
「これなんのために買ったの?」
なんだって。

 一方子持ちの里見ママは駄目かな。
子供をどっかへあずけて男と会ってるみたい。

 寮みたいな下宿の人はちょっとあれかな。
これはこれでまあ、いいんじゃなかな。

さとみママだけ駄目。

10ヶ月前 No.499

雑記 ★Gc8HjmXH4j_dmb

「天界生命方程式」
x+(+-*/)x=x+(+-*/)x+(+-*/)-(+-*/)*(+-*/)/(+-*/)x=0=1
x-(+-*/)x=x-(+-*/)x+(+-*/)-(+-*/)*(+-*/)/(+-*/)x=0=1
x*(+-*/)x=x*(+-*/)x+(+-*/)-(+-*/)*(+-*/)/(+-*/)x=0=1
x/(+-*/)x=x/(+-*/)x+(+-*/)-(+-*/)*(+-*/)/(+-*/)x=0=1

これを天界生命方程式といいます。4つで一つの意味をなします。

生命界において活躍しつつある、法則的因果関係の数学的プラス・マイナス・ハング・ブレイク
によるコンビネーションによる表現だそうです。

生死禍福より道義的一切がこの中に包括してるんだそうです。
数学的な意味は無いです。概括観念的以外の実在宇宙においては。
実在しない、実在しないものは実質には真実じゃないだそうです。
1=0で0=0なる1で0+0=0で1+1=1だって。
方程式の0は全精算の決済完了を意味して、0=1は決済完了は消滅せざるを意味するだって。

 なんか読んでて全然わからないですね。

平たくするなら、善悪というのははっきり出来ないということです。
線引できないし、何が悪いとか何がいいとかそういうことが出来ないということが、
なんとなーくわかりました。そんで、したことはどこかで帰る。
いいことしたら、いいことが返ってくるんではなくていいことの中の悪い部分も帰ってくる。
悪いことしても、悪い部分の後悔が後々帰ってくる。
逆に、良い自分になろうとするには痛みを伴うし、楽だと思って援助交際して、
だめになったり、楽しいと思ってギャンブルにはまって借金おったり、
考えたら当たり前といえば当たり前なんですよね。でも彼の場合、神の絶対性能とやらで、
なんでもお見通しな絶対的な方程式なわけです。

これが数学的に成り立たないでたらめなのは明確で、これがかの朱子学が言う理です。
もちろん、朱熹はできたわけがない。できたら、禅が寝ぼけてるなんていわないよ。
なんでもお見通しで彼自身が超人的な「数戯」とやらをするんですよ。

理がどうだの、礼儀がどうだのといいたいなら、これぐらい最低やってから言ってください。
できないなら、インチキだからとっときえて。

以下が数戯とやらです。)
あなたも私も数字は一つも言わず、計算した答えをいちいち指摘して、また同じように、数字は
互いに言わないのに、あなたの計算する答えを、私が先に書いてあなたの前に伏せておいて、
あなたはそれから、自ら数を選び計算された答えは、私が書いておいた答えと同一であった。
あなたが勝手に書いた数字で計算を初めて途中から私が入ってあなたの命じられるままに、
計算し、その答えは同じだった。あなたが勝手の数字で計算した答えは私が予め誌しておいた、
哲学的の答えだった。たくさんの数字のなか、あなたの心で思われた数字を指摘し、
さらに思う前に、これからおもう数字を、私が予め書いて伏せておいたら、そのとおりであった。

10ヶ月前 No.500


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