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哲学談話室

 ( 哲学掲示板 )
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ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

どこのスレに投稿するか、いろいろな理由で迷うことはありませんか?

既存のスレ、新規のスレ、いずれもいまいちに思うような場合に、気楽に投稿できるようにこのスレをつくります。

したがって、テーマは哲学に関するものなら原則自由。
独り言でも議論でも形式は問いません。
他のスレの話題がそこのスレ主旨とずれてきたような場合に、ここで続行するというような下請け的利用も可。

スレ主の私は基本仕切りませんので、各人ご自由にどうぞ。

1年前 No.0
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百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

芥川龍之介さんが何かわからない漠たる不安に押しつぶされて自殺したのは・・

ヤスパースさんの本の中にありました・・夜への情熱があらゆる秩序を突き破りその渦巻に引き込む無の深淵へと身を投じたのです・・

芥川さんの遺書ともいえる作品は「河童」だと思います。完全に狂気に入った作品です・・

深淵へ入り込んでしまって救いの命綱が最初からなかったのは蜘蛛の糸の思考の所為です。

作品は深淵への身を投じる遺書です・・ヤスパースさんは芥川さんを超越して飛翔する思考方法があります・・

1年前 No.101

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

トルストイさんの人生も語れます。宮沢賢治さんの人生も語れます。・・

エラリークイーンさんという二人組で推理小説をお書きになっている推理小説は二人で書かれているので全集読んでも人生をつかめません・・

1年前 No.102

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

ちなみに会計や帳簿はものすごく簡単です。コンピューターになってからとても楽です。

数字を変えられて意地悪する同僚が何処にでもいて見破れない国立大学の人がノイローゼになるらしいです・・

1年前 No.103

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

一番賢い人は、銀行員も信じないでタンス預金らしいです・・

1年前 No.104

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉102

「トルストイさんの人生も語れます。宮沢賢治さんの人生も語れます。」

じゃ、語ってみて。

1年前 No.105

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

『春と修羅』を読むと

 賢治は蟲師だったんだなと思う。

1年前 No.106

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>92  訂正

内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)

今日はこれまで。

1年前 No.107

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>97,98

>エコノミーが大事っていうと手段としての学問、実学的学問に思えるが、哲学は非実学、虚学であって、自己目的的だって言いたくなる。

そこを私は否定している。哲学は自己目的的なものではなく、人間が従来の方法の奴隷になることから脱するための有効な手段である…と。
>「結局、文学や漫画の経験が真の教養として身につかなかった。そういう向き合い方がダメだった」というふうに言ってるように思える。

その通り。私はダメだった…という話。
>今現在、哲学の一般教養としての意義については私はけして否定的ではない。

私は非常に否定的である。
>いわば、気づいたら水底に沈んでいて、水上の光の世界を目指して浮き上がろうともがきながらつかむ藁みたいなものと言ったほうが当たらずと言えども遠からず。

私から言わせれば、それって哲学が「手がかり」であるってことだよね?すなわち哲学って、水底から浮かび上がるための手段だよね?と言いたい。
しかし、哲学はそれ自体で自足できるものだから、本来手段であったものが目的になっても、十分に楽しい。楽しいからね哲学は。最高に楽しい。
>エコノミーで言えば、まず、哲学なんかしないで済むのが一番いいと思うわけ。

哲学は非常に有益で現実的。

【疑問】
ここに述べられている考えは今一つ私には整合的には思えない。
哲学が非常に有益で現実的であるなら、なぜ一般教養としての哲学の意義に対して否定的なのかよくわからないのだ。

「教養としての哲学」は、一般に人生の糧となるものをオリジナルにこだわらないで役立てようという、
むしろ、きわめてエコノミカルな発想だ。
自分のオリジナルな思想でなければならないとか、ハイデガーの原書をなめつくすように読み込まねばならないとか、そういった非経済的なものではない。
1960年代くらいには、日本ではこの教養としての哲学が流行したみたいで、「世界教養全集」みたいな全集がいっぱい発行されて、
哲学もそういう人間形成のために有意義な教養として読まれていた。
そういう時代にたくさん出ていたのがいわゆる「哲学名言集」的な本だ。
きわめて経済的でしょ(笑)
百理さんは前に、ぞうさんから「名言集で哲学はできん」みたいにしかられていたけど、
百理さんの哲学は教養としての哲学だと私は思っていて、それは彼女の血と肉となり生きる上での糧となっているのだから、
それはそれでかまわないと思うんだね。自分のオリジナルになんて彼女はこだわっていない。
賛同は得られないかもしれないが(笑)、たぶん、百理さんからすれば、ナルちゃんのやってることなんてそれこそ非経済的とも言えるのではないか?

>俺が考え出したんだとか、私がやったんだとか、そういう「私、私」の重視は、エコノミーの観点からすれば、無駄です。


これは固有名としての自己、個我を無駄として否定しているが、要は「無私」の思想ではないの。
だけど、これはまさに
無私 ⇔ 無他
だと思う。
要は、独我論的自己を否定して共同主観を称揚してるように見える。ま、当たっているかわからないが。

>例えば、文豪を沢山読むことが善いのだとして、仮にその読んだ人が私でなければ、意味がないという場合がある。私が色んな漫画を読んだり色んな文学を読んだということに意味があるのは、それを読んだのが私であって、他人ではないからだ、という場合がある。


この場合を、どのようにてじさんが自説の中に位置づけているのか不分明だが、私が言っているのは、
キルケゴールの単独者の次元、だから倫理的次元というより宗教的次元かもしれないが、これは「私」でしかありえない。
こだわるも何も、とりかえのきかない、共同主観とは関係のない、ある意味そこに逃げ込めない、「この私」の問題があるっていうこと。
ヤスパースの限界状況と言ってもよい。
ここで初めて〈他者〉が出てくる。

まあ、やっぱり私から見ると、てじさんの考えは独我論的に思える。
それはまた今度。

1年前 No.108

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ふくろうさん

>百理さんは前に、ぞうさんから「名言集で哲学はできん」みたいにしかられていたけど、



真理を求めているのです。自分の考えを求めているのではありません・・

1年前 No.109

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>109  百理さん

恐れ入りました。
至言でございます。

【百理語録】
 真理を求めているのだ。
 自分の考えを求めているのではない。

墓碑銘にいかがでしょう?(笑)

1年前 No.110

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

悪魔ちゃん

トルストイさんの人生や宮沢賢治さんの人生はふくろうさんに聞いてもらいたいです・・

あまり年寄りをこき使うのはどうかと思います・・

1年前 No.111

雑記 ★Gc8HjmXH4j_0GX

百里は毎日家の四方に塩でもまいて清めるが良いでしょう。

アメニモマケズを信じて人生を棒に振ったゆにこさんがいるので

宮沢賢治は大嫌いです。

1年前 No.112

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

雑記さん

私はニーチェさんが嫌いです!

1年前 No.113

雑記 ★Gc8HjmXH4j_0GX

あれは最後にくるっちまったんだから、

少しは同情してやれよ。

1年前 No.114

雑記 ★Gc8HjmXH4j_0GX

失敗して落ち込みたくないってやつ結構いると思うけど、

くだらない気晴らしなんかで大失敗したこともころっと忘れると、

自分自身が信じられなく成るぜ。

1年前 No.115

雑記 ★Gc8HjmXH4j_0GX

俺の能天気さをルソーに半分ぐらい分けてやったら、
多分歴史には残らなかったと思うんだよ。

1年前 No.116

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

雑記さん

浮かれるとやっつけられますから・・少ししか外出せず引きこもりしている方が幸せです・・

テレビを見ていたらお外で働くと言うことはセクハラされることだと解りました。

地獄のような家業も案外幸せだったのです・・

1年前 No.117

エコノミー @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

>>108

共同主観とか独我論とか、そんな難しい話じゃないのです。

私のイメージする教養というのは、一般教養のことです。Bildungとしての、人間形成としてのものをイメージしてなかった。しかし、この人間形成というのが曲者で、哲学のせいで無様な人間が形成される危険がある。

どこが独我論なのかは聞きたいが、けどたぶんザビビのふくろうさんは当たってるよ。私は自己否定しようとしつつ、本当に自分の無力に絶望しかしていない。

独我論とふくろうさんは言うが、私の言葉で言うなら、自己愛性的で自閉的で観念論的。

例えば、この投稿って無駄なんですよ。無駄なことをやっている。明らかに矛盾している。しかし、永遠に「独我論」から出られないなんてイヤなのです。でも、おそらく永遠に私は逃れられない。それがイヤなのです。

哲学のような学問の水準にまで達さない話です。

1年前 No.118

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

エコノミーさん

霊性と人格と心が欠けているだけで・・学問的哲学では高水準です・・

心が乾いているのでは?

1年前 No.119

エコノミー @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

私は無駄を愛しているし、無駄を愛するからこそハイデガーを舐めるように読める。効率を考えれば、逐語解釈なんてしない。ただ、何のための効率かという問題はある。

無駄な行為は、報われることによって、実は無駄ではなかったと分かる。この報われる瞬間は自由にならない。この報われる瞬間を自由にするための技術を作れないか?

私は自分の非人間性(人間蔑視)をエコノミーと接続させようとした。人情は無駄だという仕方で。そこで共同性が出て来る。共同性は人情による結びつきではなく、同じ目的を共有する者たちの結びつきである。問題は認識ではなく労働である。

心なんて無い。心なんて無駄だ。心がなくても喜べるが、心が無ければ無くて済む苦しみがある。余計な心労は何のためにあるんだろう。もし何のためにもならなかったり、内的復讐のためでしかないなら、そんなのは無くす方向で行くべきだ。

セクハラは無駄だ。なぜ自分がセクハラするかを反省してみて、自分の奥底の悲痛な絶望に気づく人は、しかしほとんどいない。ほか、痴漢は無駄だ。この生において何をすればよいか分からない人しか痴漢などしない。どこをどう考えても無駄なものだ。これに類するすべては無駄だ。

そして戦争ほど無駄なものはない。たしかに戦争は儲かるかもしれない。技術を発展させるかもしれない。しかし、技術に関して言えば、戦争の中にある技術革新を促進させる要素を抽出してそれだけを純粋に活かす道を選ぶ方が経済的だ。技術革新を進めるために戦争するなんてことは無いが、もしそういう考えをするなら、戦争は無駄が多すぎる。あまりに偶然的に過ぎる。エコノミーの観点からして戦争は論外、イジメも論外。無駄が多く、偶然的で人情的で個人的で利己的すぎる。それをする必然性がなさすぎる。協働において邪魔すぎる。

善い悪いじゃない。無駄が多すぎて無駄なだけだ。人が傷つくからダメなのでなく、傷つけるメリットが共同体にないからダメだのだ。個人が気持ちよくなるなんてことは、どうでもいいことだ。むしろ、みんなが気持ちよくなる環境を整えておくことの方が大事だ。

1年前 No.120

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

佛教は知識や科学を根底から疑います・・拠り所を浄土の真実に求めます・・

哲学の先生曰く、自分自身は何かという問いを根底としています。退屈な日常の中に自分のブラックホールからの問いが語り掛けるのです・・

拠り所を求める信仰・・

自己を根底から問いかける哲学・・

1年前 No.121

エコノミー @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>退屈な日常の中に自分のブラックホールからの問いが語り掛けるのです


その通りです。

エコノミーの観点からすれば、このブラックホールをどのように活かせば人間にとって有益になるかって話です。

深淵に呑み込まれてうつ病になっちゃったら、無駄でしょ。

超存在としての無に相対する時、この非思惟は私の超越する本質存在の飛翔と成る。

現存在としては残り無く亡失する私の存在が何であるかは、私が生きる限り飛翔においてのみ在りつづけるならば、どうでもよいことである。あらゆるものおよび私自身の果無さを自分にとって理解できまた堪えられるように見えさせる、いかなる現実的かつ誠実な慰めも世界の中には存しない。慰めの〔無い〕代りに、一者の確信における存在意識が存するのである。

深淵は飛翔の機縁だ。うつ病になって慰め(無)を求めて彷徨するのではダメだ。

逆に、深淵(無)を見つめることは、確信の力強さに繋がる。

自分を揺るがすのは、エコノミーの観点からしたら、現状を可変的なものと見なして自分の現状に伸びしろを作るためだ。このまま永遠に続きそうな日常が揺らぎうるということは、この日常が徹底的に改良されるかもしれないということだ。変わりうるということは、良くなることが出来るということだ。

どんな確信も揺らぎうる。そして、確信して安心できるということ以上のメリットを生む可能性がそこにはある。「私は正しいことを知った。ふい〜満足」…ではダメだ。その正しいことを更に活かして、更に人間を元気にするにはどうすればよいかって考えてゆかなければならない。自分が真理を知るのは良いが、その真理を、他人や自分達がより良くなる方向へと使ってゆかなければ、無駄になる。

真理を得て満足という自己満足は、時代遅れだ。もちろん、自分の考えを持つというのよりは良いよ。しかし、「自分が」真理を求めているとか、「自分が」真理を獲得したいだとか、それは無駄でしょう。自己中心的性格っていうのは非常に無駄だ。得たものの効用が、周りの人間にとっても役立つように、状況を整えてゆかねばならない。

1年前 No.122

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

前もってお断りしておくと、以下投稿する文章は、今日のてじさんのレスを全く見ずに書かれたもので、当然内容的に反映されていません。
ここ何日か、少しずつ時間のあるときに書いていたもので、一応まとまったので、とりあえず投稿するものです。

ここ何度か、私の投稿した文にかぶせるような形で、てじさんが自説を述べるというレスがあった。
おおよそだが、まずは私の主張を引き継ぐような形で敷衍しながら、私の説をはみ出すような論を展開する。
彼は自立してものを考えられる人なので、それは当たり前だし、概ね議論を深める有意義なものになっている。
ただ、てじさんの主張の私のそれをはみ出している部分というのは、私の主張の延長ではなく、私の考えとは根本的に異なる主張が提示される。
彼がそれを意図しているのかどうかよくつかめないのだが、哲学的に見た場合、彼の提示する思想的立場は、私のと反対の立場だ。
もう少し正確に言うと、私はその点に関して、もとの投稿文ではきちんと立場を書いていないのだが、てじさんはそこをはみ出すような形で自分の立場表明をしている。
その立場が私のとは反対だ、ということ。
最初、私はその違いがよくわかっていなかった。
が、ここのところ何度かそういうことがあり、またてじさんのほかのレスもちょこちょこ読んでいたら、違うということがわかってきた。
てじさんはさすがにその点に関して一貫した主張をしているからだ。
以下は、その違いを明確にする試み。

ここからは省略して抽象的に書くのでかなりわかりにくいかもしれない。
しかも、ものすごく大雑把にしか述べない。
要するに、てじさんの真善美に関する立場は非実在論だと思う。
少なくとも倫理については明らか。
というのも、彼は、真善美の根拠を「主体の承認」に置くからだ。
つまり、根拠を自分の内に置くのだ。
これは、柄谷的に言うと「独我論」である。
私は、逆に実在論的立場で、まだ理路をきちんと提示できないが、
倫理に関しても大枠で道徳的実在論のほうに近い。
アフォーダンスに関心があるのも、そういった論の一つだから。
ここで私が言う真善美の実在論とは、要するにその根拠が自分の内(主体の承認)にはなく、
あくまで〈外部〉あるいは〈他者〉にある、ということ。
特に、善美の価値的必然性の根拠は論理的にも〈外部〉にしかありえないと考えている。
根拠は超越的である、と言ってもよい。
非実在論は乱暴に言えば「自分が善いと思うから善い」「自分が美しいと思うから美しい」ということと本質的に違いがない。
同様に乱暴に実在論を言えば、「事実善いから善い」ということになるだろう。
実在論的立場から言えば、自分が承認することは、倫理的・美学的必然性「べき」の根拠たりえない。

http://mb2.jp/_tetsugaku/1013.html

>「なぜ人を殺してはならないの?」という問題に答えが出せないのは、「人を殺してはならない」という行動制限を課すのが結局のところ究極的には自分自身であるからです。

>この問は、自己の行為の制限の理由を尋ねる問のひとつです。

>そして、自己の行為の制限の理由は、究極のところは、禁止命令に自己が自己自身から効力を承認するからにほかなりません。知らないうちに承認させられてしまっているのであっても、他からの遂行命令に反して敢えて禁止命令の方を選択するのであっても、やはり承認であることには変わりありません。

>だから、尊いものに対するにあたっては、責任という問題が生じてくるのです。もしも尊いものが無条件的に強制的に人間を「その尊いものを大切にするように」という指示に服させるならば、責任や義務という問題は出て来ません。事象それ自身の本来の在り方に呼応するかそれを蔑ろにするかという可能性があるところでのみ、責任と義務が問題になります。


ここにてじさんの考え方が明確に示されている。
彼の考えでは、規範「べき」というのは、いわば数学の公理系と同じように捉えられている。
つまり、数学の体系というもは、公理を真として承認すればその内部の定理も必然的に真として受け入れなければならないが、本来、その公理を承認しなければならない、ということはない。
サッカーをする限り「ボールに手で触れたらいけない」というルールに従わねばならないが、このルールが気に入らないなら、サッカーのルールに従わず、ラグビーをすればいい、というのと同様。
サッカーをする人は自らサッカーのルールを受け入れているからこそ、その限りでボールに触れたらいけない、というルールに従わねばならないのである。
いわば受け入れを承認しなければ、「ルールに従わねばならない」という必然性はない。
同様に、「命を尊いもの=大切にすべきものである」を、真理として承認しなければならない必然性はない。そこは自由なんだ。
自分が自由な選択可能性においてこの命題を真として承認するがゆえに、私はこの「ルール」に主体的に従うのであり、その限りで「人を殺してはいけない」。
だからこそ、私が倫理的責任も負うのだ。強制的に従わされているのなら、責任を負うことなどできないというか、理不尽である。
いわば、自分で選んだのだからこそ、人に責任を転嫁せず、自分で責任とれよ、という話である。
>カントの義務論は「すべては許されている」っていう意味です。「全ては許されているにもかかわらず、何かが許されざるものとしてあるということは、それを許されざるものにしているのは自分なんだ。何かをするのも自分の責任、何かをしないのも自分の責任」ってことです。ここから独我論を読み取ってもいい。私がここから読み取るのは「言い訳は無駄だ」ってことです。


だが、ここには間違いがある。少なくともそう見える。
因果的あるいは論理的必然性(強制性)と、義務論的必然性の混同による論理的飛躍である。

私は義務・当為(べし)に従うことも従わないことも可能である。
すなわち、従わない自由を有しており、そこに私を従わせる因果的or論理的強制性はない。
これが、私が倫理的主体であることの条件である。
しかし、勘違いしてはならないのは、この因果的・論理的強制性がないことは、
「倫理的に従わねばならぬ必然性がない」ということを意味しない、ということである。
論理的・因果的強制性(必然性)がない=論理・因果的自由ということは、
義務論的必然性(強制性)がない=しないことが許される、ということを意味するのではない。
すなわち、従わぬ自由(能力)があることと、従わなくてもよい(従わぬことが許されている)ということとは異なる。
にもかかわらず、てじさんは、因果的or論理的「必然性」=「強制性」がないことから、
「すべては許されている」を導いているが、これは義務論的必然性(当為の「べし」)がないことを導いているということであり、論理的には妥当な推論ではなく、論理的飛躍なのである。

私の主張は、この当為としての必然性は、主体が承認しようがしまいが、受け入れを拒否しようが関係なく、それとは独立に、主体に「従うべし」と命令するということ。
いわばこの命令に従わぬ行為の自由を倫理的主体である限り有しているが、
従わねばならない、という当為としての必然性は、彼が承認するか否かに依存せず、成り立つのである。
義務な(従わねばならぬ)のに従わないのが罪なのだ。
「べし」の成り立つ条件が承認なのであれば、承認しない=義務の拒否が罪になることはありえない。
したがって、てじさんの倫理観で言えば、例えば「命は尊い」を承認しないシリアル・キラーは罪を負わないことになる。
私はこれを倫理とは呼べないと思うのだ。

結局、違いを次のように言い表せるだろう。
「命は尊い」が真であることの根拠を、自分(主体)の承認に置くか、
あるいは、
「命が尊い」ということが、主体がどう思うかに依存せず成立する超越的事実である、とみなすか。
「尊い」と思うから尊いのか
「尊い」が事実だから尊いのか。

てじさん的な非実在論的道徳観に立脚すれば、完全にその規範を承認しつつ、罪悪感を全く感じない人間を容易に想像可能である。
自分はこの規範(ルール)を承認するがゆえに、自分の行為がその規範を侵し、罪人として罰を受けねばならぬことも(ルールとして)承認する。だけど、私は罪悪感を全く感じていない。
いわばcriminalであっても、sinnerではない人。
ここには倫理的意味での罪が存在しない。
>カントの義務論は「すべては許されている」っていう意味です。「全ては許されているにもかかわらず、何かが許されざるものとしてあるということは、それを許されざるものにしているのは自分なんだ。何かをするのも自分の責任、何かをしないのも自分の責任」ってことです。ここから独我論を読み取ってもいい。私がここから読み取るのは「言い訳は無駄だ」ってことです。


さっきも引いた、このてじさんのカント理解が妥当か否かは私には判断できないが、この倫理観は「選びたまえ、君は自由だ」と言ったサルトルのそれと非常に近いものだ。
このてじさんの倫理観では、結局善悪を決めるのは主体、自分である。
私はそのようには思えない。
私はそれに比べたら心情的にはずっとカミュ的だ。

大きな乗り物の事故で大勢の人が亡くなったような場合、たまたま生き残った人の内少なくない人が、自分が生き残ったということに対して罪悪感を抱くという。
なぜ自分が助かり、私の隣に座っていたあの人は亡くなったのか。
自分が意識を取り戻したとき、自分の下敷きになって亡くっていた見知らぬ人。
他人を犠牲にして生き残ったのではないかという思い、罪悪感にとらわれた人は、
自らが生き残っていることを、自分で肯定することはけしてできない。
自分で「私は悪くない」と言うことはできない。
自分が悪くないという権利を持ちえないのだ。
もし、自分の生、生き残ったということを肯定する、許す権利をもつ者がいるとするなら、
それは自分の下敷きになって死んでいたその見知らぬ他者でしかありえない。
自分の善悪を決めるもの、それは自分の内にはありえない。
〈他者〉〈外部〉にしかそれはありえないのだ。
私は他者に負い目を負う存在である。

太平洋戦争が終わって満州から引き上げた人々の苛酷な道程はよく知られている。
私はたまたま身近に満州からの引揚者がいたので、子供のころから中国残留孤児の話を聞くことが多かった。
幼い子供と家族の命を救うために、逃避行で足手まといとなる幼い我が子を地元の中国の人に預けねばならなかった母親たちの気持ちを思うとつらかった。だから、正直そういう話を聞きたくなかった。
幼い子供の命を救うためには置いていくしかない、でなければ全員が共倒れするしかないという現実に身を引き裂かれる決断をした母親たちはしかし、自らが助かりたいがために我が子をすてたという責めの言葉−それがたとえ現実の声でないにしても―を一生背負って生きた。

私はこういった重い生の現実を想うとき、倫理の根拠が自分のうちにあるとするいかなる思想も受け入れることはできない。
どうしてもそれは浅薄に思えてならないのだ。
カミュなら言うのではないだろうか、「君が自由において選び取った道だ、言い訳するな、と誰が言う権利をもつのか」と。「そこに本当に自由はあったのか」と。
彼女らの負う罪は、彼女を有罪とする規範を彼女が自ら承認することに拠るのではない。
自ら承認するがゆえに罪を負わねばならぬのではない。
彼女らにとって、それを承認しない自由がありえようか。
見知らぬ人を下敷きにして、その命を犠牲にして生き残ってしまった自分の罪を、自分が承認しない自由など、自分にありえようか。
もちろん、それでも倫理的主体として、論理的・因果的には承認を拒否する自由は有している。
しかし、このことはけして許されているということではないのだ。
倫理の根拠、それはけして自分の内にはない。
それは超越的である。

T6.41 もしも、価値を有する価値が存在するならば、その価値は、全ての出来事と事の有り様の外になくてはならない。何故ならば、全ての出来事と事の有り様は、偶然的であるから。
 それらを偶然的でなくするものは、世界の中には存在し得ない;何故ならば、さもないと、それもまた偶然的であろうから。
 全ての出来事と事の有り様を偶然的でなくするものは、世界の外になくてはならない。

それが自己であれ、言葉であれ、世界であれ、倫理であれ、論理であれ、そのシステムの有意義性の根拠はそのうちにはありえない。
根拠はそのシステムの外部にしかありえない。
これが、システムが不完全であるということであり、例えば昔、柄谷行人が言ったことだ。
これは完全な自己完結世界=独我論的世界が根本的に不可能であることを示している。
そしておそらく、キルケゴールも、ヤスパースも、レヴィナスもこのことを知っていた。
言うまでもなく、ウィトゲンシュタインも。

1年前 No.123

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

ところで、村上さんの『レヴィナス』は私、読んだけど、消化しきれていない。
それは、『全体性と無限』以降、わたし的についていくのが困難になるということがあるからなのだが、その大きな原因は、『全体性と無限』の地点、わたしとしてはそこから浮き上がってほしい、外部、他者へと至りうる道を示してほしいと願っているその地点から、何とレヴィナスはさらに深く沈んでいくんだな(笑)。
これははっきり言ってキツイ。
ここまでの病を自ら重くしていくというか、深めていく。
だからこそ、そこからしか見えないものが見えてくる、そして、そこからしか発しえない言葉があって、そういった言葉しか届きえない他者が存在するのだろうが、今の私自身がそれについて行けるかどうかは疑問。
だから、さしあたり目標は『全体性と無限』かな。

1年前 No.124

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

カントさんは

物自体の理念の客観性として・・叡智的性格としての超感性的基体基体として・・生の現存在における機械論的及び目的論的法則性の根源の統一性として

現存在の現象が自由な可能性に応えるように見えます。


しかし限界の上に立った時超感性的なものにつきあたり・・捕捉されないまま本来の存在として確信されています・・

1年前 No.125

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

物自体の理念の客観性が何なのか知らんけど、
どうせ、何もわかってないと思います。
現存在と言うくせに、ごちゃごちゃ言葉ばかり出てくるのはなんだろうって。

僕の何倍も脳みそのネジがゆるゆるな人が叡智だのを持ち出すのは不思議。

カントは現存在など考えてないと思います。
現存在はフッサールが言った言葉でフッサールはカントより後から生まれたので、
カントは現存在については考えてないと思います。

言葉の意味は読めば読むほどどうとでもとれるので何人かの著作をそれも時代が異なる
人間のすり合わせなど早々できるものではないと確信しています。

僕は思ったのですが、あなたの場合西洋哲学などすべきではなく、東洋哲学でもしてるほうが、
よほど理にかなっています。

西洋哲学は社会制度のありかたを考えてると思います。出てくるのは神学批判だったり。
根源の統一性なんてそれこそ格致というなにがなんなのか意味不明なそれではなかろうか。

ごちゃごちゃ難しい言葉をいくら覚えようが無駄です。
超越的と超越論的で論が入ってるかいないかで前提が全く正反対になってしまう、
そんなあべこべな理屈は僕には到底理解不可能です。
しかし、そんなものでも日本の仏教はさらにごちゃごちゃしてて全く難解らしいから、
知ったかぶりをするにはやっぱり東洋思想がふさわしいのではないでしょうか。

ちなみに親戚で興絵というひとですが、葬式での戒名は興畢大心士です。
畢竟というのはとどのつまり、ですので、末端ということです。
興るというのははじまりなわけで、 つまりこの戒名は 始まり 終わり 大心士です。
不二というのは 2つではないと意味です。
ものというのは大きいと 小さい、 重い 軽いと 反対の概念を持つというところから
きていて、不二というのは2つではないということです。
つまり、むりやり当て字にして 始まりと 終わりという 風にして不二ということです。

あなたの考え方もとどのつまりこんな感じです。

不二というのは重いでも軽いでもないわけです。根源は不二です。そういう使い方です。
無明というものはないということです。叡智もない。単に無明ではない。それがフニです。
さて、不二でさえまともに理解されてない本職の坊主がわからない念仏を唱えていましたが。
あなたの言葉も似たようなものではないでしょうか。
なのであなたは東洋思想向きです。

あなたの職業だって伝統的な職業なのにそのルーツを考えないで外国の考えを理解などと
伝統の風上に置けませぬ。

あなたは人間関係を余り好きではないようですが、しがらみにとらわれて精算出来なかったのは、
大きなマイナスだったと思います。真理と言いながら他国の思想に固執したり。
人間関係がいやだったのでヤスパースに固執したのは間違いです。

1年前 No.126

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

>>126

ヤスパースさんの本だけはピッタリ心にハマるのです。好きになったのだからしょうがないでしょう?

1年前 No.127

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

しょうがないっていうか、
はまった理由ってコンプレックスじゃないですか。

1年前 No.128

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

>>128

好きになるのに理由がいるのでしょうか?

1年前 No.129

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

ヤスパース理解してるんだろ。
なら、何が問題なのか説明なんてしねえよ。

1年前 No.130

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

これだけ毎日地震があちこちで起きて日本は地盤が移動するから眩暈とかの老人も増えてきました・・

絶対日本は限界状況になるから・・

1年前 No.131

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉131「絶対日本は限界状況になるから・・」―――だから?

ヤスパースさんは地震という自然的存在を問題としていたの?

〉129「好きになるのに理由がいるのでしょうか?」―――「好きになるのには理由は必要ない」って見えますけど、もしそうだとしたなら、

『わたしの内におこってくるこの声は、いったい、どこからくるのであろうか。』と、問うことは無意味である。これでよろしい?

1年前 No.132

エコノミー @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

>>123

ふくろうさんと私の義務論の捉え方が180度違うので、反対に見えるのでしょう。なお、私は自分の考えとして義務論を主張しない。私が考える義務論的自由とは承認だと言ってるのであって、私が自分自身のものとして持ってるのは親鸞的な発想である。

承認というのは、小さな事実です。それを私は普遍的な道徳判断に適用しようなんて思わん。

しかし、反論してみよう。

>この当為としての必然性は、主体が承認しようがしまいが、受け入れを拒否しようが関係なく、それとは独立に、主体に「従うべし」と命令するということ。

いわばこの命令に従わぬ行為の自由を倫理的主体である限り有しているが、従わねばならない、という当為としての必然性は、彼が承認するか否かに依存せず、成り立つのである。

カントもこういうことを書いてるよね。理性は呵責なく命令する。人格は目的として存在する。ふくろうさんなら「目的として存在する」という奇抜な表現にひっかからず、何が言いたいか分かるはず。人格はそれ自身で絶対的に理性的存在者の行為を規定するのであって、私がその人格を承認するか否かには関わらない。

ただ、ここで問うてみたい。当為の必然性(カントでいう義務)がどうやって命ずるのかってこと。冗談を言うならば、義務には口もないし、喋らないでしょう。

ふくろうさんの言いたいことは感覚で分かる。ルールは、承認してはじめてルールになるのではない。ルールはルールである限り、それ自身の必然性を担っている。人を殺してはならないということは、私がそれを承認するしないに関わらず、「人を殺してはならない」という命令である。この命令自体に、これには従わねばならない、そういうものだ…という要素が含まれている。

ただ、私の言っている承認は、自分が罰をうけることも承認するということではない。

まず第一に、道徳的命令はそれ自身では命令できない。もしそれ自身で命令できるならば、因果律のように人間は無時間的に間断なくそれに従っているだろう。なぜならそれは必然性を持っているのだから。

しかし、そうではない。実際には人は道徳法則から外れたり沿ったりする。というのも、命令は聞かれなければ効果を発揮しないからだ。そしてこの聞くということが承認である。

道徳の普遍的な必然性の根底には立法する意志があるというのが、私がカントの義務論だと思うものだ。しかしカントは承認と言わない。カントは正直に、どうして道徳法則に必然性があるかどうか分からないみたいに言う。だから、カントは理性を信頼すると言う。

そしてこの思想がハイデガーの覚悟性にも活かされている。だからこの点においては、ハイデガーも観念論的である。それを引き継ぐかぎり私も観念論的である。ふくろうさんの言うところの独我論。

ちなみに私は
>このてじさんの倫理観では、結局善悪を決めるのは主体、自分である。

とは全然思っていない。

私が言ってるのは、人を殺してはならないということの必然性の根拠は自分にある、ということです。私が言いたいのは、すべては許されているにも関わらず許されないことが厳としてある、ということ。そしてこの厳としてあることの根拠は、自己の意志である、ということです。

自己の意志は自由にならない、という冗談みたいな事態がある。全ては許されていると言ってイワンは精神が分裂するほど苦悩した。なんで?全てが許されているというのが実情なのに、許されないという事実が厳としてあるからです。神が保証してくれない。

問題は、これをどう活かすかです。やはり、悪へと走る方向に活かした方がよいでしょう。もちろん、殺人とか狼藉とか無駄なことはしない。道徳とか倫理によって無駄に失われた有益なものを全力で活かせるようにするべきだ。どうしても動かない頑固な自己を、その頑固さを活かす(そして従来の自分を確信する)のではなく、その根底にある自由を活かすのです。

他を考えるなら身体を考えなきゃ話にならない。私はこれまで身体を考えてこなかったから、当然、独我論的色を帯びる。当然だね。しかし、身体を考えるなんてことも、これまた馬鹿げた話だ。

身体は動かせ!動かしてゆく。行動してゆく。行為をアフォードする装置や機械や構築物を作れ。

哲学なんて、ペンとノートがあれば出来る。しょせんペンとノートの世界だよ。どんなに他者とか身体とか「肉」とか言っても、言葉じゃないか。ひとりでノートに向かって、パソコンに向かって、…

1年前 No.133

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>ふくろうさんの言いたいことは感覚で分かる。


というのは、次の
>まず第一に、道徳的命令はそれ自身では命令できない。もしそれ自身で命令できるならば、因果律のように人間は無時間的に間断なくそれに従っているだろう。なぜならそれは必然性を持っているのだから。

>しかし、そうではない。実際には人は道徳法則から外れたり沿ったりする。というのも、命令は聞かれなければ効果を発揮しないからだ。そしてこの聞くということが承認である。


を見ると、どうも私としてはそうだねとは言えない。
が、まあしかし、それはいいや。私としては一応言うべきことは言ってるし。
てじさんの考えが、
>私が言ってるのは、人を殺してはならないということの必然性の根拠は自分にある、ということです。私が言いたいのは、すべては許されているにも関わらず許されないことが厳としてある、ということ。そしてこの厳としてあることの根拠は、自己の意志である、ということです。


であるということで、私の考えは、その根拠は自分にはありえないということで180度違うと。

当初の目的は、私の考えとてじさんのそれの違いをはっきりさせることにあって、批判にあるのではないから、目的を達したということで、これでよしとする。
だいたい、私の考えも確立できているとはとても言えないしね。
でも、てじさんにとってはいざ知らず、私にとってはなかなか面白かった。

1年前 No.134

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

悪魔ちゃんさん

私を見ずに、私が見ようとしている所(真理)を見てはどうですか?

1年前 No.135

エコノミー @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>大きな乗り物の事故で大勢の人が亡くなったような場合、たまたま生き残った人の内少なくない人が、自分が生き残ったということに対して罪悪感を抱くという。なぜ自分が助かり、私の隣に座っていたあの人は亡くなったのか。自分が意識を取り戻したとき、自分の下敷きになって亡くなっていた見知らぬ人。他人を犠牲にして生き残ったのではないかという思い、罪悪感にとらわれた人は、自らが生き残っていることを、自分で肯定することはけしてできない。


私は、こういう罪悪感は無駄だと断言する。なぜなら罪悪感は意欲を削ぐからだ。死んでしまったものはしょうがない。
こういうのを人は「冷たい」と言う。私たちはこういう意味で冷たくならなければならない。

>自分で「私は悪くない」と言うことはできない。自分が悪くないという権利を持ちえないのだ。


権利の問題ではなく、納得の問題ではなく、エコノミーの問題である。
そもそも、「自分が悪くない」と言う必要がない。

悪くてもいいからだ。

>もし、自分の生、生き残ったということを肯定する、許す権利をもつ者がいるとするなら、それは自分の下敷きになって死んでいたその見知らぬ他者でしかありえない。


端的に、死者は私を許すことなどできない。死んでるのだから。
私を許すのは、神的なものである。神的なものが許すという方が、死んだ人間が許すというよりも現実に即している。
私を許すのは阿弥陀仏だと言ってしまってもいい。ただし阿弥陀仏は権利を持っているから許すというよりも、絶対的に無条件的に許すのではあるが。


>自分の善悪を決めるもの、それは自分の内にはありえない。


そもそもそういうことを私は言っていない。

例えば憲法だが、これは、これがあれば安心というものではない。憲法は守らなければ無力に陥る。カントの義務論の要石は「普遍的に立法する意志」である。
憲法が正しいか間違っているかを決めるのは私だという話ではない。憲法が憲法として有効であるためには私たち各々がそれを「遵守」しなければならないということだ。
明らかにカントの立法というのは、自分ルールを打ち立てることではない。なぜなら立てられる法則は普遍的でなければならないからだ。


て、これでもって私は自分の自由論を捨てちゃおう。
カントとかハイデガーとかみたいな考え方を私は捨てなきゃならない。捨ててもいいくらい「血肉になっている」からね。

私は面白くはない。別に自分にとって新しい展望が開いたりしなかったから。

私の文章から何かを引き出せるならば私は嬉しいし、何も引き出せないゴミみたいな文章なら、非表示にしたりしてゴミみたいに捨てればよいだろう。

1年前 No.136

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

やっぱりカントさんではダメだったのですね・・

1年前 No.137

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

特別は1600回という切りの良い数字で終わりにしたいので、ここで書きます。

「権利には義務が必然的に付随する」

これ一般的にどう思われてますか?
多分こうです。

引用)
正確に言えば、
生活保護受給者に対するもやぁとしたなんらかを発露したいときに、
いろんな人が脇差のようにスッと取り出す理屈。

『義務も果たさず、権利を主張するんじゃない!』
この物言い。これ。

これは使うべきではないんでないの。とこのような話を下記します。


――

権利は義務がともなう。

義務を果たしてはじめて権利を主張すべき。

権利は義務の反対語。
引用)

 そんでもって、これってなんでこれが正しいんだろうって思わないのかなって。
みんな義務果たさないと権利ばかり主張すると社会がダメになるってわけですね。

別のものでも引用しますか。
第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


  この場合だと、権利は義務によって維持しなければならないし、国民はこれを乱用しては
 ならない、その上、公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。


第一二条 この憲法が個人に保障する自由及び権利は、個人の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。


  この場合だと、個人の権利は個人の義務によってとなるわけで。


「権利は義務が必然的に付随する」と言われても本当はどれなのかさっぱりわからないわけです。
じゃあ、義務も果たさず権利主張するんじゃないというのはこれは意思説っていうんだっけか。
で、憲法の方は利益説なんですよね。よく考えてみるとこれって滅私奉公そのままですね。
公共の福祉のために労働するのは義務で、けど僕たちはみだりにつかえないそんで、
自分の権利は自分でなんとかしろと。私用を会社に持ち込むなと言う考えがそのまま現れていて。

僕は当然、権利は保証するものがなければ成り立たないから利益説なんですけど。
借用書とか連帯保証人とかその手の概念を見れば一方的に利益を得る人のために義務を追う人が
居るという構図しかないですし。そこに連帯保証という考え方自体が、借りた人のお金を
保証人がただ単に保証する契約ですよ。それだけですよ。意思説を認めないとやっぱ、
民主主義の法律の根拠がない。自分たちの思いを実現するために権利を認めないと自分たちの
社会ではないというわけですね。

これ考えると、やったからもううというのは、やったらもらえるとおもってるわけですね。
そういう考えは意思説みたいなことを考えるわけです。やったものは株主のものというのは、
利益説みたいなかんがえですよね。働いたら利益はもらえる義務があるやつが手に入れる。
つまり、だれが保証するのかということが実は利益説と意思説ではわかれてる。
意思説はじぶんが保証するんですよ。民主主義は自分で自分を保証するんですよ。
そのはずです。ところが利益説は自分の利益はだれかが保証してくれるんですよ。
じゃあ、その義務果たさないで権利主張するなというのは、じつのところ、
どれでもないんですよね。義務を果たして権利をもらえるというのは意思説よりのかんがえなのに、
それがあって当然だと思うのは誰かが保証してくれるからそうあって当然だと咎めるわけです。
自分でほしいものを自分で取るのにごちゃごちゃ文句をいう何かなんて本当は無いんですよ。
ようは、生活保護だって結局自分のものじゃないから文句言うんですよ。
ここで、生活保護というのは国民の権利のはずなのに、自分のものではないから、
欲しがるなということです。これは当たり前のように見えてじゃあ、そんなのを使えないなら、
何のために支えてるんだよって。思うんですよ。みだりに使うなというのならいつ使えるんだよ。
ホームレスになったら住所不定でやっぱ申請おりないですよ。ぼくが役人だったら、
お隣の市で申請してくださいっていいますよ。そんでたらい回しに成るだけですよ。

特に義務に権利が伴うってことに何の疑問も持たないですよね。持ってないはずですけど。
でもぜんぜん、当たり前じゃないんですよね。嫌だなあと思いながら努力して維持してるだけです。
で、権利は義務を果たすともらえると思い込んでるけど、事実は違うんですよ。
だって、もらえないと書いてある。みだりに使うなと書いてある。公共に使うと書いてある。
事実は権利のために義務を果たすけど権利はもらえるとは限らないけど言うこと聞けです。
そんで自分の権利は自分でなんとかしろということです。

考えてみると、無邪気に生活保護を叩いて貴族だのと皮肉っては、自分たちの社畜っぷりを
自画自賛しては一体そこまでしてなんになるのか全くわからないです。
だって、十分に生産はあるのに、消費が伸びないということを問題にしてて、
さらに働いて生産増やしても在庫が増えるだけというのは高校生だって経済学でならってさ、
なんでこんな、もっと働けだの会社のためだとかなんで言うんだろうって。
ものがなくてね、道路もろくにできてなくて車はしれないなら道路使うためにということも
納得しますけど、都市のインフラなんて過剰ですよ。地方はまだ必要な所あるでしょうけど。
で、こんだけ合理性のかけらもない権利は義務を果たしてからをいつまでも、会社の都合のために
利用してんじゃねえよって。まあまったく、何を傘にきてそんなことをいってるのか、
どうせ、多分これろくに答えられないと思いますよ。僕も今日調べておもったので、
多分この話聞いてろくに答えらないとおもいます。必然的に民主主義というのは、意思説的な
考えによらざるをえない。一方権利の行使は利益説にもとづいて権利の受ける側と払う側が
一致しないわけですよ。ものの売り買いで物を渡すとかそもそも所有権の譲渡という概念が、
どうしても意思説的な何かじゃないですよね。だから、共産主義はどうしても利益という概念を
みとめられない。誰かのために働くということがみとめられない。資本主義は自分のためという
ことを本質的に受け入れられないだから、民主主義でありながらも重労働がまかり通るわけです。
そこを、民主主義という形でなんとなーく中和するわけです。だから本当は、民主主義での
商売を商売側に都合がいい用にしては行けないんですよね。おわり。

1年前 No.138

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

東京は蟻地獄になるらしいです・・

1年前 No.139

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

意思が正しいか利益が正しいかどっちかなって思ったら、
自分の思ったことが正しくなるわけがなくて、誰かの利益のためと言う考えを肯定するのかと
どっちでもなくて、売り買いで考えるとどうしても自業自得的な意思説は意味がなくて、
利益的な考えを肯定しなくていけなくて、つまり、自分なのか手段なのかとか、
どっちが正しいとは言えなくなってしまうわけです。どちらもないと困るわけです。
でも、権利があるというのはもらえるという考えの方が強いわけです。
生存権とか、思想の自由だとか集会の自由とかは意思説的な考えなんですよ。
とどのつまり、あるからあるってだけです。この考え使うと人が従属的で礼儀持ち出して文句
垂れるやつが、結局自分の理念というか理屈がないんですよ。どういうわけかワンパターン。
やらないと困る人がいるから。一方、生存権とか自由権だとかはあれも結構考えてみたら、
何しようが俺の勝手だろとか、生きるためには何してもいいんだとか結構暴力的な考えあります。
また、まとまらない。考えてみたら、不良がさ、好き勝手暴れるのが自由だと思ったりするわけ
ですけど、それって誰かが命令したわけではなくて俺の勝手だろってそればっかですよ。
そこまでワンパターンでなくてもいいのに。女子高生が援助交際するのに、私が、何しようが
勝手でしょとかいうわけですよ。どういうわけか権利というものを持ち出して考えないですよね。
援助交際の何が悪いかなんて決まってますよ。税金払ってない。
納税してやってますか、きっとないですよ。納税してないから悪いですよ。
次に、金もらえないとわかったらきっと嫌がりますよ。つまり、好きでないのにやってるから悪い。
まあこの場合、結婚生活を金のために我慢してる人たち全般が悪いということですけどね。
じゃあ、援助交際をするのは自由なんて言うけど権利として誰かが保証してくれるんですか。
保証人がいれば援助交際していいのかと。結局援助交際する女性に責任能力がないということが、
問題だから、誰かが保証すればそれでいいのかと。そうなると個人の責任ではないからというけど。
それ持ち出すなら痴呆の人を施設に入れるのに誰も出来ない理屈になりますし。親が保証すれば
問題ないのかと。本当はどれでもなくて暴力団の資金源に成るからです。
正しい正しくないという理屈ではなくて大体の論理で社会の物事は動いてしまうわけですよ。
正直なこと言えば、未成年の援助交際はよくも悪くもないですよ。未成年と言っても
10歳は論外ですよ。江戸時代ならとっくにおとなになってる年齢で十分子供埋める年なら、
自分で責任持てよって感じですよ。それを教育が不十分でないという基準で区切るにはいい加減な
基準で20歳という一律な基準で区切るのは妥当ではないんですよね。判断能力をスコアリングして
大人偏差値でもつくって50以上を大人とでもしてくれない限り責任能力云々言ってんじゃねえ。
アメリカも未成年に関して妙に過剰でさ、女性教師が誘惑してあれを性的搾取だと称するのは、
高校生をばかにしすぎですよ。女性も安易に体を許すのは頭が緩いと自覚すべきで、
だいたい、否認頑張っても性病には掛かるんですよ。

1年前 No.140

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

なにか明るいことを考えましょう。

地味に世知辛いことばかりいうのよくないです。

文句垂れてばかりの僕が言うのも変ですけど。
僕はこれからはもっと脳天気になりますよ。

1年前 No.141

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 日本の過労死だとか滅私奉公的な考えは義務を果たすことで権利がもらえるというウソを
信じてるからです。会社で働けば金がもらえるからと信じてるので義務を果たしても権利がもらえない
という事実を認められないんでしょうね。権利にうるさいならサービス残業なんてそんなの
ありえないですよ。ちょっと考えれば、住宅会社が家をサラリーマンに売ったとして、ローンの
心配をしてもサラリーマンの心配なんてしないはずなんですよ。ところが、会社の倒産を
従業員が気にするわけですよね。給料の支払いを気にするならともかく、会社の利益のために、
給料カットを我慢するなんてどうかしてるんですよ。その理屈なら。儲からないのは会社のせいです。
じゃあ、従業員の能力が低いからなんてそんな理由で会社の経営責任を従業員のせいにしますか。
できないですよ。だから、会社なんて潰れようがどうなろうがほんとうはしったこっちゃない。
せいぜいやらなければならないことは給料をしっかりと取り立てることぐらいでしょう。
給料泥棒と言うか、そんなのサービス残業文化全部なくせっての。そもそも遅刻厳禁にして、
残業当たり前ってそんなの仕事の段取りができてないってだけですよ。さらにいうなら、
商談でダラダラしちゃいけないですよ。ビジネスでだらだらしてるなんてそこからおかしい。
生産でダラダラしてたらだめに決まってるわけですよ。過剰に予定入れて残業するわけですけど。
給料出るなら文句言う筋合いないですけど、一定時間は残業つけないってのはどう考えても
おかしいです。一定率の値引きを持ち出すなら多少はわかりますけど、かけ放題じゃないんだから。
そんなに、一定額無料ってのはドコモとソフトバンクぐらいにしてろっての。そんなのだって、
毎年一人あたり、10万近く金とってますよ。スマホなんて月1500円ぐらいでちょうどいいはず。
それ以上はぶっちゃけ高い。端末なんて四年ぐらいで価値ゼロ円になるものを10万で売りつけて、
端末サポートと言っては二年縛りをして、結局蟻地獄みたいに金をするする巻き上げて、そんな
笑いが止まらない人たちがかけ放題していいのであって、貧乏サラリーマン相手に、
ホワイトカラー・エグゼンプションとか正気じゃねえよ。

1年前 No.142

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

自撮り機能がスマホの代表的な機能だと確信していて売れる理由は後はおまけだと思います。
デジカメにしろ僕は写真がすきじゃなくてね。記念写真とか好きじゃなくて。
スマホに料理を写メしていつでも食べられるならよろこんで写メしますけど。
食べてる自分移して友達に報告してだから何だよって正直思うんですよ。
間違いなく、そのシェア機能がスマホの原動力だと思います。
自撮り機能がなければ多分もっと売れてないはずです。

あとはガチャ機能やって思うんですけど、ドツボにはまるだけです。
攻略アイテムを金で手に入れるけどやってできるのが高難度を下げるだけです。
後はコレクション的な要素があって。やってもきりない。
最初は、なんかプレゼントが有って、みんなが歓迎してくれてこれもネトゲでの
必要とされてるという錯覚を想起させたいみたいですけど。
本当にやる気ないので、興味ない。なんとなく、やっても難易度を下げるだけで、
そんならノーアイテムで適当にやってつまらないのでヤメルでいいわけですよ。
それが一番スマホゲームにとっては痛いはずですから。

ネットのニュー速とか2chとか、よくわからないけど、なんだかんだ言って結構見ますけど。
どんな心理なんかなって今考えてますけど。前はやる夫みたいな奴らだと思ってて。
みんな似たような連中が書いてるんだろうなって一人ひとりに発言に差がないというか。
ようは、何を理由に有れ広がったのかなって。自撮りは仲間で共有するためです。
ガチャは射幸心やコレクターだったり、書き込んだり、見たり、する動機って。
2chを作った理由は内容見るということと、見て書き込む理由って動機が違うわけで。
あれって、ひとつの話題に対して幾人かが発言することで話が展開するわけで。
共通の話題を他人と話すわけです。僕の考え方と全然違いますね。人と会話ほとんどしないで、
自分個人でほとんど完結しますしね。結構人の会話というものにちかいものを満たしてる。
ブログとは明らかに性格が違う。ブログは個人が出るんですよ。
でもスレッドには個人がでないんですよね。そうそう個性的な発言は出てこない。
あらためて、考えると2chとか興味ないんですよね。youtubeはチャンネルごとに個性あって、
そこのコメントはチャンネルの要素にかなり近づくんですよね。
ぶっちゃけどんなスレッドみてもタイプ1.2.3みたいなかんじでコメントが展開されるだけでね。
ツイッターは人がいて、人によって個性が出てくるわけですよ。コメントが個性に引きずられる。
あっかんがえてみたら、ν速とかそれって、話題に対して自分がどう感じるかを見てるんですよ。
だから、話題というよりは本人の考えが出てくるんですよ。ところが、目立つようなコンテンツは、
コンテンツの個性が話題に対する反応より強いのでパターン化された世論がでてこないんだと
思います。そこで、わざわざ書き込むのって一体なんだろうって。僕の場合、自分の考えを、
客体化して公開してるわけですけど。でも2chのそれは何か個といえるレベルにはなってなくて。
自分ではないんですよね。自撮りはある程度自分を出すわけですよ。でもν速とかはちょっと、
ちがうわけですよね。ある種の逆に共有項というか、自己を定義するのではなくて、
周りを定義するんでしょうね。周りを確認したいからその会話は個があってはならないと思う。
世間話というか、その他愛ない会話で確認したいのは自分が何であるかより、つまり、
周りが何であるかを確認したいんだよ。だから、どれもこれも他愛のない個がない会話に、
おちついて行くんではないかと思います。つまり、自撮りとネットの機能って正反対で、
自己とその世間との折り合いをつけると言う機能がネットだと思います。
だから、ネットの発言は平均化されてそれは当然なんですよ。みんな個でばらばらなことを
言ったら、不安になるんですよ。あそこで会話してさ、僕が適当に喋ったら、みんな、
何だこいつっておもうんじゃないかな。

1年前 No.143

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

合コン用語なる摩訶不思議な用語が話題に

ネットスラングがかなりきらいでなんでこうなんだろうと考えてて、
これも集めたら100とか200とか平気で潰しちゃいそうなのでやめて。やめます。
その合コン用語はかなり古い記事。6年前ぐらいでね。


モンスターハンター・・・ぶすを持ち帰ること。
校長先生・・・面白くない長話するやつ。
工業高校・・・男子ばかりの合コン。
アラフォー・・・財布の中身が4000円。
アースマラソン・・・タクシー代がなくて走って帰る。

 ブスを揶揄する言葉が結構多かったのでここには余り書きたくなかったので書かないそれ。
もっと前は、メッシーとかアッシーとか貢ぐ君とか、イケイケギャルとかコギャルとかおギャルとか
そう、女子高生ブームというのが1990年後半ぐらいにあったと思います。
かなり嫌いですけどね。ネットがパソコン通信というマイナーなジャンルからメジャーになりつつ
あった時期も2000年ぐらいからだったとおもいます。

 なんだろう、最先端機器使ってでてくるのが人間のくそみたいなげすい物ばかりなんで、
人間の精神を電脳で保存する価値ないですね。いらない。さて、ダサいとかイケてるとかさ、
古いとばかにするとか、ふっつーに変なことを言ってるなあと思います。
面白いというのは変というか、笑いというものは考えてみれば、受けを取るからおかしいんですよ。
笑いを取るためにおかしなことを言うんですよ。嫌いなんですよ。それ。全然おもしろくない。
流行ると、これにはこれって流れができるから、意外性がなくなって場の流れからのズレがない。
だからおかしな発言だけが残るんですよ。で未だに、ワイとかワロタとかンゴオとかが残る。
正直どれも嫌いです。

 人間の精神には何の価値もないですけど、人間の精神の総体がネットだと思うんで、
そこにはなんの精神のきらめきも輝きもなくて、あるのは、ワイとかンゴオとか、メシウマとか
価値が無いので、というか、FX板とか、株のtextreamとか買い豚とか売り豚とか豚はやけろとか、
冗談抜きで存在する価値が無いですね。シラフで読んで何だこいつと思う。
 あそこで喋ってるやつは例外なく綺麗さっぱりきえてなくなっていいんじゃなかろうか。
目につく嫌なものは 俺氏、悲報 ってやつか。悲報と書いて中身が自分の不幸を書くというやつ。
考えてみれば、ニュースに悲報なんて結構ありきたりで。ニュース好きかというと、好きじゃない。

 本当はなんでこうなんだろうと考えようと思って書いてるんですけど思うのが嫌なのばかり。
あまり好きなものを楽しげに書きたくないというか、愚痴しか書いてないですよね。
ネットスラング一覧見てて一番気に入らないのはぐぐれかすです。キタコレとかスイーツとか
まーんとか大嫌い。ワクテカとかだおとかスマソとかマスゴミとかファビョるとか廃人とか情弱とか
全部お前らんことじゃんか。少し違うけど。書いてるのはほとんど男です。自撮りが好きなのは
女なんですよ。考えてみれば、フレンチレストランで料理を写メする男はいても、料理と移る自分を
自撮りする男は滅多に見かけないと思いますよ。女性の方が多いと思います。

 あそうだ、「が話題に」と言うやつが好きじゃないんです。なんか、もう、統計取って
認知度を精査してから書け。住み分けというか鬼女は鬼女らしく礼儀正しく狂気を描くんですよ。
男の場合はなんていうか、中身はつまらないんですよ。で、スイーツの描く狂気は周りがどうだと、
そんで自分はまともだと言いたいんでしょう。これもステレオタイプですけど。
正直、ちゃんと調べてない、目についたものを適当に書いてるだけですから、ある自分の
こていかんねんがあると同時に、目につく物がそれだけあるわけでどっちがなんて言えない。

 ネットのノリというか、情弱とか炎上祭りとかキタコレとかワクテカとかワロタとかンゴオとか
そもそもネットの強い人になろうとは思ってないですよね。ンゴオwと繰り返すバカは利口には
なれないんですよ。失敗で受け取るやつが強いはずがないんですよ。これが情弱と揶揄する奴らの
矛盾です。情報をちゃんと処理できて操作できるというのはノリじゃないので。ノリじゃないです。
論理性に「あたり」なんて無いんですよ。「アタリ」というのはないんですよ。
 「あっ」というのはひらめきで理屈じゃないので、何かをひらめくわけです。わかったって。
それって考えに行き詰まってそこでついに何かを知るわけですけどそこには論理はないですよ。
そのはずですけど。あそこで、喋ってる奴らは一定のルールで成り立っていて、ある程度は
喋る言葉のパターンはあるわけですよ。なにかイキイキするというかそれにしたって、
ひらめくというのはそこから逸脱するわけです。飛躍でもいいですけど、ネットのキタコレには
それはないです。だから、あの人達は常に貰い手なはずでね、どう頑張っても自分で何かを
作れない。そういうのはブロガーやユーチューバーになりますからどうしてもそこからのおこぼれ
で成り立つ人たちです。名無しさんが揃って何かを証明したわけではないんですよね。
わらわらと群がってる奴らがそろいもそろってggrksをくちにする。ヤハウェを子音だけで書いて、
母音を入れないというやつが何かありましたね。で、これが大嫌いです。ある種の内輪を
作ってるわけです。内輪で作ってはで知りたいとやってきたやつはググレカスと追っ払う。
知ってるのは強くて情弱と馬鹿にする。単純にしたら、ばかといってるやつがばかです。

 トイレへ行って気分が変わったので、正直書いてると考えは一定の方向へ進んでいくんですけど、
考えながら書いていて我慢しながら書いてトイレ行って用を足すと考えがスパッとリセット
されて、何のことやらとなりました。で、今見返してみるとどれも面白くねえ奴らだなと。
情報に強いというのになりたいなら、論理性を高めるつまりつまらないということです。
論理的というのは単純にすればトートロジーですから。面白いわけがないんです。
キタコレとか意外性が欲しいならこれってつまり知らないものを意外に知るということですから、
情弱以外の何者でもないんですよね。ワロタとかンゴオとか連発してる奴らは、弱い者いじめを
楽しんでるだけ。それを茶化してるのがンゴオですから、でも本当はかなり嫌なことになる
一歩手前で、それを冗談にしてしまうということがそもそも間違いで。

※警告に同意して書きこまれました (マナー/リアクション)
1年前 No.144

雑記 ★Gc8HjmXH4j_4fx

 レポート書くときに 概要 道具 方法 結果 考察 という風に科学実験するときって、
順番があるんですよね。

 普通、研究というのなら、 現状、不明点 解明 発表 ってそんな感じでステップがある。

行ってしまえば、それさえが用意できてない連中があいつらです。
こんなの、小学生レベルの話です。

 自分という何かを用意してこういう人間ですと言うわけです。

何かを用意しないで知ったので言いふらすというバカと
用意された何かと一緒に写ってる自分をみせるばか

そんなかんじです。
要は、問題点が有って、どこかが間違ってると言うのに、いざこうやって指摘してしまえば、
すごい幼稚な話なんですよ。こんな形式も出来てないし、形式やステップどおりにやれば
それでいい話なんですよね。自分で用意して広める。広げる。何かを知って共有するというのは、
愚かな極みだと覚えておくといいです。

※警告に同意して書きこまれました (マナー/リアクション)
1年前 No.145

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>138
>借用書とか連帯保証人とかその手の概念を見れば一方的に利益を得る人のために義務を追う人が
居るという構図

権利と義務の対照的な関係は間違える人が多いけど、そういうことじゃない。

借用書は借り手「債務」という義務があることを示すと同時に、
借主に「債権」という権利があることを示している。
だから、対照なわけ。
一方があることに対し「権利」と「義務」の両方を負うのは契約ですらない。

>すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
(『日本国憲法』第二十七条)
の場合、勤労の権利というのは、「国家に勤労の場を提供する義務がある」ということ、
勤労の義務というのは、「国民に勤労する義務」があるということ。
つまり、第二十七条はアホが作った条文で、
「すべて国民は、勤労の場を得る権利を有し、勤労の義務を負ふ。」
としなければ、連鎖的に
>もっとも、近年では勤労の義務は主に国家が国民に対して勤労の場を確保することができるよう義務付けているのではないかと見る向きが多くなった。
(wikipedia)
などと書く見当違いのアホが生まれる。
これは、「勤労の権利」について語っているのであり、「勤労の義務」にはそういう解釈は不可能である。

法律関係は前時代的なアホばっか。

1年前 No.146

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

しかも全然哲学じゃねーし(笑)

1年前 No.147

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

感覚や現象は根底のモノではありません・・

心とはどこにあるのかと言うと根源までの限界状況を超越するところにしか開かないと思います・・

1年前 No.148

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

 そんなのを信じても意味ねえよ。

死にそうになったら見るのは幻覚だろう。
死にそうになったら見えるのは走馬灯なんだよ。

限界状況が「がん告知」で余命半年だったとかなら、
余計に財産にしがみついてなんとかしようとするか、
神や仏になんとかしてくださいと祈るぐらいか。
はては不安を払拭するために家族にすがるか。

体が弱って現実を見ることは出来ないんだよ。
寝て体を休めてる間に見るのは夢だろう。
死に直面して現実を知るというのはない。

死にそうになって財産や名誉に意味を見いだせない
ということはあり得る。だけど、それは感覚や現象を否定するには
値しない。

根底のものというか、たとえばおいしいというものがあって、
催眠術でレモンを甘くするとかそれは本当だと思うけど、
それをつかっていくら固定観念を取り払っても味そのものは
おそらく変化しない。評価、言葉や感じを変えるだけなんだよ。

キルケゴールは教会にいればいんだと不安から逃げただけで、
ヤスパースのいうような不安なんてそもそもが作り物。
それを原初の不安定さと重ねて誤解しただけ。

だいたい、百里は不安がいやなんだからヤスパースを肯定する理由は
無いんだけど。好きになることの何が悪いとあなた言ったけど、
安心したいならキルケゴールでも読んで盲信してる方が、
考え方の整合性はあるんですよ。

正直喋って頭が緩いなとしみじみ思っていて、別に嫌いではなかった
ので、適当につっこみいれたけど。つぶやくのが趣味みたいなので、
ちょっと真面目に返事しますけど。

1年前 No.149

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

数年前癌の病気で死ぬ前に(死に際を看取りました)その方の病室で山の妄想をしていました・・

その方は、何人か子供の幻覚を見ていらっしゃる人でした。

その山の妄想をしている時・・その方が山登りの話を始められ比叡山が一番好きと・・

私の妄想が通じたような気がしました。享年79歳の死に様は・・二〜三日前に幻覚を見て大笑い・・

他にもいろいろ死に際の話はありますよ・・

私にそんなことしか言えないなんて・・経験ないでしょう死に際?

1年前 No.150

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

 年食ったらあの世とか興味持つのわかるけどよ、
死に際でまともに頭が動くってことねえんだからさ、
超越なんて夢のまた夢だろう。

1年前 No.151

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ハンドルネーム丸投げさん

死に際の経験が無いのですね・・

11ヶ月前 No.152

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

臨死体験が真実なら現実は虚構だろう。
逆に現実が本当だと思うから臨死体験を幻覚だと言うんだろう。
一方で、臨死体験をこの世とは違う法則で成り立つ世界だと思えば、どれも本当にあると思うだろう。
じゃあ、哲学して臨死体験をするのかというとしない。臨死体験が哲学をする動機にはなっても、
それを体験する手段にはならない。臨死体験をして、コンスタントにそんで哲学を書いたなんて
ことはない。そういうのは宗教とか魔術とか言われる。それにしても臨死体験が本人の願望にしか、
過ぎなくてもそれは本人の真実だとみなすなら、それはそれで本当だろう。何人かが同じような
臨死体験を証言したとしても信憑性はやはり問われるし。
透視で遠くのものを見てスケッチする能力にしたってあれを本物だとしても、正確には伝わらない。
似たようなものはそこにはあるだろうし、一致する場合もあるから本物だと言えば本物だ。
でも写真と同じようには正確にはならない。書く人間のスケッチ能力が低ければ当然伝わらない。
それに、現実で見たものの長さを正確に理解できるわけがない。だからこそ定規がいる。
もちあげて体重がわかるわけがない。だから、体重計がいる。体験を正しく言えるなら、持ち上げて、
重さがわかるだろう。重さは正確に言葉で書けるから重さを感じて言葉で喋れば良いのだ。

11ヶ月前 No.153

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

 だから、ある程度証言に矛盾があろうが幾ばくは許容したりする。
そこら辺をきっちり線引するのは難しいと思う。それを理屈建てて正確に分類して、
豪語するとしたバカのたぐいではないだろうか。
本人の真実と客観的な真実に違いがあるというのは現実で地球で生活してるから言えるんであって、
夢の中をいくら喋ったところで本人の真実と客観的な真実の区別などつけられるとは思えない。
ましてや、言葉で正確に語るなど。大体、形而上などというのは夢とは違うと区別して、
論理的に語ることをよしとするのは夢ではないといいたいということが一つの動機だろう。
夢みたいに一人ひとりが言うことがばらばらなことは許容できないし、どれが本当だの真実だのと
言い出すのがオチだ。互いの主張を論理的に尊重するという方向はあっても意見交換をするという、
それ自体が、ある種の均一化を図りたいという動機だろう。さてそうなると、現実の体験に、
証言の食い違いがあるというのは、その証言の均一化を図りたいという動機によって平均化されると
いうわけだ。

11ヶ月前 No.154

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

それは結局、似たようなものがあるから、だから現実が有ってそれは本当だということになる。
それができなければ、それは夢だとか幻覚だとか片付けられる。
論理も宗教もそういった部分では人と異なる隔てられた意見という形から出発してる。
排斥されるものも有れば受容されるものもある。排斥されたものは魔女狩りとか焚書坑儒とか、
受容されたものとしてもっともへんてこりんなのはキリスト教で二番目が仏教だ。

11ヶ月前 No.155

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

じゃあ、論理がゆるくない理屈がゆるくないといえるのかというと全く信じられない。
過去の遺物としてまず私が思ったのは、アンセルムスの神の存在証明だ。
一方で、似たような名前のアムンセンと言う探検家の南極遠征は実に立派だと思う。
あの神の存在証明というばかを当時の人は信じた。
歴史の偉大な発見は論理を信じたからといえばもっともだが、アンセルムスやデカルトが信じた、
神の存在証明だって論理と言えば論理だろう。地球で大勢が信じる最もくだらないうそは、
神は偉大だということだ。人間は神が作った道具で考えるようにできてるから、神より人間のほうが
賢い。自分より計算能力が低い電卓を人間は作らないし、コンピュータも計算という点で人間より
高いから、つくられる。現実に照らし合わせれば理屈建てて考えればそうなる。だが、人の
価値観は変わらないだろう。

11ヶ月前 No.156

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ハンドルネーム丸投げさん

ヤスパースさんを真正面から受け入れられないのは・・百理を百里に反らしたところでピンときます・・

11ヶ月前 No.157

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

ヤスパースは原初の不安定さと生活に対する不安をごっちゃにして誤解することになった。
人間は生活に対する不安がある場合、真実に向かわずに自分の理屈にしがみつくだけだから、
ヤスパースの言うような超越者になることなど無い。だから、ヤスパースは間違い。
ヤスパースは精神医学上の観点から物を語ってるのでならば、現代心理学を勉強したほうが、
つじつまはあうし、不安から逃げたいならキルケゴールのように伝統的な家業を愛するのが、
理屈に合う。そうやって、間違いを指摘されるだけありがたいと思え。

11ヶ月前 No.158

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

たしかあなたは、関西からでたことがないという、
不安になるからだろう。不安からでたくないという臆病者がヤスパースの言うような、
不安に耐えられるはずがなく、世間の醜い柵にとらわれるだけだろう。
だから言葉を信じてもしないという不義に成る。

11ヶ月前 No.159

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ヤスパースさんの本・・

臆病と向かい合わせに、また広く周知の事柄となっている諸々の光景と向かい合わせに、真理についての明識の力が存在し、

この真理というのは、たとえ人がそれを所有していなくても、それを探し求めることの内に既に顕現しているものなのである。

理性が自己の内で目覚めるのを感ずる者は、権威を持たずに彼に話しかける、理性の偉大な伝承を見出す。

このような素晴らしい文章がずらっと・・

みたいなヤスパースさんです。

11ヶ月前 No.160

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

探求者だからそれでいいって考え方あまり好きじゃない。
清貧を旨として謙虚に生きるという言葉を誤解して、
卑屈さを正当化して、誇りを貶めるような唾棄するべき人と
似たような誤解になりかねないから、クソ文章。

11ヶ月前 No.161

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

真理は理性の働きに関係があると言うことを言っているのに・・何を誤読しているのですか?

11ヶ月前 No.162

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

全然意味がわからない。
一行目は意味不明。
読めるのは二行目ぐらいか所有してなくても探してるだけで内に顕現するってやつぐらいか。
三行目もわからない。理性が目覚めるのを感じると権威を持たずに話しかけるという意味がわからない。
なんで権威を持って話しかけないのかということがわからない。理性の偉大な伝承とは何か不明だし。


真理は理性の働きに関係があると平然というそれもわからない。
僕は理性というものを余り信じてなくて、かなり本に寄って理性も真理も中身が変わるから、
わからない。引用とか見てると感覚で捉える現象とやらより数学的な理屈で感心してるほうが強くて。

11ヶ月前 No.163

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

臆病と向かい合わせに、また広く周知の事柄となっている諸々の光景と向かい合わせに、真理についての明識の力が存在する理由ってどうして?

理性の偉大な伝承ってなんです?

11ヶ月前 No.164

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ハンドルネーム丸投げさん

ヤスパースさんのこと何にも知らないのですね・・

11ヶ月前 No.165

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

一行も読んでないけど、あれがだめだということぐらいはわかるよ。

別の質問しますけど理性の偉大な伝承ってなんですか?
権威を持たずに話しかけるのに、偉大って変です。
理性が伝承されないのはなんでですか?

11ヶ月前 No.166

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

理性の働きとは・・

存在の二重性や二律背反を超え・・私と言う存在が一人の内にあるとともに他の人の内にもある一にして且つ一でない超越した存在・・

客観の理念を主観として一致した人格に高めるような霊性や心・・つまり哲学的な思惟と言う伝統的形而上学の継承・・

もう10回以上述べています・・

11ヶ月前 No.167

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

理性についての定義には疑問がありますが

先に知りたいのは
理性が伝承されないのはどうして?

11ヶ月前 No.168

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

>>168

ギリシャ哲学以来の理性の哲学的思惟は伝承されていますよ・・

ロゴスlogos・・言葉、理性です。

11ヶ月前 No.169

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

西洋哲学はギリシャ哲学から始まって民主主義に影響を与えました。
ならば、理性は民主主義社会に根づいているわけだから、
ヨーロッパで生活してれば最初から理性はその人に根付いてるということになります。

あなたのいう、
私と言う存在が一人の内にあるとともに他の人の内にもある一にして且つ一でない超越した存在・・

それですけど、あなたでありわたしでもあるような考えなら科学は成り立たないと思います。

11ヶ月前 No.170

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

僕はギリシャ哲学の伝統はどっかで途切れて受け継がれてない社会になったから、
追い求めて理性を取り戻すのだと思うのですが、

ギリシャ哲学以来の理性の哲学的思惟は伝承されてるなら、追い求める必要ないですよね。
どうして?

11ヶ月前 No.171

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

哲学と科学を同一視しないでもらいたいです。

哲学は科学から識別します。


【識別】
《名・ス他》事物の種類・性質などを見分けること。□

11ヶ月前 No.172

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

あなたは理性を目指して区別をなくしたいのではないのですか?

どうして科学とは別物だと言うんですか?

11ヶ月前 No.173

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

科学と哲学を夫婦としましょう。

夫婦は・・一心同体に見えるでしょう・・科学と哲学は男と女の違いがあるくらい違うものです・・

11ヶ月前 No.174

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

理性というのは男女の垣根ぐらい超えるものではないのですか?

11ヶ月前 No.175

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

理性の定義ですけど、男であり女であるみたいな感じですけど何が間違ってるのですか?

11ヶ月前 No.176

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

しょせん例え話・・

結局何と言っても科学を土台にして飛翔した哲学的思惟が形而上学なのです・・

11ヶ月前 No.177

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

それって結局てきとうにでたらめこいたってだけですよね。
説明になってない説明したということですよ。
例えが適切な表現ではなかったのですから。

それに、哲学は科学と別物だといったのですから、土台にはできないですよね。
土台にして飛翔するなら上位に哲学があって下位に科学があるという形になる。
もしくは、哲学が科学を包含すると考えるか。どのみち科学とは別物だと言ったのはおかしいです。

11ヶ月前 No.178

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

たとえ話(譬え話、たとえばなし)は、複雑な分かりにくい内容を、比喩によって具体的なものの話に置き換えて分かりやすく説明する、短く簡潔な物語のこと。

哲学と科学の関係は複雑難解だから・・

11ヶ月前 No.179

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

それって、ヤスパースの引用も理性の定義もわかりやすく説明するなんて出来ないってことですよ。
定義をいくら引用したところで意味ないですよね。

11ヶ月前 No.180

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

あなたはヤスパースことを何もわかってないといいましたけど、
いくらか引用しても理解させるなど出来ないわけですから、
おちょくってるかからかってるということでないなら一体何のために引用したのですか。

11ヶ月前 No.181

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

同じことを何回も話していると暗記してくるのです・・

頭にこびりつくか・・魂に深く刻まれるか・・

魏の学者董遇が、弟子入りを申し込んだ者に対して言った

「読書千遍、其の義自ら見る」から。

多くの本を読めばよいというものではなく、良い書物を熟読することに意味があるという乱読を戒める意味を含む・・

11ヶ月前 No.182

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

覚えたものがただふっとでてきただけなら、
全文暗唱できますか?

11ヶ月前 No.183

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

中学時代に奥の細道第一章・・や平家物語を暗唱させられました。

もはや・・一字一句暗唱する年齢ではありませんが・・本質の内容は確実にと思っています。

11ヶ月前 No.184

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

本質の内容が確実なら人に理解させるぐらいできると思います。
というのも理性の定義は自分も相手も垣根なくですから。
なら、話せばわかると思うのですが。

11ヶ月前 No.185

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

あの理性の定義ですけど、自分でも他人でもないそれを超えた存在
があるみたいですけど、それなら外に有れば自分の中にあるわけだから、
追い求める必要ないですよね?

11ヶ月前 No.186

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

客観的な理念・・これが問題です・・

真理は二人から始まるとヤスパースさんがおっしゃっています・・

11ヶ月前 No.187

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

理性は外に有ればうちにもあるんだから一人いればいいじゃないですか。
どうして二人から始まるんですか?

11ヶ月前 No.188

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

主観と客観が必要なのです・・

11ヶ月前 No.189

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

主観が2つになっただけではないんですか?

11ヶ月前 No.190

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ハンドルネーム丸投げさん

その思考は、哲学に向いてませんよ・・

11ヶ月前 No.191

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

懐疑精神がないあなたのそれは壊れたレコーダと同レベルです。

11ヶ月前 No.192

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

というか、二人いても主観が2つになるだけです。
何が違うのかを答えられなくなったので、否定するなら権威に凝り固まった人間が、
自分の観念にない質問に答えられなくなって、最後にはお前には向いてないと拒絶して、
内にこもるのと変わりません。

そんなふうになるのがヤスパースなわけ無いですから、そんな人が、
よくあなたはヤスパースの事何もわかってないなんていえますよ。

11ヶ月前 No.193

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

客観が解らないのでしょう?

11ヶ月前 No.194

百里へ ★Gc8HjmXH4j_4fx

人に言われたらどうしてそれが客観だと言えるんですか?

11ヶ月前 No.195

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

「客観と主観」と「客体と主体」

は、どう関係するのだろうか?

11ヶ月前 No.196

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

主客の話は明日にします。

今足の裏マッサージにはまっているのですが・・自分でするより数千倍気持ちが良いのは何故でしょう・・

足の裏もみもみは、まさに極楽・・

それもこれも父の日のプレゼント売り場で見つけたクッションマッサージと言う客観です。

11ヶ月前 No.197

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉197

「自分でするより数千倍気持ちが良いのは何故でしょう」

客体が足裏マッサージしたからじゃない。

11ヶ月前 No.198

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

悪魔ちゃん、店員が客の体にマッサージするんでしょ〜

11ヶ月前 No.199

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

天使ちゃん、店員にとってはおばちゃまは客の体(足の裏)だけど、おばちゃまにとっては店員は客体でしょ。

11ヶ月前 No.200


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